尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示– 2018年1月13日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、2018年1月13日、日本京都寶吉祥仏法センターにて、殊勝なる長寿仏法会と長寿仏火供を主法された。京都で知名な80余歳の茶道の先生、及び満文大蔵経を研究しておられる大学教授が、この盛大な法会に参列された。この会に参列した者は、日本と台湾からの信者19人、及び日本、中国、台湾の弟子155人、合計174人で、法会は殊勝円満であった。

早朝10時、リンポチェは法座に上がり、仏法の開示を下された。今日は長寿仏を修める、顕教では長寿仏の事は記載されていない。仏法は大きく2つに分かれている、一つは顕教、顕では仏経中で釈迦牟尼仏が仰った仏法の理論や根拠等が明確、はっきりと分かる。その次に密法。顕教は理–道理、密法は使用である。顕教理論の基礎を通して、修行者が、生死を解脱する事が出来るか出来ないか。もう一つの意味は、顕教の基礎を通して、我々が一切衆生に利益し、苦痛の輪廻から助け出すことができるかどうか。

釈迦牟尼仏時代、仏陀は密法を教えていただろうか?多くの仏法、及び仏経を研究した人は経典には密法の事は説かれていなかったと言う。ただ、仏陀が経典の中でいつも説かれていたのが:如来密義は一般凡夫には理解し難い。密は神秘ではない。例えば小学生が大学教授の話している内容が理解できないのと同じ道理で、教授が話していることは、小学生にとっては秘密である。あなた達のような、自分で仏を信じていると思っている者達にとって、仏の知恵は我々にとっては秘密である。我々が仏の一切事業を学んで衆生を利益するには、顕教の基礎以外に、我々は如何に運用するかを学ばなければならない。

密法には規定がある—それは、法は六つの耳へ伝えてはならぬ、つまり第三者がいれば伝授しない、という事だ。十数年前、私の根本上師直貢チェツァン法王が、私にあるとても秘密の法本を伝授された、当時法王はインドの関房で私に口伝及び灌頂を賜れた。口伝が半分程終えた時、法王の母が何も知らずに入ってきたのだ。彼女が入るなり、法王は口伝を止め、母親へ出て行くようにさえも言わず、その時は全く喋らず、彼女を見つめるだけであった。法王の母親は密法の規定を理解していたので、この場で口伝が行われていることを悟り、すぐさま謝り、その場をさった。これから分かるように、たとえ血の通う母親でさえも、この法を学ばないのなら、聞いてもならないのだ。あなた達の考えているような、法本経典を読んで密法を取得するというような簡単なものではない。法王は以前こう言われた、法本に書かれているのは、ただの文字である。どうやってこれらを修めることができるかの秘訣は、絶対に上師が自ら弟子に口伝する、もし上師の直接の口伝がなければ、あなたがどんなに法本を読んでも修め方はわからぬ。

密法はどうしてここまで厳格なのか?密法とは、自身が修行している者にとって、最高段階は往生前に仏果を証することだ。仏果を証するとは、肉体が仏になるのではなく、成仏の本質が完全に開発されるようになるという事だ;後もう少しの者は、死んで中陰の49日以内に仏になれる;もっとも駄目な者でも、17世の輪廻を繰り返せば必ず仏になれる。この法会に参列した者は、もしこのような考えがなく、自分が生生世世してきた悪業を肌で悟り、懺悔心を発し、上師と仏菩薩に仏修行ができるに程の時間を下さいと祈り求め加持を頂く事がなければ、それで密法はあなたとは無関係になる。

密法とは、我々が言う金剛乗で、菩薩道を修め、仏になる方法である。一切の金剛乗上師はこの密法で衆生を利益する。しかし密法を口伝するかしないかは、弟子の根器によって決まる。根器はあなたの身分や地位、学問、お金があるかないかの問題ではない。私はチベット語が喋れない漢人だが、直貢噶舉800年の歴史の中で、唯一漢人で今生中にリンポチェという果位を修めた者だ。これは、直貢チェツァン法王が絶えず私を培ってくれたからだ。法を求めるのは、あなたがどこの種族、チベット語が分かるかどうかではない。私は、法王に皈依して間もなく、チベット語を学んだほうが良いか、と自ら法王に指示を求めた。すると、法王はそれは時間の無駄だ、今では多くの法本が中国語に訳されている。最も重要なのは、上師があなたに口伝したかどうか。この点から分かるように、仏法は文字ではなく、心が重要なのだ。学問が高い人こそ仏を学ぶのは難しい。なぜなら、これらの人は自分で文字さえ読めば何が書かれているか知る事ができると勘違いをしているからだ。

今日長寿仏を修める、これは動物を含め、誰もが皆自分が長生きしたいと願っているからである。地獄道で苦しんでいる衆生を除いて、皆出来るだけ長く生きたいと思い、自分が死ぬとは望まない。皆自分は時がきたら死ぬと分かっているが、それでも医者に死にたくないと助けを求める、これは矛盾している。人の寿命はどのように決まるのか?それは、あなたが今までに善の業報をどれくらい修めてきたかによる。もし、あなたが過去に仏法に触れていて、以前に衆生に利益した事があり、殺生をしなく、病で苦しんでいる人を助けた事がある、両親に親孝行している、これらの事が寿命を延ばすものとなる。

人は母親の母胎の中で、既に自分の寿命を使い始めている。あなたの寿命はどのように使い終わるのか?基本的には身体の状況による。現在医学はここまで発達しているにも関わらず、なぜ我々の身体が使えなくなり、最後は死んでしまうのか、とはっきりと説明してくれる医者はいない。どの論文にもこの事は書かれていない。現在の医学は、今の医療発達の程度を踏まえて、人の身体の状況から、皆の寿命は少なくとも120歳は生きれると言うが、こんなに長生きしている人はごく少ない。釈迦牟尼仏は、嘗て人の寿命は長くて8万歳だと言われた。8万歳に達した時、100年毎に1歳減り、人類の寿命が10歳になった時に又新たに8万歳まで加えられるという。現在の人の寿命は減っている段階で、平均寿命は70歳である。あなたはきっと、ある人は更に長いと言うだろうが、釈迦牟尼仏が説いているのは、全人類の平均である。現在では、ある場所では30歳まで生きる者さえ少なく、又は病によって60歳で亡くなる者、或いは不慮の事故にあう者も有る。

仏菩薩は慈悲深い、衆生は生生生世世悪業をしているのを知ってもなお、諸仏菩薩と縁を結んだ衆生は、この世で福報を貯める程の時間があり、往生の後三悪道に堕ちる事の無いよう望んでいる。上師の仕事は絶え間なく法会を開催し、衆生が諸仏菩薩、そして上師と結縁できるようにすることだ。もし、縁が結べたら、死を迎える際、上師は必ず彼を助ける。同じ病でも、死ぬときは多くの痛みを軽減させてくれる。例えば、癌患者の場合、最後の一息までも苦しみ続ける、だからモルヒネを打ち続け、痛みを抑えるのだ。しかし、法会に参列した事があり、上師に信心を持てば、たとえ修めていなくても、学んでいなくても、言う事を聞かず戒めを破っていても(即ち肉を食べたり、飲酒、悪い事をしていても)、この縁を結んだことがあるので、上師はずっと彼を守り続け、彼が死ぬ間際に多くの病気の痛みを受けない様にする。もし死ぬ前に多くの痛みを受ければ、息が途絶える時、憎しみが生まれる。この憎しみは彼を地獄へ落とす;この世界を手放す事を惜しむ者は畜生道に堕ち;財宝を惜しむ者は餓鬼道へと堕ちる。諸菩薩と上師がする事は、あなたを三悪道へ堕ちないようにすることだ。

長寿仏は、あなたが今生消耗した寿命を補い返す。寿命が減るのは衆生の肉を食べたからだ。仏経でも説かれている:自分勝手に衆生の肉を食べると、生きている間は病気も多ければ、寿命も短くなる。ある者は:肉を食べても80歳まで生きた人もいる!と言う。だが、よく病む。リンポチェは現在71歳、健康状態はまるで30歳くらいだ。仏法が我々に菜食するように求めるのは、仏を信じるから菜食をするのではない。衆生の肉を食べると、重ければ死んだ後は地獄へと堕ち、軽くても生きている間は多くの病に侵され、寿命が短い。医者へ助けを求めたとしても、あなたの痛みを一時的に止めるだけで、根本的な解決ではない。ある者は、肉を食べなければ栄養がないという、だが私は30歳頃から肉を食べていない。寶吉祥道場では、多くの子供が母胎の中で既に菜食をしていて。生まれてからも、一般の子供に比べ健康な上に育てやすい。

我々の寿命が減る原因はまず肉を食べるからで、第二に恨み憎む心が強いからである。恨み憎む心とは怒るのではなく、相手に恨みを持つことをいう。よく誰かが自分に対して何をしたと恨み、隙を見てはその恨みを返そうと機会を見計らっている。恨みを返せなくとも、相手に何か悪い事が起こったと聞いては喜ぶ。例えば、事業や仕事上の競争相手、あなたは彼が敵だと思い、彼に何か悪い事が起これば、あなたはそれを喜ぶ。これが恨みの心である、それはあなたの寿命を短くする。

第二に自分の情欲をありのまま解放し、それを享受する。例えば仕事だからと言って、美味しい食事や酒を堪能し、どこかへ遊びに行くという。皆誕生日やクリスマスが好きだが、これらの行事は寿命が減る原因になる。私は皈依してからは、もう誕生日を過ごしていない。仏経上では誕生日は母難日とされ、我々は母親の恩徳を懐かしく思う日であり、祝う日ではない。あなたが誕生日を祝う際、多くの鬼神が気づき、あなたの寿命を吸いにくる。特に誕生日を過ごす時に、よく殺生し、肉を食べ、酒を飲む。私は35歳からもう誕生日を過ごしていないし、わざと誕生日を隠した。私がちょうど1歳になった時、両親は大陸から香港へと逃げ、香港では香港政府から出産証明をもらっていなかった。そこで、父は私の戸籍を申請した時、わざと年を1歳減らした。身分証明書上の出生日は仮の日である。だからあなた達が身分証を元に私の誕生日を祝ってくれるが、その日は私と何も関係がない。私の父は始めから私の為に、私の寿命が損をしないように考えてくれた。私の寿命は衆生を助ける為にあり、この私が生きている間、因縁があれば、私は必ず自分の命で衆生を助ける。

この法本は釈迦牟尼仏が伝えたものではなく、瑪吉珠貝傑摩佛母が伝えたものである。長寿仏は阿弥陀仏の報身仏である。どの仏も法身、報身、応身の3身があり、法身仏は法身の姿で既に仏乗即ち金剛乗を修行している者と仏になった者を助ける;菩薩乗を学び、菩薩乗を修める者には報身の姿で彼を助け;仏菩薩に対し、上師に対して絶対的な信心を持つ者には、仏は応身の姿で現れる。応身は代表であり、仏像、法本、仏経、そして上師は仏が応身してあなたを助けるのである。長寿仏は報身仏の顕れで、今日あなたがこの法会に参列できたのは、将来菩薩になれる果報を植えたのだ。あなたが今後努力して善を行えば、消耗したあなたの寿命を補う事ができる。

もう一つの特徴としては、我々は長寿仏に我々が長寿無病であるよう加持を求める。あなたに寿命があっても病気をしては法を修める事はできない。この生命は我々に享受する日々を送る為ではなく、我々に絶え間なく修行ができるようにする為である。我々に深い山奥に隠れ修行させるのではない、金剛乗の法を修めるのは24時間一分一秒たりとも修めるのである。長寿仏を修めるのは、我々が事故死を免れるよう加持するものだ。我々自身は自ら生生世世どれだけ殺業を行ってきたかも分からない。あなたは、自分は人殺しはしていないと言う、確かに人殺しは罪が重い、すぐに死ぬのでなければ、多くの予期せぬ出来事によって死ぬ。だが、この一生で肉を食べたり、相手が肉を食べるのを賛成したり、殺生しているのを見て喜んだりする事は、多くの予期せぬ出来事を招く。それは交通事故や天災、火災、水災、風災、診てもらう医者を間違えたり等である。特に現在では、癌を患った際には化学療法、放射線治療を行う。皆も良く知っている通り、化学療法は毒薬だ。多くの癌を患った患者は、癌細胞によって死ぬのではなく、毒薬が他の器官に影響し死に至るのである。

私は、40歳の頃化学療法でも治すことが出来ない皮膚癌を患った。私は仏菩薩に求めず、特に変わった法も修めていないし、病院へも行かずに薬も飲まなかった。それで治っただろうか?治ったと思う。この皮膚癌は一度かかると、もって一年だ。どうしてこうなったのか?私自身はそれを理解している。香港で生まれ育ち、若い頃は毎日多くの海鮮を食べた、海鮮を食べるには必ず殺生しなければならない。一皿の蝦はどれ程の命があるのだろう?一匹の蟹では、お腹が満足しないので、少なくても2~3匹は要る。因果の話はさて置き、現状ではまず全ての海鮮には毒がある。蝦は腐った死体を食べ、小魚は蝦を食べ、大きい魚は小さい魚を食べる。医者は深海魚の肉には毒があると証明している。我々がその海鮮をたくさん食べたので、お腹の中には魚の毒素が溜まり、それらが我々の細胞へと入る。そうすると、我々の身体は多くの毒を持っていることになる、皮膚病等も含めて、身体が毒に侵される。だが、多くの者はそれを信じず、他の人も食べているのだから、私一人ぐらいどうってことないと思うだろう。しかし、あなた達は今日因縁あってこの法会へ参列したので、私はこのことをあなた達に伝えなければならない。私自身がいい例だ、海鮮が大好物であったが為に40歳の頃皮膚癌を患った。だが私は深く因果を信じ、この事を完全に受け入れ、一生懸命修行して衆生を助けたので、事は逆転した。

今日はあなた達の為に長寿仏を修めるが、これはあなた達が悪業を行った為に消耗した寿命を補うものだ。全部戻ってくるかは、あなた達の決心による。寿命を補うのは、あなた達に孫が生まれるのを、ひいては孫の孫が生まれるのを見届けさせる為でも、あなた達に大儲けさせる為でもない。法会の過程では皆懺悔の心を発し、自分が生生世世無知故に行った悪業を懺悔するのだ。皆が慈悲心を発し、一切有情の衆生が寿命の終える前に死ぬ事がないようにする。懺悔心と慈悲心を持って法会に臨めば、必ず利益が現れる。最後は信心を起こすこと。信は迷信ではない。諸菩薩と上師が我々を助けるのは、自分の為ではなく、衆生がある日仏に成れるよう助ける為、あなた達に善の因縁を植え、ちゃんと修行して仏に成れる時がくる為だと信じる事だ。

ある人はかまわない、来世でまた考えればいいと言う。だが、来世の事は今世で行っている。法会に参列した後、あなたがこの一生涯で行ってきた事は悪が多く、善が少ないという事が身に染みて感じたであろう。それを改められる者は、来世は今世程苦しまずに済む。皆自分自身をよく省みる事だ、皆死と向き合う時が来る、自分が一番分かっているはずだ、医者でさえもどのような過程で死ぬかは分からない。もし、死の過程が苦痛でなく、安らかに逝った場合、来世は必ず良くなる。何故、死ぬ間際に私に加持されたものは、本来は悲しく痛ましかったが、加持後はそれ程でもなくなり、ひいては微笑さえ浮かべて亡くなっていくのだ。それは自分が来世は地獄や餓鬼、畜生道へ堕ちないことが分かったからだ。これは一般の出家衆には出来ない、密法を修めた上師だからこそ出来るのだ。

私は今から法を修める。修める過程で、解説が出来る所は皆に解説しよう。解説が出来ないのはしない。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法を修めた後続けて開示された:

先ほど唱えた幾つかの句は祈請文である。歴代の上師が私に加持してくださり、本尊長寿仏の法を賜るように祈ったのである。上師はあなた達の手助けをして良くない縁を取り除き、護法が保護に来られる様祈る。上師は心を一つにして、大悲力に集中して本尊長寿仏に祈り求め、一切有情の衆生を憐れみ、衆生が将来死の無い仏浄土に生まれるよう願う。それは阿弥陀仏の浄土である。

現在我々はここで法会を行っているが、虚空中の多くの人道にいない衆生は此処に入れない。先ほどおこなった儀軌は、我々が呪文を通して加持をした食べ物を布施したのだが、彼らがそれを食べると、法会の邪魔をしようとする怒り恨む心が除去される。この供養を通して、法を修める者、そして法会に参列する者が、病が無いよう、長寿であるよう祈り、この法を修める権限を得る。この法は、あなた達が修めようとして修められるものではない。必ず仏菩薩からその権限を与えてもらうのだ。後半に唱えたのは、一切の時ではない死亡、病気、そして一切の魔障を除去する。多くの病は、魔や鬼と関係している。あなた達は修行人ではないので、通常魔はいたずらをしないが、鬼はする。衆生の肉を食べ、飲酒(泥酔)、多くの悪い事をすればそれだけ鬼を呼び寄せる。魔は、通常修行人の邪魔をするが、それは仏法で名前を売って、金儲けをする者の前に現れる。

悪夢を見る。例えば誰かに追われて殺されたり、人殺しをしたり、崖から落ちたり、溺れ死ぬ等は悪夢であるが、これがあなたの将来起こる出来事である。たとえこの一生で起こる事がなくとも、地獄へ堕ちる可能性がる。このような夢を見たものは、自分が過去多くの悪業を行ってきたのだと知るべきだ。凶兆を予知するのは悪いことだ、それから離れるべきだ。もし、一晩ずっと悪夢を見続けたら、起きても元気がなく、集中ができないし、昼間も昨晩は寝たと思うが、寝たりないと感じる。

この供養を通して、世間が安楽であるように祈る。世間が戦争や政権不安等が有ったり、様々な事が起こったりすれば、修行をしたくとも出来ない。豊かな収穫、それは糧食が十分足りる事で、仏法は皆に豊かな収穫をさせてくれる。この祈りを通して吉祥安楽、心で想っている事が全て成就しますように。それは嫁いだり、娶ったり、事業を行ったり、文章を書く事ではなく、一切の衆生に利益する事全てが成就するということだ。これらは、あなた達に関わるのではなく、法を修めた上師に説いているのだ。

先ほどのは、上師が自分は長寿仏と同じだと観想し、本尊の長寿仏を迎える事を観想する。後に唱える祈請文は、上師の福徳資糧を累積してこの法を修める。

上の一段は、上師が先ず本尊の長寿仏が現れるよう観想し、その後、上師が簡単で、短めの灌頂を修める。上師はあなた達と同じく業報身を備えている、それは人の身体である。灌頂を通して、凡夫の身体は本尊の身口意と無差別な、清浄された法体に変わり衆生に利益する。

無量寿の意味は、もし我々が阿弥陀仏の浄土へ生まれたら、寿命は無量である。なぜなら死がないからだ。生があると必ず死があり、死があって始めて生がある、これが絶え間なく循環される。無量寿仏は阿弥陀仏で、阿弥陀仏は無量寿仏の心咒である、無量寿仏は又の名を無量光仏と言う。

法本の第一句に「世間導師主尊長壽佛」とある、輪廻世間とは、人類の住む地球ではなく、宇宙全体の事を言う。導師は我々を指導する導師であり、主尊は長寿仏である。

第二句は、「一切非時死亡盡摧毀」。例えば、本来なら寿命が80歳まで生きられるとされているが、もしかすると病気や事故、薬の飲み間違い、酒の飲み間違い、食べ間違い等、本来の寿命よりも早く死んでしまう事を時に非ずの死亡という。意外という事は無い、すべて我々自身が行った悪業で、上師と本尊に祈って全て破棄してもらう。

第三句は「無依痛苦眾生之依處」。自分には学歴があり、富もあり、眷属もあるので、頼りにする物があると思ってはいけない。一切の学問、富、眷属は全て過去に行ってきた果報が創ったものである。その果報が熟した後は、何もなくなる。たとえあなたがどれだけ有名で、多くの財宝を持ち、又多くの眷族がいたとしても、死ぬ間際になるとその頼りはなくなる。医者が出来る事は、侵襲性の治療を行い、心臓を止まらせず、あなたをもっと苦しめる。その中で、唯一頼りにできるのは仏法と本尊、そして上師である。ここの苦痛とは、あなた達が思うような、人間世間のお金が無いや自分が欲しいものが手に入らない等の苦痛ではない。それは欲望に過ぎない。真の苦痛とは、人生の八苦であり、その最も重いのは、病気と死の苦である。医学も科学もこれらを徹底解決する事はできない。ただ上師や仏菩薩を信ずる者、縁があれば、病気で苦しんでいても軽減する事が出来、最後には少しの痛みさえなくなる事もある。仏法と上師だけが、頼りになる拠り所なのだ、彼らを頼りにすると決めたなら、言う事を聞く事だ。

最後の一句は、阿弥陀仏の前で頂礼。頂礼は完全に信じること、しっかり言う事を聞き、行うこと。この法会に参列したから自分は加護されると思ってはいけない。外に出れば又、自分の思うままに行動するのなら、加護はされない。加護は自分自身で得るものだ、話を聞き入れ、それを実行する、そうすれば加護がおのずと現れる。聞くが実行に移さない者は、ただ縁を結んだだけである。

続けて、リンチェンドルジェ・リンポチェは大衆と共に長寿の呪文を長らく唱えられた。そしてこう開示された。先程は供養、供養後は祈請、本尊が上師の事業が勝り、寿命が増えるように加持する事を祈請した。事業とは、仏法の事業である。一切の障害が消滅するよう、無量の一切衆生が非時死亡、8大災難、16種の恐怖から解脱され、干害や戦争、そして動乱の無い太平世界を享受出来るよう望み、又修行者と法会の参列者の非時死亡等一切災難が消滅するよう願った。今回の法会で願いが叶い、あなた達が求めた願いは全て叶う事を望む。悪因なく、悪縁もない。寿命、福徳の果報、財富は上弦月のように増え、月の如く徐々に丸くなり、円満になるだろう。寿命、福徳の果報と財富の円満は、自分で享受するものではなく、多くの衆生を助ける為だ。寿命以外に、福徳の果報と財富も必要である、なぜなら寿命があっても福徳の果報がなければ、終日病気をしたままで、思わぬ出来事も起こり、あれこれ心配する。又、たとえ寿命や福徳の果報があっても、財富がなければ生活ができない。先程の上弦月のように増えるとは、欲望を満たすのではなく、最低限の需要を満たす、という意味だ。もし、ご飯を食べるのなら、それなりの財富を得られ;修行をする者には、福徳の果報が現れる。我々が浄土へ生まれることを発願すれば、寿命が生まれ、あなたは福徳の果報を累積するに足る時間を得る、そして浄土へ行ける。最後には、阿弥陀仏と同様の果位に成れるのだ。我がこの生生世世でまだ仏に成れぬ前、長寿仏は我の本尊で、一切成就と事業に障害がないよう、加持を祈請する。

続いて修めるのは、多くのリンポチェが修めたくない部分である。上師を通して、あなた達の地風水火を補う、あなた達の四大元素を調整する。仏経は、人間の身体は、地風水火の四大元素で構成されていると説く。地は我々の骨と筋肉;風は体内の気、血液や水分の循環と栄養に働きかける;火は身体の能量;水は体内の一切の水分、血液、内分泌、リンパ液等、これ等は全て水の範囲である。人が病気になるのは、四大元素のバランスが悪いからだ。地風水火の中で、何かが多く、何かが少ない等があると、病気になる。前世で大変重い悪業を持ってお腹の中に宿らない限り、我々は母親の母胎の中で、母親の血と父親の精が結合して一つの胚胎として生まれる。過去世で両親と縁がある神識はこの胚胎に入る。胚胎に入った後、諸仏菩薩の加持を通して、四大元素がこの胚胎の中で均等に発達できるようにする。前世の悪業が無い限り、生まれてくる赤ちゃんの身体はとても美しく、完璧である。もし、人の一生で母の胎内に居るときから母親の肉食に始まり、父親が悪業を行えば、あなたの四大元素は消耗し続け、出産後には、四大元素のバランスが悪く、次々と病気にかかる。たとえ薬を飲んでも、一部分だけが調整されるだけで、そこは調整できても、他の所にまだ問題が残る。

他にも、人が四大元素のバランスが悪くなるのは、貪念とも関係する。貪念とは貪欲である、だがそれはご飯を与えず、読書や事業、男女の交際等をさせないというわけではない、在家でも修行はできるのだ。貪念とは、既にあるものをもっと欲しいと思い、自分の能力では到底得られぬものを追い続けると貪念を起こす。嗔とは恨み、痴は因果を信じないということだ。仏が説く因果の事を、あなたは受け入れず、信じもしない。ただ物語だけだとしか思っていない。仏は従来物語をしない、仏の語る事は全て我々と深く関係している事だ。

地風水火がバランスを失うと、数々の病気を生み出す。次のこの法は上師が先に修める。仏菩薩に加持をしてもらうよう求める。私の四大元素足りた後、長寿仏を代表して、皆に地風水火を分け与える。あなた達がどれだけ受け入れる事ができるか?それは皆それぞれの業力、上師に対してどれだけ信心があるか、自分を改めているかによる。たとえ四大地風水火をあなた達に与えても、あなた達が自身を改めることが無ければ、留める事は出来ない。なぜなら、すぐに使い果たしてしまうからだ。まず、私が先に修める、あなた達は心を静めて、あまり考えすぎないように。

(続く儀軌を行う前に、主法上師は法帽を被る必要がある。)

法帽は自分で作り、自分で被るものではない。これは、必ずあなたの上師があなたの果位を認め、あなたの為に作るのだ。各教派の法帽の形はそれぞれで、色も違う。今日はこの辺にしよう。私が法帽を被れば歴代上師と本尊を代表し、あなた達に法を伝える。あなた達は姿勢を正すこと。我々の目の前に、1つの宝瓶とトルマがある。トルマは長寿仏の宮殿と身体を代表するものである。上師と長寿仏は二つではなく、別々でもない、と観想する。

我々身体の血肉活気が消耗された後、我々の寿命は損失、散らばり、破れ、曲がるーー死ぬべきなのが、死なずに又生き返る、一生で何度も死の過程を経る、このような者はたくさんいる。裂、揺、破、魔鬼に寿命を偸まれるーー偸み盗む。魔鬼はどうやって我々の寿命を盗むのか?それはあなたが魔鬼に助けを求めるとそうなる。例えばある所に赴き、お金持ちになれるように、良いことがあるようにと祈りごとをするからだ。仏菩薩以外、世間の色々な神は、基本的に鬼道からきたものである、それは福徳の有る鬼である。あなたがもし、彼に助けを求めれば、何かで交換しなければならない。一番簡単なのは、あなたの寿命と引き換える。彼はあなたの寿命を吸い取り、自分の寿命を延ばす。いつも求めるだけで、努力を全くしない者の寿命は減っていくばかりだ。どうして分かる?病気になれば、一日中薬を飲まなければならない、それは身体が絶え間なく中毒しているという事だ。そうすると寿命が破れ、損失する。あなたが殺生せず、肉を食べず、むやみやたらに祈り事をしなければ、魔鬼があなたの寿命を吸い取る機会は減る。

これからあらゆる仏菩薩、上師、本尊(長寿仏)、ダーキニー、護法の加持を求め、我々に寿命、福徳果報、富、命、身体等の力を一つに集中するよう祈る。私が唱えている間は、皆出来るだけ背筋を伸ばし、居眠りせず、猫背にならぬよう、頭を動かさぬようしなさい。

第一に、地の加持である、我々の肉や骨の損傷は、我々の寿命に影響する、これは保生如來仏と仏母によって加持される。第二に、水の加持で血。小さな血の寿命の損失破損等で、これは不動仏と仏母の加持である。第三に体温が消耗続けていて、寿命を破損する、これは火の加持である、無量光仏と仏母に加持される。第四に風の加持、これは不空仏と仏母の加持。一日中あれこれ考え、多くの事を考えてはいるが、どれも人生や未来に関係していないような事を考えていると、意識の内で寿命が減っていく。これは大日如来の加持である。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが薈供と供茶の儀軌を行い、参列者達は皆一人分のリンチェンドルジェ・リンポチェが加持された供養品を頂いた。更には、法会中に上師、そして仏菩薩と共に頂くという殊勝なる因縁を得たのである。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、続けて法を修め、法座を下って、長寿仏仏像を以って参列者に加持された。その過程で、リンチェンドルジェ・リンポチェは、絶え間なく鈴を振り続け、長寿仏の心呪を唱えられた。その慈悲深いまなざしは限りなく深く広く、一切の有情を潤した。参列者は跪いて恭しく合掌し、上師の殊勝なる加持を受け、感激のあまり涙を見せた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは再び法座に昇り、開示された:多くの人は法会に参列する際に、自分に暇や時間があれば等の自分の考え方をする。時間は、自分で調整できるものだ、重要なのはあなた自身に信心、決心があるかどうかだ。あれば、諸仏菩薩はあなた達の為に用意するであろう。午前長寿仏を修めたが、それはあなた達に長寿仏と良縁を結ばしたのだ。午後は火の供養を修める。だから、あなた達に一日参列するように求めたのだ。火の供養は一般の所謂護摩と違う、又一般の仏寺でよくある自分の名前を記入し、火の中に入れるものとも違う。火の供養には非常に殊勝な功徳と利益があり、金剛乗でかなり特別で殊勝なる法門である。金剛乗は密乗であり、金剛乗は事部、行部、瑜伽部、無上瑜伽部に分けられる。火の供養を修めることの出来る上師は、無上瑜伽部まで修めていなければ、火の供養を修めるは不可能であり、許されない事である。仏法には蔵密(チベット密法)と東密(日本の密法)がある。日本の密法は唐朝時代に伝わり、別名唐密である。唐密は基本的にもう伝わっていない。そこには、とても複雑な歴史背景があり、ただ事部と行部だけが日本に伝った。そして瑜伽部と無上瑜伽部は日本では既に伝っておらず、蔵密だけに残っている。

火の供養を修める者が無上瑜伽部を修めていなければ、仏の説く空性の定義を理解するどころか、体感する事も出来ない。空性がなければ、火の供養は修めることは出来ない。そして深い禅定も必要である。深い禅定とは、どれだけそこで座り続ける事ができるかではない。我々は木の板に名前を記入してそれを燃やすのではなく、供養品を燃やす。もし名前を書いてそれを燃やすのであれば、自分自身を供養した事になる。仏菩薩に自分自身を燃やして供養するという者はいるか。道場内では、誰も手を上げるあげるものがいない。木の板に名前を記入した後、それを火に入れて燃やすのは、仏経では見た事が無い。供養品は供養した物の事を指す、もし皆が自分の身体を燃やし、仏菩薩に供養するのを躊躇し、木の板に名前を書き、火の中にいれるとなれば、それはただの木の板を燃やしただけで、そこに何も意味はない。

上は一切の仏菩薩、護法、本尊に向かって供養し、下は六道の一切衆生、地獄、餓鬼、畜生、人、天、阿修羅道に施すのである。火の供養は素早く我々の一切業障を消去でき、我々の福報知恵の資糧も素早く円満にし、世間と出世間の成就をも素早く手に入れる事ができる。もし、福徳知恵の資糧が足りなければ、修行の際には多くの障害が出る。我々が火の供養に参加し続ければ、世間の事と修行の事は今生で成就できる。火の供養には、四種の事業がある。午後の「息」の火の供養¯¯我々の身体の病と一切障害をなだめる。「増」は我々の福徳の知恵、寿命、富と円満、快楽、を増やす。これはあなた達が最も好むものだが、私はわざとそれを修めない。なぜなら、あなた達にそれらを得る福報がないからだ。あなた達は自分の病気という障害を取り除けるだけで既にいい方だ。「懐」は懐柔、懐の火の供養は、病を治す他、財宝、地位、権勢を増やす。「誅」は殺という意味である、それは一切の悪の行為、悪業の障害を克服する事が出来る。

もし、ある一名の上師、又は一名のリンポチェの息増懐誅の4法共灌頂されず、閉関修行もせず、成就も無ければ、この4つ息増懐誅の火の供養は修めることが出来ない。火の供養は、世間の利益を得る事が出来る。「息」の方面では、所知と煩悩、2つの障りを消滅する事ができる。仏を学ぶ上で一番大変なのは所知障である。それは、私は分かる、分からない、学んでいない、はっきりしない等を絶えず分別し続ける。どうしてあなたは、自分は学んでいないと思うのだろう?元々あなたは学んでいない。仏法は世間の学問とは違う、研究を通してとか、そこに座って考え続ければ分かるものではない。人間がよく犯す間違いは知りたがる事だ。だが仏と菩薩の知恵は人間の知恵とは違う。あなたが知りたがればそれは障害を生む。なぜなら、あなたはいつもそれを知りたいと思うからだ。古代の人はこう言った、仏を学ぶ者は少し愚鈍な方が学べる、と。私みたいに愚鈍だと、法王が言えばそれに従い、徐々に成就を修め出した。なぜなら、私は必ずその事を知りたいと思わないからだ。何事も理解したいと思う人は、通常自己本位感が強く、ちゃんとその事について理解して初めて、言う事を聞き、学ぼうとする。これではあなたを妨げる。学歴が高く、権勢もある人は障害が重い。煩悩障は反って処理しやすい、なぜなら我々は自身の煩悩が深刻か深刻でないかを知っているからだ。

「息」の火の供養を修めると、東方佛金剛薩埵及び、息の全ての本尊である報身仏の成就果位が得られる。どうして私はよく息の火の供養を修めるのか?それは、私の本尊の一方は金剛薩埵だからである。今日は増と懐と誅の火の供養は修めない。

火の供養は金剛乗の、非常に殊勝な法門である。供養品を燃やす事で、本尊と諸仏に供養し、一切の衆生へ布施する。火の供養を通して、自分の福報を増やす事ができる。それは仏に供養し、一切の衆生へ布施する事で、我々は自分の福徳の果報をふやし、業障を素早く消去する事ができる。福と知恵の資糧が円満になれば、二種の成就を早く得る事ができる、それは前で述べた世間法と出世間法である。

仏法の修行には、外在の多種多様な儀式を通して、我々の内在に元から備えられていた仏性を啓発するのである。我々は法を修める時、様々な動作を行う、それは我々が見たり聞いたりするのを好むからだ、だがそれらは主観的な意識に過ぎないことを知らない。本当に心の中にある仏性は、我々誰もが備わっているもので、本当の内心にある仏性は、我々皆備わっているのだが、我々が、それらを知りたい、見たい、聞きたい、理解したいと思うと、本来備わっていた仏と同じ仏性は被されてしまう。修行を通して、どの衆生も本来備わっている仏性を開発、啓発することで、苦しみから離れ、楽を得る。仏性が開発された後、一切の苦は減り、甚だしきは消えることもある。このような苦が輪廻の苦である。

修行者、即ち上師、リンポチェは、火の供養の際に禅定の力で、壇城–火の供養の現場を、仏と護法の住む宮殿と壇城と観想する。外見は火の形をしているが、内在は観想によって護法、神、菩薩と一切眷属とに分けることが出来る。上師の観想によって、供養品は限り無くあり、上に貢ぎ下に施す。「行者が修行の功徳力を通して」、という言葉は大変重要である。もし法を修める者本人に功徳力がなければ、火の供養を修めるのには全く役に立たない。功徳力はどれだけ仏を拝み、仏経を唱えて、法会に参加したかではなく、第一に彼は空性を悟ったか、それは自分で言うのではなく、彼の上師が確認しなければならない。第二に、彼の慈悲心と菩提心は現れたか?力はあるのか?第三に、彼の一切仏行事業は名を出発点としているのか、それとも利を出発点としているのか。もし彼はその2点とも重視しなく、名利共に必要ない、と思うのなら、彼の功徳力はある。第四は、諸仏菩薩の加持力だ。加持力はどのようにしてくるのか?法を修める人の恭敬心、慈悲心と願力が諸仏菩薩の加持を招き、参列者の虔誠心を引き起こす。

もし参列者の虔誠心が足りなければ、どんなに上師や仏菩薩の腕がすごくとも、あなた達とは全く関係ない。ある人は、黙って、見返りも求めずあなた達に尽くしている。それでも虔誠心を起こさないのか?あなた達は、人に何かをする際はお金を貰う、必ず話を先にはっきりさせてから行動する。私があなた達の為に行う事にお金の事はとやかく言わず、供養金でさえも受け取らない、ただあなた達を助けるだけだ。あなた達はこの虔誠の心を起こさなければならない。私が感じないとか信じない等と言ってはいけない。もし、累世で金剛乗と縁が無ければ、あなたはこの法会に参列することはない。必ず前世で縁があって、ただあなたが忘れただけだ。この一世で縁がきたので、虔誠心を発し、その機会を掴まなければならない。

素早くあなたの業障を消去し、六度を円満する。六度とは、六波羅密で、菩薩道を修める時修めるのだが、現在のあなた達には必要ない。もし、このまま修行し続ければ、心の本性を悟る。自利(自分が生死を解脱する)、利他(衆生が生死を解脱するのを助ける)、これは現在私が行っている事だ。供養の対象は、四大分類される、諸菩薩と本尊の供養、護法及び天神の供養。我々は一切有情の衆生に供養、そして一切の鬼魅、餓鬼道、特に我々に傷つけられた冤親債主に供養する。あなた達がこの一生で食べてきた全ての物を、火の供養を通して、あなた達が彼らに供養した為、彼らがあなたに対する怒りや恨みが減り、又は消去される事で、あなた達に悪い事をしなくなる。

火の供養にはどのような功徳があるのだろうか?出世間の成就(即ち修行の成就)だ。「息」の火の供養で言うと、所知や煩悩の2つの障害を消去する事ができ、仏果の成就を得られ、東方金剛薩埵及び息の本尊の報身仏成就果位を得られる。火の供養を修めると菩薩の果位を証することができる。世間の成就とは、我々は変わらず凡夫で、まだこの世間に居るので、火の供養に参列すると、一切自身の病の痛みや障害を鎮め、一切の悪行悪業を克服する事が出来る。ある人は、このような事はだめだと分かっていても、克服できない。例えば、お酒を飲みすぎると身体に悪いと知りつつも、まだ飲んでいる。このような行為はしてはいけないと分かりつつも、続けている。その第一の原因は福報が足りない、第二に生生世世習慣にしてきたから。火の供養に参列すれば、誰からも教えられずとも自然と自分の力で克服できる。

火の供養は多種の供養品がある。我々はバター、オリーブオイル、芥子油、食用油を使用して富の力を増やす。息法の火の供養は、我々が失った富みを少しずつ取り戻す事ができる。富を失うのは、あなたが常に人を騙し、富を手に入れているからだ。たとえば、相手と約束した事を守らなかったり、お金だけ受け取り、後は相手をほったらかしにする等である。たとえ今お金を得ても、すぐになくなる、なぜなら悪業を行っているからだ。

肉を食べ、自由気ままに行い、享楽し、行楽をし、それは商売に必要だと言っているが、実際は理由をつけて遊び歩くだけなので、財は減る一方である。福報がなければ遊びに行く事はできない。遊びに行けば、そこに福報が使われ、富はなくなる。あなたは、何故人生を楽しまないのかと言うが、私個人の経験では、私は中国から香港に非難したのだが、以前は廣州の大金持ちの家族で、広州では今も尚、私の家名にそって付けられた通りがあり、記念アーチもあるほどだ。香港へ避難した際は、一切を失った。父は若くして亡くなり、家には香港ドル10ドルしかなく、一文無しの貧乏と同じだ。私が外で働き始めてからも、どこかへ遊びに行きたい、楽しみたい、観光したい等は思わず、仕事だけで、縁さえあればそこに行くのは今も変わらない。現在71歳になった、どこかへ遊びに行ってもいいだろうと思うかもしれないが、やはり私にはそんな気持ちはなかった。周りの人がどこどこに楽しい所があると勧めても、私の興味を引いた事はなかった。だが、仏法に関する事であれば行く;関係なければ、たとえ楽しかろうと行かない。遊園地にも行った事がない、多分それは私が年を取ったから行きたくないのであろう。

現在71歳、体力はまだある、10日に早朝7時のフライトで上海へ行き、11日に家に帰るのが12時頃、そして12日の夜10時に日本へ到着し、今ここで終日法を修める。私はもう若くはないのだ、もう71歳だ、意思力でここまで支えてこれたのではない、身体がまだ丈夫だからこんなにも長くここに座り、法を修め、あなた達に加持している。今日は運が良い方で200人に満たない。

今日富や資産が消えるのは、あなたが享楽享受を愛す事、そして人として道徳性を持たない等と絶対に関わりがある。我々が燃やした柳の木のかけらは、我々の威厳を回復する力がある。威厳が無ければ誰も聞く耳を持たない、明らかに相手の為であるのに、なかなか相手にされない。誰かに指示するが、誰もあなたを助けてはくれず、あなたの事を尊重しない。胡麻は、我々の障害を消す力を持つ、もし我々が息法で修めるなら、我々の貪嗔痴、破戒、殺生等の罪の障害を除く事が出来る。おこげを焼けば、我々の不愉快の原因を少しずつ消し、楽しさを戻す。ここで楽しさと言うのは、昇格、学歴を得る、健康になる、息子が病気をしない等ではなく、あなたが憂いなく、自分の未来がどうなるかがはっきりすることである。私のように、未来の自分がはっきり見えているので、本当に不愉快な事というのはない。あなた達は私が誰かを叱っているように見えるが、それは自分のためではなく、相手の為だ。それはちゃんと出来るのだ。どうして一日中不愉快なのか?なぜなら欲望が満たされないからだ。

米は福徳を増やす力量を持っている、それは障害の力を消すものだ。例えば、ある善事をしようとすると、それを邪魔する人や出来事が起こる。ある人は法会に参列したかったのに、突然参列できなくなる、それらは全て自身の障害である。青稞を使用して供養すると、我々の神経の萎えを消去できる。一日中元気がないのは、あれこれ考えすぎて、神経を使っているからだ。穀物は、我々の落とした物を取り戻すものだ。豆は、我々の力気を増やすことができる。麦は病を除去する力を増加させる、そして少しずつだが健康に戻る。すすきや百節草は寿命を延ばし、障害を取り除き、長寿の力を増やす。芥子は魔除けの力があり、魔物や鬼の侵入を阻止する。吉祥草は、不吉の力量を消去する。他にもまだ多くある、我々が使用している宝石や五色の布等等、そして不共の供養品、今日はそれには触れないが、それに果物、花等がある。供養する果物や花は壊れていたり、腐っていたり、毒があるものはだめである。現在では、多くのとうもろこしは毒がある。飴やお菓子、牛乳も供養して良い。火の供養では、共(公開してもよい物)と不共(公開してはならない物)の供養品を供養しても良い。

火の供養はいつに行うのか?閉関修行を終えてすぐ火の供養を行う。2007年、私はネパール4500メートルあるラプチ雪山で3ヶ月程閉関修行を行った、そして法王は、私を従え3日間火の供養を修めた。閉関の際、我々の呪文がはっきり唱えられていなかったり、観想がはっきりしていない等の障害を消去するのだ。閉関が円満に終了後、必ず息懷增誅の四種の火の供養を修める。もし、四種全てを修める事ができなければ、少なくとも息法の火の供養は修めること。

その他にも五無間罪、例えば両親を殺す等を犯し、三昧耶戒を破った後は、懺悔を表に出さなければならない。三昧耶戒を破るとは何か?それは、仏菩薩、上師、衆生に誓ったことを守らなかったという事だ。それは修行の事を指す。火の供養を用いて我々の破戒の罪障を消去する。もし火の供養の功徳を家族の中にいる死者に回向すると、その死者は済度される。又仏寺を建てる前に火の供養を行ってよい。もし、ある国家が頻繁に戦争や地震、火災、水害、台風等があれば、火の供養を多く行った方がよい。仏舎利塔、仏塔、廟宇の開光前に、火の供養を修めても良い。個人が息災、福の祈願、安楽を求める、一切の煩悩を解決する等の為に、火の供養を修めるのは最善であり最妙である。もし修行中に何か良くない障害に当たり、克服できない場合は、上師に火の供養を修めてもらうようすればいいだろう。

火の供養の際、何故供え物を燃やしてしまうのか。ミラレーパ尊者は以前こう語っている:燃やすとは、我々が執着している外在を断じて除く事を言う。たとえば、我々が以前何を供養し布施したかを覚えている時、火の供養後は、その考えを徹底的に無くす。火の供養で供え物を燃やす事は、欲や執着を断ち切る一種の表れである。もし、供え物を燃やさないのなら、我々はこの実質的な物を同じ人道にいる衆生へしか享受させることができない。その他の非人道の衆生は享受する事が出来ないのだ。火の供養を通す事で、実体の物を全ての衆生が享用できる物に変える事が出来る。そうすれば、全ての有情衆生の執着を破ることができる。火の供養の際、法を修める者は、個人の名誉と利益の為ではなく、必ず清浄で純正の動機で法を修めれば、知恵の本尊に供養しても、一切の鬼魅に布施しても、全て受け取る事が出来る。火の供養の過程で、上師の観想や呪文等に合わせ、布施する供え物を、限りなく増やすように観想出来る。我々が供えたこの一つの物が、山積みになって供えられると観想する。この様にすれば利益は更に大きくなる。

火の供養は世間と出世間の一切の願を実現できる。それは素早く一切衆生に利益し、自我が生死を解脱する願いが成就することである。火の供養の特色は、利益がすぐに顕れることである。全ての供え物を火の中に入れると、本尊が火の中に安住する。火は一切の動の性質を現す。事業は息懷增誅にそれぞれ分別されるので、利益すぐに顕れる。我々が煙の供養を行うなら比較的に困難だが、火の供養であれば、本尊を向い入れるのが早い。

火の供養を修める主法者は、法本に沿って以下の条件を持ち合わせていなければならない:一、少なくとも一尊の本尊の成就を得ている:それは閉関を透して本尊と相応じる。毎日本尊が目の前にいるのを見るのではなく、本尊が許し与えた事業を全て行う事ができるからだ。たとえば、私は常に金剛薩埵の呪文で患者を加持する、加持後、患者の痛みは和らぐ。これが即ち相応、成就である。たとえば、私が衆生の為に済度すれば、すべて相応する。もし一尊の本尊も成就しなかったら、密法を修めることはできない。二、顕密圓融:顕教の理論と密法とを互いに円滑につかい、衆生に利益し、しかも伝承を得ている事。つまり誰から学んだのだ。たとえば、私が学びえたのは根本上師 直貢チェツァン法王から伝えられたので、法王は法王の上師から伝えられ、全ての伝承と儀軌がはっきりしている。三、大菩提心を備える:それは絶えまず精進の心で学び、仏法を修行し、絶えまず衆生へ利益する。四、清浄な三乗の戒律を持ち備える:在家五戒、菩薩戒と密乗の戒、これらを破らない事だ。

呪文を唱え、済度する一般の仏教儀式ではなく、火の供養の主法者に対しての要求は比較的に高い。火の供養で明らかに現る現象は:禅定の力量、福物の功徳、法を修める方法、呪文の加持力、仏法の威徳力、そして炉が本尊と壇城になる。以上の6種が結合されて初めて真の火の供養となる。

第一に、禅定の力量:直貢噶舉の観点からいうと、法を修める者は、禅定は少なくとも大手印離戲瑜伽の果位まで修める事。第二、福物の功徳:加持した全ての供物が間違いないか。法本にははっきりと、どのような供物を供えるかが書かれている。法本に書かれていない、別の物を使うのは間違っている。第三、法を修める方法:法を修める方法は、全て自分の創作か又は上師から伝わったのか?もし、自分で作り出したのなら、それは間違っている。第四、呪文の加持力:法を修める本人の呪文は成就できるかどうか。第五に仏法の威徳力:法を修める人が仏法の威徳力を顕すことができるかどうか。仏法が衆生の心を落ち着かせて法会に参列させることができるかどうか。第六に、炉が本尊と壇城になる:法を修める者は、炉を本尊と壇城に観想する。この六種の力量こそが真の火の供養である。

火の供養に参列する者は、まず:第一の条件は菩提心を発す。個人の利益の為に法会に参列するのではなく、衆生に同様な利益を得るようにする為である。第二の条件は、我々がしずめの法に参列した際の願は、我及び一切衆生の罪障、業障、病障も消去し、一切の貪嗔痴等、煩悩、邪見、違縁を消去すると願う。正に行う際(法を修め始めるとき)、法を修める者は心を定める能力を備える。火の供養の最中、心を定め得ることが最も殊勝である。定まっている中で法を修めれば、他の考えは一切なく、集中して法を修める。回向とは、もしあなた一人が楽をして、他の人が苦を受けていれば、あなたもやはり苦である。例えば家に30人の人がいて、あなただけが福を受け、ほかの人は病にかかれば、あなたも楽に過ごせない。他の衆生も同様である。回向は衆生が未来に佛果に成れるよう希望する。回向の後は私が唱える、多く解説する必要はない、してもあなた達に出来るはずがない。

火の供養に参列した際、火の壇城を廻る際、時計回りに沿って回る。好き勝手に行くのではなく、皆と一緒に行くのだ。焦って横入りをしたり、走って行ってはいけない。供物を投げる際は、自分の手に気をつけて行う。

午後に修める長寿仏の火の供養は、比較的に特別である。歴史上で長寿仏には火の供養がなかった。長寿仏の火の供養を修める思いが起きたのは、私が火の供養で衆生を助けた際、火の供養がとても早く衆生の願いを助けることができると、はっきり分かっているからだ。末法時代、衆生は寿命の消耗が早く、すぐに多くの病を患った。病気にかかれば、自然と寿命は短くなる。私は直貢チェツァン法王に、私には、長寿仏の火の供養で衆生へ利益したいという願力があると願った。法王は初めその法本はないと言われたが、私が再度求めると、法王はそれをゆるし、私に長寿仏の火の供養で衆生を利益するよう、儀軌のある一部を変更した。

法王が許可を出す前日の夜、私はある殊勝なる夢をみた、このことは今日初めて話すのだが。私は、法王が長寿仏のタンカの下で、法本をもってどこを直せば良いか教えてくれた夢を見たのだ。法王が説いた後、振り向けばパクモドゥパ尊者がそこに座っているのが見え、続けて、私は多くの供物が供養されたのを見て、私はこの火の供養はとても殊勝であると思い、多くの衆生を利益すると確信した。それは何とも吉祥の夢であった。翌日、法王から電話がきて、私に修めても良いと言われた。

(大衆の皆は熱烈な拍手を送った)

これは非常に得がたい法なので、皆敬虔な心で参列するように。あなた達に朝から法会に参列させるのは、先ず長寿仏と縁を結ぶ為で、あなたと長寿仏とに縁があり、午後更に長寿仏を供養すれば、素早く福徳が蓄積する。朝法会に参列せず、午後から参列したらよい等と考えてはならない。もし、ある一人の方に手助けしてもらうのに、今まで見た事ない人が突然現れ、助けてくれと言っても、どうやって助けろというのだ?朝は、火の供養へ参列する為に福徳を蓄積し、同時に長寿仏にあなたの存在を知ってもらう為の時間。長寿仏は法力があるから、何でも知っておられると、言ってはならない。確かに知っておられる、だが、恭敬心が無ければ仏はあなたの存在など知る由もない。なぜなら、仏の心はじっと動かないからだ。衆生が求めない限り、仏は微動だにしない。必ず、衆生が法を求めて初めて、仏は動き、我々に利益する。

午前中皆の為にこんなに時間をかけて様々な事を行ったのも、第一にあなたに長寿仏と縁を結ばせる為、第二にあなたに走る体力をつけるため。体力がない者は、一周走っただけで走りたくなくなるだろう。供物は十種類以上ある、私はそれを与え続ける。走れなくなってしまった者は休んで構わない。あなた達が出来るところまでで良いのだ。私は今まで火の供養をしてきて、死んだ者はいない。もし火の供養の参列者が死んでしまっても心配するでない、すぐに超度してやる。皆のお昼時間が短すぎるのを避ける為、午後は2時45分から始めよう。遅すぎてはならない、なぜなら雪が降るからだ。天気予報によれば、6時以後に雪が降るであろう、もし雪遊びをしたければここに残ればいい。

午前中の法会が円満に終了した後、大衆は恭しく合掌をし、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを見守り、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが開示及び苦労して法を修めたことに感謝した。
午後2時45分、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、京都寶吉祥仏法センターの庭園で法座に昇り、長寿仏の火の供養を修めた。ほぼ零度に近い低気温の中、リンチェンドルジェ・リンポチェは薄手の法衣を身にまとっただけで、苦労を省みず、衆生の為に法を修められた。

気候は厳しくなる一方だが、空は格別に晴れていた。リンポチェは法を修める前、火の供養の壇城の周りを吉祥草で逐一囲った。火の供養の壇城が燃え始め、わずか数分で、炎は数尺まで高く伸びた。炎の音がパチパチと轟き、炎は数々の瑞相に変化し続け、徐々に濃厚な白檀の香りが漂った。これは、本尊が現れる殊勝なる瑞相であり、法会に参与する大衆に恭敬心、及び信心を起こさせる。その時、鳥の群れが四方八方から道場周辺の林の中へと集まり、うっとりする様な鳥の鳴声が此処あそこに響き渡り、数羽の鷲が翼を広げて道場の上をぐるぐる止む事なく回り続けた。これは明らかにリンチェンドルジェ・リンポチェが法を修める時、本尊に相応えた大威徳力、大慈悲心で、諸仏菩薩、龍天護法が皆来たりて賛歎と護持している事を顕しているのである。

火の供養の儀軌が行われる時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは各供物を加持し続け、同時に素早く供物を参列者の皿へと分け賜われ、皆が自身の手によって、供物を火の壇城へと投げ入れ、直接仏菩薩と本尊に供養する機会を与えた。また、助けが必要な全ての衆生へ布施し、迅速に仏を学ぶ福報と慧命を累積させた。法会に参与した大衆は、リンチェンドルジェ・リンポチェ殊勝な加持の下、虔敬な心で整然と壇城を巡り、極めて殊勝な火の供養に参列した。

リンポチェは皆一人一人が供物を受け取れるのに間に合うよう、片時も皆の足元や状況から目を離さず、眼差しを送りながら衆生を加持し続けられた。右肩の関節に軟骨組織がない中、呪文を唱え、観想し、法本を唱え続け、分け賜った供物の数は4000以上にも達した。これが身体に降りかかる負担は想像しきれない。火の供養を修める時間は、3時間にも及び、リンポチェはその間、休むことなく続け、時間が遅くなっていこうと、あたりが暗くなってこようと、リンポチェは僅かな懐中電灯の光の下で、呪文を唱え続け、法を修め、余すことなく全ての生命をかけて衆生へ利益された。

もし大菩提心と金剛乗の殊勝なる成就を持ち備えていなければ、この室外の厳しい寒さの中、長時間法を修めることに、身体は耐えなく、しかもリンポチェは既に71歳の高齢者だ。しかし法を修める過程に於いて、微塵たりとも疲労を見せずに居られ、リンポチェの修行の成就は、誰もが讚歎した。

火の供養が円満に終了後、リンポチェは再度道場に入り、法座へと上り、大衆に殊勝なる仏法開示を賜った:今日は寒いので、あれだけ走れば、あなた達の身体も少しは温かくなったであろう。(大衆は声を揃えて上師に感謝を述べた)多くの者は、日頃から運動をしない、だから今日はあなた達に運動させたのだ。日本の信衆にもこの諸菩薩の慈悲を理解して欲しい。諸菩薩はずっと我々に殺生をしないよう促している。殺生を行わぬために、我々は肉を食べない。全ての病や世間一切の災難、風災、火災、水災、戦争も含め全部は、殺業から始まったのだ。我々は全ての人に肉を食べるなと促すことは出来ない。仏は縁がある人を済度する、縁があるから法会に参列する。上師である私は必ずあなた達に伝えなければならない。もしあなたがただ法会に参列しただけで、あなたを守ってくれと言うのは、無理な話だ。あなたは言う事を聞かないのだから、仏菩薩があなたを守りたくともそれが出来ない。なぜなら、あなたに食べられた衆生は、なぜ人間から私を守らなかったの?と問うからである。

西洋各地では、知識と科学を理解している多くの者は素食を大いに勧めている。ドイツの法律では、一般のレストランは素食のメニューを設ける事を明確に記されていて、政府部門の官職の方々が会食をする場合は必ず素食にする。人類はこの数千年で、多くの戦争や災難があったが、これは仏経でいう「刀兵劫」で、戦争で殺される事だ。どこで戦争が起っても、このような苦痛は凄まじく悲惨である。ある地方に住む人達は、本来なら心安らかに楽しく暮らせるはずだったが、戦争が原因で人々はあちこちに離れ離れに流されてしまった。日本は今戦争の痛みがなく、皆安楽の日々を送っている。この安楽の日々はあなたが神に求めたり、科学で得られる物ではない。これは諸仏菩薩が我々に教えた仏法を、人々が努力して行なう事に完全に頼っているのだ。このような努力は、全ての人類ができることではないが、人類が努力し始めれば、少なくとも自分の身に起こるはずの事故を減らせ、少なくとも、身の周りの人達に影響を与えて、一緒に取り組む事で、このような災難や苦痛、病気を減らせる事ができる。

私はよく、仏法が私の身で効果が出なければ、私は一人の上師リンポチェとして失格であると言う。午前中にも言ったが、私は皮膚癌を患っていた、本来であれば寿命は短いはずだ。私の家族で男子は60歳までは生きられない。私の代で初めて変わった。それは大金持ちになったので生活習慣が変わったのではない。私の家族は、以前養蚕業を行っていた、殺業が実に重い、だから男は60歳まで生きることは出来なかった。私の父も同じく60歳まで生きられなかった。父は多くの善事を行ってきたが、やはり殺業が重い為、寿命は短かった。私の代で、私が仏を学び初めてから全てが変わった。兄弟姉妹の中で私だけ、素食し仏を学び修行をしたので、私だけ皆より健康である。

仏は私達を騙す事はない、又我々に無理やり押し付けることもしない。仏が説くのは、誰もが行えることだ。あなたの決心があるかないかによって決まる。決心がない人は、たとえ仏があなたの目の前におられても、あなたに何の役にも立たない。ある人は、聞くのは好きだが、実行に移さない。自分は聞いた事があるし、実行に移そうかも考えたというが、実行に移すか移さないかは、あなた自身で決まる。今日は皆1日よく頑張った、この71歳の私も頑張った1日だ。私があなた達と共に過ごしたこの1日によって、あなた達が仏菩薩と上師の加持を得られ、あなた達が比較的容易に決心がつくよう希望する。

人生はあっという間に数十年経ってしまう、あなたがどの領域でどれだけ大きな表現を示そうと、あなたの生命に対してはどうしようもない。時がきたら、誰もあなたを助けることはできない。ただ仏菩薩と上師だけがあなたを助ける事ができる。誰もが皆今は修行等しなくていいと思っている。修行はあなたの生活習慣を変えるものでもなければ、あなたに何かを諦めるよう求めているものでもない、ただあなたの人生の経験法則を変えて欲しいのだ。釈迦牟尼仏は2500年前、自ら仏果を証し、その修行の経験を伝えられた。

去年(2017年)私は500名の弟子を連れて、舎衛城へ向かった。そこは、釋迦牟尼佛が晩年仏法を教えた場所である。そこには猿がいるが、他の場所にいる猿とは違って、おとなしく人間の後ろに座っていて、あなたの物を奪おうとしないし、あなたの鞄も取ろうとしない。おとなしく座っていて、修行人がそこを通ると、道を譲ってくれる。私は今までこのようにおとなしくしている猿を見た事がない。釋迦牟尼仏が以前仏法を説いたこの聖地では、動物までも性格が違う。これは仏が我々を変えてくれるという証だ。あなた達は改めるかどうか、自分でよく考えなさい。たとえあなたが現在、どれだけ楽しんでいようと、何かに執着していよう、時間が経てばそれらはあなたに属するものではなくなる。世間であなたに就いて一緒にこの世を離れるものはない。我々仏法を学ぶ者としては、生生世世全ての借りを返し、阿弥陀仏の下へ行って、これ以上輪廻の苦を受けない事を願っている。

最後に護法を修める、皈依していない者には法本がない。我々は護法が今日の法会を護持し、一切順調に終えた事に感謝する。今日は80歳にもなる方や、動くのが不便な方も居られて、こんなに走り回っても問題は無かった。通常なら、こんなにあちらこちらに走り回ったら、転ぶか何かあってもおかしくない。だが、どれも護法に保護されているお陰で何も起こらなかった。それは私が、法を修める前に、護法へ今日法会に参列する皆の障害を取り除くよう、一切順調に終えるよう祈り求め続けたからだ。だから、我々は護法を修め、護法へ今日我々を助けてくれたことを感謝するのだ。

そして、弟子達が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにマンダを供養する事を祈り求めた。リンポチェは慈悲深く了承し、出家衆及び日本信衆が衆生を代表してマンダを捧げて供養した。リンポチェは以下のように開示された。マンダを捧げる儀軌の中には深い意味が含まれている、それは、私にとって良いのではなく、実はあなた達にとって良い事なのだ、今度又解説しよう。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達を率いてアキ護法と回向儀軌を修められた。法を修めた後、リンポチェは続けて開示された:
今日は1月13日、日本人にとっては新しい一年の始まりの第一ヶ月目である。中国人は旧暦を使うので2月が一年の始まりだ。どちらにしても、今年は土犬年で、土は厚く重みを指す。例えば、今年起こる様々な出来事に対して、誠実に対応し、他人にも寛大な心で接して、善事を多く行えば、世間で起こる全ての騒動や混乱、天災も含めて、あなたとは無関係になると言う事だ。もし、この土の年で、頭を使うのが好きで、計算高く行っている者には、今年は不利であろう。毎年決って特色があり、仏法は我々にどのように自分の身に起こる傷害を避ける事ができるかを教えてくれる。又、善の方面でどうやって我々の福報を貯めれるかも教えてくれる。

今日一日皆ご苦労だった、多くの者はそれぞれ異なる地方から法会に参列したが、今日の法会で得た功徳はあなたのこの一生や未来世でも助けになるよう願う。これは、あなたのある欲望を満たす為の物ではないが、あなたが未来で仏法を学ぶ際の障害を取り除く事はできる、それはこの一生、又は未来世だ。私の重要な役目は、私と縁がある如何なる衆生全てが、地獄道、餓鬼道、畜生道に堕ちる事を阻止することだ。これは私が発した願力である。なぜなら、三悪道に陥ると、仏法を聞けなくなるし、仏法を修行できなくなる。単純に次も人間であるよう願えば好いというのではない、戻っても同じ苦しみを受けるだろう。釈迦牟尼仏は我々に阿弥陀仏浄土へ往生できるよう発願するよう教えた。たとえ、あなた達が私の程度まで修めていなくとも、この願力があれば、あなた達が浄土へ行ける機会はあるし、苦痛は大幅に減る。

今日、あなた達に行った事全てが、あなた達に利益となることを、そしてあなた達が仏の説いた話を聞き入れ、実行するように望む。何かしらの理由をつけて、先延ばしにするのはもう止めなさい。時間は一日、一日と過ぎていく、一年なんてあっという間に終わる。私も一日一日過ぎていき、地球に居れる時間も一日一日減っていく。あなた達に気を付かせたり、叱ったりする時間も日に日に少なくなっている。前にも言ったが、以前香港に居た時は、一日も海鮮を欠かせなかった。それなのに食べるのを止めたのは、宗教の観念からではなく、私が人間の身勝手で多くの衆生が傷つけられている事を深く理解したからだ。現在科学的にも医学的にも、人類が肉や魚を食べる事で多くの病に罹ることが証明されている、だが人間はそれを聞き入れないから仕方がない。

私は現在71歳になる、だからあなた達にとやかく言う資格と条件が私にはある。人が年を取る際に有利な事はこれだ、若い時には人に一日中かれこれ言うことは出来なかったが、歳をとれば自然と経験がある。私は小さな修行経験から、皆に不殺生は自身の慈悲心を培うのだとはっきりと伝える事が出来る。あなたが慈悲心を培い始めると、一切善を行う力が倍になる。倍になった善の力はあなたを助け、あなたが過去に起こした悪の力量を減らす事ができ、押さえつける事さえもできる。これは仏が我々に教えてくれた方法で、あなたが自ら意を決して行えば、必ず変えることができる。私の皮膚癌さえも治ったのだ、ましてあなた達の小さな事情ならば尚更変えることができる。あなた達は必ず聞き入れ、実行することだ。もし、何か疑問があれば、随時私のホームページへきて問うがいい、私は見たら必ず返答をする。皆が今年一年順調に送れるよう希望する、一切が吉祥平安であるように。

午後6時、長寿仏の火の供養は円満に終わり、弟子達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの開示に大変感謝した。そして立ち上がって尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを見送り、その場から去る際、貴重な長寿仏長寿団子と寿酒を恭敬心を以って受け取った。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが主法された長寿仏法会と長寿仏火の供養は、皆に直接仏菩薩と本尊に供養し、助けを必要とする一切衆生全てに布施し、素早く仏を学ぶ福徳の果報と智慧の命を累積するする機会を賜った。法会終了後は、空から雪が降り始めた。それは諸天護法が殊勝なる法会に賛嘆し、無数の現地衆生に利益する事を顕していた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは絶え間なく、日本で仏法を広めておられる。それは、日本及び世界平和の為、不可思議な加持力を持ち、無数の六道衆生に利益し、民衆に正統仏法を徐々に理解させ、受け入れさせ、日本国家及び人民に仏法の限り無い功徳と庇蔭を受ける機会を得られる様にする。

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2018 年 05 月 30 日 更新