尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示– 2017年5月7日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、参加者全員に貴重な仏法を開示した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは出家衆に「妙法蓮華經觀世音菩薩普門品」を唱えるよう指示した。唱え終えると、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示をし始めた。なぜ、今日は「寶積經」を開示せず、この「普門品」を唱えたのか?本来なら「寶積經」の続きを開示したいのだが、あなた達の根器と理解力では、このまま続けても2文字の言葉でしか表すことが出来ないだろう。それは「糊塗」だ。先を聞いても、ますます「糊塗」になるばかりである。

皆も知っての通り、仏法だけが「慈悲」という言葉を使う。慈悲は仏法にだけある名詞なのである。どの宗教にも「慈悲」はないのだ。だが、時下の人は皆「慈悲」に対して曲がった考え方や大きな誤解をしている。そのせいで、沢山の人々はこういうのである。「あなたは慈悲をしなさい」「あの方はとても慈悲深い」と。しかし、正直な所、「慈悲」を行える人はもう菩薩の地位に登ってると言っていい。もし、学習せず、慈悲への修行もしないのであれば仏法を学ぶ人ではない。例えば、我々が種を撒こうとしよう、それには肥えた土壌でないと、この種は萌芽、開花の成果を出さないのである。つまり、「慈悲」は肥えた土壌で、我々に生生世世と仏法を修行し、未来への機会(チャンス)を生み出す結果となるのである。なので、もし「慈悲」がなければ、あなたがどんなに拝んで、念じて、事をどれだけしても、仏法の前ではあなたの願いが成就することはない。

仏法の第一法門は懺悔である。「懺」とは過ちを認める事ではない。あなたが快く全ての果報を受け取るだけでなく、最も重要な事はあなたが傷つけた衆生が怒りと憎しみから我々を傷つけようとするのを憐憫し、慈悲の心から懺悔をすることである。あなたは自分のせいで衆生達に悪の原因を植え付けた事を懺悔しなさい。もし、「今日私が懺悔をしたので全ての事が良くなる」とか、「私は懺悔をしたので開悟できる」等の考えを持つのなら、それは慈悲の心がないのである。

慈悲の心とはどのように学習し、修練するのだろうか?それにはまず、慈と悲が二つの事だと理解する事からである。たくさんの言語がある中で、チベット語、梵語、中国語の三つが適切に「慈悲」という名詞の意味を翻訳されている。他の言語ではこの名詞はないのだ。外国人が言う「mercy(情け)」「compassion(同情)」はどれも慈悲ではない。慈悲とは「誰かに対して良くする」や「ある目的の為に慈悲をする」ではない。「慈」とはあなたの良い物全てを引き換えに衆生を苦しみから救うことである。引き換えといえども、彼らの苦しみと交換して自分がその苦しみを受けるのではなく、あなた自身が惜しまず、自ら持っているもの全て、食糧や資金を与えて、布施供養するのだ。そうすることによって、あなたに衆生を利益する能力が現れるのだ。

その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは子供を抱えお手洗いに行く人を叱り、お手洗いに行った後は門の外にいなさい、と指示した。

大乗仏法は六波羅蜜を修めなければならない。福報や知恵以外にも、最も重要なのは我々の慈をしっかり育てる事である。もし、惜しまない心が無ければ、自分の良い物全てを引き換えに衆生を苦しみから救い、利益を与えるなんて出来る訳がないだ。惜しむ人は慈を学ぶことは出来ない。慈が出来なければ、悲も当然出来やしないのである。我々がいう「無縁大慈」の「無」とは縁がないという訳ではない、縁がないならばどのようにして、衆生を助けるというのだ?この「無」が示すのは、慈は空(くう)性であることだ。自然に産まれるわけでなく、縁があって生まれ、その後また消える。その意味は慈を行う者は皆絶対に自分がした事によってどのような報酬が貰えるなど一切気にしない人である。まして、彼らは周りから自分がした事に対して褒めてもらえるかどうかも気にしなければ、自分がした事をどれだけ皆が知るかさえも気にしないのだ。それに、自分が行った事で、衆生が苦しみから救われ、それが自分の励みに感じる事がない。もし、それを励みとして受け取ったら、それはもう無縁大慈では無くなるのである。

「大」の定義は慈がどれ程大きいという事ではなく、十地以上の菩薩だけが行う事が出来る無遠弗屆である。我々にはその資格がない。だが、その方向に進み、学ぶ。そして我々は慈しみを育て、自身に起こる事は全て縁に始まり縁で終わる、どれも皆過去世に行った業力が関わっている事を自ら理解する事が大事である。もし、あなたがこの話に同意が出来ないのであれば、自然に慈を修める事は出来ない。

この一生であなたは誰かに傷つけられ、反対され、嫌われ、理解を得られない、と思う事が有るであろう。これらはあなたの悪縁と悪心を溜め続けるだろう。我々はこの一生の善悪業は自分が過去世に起こした事が招いた結果であるとしっかり理解し、全てを受け止める。すると、どんな事でも、快く受け入れる事ができるのだ。消極的に我々の人生と向き合うのでは無く、生生世世に起こった善悪業はこの一生に於いて自らの果報を成熟させる機会があるのを知る事である。我々は更に勇気をだし、努力をする事で自らの貪・瞋・癡・慢・疑を直していくのである。この事によって、衆生の苦しみは永遠に存在するが、もし仏法の助けがあれば、我々は衆生を苦しみの中から救えるという事を身を持って知るのである。

一般に仏法を学ぶものは、あなたが良い言葉で誉めそやするのが慈だと思っているが、慈は他人の耳当たりのいい話をするのとは違う。「寶積經」の開示では、釋迦牟尼は魔王を叱ったが、魔王はすぐさま飛び上がり「何故私を叱るのですか?」と問いた。このように、叱って、魔王を飛び上がらせ、理由を問わせると、縁が起こり、仏は彼に教える事が出来るのである。慈は良い人になるだけではない、良い人になるのは当たり前だ。これは人として当然である。仏法を学ぶ人は慈を修める、「良い人」の範囲を超えるのだ。もし、あなたは良い人になる事が慈を修める事だと思うなら、それはあなたが慈を修めていない証拠だ。なぜなら、あなたは「良い人になる」事に執着があるからだ。

現に今多くの人が両親の事で頼みに来る。両親は「良い人だから」と認識している。あなたがその言葉を口にした時点で、執着が現れる。あなたは、「自分の両親に降り掛かる様々な病気を招いた衆生は全て悪者だ、なぜなら自分の両親は良い人だから」と思っているのだ。これは慈ではない、あなたはただ自分の両親が良くなればいいと思うだけだ。ならば、あなたの両親に傷つけられた衆生はどうなんだ?どうして多くの人は佛菩薩に求めても得られないのか?理由はそこだ、その概念に問題があるのだ。もし両親は生生世世何一つ悪業をしてないのなら、この一生重病にかかる事も無ければ、治すことが出来ない病気にかかる事もないのだ。我々は両親の過ちを批判しているのではない、あなた自身が仏法を学んでいる身として考えれば、そこは解ることだろう。善悪の縁は誰かが我々に与えるのではなく、自分で創るものだという事を。自分でした事を受け止める、そうする事によって自分の過ちを見つめ直す機会を掴み、初めてあなたはこれから慈を学習していくと言えるのである。

慈を学ぶ事は容易ではない。あなたに、あなた自身を犠牲にあなたの持っている物で人助けをしなさいと言う。最初の内は良かったのが、助けすぎるとやはり疲れが出る。疲れだけじゃなじく、苛々する事も増え、自分の生活にも影響が出る。仏はもちろんあなた達に全てを差し出して衆生を助けなさいとは言わない。重要なのは、あなたがその事をすると決めた時、心から衆生を救いたいという気持ちなのか、それともただ優越感に浸りたいだけなのか?ある人は野良の動物を専門に助けるが、ホームレスは助けない。自分では善い行いであると認識している思っているが、これは本当に慈なのか?いや、違う。又他にも市場で魚や鳥を買い、自然に帰す。いや、これも慈ではない。

「無縁大慈」の「無」は「無い」という意味ではない。仏菩薩は縁があるから衆生を助けるのではなく、又縁が無いからといって助けないという事はない。ここの「無」とは、「慈」は空性である事を意味するのである。これは因縁から生まれたもので、縁があれば助け、助け終わると消える。縁を攀じる事はない。衆生がこの縁を切るか続けるかは、結局は衆生本人次第である。縁の無い衆生を助けても、あなたがその衆生を助け出す事が出来るとは限らない、だがだからと言って我々と縁があるものしか助けないわけでもない。縁が起きるので助けにいく。縁が起こった後は上師、そして諸仏菩薩が引き続き途切れる事なく、善の縁をこの苦しんでいる衆生に与えているのである。苦しんでいる衆生がこの縁を大切にするかしないかは、衆生自身次第だ。もし衆生がこの善の縁を大切にしないのなら、諸仏菩薩慈を行っても、所詮未来の彼がこの縁を使えるように種を撒くだけである。反対にもし衆生がこの上師と諸仏菩薩の慈である縁を受け入れ、大切にするのなら、上師と諸仏菩薩は自身の資糧で衆生を利益する。慈の力が現れ、衆生の苦と取り替える。仏菩薩が凄いのでもなければ、上師が凄いのでもない、ただ上師が諸仏菩薩から衆生利益し、苦から離す事を学んだだけのこと。苦しくもがいた衆生が慈の力を感じた時、彼らは調停を受け入れるのだ。

[地蔵経]はこう言う。善知識はあなたが仏を学ぶ因縁を阻碍するすべてを押し止める事ができるが、それを消滅する事ができない。と言う事はあなたは、しっかりと仏法を修め、自分自身の行いを改めることである。あなたが、仏法を修めず、自分自身を改めなければ、押し止め得る時はいくばくであろう。衆生はいつでも後戻りをする。たとえ今日あなたが仏教を学んだからといって、後戻りしないとは限らない。[妙法蓮華経]並びに[地蔵経]のも開示されている通り、衆生は助けを得た後、もう大丈夫だと思い、また同じ道へ後戻りするのである。長らく皈依した弟子程よくそのような事が起こる。自分では、修める物も修め、しっかり拝み、やる事はやってる、自分は何もかも全てやったと思い込んでいるのだ。問題はどこにあるだろうか。それは慈を修めていない、という事だ。あなたが拝み行った事は全て衆生への利益の為ではない。衆生はまだ苦しんでいる。そなたは何故楽と言えるのか?一つの国、例えば「台湾」が南部と北部で分かれていて、南部がとても混乱している場合、あなたは北部に住んでいるとしても、乱れないと思うか?乱れは遅かれ早かれ及ぶであろう。

あなたが仏法を学んでいるからといって、日々平和に過ごせ、修行の日々を送る、その平静の生活は自分の修行が良く出来ている現われであると勘違いしてはいけない。仮にあなたが生生世世の間に犯した悪業の果報が、この一生で返せたとしても、あなたはこの宇宙でただの一つの個体でしかない。宇宙で起こったことは我々にも影響する。いつの日か我々が輪廻の苦海中に居れば、宇宙で発生したあらゆる事は我々にも影響を与えるのだ。しかしあなたが法界へと足を踏み入れた場合を除いてだ。もし、仏法を学ぶのは自分中心の思いであり、病気の子供の為や、自分の健康の為、夫婦間の関係であったり、または学業及び事業等の為であれば、これは慈を学んでいない。ある日果報が熟し後、あなたがどれ程助けを求めても、仏菩薩は助ける事は出来ない。なぜなら、あなたは衆生を助けた事がないからである。あなたの心と上師、そして仏菩薩の心は全く背中合わせ状態である。

どうしてこんなにも無縁大慈を強く強調するのか。仏菩薩は我々の為に何事をしても、何も言わない。やり終えればそれでなくなる。もし仏菩薩が自分がしてきた事に対して意識していたら、執着心が生まれ、善業の力が彼の輪廻に影響し続ける。良い事をしたからといって、輪廻に遇わない事はない。同じように遇うのだ。ただ、あなた自身がたくさんの善をし、たくさんの人々を助け、たくさんの衆生があなたに借りを創れば、この善の力は自然とあなたを引き戻すだろう。我々が言う輪廻を切るとは菩薩の道を歩み、修めることで輪廻を回避することではない。怖がらず、輪廻に怯えず、ありのままの自分で死ぬ事である。意味は輪廻がしたいのなら輪廻をし、したくないのなら輪廻をしない。ここの輪廻とは衆生の為に戻ることだ。

我々は将来生死自在の能力を手に入れる為、必ず慈を修める。人々は、リンチェンドルジェ・リンポチェに「ポワ法」を修めて頂ければ、阿弥陀仏のところへ行き、福を享受する事が出来ると思っているが、リンチェンドルジェ・リンポチェが何度も開示をした通り、あなたに福を享受させる為に、或いは死に際に苦痛を受けない為に修めるのではない。あなたはこれまでに衆生にどれ程借りを作ってきたか、それを返さないで済むというのか。あなた達の為に「ポワ法」を修めたのは、あなたがこの一生菩薩道を修める資格がないので、阿弥陀仏の下で菩薩の道を修めさせる為である。あなた達はこの一生完全に自分の利益の為だけに生きた、それで大乗仏法を自分で修めようなんてそんな資格はない。だからこそ、釈迦牟尼仏は我々に「阿弥陀仏」という法門を与えて下さったのだ。この浄土の法門で、あなたが阿弥陀仏の浄土に至る事が出来れば、菩薩に成れる事が保証できると開示なされた。なぜなら、あなたが往生前に浄土に行くこ事を欲するのは、病気の苦しみ、死の苦しみから逃れる為でなく、自分がこの地球上に生まれ一生菩薩道を修める事が出来ない事を恥じるからだ。このような人こそ、誠の願いが叶い往生できるのだ。阿弥陀仏の下では福を享受きるという事を迷信するではない、なぜならそれは絶対に無い事だ。あなたが今家で何時まで寝ていても誰も起こしに来ないが、阿弥陀仏の処へ行くとそれは不可能である。

リンチェンドルジェ・リンポチェはネパールで4500メートルあるラプチ雪山で瞑想修行した際、早朝3時に多くの鳥がさえずりを始め、一羽が鳴くと千羽の鳥たちが一斉に鳴き出し、起きずにはいいられなかった。阿弥陀仏の処も同じで、時計のアラームよりも正確だ。時計ならまだアラームを止められ、ケータイも電源を切ることができる。あなた達は早朝3時に鳴く鳥たちを聴いたこことがないだろう。あの鳥たちが鳴く声はとても美しく、煩躁を感じない。リンチェンドルジェ・リンポチェは鳥たちが励ましてくれていると感じ、しっかりと修めることが出来たのだ。一ヶ月が過ぎた頃、鳥たちはリンチェンドルジェ・リンポチェが怠けしないことから、少しずつ早朝のさえずりの時間を後に延ばしていった。

たくさんの人は「ポワ法」をお願いすれば、自分は今後苦労しなくて済む、自分はもう十分苦労してきた、阿弥陀仏の元へ行き享福しようなど、そんな考えを持ってはいけない。もしこのような考えがあるのなら、それはあなたが浄土宗、阿弥陀仏が説く仏法に疑問があるという事だ。「寶積經」は、あなたは疑城に生まれ500年仏を見ず、500年後に出てくると、あなたは自分がどこにいるのか分からないと開示する、なぜならあなたはまだ何をしに阿弥陀仏の下へ行くのか、準備が出来ていないからだ。多くの弟子は両親の為に「ポワ法」をお願いするが、たとえリンチェンドルジェ・リンポチェがそれを承諾しても、因縁があるとは限らない。心が間違っていることもある。また、たとえリンチェンドルジェ・リンポチェがあなたの為に超度をしたとしても、阿弥陀仏の処まで行けるとは限らず、もって天界であろう。あなたは慈悲の心を持たずに「ポワ法」をお願いするなら、阿弥陀仏の元へいくことは不可能である。チベットではどうして「ポワ法」をお願いする際に、等身大の黄金を供養しなければならないのか。まず、浄土で学ぶ仏法は黄金より、もっと珍しく価値のあるものであること。次に、命がもう僅かである人の貪愛、執着全て破らなければならない。今となっては誰一人、等身大並みの黄金を供養するものはいない、指一本に等しいものさえもだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはとても苦労人であるので、あなた達がお願いする際、少しでも誠意が感じられたら承諾する。

今日開示を行う「普門品」は、あなた達が聴けば聴くほど怖くなるであろう。なぜなら、全くやるべき事を行っていないからだ。人々は皆、「普門品」は簡単だと思うだろう、普段仏寺でも念じているのだから。けれども、話始めると、あなたは怯えるであろう、なぜなら自分が何もやり遂げていないと知るからだ。

我々は同体大悲と言うが、同体とは全ての衆生と諸仏菩薩は同じ成仏の条件を持ち、同じ本体をもつこと。只一人の衆生がまだ輪廻苦海にいたら、この同体もまだ輪廻苦海にいるのだ。我々が涅槃を証したからと言って衆生を構わないわけではない。無余涅槃とは仏が涅槃を証したので、衆生を構わないという意味ではなく、衆生が恭敬心を持ち、仏の言うことを誠実に聞き、その通り修行を行うことで、仏は感動し、私たちを助けてくださるのだ。どうして、全ての衆生を助ける事ができないのか。それは無縁の衆生は助ける事ができないからだ。無縁の衆生と言うのは、言うことを聞かず、自分の考えを持ち、自分の方法で仏法を学ぼうとするものの事を指す。これらは菩薩に求めても、得られない。我々が無縁大慈、同体大悲を理解した時、初めて慈悲を修めることができる。

慈悲は二つの段階に分けて修める。慈は全ての衆生をあなたの母親としてみる。そうみた時、あなたは自分の母親を傷つけるだろうか。あの自分の両親でさえ殺すような人を除いて、一般の正常な人は自分の母を傷つけたりしない。今では自分の母に対し、親孝行するものも少なくなってきているが、母を殺すものはいない、だが、母に反抗する方法がたくさんある。もし、衆生が皆あなたの母であったら、その衆生に対し、憎しみの心が沸くはずはない。たとえ誰かが我々を攻撃し、傷つけたとしても、どの程度まで傷つくのかを自分で分かっているだけでよいのです。この世に起こる様々な出来事を解決できるのは、あなたが財力、勢力、学問、知能が有るか無いかではない。重要なのは慈悲である。慈悲だけが宇宙中の全ての煩悩を解決してくれる。人の八万四千種の煩悩を対治することができる。慈悲だけが、我々が人生に於いて様々な困難、障害、苦しみ、怪我に相対する事を助けてくれる。もし、慈悲を修めないのなら、たとえあなたが、戒を守り素食を続けたとしても意味がない。

仏本では、我々に「慈悲喜捨」を唱えるよう求めている。それは我々が修行に精進し、衆生に利益を与えられる望むからだ。衆生とは、我々自分自身と自分と関わりのある、前後左右、過去から未来の衆生全てを含む。回向の際、特別な事で、特別な方に回向する場合以外は、我々は毎日友情、衆生全てに回向すれば十分だ。自分の夫に回向しなければ、動物(第三者)がくるのではないかと心配する必要はない。慈悲が仏法を学ぶ人にとってどれだけ重要な事かを理解できれば、あなたは自分の心と身体を放縦することは無くなり、自分が規則を厳しく規律を守る努力をする。我々が自己を放縦し、自分の判断が正しい、自分は偉いと勘違いをし、衆生が皆自分に借りがあると思い込むのは、欲張って飽きることを知らないような考え方で、何度言っても、諫めても、聴く耳を持たないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが「施身法」を修め、衆生を超度される事が出来るのは、法が凄いのではない、かといってリンチェンドルジェ・リンポチェが凄いのでもない。「施身法」とは慈悲の極みである。慈悲の力で衆生の怨恨を消し、無形にすることで彼を助けるのだ。例えば、彼の心は怨恨に満ちている時、あなたが唱えても彼は聞く耳を持たない。呪文を唱えているから衆生が皆怖がると思うな、たとえ密法中「誅法」を修めても、我々の心の中は慈悲であり、彼に対抗する為でも、殺す為でもない。ただ自分が慈悲を修めることに精進し続け、仏法の基礎が出来たとき、あなたはどのような呪文を唱えても効果を現すことが出来るのだ。皆は大悲呪文を唱えた事があるだろう、唱えた後、言うとおり大悲水を飲む。だが結果は変らず、病は治らない。大悲呪文を唱え、大悲の水を飲めば、全ての事が良くなるのではないのか?もし、だめであれば、あなたはきっと仏菩薩から御利益が頂けなかったと思うだろう。台湾という国は商業社会だ。コップに大悲呪文を印刷すれば、その中は大悲水と思い、飲めば加持して下さると思うだろう。慈悲心がなければ、あなたが大悲呪文を唱え続けても、それはあなたと觀世音菩薩の縁を結び続けるだけで、いつかの一世に修め得る機会があるだけだ。

例えば、大悲呪文を唱えて効果を出したいのなら、「大蔵経」の中に書かれている通りに行うのだ。あなたは觀世音菩薩に1万パーセント恭敬すること、また上師から灌頂口傳を得た時、この呪文が本尊に相応するのだ。毎日多くの人が大悲呪文を唱え、経典にもあるように觀世音菩薩の呪文はあなたの人生で起こる全ての苦を解決してくれるとある。なら、どうして唱えても効き目がないのか?呪文が正しくないからか?それとも觀世音菩薩は台湾国語、広東語国語が通じないのか?もしや梵語でないと通じないのか?觀世音菩薩はあなたがどの言語で大悲呪文を唱える事によって相応するのではない。実は「普門品」の中で我々にどのようにして觀世音菩薩と相応できるかをもう教わっていたのだ。だが誰もそこに目を留めるものはいなかった。なぜならこの経本には1、2句でしか書かれていなかったからだ。

「妙法蓮華経」の妙法の所以は釈迦牟尼仏が開示直前、多くの阿羅漢が離れて行った。彼らはこの法門を通し修行する事で生死から解放、輪廻から解放される事を信じなかったのだ。「妙法」この二つの文字は、この経、この法門は我々がこの一世で生死から解放される機会を手伝ってくれるという意味だ。仏の知恵だけが編み出すことができる。「蓮華」とは清潔を現す。我々は今日この五濁悪世、汚れた泥の中にいるのと同じだ。仏の加持、滋潤が無ければ、我々は汚れた泥の中で身を置く事になるだろう。仏法の加持及び滋潤を通して、一輪の清潔で綺麗な蓮華が咲くのだ。意味は苦しみの中でしか修めることが出来ない。我々は苦しい事を嫌がるが、しかし苦しい事が無い限り、あなたは仏法を修めることはできないのだ。我々はすでに苦しみの海にいるのにも関わらず、あなたはそうでないと言っている!最近は夫も子供もよく話を聴いてくれるし、健康だ。そうなれば、仏の言う八種の苦しみ、あなたは要らないのか。あなたは自分は死ぬ事も、歳を老いる事も、病気になる事も無いと言えるのか?苦しみはこの三つで十分だ。あなたが苦しいのが嫌だと言う、それはあなたが良い暮らしをしたい、人天界として生まれたいという現われで、あなたは意識上の快楽に眷恋する。あなたは仏教から教わる永遠の楽を味わうことはできないであろう。なぜならあなたはこの道を選ばないからだ。

「妙法蓮華経」の中で書かれているように、我々はまさに火に包まれた家の中で生活しているようだ。あなた達はそれを感じることがなく、楽しそうにしている。私の息子がもうすぐ卒業し、娘が結婚する、リンチェンドルジェ・リンポチェ結婚披露宴に参加してくださるようにと求む。リンチェンドルジェ・リンポチェが参加するだろうか。参加すれば皆一斉立ち上がる、中には弟子ではない人たちもいる。なぜ、行く必要があるというのだ。ある時、成都へ夕飯を食べに行った際、全ての弟子が立ち上がり、幾つかのテーブルは地元の人が座っていたのだが、彼らまで立ち始めて、周りの状況を把握した後、また座ったのだ。だからもうその必要はない。

「妙法蓮華経」で述べたように、我々は今、火に包まれた家の中にいるようだ。仏菩薩は様々な方法で衆生を車に乗せた様とする。そこには鹿車や羊車、牛車がある、出てきた後、あなたはある一台の車に乗る、ここの鹿車、羊車、牛車は小乘大乘金乘を意味する。あなたが修める乘によって乗る車が決まる。、どの車にもたくさんの玩具があるので、あなたが好きなように選んでよい。あなたが仏法を好きではなく、仏法を軽視するのであれば、あなたに車に乗り遊べと言っても、あなたは行かない。なぜなら、あなたは火に包まれた家の中がやはり楽しいと思うし、自分の欲望が満たされればそれでいいと思い、車に乗る必要などあるのか?どこに連れて行くかも分からないのに、現在こそがとても重要なのだ、私の現在を変えられることができるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたの現在を変える事は出来ない、現在は過去が創り上げたのだ。あなたに教えられることは、どのように未来を変える事ができるかということだけだ。だが皆はそれを求めず、すぐに効果が出るのを求む。もちろん、今すぐあなたに感じさせることができる事もあるが、誰しも皆がそうとは限らない。

「妙法蓮華経」の重点は釈迦牟尼仏が本経をここ地球で説いたのは、我々が苦海中に陥っているのに知らないからだと言う事を我々に教えた事だ。しかし、この苦海中から逃れられることはできるのだろうか?あなたがこの車に乗るのなら、出来る。車の中にはたくさんの玩具があり、飽きることがない。今日あなたが死ぬ前は苦しまないように、管を挿さない、手術をしないようにという願いを込めて、「ポワ法」を求めるのではない。だが、多くの人がこのような思いで求めていることを、リンチェンドルジェ・リンポチェは知っている。このような考え方だと、その後阿弥陀仏の下へ行けても、修行に障碍が出るであろう。他の人は鳥の鳴き声を聴いて五分で起きるのに対し、あなたは一時間もかかる。そうすると、あなたは仏法を一時間少なく聞くという事になる、これがあなたの障碍だ。

「妙法蓮華経」の觀世音菩薩の品を特に紹介する。この「普門」と言う二文字は「普通」という意味でなければ、「普遍」という意味でもない。もし、この解脱門が普遍だと思う人があれば、それは間違いである。この普の定義は觀世音菩薩は慈悲の化身で、觀世音菩薩は衆生を救度する、どの種族かを分別せず、あなたは誰かとも分別しない。最も重要なのは、あなたの心、そして縁が結ばれているかいないか?縁があれば觀世音菩薩は平等の心で衆生を利益する。お金があるかないか、拝む際に恭敬心があるかないか、一切考慮しない、分け隔てない心。この門は解脱門、六道の衆生が觀世音菩薩の慈悲を学ぶとなれば、觀世音菩薩の法門を修めることが出来れば、必ずこの解脱門へと進むことができ、生死の門から解脱できる。

「普」のもう一つの解説は、情のある全ての衆生は自らを一般の衆生として觀世音菩薩の教えを受け入れることができるか。もし、あなたは自分は権力がある、学歴もある、地位もあるという考え方を持つのなら、あなたは空性の慈悲心を学ぶことなど出来ません。空性の慈悲心がなければ、仏法は我々と無関係である。多くの人は「普門品」が我々の難を救う、救難の経だと思う。これでは、釈迦牟尼仏はきっと觀世音菩薩救難経と言い、決して「普門品」と言わない。内容は全部どのようにすれば、あなた達の難を救うのかと方法が説かれている。だが、なぜ「普門品」と書くのだろうか。なぜなら、觀世音菩薩の「普門品」を通して、あなたは身をもって、この深い一門を体得し受け入れる事が出来、生死を解脱する機会が得られる。

一門に深く入るとは如何いう事か?慈悲、あなたはこの門以外に通る道はありません。もし慈悲を学べないのなら、あなたにはまだ嗔恨の心があるからだ。夫または妻を怨み、あれを怨みこれを怨めば、慈悲はあなたと無関係になる。あなたは觀世音菩薩と接触できることは出来ない。觀世音菩薩は中国ではとても普遍的な存在である。多くの道教は觀世音菩薩の聖像を、奉っている。だが、觀世音菩薩が必ず来られるということなのかは分からない。もし、彼の次第や教えの方が間違っていると、觀世音菩薩は来られない。あなたが觀世音菩薩を拝めば、觀世音菩薩が来られるわけではない。「普門品」中では觀世音菩薩はたくさんの化身を持つと説かれている。中土では觀世音菩薩は32個の化身を持つと言われ、あなたがどのような姿であれば、觀世音菩薩はその姿で助けにいくのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学んでいた頃、32個の化身という言葉の意味が分からなかった。その後、ある仏教文物店に足を運び、この本を見て、それを家に持ち帰った。それで始めて如何いうことかと理解した。リンチェンドルジェ・リンポチェが賜予した觀世音菩薩法像はリンチェンドルジェ・リンポチェが供奉した法像だ。リンチェンドルジェ・リンポチェとこの觀世音菩薩像の因縁は、密教を始めたばかりの頃であっだ。ある日仏教文物店に寄った。時期は夏だったので、リンチェンドルジェ・リンポチェ半袖でを着ていた。すると突然左腕が痒くなり、かき続けたら、皮膚が破け血が流れでた。後ろを振り向くと、尊觀世音菩薩像の左腕に凹みがあり、損傷しているのをみた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一体仏像は私と觀世音菩薩の縁を結ぶのを助けて下さったと思い、この觀世音菩薩像を家に持ち帰へり、その左腕を直したのだ。外道はその仏像のせいで、あなたは血を流したと言う。だが、すぐにリンチェンドルジェ・リンポチェは觀世音菩薩はとても慈悲深いと思った。リンチェンドルジェ・リンポチェに仏像を直す機会を与えて下さったのだ。「寶積經」の中で仏像を直したものは大いなる功徳が得られると説かれている。

觀世音菩薩は、またの名を觀自在菩薩や無畏菩薩ともいう。觀世音菩薩の説く「観る」とは眼で見るのではなく、我々の心で観るものだ。觀世音菩薩は智慧の眼や、法眼、天眼で全世界輪廻世間全ての衆生の苦を観る。觀世音菩薩はどの法門を修め、道悟ったのか。それは、「耳根円通」を修めたのだ。耳を頼りに大定に入った後、仏法の真理全てを感じることができたのだ。

音を聴くだけでどうやって入定出来たのか。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前ある経験をした。それは、雨の音を聴き、聴き続けて最後には、何も聞こえなくなった。聞こえなくなったとは、聾になったわけではなく、耳が作動しなくなったのだ。一つの器官で他五官攝受する。我々の眼耳鼻身体の六つの器官はずっと動き続けている。我々は一つの器官で、これを攝受し、動かぬよう掴むことが出来る。動かなくなった際に、この気が始めて中脈に入り込み、定が生まれるのだ。何故觀世音菩薩は「耳根」から修めに入ったのか?なぜなら人の一番凄い器官は耳だからである。音を聴くという事は、目よりも凄いのだ。我々は2kmか3km先までの音が聴こえるが、眼だと1km先以上は見えない。もし特別な眼を持っているなら別だが。

「聞所聞盡」とは音が無くなるまで聞く事ではない。我々は「所」と「能う」を知らなければならない。我々は反応する根本の根が作用しなくなるまで聞く。それが動かないならば、我々の意識には影響しない。意識が動かなければ、我々の心動くことはない。心が動かなければ、あなたは入定できる。人は52箇所の「心所」がある。この52個の「心所」は手分けして我々の眼耳鼻舌身意をコントロールしている。「所」は送受信所のようなものと言える。全てのメッセージを受信し、また一つの反応を送る。もし、この「所」が受信した後、何も反応しなければ、これは、心に影響しなかったということで、あなたには、入定の機会がある。聞所聞盡は音が聞こえないのではない、音はずっと動き続けている。だが、あなたが一つに音に定めたら、聞所は「能う」のメッセージを受け入れない。「能う」と「所」は仏法用語である。能うるは神経系統が外からのメッセージを受け取る、受け取ったら、神経系統が我々の脳細胞に入り反応をする。脳細胞は眼、耳とはっきり分かれている。「所」が動かなかったなら、心も動かない。一つの器官が六つの器官を攝理する、即一つの器官で他の眼耳鼻舌身意を縛り付ける。縛るのは、その器官を死なせるのや、動きを止めるのではなく、その一瞬世界の内側と外側が止まる。動かなければ、智慧が生まれる。この智慧とは聞思修である。あなた達が考えているのは意識上での分別で、即自分が聞いたことがあって、何であるか理解している。

リンチェンドルジェ・リンポチェは常に皆に仏法を聞き終えたら、その意味を考えるのではなく、自分の行為や言動、思想が聞いた仏法に違反するかを考えるべきだと説いている。もし間違いがあれば、すぐに直すこと。だが本当の聞思修は定の中にある、智慧を開くことによって、始めて本当に智慧を使い、仏法の意義を奥深くまで考える。

「世」、仏法の定義では、一切輪廻の六道はすべて世間という。世に言う出世とは坊主頭を刈る事ではなく、輪廻の世界を離れたものが出世である。六道の中で輪廻すれば、あなたは凡人である。凡人とは地球の人類という意味ではない、天人でさえも凡人なのだ。たとえ、あなたが天道に在っても、まだ輪廻している、故にまだ世間にいる。全て一切が輪廻の世間の中に居り、觀世音菩薩の定力、仏光は照らす事ができる。

「音」これは人間の声、言葉、とは限らない。六道の中で発せられた全ての音、これ等の音は我々の定義する音だ。科学で説くと、音は一種の電波であり、ラジオに電波が入り、我々に聞き取れるように放送する。それら送ってくるのは電波、一種のエネルギーである。我々人間が発する音を除いて、本当の音とは法性の中から発せられる音である。ここの音は、一般的に言う天眼通、神通の人が聴く取れる音ではなく、大菩薩や諸仏だけが聴く取れるのだ。この聴くとは耳を使うのではなく、定の中でメッセージを受け取り、どこからの音かを分別する。この音は言葉でもなければ、我々の話す声でもない。觀世音菩薩だけがしっかり聴き取れるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは本来、新竹の客家話と苗栗の客家話は違う事を知らなかった。この前、苗栗で会議をしに行く際、わざわざある弟子に通訳させただ、弟子が通訳を始めると、相手側が通訳しなくてもいい、標準語でも分かると言われた。苗栗と新竹は近いのに、こんなにも違う。この音はあなた達が想像しているような声ではなく、どれもエネルギーなのだ、そして我々が話す声と同じように変化する。觀世音菩薩は深い禅定を通して、宇宙中の全ての音、罵る声や諷刺の声を含め全部知っている。だが、怒るらない。

我々がこの言葉を理解した時、觀世音菩薩に求めるのは小さな病気の為でも、自分の婚姻関係で奥さんが早く帰ってくるようにと頼む為でもないことを知る。「普門品」にはそんな事は書かれていない。また、離婚しないようにとも書かれていない。書かれているのは、ほとんど災難がある時に助けを求める、とだけだ。なので、婚姻は觀世音菩薩の救済度の範囲外である。だから2人の男の名前を持って觀世音菩薩の前に置き、どちらが良いか聞くんでない。書かれていなければ、あなたが求めようと意味が無い。例えば、觀世音菩薩が感情に携わるとしよう、それならば書かれているはずだ。感情というものは一種のゲームに過ぎないということだ。有っても嬉しいし、無くても嬉しい。来ても嬉しければ、去っても嬉しい。執着しないことだ、でないと自分を傷つけ、他人をも傷つける。もし、感情がそんなにも大事なら、觀世音菩薩のこの仏経であなたのパートナーが浮気をしているので觀世音菩薩に頼めば、觀世音菩薩はそれを追い払うと書く、だが書かれていないのだ。だが、首を切られそうなので、觀世音菩薩に助けを求めれば、觀世音菩薩は助けて下さる。 感情の事は小さな事だ、書くべきだが、書かれていないのだ。

觀世音菩薩は女だと思うでない、唐朝の觀世音菩薩は髭がある。宋朝はよく金人と戦争をしていた。金人は戦場に着くなり女の人を奪う。だから、出来るだけ女の人は家で待ち、毎日お経を唱える。觀世音菩薩を唱えるが、これは觀世音菩薩が慈悲だからだ。時が経ち、觀世音菩薩は少しずつ女性化した。觀世音菩薩は絶対に女性ではない、そして男性でも決してない。どこかのお姫様が觀世音菩薩を生れ替わったと考えるでない。あれは民間の物語だ。仏経には書かれていない。我々はまず、本尊とは何をするのかをはっきりするべきだ。觀世音菩薩は一般の菩薩ではない。本来は古仏なのだ。衆生を助ける為に、菩薩に戻ったのだ。あなたは仏は衆生を助けることは出来ないというかも知れないが、出来ないわけではないが、仏は大定の中にいて、あなたが法身菩薩か報身菩薩を修め得たのなら、仏は現れる、一般には現れることはない。只仏経、仏像だけが化身仏である。

觀世音菩薩と諸大菩薩は無量に化身して、衆生を助ける。仏と法身菩薩の区別は極めて小さく、菩薩にはまだ幾許かの塵沙の煩悩、衆生を度する煩悩がある。觀世音菩薩は衆生がまだ輪廻の苦中にいることに、涙を流す。なぜならこれは、衆生を度する煩悩がまだある為で、それで緑度母と白度母がいるのだ。

チベット仏教の中で、觀世音菩薩の法門は多く、リンチェンドルジェ・リンポチェの手元には、簡単な六字大明咒で五種の法本がある。どうしてこんなにも多いのか?それは、「普門品」で説かれている通り、衆生の様々な苦を觀世音菩薩は助けるからだ。衆生を助けるには、ただ単にお経を念じ、大悲咒を念じるだけではない。必ず儀軌に頼り、過程を得て、修めるのだ。重要なのは、自分の心を変える。一般の凡夫俗子から心がゆっくりと周り始め、慈悲を学習し、慈悲を育て、慈悲を修める、そして菩提心を発するのだ。仏経を学ぶとは、簡単なことだ。慈悲を学べばいいのだから。だが、その慈悲がよりによって一番難しいのだ。誰もが捨てることが出来ない、捨てることが出来なければ、得ることも出来ない。仏経は旦那や妻に仏を修めるなとは説いていない、だが我々は内心から慈悲を学び始めるのだ。
もし、我々が衆生の事を第一に見るのなら、慈悲心はゆっくりと育てることが出来るだろう。もし、自分の事を最優先に置くのなら、それは自己中心である。

この前リンチェンドルジェ・リンポチェは南部で法を修める際、体調に異変があり、危うく死ぬところだった。だが、次の日は弱った体を無理に支え、スケジュール通り、衆生の問題を処理しに上海へ行った。なぜなら、それはもう承知した事だからで、衆生の事は自分の命よりも大事だからだ。思いもよらず、身体もすぐに良くなった。あなた達はこれを学ぶでない。昔、リンチェンドルジェ・リンポチェは父親からこのように教えてもらい、リンチェンドルジェ・リンポチェは後輩達にも又同じように教えた。出来ないことは引き受けるではない、だが一旦引き受けたなら、わが身を顧みず、やり遂げるのだ。多くの人は、自分の利益と衝突した時、何があろうと必ずやるが、その後トラブルが生まれ、始末をしなければならなくなる。

慈悲を学ぶとは、どのような事か。あなたが承諾した事を実際に行ったか行ってないか、あなたが相手の要求に応じる前に、出来るか出来ないかをしっかり考えること。あなたの能力があるかないかではなく、あなたがやるかやらないかだ。この件は違法でないか、因果に反していないかをはっきりさせること、しっかり思考してから行うのだ。そうすれば後遺症はない。承諾した事を守らなければ、仏法の上で少しも成就しない。五戒の中でも教えていた綺語を使わないのもこの範囲内である。いい加減に空小切手を切ってはいけない。生生世世あなたを愛す、来世また君を嫁にする、等は明らかに嘘話だ。我々は業に就いて往生する人である。もし、あなたがこのようにいい加減に小切手を切ると、ある世で鉢合わせした際にはもうお終いだ。その時誰が誰かに返すのだ。

仏法は我々が過去に起こした全ての悪を出来る限り、この一生で果報に成就させる、そして過去に行ったすべての善をこの一生で途切れる事ないよう、増やしていくように、とずっと教えてきた。我々が過去に行った悪や善の入れ混じった生活、この仏法を通して、悪を減少させ、善を増加するのだ。そしてそれは上師の監督なくしては不可能である。なぜなら、人間は自分勝手である事に慣れてしまったからで、放すことも出来ず、捨てることも出来ない。上師はあなたがどの部分から自分勝手さが出てくるのかがお見通しなのだ。ある人は、こんなに苦労するなら、仏を学ばない、と言う。何か少しでも嫌だと思うと、仏法なんて関係ない、現在の私にとって仏経なんて何も良いことなんて無い。このような概念は間違いである。仏ははっきり説いている、我々の福報は貯めるものであり、それは緩む事なく資糧を増やしていく。少しずつ増加していき、すぐに与えるものではない。なぜなら、あなたは全てをすぐには出せないので、すぐに福報は貰えない。あなたが少しずつ貯めていけるなら、必ず見える時が来る。反対に、少しずつ悪を減らせば、いつか必ず、全ての悪がなくなり、自然と消滅するだろう。なぜなら善の力が増加し、悪が減少する、善の力が覆いかぶさるのだ。あなた達はちょうど反対だ、善が減少し、悪が増加して、悪の力が上回っている。善を行うのなら、仏経の説く事を全てやり、上師の教えを必ずやり遂げる。「大丈夫だ、まずやって、後に改めればいい。」と考えてはならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェこの前開示をした際、家の中に壇城を置く場合、必ず家の中で一番良い所に置くこと。いい加減にどっかの角の隙間に置いてはいけない。このような恭敬心の無いことは仏菩薩が怒らずとも、護法が怒る。ある弟子が壇城をキッチンとトイレの真ん中にある隅、使われていない場所に押し込んだ。すると、壇城が全て燃えた、机は残っていたが、机の上にあるものは全て燃えてしまった。千人程の弟子の内、彼の壇成だけが燃えたのだ。彼は恥かしげもなく、仏菩薩のお陰で家が燃えずに済みました、と言った。多くの人がこのような阿Q的な考え方を持っている。あなたは壇城を全く重要でない隅に置く、これはあなたは仏法を必要としていないと言う事だ。だから燃えたのだ、あなたに拝むこともさせない。

新しく皈依した弟子がいた。その弟子の家にはまだ「令旗」を置いていたのだ。皈依の際、あなた達に他の簡単で便利な宗教を求めてはいけないといいました。もう皈依して三ヶ月になるというのに、家にまだ「令旗」を置いている、言う事を聴かない。心のどこかで、ゆっくりで良いと思っている。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは罰を与えないからだ。「令旗」をとってしまえば神明が自分を罰しに来ると思っている。他の宗教が悪いのではない、あなた達に他の宗教を輕視しろとも言っているのでもない。ただ、あなたはもう皈依したのだ、それならここに集中する。あなた達は壇城を置いたから、菩薩は来てくれると勘違いしてはいけない、まさか阿奇護法が来るとでも?来るのは護法の周囲の護法の護法の護法だ。彼らが来た際、この「令旗」を見たら、阿奇護法に「行くな、彼らはあなたを信じていない。」といい、阿奇護法はいかない。そして他の宗教も自分より強いものが現れたというので、また離れていく。もしあなたは皈依したにも関わらず、「令旗」を置くのなら、来ないほうが良い。リンチェンドルジェ・リンポチェは小さい頃から父から道教を教わって育った、それでどうかなったか?上師の話を聴かない上に、ゆっくりでいいと考えるとは。阿奇護法が呼ばれ、リンチェンドルジェ・リンポチェが加持されたので、阿奇の護法の護法の護法が来て、一目見ると去って行った。リンチェンドルジェ・リンポチェは昨日ある弟子と対談した。彼は手に供養金を持っていて、上師に供養することなく、そのまま帰ったそうだ。これではただの取引ではないか。リンチェンドルジェ・リンポチェはその出家衆にこう聞いた。「彼は上師に供養もせずに行った、その供養金をあなたは受け取ったのか?もし受け取ったのなら、私はあなたを追い出す。」

リンチェンドルジェ・リンポチェは出家衆に私のそばでちゃんと学べばよい、と言った。如何「普門品」を開示するのか?なぜなら、あなた達は本当に慈悲とは如何云う事か知らないからだ。

経典:「そのとき、無尽意菩薩は、座から起ちあがって、一万の右の肩から衣をずらしてあらわして、合掌し、仏に向かいたてまつり、このようにいった。」

無尽意菩薩が仏法を伺う際は必ず立ち上がった。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェの應酬が少ないのはこの為だ。現在、台湾の流行では、ご飯を食べながら、仏法を問うというものだ。それでは彼らは仏法を輕視してしまうのではないか?だが、そうでなければ、信者がいないし、また大仏寺も建てれない。なので、リンチェンドルジェ・リンポチェはビジネスをしていると罵るな。なぜなら仏寺を建てる経費を一手に引き受けているからだ。

誰であろうと、仏法の教えを請うものは皆立ち上がることだ。チベット仏教はあなたに椅子を提供しない。でなければ、あなたは椅子に靠れ、まるで授業中のように手を上げて先生に質問をする。ある所では仏法を聴く際に、とても良い椅子を準備している。菩薩は恭しく立ち上がり、仏法の教えを請う。菩薩が座るのは蓮花座であり、椅子ではない。右肩を露するの部分はインドの服装である為、第一に天気が暑いのと、動きやすい。第二に右肩を出すのは衣服の中には何も隠していないという意味だ。

なぜ合掌をするのか?一寸質問する丈なのに?もちろんだめだ。合掌というのは、十方法界衆生が仏法の教えを求うということだ。合掌すれば、教えを求う大勢の名前を言わなくてもよい。十本の指は十方法界一切の衆生が仏法の教えを求うと表す。我々が合掌した時、あなたが仏法の教えを求めたので、あなたが三悪道に陥るかもしれない門を閉ざす。今日我々が合掌するのは、諸仏菩薩と上師の慈悲心を感じ始めることが出来るということだ。あなたが慈悲心を持って、始めて仏法事業が成就する。両手は動脈と静脈を表し、仏法が説く「自在に動静する」とは、飛び跳ねた際の動きの速さでも、座って入定し静となったということでもない。これは我々の身体の構造と関係している。もし、静脈をコントロール出来なければ、心臓ずっと動き続け、考えがずっと出続ける。医学的に言えば、心拍が早いと、動脈も早くなる、我々のエネルギーを消費し続ける。しかし、静脈が静か過ぎてもだめだ、我々の気を押し出す事が出来ない。前半は顕教の観点からで、後半は密教観点、二つの手を合わせれば、とても深い意味になる。仏法は特に合掌について説いた。あなたが合掌したのなら、自然と恭敬心が出てくる。ある人は教えを求めた際、頭を揺らし、肩を聳やかすなど恭敬心が無い、態度にも恭敬心が現れない。これなら、得られる助けは限られてくる。

昨日は皈依を準備している、ある出家衆が自分の両親を連れて来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の父に何か用か?と尋ねた。だが、相手は何も喋らず、外人のように聳やかし、何も無いという表現をした。ある人達は上師が法会に参加しないか、と聞くと思うだろうが、寶吉祥道場はもう人が多すぎて入りきれないのに、あなたを呼ぶとでも?必ず自分から口に出さねばならない。仏経の中でも、ずっとこのような事を演じている、菩薩さえも自ら問う。あなたは菩薩が觀世音菩薩の事を知らないなんて事があると思うか?もちろん、知っている。なぜそれを口に出すのか?口に出さなければ縁がないのだ、縁がないと衆生を助けることが出来ない。どうして、あなたに自ら申出させるのか。それは、そうする事によって、あなた自身に懺悔心と信心が出てくる。そして、あなたの福が起り、法会へ参列出来る。あなたが来るか来ないか、来たらどのような良い事があるかを考慮してはならない。

この出家衆は父に法会へ参列させて下さいと口に出すよう促しましたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは言わなくてよい、各自修めたいものを修めなさい、と言った。我々はもちろん両親が仏を学ぶ事を望むが、縁がまだ起きていないのに、無理に強いても、それは逆効果である。あなたは自分を改めるべきだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの母も最初は信じなかった、なぜなら母は父しか信じていなかったからだ。父は凄いし、彼女の憧れであったので、息子を信じなかった。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは大きく変わった。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前、とても短気であった。ある日、香港で母と知人と食事をしていたのだが、ある一件でこの知人が気分を悪くし、大声で怒鳴った。もし、以前のリンチェンドルジェ・リンポチェなら、誰が怖いものかっ!とでも言うように、大声で怒鳴り返していただろう。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは怒らなかった、それだけでなく、この知人に謝ったのだ。母はそれで、リンチェンドルジェ・リンポチェは変わったと知った。そして息子が改めたので、母も次第に息子を信じ始め、自然と法会にも来た。上師が開示をなさるから、両親も法会に参加させる、と言う考えではない。縁が来ていないのなら、意味がない。もしかするとリンチェンドルジェ・リンポチェと縁がないのかもしれない。最も重要なのは、自分を改めることだ。両親は子供の長所と短所をよく知っている。口には出さないが、子供の行為で変わったか変わっていないかが分かるのだ。我々は自分の欠点を改め直し続けたら、いつかきっと、彼らも分かり、自然と来るであろう。

菩薩が仏に教えを求める過程で、我々はこの過程が簡単なものではない事を知る。跪けば全てを話すかと言えばそうでもない。多くの人がリンチェンドルジェ・リンポチェに教えを求めてよいか?と問う。もちろんあなたはそれを求めてよい、だがリンチェンドルジェ・リンポチェは承諾するかしないかを決める。もし、仏法以外のことなはあなたに答えることはない。

経典:「世尊よ、観世音菩薩はどのようないわれがあって、ぞれにとって観世音と名づけるのでしょうか。」  

無尽意菩薩は衆生の代わりに觀世音菩薩に名号の由来について、教えを求めた。これはあなた達の疑問だ。無尽意菩薩の福徳因縁が衆生を代表して、仏法の教えを求める機会を得た。もしこの縁が無ければ、仏も開示されないだろう。誰も仏法を聴く者がいなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは説かない。今、「寶積經」を開示しないのは、あなた達にはそれを聞く器でないからだ。肝心なのは今座っている諸君の多くはまだ自分を改めていないという事、多くの人がただ、物語りを聞いているかのようだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達が聞いたことのある経から一冊を選び、皆さんに説いている。「普門品」を聴いた事があるものは手を挙げてみろ。大部分が手を挙げている、これは因縁があってリンチェンドルジェ・リンポチェが説いたのだ。手を挙げていないものは、運が良いと言えよう、初めて参加して「普門品」の開示が聞けるのだから。

リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学び始めた頃、毎日三冊の「普門品」を読んだ。あなた達も長らく皈依していたら、分かるだろうが、リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで「普門品」を説いたことがない。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは、ほんの少しでも觀世音菩薩の慈悲はどこかと解釈する条件と資格がまだ備わっていないと自身で分かっていたからだ。中には多くの事が書かれており、我々は文面だけで觀世音菩薩は救難をなさりに来たと解釈してはいけない。どの出来事にも、我々一人一人が犯した間違いがどこにあるかをはっきりさせるべきだ。觀世音菩薩の「普門品」が説いた救難が必要な人達だけ觀世音菩薩は助けるのではない。誰もが觀世音菩薩の救難を必要としている。あなたが六道輪廻に居れば、助けが必要である。あなたの恋愛、婚姻、病、事業を助けるのではない。あなたを輪廻から逃れるのを助けるのだ。あなたがそれを信じるだけで、觀世音菩薩は必ず助けに来る。しかし、あなたがまだ、自分の考えで、「觀世音菩薩、私は大悲呪文を唱え、大悲水を飲むので私の心臓を良くし欲しい。」もしこれで成就するなら、全世界の医者は皆失業だ。

觀世音菩薩の「續部」には、様々なの病の治し方がある、どのような薬でどのような病を治療するのか等。こちらの観点から推測するなら、觀世音菩薩はどの薬を飲むなど書かずに、ただあなたに、大悲呪文を唱え続けていれば良い。「續部」とは「外密」である。この「續部」の中で、觀世音菩薩がどのように病を治すのかが特に述べられている一段がある。現在中国では、この部分を研究している。だが、その中には病を治すとしてもまず、灌頂しなければいけないとある法本は「祖師吉天頌恭」の法本だが、中にはどのように病を治すのかが述べられているが、それには条件があり、患者はまず、菩提心を起こす事。患者は懺悔の心があるかないか、輪廻から逃れたいという心があるかないか、無ければ病は良くならない。なぜなら、あなたが良い日々を送りたいと思うのは輪廻の心。あなた達に苦しい日々を送れと言っているのではない。苦しいか、苦しくないかは、あなた自身が創るのだ。今日諸仏菩薩が、衆生に利益する、重点は、あなたが如何言う事にならないかではなく、あなたの業力を少しばかり阻止し、修行打ち込めるよう、生死から離脱できるよう、輪廻から逃れられるようにすることだ。

無尽意菩薩はたとえ、觀世音菩薩の名号の由来が分かっていたとしても、やはり衆生の代わりに聞くであろう。我々は別の菩薩を觀世音菩薩とは呼ばない、そしてこの一尊の菩薩を觀世音菩薩と呼ぶ。それはどのような因縁でこの名号がついたのだろうか?

リンチェンドルジェ・リンポチェの法号は、尊勝なチェツァン法王が賜われた。これもその因縁がある。無上瑜伽部の瞑想修行を終えたので、チェツァン法王が自らリンチェンドルジェ・リンポチェの法号を改めたのだ。もし、瞑想修行を全てしっかり終わらせなければ、チェツァン法王はこの法号をリンチェンドルジェ・リンポチェに賜予することはなかった。皈依したばかりの頃は、どの弟子にも一つ法名がつく。これは法名だ。修行を行い続け、ある果位に辿り着いたら、上師はまた新たな法号を賜わる。それ以外に、もう一つ秘密法号も賜予される。この法号は本尊と上師、そして自分だけが知る。奥さんや娘さえも知る事が出来ない。この密法法号は無上瑜伽部を修めたものが、衆生を助けることができる法号を意味する。パワーが違う、あなた達には得る資格が全くない。上師があなたに賜予した法号は、必ず意味が込められているので、勝手に変えたりなどしないように、必ず因縁があって賜予されたのだ。

菩薩は仏に、なぜ觀世音菩薩と呼ぶのか、教えを求め、仏が説いた時、我々は觀世音菩薩がどのようにして修め、果位がどのようなもので、どのよにして衆生に利益するのかを知った。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェの法号は「リンチェンドルジェ・リンポチェの長壽祈請文」で、何をする為の法号か、が解釈されているのと同じだ。皈依した時、あなたについた法名はとても重要だ。自分の法名を覚え、上師を信じることで、たとえあなたが地獄、悪鬼、蓄生道の門前に居たとしても、自分の法名と上師の法号を唱えれば、三悪道に陥ることはない。これは仏経が説いたことだ。だが、だからと言って今多くの悪い事をしても三悪道へ陥る事はないという事ではない、よく聞くのだ。

経典「善男子よ、もしも無量・百千万億の生あるものたちがあって、多くの苦悩を受ける場合でも、この観世音菩薩の名を聞いて、一心にその名を称えたならば、観世音菩薩は即座にその音声を観じて、みなその苦悩から解放されることができるであろう。」

「善男子」はこの前に解説したので、今回は説明しない。「無量」とは数字では解釈できない、無限の数字だ。もし觀世音菩薩が法身菩薩でなければ、十地以上の菩薩でなければ、こんなにも多くの衆生を助けられる能力などない。菩薩の大きな能力は、彼の大慈悲心からきている。彼の慈悲心が大きくなる程、多くの衆生に利益することができる。

この前、リンチェンドルジェ・リンポチェが、法を修めた際、危うく命を落とすところだったのを、チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェにはまだ少しの執着がある為、慈悲がまだ大きくないのと空性が足りないのだ、と述べた。これはこの位置まで修め、登ってきたものに対して言うのだ。もし、あなた達なら恭敬心や気遣い足りない上に、上師を信じてないと言うだろう。

「多くの苦悩を受ける」、輪廻の世間が我々を苦悩にさせる。

「この観世音菩薩の名を聞いて、一心にその名を称える。」一心とは要求が無い事だ。それは「観世音菩薩、私の身体を良くして下さい、そうすれば菜食します」という事ではない、これではただの脅しと売買だ。ある人達はリンチェンドルジェ・リンポチェに「私の父親は良い人です。社会にも多く貢献しています、どうか私の父親を死なせないで下さい。」と強く要求するものがいる。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれを聞くと、ぞっとする。なぜなら、彼は一心ではないからだ。一心とは、今日あなたが本当に本尊を信じるのなら、本尊に何かを要求する代わりに、本尊を信じて修めるのではない。多くの人が言うように、私の身体が良くなれば、ちゃんと修め、衆生に利益することが出来ると言うが、そのような考えは一心ではない。上師を脅し、上師が自分の要求に応える事が出来なければ、効き目がないといい、応える事が出来れば、自分が求めたので、返ってきたと言う。

仏経はここでもう既に、どのようにすれば良いかを説いた。あなたが一心になるのだ。自分の考えを持たず、少しの欲望もない。あなたが、自分の身体が良くなれば、ちゃんと修めることが出来ると言っても、それは二心である。あなたは本尊を信じるのではれば、上師が必ずあなたを光が指す方へ導く事を信じなさい。もし、あなたが一心でないのなら、あなたはまだ輪廻の苦中にいて、自身の欲望を持って、あなたが願う事全てが欲しいと思うだろう。皈依の際に言った、「皈依法離欲尊」、皈依後は永遠と満足する事のない要求から逃れる事だ。もし、まだもっと多く欲しいと欲するのなら、それは一心ではない。あなたが唱えても、拝んでも、効果は得ない。どうして一心が必要なのか?前の一句「もしも無量・百千万億の生あるものたち」、こんなにも多くの衆生が毎日観世音菩薩に求めている、もしあなたが一心でなければ、送ったサインは、弱くて、どのように受け取る事ができるというのか。もし、あなたが一心で観世音菩薩を唱えれば、観世音菩薩はあなたのサインを受け取れるだろう。

例えば、我々が六字大明呪文を唱えるとしよう、もしこの六字にあなたが別の考えを持っているのなら、観世音菩薩はどの様なサインを受け取るのだろう?あなたの考えも分からないだろう。「嗡」と唱えれば、旦那を想い、「瑪尼」と唱えれば、息子を想う。これでは観世音菩薩は「私には旦那はいない、一体あなたの苦とは何なのか?」と思うだろう。「普門品」は我々に一心を教えているのにも関わらず、あなた達はたくさんの事を付けたして、一体観世音菩薩はどうやってあなたのメッセージを受け取れるのだろう?観世音菩薩は入定されている、定の境中であなたの祈祷のサインを受け取っているのだ。だが、あなたが祈祷の際、サインをちゃんと伝えなければ、観世音菩薩は受け取る事ができない。自然とその眷属も助けに来ない。観世音菩薩が自ら来て助けるのではなく、観世音菩薩の傍にいる眷属や多くの分身があなたの元へ行き、助けるのだ。あの分身は、観世音菩薩がサインを貰った後、振り分けられてから助けに来るのだ。もし、あなたのサインの電波が悪ければ、観世音菩薩が受け取れないのではなく、サインをゆっくり濾過し、ゆっくり訂正されて、或は約十年位後に訂正し終えることだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは以前に、一つの物語を開示した。ある老婦人の住む家からは赤い光が放っていて、その時彼女は六字大明呪文を唱えていたのだが、一字を読み間違えていた。修行人がそれを訂正したが、修行人が山の上から振り返って見下ろすと、その老婦人の家に赤い光は無かった。なぜなら、老婦人の心が乱れたからだ。梵文の発音でないといけない、というわけではなく、一心が必要なのだ。仏経ははっきりと説いている、「一心称名」、称名とは称賛であり、「観世音菩薩、私は今とても苦しい、自殺をしたいと思っているのに、まだ助けに来てくれない」と一心に思う事ではない。このような考えは脅しだ。称名とは称賛菩薩の名号する事であり、観世音菩薩の功徳、慈悲し、絶え間なく衆生を済度する事を称賛するのである。観世音菩薩に旦那が帰ってくるようになどを要求するのではない、あなたがこのように唱えたのなら、観世音菩薩はずっとあなたのサインを濾過し、いつまで濾過するか分からない。例えば、ある出家衆が観世音菩薩に自分の業を取り除いて、入定する手助けをして欲しいと要求する。観世音菩薩はそれを聞いても、観世音菩薩自身はこのように説いた事がないので、あなたがそのように要求しても成就しないのは当然だ。たとえ大悲水を1桶飲み干しても同じことだ。

経典:「観世音菩薩は即座にその音声を観じて、みなその苦悩から解放されることができるとうにするであろう。」

仏経を説き、唱え、聞くとどのような場合であっても、仏経の説いた内容をきちんと理解すること。どうしてこんなにも「一心」と「称名」を強調するのか?観世音菩薩の名号を称賛する、このような称名であるからこそ、観世音菩薩はすぐにあなたのサインを受け取る事ができ、あなたがどこにいるかも分かって、助けに行く事ができる。

「みなその苦悩から解放されることができることにするであろう」、生死を逃れられるとは限らないが、今目の前にある煩悩から解放する事は出来る。生死を逃れられるかはその後のことである。例えを挙げるなら、今あなたを殺しに来るものがいるとしよう、あなたの心はただ、観世音菩薩だけを唱え続ければ、観世音菩薩は聞きつけ、あなたの元へ助けに行く。だが、もしあなたが唱えながら別のことを考えていたのなら、殺される覚悟をした方がいい。そして、もし観世音菩薩だけを唱えても、殺されたのなら、あなたの借りは全て返され、地獄に落ちずに済む。このような心構えの称名が効くのだ。もしかすると、観世音菩薩はその人をみて、数年の命を与えるかもしれない、それは観世音菩薩が与えたのではなく、元々その人が持っていたのだ。ただ、悪い事をしたので、なくなった。呪文や他の何かを唱えても、我々は何事にも一心であるように。もし、あれこれと考えて、求めたことが得られなかったら、効果がないといい、必ず問題があると言う。だが、あなたが「効果が無い」と言った時点で、仏を誹謗いている。心中誠があれば、霊験あらたかである。あなたの心は誠ではないのに、どうやって霊験が現るのだろう?これは観世音菩薩と上師に関係しない、あなたは聞く耳を持たず、まだ夢を見ていて、また「自分が欲しいものは与えて欲しい」、「私はもう骨が痛いのに、どうしてまだこんなにも痛くさせるのか?」、「どうして私の業力を消す手助けをしてくれないのか?」あなたの福報が足りないからではないか!我々が一心でこの観世音菩薩の聖号を称名する。そうする事で、始めて徐々に福報が貯まっていくのだ。

なぜこれで福報が貯まるのか、簡単に説明すると、あなたに妄念、悪念起こらないから。あなたが自分に有利な要求をするのが悪念である。あなたに食べられ、あなたに傷つけられた衆生は誰に賠償を求められるのか?あなたが骨折したのは自業自得だ。この一生どれだけ衆生を殺してきたか、自分自身に問うてみるがいい。全て一切には因果がある、突然発生するものではない。自分が仏経に対して一知半解である故、観世音菩薩を神明のように拝み、あなたが欲しい物は与えられると思っている。神明はあなたに与えるが、いずれ返さなければならない。上師と仏菩薩だけがお返しを貰わないどころか、それを突き返す。ある一人は自身が持ち帰った。リンチェンドルジェ・リンポチェは昨日、いくつもの供養を返した、自らでもその数を覚えていない、係りの弟子が「たくさんです。」と答えた。

「一心」、あなたは修行人だと自ら思うのなら、これを訓練するが良い。今すぐに出来なくていいが、ちゃんと訓練するのだ。もし、違う考えが出てきたら、一旦止めて、もう一度唱え直す。あなたは襌定の能力がまだ無いので、定力はあなたの妄念を抑える事が出来ない。それならば、一度止めて、あなた自身の姿勢を調整し、恭敬心を持つ。そして、正しく座り直すと、妄念を少し減らす事が出来るだろう。椅子に靠れながら唱えるのではない、横になって唱えても意味が無い。リンチェンドルジェ・リンポチェは呪文を唱える際は、真っ直ぐに座る。真っ直ぐに座ることで、気が真っ直ぐになり、雑念が減る。たとえあなたの具合が悪かったり、腰や足が痛いかったとしても、できるだけ真っ直ぐに座る事だ。靠れたり、横になったりしては意味が無い。横に寝そべりながら阿弥陀仏を唱えても、阿弥陀仏は迎えに来ない。あなたが横になって唱えるのは、考え事をしながら唱えるよりはましなだけだ。唱える時、座る事が出来れば、必ず座る。そうする事で、身体の作用を通して、徐々に一心になれるような訓練ができる。この先、襌定を学んだら、何が「一心」か分かるだろう。

もう一つの意味は、全ての考えをこの名前に託すのだ。他の考えは持たずに。もし、頭に違う考えが出てきたら、すぐに観世音菩薩を思う事。これでも自分が一心になる訓練が出来る。自分が観世音菩薩の「世」の発音が正しく無いのではないか、と考えるではない、そう考えていれば一心ではない。今日教えた全ての方法、呪文を含め、全部このようにする。呪文をとても早く、遅く、大きな声で唱えても、一心でなければ意味が無い。一つの心がとても重要なのだ。簡単に言うと、一つの心を観世音菩薩の名前の上に定める。あらゆる考えをこの名前に定めるのだ。戒を守り、唱える。信じ、疑わず、貪念を持たず、嗔念を起こさない事がとても重要である。以前はこのような開示を聞いたことない、あなた達は以前ただ早いスピードで読み終わり、朝課を終えるのだ。

法会が円満になり、弟子たちは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる開示に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを見送った。

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2017 年 07 月 09 日 更新