尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示– 2018年5月12日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは2018年5月12日、京都寶吉祥仏法センターで殊勝なる普巴金剛法会を主法なさった。今回の参会者は、城崎温泉寺の小川祐泉名誉住職、小川祐章住職父子、日本と台湾の信衆21人、及び日本、中国、台湾の弟子119人の計140人で、法会は殊勝に円満となった。

法会の開始前には、道場の真上の空に日暈が出現した。

午前中9點30分,尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座を登られ、御自ら普巴金剛法会を主法なさり、参会者に貴重な仏法の開示を下された。今日は普巴金剛を修持する。チベットの仏教と中国、日本の仏教では、どんなところが違うだろうか?いずれも仏法だ。ただチベット仏教は、顕教と密教を網羅している。顕教は仏が講じられた理論で、経典、仏号を唱えること、経を唱えること、経を講じること、礼仏、朝山等を含み、これらはすべて顕教に含まれる。チベット仏教で密法を学ぶには、必ず十年の顕教学習の基礎が必要だ。顕教理論を十年学び、密法を学んでも良いと上師に確認され、初めて密法が伝えられる。中国唐代には密法があり、その頃は唐密と呼ばれていた。唐密は日本に伝わった後、東密と呼ばれるようになった。密法はインドからチベットに伝わったのでチベット密教と呼ばれる。歷史上、チベットはどちらかといえば封鎖的なエリアで、交通も不便で、外来の影響をあまり受けなかったため、チベット密教は密法を完全かつ円満に保存することができたのだ。

チベット密教は事部、行部、瑜伽部、無上瑜伽部の四部に分かれて修行される。密法を学んで成就を得ようとする行者は、必ずこの四部を円満に成就させなければならないと言うことだ。密法は、行者がこの一生で成就が得られるよう助け、行者が密法を学べば広大な衆生に利益できる。この四部の他に、衆生を救う行動においても、息法、懐法、増法、誅法の四つの部分に分かれている。息法は一切の災難病痛を息災、平息する。通常息法は寂静尊で、観世音菩薩、薬師仏、長寿仏はみな息法に属する。懐法は懐柔の意味だ。仏法を破壊、道場を破壊するもの、いわゆる魔衆、敵等に対して、懐法を修めて対治する。懐法には非常に多くの本尊がおられる。秘密部に属するため、通常は公開伝授することはない。増法は行者の権勢を増すことができる。仮に行者に権勢があるなら、大きな力で仏法を弘揚できる。増法はある国、ある国王の権勢を高めることができ、ある地域の財と富を増やすこともできる。

最後の一つは誅法だ。誅とは「殺」という意味だ。息法、懐法、増法で魔衆を対治できなければ誅法を修める。誅法は相手、敵を殺すのではない。例え話をしよう。子供がいる人なら分かるだろう。子供が何か間違いを犯した時、最初は言葉で言い聞かせるだろう。けれども、子供が聞き入れない時には、父母は怒っている様子を子供に見せるだろう。これが忿怒相だ。なぜ誅法の本尊はみな忿怒相を現しているのか?それは、業障が重い衆生はみな忿怒の様子を示しているからだ。鬼道、魔道、阿修羅道の衆生はみな忿怒の様子を示している。諸仏菩薩はこれら衆生を救うため、彼らと同じ相を示しておいでになるのだ。我々は人類なので、仏は人の様子を現して我々を救いにお越しになり、畜生の相を現して畜生を済度なさる。経典中には記載がある。釈迦牟尼仏はある世で孔雀、猿、熊、鹿に投生なさり、これら衆生をお救いになった。水陸大法会中において、観世音菩薩は焦面大士の様子を現され鬼道を済度なさる。忿怒の金剛相とは正に、それら嗔念、執著心が重い衆生を済度なさるためなのだ。

リンポチェなら誰でも誅法を修持できるというわけではない。空性の慈悲心まで証しておらず、済度の能力もないなら、誅法を修持しても効果が得られないばかりか、修法人自身にも危険が及ぶ。そのため誅法修持の前には、事部、行部、瑜伽部、無上瑜伽部の、この四部を円満に学び、しかも息法、懐法、増法もすべて円満とし、禅定でも成就を得なければ、誅法が伝えられることはない。信衆のために誅法を修持することは非常に稀だ。自分には敵がいるので誅法を修持して欲しいと信衆が求めても、リンポチェが修持することは通常ない。一般的には、仏法が危害を受けた、教派が危害を受けた、さらには国が国難にある時でなければ誅法を修持することはない。

今日修める普巴金剛は誅法において非常に重要な本尊で、法本の種類も非常に多い。今日修めるのは普巴事業、つまり衆生を助ける方法だ。この方法を用いてすべての衆生を救うことができる。修法の前に修法人を紹介しよう。みな知っておろう。私は直貢噶舉のリンポチェだ。法号は「リンチェンドルジェ」という。リンポチェとは貴重な宝という意味だ。つまり、リンポチェは人中の宝なのだ。リンポチェは人々を助け、非常に多くの人の煩悩を解決でき、この一生で生死を解脱し輪迴苦海を離れられるようサポートできる。

チベット仏教には格魯(黄教)、寧瑪(紅教)、薩迦(花教)、噶舉の四つの教派がある。噶舉派はいくつかの系統に分かれている。私が学んだ系統は直貢噶舉だ。この伝承にはすでに八百年余りの歴史があり、祖師ジッテンサムゴンから始まり現在の第三十七代直貢チェ・ツァン法王まで、伝承が途絶えたことはない。私は直貢噶舉派八百年余りの歷史において、唯一の漢人であり、この生で果位を証したリンポチェだ。歷史上大部分のリンポチェはみな転世のリンポチェであられたが、もちろんこの生でリンポチェ果位を証した行者もいる。私の二人の上師はこの一生で証されたリンポチェだ。しかし、直貢噶舉の歷史において、これまで漢人のリンポチェはいなかった。私は初めての漢人にして、しかも転世でなくこの一生で果位を証したリンポチェなのだ。私の根本上師は第三十七任直貢チェ・ツァン法王であられる。

どんな御本尊を修めるのであろうと、修法前には必ず閉関し成就を得なければならない。成就を得るとは、どんな法本であろうと、明晰に講じることができるということだ。ある本尊の閉関を行う際には、ある徵兆、ある情形が出現する。これこそ、この御本尊を修められたということなのだ。これは密法の部分であり、公には講じられない。公の場で昇座し修法する人は、必ず成就していなければならない。

普巴金剛は新続中では金剛手菩薩の化身、報身であられる。金剛手菩薩は八大菩薩の一つで、大勢至菩薩の忿怒尊だ。四続は事業続中の摧破金剛である。四続とは事部、行部、瑜伽部、無上瑜伽部だ。寧瑪は歷史が最も長い教派だ。旧続において、普巴金剛は無上瑜伽部に属する。普巴金剛は金剛薩埵の忿怒尊で、金剛薩埵を円満に成就させるまでは、普巴金剛を学ぶことはできず、普巴金剛が伝えられることもない。つまり私はすでに金剛薩埵を成就まで修めているので、普巴金剛の伝承を得ることができたということだ。金剛薩埵成就とは、金剛薩埵が行われる事を、私も行えるということだ。普巴金剛は阿彌陀仏、大勢至菩薩、文殊菩薩、金剛手菩薩、大威徳金剛の「意」の代表でもある。普巴金剛を成就させたなら、この一生で必ず阿彌陀仏浄土へ行くことができる。

チベット密教を修める人ならみな知っている。チベット密教は蓮花生大士が始められた。蓮師がネパールの山洞で閉関なさっていた時、普巴金剛を修めて一切の障害を消してくださり、普巴金剛を護法とすることで、大円満成就を得ることができたのだ。寧瑪の成就法は大円満で、噶舉の成就法は大手印だ。普巴金剛は一切の仏法事業の本体で、一切の諸仏が行われる事の根本である重要な本質と体性を表している。

蓮花生大士はかつて「普巴金剛を修める行者が成就を得たなら、すべて吉祥となる」と仰せになった。つまりその人のこの一生は吉祥となり、あらゆる災難を免れられ、具徳(一切の功徳を備える)、長寿、富有、眷衆円満(非常に多くの弟子を持つ)、政教発達(かつてのチベットでは、宗教と政治は一体だったため、ここでは普巴金剛を円満に修めればこの種の徵兆があるという)、威力無窮(普巴金剛を修める行者が仏法と関連のある事業を行おうとするなら、それがなんであってもすべて円満に行うことができる)、円満到底(成仏するまで、その人の一切の仏法事業はすべて円満となる)となるということだ。

私はこの一生で普巴金剛の忿怒尊を修めてきた。すべてできている、とまではとても断言できないが、これら円満の徵兆はすでに出現している。普巴金剛には非常に多くの法本がある。今回修める法門は『普巴金剛秘密無上了義如意寶灌頂』だ。簡単に説明しよう。今日修めるこの法本『普巴金剛無上瑜伽部如意寶灌頂』は伏藏大師が伝えられたものだ。蓮花生大士はチベットを離れられる際、非常に多くの法本を石、山洞、水中、さらには空中、海底に隠された。また非常に多くの本尊も、さまざまな方法により秘密の法を隠している。秘密の法は公開伝授が許されないため、縁もなく福報もない人は、法本さえも見せてもらうことができない。チベットには、秘密の法本を専ら探している修行者がいる。現在四大教派のどれも伏藏大師はいない。以前はいたが、私が知る限り現在はいない。これは衆生の福報が減っているということだ。もし秘密の法本が出現したなら、衆生の福報にとって好ましいことだ。

今日修める法本は、その頃の惹那林巴という伏藏大師が探し当てられた岩伝大法だ。伏藏大師が伝えられた法が正しいと、いかにして証明するのか?法本内で講じる一切が、仏陀の教導から外れていないかどうかによってだ。仏陀は輪迴苦海を離れる方法をお教えくださり、一切の善を行い、一切の悪を断つことをお教えくださった。この様な法本ならば正しいのだ。岩伝大法は、本尊が直接お伝えくださった法と定義されている。つまり普巴金剛ご自身がお伝えくださったもので、間に誰かを介在したことはないということだ。この法本は直貢噶舉派第二十九任直貢卻吉嘉称法王が整理くださった法門だ。以上この法本の由来について紹介した。伝承、由来を紹介しない密法があるなら、その密法には問題がある。

普巴金剛は、金剛乗を学ぼうとする業者、密乗を学ぼうとする行者のすべての障害を取り除いてくださるよう発願くださった本尊だ。金剛乗まで修め、金剛乗まで学べれば、すでに登地菩薩であり、成仏のスピードは速くなり、顕教を修めるよりかなり速くなる。出現する累世修行の障害にはいろいろある。突然とてつもない金持ちになる、突然有名になる、弟子や信衆が突然増える、という障害もあり、これによって修行を忘れさせてしまうのだ。病気にかからせ、不如意が次々に起きるという障害もある。

真に発願し金剛乗を修めようとするなら、普巴金剛がその人の一切の障害を取り除いてくださり、しかもそれは本尊の本願だ。我々がいずれかの本尊を修める際に、例えば阿彌陀仏、観世音菩薩の密法を修める際に、普巴金剛を護法として修めれば、いかなる挫折だろうとも、それに直面することはない。いずれかの本尊を修めようとする時、因縁福報が十分でないなら、修持の過程で非常に多くの挫折にぶつかる。例えば閉関で不十分ながら出関するなど、たくさんの事態が発生するだろう。仮に先に普巴金剛を修め成就を得て、普巴金剛を閉関の護法として祈請したなら、いかなる挫折であろうと生じることはない。一切の魔王、鬼魅を降伏でき、特殊な法力を得ることができる。魔王鬼魅の中には修行者を邪魔立てするものもいるが、普巴金剛を修めれば特殊な法力が得られ、これら干渉を降伏することができる。

普巴金剛法会に参加することで以下のような利益を得ることができる︰

一、精神、情緒及び脳分野の疾病を取り除くことができる:

精神の病、情緒の不安定はいかにして起きるのか?『地蔵経』では、放火で森林を焼き、草地を焼いたことがあるなら、将来、瘋狂癲癇の果報があるという。耕作のために草地を焼き払う人がいる。鉱物を採掘するため、森林を焼き払う人がいる。情緒不安定、精神不安定な人は、生生世世の殺業が非常に重いのだ。魚を捕らえたことがあり、山林で動物を捕らえたことがあり、屠殺場で働いたことがある人は、精神と情緒の病、脳分野の疾病に罹りやすい。

脳卒中を起こし、脳に腫瘤ができる人がとても多いが、これらはみな殺生由来だ。仏法はなぜ我々に菜食を勧めるのか?菜食しなければ、殺生の機会を減らせないからだ。チベット密教では肉食できるのではないか?と思っている人がいるが、それは間違いだ!直貢噶舉派の祖師ジッテンサムゴンは八百年余り前に菜食されていたし、密法で肉食しても良いとは言わない。

二、この種の法会に参加することで、鬼怪龍神が引き起こす無名の病とガンを取り除くことができる:

鬼の福報は少なく、神の福報は好ましいので、他人の膜拝を受けることができる。ガン患者がこの種の法会に長期間参加すれば、ガンは小さくなり、さらには良くなってしまうだろう。私は四十歲代で皮膚ガンになったが、医者に掛からず、手術も受けず、私の病を取り除き寿命をのばすよう、いずれかの本尊に祈ったりもしなかった。私はただ普巴金剛を修めていたら、皮膚ガンは完治してしまったのだ。

三、年沖、月沖、日沖、時沖及び想定外の事故を回避できる:

誰でも生生世世に宇宙の違った星で生活した経験がある。あらゆる宇宙で、あらゆる場所で、誰もが善を行ったことも、悪を行ったこともある、ということだ。每年、每月、每時間、ある星が地球の人類に対して影響と作用を及ぼしている。「沖」とは、過去に行った善悪業の果報が、ちょうどある年、ある日に成熟し、この力が身に降りかかることだ。想定外の事故とは、寿命が尽きるべきではないのに、想定外に死が訪れることだ。例えば交通事故、薬の飲み間違え、昆虫に刺され、蛇に咬まれてなどがこれに当たる。

四、星宿の変化が引き起こす水害、火災、地震等の天災を回避できる:

宇宙におけるある星の変化は、仏法では「成住壊空」四種変化という。ある星が生まれ、衆生が暮らすようになれば毀壊が始まり、最後にはなくなってしまう。現在地球は第三の「壊」の段階にある。宇宙の一つ一つの星宿の変化は、地球の水害、火災、及び地震等の天災を引き起こす。我々が普巴金剛を修めれば、これら天災が発生したとしても、我々の生命に危険が及ぶことはない。

五、 他人に毒を盛られたり、呪われたりする危険を防止できる:

仮に我々が普巴金剛を護法及び本尊とするなら、誰かが我々に危害を加えようと思っても、例えば中毒を起させ、持咒で危害を加えようと思っても、それらを防止できる。

第六、そなたの修行を阻害する累世一切の善業と悪業の障害を取り除くことができる:

法会の参会者は、この六種の功徳と利益を得ることができる。今日は普巴金剛の事業部を修めるので、累世の敵と冤親債主を取り除くことができるのだ。しかし、心持ちとしては、彼らを恐れるのではなく、彼らを憎むのでもなく、自分の冤親債主が追い払われ、取り去られた、と大喜びで知るのでもない。慈悲の心で彼らに向き合わなければならないのだ。今日ある冤親債主とすべての敵はみな、自分自身が作り出したものだ。衆生を一切傷つけたことがないなら、この一生で敵ができたり、冤親債主がいたりするはずがない。我々は懺悔心、慈悲心で彼らに向き合わなければならず、大喜びで彼らを追い払い取り去り自分は幸せに暮らす、というのではない。

今日は普巴金剛を修めるので、非常に良好な善縁を植え付けることができる。将来学仏修行を行おうと決めた時には、修行の障害が減り、または取り除かれる機会があるだろう。『地蔵経』ではいう。ある功徳の善知識と行者は、衆生のために、一切の修行の障害をブロックすることができる。今日修める法門には、このような用途があり、そなたの修行の障害を取り除き、たくさんの世間の不如意を減らすことができるのだ。みな理解したところで、修法を始めよう。

チベット密教では修法の前に、弟子と信衆は本尊、仏菩薩、上師に対して供養する。上師は本尊に代わって一切の信衆、弟子の供養を受け取り、これによって衆生は密法の加持と救いを受け取る福報因縁を得る。

この時、城崎温泉寺の小川祐泉名誉住職と小川祐章住職父子、出家弟子、法会に先立ち抽選で選ばれた人、来賓は、衆生を代表して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにマンダを捧げる供養を行った。

経典には記載されている。須彌山の周囲は四つの星が取り囲んでいる。この四つの星を四部洲と呼ぶ。四つの星にはすべて人類がおり、我々は南瞻部洲、つまり地球にいる。マンダを捧げるマンダ盤は四部洲で最良の一切を以って、三寶と上師を供養し、後ろの仏像、経典、舍利塔は、身口意の供養を表す。修法の前には先ず菩提心と皈依を発しなければならない。

皈依の発心と一般の発心とは異なり、行者のための発心だ。後で「私を衆生の上師とするよう願う」という言葉が出てくる。

修法前には先ず、外にいて、法会に参加できない衆生を供養する。密法修持では必ず鈴と金剛杵が必要だ。鈴杵は五股と九股に分かれる。通常息法、懐法、増法を修める時には五股を用い、金剛部を修める際には、通常少し大きく少し重い九股を用いる。鈴、杵が含む意義は非常に深く、密法と関連がある。今日は時間が足りないので開示しない。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは普巴金剛法門の修持を始められ、開示を下された。先ほど結界したので、本尊を通して壇城をしっかり保護し、これによりどんな邪魔であろうとこの法会を邪魔しにくることはできない。続いて密言を開く。修法者の密咒を開き、頂礼、懺悔、加持を行う。

暫く修法した後、リンポチェはこう開示された。今修めたのは全て供養だ。秘密の供養であり、一般的な食物の供養や思い描く供養ではない。行者は自身の最も良いものを本尊に供養し、本尊の歓喜を呼んで壇城にお迎えし供養をお受けいただき、行者と無二無別となって、仏法を修持し、衆生に利益する。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは普巴金剛法門の修持を始め、入定修法なさり、本尊と完全に相応する忿怒金剛相を現された。その間にも時折低く吼え、本尊咒語の持誦時には口は動いていないのに、低く沈んで海潮のように綿密な金剛頌をはっきりと唱えられた。持咒の最中、リンチェンドルジェ・リンポチェの表情は、極めて殊勝なる普巴金剛の法相に急速に変化し、目を剥き眉毛は逆立ち口を左右に引き、頭はかすかにゆらゆらと揺れながら両腕をわずかに回していたが、徐々に柔和な表情に戻った。修法持咒の過程において、リンポチェが化身した普巴金剛忿怒相は慈悲深く衆生を凝視し、全くまばたきすることがなく、大手印禅定と観想の境界に入られ、本尊と完全に相応して一体となった。それは荘厳、殊勝であり、不可思議であった。

リンポチェの修法時には、大地もそれに従い震動し、道場内には鼻に染み入る香りが突然立ち込めた。極めて殊勝なことに、参加者は誰もが心に歓喜を抱いた。

リンポチェは咒語持誦の際に、本尊の保護を願う家族や友人の名前を、自分の名前と共に大声で口に出すよう参会者に指示なさった。リンポチェは開示くださった。咒語は本尊から伝わったものだ。地域が違えば発音も違い、方言もあるので、咒語を唱える時の音声はそれぞれいくらか異なる。そのため我々が閉関する際、特に修法の際には、子母音を唱える。つまり咒語そのものの子音と母音がなんであるかだ。「縁起咒」という。つまり今日因縁が起きたからこそこの法会に参加でき、そのため我々はこの咒を持するということだ。この後は持咒時に集中しないことで音が不正確になる恐れがある。そのためこの後は金剛薩埵の百字明咒を唱え、懺悔する。

法本は非常に多くの種類に分かれている。閉関用のものもあり、今日衆生を救ったのは、また別の法本だ。普巴金剛の法本はほんとうにたくさんの種類があるのだ。今日修めるのは『普巴事業道用の簡軌』で、さらに『普巴金剛勾召法』もある。本尊をお招きし、行う一切の仏法事業の手助けをお願いするのだ。『普巴金剛護法修持法』もある。瑜伽者(修行人)が一切の魔軍を消滅させる『普巴迴遮法』もある。「迴遮」とは、悪い事を撥ねつけ、遮ってしまうことだ。また一種の伝承である『心続普巴』もある。伝承の祈請文で、一切の苦を取り除く法門だ。今日はそなた達のために祈請文を唱えよう。普通私は滅多に唱えないものだ。

祈請文について簡単に説明しよう。できるだけ速く成就し、一切の魔軍を破壊し、蓮花生大士、空行母の加持を得られるよう、普巴金剛に加持を祈請する。一切の魔軍を破壊すれば、正観伝承を受持できる。この法を修め、普巴金剛を祈請すれば、保持清浄、観想伝承、持明者(この法を持つ者)を受け取ることができる。蓮師加持を祈請し、一切の魔軍を破壊できるよう祈請する。「一切護法大海衆、一切普巴壇城本尊衆」と祈り、一切の魔軍を破壊できるよう祈請する。

魔軍には心魔と外魔がある。そなた達には外魔はない。成仏するまでは、外魔が邪魔しに来ることはない。法身菩薩まで証すれば、魔軍は邪魔しにやって来る。そなた達にあるのは基本的には全て心魔、つまり貪嗔痴慢疑、不信因果、破戒等で、これらはすべて心魔だ。心魔は、仏法修行の進歩を永遠に止めてしまい、加護を求めるだけで修行しようとしなくなる。修行しないなら、この加護に力はない。福報があるため、次の世でいくらかそれが受けられるだけだ。皈依せずしっかり修行せず、法会に参加するだけの人は一般信衆だ。法会に来ない人に比べれば、もちろん遥かに好ましいので、いくらかの福報を得ることはできるが、これら福報はこの一世では用いることができず、次の世でしか使えない。

この後に講じるのは密法だ。そなた達はまだ密法を学んでいないため、公の場で講じることはしない。最終的な結論は、一切の疑惑から離れられ、一切の仏法事業が成就し、吉祥となり、生生世世に上師に従い、一切の妙楽、つまり一切の成就法の楽を受け取ることから離れず、これにより金剛総持果をできるだけ速く成就することができるということだ。

私は滅多に祈請文を唱えないが、今日唱えたのは願っているからだ。この一生で学ばなくとも良い、学ばないと決め、皈依する気がなく、守戒も菜食も受け入れるつもりはなくとも構わない。次の世に因縁がある。けれども次の世では、私を見つけられないだろう。なぜなら私は再来しないからだ。今日祈請文を唱えたのは、そなた達に、将来世で普巴金剛の加持を得ることができる縁をもたせたかったからだ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率いて、アキ護法の儀軌を修めた。続いて、アキ護法を紹介した。チベット仏教では、どの教派もすべて不共の護法を持っている。どの教派も、発願してその教派を護持する護法を持っているのだ。護法は仏法と修行者を護持する。直貢噶舉の不共護法はアキ仏母だ。祖師ジッテンサムゴンの祖母であり、結婚して子を産み、一生で仏果を証し成就を得た。アキ仏母の願力は、直貢噶舉の弟子なら誰であろうと、発願修行すれば成就が得られるよう、必ず護持するというものだ。法会では毎回必ずアキ護法を修める。直貢噶舉の弟子でないものもこの中にはいるが、少なくともこの法会に参加しているのだ。私がアキ護法を修めれば、そなた達は護法と結縁する。

護法は我々の修行にとって実は非常に重要だ。2007年ネパールの標高4500m以上のラプチ雪山で、私は三ヶ月余り閉関し喜金剛を修めたが、その際にもアキ護法は常に私をお守り下さった。護法が現れ私をお守り下さるのを、非常にはっきりと見ることができた。私の何を守るのか?我々が絶えず精進、進歩している時、生生世世の業が出現し、さらには魔軍も邪魔をしにやって来る。そのため起きるべきでない事が起きないようにするため、我々は護法の保護が必要なのだ。

我々の閉関と一般の閉関とは違う。無上瑜伽部まで修める閉関では、外界との一切の連絡が許されず、話すことも関房を離れることもできず、部屋は施錠される。閉関期日が満了するまでは関房を離れることはできず、死ぬとなっても、関房内で死ぬしかない。閉関の期間中は口をきくことは許されず、独り言もダメだ。修法持咒しかできない。散髪も髭剃りも入浴もできず、手足の爪を切ることもできない。一切の外縁を断たなければならないため、雑誌、携帯電話、iPadなどを閉関の地に持ち込むこともできない。このような閉関でなければ、真の閉関ではない。我々はこれを「閉死関」と呼ぶ。「死んでも閉関をやり遂げる」という考えを、そなた達は受け入れることができないだろう。2007年無上瑜伽部の閉関を行った時には、さまざま事態を経験したが、今日は時間が足りないので、次回また話すこととしよう。

続いて、薈供と済度の儀軌を行った。リンポチェはこう開示された:今日は誅法を修める。行者には、累世でそなたと憎しみを生んだ冤親債主を済度させる能力が必要だ。

修法の過程において、リンポチェは普巴杵を用いてトルマを一切れ切り取って開示下さった︰

切り取ったこのトルマは、普巴杵により、我々の貪嗔痴三毒が顕現した一切の敵魔の身体を破壊したことを意味する。敵がいるのは、貪念、嗔恨の心、不信因果の心があり、それが顕現しているからだ。衆生を傷つけたので、敵や魔鬼がいるのだ。仏法僧つまり上師、仏と法力を用い、三毒をすべてこの中に呼び寄せ、上師は普巴杵を用いて、そなた達の貪嗔痴慢疑と一切の五毒を切り取ってしまい、煩悩迷惑を本尊衆に供養申し上げる。

簡単に説明しよう。今日そなた達の貪嗔痴慢疑を済度させ、そなた達の冤親債主の貪嗔痴慢疑を済度させる。誰でも懺悔心と慈悲心が必要だ。この生で過ちを犯したことのないものなど一人もいない。自分はこの生で過ちを犯したことがないと考えるなら、それは仏法を信じていないということだ。肉を食べれば衆生を傷つける。誰かについてあれこれ言えば衆生を傷つける。自己の利益追求のために、因果を考慮しないで行えば、それは誤りだ。自分の貪嗔痴慢疑が作り出した怨敵について先ずは観想してみよ。本尊と上師の力で、彼らを内部へと呼び寄せよう。

修法の過程では薈供と供茶の儀軌を行う。参会者はみな、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが加持済みの供品を一つずつ受け取り、法会において上師、仏菩薩と共食する得難い殊勝な因縁を賜ることができる。

リンポチェは開示下さった。法会において薈供を食する。これは我々には、修行者、仏菩薩と共に供品を用いる因縁があるということを示している。経典には記載がある。一般の人が誰でも、修行人、仏菩薩と共に供品を用いることができるのではない。この因縁をそなた達に植え付けたのだ。供品を食すれば、お返ししなければならない。外にいて中に入れず法会に参加できない、あれら衆生に供養しなければならないのだ。

先ほど唱えた第一段は祈請金剛薩埵だ。勤勉で、さらには急がなければならないと我々行者を急かす。これにより我々の誓願がすべて円満となり、普巴金剛とすべての眷属に祈求し、行息懐増誅の四事業で我々を助けてくださる。第二段は誓言の多瑪だ。つまり護法誓言のあるトルマを、外にいて入って来られない衆生に供養するのだ。続いては地母を修める。

リンポチェは五色旗を手に取り修法を終えた後に開示下さった:この段では、上師は先ず自分のために摂寿する。修法後、上師は福報を用いることができるようになるということだ。上師の福報が急速に消耗してしまわないよう摂寿が必要なのだ。この寿は本尊から賜るもので、これにより消耗分を補い、改めて衆生に利益する。次はそなた達のために⋯⋯(リンポチェはここまで言って突然黙り、嘆息して言った:「やったところで何の役にも立たない。そなた達はここを出たらまた肉を食べるだろう。やめた!日本人信衆は肉食すると短命になるとは信じていない。だから私は行わないのだ!」リンポチェは衆生のことを心に念じ続けておられ、あらゆる機会をとらえて言い聞かせることを諦めず、日本人信衆が菜食、戒殺生を受け入れ、これにより慈悲の種を育てられるよう願っておられる)

リンポチェは法を修め続けて、開示された。先ほど加持した果汁は寿酒の代わりで、赤いツァンパで作ったものは寿丸の代わりだ。これによりそなた達の寿命を延ばすことができる。法会の終了後、出家衆は外で、これらを参加者に配るように。

続いて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座を降りられ、普巴杵ですべての参会者に一人一人加持を下さった。その過程でリンチェンドルジェ・リンポチェは絶えず鈴を鳴らし心咒を持して、慈悲深い眼差しは深広無辺であられた。参会者はみな等しく感動し、淚で満面を濡らした。

加持した後、リンポチェは再び法座に昇り、修法して開示された︰今日の修法は円満となった。普巴金剛を修めたのは、現在が末法時代であり、釈迦牟尼仏の法運が最後の段階に至っているからだ。この時代の仏法弘揚は非常に難儀だ。仏法を信じる信衆もとても少ない。そのため普巴金剛を修め、仏法事業が世間で引き続き繁栄し、広大な衆生に利益できることを願い、また修法を通して発心、発願し仏法を学習し、仏法に皈依する人の障害を消し去ることを願うのだ。学仏しようとする人は必ず皈依しなければならない。法会に参加し続ければ弟子だ、などと思ってはならない。皈依しなければ、ただの信衆だ。信衆と弟子は違う。信衆は法会に参加できるが仏法を教えてはもらえない。弟子になったことによる良い点は、一日中叱られることだ。信衆は叱られることはない。いくらか遠慮してもらえる。そのため叱られるのが嫌で皈依したくない、という人もいる。

はっきり認識するように。学仏は、身分、バックグラウンドがどうだから仏法が理解できるというものではないのだ。仏がお教えになった方法は出離世間の方法だ。この方法は、人類の生活経験法則とちょっと異なる。最近私は『寶積経』を開示した。釈迦牟尼仏はこの中で、在家菩薩修行の心持ち、動作及び願力はいかにあるべきかについて、非常にはっきりと開示されている。在家の暮らしと修行とは衝突しない。衝突することは少しもない。最も重要なのは個人の心の持ち方だ。私はこの一生で仏法を学び、仏法を修行した。仏法が私の数十年の後半生を変えたと言っても良い。この変化は私が良い暮らしをしたからではない。先ほど普巴金剛を修める前に、すでにみなに説明した。普巴金剛を修めて成就を得た行者は、自然に人と物に豊かに恵まれ、各種の利益が出現する。これは修行福報が現れたものだ。但しこれは重要ではない。重要なのは、修行人はいつでもどんな時でも、その一生の命を尽くして衆生を救いたいと願うことなのだ。

『地蔵経』でも、全宇宙で解決が最も難しいのは地球の人類だという。『地蔵経』では、地球人は剛強自用(誰もが非常に強情で、自分は優れていると思っている)、難調難伏(その心を変えさせるのは非常に難しく、その心を降伏させるのは非常に難しい)という。そのためチベット密教には誅法がある。そなた達の心を降伏させるためなのだ。そなたの心は貪嗔痴でいっぱいだ。それにより仏法に対して不恭敬で、仏法を信じず重視しない。金を供養すればそれで仏法が得られると思っている。来さえすれば、私がいつでも講じてあげると思っている。自分が望むなら、私は与えると思っている。まったくそうではない。仏法は戻ってくることを求めるものなのだ。私はみなと同じだ。この一生で在家である。それなのになぜこの一生でリンポチェの果位まで証できたのか?経典に基づき、法王の教法に基づき、一秒たりともこのように過ごさないことはないからだ。

今日はみなのために普巴金剛を修めた。この種の法を修められる人は、基本的には非常に稀だ。それは上師の福報を損耗するからだ。しかし衆生に利益するため、みなに布施していると考えればいいのだ。みな今日はこの法を得たので、この因縁と福報を大切にしなければならない。もう一度言おう。肉食してはならない!肉をちょっと食べるぐらい、そんなに重大なことなのか?などと思ってはならない。絶対に身体に悪影響が及ぶ。私は71歲だが、そなた達よりずっと健康だ。そなた達は肉食しないと栄養が足りないのではないかと心配している。ガンになれば、誰でもひどく怖がり、医者にかかり、手術をしたがる。ガンを治せる医者などいない。なぜならガン細胞はそなた自身の細胞だからだ。自分の細胞を切って捨てたところで、どれほど良くなるものだろうか?衆生は愚昧だ。切ったり取ったりすれば、それで病気が治ると思っている。病人はとてつもない苦しみを受けた末に、この世を去ることになるのだ。私の弟子でも、ガンにかかったものがたくさんいる。彼らは因果を信じ、侵襲性治療は助けにならないと知り、手術を受けなかったが、反対に苦痛は劇的に少なくなったのだ。

私もガンに罹患した経験があるので、ガンは手術では治らず、いくらか善業を行えば治るというのでもなく、真に自分を変えなければならないと言う資格がある。菜食では栄養が十分でないと心配する人が非常に多い。私は35歲から71歲の現在まで菜食しているが、そなた達より栄養は十分だ。肉食するこれらの人は、痩せこけて肉付きが悪いのでなければ、高血圧だったり心臓病だったり⋯⋯身体中あちこちに病を抱えている人が非常に多い。菜食しようとしない人は私に会いに来ても意味はない。殺生を断たなければ、身体の状態を変えることはできない。私がいい例だ。私は35歲までは肉も魚も食べていたので、菜食に切り替えた後もやはりガンになった。しかし、私は仏法を信じ因果を信じたので、ガンは私を傷つけなかった。四十歲代から現在の71歲まで、私は医者に掛かったことも治療を受けたこともない。また仏菩薩に私のガンを治してくださいと祈ったこともない。自然に良くなったのだ。

今日はみなのために修法した。みなが聞き入れてくれることを願う。聞き入れないなら、私に会いに来ても無意味だ。法会に参加し続ければ加護があり、仏菩薩が救ってくださるなどと思わないことだ。仏菩薩は必ず我々をお救いくださるが、我々は言いつけに従わなければならない。誰でも皆こうじゃないか、なぜ自分もそうでいけないのか?などと言ってはならない。そなたは今日因縁福報があったからこそ密法に触れることができた。台湾と言わず、日本もこれほど大きいのだ。一億人余りの人口を抱えている。その中で、なぜそなた達はここにいるのか?私は宣伝しない。黙って為すべきを為しているだけなのに、そなた達はここに来ている。それは過去世で、そなた達は私と縁があり、密法と縁があったということだ。一切はみな因縁なのだ。今後も来るかどうかは重要ではない。重要なのは、私が今日開示した仏法を聞き入れることだ。何も言っていないなどと思ってはならない。私はすでにとてもたくさん講じた。

仏門に皈依すれば、先ずは諸悪莫作、衆善奉行だ。少しの小悪も決して為してはならず、一切の善をすべて行わなければならない。そうすれば、そなたの人生全体が自然に変化し、求めなくても願いが叶うようになる。私はガンに罹った際、病を治してくださいと仏菩薩讓に願わなかった。ただ仏法に基づきひたすら行っていたら、自然に良くなってしまったのだ。そなた達はこんなにたくさん願っても叶わない。それは言いつけに従わず、自分の考え方、人生経験、自分の学問を用いて仏法を見ているからだ。仏が講じられたのは学問ではなく、常識、知識でもなく、そなたの心を変えることなのだ。そなたの心を転換しなければ、凡夫から成仏する機会を得ることはできない。

今日は少し多く語った。みなに将来因縁があろうとなかろうと、弘法者、修行者として、これら重点は必ず講じなければならない。こんな話をしても商売にはならない。なぜならみなこんな話は聞きたがらないからだ。みなが聞きたがるのは「法会に参加すれば運が良くなり、財と富が増え、福がもたらされる」というものだ。こんな話は正しいのか?正しい。しかしこの一生では使えない。次の世でなければ用いることはできない。なぜならそなたはこの生で正しい行いをしていないので、次の世に繰り延べされるからだ。次の世とはいったいどの一世なのか?分からない。どの道なのか?これも分からない。畜生道、地獄道、餓鬼道で用いることになるのかもしれない。今日はみなを助けた。この縁を大切にしてほしい。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率いて回向儀軌を修持なされた後、修法は円満となった。続いて参会者に退出するよう指示し、参会者は出口で出家弟子が配る寿酒と寿丸を受け取った。誰もが上師の殊勝なる加持と賜予に感謝し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの分かり易い仏法開示に感動してそれを讃えた。

後記:

大衆が離席した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは苦労を厭わず修法を続け天馬旗を加持なさった。その咒音は虚空にどこまでも漂った。続いてリンポチェはしばらく入定なさった後、法座を降りられ、微笑を浮かべて城崎温泉寺小川祐泉名誉住職、小川祐章住職父子に歩み寄られ、恭敬して待っていた住職父子と簡単に面会し、小川祐泉氏の念珠にすすんで加持をくださった。リンポチェは手に念珠を捧げ持咒加持した後、金剛杵でその頭頂と心臓の辺りを加持なさった。住職父子は感激、また歓喜し、リンポチェの広大な慈悲心に深く感動し、日本国に福を祈るため、リンポチェに日本で頻繁に弘法くださるよう衷心から懇求した。簡単な面会であったが、心温まる感動的な様子であり、チベット仏教と日本仏教の交流における佳話である。殊勝なる法会の終了時には、道場上空の日暈は七彩に変わり、祥雲がたなびいた。その様子を衆等は歓喜して眺め、リンポチェが慈悲深くも度衆くださり、修法が円満となり、無辺の有情衆生に利益なさったことに感謝申し上げた!

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2018 年 06 月 24 日 更新