尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示– 2017年5月14日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上り、会場の大衆に貴き仏法の開示を賜れた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは信者弟子を引率して観音法門を修め、《普門品》を開示された。

先週は「諸の苦悩を受んに」とまで開示した、一切有情の衆生全てには八種の苦がある:生・老・病・死・怨憎会・愛別離・求不得・五陰盛苦。

ある人は、出生は苦しくない、子供を産む事は嬉しい事ではないかと思う。これは両親の角度からの会得だ。生があれば、必ず死がくる、死んだら又新たに生まれ変わる、これが絶え間なく続く輪廻の苦である。世間で言う生の苦とは、出産の過程で、母子共に大きな苦痛を経験した事を指す。なぜ、仏は衆生に両親に対して必ず親孝行するよう求めるのか?特に母親が我々に対する恩徳を懐かしむよう求めるのか?なぜなら、母親の懐に我々が居たとき、大きな苦を受けたからだ。我々は慈悲心を培う、密教でいうなら、衆生皆を母親と視る、それを行った時、あなたは彼に対して要求する心、ひどく恨む心、不快な心が減少するだろう。

釈迦牟尼仏は何故出家して修行へ出たのか?古代インドでは、子供が生まれた際には占いをして貰う風習があった。占い師は国王に、釈迦牟尼仏は今後大修行者に成ると伝えた為、国王は彼を皇宮内から一歩もでる事がないようした。
釈迦牟尼仏が20歳の時、自ら皇宮を離れて、四つの城門を通り、生老病死の苦を各々見た。

老いの苦は、誰もが回避できない事である。あなたが若い時にどれだけ素晴らしく、できる人であっても、どんなに養生をしても、身体がどれだけ健康でも、歳をとれば自然と様々な問題が起こる。人はどうして老いるのか?人は何歳から老い始めるのか?老いの定義とは何なのか?老いの定義はあなたの福報をそろそろ使い果たすということだ、使い果たしてしまえば老いが始まる。もし福報が無くなれば、あなたの業報身を支える事ができなくなる、そうなれば運動や養生等は一切役に立たない。天界の衆生は福報が大きい、なので老いる過程は短くなるが、人の老いる過程の苦は長い。どうして我々に親孝行をし、お年寄りを尊重するよう求めるのか?あなたが若い時、親孝行をせず、年寄りを敬う事を知らず、無視をし続けると、あなたの果報は年老いた際、誰からも気に掛けられなくなる。現代の教育は、ただ子供が育てばいい、これ等を教える必要はないとされている。だが、これが一番重要なのだ。

昨日、年長の弟子が孫を連れた二人の弟子が面会を求めに来た、年長の弟子は歳なので動きが遅い。だが18歳の孫はその祖母に構わず、その祖母を後ろに押し付け、自分だけリンチェンドルジェ・リンポチェの座の前に跪いた。この弟子は、孫のしつけがなっていなく、そして孫は親孝行することを知らない。
仏経ではこう説かれている、年長者として親として、しっかりと子供を教育せず、将来子供が社会に危害をもたらせば、年長者、親の罪は子供よりも重い。確かに、子供には子供の業力がある、また我々の祖先とも幾許か繋がる。だが親は教える事が出来る。現代人は、子供に教える事を学校の教師に任せる、それは先生の責任だと押し付ける;あなた達は更に凄い事に、リンチェンドルジェ・リンポチェへ教えさせるという。どのような理由があって、リンチェンドルジェ・リンポチェがあなた達の代わりに子供の教育をするというのだ?最も基本的な事も教えずに、彼らにあなた達と共に仏法を学ばせようとする。何が仏を学ぶだ?加護を学ぶのか?会見を求める際、子供が老人を後ろへと押しやるような動作は、小さな行為だと思ってはならない、これはとても大変深刻な事だ、これは子供が小さい頃から年寄りを敬う事を学んでいないという事だ。老人も子供を叱る事もしない、目茶苦茶で、出鱈目ばかり、倫理も無いのになにが仏を学ぶだ?子供のしつけがなってないのは、両親の過ちである。今後成功するかしないかはさておき、絶対に倫理道徳に背いたり、社会へ危害を及ぼす事をしてはならない。

人の生、老、病、死は、年を取れば必ず老いるものではなく、あなたが福報を使い切ると、老いへの過程へと入る。福報が減り続ければ病気にも罹るし、その病が終えれば、次は死が待ち構えている。多くの人は病が悪化した為に死ぬのだと思っているが、それは違う。現在の医学では徐々に多くの人々の死は何かの病気に罹ったのではなく、突然死に至ったと言う事が明らかになっている。突然何かの臓器が使えなくなった、しかも病んでいる臓器とは限らない。それは福報を使い切ったとのである。生・老・病・死は全ての有情衆生が辿る過程である。

愛する人とは分かれる。よりによってあなたが最愛と思う人と離別するものだ。別れはとても苦しいが、分かれる前は一緒に居るのが当たり前だと思う。どうしてあなたは苦だと感じるのか?それは独占慾に執着しているからだ。夫、又は妻は自分のもの、子供も自分のものと考える。このような執着こそが愛別離苦を招く。よく女の子がこの男と一緒になれば、どんな結果が得られるかと訊ねるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず「生離死別」と答える。多くの女の子は結婚が結果だと考えるが、実は生離死別こそが最も起こりうる事だ、ある人はこれを悟れない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、これは借りを返すだけだと知っているので、別れるのなら別れればいいと思う!縁が有って一緒になったが、縁が無かったのも、一つの縁である。我々は、自ら煩悩を探し、更には昔から多くのロマンスを書く者がそれを助長し、多くの者に殊更この様な事に執着させる。我々は現在苦海の中にいる。正に<妙法蓮華経>で言うが如く、あなた達は今燃え盛る家屋の中で、楽しく遊んでいるのだ。

ある者は両親の死後、まるで本当に悲しいかのように泣くが、本来であれば、両親が病気になる前からしっかりと世話すべきで、病気になってからまるでいつも親孝行をしているかのようなそぶりを見せるのではない。実際は、ただ利己的に愛別離の苦を得たくないからであって、心の底から両親の病を治して欲しいと仏菩薩にお願いしたいのではなく、あなたが愛別離の苦を得るのを恐れているだけだ。家に帰ってよく考えてみるがいい。本当に親孝行であれば、両親が健康でいる時になぜしっかりと親孝行しないのだ?両親を連れて美味し食事をしたり、どこかへ旅行したりが親孝行ではない。本当の親孝行というのは、両親を安心させることだ。あなたが間違った事をしていない、法をしっかり守っていると伝えることこそが本当の親孝行というものだ。

怨憎会、最も憎い人と一緒に居る。真の冤親債主は我々の家族だ、怨恨や恩が無ければ家族にはならない。あなたはこう言うだろう:家の為に、息子の為に、夫の為に、私は多くの犠牲を払った。あなたは只納得しない。実はこれらは怨憎会なのだ。だが、これに対し消極的な態度で受け止める必要はなく、仏法の積極的な修行態度で対応するのだ。恨みや憎しみが無ければ、負債を早く返すことができる。恨みや憎しみ、納得できない、どうしようもない気持ち等、消極的な心で怨憎会に対応するのでは、太刀打ちできない。

何故慈悲を学ぶのか?あなたが慈悲の心で、あなたの敵、冤親債主に対応すれば、事は面白いように変わるものだ。もし今あなたが、消極的にこれは私の借りだから仕方がないと思うと、あなたは納得出来ない。あなたが、この事は自分が彼から借りた負債だと認めると、自然と消極的な日々を送るようになる。冤親債主はあなたはただ如何にも成らないだけで、まだ心を改めていないと判断する。仏を学ぶというのは、どれくらい呪文を唱えたか、どれくらい礼拝したか、どれだけ言う事を聞いたかではなく、あなたの心が改まったかである。凡夫の心から慈悲を学ぶ心へと改まることだ。全宇宙最大の力は慈悲である、如何なる力も慈悲の力を超えることはできない。慈悲の力を用いて、初めて数々の苦悩を解くことができる。慈悲を学ぶ際の第一ステップは、損をすることだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが最もすごいのが、損を厭わない事だ。でなければどうやってこれほどの弟子を持てるのだ?人は損するのが嫌なら絶対に言う事を聞かない。あなたが損を受けたくないなら、自然と両親や年配者の話も聞く耳も持たないであろう。損を受けたくないとはどう言う事か?それは、あなたが以下のように思うことだ:私に指示するつもり?これは私が求めているものではない、私は好きではない、あなたは私の事を分かっていない。これらの考えが損を受けない人の考え方なのである。人は損を受け入れる事が出来なければ、どうやって捧げ出し、どうやって捨する事が出来る?捨する事が出来なければ一切の煩悩がやってくる。煩悩が現れると、一切の悪事を行い始める。なぜ慈悲を学ぶのか?慈悲がなければ、たとえあなたが出家の相を現し、座禅を学んでもやはり悪である。あなたがする事が他人を傷つけるのなら、それは悪である。

人々は自分は修行していると思っているが、例えば昨日のように祖母は孫を教育せず、孫は祖母に譲らない、なんと卑劣だ。あなたはきっと、そんな事はない、家にいる時でもこの様だと言うだろう。家の中で長者へ譲らないあなたが、外で他人に譲ることができるか?外で人に譲る事が出来なければ遅かれ早かれ痛い目に遭うだろう、あなたがいくら凄くても、あなたよりも凄い人は多くいる。最近よく路上で喧嘩が起こるが、それはどちらも譲らないからである。それは家庭で育った性格で、学校ではない。あなたは学校でいじめに遭うと、学校に訴える。だが、家庭内で喧嘩をするとあなた達は訴えるか?兄が弟を殴り、弟が兄を殴る、二人は幼い頃から殴り合っている。あなたは彼らはまだ子供だからと言って教えない。どうして教えないのか?それは慈悲の心が無いからだ、あなたは子供達が家の中で自分に影響しなければそれでいいと思い、彼らが外で何しようと気にしない。外で間違いを犯しても、自分の子供は間違っていないと言い張る。現在の社会はこういう風潮になっている。我々は幼い頃から子供には損をしないように教え、頑なに損を拒み、何に於いても捨することができない。だから怨憎会や、愛別離が生まれるのだ。怨憎会で一所に居てもそれは自分の借りだと認め、今借りを返してるとして、消極的な態度でこの一生を終える。

誰一人冤親債主が居ないものはいない、釈迦牟尼仏は成仏してもなお、誹謗する者はいる、これらは全て累世の業力である。あなた達は何を根拠に、仏を拝めば物事全てが解決し、何事も発生しないと言えるのだ?何を以って家族は穏やかな生活が送れると思う?仏経では、家族はすべて冤親債主と説いているのに、あなた達はそれを聞き入れない。家に子供ができる、それは借りを取り立てるか返しに来たのでなければ、恩に報いたり、仇討ちに来たのだ。だが、現在の子供で恩を報いるために来たのはほとんどいない、どうしてだ?自分自身にこれまでどれ程肉を食べたか問うてみるがいい?何の根拠に自分には、恩を返し、債を返す子供ができると言えるのだろうか?もし、借りを取り立て、仇をうちにきた子供が生まれても、彼らを悪ガキと扱う必要はない。あなたが幼い頃からしっかりと教育すること、それが借りを返すことになり、恩に報いる事になる。それが恩を持って仇に報いるだ。どうして子供を教育するのか?あなたが子供を教育しなければ、どうやって恩を持って仇に報いるのだ?我々は、恩を報いる態度で衆生に接すれば、たとえ冤親債主がいようと、事が起こっても、そこまで深刻だとは思わなくなるだろう、それはあなたの態度が事を和らげているからである。もしあなたの心の持ちようが消極的であれば、徐々に精神病になってしまう。誰しも皆怨憎会を持っている、持っていないのは釈迦牟尼仏である。

なぜ慈悲を学ぶのだ?慈悲心が無ければ、何を見ても気に食わない、何か発生しても、何か間違っても全て他人のせいにする。リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子が間違いを犯してもそうだ、言い訳は沢山有る。リンポチェは気性が荒く、怖いうえにせっかちだと言う。これはまさに慈悲心がなく、慈悲心を学んでいない証拠である。

五蘊盛苦、目耳鼻舌身等の外部に対する欲望は終わりがない。我々はこの目耳鼻舌身を満足する為に、五蘊は絶え間なく悪をし、これらを満たすのに毎日多くの時間を費やす。我々が朝起きた瞬間から寝る寸前までと、寝ている時間の8時間も五蘊盛苦は止まることを知らない。我々に業報身がある限り、止まらないのだ、だから仏は開示をする。試しにこう考えてみるがいい:あなたがとても好きなものが目の前にあるとする、だが買える能力がない、又たとえ買えたとしても、まず買っておこうと思った物、あなた達にはこのような独占欲の苦はあるか?自分に属すると思っていた物がいつしか壊れてしまったら苦しいと思わないか?だが、一般の修行をしていない者は、こんな簡単な事でも複雑に捉えるのだ。

多くの人は簡単を望む、それで自分は初めて日々を過ごせると思っている。この世界を簡単にするか複雑にするかは、あなたが決め得る事ではなく、因縁が決めている。だが、事の簡単か複雑かを見るのは、あなたの心である。だから後ろに「一心」とある。どういう意味なのか?事を簡単に見て、あまり複雑に考えることはない。どうしてあなた達はこうも物事を複雑に捉えるのだ?なぜならあなたは如何なる傷も受けたくないからだ、率直に言うと損をしたくない、自分からは失う事なく只手に入れたいと思う、これは可能か?私たちがペットを飼う際にも、ペットがあなたを喜ばせるから、あなたは養う。二匹の犬がいて、内一匹は一日中あなたを喜ばせるので、その犬に対しては良く接し、もう一匹の方はあなたの事を無視するので、あなたもそれなりの態度で接する。犬でさえ尽くすのに、あなたは尽くしたがらない、与える事ができないのなら、どこから収穫を得るというのだ?それは不可能だ。甘んじて与えない者には、後から苦が追い付いて来る、何故なら事を余り複雑に考えるからだ。

では我々は世間の複雑な物事に面して、単純な考えで対応するのか?いいや、そのような考えではない。考えは、我々が面した世間の森羅万象、多種多様の物事は、日々の変化している。あなたと無縁のことは、あまり深く考えないように;あなたと縁がある事に対しては、我々は仏法の目で見る。つまり、もしこれを行うと、誰かが傷つくと感じたら、その件は慎重に考えるべきだ。又もし、突然あなたの運が良くなりそうな出来事が起これば、どうして自分なのか?と見つめなおす。どうして自分に投資するのか?あなたは必ず何かを尽くさなければならない、それは詐欺かもしれない、もしくは自分の時間が費やされるのかもしれない。もし我々が「一心」を持たずに事に接したら、菩薩を拝むどころか、事さえうまく捗らないだろう。たとえば、ボスからある事を任せたとする、あなたはその件に手を付ける前からこう思う:この案件は私にできるだろうか?私は上手くできるだろうか?もし上手くできたら、何か得られるだろうか?この案件が終えてもボスは給料を上げてくれなかったら、私はこの案件をやるかやらないか?このようにあなたの心ますます複雑化する。

リンチェンドルジェ・リンポチェの一生は、人として素直に生きてきた、昔バイト時代、店長に任された事や、仏を学び始めた後の尊勝なる直貢チェ・ツァン法王に任された事は、法律に反する事や因果に反する事でない限り、相手を信じ忠実に行う。どうしてあなた達はそれができないのだ?それは相手が自分を騙すのではないかと心配しているのが原因だ。仏法を学んでいる者から言えば、この事を行った為に被害に遭ったのであれば、それも因縁である。被害の定義は、あなたが求めている物が得られない:彼は私を裏切った、彼は感謝する事を知らない、私が手助けしたのに、金持ちになった途端私を無視する。あなた達はいつもこの様な考えを持つ。この様な考えは、間違いなく事を複雑にする。

「一心」のもう一つの定義は、あなた自身が物事を複雑に捉えなければ、自然と妄念は減り、物事の本質をよく見る事が出来る。どうして我々は物事を捉えるのが困難で、本質を見抜くことができないのか?それはあなたが、複雑すぎるからである、だから物事をしっかり見る事ができないし、損得心が現れる。やるかやらないか?嫁ぐか嫁がないか?離婚するかしないか?子供を留学させるかさせないか?どうしてこんなにも良いと悪いがあるのか?全て損得心から来る。損得心はどうやって生まれるのか?それは損をしないと決めているからだ。明らかに一つの事なのに、損をしたくない人は色々な事を考えだす。もし我々がこの「損得」の観点から物事を見ないで、あえて相手の利益、因果関係をみれば、すぐに理解し、見極めることができるだろう。離婚がいいかどうか等、菩薩になんの関係があるというのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはある事を口癖にする。あなた達は始める時菩薩に伺わず、楽しんでいる時も一切仏菩薩に訊いていない。それなのに離婚のときになってから仏菩薩にどうかと尋ねる?経典には、離婚するかしないかの決定を下すようにとは書かれていない。もし経典に説かれているのなら、上師として彼らの為に決断を下す、リンチェンドルジェ・リンポチェも同様だ。経典はただ、縁、縁起、縁生縁滅に言及し、縁が滅しても心は穏やかで、縁が起きても特に喜ぶ事も無い。そうすれば物事ははっきりする。

何故我々は世間の事をますます複雑にするのだ?気を回し過ぎる。日常の生活で気を回しすぎると、いくら仏を唱えても決して一心にはなれない。たとえ「禅七」(七日間の密集修行)を行い、経文を唱えても不可能である。なぜなら、我々の生活習慣がそうであれば、心の訓練の際も変わりはない。事を始める前から失敗するのではないかと心配したり、リンチェンドルジェ・リンポチェに叱られるのではないかと恐れたりする。それならば仏を学ばなくてよい、学んでどうするというのだ?道場にさえも来ないでいい。どうしてこんなにもあれこれ考えて、事を複雑にする。それは一心ではない。一心とは、我々が面する如何なる事も、単純に捉えればいい、あなた達が思うような何事も細かく考えるのではない;もし日々の生活習慣で一心に辿り着けていないのなら、あなた達が仏を唱えても達成できない。ここで使う「一心」は、修行人から言えば、少なくともある程度の禅定の技がある。禅定とは、我々に不必要な妄念を、禅定の力を以って暫くの間抑える事だ。抑えることで、我々の清浄な本性所謂一心が現れ、それで仏を唱えて始めて役に立つ。

言い換えれば、我々が仏を唱えれば、すぐさま役に立つのか?いや、少なくとも一心になるまで唱えることだ。あなた達が考えるような、事ある時は仏の足を戴くではない。もし、大急ぎで、観世音菩薩を唱え、観世音菩薩に今すぐ夫を助けるように頼む、これは必ず役に立たない。なぜなら日頃から一心の訓練をしていないからだ。あなた自身の心の訓練を行っていなければ、時間は刻一刻と過ぎていき、あなたは霊験なしとする。自分は他の菩薩を唱えるべきか?他の菩薩に当たるべきなのか?これは一心ではない。ここで、特に一心について説くが、もしあなたが仏菩薩を信じ、三寶を信じるのであれば、彼らを信じる事だ、彼らは必ずあなたを手助けする。だが、上師と諸仏菩薩が衆生を助ける際、因果からは離れることは出来ない。受けなければならない事は、やはり受けなければならない。ただ、この果報を少し後にさせる、又は軽くするというだけで、消去することはできない。果報を消すのは自分自身にかかっているのだ。あなたが努力して自分を改め、あらゆる善の力を使って強烈な力を培わない限り、果報は消去されない。

リンチェンドルジェ・リンポチェが常に、私があなたを助けるのは一度だけで、二度目はないという、なぜならあなたは一心ではないからだ。あなたは体が良くなると、リンチェンドルジェ・リンポチェの方へ来て感謝の言葉を述べ、又こう問う:私の体調が更に良くなるようお願いしたい、体が良くなれば多くの衆生を助ける事ができますと。今後、誰がこのような事を言った者には、リンチェンドルジェ・リンポチェはもう一切話をしない、出家弟子を通して話す。何故助けたのか?あなたがしっかり仏法を学ぶ為であって、あなたに快適な生活を続けさせる為ではない、又あなたの体調が良くなれば、衆生を助ける事ができるという事ではない。もし、あなたが日頃から常に他人や、物事に対してあまり複雑に考えると、仏の仏号を唱える事さえも複雑になる。なぜならあなたはそういう事に慣れているからだ。古代の人は、仏を学ぶ者は大体三割が鈍感で、三割が愚かな者、仏を学び得るのは彼等であるという。あなた達は賢すぎる、こんなに切れる人は、仏法を学ぶ必要はない。リンチェンドルジェ・リンポチェのような者で始めて仏を学び得る。あなた達は頭が良すぎる、どの件もこう考える:彼は一体何を考えているのだ?彼は私にこのような事をするのは、今後私は何かを失ってしまうのか?将来私は何かを得るのか?

「一心称名」、あなたは日頃から此れを訓練し、生活習慣から始める事。歯磨きをするなら、歯磨きをし、ご飯を食べるなら食べる、あまり複雑に考えすぎぬように。現在はテレビを見ながらご飯を食べ、音楽を聴きながら歯磨きをする、読書をするにもヘッドホンを耳にかけて音楽を聴く、ますます複雑化している。「一心に称名せば、観世音菩薩、即時に其の音聲を観じて、皆解脱することを得せしむ。」観る、とは見るでもなければ聞くでもない、では一体何を以って観るのか?知恵の眼、法の眼で観るのだ。何を観るのか?まず先にこの衆生の因果を理解する、この衆生の因果を理解できなければどうしようもない。能力がないのではなく、もし因果が理解出来なければ、衆生の因縁を身をもって感じる事が出来ず、衆生の苦の原因はどこから来たのかを知る事ができない、例えあなたが喉を突き破る程叫んでも、観世音菩薩はそれを知る事はない。

「其の音聲を観じて」、音とはあなたの声が懇切であるかどうか?懺悔はしたか?慈悲はあるか?それとも欲望の心、威嚇の心で叫んでいるのか?「まず、あなたは私を良くしてくれ、良くなれば私は素食を始め、仏法を学ぶ。」これは脅しであり、懺悔の心がない。過去に犯した自分の悪業までもが今もう正に熟そうとしているのに、あなたは一向に懺悔心を起こそうとしないのか?今あなたを危機から救えば、あなたはますます懺悔の心を持たないだろう、なぜならあなたは観世音菩薩と唱えれば、何事も全て解決すると考えているからだ。この経文は前後呼応する。あなたは一心称名が出来なく、観世音菩薩の功徳慈悲を褒め称える事が出来ない。一心不乱に唱えなければ、観世音菩薩はやはりあなたは懺悔心がないとみる。観世音菩薩が差別をしている訳ではない、あなたの周りや体の中には、多くの衆生が居て、その衆生等がこう叫ぶのだ:「観世音菩薩よ、私は彼に食べられ、命を落としました」と。あなたはただ、彼らの代表として叫んでいるだけだ。ある人は、私は今懺悔をした、だから病が治ったという。だがそれは違う、懺悔は必ず慈悲心があるべきで、自分が良くなる為、両親が良くなる為、または誰かが良くなる為でも無いのだ。地球上の聖者及び大成就者を除いた衆生で、誰が冤親債主を持たないと言えるのか?誰もが持つならば、懺悔心を起こさず、ただ自らが良い日々を送れるよう観世音菩薩に望む、それではあなた達に傷つけられた衆生等はどうすればいいのだ?彼らも観世音菩薩に助けを求めるだろう。どうして<普門品>と称するのか?全ての衆生が観世音菩薩を唱える、これこそが「其の音聲を観じて」である。

仮に観世音菩薩が因果因縁から衆生を助けるのではなく、一律助けを求めるのを聞けば助けに行くのであれば、ここでは観るを用いず、聴くを用いる。聴くは、智慧を使わず、意識を用いる;観るは、智慧の眼、法眼を用いる。智慧は空性を用いて、あなたに影響される事はないし、あなたが如何あろうと観世音菩薩の心を動かす事等、尚更ない。完全に縁起性空の下で智慧の眼を用いて観察する。法眼はこの宇宙中で発生した数々の現象を理解する、だから観世音菩薩は過去がどうだや、未来がどうだ、現在がどうだ等が分かるのだ。観世音菩薩は耳根円通法門を修めて証果された、声を聴くことで衆生を助けておられる。人の声だけを聴くのではない、六道衆生の心に些細な動きがあれば、観世音菩薩は必ず分かるのだ。

「解脱」とは、この事が解決したら解脱したと言うのではない。あなたの為に今回の苦を解決するのは、今後あなたが仏法という一つの深く解脱に関する法門を学べるようにする為であり、その後あなたは始めて永遠の解脱を得る。急場は助け得るが貧乏を助ける事は出来ないと言う。だからいつまでもリンチェンドルジェ・リンポチェにしがみつく事が出来ると勘違いしてはならない。毎週来ては上師にしがみつき、ある日自分が死ぬと思った時にはリンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法を求める。皈依さえすれば、いつまでもリンチェンドルジェ・リンポチェにしがみつく事ができ、ある日両親が亡くなると、リンチェンドルジェ・リンポチェに済度するよう求める。これでは駄目だ。たとえあなたがここへしがみついていようと、修めなければ、あなたの両親だけでなく自身が済度される福報も持ち合わすことが出来ない。「皆解脱することを得せしむ」とは、あなた達が考えるように、毎回一つの事を解決するのではない。今回あなたを手助けするのは、あなたに楽な日々を送らせる為ではなく、又危難を解決して、あなたが生き延びるのを助ける為でもない。正に<地蔵経>が説いているように、善知識はあなたの障害を暫し抑える能力を持つ、しかし其れは暫し抑えるだけである。もし、あなた自身が輪廻から離れる心が無ければ、善知識としてどうしようもない。何故抑えることが出来ないのか?なぜなら、あなたが良くても、あなたの冤親債主は良くないからだ。冤親債主はあなたが良くなれば共に良くなるのではなく、あなたが修行して解脱する事によって、彼らも共に生死を解脱し得る事になるからだ。

あなたが病気にかかると大げさに騒ぎ立て、子供が親孝行しないとか、妻が浮気をしたとか、夫が不倫をすると苦痛だという。これらは小さな事だ、多くの人が経験している。だが生死の解脱し得る者は何人いるのか?医者で、自らはどのように死ぬのかはっきり答えられる者はいるか?医者自身でさえ、如何に死を和らぐことができるか定かではない、まして口にする事さえもできない。医者は、我々よりも少しだけ有利である、それは心拍や血圧がどのように変化すると死ぬかが分かるからだ。だが彼らは死ぬ間際の数秒が苦かそうでないか、苦を無くすことが出来るかどうかは分からない。一人の医者弟子は確かにわからないと答えた。

医者であっても、自分の生死の苦を解決できないのに、如何にして我々を助けるというのか?多くの人が医者は命を救う者だと間違った観念を持っている。実は全く違う、医者がもし命を救う事ができるのなら、まず先に自分の命を救うだろう。我々は、医者は自分を治療出来ないという。彼らは自分の生死でさえもよく判らないのに、我々の生死をどう見極める事ができるというのだ?ただ仏法だけがどうやって生死を解脱するかをはっきり知っている。解脱というのは、あなた達が想像するような:今日病を患ったので、治すとか、私の妻は言う事を聞かないので、聞いてくれるようにして、自分の元へと戻る、そうすれば私の苦はなくなる等ではない。全く違う。こんな事は仏菩薩、密宗を頼る必要はない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは以前にこのような話をした事がある。あるグループが土地を利用して金儲けを画策し、新北市の大きな廟で儲かるよう祈った。その後願いは叶ったが、お金を手に入れた人々に様々な問題が起こった。お金を失ったのでなければ、家族に問題が生じたのだ。リーダー格の人は最も可愛がっていた子供を3歳で亡くしてしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェはその子を済度した際、その子が彼の傍に立っているのを見た。これは、もし求める物が、仏法を通して因果法則に則った物でなければ、必ず後遺症が出るという事だ。不倫をした夫又は妻が、祈った通り戻ればよいで済む事ではない。昔道教に和合符があった。リンチェンドルジェ・リンポチェの父が修めていたのは道教であるが、父もリンチェンドルジェ・リンポチェ自身も其れを使った事は一度も無い。正にリンチェンドルジェ・リンポチェがよく口にする言葉の様に、彼があなたを好きにならなくても、他の誰かがあなたの事を好きになる;彼があなたを必要としなくても、他の誰かが必ずあなたを必要とする。広東語で、どんな物でも、必ず誰かしら好きな人がいるという諺があるが、たとえあなたの容姿が醜かろうと、必ず誰かしら好きな人が現れる、心配するではない。だから、このような愚かな要求するのは止めなさい。この和合符は凄く効果がある、さっと一筆書けば相手が戻ってくる。だがそれをしない。なぜなら、それを行えば、別の大変な事が起こることを知っているからだ。凡事は縁に任せる。今日別れるのは、縁が尽きたという事だ、ただそれには多くの過程がある。その過程の中で、この縁をなるべく長く持つ方法はあるのか?方法はある、仏法を通して自分を改めるのだ。今問題になるのは、誰も損を受け付けない。あなたも彼も損を受け付けない、それで相手から愛される事を求めている。これではとてつもなく疲れる、だから永遠に解脱する事は出来ない。

経典:「若し是の観世音菩薩のみ名を持する者あらば、設え大火に入るとも、火も焼くこと能わず、是の菩薩の威神力によるが故に。」

この一段を読んで、毎日観世音菩薩を唱えた後、火を放って大丈夫かを試してはならない。このような考えはだめだ。人々は常に水や火の災いを伴っている、それはこの一生で突然起こるのではなく、累世で累積した結果なのである。顕教では、もしあなたに瞋恚の炎があれば、観世音菩薩はあなたのその瞋恚の炎を抑える、と解釈する。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェの見方では、人には水や火の災いがあり、それは小さな火傷でもその数に入る。それは、あなたが過去世で火を使って衆生を燃やしたからだ。ある子供はお湯で焼けどしたり、肉が見えるほどの大火傷を負っても、リンチェンドルジェ・リンポチェのひと吹きで、その傷が癒えるのはなぜか?それは、先ほどに述べたことを指す。家で、素食をし続け、観世音菩薩を唱え続ければ、家が火事になる機会など殆どない、たとえ不注意であっても、火災にまで至ることはない。

「若し是の観世音菩薩のみ名を持する者あらば」、もしあなたが観世音菩薩の名号を唱え続ければ。所謂「持」とはあなた達が思っているような、ただ唱えると言う簡単な事ではない。観世音菩薩が行った一切全てを我々は学ぶ事が出来たかどうか、実行することが出来たかどうか、彼の慈悲を学んでいるかどう かである。もし、観世音菩薩の慈悲を学ぶ事ができれば、慈悲の力は自然とあなたと結合し、火災が発生しても大事には至らない。火災が発生するのは、この人の運が悪いのではなく、累世で悪業を犯したからである。ある場所で争いが特に激しければ、そこは火災が起こる機会が特に高い。菩薩がその火災からあなたの命を守るのは、あなたの業報身を助けるのではなく、ただあなたに因縁があるので一度だけ救い、今後あなたが仏法を学ぶよう望むのだ。あなた一人が仏法を学べば、多くの衆生へ影響を与える。我々は滔々と衆生を助ける等と言うのは止めよう、影響を与えるだけでもすごい事なのだ。自分自身にこう問うといい:あなたの両親、つれ、子供等はあなたの影響を受けて仏を学んでいるか?いないのであれば、何を以って衆生を助けると言い、自分は修めていると思うのだ?あなたが戒めを破らないだけでも好い方だ。

もちろん仏法を学ぶ因縁はひとそれぞれ違うが、自分家族には、あなた自身がどのような者かはっきり分かる、一体自分を改める事ができたかどうか?出来たのなら、彼らが仏法を学ばなくても、少なくともあなたが仏法を学ぶ事を妨げる事はない。例えば、あなたの家はあなたが仏法を学ぶ事を妨げないのであれば、それはあなたが彼らに影響を与えているという事だし、あなたが過去世で他人を妨げた力が消えたという事だ。もちろん、両親が仏法を学び、リンチェンドルジェ・リンポチェに会うことができればとても良いことだ。だが、彼らがあなたの邪魔する事がないだけでも、簡単な事ではない。両親と配偶者が、あなたの仏法を学ぶ事に対して邪魔をするのであれば、確実にあなた自身の縁、福報が良くないのが原因だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは比較的に簡単だ、護法に手伝ってもらって邪魔を取り払えば好い。

「威神力」は外道が言う、飛び上がり爆弾を受け取って、爆発を防ぐというようなものではない。科学的観点から言うと、宇宙に起こる一切全ては、必ず多くの因縁があり、異なるエネルギーにて発生することだ。もし、この件のエネルギーを変化する事ができるのなら、これは道教で言えば陰陽エネルギー、陰陽学、科学的観点だと正の電気と負の電気。意味は、一尊菩薩が果位を証した後、心の力量は宇宙のある現象を変化させることができる、分子を再調節する事ができるのだ。たとえば、リンチェンドルジェ・リンポチェが加持された後は、一部分の人は具合が良くなる、それは体にある良くない分子を抑え、調節する、これも又一種の威神力である。威神力は彼はとても凄く、誰からも恐れられるという事ではない、これらの威神力は利益であり、衆生を助けるのだ。

先週の土曜日、ある夫婦が子供を抱えてやってきた、子供は既に動いていない状態であった。リンチェンドルジェ・リンポチェはが加持後、彼らにここ数日で具合が良くなるであろう、その時に又求めに来るといいと伝えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、今週土曜にその子供を見たが、子供は元気に走り回っていた、これも一種の威神力である。威神力は、リンチェンドルジェ・リンポチェが凄いのではなく、本尊がリンチェンドルジェ・リンポチェに衆生を助ける機会を得るよう加持があったからである。あなたは、以前に「一心」を行っていなければ、あなたはどこから衆生を助ける機会を得る事ができようか?どうしてこんなにも多く大悲呪文を唱えているのに効果がないのか?それは威神力が無いからである。威神力はどのように得るのか?少なくてもあなたが「一心」を達することだ。それが出来なければ、毎日大悲呪文を49回、108回唱えてもたった一杯の水を飲んだに過ぎない、大悲水ではない。ただコップに大悲水と書かれているだけで、あたかもそうだと思い込んでいる。<普門品>で既にはっきり説かれているのに、どうしてあなた達はまだ自分を迷信しているのだ?一心が出来ないのであれば、その後の事は何も起こらない。一心ができてからこそ、後の出来事が起こるのだ。

釈迦牟尼仏は初めからはっきりと述べている:一心。懇切でも、それ以外でもなく、一心であると。もう標準を既に最低限にまで抑えているのにも関わらず、あなたはこれさえも達することが出来ない、挙句の果てには観世音菩薩やリンチェンドルジェ・リンポチェは効き目がない等といい、仏を否定し始める。その前に自分自身にこう問うべきだ:一心は達する事ができたかどうか?達していないだろう。二句唱えてすぐ他の考えが浮かんだり、五句唱えただけで、また別の事が頭に浮かんだりしてしまう。念頭があるのは当たり前だ、あなたは凡夫であり俗子であるからだ。だが仏を学ぶ者は違う。我々は自分自身を知り、如何にコントロールするかを知らねばならない。我々は妄念がある事を恐れてはいない、妄念がなければ、修めることが出来ない。だが、妄念を利用して修めるのでもない。妄念があるからこそ、自身が如何に複雑であるかを実感する事ができる。もし、我々が仏法に志を向け、誠実に唱えれば、あなたは徐々に自分の妄念が減っていくのを感じる事が出来るだろう。通常なら悩むところ、悩まなくなったりと、あなたの心が簡単に物事を捉えるようになったという事だ。以前悩んでいた事や、争っていた事が、今ではそのような考えには至らなくなったと感じるだろう。

先ず志心(こころざす事)。志心した後、初めて一心だ。志心も出来ないのに、如何にして一心ができると言うのだ?志心が出来ていなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェに求める事さえも出来ない。なぜなら、あなたが色々な考えをリンチェンドルジェ・リンポチェに投げ出すと、リンチェンドルジェ・リンポチェはただ多くの乱雑な信号を受けとるだけだ。だから時に、リンチェンドルジェ・リンポチェはこう問う「あなたは何が言いたいのだ?重点はなんだ。」多くの人は、リンチェンドルジェ・リンポチェの前で物語をするのが好きだ、きっとリンチェンドルジェ・リンポチェの中国語が良くないと思っているのだろう。結局この一句に限る:嫌なのだ、兎に角嫌なのだ、それでつべこべ喋る。更に突っ込んで言えば因果を信じないのだ。ミラレパ尊者のようにその一生で仏果を証することが出来る者は少ない。彼は如何にしてマルパ(Marpa)大師に求めたのか?彼はマルパ大師に仏に成る方法を教えてほしいと求めたのだ。なぜなら彼はこの一生母の言う事を聞き、数十人を殺してしまったので、確実に地獄へ堕ちることをはっきり知っている。そして、唯一仏に成る方法だけが、地獄へ堕ちずに済む機会を得られる事も知っているからだ。

あなた達は今何を求めているのか?それは良い日々を過ごせるようにと求めている。上師が何か行動を起こす時、あなた達は急がずゆっくりとし、リンチェンドルジェ・リンポチェは体が健康で、若いので、心配はないと考える。リンチェンドルジェ・リンポチェは、この程度まで修めてきた人だ、死は無常であると信じていないと思うのか?だから、リンチェンドルジェ・リンポチェが仏寺を建てようとしても、皆はゆっくりでいいと考える、特に皈依して久しい者達は、自分には何の能力もないから、他の人達を先にさせる。普賢菩薩は、修行とは頭が燃えているのを救うが如しと説いた。あなた達は、髪が燃えてしまってもいいじゃないか、新しい髪型だと思えばいいと言い、燃えきれば、髪を洗うお金を節約できると言う。あなた達はゆっくり行動する、私は凄く忙しい、多くの事を処理しなければならないとか言う。どこの誰が暇だというのだ?あなた達の中で、誰がリンチェンドルジェ・リンポチェよりも忙しいと言えるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは、どうして直貢チェツァン法王に託された事を、いち早く行い、達成するのか?直貢チェツァン法王には多くの弟子がいるし、その数ははリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子より遥かに多い。

あれこれ話したが、要は皆一心を修めていないという事だ、志心もない、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達に利用されているだけだ。志心が無ければ一心もない、それではリンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩の威神力は、あなた達を手助けする事はできない。田という弟子は、ある念頭を持ち、たった何句か発しただけで、彼女の腫瘤が一気に膨れ上がり、まるで風船のような大きくなった。このような面白い話が他にあるのか、一寸した時間でこんなにも大きくなるものか?以前は諸仏菩薩とリンチェンドルジェ・リンポチェの威神力を持って彼女の病を抑え、彼女に改めるに必要な時間を与え、自ら間違いを犯したと自覚し、しっかり修行を行える日が有る事を期待した。だが彼女は、その期待叶わず、お喋りのせいで、たった一言二言でこのありさまだ。

今日は皆を脅す訳ではない、あなたがリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依し、弟子となれば、又は弟子でなくとも仏法を聞きに来るのであれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏菩薩の威神力を借りて、あなた達に起こりうる様々な事を抑えるだけ抑える。ただ、もしあなたに不信の念頭が沸き、自身の考えが正しく、リンチェンドルジェ・リンポチェは間違っていると思えば、この威神力はすぐさま撤去される。それはリンチェンドルジェ・リンポチェに分別心があるのではなく、加持力が届かないのだ。もし上師という身分にまで成った者が、菩薩の威神力を少し学んでいなければ、済度する事はできない。威神力で悪戯好きでじっとできない者達を押さえておき、其れで始めて超度できる。一部の悪戯者はあちこち飛び回って、他人等眼中にない。

この幾つかの言葉は、我々が修行をする法門である。<普門品>は15分で読み終われるような簡単なものだと思ってはならない。今では、聞けば聞くほど面白い。仏学院を通ってきた者でも、必ずしも<普門品>がここまで内容が豊富にある事を知らない。もし<普門品>の内容が多くなければ、観世音菩薩は何の資格を持って法身菩薩と成れるのだ?「願解如來真實義」は字面上から理解するのではなく、その内容と意義から理解するのだ。あなた達は必ずこう言うだろう、どうして釈迦牟尼仏は、はっきり説いてくれないのか?なぜなら、釈迦牟尼仏は福報が多い為、菩薩が仏に教えを請うと、仏は簡単に説くだけで、菩薩はすぐに理解できた。リンチェンドルジェ・リンポチェは福報が浅いので、あなた達に開示するのは、とても苦労する。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが<普門品>を開示するとなれば、2年あっても足りない。

多くの人は<普門品>を重要視しない、特に台湾がそうだ。皆は観世音菩薩が慈悲の代表である事は知っている、これは観世音菩薩の品である、その中に修行をする法門がないわけがない。たとえ我々が、<普門品>には顕教の理論があると言っても、誰も説かないし、聞かないし、行わない。皆は観世音菩薩は救苦救難なので、あなたが観世音菩薩を唱えれば、すぐ来てくれると思っているが、実際には条件があるのだ。この条件は観世音菩薩が定めたものではなく、我々が先に行うべきである。もし、今日あなたの受験点数のレベルがある一定の程度で無ければ、如何にして入学できるのだろう?同じ道理で、我々が唱えれば、観世音菩薩が飛んできて助けてくれるとは限らないのだ。あなたはどのような徳が有り、どのくらいの能力を備えているのだ?あなたが病で凄く苦しいからか?あなたに慈悲や懺悔の心が無ければ、何度観世音菩薩を唱えても役に立たない。

経典:「若し大水のために漂わされんに、其の名号を称えれば、即ち浅き処を得ん。」

例えば、地震や津波の時、又は洪水の時。此処で大水とは、海で泳いでいる最中に突然溺れ死ぬというわけではなく、渓流で遊んでいる際に、突然大雨が降り、洪水が発生したり、津波等で、我々が漂流したりすることだ。つまり我々にはこのような難があるという事。あなたが死ぬ時、息を引き取る前に、観世音菩薩を唱える事ができれば、観世音菩薩はあなたを浅瀬に連れて行く。つまり洪水を起こさないとか、観世音菩薩があなたの体を綺麗に乾かし陸へと連れてく等、観世音菩薩があなたを陸へと連れて行くのではない。あなたはやはり自力で陸へ行かなければならない。即ち、我々は貪嗔痴欲望の水中で漂流しているが、今観世音菩薩は我々に法門を教え、我々を浅瀬へと連れて行くが、その後は自力で歩き続けなければ陸にはたどり着けないのだ。もしあなたが修めていなければ、陸へと上がる事はとうていできない、次に大きな水がきたら、又沖へ逆戻りだ。

仏経はとても面白い。なぜ浅瀬と書くのだろう?あっさりあなたを掴んで、陸へと降ろせばいいではないか。浅瀬とは、我々を浅いところへ連れて行くが、その後は我々が自力で陸へと行かなければならない。あなたはきっと、観世音菩薩はなんて慈悲がないのだ、最後まで送ってくれてもいいではないか。中途半端までしか助けてくれない、私が既に溺れているとしっているはずだ。服もずぶ濡れで、このままでは風邪を引いてしまう。風邪を引くのは、あなたの果報がますます減っている証拠だ。たとえば、現在あなたは災難の真っ最中にいるとしよう、観世音菩薩はあなたの為に前に出てあなたを先に守るが、その後は自力で助けなければならない。あなたの為にホームランを打って、全てを解決してしまうわけではない。なので、昔からの弟子が修めず改めずで、ただ自分が死ぬ間際になってリンチェンドルジェ・リンポチェへポワ法を行うよう求める。毎回法会へ参列したら、家に帰って自身を改める必要もない、同じ日々を送り続けてもいいと考えている。ならばそのまま大水の中で漂流し続ければいい。

この一句は我々にはっきりと教えている、たとえ今日災難が発生しても、多くてあなたを浅瀬まで連れて行くだけだ、後は自力で陸まで上がるしかない。たとえ親しい中である息子や両親等であっても、自力で陸まで上がらなければならない。たとえリンチェンドルジェは母親を阿弥陀仏浄土へ済度する事ができても、そこへ辿り着いた後は自らの力で修めなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェへ両親を済度するよう求めるだけでいい、と思ってはならない。一度済度したらその後は自己責任だ。皆は下記に述べる事をしっかり肝に銘じるように。諸菩薩と上師はただ、大きな波にのまれているあなたを浅瀬へと連れて行くだけで、たとえ身体が濡れていようと服が濡れていようと関係ない。浅瀬へ辿り着いたら、後は自力で陸まで上がることだ、仏は絶対にあなたを背負って陸へは行かない。リンチェンドルジェ・リンポチェはどうしてあなたを一度しか助けないのか?これもまた仏経が説いたことだ。あなたは陸へ上がりたいかどうか?あなたが続けなければ、誰が岸まで助けてくれる?誰もいない。だから自分で行うのだ、自分で動く。ある人は、息絶え絶えで、這い上る力もないと言うが、たとえそうであったとしても、やはり這ったり動いたりするべきだ。

あなた達は怠け者で動こうともしない、何事もリンチェンドルジェ・リンポチェが一手に引き受けている。観世音菩薩は大菩薩で、古代仏の再来だが、それでも一手に引き受けるとは言っていない。あなたを大波の海原から引き上げ、全身乾かした後、陸へ送り届けるなど決して言わない。観世音菩薩でも言わない事を、リンチェンドルジェ・リンポチェが如何にして大菩薩よりも凄くやれるのだ?リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達を助けるのは一度だけだと言っているが、あなたは其れを聞かず、しかもあなたの考えがあり、あれこれ考えて、自分が損すると恐れる。それではリンチェンドルジェ・リンポチェは止める。あなたが動かねば、永遠に浅瀬に居り、何とかして陸へと上がらなければ、又大波がくるだろう。たとえあなたが浅瀬にいても、大津波はあなたを捲き戻すであろう。自分が言う事を聞かず、心を改めず、リンチェンドルジェ・リンポチェは凄い人だからといって、何もしない。リンチェンドルジェ・リンポチェはもちろん凄い、だが、だからと言ってあなたをいつまでも陸へと引きずるわけには行かない、あなたを浅瀬へと連れて行けば、後は自分自身の力で何とか陸まで這い上がるしかない。どうやって這い上がるのか?仏法を学ぶ決心する事だ。人の世の数々の物事は全て、あっという間に消えてしまうなんともはかないものである。リンチェンドルジェ・リンポチェも過去に一般の人の如く結婚し子供をもうけた。あなた達にリンチェンドルジェ・リンポチェを真似しろとは言わない。これは一つの例えだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェさえ苦とも思わないのに、あなた達は何を苦にしているのだ?苦は自らが招いたものだ。私達が、目の前に起こっている出来事、悪かろうと良かろうと全てを受け止め、それがどの位続くのかという事に執着しない。何故あなた達は苦しむのか?我々は永遠に快楽であるよう望み、苦はすぐさま消えるよう望むから、苦になるのだ。「苦苦」、苦の上に苦が加わる。快楽が永久に続くなど、どうやって可能なのだ?苦がすぐに消えることも不可能だ。

どうして、リンチェンドルジェ・リンポチェはどんな大災難に遭おうとも、死ぬ事なく乗り切る事ができたのだろう?何処かでつまずいたら、そこから立ち上がったからではなく、これが人生なのだとはっきりと分かっているからである。仏法を学ぶ以前から人生とは山あり谷ありの波乱万丈で、一生良いことが続く、又は一生悪い事が続くという事はない。自分の人生と向き合って、日々努力していれば、いつか転機がくるだろう、だがその日がいつかは分からない。

この事があなた達に伝えるのは、たとえあなたが溺れていても、観世音菩薩はただ浅瀬へと連れて行くだけである。修行面からみれば、我々は現在溺れている状態であり、仏法はあなたを浅瀬へと連れて行くだけで、その後は自力で起き上がり、陸まで這い上がるしかない。上師がいつまでもあなたを助け続ける事はない。以前にも同じ事を言ったが、話しはすぐ終えてしまう。だがこれは比喩である。仏法と他の宗教とは違う、他の宗教はあなた達にただ信じればいいというだけだ。だが、仏法は違う、なぜなら一切の縁は、すべて衆生が作り出したからだ。仏は動かず、菩薩も一日中あれこれ考えて行動を起こしてはいない。仏経ではこう説かれている、あなたが決意して行うと決めれば、必ず達する事ができる。だがあなたは曖昧で何方付かずで、これはやるがあれはやらないとか、これは聞くけどあれは聞かないとか、自分が好きなように勝手にやるとか、後にしようとかだ。すると田という名の弟子のように、腫瘤が風船を吹くかのように膨らむ。又は、ある医者弟子のように不共四加行を修める機会を逃す。彼はお金がないと言う習慣があり、何事も後回しにする習慣がある、そうやって仏寺の供養をする事も見過ごしてしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェは一番多く彼の小言を言ってきたが、もし場所が変われば、医者は一番前に座り、代表とするはずだが、現在の彼は悪い方の代表である。

どうして、あなた達はこんなにも悪い癖があるのか、小さな事から大きな事全て、諸仏菩薩やリンチェンドルジェ・リンポチェがあなた達の為に解決してくれると勘違いしている。又法会に参列し、少し唱えて、リンチェンドルジェ・リンポチェが加持してくれれば、それで問題ないと思っている。こんな上手い話があるわけない、もし本当にこのような良い話しであれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは常に閉関なんてしない。ここでは、観世音菩薩の凄さはあなた達を浅瀬へと連れて行く事だ、ここで言う浅瀬とは、膝を超えない水位である。リンチェンドルジェ・リンポチェは、水が腰部分の所までしか連れて行けない、その後はあなた自身が何とかしない限りすぐに溺れ死ぬだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは菩薩程の大威神力はない。

経典:「若し百千万億の衆生ありて、金、銀、瑠璃、しゃこ、瑪瑙、珊瑚、琥珀、真珠等の宝を求めんが為に大海に入らんに」

何故百千万億の衆生と言うのか?人類はその歴史が始まってから、絶えず富みを追及してきた。多くの人は、人類の歴史は5000年だけだと思っているだろうが、仏経の教えからみれば、釈迦牟尼仏は地球へ来られた第五尊の仏であり、これから推測すれば、前に四尊が居られたことになる。仏一尊は、一回の人類文化を表す。釈迦牟尼仏の法運は12000年、以前の仏の法運は更に長い。何十億万年前の人類が使う物が現在と全く同じである事は、現在の科学でも証明されている。今徐々にこのような品物が発掘され、テレビやレポート上でも多く説かれている。

人類がいれば其処に貪欲が存在する。今、地球上で、億を越す衆生がこれらを探し求めているか?いや、いない。では「億」と書くのはおかしくないか?この経文は、明らかに地球上の衆生へ説く為にある。なぜなら、遠く古い昔から、人類が絶え間なくこの事を行っていて、止まるを知らないから。人がいれば自然と貪欲が存在し、これ等の宝を探すのだ。百から億へと説き、小さな数字から始めても足していくと多くなる。どの年代もどの時代も、どの一尊の仏が在世の際もこのような事が発生する。だから観世音菩薩は、今回の釈迦牟尼仏の法運だけに現れた菩薩ではない。なので、私らは、観世音菩薩は以前の古仏が衆生を助ける為に再度戻ってきたと言うのだ。

「金、銀、瑠璃、しゃこ、瑪瑙、珊瑚、琥珀、真珠等の宝。」地上で探せる金と銀以外、瑠璃、しゃこ、瑪瑙、珊瑚、琥珀は水中にある。でも山琥珀というのもある。瑠璃はガラスではなく、ある鉱石が高温で熱された後、ガラス状になった物だ。人工ではなく、天然にできた物である。もし、瑠璃がガラスであれば、仏経はガラスと言い、瑠璃とは言わない。瑠璃は地球が自然に作動し、これらの鉱石をガラス状にしたのだ。厳密に言えば、水晶のようなものだ。何故、ダイヤや宝石に言及しないのか?それは分からない、当時はそれが流行っていなかったのかもしれない。古代、深い海でこれらを採取するのはとても困難である。瑪瑙は山だけでなく水中にもある。ある瑪瑙は水胆瑪瑙といい、瑪瑙の中に水を含む。珊瑚も水珊瑚と山珊瑚に分かれ、地球の作動が海を高山に押し上げたので、山珊瑚は山で探す事も可能である。

琥珀は、樹脂が流れ出して、固まった物をいう。琥珀の貴重さは、それが自然にできたものであり、人工では造り出すことができないからである。人は常にこれら宝と認めるものを捜し求めている。しゃこは、ある人が言うには、大きな貝を磨いて出来た珠だという。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェの見解は、これは一種の宝石とみる。これは以前の呼び名で、現在では又違う名前であろう。もし、大きな貝を磨いてできた珠が一種の宝であれば、人類は貝を貨幣とする事を諦めることはない。人類が最初に作った貨幣は、貝殻だったのだ。現在使用しないのは、量が多すぎるのと、保留するのが難しいからだ。貝殻を貨幣にする事を諦めてから、貝の価値が無くなったのだ。このような多きい貝を探し出すのは困難だが、時々拾い上げることはある。リンチェンドルジェ・リンポチェの見方としては、しゃこはやはり一種の宝石と思われ、現在ではどの種類に属するか分からない、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだここまで知る事ができる神通を修めていない。現在は、白色の貝殻をしゃこと呼ぶが、多分違うであろう。現在質の良い琥珀でさえ、探し出すのが困難で、もし大きい貝を磨いて出来たのがしゃこなら、まだ考証を待つことになる。全世界でも大きな貝殻を拾い上げる人を度々みる。

私達が大海原に立つ際、度々このような風がある、此処で言う黒風は強風ではなく、黒色を言い表す。仏法に依れば、民間信仰も含めて風神があると思い、風神は良い事も悪い事も出来る。黒風とは、殺傷力を持っている風であり、良い風ではない。人類は、風なしでは生きていけない。だが、悪い風は人類に危害を加える。台風の色を見るがいい、白ではなく、黒いであろう。通常、台風の中には多くの衆生がいる、それは人類に傷つけられた海族の衆生、鬼道の衆生、龍族も台風の中にいる。何故台風が通過する場所は必ず大きな被害があるのか?アメリカの竜巻も黒風である。何故来たのか?それは、その場所で善行が少ない為、このような黒風が生まれるのだ。仏経にも説かれているが、もし因果を信じない場所であれば、風災の被害が大きく、因果を信じる場所であれば、風災が比較的少ない。昔、台湾では多くの風災があった、もちろん現在もあるが、災害は比較的に少ない。

黒風は、人にとって助けになる風ではない。この宇宙は、地風水火の四大結合によって元素が生まれ、その元素によって物体の現象が生まれる、風もその四大元素の一つである。あなたがこれら地風水火を平等に保つ事によって、我々にとって有利になる。もし、平等に保つ事が出来なければ、それは我々に危害を与える事になる、それは我々の体内にも影響する。どうして病気になるのか?地風水火のバランスが保てていないからだ。誰がそうしたか?あなたが心の中で考えていることや、何かを行いたいと考えている事が、四大元素のバランスを崩すのだ。漢方では陰陽不調で、仏法では四大元素のバランスを失うことだ。何故四大元素のバランスが失われたのか?それはあなたの心が作り出したのだ。現在医学も個人の善の行いが多い程、体にも良いと証明されている。例え、あなたが病気を患っても、他の人に比べて体は良い。

黒風はどのようにして現れるのか?それは、あなたの心が黒いので、それらを呼び寄せているからだ。心は何故黒くなるのか?それは、あなたが因果を信じないからだ。今日鶏を何羽か殺しただけではそれ程深刻ではないと思うか?たった何羽かの鶏を殺しただけで病気を患うものか?此れ即ち因果を信じないからだ。それほど言うならあなたが誰かに殺されてみろ。あなたは、他の人に殺されてはいけない、なら何故鶏があなたに殺されていいのだ?誰が鶏は霊性がないと言った?誰が動物には霊性がないと言った?あるに決まっているだろう!でなければ黒風はどうやって現れたのか?自分が惹きつけたのだ。この土地で多くの悪い事を行って来ると、黒風が現れる。この黒風は、風の色が黒いのではなく、この風の中に多くの恨みが存在しているのだ。因果を信じない場所では恣意的に殺生し、多くの悪業を行い、深い恨みが生まれる。多くの衆生を傷つけると、風害、水害、火災、地震が発生するのだ。

経典:「仮使黒風がその船舫を吹いて、羅刹鬼国に飄堕せんに、其の中に若し乃至一人の観世音菩薩のみ名を称うる者あらば、是の諸人等皆羅刹の難を解脱することを得ん、是の因縁をもって観世音と名づく。」

チベットに800余年居られた蓮師は、何故離れたのか?彼は羅刹鬼国の国王に成りに行ったのだ。そして羅刹鬼達が理由無く人を傷つけないように、管理するのだ。人を傷つけるとは、あなた一人を丸呑みにするのではなく、あなたの血や内臓、それら器官を食べてしまうのだ。肉を食べ、殺生をし、他人に害を加える人は、これらの羅刹鬼を引き寄せる。どうして手術をするのか?それも羅刹鬼のせいだ。あなたが手術を行えば、それらの鬼はあなたの傍で、あなたの血を吸うのだ。あなたの器官で切り取られた部分を捨てれば、それも食べる。鬼子母神も同じく羅刹鬼である。施身法でも、第一に布施するのは彼である。人類の多くの病はこの羅刹鬼と関係がある。突然に災害に巻き込まれて多くの血を流すのも羅刹鬼と関係がある。羅刹鬼は既に地球上にいるが、これは仏があなた達を脅しているのではない。羅刹鬼国はある島にある、だがどの島かは言わない、でないと皆怖がってそこへ行かなくなるからだ。

これらの宝を捜し求める人は、貪念を起こし、本来であれば黒風に吹かれて羅剎鬼國へと連れて行かれる。どうして鬼道へと堕ちるのか?それは生前の貪念が重いからだ。もし仏法を学ぶものが、少しでも貪念があれば、先に羅剎鬼國へ行き、羅剎鬼となる。宝を捜し求める人の中で、たった一人でも一心に観世音菩薩の名前を唱えれば、周囲の人は今回の羅剎鬼國にいく難から逃れる事ができる。あなた達は、一日中衆生を助けると口では言うが、これが本当の人助けだ。あなた達を羅剎鬼國へと吹き飛ばしても、あなた達が一心に観世音菩薩を唱え、そこへ行かない事が本当の助けである。あなた達は、善書を印刷し、自身の周りの人を菜食させ、法会に参列するよう促す事が人助けだと思っているのか?勉強を出来る環境がない子供達を救う事が人助けと思っているのか?それはただ人の世の善である。本当の善とはこれ等の災難にある。何故なら羅剎鬼に噛まれたら、その人は羅剎鬼になる、そして彼等の眷属となる。あなたが鬼道に堕ちればそれは三悪道だ、仏菩薩各尊の願力は全て衆生が三悪道へ堕ちるのを望まない、これこそが真の人助けだ。

話し方を変えれば、もしあなたの貪念が重く、一日中財福を追い続けることであれば、あなたは羅剎鬼國へ堕ちる機会がある。この人の世で何を羅剎鬼國と呼ぶのか?それは四六時中あなた達を食肉飲血につれて行き、衆生を傷つける事をすると言う事だ。例えば、ドラッグを販売する等を行えば、あなたをこの様な所に堕す事が出来る。もし、彼の傍に仏を学ぶ者がいて、観世音菩薩を唱え続けていれば、彼に影響を与える事ができ、手助けする事ができる。多くの人は自分の子供に何一つ障害がなく、悪い子になっても、その内いい子へと戻ってくれるよう望む。自分自身に問うてみるがいい、一心に観世音菩薩を唱えているか?もし無ければ、リンチェンドルジェ・リンポチェの元へ連れて来るがいい、加持しよう。だがたとえ加持しても、ただ一時だけで、後で自分自身が変わらなければ、その後は又悪くなる。そうなれば、あなた達はここは効き目が無いからもう行かない、隣の祈祷師の方がいいと言う、あなた達は皆こうだ。

ただ一人でも一心に観世音菩薩の聖号を唱えれば、あなたと共にする者達が仏を学んでいなくても、修めてなかろうとも、あなたが唱えていれば彼等は一緒に解脱する事ができる、そう考えればあなたの功徳は大きいと感じないか?あなたが家で、一心に唱える事を拒み、修めることもなければ、あなたの家人は済度されるか?あなたは家で唱える事なく、改めもせず、自分の事だけを考える。あなたが法会に参加することは自身の為であり、自分が良くなれば、家族は徐々に良くなると考えているだろう。このような考え方ではではいけない。まず先ほど述べた条件を行わなければならない。皈依して戒を守り十善法を修め、上師に敬意を持ち、三宝を敬う。これであなたは始めて堅い志を持つ事が出来、堅い志を持って始めて専念する事が出来、専念する事が出来て初めて慈悲を学ぶことが出来、慈悲が出来てから初めて他人に影響を与える事が出来る。いつも、私の病が治れば仏を学んで衆生を助けようと言うが、それを行うには多くの条件がある、複雑に思うか?ちっとも複雑ではない。どうしてあなたは複雑に思うのか?理由は、あなたが損をしたくないと思うからだ、皆自分の事だけを求め、他の人が自分よりも苦しんでいる事には、考えが及ばない。

密宗は病は道の為に用いると説く、なぜなら自分が病を患った事があるのなら、衆生達の苦しみも分かるはずだからだ。私達が今日病気になれば、衆生の苦痛を身をもって知る事ができる。私達は更に努力するべきだ、それは自分の病気を治す事ではなく、衆生の苦しみが減るように頑張ることだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは皮膚癌を患っても、仏菩薩に求める事も無ければ、上師にも修めてもらうよう求めもしなかった。なのにどうして病が治ったのか?病は道の為に用いる。この病から逃れず、怖がらずと言う事は、自分がとても勇気があると言う事でもなく、この病が要らないという事でもない。またみんなが口々に言う病と共に共存して生きていくという立派なことでもない。あなた達が化学治療で病を攻撃する事を辞め、平和に病と生きていくのは、ただ自分の髪の毛が落ちて醜くなるのが嫌だからだ。化学治療や手術を行わないのも、あなたがその手術後の苦痛を恐れているからだ。私達は一人で他人に影響を与える事ができるが、それは自身の決意次第である。その決意が無ければ、たとえあなたが毎週法会に参列しても、何も変わらない。

先ほど少し解説したが、家族内ではあなたの影響を受けて少しでも聞いていると思うか。今は全てリンチェンドルジェ・リンポチェがあなたに影響を与えているのだ。それはあなたが病気になったので、家族の皆がリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深いことを知って聞いているのだ、これも病が道に使われただ。あなたが癌を患ったことで、家族の皆が仏法を受け入れた、これで功徳がひとつ出来たのだ。小さな自身を犠牲にして、大きな功徳を得る。あなたが病を患ったことで、家族が仏法の慈悲があなたを助けてくれると知れば、家族は仏法に対して尊敬の心を起こす、これも功徳だ。これがあなたの家族に影響を与え、彼等が未来で解脱できるようになる。此処で言う羅剎鬼国に堕ちない事だ。もし衆生の誰でも、三宝を尊重せず、仏法を軽蔑するような態度をとれば、正に<地蔵経>が開示されたように、三宝を軽蔑するものは地獄へ堕ちる。あなたの行動全てが衆生と関係する、あなたの病が治ってから家族に影響するのではない。あなたがこの過程で、上師や仏菩薩は常にあなたを見守り、気にかけている事を家族にわからせられれば、それが自然と彼等に感動をもたらすのだ。彼等が三宝を軽蔑する態度を取らなければ、あなたは彼等が地獄という道へ堕ちることを防ぐ事ができる。

あなたはひねもす菩薩に早く病を治してくれるよう求め、彼等に仏法の凄さを見せ付けて、共に仏を学びにくる様にするではない。あなたは、びっこがすぐ歩けるようになったり、めくらが見えるようになったりする事は、外道の神通だと思っているが、これはただの奇術に過ぎない。仏法はあなたの肉体を済度するものではない、心を済度するものだ。仏法は繊細な一種の心の変動なのだ。体の変化は重要ではない、婚姻の変化も同じだ。重要なのは自身の病を道用しているかだ。たとえあなたが今日離婚しても其れほど重要ではない、でももし、あなたが離婚した事で、誰かに自分は間違っていたと感じさせたのであれば、離婚を道用したのである。この事は仏経では説かれていないが、感情は執着しているだけだと感じる事が出来る。感情を捨てろとは言わない、人は感情がなければ慈悲を学ぶ事が出来ない。ただ執着する必要は無い。感情がある、それは良い;感情がない、それでも構わない;続けても良い、続けなくても良い、どれも人生の一種の過程だ、それが過ぎれば去る。仲の良い兄弟姉妹、両親や子供のように親しくても皆去る。

ここでは、解脱について説いているが、苦悩からの解脱、あなたが最も苦だと思うもの、最も悩まされているものからの解脱。如何に解脱するのか?菩薩がすぐさま助けてくれるのでない、その後は自分次第なのだから。後に説かれているが、その船を羅剎鬼国に行かさない。では、この船は何処へ漂うのか?岸へと連れて行く。前に述べた通り、ただ浅瀬にあなたを送り、三悪道へ行かないようにするが、あなたはこの船を岸辺まで辿り着かせるか如何か?それはあなた次第だ。あなたが私は出来ると言うだけで好いのではなく、着実に行って身口意を改め、それでこそ自分で船の舵をとって彼岸へまで辿りつく事が出来る。でなければ、一瞬の黒風がまたあなたを羅剎鬼国へ吹き飛ばす。あなたが努力して航海し、舵を取らなければ、また逆戻りだ。

あなたの兄弟姉妹、両親とあなたは同じ船の上にいる。それは今日彼等があなたに対して良かろうか悪かろうか、又あなたが離婚するかしないか、一切関係なく同じ船の上にいる、これが所謂「同体大悲」だ。我と関係が有る無しに関わらず、有情衆生は皆同じ船の上にいる。何故私達は菩薩道を行うのか?全ての衆生が我々と同じ船にいるのに、あなた一人だけで行けるのか?この船はあなたしか載せないのか?いいえ。あなただけが海岸へと辿り着いても、其の他の人が岸に飛び上がらなければ、あなたも岸へ上りきらない。なぜなら皆同じ船の上にいるからだ。私が来たからといって、家族の手助けになると思ってはならない。この手助けは、あなたが思うような:彼が良くなる、又彼がどうなった等ではない。ここでは、ずっと解脱、輪廻の解脱、生死の解脱、三悪道に堕ちる事からの解脱を説いている。

ここでは、絶え間なくリンチェンドルジェ・リンポチェジェに頼らず、あなた達自身の努力が必要だと促している。ポワ法を求め得たからといい、安心して毎日いい加減に唱えてはならない。あなたには福徳資糧がない、だからたとえリンチェンドルジェ・リンポチェがあなたの求めに答えポワ法を修めたとしても、あなたは必ず浄土行けるとは限らない。あなたは懈怠することなく、怠けることなく、常に資糧を累積するしかないのだ。あなたの求めに答えたと言っても、それは今すぐあなたの為に修める因縁があるとは限らない。例えあなたの求めに応じても、あなたの福徳因縁がまだ準備が出来ていないのなら、一日、一週間、一二ヶ月、一年後になるのも可能だ。一年延びれば、三悪道に堕ちる機会もある、だから気をつけなければならない。あなた達が既に仏門に皈依した思うのなら、仏の話に従う事だ。

「是の因縁をもって観世音と名づく。」何故この一言を加えたのか?あなた達は今日自身の貪念の為これ等富裕になれる物を求めた。外道から見れば、貪は原罪で、主はそれを許す事は無かろう。だが、仏法は原罪とは説かない、あなたが生まれてから罪を負っているとは言わない、ただあなたが過去の善悪業を負って生まれてきて、更にこの一世の善悪業も加わった。ただあなたがこの一生で志をもって一心に観世音菩薩を唱えれば、あなたの貪念が重かろうと、観世音菩薩はあなたを助ける。正にあなた達は大量の貪念を以って求めに来たとしても、リンチェンドルジェ・リンポチェはやはりあなた達を助けるだろう。どうしてあなた達を助けるのか?観世音菩薩を見習ったからだ。

もし、あなたの眷属にあなたが嫌な事や不本意の事があっても、あなたはやはり行わなければならない。すぐに彼へ影響を与えるわけではないが、あなた自身が行えば、いつか必ず彼が来る。リンチェンドルジェ・リンポチェの子供もそうだ、私は辛抱強く彼等を待っていた。以前彼等は仏法を学ばず、菜食もしない、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼等の好きにさせた、一度も電話をかけて言付けたりもしていない、だが自分は努力をし続けた。

仏経は決して唱え終えればそれで終わりではない、一文字一文字が珠玉だ、いや、其れより凄い、我々に修行を与えない文句は一つも無い、物語を聞いていると思って聞き流してはならない。何故特に<普門品>を説くのか?それは、あなた達の顕教の基礎が足りないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、お経を講釈する事を学んでいない、ただ自身の修行経験から仏の苦心、仏の慈悲を感じ取っただけだ。こんなにも重い貪念を抱えて宝探しをしても、仏は助ける。あなた達は貪念があるが、そこまで重くない?なのにどうして羅剎鬼国へと向かってしまうのか?それは貪念が原因なのだ。あなた達皆貪念がある、仏法に対しても貪念がある。だから観世音菩薩はあなたを救うのだが、この船の舵はあなたが取る。間違いの方向へ進む事無く、黒風に影響されることなく、自分で最善の注意と警戒心を持ち、もう二度と間違えて無羞恥にならぬよう。二度と口だけで自分は懺悔する言うではない。懺悔は自身が今後行う事なく、もう永遠に間違う事がない、これが懺悔である、でなければあなた達のはただ謝るだけだ。経典にも、私達に警告し、どうすべきかを勧め、諸仏菩薩と上師は衆生を見捨てることはないと伝えている。一つの船の中たった一人でも、信じ、唱えていれば、他の衆生も同じように救う。まるで現在あなた達が1人で道場にきても、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたの家族皆を救うのと同じだ、なんて安上がりなのか、このような道場があるか?リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達を甘やかしすぎたと気づいた。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは観音法門を修めたからには、観世音菩薩がされた通りにする、でなければ観世音菩薩に見つかれば叩かれてしまう、本当に叩かれてしまう。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いアキ護法と迴向儀軌を修持くださった。

法会は円満となり、弟子達はみな尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲なる修法及び殊勝な開示に感謝を申し上げ、起立して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りられるのを恭しくお送り致した。

2019 年 10 月 13 日 更新