尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2018年6月24日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは灯をともして仏に供えて、自ら殊勝なる金剛薩埵灌頂法会を主法なさり、参会者に貴重な仏法の開示及び金剛薩埵灌頂を下された。。

リンポチェは法座を登られた後、開示を下された。顕教には金剛薩埵というこの本尊はないが、金剛乗においてはとても重要だ。金剛薩埵は、密乗修行を行おうとする人が必ず修めなければならない本尊だ。金剛薩埵修行で成就を得られなければ、他の金剛乗の法で成就を得ることはできない。

金剛薩埵の本願力は、密乗を修行しようとする一切の衆生を助け、その障礙を減らし、取り除き、降伏する等だ。金剛薩埵の頭髮は青色だが、それは報身仏の相を表している。そのため、もしこの一生で菩薩乗の学習、修行を発願するのでなく、自身の個人的なことに一日中汲々としているなら、今日そなたにこの本尊の灌頂を授けても、ただ結縁させるに過ぎない。

不共四加行を伝えていない弟子が非常に多い。或いは伝えたが破戒したので、不共四加行の学習をさせないでいる者もいる。不共四加行を伝えられ、しかも十一万遍大礼拝を円満したなら、今日の灌頂の後、時間を見つけて金剛薩埵の観想部分を口伝しよう。金剛乗の特色は、生起次第と円満次第を含む上師の灌頂口伝の後、この一生で一尊の本尊を専修するなら、必ず成就が得られることだ。

如法灌頂と口伝を受けた弟子が三昧耶を破戒したなら、その弟子の成仏の機会は生生世世に失われてしまう。三昧耶戒とは「一、本尊の願力を学び衆生に利益することを本尊に約束。二、いかにして上師に侍奉、供養するかなど、密乗中で説く仏法を如法修行することを上師に約束。三、衆生への約束」だ。この三つの約束を破ったなら、成仏の機会はなくなってしまう。

他の戒なら、破っても、上師に懺悔すれば新たに受戒される。だが三昧耶戒を破ったなら、上師や仏菩薩に懺悔してもどうしようもない。三昧耶戒を破った後に再度戒を受けるには、金剛薩埵中のある修行方法しかない。非常に多くの人が灌頂を受けたがる。私は今そなた達に灌頂を授けるが伝授しない。これにより、そなた達は未来世で金剛乗を学習する機会が得られるだろう。

伝授を受けても、上師に対して、なお何らかの思い上がった考え方を捨てていないなら、当然三昧耶戒を破るだろう。三昧耶戒を破っても、上師が懲罰を加えるのではなく、上師が怒るのではなく、諸仏菩薩が懲罰を加え、本尊が懲罰を加えるのだ。これらとはなんの関係もない。そなたが三昧耶戒を破った後、上師のすべての加持は断たれてしまう。『地蔵経』で説くように、一切の善知識は、一切の有情衆生の障礙を妨げる能力を有している。病は一種の障礙だとと思っている人が多い。しかし病は実は障礙ではない。自分がどれだけの悪業を為したかを明らかにし、懺悔する機会を与え、この一生で償えるようにするものなのだ。

法会に参加すれば、すぐに病気が良くなり、その後は上師の加持に頼り続ければ、健康を取り戻せ、金儲けが続けられると考えている人が多い。これらはすべて破戒だ。どんな戒を破ったのか?皈依の際には五戒十善を伝える。十善には、不貪と不痴(因果を信じる)を含む。どんな徳行を為したのか?法会に参加し、1、2年皈依すれば、天地がひっくり返ったようにまったく新しい人が出現するのか?そなた達は諸仏菩薩と上師の加持に頼り、福報を積む十分な時間を与えられ、これにより上師に済度してもらえるのだ。

他に例を出すまでもない。最近ある米国の弟子が端午節の前日に亡くなった。私は彼が亡くなる4ヶ月前に「その時が近づいているので、毎日持咒するように。死期が近づき容体が悪くなったら、死が迫っていることを医者に伝えてもらうように。選択は二つに一つだ。家で死を迎えるか、病院で死を迎えるか」と伝えた。この弟子は外国人だが、そなた達よりよほど良く教えに従う。

(この時ある信衆が足を組んだ。リンポチェはその場で叱責し、辛いなら出て行けば良いと伝え、隣席の参会者にスペースを空けるよう指示された。)

外国人の方がそなた達より良く教えに従う。彼らは仏法は有難く、上師は得難いと思うからだ。ところがそなた達は、仏法を聞きに来るのはリンポチェの面子を立てているのだと思っている。そなた達に面子を立ててもらう必要が私にあるだろうか?学仏は個人的な事だと思っている人が非常に多い。私の修行の経験からすれば、学仏は決して一個人の事ではない。諸仏菩薩、上師が加被してくださらないなら、この一生では絕対に不可能なのだ。

私はしばしばみなに言っている。地蔵菩薩が『地蔵経』中で毎回釈迦牟尼仏を讚歎なさる時、その一言目は必ず「仏の加被のおかげで、これら功徳を為すことができた」だ。そなた達は、何回か法会に来れば、それでもう飛べる、自分の人生は変わると思っている。地蔵菩薩は法身菩薩であられるのに、こんなにも謙虚だ。『寶積経』は非常に明確に説いている。菩薩道を修めようとする行者が少しでも傲慢な心を起こせば、どんな功徳であろうとなくなってしまう、と。

今回私は欧州へ弘法に行ったが、法王は非常に喜んでくださった。それは私が行ったからではなく、この弟子がよく言いつけに従ったからだ。私は欧州へ行く前に法王に教えを請うた。「どのような点に留意すべきでしょうか?」と尋ねると、法王は「東洋と西洋とは違うので、厳しくしすぎるな」とお答えくださった。その結果、弘法時に弟子が何枚か写真を撮ったが、すべてちょうど私が笑っている時だった。法王はそれら写真をご覧になった後、私が改めたと思われたので、非常に喜ばれたのだ。いかにして上師に喜んでいただくのか?それは上師の言いつけによく従うのだ。何を供養するかではない。

今日はみなに金剛薩埵灌頂を授ける。不共四加行を伝えた弟子は金剛薩埵法門を修める機会がある他に、業障が深重な弟子に加持と灌頂を授ける。そなた達は灌頂は簡単だと思っているだろう。ただ何かを唱えて、瓶を振るだけだと思っているだろう。だがそんなものではない。灌頂とは、上師が本尊に代わり、将来この本尊を修行する福報と権利を授けると定義されている。

今日そなたが得たのは、そなた個人のものではない。上師とそなた達が修行の功徳を分け合うのだ。そのため、ある法本では、灌頂をあまりに多く行ったなら、その上師は閉関する必要がある、という。凡夫の身体で、多くの灌頂を行えば、身体が持たないのだ。そのため、改めて閉関し、福報を累積してから、新たに衆生に利益しなければならない。

灌頂は、古代インドの儀式から来ている。古代インドでは、王位の継承者である王子に、国王が譲位する時には、ある儀式を執り行う。それは、寶瓶にガンジス川の水を入れ、王子の頭頂に灌ぐというものだ。これにより、王子に王位を譲ったことを示す。もう一つは、上師は灌頂伝法を通じて、この法門を修める資格がある権利を授けるという意味だ。咒語には間違いなく特許がある。上師に授権されなければ修めてはならない。もちろん自分で唱えることはできるが、絕対に成就を修めることはできない。私が保証する。

自分は百字明咒を聞いたことがあるので、CDを買ってきて、CDについて唱えればそれで有用だなどと思ってはならない。それでも有用か?有用だ。だが次の一世でしか用いることはできない。この一世では役に立たない。ただ人を罵ったり、あれこれ批判したりするよりは、マシなだけだ。だが業障を消すことはできない。なぜなら、そなたはただ唱えているだけだからだ。非常にたくさんの人が誤解している。咒語の一つ一つにはすべて特許があるのだ。かつては「特許」という概念がなかった。現在ではみな自分の権利を守るため、特許を申請する。古代の人に授権されたのだ。そなたはこの権利を受けて、この法門を修めるのだ。

なぜ授権を経なければならないのか?それは、本尊と上師の授権を受けずにこの法門を修めるなら、凡夫の意識で仏法を見ることになり、修めるのは清浄な仏法ではなく、凡夫心であり、つまり欲望で持咒、拝仏することになるからだ。昨日末期ガンの弟子が早く死なせて欲しいと求めてきた。私はその場で、出て行くように言った。私はこんなにも長いあいだ仏法を説いている。病に罹るのは借金を返済しているのだ。完済せずに、どうして阿弥陀仏のおそばへ行けるだろうか?私がどう説こうがお構いなしだ。私は何度も言ってきた。阿弥陀仏のおそばへ行くのは福を享受するためではない。阿弥陀仏のおそばへ行けば、あらゆることが解決するというのではない。

生生世世に犯した悪業を、この一生で仏法を用いて完済しないなら、早めに死ぬことなど絶対にできない。私も安楽死させてやることなどできない。安楽死させてやるのは、謀殺に等しいからだ。安楽死を選択した人は自殺したに等しい。それなのに、この弟子は私にそれを求める。どうだ?これは悪劣だと思わないか?自分がこの世間で受苦するのが嫌だから、病によって返済しようと思わず、阿弥陀仏のおそばに早く行かせて欲しいと求める。これこそ『阿弥陀経』中で言う「疑情」だ。上師の言葉を信じず、自分の方法を用いているのだ。

亡くなったばかりの米国の弟子は違う。この弟子は、早く死なせて欲しいと私に言ったことはない。なぜ、そなた達、ここにいる弟子たちは、こんなにも扱いにくいのか?少しも教えに従わない。私はかつて「病為道用」と言ったことがある。病を得ることで、自分が累世でどれほどの悪業を為してきたかを思い知らせてくれる。病になることで、病を動力として、しっかりと懺悔し、しっかりと心を込めて仏法を学ぶ機会が得られる。病になることで、再び輪迴しないと決心を下す機会を得ることができる。しかし、誰でも、患うとまるで天が落っこちてきたように狼狽し、すぐに救わなければ、病を癒さなければと考え、また自分は健康でなければ修行を続けられないと考える。

私は自分の経験を話したことがある。私は皮膚癌になったが、仏菩薩に助けを求めなかった。その頃私はすでにリンポチェだったが、仏菩薩に「ガンになりたくありません。ガンを早く治してください。よくならなければ衆生に利益することはできません」などと求めなかった。このような言い方は、脅迫的な要求で、誰もが仏菩薩と上師に脅迫的に要求している。どうして病が良くなるだろうか?

『地蔵経』は、そなた達の障礙を遮ると非常に明確に説いている。そなた達の障礙を消すとは説いていない。障礙とはなんだろうか?悪業と善業の障礙だ。悪業の障礙なら、感覚的にわかるだろう。だが、善業の障礙となると、決して理解できはしないだろう。法会に来て、皈依し、病情が維持され悪化しないなら、「善の業力が来た。自分はできている」と考え、驕り、己を放縦し、めちゃくちゃなことを言い、言いつけに従わなくなる!九十%は皆こうだ。

今日はもう一度言う。「すべての如法の具徳上師は、そなた達の病を転化する能力を有するが、これらの人の病情が良くなれば、懈怠、不精進が始まる」とジッテン・サムゴンは仰せになった。私はしばしば例をあげて説明する。病気が良くなったばかりの人が、どうしてすぐに超健康体になるだろうか?仏法を用いて自己の身体を調整し続けなければならないのに、そなた達は言いつけに従わない!「やるべきことを先ずはやった後に、しっかり修行しよう。今はリンポチェの加持に頼っていれば大丈夫だ」と考える。誰も言いつけに従わない!つまり、たくさんの人が仏法を誤解しているのだ。

今日私がガンになったことがなく、或いはガンになっても全快していないなら、そなた達を叱責することはできないだろう。私は良くなったのに、そなた達が良くならないのは、そなた達が言いつけに従わないからか、他人が何といおうとお構いなしだからだ。そなた達は口ばかりだ。「両親と家族のために命をかけて頑張らなければならない」などという。私には母親も家族もない、そなた達だけにある、とでもいうのか?そなた達は運が悪い。在家のリンポチェに皈依した。もし出家のリンポチェに皈依していたなら、家庭のことを持ち出せばそれでいいだろう。だが私は在家だ。そなた達があるものは私にもあるのだ。

どんなに説いてもどんなに教えても、そなた達はやはり従わず、やはり自分の考えで学仏する。思考を停止して学仏せよというのではない。自身が学んだ仏法の教えと自己の暮らし方、思想が違っていないかどうかを考えようというのだ。違っているなら、改めなければならない。だが、どんなに説いても、どんなに諌めても、そなた達は聞き入れようとしない。自分はどんなに懺悔しているかを公の場に出てきて言えば、業障がなくなる、などと思ってはならない。懺悔とは、新たに始める機会を与えるだけなのだ。だが、常にひたすら懺悔し続けるのではない。懺悔し続けるのなら、それは皈依時に言った「恥を知らず、過ちを繰り返す」だ。

昨日のその弟子は実に憎らしい。早く死なせて欲しいと私に求めれば、あの外国人のように安楽死できると考えている。昨日そのように求めたので、私は「また痛みが来るだろう」と予言した。もともとは、それほど痛みはなかったのに、今、上師を信じないと言う悪念を起こしている。覚えておくように。「苦しみがある時、この苦しみは私達を助けてくれる。幸せは私達に害を及ぼす」この二語を理解し、しかも納得しなければならない。理解できず、納得もできないなら、過ちを繰り返すだろう。

釈迦牟尼仏はなぜ特に『楞嚴経』を説かれたのか?それは、そなた達が驕ることを恐れたのだ。ほんの少しの境界ができ、自分は素晴らしいと思えば、魔(外魔、心魔)はすぐに入り込んできて、この一生で生死を解脱できなくなる。仏法の特質とは、念頭の間の変化だ。上師が教える仏法の教導を遵守、従うことができず、やはり自分の考えを用いるなら、自己の業力を転変させる能力を有することはできない。

私がもし如法のリンポチェでないなら、法王は私を欧州へ行かせたりはなさらないはずだ。そなた達は、ヨーロッパ人にとってリンポチェはかなり珍しいに違いない、などと思っているだろう。実はチベット仏教の非常に多くのリンポチェが欧州で弘法している。特にヨーロッパ人は論理的だ。注意して観察している。こちらの方がいくらか簡単だ。だが私のように真実を話す者にとっては容易ではない。なぜなら、そなた達は皆騙されるのを喜ぶからだ。

昨日その弟子が来た時、私は適当に加持に応じることができた。「苦海を離脱させてやろう」と言うことができた。どんな人が早死できるのか?生死自在まで修められた人だけが早死できる。浄土宗の祖師大徳の中には「早めに旅立たせて欲しい」と阿弥陀仏に求めた人がいる、などと誤解してはならない。これらの人はすでに生死に関して障礙がないところまで修め、「この世間には縁がない。済度させたいと思う衆生が全くいないので、この世間に残っていたくない。少しでも早く戻りたい」と考えているのだ。それなら良い。そなた、自分は何者だと思っているのだ。祖師大徳か?実に悪い弟子だ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは金剛薩埵灌頂の修持を始め、まずマンダを捧げる儀軌を行った。出家弟子は衆生を代表して、マンダを捧げる供養を行った。

修法が一段落した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示くださった︰ここまでは福徳累積の供養を修めた。ここから灌頂だ。灌頂前には、動機が非常に重要だ。今日灌頂に参加しているのが、一切の有情に利益するためなら、それは正しい動機だ。「私は円満な菩提に成就すべきだ」。自己の個人的な利益のために灌頂に参加するのではない。私達は密乗の甚深な灌頂を誠意を持って求めるべきなのだ。例えば灌頂の前に、午前中に先に予備法を修める。私がこの本尊の成就を得ていないなら、衆生に灌頂することはできない。このように思惟し、菩提心を発し、正法を聞き受け入れなければならないのだ。正法とは、私達の生死解脱を助けてくれるものだ。

灌頂を受ける時には、いくつか注意しなければならないことがある。

法会に参加する人は必ず、上師は金剛薩埵と無二無別だと考えなければならない。法会に参加しているすべての弟子を、知り合いだろうとなかろうと、自分達と一緒に学仏する眷属だと観想しなければならない。殊勝な密法を聞く時には、不共の動機と行為が具わっていなければならない。いわゆる不共とは、小乗の修法と不共同ということだ。日を改めて説明しよう。ここで重要なのは「一切の衆生に利益するため」という言葉だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは修法を続けて、こう開示された。

先ほどは身の灌頂だ。身灌頂の後は、金剛薩埵の身体を観修できるようそなたに権利を授ける。灌頂を経なければ、金剛薩埵をどんなに想っても役には立たない。なぜなら授権されていないからだ。三寶に皈依していない信衆は、今日は結縁だけだ。そなたが私に従い唱えても無用だ。結縁だけだ。

続いては語の灌頂だ。灌頂の後は、語の障礙と習気が清浄となる。金剛薩埵の心咒を持誦できる権利を授ける。

続いては、意の灌頂だ。灌頂の後、意の授権を得る。意の障礙を消し去り、習気が清浄となる。意の障礙は非常に多い。金剛薩埵意の空性と大悲双運を観修できる権利を授ける。仏法では最後には必ず空悲双運でなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは修法を続けて、皆を率いて法本を念誦された。

この誓いの言葉は非常に特別だ。本尊(金剛薩埵)が加持くださり、完全に歓悦の意念で上師を侍奉し、身口意で上師に供養するように望む。「生生世世に弟子である」これは金剛乗の誓いの言葉だ。上師に頼り侍候し、分かれることはない。「あなたのご自由に私をお遣わしください」という、ここの「あなた」とは上師を指す。つまり、これらを守れないなら密法など学ばないことだ。決して学んではならない。

なぜこのように言うのか?それは如法具徳の上師でなければ、この一生で一切の身口意の業を消し去ることはできないからだ。消し去る、と言っても私が消し去ってやるのではなく、私はそのプロセス、方法を知っており、絶えず教え、絶えずそなた達を変えるのだ。様々な方法を用いるだろう。罵り、打ち、喜ばせ、あらゆる方法を用いるだろう。なぜなら衆生一人一人の縁と業力は皆異なるからだ。本尊はそなた達が悪業を為すのを心配しているため、ここで先ずはっきり仰せになるのだ。これが守れないなら、それ以上学ぶ必要はない。この誓いを守れないなら、ほんとうに参加しなくとも良い。守れないなら悪いことが起きる、というのではない。悪いことが起きる、ということはないと、これまですでに言っている。上師、諸仏菩薩、護法はそなたを罰しない。ただ、そなたは踵を返し、自分自身の善悪業に従って行ってしまい、完全に修行人ではなくなってしまう。私の言葉に従うように常に言っている。それは、そなたが言いつけに従えば私がうれしいというのではない。この言葉が一種の誓いの言葉だということだ。

学仏は自分の自由なのに、なぜあれこれ構うのだ?という人もいる。そなたがただ普通の信衆なら、それでも良い。私はそなたを管理しないし、構わない。来たいなら来ればいいし、来なくとも構わない。だがそなたが金剛乗を学習したいと思い、この言葉を唱えたなら、それは大きな関係がある。つまりリンポチェはやはり慈悲深いのだ。もう一度諌める。守れないなら、法を学ぼうなどと思わないことだ。試してみよう、などと言わないことだ。試してなどみないほうが絶対にいい。なぜなら金剛乗は、自己の一切の業力を非常に迅速に変えてしまい、非常に迅速に衆生に利益できるようにしてしまうからだ。この種の状況下で、そなたの一切の身口意が誓いの言葉、戒律に背けば、それに相対して、そなたの業力の反動は非常に大きくなる。このようなリスクを冒してはならない。リンポチェはすごい、と言うが、それはリンポチェができているので、そなたはすごいと思うのだ。そなた達は一言であろうとできない。特に世界中がこの種の自私自利の雰囲気に満ちている現代にあって、この言葉に従おうという人は一人もいない。世人は「家庭を顧みず、上師に侍候するだって?こんなになって学仏するなんて、頭がおかしい!」と考えている。密乗成就を修めた人は、なぜどんどん少なくなっているのか?密法を学びたいと思いながら、できない人がなぜいるのか?これがその理由だ。

そなた達が今上師に侍奉しているのは罰を恐れ、叱責を恐れ、追い出されるのを恐れているだけだ。楽しいか?楽しくないだろう。私達は非常に喜ばしい心で上師に侍奉している。私は非常に楽しく上師に侍奉しているので、そなた達のように一日中間違ってばかりいたり、一日中ビクビクしていることはない。楽しく上師に侍候していれば、何事かが起きることはない。みな楽しくない。ただ功徳、福報を欲張っているだけだ。

密乗の特色は、上師と弟子の関係が非常に密接なことだ。この種の密接さは、傍の人が理解できるものではない。なぜか?それは、生生世世で弟子だからだ。一人の密乗の上師は、自分が何をできるかを非常にはっきり知っている。また、弟子が成仏するまで、生生世世にかつての弟子を世話することを、はっきり分かっている。このようなので、この一生で上師と密接な関係を築かなければならないのだ。密接と言っても、一日中そばに付いていろというのではなく、自分自身でよく考えろということだ。私と法王との関係は非常に密接だ。私達は毎日電話しているわけではないが、私に用がある、または法王に用があるなら、私達はすぐにそれが分かる。上師が何か指示なされば、私はすぐに行う。そなた達のようにあれこれ考えてばかりではなく、上師が指示なされたことであるなら、困難というこの二文字を、私は考えたことはない。できないとも考えたことはないし、金があるだのないだのとも考えたことはない。

以前法王は、直貢梯寺蔵経閣金頂を修復する因縁を私にくださり、私に行わせてくださった。その時、私には金がなかった。いくらか供養した弟子が少しい以外は、すべて私が供養したのだ。最後に私はやはりやり遂げた。古董を売り、品物を売り、最後にはやり遂げた。私は「資金が足りないので、誰かといっしょにやってもいいですか?」などと法王に言っていない。言っていない。そしてただ行った。そなた達が想像しているようではない。何か一つ行えば、すぐに注目してくれる、というのではない。絶えず行い、ひたすら行い、途切れることなく行う。ある日上師が喜ぶ。それは上師が教えたことをそなたがやり遂げたからだ。そうして、上師はそなたに気づく、そなたに注目する。そなた達は全く何も行わない。しかも、誰もが皆、私からより遠くに離れたいと願っている。会いに来ても、会ったことがない、と感じる弟子もいる。皈依して何年になるか尋ねると、7年、8年、10年という。だが私は、この人に会ったことがない、と感じる。法会に参加する度に毎回マスクをつけているので、顔が分からない、というのではない。だが、そうだとしても少しの印象ぐらいはあるはずだ。なぜ印象さえもないのか?私に会いに来たことがあるかどうかというのではない。修行しているかというのだ。全く修行していない。

離れていった弟子の中には常に一つの考えを持っている者もいた。「私は来たんだから、リンポチェは私を助けなければならない。私の状況を好転させなければならない。私が求めるものを与えてくれないなら、私は出て行く」というように。そなた達がさっさと出て行ってくれるように、私も望む。私は絕対にそなた達の欲望を満たさない。そなた達の欲望を満たすだけなら、私はリンポチェではない。

これらを唱えたら、守れるかどうかはどうでも良い。この後で伝法を受けなければいいのだ。出家人はよく考えるように。自分は出家衆なので、リンポチェは必ず伝法してくれるなどと思わないことだ。必ずとは限らない。これらを守れないのに、私が伝法すれば、そなたに害を及ぼすのではなく、そなたに非常に深刻に三昧耶戒を破らせてしまう。

しかも、本尊に加持をいただかなければ、このように上師に供養することはできない。私はこれまで一度も求めたことがない。ただ非常に自然に供養する。非常に自然だ。そのため法王は外で「この弟子は毎日修め、自然に修めている」といつも仰せだ。どのように自然なのだ?私は得失を測っていない。利害を測っていない。物事の正しいか誤りかを測っていない。一度もそうしたことがない。ただ上師が命じた、指示されたことなら、必ず行う。彼らのように一日中叱責されるのを恐れたり、あれこれ恐れたりしているのではない。

歷代上師の伝記において、ミラレパ尊者はどのようにしてマルバ上師を懲らしめたのか?ナロバ大師はいかにしてディロバ大師を懲らしめたのか?ナロバ大師はもちろん上上根器の修行者だが、金剛乗の上師は、この種の方法を用いてすべての善悪業をすっきりと取り除いてしまう。因果は必ず有る。法会に参加すれば、悪い果報はなくなるなどと思わないことだ。それは有りえない。だが、上師は一切の方法を用いてそなたの果報を早めに成熟させ、しかも果報の成熟が、そなたの学仏に害を及ぼさないようにする。それなのに、みな従わない。「来たんだから、健康を取り戻させてくれないと、そうでなければ修行なんてできない」と思っている。「健康を取り戻させてくれなければ、仏法がどんなに素晴らしいか夫に伝えて、いっしょに法会に参加することはできない」と思っている。これらはすべて嘘っぱちだ。私の子供は法会に参加しないが、私は必ず来いとは言わない。私はリンポチェだが、息子に来るよう迫ったりしない。私が「一回来れば金をあげよう」と言えば、息子は来るのか?必ず来る。もし「来ないなら、家から追い出す」と言えば、来るだろうか?必ず来る。

つまり結婚している者たちは「私の病気が良くなれば、配偶者に影響を与え、仏法の偉大さを信じさせ、私といっしょに法会に来るようになる」という誤った考えを捨てなければならない。この様な考えは誤りだ。そなたの病が良くなるかどうかは、そなた自身の福報が十分かどうかにかかっている。福報はどの様に備わるのか?上師への供養によってだ。祖師ジッテン・サムゴンも「最も速く福報を累積する方法は、上師への供養、身口意三門供養だ」と仰せになっている。そなた達がやり遂げるのは、はっきり言って非常に難しい。そなたができないなら、上師としては、私の一切を以て、そなた達を叱り、そなた達を追い出し、そなた達を打つ。これはすべて金剛乗の教法だ。

2006年、私は500人の弟子を率いて法王に賀寿にうかがった。法王は、わざわざ北京訛りの中国語で、ガチェン・リンポチェに仰せになった。このお二人は普通はチベット語で話しておられる。その時、私は法王の後に座り法王に侍候していた。法王はわざわざ中国語で「私のこの弟子は非常に厳格で、弟子を打つのだ」と言われた。ガチェン・リンポチェは「これは良くない!」とお答えになった。法王は「これこそ最も慈悲深い」とお答えになった。二人のご老人は一芝居打って私に見せてくださったのだ。一人は上師を演じ、もう一人は普通の一般衆生を演じた(貴重な映像リンク参照)。普通の一般衆生は、学仏とは、そなたを持ち上げ、そなたの機嫌をとり、そなたに侍候することだと思っている。これではそなたに害を及ぼす。『寶積経』でも「権勢を有する人に対して、そなたはその驕りを挫かなければならない」とはっきり説いている。つまり、そなたは仏法の特徴を良く理解しなければならないのだ。

子供が言うことを聞かない時、そなたは子供の機嫌をとるか?台湾はどうしてこんなにも死体損壊事件、愛憎のもつれによる殺人事件が多いのか?それは小さい時から大きくなるまで機嫌をとられて育つからだ。欲しがれば与える。そのため、何かを失うことに耐えられない人間に育つのだ。失うことは失敗だ。だから、相手を破壊してしまう。台湾の家庭教育の失敗は「子供が一番大切だ。子供の欲求はできるだけ満たそう」という考え方にある。ここにいるたくさんの人の家にもこのような息子がいるだろう。これでは反対に子供を破滅させてしまう。正しい家庭教育はこうだ。子供に教え諭しても子供が聞かない時には、叱るか、叩くか、罰するか?そうすべきだ!ではなぜ学仏でこの方法を用いてはいけないのか?そなたが私の弟子、私の子供なら、私はこの方法を用いないのか?必ず用いる。この方法を使わないで欲しいと思うなら、それでも良い!そなたにいつも笑顔でいいよ。なぜなら、私はそなたを私の弟子とは思っていないからだ。しっかり理解しなければならない。出鱈目ばかり言ってはならない。リンポチェに叱責されるのが嫌だ、という人もいる。世間の人はこんなにも見誤っている。どうしようもない。

この数語で、この機会に、そなた達に金剛乗の特色を理解させることができるだろう。もし、そなたが良くない上師に会ってしまったなら、それはかなり深刻な事だ。そのため、前半では「主尊の加持の下であることを願う」というのだ。もしある上師が、伝法の伝承を非常に明確に伝え、しかもその修行の過程についても伝えられるなら、その上師がそなたに伝えるあらゆる伝法はすべて清浄だ。これなら安全だ。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは法座を下りられ、鈴を鳴らし、持咒なさり、手には金剛薩埵仏像を持って、参会者に一人一人加持をくださった。金剛薩埵心咒の持誦の声の中、1500名の信衆と弟子はみな感激で涙に咽び、71歲のご高齢でありながら、衆生に利益するために、ご自身のご苦労を厭わず、慈悲深く加持くださることに感謝した。

加持が終わった後、リンチェンドルジェ・リンポチェは再び法座に昇り、参会者皆を率いて、アキ護法儀軌及び回向儀軌を修持なされた。修法円満となり、リンポチェはこう開示された。

今日授けた灌頂は、割に短い灌頂だ。今後、金剛薩埵のさらに上の一部の瑜伽部を修める時には、さらに別の灌頂法本がある。事業寶瓶の甘露水を、法会が終了し会場を出る時に、みなに配布する。十万遍大礼拝を完了した人は、明日電話して、金剛薩埵の伝授に申し込むが良い。十万遍大礼拝を終えていない者は申込みできない。能力があるなら、一晩で十万遍大礼拝を行えるだろうが、そなた達が一日で十万遍大礼拝を終えられるとは、私は信じない。またの日を選んで、みなに金剛薩埵の修法を伝授しよう。次の日曜日は上師供養法を修める。祖師ジッテン・サムゴンを紀念するのだ。本来は今日なのだが、今日は灌頂するので、来週に変更した。

灌頂を受けても皈依していない信衆は、先ほどの誓いの言葉の戒を守る必要はない。すでに皈依し、しかもすでに不共四加行を伝えられた人は、必ずこの誓いの言葉の戒を守らなければならない。もう伝授してもらったので、コピーしておいて、追い出されたら、自分で修めよう、などと思わないことだ。これは役には立たない。なぜなら寶吉祥道場にはある特色がある。そなた達がどんな法本と法照を受け取っても、代金は徴収しない。つまり、これはそなた達のものではない。コピーするのは「いつでも追い出されていいように、いつでも出て行けるように、いつでもこの法本を損壊してしまってもいいように」ということだ。だからこそコピーするのだ。このような人は加持を得られない。法を盗むのと同じだからだ。許しを得ずに、法本と言わず、経文であろうと、勝手にコピーしてはならない。

たくさんの経文を複写すれば功徳と福報があると、多くの人が考えている。現在と古代とは異なる。古代、一冊の経典を複写するのは非常に困難な事だった。そのため、古代では、すべての信衆にできるだけたくさんの経典を複写するよう勧めているのだ。現在ではすでに一種の商売になってしまった。私は分かる。ここにいるいくらかの人は、すでに誰かのために金儲けをしてやったはずだ。仏寺の住持が、経典を複写してよい、と言わないのに、みな持って行ってたくさん複写する。これは良くない。みなたくさん複写し、適当に放り投げてしまえば、反対に良くない。恭敬三寶、尊敬三寶は、やりたい放題と言う訳にはいかない。自分がしたい通りにやる、というものではないのだ。それぞれの家庭に決まりがあり、国には法律があるのに、なぜ学仏には規則がないのだ?

精進料理レストランへ行くと、しばしばたくさんの本を見かける。私が経営するレストランはすっきりしていて、このようなことはない。私も信衆であったことがあるので、よく分かる。本を手に取りパラパラめくり、そしてもとに戻す。家へ持って帰っても読まないし、家には本がたくさんあり、どうやって処理したらいいか分からない。焼いてしまうのも良くないし、返したいが、レストランは閉まってしまった。みな自分は善事を行っていると思っているが、そんなことはない。

法王の名前を借りて、何事かを行う人がいる。寶吉祥道場では、法王は直接私の事を言われない。法王が直接私に指示なさる以外に、私が法王の名前を借りて何かを行うということはない。寶吉祥道場では、他のいかなることであろうと、私が知らない内に、私の名前を使ったりすれば、それは因果から言えば非常に深刻だ。法律上も非常に深刻だ。みな絶対にこのようなことをしてはならない。学仏には必ず決まりがある。好きなようにできるという訳ではないのだ。会場にいるのは一人や二人ではない。千人余りだ。外部でも他にもたくさんの人が私を知っている。だから、勝手に私の名前を使い外で出鱈目を言ってはならない。遅かれ早かれ露呈するだろう。私の決まりは非常に厳しい。私と道場の名前を用いて、なんであろうと募金活動を行ってはならない。法律上絕対に許されない事だ。誰かが行ったなら、必ず法律顧問を用いて告訴する。現在リンチェンドルジェ・リンポチェのために仏寺の募金を行っている人は皆登録している。弟子は「その500人だけが募金活動をでき、しかも皆小冊子を持っています」と報告した。

私は2万5千人規模の「阿弥陀仏無遮大済度法会」を開催するが、何かを売ったりは一切しないし、私に皈依するようにと言ったりもしない。私が皈依証を外に置いておけば、必ずたくさんの人が取るだろう。だが、私はそれもしない。清廉潔白だ。そなた達が言うように、一つ一つ別のことなのだ。仏寺のことは続けて行っていく。法律的なことも同じだ。年末か来年初めには起工できることを願っている。

今日仏教界全体では、非常に多種の修行方向があり、非常に多くの方法で信衆と弟子を吸収している。寶吉祥道場には一つの方法しかない。それは仏菩薩がお救いくださる方法だ。現在寶吉祥道場では広告しない。他の世俗的な活動も行わない。仏法の弘揚だけだ。以後仏寺が建立されたら、内部では一切何も売らない。仏珠さえも売らない。レストランもない。そなた達は法会に参加したら、外に出て周辺の店に利益するがよい。そなた達、このようにたくさんの人が同時にあそこに留まり呼吸したなら、近くの植物だって堪らないだろう。

仏寺は本来清浄な場所だ。商業行為に関わってはならない。仏寺そのものに具徳の修行人がいるなら、龍天護法が必ず自然にこの仏寺を護持してくれ、存在し続けることができる。名前を利用してあれこれを行い、仏寺の收入を増やそうとするのは、私は如法でないと思う。経典はこのようには教えていないからだ。私はかつて舍衛城へ行ったことがある。晚年の釈迦牟尼仏がお暮らしになったところだ。すべてが関房で商店はない。それが一目ではっきりと見て取れる。

かつて釈迦牟尼仏は弟子に托缽するよう求められた。一日に三軒をたずねたが食べ物を供養してくれなかったなら、その日は空腹に耐える。たずね続けてはならない。なぜならその人の縁は、今日食べてはならない、というものだからだ。この福報がないのだ。私の仏寺も将来はこのようにする。法会があっても、弟子の供養はすべて随縁だ。仏寺で最も重要なことは修行の場所だということだ。現在何人かの出家弟子は私が提供した家に住んでいるが、長期的には望ましくない。

最後に重点を言おう。仏寺は、直貢チェ・ツァン法王が、建立するよう私にご指示になったのだ。本来私のように70歲代の人は、このようにたくさんの事をすべきでないが、法王は「そなたはすでに証果のリンポチェなので、伝承をはっきり残し、仏寺を建立する必要がある」と仰せになった。四大教派は今後はすでに、新しいリンポチェと転世のリンポチェを承認しない方針だ。法王も新しいリンポチェを承認なさらないので、私達の教派には出現しない。転世のリンポチェは、必ず前世で仏寺を有していなければならない、と現在も規定している。以前修行していた場所がどこだったのかを言えなければならない。以前のようではない。誰々がリンポチェだと誰かが言えば、それでそうだというのではない。現在もし誰かが、あの人はリンポチェだなどというなら、教派内に坐床があるかどうかをその人に問うてみよ。坐床とは床の上に座るのではない。その教派中の法王が、正式に公の法会において、その人に授記し、その人の名号を公に呼んだかどうかだ。そういうことがないなら、リンポチェではない。

今では訳も分からないほどにたくさんのリンポチェが出現している。中国では昨年すでに何人かのリンポチェの名号を取り消した。ある公人が青海チベットの人に接触した後、自分は公人なので、「自分が会った人は転世のリンポチェだ」などと言い出したのだ。笑い話をしよう。北京のあるエリアでは、道路の真ん中に立って「生仏」と呼ぶと、道路はたくさんの人でぎっしりになる。今でも中国では、リンポチェを生仏と呼ぶからだ。台湾では、宗教は非常に自由だ。そなたが皈依している上師の伝承は、どこから来ているのか、必ず理解しなければならないか?明確に説明しているか?明確に説明しなければならない。なぜなら現在では新しい伝承は出現するはずはないからだ。

出家であろうと在家であろうと、いかなる修行人であっても、伝承が後ろで支持していないなら、修行をやり遂げることなど不可能だ。弘法しようとしても不可能だ。寶吉祥道場では、私は転世ではない。この一生で修めたのだ。非常に多くのトルマ等の儀軌を私は学んでいない。法王はケンポスを派遣して補佐させている。伝承がないなら、誰かを教えても、その人は円満に物事を行うことはできない。みなトルマは簡単だと思っているだろうが、実はとても難しい。教派毎にトルマの様子はそれぞれ異なる。描かれるタンカも、詳しい人なら一目見ただけで、これは直貢のだ、これは薩迦派のだ、これは格魯派のだ、と分かる。すべてに伝承があるのだ。近頃はたくさんの人が適当にタンカを買っている。伝承から出てきたものではなく、ただの絵描きが描いただけのものもある。突然一人のリンポチェが現れたなら、そのリンポチェの伝承と修行の過程を必ず明らかにしなければならない。その弟子は、修行の過程について、どのように修行したのか、大まかに知っていなければならない。岩から斉天大聖がポンと飛び出してくるのではない。必ず過程があるのだ。二年間学仏しただけでリンポチェになり、三年間学仏すれば天上を飛び、三、四年で通天通地できるなど有り得ない。不可能だ。

神通がある人ほど、それを明らかにしない。これは釈迦牟尼仏のお教えだ。仏は神通を用いて衆生を救われる。衆生を引きつけるのではない。神通がないなら、衆生の過去の因が分からず、衆生を輪迴から解脱させることはできない。医者が病気の原因が分からなければ、薬を出せないのと同じだ。神通とは人を引き付けるのではなく、衆生を救うためのものなのだ。

私は昨年ラトビアで子供を救った。私に能力がなければ、どうして死んだ祖先があの子の身体に取り憑いていることが分かっただろうか?施身法を修めた後あの子どもはすぐに良くなった。法王もこの事をご存知で「たくさん行くように」と仰せだ。昨日も同じようなことがあった。癲癇がある少女が会いに来たのだ。他の人なら、普通に鬼が取り憑いているというだろう。だが、昨日のその少女は鬼が取り憑いているせいではなかった。父親の喫煙が原因だった。父親は20年タバコを吸っている。父親に「タバコを吸うか?」と尋ねると、父親は「吸います」と答えた。「どのぐらい?」と聞くと「20年」と答えた。私は「子供を殺したいのか?」と言った。なぜなら三次喫煙が子供の癲癇の原因だからだ。医者である弟子が「三次喫煙がもたらす危険は非常に高く、神経系統の変化が癲癇の発作を引き起こすのです」と答えた。

少しの定力と神通もないなら、死んだ祖先が取り憑いていると言っただろう。だが、この少女はこの類のではなかった。父親の喫煙が原因だった。三次喫煙は非常に恐ろしい。ニコチンが家庭内の家具に付着している。衣服もそうだ。子供は臭いを嗅げばすぐ反応する。非常に多くの要因がある。リンポチェであるなら、たくさんのの世間の事情について知っていなければ、衆生に利益することはできない。多くの人が同じ過ちを犯している。リンポチェが仏法を説くなら聞くが、別の事を言っても聞きたくない。リンポチェが世間事を理解していないなら、どうやって世間人を救うのだ?そなた達は出世法を修めた人ではないし、すべて出鱈目を言う。私がそなた達の出鱈目が理解できないなら、どうやってそなた達に対処するのだ?

今日はみな縁がありこの道場に来ている。みな良く考えるように。なぜ来たのか?目的は何か?私が学んだことは、もちろんそなた達に教えよう。だが、私が修めた一切の福徳因縁をそなた達に与えることはできない。そなた達に与えることはできないのだ。私は私の少しの福報により、そなたに学仏を続けさせることしかできない。例えば、先ほどの加持だが、仏像を手にそなた達の頭頂で何度も叩く。簡単そうだ、などと思わないことだ。試してみるがいい。叩いた後は帰宅して必ず床に就いてしまうだろう。非常にたくさんの人が上師を大切にしない。利用したら、トイレットペーパーのように捨ててしまう。誰もがこの有様だ。

名前のためでも、利益のためでもなく、誰かが私達を救ってくれている。何のために?これら恩恵を受け、自分はいかにして将来の人生に立ち向かっていくのか?よく考えることだ。当然だ、などと考えてはならない。当然ということはない。修行人なのだから、慈悲で救ってくれるのは当たり前だ、などということもない。慈悲と言ってもお人好しではないのだ。皈依の時に、どんなことをしたなら、救ってやらない、善事を許さない、とはっきり言ってある。これは仏が仰せになったのだ。仏法の一切は私達を救ってくれる。だが、絕対に因果に背くことはなく、一切の因縁法則に背くことはなく、必ず因縁に従い、衆生の因縁に従い助けるのだ。この衆生は悪の要素が非常に多いのに、それでも救う。そうしてはいけないのではない。懺悔心を起こしたなら良いのだ。懺悔心を起こしていないなら、救ってはならない。そなたがこの様に彼を救ったなら、彼は幸運だと思い、「求めれば、すぐに救ってくれる。これで関門は通った。次に何かあったらまた来よう」と思うだろう。懺悔とは、二度と再び行わない、ということで、悪念を持つことさえ許されないのだ。

昨日なぜあの弟子を叱責したのか?それは彼女が享楽を求めたからだ。「阿弥陀仏のおそばに早く行って楽を享受したい。この様な苦しみから離れたい」と思っていたからだ。その様な苦しみは誰がもたらしたのだ?自分がもたらしたのだ。自己が作った苦は当然返済しなければならない。阿弥陀仏に苦を放り投げて、それでいいのか?利己の塊だ。上師をやっつけてしまわなければ、うれしくない。もし私が昨日「よかろう!早く死ねる様にしてやろう」と応じていれば、また誰かが誤って伝えるだろう。運が良いことに、私は71歲の老人だが、反応が非常に素速く、すぐにこの弟子を追い出した。かつてある大徳は「密法を修める上師が成就を得れば、弟子が多くなり、業力が出現する」と言った。昨日は正に業力が出現した。そなた達なら「よかろう!しっかり経を唱えよ。観世音菩薩に、阿弥陀仏のおそばへ行きたいと、しっかり願をかけよ。こうすれば早くこの世を去れるだろう」と言うだろう。『阿弥陀経』ではこの様に言うか?この様に言うなら、私もその様に行う。だが、経典ではこの様には言わないし、阿弥陀仏を唱えれば早く死ねるとも言わない。絕対にこの様には言わない。『浄土五経』でもこの様には言わない。そなたの悪業が清算されなければ、この世を去ることはできないのだ。

病の原因はなんだ?病気でも地獄に落ちるよりはいい。私がどんな発願をしているか、何度も言っている。私に発願する様に上師はどの様に教えたのか?死が私にとって良いなら、私を死なせてくれる。つまり、私の定業が到れば、私を救わないで良いということだ。なぜなら、私は死んでも地獄に落ちることはなさそうだからだ。病が私にとって良いなら、私を病気にしてください、というのの意味は、病気になれば、地獄に落ちる必要がなくなるからだ。また病により修行できる。健康が私にとって良いなら、私に健康をください、というのの意味は「私が健康で、多くの衆生に利益できるなら、私を健康にしてください」ということだ。前提条件は、衆生に利益する能力が本当にあるかどうかだ。自分をさえ処理しきれないなら、仏菩薩に、健康になったら衆生を救う、などと無理に求めてはならない。

仏菩薩は七十歲代まで私を健康でいらせてくださった。それは、私がひたすら行っており、止まったことがないのをご覧になっておられるからだ。私は何らかの挫折感を感じたことはない。衆生がこんなにも不恭敬でも別に構わない。これは私の縁だ。ただひたすら行いつづけるだけだ。

今日そなた達にこの灌頂を授けたのは、そなた達に結縁させたのだ。密乗修行とは、そなたが求めれば与え、学びたいなら学べるというものではないのだとそなた達にはっきり見せた。灌頂を授けても、口伝しないなら、それまでだ。口伝しても加持しないなら、それもそれまでだ。加持しても、忘れてしまったなら、私にもどうすることもできない。後半のあの数語の言葉が非常にはっきりと言っている。仏と一切の上師の智慧は、そなた達が思うものではない。すべての事をはっきりと言っている。そなた達が聞き入れないだけだ。そなた達の耳はふさがっている。聞き入れようとしない。聞き入れないなら、どうすることもできない。

法会は円満となり、弟子及び参列者はみな尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲なる灌頂、伝法、修法及び開示を下さった事に感謝を申し上げ、起立して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りられるのを恭しくお送り致した。

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2018 年 07 月 15 日 更新