尊いリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示-2017年7月2日

リンチェンドルジェ・リンポチェは、大衆を率いて観音法門を修め並びに六字大明呪(ろくじだいみょうじゅ)を唱え、続けて『普門品』を開示された。

六字大明呪は、観世音菩薩の真言で、大悲呪と六字大明呪は、共に観音菩薩の真言である、ただ大悲呪の方が比較的に長い。あなた達が大悲真言を唱える際、何か思い浮かべない事はまず不可能である。『大蔵経』の続部(タントラ)に釈迦牟尼仏が開示されたが、もし仏の智恵でこの六字大明呪の功徳を解説するならば、一小劫の時間があっても足りない。多くの人は、仏経を学ぶには多くの修行を必要とすると考えるが、実際は一つの真言で、方法さえ得て修持すれば功徳がある、但し方法を得るとは自分で唱えるだけではない。多くの人は、六字大明呪を聞いた事があり、唱えればそれでよいと思っているが、どの真言も仏菩薩の秘密である。所謂秘密とは、この仏、菩薩が修行の過程の中で、一切の功徳、願力、慈悲、事業がこの真言の中にあるのだ。修行過程中の功徳は、ただ本尊と上師のみが知る、正にリンチェンドルジェ・リンポチェが絶えず修行を行い、その成果の少しの功徳は、上師と諸仏菩薩のみが知る事ができ、一切の凡夫の知る所ではない。

まだ輪廻の苦海にいるのは凡夫だ、以前皈依したから、仏法を学んだ事があるから知っている等と勘違いをしてはならない、菩薩果位まで修めていないのであれば、一人の金剛乗上師の行う全てを会得できる事はない。正に尊勝なる直貢チェツァン法王が以前開示されたように:「あなた達が仏法を学ぶ時、よく上師に問題があると思う、それは上師に問題があるのではなく、あなたの心に問題があるのだ。」これは我々に一人の弘法人を盲信や迷信すると言う事ではない。以前、一人の上師が弟子を観察し、弟子が上師を観察するという事について開示した事が有るが、今日はしない。一人の徳を具えた上師は自身で勝手に決めているのではない。チベット仏教では、必ず明確な伝承が必要である。何故なら自身一介の力だけでは、決してこの一生で成就する事はできないからである。多くの人は、仏経はあなたが発願できれば修めることができると思っているが、仏経が説いている事を、どれだけの人がこなせているのか?毎日多くの人が仏を唱えるが、一体どれだけの人が成就しているのか?伝承とは彼等が自分の意識や思惟で仏法を考え出しているのではなく、根拠と証拠が有り、修行者は修行と学習の経験を通して、仏法の真の奥妙を悟り、それを又弟子へと伝えるのだ。

多くの人は自身が仏を唱えた事があり、仏法を聞いた事があるし、仏法を少し話せるとだけで、他人へ仏法を語り、自身が仏法を分かっていると周りに言いふらす。仏経『寶積経』の開示に依れば、一人の上師が法座に登るには、その法座とはこの様な金剛法座であるが、20個の条件を具えなければならない、一つでも欠けたらだめで、具わっていなければこの法座に登り、説法をする事はできない。たとえ、無理に法座へ登れたとしても、多くの事が起こる。我々はよく所謂徳が有り、弟子や信衆が多いお方でも、最後には身体に様々な症状が出てくる事を知っている。この状況をみて、多くの人は彼が衆生の為に業力を一人で担いでいるのだと解釈する。『地蔵経』によれば、善知識は、衆生から障害を防ぐ事はできるが、業力を担ぐのではない。でなければ諸仏菩薩が私達の業力も全て担いでくれたらいいだろう。そうしたなら皆良い日々を送る事ができる。ある人々は、上師と出家法師が一切責任を担い、彼等に良い日々を暮らせるようにしてくれと求める。

リンチェンドルジェ・リンポチェは以前、とても理不尽な話を聞いた事がある、それも実際にあった話だ。ある婦人が出家師父に泣きつき、こう言ったのだ:「師父よ!どうか私を助けて下さい!」この出家人は彼女の身に何が起きたのかと思い、事情を聞けば、彼女は息子が結婚するのに結婚式の宴会を行う資金がないと言い、出家師父にそのお金を出して欲しいとの事であった。彼女の師父はもちろんそれを断った、結果彼女は:「師父よ、あなたは無慈悲だ!」と言った。

以前、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの話を聞いてもただの笑い話と捉えていたが、現在リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子がここまで増え、中には:リンポチェが私を助けてくれないという弟子もいる。何を助けるというのだ?あなたを億万長者にすることか?結婚できるようにするのか?出鱈目にも程がある、これは仏法を破壊している。仏法はこのような欲望を叶える為にあるのではない。もし、仏法について理解できなければ、自分が知らぬ間に仏を謗り、三寶を軽蔑していても知らない。『地蔵経』にも開示されているが、法座に上がり説法を説く上師は三寶の内の一つである。もし、法座に登り、法を説く上師が徳を具えていなければ、この様に長くは続かない、特にリンチェンドルジェ・リンポチェのように人を済度するのであれば、もし戒律が良くなく、戒を破ってしまっては、如何にして人を済度できるというのだろうか?如何にして遠く離れていても、亡者の頭の梵穴に穴を開ける事ができるだろうか?これは全て戒体である。多くの者は上師を、自分の欲望で見るが、それは間違っている。なので、直貢チェツァン法王はこのように開示された、あなたが上師に問題があると思うのは、あなた自身に問題があるからだ、と。あなたは欲望で上師に求めて、仏法を学び生死を解脱する為でもなければ、過去生生世世の悪業をこの一世で返す為でもないし、又自身を変える為でもない。法に貪欲なのか他のものに貪欲なのか関係なく、あなたはすべて自分の欲望の為に求めているのだ。

今日突然『普門品』を開示したのは、皆が幼い頃から観世音菩薩を聞いた事があるが、今は皆観世音菩薩を神様の一方として拝んでいる。もし、観世音菩薩が神様であれば,拝む必要も無い。『普門品』は『妙法蓮華経』から出来たのだ。釈迦牟尼仏が世に『妙法蓮華経』を広める前、弟子にこの経を開示すると言った際、多くの阿羅漢を修める弟子は、聞かずに離れていった。彼等の考えでは、『妙法蓮華経』が説くのは:衆生に輪廻の苦を理解させ、三寶へ皈依し、仏菩薩と上師の導きに頼って、始めて生死を解脱できると判らせる事だ。これは阿羅漢を修めるのと異なる、阿羅漢は独善的で、彼等は自身が解決すれば、他の事は自身とは関係ないと考える、だから多くの弟子は『妙法蓮華経』を聞かずに、そこを離れるのだ。『妙法蓮華経』が前に開示された内容は、釈迦牟尼仏は衆生にこのように解説される、輪廻とは火宅だ、皆この火宅の中にいる事にも気づかず、面白がっている、だから仏は大乗、小乗仏教を広め、衆生を輪廻の火宅から救い出す。多くの人が輪廻の火宅は私達と関係ないと思っているが、仏は六道衆生と説き、全ての人と関係する。

仏法を明確にせず、一日中自分を修め、出家もしているというのに、未だにこのように多くの問題がある、『仏子行三十七頌』も無駄に読んでいる。在家も在家でたくさんの問題を抱える。仏法は外道によって滅びるのではなく、このような自分で仏を学んでいると思っている人達によってだ、自身を改めない。皆貪念を持つ、お金を巻き上げてから、自分が欲しいものを手に入れてから又考慮しようというのに、まだこれは仏法の為だと言い、私がこのような事をしても問題ない、仏菩薩が後で私を罰するでしょうと言う。。実際には仏菩薩と上師はあなた達を罰する事はないが、自分で自分の果報に責任を持つべきだ、皆は因果を信じない。

昨日、二人の妹が姉に付き添って面会を求めた、姉は病を患い、妹の内一人は見るからに不機嫌であった。姉は二年前にもリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を求めたと言い、リンポチェは彼女等に、自分の母親に菜食させるよう伝えたが、彼女等は言われたとおりにしなかった。彼女達は、リンポチェの言うとおり、母に菜食させなかった事に対して申し訳ないと謝った。つまり、リンポチェに悪い事をしたので、病を患ったと、言っているのではないか?あなた達は皆そのように話す。あなた達の考えでは、リンポチェに対して後ろめたい事があると、自分に悪い事が起き、罰を受け、根性を叩き直される。リンポチェに対して後ろめたい事をしたので、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたを救わず、助けず、リンポチェは怒るのだと捉える!それら全ては上師を誹謗していることになる。これがリンポチェと何の関係があると言うのだ。あなたが学校で授業を受け、先生もたくさん教えているのに、あなた達は家で復習もせず、故に成績が悪い、それが先生と何の関係があるというのだ?リンチェンドルジェ・リンポチェは常にこう言う、多くの弟子はそれぞれ受けた利益が異なるが、それは自分自身の問題である。つまり、一人の先生が四十人余りの学生を教え、分け隔て無く同時に授業をするが、どうして成績のいい子と、悪い子が出てくるのだろうか?成績が悪いと先生に嫌われたからだと言う。皆悪い事をしたら、問題を全て仏菩薩のせいにし、上師のせいにする。この妹が昨日来れてよかった、リンチェンドルジェ・リンポチェによって仏法の真の考えが述べられ、初めて観念を改めることができたからだ。でなければ、この妹はこの先ずっと母親に菜食させなかった為に罰が当たったのだと誤解するところであった。このような心の態度は良くない。

例えば、ある者は会見を求め、自分が過ちを犯したと述べ、リンポチェの福報を消耗する。堂々としているようだが、ただ上師に損を与えているだけだ。明らかに自分で過ちを犯したのなら、自分で自分の果報の責任を負うべきだ。それは宿舎で争いを起こしたのと同じで、必ず果報が有り、なにも上師に話す必要は無い。果報を信じぬ者は、自然と戒律を守らない。どうして皈依するときに戒律を受けるのか?第一、戒体はあなたを守る為に有る。あなたが戒律を守りさえすれば、それは、たとえ累世の冤親債主があなたを見つけ、あなたに危害を加えても、それには限りがある。第二、あなたが再び悪い事をするのを防ぐ。戒体がなければ、絶対にまた悪さをする、皆はこの戒律を破る事でどれほど重大な影響が有るかを信じていない。誰も信じない。もし、今日戒体が無ければ、何の法も役に立たない、何を唱えても、何を拝んでも役に立たない。ただほんの少しの人天福報を得ても、それは畜生道の福報かも知れず、来世でしか使えない。あなた達に常に言っているが、皈依して弟子となったからには、周りの人とは違い、自身の身口意をしっかり管理する事を知らなければならない。六波羅蜜の第一は忍辱である、忍とは、相手が怒っていても自分は怒らないのではなく、一般の人が忍ぶ事が出来ないのを忍ぶのだ。それなのにあなた達は忍ぶどころか、自身の身心を解き放ち、間違えたらその時に解決法を考え、その都度謝ればいいと考える!あなた達が行っているのは懺悔ではなく、ただ謝っているだけだ。

どうして修める事ができないのか?戒律を守らなければ、真言を唱えても役に立たない。よく自身は六字大明呪を毎日唱えているのに、どうしてまだ病を患うのかと疑問に思う人が多く居るが、それは戒律を守っていないからだ。多くの人は、その小さな戒律がそんなにも重要なのか?他人のことを議論する両舌はそんなに重い罪なのか?と訝っているが、『地蔵経』では、生前に両舌だと、死後に耕舌地獄に落ちると説いている。誰かが他人の話をあなたにした後、其れを聞いたあなたが別の人にその話を話す、それが両舌だ;誰かが他人の話をしているのを、あなたはその話の良し悪しもわきまえず聞く、それが両舌だ。そしてあなたは自分は話していないが、皆が因果を恐れていないと言う。では因果があなた達を恐れているのか。たとえ今日仏法を学んでいなかったとしても、中国では古くから私達に隠悪揚善を教えている。もしこの悪を言い続ければ、遅かれ早かれ必ず誰かが学ぶ。悪が起こるのは衆生共同の業で、自然と因果が其れを懲らしめ、法律が其れに対応する。因縁の時が来ると、自然と事故が起こり、あなた達が伝え続け得るものではない。現在発達した科学も煩わしい、ほとんどの人が両舌の戒律を破り、意のままに高評価する。それも共同の業に含まれる。一日中くだらない話を聞く時間が何処にあると言うのだ?現在はくだらない話の国家になり、くだらない話で日々を過ごしている。

金剛総持(こんごうそうじ)は前にもこう開示された:六字大明呪を学び、この一生で灌頂を経て、上師からの口伝も受け、生起円満次第を以って六字大明呪を修めたのに、もしこの一生で成就できなければ、金剛総持は嘘を言った事になる。法の如く修めれば、それはこの一生で生死を解脱出来る、あなた達を騙すことはない。どうしてこんなにも多くの人が達成できないのか?それは恭敬心がなく、言う事を聞かず、自身の方法や考えで仏法を学ぶからだ:私が観世音菩薩に求めたら、必ず叶うに決まっていると考える。観世音菩薩は嘘つきを助けると思うのか?明らかにあなたが嘘をついていると分かっているのに、あなたを助け牢に入れずに済むとでも?それはない。皆が戒律を守っていないからだ。

どうして戒律を守らないのか?三寶に恭敬心が無い者は、自然と戒律を守らない。三寶に恭敬心を持つ者は、自然と戒律を守り、口に出す必要もない。『普門品』はあなた達に常に観世音菩薩に恭敬心を持つよう説いている、あなたがこれを達成する事で、自然と全ての戒律を守り、他の誰かがあなたを一日中見張る必要もない。

六字大明呪は、唱えて少しでも成就すれば、身体の病は自然と良くなる。法本にも書かれているように如法に閉関、つまり灌頂し、戒めを守り、上師を絶対に敬い、如法に閉関して六字大明呪を唱え、関房の中で十万回を唱え満たせば、それで間違いなく輪廻しなくなるし、百万回を唱え満たせば衆生を助ける事さえでき、その助けがあるかないかは、閉関修行を行ったかどうかに関わる。もし、閉関を行っていなければ、如何にして衆生を浄土へ助けるというのだ?この百万回は決してカウント機で計るものではない、関房の中で唱えるのだ。仏法は多くの衆生に誤解を招く、それは衆生の機根が足りないからだ。機根が足りなければ、信衆の為に少し手抜きをする、すると信衆を迷わせ、仏法に対しての誤解がますます深くなり、仏法は迷信の道具と化してしまう。 

どうして真言を唱えるのか?全宇宙が音声と直接関係していて、声に出す事で、様々な現象に変化が生まれる、特に我々の血脈、気脈はすべて音声に関わる。全ての諸菩薩の真言の音声は我々の為になる、心にある不清浄な業の気配を震わすのだ。我々は一日中悪念を持つ、なぜならあなたの悪業の気配が消えていないからだ。どうしてある人は上師を称賛するのが好きで、又ある人は批判するのが好きなのだ?それは簡単で、心が善であれば恭敬があり、自然と称賛するが、心が悪であれば自然と批判をする。彼自身に悪念があれば自然と批判をする、それは上師が彼の思いのように動いてくれないので、上師の行為を受け入れないのである。

『妙法蓮華經』で多くを語った後、釈迦牟尼仏は始めて観世音菩薩を出す。その前になぜ仏法を学ぶのかをはっきりさせる為だ。輪廻の苦海から離れる為、異なる仏菩薩に助けを求め、済度を求める。観世音菩薩、八大菩薩と地球人類の因縁が深いので、あなたが観世音菩薩を修めたほうが比較的容易に相応する。何尊かの仏の願力と功徳は一般人が相応するのは難しい、あなたが修めたいと思っても修められるものではない、ましてや聞く事さえもできないし、見てもならないのだ。なぜなら、これらの仏と地球の衆生は縁がそれ程深くはないからだ。それに比べ観世音菩薩、地蔵菩薩のこの八大菩薩と地球人類はとても縁が深い。あなたは彼等の法門を修める方が比較的容易に相応できる。相応というのは、あなたが悟りを開き、弟子を取り、法を説くのとは違う。相応とは、あなたが仏菩薩の我々に対する心が何処に在るかを感じ取る事だ。輪廻の苦海から我々を助け出す。我々がその事を理解できれば、間違う事も、修め間違える事も、貪念を培う事もない。仏菩薩を自身の欲望を満たすのに使ってはならない、それはあなた達にとって良くないことだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、幾度となくこう開示をした、自身の家庭に何か起きても、商売が良くても悪くても、母親が重病で死に面しても法を修めようとはしなかった。どうしてか?それは因縁を理解し、見通し、果報を信じているからだ。すべて縁で生じ、縁で滅びる、其れなので自在だ。あなた達とは違って、法会に参加するのは健康の為、法会に参加すると得するという考えではない。もし体調を良くしたいのであれば、六字大明呪のみで足りる。なのに、どうして上手くいかないのか?それは唱えている時の心に敬いがないからだ、上師にも、三寶にもなく、自身だけを敬っている。心の中は貪・瞋・癡で埋め尽くされているので、何度唱えても貪・瞋・癡である。もし、自身を改め直さなければ、ただの時間の無駄である。

経典:「応に天・龍・夜叉・乾闥婆・阿脩羅・迦褸羅・緊那羅・摩ご羅伽・人非人等の身を以って得度すべき者には、即ち皆之を現じて、而も為に法を説きたもう。応に執金剛神を以って得度すべき者には、即ち執金剛神を現じて、而も為に法を説きたもう

もしかして観世音菩薩がこれらに化身して私達に法を説いているのではないか?その可能性はあるかもしれないが、無いかもしれない。仏と大菩薩は皆化身、報身、法身の三身がある。化とは代表である、如何なる上師も一旦観世音法門を修めれば、彼は観世音菩薩を代表して説法する。『普門品』の開示によれば、観世音菩薩がその衆生に説法をすることで、その衆生は多くの衆生に利益をもたらすことができるとはっきり知っていれば、報身が現れる。報身が現れるには2つの方法がある:一つ目は人として生まれる;二つ目は神通力を使い身を現して説法する。これらはどれもあなた達とは無関係である、絶対にあなた達には起こりえない、だからこそ、あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェと言う上師に付いていくのだ。観世音菩薩が『普門品』で絶えず説いているのであれば、もしかして本当にこのように成るのか?機会はあるであろう、だが末法時代にはこのような機会はそう多くない。ある人が、我々に真の善を勧めれば、我々はそれを観世音菩薩の化身と見なす事が出来る。我々は必ずしも大修行者が説く法が始めて観世音菩薩のであると区別する必要は無い。

直貢チェツァン法王は以前こう開示された:「如何なる事も、如何なる言葉も衆生へ利益すれば、それが仏法なのだ。」と。衆生へ利益するとは、お金を与えることではないし、又商売が失敗したので、リンポチェが彼が儲けるのを助けるのでもない。もしこの様な事であれば、まずリンポチェ自ら儲けるのを助けるであろう。そうではなく、彼の助けになるような、再び悪をしないように警告する言葉;彼が悪を善に変えるような言葉をかける、これこそが仏法なのだ。このような事を言う者は、色々多く居る、それらは全てあなたの因縁による。なので、私達は観世音菩薩がこのような身で現れ、私達に話しかけてくることに執着しなくてもよいのだ。たとえば、あなたには出家相が現れていなければ、この一生では出家の因縁は無いであろう、在家衆があなたに説法する方が、あなたも聞く耳を持つであろう。菩薩が衆生を済度するには四攝法を用いるが、その内の一つが「同事」である。同事は、皆では同じ所作をするので、あなた達は受け入れ易くなる。もし、宇宙人があなた達の元にきて法を説いても、あなた達はそれを変に思い、自らとは関係ないと考える。もし、常に閉関し滅多に外へ出ることがない者が突然あなた達の目の前に現れ、一言話すと、あなた達は何とも神聖だと感じるが、その彼があなた達に仏法を説いても、あなたは聞いた後は覚えておらず、自身との生活様式が異なるので、無関係だと感じるであろう。

ここで特別注意して欲しいのが、たとえば優婆塞、優婆夷、比丘、比丘尼が現れ説法したとする。これは報身菩薩が現れたのではなく、あなた達の悪を断ち、善を行う事を勧め、慈悲を持つよう勧める者は、すべて観世音菩薩の化身である。たまに、テレビで動物が他の動物を助ける映像を見るが、それが慈悲である。あなたがこの映像を見て、まだ自分が無慈悲である事を感じなければ、あなたは一匹の犬、一頭のゴリラ、一頭の熊にも及ばない。それは、あなたは人でなしの動物なので、動物を以ってあなたを済度する、人の言葉が理解出来ないので、一匹の犬が一匹の魚を救うのを見せるのだが、あなたがそれでもまだ理解出来ないのであれば、地獄に堕ちる準備をするがいい。あなた達がこのようなやり方で自分を試してみるといい。

前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは道場の門前で雀の群れを見かけた、その中で体格や年齢が比較的大きいであろう一羽が階段の上に立っていた。少し前リンポチェが火の供養をされた為、草むらには米粒が落ちていた。そこに何羽かの小雀が幾らか米粒を拾っては、段上にいる年寄りの雀に与えていた。私達はその光景を見て、仏法の説くことはやはり正しく、万事は平等であると思った。あなた達には小雀が年寄りの雀に餌を与えている光景が、ただ面白いとしか見えない。あなた達は自分が親孝行をしていない事に気がつかない;今日お金が稼げたら親孝行するべきだと思いつかない;仏法を学べたので上師に感謝すべきであると思いつかない。あなた達はただ、面白いと感じているだけで、それは慈悲心が無い証拠のである、あなたは善人ではない、あなた達は皆自分の事しか考えていない。私達の周りには様々な事が起こるが、もしあなたの心が善であれば、あなたが見たものは全て役に立つ事である。ただ道場に通うだけが仏を学ぶ事だと思い、道場から出ればいい加減になる。六字大明呪を3千遍唱えるだけが仏を学ぶ事だと思ってはならない。四六時中仏を学び続け、休む事が無いのだ。

此処何人かの出家衆は、続けて心を引き締めず、自由奔放に振舞うのなら、ここから追い出す、リンチェンドルジェ・リンポチェはもう70歳だ、あなた達の理由を聞く暇などない。あなた達が自らを改め得ないとは、リンチェンドルジェ・リンポチェと無縁だと言う事だ。

ここでは観世音菩薩が龍衆、天衆、夜叉衆等の相を現して同類の衆生を済度する事を説いている。密宗では、私達が灌頂や真言の口伝を受けた後は、衆生と本尊は無二無別であると見る。『普門品』は私達に答えを教えてくれる、菩薩は様々な姿で様々な縁ある衆生を済度する。つまり、一切有情衆生の清浄な本性は仏菩薩と無二無別である、区別は私達が行っているだけだ。密乗を修めた人までに達すると、これが菩薩で、あれが凡夫と区別する事がない。あなた達は別だと考えるが、それは自身で決め付けているだけだ、それだけでなく上師までも区別している。

仏菩薩や上師はどこにでも存在すると言うことを、皆理解するべきだ。しかし毎日あなたが寝るまで見ているのではなく、又24時間あなたの側に居るわけでもない、あなたにはあなたの私生活があり、上師とは関わりが無い。あなたが皈依後に戒律を破れば、たとえ今リンチェンドルジェ・リンポチェが知らずに一年、二年、三年と騙しとおせても、ある日突然知られてしまう。あなたの側に何かを忍ばせているのではなく、阿奇護法がいるのである。あなた達は何故皈依した際に誰しもが阿奇護法の御写真を持つ事の理由が今分かったであろう。あなた達は、必ずしもそれを受け取らなくてもいいのだ。受け取らなくとも、リンチェンドルジェ・リンポチェは怒る事は無い。阿奇護法の法本には、それは私達が修行する手助けをするとはっきり書かれている。あなたはこの御写真、そして法本を受け取った後、言う事を聞かず、戒律を守らなくても、阿奇護法はあなたを罰する事はないが、リンチェンドルジェ・リンポチェには知らせる、上師が一旦知れば皈依した時にあなた達と約束したとおり、あなたを処置する。

経典:「無尽意よ、この観世音菩薩は、是の如くの功徳を成就し、種々の形をもって諸の国土に遊び、衆生を度脱したもう。是の故に汝等応当一心に観世音菩薩を供養すべし。」

仏は無尽意菩薩に対して言わく、観世音菩薩はこの様な功徳を成就されたと。成就とは、観世音菩薩が説くように、菩薩の願力を必ずやり遂げ、功徳を得るだけではない。功徳を修めると、功徳により自身が利益を得、他人にも利益する。あなたが阿弥陀仏の国土に行く事を欲し、真言を唱えるのは自身が利益する事である;もし衆生に利益すると欲するなら、成就しなければならない。前に話したとおり、閉関して六字大明呪を一百万回唱えて、初めて功徳が有り成就がある。私が功徳を修めれば衆生を利益すると勘違いしてはならない。例えば、密教の中で上師になるには、仏法を理解すれば上師に成れるのではなく、伝承を得ればなれるのでもない。それに加え、本尊を修めなければならないのだ。この本尊の願力は他の本尊とは違う。この本尊を修めるのは、衆生を助けるためで、衆生の上師になる為上師をやっているのだ。自分は功徳があるとか、自分がよく修めたことを証明する為ではなく、衆生を済度すれば早く成仏する為でもない。ひねもす発願するだけで、この本尊を修めなければ、最後には色々な事が起きる。多くの人はこの事を理解せず、大学を終えれば仏教を教える事が出来ると思っている。

「種々の形をもって諸の国土に遊び。」菩薩は衆生を縁に従って済度する、縁生縁滅、あまり長く同じ場所には居られない。衆生に求めがあり、因縁があれば出現し、縁が滅び尽くしたら離れる。ある場所に眷恋し永遠にそこから離れないと言う事は絶対になされない。たとえ、あなたが仏像を置いて拝んだとしても、それで離れないという事は無く、縁が滅びさえすれば離れるのだ。ここで「遊」を使っているが、それは各地を巡り歩くという意味で、まさに直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに賜った長寿祈祷文に「自在に諸善縁の伏する洲に於いて」の教えのように、どこに善縁があればそこへ行く。仏寺を建てようとも、必ずしもそこへずっと住むわけではない。リンポチェは常に、道場はリンポチェを縛り付ける事はできない、縁がつきたら離れると言う。皆が修めず、何を話しても前と同じと言う事は、善縁が無い事なので離れる。あなたは皆自分が話しをよく聴くというが、それではなぜ、周囲の人も自分と同じかどうか気にかけないのか?

「衆生を度脱したもう。」「度」とは済度する、「脱」とは衆生を輪廻の苦痛から解脱させる事をいう。

「是の故に汝等応当一心に観世音菩薩を供養すべし。」「一心」は以前解釈した事がある。供養とは供養であり、求めるべきではない。多くの者は観世音菩薩に供養し、大悲呪を唱え終えると、ありとあらゆる事を話して観世音菩薩に聞かせる:私は大悲呪を唱え終えたので、大悲水を私に与えよ、飲み終えた後身体が元気になれば、衆生を助ける事が出来る。なんて出鱈目な事ばかり言うのか。一心とは誠心誠意供養する事である。私達は仏法を信じ、因果を信じる。私達は供養をすることで、必ず善の果報が得られると理解しているのに、なぜ見返りを求めるのだ?見返りを求めるのは、因果を信じないからだ。あなたはただある物を渡せば、沢山の返しを得られなければいけないと考えるが、その必要はない。もしあなたが衆生の為に求めるのであれば、良い;自身が浄土へ往生できるよう求めるのであれば、それも良い。しかし、家庭内の些細な事や些細な身体の病気であったり、些細な商売上の事であれば、いくら求めても霊験が無いであろう。なぜなら、あなたは因果を信じず、上師及び諸仏菩薩を信じないので、得る事はないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは商売をしているが、その為に財神法を修めることはない、なぜなら自身の因縁・福報を信じているからだ。財神法を修めて如何する?もし法を修め、一息にお金持ちになっても、その後、何かが起きてゆっくり還さなければならないから、疲れてしまう。一切縁に従う。あなた達は一切縁についていくのを学ばず、縁にしがみ付いている。

経典:「是の観世音菩薩摩訶薩は、怖畏急難の中に於いてよく無畏を施したまう。」

この一句はとても重要だ。観世音菩薩は大菩薩である。「怖畏」、私達が死ぬ前後、心は最も恐れおののいている。死ぬ前は死はどうなるか分からず、事切れるのは痛いかどうか、事切れるとどうなるのかと怖がる。もし仏を学んでいなく、もしくは上師を信じなく、敬わなければ、あなたが日頃どんなに真言を唱えていようと、この期に及ぶと恐怖感は現れる。以前あるお寺の副住持が癌を患い、末期の症状に苦しんでいた、彼女には多くの弟子が居たが、死ぬ間際、仏菩薩が迎えに来られても彼女を見落とすのを恐れ、眠っても目を閉じきらなかった。これは怖畏では無いか?リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を加持し、仏法を開示すると、彼女はやっと安心して目を閉じ眠る事ができた。最後はリンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法によって浄土へと往生できた(詳しくは衆生済度の事跡046を参照)。あなたの破産、これは最も恐ろしい出来事ではないく、ただの破産だ、使えるお金がないだけである。リンポチェでさえも以前食事にも事欠く程お金がない経験をした事がある、だが、リンポチェは恐れた事は無かった。台湾にはある現象がある、それは何事も恐れないが、お金が無い事には恐れを抱く、だからこそ、このような多くの社会記事が発生するのだ。

ここで説く「怖畏」とは、世間的な例えば離婚の様な事ではない。離婚はとてもつらいと言うが、離婚になんのつらさがあろう?縁が生じ縁が滅びただけだ。相手があなたに対して好意を抱かなくなっても、早かれ遅かれ又別の誰かが、あなたに好意を抱くだろう。「怖畏」は、人が往生する際にある完全な救いなき怖さで、誰が助けてくれ、救ってくれるのかもわからない事を指す。なぜ上師を敬うのか?それはもしあなたが上師を敬わなければ、上師が助けに来たとしても、あなたが信じない故にあなたを助けることが出来ないからだ。もしあなたが上師や仏菩薩を敬えば、「怖畏」に襲われようと、あなたの上師や仏菩薩への強い信念が「怖畏」を押さえつけるだろう。なぜ、施身法、ポワ法を受けて済度された衆生の表情には苦しみや恐怖を感じないのか?それは彼等には「怖畏」がないからだ。リンポチェが「彼の神識を保護する」と口にするだけで,亡者の顔から苦しみが消える。このような事があるのか?と参列した大衆に問うと、前向きに大声で「あります!」と答える。では、なぜ亡者の顔から恐怖や見難さが消えたのか?それは「怖畏」がないからだ、これぞ無畏施である。では、もっと簡単にみてみよう。この人は何を恐れているのだ、あなたが彼が恐れなくなる様に説くのは容易だろう。最も重要なのは亡者である。多くの者がこの経験をしていると思うが、リンポチェが一言彼の神識を保護すると言うだけで、亡者の顔が一気に良くなる。それはリンポチェが本当にその方を守っているという事だ、累世の業力が彼に近づく事がないよう彼を包み込み、施身法によって済度されると、彼は助かった事を知り、安心する。もし、この上師が戒律を守らず、幾つかの真言だけで彼を守れるか?どの真言にも必ず戒めがあり、心が動き考えが起きればそれは全て戒めである。

「怖畏」はとても重要で、人の世の事ではない。人の世の事はとても簡単で、縁が生まれ縁が滅びるだけだ。あなたが生前に仏を学んでいたり、聞いたり、修行したりしていたとしても、法に従わなければ、皆と同様に「怖畏」の心が起きる。まさに、先ほど話した出家衆の事の様だ。しかも彼らは二番目に偉い人々だが、あなた達は百番目にもなれない。如何にして「怖畏」は起きないと思うのか?どうして何度もあなた達を叱り、信心を起こさせるのか?それはあなた達にリンチェンドルジェ・リンポチェに対して恐れを抱かせる為ではない。この「怖畏」の心は、あなた達がリンポチェを恐れるよりも遥か百万倍も恐ろしいものだ。あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェと面と向かわなければ、又御影をかぶしてしまえば恐ろしく感じないが、この「怖畏」はそんな事では、取り除く事が出来ないのである。

我々は財施、法施、そして最後に無畏施と言う。それは、菩薩道を修め、菩薩果位を証した人だけが、衆生に恐怖の心を起こさずにできるのだ。これは世間的な事ではない、世間の事など小さな事だ、たとえどんなに厳しいことでも、あなたが死なぬ限り、絶対に少しずつ良くなる機会はある。だがあなたが破産し、恐怖を感じるのに対して、破産させずに、債主に追われぬようにするのとは違う。

「急難」、それは前に述べた大洪水のような災難である。どうして菩薩は助けるのか?菩薩は一人一人全員を助けるのではない、毎日地球上では多くの人が天災や人身事故によって命を落としているのに、なぜ観世音菩薩は助けないのか?仏経で説かれる「急難」これには条件がついているのだ。観世音菩薩が出した条件ではなく、あなたが菩薩に助けられる資格をもっているかどうか?菩薩がひいきをしているのではなく、縁が無いと助ける事ができないのだ。

今あなたが溺れているとしよう、ある救急隊員が助けにきて、縄を投げ、あなたにその縄を掴むよう伝えるが、あなたは縄ではなく別のものが欲しいと言う。あなたが言う事を聞かなければ、溺れ死ぬ。言う事を聞いて、縄を掴めば、救急隊員はあなたを岸へと助け出す事が出来るが、その前にあなたが縄を力強く掴む必要がある。仏菩薩が私達に条件を付けているのではない。なぜ仏法を学ぶ際、先ず戒律を守らせるのか。それはあなた達に戒体があれば、私達を守る護法神がいち早くあなたの信号を観世音仏菩薩に伝え、あなたを助けに行く事が出来るのだ。あなたが戒律を守らなければ、護法神はすべてあなたから離れ、いくら唱えても、求めても、拝んでも役に立たない。もしリンチェンドルジェ・リンポチェの言う事を信じないのであれば、来る必要もない。あなた達は自身の力で何とか出来るとでも?『地蔵経』ではっきりと説かれているが、あなたが地蔵菩薩を唱えたら、それは近所の鬼神が現れ、あなたを守るのであって、地蔵菩薩があなたを守るとは説いていない。あなたにはまだその資格がないのだ。鬼神があなたを守りにくるのは、あなたに危機が訪れているので、すぐさま地蔵菩薩に伝えるため。観世音菩薩も同じである。

あなた達はアキ護法を修めれば、アキ護法が来てくれるとでも思うのか?いや、アキ護法の身辺の護法の護法の護法の護法が、様子を見に来るだけである、チラッと見るだけでも効果がある。もし、上師を敬わなければ、護法の護法の護法は全てその場から立ち去る。信じないなど言ってはならない、本当に起こり得る事だ。

危機が訪れた時、あなたが諸仏菩薩と衆生との間に善縁があるかどうかを見る。最も重要なのは、あなたの定業が熟したかどうかである。もし定業が熟したのであれば、それはあなたのこの一生がもう尽きたという事で、観世音菩薩は、あなたを死から救うのではなく、三悪道へ堕ちぬように助けるのだ。正に、リンチェンドルジェ・リンポチェが常に開示するように、自身が密乗を修める際に願ったのは、あなた達とは異なる。あなた達は真似してはならない、又他の人に伝える必要もない。それは他の人達が仏法を学ぶもの達は頭がおかしいと思う事を避ける為だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に諸仏菩薩にこう伝えている:もし死が私にとって良いのであれば、そうして下さい、と。もし、私の死が三悪道へ堕ちず、浄土へと行くのであれば、どうしてこの世間に未練があるのか?もし病を患うのが、私にとって良いのであれば、そうして下さい。もし病を患う事で自身の多くの業を返せるのであれば、そうしない手はないであろう?あなた達の願いは、ちょうど逆だ:私を健康な身体にしてくれれば、多くの衆生を利益できる。これが仏菩薩を信じないと言うことだ。もし、あなた達を残す事が衆生への助けになるのであれば、もう一度機会を与えるはずだ。

2007年リンチェンドルジェ・リンポチェがラキ雪山で閉関した際、当時既に息が途切れたが、アキ護法にもし衆生の助けになるのであれば、ここへ残し、必要でなければ連れて行くよう求めた。あなた達はこのように求める度胸はあるか?あなた達は旦那はまだ若いし、一人で子育てをするのは心配だから、もう少しだけ生かしてくれ、と言うであろう。これがあなた達のやり方だ。或いは、アキ護法、私はまだ衆生を済度していません、よって私を生かせておいて下さい。これもあなた達のやり方だ。それに引き換え、アキ護法はリンチェンドルジェ・リンポチェを今の今までこの世に残している。

経典:「是の観世音菩薩摩訶薩は、怖畏急難の中に於いてよく無畏を施したまう。是の故に此の娑婆世界みな之を号して施無畏者となす。」

このような状況の下では、観世音菩薩はあなた達に「怖畏」の心を起こさせない。観世音菩薩は別名を「施無畏菩薩」と言うが、それは布施法門の中の施無畏法門は、普通の修行者にできる事ではないからだ。私達は財施、法施、無畏施と言うが、無畏施とはこのようにして初めてそれと言える。自分が衆生に仏法を聞かせるのは無畏施だと侃侃と言うではない、そんな事ではないのだ。

経典:「無盡意菩薩、仏に白して言さく、世尊、我れ今まさに観世音菩薩を供養したてまつるべし。即ち頸の衆の宝珠、瓔珞のあたい百千両金なるを解きて、而して以って之を与えて。」

仏が話す観世音菩薩の数々の功徳の話を聞くと、無盡意菩薩は、仏さま!私は観世音菩薩に供養するべきだ、と言った。

無盡意菩薩はすぐさま自身の首に掛けている珍宝瓔珞、それは金百千両にも値し、現在だと少なくとも何億万以上の価値だ、それを観世音菩薩に供養する。多くの人は、修行者が珍宝を身につけるべきではないと思っているが、ここからわかるとおり、無盡意菩薩は珍宝を身に着けている、それは観世音菩薩も同様である。もちろん、これらの珍宝は買ったのではない、菩薩はお金を持っていないし、どのようなお金で買うのかも分らない。福報が起きれば、珍宝が自然と菩薩の身に供養される、自然と発生するのだ、考える必要もない。私達が観想する際、そこには瓔珞やイヤリング、八宝を身に付けている菩薩がおられると観想する、ではなぜ八という数字なのか?これは密宗と関係がある。

出家衆は珍宝を身に付けては成らないが、在家衆の仏を学ぶ者は構わない。お金を借りて買えとか、夫や妻を騙して買えとは言わない。福報が無ければ、良い珍宝は見ることも出来ない。買うどころか、見ることさえ出来ないのだ。良いものがあると聞き、見に行っても、福報が無ければ、すでに他の人に買い去られている。

なぜ『普門品』にこのような事が説かれているのか?なぜなら、全ての珍宝や瓔珞は菩薩が修めた福報からきた物だからだ。無盡意菩薩は、自身が持つ最も良い福報を観世音菩薩に供養された。全ての菩薩には多くの天衣が揃っているが、それぞれの菩薩が所有する珍宝瓔珞は大きさが異り、それは修行の果位と福報に関係する。初地菩薩、二地菩薩、三地菩薩が得る珍宝はそれぞれ異なる。もし、珍宝があるべきものではなく、邪悪なものであるとするなら、仏経では説く事が無いであろう。仏法には八寶が有ると説かれている。人はこの福報が起きると、自然と宇宙中のそれらの宝があなたの前に現れ与えられるだろう。お金を貯める事が金持ちであると言う事ではない。とても興味深い、特にこの一段だ、他の仏経では説かれていない。

経典:「この言を作く、仁者よ、この法施の珍宝瓔珞を受けたまえと。時に観世音菩薩、あえて之を受けたまわず。」

ここの仁者と、儒家で説く仁者は異なる。ここでの「仁者」は既に純善で得道し、修行された果位をもつ菩薩を指し、普通の人はこの様に名乗れない。ここでは「法施」を受けると言うが、珍宝瓔珞を与えたのに財施ではなく法施と言っている。財施というのは、私達の外在内在で得る一切の財富であり、一切の人を助け得る知識を私達は財施に帰する。そして、一切の衆生が輪廻の苦痛を了解し、衆生が輪廻の苦痛から離れるを助ける方法を法施という。

なぜ珍宝瓔珞を得るのは、財施と言わなく法施と言うのか?リンポチェは一人の仏法学院で学ぶ出家衆に答えを求めたので、出家衆は自身の考えを述べた。リンポチェは開示された、それは仏法学院で教わったのではなく、あくまであなた自身の考えであり、リンポチェが開示された仏法にも心に留めてない。先ほどリンポチェの開示では、法施は衆生が生死から解脱し、輪廻から解脱するのを助ける一切の方法を指す。無盡意菩薩が珍宝瓔珞を供養するのは自身の為では無く、一切の衆生の為である。衆生に福報が渡り、観世音菩薩の助けを得ることを願う、これこそ法施である。それは無盡意菩薩が供養する財富は一切見返りを求めない、あなた達と違って小さな供養であれこれ済度するよう求めないのだ。

「法」の定義は自我がなく、私が行う全ての事に自己の利益の為という概念が無い。自身の為ではなく、全て衆生の為、衆生が善になるようにと、これこそが法施と呼べるのだ。無盡意菩薩は、珍宝瓔珞という財富を観世音菩薩に供養されたが、無盡意菩薩は菩薩だ、なので決して自身の利益の為に供養したのではない。たとえ無盡意菩薩が法身大菩薩まで修めたとしても、彼は凡夫の身ではないので、彼の供養は自身の為、もしくは自身に少しの利益があるよう求めた供養ではないので、これを法施というのだ。人に少し仏法について教えただけで、法施とみなすのではない、経典の奥妙は文字上にあるのではなく、その内包と意義にある。もし修行をしなければ、先ほどの出家衆の弟子のように自身の考えを以って解釈してしまう。もし修行の経験をもっていれば、自然と釈迦牟尼仏の慈悲が見え、何故この言葉を使って仏経を説くのかが分かる。

あなた達の多くは毎日『普門品』を唱えているはずだが、この点については誰も注意をしていない。供養は財布施のはずだが、無盡意菩薩は「法施」という。釈迦牟尼仏は、一文字も間違って言わないし、一文字も間違って使わない、どの文字も精密で正確なのだ。続けてあなた達の意識で仏法を聞いていると、永遠に理解する事ができない。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが解釈しなければ、あなた達は決して意味が分かる事はない、なのでリンチェンドルジェ・リンポチェが開示する仏法はとても貴重なのだ。

無盡意菩薩は自身の利益の為に供養するのでは無いが、それでも観世音菩薩は受け取らない。リンチェンドルジェ・リンポチェがひねもす供養を受け取る事なく、ましては相手にそのまま還す理由が今分かったであろう。

経典:「無尽意、また観世音菩薩に白して言さく。仁者、我等を愍むが故に、この瓔珞を受けたまえと。」

観世音菩薩はとても凄いお方だ、心がほんの少しでも違っていたら一切受け取らない。正にリンチェンドルジェ・リンポチェが多くの人の供養を受け取らずに還す事だ。あなたはただ、自分で思っただけだと言うが、もし一つでもその考えが違えば、その供養は受け取らない。無盡意菩薩はあなた達よりも遥かに高い地位のお方で、証果された菩薩でもあるのに、なぜ観世音菩薩はその供養を受けとならないのか?

「我等を愍むが故に、この瓔珞を受けたまえと。」この句にその理由が述べられている。無盡意菩薩は釈迦牟尼仏が説く観世音菩薩の数々の功徳を聞いたが、彼は少し傲慢で、自身は菩薩である為、彼が菩薩に供養するものだと考える。どうして、このように断言できるのか、それは『寶積経』が開示している:菩薩道を修め、菩薩の果位を証する者は、少しの傲慢さがあってもならない。無盡意菩薩は大修行者で、菩薩の果位も証しているが、すぐさま「我等を愍むが故に」と言ったのだ。あなたを憐れんだので、あなたの供養を受けるのだ。上師があなたのお金を取る、又は菩薩があなたの物を欲しているのではない、あなたの業が重く深い事を憐れみ、あなたの福報を累積する為に手助けをしているのだ。あなたにほんの少しでも間違った念頭があれば、一切受け取らない。なぜなら、あなたは自身は憐れみが必要だと認めない、あなたはただ物を上師にさし出せば、上師が受け取ると考えているからだ。今なぜリンチェンドルジェ・リンポチェがが供養を受け取らない理由が分かったであろう、これにはしっかりとした根拠があるのだ

あなたは戒律を守れないというのは、三寶に恭敬していないからだ、貪念が起き、まずはお金を受け取ってから、とりあえず騙してから等、後から解決する方法を考える、これが仏法に恭敬していないという事になる。上師の言う事を、一つも聞き入れる事無く、仏法さえ学べば身体に良く、母にも良く、気持ち的にも良い等、何か良い事の為には行うが、その他一切自分とは無関係だと判断する。観世音菩薩ははっきりと説いている、瞋念が強い人、欲望が強い人は、常に観世音菩薩を恭敬するべきだと。恭敬とは話をしっかりと聞き入れることだ、聞く耳を持たなければ、それは恭敬心がないという事だ。あなた達は会社では上司には比較的恭敬心を持っているが、それは上司があなたをクビにできる権利も持ち、昇格を妨げる事が出来るからだ。あなた達が三寶に恭敬しないのは、三寶があなた達を罰する事がないからだ。あなたは今働いている場所で、上司に出鱈目を言う事ができるか?例え上師があなたをクビにする事がなくても、あなたの昇格を邪魔する事は十分にできる、だとすればあなたは自然と上司に対し恭敬心は持つだろう?それと反対に三寶はあなた達の昇格する事も、お金持ちになる事もないので、自然とその態度がでるのだ。

あなたが恭敬心を持つ事で、自然と周りに居る衆生に恭敬し、本当の慈悲を学ぶ;三寶に対して恭敬心を持たなければ決して絶対に慈悲を学ぶ事は出来ない。こんなにも仏法を聞いているのにも関わらず、それを実行しないのは、恭敬心がないからだ。出家衆の皆も、こんないも側で仏法を聞いているのに、些細な事であれこれ騒ぐ、これは恭敬していない。恭敬を学ばずして、何を学ぶというのか?

昨日リンポチェの前で、誰が誰を罵り、誰が誰を追い出し、誰が誰に手を出しと出家衆が宿舎での口論している事を呵責した。『普門品』を聞けば守ってくれる?例え衆生が悪い事をしても、それはあなた達の縁で引き寄せたと理解しなければならない、もし善縁が充分にあればそのような衆生には出くわさない。ある事業をしている人は、リンチェンドルジェ・リンポチェに事業が上手く行くようにと求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分の事業でさえ、商売繁盛の法を修める事もなければ、仏菩薩にも求めた事がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自身の果報、福報、因縁を信じる、つまり一切縁に従うのだ。この仏寺を建てるのと同じで、お金が足りないが、それに関する法を一切修めない、一切の縁と衆生に従うのだ。どうしてこれらの出家衆は縁に従わないのか?どんな人と出会ったとしても、それは全て自分の縁と関係する。あなた達が今後善縁から悪縁に変わり、悪縁から悪悪縁へと変わる、輪廻しないわけが無い!あなた達は三壇大戒を受けた者達で、身口意をも戒律を守らなければならない。あなた達は、菩薩の戒律を受けていないからましだが、もし受けていれば、同じ事を二度言わせると戒律は破られる。すぐにでも自分を見直し、相手に自身の何処が悪いかを伝えるべきではないか?なのに意地を張って自分は間違いないと言う。現在の全世界はこのような概念で埋め尽くされている:間違いは全て他人のせい、因縁は信じない。だが実際は如何なる事も全ては因縁が関係しているのだ。

現在あなたが六字大明呪を聞けるのは、全てあなたの過去に因縁がある、如何に又ここへ?それはあなたが信じないからだ、このたった六字で全てが解決するという事実を。ディクン・カギュー派の一人は大修行者 竹旺仁波切は他の法を伝授する事なく、一生涯を六字大明呪を世に広め続けた、灌頂さえもしていない。リンチェンドルジェ・リンポチェはも現在は徐々に灌頂を行わないようにしている、衆生に貸しをして再度現れても困るからだ。あなたが六字大明呪は、たとえあなたがこの一世で浄土に行けなくても、この一生で悪を行わなければ、あなたが三悪道へ堕ちることは無い。「唵嘛呢叭咪吽(オンマニペメフン)」この六字こそが、私達を天道、阿修羅道、人道、餓鬼道、地獄道、畜生道の六個の門を封じるのだ。最後の「啥(スィ)」は、私達の浄土の門へと導くものであり、ちっとも簡単な事ではない。


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2021 年 02 月 16 日 更新