尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2018年10月7日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは壇座に上られた後、点灯、供仏し、続いて法座に上られ、参会者を率いて観音法門を修め、『寶積経』巻第八十二「郁伽長者会第十九」を開解くださった。

『寶積経』が開示する内容は在家衆にとって非常に重要だ。この一段に留意しなかったなら、絶えず煩悩と悪業を生み出すことになる。最近ある七十歲代の女性弟子が脳卒中を起こした。以前からよく開示している。65歲を過ぎたら、孫の面倒をみたりしてはならない。第一に、子女は成人しているのに、彼らの家庭生活における責任を分担してやったりすれば、子女は親不孝になりやすい。第二に、老いて身体の調子が良くないのに、孫の世話までするのは負担が重すぎる。この弟子は、そのために脳卒中を起こしたのだ。一つには孫の面倒をみていたからで、もう一つは夏の暑さにもエアコンをつけなかったからだ。どんなに言っても聞かない!昨日その弟子は道場に来て「感謝する」と言っていたが、私の話をまったく聞いていないのに、何が感謝だ!その弟子の娘は一ヶ月の給料が二万元あまりだという。私は娘に「二万元あまりなら、仕事を辞めて家で子供の面倒をみたらどうだ。二十万元なら辞めることはないだろう。だが、二万元ほどの給料のために、母は孫の面倒をみて、脳卒中を起こしたのだ」と言った。そうではないか?65歲を過ぎれば、持咒拝仏する時間はそれほど残されていない。孫の面倒をみている時間などあるだろうか?その弟子の学仏の動機は加護を求めることだった。自分が死ねば、無常に陥らないよう、リンポチェが必ず済度してくれると考えていたのだ。

もう一人、先週脳卒中を起こした弟子がいる。夜何を忙しくしていたのか?六十歲を過ぎて、そんなに健康でもないのに、普段から漢方医にもかからず、健康に良い食品も食べない。私は食品を輸入し、飲食業を営んでいるが、すべては身体に役立ち、健康に良い食品を提供するためだ。その弟子は自分の身体をしっかりケアしていなかった結果、脳卒中を起こした。私は近頃ようやくわかってきた。弟子にこんなにもたくさんの問題が起きるのは、仏菩薩、上師とは関係はない。ただ教えに従わないだけだ。チベットでは、弟子が40歲を過ぎると、念仏の時間が足りないのではないかと心配し、上師は弟子にマニ車を贈る。こうして弟子は毎日マニ車を回すことができるのだ。漢人にはこの習俗はないが、少なくとも自分に残された時間は多くないのだ、と知らなければならない。一日3000遍念じれば十分だ、などと思ってはならない。

私の店のある従業員は弟子でもあるが、借金のために暮らしに困っていた。それが今では安定した收入を得ている。ところがある時突然「休みを取って、恋人に会いに南部に行きたい」という。自分の暮らしはまだ安定していないというのにだ。また別の弟子従業員に、会社である事を指示したところ、何がどうなったのかおかしなことに、ある重要な文書をあらゆる部署に送って見られるようにしてしまった。理由を尋ねたところ「わかりません」という。私は従業員すべてに給料を払っているのだ。私を何だと思っているのか?

「父母妻子。奴婢使人。親友眷属。悉非我有。」

誰一人この言葉を聞き入れようとしない。誰もが「これは自分の家族だ。家族を守らないことがあろうか?家族を大切にし、家族のために自分を犠牲にしないことがあろうか?」と思っている。眷属はこの一生で結縁したに過ぎない。この生が終われば、その縁もなくなってしまう。理にかなった範囲で自分の家族の面倒をみればそれで十分だ。能力の範囲を超えてまで行う必要はない。自分の時間が十分でないことを認識しなければならない。一日一、二千遍六字大明咒を唱え、毎日アキ護法を修めれば加護が得られるなどと思わないことだ。もしそうなら、私は修行などやめてしまう。誰もが妄信的で、言うことを聞かず、供養布施もしようとしない。

ここ数日で、調べてわかったことがある。点香供仏していない人が多い。朝晩点香しているなら、一ヶ月で少なくとも三筒必要なはずだ。普段は供養しないくせに、何か起きれば無事を願う。誰もがこうだ。やるべきを行わず、やらなくともいいことを山のように行う。

この時リンポチェは「理事長はなぜ来ていない?」とお尋ねになり、「理事長でありながら、仕事が道場より重要だと言うのか。それなら理事長になどならなくとも良い。そんなに忙しいなら、なぜそんなに忙しい人を、道場は理事長にするのだ?あの者は知識階級でもないのに」と叱責なさった。

リンポチェは開示を続けられた:75歲で病がちなのに孫の面倒をみている人は、家族に何か言われないように、来週から法会に来なくとも良い。孫の面倒をみるのに忙しく法会に来られないという。それなら来なくとも良い。また何かが起きても面倒だ。そなた達、これら教えに従わない弟子の世話をする精神と体力は私にはない。もう一人の病気になった弟子は、来週から来なくとも良い。これで金稼ぎの係りをしなくとも良い。もしまた何かが起きたら、家族がまた何か言うだろう。私が話す内容、仏が開示する話を、そなた達はまったく聞き入れない。それなら来なくとも良い。これまでどれだけ話したことか。自分の心を放縦しないことだ。最近調子がいいので、これでいい、などと思わないことだ

経典︰「随我所至彼亦随去。」

なぜしっかり学仏し、教えに従い修行せよ、とひたすら言うのか?それは発菩提心まで修め、勝義菩提心が出現すれば、どこへ行っても、すべての眷属が付いてくるからだ。しかし、そなた達は聞き入れない。この一世しか見ていない。この一世はまばたきする間に過ぎ去ってしまう。地蔵菩薩は『地蔵経』で開示なさった。地蔵菩薩の母上はもともと成仏する機会はなかったが、娘が大願力を発し絶えず広大衆生に利益したため、釈迦牟尼仏が、母を未来仏と授記くださったのだ。そなた達は何をしたのだ?暮らしが少し良くなれば、すぐに忘れてしまう。私はそなた達を幸せに暮らさせなければならないのか?私にはそんな義務はない!

法王は、来年欧州へ弘法に行き、『寶積経』を宣説するようご指示くださった。この宣説は、一日二日で終わるというものではない。私の見たところ、私と台湾との縁もこれまでだ。欧州人は供養を理解しないが、私にとってはいくらか心地よく感じる。それは彼らが私に借りを作らないからだ。そなた達は誰もが私に借りを作っている。三寶に対する彼らの恭敬心はそなた達より良い。彼らは一旦信じれば、受け入れて、恭敬を尽くす。何を講じても聞き入れる。学仏の環境は台湾ほど便利ではないが、彼らがもし受け入れたなら、それは真に受け入れたということだ。台湾は複雑に過ぎる。誰もが自分の思想を持っており、他人を犠牲にしても良いが、自分が犠牲になることはできず、不運な目に遭うのは他人でなければならない。

経典︰「何以故。父母妻子。男女親属。知識作使。不能救我。」

釈迦牟尼仏ははっきり仰せだ。父母も妻も男女の親属も、息子や孫も含めて、どれだけ学位があろうと、有能であろうと、どれだけ権勢を誇ろうと、輪迴と三悪道からの離開を助けることはできない。仏菩薩と上師以外に、誰がそなたを助けてくれるのか?分かりきっていることなのに、やはりそなた達はまったく聞き入れない。高齢者に残された時間は多くないのだから、しっかり念仏持咒せよと教えるのに、やはり教えに従わず孫の面倒などみている。孫は自分の孫だ。娘は仕事が大変なので、娘を助けるために孫の面倒をみてやろう、などと考えた結果、自分に問題が起きた。問題が起きてもなお改めない。
釈迦牟尼仏は『寶積経』で、在家衆に聞かせるために特に開示くださっているのだ。父母や親属は私を救えない。父母に自分を済度させてくれ、と言えるか?そなた達は母親を恐れ、配偶者を恐れ、恋人を恐れている。だが、因果を恐れず、上師を恐れない。誰もがみなこの調子だ。

経典︰「非我歸依。」

これらの事はすべて私が頼れるものではない。家は最後の避風港だと思っている人が多い。どんな風を避けるのだ?家など、六道内で輪迴する時に習慣的に有する巣に過ぎない。私達は家のためにあれこれご託を並べている。家庭を壊せと言っているのではない。家とはただそこで眠り、生活するだけの場所なのだ。自分は学仏しているというなら、なぜ釈迦牟尼仏の仰せを聞き入れないのか?なぜなお自己流で考えるのか?
ここではっきりと仰せだ。これらは救えない。救えってくれないのに、それでもそれに頼らなければならないのか?それに帰着しなければならないのか?関わるな、と言っているのではない。何かあっても助けるな、と言っているのではない。家族によくすれば、いつか自分に何かあった時、家族が救ってくれる、と考えてはならない、ということだ。そなたが家族によくした結果、彼らがその後どうするか…それはすべて因縁だ。子供が親孝行かどうかは因縁福報だ。子供が親不孝なのは当たり前だ。どれほどの悪業を為したのか?自分は父母に対して親孝行だっただろうか?眷属が離れていくのは当たり前だ。どれだけの肉を食べただろうか?みな信じない。自分は懺悔したと思っている。懺悔したからどうなのだ?すぐに理想的な相手が見つかるのか?これは欲望に過ぎない。

経典︰「非我舍宅。」

これは私の家ではない。私の家屋でもない。私達はただの過客なのだ。ホテルに暮らしているに過ぎない。家は堅固ではなく変化する。止まることなく、ひたすら変化している。どれほど良い家であろうと、やはり変化する。この一生で知った、学んだ、持ったものはすべて過去の福報因縁の出現だ。だがこれら福報因縁の出現は、私達がひたすら福報を使い続けていることを示しており、それを使い切ってしまえば去ることになるのだ。仏は、学仏する在家衆は結婚せず商売せず子供を産まず、とは仰せでない。だが、これらはすべて因縁であり、一時的にそなたのものになっているだけで、一時的にそなたと共にあるだけなのだ。

現在の社会では、子供が成長し留学すると、学業を終えても帰ってこない。そなたが金を出してやっていた時、子供はそなたに属していた。金を与えた後、子供には自分の生活があるため、帰ってこない。世界中どこでもこうだ。誰もがあらゆる一生でたくさんの時間、精神、体力を無駄にして子供を教育している。私はしばしば言う。子供が18歲になるまでは責任を負わなければならない。18歲を過ぎたら成人なのだから、後は子供自身の責任だ。私達は子供に道を用意した。それを歩くというなら歩けば良い。歩きたくないと言っても、悲しんだり苦しんだり恨んだりする必要はない。夫婦の道もこうだ。結婚したと言っても、それは相手が自分のものになったということではない。相手と自分とが分かれたと言っても、それは自分か相手が失敗したということではない。因縁が終わったというだけなのだ。

経典は、離婚すれば修行できないとは言っていない。もし離婚は罪だと言っているのなら、私は法座を下りなければならない。随分前、法王は台湾で噶舉密咒蔵の灌頂を開催なさった。法王は台湾で一度しか灌頂なさったことがない。15日間連続の、非常に盛大な法だった。私は一銭も供養しておらず、功徳主でもなかった。法王は私には食事する金もないのをご存知だった。会場である法王の女性信衆が私のそばを通り過ぎ、「離婚したことがあるくせに灌頂にきているのか?」と私に言った。あたかも私の罪が極悪で、私が十悪不赦の人であるかのように。その時、私は生活を維持するだけで精一杯だった。だが法王は御目をおかけくださった。もし私がこの法会へ行かなかったなら、開催しなかったなら、私が一列目に座っていなかったら。灌頂法会にはある儀式がある。それは法王が、ある弟子の未来に授記するのだ。そして私はその中の一人となった。これからわかるだろう。そなた達が私を判断するのではなく、法王、諸仏菩薩が私を判断なさるのだ。離婚すれば罪人だというなら、西洋文化、因果論とも合致しなくなってしまう。

現代社会には矛盾がある。一夫一妻こそ貞節だとしている。経典にはこのような記載はない。これは、たくさんの伴侶を持て、と言っているのではなく、一切すべては因縁因果だと言いたいのだ。この一生でこの世間に来たのは絕対に返済のためだ。誰かから報恩される機会があるだろう、などと思わないことだ。私のこの一生は返済のためなのだ。完済すれば去る。そなた達の借りも含めてだ。私が思うに、現時点で私に残された時間もそう多くない。私が今いうこと、行う事を、そなた達はまったく支持しない。高品質のミネラルウォーターを輸入すれば、高いと言って貶すものもいる。

私達が一生で巡り会ったのは因縁なのだ。一切の事情はすべてあっという間に変化してしまう。永遠ではないのだ。こんなにも執著すれば、辛いのは自分自身だ。因縁が善なら、わざわざ南部まで会いに行く必要があるだろうか?そんなことをせずとも、毎日玄関で待っていてくれるはずだ。字訣で一人の人間を縛り付けられると思っているのだろうか?「お前が皈依したリンポチェは離婚経験があるので、会いたくない」というなら、それもいいだろう。私にとっては、会わなければならない人が一人減る。弟子は十分に多すぎる。これ以上は要らない。離婚経験のある人が極悪人だと思うなら、来なくとも良い。それは仏法を理解していないからだ。離婚すれば修行できないなら、ミラレパ尊者は殺人を犯したことがあるのに、なぜ成仏できたのか?

『阿彌陀経』は五濁悪世という。濁とは、自分の見解が混濁しており、眼にするものがすべて混濁しており、宝を眼にしたとしても石だと思ってしまう。怨んではならない。しっかり認識するのだ。こういう人だとわかったなら、付き合いを減らせばいいのだ。『阿彌陀経』のある段で、諸仏が釈迦牟尼仏の功徳を讃嘆している。経典では、明らかに阿彌陀仏と言っているのに、なぜ釈迦牟尼仏まで飛んでいくのか?後の方に開示がある。「この五濁悪世で、正等正覚仏果まで証できることこそ讃嘆に値する」というのだ。地球人はあまりにも済度しがたい。私はそなた達にこんなにもよくしているのに、そなた達を済度させることはできない。

この弟子を雇用し、会社が人手不足だというのに、彼氏に会いに行くと言って聞かない。彼氏がそんなにも大切なら、学仏せずとも良い。上師の恩徳さえ忘れてしまったのだ。平穏な暮らしに慣れてしまい、本質を忘れてしまっている。

誰もが仏法を受け入れない。過ちを犯しておきながら、なお自分の道理がある。「自分は正しい、間違っていない、上師の誤解だ、知らないのだ、よくわかっていないのだ」と思っている。だが、私は在家衆だ。未経験の事などあるだろうか?結婚したことがある、離婚したことがある、若い頃からもてた。私の人生経験は多くの人よりよほど豊富だ。そなたがどのような手を出してきても、私には勝てない。

経典︰「非我洲渚。」

家庭があり家族がいても、住むところではない。地球に来たのは、過去世で地球で善縁悪縁を作ったので、この一世で来たのだ。それはただの過客にすぎず、私達が地球の人類だということにはならないし、私達がどんな国、どんな洲、どんな省の人だということにはならない。そなたとこの地方に善縁か悪縁があるというだけに過ぎない。縁が尽きれば離れる時だ。私はこの一世でこんな人で、次の一世は必ずどんな人になる、などと思わないことだ。経典には「随縁」とはっきり書かれている。そなたが作った善悪縁に従い、どの道に生まれるかが決まるのだ。衆生と結んだ善悪縁に従い、どの場所かに出現する。先ずは「自分は中国人なので、また戻ってきて中国人になる」との誤った考えを捨てなければならない。西洋人は「また戻ってきて西洋人になる」との誤った考えを捨てなければならない。「自分はどこそこの人なので、また戻ってきてどこそこの人になる」との誤った考えを捨てなければならない。戻ってきて必ず人になるとも限らない。執著があれば、どこかの犬、猫、さらにはゴキブリになるかもしれない。

今日話すのは、私達の未来に対する執著を断ち切ることだ。済度を得られないとしても、執著心が減れば、間違ったところへ行ってしまうことはない。今日開示するのはすべてとても重要だ。そなたが、家族は自分のものだと考えているなら、この考えに執著しているなら、次の一世でそなたの現在の家族と必ず結縁する。だが、どんな縁かは分からない。以前そなたは父親だったが、次の一世では孫になるかもしれない。以前そなたは妻だったが、次の一世では孫やペットになるかもしれない。これは分からない。

私の開示は、私達の家庭生活、恋愛、仕事を破壊しようというのではない。すべてを捨て去れ、と言っているのではない。私達は在家なのだから。これらはこの一生だけであり、この一生が終わればなくなってしまう、ということが重点なのだ。終わればなくなってしまう。こんなにも執著していれば、苦しみと煩悩が生まれる。現在のことではない。この一生の煩悩などどうということもない、と思っている人もいるだろう。だが、一旦習慣になれば、息をひきとる時になってやってくるのだ。

最近ある弟子が往生した。私は日本での修法でその弟子の神識を守った。姉が弟子の手を握ったが、弟子は不機嫌だった。姉は他の宗教を信仰しているからだ。私は日本から電話で、遠距離を隔て、誰がその弟子の手を握ったか尋ねた。弟子が嫌ったのだ。誰が弟子の手を握ったか、私はもちろん分かっていた。だが姉が驚き恐れないよう、いくらか含蓄をもたせた。なぜ亡者が嫌ったのだ?今日彼女が私の弟子でないとしても、往生後に誰かに触れられることを喜ぶということはない。私は死の専門家だ。このようなの状況をたくさん見てきた。今日彼女は恋人に執著している。その執著は情欲の重さだ。『地蔵経』では、情欲が重い人は死後、地獄へ堕ちるという。一切は随縁なのだ。縁が到れば、相手が自然に会いに来るはずだ。

経典︰「非我蔭覆。」

家は私を加護する場所ではない。反対に問題が最も多いところだ。問題が起きる時には、すべて家族から起きるのだ。何かあれば家族が解決してくれる、と思っている人が多い。この言い方は間違ってはいない。だが、そなたに福徳因縁があるかどうかが重要だ。家族が助けようと思っても、何もできないこともある。来る時は孤独で、去る時も孤独なのだ、とはっきり理解しなければならない。二人の人間が仮にいっしょに死んだとしても、死ぬ時間にはやはり数秒の差がある。全く同じ瞬間に事切れるなどありえない。世界中を探しても、発生したことはない。なぜなら一人一人の寿命、因縁福報はみな違うからだ。私達はしばしばニュースを目にする。二人の人間がいっしょに毒を飲む。飲んだ量は同じだ。だが、一人は死に、一人は生き残る。因縁が異なるのだ。私は自殺を勧めているのではない。自殺は絕対に許されない。だが私達はこれから知ることができる。家庭が自分のすべてだと思っていれば、諸仏菩薩、上師、衆生が自分にくれた恩徳を容易に忘れ、容易にしたいようにし、自分を放縦しながら、これが正しいと思うようになる。

経典︰「非我我所。」

これらのものは、私が止まろうとするところではない。「所」という私が暮らすこの場所は変化しない。阿彌陀仏の浄土だけが「我所」だ。阿彌陀仏の浄土は、正等正覚まで修めるまでは、三悪道の苦はない。阿彌陀仏の浄土は、証果まで修めるまでは、輪迴しない。これこそが「我所」だ。これこそが私達のほんとうの居所だ。私達が永遠に暮らせる場所だ。世間では、非常に長寿で200歲まで生きても、やはりいつかは去らなければならない。
これは、自分を放縦し、適当に人と交際し、別れても良いというのではない。どれほど愛しても、最後の道はそれぞれが輪迴する場所なのだということだ。両親、夫や妻と私はいっしょに暮らし、毎日同じ事をしているのだから、同じ道に生まれると思っているなら、それは誤りだ。二人が每日全く同じ事を行っていたとしても、心もすべて同じだろうか?子供は必ず自分と同じところへ行くと思っている人が多いが、そうではない。誰でも行う事、心の持ち方は絕対に異なる。行う事がすべて衆生への利益なら、同じところへ行く機会はあるだろう。衆生への利益でなく、すべて自分のためなら、それぞれ修めることになる。妻が修めていれば夫を助けられ、夫が修めていれば子女を助けられる、などということはない。そなたが地蔵菩薩の果位まで修め、大願力を発し、自分のためではなく、ひたすら衆生を救っているなら別だが。

ここで講じる話は、在家衆に対するものだが、出家衆であっても、心の中でやはり家族のことを強く気にかけている者もいる。留意しなければならない。

経典︰「是陰界入非我我所。」

この一生で得た一切が、私達を三悪道に堕としてしまう恐れがある。止まるべきではない。この一生で発生する事を仏法を用いて処理せず、体得しないなら、三悪道に堕ちてしまう恐れがあると理解しなければならない。菜食し、学仏し、拝仏しているとしても、眷属に対して恨みを抱いているなら、三悪道に落ちるだろう。眷属というものはすべて、私達を三悪道に堕とす可能性があるものなのだ。子供が親不孝、夫が妻が良くない、それらはすべて縁だ、福報だ。父母がそなたに良くしてくれないのも、そなたの縁と福報なのだ。

恨み憎みの心があるなら、在世のうちにガンになる。ガンとは怨恨の心があるためなのだ。怨恨の心とは地獄道へ堕ちる心だ。在世のうちにガンになる。人を罵ったりしなくとも、心の中に怨恨があるなら、医学的に言えば、身体に悪い状況が現れる。仏法的に言えば、怨恨がありさえすれば、それは悪で、心の中はすべて悪念であり、いつか三悪道に堕ちる。だが、在世のうちに学仏していれば、三悪道にいる時間が少しは短くなり、福報が少しは良くなるだろう。たくさんの人が聞き入れず、受け入れようとしない。自分は拝仏したことがあり、相手が悪いのだから、私はちょっと恨んでいるだけだ、と思っている。このように言う女性がとても多い。それなら、どんなところで他人に申し訳がたつというのか?はっきりさせなければならない。家は縁に過ぎないのだ。こうすれば悪業を為すことはない。

経典︰「況父母妻子当是我所。」

父母と妻は業の出処だ。父母、妻、夫を自分のものだと考え、この一生の依拠だと考え、その中に住んでいるなら、それは過ちだ。なぜなら、彼らはそなたが過去世で行った善業悪業の出現だからだ。私はこの一生で離婚した。それは過去世の業だ。この業が尽き、怨恨なく別れれば、それで完済なので。次の一世でもう借りはない。このような事を体得できない人が多い。夫は、妻は、この一生で自分のものだと思っている。家が円滿でないなら、この人の人生は失敗だと思っている。儒家には『修身斉家治国平天下』という考え方がある。五濁悪世の社会にあって、古代では、家庭がそのすべての家族を守る必要があった。だが、仏法の考えでは、これはただの業、ただの縁に過ぎない。過ぎてしまえばなくなってしまう。だが、私達は理解しようとしない。家とは自分のものだと思っている。

釈迦牟尼仏がお生まれになった時、占い師が「この子は出家する」と言った。父親は出家を防ぐため、結婚して子をもうけるまで、釈迦牟尼仏を皇城から外へ出さなかった。だがやはり最後に、釈迦牟尼仏は家を出て修行に入られた。

この時、リンポチェは、法会時に左右をキョロキョロ見て、集中して聞いていない男性弟子を叱責なさった。リンポチェは開示くださった。「この弟子は皈依して15年になる。自分は学んだと思い、リンポチェが言うことは、全部こんなものだとうんざりしているのだ。15年になるのに、私は全然そなたを知らない。それはそなたが隠れるのがうまいということだ。私は目がとても良いのに、こんなにも遠いところに座っていても見えたのに。出て行け!

別の女性弟子は何かを手に塗り、匂いを嗅いだ。うんざりしているのだ。それとも、手は仏法より重要だと思っているのか?三寶を尊重せず、法会に来て何をしているのだ?出て行くが良い。私は今、一人また一人と追い出している。こんなにも多くの弟子は要らない。みな講演会にでも来ているつもりなのだ。講演が終わればそれでおしまい、自分には関係はない、好きに自分のやりたいことをやれば良い、と思っている。

経典︰「父母妻子是業所為。」

そなたのすべての眷属はいわゆる過去世で私達が行った善悪業だ。この一生で発生した事は、善であろうと悪であろうとすべて変化する。そなたが仏法を学べなかったなら、求めたものが得られて眷属によくしても、仏法を学ばず、好きなように自分を甘やかしたなら、このような善業は悪業に変わってしまう。反対に、仏法を理解していたなら、悪業は善業に転じてしまう。つまり、いつか縁が尽きて別れても、怨、恨、仇が生じることはないということだ。怨も恨も仇もなく、次の一世にも関わってこない。相思相愛で、この一世では自分のものだと思っているなら、次の一世に必ず再来するが、再来しても夫婦になるとは限らない。この一生でそなたの夫や妻が、次の一世でも必ずそうだというなら、それは大ウソつきのいうことだ。

経典︰「我善悪業亦随受報。」

この一生で得たすべては、善悪業が作り出したもので、この一生で報いを受ける。私が離婚したのも、私が彼らに借りがあったからで、この一生で報いを受け、最良のものを彼らに渡した後で分かれた。分かれた後に怨恨はない。最後はすべて私が責任を負った。離婚後に子供を取り合う人が多い。実は取り合う必要などないのだ。私は現在71歲だが、やはりすべて私が責任を負っている。そなたの事であり、そなたの業力ならば、追い払っても追い払い切れるものではない。そなたの業力でないなら、裁判に訴え、判決で自分のものになったところで、後にやはり問題が起きる。

離婚しようとしている人、もうすぐ離婚する人、すでに離婚した人に、子供の前で相手を批判してはならない、と私はいつも諌める。なぜならそうすれば、子供に親不孝、父母を憎む機会を与えてしまうからだ。これは両親二人の事だ。終われば終わるのだ。どちらが悪いというものではない。こうすれば、子供と父母との関係は緊張しない。「善悪業亦随受報」を理解しない。この一生で行った一切はひたすら報いられるのだ。念仏しているので、報いられることはない、などということはない。やはり果報はある。ただ転重軽受ようになるだけだ。

教えに従わないこの二人の弟子は報いを受けた。だが、私の弟子で、少しは私に供養したことがあったので、今回は死を免れたのだ。彼らは念仏がまだ十分でないので、阿彌陀仏のお側には行けない。済度さえも得られない。仏菩薩は彼らに慈悲をかけてくださったと思うか?私に対して慈悲をかけてくださったのだ。リンポチェはこんなにも老いているのに、こんなにも大変なのをご覧になり、彼らをもう二年生かし、もう少し念仏させ、そんなに大変でないよう、リンポチェが彼らを済度させる時を待たせてくださったのだ。そなた達は誰もがリンポチェを苛み、侮辱している。そなた達の業はこんなにも重い。どうして済度できようか?まったく懺悔心もない。

経典︰「彼亦随業受善悪報。」

そなたのすべての眷属も同じだ。その善悪業に従い、この一生で報いを受ける。この一生で新しい善悪業を為し、それが重いなら、この一生で報いを受ける。それが軽いなら、次の一世で報いを受ける。報いを受けないなどということはありえない。私の夫、妻が言うことを聞かない、という人が多い。それはそなたと相手の善悪業だ。夫に突然第三者が現れる、ということがある。どんなに泣いても仕方がない。それもそなたの業なのだ。そなたが過去世で浮気しなかったなら、この一世で相手が浮気をするということはない。もしそなたが修行人なら、この一世で果報を信じる。そなたが私はどうしても信じない、というなら、自分は学仏人だと言ってはならない。私は学仏し、私は一切の善悪業の報を信じる。他人が自分に対してどうであろうと、私は悪念を起こさない。それは私が自分は学仏していると思うからだ。この一生のすべての眷属が自分自身の善悪業の報いである以外に、眷属も同じだ。彼らの業報はそなたとまったく同じではない。違いがあるのだ。

私はよくある例を挙げる。以前ある一卵性双生児がいた。科学的には、遺伝子はまったく同じはずだ。だが二人の性格は違い、好みも異なり、出会う人も違う。これこそが業力だ。同一の卵子から分かれた二つの生命体なのに、発生する事がなぜまったく違うのか?何を見ても、私には仏がお話くださる仏法が見える。そなた達は反対だ。何を見ても、自分の考えしか見えない。

在家でも、出家でも、自分が修めているので、それに従い家族もよくなる、などと思ってはならない。そなたが地蔵菩薩でない限りそれはない。法身菩薩まで修めれば、チャンスはある。自然にそなたの福報に従い転換するだろう。法身菩薩まで修めるまでは、そなたの報いはそなたのであり、他人の報いは他人のなのだ。自分が非常に努力して改め修めれば、家族に対してはやはり影響がある。古人が言ったように「積善之家必有餘慶(積善の家には必ず餘慶あり)」なのだ。私達が努力して積善すれば、父母もたくさんの人と善縁を結び、いつかそなたがいなくなったとしても、これら善縁はやはりそなたの子供に対していくらか助けになるのだ。

なぜ学仏するのか?この一生で良い暮らしをするためではない。自分の生生世世と衆生のためなのだ。そなたが行善すれば、求めなくとも、家庭は自然に好転する。なぜなら家族も衆生のうちの一人なのだから。そなたが衆生と悪縁を結ばなければ、衆生も自然にそなたと悪縁を結ばない。それで悪の果報があるだろうか?ここで言っているのは、逆境を順境として受け止めよ、ということではなく、心の持ち方のことなのだ。他人がどんなにそなたに悪いことをしても、そなたが法律的な行為を用いて自分を守ったとしても、心の中で怨恨を持ってはならない。だが今は誰でも怨恨を抱いている。その結果、訳がわからないおかしな病気が山のように出現している。いわゆる四大不調というやつだ。そして病気になる。肺が悪い人は貪欲な人だ。これも欲しいあれも欲しい。心臓が悪い人は、どうやってあいつを懲らしめてやろうかと一日中考えている。ガンの人は怨恨と殺業がある。そのため、ガンになっても他人を怨んではならない。自分が教えに従わなかったことを恨むのだ。

今日の開示で、家庭で起きる事は祖先が悪いのではなく、祖先が加護してくれていないのではなく、それぞれの業力のためなのだ、と理解できただろう。ただそれが共通の業力だというだけだ。屠殺、殺生を生業にしている家に生まれた子供は共業から来たのだ。自然に行うようになる。私の家では殺衆生を業力としていないので、私はこの一生でナイフを持って肉を切る機会はない。だが祖父の時代にカイコを殺して金を稼いでいたので、父と私の代は、高血圧で脳に問題がでなければ心臓病だ。私の代になってようやく変わった。だが私の弟と姉は脳に問題が起きた。これら果報ははっきりしている。この一生で私だけが学仏し、彼らは学仏していない。それぞれの業力があるのだ。彼らは私がリンポチェだと知っている。だが何かあっても私を訪ねない。それぞれの業力があるのだ。彼らは「阿彌陀仏無遮大済度法会」に来たことがあるし、見たこともあるが、だが無理なものは無理なのだ。

経典︰「長者。而是菩薩去来坐起常観是事。」

そなたの一切の業力はすべて家と関わりがある。しっかりとこの事に向き合わなければならない。一切すべては業力の果報なのだ。こうでなければ怒りを覚えるだろう。子供が言うことを聞かない、病気になる、などはすべて業力の果報だ。そなたの業力であり、家人の業力だ。私はよく言う。子供がひたすらよく言いつけに従うと言っても、良いとは限らない。とても勉強ができ、容貌もなかなかよく、よく言いつけに従うという子供が、突然事故で死んだり、不治の病で死んだりするという例を見たことがある。父母の悲しみは筆舌に尽くしがたい。これも一種の業力なのだ。

この言葉の意味は、自分は菩薩道を学び、菩薩道を修めていると思うなら、家庭でどんなことが起こっても、すべてはそなたの業力だということだ。「去来」には二つの意味がある。一つはこの一生でどこから来てどこへ行くか。もう一つは、そなたの生死去来は、誰かが害したのではない、ということだ。あいつのせいで自分は病気を治せない、医者は私の病気を治してくれない、子供が親不孝で私の病気を治させてくれない、夫が私の病気を治させてくれない、と人はよく言う。これでは菩薩道を修めたとは言えない。良い医者に巡り会えたのは、そなたの福報業力だ。医者に掛かるかどうかも、そなたの福報業力だ。他人がそなたを害するのは助縁で、この縁を成熟させたのだ。だがなぜそなたはその言うことを聞くのか?なぜ私の言うことを聞かないのか?仏菩薩の言うことを聞かないのだ?

私達はこのような状況をよく見聞きする。家族が自分によくすれば、そなたは強い愛を抱き、喜びを抱く。私達はすぐに見なければならない。彼らは自分をとても愛している、自分をとても重視している、自分はなくてはならない存在だ、と思ったなら、そなたが死ぬ時、先ほど言った姉が妹の手を握ったように、そなたは耐え切れない辛さに苛まれる。幸運なことに、この弟子には上師がいて、妹の手を握ってはならない、と姉に伝えた。この修行人が眷属に伝えなかったなら、この亡者は嗔念を起こして地獄に堕ちてしまっただろう。家人は私をとても愛している、彼氏は私をとても愛している、と思うなら、地獄へ堕ちる準備をするがよい。

なぜ『地蔵経』は情欲を重く見ると地獄へ堕ちるというのか?私も以前はわからなかったが、密法を学び、今ではわかるようになった。それは執著するからだ。反対に、家の人すべてがそなたに良くないなら、そなたはこのすべてが業力だと見なければならない。このように見れば、家人や周囲の人と、恩愛情仇を生じることはない。恩愛情仇がありさえすれば、この一生では返済しきれず、次の一世で必ず再来する。どれだけ尽くし、どれだけ犠牲を払ったとしても、家の人がどれだけそなたに悪いとしても、気にかけてはならない。なぜなら私達は布施に果報を求めてはならないからだ。私達は家族に対して、布施し果報を求めてはならないのだ。その女性の弟子が、相手が自分に良くしてくれることを願い、南部まで会いに行き、相手が彼女を愛してくれたなら、それは果報を求めたのだ。もう来ないでもらいたい。ここに来れば私の加護が得られ、平和に暮らせ、收入が安定すると思っている。誰もが私を利用している。

家庭で何かが起きたなら、このすべては業であり、そなたの業報であり、彼の業報であるとしっかり見つめなければならない。この程度まで出来れば、言わなくとも成し遂げることができる。そのため、仏は私達に教える。そなたが自分は菩薩道を修めていると思うなら、どこへ行こうと、どこへ来ようと、座っていても、立っていても、眠っていても、一日24時間しばしばこのような事情を見なければならない。眷属とは業報だ。そなたの業報であり、相手の業報だ。眷属とは因縁だ。この一生が終われば、そなたが死ねば何もかも無くなってしまう。彼がとてもそなたを愛しているなら、そなたが死ねば、そなたに抱きついてひたすら泣き、ひたすら揺するだろう。それなら、そなたはもうおしまいだ。なぜならそなたは嗔恨心を起こすからだ。

経典では言う。人が死ぬ時、神識が身体を離れようとしている時、感覚は亀のように甲羅を脱ごうとしており、非常に痛む。この時皮膚は非常に敏感で、風が吹いても亡者は分かる。息を引き取れば意識も止まってしまうが、神識は反対に周囲で発生する事柄に非常に敏感になる。これまでたくさんの例を挙げてきた。ある時は、病床の上の板を引っ張って音を出したので、亡者が怒った。またある時は、医者が片足を動かしたので、亡者が怒った。どこに埋葬しようか、風水はどうだろう、などとそばで話し合っていても、亡者は怒る。私がこの問題を解決しなかったなら、亡者はどこへ行くのか?地獄へ堕ちる。

そのため、普段から訓練しておかなければならない。息子が大学に受かったのでうれしい、みなを食事に招待して祝おう、などと思ってはならない。これではそなたの執著心がより重くなる。喜んではならない、というのではない。これは息子の福報業力なのだ。そなたは息子に勉強する環境、機会を与えた。息子の福報が良かったので、自然に良い教師、学校に巡り会え、自然に合格したのだ。といっても当然努力もしなければならない。寝ながら受けても受かる、ということではない。

ここでははっきり言っている。自分が菩薩道を学んでいると思うなら、特に出家衆はそうだが、なお家族が最も大切だ、どんな人より大切だ、と思うなら、学仏をやめることだ。小乗仏法であっても、家族に対する見方は一般人とは異なるのだ。大乗仏法を学びながら、家族を自分にとって最も大切なものとするとは何事だ?それなら、修めなくとも良い。彼らも衆生なのだ。仏でさえも仰せだ。仏は衆生の業力を変えることはできない。私達はどのような理由で、眷属の業力を変えることができるのか?それは心を込めて修めることだ。その姿を見れば家族も改める。改めれば転換する。改めようとしないなら、どんな方法があろうか?

私はしばしばいう。仏菩薩は慈悲深い。この一生でこんなにも多くの苦を私に味あわせてくださった。私の子供は学仏しない。私は押し付けない。何を根拠に学仏を迫れるのか?釈迦牟尼仏は仏だが、釈迦族全体で、釈迦牟尼仏に従って学仏したものは何人もいない。そなた達は何なのだ?どうしたらいいのか?縁に従うのだ。自分が先にしっかり行うのだ。私はしばしばいう。少なくとも私の子供は法を犯すことはない。父親が毎日行っている事が非常に慎しみ深いのを目にしているからだ。それを見て、自然にたくさんのことを収斂しているのだ。自分こそが真に修行している人だ。私が修めているので、彼を変えられるなどということはない。彼を開悟させようと、毎日観音菩薩に祈っても無駄だ。

昨日ある人が会いに来た。母が老いて緑内障になったので、私に加持を求めに来た。母の視力が回復したら、私に従い経典を念じる、というのだ。この心はもちろん良い。だが、一歩下がって考えれば、やはり怠け者だ。地蔵菩薩は私達にお手本を示してくださっている。地蔵菩薩の母上は、三寶を軽視したので、地獄から出て来られたが、それでも得られたのはやはり短命の果報だった。地蔵菩薩は仏に、母が経典を理解して修行できるよう、もう少し生かしてくれと求めただろうか?経典には書いてない。ただ、地蔵菩薩は衆生が三悪道に堕ち入らないよう大願を発した。この願を発したので、植え付けた福報の根のため、母に自然に福報があり未来で修行できたのだ。ところがそなたは、無理に引き留めようとする。だが、その人の業力がまだはっきりせず、その果報がまだ変化していないなら、どうやって変えるのか?

地蔵菩薩は地獄へ行き、母親が地獄にいることを知ったが、母をすぐに出して欲しいとは求めなかった。『地蔵経』では言う。地蔵菩薩は海辺へ行き、母親がどんな原因で地獄にいるのかを知らされたが、どのように求めれば、母親を救えるのかは知らされなかった。母上は短命で、13年の命だった。子供の時、13年しか生きられないと地蔵菩薩にいつも言った。学仏に十分な時間があるように母を70歲まで生かして欲しいと地蔵菩薩は仏に求めただろうか?求めていない。菩薩はこれは母親の業であり、必ず報いを受けなければならず、少しでも早く報いを受ければ、少しでも早く学仏できるとご存知だということだ。そなた達とは違うのだ。

仏法と、私達いわゆる人の倫理基準は一致しないのだ。だからこそ、私達は行うのが難しいと感じる。だが、根っこのところは、やはり彼らのためなのだ。そなたは彼らが以後永遠に輪迴することはなく、三悪道に堕ちることがないよう願っている。それは彼らのためで、彼らをこの一生で数年長く生きさせるよりずっと良い。母の発病から入院まで、私はあらゆる人を動員して、母に長寿仏を修めることもできた。なぜ修めなかったのか?親不孝なのか?怠け者なのか?それは私が、これは母の業力と果報で、この一生で必ずこれに報いなければならない、とはっきり分かっていたからだ。私は人生無常を信じているので、仮に母に長寿仏を修め、私が先に死んでしまったら、誰が母を救うのか?それでは大変だ。私は親不孝になってしまう。母の業力果報をこの一生で完済させなかった。私が妨げたのだ。果報の成熟を妨げたのだ。そなたは大罪の極悪人だ。だが学仏修行で、母の果報を軽減するよう仏菩薩に求め上師に求めることができる。だが果報をなくすことはなぜできないのか?。学仏すれば悪の果報がなくなるなら、学仏すれば善の果報も無くなってしまう。なぜそなた達はこんなにも愚昧なのか。母を、父を病から救って欲しいとひたすらリンポチェに加持を求める。このすべては果報だ。この一生でこんなにも多くの肉を食べたのだ。老いて病気にならないなら、その方がおかしい!

そなた達はどうしても教えに従わない。今日『寶積経』ははっきり説いている。あらゆる事柄はすべて業力果報だ。そなた達もはっきりさせなければならない。私達は仏菩薩に、彼が三悪道に堕ちないよう求めることができる。だが仏菩薩は衆生の業を転動させることはできないのだ。自分自身で転動させるしかない。私がまさに良い例だ。法王は私の業力を転動させてくださっただろうか?私が閉関しなかったなら、転じることができただろうか?できない。釈迦牟尼仏が仰せのように、衆生の業を転じることができるかどうかは、衆生が修行しているかどうかにかかっているのだ。私達は仏菩薩に、彼が三悪道に堕ちないよう救いを求めることができる。仏菩薩は応じてくださる。それは地蔵菩薩の願が、一切の衆生を地獄に堕とさないことだからだ。これは絕対にできるのだ。だが、絕対にできるとしても、私達は彼の生前に準備させなければならない。準備もせずに、集中治療室に入って初めてリンポチェに求めるのでは、私を苛んでいるのと同じだ。私は知っている。今でもたくさんの人の父母が肉食していると。

なぜなお肉食するのか?怒らせるのが心配で、父母に言うことができない。なぜ私の母は菜食できたのか?私ができて、なぜみなはできないのか?それはそなた達が因果を信じず、仏法を信じない。父母の業報はこんなにも重い。ゆっくりと、忍耐強く、絶えず善の方向へと父母を導き、そして理解、体得させることを、そなた達は願わない。自分の性分さえ改めない。性格さえ改めない。物事のやり方さえ改めない。父母がどうして仏法が自分に有用だと信じるだろうか?なぜ私の母は教えに従ったのか?私の母は私以上に頑固だったが、私を見て性分を改めてしまった。息子が変わったのを見て、自分も変わったのだ。

経典:「不為父母妻眷属奴婢作使。」

父母妻眷属奴隷のために、すべきでない事をしてはならない。間違いだと明らかに分かっているのに、なお頭を働かせて、なんとか事態を収めようとしている。この一生で多くの悪業を為したと明らかに分かっているのに、なお毎日功徳を迴向しやり、冤親債主が復讐に来ないようにしている。それなら、そなたは因果を信じているのか?父母であるそなたに果報はないのか?人の父母ならあるはずではないか?そのため、この言葉は非常に重要だ。先ほど言った。自分のこの一生は善悪業報を受けるためなのだと信じなければならない。眷属もそなたと同じで善悪業報があるのだ。この二言を仏は非常に明確に仰せだ。家族の善悪業報を、自分の一切を用いて家族のために動きを変える必要はない。そなた自身が先に行えばいいのだ。地蔵菩薩がそうであるように。地蔵菩薩は母の短寿の果報を変えたか?変えていない。だが彼女は大願を発し、非常に努力して修行し、衆生へ利益したので、母は次の一世で好転したのだ。こうして父母に迴向でき、こうして父母の未来を救えるのだ。

だが、私達はこの一世の短い数十年を見て、父母は病気になるべきではない、老いるべきではない、死ぬべきではない、と思っている。父母が長寿なら、そなたは業力果報を信じない。父母を早死にさせるべきなのか?そうではない。その業力に従い、普段からそのために福徳因縁を累積する。私が私の母に行うように。私はもう一度言う。こんなにも多くの人を動かせるのに、私は母のために長寿を求めない。そなた達は何を理由にして、自分の父母のために絶えず絶えず絶えず長寿を求めるのか?そなたは彼らを害しているのだ。父母が三悪道に堕ちないよう求める人は一人もいない。自分の心に問いてみよ。なぜこれを求めないのか?それはそなた達が、父母が病気になり面倒が降りかかるのを恐れているからだ。父母が自分の眼前で死に、悲しみにくれるのを恐れているからだ。父母が死に、どのように処理していいかわからなくなるのを恐れているからだ。弟子が出てきて感謝するのを聞いたことがあるだろう。私は彼らが何に感謝しているのか全く分からない。私がそなた達の父母を救うのは、そなた達を喜ばせるためではなく、そなたの父母に福報を累積する十分な時間を与え、三悪道に堕ちないようにするためだ。誰が彼らのために累積できるのか?彼らの子女だ。

そのため今日のこの段は非常に重要だ。父母妻眷属奴隷のために何かを行ってはならないのではなく、自分自身の修行が彼らより重要なのだ。なぜ修行しなければならないのか?それは未来で彼らを救えるよう願うからだ。家で孫の面倒をみた結果、脳卒中になるのではない。「不為父母妻子眷属奴婢作使。」この言葉は怒っているのだ。75歲なのだ。持咒の時間はどんどん少なくなる。この後に及んでなお生死大事を重視せず、自分は祖母になったのはありがたいことだ、孫の世話を絶対にしなければ、孫の世話をしなければ、あれこれ言う人がいる、娘は働かなければならないと思い、自分が修行しなければならないことを忘れてしまう。なぜ忘れてしまうのか?それは、何かあったら、リンポチェに助けを求めれば、リンポチェは慈悲深く救ってくれるからだ。縁も福報もなければ、何かあっても助けようとしても助けることはできない。そなたが私の弟子であろうと、必ず助けられるというものではない。

先ほど言った、手を握られた弟子だが、彼女はポワ法を受けられなかった。どうして受けられなかったのか?それは彼女がひたすら求めていなかったからだ。だが求めれば必ず得られるのか?そうとは限らない。求めずとも得られる。求めずとも私は応じる。私はこのところ、ますます扱いにくくなっている。そのためそなた達は注意することだ。仏の仰せの通りに修行しないなら、そなたの福徳因縁が起きるのは非常に難しい。

経典:「造身口意悪不善業猶如毛分。」

この言葉の意味は、仮にそなたが今日そなたの父母妻眷属奴婢のために何らかの不法な事を行い、因果に背く事を行ったなら、身口意一切の悪を作ってしまい、不善の業は「毛分」のごとく、つまり見切れないほどに多くなってしまうということだ。そなたはまさに見えない。家人が肉食するのを許しているようにだ。私が菜食すれば良い、彼らは別にいい。「肉がある料理を作らなければ、夫は機嫌を損ね、仏を誹謗する」という者までいる。それなら学仏しなくとも良い。「姑が肉を料理に使うよう命じるのです」という人もいる。それなら学仏しなくとも良い。なぜ別の宗教では、信じたら自分の立場を堅持できるのに、なぜこれら学仏人は家人の言葉を恐れ、立場を堅持しないのか?喧嘩を避けるために、立場を堅持しない。そのためそなた達は仏門に皈依しても、やはり悪業を為しており、為しているのに、為していないと思っている。

仏のお言葉は非常に厳格だ。そなたが行った悪、不善業は「毛分」のようだ。なぜなら、そなたは、自分が悪業を為していると感じられないからだ。一本の毛は非常に細い。起心動念はすべて業であり、すべて罪だ。こんなに何度も言っているのに、やはり誰も理解できない。これは一体どうしたことだ?仏は非常にはっきりと仰せだ。これらいわゆる父母眷属妻奴婢のために行いさえすれば、つまりそなたが彼に学仏するように影響を与えず、変わることを希望して、自分が良い暮らしができるように、ひたすら絶えず物事を行うなら、そなたは悪業を為す。彼を導き、彼に影響を与えるなら、自分は学仏しなければならない。毎日求めながら自分は全く改めていない、というのではない。

経典:「是故長者。在家菩薩於己妻所応起三想。何等三。無常想。変易想。壊敗想。」

釈迦牟尼仏は仰せだ。菩薩は家庭で自分の妻、夫に対して三種の考えを起こさなければならない。

「無常想」とは無常で随時変化するということだ。彼はそなたの夫で、そなたは妻であったとしても、永遠に不変ではない。ある人が「この男についていればどんな結果があるのか?」と尋ねた。結果とは生離死別だ。二人いっしょに死ぬなどあり得るだろうか?一度も起きたことはない。生離でなければ死別だ。そのため無常とは離婚、不離婚、別居を含むのだ。生活のために夫婦が別れて暮らすのも含む。このすべてが無常だ。一切すべてが無常だ。そのためこの一点から分かる。仏は、妻を娶り、夫に嫁げば、永遠に不変だとは仰せでない。仰せでない。業を返済し切ってしまえば、無常なのだ。

「変易想」とはそれは変化するということだ。彼の容貌、性格、学仏の方法も変化する。「変易想」とは誰でもに発生する。あらゆる事が発生している。私が嫁ぐ前、私が娶る前はこうだったが、現在は私が知らない様子に変わってしまったとしよう。彼が変わるということを信じない。そのためそなたの目に見えているのは、結婚前のあの彼だ。結婚後の彼は変わった。そなたははっきり見えず、それだから嫌い、受け入れられなくなり、一切の怨恨仇罵が現れ始める。私は信じる。そなた達はしばしばこの言葉を聞いているだろう。結婚する前は私に対してこうだったのに、結婚したら誕生日も覚えていない。結婚記念日も覚えていない。私の母の誕生日にも母を訪ねない。これが変化だ。なぜ変わったのか?すべて手にしたのに、まだ覚えていなければならないのか!そのため男であろうと女であろうと、はっきりさせなければならない。今日そなたの妻も夫もすべて「無常想」、「変易想」なのだ。

「壊敗想」とは、彼が悪くなる、ということだ。「彼が敗する」とは突然何もかも無くなってしまうということだ。壊敗には身体も含まれる。彼が累世にたくさんの悪業を為しておれば、彼のこの一生の身体は健康でなく、突然病気になる。夫の中には、真に迫った泣き方でさめざめと泣くものもいる。「私のこの一生で彼女がなくてはならない存在だ。彼女が死んだら再婚しない」という。ところがこの約束を守ったものはほとんどいない。ほとんどはやはり再婚している。そのため女性は騙されないことだ。男性もこのように騙されないようにせよ。

ガムポパ尊者だけがいうことを聞いた。妻は死の間際一言「出家しなさい!」と言った。ガムポパに再婚させないためだと考えている人が多い。それは誤りだ。ガムポパはミラレパ尊者に従い修行するまでに、ニンマパで非常に高い果位まで修めており、ガムポパの一生の業力はまだ完済されていないと知っていた。そのため彼は出家すべきなのだ。世俗で言うように、妻は夫を離そうとせず、再婚させないために、出家させた、というのではない。誤解してはならない。だが反対に言えば、ガムポパは本当に言いつけに従い、本当に出家した。そのため、ガムポパは智慧があり、妻も智慧がある、というのだ。

ガムポパは医者だった。ガムポパを医王と呼ぶこともある。だが、彼は子供も妻も疫病で亡くしている。彼らを救えなかったのだ。そのため彼は眷属は無常だ、眷属は変易する、眷属は壊敗すると、はっきり悟ったのだ。そのため彼は決心し、振り返らなかった。家庭でこのような事があれば、そなたもこのような見方をすべきだ。妻はこんなに若くして死んだ、何も悪いことなどしていないのに、などと言ってはならない。もしこのような考えがあるなら、仏を信じず因果を信じていないということだ。もう一度言う。帰宅して夫や妻に言ってはならない。彼らは菩薩道を修めていないのだから、言っても役に立たない。

経典:「長者。是名在家菩薩於己妻所生於三想。在家菩薩於己妻所復生三想。何等三。是娯楽伴非彼世伴。」

菩薩は家で自分の妻に対して三種の考え方「是娯楽伴非彼世伴」を起こしてはならない。この一生でそなたの眷属が、そなたに歓愉を感じさせてくれた時、この歓愉の範囲は非常に広いので、詳細は省く。だが、絕対に次の一世の伴侶ではない。この一生が終われば、終わりなのだ。つまりこの一世で彼は来た。復讐にきたのかもしれないし、報恩にきたのかもしれない。少なくとも彼はかつてそなたを楽しませたことがあった。心の面であろうと生理的な面であろうと。私達は知っている。彼はかつて私達を楽しませたことがあった。私達は一切の恨の考え方を起こしてはならない。彼は私に悪いことをしたので、私は次の一世で仇討ちに来るなどと考えてはならない。たくさんの人がこのように考える。私はそなたを放さない。次の一世で私は絕対にそなたを見つける。ここで仏は非常にはっきり仰せだ。次の一世ではそなたの伴侶ではない、と。真に見つけられたとしても、絶対にそなたの伴侶ではない。そなたが学仏人なら、このような考えさえもないなら、何を学んでいるのか ?

経典:「是飲食伴非業報伴。」

この言葉で仏は、いかなる業に対しても一切の善悪の考えを起こしてはならない、とお教えくださる。つまり彼とそなたが共白髪になるのも業力だ。そなたと離婚するのも業力だ。だが恨んだり、愛したりの考えを表してはならない。私達はどのように考えるべきなのか?私達と一緒に食事する。一人で食事するのは非常に孤独だ。誰かが一緒に食事してくれるのは、よくないか?だが私達は業報の伴侶だと考えることはできない。つまり彼はこの一生で報仇報恩にきたのだ。この業この報が終わればなくなってしまう。彼は一年間の報恩に来ているのかもしれない。一年間の復讐に来ているのかもしれない。そしてその後はいなくなってしまう。だが、そなたがこの一年間は自分にとって非常に重要だと思うなら、未来に影響してしまう。この考えが分かるか?結婚一年目は非常に仲の良い夫婦も、二年目からは敵同士のようになることもある。妻や夫が結婚相手を間違ったと思うようになったら、この悪業はいつまでもまとわりついてくる。

そなたが相手を食事のパートナーだと思っているなら、食事の時にそなたに付き合ってくれ、食事が終われば去っていく。一日24時間食べ続けられるか?一分一秒も食べ続けられるか?食事の時は、みないっしょに座って食べる。食べ終われば食器を洗う人は洗い、寝る人は寝て、またはテレビを見たり、とこのようにするだろう。どういうことだ?つまり一時的なのだ。ほんとうにパートナーは、一日数時間もいっしょにいない。名義上、政府がハンコを押して、そなた達を合法的にいっしょに寝させているだけなのだ。政府はそなた達が合法的に寝ることを承認している。他は何もない。他は仏が仰せの食事のパートナーだ。

経典:「是楽時伴非苦時伴。」

仏はほんとうに非常に慈悲深い。私が先ほど話した様に、一時的な楽であろうと、彼はそなたに楽をくれるパートナーだ。そなたに苦をくれるパートナーではない。彼がそなたに悪いことをしたとしても、そなたが彼は自分に悪いことをしたと思っても、そなたが苦しいと思ったなら、それはそなたの過ちだ。彼はそなたに返済させてくれているのだ。彼はそなた達二人の間の債を、この一生で終わらせようとしているのだ。当然もし暴力を払ったり、殺したりするなら、通報しなければならない。仏は、通報するな、とは仰せでない。仏は、法律的な行為をとってはならないと仰せでない。だが、仏が仰せなのは、これは苦だと思わず、これは業報の出現だと考えよということだ。そなたは法律的に自分を守る。これはやっていいことだ。当然、毎日護法を修める必要はない。夫を私から遠ざけ、妻を私から遠ざけ、彼らに言うことを聞かせ、彼らにしっかり学仏させる。このようにする必要はない。今日彼がかつてそなたのパートナーだったことがありさえすれば、絕対に一時的な楽しさはあった。この一時的と永遠の考え方は、そなたが決定している。そのため私はしばしば言う。たくさんの女性が離婚したがっている。私は言う「彼は今は良くない。だが以前の良いところは、すべて忘れてしまったのか?」「そうです。彼の良いところは全部忘れてしまいました」つまり「変易想」なのだ。

そのため仏は今日、私達在家の者にお教えくださるのだ。私達がこのように修めるなら、煩悩は当然減少する。学仏の過程で、家庭内での衝突も減少する。なぜならそなたが彼に対して発するシグナルがそうなので、そなたの学仏が自分を邪魔していると感じず、家庭内で良くない、と感じさせないからだ。私達は学仏しているのだから、はっきりさせなければならない。とてつもない悪業を為しているように、こそこそするのではない。既婚の女性信衆が私に皈依する時、私は必ず夫の同意を求める。夫が不同意なら学仏できない、というのではなく、一つの考えがあるのだ。夫が学仏するつもりがないなら、自分が学仏で何をしようとしているのかを夫に理解させなければならない。まさにここで言っているように、彼には彼の業報がある。だが、そなたの業報は自分で学仏しなければならない。なぜ学仏したいのか、家庭内に影響があるのかないのかを夫にはっきり言わなければならない。はっきり言わなければならない。そなたはやはり彼の娯楽のパートナーで、彼の飲食のパートナーなのだ。なぜ言わないのか?

彼が菜食しないなら、彼のために買ってくる。そなたは菜食するが、やはりいっしょに同じテーブルで食事しても良い。青菜を食べない人がいるなどと、私は信じない。それなら、なぜこんなにも困難なのか?原因は非常に簡単だ。不信だ。そなた自身も含めて、山のように理由を探している。

経典:「長者。是名在家菩薩於己妻所生於三想。復生三想。何等三。不好想。臭穢想。可悪想。是名三。」

「不好想」とは、この人が良くない、というのではない。誤解してはならない。帰宅して、妻や夫に言ってはならない。仏はそなたが良くない、と仰せなのだ。良くない、とは何か?夫に対する恩怨情仇が非常に重いなら、それはそなたにとって必ず良くないし、夫にとっても良くない。二人とも三悪道へ堕ちてしまう。そのため、そなたは理解しただろう。眷属が出現した人は、業力が重いのであって、福報があるのではない。別の経典でも「在家菩薩業力重」と非常にはっきり講じている。業力が重くないなら、彼ら出家衆のようだろう。だが私のある出家弟子は業力が非常に重い。家庭のたくさんの事に一日中関わっている。私より忙しい。

この言葉の意味は何だろうか?良くないとは、人格が良くない、性格が良くない、そなたに対して良くない、というのではなく、そなたが不注意であれば、そなたは彼と自分に地獄へ堕ちる根を植え付けてしまうのだ。そのため、先ほど言ったことを、はっきりさせなければならない。彼は飲食のパートナーであり、娯楽のパートナーであり、この一世だけで次の一世はないということだ。重点は、どれほど良くしてくれても、この一世が終わればなくなってしまう、とそなたは非常にはっきり知っているということだ。そのため、彼の自分に対する良い面を貪欲に求めたりしない。彼がそなたに良くなくても、彼が私に返済させてくれており、完済できれば、この一生でもう借りがないのだということをはっきり知っている。そのため仏は娯楽のパートナーと仰せなのだ。これも娯楽だ。私は離婚したが、私は泣かなかった。さめざめ泣く男性もいるが、私はそうではない。なぜ泣かないのか?私は非常にはっきりとまた一つの借りを返したと知り、身が軽くなったと感じたからだ。「不好想」と、帰宅して決して言ってはならない。仏はそなたは良くないと仰せだ。良くないとは、人格性格動作言語をいうのではない。修行の面で言うのだ。不謹慎であれば、それは私達に良くない。何を不謹慎というのか?南部へ彼氏に会いに行くなどはまさに不謹慎だ。

第二の「臭味想」。これは非常に説明が難しい。厳密に言えば、修行人でないなら、彼には必ず体臭がある。必ず汚れたものがある。だが私達は彼を嫌わない。愛の対象が何であるか、今日はっきり認識しなければならない。彼は臭い。汚れている。ただそなたは現在情欲で目がくらみ、忘れてしまい、見えていないだけなのだ。仏門に皈依したなら、結婚相手は必ず菜食する人を探した方が良いと、なぜ私は言うのか?少なくともこの臭い、この汚れが少しは少ないので、そなたは長めに楽しむことができるだろうからだ。そうでないなら、臭いに気づいた後はもう楽しみがなくなってしまう。

「臭味想」とは、仏は、一切衆生はただの臭皮嚢に過ぎないと仰せだ。一層の皮で、身体の中のたくさんのものを包んでいる。彼は非常に美しく非常に好ましい、この肉体はとても良いと思うなら、これはすべて執著の心だ。そのため彼が老いると、そなたは彼を嫌うようになり、悪業を植え付ける。そのため付き合い始めたばかりの頃、相手はいつか変わるということをはっきりさせなければならない。人が変わってしまうのではなく、身体は絕対に変化する。以前ある人が「私はあなたより若い」と言ったので、私は「いつかそなたは老い、私は老いない」と言った。現在応験した。彼は変易だが、私の老いは非常にゆっくりだ。そのため、そんなに早く老いたくない、と思うなら、私の程度にまで修めれば良い。それなら、そなたは彼に「あなたは老いたが、私は未だ老いていない」と彼に言える条件が備わるのだ。そのため「臭味想」なのだ。はっきり考えなければならない。いわゆる伴侶は絕対に香妃ではない。トイレに入るのは、また別の次元のことだ。

そのためこのような事を体得した後、この恩怨情仇の程度は減少し、さらにはなくなってしまう。今日この業力が、この身体を私たちの眼前に出現させた。それも業力の出現であり、彼が不変だと言うことではない。私達がこの欲望を追求する。それは自分の意識の中の欲望かもしれない。今日は特別にそなた達にこれを教える。そなた達がパートナーを持つことを否定するのでも、反対するのでもない。ベッドの上でひたすら彼の臭気を嗅いでいろ、彼は入浴していないのでとても汚れている、というのでもない。このような考えではない。臭いを嗅ぐ動作を決して行ってはならない。ただ心の中で、私達が修行する際にこの観を持つのだ。何を観するのか?誰でもいつか息を引き取り、死体が腐爛すれば、屍体は臭気を放ち汚れる。できるのであれば、この死体を一年抱いてみよ。

もう一つの考えは、彼がどんなにそなたを愛し、そなたがどんなに彼を愛していても、いつか彼の身体は必ず臭くなり汚れ、絕対に腐爛し臭気を放つということだ。金剛不壊の身体まで修めれば、臭わないし汚れない。だが、世間でここまで修められるのは何人もいない。ここにおられる皆さん、事切れたなら、身体は絕対に臭気を放つ。なぜ仏教では火葬するのか?夫に妻に良い思い出を残すためだ。

済度されなかった亡者の遺体は絕対になんとも言えない臭気を放つ。これが臭気の始まりだ。病室にいる時から臭い始める人さえいる。私に済度されたなら、病室内の臭気はすぐに消えてしまう。この観点はなんだろうか?修行の経験がある人とない人、済度された人と済度されなかった人の差異がここだ。重点は、今彼が臭いと言って嫌い、汚れていると言って嫌い、同床を拒む、ということではない。そうではない!真の重点は、人は死ぬと、修行しておらず、金剛不壊の身まで修行しておらず、誰かに済度してもらえるほど修行していなかったなら、その身体は自然に臭気を放ち、汚れていくということだ。人生とは本来このようなものだと分かるだろう。では何を愛しているのか?精神か?肉体に間違いないだろう!伴侶に肉体がなければ出現するか?こんなにも肉体に執著していて、彼が臭くなったら、汚れたら、どうするのか?これをはっきりさせれば、執著心は減り軽くなり、さらにはなくなってしまうのだ。現在の伴侶が臭いし汚れている、といって嫌うのではない。「リンポチェがそういった」と言ってはならない。リンポチェは言っていない。そなたが言ったのだ。私を中傷したり、貶めたりしないでもらいたい。

第三の「可悪想」における「可悪(憎らしい)」とは、ちょっとした不注意で恩怨情仇の執著心を生じてしまったなら、彼はそなたを三悪道へと引きずり込むので、彼は非常に憎らしいということだ。さらに、伴侶の中には「菜食するなら結婚しない」という人もいる。いないか?非常に憎らしい!さらには「こんなに一心に拝仏しているなら、家庭内別居する」という人もいる。憎らしくないか?修行人であるなら、彼は可悪だと知っている。それなら、自分は可悪になってはならない!私達はひたすら可善の方向に向かい、一切の悪を断たなければならない。学仏は善だ、可悪ではないのだ、と彼に思わせなければならない。この考えは、一日学仏しようとしないなら、それで可悪の条件が揃うということだ。彼の貪嗔痴は必ず私達より重いからだ。絕対にいくらかの問題が出てくる。それなら、私達は彼を嫌い、彼を手放し、彼から離れ、彼を諦めるべきなのか?仏は仰せでない。だが仏は、彼の本質はこのようなので、留意せよ、と仰せだ。彼のこの可悪の部分を変えるために、そなたは善でなければならない。できているかどうか自分に問いてみよ?できていないなら、そなたも可悪だ。仏法を用いて一日中パートナーを苛み、他人を批判している。これも可悪だ。至極可悪だ。

そなた自身は変えられる。自然に可悪から可善に変えられる。彼に仏縁がないか、この一生のそなたとの縁が非常に短いのでない限り、彼もそなたに従いゆっくりと変わる。そのため私達が彼を可悪と観るのは、否定の言葉ではない。「彼はまさにこのようだろう。無視しても良い」というのでもない。それは誤りだ。そなたに伝えるだけだ。伴侶の本質とはこのようなのだ。そなたが学仏しないなら、それもこのようなのだ。そなたも可悪なのだ!そして臭穢でもあるだろう!また良くないだろう!学仏した後、私達は一切の悪を断ち、一切の善を行う。このような事が私達になくとも、彼にないという事にはならない。彼にはある。なぜなら彼の貪嗔痴慢疑はやはり非常に重いからだ。それなら私達がこのようだと知ったなら、彼を嫌い、彼を諦め、彼を無視し、彼を苛み、彼を罵り、彼を批判するべきだろうか?そうではない。今日学仏修行しないなら、まさにこのような条件なのだ、と私達に知らしめてくれるのだ。彼の条件がこのようだと分かったなら、この一生で彼を変えられるかどうかは重点ではない。重点はそなたがひたすら悪行を断ち、一切の善を行うなら、いつか必ず彼は体得し、彼は好転するだろうということだ。また、彼のこの一生がほんとうに転回しなかったなら、少なくともそなた本人は「恩怨情仇」の四字に執着せず、この世間を離れるのだ。なぜならそなたに少しの恩怨情仇があるなら、そなたは輪迴世間を離れることができないからだ。ほんの少しであってもダメだ。そのため仏は、在家菩薩は絶えず自分の心を訓練しなければならないと、お教えくださる。

これは今日聞いた後、すぐにうまくできる、ということではなく、聞いた後に外へ出ても行わなくともよい、ということではない。だからこそ仏は仰せなのだ。そなたは何をしていてもいつも考える。しばしばこのように考える。「考える」だぞ!はっきり聞くように。「口に出す」とは言っていない。もし、そなたが帰宅して口に出したなら、私はそなたを蹴っ飛ばして追い出すだろう。仏ははっきりと「考えなければならない」と仰せだ。仏は「しばしば言わなければならない」とは仰せでない。仏法を汚さないでもらいたい。もう一度言う。帰宅しても「口に出さず」、「考えよ」。考えている時も顔に出してはならない。ずっと鼻をつまんでなどしてはならない。それではすぐにバレてしまう。そなた達にはっきり言おう。「考えるだけで、行わず、口に出さない」。良いか?身口意で意だけで良い。

私達が死ぬ時、身口意で残るのは意だけだ。この意は普段の訓練にかかっている。死ぬ時に「リンポチェを考える、リンポチェを考える」というのではない。普段訓練していなければ、考えることはできない。そなたがリンポチェを考えるとは、どういう意味だ?リンポチェの清浄な法身であり、私のこの肉体ではない。そなたの心が不清浄なら、ほんとうに考えることはできないし、考え出すこともできない。そのため普段から自分の考え方を訓練し、ひたすら絶えず訓練しなければならないのだ。

伴侶を嫌い、伴侶を不要とし、追い出し、離婚し、寝床を分けるというのではない。どれもダメだ。なぜなら仏はこのようにせよと仰せでないからだ。仏はただ「考えよ」と仰せなのだ。そなたのこの一生が彼の恩怨情仇のためでないなら、息をひきとる時に彼と恩怨情仇を生じてはならない。もし予め自分を訓練していなかったなら、死ぬ時、「あの日、あいつはあの女に目配せしていた」と突然思い出す。それではすぐに、離れられなくなってしまう。簡単だ!「あの日、私が会いに行ったのに、あの男は全然かまってくれなかった」。良いではないか。次の一世で絕対に彼を見つける。何になるのだ?彼に噛み付くクモになるだろう。そなたは毒々しいからだ!

仏はあまりに慈悲深くていらっしゃる。私達在家衆の思想を訓練くださる。決して表情に出してはならない。決して口に出してはならない。そなた達の誰かが帰宅して話した、帰宅して表情に出した、と私の耳に入ったなら、出て行くが良い!仏はこうせよとお教えだからだ。仏は、口に出せ、書き出せ、とお教えでない。「分かったぞ。リンポチェが言ってはならない、してはならないと言うので、書こう。スマホで転送しよう」などと言わないでもらいたい。どれもダメだ。「私の考え方はどうだ」と書くことさえ許さぬ。なぜなら仏は仰せでないからだ。仏はただ、自分の考えを訓練しなければならない、と仰せだ。考えとは身口意の意だ。自分の意をひたすら訓練しなければならない。世間を離れる時、この意は自然に作用を生じ、執著を破ってくれる。普段から訓練しておらず、どうと言うこともない、「リンポチェが済度してくれるから」と思っているのだろう。そうだ。私がそなたを済度できたとしても、せいぜい三悪道から離れさせるぐらいだ。だが再来すれば、絕対に生きにくいことになる。天界に生まれたとしても、生きにくい。それは、そなたの執著があまりにも強いからだ。なぜなら、そなたの意は在生の頃に破られていないからだ。そのため理解しなければならない。適当なことを言いふらしてはならない。帰宅して「ちょっと離れて寝てよ。ほんとに臭い。お風呂に入ったの?こんなに臭いなんて!」などと言っては無い。このように相手を貶めてはならない。結婚したのだから、相手を貶めてはならない。良いか?

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達を導いてアキ護法を修められた後、引続きに開示された。

アキ護法儀軌の迴向文について開示しよう。中国語の意味は「今日修めた功徳が、修行の面での一切の障礙を私達から遠ざけてくれることを願う」だ。修行の面での障礙とは、開悟できるか、度衆できるか、と言うことではない。重点は、智慧仏母に成就する時だ。そなたが金剛亥母やアキ度母に変わると言うことではない。アキ度母と同等の智慧が出現した時に、ようやく輪迴の苦を免れられるということだ。いわゆる輪迴の苦を免れられる、とは、どんな願を発し、どれだけの善事を行い、どれだけの金を寄付したかではない。これらは、輪廻の苦を確実に遠ざける事にはならない。必ず智慧を修めなければならないのだ。そのため智慧が開かれるよう、今日は『寶積経』のこの段を開示したのだ。

菩薩道修行の一つ目は「資糧道」だ。「資糧道」は智慧と福徳を含む。福徳は供養から来るのだ。上師が行う一切をすべて支持し、助けなければ供養とは言えない。智慧とは経典を聴聞し守戒し智慧を開くのだ。智慧と福徳の修行とは、ひたすら発願するのではない。法本によれば、これでなければ発願とは呼ばない。経典、法本に基づかず発せられた願はすべて盲修瞎練だ。効果はない!どれだけ発しても役には立たない!法本にある願力とは、本尊が絕対にそなたの満願を助けるとのものだ!

当然ポイントがある。智慧仏母に成就する時、成就とはそなたが金剛亥母やアキ度母になる、と言うことではなく、そなたの成就がこの果位まで至ったということだ。ちょうど法王は今年、私が既に果位まで修められた、と仰せになった。これこそ智慧の開始、智慧の果位だ。この果位は、非常にすごい、上の方の人だ、ということではない。智慧の面での定義だ。智慧を短い言葉ではっきりと説明することは非常に難しい。釈迦牟尼仏は、智慧というこの二語を説明するため、智慧とはなんなのかを衆生に体得させるために、『大般若経』を開示なさった。『大般若経』は『大蔵経』の四分の一から三分の一を占める。これで分かるだろう。智慧とは短い言葉で説明できるものではないのだ。

すべての弟子の智慧を開かせる能力、方法が上師にはある。だが弟子が教えに従わないということが大きな問題だ。そなたがやはり心のままに振る舞い、自分を甘やかし、したいようにするなら、智慧は永遠に開かれない。智慧がないなら輪迴を脱するなどありえない。死ぬ時も非常に苦しいだろう。人が死ぬ際の苦しみはどこから来るのか?この一生で行った業力の他に、智慧があるかないかが重要なのだ。智慧が開かれていない人は苦しみがどこから来るか理解できるだろうか?そのため苦に執着し、苦しみの上に苦しみを重ねるのだ。なぜチベット密教では上師に対して完全に降参しなければならないのか?これが理由だ。この一生で累積した福徳資糧が不十分なら、どうするのだ?上師に皈依し、上師の福徳資糧がいくらか助けになることを願うのだ。だが絕対ではない。教えに従わないなら、絕対ではない。

法会に来れば、それで学仏だ、などと思ってはならない。法会以外の家庭生活で、誰かに管理されたくない、などと思ってはならない。私は当然管理できないし、管理したくもないし、管理しない。だが、仏が仰せの方法で家庭生活を送っているか?『寶積経』は眷属に対する考え方、財や富、一切、布施に対する考え方を開示しているが、できているか?こんなにたくさん説いても、そなた達が聞かず、考えようともしないなら、役には立たない!そのため業報が出現するのだ。こっそりなら、罰せられないだろう、と思っているだろう。私はもちろん罰しないが、十分な福報智慧の資糧を累積しなければ、自分の業を好転させることは当然できない。そのため脳卒中などが出現したのだ。道理に従いしっかり学仏し、既に菜食しているのに、なぜ脳卒中になるのか?それは教えに従わないからだ!教えに従わないなら、福報智慧は存在しない。いくらか私に供養したことがあったため、今回は死を免れたが、次があるという事にはならない。絕対に二度目はない。なぜならそなたの供養を、私は既にそなたに返してしまったからだ。一度しか救えないのだ。一度しか救えない、というのが理解できる者が一人もいない。一切の諸仏菩薩、上師は、衆生が三悪道に堕ちないよう、非時の死を遂げないよう助ける。だが一度だけだ。それは一度助け、そなたが教えに従わないなら、そなたの業力はすぐにそなたに戻ってくるからだ。

たくさんの人が「リンポチェ、感謝申し上げます!」と言う。何に感謝するのか?私が行う事をみな支持しないのに、何が感謝だ?口先だけだ!表面だけだ!教えた仏法を聞き入れない!行わない!何が感謝だ?だから今日は二人追い出した。今後も次々に追い出すつもりだ。以後仏法を宣説している際に、少しでも不恭敬な動作をしたなら、追い出すこととする!仏法を聞いている時に手を拭うとは何事だ!もう一人の、あちこちキョロキョロしていた者は、頭がまったく定まらない!この年寄りを舐めないでもらいたい。私の目はそなた達より良い!

此時,仁波切點名一位弟子,該弟子因流行感冒自主隔離而未到場。

この時、リンポチェは一人の弟子の名を呼んだ。その弟子はインフルエンザで、自ら隔離し会場にいなかった。

リンポチェは開示くださった。「奇妙なことではないか?キーポイントといえば、彼らは出現しない!なぜインフルエンザで自主管理しなければならないのか?すべてはかつて上師に対して不恭敬があったからだ。起心動念はすべて業だ。すべて罪だ。私はこんなにも多くの人に接触しているが、身体に問題はない。上師、三寶を十分に尊重しているからだ。尊重とは教えに従うことだ。そなた達は一人として聞き入れない。やはり自分の考えを用いている。仏はこんなにもたくさんの考えをお教えくださるのに、そなた達はやはり自分の考えを用いる!仏は、そなた達に何か行えと迫ってはおられない。仏はただそなた達にどう考えるか教えてくださっているだけだ。全く考えようともしないのに、何が修行だ!何を修めるのだ?その脳卒中を起こした二人は、まさに考えなかったのだ。なぜ脳卒中を起こしたのか?それは貪、嗔だ!

今日開示した『寶積経』の内容はすべて、以前からひたすらそなた達に注意していたものだ。そのため釈迦牟尼仏は慈悲深くも、私にこの一段を見せてくださったのだ。そなた達が私を信じないので、仏はそなた達に告げにお越しになり、そなた達が考えるかどう試されたのだ。仏の仰せさえ、そなた達は考えようとしない。それなら、ほんとうに二度と学仏に来ないことだ。仏は私達に何かを行えと迫ってはおられない。ただ、このように考えよと諌めておられるのだ。考えることさえ、そなた達は面倒がって考えない。何を学んでいるのか?毎日念仏すれば加持があるのか?毎日拝仏すれば役に立つのか?役には立たない!必ず仏のお教えに従い、思想の面で転動しなければならない。すぐに100%変われ、と言うのではない。少なくとも考えよ、毎日歩く屍のように無駄に日々を過ごしてはならない。

そなた達は毎日帰宅し護法を修めれば、自分は今日修めたと思っているのか?真の密宗とはしばしば思想することだ。密法を修めることではない。思想が違うなら、どんな法を修めても役には立たない。思想から始めるのだ。そなた達は考えることさえしないで、毎日リンポチェに加持を求める。病気になりたくないので、たくさん念仏しようとしている。なぜ浄土へ行かなければならないのか、今になっても知らない人が多い。浄土へ行けば苦がない、楽に暮らせる、と思っている。誰もが楽を貪欲に求めている。楽を貪欲に求める人がどうして離苦得楽できるだろうか?少しでも楽な暮らしをすればすぐに忘れてしまう。すぐに自分の身心を甘やかし、欲望を追求する。だから、私はどんどん厳しくしているのだ。それは経典に基づくのであり、私が言っているのではない。

昨年、舍衛城へ行き、私はこの一篇を開示した。釈迦牟尼仏が私にどれだけ良くしてくださるか、そなた達も承服しないわけには行くまい!しかも、この一段は年長者が請法なさったのだ。講じたのは在家菩薩だ。どこにこんなに不思議なことがあろうか?ちょうどこの一篇を開くとは。『寶積経』はこれほどの大作なのに、適当に開いてちょうどここになるはずがない。護法が私の手を取り開かれたのだ。そなた達これら在家で学仏の者、菩薩道を学ぶ者、教えに従わない者を懲らしめようとされているのは明らかだ。何を懲らしめると言うのか?行わないなら、帰れば良い!重要だと思う場所に帰れば良い。

誰もが加護を求めてやってくる。現実的なことをいえば、節約できた医療費、交通費はどこへ行ったのか?やはり取られるのだ。誰もが貧乏を恐れている。仏菩薩への点香供養さえケチる。求めるばかりで出したがらない!誰もが計算高い!貧乏の経験がないなら、私はそなた達を許すだろう。だが、私はかつて食事ができないほど貧乏だったことがあるが、やはり毎日朝晩供香していた。切らしたことはなかった。食事する金がなくとも、最も高い檀香を供養していた。そなた達はどうだ?一本の香を二つに折っているものさえいる。香炉が短すぎるので、一本は朝使い、もう一本は夜使う。私が知らないとでも思っているのか?節約してどうなのだ?孫に使う金は節約しないくせに。そなた達はこのようなおかしな罪を犯している。先ずは腹を満たしてから仏祖を顧みる。仏祖は私の香は嗅がないし、普通の果物を食べはしない。これはそなた達の心だ。誰が私達の果物を食べるのだ?農薬まみれなのに!あまつさえ自分が好きな果物を選んで供仏している。まさに先ずは腹を満たしてから仏祖を顧みている!仏祖は自分で自分の面倒がみられないのか?そなた達に世話されなければならないのか?上師がそなた達の見本になる行動をしているのに、適当なことを言って教えに従わない。ほんとうにおかしなことだ。法王はなぜ私に欧州で『寶積経』を開示せよとご指示になるのか?法王は私にもう一つの善縁、弘法の場所を開いてくださった。そなた達は慎重にした方が良いぞ!

法王がこのように仰せでないなら、私はおそらく決心しなかっただろう。だが私は決心した!これら教えに従わない者、特にこの二人の脳卒中を起こした者を目にし、ほんとうに耐え難い。なぜ、ここまで教えに従わないのか?問題が起きても死ぬことはできない。口では「リンポチェに感謝します」と言っているが、心を込めて供養しているようには見えない。ただ口先だけだ。今日はなぜ叱責しているのか?大法会は終了した。今は叱責する権利がある。来年は大法会は開催しない。そなた達が招待した者達は、今でも肉食している。私は大法会を開催して彼らのために済度させてやり、彼らは福報を得てより多くの肉を食べている。それでは私は衆生に害を及ぼしているのではないか?開催したところで意味はないのではないか?海外で二万人余りの大法会を開催できるのは、チベット仏教では私だけだと、法王も公に仰せになっている。そなた達は少しも大切に思わず、誰もが每年拝みに来て、加護を求める!

リンポチェは来週は施身法法会を開催すると告知され、参会者は声を揃えて感謝申し上げた。リンポチェはその機会を捉えて「感謝は決まり文句ではない。ほんとうに感謝しているなら、教えに従って行い、供養し、上師が行うことを支持することだ」と教導くださった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達を導いて、回向儀軌を修められた。法会は円満し、参会者達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法及び殊勝な開示で無量無辺衆生を利益する事を感謝し、、立ち上がって恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りられるのを見送った。

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2018 年 12 月 11 日 更新