尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2017年6月11日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、参加者全員に貴重な仏法の開示を下された。

リンチェンドルジェ・リンポチェは大衆を従えて観音法門六字大明呪を唱えられ、続けて《普門品》を開示された。

経典:「若し衆生ありて淫慾多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち慾を離れることを得ん。若し嗔恚多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち嗔を離れることを得ん。若し愚癡多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち癡を離れることを得ん。無盡意よ、観世音菩薩は、是の如き等の大威神力ありて饒益する所多し。是の故に衆生は常に心に念ずべし。」

我々一切の煩悩苦痛は貪・嗔・癡から来ている、貪・嗔・癡の力は細かくて、そなたは感じる事ができない上に、自分は正しいと勘違いしてしまう。特に多くの仏を学ぶ者たちは、貪・嗔・癡の心を携えている。これらの人々が仏を学べば、功徳に貪欲なだけでなく、運命を変えることにも貪欲、健康に対しても、良い奥さんが欲しいや、ビジネスが成功するよう等全てに貪欲になる、これら全ては仏法ではない。もし、仏法がこれらの欲望を満足させるものであれば、我々は皈依する際に「帰依法離欲尊」とは言わないであろう。当節仏を学ぶ者は、皈依の際にこの言葉を発するが、皆忘れてしまう。もし、仏を学び修行する目的が、世間の一切色々の欲望からの離脱でなければ、仏を学ぶ必要はない、外道を拝めばいいのだ。しかし、現在では多くの者が仏法を外道としてみる、そしてそなた達の欲求を満たすものだけが良いものであると認識する。

仏菩薩と上師は、そなた達の欲望を満たすのではない、確かに仏法の中では欲を以って引き付けるとあるが、この考え方は、そなたが仏法に触れる前、もしかすると仏法に触れる機会があるかもしれない時に、菩薩は先にそなた達の欲望の少しを満たす。例えば、そなたの体調が悪ければ、少し楽にしてあげたり、又何か問題があれば手助けをしたりする、だがそれはあくまでも手助けであり、そなたの問題を根本的に解決するわけではない。だが、当節の人は自分に何か起これば、リンチェンドルジェ・リンポチェが解決、処理してくれるとばかり考えている。このような考えは間違っている、リンポチェはそなた達の生死に関わる大事な事を処理するのであって、その外は一切関係ない。だが、それなのにどうして首を突っ込むのか、それはそなたにこれから起こる出来事、深い淵へと堕ちていく姿を見たくないからだ。地蔵菩薩の願は、「地獄が空にならない限り、私は仏に成らないと誓う」、リンチェンドルジェ・リンポチェの願は、諸菩薩を学んで、衆生が成仏できるよう手助けをする事である。衆生が成仏できるよう手助けをするには、まず彼らが三悪道へと堕ちるのを阻止すること。ある人は、三悪道へ堕ちても気にしない、なぜなら又出てこられるからだ。それはその通りだ、業を返し終えれば地獄から出られる、だがすぐに人間へと生まれ変われるのではなく、一度餓鬼道、畜生道を通って初めて人に成る。しかし、人に生まれ変わったとしても仏法を聞ける機会はないかもしれない。そなたが三悪道へ堕ちるのを防ぐのが、菩薩と上師の仕事である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは<地蔵経>を開示しても、そなた達にどのように金儲けを出来るかについては触れていないし、ただ如何にして死者が三悪道へ陥る事なく、今生きている者に意外が発生しないように助け、彼らがしっかり仏法を学べるようにさせるだけである。多くの者は、リンポチェに求めれば必ず応えてくれると思い、ジビネスが失敗又は上手くいかなくても、リンポチェは助けてくれると思っている。だが、これは何を根拠に言っているのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは、常にこう開示しているが、自分で財神法を修めると成就を得る、だが今まで自分のビジネスの為に財神を修めた事は無い。別の言い方をすれば、ビジネスに失敗し、仕事を失ったのは自分の業だ、それをなぜリンポチェが責任を負わなければならないのだ?ある人は、供養をしたのでお金がないという。だがそなた達はこのように考えた事があるのか、もし供養しなければ、巡礼参拝しなければ、もしかしたら命さえも無かったかも知れぬことを?

リンチェンドルジェ・リンポチェの母が往生する前、子供としては母に苦しんで欲しくないと望む。法本にも説かれていたが、その為には母にできるだけ聖地へと足を運ぶことが必要である。だが、その時母親はもう既に九十を越えていた、どうやって行くのだ?これも、何故リンチェンドルジェ・リンポチェがここ十数年、機会があればそなた達を率いて直貢の仏寺、聖地を巡礼するのかの理由だ。我々の福はとても浅い、そなた達が此処を訪れたいと希望する時には、既にその機会がないであろう。多くの人は仏を学ぶにはお金が掛かると誤解している、現在の寶吉祥道場は専門の飛行機でそなた達を乗せる事も無ければ、無料で飛行機チケット、宿泊費、添乗員を付けることも無い、全て費用が掛かる。リンチェンドルジェ・リンポチェがビジネスをするのは、弟子の為であり、そなた達を騙したりしない。多くの人は、どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェはビジネスをするのか、と疑問に思う。リンポチェは、ビジネスを行う必要はない、しかしリンチェンドルジェ・リンポチェの企業は多くの弟子を養っている。彼らがリンポチェの元で仕事をしなくてはならないのでは無く、此処リンチェンドルジェ・リンポチェの会社で働けば、一切違法がなく安心して働く事ができると知っているからである、ここで働くだけで良心の居心地が良いと分かるだろう。

現在皆は貪欲の心を持っている、それは多くの稼ぎを得てリンチェンドルジェ・リンポチェへ供養するという者達も含めてだ。リンポチェへの供養はそなた達の心にかかっていて、お金が儲かったら供養に来るのではない。リンポチェは、多くの貧乏な弟子を持っているが、今はそなた達がリンポチェに供養するのではなく、リンポチェがそなた達に供養しているのである。仏寺の建設もそなた達の献金などを求めず、そなた達の可哀想な様子を見るに忍びなく、リンポチェという身分から、家や車、家財道具等を売って、そのお金を仏寺の建設費用に充てる。そなた達はお金は命と見、リンポチェはお金を糞土のように見る、もっと言えば糞土にも及ばないかもしれない。これはどのように修めて来たのか?それは観世音菩薩を信じる事だ。どのようにして信じたのか?観世音菩薩が私に何か与えるのを求めるのではない;もしそなたが観世音菩薩に何かを求めるのなら、それは貪欲である。

そなたの貪欲を減らし、又は消し去るには、常に観世音菩薩を恭敬するべきだ。「常」とは不変を指し、疑う心、そして要求する心を持たない。観世音菩薩にそなたの願いが叶うのを求めるのではない。では修行への願いが叶うよう求めてもならないのか?とそなたは聞くが、そもそも求める必要はない、そなたが口に出し、行動に移せば、自ずからその願いを満たす時がくる。諸仏菩薩と上師は傍でそなたを見ている、そなたの為に因縁を造る手助けをするが、そなたの願いを満たすのではない。多くの者は、観世音菩薩が私の願いを満たしてくれれば、私の病気が治った後、衆生に利益するとか、私を菩薩に成せば、もっと多くの衆生へと利益すると言う。これらは全て出鱈目だ。欲から離れ、貪から離れ、恨み憎しみから離れろと、<普門品>にしっかり説かれている。

どうして<普門品>を開示するのか?多くの者は<普門品>は簡単だと思っているが、其の中で説かれているのはどれも修行の法門だ。誰が自分には貪欲が無いと言い切れるのだ?今そなた達はまだ密法を修めていないので、どうやったらそなた達の貪欲、嗔念を治し、愚痴を減らす事ができるのか?今唯一の法門は、常に観世音菩薩を恭敬することで、観世音菩薩の教えをちゃんと聞き、受け入れ、そこにはそなたの考えが入る余地はない。商売をしている会社の中には、一体の観世音菩薩を祀り、更に大悲水を置いて、今日も商売が順調で、お客が申し立てをしないようにと願う。このような考えは間違っている。観世音菩薩は商売を手助けしてくれるのか?<普門品>は観世音菩薩の経典だが、大悲水を飲めば何事も解決すると書いてあるか?ないだろう、ただ常に観世音菩薩を恭敬しろと書いているだけだ。恭敬とは、諸佛菩薩が教える一切の戒律、修行の法門を聞き入れ、実行に移すことで、そこにはそなたの出鱈目な考えはない。これで初めて恭敬と言える。少し直したり調整したりするそあなたは諸佛菩薩や上師を恭敬していない。

淫欲には2種類ある。ある人は生まれつき淫欲が強い。それは間違いでもなければ罪でもない、業力なのだ。如何にして解決するか?それは心の中で、常に観世音菩薩を恭敬する事だ。そなたがこの事を念頭に於くだけで、心の中では観世音菩薩の様子が観想される。前回開示したが、密法を学んでいなければ、如何に観想するか分からないであろう。観想とは観音菩薩の様子を観てずっと考え込むのではなく、清浄な本性で観て、観世音菩薩の功徳を思うのだ。多くの者は密法など無いというが、それは間違っている、密法がなければどうやって観るのだ?もし、仏像を見る事が観るのであれば、そなたはどの一尊の観世音菩薩を観るというのだ?中国とチベットの観世音菩薩の様子はそれぞれ違い、中国の観世音菩薩だけでも32種の姿がある、一体どれなのか?多くの者は仏法について何も分かっていないのにも関わらず、自分は正しいと勘違いしている。

<普門品>は初めから我々は危険があると説く、意外が発生するのも皆貪嗔痴からきている。痴とは、仏法や因果を信じないことだ。ある人は、給料くらい少し多く貰ってもいいだろう?と言うが、少しでも、少しの果が生じる、全く無いという事はない。<普門品>が教え、説くのは顕教の理論で、密法と一緒に行う必要がある。今日そなた達は密法を学んでいないので、常に観世音菩薩を念じるには、疑う心、そして欲望の心を持たずに観世音菩薩に願い、そなたが念頭に置くのはただ観世音菩薩の聖号だけだ。観世音菩薩は大菩薩だ、そなた達の奇妙な事を知らないと思うのか?だが、諸仏菩薩は衆生を助けるが因果に背いてはならない、だからそなた達の誠実な真心、懺悔の心によって、そなたの累世の冤親債主が邪魔をしないようにし、そなたにしっかり仏法を学べるようにする。自分自身を絶え間なく、改め続ける事で、この一生で生死から解脱できる。上師もこのような手助けをそなた達にする。どうしてそなた達を叱り、罰するのか?それはそなた達が間違いを犯すのを恐れるからだ。

最近では、多くの弟子が間違いを犯している、皈依が長ければ長い程問題が出てくるんだ、なぜなら長らく皈依すると何でも分かると勘違いを始め、少し気持ちが緩むと、累世の貪嗔痴の業力がすぐに目の前に顕れる。一瞬にしてだ。<普門品>は我々に常に観世音菩薩を恭敬するよう教えるが、それはそなたの念頭には観世音菩薩のみで、他は何もないということだ。いちいち観世音菩薩がいつ助けに来るのか、手伝ってくれるのか、いつ与えてくれるのか等を考える必要はない、このように考えるのは間違で、即不恭敬だ。そなたは観世音菩薩を信じると決めたのに、まだ観世音菩薩が助けてくれないと心配しているか?心配をするという事は、そなたの欲望が強い表れだ、欲望から離れることが出来ていない、このままでは間違い続ける。

皈依の際にも言ったが、たびたび間違いを犯し、羞恥を知らない者は、すぐにでも追い出す。なぜなら、そなた達は自分では間違っていないと思うからだ。そなた達は皆一種の僥倖な心持で仏を学んでいる。間違いを犯せば、仏菩薩とリンチェンドルジェ・リンポチェへ懺悔し、懺悔し終われば、又繰り返す。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前にも開示したが、そなたが過ちを犯した時、懺悔を行う事でそなた達に新たに機会を与える、しかし以前に修めた全ての功徳がご破算になり福徳へと変わる。福徳はこの一生では使えない、来世でしか使えないのだ、これは修行に使うのではなく、人天や果ては畜生道、餓鬼道で使う。この一生で修め得た功徳だけが、本人の累世の業を解決でき、又そなた達の業を変える事ができ、三悪道に堕ちず、阿弥陀仏の浄土へ辿り着く機会を得る。何事も全部リンチェンドルジェ・リンポチェに頼ろうと考えてはならない、リンポチェも死ぬし、寝る。そしてそなた達の間違いに気づくことが出来ない時もあるかもしれない。自分自身でしっかり管理し、もしある一種の感覚を貪る為に仏法を学ぶのなら、ここへは来ない方がいい。

ある人は、ある修行人を見て、この人は私の好む慈悲深さだと思えば、その人の下へ行く。また時間が過ぎて、この修行人は自分が望むようにやっていないと感じれば離れていく。多くの仏を学ぶ者達は、自分の受けた感じがいい事を追い求め、もし上師が自分の欲望とは別の事を行えば、好きではなくなる。上師はそなた達のビジネスや生まれる子供の事、夫婦関係、浮気等を手伝うのではない。確かに<普門品>では、生まれる子供の性別を求める事が出来るとあるが、それには供養、及び恭敬心が必要で、それがあって始めて得ることができる。我々全ての煩悩は貪嗔痴から来ていて、自分の心をしっかり管理しないで、一寸緩むと一瞬で返って来る。特にそなた達のような自分は仏を学んでいると思っている人が貪念や嗔念を起こすと、その悪は、一般の仏を学んでいない者よりひどい。なぜならそなた達は自らが間違っていないと思い、毎日ちゃんと唱え、懺悔もする。ただもう少しお金を儲けたい、儲けたら今後はどうしたい等と考える。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェはお金が無かった時でも、変わらず直貢チェ・ツァン法王を供養し、そして多くの仏寺を支えてきた。そなた達はもう理由など探さなくてよい、現在仏を学ぶ者達はますます仏菩薩や上師に自分の欲望を満たすよう脅す。だから、自分が衆生を利益できると希望するではない、責任を背負う事も出来ず、力量もなければ、勇気もない、それではやらない方がましだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日とても重大な問題と立ち向かっているのだ。

ここで言う「衆生」とは、そなたが信じるか信じないかに関わらず、そなたが観世音菩薩との縁を感じられたら受持すべきだ。「受持」とは、一切の戒律、一切諸仏菩薩の教導を受け入れるという事だ。そなたが観世音菩薩の法門を修めているからといい、地蔵法門と違うと思ってはいけない。どれも同じである!ただ、それぞれの菩薩、それぞれの仏が発する願力が異なるだけだ。でも、仏法事業はどれも同じで、衆生が生死から解脱するのを手助けするのだ。多くの者は、衆生を利益すると言うが、衆生に法会の事を紹介し、参列させることが衆生を利益する事と思ってはいけない。仏経が説く衆生を利益するというのは、衆生が三悪道へ堕ちることがなく、輪廻の苦海から解脱できるようにする事が衆生を利益するという事だ。それ以外は、衆生に諸菩薩と上師の縁を結ばせるだけだ。上師と諸菩薩も衆生の縁に従い、衆生自身が決らなければ。諸菩薩や上師は、衆生を威嚇したり、脅したり、誘拐したり等して、相手を信じさせる事はしない。この縁がなければそれで終わりなのだ!

「受持」そなたはそれを行うべきで、その他の選択はない。そなたが選択をすれば、即ち観世音菩薩を信じていない、という事だ。そなたは観世音菩薩法門を専門に修めていると言ってはならない、千手千眼観世音菩薩になる事など出来るわけが無いのだから。我々はただ、ある一尊の菩薩と比較的に縁があるので、自然とその一尊の菩薩を修めるようになって、特に何の法門を修めたのではない。八万四千種の法門は、我々の煩悩それぞれに対応する。あらゆる仏法は最後には、すべて法性の中へと戻る、それはどれも衆生を輪廻という苦海から解脱する為だ。諸菩薩が教えるすべての修行方法は、どれもこのようにしてできたのだ、たとえ観世音菩薩、地蔵菩薩、八大菩薩であろうと自分でどう修めるかを発明したのではなく、すべて歴代の仏が修行経験を教えて来られ、それぞれの仏がこのように修めて来られたのだ。どの仏が他の仏より偉大だなどの比較はない、ただ願力が異なるだけだ。福報と功徳は段階があり、段階は彼らの縁だ。

「受」とはそなたがどの仏法の教を受けると決めると、初めてその名号と法を「持」して、そなたを変える事が出来る。毎日一千回唱え、唱え終えると又貪嗔痴が同じ様に来たり、六字大呪文を三千回唱えても尚、上師を騙し、勝手気ままな事を行うのではない。三千遍も唱え終えてもまだ上師を騙すのなら、これは受持していなく、自然と唱えた一切は彼に対して何の利益もなくなる。観世音菩薩の名号を受持していると言い、この名号の功徳力が彼の全ての業力を遮断できると思うではない。自らが観世音菩薩の名号を唱えたからといい、この名号の功徳が自分の業力を抑えると思ってはならない。「受持」この二文字は非常に重要で、一切の戒律を受けず、戒を守らず、皈依の戒もない、五戒十善もなければ菩薩戒もなければ、毎日観世音菩薩の名号を唇が切れるまで唱え続けても、そなたの業力を遮断する事はできない。遮断とは、消滅することではない、そなたにこの業力を超えて修行をすることだ;だがそなたが修めようとしないのなら、業力はやはりそなたの元へと返って来る。

そなたが毎日どれくらい唱えて、どれくらい努めたかを見るのではない。そなたに「受持」したかを見る、それはそなたが呪文を唱える前後に、また呪文の間に全過程は法に従っているかどうか?そなたがどれだけ正確に唱えたのか、又は梵音で唱えているかではなく、そなたが戒を受けいれているかどうか?菩薩がそなたに人としてどうするべきかとの教えを、そなたはちゃんと受け入れているか、また持ちこたえて、変改せずにいれるか?多くの者は気にせず、事を終えた後に懺悔をすればいいと考える;大丈夫だ、ほんの少しだけだし、どうってことない。これは「受持」ではなく、逆らっている。そなたはリンポチェと菩薩をそなたの打撃手にしているのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、皮膚癌を患った際も特別に何か法を修めていない、毎日の生活は「受持」、その病の良し悪しも気にせず、いるいないにも関わらなかった。これは自分の業力で、受け入れればいいのだ。受け入れるだけではまだ足りなくて、その物と平和的に寄り添っていく観念もない。業力の本体は空性であると理解したら、自然と心に引っかかるものはない。

受持には異なる段階を含む、信衆から始まり、仏弟子と成り、一人の修行人になって、果位のある人に成る、その度にそなたは異なる段階の受持をする。仏を学び始めた者は皈依し、五戒、十善法を守り、そして仏が教える事を奉行する。仏経が説く事から離れてはいけない、名号や物事を勝手に発明して、自分が観世音菩薩を修めていると勘違いしてはいけない。<普門品>が説く一切救難とは、全てそなたが最も危機に面した時のことで、そなたが病気をして、それが治ったら観世音菩薩の神力という事ではない。<大蔵経>続部でも、観世音菩薩は病を治すと説かれている、中には:一、どのように薬を使うのか;二、如何に病人の生活を変えることができるか;三、菩提心を起こす;四、呪文を唱える、を説いている。仏経上には、どこにも観世音菩薩をみたら、観世音菩薩がそなたを加持し、すぐに良くなるとは書かれていない。仏法はこのような奇跡の出現を説いているのではない。多くの者は、此処へ着たら1回で奇跡を起こして欲しい、リンチェンドルジェ・リンポチェに、すぐさま治して欲しいと望む。もちろん例外もある、もし彼に充分な信心があれば、一回でいい。だが、その後に何も修めようとしないのなら、意味が無い。病は又そなたの元に返って来る。多くの者はリンチェンドルジェ・リンポチェの下へ来て助けてくれた事に感謝を述べるが、リンポチェは礼は要らない、自分のやるべき事を行っただけだ、感謝をするならしっかり仏を学び修行をすることだと言う、だが殆どの人は出来ていない。皆リンポチェを医者と見成す、医者はお金を取るが、リンチェンドルジェ・リンポチェはお金を取らない、それは今後は話を聞き、仏を学びしっかり修行をすると言うことだ。

現代語で話すのなら、ある者がそなたの病を治したとする。そなたはその後自分の体調を管理をするだろう。ならば、仏菩薩上師が加持を終え、そなたはもう一度健康な身体を手に入れ、又努力して続けることができるのに、どうしてもう修めることを辞めたのか?祖師ジッテン・サムゴンはこう開示された、証果を得たリンポチェであれば、人の病を治療する能力を持つ、だが衆生を助けても、もしその衆生が精進せず、懺悔心、羞恥心もなく、そして努力して仏を学び自分を改めようとしないのなら、病はまたそなたの元へ返って来るだろう。同じ病とは限らず、別の病を患う可能性もある、多くの弟子がこのような結果にある。その弟子達は、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らの病を治したので、まず自分の事、家族の事を優先して、お金も充分稼ぎ、老後を迎える準備ができてから、修めればいいと誤った考えをする。だが、そなたが退職してしっかり修めようと思う頃には、もう手遅れだ。仏を学ぶのは、その時その時で、すぐに決意することだ、我々には時間が無い。まだ自分は若いからとか、子供がまだ幼いから等の言い訳、又反対にもう歳であるがまだそのタイミングではないといい、今の所法会に参列するだけでいいと思う。法会に参列しても受持せず、自分を調整し改めることをしなければ、法会に参列した福報はそなたの来世でしか使えず、この一生では作用しない。

観世音菩薩の名号を受持するのは、単純にただ唱えればいいのではなく、自分が仏法を受け入れているかどうかである。簡単に言うと、皈依したのか?戒は守っているか?話を聞くことができるか?もし無いのなら、この受持の二文字は出てこない。あの録音機のように仏号を唱えて、唱え終えたらボタンを押して、他の事をする。

経典:「無盡意。若し人ありて六十二億恒河沙の菩薩の名字を受持し、復た形を尽くすまで、飲食、衣服、臥具、医薬を供養せんに、汝が意に於て云何。」

仏が無盡意菩薩に問う。リンチェンドルジェ・リンポチェは、六十二億の意味は分からないが、もしある日悟ったら皆に知らせよう。六十二億恒河沙とは六十二億筋の恒河川底の沙とその周りの沙をさす。恒河の沙はとても多い。宇宙中にはこんなにも多くの菩薩が居られ、また六十二億の仏土があるかもしれない。以前のインドでは、この恒河しか知らなかった為、恒河を使って比喩を表現したのだ。「復た形を尽くす」が示すのは、この一生が終わる前に、以下に述べられている事を毎日行うのだ。そなた達は初一・十五、これはまだ良い;もっと良いのは、一年に一回大法会に参列する事;更に良いのは毎月一回施身法を行う法会に参列する事。ここにある「形を尽くす」とは、顕教の人に聞かせいているのだ、もし密を修めるのなら生生世世である、仏に成る前までは辞める事無く続けて全てを行う。
飲食、衣服、寝具、及び薬品の供養をする、なのでリンチェンドルジェ・リンポチェが法を修める時は多くの供物を用いる、そなた達には何か分からない?ある時は、大法を修める際に幾つかの布を揺する、これは衣類を供養する事を表す。供養とは、二三の皿に果物を高く積み上げるだけが、仏菩薩に供養するのではない、中には飲む物、食べる物、着る物、座る物、横になる物、医薬等を含む。ある者は、菩薩はもうすでに菩薩なので病気にならないので、医薬なんて必要ないと思う?医薬の定義は、諸菩薩はそなたの医薬の供養を受ければ、そなたが多くの衆生を手助けたことを表している。もし仏菩薩の法身でも病気になれば、仏菩薩ではない。だが、そなたは心から供養をする事で、諸仏菩薩は衆生の病を治すのを手助けできる。そなた達が思っているような事ではない。薬師仏が薬を飲み、その薬で我々の病気を治す。

経典:「この善男子善女人の功徳は多きや否や。」

前半では衆生は皆受持するべきだと言い、後半では善男子善女人を加えた。つまりそなたが受持し、これらの供養を行い、しかもこの一生行うと発願、誓って初めて善男子善女人である。ここへ座っているもので、どのくらいの人ができているだろうか?少ない。どれも三分間、五分間、十分間の熱だ。第一、第二年目は此れがごとく行うが、三年目は自分でOKだと思い、先に自分の好きな事を行ってもいいと思う。

仏はここで特に善男子善女人と言っているが、それはそなたは前の部分は出来ているので、必ず十善法を修めており、必ず善であり、悪を行わない、だから善男子女人と呼ぶのだ。「功徳は多きや否や」、ここの功徳とは福徳ではない、この者たちがこれらの事を行うのは自分の利益ではなく、衆生を利益し、すべては衆生を助ける為と言う事を意味する。ここでは、仏菩薩を供養すると説くが、供養後は何か良い事を得るとは説かれていない。ただ「形を尽くす」とだけだ、そなたがこの一生で供養し、供養後には何か良い事を求めなければ、そなたは菩薩道を行う人である。菩薩道を修める人は、一切の供養は自分の為でない、リンチェンドルジェ・リンポチェのように毎日供養しているので、供養から大きな福報が起こり、これらの福報は衆生へと回向することができるので、衆生は仏法を学ぶ福報が得られる。これこそが功徳なのだ。もし、そなた達が毎日唱えているのが、子供に向けて回向、又はこれに向けて回向、自分が悟りを得る為に回向、これらはどれも功徳がない。自分へ回向するなんて以ての外だ、自分に仏法をしっかり学べるようにと頑張っても功徳が得られていない?功徳を得られていない。そなたは貪念を発したからだ。因縁が来たら、その時が来たら、自然と悟りを開くことができる、質問する事も、求める必要もない。想うことだってしなくていいのだ。仏経は、説明がとても難しい、二言でしっかり解釈するのは難しい、これは修めなければいけないものなのだ。このように供養する事で、功徳を得られるのだ。

経典:「無盡意の言さく、甚だ多し世尊。」

無尽意菩薩曰く、世尊、この様な事は多い。

経典:「仏の言く、若しまた人ありて観世音菩薩の名号を受持し、ないし一時も礼拝供養せんに、是の二人の福はまさしく等しくして異なること無けん。百千万億劫に於いても窮め尽すべからず。」

例えばの話だが、ある人が前の部分を終え、更に観世音菩薩の名号も受持した。「一時」とは、ちょっと行うだけではなく、又仏寺でちょっとお参りするといった事でもない。リンチェンドルジェ・リンポチェはインドでの一時はどの位かは分からないが、中国では一時辰は二時間、即ち少なくても一日二時間は仏を拝む。リンポチェは、出家衆の弟子に四加行は、毎日どのくらい礼拝するのか?と訊ねた。弟子は二時間と答え、リンポチェは彼は<普門品>を読んだことがあると開示された。

多くの者は《梁皇寶懺》、《水陸懺》を拝んでいるのに、何故予期せぬ事が起こってしまうのか?まずこれ等の懺を見てみる。この懺は我々が人天道へ到る手助けをする。だが、そなたは菩薩乗や金剛乗を修め、菩薩の果位を証し、仏果に到らんとするもので、人天道ではない。以前拝んだ懺は、福徳資糧を積んで、それから仏を学ぶようにするのだ。この出家衆弟子は、ついこの間予期せぬ事が起こったばかりだ。この弟子は、最初はあまり大礼拝を行いたくないと思っていたが、リンチェンドルジェ・リンポチェが無理やり彼に礼拝させ、たまに彼に何回礼拝したのか問う、彼は逃れる事が出来ないと知っているので、礼拝し続けている。この弟子は出家してもう数十年になるが、かれが行った悪は、そなた達よりもはるかに少ないにも関わらず、予期せぬ事態が起こった、菩薩道を修め始める前に、先ずそなたの業を清浄しなければならない、四加行を修めず、供養せずにどうやって清浄するのだ?そなたは一寸この懺を拝むだけで、取り除かれると思うのか?力が違えば、程度も違う。懺の意味は、そなたが今生懺を礼拝し、戒めを守ったので、たとえそなたが今生でよく修め得なくとも、次の一世では三悪道には行かず、人天道へ辿り着く。何事も起こらないのではない。もし、一歩進んで菩薩道を修めると発願すれば、そなたは尚多くを償い、多くの事が起こる覚悟をしなければならない。必ずそなた自身を清浄にし終えて、初めて菩薩になれる。我々は登地菩薩から十地菩薩に到るまでにまだ障害や業力があるが、それらを清浄し続け、完全に清浄し終えたら、初めて法身菩薩に到り、煩悩が起きなくなる。

礼拝は自分の為ではなく、供養である、諸仏菩薩に供養する。礼拝は恭敬、恭敬こそが供養である、供養があるから福報がある、それで仏を学ぶ機会を得る。そなた達の考えているような、法会に参加したらリンチェンドルジェ・リンポチェが私達を護り、何事も上手く行くよう求め、何かあればリンチェンドルジェ・リンポチェにお願いして処理してもらう。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達からどれだけお金を貰ったと言うのだ、こんなにも多くの事をやらなければならないとは?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェに対するだけでなく、全ての出家衆に対してもその様だ。だから多くの大住持は法を説かなくなった、面倒を避けるためにな。

「是の二人の福はまさしく等しくして異なること無けん。百千万億劫に於いても窮め尽すべからず。」そなた達は観世音菩薩の名号を受持しているが、だが前に六十二億恒河沙菩薩の名前を受持して福を得た、この二種類の福は同じである。ここでは、福へと変化する。もし我々が福の資糧を積まなければ、我々は智慧を開くことは出来ない。もし、我々に智慧がなければ福があっても、それは意味がない、智慧があっても福がなければ、それも意味ないのだ。なぜなら二つで1つだからだ、だが分けることもできる。意味は、そなたに福がある限り、仏法を修行し続けることができる。ここの福は、人天の福でも、財の福でも、健康面、事業、一切順調等の事を指してはいない。そなたは一生善を行う事に努力し、献金し続け、ある一尊の神明を拝み続ければ、そなたの一切は順調に進み、このように苦労して仏を学ばなくてもよい。仏を学ぶことは、とても大変である、なぜなら自分を改めないといけないからだ。他の宗教では、自分を改める必要はない、そなたが相手から得ていると信じ続ければいいのだ、だが相手が与えるかどうかは定かではない。自分を改めることは、どれだけ苦痛な事か、前世があるかないかは問わずとも、少なくとも今世で何十歳と生きて来て習慣になってしまったのだから、今更自分のどこが悪いのか等知る由もなく、自分は正しいと思い込んでいる、だか、もし間違っていないのなら、怒られる事は無いはずだ。

この二人から得た福は差異がない、百千万億劫で尽きる事のない福だ。前に述べた条件を全て行ってから、後で何を得るかを知る。前半は因、後半が果である。どうしてこの福は尽くすことはできないのか?なぜなら仏を学び修行する上で、もし福がなければありったけの障害が立ちはだかるものだ。このような障害は、誰かがそなたに与えたものではない、そなたの身体に支障が出るのでなければ、眷属がそなたに障害を与えるか、でなければ事業に支障が出るなど、たくさんの障害はあるが、福はない。リンチェンドルジェ・リンポチェが仏を学ぶのを邪魔するものはいない、リンポチェの福報はそなた達よりも良い。そなた達は、家族円満だが子供たちは親孝行ではない、自分達ではそう思っていないようだが。

経典:「無盡意よ、観世音菩薩の名号を受持せば、是の如く無量無辺の福徳の利を得ん。」

仏は又こう説かれた:観世音菩薩の名号を受持すれば、無量無辺、使い切れない程の福徳を得る。福と功徳を一緒にすることで、はじめて我々累世の業力を変動させることができる。

経典:「無尽意菩薩、仏に白して言さく。世尊よ観世音菩薩は云何して此の娑婆世界に遊び、云何衆生の為に説法したもうや、方便の力、その事云何。」

無盡意菩薩は観世音菩薩が如何に衆生を利益しているか知らない訳が無いが、かれは衆生を代表して仏に教えを請う。娑婆の世界とは、地球だけを指すのではなく、四大洲、そして須弥山の間にいる一切衆生である。観世音菩薩は又何故無盡意の衆生の為に法を説かれるのか?

「方便の力」方便とは勝手気ままではない。方便とは、異なる時期、環境、人物や物事で、衆生が受け入れるような方法である。「方便の力」は一般の人が出来ることではない、絶対的に法身菩薩だけがこのような方便の力を持つ。方便は無責任な好き勝手ではなく、菩薩は必ずそなた達を許してくれるなどのような事をそなたに勝手に言わしているのではない。諸仏菩薩と上師は衆生を利益する際、勝手気ままに行っていない、つまり異なる環境、異なる言語、彼らに近い風俗を用いて、衆生らにいち早く仏法に触れるようにする。もし、説法をする人、修行をする人に修行の経験が無く、福と智慧が円満で無ければ、方便の力を発することができない。なぜなら、仏法を説く衆生の根器が如何か、仏法を聞いている衆生の縁分は如何かが分らなければ、衆生が聞いて理解できる状況を話せないからである。

「その事云何」これはどういう事か?「事」は「仏法事業」を指す。我々が行う全ての事には業力が生じる、業力には善のがあり悪のもあるし、また不善のがあり不悪のもある。仏法事業とは、我々が仏から教わった一切の方法を用いて衆生を手助けると、善の業力が出現する。仏法に業力がないと思ってはならない、もし善の業力がなければ、何故善の果報があるというのだ?仏法事業は、慈善晩餐やバザーなどを行うのではない。所謂「仏法事業」とは、仏が我々に教えられた生死を解脱する一切の方法を用いて、衆生を教え導く事を指し、これこそが仏法事業だ、その他は人世間の事業である。慈善機構や病院、孤児院の建設、これらは全て人世間の善の業である、仏法事業ではない。多くの者は、彼は病院、孤児院、老人ホーム、学校を運営して貧しきを救済していると思っている、だが他の宗教もこれ等の事を行っている。どうして我々は、ほかの宗教が仏法事業を行うと言わず、よりによって仏寺がこれ等を行って初めて仏法事業というのだ?

「仏法事業」とは、仏が我々に教え賜れた一切の方法で、衆生が生死を解脱する事を手助けして生まれた善業であり、決してそなた達が考えているような慈善や貧困を助ける事が仏法事業ではない。人が善を行うのは当たり前だ。そなたが人身を得たのは累世でそなたが善を行ったからである。人身を得たからには、更に善を行うべきで、仏を学んだから善を行うのではない。善の定義は、有漏無漏に分かれるが、小善は行わず、大善だけを行うというのではない。その考えは間違っている。全ての大善は、小善を積み重ねてできたものだ。その小さな善は相手の悩みを和らげる一言をいう事までも含まれる。スマートフォンにて、相手を罵る言葉を控えたり、泣きっ面を一つ控えるのも小さな善である。また、ある人がほかの人を罵るとき、そなたが「いいね」ボタンを押さないことも小さい善である。他の人も一緒になって罵っているのだから、私のこの「いいね」ボタンを押すぐらい構わないだろう、と考えてはいけない、押す事によってそなたは大悪の中へと堕ちるのだ。

なので、「その事」とは仏法の事を指す。諸仏菩薩は、我々のこのような乱れ絡んだ事情を手助けする事はない、そなた達の煩悩が途絶えない限り、そなた達の事情が片付く事は一切ない。たとえ家の為であろうと、誰かの為、財富の為、それらは全て煩悩の根源なのだ。

経典:「仏、無尽意菩薩に告げたまわく。善男子よ、若し国土の衆生有りて、応に仏身を以って得度すべき者には、観世音菩薩即ち仏身を現じて、而も為に法を説きたもう。」

なぜ観世音菩薩は仏の姿で現れ得るのか?当たり前なら、仏果を証するまでは、仏の身として現れるのは不可能なのだが?仏には三十二相八十種好があると仏経にはっきり書かれている。仏にこれらの相が有るのは、修め得た福徳から出来たものであり、決して仏自ら特にこのような姿であると述べたのではない。菩薩には菩薩の相があり、阿羅漢には阿羅漢の相がある、これは間違いない。顕を学べば顕の相、密を修めれば密法の相が有り、それらは故意に自分の相はこれだと決め付けているのではなく、逆にこれらの過程を通して原子、分子を変える、だから変わるのだ。

観世音菩薩は本来古仏である、「倒駕慈航」して仏に成った後も娑婆の世界へと戻り、衆生を助けている、だから仏の身を現せるのだ。もし、仏経の中でこの仏号を説かず、自分は生き仏だと言い、そなたがそれを信じれば、そなたは終わりだ。生きる者は、必ず死ぬ、そなたが彼に就いていけば、必ず死ぬ。そもそも私達仏を学ぶ者は、生死の輪廻を断つものだ。どこから生き仏が出てきたのだ?

「国土衆生」これは地球上のどこかの国家とは限らない。仏の如何なる浄土の中で、幾らかの衆生が仏身で得度するべきであれば、仏身を現して説法する。幾らかの衆生は、仏の身体や仏の相を見て、初めて彼の縁が起きるのであれば、観世音菩薩は仏身を現す。幾らかの人はそれを自慢するが、このように考えるのは良くない、なぜならそなた達には仏身が来られて法を説く事はないのだ。これは最高層である、地球上にはないであろう。それは、彼らが生生世世大きな功徳を累積し、後一歩で仏に成れる、彼は既に菩薩の果位の少なくとも十地以上を証している、あるいは九地か、又は八地かも知れないが。彼らは、もうこのような高い果位にまで証しているので、何処がまだ足りないかをはっきり知っている。そこで仏に説法を願う。お互い同じレベルだと認識したとき、そなたと私は同じで、そなたが行わなかった事は私もまだ行ってなく、私ができなかった事は、そなたにも出来ない、こうなると相手の言う事を聞かなくなる。だから欲を以って引き付けるのだ。

例えば:今日、ある者はこの果位にまで修める事ができた、彼は釈迦牟尼仏を敬っていたが、釈迦牟尼仏との縁が無い。比較的に観世音菩薩との縁があるので、彼はひたすら観世音菩薩を唱えていた、ある時、観世音菩薩は釋迦牟尼仏の姿で彼の前に現れたので、彼はすぐさま悟りを開いた。此処に居る出家であろうと、在家であろうと、リンチェンドルジェ・リンポチェでさえこのような資格はない。そなたの上師さえ資格がないというのに、そなた達にはその資格があると思うのか?出藍の誉れという言葉があるが、そなた達はまだ黒いままであるというのに、まして如何に藍よりも青くなれるというのだ?皆はこのような自慢をするではない、仏経はこのように説いてはいるが、それはそなた達が達することができるとは限らない。

経典:「応に辟支仏の身を以って得度すべきものには、即ち辟支仏の身を現じて、而も為に法を説きたもう。」

仏経に沿って解釈すると、多くの名詞と観念を用いて辟支仏と仏の相違を説明する。辟支仏と仏は基本的には既に仏果を証している。釋迦牟尼佛仏のように、しっかりと生生世世如何に菩薩の果位から修め上げたのかを伝え、又以前にある一世では地獄、幾つかの世では鹿、猿、熊、孔雀であったとはっきりさせている。辟支仏は累世で、とても大きな因縁を持った。因縁が揃った時、彼は自分が涅槃へと入れたと感じる、これが有余涅槃であり、仏の無余涅槃とまた違うのだ。仏は涅槃の境界に入ったが、この境界に執着は無い。仏は涅槃は心地がよく、よき日々を過ごし、煩悩が無いと思わない。仏にとって涅槃は一つの過程である。だが、辟支仏は涅槃の境界に執着し、自分は涅槃に入ったのだから世間の煩悩から解き放たれると考える。涅槃に漏れがあると、いつか福が無くなる時がきて、心念が揺らいでしまうと、すぐさま元に戻ってしまう。辟支仏と仏の差異は涅槃の境界である。

我々のこの一生で辟支仏と仏に達する事は当然不可能であるので、ただ観念として一寸体験して見よう。密宗の中のある修行方法が、輪廻と涅槃は無二無別であるという事。我々は、涅槃を実体としては認識せず、また輪廻が実体であるとも認識しない;我々は涅槃や輪廻は実在しないと認識するのではない;我々は輪廻と涅槃が分けられているとも思わない。なぜなら一切は、縁生縁滅の事だからだ。そなたは前半の修行を終えていないので、自然と涅槃の縁がない、たとえ我が涅槃へ入ったとしても、それが過去世で一切願の力量がこの宇宙には存在しないとの証にはならない。衆生の求める事が私の願力と同じであれば、この願力は発動する。一体涅槃にいるのかどうか?いる。では、住んでいるかどうか?住んではいない。辟支仏はこの部分が異なる。

経典:「応に声聞の身を以って得度すべきものには、即ち声聞の身を現じて、而も為に法を説きたもう。」

聲聞縁覚とは、阿羅漢道を修めることである、阿羅漢道を修めると必ず出家の相を現す。聲聞縁覚で阿羅漢道を修めるには、必ず出家相を現し、男女の欲を断ち、世間一切の煩悩を断つ。聲聞縁覚とは、生生世世仏法を修行し、縁がきたら悟り覚える、なにか音が聞こえたら、すぐさま自分の自性を観照して、悟り覚え得る。六祖慧能、大迦葉尊者は聲聞縁覚に属する。聲聞縁覚は累世で修め得た福徳因縁である、そなた達とは関係ない、たとえそなたが出家相を現しても関係しない。もしそうであるならば、そなた達は七祖、八祖、九祖である。リンチェンドルジェ・リンポチェは《六祖壇経》を見たことがある、六祖は一華五葉を開くと言ったが、花は実を結ぶとは言ってはいない。《六祖壇経》はしっかり見なければならない。

経典:「応に梵王の身を以って得度すべきものには、即ち梵王の身を現じて、而も為に法を説きたもう。応に帝釈の身を以って得度すべきものには、即ち帝釈の身を現じて、而も為に法を説きたもう。」

昔インドでは大梵天を拝んだ、色界天の天帝である。多くの外道は欲界天を拝む、インドの神は色界天にいる、彼の境界の方が比較的高い。帝釈身とは玉皇大帝を指す。

前の三段落にはっきり説かれているが、もし観世音菩薩が法身菩薩でなければ、彼は神通力で、衆生が因縁によって接触を希望し、済度し得る聖者に変化できない。聲聞縁覚の身、梵王の身、帝釈の身は全て因縁法であり、観世音菩薩はこの様な姿ではない。では観世音菩薩はどのようなお姿なのか?千変万化で衆生の心によって変る。そなたに善を行うよう、悟りを開くよう、そなたが仏法を聞き入れるようさせるものであれば、たとえ一つの道具でも、観世音菩薩だといえるのだ。<普門品>先ずこう言う。観世音菩薩の法身は、虛空に満ち渡り、地蔵菩薩の法身とは違う。地蔵菩薩は応化身であり、三悪道へ堕ちた一切衆生の手助けをする。観世音菩薩の応化は、衆生の所有する根器、縁、福報によって様々な違う身になって説法する。地蔵菩薩には六道の報身と応化身があるが、観世音菩薩は更に細かい。これは地蔵菩薩が細かくないといっているのではなく、両尊の願力が違うという事だ。

経典:「応に自在天の身を以って得度すべきものには、即ち自在天の身を現じて、而も為に法を説きたもう。応に大自在天の身を以って得度すべきものには、即ち大自在天の身を現じて、而も為に法を説きたもう。」

どうしてこの幾つかの天を言うのか?なぜなら仏を学び禅を修めると容易にこの幾つかの天に行きつく、ついた後自分がよく修めたと感じ、そこで福を享受するともう修行を行わなくなる、そして福報が尽きてしまうと、再度輪廻の苦海に堕ちる。観世音菩薩は、現れてこれ等の天の天帝身を得度し、それと生前まだ天界に輪廻して辿り着いていないが、観世音菩薩の名号を唱えた事がある衆生にはこの身で現れ得度し、彼等が二度と輪廻しないようにする。我々が修める金剛の本尊は、あらゆる天帝を足の下に押さえ、我々が間違った方向へと進まぬようにする。大梵天や大自在天まで修めれば、それは良い禪定だ。だが禪定が良くても、正しく上師に就いて大手印を修めなければ、そなたは容易にそちらを修めてしまう。確かに「人」よりも良く感じ、居心地がいい;だが仏からみれば、やはり輪廻する。輪廻するという事は徹底していないという事だ。徹底しなければ、観世音菩薩は慈悲なので、そなたが天で福を貪っていても探しに行き、福を貪っても意味がないと知らせるだろう。

経典:「応に天大将軍の身を以って得度すべきものには、即ち天大将軍の身を現じて、而も為に法を説きたもう。」

四大天王自身ではない、四大天王はすでに菩薩に成られている、四大天王の眷属が天大将軍の身を現し仏法を護持する。

経典:「応に毘沙門の身を以って得度すべきものには、即ち毘沙門の身を現じて、而も為に法を説きたもう。」

毘沙門は四大天王の一方で、日本人は毘沙門天を拝むのが好きである。ある時、リンチェンドルジェ・リンポチェは日本の道場で施身法を修めた、その際ある一尊の毘沙門が東北の方から来られた。法を修め終え、調べると、やはりその方角に一千年余りにもなる毘沙門のお寺があった。

経典:「応に小王の身を以って得度すべきものには、即ち小王の身を現じて、而も為に法を説きたもう。」

小王とは、地球上のある小さな国の王を指す。現在地球上には、小さい国家の王は比較的に少ない、現在で言えば小国王は県市長で、中国では一つの都市で2、3千万人を超え、現在の台湾では2千万人、彼等の市では3千万人もいる。

経典:「 応に長者の身を以って得度すべきものには、即ち長者の身を現じて、而も為に法を説きたもう。」

尊重されてきた年配の方は、一般人が話す事には聞く耳を持たないだろう、なので、その場合はこの姿で現れて彼に説法するのだ、それは必ずしも観世音菩薩の身になるとは限らない。例えば、ある年寄りはリンチェンドルジェ・リンポチェの年齢と近い為話を聞くが、もしリンチェンドルジェ・リンポチェが三十代、又は四十代であれば、その年寄りは絶対に聞く耳を持たないだろう。
ある時は、観世音菩薩がどのような姿で現れるかではなく、そなた達がどのような上師に出会うかが、そなた達の因縁と絶対に関係している。どの上師も必ず皆観音法門を修めている、特にチベット密教の第一本尊は、必ず観世音菩薩を修めている、なぜなら慈悲が無ければ、仏法は行えない、なのでどの上師も観世音菩薩の化身だと言っても過言ではない。

経典「応に居士の身を以って得度すべきものには、即ち居士の身を現じて、而も為に法を説きたもう。応に宰官の身を以って得度すべきものには、即ち宰官の身を現じて、而も為に法を説きたもう。」

居士の身とは、在家の事を指す。リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの在家弟子をもつ、なぜならリンポチェ自身が在家であるからだ。宰官の身とは、官吏のことで、一般市民では眼も呉れないので、宰官の姿でそなたに説法する、歴史上にはこの様な話が存在する。

経典「応に婆羅門の身を以って得度すべきものには、即ち婆羅門の身を現じて、而も為に法を説きたもう。」

中国に婆羅門はないが、インドでは昔宗教に関わる祭司を全て婆羅門と呼んだ。それは外にまで広まり、他の宗教の全ての祭司を含めてこの範疇に入れた。

経典「応に比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の身を以って得度すべきものには、即ち比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の身を現じて、而も為に法を説きたもう。」

比丘、比丘尼は出家の相を現すだけではなく、比丘、比丘尼の戒を受け、その戒を守ることで比丘、比丘尼に成れるのだ。優婆塞、優婆夷は一般の信衆ではなく、在家の修行人である男女を指し、しかも皈依し、戒を守り、また菩薩戒、金剛戒を守らなければいけない。比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四衆を合わせて僧団とする。比丘、比丘尼だけでは僧団ではない。現在の仏寺ではそれでも僧団とするが、もし優婆塞、優婆夷が加わって四衆が揃えば、この道場は僧団となる。比丘、比丘尼は、眷属をもってはならないが、優婆塞、優婆夷は眷属を持っても良い。皆同じ方向を向いて修行すれば、即ち生死を解脱し、輪廻から逃れる法門の修行であり、決して現世の事情の為の修行ではない。現世での要求の為に修行を行うのであれば、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷とは言えない。
リンチェンドルジェ・リンポチェのとある弟子は、以前出家しても眷属への想いが断ち切れずにいた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、眷属には眷属達の事情があり、因縁福報がある、と彼等を呵責した。そなたがしっかり修める事で、必ずそなたが眷属を世話できる日がくる。そなたがいつまでも、彼等の事を心配していれば、それは眷属との縁を切っていないという事だ、切らなければ比丘、比丘尼ではない。そして優婆塞、優婆夷の眷属への観念はただの縁であり、縁があっても、無くてもいい。ただこの一生で眷属が必要であり、そなたの累世の借りを返し切っていないので、自然と眷属が現れる。眷属が現れたら、それが冤親債主であろうと恩人であろうと、ただの縁である。縁生縁滅全て良く、悲哀、執着、苦痛はない。無感覚で関心を持たないと言うのではなく、思いを掛けるのはいいが、苦痛を起こさない様にという事だ。なぜ?そなた達が彼等に出会うまでは、そなたはどれ程楽しかっただろう、なぜこんなにも苦しむ必要があるのだ?以前がどれ程までに快楽で、どこへ行こうとも何も言わなくて良かったことが、今では全て報告する必要がある。そなた達の仲を裂こうというのではないが、もし優婆塞、優婆夷を修めるのであれば、眷属への考え方は自らの本分を尽くして世話をすればいいだけで、彼らがそなた達に属するのでもなければ、彼が行った一切の事が、良し悪しを証明するものでもなく、全て業力なのだ。業力が良ければ、家庭内も良い;業力が悪ければ、家庭内は悲惨である、どれも全て自分がまいた種である。リンチェンドルジェ・リンポチェの子供はそれぞれ異なった発展を遂げているが、それはそれぞれの業力が異なるからだ。自分自身に説いてみるといい、そなたはどれ程の衆生を食べたのか?返す必要があるか?もちろん、一切返さなければならない。

経典:「応に長者、居士、宰官、婆羅門の婦女の身を以って得度すべきものには、即ち婦女の身を現じて、而も為に法を説きたもう。」

観世音菩薩はどのようなお姿なのか?定かではない。唐の時代以前では、観世音菩薩は左右二つの髭があり、宋朝から、女相の観世音菩薩が出現した。これが一説で、もう一説では宋朝以後、度々戦争が起こるので、女子達は家にこもり、家で仏を拝み唱えるからとも言われている。毎日男の観世音菩薩を眺め、拝むと、心のどこかで違和感を覚え初めるので、女の観世音菩薩をつくり、皆に拝ませたのだ。故に、観世音菩薩は姫でもなければ王子でもない、菩薩なのだ、そなた達の身に合った身で、そなた達に前に現れるのだ。菩薩の法身を修めたのなら、男女相はない、男でもなければ女でもない。そなたは彼は男だというが、嘗て前世では男だったかもしれないが、女の身でも修めることも可能なのだ。ある経典の一部分に、ある女の身は釈迦牟尼仏の目の前で、男の身に変身したと書かれている。

経典:「応に童男童女の身を以って得度すべきものには、即ち童男童女の身を現じて、而も為に法を説きたもう。」

ある子供が放った一言は、必ずしも彼は知らないとは限らない。子供が生まれつき善の話をするのは、仏の言葉とは限らない。子供が話したからといい、前世がどうであったとかは限らない。もしかすると、両親はこの子供を大変可愛がってるが為に、観世音菩薩がこの子供に加持し、ある事を両親に聞き入れてもらえるよう伝えたのかもしれない、それが観世音菩薩なのだ。時に子供が、リンチェンドルジェ・リンポチェが以前説いた話をする、それはリンチェンドルジェ・リンポチェが加持し、子供にそなた達を叱らせたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに叱られるとそなた達が怒るが、子供がリンチェンドルジェ・リンポチェの代わりに話せば、そなた達は:おもしろな。と思って聞く耳を持つだろう。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達を導いてアキ護法と回向儀軌を修められた。法会は円満し、弟子達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲開示を感謝し、立ち上がって恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りられるのを見送った。

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2018 年 11 月 23 日 更新