尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示– 2017年5月20日

5月20日、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは日本京都寶吉祥仏法センターにて、殊勝なる地蔵王菩薩祈福法会を主法された。そして、自身の修行した証量を以って自ら<地蔵菩薩本願経>の「見聞利益品第十二」を開示されたのである。今回の参加者は、日本や台湾からの信者11名、そして日本と中国、台湾の弟子120名を含む総勢131名で、法会は殊勝且円満であった。

朝9時30分、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、参加者全員に貴重な仏法の開示を下された。

今日も引き続き地蔵菩薩を修める。釈迦牟尼仏が残した仏法は、大きく二つに修行方向が分かれる。一つ目は顕教で、仏が開示した一切全てであり、仏を修め、仏を学ぶ際の一切の心構えと理論等で、つまり一切の仏経が顕教の部分なのである。もちろん、仏経でも密教について触れるが、密教を学んだ事がない人には理解できないだろう。顕とは顕著、文字を通して、我々に仏法を学ぶ真意を理解させる。二つ目は密教、チベット仏教にあり、必ず顕教で十年の基礎を積まないと、密教を学ぶことはできない。十年学習を満たした後、上師から密教を学ぶ資格があると認められてから、密教の教えを受けることができる。リンチェンドルジェ・リンポチェは現在台湾で、収容人数約3000人の仏寺を建てている。この仏寺には顕教と密教の二殿に分かれ、顕教の殿では3000人収容可能だが、密教の殿には約100人程度しか收客出来ない。

多くの人は自分が密教を学びたいと思えば、学べるものだと勝手に思っているが、実際は上師から数々の試練、観察を受けた後初めて密教の教えを受けられるのだ。簡単に説明すると、顕教とは元々仏法を信じていない凡夫から、仏法を信じるようになり、仏法を学び、出家を含む行為全てである。顕教は自分で修め、理論を学んだ後、自身が思う多くの誤った思想や我々が輪廻するやり方を修正する。

皈依したら仏の弟子に成るわけではない。あなたが仏から教わった事全てに従うのが仏の弟子である。仏寺があり、その中で修行している人が必ずしも仏の弟子とは限らない。仏が定めた戒律を厳しく守り、全てを円満にやり遂げるものだけが仏の弟子だ。仏の弟子と成った後に、自分の根器は小乗を修行しているのか、それとも大乗、又は金剛乗なのかを知る。小乗は阿羅漢を修めで、大乗は菩薩道を修める、そして金剛乗は仏道を修めるのだ。小乗は現在タイ、ミャンマー、スリランカ等で流行っていて、大乗は中国、韓国、日本の国々に何人か修めているものがいる。大乗は菩薩道を修めるというのだから、一般の凡夫や信者ではない。又鐘を鳴らし、写経をし、お経を読めば菩薩道だと言うわけではない。これはリンチェンドルジェ・リンポチェが現在開示している《寶積經》にもはっきりと説かれている。

菩薩道を修めるには、5次第の修行方式を備えなければならない。一つ目は「資糧道」、何を学ぶにも、学問と経験が必要。資糧道とは、上師が開示する仏法を聴き続け、自らが仏法を学べるよう福報と知恵を貯め続けるのだ。資糧道が十分に備われて初めて、「加行道」を修めることができ、密法で言う、上師があなたに灌頂し、本尊を修める方法等を伝える事である。菩薩道を修める前の過程、加行道と資糧道が最も長く時間がかかる。なぜなら、凡夫から菩薩を修めるのは、決して簡単な事ではないからだ。「加行道」を円満に修め終えると、「見道」する。「見道」とは、誰かに会うのではなく、あなたが真の加行道を通して、仏が説く空性の慈悲、智慧を身に染みて感じる事ができ、真の空性とは何なのかが理解できる。空性とは無い事ではない、空性を解説するのは長くなるので今日は解説しない。

見道の時間はとても短く、あなたの資糧が十分にあり、加行道に精進すれば、時機は突然に訪れて、あなたは空性を目の当たりに見る事が出来るだろう。なぜなら、菩薩は執着しないからだ、だから空性を見ることが出来る。菩薩は名利や世間のあらゆることにも執着せず、一切全ては衆生を苦しみから遠ざける為である。見道有ってから、「修行道」を始める。仏経を聞き、お経を唱え、お線香を焚き、幾つかの木版を火の中にくべるのが修めることだと思うでない。これらは全て違う。修行道とは自身が輪廻から逃れる一切の行為を修め、又一切衆生が輪廻の苦痛から逃れる手助けをすることだ。これこそが、真の菩薩道である。修行道が円満に終われば、「無修道」に辿り着く、それはもう仏の果位に達したという証であり、他に修めるものは無いという事だ。

今日はこの地蔵経を修めるが、午前中は先に密法を修める。これは、一般の信者や出家人、又は幾つかの呪文を唱える事が出来る人であっても、修める事が出来るものではない。必ず見道、修行道を修めた者が始めて公に法を修めることが出来るのだ。あなた達は、一般の仏寺の出家人は弟子に背を向け仏像に向かってお経を唱えるのに対し、なぜチベット仏教の上師は弟子と面と面を向かうのだろうと可笑しく思うに違いない。密教では上師は菩薩の化身であり、既に見道、修行道を修めたからである。菩薩が法会へ参列した全ての信者や弟子に加持をして下さっている表しである。中国の出家衆は又の名を「領衆」という。彼は衆生を率いてお経を唱え、仏を唱え、拝む等の事をするが、彼は菩薩の化身ではなく、又菩薩を代表して衆生に面と向かって法を修める事も出来ないのだ。現在、日本ではこの部分の儀軌がよく出来ている、それは出家衆は皆壇城や仏像に向かってお経を唱えるというものだ。

だから、密法を修める法本の始めの一句に、法会への参列者全ての弟子は必ず、先に上師に頂禮してから、菩薩に頂禮すること。なぜなら、上師が居なければ、我々は仏法を聞くことも、触れることも出来ないからだ。法会の参列者は自分の心は光明であることだ。光明とは、今日参列した法会の動機がとても重要になる。動機とは「真誠極恭敬」、法会に参列することが我々にとって良い事であると理解する事が「真誠」、何も求める事はない。多くの人は菩薩を見て大量の願い事をするが、それは「真誠」ではない。なぜなら、諸菩薩は我々が因果に反する事ないよう手助けをするのだ。なので、我々は因果応報を受け入れないとならない。皆は必ずこう思うだろう、「ではなぜ、我々は仏を拝むのだ?私は間違いを犯したので、もちろん菩薩に私が悪運や事故に出会わない様に助けを求め、又金運と健康運が上がるよう求めるのではないか」と。

菩薩と上師は因果に反してはならない、あなたが自分で犯した罪は自分で責任を取らなければならない。では、あなたは何を求めるのか?菩薩と上師に、あなたが傷つけた衆生に伝え、今は危害を加えないよう求めるのです。リンチェンドルジェ・リンポチェが現在開示している《普門品》にはっきりと説かれている。あなたに困難が訪れた際、仏菩薩はあなたを比較的危険ではない処へ連れて行くだけで、最終的には自らこの困難を解決しなければならない。仏菩薩があなたのあらゆる事を解決し、あなたは引き続き肉を食べ、飲酒し、やるべきではない事をやってもよいとは、仏法では説かれていない。なぜなら、全ての仏経が我々に善を行うよう勧め、十善戒の第一善は不殺生、もしあなたが殺生をしたなら、法会に参列しても、少しの福報しか得られず、この一生でも使うことはないであろう。もしかしたら、来世で少しだけ役立つかもしれない。

真誠とは、あなたは仏菩薩が我々を助けてくれると、将来真の仏を学べるよう導いてくれると絶対的に信じることだ。菩薩が本当に我々の願いを聞いてくれるのかと、疑いや心配をするでない。なぜなら我々が願うのは、どれも欲望である。なぜ恭敬なのか?我々が人に何かを頼む時、誠実に心を込める事が必要である、まして菩薩に助けを求めるのなら、尚更であろう。恭敬は供養を代表する、もしあなたに福報がなければ、仏法を聞きたくても、学びたいとしても機会はないであろう。たとえ仏菩薩があなたの為に、因縁を造っても、あなたは色々な言い訳を理由に来ない。恭敬は、あなた自身が福報を創るのを助ける、あなたに生生世世仏法を聞く事ができ、学ぶ資格を与えられるように。

「一般這類不普遍」とは、真誠なる恭敬を必ず行う事で、これは決して普遍ではない事、誰もが菩薩に自分が欲しいものを求める。本当に「真誠なる恭敬」を行っているものは多くない。しかし、菩薩はやはり慈悲であなたに法を修めることを許します。あなたがいつか、自分で眼が覚めるその日が来るまで何も言わない。

「具德殊勝無差別」の意味は、上師と菩薩は一切の功徳を兼ね備えています。功徳とは「殊勝」、その意味は衆生を一切の苦から逃れるよう助けることだ。「無差別」とは、衆生はお金があるかないか、勢力があるかないか等一切構わない事だ。ただ衆生が真誠なる恭敬を行えば、上師と菩薩は必ず助けに行く。

裏面の二句:話の多くは、真の仏法の意義を説いていない。だから、上師は我々に簡単な方法で、仏法の意義を教えてくれるのだ。それは、唯一の信心である。信心とは、菩薩が必ず我々を助けてくれると信じること、それ以外は求めず、質問もしない。なぜなら、菩薩は我々が何も言わずとも、どこに問題があるか全てお見通しだからだ。我々はただ、真誠なる恭敬を行う、それだけで良い。「而承重」があると信心し、たとえ一切重い果報があったとしても、上師と菩薩に十分な信心があれば、上師と菩薩は我々のどんな重い果報をも背負う事が出来る。たとえ、我々が以前にどんなに多く、重い悪業をしても、信心を湧き起こせば、果報は変わる。変わるとは、消える事ではなく、変化するのだ。例えば:本来ならすぐに亡くなるはずが、病気にかかるだけになる。;本来なら一生は病気で過ごすはずだったのが、少しの手違いが生じる。;本来なら財産が破産するはずが、人間関係に少し問題が生じる。必ず発生する事だが、そんなに重症ではなく、この一生仏法を学ぶ機会が無い程の命に関わる害はない。

なので、今日法会に参列した皆さんは必ず、仏法が説く「真誠なる恭敬」を行う事、それが難しい場合でも、出来るだけやること。考えすぎず、信心を湧き起こせば、生生世世行ってきた悪業、重い果報も全て上師と菩薩が先に、あなたの代わりに背負ってくれる。それは、あなたがこの一生仏法を学び修行し、自ら自分の果報を変えれるには十分な時間だ。もう一度言うが、果報を変える、それは消えるということではない。変えるのは、果報が重くなったり、軽くなったりすることで、果報が無くなるなんて事はない。もし、あなたは菩薩に頼んで、自分に悪い果報が現れないようにと求められるのなら、菩薩はこのような因があっても、良い果報は現れないでしょう。

どうして菩薩に求めるのか?なぜなら、我々が菩薩に求め始めると、心が徐々に善へと変わり、善を行おうよう努力しようと思うのだ。我々が一回、善を行うと、悪行が一回停止する機会を得る。我々が身口意が善になれば、悪の力は押し潰され、減少する。たとえ現れても、我々には害が無い。しかし、善を一つ行ったからといい、悪が一つ帳消しになるわけではない、善も悪も果報は平行線である。善の力が強力な場合を除いてだ。善の力が強力であれば、悪の力は圧され身動きできずに消えるだろう。返ってもし、悪業を続け、善業を少ししか行わないのなら、悪の力が善の力を圧し、我々は善の力を明確に感じることが無くなる。

仏法が他の宗教と違うのは、他の宗教は因果については触れず、ただ信じるだけで、あなたはこの宗教から助けを得ることが出来ると思い、他の事は一切気にしない。しかし、仏法は必ずあなたに因果は何かを説く。なぜなら、世間のあらゆる事は全て因果が関係しているからだ。因果は過去や未来で説く必要はない、今この一生についてで十分だ。勉学に励まず、成績も良くない、では将来どうなる?これが果報である。毎日肉を食べるのが好きなら、高脂血症や脂肪肝の病気にかかる。悪い事をしたので、牢屋に入る。これら全て果報である。多くの善を行い、他人から尊重される、これも果報である。因果は仏が発明したので無ければ、仏法を学んだから因果を信じるのでもはない。我々が今生活している一分一秒が、因果の中で生きているのだ。もし、我々が因果を信じないのなら、毎日何の為に努力しているのだろうか?なぜなら、我々はちゃんと努力すれば、よりよい報酬が貰えるとはっきり分かっているからだ。事実上、我々は因果の中で生活している、横断する際に、安全を確認しなかった為に交通事故に遇うのも因果である。仏だけが、因果について説いているからといい、我々に信じさせる為に何度も説くのだと思ってはならない。なぜなら、我々は因果についてまだはっきりと分からない為、果報も受け入れず、因果も信じないで、一日中欲望の為に動くのだ。しかも自分がした事は正しいと思う。だからこそ、仏は我々に、自分がした事や思想には必ず果報が現れると教えているのだ。たとえ、この一世に現れなくても、来世で現れることもある。そうなれば、あなた達は「では、また来世の話は来世の時に話せばよい!」と思うだろうが、本当は来世まで待つ必要は無い、死ぬ前には現れる。多くの人は死ぬ5、6年前に多くの苦しみを受ける。手術であちらこちら切り、最後に死ぬという、これがこの一世の果報である。

果報の重要性を身に染みて感じた時、あなたは今日の法会に列した際、真誠なる恭敬を湧き起こせば、果報はきっと良いものになると知るだろう。良い果報とは、あなたが一番危機を感じる、最も仏法が必要な時に現れる。このような果報は、あなたのビジネスが上手く事や健康になるというものではない。福報を修めれば、必ず健康になる。リンチェンドルジェ・リンポチェのように、70歳にしても変わらず健康だ。これが、福報を修めた結果である。身体がますます悪くなるのは、福報を使い続けているからで、使い切れば亡くなるのだ。

仏法は我々に、福報を増やす様々な方法を教えた。例えば今、あなた達が法会に参列しているのは、福報を増やす方法の一つである。福報はあなた達が思うような欲望ではなく、最も基本な、あなたに発生するはずの無い事を避けるのである。それを理解出来たのなら、では今日から法を修めよ、前半は密法を修める。

顕教と密教の地蔵菩薩法の仏像はいくつか違う所がある。なぜなら、我々が見慣れているのは地蔵菩薩の右手に錫杖、左手には宝珠を持つ。密法の地蔵菩薩は様子から違う。黄色い身体に、顔は息法を修めているような仏像である。密法には息懷增誅の四つの大修行法門がある。息は息災、平息一切災難の法である。地蔵菩薩の眼の周りは少し赤く、それは衆生が貪念を持った為に、地蔵菩薩がその貪念を抑えようとして、眼の周りが赤くなったのである。頭には青い花蔓を飾り、右手に一つの果実を持つ。青色の花は、本性は虛空であり清潔であることを表すのだ。それは、我々衆生の誰もが、虚空のように清潔で何にも染められていない。だから花蔓を頭に被せるのだ。右手に果実を持つのは、今日地蔵法門を修めれば、必ず結果が出る日が来る事、良い果報であることを表すのだ。

左手に睡蓮マニ宝珠を持つ、マニ宝珠とは衆生の意のままに願いをかなえる宝と言われている。あなたが仏法を修行したいという思いだけで、三悪道に陥ることはない。あなたが、上師と本尊に恭敬心を持つだけで、マニ宝珠はあなたの願い事を満たすという。睡蓮を使うのは、我々が五濁悪世で生きていて、まさに睡蓮が泥の中で生活しているようなものだからだ。泥は、我々が毎日知らず知らずに行っている悪業である。睡蓮を泥から離れると、とても美しい。このように、我々も今は五濁悪世の泥の中にいるが、もし我々が仏法をしっかり学べば、いつか睡蓮のように泥から逃れることができ、美しいな花となるだろう。この「美しい」とは、人が美しくなったのではなく、もう一つの清潔で良い個体となると言う事だ。

このマニ宝珠は緑色の光を衆生に放す。光が緑色なのは、衆生の業がとても重く、心の起伏が激しい為である。起伏とは、信じたり信じなかったり、話を聞いたり聞かなかったり等の事で、更に酷いのは上師にたてつく者もいる。たった一回の反抗が、本来皈依して得た福報の全てを無くし、又0からやり直しである。ある人は、上師を怒らしただけで、本当にそんなに深刻な事なのか、と疑う者がいる。最近、ある台湾にいる一人の弟子に起こった出来事である。(参照度眾事蹟861)。彼女は皈依して20年近くなる。彼女は上師がやるようにと教えたことが好きではなかったので、心の中で幾つかつぶやいた。すると、彼女の子宮に腫瘤ができ、一瞬にして何十センチも大きくなった。彼女は元々持病を持っており、上師の加持の下、彼女は病気が発症しなかった。だが、彼女が上師のやり方に同意しないだけで、すぐに発症したのだ。幸い彼女は皈依も長かったのと、懺悔をした為、病気を治す事が出来た。

上師があなたに仏法を伝授すると言う事は、もう凡夫ではないと言う事だ。上師が話す事や、動作は全てあなたを手伝っているのだ。あなたが上師と喧嘩する資格など無い。誰かが助けているにも関わらず、感謝をしない者は、遅かれ早かれ社会で淘汰されるだろう。そして運もますます悪くなる。多くの人は修行人は必ず良い事しか言わず、自分の願いどおり行ってくれるのが慈悲と思っているだろうが、それはあなたの間違いだ。本当の修行人はあなたのあら探しする者だ。なぜなら、あなたが何も悪くなければ、とっくに好く修めているだろう。だが、あなたに問題があるからこそ、修行人はあなたのあらを探すのだ。特にあなたが忌み嫌うものに触れる。そして、このマニ宝は緑色の光を放ち降すのだ。

地蔵菩薩の身体は黄色い、因みに仏と菩薩の光は黄金色だ。神明或いは天界の衆生でも黄金の光はない。なぜなら菩薩はまだ、仏の果位では無いから、金の光に少し黄色かかっていて、仏は純粋な金色だ。金色は凄く明るく、あなたは見る事を恐れる。菩薩の光は金色に少し黄色がかったものの為、身体が黄色いのだ。黄色は我々が仏を学ぶ能力を増加する現われでもある。これで、皆はどうして顕教と密教の地蔵菩薩本尊の法相に違いがあるのか理解できただろう。

地蔵菩薩は必ず墓の前に置いて死者を済度するのか?否。実際はどの菩薩も六道衆生を助ける。それは天道、阿修羅道、人道、蓄生、餓鬼や地獄道等、どの六道衆生であっても助ける。だから、チベット仏教の地蔵菩薩は六道衆生を助ける相を現し、黄色、赤色や青色、緑色がある。この六道の光は六道衆生を助けるのだ。一般の人は地蔵菩薩は只墓の前に置くという概念があるが、実はこの行為は少し地蔵菩薩を見下しているようにも捉われるのだ。皆がこの部分を理解できた所で、密法の部分を先に修めよう。

通常、先ず皈依してから法を修める。皈依とは:我々の発心を手助けしてくれるよう、今日諸仏菩薩と上師の大いなる威徳力に頼る事だ。もし、自分の為に法会へ参列するのなら、発心は小さい。もし眷屬の為に法会へ参列するなら少しましである。衆生の為なら、もっと良いだろう。もし、生死を解脱し、再び輪廻しないよう望むのなら、それは一番良い事だ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を始められ、まず皈依発心を修められた。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示された:そして上師は自分自身と地蔵菩薩は同じだと観想する。先ほど開示した、地蔵菩薩のこれらの光を、我々が生前に知っていれば、我々が亡くなった後、この光に就いて行き、三悪道に陥ることはないだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは法を修めた後、こう開示された:仏法には八大菩薩がある。菩薩は初地から十六地、十七地は仏果を証する。この「地」は階級を表すのではなく、修行の果位である。十地から十六地の菩薩が大菩薩で、大菩薩のもう一つの意味は法身菩薩である。法身菩薩はもう既に清浄な法性を証し、地蔵菩薩は八大菩薩の内の一尊である。本質上、地蔵菩薩の果位はもう仏に達しているが、無量の衆生を済度する為に、もう一度、更に又もう一度と来られるのだ。全ては菩薩の雄偉な発心で衆生を度するのである。

この発心は法界から始まり、「法界」は我々人類又は六道衆生が住む環境ではない。法界は虛空が存在する空間を含む一切世間を超脱する。この空間には仏と大菩薩しか住むことが出来ない、我々には行けるはずがないのだ。だから、この菩提心は六道で生まれたのでは無く、仏菩薩だけが住む事のできる法界で生まれたのだ。なのでこの菩提心はとても殊勝で、威徳力が大きい。この心を発するのは、虛空、宇宙の中の一切衆生を助け、済度し、輪廻の苦しみから真に解き放てるようにする為である。現在多くの科学者が輪廻は存在しないと説くが、同時にある物が器や道具に成っても、中にある分子は絶え間なく変化、輪廻する事をはっきり知っている。だから仏が説く輪廻の定義は、物質の中に既にはっきり見えるのである。

「三世諸佛がまだ記載されていない歴史」とは過去、未来、現在世の一切の、仏が記載されていない一部分の歴史とか、ある不可思議な聖人の傳記とかで、この法本は一切の聖者が説いた話や口伝による完全な法門である。以前は雪域のチベットには伝わっていなかった。この法本は一般的な仏経中に出る法本ではなく、金剛亥母(ヴァジュラヴァーラーヒ)自ら西域天竺(現在のインド)南部の大修行者に伝えたものである。金剛亥母は密教の中で最も重要な本尊であり、ポワ法を修めるには必ず金剛亥母の助けが必要となる。金剛亥母が伝えた法門は既に108種の修行法門があり、8大菩薩の24種方便法門の内の1つである。「方便」というのは、衆生を助ける為一切便利であること。例えば、人道にいる衆生なら、人道にあった姿になり、衆生を助けるということだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはチベット語で伝授された上師を唱え、開示された。蔵伝の密教、特に直貢噶舉は伝承を重視する。伝承とは、誰から仏経を学んだのか、上師は誰なのかをはっきりさせる事だ。それには2つの原因がある:一つは多くの者が自分で修めることが出来ると勘違いをしているが、それが間違いだ。伝承上師や諸菩薩の加持が無ければ、この一生どんな成就も得られない。だから、我々は受け継いだ上師一人一人が我々に加持なさることを肝に銘じることだ。二つめの理由は、末法時代の人が、出鱈目な密法で人のお金を騙すかもしれないからである。だから、誰から受け継いだのか、はっきりとさせる必要があるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェのように、上師は尊勝な直貢チェツァン法王とはっきりさせれば、学んできた仏法は根拠があり、自分で考えたものでも、発明したものでもないという事が分かる。例えば、我々が大学を卒業した際、どの教授に教わったのかちゃんと分かるはず。仏経を学ぶにしても同じ事なのである。突然誰かが「ウォン」と唱えるだけで多くの者を騙せるものではない。このような、でたらめな嘘を多くの者が信じる。なぜなら、皆ぼんやりしているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェのような、素晴らしい実力者が、物事をはっきり如実に伝えると、返って誰も来ない。それは、はっきりし過ぎているので、怖くて来れないのである。これこそが、末法時代の悲哀である。

法本にもこう書かれている。この法本は上師からリンチェンドルジェ・リンポチェに伝えられ、口伝えとも閉関修行の後、初めて衆生がこの法を修めを助ける事ができ、この法門を修める事が出来る。口伝の次等は菩薩摩訶薩、その意味は今日リンチェンドルジェ・リンポチェに口伝するのは一般の仏経ではなく、それは大菩薩の心法、地蔵菩薩の心法、地蔵菩薩が菩薩になる修行方法、地蔵菩薩自身が修めて口伝えするのだ。だから、あなた達が今日この法を聞くには、まず先にマンダを奉げ、恭敬に供養する。なぜなら、マンダを奉げなければ、福報はなく、たとえ法を聞いても、あなたは何も無かったように振舞い、話を右から左へ流すだろう。

続いてマンダを捧げる儀軌を行う。出家衆及び入場時に抽選で選ばれた信衆は、衆生の代表として、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに向かってマンダを奉げる。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは大衆を率いて、法本を唱えた後、開示された。第一に我々は皈依するべきだ。第二に我々は上師が我々の為にこの密法を伝えて、修める事を懇に求め、心を乱さず、集中して上師が伝える法を聴べきだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは観想の方法を開示すると共に上師を本尊とし、地蔵菩薩と同じであると見做すと開示。そして、壇城に置かれているタンカ地蔵菩薩の様子を観想する。法会に参加した人は上師に感激のあまり涙を流す。もし具徳の上師が呪文を伝えて下さらなければ、我々はこの一生生死から解脱することは不可能であり、累世の業力を変えることも不可能なのだ、だから上師にとても感謝し涙を流す。それは我々がずっと手に入れたくても、手に入れられなかった物が、突如手に入ったような感覚なのだ。

心の中には地蔵菩薩が居られる、上師が唱えられた呪文は、上師の口からあなた達の心の中の地蔵菩薩に伝わるよう観想する。そうする事で、あなたの心は加持を得て、歓喜心が起こる。歓喜心が起こるのは、あなた自身がこれで良くなることに歓喜するのではなく、あなたは今日因縁福報があって、上師からこの呪文を伝わり得た事に歓喜するのである。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは大衆を率いて、呪文を一句づつ、唱え終えた後開示された。

先ほど口伝えした事は、今後もしこの地蔵菩薩法門を修めたい、学びたいと願う者が出たとき、その人に因縁を植え付けたのだ。この一生で学べれば良いが、この一生で学べなければどの一世で学べれるか分からない。

それから、諸菩薩に頂礼並びに供養をの儀軌を行う。法本では、必ず清潔な土地と部屋で地蔵菩薩を修めること。清潔とは、以前そこで殺業を行ったことなく、悪い事業、例えば賭博や水商売、レストラン等を行った事があるという場所ではないということだ。そういう家屋や土地でなら法を修めることができる。

以下は、どのように壇城を置くのかを表す。多くの人は自分が経を唱えたい時に唱えれば効果があると勘違いをする。だが、実際は本当に修めたいと思うのなら、法にそった壇城を置く必要がある。我々が法を修めるそれぞれ儀軌は、皆三つの部分に分かれる。第一に発心、法会に参列する心はどのような心なのかが、これこそ重要なのである。たとえば我々が何かをする際、心の準備をしてから行う、そうすれば、捗る。それと同じように、法を修める人は発心をとても重視する。第二に正行、それは上師が法を修め始めることだ。第三に回向、どの法も修め終えると、我々は回向を必ずする。自分が修め得たら、もう自分のもの、又は家族のもと勘違いするではない、どれも違う。なぜなら、仏法の観念に従えば、全ての衆生の本質は我々と同じで、たとえ種族や国が違えど、本質は全て同じ、清浄な仏性であるのだ。だから、我々に機会あって、仏経を唱え、仏を拝むのは、衆生を代表して唱えているのである。だから、必ず回向をし、功徳を諸菩薩や衆生に回向する。こうする事で、功徳が増えるのである。

清浄の発心には、二種類ある。清浄な発心とは、欲望のない発菩提心である。「善行清淨菩提心」とは、我々が法会に参加するという行為は善であるとはっきりしている。なぜなら、少なくてもこの数時間は殺生せず、飲酒、騙す、等の悪い事はしない。この法会に参列する事が善ならば、あらゆる私的な欲望は有るべきではない。我々はただ、福報があってこの法会に参加することができた、一切の衆生を代表する気持ちで参加するべきだと考えるべきだ。もう一つの発心は上師がする事で、あなた達には関係ない。

法を修める際、上師は必ず、三摩地上で修める。もし上師の定力が足りないのなら、それはあなた達が言う禅の定力が足りないからだが、それではこのような法は修めることが出来ない、相応しないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは法を修めた後、こう開示された:これらの言葉は大手印で必ず唱えるのだが、あなた達は学んでいないので、解説をしても、あなた達には分かるまい。簡単に言えば、一切物事には原因がある。あなたの運であろうと、病気であろうと必ず原因があるのだ。前に必ず何かしたので、後にこれらの事が発生したのだ。第一句ですでにはっきり言っている:一切には原因があり、あなた達が今日この法会に参加する事さえ、必ず過去に原因があるのだ。もしかすると、過去世で触れた事があったので、この一世で因縁が来たのかもしれない。しかし、因縁は来たが、果報はまだ出ていない。なぜなら果報が現れるかどうかは、あなた達が続けるか続けないか次第なのだ。

この法を修める上師自身は必ず、空性を証しなければならない。それに入定する。出定後は「慈視」、続けて慈悲の智慧眼と法眼を使い、まだ悟りを開いてないもの、まだ理解の無い衆生を見る:それはあなた達だ。あなた達の根器はまだ足りない、もっと言えばある者は信じていない、学びたくないと思っているだろう。だが諸仏菩薩と上師は空性で法を修めたので、あなたが信じるか信じないかについては追求しないし、供養をしているかどうかも、過去にあなたが何か悪い事をしたかどうかも追求しないのだ。ただ今日は因縁が現れたので、諸仏菩薩と上師は慈悲の心であなた達を助け続けるだろう、それを受け取るか受け取らないかは、あなた達次第である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは呪文を唱え、この土地を加持し、この部屋が菩薩の住む宮殿と同じであると加持し。上師が座る宝座を加持し、全ての供え物を加持する。続けて、リンチェンドルジェ・リンポチェは大衆に、右足で跪き、両手に花を持つよう指示し、出家衆が衆生を代表してお香を焚き、仏に捧げ、地蔵王菩薩が壇城にいらっしゃるのを恭迎する。引き続き、リンチェンドルジェ・リンポチェが地蔵王菩薩にタンカへ降臨するよう祈祷、並びに出家弟子が衆生を代表して、壇城に向い、主尊地蔵王菩薩タンカに敬意を表するハタを捧げるよう指示する。

リンチェンドルジェ・リンポチェは法を修めた後、開示された:先ほど修めたのは、本尊に壇城に来て頂いて、我々の供養を受け取ってくれるよう、又更に修めたのが、累積した智慧の資糧と懺悔、我々が行った数々の悪業を本尊に懺悔したのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは出家衆の弟子に、皆を従え《地藏菩薩本願經》見聞利益品第十二を唱えるよう指示されました。リンチェンドルジェ・リンポチェは同時に《地藏菩薩陀羅尼經》を唱えられた。

唱えた後、リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き開示された:先ほどあなた達に唱えさせたのは、顕教の経典で、リンチェンドルジェ・リンポチェが唱えたのは《地藏菩薩陀羅尼經》、これは地蔵菩薩の呪文の経典だ。2つの違いは顕教の経典には、我々に亡者を助ける心構えを伝え、《地藏菩薩陀羅尼經》の経典では、我々にどのような心構えで仏法を学ぶのかが説かれている。この呪文を通して、後ろに「誠心唸此咒」とあるが、意味は我々が誠実な心で、この地蔵菩薩の呪文を唱えることで「速得解脫離痛苦(即座に苦痛から離脱できるだろう)」。我々が誠実な心で、この呪文を唱えれば、とても早く、又少なくともこの一生は、生死を離脱し、一切の苦痛から逃れられる。誠心とは信じる事だ。以下の文にも説かれているが、もし長期この呪文を唱えていれば、「心想一切都示現(心で想っている事が全て叶う)」。あなたが日々この呪文を唱え、心の中は一切仏法に関係するだけを思えば、あなたの目の前に、願ってたこと現れるだろう。それだけでなく、我々は大きな吉祥を得ることが出来、大きな信心も得ることができる。我々はただ、誠懇恭敬で地蔵菩薩の呪文を唱えるだけで、一切全てが成功する。所詮一切とは、自らが生死を解脱する事を助け、更に衆生を助け、一切が成功する。一切が成功したら、我々が持つ世間の小さなトラブルや煩悩等は、どうってこともないだろう。

我々が呪文を唱える時、地蔵菩薩の加持を得る。我々の身口意が清浄になる。清浄とは、清潔になるのではなく、我々本来の清浄な本性に戻るという事である。本来身口意の一切の作用には因縁で起こり、因縁が滅すると無くなる。だが、人々は考え、実行することに執着する。だから身口意が清浄では無くなるのだ。我々の修行は必ず身口意が清浄であるべきである。つまり本来あるべき姿に戻り、それが清浄な本性である。その為、あなた達に何も求めるなといつも言うのだ。あなた達に求めることを許さないのではなく、仏法面であれば求めても良いが、世間の事なら求める必要がないと言っているのだ。幾ら菩薩を念じたからといい、商売が繁盛するわけではない、福報が起きれば、自然と世間の事も上手くいくのだ。福報がなければ、念じても意味が無い。たとえ、念じてそれが上手くいっても、別のことがあなたに発生するのだ。だから「法の如く修めれば加持を得る」、法の如くとは、仏が我々に教える方法は聞く事だ、自らの考えで求め、そこら辺で聞いた方法で修めるのではない。法の如く修めるのでなければ、地蔵菩薩の加持を得ることはできない。簡単に言えば、仏教を学ぶには、必ず正しい上師に就く。上師の伝えははっきりしているか?上師の開示する仏法は仏経、法本を根据にして言っているか?そうでなければ、その言葉は嘘である。

「我々の利益を一切する」私と一切の衆生に利益する、何を利益するのか?我々が地獄、餓鬼、蓄生道に堕ちる一切の悪因を消去し、我々が再び悪因を起こす事がないよう助けるのである。もし、果報が悪道に堕ちる定めであっても、今日あなたが参加したこの法会を必ず信じれば、今日の法会を思い出せば入る事もない。「惡趣を除き、善趣を導く」故にこれはとても重要な事である。それは、我々の悪を菩薩が消去するではく、重要なのは、あなたが今日参加した法会で信心があるかどうかだ。もし、信心がなければ、たとえ菩薩があなたの前に立っていたとしても、菩薩はあなたを地獄から助け出せることは出来ない。そうならない為にも、あなた達は今日上師が修めたこの法に対して、十分な信心を持つのだ。上師が我々と同じ凡夫で、同じように睡眠もとると思うでない。上師ができる事を、あなたは出来ない、だから信じることだ。出来るなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの如く死者の頭の頂点に穴を開け、善道に往けるよう手助けしてみろ。出来ないのなら、言う事を聴くのだ、自分の考えで行うのは、信心が無いという事だ。もしも、今日信心があれば、「この先は我に衆生を利益する力を賜わる。」、それは諸菩薩と上師があなたに、加持してくださる光、それがあって初めて自分と衆生に利益する力が出てくる。「如來と沙彌は二つとなく、相應する。」前の事が出来れば、仏の身口意と我々は無二無別、相応を得る。相応とは、それで始めて仏の慈悲、功徳、事業を受け取る事が出来るという事だ。もし、それでもあなたが自らの考えで仏法を学び、法会に参加したとはいえ、相変わらずのままだと相応できない。「惡趣を除き、善趣を導く」さえも含めて何もないのだ。

多く者は気にしない、まず行って後日孝へと様する。これが信心がないという事だ。信心とは、自分が確実に出来ると信じることだ。多く者は、自分の生活環境では出来ないと言うが、それはあなたが決めていることだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは香港で育った。そこは、最も海鮮が大好きな国だ、そんな中で、すぐに海鮮を断つ事ができたのはなぜだ、それは信心があったからだ。あなた達が出来ないのは信じていないからだ。あなた達が仏の言う事を信じないのなら、仏からの加持は得ることは出来ない。得られなければ、生死から解脱することが出来ない。また、大きな確率で三悪道へ堕ちるだろう。仏法を学ぶのは、決して今の健康状態やある出来事などの為ではない。こんな些細な事で仏に助けを求める必要はない、リンチェンドルジェ・リンポチェでも解決できる。このような小さな事は、あなた自身が招いた種だ、仏法は、過去、現在、未来を話し、あなたが今受けたこと一切全ては、過去にあなたが自分でしたことだ。転んで足の骨を折ろうとも、それは以前にあなたが殺生して得たのだ。未来はまだ発生していない、現在行っている全ての事が、あなたの未来を変え、決めるのだ。人はなぜ、自分が老いるとどうなるのか、お金がないかもと心配し、あれもこれも心配する。それは、あなたが自分の未来が見えていないからだ。未来とは、現在行っていることだ。現在行っていること全てが未来に影響する。あなたは必ずこう思うだろう:今現在、生活は良いのではないか?何故未来に影響するのだ。現在上手くいってないのは、過去にあなたが行った事が影響しているからだ。今あなたが、やると決め、一切の悪を止め、一切の善を行えば、未来は必ず良くなる。

こうやって、衆生は身心の苦から遠退く事ができる。仏ははっきりおっしゃっている:身心が苦しい。写経したり、神頼み、鐘を鳴すなどで、身体や心が、苦しみから逃れられるのではない。必ず言う事を聞くのだ、そして信じること。一歩ずつ始める、そうすると諸仏菩薩の身口意が我々と相応する。相応した後初めて、身心が一切の苦から逃れることができる。我々の心には、多くの苦があり、一切の苦は貪念から起こる;身体が苦しいのは、人は必ず生老病死の苦を経験するからなのだ。たとえ、あなたが今どんなに若くても、必ず老いる時がくる、老いることに苦しみ、病気でも苦しむ。だが、修行人や仏を学ぶ者は、たとえ老いることはあっても、身体の苦の程度は、他の人と大きく差が出る。リンチェンドルジェ・リンポチェはもう70歳になる、老いる苦しみは未だ明らかに出ていない、なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは、その苦から逃れることが出来たからだ。どうして逃れることが出来たのか?その原因の1つは、リンチェンドルジェ・リンポチェが仏を学んでいる際に、ほんの少しの福報を得ることができ、身体の福報が足りれば、身体が老いる苦が、他の人と違ったのである。2つ目の理由は、心ではそんなに苦だと思っていないことで、身体の苦は相対的に減少できる。どうして、あなたは一日中気分が悪いのか?なぜなら、あなたの心の中は苦でいっぱいだからだ。これらの苦は、あなた自身の貪念、嗔恨、そして因果を信じない心から出来て、あなたの身体に影響を及ぼしているのだ。だから仏は、心に病がなけれが、身体の病もない、と説いたのだ。心の中に貪嗔痴が無ければ、身体も病に苦しむことはない。心臓が悪いのは、貪念が強すぎるからだ。気管が悪いのも、同様に貪念、嗔恨心が酷いのが原因だ。日本でよく言われる認知症候群(台湾では「老年癡呆症」という)にかかり安いのは、若いときから因果を信じないからである。癌になるのは、殺生をし、肉を食べるからで、手術をするのは、殺業からである。このような身心の苦は、全て自ら招いたことだ。

前半ではっきり述べたが、ただ言う事を聞き、信じれば、自然と身口意と如来の身口意が相応する。という事は、如来と諸菩薩の心は純粋な善で、少しの悪も無いということだ。もしあなたが、悪を止め善を行、善の力があなたと接触する。諸仏菩薩の善の力に触れた時、自然と擁護され、求める事さえもしなくていい。たとえ悪い事が起こっても、諸仏菩薩と上師の身口意があなたと相応している為、自然とあなたの前に立ち、助けるだろう、それは求めなくても自然と得られるのだ。

今日の法会は、あなた達が福報を貯める事を助ける。そしてあなた達の智慧を働かし、仏法の真の意味を理解させ、あなた達が資糧を貯めた後、仏法を修行する手助けをする。この地蔵菩薩の心咒と咒文、実はリンチェンドルジェ・リンポチェは何度も口伝えをしているが、誰も法を求めない為、リンチェンドルジェ・リンポチェは教えないのだ。多くの人は、一度聞けば唱えることが出来ると勘違いをしているが、それは無理だ。なぜなら、密法とは観想を含め、上師の口伝えが無ければ、あなたはどうやって観想するか分からないからだ。多くの人は、求めずとも、ずっと聞いていれば、分かる時がくると思っているが、それは、上師を敬っていないということだ。あなた達は聞けば分かるというのか?ならば、リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関する必要もなく、法王に法を求める必要もない。

多くの者が、皈依しない事のは傲慢だからである。皈依すると叱られ、縛られると思っている。だが、元々我々は自分の業力によって縛られ、自分の業力から逃れることが出来ない。なので、今日はっきりと仏法の真の意味を理解できたら、拝み間違えや間違った場所に行かなくて済む。分かったのなら、自ら決心してそれを行う、行えば今後我々に大いに役立つ。これは必ず、我々の想像を遥かに超えるものだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは70歳だが、今この場でも多くの年配者は、夜中にお手洗いへ行きたくなるが、リンチェンドルジェ・リンポチェはその必要がない。これは体調が、同い年の者より良いからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは特にケアをしていない、つまり、仏法で変えることができるのだ。我々の身体の元素はどこから来るのか?これは生生世世行ってきた業だ。遺伝子というのは、あなたが以前に行った全てで、あなたの身体の中にあるのだ。善を行ってきたのなら、遺伝子は自然と良い、たとえ以前に悪を行って、遺伝子が悪になってしまっても、あなたが努力して、善の行いを始めるだけで、遺伝子は変わる。これは医学で証明されている、医者に聞けば分かることだ。たとえば、ある人は生まれつき癌の症状を持った遺伝子だか、彼はこの一生癌になっていない。なぜなら、彼は一生善を行ってきたからだ。それで、悪の遺伝子が作用しなかった。ある者は、癌の遺伝子がなかったとしても、そういう人に限って癌になるのだ。原因は、この一生ずっと悪い事をし、殺生し、貪念を起こしたからだ。たとえ、彼らに癌の遺伝子がなくても、遺伝子は変化する。なので、身体に起こる変化は自分で招いたことだ、他人のせいにせず、他人に当たらないことだ、これも全て自分の福報だ。

今日は顕教と密法を共に修める。これは簡単なことではない。ましてや多くの者は、仏法を神秘的なものの一つとして捉えている。実際は、仏法は何も神秘的なものではない。なぜなら、自分で修めない限り、自然と仏法を神秘的なものと思うだろう。小学生が大学生は何を学んでいるのか永遠に考えが付かないのと同じことだ。だから神秘と捉える。午前中はここまでだ。

午前中の法会は円満に終了し、リンチェンドルジェ・リンポチェは大衆に席を立つことを指示し、リンポチェは引き続き、天馬旗に加持した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは円満に天馬旗に加持した後、参列者は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの苦労なる修法及び開示に感謝し、恭しく合掌して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを見送った。

午後2時00分、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、再び法座に昇り、<地蔵菩薩本願経>の「見聞利益品第十二」を開示されたのである。

経典:「その時世尊、頂門の上より、百千万億の大毫相光を放ち給う。所謂白毫相光。大白毫相光。瑞毫相光。大瑞毫相光。玉毫相光。大玉毫相光。紫毫相光。大紫毫相光。青毫相光。大青毫相光。碧毫相光。大碧毫相光。紅毫相光。大紅毫相光。綠毫相光。大綠毫相。金毫相光。大金毫相光。慶雲毫相光。大慶雲毫相光。千輪毫光。大千輪毫光。寶輪毫光。大寶輪毫光。日輪毫光。大日輪毫光。月輪毫光。大月輪毫光。宮殿毫光。大宮殿毫光。海雲毫光。大海雲毫光。」

この品ではっきり書かれている。我々が地蔵菩薩の法門を受けるだけで、衆生に利益することを見る事、聞く事もできる。「頂門」は、我々の頭のてっぺんに位置するのではない。仮に、家の誰かが亡くなられた際、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らの為にポワ法を修める、そこで現れる穴の位置が頂門である。密教ではそれを梵穴と言う。それは我々が亡くなって天界に行く時、阿弥陀仏浄土や成仏がその場所から出て行くのだ。

「頂門の上より百千億の大毫相光を放ち給う。」誰もが信じないであろう、だが本当に可能なのだ。なぜなら、密法を修める際の一つにこの法門がある。どうしてこんなにも多くの種類の光があるのか?それは、宇宙中にいる衆生はそれぞれ接触できる光のレベルが違うからだ。仏が衆生に利益する為に、この光が現れるのだ。衆生それぞれが受け取る度合いに応じて感じさせる光は、肉眼や儀器でも見る事はできない。科学でも、宇宙には多くの光や光線があり、儀器を発明した事により、多くの光をみることは出来る。この先は必ず存在する。だが、どうして「毫」と言う字を使うのだろうか?毫光とは、真っ直ぐで、まるで一本剛毛のようだ。稲妻と違って、くねくねしていない。

「白毫相光」、一般の修行人は、修行を通して皆白毫の光が現れる。本来我々はその光を持っている、ただ修行をしなければ、その光は身体から発しないのでる。現在人体は光を放つ事が可能だと、科学的に証明されている。ただ、人体の光はエネルギーの光なので、修行を通して、エネルギーを集中させて放つのだ。科学では、多くの物や音が生まれる前、まずは光があった後、始めて音や形ができた。一切物事は変化する前に、まず光が生まれる。経典にも書かれているが、これらの数々の色の光は、六道衆生を助ける光なのだ。ある者は、赤色の光の加持を必要とし、ある者は金色の光、緑色の光、とそれぞれ違うのだ。三悪道の衆生は様々な色の光が必要だ。この光を見れるようになるには、禅定の修行をしなければならない。禅定は眼を閉じて見えるものではない。必ず禅定を通して、定境中に見えた光こそが本当に、その光を見たと言えるのだ。

ここでは、多種多様な光について説明している。例えば日輪毫光や月輪毫光。密宗修行では此れに触れているが、あなた達は現在密法を学んでいないので、教えられない。大千輪毫光、密法の気脈明点を修めたものは、この意味が分かるだろう。寶輪毫光、これも密法の気脈明点を修めたものは、この意味が分かる。多くの者は経典は顕教を修めるものだというが、中には多くの境界がり、例えば密法を学んだある者は、中に書かれている仏が説いたこと全ては真実であると分かるだろう。中国顕教では問訊する際、指を眉の間に置く、ここが白毫光の出現場所である。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身も白毫光が出てきて、諸菩薩に供養するところを見た事がある。ここの解釈は、宇宙中の一切衆生を包含し、仏は光を通して、一切の衆生と接触するのである。

宮殿毫光、我々が輪廻転生する前、母親の子宮が宮殿のように見える、だから、あなたはそこへ入るのだ。もし、生前に修めた事があれば、あなたは宮殿が仏の光であるか、はたまた凡夫のであるかが、区別がつき、間違うことは無かろう。我々が転生の時、光が多くの色で我々を転生へと導くのである。様々な六道衆生を迎えるよう、仏は多種多様な光を放ち、六道衆生が輪廻に堕ちることの無いようにしている。この部分は解説が難しい、もしあなたが密宗を修めることが出来れば別だが。

多くの者は、この部分を見ると不思議に思う。舞台の上で演技をしているわけでもないのに、どうしてずっと光を放つのか?しかも、こんなに多くも。それは、全ての光は衆生が輪廻に堕ちる可能性がある際に、仏が光を出して迎えようとしているのに関係がある。密法を修めた者なら分かると思うが、人は亡くなってからの49日以内、7日毎に1度光が迎えに来るのを見る。もし、生前にこの事が知らなかったら、彼は間違った光に就いて行くだろう。例えば、六道に赤色と緑色と、青色の光を放つ。このような光は比較的弱い。我々が息絶えた後、まだ転生していない前の幽霊を、我々は中陰身という。7日毎に一回目が醒め、光を見ては、好きな色へ就いていく。通常、一切衆生は仏菩薩の光を見ると怖がるが、経典ではもし仏法を聞いた事がなく、上師から説明を受けていなければ、あなたが中陰身の時は、この強烈な光をみると怖がる。あなたは、怖くて隅へ隠れるだろう。もし、あなたが見た光がどれも緑色の光であれば、仏は比較的強い緑色の光を放ち、そして鬼道の緑色の光は比較的弱い、そしてあなたは弱い光について逃げてしまうだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは皈依して一日目に夢を見た、自分が仏寺の門の前に居り、釈迦牟尼仏が仏寺内で強烈な光金色の光を放っておられた。リンチェンドルジェ・リンポチェはその光を見て、一歩後ろへ下がったが、その時師父は「あなたは中へ入り、頂禮しなさい。」と言われた。もし、この時に皈依した上師があなたの背中を押さなかったら、あなたは光を見た時、後ろへ下がるだろう。仏経には書かれているが、その時リンチェンドルジェ・リンポチェはまだその一段落を見てはいなかった。今私があなた達に話すが、これは迷信ではない、仏だけがこの光を放つのではない、仏がどれだけ凄いかを示しているわけでもない、仏経だけがこの光について説いている。このような光は動物、霊、蓄生を含む一切の友情衆生が、亡くなった後、7日毎に1回このような光を見る。蓄生でも人間と同じように、49日間がある。このような光が我々を迎えるのだ。もし、我々が生前に聞いたり学んだりしていれば、この49日間は迷うことはない。

例えば、密宗の法門ではこの宮殿はどのようなのか述べているが、顕教には書かれていない。この宮殿は我々が生前に見たような宮殿ではない、日本で見た昔のお城が宮殿だと思われがちだが、それも違う。経典中で説かれている宮殿の様子はまるで違う。このような宮殿はあなたを良い善道へ導くのだ、良い胎へと導くものでもある。これをあなたが、はっきり理解できたのなら、道を間違える事はないだろう。

「海雲毫光。大海雲毫光。」何故、光に大小があるのか?大小に分けているのではない、それは衆生を迎える果位が違うのだ。一般の衆生は海雲毫光で、修行人ならばもっと良い大海雲毫光で迎える。大海雲とはなにか?あなた達が密法を修めていなければ、どう解釈すればよいのだ、誰かが密法を修めたときにまた説こう。

「頂門の上に於いて、是の如き等の豪相光を放ち己りて、微妙の音を出して、諸の大衆天龍八部人非人等に告ぐ。われ今日忉利天宮に於て、地蔵菩薩の人天の中において、利益等の事、不思議の事、超聖因の事、証十地の事、畢竟不退、阿耨多羅三藐三菩提の事を、称揚し讃歎するを聴け。」

先ほども言ったが、先に光があってからの音がある、だから突然音から聴こえることはない。ある人は何か聴こえた気がするというが、それは幽霊があなたと話しているのだ。必ず、まず光が出て、毫相光が現れた後、微妙な音が聞こえるのだ。微妙とは、あなたの耳元でぶつぶつ聴こえてくるのや、突然大きな声であなたに話しかけるのではない。あなたの心の中で誰かかあなたに話しかけているような感じである。実は、話す事を必要としているのは、人類だけで、鬼道、地獄道、蓄生道、天道、阿修羅道は話す事を必要としない。彼らが口を開かずとも、あなたは何を伝えたいのかが分かるのだ。これこそが、微妙音である。仏の声は更に微妙音である。直接あなた達が聞こえる所に来られ、直接あなた達が音を聞く神経の点に到る。その点に到ると、あなたの意識はただちに反応し、あなたにその音は何を話しているかを伝える。

「諸の大衆天龍八部人非人等に告ぐ。」仏の声は、特に人類に話しているのではないし、又特別誰かに話しているわけでもない。仏の微妙な音が現れた際、仏と縁のある一切の衆生には、どの道とか関わらず、全て仏が何を話しているのかが分かる。よって仏経では、仏は衆生の心が分かると説かれている。もし、仏や菩薩が衆生はどのような音を聞きたいのかが分からなければ、それは仏菩薩ではない。天龍八部は仏経の中で、特別な衆生である。天界、龍、摩睺羅伽等、8種の衆生だ。この8種の衆生は天と人の間の衆生である。人非人等は幽霊である。

「われ今日忉利天宮に於て、地蔵菩薩を称揚し讃嘆する。」私は今日忉利天上寺で地蔵菩薩を讃嘆した。仏はまた特に、自分が忉利天上寺で地蔵菩薩を称賛、讚揚、讃嘆したことを説いた。仏に讃嘆された衆生は数少ない。よってこれで分かると思うが、地蔵菩薩は修行を証果された大菩薩なのだ。

「人天の中において、利益等の事、不思議の事、超聖因の事。」地蔵菩薩は特に、人道と天道で利益する。ここで蓄生は言っていない。多くの者が、仏経を唱えている時、猫や犬はそばで寝そべりながら、大人しく聞いているというが、これはあなたが静かにしているから、あなたが飼っている蓄生もあなたに続いて静かにしているだけで、あなたが「地蔵経」を唱えているからではない。仏経に、ちゃんと書かれている。衆生を利益するのは、とても不可思議な事であり、一般の聖人が出来る範囲を遥かに通り越している。「証十地の事」地蔵菩薩自身の証果が十地菩薩を既に超えた事を指していること以外、もし我々がこの法門を修めれば、地蔵菩薩も我々が十地菩薩を託する様助けてくれるのだ。「畢竟不退、阿耨多羅三藐三菩提の事を」我々は地蔵菩薩の言う事に従うだけで、我々が永遠に退轉しない助けとなる。何故「阿耨多羅三藐三菩提」を持ち出すのか?仏経で説明すると、話が長くなる。簡単に言えば、あなたが仏修行をする心、衆生を利益する心は永遠に退転する事はない。あなたは永遠に仏法を学ぶことや衆生に利益することに、飽きる事がない。

経典:「是の語を説玉う時、会中に一の菩薩摩訶薩あり。観世音と名く。座より起て、胡跪合掌して、仏に白して言さく。」

仏が話す時に、法会中のある一尊の大菩薩、観世音菩薩。これによって分かる通り、観世音菩薩と地蔵菩薩はとても仲のいい友達だ。仏が地蔵菩薩と言えば、観世音菩薩はすぐに現れる。これは、我々が今日観世音菩薩の法門を修めると、地蔵菩薩と相通じ、又同様に地蔵菩薩を修めても観世音菩薩と相通ずる事ができる。観世音菩薩は大菩薩だが、仏法を伺う際は、法の如く礼儀に従う。胡跪とは、今日の午前中に説いた、右足だけを跪いて合掌し、仏と話すことだ。

経典:「世尊、この地蔵菩薩摩訶薩は、大慈悲を具して、罪苦の衆生を憐愍し、千万億の世界において、千万億の身を化す。所有の功徳、および不可思議威神の力。」

以前に大慈悲は解説したので、今日は話さない。この言葉は、観世音菩薩が仏に地蔵菩薩修行具合を問いているわけではない、まさにその逆で、観世音菩薩は、地蔵菩薩が大菩薩で、大慈悲が備わっているとはっきり分かっているのだ。「罪苦の衆生を憐愍し」これは、他の宗教が言うような、人は皆生まれつき罪があると言う意味ではなければ、又他の宗教のように人は生まれつき罪を持ってこの世に生まれると言う意味でもない。この罪の定義は、あなたはこの一生乃至未来生まで、まだ苦海の中で輪廻し、この罪はあなたがこの一生の中で作り出したのである。仏法の説く罪とは、あなたが誤ったことに対して罰を下すのではなく、あなたが間違った事をした際に起こる果報は良くない果報なので、「罪苦」を使うのだ。これ以外に、仏が説くような複雑な事を表す形容詞が無く、「罪」と言う言葉を使えば、人は理解できるだろうと考えたのだ。一寸聞くと罰せられていると思うが、実際は誰かがあなたを罰しているのでは無く、あなたの自業自得で、あなたはこの事を受け入れる他ないと説いているのだ。衆生とは、六道の中の衆生の事だ。

「千万億の世界において、千万億の身を化す。」地蔵菩薩は地球だけでなく、仏の国土ある世界なら、宇宙全てのどこにでも地蔵菩薩は現れる。ここ娑婆世界だけに仏がいるのでは無い、銀河系で、人が住める場所には仏が現れる。地蔵菩薩はあちらこちらに飛び回るのではない、多くの者は皆仏菩薩は飛んでいると思うが、違う。仏菩薩は定境の中で、自分のエネルギーが多くの光に変わり、それが多くの、仏菩薩と同じような様子で現れ、衆生に利益する。これは慈悲の心がなければ出来なきことだ。

「あらゆる功徳、および不思議威神の力」地蔵菩薩が衆生の一切苦から逃れるよう手助けする功徳、仏経が説く不思議とは、我々人間の経験法則で理解できる範囲を超えている。もし、あなたが仏の大神通力を持つなら体験する事ができるだろう。この「威」と「神」は地蔵菩薩が厳しく、道理がない事を言っているわけではない。これは多くの罪苦衆生を助けるという意味なのだ。この罪苦衆生は多くの衆生を傷つけてきた、傷つけられた衆生達は、傷つけた者達が仏菩薩や上師の加持を得ようとするのを阻止するのだ。だから、威神力が備わっていないと、これらの衆生を降伏させ、諸仏菩薩が彼らを助けることができない。

経典:「われ己に世尊、十方無量の諸仏と、異口同音に地蔵菩薩を讃歎してのたまうを聞くに、たとい過去現在未来の諸仏、その功徳と説くとも、なお尽くすことあたわず。向には又世尊、普く大衆に告げて。」

観世音菩薩は再度強調して、私は釈迦牟尼仏と十方無量諸仏が地蔵菩薩を讃嘆しているのを聞き、数え切れない程多くの仏等が同じことを言った。それぞれの尊仏願力は違うが、どれも同じように地蔵菩薩を讃嘆する声を聞く。「なお尽くすことあたわず。」たとえ、過去、現在、未来の三世一切の仏が地蔵菩薩の功徳を讃嘆しても、まだ言い足りないと。これで分かるように、地蔵菩薩は多くの事をなされているのだ。「向には又世尊、普く大衆に告げて。」ましては今日、釈迦牟尼仏が皆さんに伝えたのだ、ここで言う「普く」とは「普遍」でも「普通」でもなく、分別の心がないことだ。衆生が仏法の話を聞されすれば、諸仏菩薩は分別の心を持たないので、あなたがどこの人だろうか、お金があるかどうか、地位はあるかないかは関係なく、仏菩薩は必ずあなたに説くだろう。

「地蔵利益等の事を称揚せんと欲するをこうむる。唯願わくは世尊、現在未来の一切衆生の為に、地蔵不思議の事を称揚して、天龍八部をして、瞻礼して福を獲しめん。」

観世音菩薩は我々を代表して、釈迦牟尼仏に、現在未来一切の衆生の為、もう一度地蔵菩薩の不可思議な事を称揚して欲しいと求めた。どうしてもう一度と要求するのか?なぜなら、聞いたことがある衆生は皆、修めてとっくにこの輪廻の世間から逃れたからだ。これらの利益を得た衆生は、現在未来の未だ利益を得ていない衆生に教える機会がない。だから観世音菩薩は我々を代表して世尊に指示を仰いだのだ。なぜなら、仏が話すのは、必ず真実であり、仏は一字とも我々衆生を騙したりしない。どうして観世音菩薩は自ら話さないのか。話してはいけない、又は観世音菩薩は分からない、という事ではない。この法会は釈迦牟尼仏が主催してる、よって釈迦牟尼仏に礼儀と恭敬心を持ち、釈迦牟尼仏に指示を仰ぐ。我々みたいに、「仏:私は地蔵菩薩がどれだけ凄いか言おう。」等、仏の手柄を横取りするような真似はしない。だが、修行をしているものは、前に我々に説いた通り、観世音菩薩は地蔵菩薩が行った功徳をはっきり分かっているが、衆生の為、礼儀の為、恭敬の為、再び仏に指示を仰ぎ、仏にもう一度説いて頂くよう求めているのだ。これらが修行というものであり、これが人として行うべきである。ならば我々はどうだ?上師が口を開けば、自身が周りの者が上師の説いている事が理解出来ないかもしれないと心配し、隣でペチャクチャと話続ける。これは間違っている。なぜなら、これは不敬心だからだ。多くの者がこのような間違いを犯す。

事実上、仏法は我々に社会に於いて、他人から尊敬されやすい方法を教えている。観世音菩薩は先に「仏よ、地蔵菩薩はこんなにも多くの事をして、多くの人から称賛を得ている、その事をもう一度話して下さいなっ!」と言った。これは、あなたが社会に於いて、私はこの人がどのような事を成したかって分かっているので、ボスにもう一度我々に話して欲しい、と言う事と同じだ。あなたはこれを聞いてボスはどう思うか?給料を上げるか?もちろん上げるだろう、なぜならあなたは彼を尊重しているからだ。手柄を横取りなどしない。だが、多くの者は手柄を自分の物にしたがる、我執が強い。この一段落は、観世音菩薩が釈迦牟尼仏に指示を仰いでいる様だが、ぐという行為は、実は観世音菩薩が我々に我執を破るよう教えているのだ。あなたが知っている事は、あなたに属するとは限らない、あなたが知っているという事は、あなたが誰かより優れているとも限らない。だが我々は今西方文化を受け入れているので、このように考えない。西方文化は、口を開けばI(私),I’m the best.(私が一番だ)。東方文化と西方文化は衝突する、なぜなら東方文化は比較的仏法や儒家思想を主とする。この言い方は、仏の方が凄いとか仏法が一番であると示しているのではない。なぜなら人は傲慢になり安いのだ。傲慢だと、たとえあなたが何かしようとも、修行方面で障碍になる。

観世音菩薩は我々にこのような話方を教える。仏を学ぶのは我々に対してどんな得があるというのか?観世音菩薩が我々に物事の処理方法をはっきり指導して下さっている。これが仏法を学ぶ際の得である。これで相手は必ずあなたを受け入れ、歓迎する。もし、何事も自分が凄いと考え、人の手柄を横取りする。取られた相手はどうすればいい?どうにもならなくなる。だからこそ、仏法は世間でも使える道理がここにある。観世音菩薩がこんなにも多く話すのは、全て衆生の為で、仏にもう一度話して欲しいのだ。

「仏、観世音菩薩に告げ玉わく。汝娑婆世界に於いて大因縁あり。若しくは天、若しくは龍、若しくは男、若しくは女、若しくは神、若しくは鬼、乃至、六道罪苦の衆生」

仏が観世音菩薩を讃嘆し、地球人と観世音菩薩には、別の世界の人よりも特別な縁がある。だから仏経にははっきりと書かれている。何故我々は観世音菩薩を拝むことが多いのか?なぜなら、観世音菩薩の心念は全て地球にあり、地球の人類を助け、娑婆世界の人類を助ける。この娑婆世界は地球だけではない。天道や阿修羅等、また鬼道の衆生も含む。

六道は天界も含みます。天界は良い所だと勘違いしている者がいるが、実は天界でも罪苦がある。なぜなら、天界の衆生も輪廻があるからだ。それに、天界の輪廻は我々人よりも苦しい。なぜなら天界は皆神通があり、自分がいつ死ぬのか知っているからだ。なぜ皆癌を怖がるのか?なぜなら医者が癌と診断した時、必ずあなたに、後2年、後数ヶ月の命と余命宣告されるからだ。まだ死んでもいないのに、とても恐怖を感じる、それは自分が後どれくらいの命か分かるからだ。あなたには、高血圧や心臓病を患っているにも関わらず、どうして怖がらないのか。なぜならそれらの症状では、医者は余命宣告が出来ないからだ。癌はあなたを死ぬまで恐怖に陥れる。あなたは癌で死ぬ事を恐れ、一日中あれやこれやと手術をする。ある日誰かが、早めに手術をしていたら、後5年は生きられたのにと言っていた。だが、手術後の生活はいいか?いや悪い。

天道の輪廻はどうして我々よりも苦なのか。それは神通があるからだ。天界が終了したら、98%の確率で先に地獄へ落ちる。どうしてだ?天界へ行けた衆生は少なからずまだ、悪業が残っている。福を使い終えれば、必ず地獄へ堕ちる。第二に、天道の衆生は皆死ぬ前に、身体から自然と異臭を放つ。第三に、天道の衆生の衣服、天衣は思えば手に入る。我々のように、目録を見て、試着して、作ってもらう等、手間をかけない。天道の衆生が死ぬ前には天衣が壊れる。天道の衆生は、頭の上に花を挿し、死ぬ前に花は枯れる。たとえ、彼が神通を使い、花を新しくしようとも、同じように枯れる。天道の衆生の頭の上に挿す花は、福報の現われである。だから、あなたがもし、次の一世で容姿を気にするなら、多くの花を仏や菩薩に供養するといい。もし、多くの花を仏菩薩に供養すれば、あなたの次の一世の顔形はは必ず良いものとなる。自分の農場でなければ、山で摘んだ花ではならない。お金で買うのだ、幾らかは重要ではない。一輪の花で十分だ。天道は衆生が死ぬ前に、花が枯れる事以外では、どんなに髪を梳いても、髪はくずれ、ぼさぼさになる。

更に、彼の眷属は皆彼から離れる。それは皆彼が亡くなると知っているので、構わなくなるのだ。だから、天道にいる衆生は我々よりも、死ぬ前苦である。人道にいる衆生は、いつ自分の息が絶えるか分からないし、自分がどれくらい生きれるかも分からない。その為、生きていくのがそれ程苦ではない。人道の衆生は自分がどこへ行くのかも分からないので、生きている間は何も怖くない。息が途絶えた後から怖くなるのだ。だから仏は我々に、天界へ往かない事を勧める。例え天界へ行っても、輪廻はあるのだから。

経典:「汝が名を聞かん者、汝が形を見ん者、汝が恋慕せん者、汝を讃嘆せん者、この諸の衆生、無上道において、必ず退転せず。つねに人天に生じて、具に妙楽を受け、因果まさに熟せんとして、仏の授記に遇う。」

観世音菩薩の名前を聴き、観世音菩薩の仏像を見て、ひたすら観世音菩薩の法門を修めたいと希望し、絶えず観世音菩薩の功徳を讃嘆する。衆生はこのようにするべきで、単に観世音菩薩の仏像を見て、拝めばいい、と言うわけではない。「無上道において。」あなたが縁合って観世音菩薩の像を見る事が出来て、観世音菩薩の名前を称賛しても、やはり仏法は修めなければならない。無上道は輪廻解脱の仏法である。12年に一度開帳される廚子で、あなたが観世音菩薩の像を見たといい、あなたが輪廻から解脱できるわけではない。もし、そのような事があれば、「無上道において」とは言わない。「必ず退転せず」絶対に輪廻に戻ることはない。

「つねに人天に生じて」たとえ、あなたが仏果を修める心算りがなくても、あなたが地獄、餓鬼、蓄生道へ堕ちることは決してない。「具に妙楽を受け、因果まさに熟せんとして、仏の授記に遇う。」一切の良い事を堪能すること。あなたの修行の因果が熟す頃、仏からあなたが、未来で一体何をするのかを授記されることだろう。これらの言葉があなた達に伝えたい事は、あなたが観世音菩薩等に会えて、無上道を修めれば、必ず退転することはない。あなたがどの一世であっても、退転せず、必ず因縁あってあなたは修行、並びに仏法を学ぶことが出来るのだ。たとえ、一世挟んだとしても退転することはない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、その内の一人であろう。なぜならこの一世で、何故だか仏を学び始めたからだ。あなたが仏に成る前は、地獄へ行くことも、餓鬼、蓄生の道へ行くこともない。必ず人道天道で修行をし続け、更に修行の過程では、苦が少ない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一生、苦は多かったが、食べる物がなかったり、住む家がなかったりするまでの苦はなかった。これも、過去に植えた種が原因である。あなたが修めた一切の善因の果報が熟す頃、仏は授記し、あなたが未来にどこまでの果位を証するのか予言するであろう。

経典:「汝いま大慈悲を具にして、衆生及び天龍、八部を憐愍して吾が地蔵菩薩の不思議利益の事を宣説せんことを聴かんとす。汝当に諦かに聴くべし。吾今之を説かん。観世音の言さく。唯然り世尊、願楽して聞かんと欲す」

今日あなたが観世音菩薩の法門を修める際は、このような感じでいいが、やはり観世音菩薩は大慈悲を具えている。何故だ?それは、各衆生と、各尊菩薩の縁が違うからである。ある人は観世音菩薩を修めるのが好き、又は地蔵菩薩を修めるのが縁である等皆それぞれだ。観世音菩薩は大いなる功徳で衆生を利益するが、仏はやはり観世音菩薩が本当に慈悲であると讃嘆する。観世音菩薩や諸大菩薩は、我々と違い、これは私の弟子である、全ては私のである、これもあれも私のであるという心がない。観世音菩薩と縁をそれ程具えていない衆生に対しても、観世音菩薩は彼らと地蔵菩薩が縁がある可能性があるとみて、これらの衆生を助け、衆生がこの仏の開示の一段落を聞き、地蔵菩薩法門を修め始めるよう希望する。

「吾が地蔵菩薩の不思議利益の事を宣説せんことを聴かんとす。」今日私が話すのは、地蔵菩薩が衆生に利益した不可思議な事である。「汝当に諦かに聴くべし。」これは、観世音菩薩に聞かせる言葉である。今日私が話す事を、そなた観世音菩薩は聞き流すではない、必ず入定し、しっかり聞くのだ。そうすれば、今後観世音菩薩は他の者に話して聞かせる事が出来るのだから。「吾今之を説かん。」釋迦牟尼仏は、では今言おう、と言った。

「観世音の言さく。唯然り世尊、願楽して聞かんと欲す。」観世音菩薩はこう言いました、私は今快く、又楽しく仏の話を聞くける、と。何故楽しく、快くなのか?それは観世音菩薩にどの法門を修めるかを説き、聞かせるのではないからだ。仏は観世音菩薩に、あなたはこれから話す事をしっかり聞き、ちゃんと聞き入れる事、この事を覚えておくように、と伝えた。それは、今後は衆生を助ける際、或は衆生は地蔵菩薩と縁があるかも知れないが、あなたはこの話をするのだ。観世音菩薩はこのような話を聞けて、とても喜んだ、なぜなら、こうする事で、もう一つの法門が開き、より多くの衆生を助けることが出来るから、喜んで仏の話を聞くのだ。あなた達が考えるような、仏法を聞くのは自分がよくなる為、自分の為に修めるではない。観世音菩薩が仏法を聞くのは衆生の為である。だから、前に衆生を憐れむと言ったのだ。あなた達は、自分を憐れまず、上師でさえも憐れまない。あなた達は、何が何でも全てを欲しがり、得られなければ不機嫌になる。自分は法会に参加したのだから、あなたははっきり説明するのだ、私は全てを、理解したい、と。あなた達は何を偉そうに、全てを理解すると言うのか。リンチェンドルジェ・リンポチェでさえ、自ら全てを理解できるとは言い切らないのに。どの一言にも、仏法の奥深い意味が含めれている。

経典:「仏、観世音菩薩に告玉く。未来現在諸の世界の中、天人ありて。天福を受け尽くして、五衰の相現ずることあり。或は悪道に堕するものあらんに。」

仏はここで天人の事を話す。仏はまず観世音菩薩に、未来現在全ての世界に於いて、天人がいる事を教えた。しっかり聞くのだ、天人である、だから蓄生が天に昇ることなどありえない。あなた達は生きている際に、犬や猫を飼って、彼らの事を自分の息子や娘など呼ぶ。だが、犬や猫は天に昇れない、そしてあなた達が彼らの親になれば、あなたも天に昇れないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も多くの者に、犬を人として見るな、犬は犬なのだと教えている。あなたはこの世で、自分の飼っている犬や猫を人として見てはいけない、来世ならいいが、今世はだめなのだ。いつまでも、この犬や猫は私の息子なのだとでたらめを言うな。あなたは、彼らの為に、すぐさま犬になり、犬の子を連れて、路上を走り回ることができるか?もし、出来ぬのなら、どうしてそう毎日ペットの事を息子や娘と言うのだ?又、毛むくじゃらの子供です、と可愛がっている。もし、本当に毛むくじゃらの子供が生まれたら、すぐさま新聞に載るであろう。一種の奇妙な観念思想が世界を混乱させているのだ。

「天人ありて。天福を受け尽くして、五衰の相現ずることあり。」彼が天で幸福を享受する。彼が天福を使い切ると、五衰の相が現れる、この部分は前回で話した通りだ。「或有墮於惡道之者。」悪道に堕ちる機会は多きいか?大きい。悪道とは、地獄、餓鬼、蓄生道である。

経典:「是の如き天人、若くは男、若しは女、現相の時に当りて、あるいは地蔵菩薩の形像を見、或は地蔵菩薩の名を聞いて、一瞻、一礼せば、是の諸の天人、うたた天福を増して大快楽を受け、永く三悪道の報に堕せず。」

天人には男も女もいる、男だけ、女だけというのはなく、男女共に存在するのだ。我々が現在欲界天に住んでいる、他にも我々が今まで拝んできた天からの神様も含めてだ。この欲界天では、まだ男女の関係がある。手を繋ぐだけで、事が完成する。色界天では、お互いに微笑むだけで、事が済むのだ。どうして、地球上で、女性があなたに対して微笑むと、あなたは彼女が自分に好意があると思うのか?それにはちゃんと原因があったのだ。無色界天には、このような事はない。しかし、禅を修行をする者は、必ず無色界天にいなければならない。禅を修行をする者は、今の世で必ず男女の欲を切らなければならない、そうする事で、無色界天に辿り着けるのだ。

天道の人は、我々と違って神通がある。彼らが、地蔵菩薩との縁が生れた時、彼らの持つ力は、我々と違う。我々には神通がなく、ただ適当に拝んで、唱えて、話を聞く。もし、求めているものが得られなかったら、もう信じないと言う。「一瞻、一礼。」一目見て、一礼をする。一目見て、一礼をする、我々の二三回拝んで終わるのと違う。ここにはっきりと説かれている天人だけがこの資格を持ち、この様な事を得る福報を持つ。もしも五哀相が現れる前に、因縁あって地蔵王菩薩の像を拝見し、地蔵菩薩の名前を聞けばである。地蔵菩薩の名前を聞いたとしても、「一瞻、一礼。」唱えては、拝む。「南・無・大願・地・蔵・王・菩・薩」一字一礼をすることだ。我々の如く、一口に速く唱えてしまうのではない。力強く大声で唱えるのが好きな弟子とは違う、力強く唱えれば良いというものではないのだ。

「大快楽を受け、永く三悪道の報に堕せず。」大快楽を受けるのは、この天人が自分は三悪道へ堕ちることがないと分かっているからだ。

経典:「いかに況や菩薩を見聞して、諸の香華、衣服、飲食、宝貝、瓔珞を以って、布施供養せば、獲るところの功徳福利、無量無辺ならん。」

「いかに況や菩薩を見聞して。」我々は「見る」と「聞く」を分けて説明する。我々が今、菩薩に会えないのは、菩薩の果位を修めていないので、菩薩を見る事も聞くこともできない。この段落が我々に伝えたいのは、もしあなたが午前中に行ったような密法を修めるなら、観想を透して恭しく地蔵菩薩を迎えるのだ。地蔵菩薩が来られた後、我々は菩薩を見聞することが出来る。我々はなぜ呪文を唱えるのか?これは本尊の願力、慈悲、功徳、事業である、我々が本尊の呪文を唱えれば、それは本尊が我々に仏法を説いているのを聞くのと同じことである。

「諸の香華、衣服、飲食、宝貝、瓔珞を以って、布施供養せば。」この状況の下、我々は一切の良い花、衣服、飲食、宝や瓔珞を以って供養して、始めてする事が、役に立つのだ。では、我々が日々供養しているのは役に立たない、と?いや、役に立つ、だが得られる福利が小さいのだ。どうして突然見聞というのか?唱えれば得られるのではないか?それは仏法を修める方面のことだ。

経典:「復次に観世音、若し未来現在、諸の世界の中、六道の衆生、命終時に臨で、地蔵菩薩の名を聞くことを得て、一声耳根に歴れば、是の諸の衆生永く三悪道の苦を歴ず。」

仏は観世音菩薩に、未来現在全ての世界の六道衆生は「命終時に臨で。」とは、死に際で、未だ息絶えていなく、彼の意識が未だはっきりしている時である。多くの者は、それは彼が昏睡状態の時、医者が彼は明日死ぬと予告された時の今日話すのだと勘違いしているが、違う。医者が手遅れだ、後は時間の問題だといった時が「命終時に臨む」時である。だが、人は自分の死を信じない、最後の1秒まで希望を持つ。我々が自分の命の終わりを知った時、「地蔵菩薩の名を聞く」べきだ。録音器を彼の傍に置いて絶えず唱え、彼が聞こえるまで、聞かせ続けようと考えるでない。これは必ず、誰かが唱えて聞かせなければならないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前こんな事を話した、それは家族が唱えれば、聞く側の心に比較的懇切に伝わるし、或はリンチェンドルジェ・リンポチェ程のレベルの人が唱えるのでなければ用を成さない。

地蔵菩薩を修め続けた人が唱えるのは、一般の方法とは違う。唱えると、あるパワーが出てきて、この音波だと直接患者に届く、死に掛けているこの人の耳元に届くのだ。右から左に流すのではなく、直接患者の意識の中へと入るのだ。どうやったのか?それは常日頃閉関をし、呪文を唱えている力なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが唱える呪文とあなた達が唱えるのとでは違う。それは、あなた達がよく分かるだろう。この力はパワーはどこから来たのか?この力は修行の過程の中で修め得たのだ。この様に仏の御名を唱えて、初めて命が絶えんとする者にはっきり聞こえる。あなた達が言う「お母さん、しっかり聞いて、地蔵菩薩。」などの声ではない。彼女は既に意識を失っているのに、どうやって聞けと言っているのだ?このような状況を避ける為に、一番良いのは病気になった時に言う事、死んでから言うのではない。

「是の諸の衆生永く三悪道の苦を歴ず。」たった一人、善知識が命の終わりに臨面している者の前で、地蔵王菩薩の聖号を唱える、そして命の終わりに臨面した者が懺悔心を起こし、一切全てを捨て、この聖号を聞き入れたら、その者は三悪道に堕ちることはない。

経典:「何か況や、臨命終の時、父母眷属、この命終人の、舎宅財物宝貝衣服をもて、地蔵形像を塑画し、あるいは病人をして、未だ終らざる時、或は眼耳に見聞せしめて、眷属の、舎宅宝貝等を以て、その自身の為に、地蔵菩薩の形像を塑画すと道ことを知らしむれば。」

死を目の前にした人の両親であろうと、眷属であろうと、もうすぐ亡くなる人の財産、家、衣服や、一番好きなものを売り払い、そのお金で地蔵王菩薩の像を一尊造る。もし病人が未だ死ぬ前で、目で見る事も話しを聞く事も出来れば、眷属が彼の為に何をするのかが分かる。それを行うのは、とても難しいことである。本来なら、死ぬ直前の人に、私はあなたの家を売って、地蔵菩薩の像を一尊造ると言えば、彼はすぐさま飛び上がるであろう。このような事は、普段から行っている。あなたの両親や眷属も常に法会に参加し続け、仏法を聞いていたら、たとえ彼が日頃そこまで熱心に法を修めていなくても、触れていたので、あなた達が彼の為にする事を受け入れることができるだろう。さもなければ、あなたが「お父さん!私は貴方の家を売って仏像を造ろうと思います。」等と言えば、彼は飛び上がってあなたを叩きのめすだろう。これは臨時に行うのではなく、前から必ず因縁を造るのが大事だ。

多くの人は自分の母の病について、求めます。リンチェンドルジェ・リンポチェは相手に:どうしてあなたの母はこちらに来ないのか?と問うと:母は今病院にいる、と返ってくる。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に、「どうしてあなたは、あなたの母親と仏菩薩の縁を取繕うとしないのか?」縁が無ければ、助けたくてもできない。だが、それでも彼は耳を貸さず、不本意でもある。それは日頃から培っているのである。どうして、あなた達に日頃から供養をするようにと伝えているのか?日頃から供養の心を持つ事で、あなたの命が終わりを迎える頃、誰かがあなたの為に地蔵菩薩の像を一尊造るとしても、あなたはそれを受け入れることができる。もし、あなたの好きな指輪を売ると言ったら、あなたはきっと惜しんで売らず、身につけて亡くなりたいと思うだろう。あなたはきっと惜しむ、惜しむのなら、これらの事は起こらない。

経典:「是に人若し是業報にして、まさに重病を受くべきものならんも、斯の功徳を承て、尋で即ち除愈して、寿命増益せん。」

重病を持つ人は、供養等何も行ってないのに、跪き求めることで、病気がなくなる事があるとでも思うのか?たとえリンチェンドルジェ・リンポチェが、どんなに慈悲深く、強力なパワーも持つとしても、あなたに一時少しだけ病が和らぐ事しかできない。ある重病を持つ者が、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持後、その者にこの一週間は病が和らぐだろう、和らいだ際にまた来るように、と伝えた。どうしてこのように言うのか?それは、彼らにリンチェンドルジェ・リンポチェの凄さを知らせる為であり、また叱る為だ。何を叱るのか?あなたは懺悔もせず、仏を学ばないのに、病を治したいだと?これは地蔵菩薩でも、このようにする。重病人はこのような目に会って、始めて良くなる機会を得られるのだ。あなた達が癌の病に陥った時、跪き、唱えるだけで治るとでも?そのような事がある訳がない。

仏経は我々に多くの事を教えてくれるのだが、我々は無視している。皆計算がづくで、いつでも計算できるよう、算盤を腰にぶらさげている。挙句の果てには自分の命までも算盤にのせてしまう。これは、あなたに供養させる為でない、実際はリンポチェに供養するのは、絶対的にあなたに良いのだ。もし、我々が生きている時、修行者に供養することを惜しむなら、死ぬ時、眷属があなたに代わって供養するのを、あなたは受け入れないであろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような出来事を多々見てきた、「尋で即ち除愈して、寿命増益せん。」こうすれば、あなたの命がまだあれば、病はすぐ良くなる。しかも寿命は延びる。多くの人は病に犯されても、供養する考えを起す丈で、彼等は良くなったのだ。

経典:「是の人若しこれ業報にして、命尽きて、まさに一切の罪障業障あるべくして、悪趣に堕すべきものならんも、斯の功徳を承けて、命終の後、即人天に生じて、勝妙の楽を受け、一切の罪障、悉くみな消滅せん。」

なぜなら、あなたが仏菩薩に供養する、この功徳はあなたが受けるべき果報を一時的に押さえる効果がある、だがそれは果報が消えて無くなる訳ではない。あなたが三悪道に堕ちるであろう果報を一先ず止める事である。前に話した通り、善知識は、あなたの前に立ちはだかる障害を防ぐのだ。「勝妙の楽を受け」あなたは一からやり直し、初めから修行をする。罪障はあなたが修行する際に起こる障害だが、それを消滅させるのである。ただ、消滅といっても果報が消滅するのではない。あなたが修行をしなければ、たとえあなたの為に障害を消滅させたとしても、果報はやはり出てくる。重要なのは、我々が罪障業障を取り除き、あなたは人天に生まれ、あなたの修行への障害も消滅させたとしても、あなた自身が修めなければ、あなたは又後戻りするであろう。

前半では、因果について説き、後半では因果ではなく、業障、罪障を説いている。「障」とは我々が修行したり、仏法の話を聞く際に起きる障害である。障害になるのは人とは限らない、例えばあなたがふと心に出てきた考え、今日は行きたくないとか朝起きた時にふと心に過ぎったのが、午前では行かないで、午後から行けばいい。とかいう考えは全てあなたの障害である。

経典:「復つぎに観世音菩薩、若し未来世に男子女人ありて、或は乳哺の時、或は三歳、五歳、十歳己下、父母を亡失し、および兄弟姉妹を亡失せんに、是の人年すでに長大にして、父母および諸の眷属を思憶するに、何れの趣に落在し、何れの世界に生じ、何れの天中に生ずという事を知らず。」

多くの者が自分の両親はどこへ行ったのか?と問うが、あなたが問えば、答えが返ってくるとでも思うのか?ここでは、釈迦牟尼仏がお叱りをする。この未来世に男性女性が赤子の頃、もしくは3歳5歳、10歳以下で、10歳過ぎる前に両親は皆亡くなったり、兄弟姉妹でさえも亡くなったとする。彼らが大きくなった時、両親や全ての眷属を懐かしく思うが、彼らがどのような場所で、どの世界にいるかも分からず、天中に居るのではないかとさえ予想する。

経典:「是の人若し能く地蔵菩薩の形像を塑画し、乃至名を聞いて、一瞻一礼すること。」

これら亡くなった人の両親及び眷属は、お金を出し、地蔵菩薩形像を彫り描くことが出来る。どうして仏寺を建てる事が最大の功徳なのか?それは、仏寺を建てる際、必ず形像を彫り描くからである。あなた達に今仏像を一尊造るのは難しい事であろう。なぜなら、ほとんどが商人を透して仏像を一尊買って帰るからである。仏経には地蔵王菩薩の形像を彫り描く際に、以下二つの方法がある。:一つはあなたがお金を出し、傍で完成するのを見届ける事;もう一つはあなたがお金を出し、人を雇って一緒に作業をする事、我々に出来るだろうか?いや、出来ない。なぜなら、あなた達には時間もないし、汚れるのを嫌がり、苦しい事を怖がる、だからあなた達は、商人を探し、その物を買って持ち帰るのである。

どうして仏寺を建てると、功徳が大きいのか?なぜなら、上師は必ず仏寺、衆生の因縁によって匠を探すのだ。適当に探した一尊を見て、好きだと、厳しい顔している、等で家に持ち帰ろうというのではない。上師が見る仏像と我々の見るような、この尊仏像は威厳があって気高い顔をしているかどうかを見るのとは違う。第一に如法であるかないか、各仏や菩薩はどのよな様子であるかは、仏経の中ではっきり説かれている。たとえば、今日の午前中紹介した、地蔵菩薩の左右の手に持っているものは何か?髪型はどうか?もしこれが分からなければどうする?それでもあなたは買いに行くが、自分がかったのが、果たして正解なのかどうかは分からない。ここではずっと地蔵菩薩を彫り描くと言っているが、買えとは言っていない。仏経をしっかり見なさい。その為、もし修行者がちょうど、それを行っていたのなら、自らも参加するが良い、あなたの役に立つであろう。

我々がこの仏像を造る際、経典では「一瞻一礼。」を絶え間なく繰り返して言う。もし、あなたが恭敬にこの仏像を崇め称えるのならば、一度頂礼をして、また起きて、仰ぎ見て、又頂礼をする。何も構わず何度も拝むのではない。現在多くの人は不共四加行の大礼拝を修める、急いでいる為、只だ拝み続ける、全く瞻仰しない。瞻仰の定義は、観想である。あなたははっきりと目の前に本尊の形像を観想する。仏像、菩薩像はあなたの観想を手助けする丈であり、あなたは心の中に本尊の存在を感じられるかどうかだ。密法を修める時、はっきり本尊が目の前にいる様、観想する。法本の中には、どのように観想するかを形容し、紹介している。観想がはっきりして、初めて瞻仰ができる。この仏像を造るのは、ただ我々人間が物を見る事に慣れてしまった為、あなたに像を造り、自分の目の前に置くと言ったのだ。この尊仏像が重要なのでなく、あなたの心の中に本尊があるかどうかが、最も重要な事である。密法でも教えたが、心の中に地蔵菩薩が一尊あること、もしあなた達の心の中に無ければ、どうやって瞻仰し頂礼を行うことが出来るであろうか?

仏経をここまで説いたが、あなた達はまだ聞いたことがない。どうして多くの人は仏菩薩を拝んでも、効果を得ることが出来ないのか?仏経が間違ったのではなく、修行者が話していないからである。一般の出家人が言ってるだけだ。多くの人は、一目見て拝んで、というのが一瞻一礼であると勘違いするが、そうではない。実際は、仏が菩薩に聞かせた仏法には、必ず密法が中にある。なぜ午前中に密法を先に行ったのか?それは、あなた達に心の中に地蔵菩薩がいるように、と教えるためである。あなた達はこれから上師を地蔵菩薩と見立てることが、あなた達が出来る一瞻一礼である。あなた達には、菩薩を見る資格はない。同類でないのに、あなたが会えるとでも?このような修行の方法が、我々に出来る一瞻一礼である。

経典:「一日より七日に至るまで、初心を退する事なく。」

一日から七日まで、八関斎戒を守らなければならない。八関斎戒とは何か?素食を取ること、お酒は飲んではいけない、男女の関係もだめ、高めのベットも、音楽を聴くことも、香水をつけることや、香りのある石鹸を使ってお風呂に入ることもだめである。どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェは数十年、石鹸を使わずにお風呂へ入るのか?常に閉関を行う為、石鹸を使えば、八関斎戒を破ってしまう。話をしてはならない、これで1日から7日までだ。あなた達が思うような、一日拝み、七日間に拝むのとは違う。八関斎戒は上師が伝えて初めて、あなた達が拝む事ができる。一日どの位拝むのか?八時間以上では止まらない、少なくても12時間以上だ。あなたのこの心が発し始めた際、あなたが自分の眷属がどの場所にいるのか知りたいと思えば、一日二日で拝むのが疲れたといい、それを止めるでない。または六日間も拝んだので、最後の半日くらいいいだろうと、思って休むと、あっという間に無くなってしまう。

経典:「名を聞き形を見て、瞻礼供養せば、是の人の眷属、仮い因業の故に、悪趣に堕する者、計るに当に劫数なるべきも、斯の男女、兄弟、姉妹の地蔵の形像を塑画して、瞻礼する功徳をうけて、尋で即ち解脱して、人天の中に生じて、勝妙の楽を受る者も。」

あなたの兄弟や姉妹が、三悪道へ堕ちようとも、弟子が自分の母を超度するよう求めようと、この段落には、はっきりと説かれている。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に、6万回の大礼拝を行うことが出来た後、母を超度すると。どうしてか?それは、彼が供養をしていないからだ。供養はお金の問題ではなく、供養の心がないと言っているのだ。適当だ。お金さえ出せば、自分の母を超度してもらえると思っているが、あなたの母は、生前素食守戒していないのに、リンチェンドルジェ・リンポチェは、どうやって助けるというのか?福報もないのに、どうやって?だが、子供は母の為に福報を累積することができる。彼の為に節約し、奥さん彼に家を売るように言っても、彼は聴く耳を持たなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、お金に関して固執しているのではない、もしそうならば、今日まであなた達のお金を受け取り、仏寺を建てればいい。ただ彼は供養の心を持って居らず、諸仏菩薩に対しても恭敬心がない。だから、彼を助ける唯一の手は、この6万回仏を拝み福報を積む事でしか、彼の母を超度することはできないのだ。
「尋で即ち解脱して、人天の中に生じて。」超度とは、阿弥陀仏の所へいけることだと思うでない。生前、修行もしたことも、唱えたことも、法の如くでもない者は、超度しても、ただ人道の中や天道の中に生まれるだけだ。「勝妙の楽を受る者も。」もし、三悪道に生まれたとしても、彼がこのようにすれば、また人道や天道に生まれる。我々は人道や天道に生まれれば既に享楽だと思っているが、実際はそうではない。この世間で、真に殊勝に一切を打つ勝つことが出来るのは、仏法だけである。打つ勝つとは、仏法を通して一切を降伏できる。妙楽とは、彼がこの一生仏を修めることで、得る楽は、とても微妙であり、とても殊勝、未来に何か悪い事が発生するか等は、心配しなくても良い。

経典:「是の人の眷属、もし福力ありて、すでに人天に生じて、勝妙の楽をうくるものも、即ち斯の功徳を承けて、転た聖因を増して、無量の楽を受けん。」

もし、この人の眷属が生前福を修めた事があって、パワーがあれば、彼は既に人天に生まれるだろう。なぜなら、この人は眷属の為に一瞻一禮等をし、例え人天道で生まれても、「転た聖因を増して、無量の楽を受けん。」。どうして、超度し終わっても、あなた達に引き続き法会に参列し、仏事をし、素食をし続けるのか?なぜなら、たとえあなたの眷属が超度し、人天道へ行けたとしても、あなたが眷属の為に引き続き手伝わなければ、眷属は転た聖因を増して、無量の楽を受けられないのだ。この一生が終われば、終わってしまう。あなたが、自分の眷属が良くあり続ける事を望むならば、あなたは続けなければならない。
経典:「是の人更に能く三七日のうち、一心に地蔵の形像を瞻礼して、その名字を念ずること、万遍に満たば、当に菩薩、無辺身を現じて。」

この人は21日中であり、3日や7日ではない。もし、3日や7日であれば、1から7日までと言うだろう。彼が三七日というのは、7日が3つ、少なくとも7日が1つ、多くて21日である。地蔵菩薩の聖号を一万遍唱える。釈迦牟尼仏は一万遍をどの位の日にちでとは説いていない。もっとも短期間では毎日唱える、7日内に一万遍唱えるのではない。一度拝んで、一句唱えてを繰り返し、一日に一万遍唱える事が出来ればそれはいい。もし仏をそんなに拝めば死んでしまう恐れれば、21日間にすればいい。
「無辺身」とは、あなたが想像するように、菩薩があなたの目の前に現たり、もしくは出てくるのはあなたが見た事あるような菩薩の様子ではない。地蔵菩薩は先ず、光で一つの形を映し、あなたに菩薩の形像を感じさせる。無辺とは、際限がない事で、あなたが見たこの形像ではなく、我々が見るようなはっきりとした一人の様子でもない。はたまた、このようにはっきりとした一つの机の様子でもないのだ。まるで、本当に存在しているような、そうでないような、あやふやな存在。または、我々が映画で4Dや3Dを観るのと同じ形像が目の前に現れるみたいに、だがこれよりも、もっとあやふやなのだ。これはリンチェンドルジェ・リンポチェの経験だが、あなた達が考えている様に、菩薩は一人の人間が前に立っている様ではないのだ。科学は仏法の存在を証明している。この形像は虚空中に出現し、あなたに見せることができる。科学ではできるが、まだ実在的ではない。無辺身は、はっきりと何処に一つの形像が見えるのではなく、際限があるようでも無いようでもあるのだ。

経典:「具に是の人の、眷属の生界を、告げさせたもうことを得べし。或は夢中において、菩薩大神力を現じて、まのあたり是の人を領して、諸の世界において、諸の眷属を見しめん。」

だから菩薩は現れて、この人にあなたの眷属はどの世界に生まれたかを教えるのだ。前半ではっきり述べたが、あなたが修めず、拝まず、唱えもしないのに、菩薩はあなたの前に現れて教えると思うのか?それはあなたの幻想、又は潜在意識に過ぎない、どれも偽者である。どうしてそれをするのか、それはあなたが、累世に行った悪業を綺麗に片をつけるまで、菩薩はあなたを助ける事が出来ないのだ。これらの方法を通して、あなたが行ってきた悪業が片付き、あなたの障害が停まるのだ。そうすることで、菩薩もあなたの前に現れて、あなたを連れて見せる。あの何とか観等は全部偽者だ、菩薩だけがあなたを連れて見せるのである、他ではありえない。

経典:「更に能く毎日、菩薩の名を念ずること千遍して千日に至らば。」

前に述べた事項を全てしっかり行うこと、供養し、瞻禮する。後は、毎日菩薩の名前を千遍唱えるのだ。千遍とは、自分が時間が空いたときに唱え、時間が無ければ唱えないということではなく、必ず集中して唱え終えるのだ。千日とは3年以上を指す。ある人は何ヶ月唱えただけで、地蔵菩薩を見たというが、それは馬鹿な話だ!またある人は、一週間唱えただけで、自分の背中がぞっとするようになり、もしかして鬼が後ろで聞いているのではないかと言うが、それも的外れだ。鬼があなたの後ろで息をついてるだと?でたらめもいい加減にしなさい。それは映画でしか起こらない場面だ。仏ははっきりと説いた、千日とは3年だ。なのに、あなたはたった何日何ヶ月唱えただけで、仏があなたの前に現れたと言えるのか?どれもでたらめだ。今では出家人までもが、このでたらめを支持し、何ヶ月間唱えただけで、あなたの様子はまさに地蔵菩薩だ、と言う。

経典:「是の人当に菩薩、所在の土地の鬼神を遣わして、身を終わるまで衛護することを得べし。現世には衣食豊溢して、諸の疾苦なく、乃至、横事、その門に入らじ。いかに況や身に及ばんをや。是の人畢竟じて、菩薩の摩頂授記を得ん。」

それをあなたができれば、あなたの住んでいる場所の鬼神はあなたが死ぬまで守り、擁護する。あなたがこの一生必要とする物や食は必ず豊富にある。魚や肉、高級ブランドの服などではなく、あなたが困らない程度である。どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェは以前、ご飯を食べるお金や家賃が払えない程貧乏になっても、一切心配をしたこと無いのか。なぜなら、仏はあなたを飢え死にさせないし、着る服は与えると説いていたからである。リンチェンドルジェ・リンポチェは、多くの人が供養をするとお金が無くなると心配しているのはおかしいと思っている。ここに座っている者皆も同じくそう心配しているだろう。現在、あなた達に同じようにしなさいとは言わないが、当時のリンチェンドルジェ・リンポチェはご飯を食べるお金が無くても飢え死にはしなかったし、家賃を払えるお金がなくても、家を追い出されることは無かった。服を買うお金も無かったけれど、子供は今までに着る服がない、と言った事は無い。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を根拠にこの様に修めているからである。

何故、リンチェンドルジェ・リンポチェがどこかの場所で、一度呪文を唱えると、近くの鬼神達はすぐ分かるのだろうか?それはこの為なのだ。あなたが、この果位まで修める事ができたら、一度呪文を唱えるだけで、付近の鬼神は誰だと集まってくるのだ。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェがある神通定力を修めたら、この鬼神はどこのだれであるかが分かる。これらの鬼神はリンチェンドルチェ・リンポチェが呪文を唱えたことのある土地を守るのだ。もちろん、その人が悪をしているかしていないかを判断する。もしその人が肉を食べ殺生を行っているのなら、鬼神だって逃げよう。あなたはやるべき事を行っていないのに、何の根拠があって保護される?多くの者は鬼を恐れるが、何が恐ろしいのだ?やるべき事をしっかり行えば、鬼神でもあなたを助けるのだ、我々が拝んでいる神様は皆鬼である。

「諸の疾苦なく」我々は重病や変な病にかかる事はない。「その門に入らじ。」災害もあなたの元へはやってこない。午前中、あなた達に何度も言ったが、求めなくていいのだ。やるべき事をしっかりやれば自然と得られる、これは仏経ではっきり説かれている。「いかに況や身に及ばんをや。」ましてあなたの身体に起こるなんて以ての外である。かといって、めちゃくちゃに運転をしてもいいというわけではない。要は、予想外の事はあなたの身に起きないということで、例えるなら、あなたが飛行機に乗ろうと墜落死することは無いという事だ。ある人は飛行機に乗る事が怖いという、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に、私と乗れば飛行機は墜落する事はない、と言った。<普門品>では、あなたがしっかり修める事が出来れば、大火でも焼くこと能わず、と説いている。以前リンチェンドルチェ・リンポチェは自分でアイロンをかけるのが好きだった。ある日、洋服にアイロンをかけた後、コンセントを抜かずに、アイロンをアイロン台に置いて外へ出てしまった。帰ってきてから、その事に気づいた。アイロンは大変熱く、泡が出るほどだったが、アイロン台は涼しく、全く熱くなかった。これがしっかり修めるということなのだ。

多くの人は、求めれば与えてもらえると誤解している。実際はそうではなく、仏法はある一式の方法をあなたに与えるのだ。どうして必ずそれを行わなければならないのか?なぜなら、我々には福報がないからだ。仏法から教わった事をしっかり行わなければ、福報が貯まらず、福報がなければ鬼神もあなたを助けることも、守りにも来ない、何もないのである。「是の人畢竟じて、菩薩の摩頂授記を得ん。」最後に菩薩はあなたの頭を撫で、あなたが今後どの位の果位を得られるかを教えるだろう。

経典:「復つぎに観世音菩薩、若し未来世に、善男子善女人ありて、広大の慈心をおこして、一切衆生を救度せんと欲するもの」

前半では男女といい、善男子善女人とは言っていない。だが、ここでは特に善男子善女人と言っている。それは、あなたは十善法を修め、そしてとても広大な慈悲心を発し、一切衆生を済度することを望むできだからだ。

多くの者がリンチェンドルチェ・リンポチェの前に跪いて、こう言うのだ。「あなたが私の病を治したのなら、私は衆生を助けよう。」これを聞いた途端リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に、十善法も修めていない者がよくそんな事をいえるもんだ、と叱った。あなたはただ、自分の苦痛を除きたいが為に、菩薩に交換条件を出した。菩薩が自分を助けてくれるのなら、自分も衆生を助けようと考えて。だが、そんなことが通用するわけがない。経典にはっきり説かれている、第一条件はあなたが善男子善女人であれば、十善法を修めるべきということ。第二条件はあなたが広大な慈心を発し、自分の良いものと、相手の悪いものを交換し続け、それで一切の衆生を済度すること。

経典:「無上菩提を修せんと欲するもの、三界を出離せんと欲するもの、是の諸人等、地蔵の形像を見、及び名を聞かんもの、至心に帰依し、或るは香華、衣服、宝貝、飲食を以て、供養瞻礼せば、是の善男女等、所願速かに成じて、永く障礙なかならん。」

あなたが仏果まで修めたいのならば、必ずや以下の世界がら離れなければならない、それは欲界天、色界天、無色界天の3つの世界だ。そして、輪廻から離れるのだ。「見地蔵の形像を見、及び名を聞かんもの、至心に帰依し、或るは香華、衣服、宝貝、飲食を以て、供養瞻礼せば。」あなたはこれらの条件を満たしていないのに、何を根拠に衆生を助けるというのか?衆生を助けるには、まず第一条件として善男子善女人であること。第二条件は大きな慈心を備えること。第三の条件はあなたが一切衆生を済度したいと思うことで、決して自分を助ける為ではないことだ。第四の条件は、あなたが仏果を証したいという想いと、輪廻の世間から離れたいと考えなければならない。

「所願速かに成じて。」これらは地蔵菩薩の形像を見て、地蔵菩薩の名前を聞き、先ほど述べた事項を達成すれば、衆生を利益したいという願いも叶うことが出来る。もし、先ほど述べた事項を行っていなければ、たとえあなたが地蔵菩薩を見ても、何の願を発しても何も役にたたない。「永く障礙なかならん」彼が衆生を助けたいのなら、仏法事業上一切の障害はない。

経典:「また次に観世音、若未来世に、善男子善女人ありて、現在未来の、百千万億等の願、百千万億等の事を求めんと欲せば、但当に地蔵菩薩の形像を、帰依し瞻礼し、供養し讃嘆すべし。是の如きの所願所求、悉く皆成就せん。」

善男子善女人は自分の為に求めるのではなく、あらゆる願望は、全て衆生を利益する為である。皈依せず、只聞きに来るだけでは、役に立たない。皈依しなければ、只の信者だが、役に立つのか?役には立つが、仏経が説く数々の出来事はあなたの身に起こらない。ただ、一般の人より少し良いだけだ。なぜなら、信者であれば、少しの福報が得られるからだ。「是の如きの所願所求、悉く皆成就せん。」あなたの一切の願望、一切求める事は、全て衆生の為、自分の為ではないとすれば、皆成就するであろう。
経典:「また地蔵菩薩、大慈悲を具して、永く我を擁護せん事を願わば、この人睡夢の中に於て即ち菩薩の摩頂授記せらるる事を得ん。」

地蔵菩薩は、大慈悲を具えている、永遠に私を守ってくれるのだ。それは、もちろん以前に述べた事項を全て達成した者、夢の中で菩薩摩が頭の上にに印をつけてくれるのだ。もし、あなたが条件を達成していなければ、夢に中で観世音菩薩や地蔵菩薩を見たと言っても、それは偽者である。

経典:「復次に観世音菩薩、若未来世の、善男子善女人、大乗経典に於て、深く珍重を生じ、不思議の心を発して、読んと欲し誦せんと欲するに、縦い明師の、教示して熟せしむるに遇うも、やや得ればやや忘れ、ややもすれば年月を経て、読誦すること能わず。是の善男子等は、宿業障ありて、未だ消徐することを得ざる」

これは因果の事を話している。もし未来に善男子善女人がいて、大乗経典に於いて一私達に、菩薩の道を修めるよう説くのが大乗経典<阿含経>と<雑阿含経>は小乗経典に属する。「深く珍重を生じ。」彼が大乗経典に触れた時、彼の心の中では尊敬心が大いに発し、この経典を熟読し、暗記したいと思うだろう。しかし、たとえ良い上師に出会えて教えて貰えても、教えてもらう傍らで忘れてしまう。どんなに多く覚えようと努力しても熟読できないのである。

この善男子は累世の業障を取り除く事が出来ない。例えば、我々が仏経を聞いた時、あなたが内容を少しでも覚える事が出来れば、それは累世の業が比較的少ないという事だ。また、しっかりと内容を覚える事ができるのなら、それは、あなたの業は本当に少なく、もはや業がないと言っても過言ではない。反対に、全く覚えれ無くて、一文字でさえもはっきりしないのは、あなたがどんなに拝んでも、唱えても、戒を守っても、あなたの業は消えていないということだ。

経典:「ゆえに、大乗び経典に於て、読誦の性なし。是の如きの人、地蔵菩薩の名を聞き、地蔵菩薩の像を見て、具に本心を以て、恭敬し陳白して」

どの菩薩も特定の法門で、我々の業障を除く事を助ける。例えば、一冊の経典を覚えることも、スムーズに読み終えることも出来ない、という状況にあったとしよう。これらの人々は、仏を修めようと発心しても、大乗経典でさえ、読み終えることも、覚えることも出来ない。「具に本心を以て、恭敬し陳白して」誠実な態度で、自らの問題を恭敬心を持って口に出す事できである。ある者は、菩薩は神通力が有るなので、口に出さなくても我々の気持ちが分かるという。菩薩は確かに分かる、だがあなたが恭敬心を持たず、口に出さないのなら、縁が無い。ある者が、リンチェンドルジェ・リンポチェの前に跪くと、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず相手に「何事だ?」と尋ねる。もし、何も言わないなら、縁がない。仏経の中でさえも、包み隠さず陳ずると言う。あなたには、業障も累世の悪業もあるので、恭敬心を持って口に出すのだ。ただ言えば、リンチェンドルチェ・リンポチェは分かってくれると思うでない。そのような言い方だと、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたに「知らん。」と答える。絶対そのように答える、なぜなら、あなたが包み隠さず話さないからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが行っている一切全ては、仏経からで、自分で発明したのではない。あなたに障害があって、相手に助けを求める際、あなたの清浄された本来の姿、何一つ妄念がない本性、はっきりとした、貪念のない、恭敬の態度で包み隠さず陳ずることによって、菩薩はあなたを助けるのだ。

多くの者は口ごもってもごもごと、「私は懺悔します」という。何を懺悔するのだ?と問うても、やはりもごもごとはっきりせず、恭敬心のない返答だ。ある者は、「リンチェンドルジェ・リンポチェは、私が何を懺悔するのか言わずとも知っている」というが、あなたは恭敬を以て、リンチェンドルチェ・リンポチェに述べたのか?どうしてこのような神通の定力を、あなた達の出たらめな話に使わなければならないのだ。どうして陳ずるのか?なぜなら菩薩は定に入っているので、あなたの影響を受けず、世間の様々な変化にも影響されない。あなたが恭敬に話せば、あなたは定の中で雑念がなくなり、菩薩の定力はあなたに触れることができる。もう菩薩の前に跪き、「私は今とても苦しいです。」とだけ言うではない、菩薩はあなたが何に苦しんでいるか分からないのだから。また今後リンチェンドルジェ・リンポチェに「リンポチェは私が何を懺悔するかご存知だ。」と言うでない。もし、跪き、恭敬の姿勢で話さなければ、あなたは永遠に懺悔していない。
経典:「更に香華衣服、飲食一切の玩具を以て菩薩を供養し、浄水一盞を以て。」

玩具は骨董品である、あなたが一番好きな物だ。以前なら我々が弄ぶ玩具といえば、器皿、工具、そして現在で言う骨董宝石装飾品である。「浄水一盞を以て。」浄水は、水道水や今時流行りの濾過水でもない。厳しくいうなら、浄水とは何一つ汚染された事の無い水源から取れた、汚染の汚い水である。水道水や雨水、飲み物などは、どれも駄目だ。菩薩は飲み物を飲まない、飲み物は飲むほど太る。浄水は、清潔な器に盛り、自分でも口につけない。盛った際、この浄水が美味しいと勝手に誰かに飲ましたりしてはいけない。もちろん飲み物用容器も、清潔で汚れた事のない物を使用する。

経典:「一日一夜を経て、菩薩の前に安き、然して後合掌して請服すべし。首を廻らして南に向い、口に入れん時に臨みて、至心鄭重なるべし。水を服すること既に畢りて。」

先ず菩薩像の前に、新鮮なお花と一切の供養物を置く。そして条件として、毎日一千遍唱え、それを一千日できた者が得る事ができる。今日飲み物用容器に浄水を入れ、菩薩の前に1日置いた後、自ら飲んでしまうのは駄目だ。仏はこのように言った「仏法とは一歩一歩進むもので、端折ってはならない。先にどのような事をした後、次にどのようにするのかを説く。」と。

「然して後合掌して請服すべし。」服用は、あなたは菩薩にこの水を飲ませて下さい、とお願いするのだ。多くの台湾人は大悲水を唱え終えると、すぐに「菩薩よ、この水を頂きます。」と飲み干す。だが、そうではなく、菩薩にどうかこの水を私に飲ませて下さいと、あなたは菩薩に恭しくお願いするのだ。「首を廻らして南に向い、口に入れん時に臨みて、至心鄭重なるべし。」どこに居っても、この水をすぐに飲み干したり、菩薩に「私に飲ましてくれ」と言うのではない。この水を飲む前に、菩薩に恭しく「私に飲ませてください」、とお願いするのだ。これを、あなたは心を込めて一口一口飲むのだ。急いではならない。一口一口しっかり味わい、一口飲む度に菩薩の聖号を唱える。そうする事で、妄念がなくなる。我々が妄念の存在をなくす事は、不可能だが、菩薩の聖号をその妄念の代わりに頭の中をいっぱいにするのだ。「鄭重」、これは薬よりも重要なもので、丁寧に飲まなければならない。どこかにこぼしたり、あちらこちらに水滴を落す等、一切してはならない。

経典:「五辛、酒肉、邪淫、妄語、及び諸の殺害を慎むこと、一七日。或は三七日せば、是の善男子、善女人、睡夢の中に於て、具に地蔵菩薩の、無辺身を現じて、是の人の処において、灌頂水をさずけたもうことを見ん。其の人夢さめて、即ち聡明を獲ん。」

戒めを守らずに、その水を飲めると思うのか?必ず五辛(葱、大蒜、韮等)絶対に食べてはならない、断ち切るのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは一日中閉関し、呪文を唱える者なので、尚更それらに触れてはならず、お酒を飲んだり、肉を食べてはならない。邪淫の定義は夫のいる妻、未成年者、強姦、泥酔状態にする、彼氏持ちの人等との不正な性行為は全て邪淫である。妄語とは、出たら目を言う事だ。

その水を飲み終えたら、あなたは一切衆生を傷つけてはならない。どんなに小さい虫であろうと駄目だ。肉食の人はこれにあずかる事はもうない。7日か21日、この善男子善女人は夢の中で地蔵菩薩が、無辺身を現し、1つの寶瓶を持ち、あなたの頭の上に灌水するを見る。目覚めた時、その人は聡明を得ることが出来る。

経典:「まさに是の経典、一たび耳根に歴れば、即ち永く記して、さらに一句一偈を忘失せざるべし。」

彼はこの経を聞いただけで、永遠に記憶する。この点から分かるよう、我々がどんなに仏経をはっきり覚えたくても、多くの様々な修行を経験しなければならない。あなた達が簡単に欲しいと言って、それで得れるものではない。あなたが、仏経を覚えていなければ、必ず道を外す。リンチェンドルジェ・リンポチェは道を一切間違えた事はない。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏経の内容を覚えているからだ。仏経に書かれている一句一句を全て覚えていなくとも、内容は全て覚えている。これが以前修行してきた成果である。たとえば、この一生で仏経、もしくは上師が説いた内容を全て忘れたのなら、それはあなたの業が重いという事だ。業障が重く深いのは、上師とは関係ない。上師の発音が良くない等は言い訳に過ぎない。リンチェンドルジェ・リンポチェの広東語国語は台湾式国語より標準的だ。7-8割しか聞き取れなかったのは、あなたの業障が重いせいだ。直貢チェツァン法王はチベット語の考えを英語に直して、英語から中国語に翻訳し、リンチェンドルジェ・リンポチェに伝えたのだ。チベット語の文法と中国語の文法は真逆だ、だがどうしてリンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王が話した事を理解できたのか?つまり、今日この開示で述べた仏法を理解出来なかった者は全て自分自身に問題がある。

経典:「復次に観世音菩薩、若し未来世に、諸人等ありて、衣食足らず。求むることは願いに乖き、あるいは病疾おおく、あるいは凶衰おおくして、家宅安からず。眷属分散し、あるいは諸の横事多く来たりて、身に忤い、睡夢のあいだ、おおく驚怖することあらんに。」

あなた達は今供養をしないのは、衣服や食べ物が不足しているせいにする。「求むることは願いに乖き。」あなたが求めるものも叶わない。多くの病に侵され、多くの凶衰を持つ。「家宅安からず、眷属分散し。」家ではよく喧嘩をし、眷族は離れ離れになり、離婚等事が及ぶ。「あるいは諸の横事多く来たりて。」あなたの身に起こるはずのない出来事も降りかかってくる。「身に忤い。」元々あなたには関係の無かった出来事が、あなたと関係してくる。このような意味不明な事が、供養をしない者の身に起こるのだ。「睡夢のあいだ、おおく驚怖することあらんに。」よく悪夢を見る、人に追いかけらたり、殺害されたり等、自分の身に何かが起こるのを夢で見るのだ。

経典:「かくの如きの人等、地蔵の名を聞き、地蔵の形を見て、至心に恭敬し、念じて万遍に満たば、是の諸の不如意の事、漸々に消滅して、即ち安楽を得て、衣食豊溢し、乃至睡夢の中も、悉く皆安楽ならん。」

これらの人々は、必ず地蔵菩薩の名前を聞き、地蔵菩薩の形像を見なければならない。「至心に恭敬し、念じて万遍に満たば。」必ず、十善法を修め、素食し、恭敬心を持って、仏像の前で一万遍唱えるのだ。「是の諸の不如意の事、漸々に消滅して。」そうする事で、先ほど述べた不如意な事が少しずつ無くなる。すぐに一瞬でなくなったりする訳ではない。もし、あなたが一万遍唱え終えても、まだ不如意な事が続くと思っているなら、それは恭敬心のない考えである。また、「何でまだ不如く意な事が起こるの?」と思うのも恭敬心がない現われだ。仏経でも説かれている通り、徐々に消滅するのであって、それ程厳重でない事ならば、少しは発生するもので、一気に全てが無くなるわけではない。「乃至睡夢の中も、悉く皆安楽ならん。」何故皈依し、呪文を唱えれば、仕事が無くなることもなく、悪夢も少なくなるのは、全て修行と関係している。

経典:「復次に観世音菩薩、若し未来世に善男子善女人ありて、或は治生に因り、或は公私に因り、或は生死に因り、或は急事に因りて、山林の中に入り、河海および大水を過ぎわたり、或は険道を経んに、是の人先ずまさに地蔵菩薩の名を念ずること万遍すべし。過ぎる所の土地、鬼神、行往坐臥を衛護して、永く安楽を保たん。」

将来私達は、生活の為、会社の為、生死に関わる重要な事情の為に山奥や林の中に出掛ける事があるかもしれない。だが山奥や林の中は、多くの鬼魅魍魎や鬼神がいる。あなたは河や海を渡り、危険な道を通るかもしれない。そこを通る前に、この人が地蔵菩薩の聖号を一万遍唱えれば、外の土地、「鬼神、行往坐臥を衛護して、永く安楽を保たん。」つまり、あなたが、前に述べた事項を全て達成することができていれば、臨時にこのような危険な場所へ行く際でも、行く前にに地蔵菩薩の聖号を一万遍唱えると問題ない。もちろん、事前に全て行う事が重要で、行っていなければ役に立たない。一万遍唱えたら、本来死ぬはずだったあなたの命も、腕一本折れるだけで済むかもしれない。たとえその危険な所で、座ったり、寝たりしても安全である。

経典:「乃至虎狼獅子、一切の毒害に逢うも、之を損ずること能わず。」

ましてや虎、狼、獅子、一切毒のある虫や蛇が、あなたを傷つける事はない。どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェはネパールの北部4500mもあるラプチ雪山に閉関修行を行えたのか?その原因の一つ目は、直貢チェツァン法王が連れたから。二つ目は、先ほど述べた条件を全てリンチェンドルジェ・リンポチェは行っていたからである。その雪山には毒虫はいなかったのか?いいや、居たとも!夜になれば蜘蛛が部屋中に吊下がって、行ったり着たりしている。何十匹の蜘蛛も、どれも毒をもっている。ある日、寝ていたら首が痒かったので、掻いてみると、大きな毛虫を捕まえたのだ。その毛虫の毛は毒を持ち、皮膚を爬い渡ればそこが腫れる程の毒だ。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは無事だった、一切守られていたのだ。

経典:「仏、観世音菩薩に告ぐ。是の地蔵菩薩は、閻浮提に於て、大因縁あり。若し諸の衆生に於て、見聞利益する等の事を説かば、百千劫の中に説くとも、尽くすこと能わず。是の故に観世音、汝、神力を以て、是の経を流布し、娑婆世界の衆生をして百千万劫に、永く安楽を受けしめよ。」

仏は観世音菩薩にこう言った。地蔵菩薩と地球は大因縁があると。そして地蔵菩薩が数々の衆生を利益するのを見たり、聴いたりして、その事を話すと時間をかけたとしても、話し終わらないのだ。観世音菩薩は釈迦牟尼仏から、自身の神力でこの経を世間に広めるよう指示された。今日あなた達が聴いた、この一冊の経本も、観世音菩薩の神力だ。リンチェンドルジェ・リンポチェの本尊は観世音菩薩である。「娑婆世界」は銀河系全部を指している、どんなに時間がかかっても、この経を聴き、この経がまだ世に広まっていれば、これらの衆生が皆、安楽になれる機会がある。

経典:「その時、世尊、而も、偈を説いて言わく。われ地蔵の威神力を観ずるに、恒河沙劫に説くとも尽し難し。見聞瞻礼すること一念のあいだもせば、人天を利益する無量の事あらん。若くは男若くは女若くは龍神、報尽きてまさに悪道に堕すべきも、至心に大士の身に帰依せば。」

釈迦牟尼仏は重ねてこの段落を加え、再度我々に地蔵菩薩のこの一品の話をした。観とは、ただの眼で見るのではなく、仏の法眼、慧眼、仏眼で見るのだ。地蔵菩薩の威神の力、「恒河沙劫に説くとも尽し難し。」釈迦牟尼仏はインドで生まれ、インドで仏を広めた。インド人は皆恒河とは何かを知っている。恒河の沙のように多い地蔵菩薩の威神の力は語りきれない程だ。「見聞瞻礼すること一念のあいだもせば、人天を利益する無量の事あらん。」ただ地蔵菩薩を見て、聴いて、瞻禮すれば、一念の間に、人天無数の事に利益する。「若くは男若くは女若くは龍神、報尽きてまさに悪道に堕すべきも、至心に大士の身に帰依せば。寿命転た増して罪障を除かん。」我々が生前、地蔵菩薩へ皈依したら、たとえ、あなたが悪道に堕ちる機会があり、又は、堕ちると決まっても、あなたの寿命を変え増やし、一切の罪障を除き、あなたが三悪道に堕ちいるのを阻止する。

今日の開示はここまでだ。あなた達も疲れただろう、また次の機会に話そう。我々は今日地蔵菩薩を修めても、観世音菩薩を修めても好い、この2尊菩薩は互いに通じている。観世音菩薩は<地蔵経>を広める事を手伝っているからである。だから、我々は六字大明呪文と地蔵菩薩を唱え得た功徳は同じである。なぜなら、釈迦牟尼仏がこの2尊の大菩薩が法の友一法界の友達であるよういいつけたからだ。今日我々が聴いたのは<地蔵経>、又、顕密も並びに修めることができた。どれも累世の因縁である。皆、この貴重な経験を大事するように。

回向を修めた後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは続けてこう開示した。これらの祈請文を皆に伝えよう。あなた達に役立つ事だ。以下の事柄に出会った際、地蔵菩薩の名前を思い浮かべよ。あなたの一切煩悩、それは不正解な仏法の概念、飢餓、瘟疫、戦争、懶惰、猶豫。懶惰と猶豫はあなた達の事を言っている。懶惰、忙しいや時間が無いといういい訳を使うこと。猶豫、時間がある時にでもいいかな?このように供養したらいいのかな?と迷うこと。遺忘、上師が述べたことを全て忘れてしまう等。これらは、我々の一切善業を邪魔するものだ。供養をしない、又はゆっくり供養すればいい等の考えは、自分の業障が重いのと、善行を行う福報が無いからだ。どうして、一日中地蔵菩薩を修めるのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェの業障が重い、多くの業障が重い弟子を取っていて、これらの弟子は皆それぞれの考えを持っているからだ。地蔵菩薩は彼の禅定を通して、我々を助けて下さっている。我々に戒めを守らせ、禅定、機会を増やす、これらは、地蔵菩薩の法本の後ろに唱えられている吉祥文である。今日の地蔵菩薩を修めは一切円満終了した。

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2017 年 10 月 29 日 更新