尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示–2017年6月4日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、参加者全員に貴重な仏法の開示を下された。

リンチェンドルジェ・リンポチェは大衆を従えて観音法門六字大明呪を唱えられたが、リンポチェが唱えるのを止められても、大衆は構わず続けて呪文を唱えた。リンポチェはこう問いかけられた:そなた達は興奮して唱えているが、私がこのように唱えているのか?この件については何度も叱ったはずだ、なぜ何度叱っても聞き入れようとしないのか。この寶吉祥仏法センターにはリンポチェはたった一人しかいない、この事そなた達は肝に銘じるように、もしそなた達が自分で唱えて修めることができるのなら、自分で道場を開くがいい。いくら叱っても改めようとしない。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは又呪文を続けられ、大衆皆恥じ入り、聞く事に専念した。するとリンポチェの呪文を唱える音が温かく流れるようにすーっと心の中に入っていくのを感じ、皆はリンポチェの加持の下で、心を落ち着かせた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて《普門品》を開示された。

経典:「仮使黒風がその船舫を吹いて、羅刹鬼国に飄堕せんに、其の中に若し乃至一人の観世音菩薩のみ名を称うる者あらば、是の諸人等皆羅刹の難を解脱することを得ん、是の因縁をもって観世音と名づく。」

前回は羅刹鬼国の話をした。蓮師がチベットを後にして、羅刹鬼国の王になり、羅刹鬼に二度と人類を傷つけないようにされた。ある人たちは珍寶を求めるという、大きな貪心が芽生えた為、その人たちの乗る船は黒風が羅刹鬼国へ吹き寄せた。考えれば分かるとは思うが、地球上に羅刹鬼国はある。経文から分かるように、羅刹鬼国は大陸の中ではなく、海中にある大きな島である。羅刹鬼国へ吹き寄せられてしまう者は、大抵が貪心や嗔心が重い人で、それらはこのような災難へと導かれるのだ。だが、菩薩の慈悲のお陰で、衆生はたとえ自分が間違った事をしても、心の中で懺悔をしたら、普段五戒十善を完全に行っていなくても、実行さえすれば、災難にあっても、観世音菩薩のみ名を称えれば助けを得る。
臨時に称えても効果があるわけではない、普段善と全く関係ない人が、何度観世音菩薩を呼び続けても菩薩は現れない。観世音菩薩は聞こえないのではなく、そなたがこの一生で、もし悪が善よりも多ければ、悪の業力がそなたの観世音菩薩の聖号を唱えようとする善念を阻止する。そなたがどんなに唱えたくとも、出てこないのだ。簡単に言えば、我々は父母から生を授かり、通常母親か父親のどちらかを一方的に多く頼る。そなた子供時代、苦痛を受けた際には、自然と母親か父親を呼ぶ、そなたが一番頼っている存在を選ぶだろう。先程なぜそなた達を叱ったのか?そなた達は自分で呪文が唱えられるとでもいうのか?上師が唱えたら、それについて唱えればいいのだ。それなのに唱えれば唱えるほど興奮して、自分で修めていると思っている。なぜ叱るっても直さなく、聞き入れようとしないのか?いつからそなた達が修める出番になったのか?今まで《普門品》では、そなた達に自分で修めよとは説かれていない。すべて災有り難有りとしか説かれていない。即ちそなた達は悪業を消していないので、このような災難があるのだ、と説く。悪業が無くならないのは、そなた達にまだ貪・瞋・痴が満ちているからだ。でも観世音菩薩はとても慈悲深いお方なので、そなた達が仏と上師、そして菩薩と結縁すれば、観世音菩薩は一度だけそなた達を助ける。まさにリンチェンドルジェ・リンポチェが常に言う一度だけそなたを助けるだ。一度助けた後、そなた達は自分はすごいと思い、自分で修めたため、拝んだため助かったと思っているのか?結局自分では何も修めていない事に気が付く!何度も言ったが、上師が呪文を唱えるとき、それについて唱えればよい。そなた達のようにだんだん興奮し、上師がどの様な声で唱えているかも聞こえなくなってしまう!

以前に何度も開示したが、戒を守る徳を持ち備えたある一名の出家衆、彼の修行した果位は一般信衆100名の功徳に等しい;100名の出家衆の功徳は一名のガムポに等しい;100名のガムポの功徳は一名のリンポチェに等しい。そなた達も自分で数えてみるがいい、ここにいる全員を足しても足りない。末法時代の衆生は教えづらい、まさに《地蔵経》でも説いたように、地球の人類は自己中心的で、教調しづらい生き物である。

経典:「若し復た人ありて当に害せられんとするに臨み、観世音菩薩のみ名を称せば、彼の執るところの刀杖は尋いで段々に壊れて、解脱することを得ん。」

ここでの重要な点は、そなたが自ら喧嘩をしに行ったのではない、そなたが怒って相手と喧嘩になり、そなたが先に手を出したか、相手が先に手を出したのでやり返したかを問わず、どちらでも観世音菩薩は助けない。「当に害せられんとするに臨み」、これは、そなたの累世の業で、誰かがこの一生でそなたを傷つけに来る。この一生で、そなたが観世音菩薩を修め、観世音菩薩を唱え、戒律を守っていれば、死ぬ前、刀が下ろされる寸前にでも、唱えれば助けてくれる;又は一度刺されて、二度目が刺される前でも、そなたが唱えれば助けてくれる。いつも行動に移すのが遅く、上師の話も聞かないで、自分が最も偉い等と勘違いをしているので、少なくても3、4回刺された後、始めて観世音菩薩を思い出す。なぜなら、そなた達は言う事を聞かない、あれこれ言っても結局多くの者は話を聞き入れる事なく、法会に参列さえすればいいと勘違いしている。仏経で説かれているどの話も有用なのだ。「当に害せられんとするに臨み」とは、そなたが怒れば、それが相手に刺激されたのか、自ら攻撃したかに関わらず、用は成さず、骨に達するまで斬られる。しかし、それは累世の仇が出現する場合を除いてだ。我々は累世で借りをつくれば必ず返さなければならない事をよく理解している。観世音菩薩がそなたを助けるのは、借りを返さなくていいのではない。そなたが助けを得てもまだ修めようとしないのなら、やはりその借りは返さなければならない。

昔、中国に真実にまつわる物語がある。ある一家は皆菜食で、観世音菩薩を唱えていた。月日が過ぎたある日、この家の主人の夢枕に観世音菩薩が出でましてお告げになった。近いうちにそなたの元へ冤親債主がやってきて、そなた達家族を強盗事件に巻き込むだろう。そしてその頭となる者の前世の名前と今の名前を教え、過去に、そなたが彼を幾度か切ったので、この一世で強盗事件を起こし、そなたにその数だけ斬りつけて復讐するだろう。そなたは懺悔の心を起こしなさいと告げた。そして本当にその日がやってきた。ある強盗グループがやってきて、彼らの家族を皆縛り上げ、殺す準備をした。そこで主人がこの強盗グループの頭の名前を呼んだので、頭は名を名乗っていないのに、主人が自分の名前を知っている事を奇妙に感じ、主人に問うと、以前見た夢の話をし、同時に家族を傷つけないでくれ、この借りは自分が返すべきだと伝えた。それを聞いた強盗グループの頭は、懺悔心と哀れみの心が湧き、刀の峰で主人を過去に貸した分だけ切りつけ、その場を去った。

この物語から分かるように、我々は借りを返さなければならない。そなた達皆は返したくないと考え、法会に参列している者は、悪い事が起こらないよう望む。さて、仏経はどう説かれているだろうか、そなたが死んでから初めて助ける。そなたはいつも貪欲、瞋恚、愚痴によって自分に問題を起こしている為、仏菩薩は助けに来ない。ただ善を行っているか、定業に達していなければ、そなたにこれ以上状況が悪化しないように助ける。でも、それはそなた達が考えているような、借金があるので《普門品》を唱えれば借金取りはこないとか、パートナーが浮気をしているので、《普門品》を唱えて、浮気相手を追い払うとかは、仏経には説かれていない。仏経はただ、累世に現れた悪業が、この世で果報が熟し、観世音菩薩はそなたがまだ定業に達してないのをみて、つまりそなたが過去に行ってきた悪が、この世で善を行う事によって、そなたが善の果報の助けを得られる機会を持てただけで、善の果報で、悪の果報を帳消しにする事は出来ない、返すべきはやはり返さなければならない、ただその際に返す資金が有るのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは常に以下のように開示されている。たとえ一匹の蟻や蚊を殺しても、その借りは返さなければならない。時に皮膚に原因不明の怪我で血を流すことも返済しているのである。転んで骨折したり、交通事故に遭うのも全て返済である。仏法を学び皈依した為、軽くて済む。相手は骨折しても医療に頼れないが、そなた達は医療の力を得ることができる。だが、それでも皆満足しない、出来るならば骨折したくない、という。もちろんそれは可能だ、そなたがミラレパ尊者のように、毎日山奥の洞窟で座り続ける事が出来ればだ。だが、まずそなた達には出来まい。リンチェンドルジェ・リンポチェは2007年ミラレパ尊者が閉関を行ったとされる聖地ラプチ雪山にて、閉関修行を行った。閉関修行を終えて、ミラレパ尊者が以前閉関を行った2つの山の洞窟へ行った。その内の一つは真っ暗で少しの光も見えない、そんな所でミラレパ尊者は一日中座って座禅をしていた。もしそなた達が同じ事を行えば、一日はアキ護法が守ってくれていると感じ、我慢できるだろうが、三日目には我慢出来ずに、洞窟から逃げ出すだろう。

自分にこのような修行が出来る福徳因縁がないと分かっているなら、この一切の果報に甘んじ、快く自分で受け入れなさい。自分で思うだけで変えられる、ただものではないのだ、と思ってはいけない。この経文の一段で示されているのは、そなたが本来あるべき果報で、自分で作り出したのではない。例えばパートナーと喧嘩して、相手に手を出したので、やり返された等では、観世音菩薩の聖号を唱えても意味がない。信じないのなら、家に帰ってやってみるがいい。もし本当にそうやれば、本来なら相手が手を出してきても、そなたには青あざしか残さないはずだが、その時は観世音菩薩の護法がそなたに骨折させるかもしれない。これは、そなたが思うように成る様な保護ではない。仏法を捻じ曲げたり、都合よく解釈したり、自分に利益のあるように言ってはならない。前も後も取らず、ただ真ん中の部分だけを取っている。現在台湾の仏を学ぶ人は、まるで一部分の新聞記者のように、前後は要らず、真ん中だけを取る。
仏法は一つだけの事ではない、仏法は六道の有情衆生に対しては全て同じである。そなたが六道輪廻に居るかぎり、そなたには、悪い事や煩悩がある。ただ輪廻を断って、初めてこれらの煩悩がなくなる。輪廻を断って、初めて善悪の業がそなたに纏わり付かなくなる。一日でも輪廻に居れば、そなたがどんなに唱えても業力は必ずそなたを見つけ出す。自分がどれだけ良く修めたかと思ってはいけない、良く修めれば修めるほど、業力は速く現れる。もし、そなたは業力が来るのが怖ければ、いっそうの事修めるのをやめた方がいい。そうすれば、そなたが死ぬ間際になってやってくるだろう。そして以前に開示したが、緊急救命室で素っ裸のまま横になり、身体には沢山の管が刺され、死ぬにも死ねなく、生きるにも生きれない状況にあう。そなたが今毎日観世音菩薩を唱えているので、このような状況を変える事ができると勘違いしてはならない。これはただ、そなたの福報を累積し、死ぬ間際に恥をかく事がないようにする位だ。もし、そなたはそれでも信じないのなら、今から毎日服を着ずに、管を挿される練習でもしておくのだ。福報が足りないとこの結果に陥る事を、そなた達は誰一人信じない。

リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した多くの弟子、又は信衆は、上師に対して信心があれば、このような苦は受ける事はない。ただ、信心に問題が生じれば、福報が無くなり、このような苦を受ける事になる。ある人は、彼に一日でも長く生きてもらうべきだ、という。だがそれは間違っている、緊急救命室は裸にされるので、とても寒い、これは氷の如く寒い地獄へ落ちる予兆である。毎日部屋で機嫌が悪く、瞋恚を起こすと、火の地獄へと堕ちる前兆となる。そなたは、昏睡状態にあれば本人は知覚がないと言うが、誰が昏睡して知覚が無いといった?昏睡状態の患者が、まだ神識さえあれば、リンチェンドルジェ・リンポチェの小さな神通でも、昏睡状態の患者は必ず気分が悪いと返事をする。もし、この一生観世音菩薩を唱えてきたが、死ぬ間際にまたこの様に縛られるのは、ちゃんと唱えていないという事だ。どうしてちゃんと唱えていないのか?それは懺悔の心がないからだ。もし、懺悔の心があれば、一切の果報を受け入れる事ができ、それで観世音菩薩を唱えれば役に立つ。《普門品》に修め方を教わってないと思ってはいけない。

もし、皆が観世音菩薩を唱えるだけで、問題を解決できるのなら、どうしてこんなにも多くの人は事故や殺されたりするのだろうか?中国人は誰でも観世音菩薩を口に出せるの。多くの人は《普門品》を読んで、どうやって修めるのかは説かれていなく、ただ何かあれば観世音菩薩は助けに来られるとしか説かれていないという。だが、ここで皆に理解して欲しいのは、仏は観世音菩薩を我々に紹介するのではなく、その他の菩薩に観世音菩薩という大菩薩を紹介し、その他の菩薩が愚かな衆生へ解釈をするのだ。もし、観世音菩薩と唱えれば、菩薩は助けにきてくれるという簡単なものであれば、我々は修行をする必要があるのか?菜食せず、皈依もしなければ、戒律も守らないし、供養もしない、言う事も聞かない、何か起これば菩薩に助けを求め、何事も起こらなければ、菩薩の事は気にしない。それでは、前半に述べた一心を忘れている、そなたはどうやって一心専念に観世音菩薩を唱えうるのか?一心とは何も他に考えなく、他の要求もない。此処には既に一つの修行の法門を与えている。そなたは如何にして一心に観世音菩薩を唱えるのか?浄土宗は、そなたが一心に仏を唱えるまで修めれば、必ず浄土へ行けると説く。ここに居る者で誰が、観世音菩薩の聖号を唱え続けて一心不乱になる事が出来るだろうか?先程リンチェンドルジェ・リンポチェが唱えている間は、そなた達はほんの少し不乱で居る事が出来た、これは密法に関わる、ここでは言わないが。

《普門品》には、観世音菩薩と叫んだら助けに来られると説かれていると思ってはいけない、ちゃんと条件があるのだ。誰かがそなたに条件を出すのではなく、条件というのは、そなた達に準備ができているかどうかである。何か発生しても、そなたの心は起きず、話したくても話せない、考えても観世音菩薩を思い出すことができない。ただ。「あっ!」の一声だけで、刀が振り落とされる。まさに、上師の言う事を聞かないものは、何か起こっても、上師の事を思い出したりはしない。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは父親から道教を教わっていた際、壇を開いて鉄の棒で自分を叩いても怪我をしない。たとえ、誰かが後ろから隙をみて攻撃したとしても、怪我する事はない、逆に相手が怪我をすることになる、だがあの時は毎日符を描く。此れから判るのは、鬼神が我々を保護する事さえ、日頃から練習が必要なのに、観世音菩薩に保護してもらいたいのなら尚更だ。それは観世音菩薩の傍にいる眷族等が保護にくるのだが、日頃この眷属達と良い関係を保てなければ、彼らはそなたの事が見えない。戒律を守らず、皈依戒を破り、一日中心に浮かぶのは全て業であり、罪であれば、そなたはどうやって唱えるというのだ?リンポチェが幼い頃、もし喧嘩で相手が攻撃をしかけ殴っても、リンポチェは何事もない。だが自ら手を上げると、それはとても痛かった。だから私にはこの事を解釈する事が出来る。この観念の要点は、そなたは自ら手を上げてはいけないということだ、自分が観音法門を修めているからといって、わざと相手を刺激したり、車の道を譲らなかったり、相手が気に食わないと言って車から降りて殴りあったりすれば、相手がそなたの息の根を止めるまで観世音菩薩と叫んでも用は成さない。

我々は仏法のこの順序をはっきりさせて、はじめて出鱈目に唱えたり、迷信なのに間違い無いと自惚れたりする事を無くす事が出来る。この部分の教えは、自ら相手に仕掛けたのではなく、それがたとえ相手がそなたに仕掛けてきたにしろ、そなたを怒らせたにしろ、又は手を出してきたのでそなたが怒ってやり返したとしても同じだ。ここにはっきりと書かれている、そなたが危害を受ける前、相手が攻撃して来て、しかもそなたはそれを知らず、唯突然鋭い風がそなたの後ろから襲ってきて、そなたが振り向いたとたん、刀を持った人が目の前に迫った時でも、そなたが観世音菩薩を唱えればまだ間に合う。そなたはこれは、神話物語だと思うだろう。本当にそんな事があったのか?本当にあったのだ。ただ、事前に準備をしなければならない、生まれもって出来る事ではない、日頃から行う事が必要である。

経典:「若し三千大千国土の中に満つる夜叉、羅刹来りて、人を悩まさんと欲せんに、其の観世音菩薩のみ名を称するものを聞けば、是の諸々の悪鬼も、尚悪眼をもって之れ視ること能わず、況んや復た害を加えんや。」

「三千大千国土」は全宇宙を指す。「国土」は仏が居られる銀河を国土と呼ぶ。それは小千、中千から大千まであり、三千とはとても大きな範囲である。「中に満つる」とはその中にあり、夜叉羅刹は衆生や人間を傷つける鬼衆である。「人を悩まさんと欲せんに」、彼は必ずしもそなたを傷つけるとは限らず、ただそなたを煩わすこともあるという事だ。例えば訳もなく家族と喧嘩したり、職場で同僚と口論になったり等;道端で眼が合って、お互い睨み合って喧嘩になったり、単にご飯を食べているだけで機嫌が悪くなり、スタッフと口論したり、これらは全て夜叉と羅剎が関係している。

これこそ何故そなた達に菜食を薦める理由だ。夜叉と羅剎は非常に血生臭い臭いが好きだ。そなた達の中には血が滴るビフテキを食べた事がある者も居るだろう。3分焼きとか5分焼きとか、それらは諸に夜叉と羅剎の好物なのだ。食べた事がある者は手を上げてみよ。食べた事がある者は、羅剎鬼國に生まれる機会の種をまいた。殺生を犯した者、血を見ると喜ぶ者、鳥の血や鴨の血を食した者,全てその機会がある。多くの者は自分は菜食であると言う、だが以前食した物はまだその体の中にある。そなた達は因果を恐れず、一寸念仏すれば事は終わると考えている。台湾人は豚の血で拵えた糯を好む。食べた事の無いものは手を上げてみよ。この場には何名か手を上げている。以前リンポチェも食べた、香港にも血で拵えた糯がある。炒めたものもある。これ等はすべて償わなければならない。傷を受けて血を流すのもこれ等と関係がある。

そなたは夜叉羅剎を呼び寄せてそなたの邪魔をさせる。何故ならそなたは彼等の同類で、同じ物を食べているから。ある人は魚は如何だと言うかもしれない。だが、魚にしてもその血を流す事は同じだ。我々が如何なる衆生を殺しても、それから流れ出した血は夜叉羅剎を引き付けて傍で臭いをかいでいる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て南部に住むある弟子の家屋を清めた事がある。その時屋内に肉を持込んではいけないと言付けたが、その弟子は自分が菜食すれば、他の人が肉食しても構わないと思った。もともと清めた家屋に夜叉羅剎は来ないものだ。しかし、肉を食べれば血を持込む事になり、殺生の機会がある。結果としてその家屋は浸水した。この弟子曰く、家屋の設計に問題があったと。しかし、実は家屋の設計に問題があったのではなく、護法の神が彼の家を護りに来なくなったのだ。

仏は我々に殺生をするなと教えられた。夜叉や羅剎は我々が招いだのだ。夜叉や羅剎はそんなに多く居るのか?非常に多い。鬼道に落ちた衆生は多い。今の人は、生前に怒ったり恨んだりする心、貪欲な心、他人を陥れる心が有った事が有れば、死後90%は先ず鬼道に堕ち、その後また地獄に堕ちる。或る者は他人を陥れた事が無いと言うが、その貪欲な心が家族や連れを悩ましたとすれば、それだけで夜叉羅剎の鬼国に堕ちる。何故ならそなたの貪欲な心が家族を悩まし、苦痛にさせたからだ。古人は一家の主たる者は何事も慎重であるべきで、行う事が家族に悩みを起こさせてはならないと教える。孔子もそう教えている。そなた達が外で商売をするため金を借り、商売のためだと言い訳をし、それで家族を悩ませる。そなたは商売のため金を借りるのは当たり前だと思うが、それは因果を信じないし、仏法を了解せず、六道衆生輪廻の原因が何処から来るのか知らないからだ。家の中の貪念が重く、殺業が重く、嗔恨心が重く、遺産のために法律に訴えたりすれば、羅剎や夜叉来て騒ぐ。何故ならそなたは彼等と同類なので、そなたに多くの悩みを与えに来る。悩みの多い人は、だんだんと更に悪くなる。各々は皆利己的になり、唯自分だけを護り、自分を傷つけない為に他人を傷つける。するとそなたはどんどん悪くなる。皈依して菜食し、戒律を守っているから大丈夫だと思ってはいけない。もしそなたの行いが他人に悩みと苦痛を与えるならば、そなたには羅剎鬼國に堕ちる機会がある。ただそなたは仏を学んだので、そこでの位は違い、羅剎鬼の頭になり、一群れの羅剎鬼を率いるだろう。仏を学べば羅剎鬼國に堕ちないと思ってはいけない、そなたの心に貪欲や怒りさえ有れば、堕ちる。

「三千大千国土」、地球だけでなく、宇宙全体にこの六道衆生は存在する。たとえそなたがこの一生地球から離れ、別の世界に生れたとしても、やはりこの衆生らは存在する。そなたがこの一生で、貪瞋痴をすべて消さない限り、そなた達は彼らを招く機会を得てしまう。我々が過去に間違いを犯しても、この一生で懺悔の心を起こし、法の修行を行えば、諸悪鬼等は、そなたに眼を向ける事さえも恐れるであろう。

「悪眼をもって之れ視る」、悪鬼はそなたの血を吸う必要もない、ただ一瞬睨むだけで、そなたを陥れることができる。現在多くの病は、鬼が血を吸っているからだ。仏法は我々にネギやニンニクを食べるなというが、それは修行と関係する事以外にも、ネギやニンニクを好む者は、鬼もその匂いを好む為、そなたが寝ている隙に、そなたの気を吸うのである。

釈迦牟尼仏が成仏する際、魔王は自分は釈迦牟尼仏を如何し様もないと知ったが、魔王の娘はこう言った。大丈夫、私が大小便を地球へ投げて、それを地球人に食べさせ、彼らが輪廻から抜け出せなくしてみせる、と。彼女の大小便とは、一つがネギやニンニクで、もう一つはタバコを含むドラッグである。だから、タバコを吸う者は、大懺悔の心を起こさない限り、三悪道へと堕ちる可能性がある。そなたが自分は吸っていないと言っても、二次喫煙も同じである。ただ吸った本人は下に堕ちる期間が長く、そなたは比較的短いというだけの事だ。二次喫煙を吸うということは、そなたが過去世にこのような縁があったという事だ。もし、過去にこのような縁がなければ、二次喫煙の環境に生まれることはない。リンチェンドルジェ・リンポチェが幼い頃、父はタバコを吸っていたが、香港の住宅は狭く、父は綺麗好きであった為、家ではタバコを吸わなかった。誰かが父にタバコを辞めるように言うと、父は激怒したという。これは彼自身の業力なのだ。現在医学でも、二次喫煙は、喫煙者よりも身体に悪いと証明されている。今そなた達の体調が悪いのは、家族の中に以前タバコを吸っていた者と絶対に関係する、仏経が多くを語っているというのに、そなた達は気にも留めない。

鬼の視線には瞋恨と攻撃性があり、そなたの運が悪く、鬼がそなたをみると、そなたは病を患う。運が悪いというのは何か?悪い行為をする者を指す。ここで触れているが、そなたが観世音菩薩を敬い、彼のみ名を唱え、三寶を受けるなら、これらの鬼はそなたを一目見るのも恐れ、まして危害を加えるのはもっての他である。皈依する際にも言ったが、皈依後は鬼がそなたを傷つける事は出来ない、なぜなら護法神がそなたの傍にいるからだ。皈依後、そなたは戒律を守れば、自然と仏号を唱える事ができる、それでもまだ鬼はそなたに危害を加えようとしているのか?もし、皈依後も鬼に危害を加えられているという者がいたら、ここから出て行くがいい、出鱈目を言って、修めもしなければ、戒律も守らない、改めることもしない!戒体がなってないのに、それを鬼達が自分に危害を加えたせいにする。実際は、そなた自身が彼らを招いているのだ。そなたの心に鬼の心がなければ、鬼はやってこない;もし、そなたの心が徐々に菩薩の心の様に変われば、菩薩が来られる。普段から悪の目つきで相手を凝視する人は、夫の行為に不満がある時、横目で見たり、睨んだりする;バスの中で相手が少し押してきただけで、その人を見詰める、これらが悪眼で、日頃からの習慣だ。相手が、そなたに少し触れた場合、相手が度を越さなければ避ければいい、度が行き過ぎれば通報する。

経典:「若しくは罪あり、若しくは罪なきも、忸械枷鎖に其の身を検繋せられんに、観世音菩薩の名を称せば、皆悉く断壊して、即ち解脱することを得ん。」

ある人は、この一生で罪を犯しやすい、又逆にある人はこの一生で罪を犯さないが、同じように牢獄へ入る災難にあう。これは、過去に動物を閉じ込め、殺して食べる為に養う;又は動物を檻に閉じ込めて、自分の娯楽の為に、その中で走り回らせる;他にも、檻の中で鳥を飼い、自分に歌を聞かせる等、これら全ては牢獄へ入る災難になりかねない。たとえそなたが何の罪を犯していなくても、何故か法廷に立たされ、訴えられたり、牢獄に入ることになったりと、多くの者がこのような状況に堕ちる。世間法からみると、冤罪となるが、因果法則からみれば、そなたが以前に過ちを起こしたか、更には、他人に冤罪をかけた事がある。ある事はそなたが間違いを犯した為だが、ある事はそなたは犯していないが、同じように閉じ込められる。「忸械枷鎖」、現在ではもうこのような刑具は無いが、どれも牢に入れられ鎖に繋がれる。この段落で伝えたい事は、そなたに罪があるなしに関わらず捕まっても、大懺悔の心を発し、心の中でひたすら観世音菩薩のみ名を唱えれば、その鎖は断ち切られ、そなたを傷つけることはない。

「皆悉く断壊して」には、二つの解釈がある。本当に修行がよく出来た者は、真に断ち切れる事ができる。修行をしたが、あまりよく出来ていなくても、少なくとも危害を加えられることはない。そなたのこの牢獄の災難は減るか、又は無くすことができる。多くの者は、訴えられたので、リンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求めた。彼は懺悔の心を発した為、手助けをすると事が転じる。しかし、事が転じても、また別の事が発生するかもしれない、或いは病気にかかる等。病を患えば、医者にかかれば良いと考え、ここへ来なくてもいい、という考えであれば、それは間違いである。リンチェンドルジェ・リンポチェは、観世音菩薩の法門に従って衆生を助ける。もしかすると、このような事は全く起こらないかもしれないが、そんなに気軽に助けない。定業とはこの衆生の悪業が成熟した事を指すが、気軽に助けると反って彼の害になる。成熟させればよい!もし業がまだ成熟せず、この衆生が求めに来れば、これは懺悔心や恭敬心が有り、事が起こらない様に助ける。その後仏を学びに来なければ、別の事が起こる。別の事が起きても、まだ助けはある。この一切は、その後の彼自身の行ないによる。故に常に一度だけは助けるが、二度と助けはしないと言う。

経典:「若三千大千國土の中に満つる怨賊あるに、一人の商人ありて、諸々の商人を将いて重宝をつみ持ちて険路を経て過ぎんに、其の中に一人、是の唱えを作して曰く、諸々の善男子よ、恐怖を得ること勿れ、汝等応当に、一心に観世音菩薩の名号を称すべし。」

「満つる怨賊あるに」は、累世そなた達と恩怨のある賊を指す。これは因果の話だ。そなたがこの一生で、誰かに盗まれたり、強盗にあったりするのは、必ず原因があり、突然に起こることではない。文殊菩薩が以前、自分は累世の窃盗の業をすべて返済し、もう一切借りはないと語った事がある。だがその話を信じない者もいたので、文殊菩薩は一足の新しい靴を人通りの多い城の門前に数日置かれたが、取られる事はなかった。それは窃盗の罪は清算された事を意味する。リンチェンドルジェ・リンポチェは数年前、非典型方肺炎が流行っていた時期に、台北の各地で法会を主催された。ある日法会が終了し、この自称恭敬な弟子達は、法会で使用した物を当時の道場へ戻す際、直貢チェツァン法王から直に賜った一式のディルブ、今そなた達に見せているこれだ、これを路上に置き忘れた。午後7時から二日目の午前6時頃までの間だ。それを一組の夫婦が見つけて、交番に届けてくれた。交番の者は、リンチェンドルジェ・リンポチェを知っているので、その一式のディルブを送り返してくれた。

そなたが累世で人の者を盗む事がなければ、相手もそなたの者を盗む事はない。そなたが物を落としたのなら、もう心から諦めて認めるがいい。あれこれ罵るのではなく、受け入れるのだ。《地蔵経》も開示している通り、そなたが三年の地蔵菩薩聖号を唱え、毎日千回唱える、すると近くの鬼神が来てそなたの家を守るが、泥棒は来ない。

「唱え曰く」は大きな声で他の人に伝えることだ。「諸々の善男子よ」これは一般の商人ではなく、普段から十善法を修めている人のことを指す。家計を支える為に、危険な道を通る際、もしかすると累世で彼等と恩怨がある賊に出会い、彼らを奪いにくるかもしれない。条件は善男子である、もしこの条件が要らなければ、仏経は善男子に触れない。これは、そなたの心が善良で観世音菩薩に求め来る事ではなく、普段から十善法を行っている人の事を言うのだ。もし、菜食を行っていない者なら、十善法の最初の一つが出来ていない、なぜならそなたは殺生しているからだ。そなたが、仏を学んでいるかいないかに関わらず、生生世世そなたは多くの借りを返しきれていない。ただ仏だけが、全ての借りを返したのだ。菩薩は絶え間なく借りを返して居られる。そなたは返しているのか?そなた達は、法会に参加し、少しの供養金を出せば、福報が起きると思っている。これはただ、そなた達に仏法の教訓を聞き叱咤される福報を起こすだけのことだ。仮に諸菩薩が自主的に我々の業を転じてくれるのなら、因果はない。仏ははっきりとこう説いている、無縁の衆生を度することは出来ないし、又全ての衆生を度する事は不可能である。衆生の一切の業は衆生自身が背負うもので、仏は衆生の業を変えることは出来ない。衆生は自身で改め、自身で転じ、怠けてはならない。そなたは苦しむのを恐れ、悪くなる事を恐れるのなら、尚更努力をしなさい。

先程血の加工食品を食べた事があるかと言う質問に、皆経験があると返事をした。では、それを返す必要はないのか?たかが、観世音菩薩を何回か唱えただけで、借りは返したと勘違いをしてはならない。何を以ってそなたが自分で唱えれば済度できると思う。もちろん、唱えると済度する事はできるが、それはそなたがどの程度まで修めたかによる。五戒十善はおこなったのか?していなければ、どの仏号聖号を唱えても、ただ自分の悪念を善念へと転ずるだけだ。そなたの念頭が少しずつ善念に変われば、自然と悪い行いはしないであろう、そうすれば、菩薩道の方へ修める機会を得る。菩薩の戒を受けたから、自分も菩薩だと勘違いしてはいけない、まだまだだ。

普段から戒を守り、善い行いをしていて、仏を修めている者は恐れなくてよい。たとえ冤親債主が現れても、そなたが五戒十善を守っていれば、恐れることはない、必ず良い方向へいく。たとえ強奪されても、少しだけで済む、全てを盗まれる事もなければ、そなたを殺すこともない。必ず観世音菩薩が我々を助けにきてくれる事を信じなさい。しかし、以下のような考えはいけない:この翡翠は価値があるから泥棒に見せないようにしようとか;このダイヤは比較的に価値がないので、これは泥棒に取られていもいいとか。これらの考えがあれば、効果はない、唱えながら物を隠す、心の中でどれが高いかを比較して、高いものだけを隠す、これだと一心ではない。

「恐怖を得ること勿れ」、今日からそなたはとても恐れるだろう、なぜならそなたは因果を信じず、慈悲心を起こさないからだ。《寶積経》でも説かれていたが、菩薩は恐れない、それは菩薩が天下無敵であると言うのではなく、菩薩は絶対的に因果を受け入れる覚悟があるからである、何を恐れるというのか?この段落から分かるように、そなた達のような改めていないのに、自ら修めていると思い込む者は、悪果が現れると恐れる、まるで癌と診断されると、天が堕ちてきたかのようだ。

昔、リンチェンドルジェ・リンポチェは、最も恐ろしい皮膚癌を患ったが、治す時間がなかった。しかしリンポチェはそれを恐れてはいなかった。ある医者弟子の報告によれば、リンポチェが患ったのは、黒色腫瘍で、皮膚癌の中で最も悪質だ。これは皮膚や全身各所、たとえば眼や脳、胃、肝臓、骨等の各内臓に広がる可能性がる。以前、ある弟子の親族がこの黒色腫瘍を患った、胃カメラを見た際、胃の中にもこの腫瘍を見つけた。これは死亡率が高く、非常に悪性の腫瘍である。リンポチェは、この癌を患うと寿命はどのくらいか、と聞いた。医者弟子は、たった半年余りであると答えた。リンポチェは、この弟子にリンポチェは怖がっているようにみえたか?と聞いた。弟子は、そのような感じは受けなかったが、弟子自身がとても緊張した、と答えた。

上師にしても、観世音菩薩にしても、そなた達がほんの小さい事で恐怖心が起こる事を知っている、これは因果を受け入れないからである。リンチェンドルジェ・リンポチェは、癌に罹っても恐怖を覚えない、第一に因果を受け入れる、第二に上師と仏菩薩を信じる。もし死ぬのであれば、どうしたって死ぬ、上師と仏菩薩は私をどしてくれるだろう、そんなに考えてどうするんだ?そなた達は真似してはならない、そなた達の命はとても大事だから。現在法律で規定されているのが、病気にかかったら、医者にみてもらうこと、診てもらわなければ、やっかいな事がたくさん起きる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、ただ自分の経験をそなた達に語っているだけだ、これは自分が海鮮を愛してやまなかった果報である。そなた達が以前、毎食肉ががなければならないのと同じで、今病気にかかるのは当然だ。現在病気にかかっていないのなら、これは不正常で、不合理だ、これはそなたが三悪道へ陥る可能性がある事を示している。

仏経の一言一言には、とても深い意味が込められている。それは、そなたが唱えるだけで、保護を得て、観世音菩薩が現れるのではない。もし、了解し、信じ、因果を受け入れ、懺悔心を起こせる者なら、何か発生しても恐怖はない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、癌に罹っても恐怖心は無かった、気にせず、通常の生活を送り、通常通り修行をする、現在癌症状はもうない。あれからもう20年程も経つ。

「恐怖を得ること勿れ、汝等応当に、一心に観世音菩薩の名号を称すべし。」意味は、そなたは恐怖心さえももってはならない。もし、そなたが観世音菩薩に、私はとても恐れているので早く私の下へ来てください、と願ったら、それは一心ではない。そなたは既に五戒十善を修めているのなら、自然と因果法則が分かるであろう。何かが発生して、そなたにその現実を変える力がなければ、自分の考えを捨て、観世音菩薩を完全に信じるべきだ。観世音菩薩はそなたを助けれるだけ助ける、もしかすると半分かもしれない、もう半分はそなたが担う責任だ。本来なら、全部そなたが担うのだが、それを半分にしてくれる、そなたは得をした。そなたが菩薩にこうして欲しいといって、菩薩がそうするのではない、菩薩は因果法則にそむけない。ここにはっきり書かれている:第一、そなたは善男子でなければならない。第二に、そなたは一心であり、自分の考えや念頭、要求は全て捨てさる。もしも今日そなたは泥棒に全てを盗られてしまったが、命だけは守れた、それは盗られていないのと同じだ。又、そなたは観世音菩薩を唱えていたが、泥棒はそなたの命を含めた全てを奪った場合、観世音菩薩はすぐさまそなたを阿弥陀仏の方へと連れて行く、これは良いことではないか?ある者は、一生をかけて仏号を唱えても浄土へ行けないのだ。ここの一心は、そなたの要求ではなく、完全に降参することで、救われるという事だ。

経典:「是の菩薩は能く無畏を以って衆生に施したもう。汝等若しみ名を称せば、この怨賊に於いて当に解脱を得べし。」

これは菩薩がそなたの智慧を開き、そなたにこの事を受け入れさせる事を指す。そなたは受け入れる事ができるのに、まだ恐怖を覚えるというのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは皮膚癌を患った、医者である弟子によれば、リンポチェの皮膚癌は、中でも最も悪性の腫瘍だという、だがリンポチェは決して恐怖など覚えなかった、なぜならそれは自分の果報であるので、自然に無畏が現れる。そなた達はあれこれ怖がる、つまり受け入れようとしない、自分の能力が悪いと信じない、自分が愚かで、無知であることを信じないからこそ恐怖心が出てくるのだ。もし、受け入れる事ができれば、恐怖心はなくなる、恐怖心がなくなるというのは、そなたが悪い行いをしても怖くないわけではなく、我々がこの一生に起こる一切の出来事は因果であり、良かれ悪かれ全て因果である。良い因果が出現しても、そなたが受け入れなければ、そなたはやはり恐れるだろう。それは福報の因縁を理解していないからだ。

もし、そなたの累世冤親債主が賊でそなたの物を奪おうとする、しかしそなたが普段から五戒十善を行っていれば、そなたは怖がらず、受け入れるべきだ。もし、そなたが観世音菩薩の聖号を一心に唱えれば、そなたの恐怖心は無畏に変わるだろう。観世音菩薩は無畏を施し、そなたが盗賊、又は冤親債主に出くわした際、勇気を持って彼らと話し合いができる様にする。債主がそなたを殺しにきたのなら、殺されるがいい。さもなければ彼方此方から工面して借りを返すのか?逃げることなく、面と向かうのだ。《普門品》はそなたが想像しているものと違う、我々は仏経からその意味を理解するのだ。そなたが累世で彼から奪い、この一世で観世音菩薩を唱えれば、相手はそなたの物を奪うことはない、と言うわけではない。釈迦牟尼仏は多くの物を隠し、そしてこの苦しい運命を担ったリンポチェが、そなた達のような運良き者達にこの話を聞かせる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、この一生で多くの苦を積んできたからこそ、仏が何を言っているのかが分かるのだ。仮にこの一生、リンポチェは皮膚癌を患わず、誰にも借りを作っていなければ、このような講釈をそなた達にできるだろうか?修行者であれば、誰一人として小さい頃から苦労なく生きてきたものはいない。もし、幼い頃から今まで何一つ苦労した事がない修行者がいれば、それは良い日々を送っているのではなく、彼がそもそも修めていないのである。

「この怨賊に於いて当に解脱を得べし。」仏法は解脱という言葉を用いていて、奪わないとは言ってはいない。生生世世彼との恩怨から解脱する。例えば、正直に、私は妻と子供を養う分だけを残して、他は全てそなたに与えると言う。もしかするとこの賊はそれを受け入れるかもしれない。これが本来の意味であり、全く奪わない、盗らない、賊を退治するなどとは言っていない。なぜなら今日のそなたはただ、観世音菩薩の名前を称えただけであるからだ。もし密法を修めていればできる。正に法会で前に出て懺悔をする弟子が話した誅法を修める事である。しかし密法をそなたの為には修めないだろう。そなたが国家や社会に影響する程の重要人物なら別だが。一般市民ならたとえどんなにお金があろうとも、修めることはない。仏経が説くのは、面と向かう事、ただそなたを無畏にさせ、恐怖の心を取り除き、そなたに今まで行ってきた事の果報に向き合わせる。そなたが向き合えば、必ず良い処理法が見つかる、来世ではもう借りはない。言い換えれば、今日発生した全ての出来事、仕事上の失敗にしろ、人に騙されたにしろ、すべて自分と関係している。もし、そなたが騙さなければ、相手は何故そなたを騙すのか、少なくともそなたに貪念が有ったからだ。自ら仏法を学ぶ者と思っているのなら、仏法を理解するべきだ。

経典:「衆の商人、聞いて倶に声を発して「南無観世音菩薩」と言わん、其のみ名を稱するが故に、即ち解脱することを得ん。

これを聞いた全ての商人は、心の中で観世音菩薩を唱えるのではなく、声に出して唱えた。そなたが心の中で唱えれば、観世音菩薩が現れるのではない。観世音菩薩の傍には多くの護法神が就いている、彼らの神通力は観世音菩薩ほど良くなく、そなたが声に出すことによって、始めて至誠の心が現れ、彼らに気づいてもらえる。我々も試してみよう、そなた達は心の中で唱えたら、二 ,三句で思いは飛んでいってしまうだろう。声を出すのは、大きな声を出すのや命をかけて唱えるのではなく、ただ声を出すのだ。先程のリンチェンドルジェ・リンポチェのように、大きな声をだしていないのに、そなたは声が心の中にすっと入ってきたかのように感じる。リンチェンドルジェ・リンポチェの呪文を唱える声は、そなた達の心の中に届くのだ、これは密法であり、そなた達に教えることはできない。六字大明呪文はどの文字も密法である。

南無は皈依の意味であり、我々は観世音菩薩に皈依し、観音法門を受持し、観世音菩薩を恭敬するである、ただ簡単に皈依するだけではない。

経典:「無尽意、観世音菩薩摩訶薩の威神の力の巍巍たること、是の如し。若し有る衆生、婬欲多くとも、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち欲を離るるを得ん。」

観世音菩薩は大菩薩だ、彼の威神の力は、そなたに分からせ、感じさせることができる。又とても偉大だ、一般の小さな鬼神の威神力とは違う、これが大菩薩の威神力だ。

淫欲は絶対に六道衆生と関係がある、生生世世輪廻するのは確実に淫欲と関係している。仏経が説いた習慣とはこの事だ。もし、我々が淫欲の心を起こさなければ、両親の性行為を見ても心が動くことはない、そうすると生まれない。我々が淫欲を出して、初めて生まれる。淫欲は罪でなければ、洪水猛獣でもない、しかし此れは我々が絶え間なく輪廻する習慣だ。禅宗は男女の欲を断つ事で、非想非非想天へ達する事ができるという;もし菩薩道を修めるならば、《寶積経》で説いていたが、眷属の縁があれば、眷属の要求を拒絶してはならない。

ここで説いた範囲とこの心理と生理のふたつとは異なる。一種は、実質生理で需要な淫欲、これは自分と生生世世の淫欲と関係している;もう一つは心理的淫欲である、ある人は、誰かを見ているだけで行動には移さないが、脳内で多くの画面が映し出される、今のパソコンは人を陥れる。仏経はこう説いた、今生情欲が強いと死後は地獄へ堕ちると。以前リンチェンドルジェ・リンポチェはこれはどうしてか分からなかった、密法の気脈明点を修めて後にどうしてだめなのかが分かり、本当に三悪道へ堕ちると理解した。

この一段は、我々に断つ事を言っているのではなく、多すぎてはだめだと、それが生活の中心にならないようにと説いているのだ。仏経では、衆生は淫欲を絶つ、とは述べていない、淫欲が多すぎると説く。淫欲が多すぎる場合、薬を飲んだり、自分で戒めればいさめ得る物ではない。必ずある方法を行わなければならない。「常に念じて観世音菩薩を恭敬せば」、常とは永久、永遠であり、念とはそなたの念頭。そなたの念頭は、永遠に観世音菩薩を恭敬すること、そなた達にはできるのか?恭敬とは、絶対に信じ、絶対に疑う心がなく、絶対に自分から要求する心を持たない、毎度念頭には観世音菩薩の功徳;観世音菩薩の慈悲;等、どれも観世音菩薩が行ってきた一切の菩薩事業であって、観世音菩薩がそなたにどれだけ与えてくれるかではない。もし、それを行うことができれば、自然とそなたは淫欲の心から離れるであろう。ここの「多くの淫欲」の「多さ」は人それぞれによって違う。もし、そなたは淫欲がなければ気分が悪いと思い、絶え間なくこれらの事を追うのなら、このように修める必要がある。「常」とは、毎回念頭にあるのは観世音菩薩、一日たりともおかしな事を考えたりしない。「念」とはそなたの念頭が観世音菩薩へと向かっていく、これは密法と関係するので、難しい。

先程、そなた達に唱えさせた観音法門は法本の中で、生起次第と円満次第とある。生起次第は、自分の法身が観世音菩薩と同じに成る様に転ずる事、これは日頃の訓練が必要だ。多くの者は、密法はない、と言うがそれは間違っている。そなた達は試してみるといい:そなたは毎回念頭が観世音菩薩であることはできるか?できないだろう。だが仏経は、こうするように説いている、どうすればいいのか?これが密法である、密法の法本でも教えている、行住坐臥の全てで行う事が出来る。今日話しているのは、顕教の理論である、どうやって行うかが密法である。

凡夫の心では、毎回の念頭が観世音菩薩は不可能である、又観世音菩薩を恭敬することも不可能だ、なぜならそなた達には、多くの考えがあり、煩悩がある。密法の生起次第と円満次第の訓練を通すことで、我々は素早くこの資糧を累積できる、この福報の資糧が累積できれば、恭敬心も強烈になる。そなた達が上師に対して恭敬がないのは、福報が足りないからだ。普段上師が説いた事は、そなたは仏法と関係ないと思い、言う事を聞かず、まず自分の考えを優先する。

この「欲」は淫以外には、一切の欲望を指す。どうして修行人は最後には欲望がなくなるのか?たとえ、そなたが彼に何かを与えたい、何かで騙したい、そうやって欲望を起こさせたいと考えても、彼は徐々に欲望がなくなるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは度々供養金をそのまま返すことがある、なぜならこのような欲望がないと、供養金を出した本人の心の持ちようが正しいかどうか見極めることができる、これには密法に頼り、「常に念じて観世音菩薩を恭敬せば」この一句に頼るのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に人々を試す、自分は観音法門を修めていると言うのであれば、この「常に念じて観世音菩薩を恭敬せば」はできているのか?もし出来ているのなら、観音法門を修めていると言うことが出来る、もし出来ていないのなら、そなたはただ観世音菩薩の聖号を唱えているだけである。

経典:「若しは瞋恚多くとも、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち瞋を離るるを得ん。若しは愚癡多くとも、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち癡を離るるを得ん。無尽意、観世音菩薩は、是の如き等の大威神の力有りて、饒益する所多し。是の故に衆生は常に応に心に念ずべし。」

愚痴とは、因果を信じないという事だ。上師が説いた仏法を、右耳から左耳へと流す者は、上師の話を聞かない、と言う事だ。愚痴は、そなたが馬鹿や頭が悪いという事ではなく、仏法を受け入れないと言う事だ。

「是の故に衆生は常に応に心に念ずべし。」観世音菩薩はこのような大きな威神力で多くの衆生を助けてこられた、衆生の心の中は常に観世音菩薩であるはずだ。前の文で述べる「常に念じて観世音菩薩を恭敬せば」は我々の修行の過程である、後ろの文で指しているのは、我々は修めていないが、心の中では観世音菩薩の事を念じるべきだ。これは二段だ。我々が閉関を行うのは、常に本尊を恭敬する為である。閉関修行を行っていなければ、どのようにして常に恭敬できるというのか?そなたが恭敬したいと言って出来るものではない。自分自身に問いてみるといい、本尊に対し、上師に対してどれほど恭敬できているか?リンチェンドルジェ・リンポチェは、何故こんなに急いで仏寺、そして閉関場所を建てようとしているのか?何故なら、閉関しなければ、身をもって先程の話を感じることができないし、行うこともできない、無理に行ったとしても、すぐに続かなくなる。

これはリンチェンドルジェ・リンポチェが修行した経験で、以前顕教出身だったリンポチェは、顕教を修めていた際に、毎日観世音菩薩の聖号を一万遍、大悲呪文を49遍、《普門品》3遍、座禅を一時間、そなた達信衆よりも、ここにいる出家弟子よりも多い、だがそれでも自分はまだこの言葉に達していないと気づいたのだ。密法、灌頂、口伝、閉関を学んだ後、やっと自分は達することができたと感じた。さっきは、なぜそなた達を叱ったのか?そなた達はこの言葉を達成できているのか?もし達する事ができないのなら、言う事を聞くのだ、だがそなた達は話を聞こうとしない、まるで自分が凄い人かのように思っているだけで、仏経が説く全ての条件に達していない。

お経を講釈するとは、字面に沿って説くのではない。そなたはこの法門を修めたか、この過程を経験した事があるか?あれば、始めて仏経が説く内容の意義がどこにあるかが分かる。リンチェンドルジェ・リンポチェが毎日一万遍唱えても、自分はまだこの言葉を行えていないと感じているのに、そなた達はたかが三千遍で悲鳴を上げている。自分ではっきり出来ていないと知っている、仏経が間違っているのではない。釈迦牟尼仏は菩薩に説いている、菩薩はそれを知っているが、そなた達は知らない。釈迦牟尼仏は以前法を伝える際、顕教と密教とに分けていなかった。なぜなら菩薩が聞けば方法がどこにあるかが分かるからだ。そなた達は自分では分からないので、上師に頼って法を伝えてもらうしかない、話を聞かなければ問題が生じる、このような人は多い。

後ろは「常に応に心に念ずべし」とある、なぜならそなたが閉関を終え、観世音菩薩の恭敬ができ、そなたの念頭は観世音菩薩のみ。それは、そなたが絶対にあらゆる因果に背いたり、戒を破ったり、慈悲を修めない事を行わない事を現している。たとえ旦那、又は妻が浮気をしても瞋恚の心があってはならない、これが観音法門を修めるという事だ。もし、観世音菩薩がそなたの為に、浮気相手を懲らしめたら、それでも観世音菩薩と言えるのか?観世音菩薩が我々に瞋恚の心から離れるよう教えていられるのだ。ボーイフレンドがそなたを振るなら振らせればいい。彼が後悔して戻ってきたら、相手にしなければいい。嗔恨心を起こさないこと、相手が私に悪い事をしたと考えてはならない、誰が誰に対して済まないとかは、誰も分からないのだから。多くのテレビが言っていることは、聞かず、観ない方がいい、これらは修行、そして人なりに対して良くない。

経典:「若し女人ありて、設え男を求めんと欲して、観世音菩薩を礼拝供養せば、便ち福徳智恵ある男を生まん。説え女を求めんと欲せば、便ち端正有相の女の、宿徳本を植えて衆人に愛敬せらるるを生まん。」

礼拝は、そなた達がおこなっているように三回拝んだり、幾つか果物を供養する事で得れる物ではない。観音法門の儀軌を以って修めるなら、壇城を供養するには全て要求する儀軌がある。そなた達は男の子、又は女の子を求め、それを上師に法を修めるよう求めるが、上師は今まで修めたことはない。そなたには、この福徳智慧の男の子を授かる福報があるのか?福徳智慧とは、この男の子は生まれてすぐ、誰に教われなくとも仏を学び、修行する。そなた達は、自分自身でよくよく考えてみるといい、このような子を授かる為に何をした?そなたは、自分が行った小さな善行で、このような子をを授かる事ができると思っているのか?ほんの少しの善行、法王、そしてリンポチェに会ったことがあるからといい、転生した子がが出来ると思うのか?

アキ護法の両親は、当時男の子を授かることを求め、1000年程前に、青海から徒歩でネパールまで行き、更には仏塔を何日も回ったのだ。現在でも青海までの交通は不便だ、そこから当時青海からネパールまではどれ程困難だったか想像つくだろう。苦労して求めた結果アキが授かり、女の子であった。そなた達はどのように求めるのだ?果物を何個か供えれば何でも与えるのか?そなた達の為に求めることができるかって?もちろん出来る、だがやらない。

「便ち端正有相の女の」、端正とは、美しいとか世の男性が見てよだれを垂らすようなのではない。彼女を見ただけで、自然と彼女を尊重し、道理に外れた思いをしない、これこそが良い相である。男性がそなたを見て、目から炎を吹き出し、よだれを垂らす様なら、そなたは自分自身で気をつけるように。美しいの定義は、端正有相である。有相とは福徳の相を指す、生まれつき他人に道理に外れた思いをさせるのではなく、端正で国母になれるような相だ。それはこの女の子は福報があるという意味で、一般の凡夫俗子ではない。どれだけ行えばこのような子供を授かれるか自分自身に問いかけてみるがいい。このような男の子、又は女の子であれば、両親は奮闘する日々を大いに減らすことができる。

「宿徳本を植えて」、この女の子は生生世世生まれつき自分の為に多くの功徳と福徳を植えている。自身と祖先はそれが有るかどうか、省みてはどうだ?もし、無ければ、今から努力して行うのだ、達することができないのではないが、そなたが求め、問う事によってすぐに得られるわけではない。

「衆人に愛敬せらるるを生まん」ここでは女の子を言うのが多い、誰もが彼女を愛し、敬い、道理に外れた思いを起こさせない。このような女の子は多くない。

経典:「無盡意よ、観世音菩薩は、是の如き力あり、若し衆生ありて、観世音菩薩を恭敬し礼拝せば、福唐捐ならず。是の故に衆生は、皆応に観世音菩薩の名号を受持すべし。」

観世音菩薩はこのような大福徳力で衆生を助ける故、衆生はただ観世音菩薩を恭敬礼拝するだけで、そなたの福は必ず出てくる。何時それがくるなど問題ではない、だが必ずそれが得られる、だから無駄に拝むことは無い。恭敬礼拝は懺悔心、慈悲心を以って礼拝することで、そなたが絶えず求める必要はない。そなたが、この思いを起こし、観世音菩薩に言えば分かる、ただそなたの福報が起きずにいたら、観世音菩薩が助けたくとも助けることはできない。恭敬はとても大事な事である、完全に降伏し、全てを聞き入れ、実行する、そうする事で機会を得る。観世音菩薩の法門は簡単だと思ってはいけない、簡単ではない。

仏経は顕教の理論である、但し中には密法も含まれている。顕と密は仏が経を説いた際に、特に話したのではなく、後世の衆生の福徳因縁を元に分けたのだ。一般の衆生はまず、顕教を学ぶ。顕教の根基が出来ていなければ、そなたは密法を修めることは不可能である。仏経で説かれている多くの境地は、普通に経文を唱えただけで出来るものではない、もっと多くの方法があるのだ。方法が得られない間は、そなたは必ず三寶、上師を敬い、疑わない事。これで始めてそなたの役に立つ。もし前々から仏法を聞いており、前に聞いたのはこのような話ではなかったといつまでも思っている。以前はどのような言い方かは分からない、だがリンチェンドルジェ・リンポチェはやはり仏経、自身の修行経験と上師かの教えを根拠として伝えている、仏経から離れていない。そなた達が思っているような、ただ大悲呪文を唱え、大悲水を飲む事が観音法門を修めるという事ではないのだ。皆は心構えの多くを調整する必要がある。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達を導いてアキ護法と回向儀軌を修められた。法会は円満し、弟子達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲開示を感謝し、立ち上がって恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りられるのを見送った。

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2018 年 09 月 24 日 更新