尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2019年1月5日午後

2019 年 1 月 5 日年初に当たり、因縁殊勝なことに、京都道場は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの『金剛経』開解を受けることができた。午後リンポチェは衆生の根器を観察し、仏道で成就できるよう、必要な仏法を授け、縁に従い、チベット密教八大成就法である「施身法」を主修なさり、有縁衆生を済度させ、参会者のために障礙門を取り除いてくださった。誰もが感激し感謝した!今回の法会は顕密具円であり、非常に貴重である!

参会者は城崎温泉寺の住持である小川祐章氏を含み、台湾、日本の信衆 19 人、弟子 122 人の計 141 人だった。みな一様に自らの幸運と有難さを感じた!

午後1時50分、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは再び法座に上られ、自ら殊勝なる施身法法会を主法なされ、参会者全員に貴重な仏法の開示を下された。

元々の計画では一日中『金剛経』を開示する予定だった。だが参会者の中に、半日しか時間が許さないという人がいる。半日しか経典を聞けないというなら、このような意義は円満とはならない。よって、今日の午後は密教内の八大成就法の一つである「施身法」を修めるよう変更することとする。チベット密教には八種の大きな成就法がある。この八大成就法は、一つの法であれ、一生でそれを専ら修めることができれば、必ずこの一生で成就が得られる。成就とは、自分は生死を解脱でき、この一生でこの法を用いて一切の有情衆生に利益し助けられるということだ。

今日修めるこの法は、チベット語では「断」という。漢語では施身法と訳される。身体を布施するのだ。断とはどういう意味だろうか?智慧を用いるのだ。この法はどこから来たのか?かつてチベットに一人の在家女性瑜伽士がいた。結婚して子も設けていたが、釈迦牟尼仏の開示なさる『大般若経』の精神に基づき、この法を書かれたのだ。これは顕教の部分だ。密法は四つの修行の次第に分けられる。それは事部、行部、瑜伽部、無上瑜伽部だ。この法は、密法内では、事部、行部、瑜伽部を含み、無上瑜伽部を含まない。

密法はさらに四種に分けられる。息(息災)、増(福報、権勢等が増加)、懐(そなたに対する敵の嗔恨の心を柔らかくし、報復させないようにする)、誅(殺の意味。前半の三つの法を用いても救えない衆生がいる。仏菩薩は誅法を用いて、慈悲の念頭を用いて、その衆生を度化し、悪行を断ち切らせる)の四種だ。この断法は息法、増法、懐法を含む。断とは、智慧と般若を用い、凡夫のすべての煩悩障と所知障を切断することだ。午前中すでに煩悩障とはなんであるか、所知障とはなんであるかを、少し説明した。

もし行者、修行人が絶えずこの法を修めるなら、自分自身の福報と智慧を迅速に累積できる。そのため「断法二資糧速成法」とも呼ぶ。一生でこの法を専ら修めるなら、非常に速く自分の智慧と福報を累積できるのだ。なぜ漢語では施身法というのか?それは行者は密法と咒語等の観想を通して、自分の身体を全部、諸仏菩薩と護法に供養し、勇父と空行母に供養するからだ。供養の後の福報を通して、行者は自分の身体を六道の一切の衆生、特に鬼道、龍族、魔鬼、地獄道、餓鬼道の衆生に布施して食べさせることを観想する。

密法では規定している。この法を学ぶ前には、必ず不共四加行を修める必要がある。不共四加行は11万遍大礼拝、11万遍百字明咒(金剛薩埵の咒語)、11万遍献マンダ(供養)、11万遍上師相応法を含む。不共四加行が円満となった後、上師が施身法を学ぶ資格があると認めたなら、上師は本尊関を閉関するよう求める。通常は観世音菩薩だ。関房内で3ヶ月閉関し出てくることは許されない。百万遍観世音菩薩の心咒を念じ終わらなければならない。上師はこの人に、この法を学ぶ根器があるかどうかを観察し、その後に灌頂を授ける。灌頂の後、この法を学んだ人は毎日施身法を修めなければならない。

施身法の法本には二冊ある。一冊は自分で修めるもので、自分に利益する法本だ。もう一冊は衆生のために修めるものだ。今日は衆生のために修める法本だ。長期的に施身法法会に参加し、この一生で学仏すると決めたなら、その人の煩悩障礙は非常に速く消えてしまうだろう。学仏修行を決心しておらず、一般の信衆に過ぎなくとも、継続して不殺生、菜食を守り、悪事を行わないなら、世間の事情はゆっくりと好転するだろう。病気の人がこの法会に参加したなら、病はゆっくりと良くなるだろう。ガンは特にそうだ。

午前中言った。20年前私は皮膚癌にかかったが、自分のために特別に修法せず、医者にも掛からず、仏菩薩に病を治してくれるよう求めもしなかった。だが私は毎日施身法を修めたので、病は完全に良くなってしまった。非常に多くの皈依弟子が癌を患っている。ひたすらこの法会に参加しさえすれば、一切の手術をしなくとも、一切の抗がん剤治療を受けなくとも、この法会に参加すれば、癌細胞は小さくなり、さらには無くなってしまう。信心が十分でなくとも、この法会に長期間参加していれば、癌が良くなることはなくとも、一般的な癌の苦痛と比べ、苦痛が減り、さらには苦痛が無くなってしまう。信衆の中には、因果を信じず、医者が癌を治してくれると考えているものがいる。実は私の弟子の中にはたくさんの医者がいる。医者は癌を治せないと、彼らは非常にはっきり知っている。非常に多くの人が多くの時間と金銭を浪費している。最後には別の病を得て死んでしまうのだ。

抗がん剤治療を受けて、手術したとしても、懺悔の心を起こして、三寶に対して突然信心を起こし、この法会に参加しさえすれば、死の前の癌の苦痛は絕対に消失してしまう。癌患者の多くは、最後の息をひきとるまで痛みを訴える。どれだけの痛み止めを飲んだとしても、役には立たない。この法本は特別に鬼衆、そなたに傷害された衆生に対して、非常に大きい救いを与えるため、これら衆生のそなたに対する怨恨の心が消失してしまい、そなたの苦痛は自然に減少してしまうのだ。この法は修法人自身に対しても、修行の面で非常に大きい助けになる。

現在チベットで施身法を修める人は多くない。それはこの法を理解するには、非常に長く、非常に複雑な要素を経過しなければならないからだ。しかもこの法を修行するには、自分本自身の禅定の功夫が必ず非常に良くなければならず、 必ず菩薩道を行い、菩薩道を学び、菩薩道を修める人でなければこの法を修めることはできない。捨てられないなら、この法を修めることはできない。しかもこの法の修行には、特別な法器が必要だ。この種の法器は人が作り出せるものではなく、必ずある種の因縁条件が必要だ。持咒、読経によればこの法を修められるというものではない。現在この法を得られる人はますます少なくなっている。将来この法を修められる人もやはり多くないだろう。それはこの密法を修める人自身が、衆生を救おうという非常に大きい願力を有し、自分自身が菩薩道を学び、菩薩道を行われなければならないからだ。

あとで修法の前に、すでに亡くなり、この世界にいない、そなたと関係がある衆生について考えるように。そなたが彼らを思いさえすれば、今日私が修めるこの法は、彼らを地獄、餓鬼、畜生道から離れさせることができる。もしそなたが在世の人を救いたいと思うなら、その人のことを思い、その人の名前を念じるが良い。

修法の過程で、参会者は必ず恭敬の心を用いなければならない。恭敬とは三寶を信じ、行う一切すべては衆生を救うのだ。理解する必要はない。なぜか?仏はかつて仰せになった。仏の境界は不可思議で文字で表せない、と。仏の境界に到達するまでは、説明されても、やはり理解できないということだ。博士課程で学んでいる人が、自分が学んでいる学問の内容を小学生に聞かせたところで、小学生は理解できないようなものだ。簡単な方法は信じることだ。諸仏菩薩が行う一切すべてが衆生に対する利益だと信じることだ。だが、そなたの欲望を満たすのではない。そなたの欲望はそなたが自分で考え出したものだ。

正に午前中『金剛経』で言ったように、仏は、菩薩道を修める一切の菩薩を世話し保護くださる。菩薩道を修めるなら、仏が必ずそなたを思い、世話し、保護してくださるということだ。菩薩道を行わないなら、一般の信衆として仏に求め、自分の欲望を満たすだけなら、この可能性は低い。だがそなたに苦があり、仏菩薩と上師がそなたの苦を軽減してくれることを願っているなら、これは可能性がある。だがそなた自身が信じなければならない。

第二には懺悔心がなくてはならない。我々は数十年生きている間に、過ちを犯さないなどとはあり得ない。過ちを犯すとは、衆生の生命を害したことがあるということだ。盗みを働いたことがあるということだ。金銭、物を盗むとは限らない。海賊版を使用する、コピー商品を使用するのも盗みだ。耳障りなことをいい、他人を罵ったことがあり、邪淫を犯したことがある等なら、懺悔の心を起こさなければならない。最後の一つは、悲憫の心を起こさなければならない。悲憫の心は非常に多層面に分けられる。我々と関係があり、地獄道で苦しんでいる眷属に対して悲憫の心を起こさなければならない。我々に害された衆生に対して悲憫の心を起こさなければならない。三つの心を合わせて初めて、諸仏菩薩と上師に真に供養する事になる。供養がなければ福報もない。福報があって初めて自分と衆生に利益できる。これは非常に重要だ。非常に多くの人が、供養するには必ず非常に多額の金銭を出さなければならない、と思っている。最も重要なのは、心を出しているかだ。心を出していないなら、どれだけの金銭を出しても役には立たない。心を出せば、少しのお金でも有用だ。仏菩薩供養に有用だ。あとで私が修法している時、先ほど教えて方法で考えるように。

この法にはもう一つ特別なところがある。第一に、修法する人自身は、自分を保護するためのものを一切身につけない。密法を学ぶ時には、通常は身体に何かの聖物を身に着ける。だがこの法を修める前は、これらのものはすべて取り外さなければならない。全く自分を保護してはならないのだ。この法を修める前に、壇城を結界しない。壇城を保護しない。あとで私がこの法器を吹くと、縁を経過したすべての衆生が入ってくる。そなた達には見えないものも入ってくる。これら衆生に満願させるため、この道場を保護しないのだ。

この法を修めるには非常に多くの法器が必要だ。あとで人の腿骨で作った法器を目にすることになる。片手で鼓を揺らす。さらに鈴と杵がなければ、この法を修めることはできない。この一生でこれら法器を得られるのは、過去世でこの法を得たことがあるからだ。現在吹く人の腿骨のこの法器は私の根本上師であられる尊勝なるチェ・ツァン法王が前の一世で法王であられた時に用いておられた法器だ。この一世で法王が私にこの法を伝えてくださり、法器を私に伝えてくださった。それは法王がこの伝承を私に伝えてくださったということだ。

今日は特別にみなにこの法を修める。新しい一年が始まったので、そなた達が過去に為した種々の悪業を停止して、そなた達を傷害し続けることがないよう希望する。だが、これら悪業がすぐに消失してしまうということではない。そなた達が継続して衆生の肉を食べ、悪を行うなら、いつか業報がやはり出現する。今日この法を修めるので、そなたに傷害された衆生は必ず済度を得る。よって彼らのそなたに対する怨恨の心は減少するだろう。だが彼らが済度されたとしても、そなた達がかつて病に罹ったことがあるように、病の問題が取り去られたとしても、身体はやはり虚弱で、やはり健康のために努力し続けなければ、健康になることはできない。学仏もこのようなものだ。根本的な問題を処理してやるが、そなたは自分で変わり、行善しなければならない。仏法の重点は、諸仏菩薩はそなたを救ってくださる。だがそなたが為した一切の果報を消し去れるということではない。これは仏が仰せなのだ。仏は我々に自分でどうやって自分の悪果を変えるかをお教えくださるだけだ。私はまさに明確な見本だ。

私はもともとこの一生で海鮮を好んで食べていた。皮膚癌に罹ったので寿命は短いはずだった。四十歲代で死ぬはずだったのだ。だが学仏修行等で、私の後半世の運命が変わってしまった。仏法は人の運命を変えられるということだ。だがそなたが受け入れたか、信じたか、行う気持ちがあるか次第だ。すべてを法に従い行えば、当然必ずいくらかの変化を見ることができるだろう。

リンポチェは修法を始められた。

リンポチェは修法の終了後に開示くださった。:今日施身法を修め円満となった。通常この法を修めるには二、三時間必要だ。だが私は禅定中で修法するので、呼吸の回数が普通の人より少ない。例えば、そなた達が五回呼吸する間に、私は一回で大丈夫だ。よって時間も減るのだ。この法は前の方に非常に多くの密法がある。みなに教えることはできないが、後ろの方で修法が終わった後、修行人は自分、さらに衆生を代表して非常に多くの事を祈願する。最も重要なのは、上師に加持を求めることだ。この法本には特色がある。すべての加持はすべて上師で、仏菩薩の加持は求めない。密宗では、上師は非常に重要なのだ。それは上師の伝法がなければ、法を得られないからだ。法が得られないなら、自分、衆生のために問題を解決することはできない。

現在『大蔵経』を含むすべての経典を我々は顕教と呼ぶ。顕教とは、釈迦牟尼仏が49年弘法なさった際の開示で、最も根本的で重要な基礎の理論だ。およそ二大部分に分けられる。一部分は小乗阿羅漢修行だ。例えば、『阿含経』、『雑阿含経』などで、これらはすべて阿羅漢小乗修行のためだ。スリランカ、タイ、ミャンマーなどの地方では、小乗仏法を修める人の方が多い。もう一つの部分は菩薩乗を修める。釈迦牟尼仏が49年講法なさった対象は、一般には信衆で、すべて弟子と菩薩道を修めた人に向かって説法なさっていた。よって根本の理論、心構えだけを仰せだ。

顕教で最も重要なのは、我々に自分の思想をどうやって改めるか教えることだ。思想が修正されなければ、正しい行為を生じることはできない。チベットで、密法を学ぶなら、まずは10年の顕教の基礎が必要だ。基礎が安定しなければ、仏法学習に対して正しい理念を生じ、密法を伝えられることはない。密法は、自分、衆生を救うために用いることができる。菩薩道修行でも言う。我々は五つの道を修めなければならない。一つ目は智慧と福報を修めることだ。二つ目の道は加行道を修めることだ。どうにかして修行を強化、加重する法門で、自分と衆生に利益する。一つ目の道は顕教と密法を修め、両方修められる。二つ目は加行道だ。顕教の一部分は修められる。密法は非常に速く修めることができる。

三つ目は道を見ることだ。空性の道理を見る。我々は経典の理論中から理論だけを知る。仏が講じる空性般若の含意がどこにあるのか、確実に、真に体得することはできない。我々が見道したなら、後ろの方では真に道を修められる。菩薩道を修められる。もし一切の修行人が見道しないなら、前半の二つの道、加行道と資糧道だけだ。この二つは良いのか?もちろん良い。だが真に衆生の問題を解決し、衆生を済度させてやる等は、加行道と資糧道だけでは不十分だ。必ず見道がなければならない。体悟できず、空性を掌握できないなら、修めた後には傲慢になり、傲慢になれば非常に多くの悪い事が起きる。空性を見た後でなければ、我々は真に修道—修菩薩道を行うことはできない。空性を証するまでは、菩薩道修行は非常に難しい。それは我々が非常に容易に自分の一切の事情に執着し、自分が理解できる事を掌握するからだ。だが見道の後は違う。捨てて取らないことを知る。菩薩道を修めればひたすら捨てると言うことだ。中国には「有捨有得」と言う言い方がある。捨てられないなら、得られない。

見道の後でなければ修道できない。修道の後の最後は無修道だ。修めなくとも良いと言うのではなく、最後まで修め、一切の煩悩、所知障、無明がすべて清浄な本性を回復した後、世間のいかなる法であろうと修めることができる。その時、まさに仏果まで証したのだ。今日この法では前の方の三つの道はすべて非常に重要だ。見道の後でなければ、この法門を修める衆生に利益することはできない。縁起性空を理解せず、因果法則を理解せずに、この法を学ぶのは非常に難しい。修められない。自分が別のものに変わったのをどれほど観想しようと、衆生は受け入れるだろうか?これは必ず空性内でなければ、世間の物質に転化し、仏が受け入れられる甘露に変わり、そうでなければ衆生が食べたいと思う食物に転化することはできない。

施身法の後には重要な一段がある。行者は自分の肉、骨、血をすべての一切の衆生に無限に布施し、食べさせることを観想する。鬼道、畜生道、地獄道に堕ちるのはすべて、生前衆生の肉を好んで食べていたからだ。衆生の肉を好んで食べる習性のため、自然にこの三道に堕ちるのだ。地獄、餓鬼、畜生のこの三道に堕ちた彼らの考えは、菜食できず、肉を食べたがる。行者は自分の肉を彼らに食べさせる。だが彼らが食べた後は腹の中で甘露に変わる。清浄な甘露は、彼らの貪嗔痴慢疑の悪性を消してしまい、彼らに菩提心を発しさせ、仏法を聞けば得度できる。言い換えれば、そなたが肉を一切れ切って前に投げてやれば、彼らは食べるのではない。そなた自身が空性まで修め、菩提心を発し、功徳がないなら、肉を一切れ切り出してやったところで、彼らは食べない。食べてもいい、と思わなければ食べない。食べた後、累世の業力は消えてしまう。

この法内にはいくつかの祈禱文がある。顕教のものだ。語って聞かせよう。行った悪業及びその業障が非常に多くの邪魔、一切の鬼部の衆生を引き起こし、そなたに病、苦痛をもたらす。それは長期的にこの法を修め、上師の加持を希望すれば、直ちに息滅してしまう。これら衆生の乱そうとする力も息滅してしまう。別に貪念、嗔念、因果不信の、そなた達がしばしば有する煩悩も自然に息滅する。上師に加持を求めれば、そなたが得た病も、上師の加持を求めれば自然に息滅する。魔が来てそなたを乱そうとする、誰かが法を使って魔を来させそなたを害しようとする等も含む。ここですべて講じている。

加持を求めれば無病で幸せな若さを得られる。若いが病気だ、では役には立たない。病がなく、老いても幸せではない。私が老いないと言う人がいる。私はすでに71歲だ。私は毎回念じていない。修法が終わった際にいくらか念じているだけだ。事実法本の後ろの方では、我々の非常に多くの事の願いを叶えてくれる。例えば、加持祈求は一切の鬼神に利益でき、加持で長寿を得られる等だ。これらはすべてこの一生で修行する時間を十分にするためだ。これによって、我々は十分な時間で仏法の事業を完成できる。福を享受するためではない。そなたは修行人で、非常に多くの事を行い、衆生に利益しようとしていると言うだけだ。そなたが修行人でなく一般の信衆に過ぎないなら、このように祈求しても叶えられないだろう。若さを取り戻したいなら、化粧品でも買えば良い。

今日はなぜ特別に午後施身法を修めるように変えたのか?それは今日、ある信衆は午前中しか時間がなく、午後は時間がないと言うからだ。午前中は時間がなく、午後しか時間がないと言う人もいる。もしこの因縁を用いて『金剛経』を講じればおかしくなってしまう。経を講じるには必ず縁起が必要だ。今日午前中私は『金剛経』の縁起を語り、日本にこの種子を植えつけた。今後この因縁が継続し、『金剛経』を日本の信衆に開示する機会があるかどうかだ。この因縁は私が作るのではない。みなの決定だ。

もう一度言おう。そなた達は在家衆だ。私も在家衆だ。我々は日本人で、あなた達は外国から来た人だ、生活が我々とは違う、などと分けてはならない。実はすべて同じだ。私は食事し就寝し仕事をして金を稼ぐ。同じだ。唯一違うのは心だ。仏法が私にとって重要だと、私が知っていることだ。仏法がなければ、私は今日まで生きて来られなかった。そなたにとっては世間の事が最も重要だ。だが世間の事は、そなたの病を取り除き、長生きさせてはくれない。世間の事はすべて因縁法だ。我々はできるだけ行う。するな、構うな、家庭などいらない、と言っているのではない。仏はこのようなことは仰せでない。私が開示した『寶積経』を見てみよ。釈迦牟尼仏はどのように開示しておられるか。重点は心持ちだ。心持ちが正しいなら、自然に学仏も非常に容易だ。心持ちが正しくないなら、仏法はそなたにとって時間があれば来ると言うだけの事だ。もしこのような心持ちでいるなら、永遠に仏法を学ぶことはできない。

釈迦牟尼仏は仏法を49年弘揚なさった。現在まで二千五百年余り続いている。現在でも仏法がなお存在しているのは、必ずその存在価値があるからだ。ただ人は疑惑の心が非常に重い。こんなに言ってできるのか?と信じていない。私こそ見本だ。そなた達は、私が行い始め、少しは成し遂げたのを目にできる。できないと言うことはない。ただそなた達が行おうとするかしないかだ。私はしばしば、在家の信衆に、私ができるのだ、そなた達だってできる、と励ます。そなた達ができないのは、ただ一つの原因のためだ。不信だ。そなた達は金を信じ、世間の事を信じるが、仏法が説くことを誰もができると信じない。

釈迦牟尼仏はかつて仰せになった。なぜ四相を破るのか?それは衆生は皆仏性を有しているからだ。そなたの学問的背景がどうであろうと、皆成仏の条件を具備している。だが、読経し、法会に参加し、線香を上げれば成仏できると言うものではない。必ずある過程を経なければならない。この過程がどれだけか、どんなに困難か、どんなに容易かは、一人一人の衆生で皆違う。最も重要なのは、始めることだ。行う決心をすることだ。時間ができたら、と非常に多くの人が言う。それならその時はすでに死んでいるだろう。私はしばしば言う。ここにいる誰かで、私より忙しい人はいない。私よりやるべき事が多い人はいない。なぜ私はできるのか?非常に簡単だ。私は言い訳しないからだ。そなたは自分には家庭がある、子供がいる、これらが必要だと思っているだろう。だが、これらは私にもある。だがなぜ私はできるのか?非常に簡単だ。仏の仰せを信じ、上師の教えを信じ、諸仏菩薩の衆生への救いを信じ、上師の我々への利益を信じているからだ。この信心があるなら、始めるのだ。

ただ聞きに来ているだけなら、聞いても行わないなら役には立たない。たくさん聞けば福報があると思っている人が非常に多い。だが、この一生では絶対に使えない。私は確信を持って告げる。この一生で仏法を聞いた福報は、次の一世でしか使えない。そなたは言うだろう。このような話なら、聞きには来ない、と。だが聞きに来たので、私の福報が少しは付着したのだ。私がいくらか水を撒き、そなた達にも少し付着したと言うことだ。少しは付着したのだから、この一生の小さな問題は解決されるだろう。だが生死の大事は、解決されない。生死の大事を処理するには、上師の救いが必要だ。もし上師が助けてくれないなら、誰もがある日死に直面した時、自分には何の力もないことをはっきりと知るだろう。人はなぜ迷い、死を恐れるのか?それはどのようにして死ぬかを知らないからだ。死ねばどうなるかを知らないからだ。そのため迷っているのだ。どのように死に、死んだ後どうなるかを、修行人ははっきり知っている。当然迷ったりしない。恐れもない。我々はただひたすら行うだけだ。

毎日就寝前に私は死ぬと思う。毎日目覚めると新しい生の開始だと考える。毎回の修法を、私は最後の修法だと考える。明日もう一度修法できるとは考えない。よって毎回の修法を命の限り行う。明日がある、明日もう少しやろう、もう少し累積しよう、とは考えない。考えない!すべてだ!今回は最後の一回だ。それは学仏人は無常-随時変化する、を深く信じているからだ。そんなことはない、と言うだろうか。そんなことはある!誰でも、年とともに外見が大きく変わる。信じない者は、帰宅して、昔の写真と今の写真を比べてみよ。自分だと全くわからないほどだ。これこそ無常だ。変わるのだ。

一切の事は変化するのだ。急いでしっかり学仏し、自分の無常が訪れた時の準備をしなければならない。学仏しても事が変化しなくなるのではない。変化に直面した時、どのようにそれに対するのか、どのように受け入れるのかの準備をするのだ。これにより自分の未来の人生を希望で満たすのだ。人生の希望とは金銭、権勢、家庭、欲望、財富ではない。仏菩薩が我々にくださる未来の希望だ。「くださる」と言っても、そなたが受け入れ、言いつけを守らなければ、くださることはない。

新しい一年だ。私はたくさんの話をした。みなの役に立つことを願う。今後も縁があれば、日本というこの土地で『金剛経』を開解できるだろう。続いては護法を修める。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達を率いてアキ護法と迴向儀軌を修められた。法を修めた後、リンポチェは続けて開示された:

この法を修めるのに、なぜこの冠を被るのか、と非常に多くの人は好奇心を抱いている。前の方では黒い簾子が前面にあったのに、なぜだ?これには多くの理由がある。黒い簾子が行者の目の前を隠すのは、私が鬼を目にするのを恐れているのではなく、鬼が私を見るのを恐れているからだ。経典に説明されている。中陰身とは、死んだもの、身体を失ったものを中陰身という。夢を見ている時は、夢の中の中陰身という。毎日寝て起きたのは、分段の中陰身という。人が死んだ後は中陰身という。我々は生まれ変わるまでは、六道のどの道にいようと、途中の段を中陰身という。

経典では説く。中陰身は諸仏菩薩の光を見て、畏懼退卻の心を起こす。これは簡単に説明できる。例えば、日常生活である種の権貴をもつ人に接触することがなかったが、突然会いに来いと言われたら、必ず先ず問うだろう。「なぜですか?」と。そして、会いに行っても、普段友人に会うように堂々と入って行ったりすることはあり得ないだろう。必ず入り口に立ち、そして少し後ずさる。なぜこのようになるのか?それは我々が中陰身である時、智慧が業力に覆い隠されているからだ。仏菩薩の智慧の光を目にした時、第一の感覚は火だ。火の光のようだ。第二の感覚は、近寄り難さだ。

私自身においては、顕教に皈依した夜、夢を見た。私は寺の入り口に立っている。入り口が開いた。中央には釈迦牟尼仏がおられた。非常に強烈の金色の光を放っている。私は入ろうと思ったが、入るのがためらわれた。私が皈依した師が横で入れ、と仰せになったので、私は入って行った。そして釈迦牟尼仏に頂礼申し上げた。この夢は、後に経典を見た時に証明された。我々が死んで49日の内に、7日毎に仏菩薩が接引に来てくださる。かつて仏号を聞いたことがあり、仏菩薩に近づいたことがあり、さらには智慧を見たことがあるなら、仏菩薩を目にすれば、喜んで近づくだろう。学仏したことがなく、皈依しておらず、この種の法会に参加したこともなく、仏法を信じず、仏法を受け入れていないなら、仏菩薩が出現なさった時、そなたは仏菩薩が放つ光を恐れ、近づくことができない。七七四十九日、7日毎に違った色の光が出てくる。例えば、強烈な赤い光を放つ。そなたは近寄れない。だが、快適だと感じる赤い光の方に行けば、三悪道へ堕ちてしまう。

なぜ法会に参加するのか?法会に参加するのは、仏菩薩と上師の智慧の光を目にすることはできないが、少なくともそなた自身の神識はそれを感じることができるからだ。ある道場に行き、非常に荘厳だと感じることがあるだろう。それは智慧の光があるからだ。この法帽を被るのは、修法時に、行者は入定するので、入定する時に目が智慧の光を放つからだ。鬼道の衆生はそれを見ると、近寄ってこない。よって行者は自分の光を遮り、彼らに近寄らせる。そうしなければ、彼らは入って来ようとしない。

この冠の上には、なぜ五つの骸骨があるのか?第一に、お前はこうなんだ、と衆生に知らせるのだ。天道におろうと、阿修羅、畜生道、人道におろうと、死後は骸骨が残るだけだ。皆同じだ。比べることなどない。第二に、人生は無常だと衆生に知らせるのだ。衆生に、お前は鬼道の衆生だ、安心して来られる場所だ、ここはお前が慣れている場所だ、と知らせるのだ。施身法を修める際に、非常に荘厳な仏像を前に置いておけば、衆生は寄ってこない。そのため、衆生のような様子をするのだ。

日本ではこの法はないかもしれない。台湾顕教には水陸大法会がある。その中のある法は鬼衆を済度するものだ。観世音菩薩は鬼衆の様子をご覧になり鬼衆を済度させた。仏法では、どの道の衆生を済度させるかによって、その道のような様子をする。釈迦牟尼仏はかつて仰せになった。過去世のある一世で自分は鹿王、サル、熊、孔雀だったと。それはこれら衆生を済度させるためだったのだ。真にそうなったのではなく、一部の神識がその様子に化身し衆生を済度させたのだ。今日は人を済度させる。当然私は人の様子をする。鬼衆を済度させるなら、彼らと同じような様子をしなければならない。私は鬼ではない。私が鬼なら、そなた達は皆逃げ出してしまうだろう。そなた達は鬼を恐れるからだ。

空性の慈悲心がなければ、この法を修めることはできない。今日は新年が明けたばかりなので、そなた達のためにこの法を修める。これにより、過去数年で食べた肉のそなたに対する怨恨を減らすことができる。新しい一年、みな肉を食べないように。每年私に面倒をかけないように。食べてもどうということはない、リンポチェになんとかしてもらえばいい、などと言わないことだ。私もいつか必ず死を迎える。私が死ねば、誰がそなた達を救うのだ?衆生の肉を食べれば地獄へ堕ちるということを信じなければならない。

日本では地蔵菩薩を拝むことがこんなにも流行している。地蔵菩薩は、墓の中の死人を専ら済度するのではない。六道衆生を専ら済度させるのだ。『地蔵菩薩本願経』にはっきりと説いている。衆生を傷つけてはならない。衆生の肉を食べてはならない。地蔵菩薩をこんなにも信じているのに、地蔵菩薩講の言葉は信じない。拝んで何をしているのか?教えに従わないなら、拝んだところでなんの役にも立たない。心が安心を得られ、心の中で慰めが得られるだけだ。地蔵菩薩は六道衆生が苦しまないようにお救いになる。福報と縁分があり、この法会に参加しているのだ。仏と菩薩のお言葉を、皆が聞き入れることを願う。真に聞き入れたなら、諸仏菩薩が護持してくださる。いくらか保護してくださる。聞き入れないなら、いくらかの良いことを持って帰りたい、と思っているだけなら、そなたに対する作用はほんの少しだ。これは私の修行の経験であり、また心から誠意を持ってみなに伝えるのだ。必ず私を信じよ、というのではない。だが仏の仰せを信じてほしい。今日私が講じた一切はすべて、経典から出たものだし、私が上師に従い学んだものだ。私が自分で発明したものではない。私にはそんな資格はないし、宗教を作り出すなどとんでもない。そんなことをすれば地獄に堕ちる。

今日講じた一切すべては釈迦牟尼仏が仰せなのだ。そして、上師の教えだ。みな帰宅してよく思惟し、考え、この一生を無駄にしないよう願う。この一生は非常に速く過ぎてしまう。一年一年と過ぎていく。そなた達も一人一人と老いていく。ある日本の弟子が以前私に皈依した時、彼のヒゲはまだ白くなかったが、今はすっかり白くなってしまった。老いたのだ。一年一年と非常に速く過ぎ去っていく。時間を無駄にしてはならない。みな新年おめでとう!

法会は円満となり、弟子達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの開示に感謝を申し上げ、起立して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りられるのを恭しくお送り致した。

後記:
リンチェンドルジェ・リンポチェは法座を下りた後、城崎温泉寺の小川祐章住職の方へと微笑んで歩み寄られた。これまで同様、リンポチェは親しげに住職に健康について尋ねられ、住職の父上の近況に関心を払われ、金剛杵で住職の頭頂と心間に加持をくださり、慈悲深くも、貴重な甘露丸を授け、使い方について説明なさった。

リンポチェは住職に「この甘露丸を寺の特別な信衆に与えるが良い」と仰せになった。この甘露丸は、リンポチェの長きに渡る護持に感謝するため、チベット仏寺から特別にリンポチェに供養されたもので、リンポチェだけが有している、極めて貴重で得難いものだ。住職は、このような機会を賜ったことに感激し、リンポチェを恭送した後、壇城の諸仏菩薩に対して心から三拝頂礼した。


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2019 年 02 月 20 日 更新