尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示– 2017年7月16日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、参加者全員に貴重な仏法の開示を下された。

リンチェンドルジェ・リンポチェは大衆を率い、観音法門六字大明呪を唱えられ、続けて《普門品》を開示された。

今日は《普門品》の開示を続けよう。前に無盡意菩薩が觀世音菩薩を供養された事を開示したが、その中の「愍」とは悲憫即ち悲しみあわれむことである。なぜ衆生を悲しみあわれむのか?それは衆生はすべて苦海の中の輪廻にあり、この一生で何を学ぼうとも、この世で学んだ如何なるものでもあなたが輪廻、死亡の苦痛から解脱する助けにはならないからである。それは仏にしか出来ない。仏法を学ぶと言わず、仏法を聴聞する事さえ福報がいる。故に無盡意菩薩は釋迦牟尼佛に觀世音菩薩が衆生をあわれむ様願ったのである。觀世音菩薩が悲憫の心をもって供養を受けて、始めてあらゆる有情衆生をして、未来に福徳因縁を有し、仏法を聴聞学習してさらに生死を解脱出来るのだ。無盡意菩薩の供養は衆生が觀世音菩薩と縁を結ぶことを助ける。どんな縁なのか?あなたに子供が出来たり、結婚がうまく行ったり、仕事が順調だったり、体が健康だったりすることではなく、主にあなたに来世で諸菩薩の教えや済度を得る機会を与え、輪廻の苦海から救い出すのである。

この一生で慈悲心、菩提心を学わなかった者は、衆生の六道輪廻の苦海の苦を体得する事が全然出来ない。2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェがラキ雪山で閉関修行をなされた時、六道衆生が苦海で受ける苦をその目で見て、リンポチェは二日余りも涙された。この嘆きは衆生の苦を感じたのではなく、衆生の輪廻の中の苦は如何にもならず、どうやってこの輪廻から離れればいいのかさえわからない苦であった。修行を終えた後、リンチェンドルジェ・リンポチェはディクンチェツァン法王にこの事を報告すると、法王はリンポチェはすでに空性を証したと言われた。もし、空性を証したのでなければ、そなたが体得した一切はそなたの意識から出たもので、簡単に言えば自然に生まれ出たものではない。ディクンチェツァン法王は常にリンチェンドルジェ・リンポチェの修行は、自然に修めえたものであると開示されている。自然とは人為的ではない、想像して出来たものでもない。兎に角やることで、やればある日因縁が熟し、その境地と果報が自然と現れる。それは考える必要は無いし、発願する必要も無い。あなた達のように終日発願している様ではない。何が発願だ?すべて執着だ。

《普門品》のこの段落はとても重要だ。重要なのは、あなた達がこの法会に参列することが出来なく、またその資格が無くても、《普門品》のこの段落の開示を聴聞する事ではっきり供養の意味が何処にあるかを知れば、あなたは観世音菩薩と縁を結ばれる。観世音菩薩像を奉り、終日大悲呪を唱え、大悲水を飲めば、それで観世音菩薩と縁を結ばれると思ってはいけない、全然駄目なのだ。何故ならあなたはまだ六道輪廻の苦を信じず、仏を学ぶとは慈悲心と菩提心を修めることのほかならないと信じず、相変わらずしたい放題で怠けている。

あなた達は日曜日に法会に参列することを娯楽だと思っている。外で遊ぶより安上がりで、何百元か出せばクーラの効いた場所で、講演が聴けて、真言を唱えることが出来、仏菩薩のご加持も得られる。昨日ある弟子が謁見を求めてきた。彼は幼いころから皈依していて、このたび二ヶ月の日本出張を命じられたが、その間法会のテレ法会を見る許しを求めた。彼は跪いたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が学んでいないことを見抜いていた。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたは学んでいないのに、なにをテレ法会を見るというのだ?彼はたしかに学んでいなかった。そして嘘もつけなかった。彼が日本に行くのは、少し余分にお金を儲けたかったし、日本語も良く話せなかったので、日本で何か事が起こるのが少し恐ろしく、テレ法会が見れなくて、アチ護法が修められなければ如何しようと思い、助けを求めて来たのだ。あなた達は上師を騙すではない。彼はどれくらいの間上師を騙したのだろう。リンポチェは前から口には出していない。リンポチェはとても辛抱強いのだ。あなた達は千名余りもいるのだと思ってはいけない。リンポチェが知らないことは何も無い。何時言い出すかだけである。思い上がるのなら、リンポチェに謁見を求めなくして見ろ。彼はこの世界で誰も知らなく、アチ護法も未だリンポチェに伝えていないと思っていた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に、今日の名簿のうち、テレ法会を見させないのは何名おると問われた。弟子は、24名と答えた。リンポチェは開示された。これ等はすべて仏寺の護持をせず、金儲けに忙しい人だ。金を儲けても供養心がなく、見る必要が無い。あなた達は台湾にいて近いので、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達が来るのを断ることが出来ない。しかしリンポチェの目の前でも言うことを聴かないのに、ましては遠く国外にいて、言うことを聴くわけがない。テレ法会を見れば加持を得られると思っているのか?リンポチェは加持をしてやらない。昨日この弟子のことでリンポチェが思うには、あなた達多くの人が国外で金儲けをし、男女友達が出来ても、調べてみるとこれらの人はすべて仏寺の供養をせず、縁がない。

仏経の話はすべて精密で正確だ。大菩薩の慈悲は、あなた達が物にならないと知りつつ、又機会を与え、因縁を作り出そうと助ける。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日これを求めるのだが、衆生がこの縁を受け取ろうとしないので如何にもならない。

經典:「即時に観世音菩薩は、諸々の四衆及び、天、龍、人非人等を愍んで、其の瓔珞を受け、分って二分となし、一分を釈迦牟尼仏に奉り、一分を多宝仏塔に奉りたまえり。」

はっきりと見なさい、ここでは六道有情衆生とは言わず、「四衆」と言っている。四衆とは戒律を守る比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷を指す。仏は出鱈目を言わない、精密で正確なのだ。上師の教える仏法を行わないのは即ち怠惰であり、四衆の列に入らない。天、竜、夜叉、阿修羅、これ等は天竜八部ですべて仏法を護持する誓いを立てている、これ等は好い。皆さんは家に帰ってから良く考えて見なさい。精進したか?戒律を守ったか?もしそうでなければ、唱えた《普門品》はそなた達と関係が無い。仏経では六道有情衆と言った事がある。もし、釈迦牟尼仏や観世音菩薩が瓔珞を収めたとき、あらゆる六道衆生を助けるとされたら、六道有情衆と言うが、此処では四衆としか言わない。

皈依していない者は観世音菩薩の保護する範囲内に居ない。観世音菩薩が依怙贔屓するのではなく、縁がないのだ。なぜかと言えばあなたは輪廻苦海を離脱しようとはせず、皈依しようとしていないのは、即ち上師の監督を受けたくないからで、今日聴聞してよければ続けて来るが、良くなければもう来ない。はっきり聴きなさい、これでは絶対にあなたを保護しない。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏経に沿っていっているので、決してあなた達を恐喝しているのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは新聞で見たことがあるが、交通事故で亡くなった者で、その車には観世音菩薩の御影が飾っており、道理から言えば事故で亡くなるはずが無いのだが。《普門品》によれば、誰でも助けられたはずだが、なぜ事故で亡くなったのだろう?それはその者が四衆ではないからである。

優婆塞、優婆夷は在家の男居士、在家の女居士ではない。もしそうならば仏経では在家の男居士、在家の女居士と言うだろう。優婆塞、優婆夷は在家で仏法の修行をする方で、これ等の方が始めて仏菩薩や観世音菩薩と縁があるのである。それは正にリンチェンドルジェ・リンポチェが閉関された時、衆生が輪廻に苦しむのを見て、衆生を救って六道輪廻の苦しみから解脱させる弘願を立てた如くである。もし衆生がこの様な考えが無ければ、上師はどうやって助けるのであろう?それはあたかも大学に行く気が無いあなたに大学入試でいい成績を取って大学に行かせても、よく勉強しないし、大学を終えて、修士の勉強がしたくないのなら、修士には進まないだろう。それと同じである。

人々は仏経を良く見ていなく、読み過ごせばそれでいいと思っている。仏は真実を語っており、すべての文字は絶対に衆生が仏を学び修行をする事と関わりがある。一文字も多くなく、一文字も少なくない。あなた達に阿諛追従することも無く、絶対にあなた達の耳に優しい話もしない。釈迦牟尼仏の開示の各文字は非常に精密で正確なのだ、余計な文字は一字も無く、また一文字足らないことも無い。もし、今日の供養が六道衆生と縁を結ぶことが出来るのならば、此処では六道有情衆と言う。観世音菩薩は大菩薩で、その仕事は衆生を助けて輪廻生死を解脱し、浄土に行かせる事であるのだが、あなた達が十善法を修めなければ、どうやって行くのだ?十善法の第一は皈依である。多くの人は自分は未だ若く、未だ死なないと思っている。

リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子に開示された。戒律を守らず、比丘尼戒を守らなければ、四衆と言えない。いくら大悲咒を唱えても役に立たない。在家衆も同じである。五戒を伝授しても、守らなければ、いくら唱えても役に立たない。あなた達は何でも上師に頼る。経典には供養を受け取ったら、この四衆は生死を解脱することが出来るとは言っていない。ただ、四衆を哀れみ、観世音菩薩と縁を結ぶ因縁福報を与えて、観世音菩薩が上師を通してあなた達に生死を解脱する術を教えるだけである。前に話したように、あなたが大海原にいるとき、浅瀬までは助けるが、その後は自力で岸に登りつくのである。仏は無駄口を言わない、何千年このかた、これ等の話は一文字も変えていない。多くの人が《普門品》を読んだが、どれだけの人がこの事に気づいたか?何故四衆といい、天竜八部と言うのか?これは依怙贔屓ではなく、仏法を護持する天竜八部は勿論生死を解脱するべきだし、四衆はすべて生死を解脱する準備をしている者で、はじめて観世音菩薩の教えを受ける資格を持つのである。

たとえば大学で聴講しに行き、この学部に入る気が無く、聴講だけして好きになれるかどうかを考える学生に、教授は注意を向け、点数を与えるか?当然それは無い。ならば、何故皈依せずに聴講するだけで修めることができ、時が来れば庇護を得ると思うのだ?それは不可能だ。ただ縁を結ぶだけであり、リンチェンドルジェ・リンポチェは心が優しすぎるので、あなた達の苦難を見て、少し助けただけだ。ただ少し助けただけで、今後リンポチェとの関わりは無い。あなた達は輪廻から解脱することを考えもしていないし必要ともしていないので、ただ一般の信衆に過ぎないからだ。

教えに依って奉じ行う、即ちあなた達は仏の教える事をよく聴き行うのであって、自分の考えで以って仏経が何を言っているのか考えるではない。何か判らなければ、学ばないほうがいい。はっきり判るには、徹底的に話しに従うことだ。あなた達の頭脳で仏菩薩や上師が何を考え、何をしているかを考えるではない。一部の大修行者は、終日他人の過失を見ているので、他人の功徳は見えない。同じように、終日上師の過失を見ていると、上師の功徳が見えなくなる;あなたが上師の功徳が見えなくなると、上師の功徳の大海原はあなたと関係しなくなる。あなたと関係しなくなれば、あなたがどれだけ唱えても用を成さない。多くの法本仏経があなた達に思い出させているが、あなたが上師の過失を見たと言うのは、すべてあなた達が考え出したのである。

法会が始まる前にあなた達に話をした弟子を、リンポチェは何度か助けている。少なくとも3人の家族を済度しているが、一般の相場では一回の済度で少なくとも何百万元はかかる。彼は月に何万元かの収入しかないので、リンポチェは何の要求もしていないが、彼は相変わらず言うことを聴かない。では、リンポチェは何故済度して上げたのだ?それは愚かなのは彼のことで、縁さえあればリンポチェは助けの手を差し伸べる。これこそ経典のいわゆる哀れみと思いやりに符合するからだ。菩薩は何も求めない、ただしあなた達は実践しなければいけない、実践しなければいくら唱えても何の役にも立たない。

經典:「無尽意よ、観世音菩薩は、是の如き自在神力あって、娑婆世界に遊びたもう。」

自在とは何もしなくても出てくる神通力。何かをするとはある特定の対象に良くする、それはある境地に対して良くし、他に対してはそうでないのかも知れない。もっとも重要な自在は生死自在である。生死自在とは死ぬのが怖くないのではなく、好きだと思えば勝手に生まれ出るのでもなく、また死にたくはないでもない。意味は、彼がこの俗世に居る事で人類に助けが有るならば彼は生まれ、死亡を以って俗世の人に示現し、それが彼らの修行に役立てば、彼は死亡する。あたかも釈迦牟尼佛が七十何歳で亡くなるか?不可能だ。何故彼は死亡を示現するのだ?それは衆生にあなた達は死ぬのだと教えているのだ。今、私は未だ若いので死なないと思ってはいけない、必ずしもそうではない。死ぬのであれば、早々とその準備をしなくてはならない。その時が来て、誰も手助けが出来ないのでは駄目だ。常にリンポチェが居ると思っては駄目だ、上師も無常である。

あなた達は先週リンチェンドルジェ・リンポチェが施身法を修めた後、突然入定されたのを見たと思うが、それが無常で、リンポチェはいつでも去ることが出来る。あなた達に何時去るか言う必要も無く、とどまる必要がないと思えば去る。いくら願っても戻ることはない。多くの人は、入定とは良い木立を見つけその下で座禅をするものと思っているが、そうではない。大手印の禅定はどんな所でも入定することが出来、人が多いほど容易に入定出来る。彼の心はすでに外在内在の影響を受けず、もう動かない。

「是の如き自在神力あって、娑婆世界に遊びたもう。」此の意味は、観世音菩薩はいつも定の境地に居られるので、神通力が自在に現れる。もし煩悩や無明があれば、自在神通力は現れない。たとえば昨日弟子がテレ法会を見たいと求めたが、即時:あなたは学んでいない、と言った。これこそリンチェンドルジェ・リンポチェの神通力だ、いとも簡単に現れる。何故?それはリンチェンドルジェ・リンポチェは彼に要求するものが無いからだ。あってもしょうがない、彼は与え渋るからだ。求める物が無いので自在神通力が現れるし、彼が何をしたかもわかる。

「遊びたもう。」は観世音菩薩が彼方此方へ行くと言っているのではなく、その神通力は神足通を含むことを言う。神足通とは念頭が動けば加持力はすぐ及ぶことを言う。例えばポワ法を修めるとき、即ち念頭を動かし、慈悲念を動かして、この亡者と本尊と上師を結合し、神足通を行かせる。この亡者が何処にいても、彼のためにポワ法を修めれば、必ず相応する。

ドラブ・ワン・リンポチェが往生されて荼毘に付した後、その頭蓋骨には丸い穴が開いたが、それは彼自身が修め得たのである。彼の書物には特にその写真が載っており、信者に見せている。あなた達は此れを以ってリンチェンドルジェ・リンポチェが多くの亡者を助け、ポワ法を修めて頭上の梵穴に穴を開けることが、どれほど得がたい事かが判るであろう。密教では此れこそ神通が出現したのだと言う。多くの者は此れがどれほど得がたいものかも知らず、当たり前だ、名を売り出したいのでこの様に多くの者にこの法を修めていると言う。何故今あなた達に仏寺の護持をさせないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは大勢の衆生を助けたので、これ等の衆生はリンポチェを助けに来るので、あなた達に頼る必要は無い。あなた達は今後自分は悪い弟子だと言うではない、あなた達は「材に成る」とさえも言う資格も無い。材を成して後、始めて善悪の区別が出来る。少しでも学ばないとどうやって悪に成れるのだ?あなた達は全然材を成さない。言うことを聞かない。あなた達は竈にさえ入れることが出来ない悪材なのだ。

昨日一対の仏寺の供養をしていない夫婦が子供を連れて仏寺の供養をすることを願い出た。リンチェンドルジェ・リンポチェが子供に何処でその金を得たかと聞くと、子供は父母が与えたのだと言う。子供の母親は傍で子供のお年玉だと答えた。またしても上師を騙している。この夫婦は彼らは護持できないが、子供が護持できれば、全家族に福報があると思ったのだ。兎に角リンチェンドルジェ・リンポチェを騙そうとしている。もし彼らにその心があれば、早々とそうしただろう。いまこういうことかと聴けば聴くほど怖くなり、機会があれば騙そうとする。リンポチェは彼らの供養は受け取らなかったが、子供の心は受け取った。子供がその気になれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは直ぐに分かる、彼の父母とは関わりが無い。誰もがリンチェンドルジェ・リンポチェの凄い事を知っているが、どれくらい凄いのか知らない!みんな心して仏を学んでいない。

「娑婆世界に遊びたもう」は神足通を使ってのこと。「遊びたもう」は或る道場に定まっている事ではない。多くの人は観世音菩薩の道場は何処何処にあると言うが、それは重点ではない。観世音菩薩の法身は或る我々の知らない空間に定まっており、そこが彼の道場なのか?そうとは限らない。一尊の法身菩薩をこの様に変えてはいけない。ただ、或る所の観世音菩薩の加持力が特に強いのは、そこの縁がより深く結ばれているのかも知れない。

娑婆世界に遊びたもうは固定していない。娑婆世界は地球だけではなく、観世音菩薩は全銀河系の中の一切の六道有情衆生と縁を結ぶ。

經典:「その時に無尽意菩薩、偈を以って問うて曰く。世尊は妙相を具えたもう。」

仏経の中には多くの偈がある。前に多くを語ったが、後になって再び語る、これはあなた達が良く判らないのを恐れるからである。あなた達が如法の上師に出会い、仏経、仏の説く意味を解釈することが無いのを恐れて、より簡単な言葉ではっきりと濃縮し、簡単にされたのである。仏の知恵は、末法時代の衆生は愚かで、あなたがどれ位の学問があり、どれ位の権勢や富を持っていても、絶対に諸仏菩薩の知恵には及ばないことを知っている。たとえ大発明家で多大な富を儲けても、それはあなたの福報だけである。この偈は前に話したことや起こったことを濃縮して、その重点、キーポイントを述べ、後から来る末法時代の衆生に重点は何処にあるかを体得させるのである。

「世尊は妙相を具えたもう」世尊とは当然釈迦牟尼仏の呼称である。仏であれば、絶対に三十二相八十種好を備える。仏は仏の相があるのだ。ある人が自称生き仏と言っても、もし仏のこれ等の相が無ければそれは違う。これ等の相は仏が去った後現れたのではなく、仏が在世で証果された時、すでに現れている。仏の足は法輪を踏んでいるが、或る者が仏を偽装しようとして、鉄を足の裏に焼き付け、結局足の裏が糜爛し、最後には釈迦牟尼仏がそれを治してあげたことがある。ゆえに仏を騙る者は悲惨な目にあう。仏には仏の相があり、菩薩には菩薩の相があり、阿修羅漢には阿修羅漢の相があり、戒律を守る者には戒律を守る者の相があり、密法を修める者には密法を修める者の相がある。全てはっきりしている。

經典:「我今重ねて彼に問いたてまつる。仏子何の因縁ありて名づけて観世音と為すや。妙相を具足したまえる尊。」

われ再び問う。

佛子とは観世音菩薩をさす。《佛子行三十七頌》(日本語訳:三十七の菩薩の実践)の内、一つでも行わなければ、仏の弟子とは言えず、ゆえにあなた達は仏の弟子と言えない。もし一つでも行えたら、三十七分の一の仏弟子だ。皆言うことを聴かない。境地が現れた時、三十七頌どころか三頌も覚えていないだろう。好き勝手なことをして、自分の感じばかりを重んじる。上師が救いの手をさし伸ばさねば上師を罵り、仏菩薩が手伝わなければ、そうと知ればこの本尊を修めず、他のを修めたと言い、皆はそっちの方が願いがかなうと言った。此れは仏を誹謗している。そんなに多くの本尊を学んで如何する?あなたは衆生を済度するのでもないし、観世音菩薩一尊だけでもあなたが一生涯修めるに足り、あなたは時間さえ足りないのだ。今の台湾人はとても貪欲だ。リンポチェが来られると毎日灌頂をせがむ。此れを灌頂したりあれを灌頂したり、それでいて全然修めない。結果的には来世修めることになる。灌頂さえすれば修めなくてもすむと思っているのか?佛子と言える者は幾人も無い。あなた達は仏弟子と思うな、皈依していない者は尚更である。

「妙相を具足したまえる尊」、一切の大菩薩の相を具備し、人々は自然と彼を尊重する。

經典:「偈を以って無尽意に答えたもう。汝観音の行を聴け。善く諸々の方所に応ず。弘誓の深きこと海の如く、劫を歴ども思議せられず。多く千億の仏に侍えて、大清浄の願を発したもう。」

釈迦牟尼仏は無尽意菩薩に答えた。仏曰く、あなた達はよく聴くがいい。観世音菩薩のあらゆる行為は全て十善法を以って応じられる、あなた達の欲望を満足させるものではない。あなたが子供の試験成績が良くなるように願っても、観世音菩薩はあなたに応じられない。もしあなたが十善法を修め、慈悲や菩提心を修めるのであれば、どの様に願っても相応される。もしあなた自身のためならば、相応されるとは限らない。

「善く諸々の方所に応ず」、「方」とは方向が無いことだ。十方一切の衆生は、十善法さえ用いて、修行方面で観世音菩薩に願えば、必ず相応される。どの道とは限らない。この句の第一文字「善」はとても重要だ。あなたが十善法を修めていなければ、いくら大悲呪を唱え、大悲水を飲んでも役に立たない。全ては十善法を基本とするからだ。皈依していない者は、必ず十善法を修めていない。

「弘誓の深きこと海の如く」、観世音菩薩が仏や衆生に対する承諾は、とても広く大きく、限りが無い。或る部族だけ助けるとか、何かを修めた者だけを助けるとか言う境界が無いのだ。一切の誓いは、全て衆生を利益するためであり、自分のためでもなく、特定の部族のためでもない。衆生や仏に対しての約束は海よりも深いのである。科学が現在のように発達しても、いまだに海の深さを計り知れないし、またそこに到達することも出来ない。つまり、あなた達のような俗人には、観世音菩薩がどの様な誓いを立てたか判らないのである。あたかもあなた達にはリンチェンドルジェ・リンポチェの誓いがどれほど深いか判らないのと同じである。リンチェンドルジェ・リンポチェの誓いはあなた達にとって海の如く深いのである。リンチェンドルジェ・リンポチェを表面から見るとそうでもないように見えるが、もし誓いが無ければ、また諸仏菩薩、上師、衆生に対する約束を果たせなければ、どうやって入定出来るのだ?

大手印の入定と始めて禅定を学んだ者が目を半開きにするのとは同じでは無い。密法の入定は目を見開いている。もし目を閉じれば、多くの問題が起こる。我々の眼を制御するのは最も難しい。目の前の何かが動けば、目はそれにつれて動く。風が吹いただけでも目は動く。目が動かなくなるまで訓練が出来れば、それは気が動かないことを示し、心は自然と定まる。ある出家弟子は座禅を十数年学んでいるが、いまだにその域に到達することが出来ない。今その原因が判った、密法を学んでいないからだ。

観世音菩薩の誓いは絶対に只立てるだけで行わないのではなく、行っても行えないのでもない。立てれば必ず行うのであり、行えば必ず成し遂げる。此れでこそ本物の誓いだ。多くの者は阿弥陀仏に習って48の願いを立てるが、それは間違いだ。阿弥陀仏がこれ等の願いを立てたのは成仏する直前のことで、その時すでに法身大菩薩であり、自分の果報が必ず仏果に成ると知った上で、48の大願を発したのである。あなた達は何も出来ていないのに、めちゃくちゃな多くの願いを立てている。或る者は100万人を済度して出家させるとか言っているが、台湾の出家衆は100万人も無く、中国の出家衆すら100万人も無い。この様な発願は余計だ。もし未来永劫100万人を済度して出家させるとでも言うなら、未だ受け取ることが出来る。行う自信があり、行う能力がある約束ならば、口にするがいい、最もいいのは自分で出来ることだ。例えば:今後激怒しないと上師の前で誓うとか、此れなら自信があるだろう。もしも衆生を助けると言うなら、自分の事さえうまく行かないのに、どうやって衆生を助けるのだ?前に教えたことがあるが、瞋恚の深い者は常に観世音菩薩を敬い念じなさい;淫欲の深い者は常に観世音菩薩を敬い念じなさい;愚痴を言う者は常に観世音菩薩を敬い念じなさい、此処から始まるのだ。自分の心の中に多くのおかしな考えが溜まっているのに、他人を済度すると言う?自分でさえ済度出来ないのに。

「劫を歴ども思議せられず」、立てた誓いは一生でもなく、一世でもない。衆生さえ六道輪廻に居れば、誓いは続けて存在する。この様な願は一般の菩薩が立てれるものではない。例えば地蔵菩薩が立てた願い:地獄が空にならざれば誓って成仏せず。この様な誓いは仏だ。

「多く千億の仏に侍えて」、「侍えて」とはかって千億以上の仏を供養したことがあること。一般に仏経を唱えて供養するだけでは千億の仏を供養することは不可能で、これは密法で始めて出来ることだ。千億の仏を供養出来るとは、法身菩薩であることを表している。密法を習う過程で、我々にどうやって千億の仏を供養するかを教えている、一尊の本尊ではない。如何するのかは話さない、何故なら多くの人は密法を学ぶ資格が無いからだ。あるいは坊間では教えるかもしれないが、リンチェンドルジェ・リンポチェは歴代の祖師が教える方法を守る。顕教さえ良く修め得ないのに、どうやって密を学ぶ?顕教を修め得るとは仏の教える全部の根本原理を全て受け取り、しかも間違いを起こすことが無くなって、始めて密を学ぶことが出来る。あなたが学ぼうと思っても直ぐ学べるのではないのだ。多くの者が密を学べないと心配するが、心配する必要は無い。もしあなたに根器があれば、上師は自然と教える。根器が無ければ、どうやって教えるのだ?さらに、あなたは改めたか?それでも未だか。あなたはこう言うかも知れない、学べないのなら学ばなくてもいい、と。もしそうであれば、顕教もあなたと関わりが無い。欲張るではない。仏が話す道理、一切の理論をあなたは受け取らないのならば、何の資格があって密法を学ぶのだ?多くの者は密法を学んだ方がより早いと言う間違った見方を持っている。確かにより早い、だが、まず第一の関門を通過しなくてはならない:十年顕教。通らなくて、如何密を学ぶのだ?

「多く千億の仏に侍えて、大清浄の願を発したもう。」《地藏經》で述べるが如く、地蔵菩薩曰く、仏の威神力を受けて、始めて衆生を利益することが出来る。つまり我々が成仏するまでは、修めて唱えたので、何かを変える能力があると思ってはいけない。多くの者がこの様な間違いを犯す、即ち:私はしっかり修めればいい、家で唱えればいい、私は彼の束縛を受ける必要が無いし、彼に叱られる必要も無い。皈依はしない、何故なら私は聞いた後考えるし改めるから。リンポチェは開示される:あなたはやはり改めない、皈依しないと言うことは改めないと言うことだ。上師が教えなければ、本当に何故こんなに多くの仏を供養しなければならないのかが判らないからだ。仏経では我々に此れほど多くの仏を供養するは、一尊の発心菩薩を供養するに如かずと教えている。しかし、此処で話しているのはすでに法身菩薩である観世音菩薩だ。観世音菩薩の修行過程は、凡夫から、証果菩薩、法身菩薩を証されて、仏果を証された。その修行の過程で、絶え間なく多くの仏に供養侍えておられる。侍えとは何か?それは仏の教えをその通りに行うこと。それは毎日何かを与えたり、助けたりする事ではなく、仏が教える事を聞き入れ行う事で、自分が正しいと思い、自分のの考えで行う事ではない。今時の者の間違いは自分の考えを用い、何故あなたの考えを聞かなければいけないのかと思う事だ。

諸の仏は彼の観世音菩薩を加持なされ、よって観世音菩薩の身口意は清浄を得て、大清浄願を発することが出来た。清浄願を発するとは、自己を一分たりとも顧みないと言う概念である。清浄願は法性より出でる。法性はわざとではなく、思考的でもなく、我々の意識を通して考え出したのでもなく、完全に自在の神通力の現れで、完全に衆生を利益する為であって、この様な清浄の願いで始めて役に立つ。諸仏は一切清浄で、少しの人の世の理論、物質、思想も混ざっておらず、少しの埃さえない。この様な清浄願を発してこそ、真に衆生を利益することが出来る。

自分が清浄の願を発したのかをどうやって知る?それは諸仏菩薩に基づいて発した願、上師の認証に基づいている、そんな願こそ清浄な願である。百冊のお経を唱えて誰かに回向する、此れは願ではない、出鱈目だ。あなたがどれだけのお経を唱えて誰かに回向する、それは只彼と縁を結ぶだけで願ではない。願は自己を済度し、他人も済度するのだ。誰かにいい日を過ごさせる為に彼に回向する、此れは願ではない。今時仏を学んでいない者は自分の寿を減らして母に譲り、母の体を丈夫にしたいと言うが、それは願ではない。仏経には寿を母に譲れるとは言っていない。

「大清浄の願を発したもう」、何を以って発する?菩提心。あなたの考えや、あなたの要求ではない。ある者はこう言う:観世音菩薩が私の病を治してくれれば、私は大きな願を発して多額の寄付をするとか、大きな願を発して仏寺の為に仕事をし、ボランティアになるとか。此れは脅迫だ。発願は菩提心が無くてはならない。完全に苦海中の衆生を助けるのであって、自己はない。あなた達は「自他交換」の様に簡単な菩薩修行法門も修めきらず、修める勇気も無いので、終日喧嘩をし、こいつは気に食わないとか、あいつは良くないとか言っている。あなた達は喧嘩に皈依したのだ。菩提心が無ければ、清浄願を発することが出来ない。何故我々は菩提心は妙なる宝と言うのか?我々が菩提心を発し、菩提心を修めさえすれば、行った一切の事の功徳は、一般凡夫が行ったのと比べ、幾千万倍大きいか判らない。多くの者は菩提心の重要さを知らない。ボランティアになるのは菩提心を発したのではなく、縁を結んだだけだ。あなたと仏菩薩、仏寺、出家衆との縁を結んだだけだ。これはあなたが菩提心を発するのとは大きな距離がある。仏が語る一言一句には全て本当の意味を含んでいる。

經典:「我れ汝の為に略して説かん。名を聞き及び身を見たてまつり、心に念じて空しく過ごさざれば、あらゆる苦しみを能く滅せん。」

釈迦牟尼仏曰く、あなた達のために簡単に説明しよう。「名を聞き及び身を見たてまつり」。観世音菩薩の名前を聞き、観世音菩薩を見る。ある者はこう問う:夢の中で見たり、観世音菩薩の仏像を見た事は勘定に入るか?と。全て勘定に入らない。此処で言う「身」とは、あなたがしっかり観世音菩薩の慈悲法門を修めると決心して、始めて観世音菩薩の三身――法身、報身、化身を見ることが出来るのだ。あなたが大悲呪を唱え、有情衆生に回向すれば、観世音菩薩の身を見れると思うではない。この身は業報身ではない。あなたはこの《普門品》と言う仏経を見れる。見れる、中の解釈を聴聞出来る、此れは全て福報因縁が要る。リンチェンドルジェ・リンポチェが今《普門品》を開示しているのは、観世音菩薩の法身はどの様にして修め得たのかを開示している。

「見たてまつり」はあなた達が考えているようではなく、実際にはっきりと一尊の観世音菩薩があなたの前に居られるのを見るのだ。観世音菩薩は我々のような業報身で現れると思っているのか?あの32の応化身で衆生を済度するのを除いて、絶対に不可能だ。多くの者は2~3年大悲呪、《普門品》を唱えただけで、見たのは観世音菩薩に似ていると言う。リンチェンドルジェ・リンポチェはそう言わない。

あらゆる観世音菩薩と関連する仏経、仏像はすべて化身だ。もしもある具徳の上師が観世音菩薩法門を開示されて、それをあなたが受け取り、聞き込めみ、法の如く行えば、即ち報身を見たことになる。もしもあなたが輪廻を解脱することを決心し、仏果を修め、阿弥陀仏の御許に行く願を発し、しかも生涯絶え間なく大乗仏法を修めていれば、あなたがこの世を去るとき、法身菩薩を見る資格が有る。生きているうちに見れるのはほぼ不可能だ。あなたが法身を証すれば話は別で、法身菩薩を見ることが出来る。報身でさえ見れないのに、法身が見れる筈がない。仏はこの段落を特に語っておられる。

「心に念じて空しく過ごさざれば」、あなたがこの果位まで証すれば、自然と観世音菩薩の三身を見ることが出来る。「心に念じて空しく過ごさざれば」はとても重要である。

何故我々は常にある真言、ある仏号、ある菩薩の聖号を念じるのか?それは我々の意識の中で、自然に自動的にこの称号をはっきりさせ、我々の意識から我々の阿賴耶識まで、さらに阿賴耶識の中から禅定修行等々を経て、我々本身の清浄な法性と融合し一体と成さしめる為である。融合して一体と成った後、この法号この真言は特に思い出さなくても、衆生を利益することでさえあれば、自然と出てくる。考えることも無く、その速さはあなたの想像の及ぶところではない。我々が事を考えるには一定の時間が要るが、法性に入った後は、その必要が無い。自然に「ポン」と出てくる、とても早い。

「心に念じて空しく過ごさざれば」、もしあなたが前の事を全部やり遂げれば、あなたが心の中で念じるのは全て観世音菩薩である。即ちあなたは今の様に毎日をぼんやり過ごす――庇護が必要な時だけ唱え、庇護が不必要な時は唱えなく、庇護が不必要な時は聴かない。「心に念じて空しく過ごさざれば」、常日頃から上師、仏法、三宝、本尊を完全に受け入れ信ずるように自分を訓練すれば、あなたの一つ一つの念頭は空しく過ごす事はない。あなた達はよく一言の六字大明呪を唱えている時、ご飯を未だ炊いていないとか、子供が未だ帰って来ないとか、夫が未だ電話して来ないとか考える。これは空しく過ごしているのである。出家衆なら、一句となえてはご飯は未だかな?お腹が空いたとか考える。此れが空しく過ごしているのである。

「名を聞き及び身を見たてまつり」、聞くとは耳で聴くのではない。我々は観世音菩薩を修めていて、耳で真言を聴聞し、常に「聞所聞盡」である。「聞所聞盡」とはあなたの念頭が動かなく、耳でどんな音を聴いても、聞いた所で動かない、外在のいかなる声にもあなたの心を動かさせない、あなたは一句の真言のみである。

「及び身を見たてまつり」、あなたの目つきははいかなる外在、内在にも影響されない。あなたは只法身だけが見えて、他のものが見えても信じず、受け付けない。その一瞬あなたの心は空性の中に居て、あなたの念頭は只観世音菩薩だけに在り、それで始めて空しく過ごさない。簡単に言えば、あなたが世を去るその時、もっとも必要なのは此れである。日ごろ練習しなければ、往生する時に色々な念頭が起こり、あれこれ考えて、観世音菩薩がそこに居られるのでさえ知らない。

「聞名及見身」就是修行法門,修到大手印就是這樣。那一天為什麼故意入定?因為知道要講到這句話,所以先表演給你們看。如果單獨打坐,還有機會眼珠不動,你們一千多人坐在下面動來動去,仁欽多吉仁波切一點也沒受到影響。你們也沒看到 仁波切眼珠在動,你們有聲音,仁波切眼珠也不會動。除非 仁波切自己出定,不出定,你們在前面跳舞也沒有用,這就是修行法門。很多人無法解釋「心念不空過」這句話,是一直唸一直唸,晝夜六時在唸嗎?不是,涵蓋有禪定。釋迦牟尼佛每天度這麼多眾生,所以講話很簡單。所謂內行看門道,外行看熱鬧。你們都是看熱鬧。今天上師解釋了,就知道不是這樣了。這裡有顯教和密法。很多人說釋迦牟尼佛沒有講過密法,但請教你們如何做到「聞名及見身。心念不空過」?只有密法可以做到。
「名を聞き及び身を見たてまつり」とは修行法門である、大手印まで修めればこうなる。前日何故わざと入定したのかと言うと、この句の事を話すので、事前に演じて見せたのだ。もし単独で座禅をすれば、目玉を動かさなくする事もでき、あなた達千何名が下の方でいくら動いても、リンチェンドルジェ・リンポチェはその影響を受けない。あなた達もリンポチェの目玉が動いてるのが見えず、あなた達が音を出しても、リンポチェの目玉は動かない。リンポチェが出定しなければ、あなた達がその前で踊っても駄目だ。此れこそ法門の修行である。多くの者は「心に念じて空しく過ごさざれば」の句が判らない。絶え間なく、昼夜四六時中唱える事か?違う、それは禪定をも含む。釈迦牟尼仏は毎日数多くの衆生を済度するので、話す言葉も非常に簡潔である。いわゆる玄人は本質を見出し、素人は表面だけを見るという。あなたたちは表面だけを見ているだけだが、今日上師は此れを解釈したので、そんな事ではないと知っただろう。此処に顕教と密法がある。多くの者は釈迦牟尼仏は密法を説いていないというが、あなた達はどうやって「名を聞き及び身を見たてまつり、心に念じて空しく過ごさざれば」が出来ると言うのだ?此れが出来るのは密法のみである。

前週ちょっと入定とは何かを皆にやって見せた。入定とは何も聴かず、視覚も動かず、最後には呼吸しか残らない。此れが「定」である。そして呼吸もだんだん遅くなり、はては一時間に何回かしかしなくなる。もし仏法をよく了解しなければ、考え違いするし、話違いや聞き違いもする。一篇の文章から前を切り捨て、後ろを切り捨てて、自分に都合のいい所だけを切り取って使う。仏法は全体を覆い包むので、絶対に一句、二句や三句だけがあなた達に用を成すものではない。仏法は全体を覆い包み、あなた達の身口意一切の不清浄な考えを覆い包むのである。

「あらゆる苦しみを能く滅せん」、此処まで出来て、始めて一切の苦難を消滅する事が出来るのだ。絶え間なく観世音菩薩を唱えれば、観世音菩薩が来られるものではない。観世音菩薩は来られない、何故ならあなた達は常日頃訓練をしていないからだ。もしあなた達の法性が少しでも観世音菩薩の法身に触れる事ができれば、この様な世間の苦は絶対に消滅する。たとえ果報が成熟しても、すぐに過ぎてしまい、無限に続く事はない。何故あなた達の苦は絶えないのか?それはやりもしないし話も聴かないからだ。終日出鱈目を言い、あれを見たり此れを見たりで、役に立たない。もし、「心に念じて空しく過ごさざれば」が出来れば、すごい事だ。大手印では專一瑜伽をやりとげ、一つの法号にひたむきになり、別の念頭がない。

観世音菩薩の法門は簡単だと思うなかれ、簡単ではないのだ。仏経の文字は少なければ少ないほど、意味が深いのだ。《普門品》は法身菩薩の話をしている。観世音菩薩は十六地の法身菩薩で、我々凡人が何文字かを見ただけで、修め得たり、聴いて判ったり、ちょっと読むだけで何を言っているかが判るものではない。人々は《普門品》は簡単で、二回も講釈すればそれで終わり、あっという間に読み終えてしまうと思っている。だが、「あらゆる苦しみを能く滅せん」はどうやって滅する?それは、あなたの心に他のものがなく、只あなたが一切の煩悩に愛憎の心を起こさず、平等に捨すれば良い。我々は毎日法本を唱えるとき、この言葉を唱えているが、どうして其れが出来ないか?心がまだ動いているからだ。もしあなたの心の中で快楽と苦痛が全て動かず、平等に捨すれば、念頭に何が残る?残るのは一言の真言、観世音菩薩の聖号、そうすれば自然と空しく過ごすことがない。あなた達は毎日:私は此れが好きだとか、私は此れが好きではない:私は此れが嫌いだとか、私は此れが嫌いではない。これではあなたの心に観世音菩薩の聖号をおく空間があるのか?ないだろう。私が大悲呪を唱えるのは夫の体がよくなる様にするためだ。これは煩悩だ。此れでは苦はどうやって滅する事が出来る?苦はどうやってくるのだ?快楽を喜び、苦痛を嫌う。簡単に言えば、因果を信じず、一切の果報を受けない、此れでは当然苦は消滅しない。

「心に念じて空しく過ごさざれば、あらゆる苦しみを能く滅せん。」この二句は簡単に二行だけで、あっという間に読み終えてしまう。だがこの二句を修めるのは、一生かけても足らない。この様に言うのはあなた達を脅かしているのではない。只、仏法はabc123で解決できるのではない事をあなた達にはっきりさせる為だ。必ず一方の具徳の上師が絶え間なく語り、絶え間なく教えるのについて行かなくては成らない。根器が足らなくても構わない。リンチェンドルジェ・リンポチェが以前仏を学んだとき、自分は最も駄目な根器だと思った。だが簡単だ。仏の説くところを聴き、上師の説くところを聴く。自分の考えが決して無ければ、自然と事は転じる。

仏はこの何句かを特に説かれている。「略して説かん」とは簡単に説くと言うことである。その意味はあなた達が煩わしいと思うのを恐れて、簡単に説くのである。何句かを我々に話せば、この何句は我々が修めるのに足りるからである。あなたがどの好きか嫌いかの事も捨てる事が出来ないのなら、あなた達はどうやって修める事が出来るのだ?簡単に言えば、在家出家を問わず、日々を過ごさなければ成らない。日々を過ごすのも因縁法だ。あれば好い、無くても好い。重点はあなたの心は仏を学んだ後変わったか、過去の煩悩がどうやって生じたのか自分に判らせたか?これ等の煩悩をどうやって止めるか、どうやって減らすか?絶対に可能だ、決定はあなた次第だ。あなたがいやなら、終日神様の様に仏菩薩を拝んでも駄目だ。此れは自分に頼らなければいけない。ただ、自分に頼ると言う前提で、一切の上師と仏菩薩は諸々あなたを加持され、加被されて、あなたは助力を得、発した願、発した誓いが早く満願する。重点は此処であり、決して今日六字大明呪を3000回唱えれば保佑されるのではない。もしあなたが唱えても、心其処に在らずば役に立つか?役に立たないだろう。

今日はみんなの為に簡単に話すが、この二行の法門を解釈するには、いくら多くを話しても終わらないだろう。重点は仏を学ぶには必ず具徳の上師につかねばならず、テレビで見たり、ネットで見ても、只常識が少し増えるだけだ。

經典:「仮使害意を興して、大いなる火坑に推し落とされんに、彼の観音の力を念ずれば、火坑変じて池とならん。」

必ずしも過去世であなたに深い恩怨が有る宿敵では無いのだが、あるいはこの一世で何人かの人と縁が悪く、彼はあなたに危害を加えようと考えている。もし形で解釈するならば、「大いなる火坑に推し落とされんに」とはあなたを大きな火坑に突き落として焼き殺すのではない。あなたに貪念、瞋恚の心が起こったとき、それはあたかも火があなたを焼いているようだ。もし、ある者があなたを陥れようとする場合、必ずしも我々の眼で見える火坑に突き落とす事はないという意味だ。あなたに貪念を起こさせ、他人を瞋恚するように仕向けることは、すべて火坑に突き落とす事である。もしある者の言葉があなたに瞋恚の心を起こさせ、あなたに怒りの心を起こさせる時、あるいはある者の言葉があなたに貪念を起こさせ悪事を働くように仕向ける場合、あなたが心の中で絶え間なく観世音菩薩の慈悲の力を唱えれば、「火坑変じて池とならん」、即ちこの貪念、欲望、瞋恚心の心は清浄な水に変わり、われわれの炎を消すだろう。此れは修行法門からの話で、もう一つは本当に火災が起こり、もしあなたが燃え盛る家の中から逃げ出せない場合、あなたが観世音菩薩を唱えれば、慈悲力で火が燃え盛る事は無いだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは前にも話されたが、今日また話そう。リンチェンドルジェ・リンポチェはある時インドで閉関された。時は四、五月で、気温は四、五十度にも達した。リンポチェの関房は西日がさし、関房では扇風機が使えず、窓を開けることもできなく、クーラも無く、風を扇ぎながら真言を唱える事も出来ない。リンチェンドルジェ・リンポチェは観世音菩薩を学んでいて済公を学んでいるのではない。関房内は暑くて堪らないので、衣類は全て脱ぎ捨て、パンツしか残さず、地面に座るのだがとても暑く、まるで家が燃えている様だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは観世音菩薩と地蔵菩薩の慈悲を思い出し、火の地獄で衆生に代わって苦しみを受けていると観想された。するとたちどころ一筋の清涼を感じ、しかもその後関房は再び暑くなる事が無かった。これこそ慈悲心で、たちどころ転化する。外在の物質は変わらず、日は未だ照っていた。何の力が変えたのか?慈悲の力だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは常に全宇宙で最も重要で、最も偉大で、最も力を持つ者は慈悲であると開示されている。慈悲とは自分の良いものを以って他人の悪いものと取り替える事だ。自他交換。誰があえて衆生に代わって火の地獄の苦しみを受けるか?あなた達は考えにも及ばないだろう、ましてはそれを口にする事など出来ない。もしあなた達がこの様な事を口走れば、家族はあなたは気が狂っていると言い、仏は信ずればよく、迷信するではないと言うだろう。この様な流行の言葉は台湾で毎日話されている。仏は何時我々に迷信しろと言われた?今、多くの者が仏を学ぶのを怖がっている、仏を学ぶとお金を失うと思っている。

「彼の観音の力を念ずれば」、我々の一つ一つの念頭は、観世音菩薩の慈悲の力は、いかなる環境の感覚も変える事が出来るとはっきり知らなければならない。太陽は未だ照り続け、温度も未だある。何故部屋は涼しくなったのか?それはあなたの心が観世音菩薩を感動させたのである。観世音菩薩の慈悲の力は清涼なので、我々の心の中に元々あった瞋恚、欲望、貪念の火は消され、たちどころ清涼に変わった。簡単に言えば、万法唯心造、即ち宇宙のあらゆる事柄は、全てあなた達の心が作り出したのである。

《華嚴經》では、心は画家で、あなたの心は同じく無いものを描き出す事ができ、衆生が描き出すものも同じではない。例えば此処にいる1300人、あなた達の家の装飾はおのおの違うのではないか?誰がこの装飾を決めるのだ?あなただ、あなた自身の要求によって違う。もしあなたの家族が多くいて、おのおのが靴を置く場所、置く方式、何時靴を脱ぐかもまちまちだ。誰が先に置き、誰が後におく、後でおいたものが前のものを押し、何故私の靴を動かしたのかも騒ぐ。此れがあなた達の心である。一家族でありながら、靴の置き方、靴を履く習慣でさえ違う。だから人の心は複雑だ。ここでは我々に心をそんなに複雑にする必要は無く、一方の観世音菩薩だけで好いと教えている。観世音菩薩に我々のために何かを変えてくれと言うではない。

この4句ははっきりと我々に伝えている、火坑は我々自身が作り出したものだと。もしあなたに貪念や瞋恚が無ければ、たとえあなたを推そうとしても、其の縁さえないだろう。あなたが今生で火災に会い、熱湯で火傷をすれば、此れ全て火災とする。この様な事は過去世であなたが嗔恨の心で衆生を傷つけたからだ。だから今生熱湯で火傷をし、火に焼かれたのも、自身が作り出したのだ。

此処で観音力が出るが、此れは観音慈悲の力である。もしあなたが四衆であれば、あなたを助けて続けて時間を与え、今生修行する機会を与える。あなたが難を乗り越えるのを助けるのではない。難を乗り越えた後、夫といい日々を過ごしたり、子供たちと楽しんだり、体が良くなって遊びに出かけたりさせるのではない。全て違う。火の地獄に落ちる苦しみは、あなた達の想像を絶するものである。リンチェンドルジェ・リンポチェは50度の部屋で閉関されたが、それは人間が耐えうるものではなく、それでさえこの様に苦しいのに、ましては火の地獄に落ちるとは。この言葉は我々に火の地獄に落ちる機会を生前に消滅しろと言っているのだ。どうやって?即ち心に念じて空しく過ごさざればである。念ずるのは全て観世音菩薩であり、観世音菩薩の慈悲力である。誰が私を陥れたか?誰が私に好くしてくれない?誰が私に不孝か?等はあなたの関わる事ではない。此れは彼ら自身が自身で責任を取る業報だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子に問われた:前にこの様に《普門品》を開示したのを聴いた事があるか?答えは:無い。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示された:仏経を説く者は全て上師である、上師はA、B、C級に分かれるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは謙遜して自分はZ級で一番低いと言われる。仏経を開示されるどの上師も、すべてあなた達の為に因縁作るのだが、只各々の深み境界は違う。あなた達が以前聴いた時、いい話だと感じただろう!今聴くと開示が多いなと思うかもしれない。此れは今仏を習う因縁が同じくないので、仏経の本当の意味の内容がより多く聴き取れたのかもしれない。前に彼らの話を聴かなければ、あなた達は今日聴聞する因縁が無かっただろう。只、以前は此れを聴く資格がなかったが、今は発心したので深みが違うのを聴くのだ。

それは我々の勉強の如く、小学校の先生が教えなければ、あなたはどうやって中学、高校に進む事が出来るのだろう。我々は以前小学校の先生の教え方が悪かったとは言えない、彼とは関わりがない。これはあなたに必要な過程だ。各衆生は全て同じくない。例えばリンチェンドルジェ・リンポチェは経教を学ぶ事から始めたのではないので、どうやって仏経を講釈するのかを学んでいない。もし経教を学ぶ事から始めたのなら、以前先生がどうやって教えたか、どうやってお経を講釈したか、そのとおり弟子を教え、彼の弟子もそのとおり話せば、余り大きな間違いは無い。だがリンチェンドルジェ・リンポチェはその逆で、まず修行をして、上師がその境界を確認された後、始めて仏経に対応され、それから仏経の内容や意味を皆に解釈されている。此れはリンチェンドルジェ・リンポチェが凄いのではなく、只修める方向が違うだけだ。他の人を誹謗してはいけない。リンポチェほうが好いといっていけない、リンポチェはそういっていない、リンポチェに危害を加えないように。これはあなたの因縁だ、驕れてはいけない、比較する無かれ、この様な心根は間違っている。

リンチェンドルジェ・リンポチェは別によりよく話してはいない、何故ならリンポチェは仏では無いから、未だ仏の境界まで話す資格は無いし、あなた達も仏の境界の仏法を聴く資格も無い。誰の講釈は好く、誰の講釈は好くないとか言わず、仏経を講釈する人が、仏経が使う言葉を離れなければ、それで良い。彼が話す仏法が釈迦牟尼仏の教えを離れなければ、それで良い。そして彼の境界が何処にあるかは、あなた自身の福徳因縁に係っている。例えばあの男出家弟子、もし長年出家したのでなければ、この段落を聴く因縁が無かっただろう。あなた達の過去世でもしこれ等の因縁が無ければ、今日この一段落を聴け無かっただろう。全ては因縁だ。

《寶積經》の中で「慢」の話があるが、自分でおごっている。絶対におごってはいけない、おごりはあなた自身の仏を学ぶ過程に影響する。これ等の句は皆に開示したので、皆は《普門品》は完全に修行の過程を話している事が解かり、絶対にあなた達が考えるように観世音菩薩が我を庇護するではない。《普門品》はただ言葉を簡単にしただけで、単純に庇護を求めるのではない。中の言葉は全て修行に関するものだ。もし修行に関するものでなければ、前で四衆とは言わない。一般の信衆は香を焚き、拝みに来ただけで、皈依しないのであれば、四衆とは関係が無いだろう。当然無い。四衆でなければ、後ろのこれ等の話はあなたと無関係だ、何故ならあなたは仏を学び、修行をするのではないからだ。たとえ観世音菩薩が手助けに来られても、あなたには縁がない。観世音菩薩が手助けが出来ても、あなたの心は未だ善に変える準備が出来ていないので、この善の縁がない。「善く諸々の方所に応ず」仏経の一文字一文字は関連している。前で話した事が後ろと関連しない事はなく、後ろで話す事が前の話より多いと言う事も無い。全て前から続いているのだ。あなたが此処で出来なければ、後ろにはあなたのやる事は無い。あなたが前で出来れば、後ろにもあなたのやる事が有る。

皈依しても改めない者には、「善く諸々の方所に応ず」はあなたと関わりが無い。終日自身の欲望のために求める者は、「名を聞き及び身を見たてまつり」もあなたと関わらない。「心に念じて」は絶対に飛び越してしまう。なにか事があれば唱え、事がなければ唱えないとか、外国に行くので心配だから聴く。仏法は非常に殊勝で衆生を利益するが、衆生自身が聴くか、それに従うか、聴く耳があり、従ってこそよく保護される、何故ならあなたは再び間違った事をしないから。例えば「害意を興して」、多くの者は彼は私に危害を加えると思うが、あなたが念頭を起こさない限り、彼はあなたに危害を加える事が出来ない。あなたに深い恩怨が有る宿敵なら別だが。あなたに貪念が無いとすれば、害があなたに及ぶとは信じられない。貪念が起こらなければ求める物が無い、其れではどうやってあなたに害を及ぼすのだろう?全てあなたに関わっている。

もし今日唱えるのが全て観世音菩薩の慈悲の力であれば、この者があなたに害を加える念頭を起こしても、自然と退くであろうし、自然とあなたに接近せず、自然と消えるであろう。求める事さえ必要としない。上師の所まで来て誰々が私に危害を加えるなどと告げる必要は無い、全てあなた自身のせいだ。もしあなたが観世音菩薩の慈悲力を信じ、四衆の一つにでも成れたのなら、あなたが観世音菩薩の念頭を起こせば、その者は自然に消失して来なくなり、あなたはその様な者を知る事も無いだろう。その様な者があなたの身の周りにいるという事は、あなたが未だ改めていなく、あなたは彼と同類であると言う事だ。同類の者だから一緒になり、お互い誰かに害を加えようかと、誰のほうが早く手を下すかと狙っている。今後誰かが害を加えようとしているとか、彼がそう言っていたのを、うっかりして聴いてしまったとか告げ口に来るではない、…あなたはそれ程騙されやすいのか?誰かがそう言うとすぐ騙される。何故仏菩薩と上師がどれだけ話しても、あなたは受け付けないのだ?それはあなたの欲望に関連しないからだ。

何故白馬王子や黒馬王子に騙される?美貌な女の子に騙される?全てあなた自身のせいだ。夫や妻が私を騙したとか、ガールフレンドが私を騙したとは言い切れない、必ず幾分かはあなたのせいだ。騙されても好いではないか、それはあなたには誰かに騙される資格があるという事だ、容易な事ではない。今日我々が観世音菩薩の慈悲力を思えば、彼が騙そうと思っても、或いは既に騙したとしても、自然と馬脚を現してしまう。リンチェンドルジェ・リンポチェがこの十数年間衆生を利益してきた事を思い返せば、この様な事は絶え間なく起こり、その輩は自然と馬脚を現している。表向きは非常に敬意を払い、非常に敬虔で、あなたに対しても好いのだが、この読んでいないと言っている弟子の様に、非常に敬って、子供の頃から皈依し、今に至っているが、突然馬脚を現した。おかしな事だ。これから見ると、お金が儲かる事は、必ずしも好い事ではない。もしこのお金を儲けようとしなければ、必ずしも馬脚を現すとは限らない。リンチェンドルジェ・リンポチェは千余名の弟子を持つが、どうやってその一人ひとりに気を配る事ができる?必ず何か事に臨んで問いに来、リンポチェが念頭を起こして始めて読んでいないことが解かる。こいつ又上師にねだりに来たな。

今日の開示は此処までだが、皆は帰ってから、自分は仏経に従って事を運んでいるか、調整したかをよく考えるように。もしそうでなければすぐ改め調整しなければならない。勝手に話せ、私はそんな様ではないし、やってもうまく行かないと思ってはいけない。仏経はあなたにうまくやれとは言わないし、ただ改めよ、自分の心を調整し、信じて自分の考えを再び用いるなかれ。あなたがはっきり聴いた後、観世音菩薩の慈悲力は必ず自然と24時間あなたの身の回りに居るだろう。改めなければあなたとは関連せず、観世音菩薩が無慈悲ではない。あなたが改めなければ、「善く諸々の方所に応ず」は現れない。娑婆世界は大きく、その他の世界も観世音菩薩に求める。観世音菩薩はどうやってあなたと相応する事が出来るのだ?十善法だ。あなたの心に善がなければ相応し
ない。毎週聴きに来て、私が唱えれば改めれるのか?あなたはあなたの悪いところを改めようとするが、それでは不可能だ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子たちを率いてアチ護法を修め、回向儀式を行った。法会は円満し、弟子達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法を修め、慈悲で開示された事に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りるのを恭しく見送った。


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2021 年 01 月 03 日 更新