尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2017年1月29日

旧暦正月二日9時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥仏法センターで点灯供仏を行い、主法に登られ、御自ら上師供養法、黒水財神法会を主持なさり、参会者に貴重な仏法の開示を下された。ドイツからのアニ、SherabとYesheも共同にこの殊勝な法会に参列した。

「今日は旧正月2日、午前中はまず上師供養法を修める。チベット仏教において、上師供養法は大変重要な法門だ。皆の知っているように、私たちの福報はいずれも供養・布施によるものだ。祖師大徳も同じく開示した。福報を累積するのに一番早い道は上師を供養することだ。もちろん、具徳の上師だけがあなたの供養を受けられる。こうしてあなたは福報を累積できる。具徳の徳は福徳、道徳ではなく、功徳のことだ。功徳を具する上師こそ、人天の供養を受けることができる。その上師がそなたの供養を受けることにより、あなたは諸仏菩薩・三宝との因縁、そして福報が素早く累積できる。尊勝なる直貢チェツァン法王はかつて公開的にこう話した。仏法を教えるリンチェンドルジェ・リンポチェの方法は古代のチベットの教え方で、まずは必ず上師に従い、そしては、釈迦牟尼仏、仏経、上師の指導に従って仏法を弘通している。

『宝積経』に、末法時代の上師と出家衆は名聞利養を得るため、信者に媚びて仏法を歪曲することが書かれている。二千数年前に、釈迦牟尼仏はこんな話を開示した。仏法は大変貴重で至高なものだ。宇宙のどんな方法も仏法に代わって衆生の輪廻解脱を助けることができない。どんな人もその意識で仏法の新たな修行方法を創造することができない。何故なら、仏は覚悟者であり、仏の智慧は無漏だからだ。仏法弘通は必ず衆生の輪廻解脱のためになされたものだ。我々は末法時代に生まれ、本尊釈迦牟尼仏に会う福報がないので、上師の指導を通じて仏法修行に手伝ってもらうしかない。我々の修行の道において、上師が極めて重要な存在だ。上師にもいろんな段階の区分がある。異なる段階とは、上師が異なる段階の衆生を引接する意味だ。法王とは漢人が修行者に対する尊称だ。法王も同じくリンポチェだが、法王とリンポチェにはそれぞれの任務がある。直貢チェツァン法王の任務は今生において認証のリンポチェを探して指導すること、そして、信者への指導はリンポチェが行う。法王はAAA+(triple A plus)クラス、リンポチェはAクラスだから、そなたたちはリンポチェが指導する。

噶舉は口伝の意味だ。釈迦牟尼仏時代にはパソコンも、iPadもなかったので、口伝による伝法しかできなかった。噶舉派はずっと釈迦牟尼仏が残したこの伝統を守ってきた。一句の真言でも、一句の経文でも上師による口伝がなければ、弟子は修持できない。他人が話しているのを聞いて気に入ったからといって勝手に家で開いて読みむということは許されない。読んで理解できるのなら、そなたもリンポチェになれる。そうとは言え、今時の人は自分で読むのが好きで、文字から内容が分かると自認する。武則天は『願解如来真実義』を言った。文字では解釈できない意味だ。文字はあくまでも方便法に過ぎず、人間は聞くのが好きで、述べられなければ、書き留める。しかし、仏経は仏の修行経験だ。具徳の上師の指導がなく、ただ文字通りに解釈すれば、本当の中身については理解できない。上師に面倒をかけてはいけないと言う人もいるが、そうではない。時が来ると、上師は当然に伝法する。しかし、その時にならなければ、いくら求めても無駄だ。

直貢噶舉法脈の起源はティロパであり、ティロパはインド人だ。それからはナロパに伝わり、そして、チベットの偉大な翻訳者であるマルパに伝わった。マルパは法を求めるため、3回も黄金を持ってインドに行き、仏法をインドからチベットに持ち帰った。そして、仏経をチベット語に翻訳した。その後はミラレバ、ガムポパ、パルマ・ツォクパの時代だった。ティロパからミラレバまで、いずれも在家の相だった。ガムポパから初めて出家の相が現れた。パルマ・ツォクパの時から、いろんな系統に分かれたが、弟子たちによる行動だった。直貢噶舉が伝承されてきて現在住世しているのは36代の尊勝なる直貢チョンツァン法王と37代の尊勝なる直貢チェツァン法王だ。尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェの根本上師だ。今年、直貢噶舉は800年目になるため、全世界各地ではたくさんの法会が行われる。

直貢は地名だ。祖師ジッテン・サムゴンは青海に生まれて出家の相が現れ、大手印で成就できた。第二の竜樹とも呼ばれている。曰く竜樹菩薩の転生の意味だ。竜樹菩薩の前世は維摩詰居士だった。竜樹菩薩は『中観論』を執筆したが、ジッテン・サムゴンの多くの著作は『宝積経』に基づいて書かれた。ジッテン・サムゴンの最初の寺院はチベットのラサ境界にある直貢梯寺だ。

祖師ジッテン・サムゴンはリンチェンドルジェ・リンポチェの時代に2回現れた。1回はリンチェンドルジェ・リンポチェを救ってくれた。1回は夢の中でリンチェンドルジェ・リンポチェに伝法した。その後は現れなくなり、尊勝なる直貢チェツァン法王に指導を任した。

上師に供養することが福報を累積するのに最も速い方法だが、上師に供養することは教派の上師に対するだけではない。教派を分けるのは方便法に過ぎず、衆生がどれらの上師との因縁がよりよいかによって現れた方便法だ。チベット仏教の金剛乗では、上師と弟子の関係は、弟子が仏果の成就ができるまで、生生世世のものだ。弟子とは、普通に法会に参加して聞いてみようと思う信者、或いはリンチェンドルジェ・リンポチェのことを知っていると自認する人のことではない。これらの人は弟子とは言えない。今生はリンチェンドルジェ・リンポチェのことを知っていても、未来世は必ず知るとは限らない。理由は、互いに何の約束もしていないからだ。しかし、そなたはもし、皈依して弟子になったとしたら、約束することになる。来世はどうなるかも分からないという人もいるだろうが、この世を去る数年前になると、来世はどうなるかが分かる。

昨日は、90歳過ぎで十数年も皈依した弟子のことを話した。彼女はたくさん殺生したが、法会に参加しただけで助けられると思った。しかし、彼女は徹底的に懺悔せず、因果も信じなかった。幸いにも皈依をしたから、上師はいろんな手を使って彼女を助けた。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依したが、それでも、往生前は病気になって脳中卒で意識を失った。意識を失って死亡する人は愚痴が原因で、畜生道に堕ちる可能性がある。人は誰でも病気に罹ると意見もあるが、確かにそうだ。釈迦牟尼仏も往生前に病気を示現した。ちょっとした病気や生老病死は誰もが経験することだが、仏は死亡の苦痛を経験しなかった。我々は釈迦牟尼仏に会うことができないが、リンチェンドルジェ・リンポチェの母親は睡眠中に往生した例を挙げよう。人間は呼吸が止まると、すぐ分かるが、リンチェンドルジェ・リンポチェの母親は睡眠中に呼吸が止まったので、彼女は気づかなかった。つまり、死亡の苦しみがなかった。遺体の洗髪がなされた時、首は柔らかくて回れた。母は字を読めず、普段は念誦もせず、発願も懺悔も分からなかった。何かの過ちを犯したことしか分からなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは母に念誦したかと聞いたりしたが、母は、したよとの返事を返しても、2分だけで座り込んで唱えなくなった。リンチェンドルジェ・リンポチェの母親はただ、息子は助けてくれると信じていた。ここにいるそなたたちは運がよいのか、或いはリンチェンドルジェ・リンポチェのような果位を得た修行をした息子でもいるのか。そうでなければ、上師に頼るしかない。そしては、自分が決意しなければならない。修行、学仏をしなければ、安らかに死んでいくのがあり得ない。脅かしているわけではない。旧正月の2日に死亡のような縁起の悪いことを言うべきではないと思う人もいるだろうが、どの日でも同じだ。1日や2日は関係がなく、同じく死亡する人がいる。交通事故で死ぬ人もいるし、こんなに区別する必要はない。

自分の命で賭けたい人もいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは世話をするのが好きだとか、皈依後はできないことがたくさんあるとか、こんなに思う人がいる。我々にやってはいけないことは本来たくさんある。殺人していいのか。違法なことをしていいのか。そんなことをしたら、この道場に入ることは許されない。人を騙したことなら、どれほど騙せるかにもよるだ。だから、上師は我々の学仏過程において大事な存在だ。もちろん、盲目的に上師を求めるわけではない。どの法門を修めたかを含めて自らの学仏経を明白に説明しない上師の場合、気を付けたほうがいい。特に金剛乗に関しては、上師はどこでどのように修行したか、誰に果位を確認してもらったかについて明白に示さなければならない。チベット仏教の伝統なら、その人の上師に果位を確認してもらう必要がある。上師はその人のためにいろんな用意をしてその修行の果位を確認する。修行果位の確認は名聞のためではない。続けて広大な衆生を利益しやすくしてあげるためだ。

5年前、尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに寺院を建てるようにずっと要求していた。最初、リンチェンドルジェ・リンポチェは大変疲れたから、建てたくなかったし、建てる気もなかった。しかし、直貢チェツァン法王は、今の果位の修行ができたから、寺院を持つべきだと話した。直貢チェツァン法王は理由を言わなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェも聞かなかった。そなたたちなら、粘って聞くだろう。自分のためだと分かったら、初めてやるかやらないかと決めるだろう。直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに閉関を要求しても、リンチェンドルジェ・リンポチェは、閉関後はどうなるのか、どの法門を修めるのかを聞かなかった。西洋人は特にこんなことを聞きたがる。What’s the purpose? What can I get from this retreat?(閉関させる理由はなんだ。なんのためになるのか。)上師を信じないことだ。そなたたちもそうだ。六字大明咒を唱えたら、どんな感応ができるのか、病気は治るのか、薬師仏を拝めば、病気は治るのかなどを聞く。全部でたらめだ。どの本尊でも病気の治療に役立つ。また、どの本尊も病気の治療に役立たない。そなたに縁があるかどうかによるのだ。大事なのは具徳の上師がいることだ。

具徳の上師に関し、その日常生活の過ごし方をそなたたちの目で見るのではない。一見に、その日常生活はあなたたちと同じだが、その内心の世界はそなたたちと違う。その意念、言葉、行動はすべて衆生を助けるためのものだ。それに対し、衆生は常に自身の利益を考える。例え上師が要求しても衆生は承諾しない。理由は、上師の言うことは自分の思い通りではない、自分がほしいものではない、自分の将来の予定はそうではないからだ。実際に、上師が弟子のために計画することは1、2年以内のことでなく、生生世世のことだ。直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェのために計画したので、たくさんのことは自然に成就できた。

2007年、直貢チェツァン法王はラプチ雪山で閉関するようリンチェンドルジェ・リンポチェに要求した。大変突然なことで、閉関時の商売はどうなるか、また、閉関の用意ができたかについては全くリンチェンドルジェ・リンポチェに聞かなかった。それでも、リンチェンドルジェ・リンポチェは指示通りのことをした。これこそ上師に恭敬心を抱くことだ。それで、自然に加持がもらえた。具徳の上師を疑ったら、決して加持はもらえない。法会の参加くらいで福報がもらえるとか、運がよくなるとかを思ったら勘違いだ。本当にそうなるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは修行をしなくてよい。リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に会見を求めたければ、いつでも会えるから、修行する必要もないのではないか。皈依を経なければ、法会に参加しても役立たない。来世の縁を結ぶことができるが、今生で犯した悪業は解決できない。両親が往生前経験した病苦のことを思い出しなさい。同じくなりたければ、学仏・皈依しない努力を続けてもいいだろう。自分は両親とは違うと思わないでほしい。違うのが当たり前だ。性別が違うだろう。しかし、生老病死は誰もが経験することだ。程度に違いがあるだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して十数年になった年寄りの弟子でさえ、徹底的な懺悔心がなかったため、往生前も問題が起きた。皈依者でもそうなったから、皈依していない信者はどうなるのか。菩薩はあなたを優しく扱う根拠でもあるのか。そなたは信じているからというのか。信じているなら、皈依しなさい。リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依するとは言っていない。ただ、疑いが深い人は簡単に問題が起きるのだ。

上師供養法は、上師を通じて十方法界の一切の諸仏菩薩、本尊と結縁できるようにしてくれる。理由は、上師はあらゆる仏菩薩を代表して衆生を助けているからだ。別に上師が偉いとか有能だとかのことではない。上師は代表だ。そなたたちは凡人なので、決して仏菩薩の助けがもらえず、化身菩薩の助けしかもらえないのだから、上師が代表して助ける。常に観音菩薩を唱えれば、観音菩薩に会えると思ったら、勘違いだ。本当にそうなら、おかしなことだ。菩薩の果位までに修行できなければ、報身菩薩、報身仏が現れるはずがない。仏果を得た修行ができなければ、法身仏、法身菩薩が現れない。『阿弥陀仏経』に、阿弥陀仏は千百億の化身があると書かれている。修行できていない人があまりにも多いので、阿弥陀仏は大願を発した。この写真をごらんなさい。そなたたちはこれを阿弥陀仏だと思ったから、この様子に化けてあなたを迎えに来る。阿弥陀仏の本当の法身、報身ではない。偉いと自認する人が多いが、本当に偉いなら、法会に出てこなくていい。生老病死の苦しみは誰も避けられない。

今日の法会を通して皆は学仏の福報が累積できるが、決意がなければ、いくら話してあげても無駄だ。そなたの決意次第だ。一念で未来の生生世世の運命を変えられるが、読書、学問、ハイテクではできないことだ。

旧正月だから、財神法・供養法を修めて皆に喜ばせよう。修法前、まず皈依を行う。法本に『不共』と『共』の発心が含まれているが、今日の皈依・発心は不共のものだ。仏法に小乗、大乗と金剛乗の分別があるが、この三乗の皈依・発心は全部異なっている。『共』は三乗の行者が共通に発心できる意味、『不共』は金剛乗の発心が小乗と異なる意味で、不共の発心と言われる。金剛乗は菩薩道の修行と成仏の法門であるため、皈依・発心は異なっている。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは上師供養法の修持を始められ、開示を下された。

最初の一句は、『我に対して憤怒する敵、我を傷害する邪魔、我と一切の有情衆生の生死解脱を阻害し、虚空宇宙において我々に対して恩がある一切の如母有情衆生が皆、離苦得楽できることを願う。速やかに阿耨多羅三藐三菩提を証する。』とある。今唱えたのは発心の内容だ。発心とは、今日の法会に参加する動機を表している。我々に対して怒りを持っている敵、我々を傷つける邪魔だが、我々に病気をさせたり、貧乏をさせたりするような類ではない。一番怖いのが我々の生死解脱を阻害する邪魔だ。皈依したくないのは生死の解脱をする気がなく、まだ早いと思っているからだ。しかし、閻魔は時間を区別しない。時が来たら、閻魔は現れる。虚空にいる一切の有情衆生を自分の母親のように思い、彼ら全員が苦しさを離れることを望み、一刻も早く阿耨多羅三藐三菩提、仏の果位が証得できることを祈願する。だから、この発心は我々自身のためではない。もしも、今日は自分が法会に参加したいのが理由、或いは家族のためだとしたら、『地蔵経』によれば、この福報は3世の利用だけに足りるそうだ。どのような3世については説明がない。今日の法会に参加しても皈依せず、信じたくないのなら、貪瞋痴の痴ということだ。つまり、因果を信じていない。それでも、法会に参加したら、福報は得られるので、畜生道に堕ちる可能性が高く、愛しく抱かれるペットになるだろう。皈依したくないのは悪行をする気があるから、リンチェンドルジェ・リンポチェのことが怖いのなら、来なくていい。

発心はいつまで行うのか。3種類がある。1つ目は仏果が証得できるまで、身口意の三門で善行を誓う。2つ目は命が尽きるまで、身口意の三門で善行を誓う。3つ目は今より明日のこの時間まで、身口意の三門で善行を誓う。1つ目はそなたたちにできないこと、2番目はちょっと難しいから、上師は優しく3つ目を書いた。一番簡単だ。」

ここで、リンチェンドルジェ・リンポチェは「今この時から明日のこの時まで、身口意の三門で善行を誓う」ことができるかと、現場の信者に尋ねた。「もし、只今より明日のこの時間までの間もできないのなら、法会に参加する必要はない。」信者は「できる」と返事した。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは参加者に「命が尽きるまで、身口意の三門で善行を誓う」ことができるかと、また聞いた。参加者たちも「できる」と答えた。更に、リンチェンドルジェ・リンポチェは「仏果が証得できるまで、身口意の三門で善行を誓う」ことができるかと質問した。参加者たちもまた、「できる」と返答した。リンチェンドルジェ・リンポチェはもっと大声で返答だとお話した。

「今話した段落は自分の皈依だけではない。虚空にいる一切の有情衆生とも十方一切諸仏に皈依することを望む気持ちが含まれた。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはある弟子を呵責した。二度と欠伸をしない。若し、欠伸をするなら、追い出すだとお話した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率いて懺悔、隨喜功徳、発菩提心等を含む「七支供養祈請文」を唱えられ、修法を継続し、みなの福報を累積してくださった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を続け、並びに禅定の灌頂を授けた。リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて加持した。「これから、禅定の灌頂を行う。禅を修めることは『金剛経』『楞厳経』『六祖壇経』を念誦することだと思う人がいる。彼らは、毎日、家で30分間や1時間座り込み、息を数えて話頭を参究するのが禅の修行だと思う。これらは禅と結縁だけで、本当の教授を得ることができない。また、禅一、禅三や禅七(禅をその日数行うこと)を行う際、きちんと座らなかったら叩かれ、毎日8時間座っていたら悟れると思っているが、全部間違いだ。歴史上、禅宗が六祖に伝えられたが、五祖が心法を六祖に伝えた。二祖慧可は達磨祖師に法を求めた時、一本の腕を切り取って雪の地面で一晩中跪いた。こんな決心がなければ学べないのだから、あなたたちは何故7日間胡坐をかけば、悟れると思えるのか。寺院でちょっと座ったら覚悟できるのか。未だに法本を読んで理解できると思う人がいる。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェが今話した内容は法本に出ていない。

チベット仏教は禅定を大円満と噶舉派の大手印2つの系統に分けた。大手印は顕教と密教の修行方法に区分される。大印契には4つの次第があり、それぞれ3つの段階に分けられ、合計12段階がある。12段階の修行をしたら、仏果が成就できる。この修行方法は間違えた修行をしないようにあなたを守り、非想非非想天までの修行ができる。『楞厳経』に、得たいものがあると、魔はそこに入るという話がある。つまり、禅定の時はちっぽけな感覚、心得、軽安であっても決して期待してはならない。座禅時、ちょっとした意念が動くと、魔は入り、そなたの成仏を妨げる。よく修行できたとか、深く入定して動かないとかを自認する時、本当は最後にまだ1つの意念が残っているから、高くても非想非非想天までしか修行できない。それ故、仏法の禅定と外道は全く異なっている。

六祖は『花開五葉(一輪の花が五片の花瓣を開く)』を話した。意味は、六祖の後、花だけが咲くが、実ることがないことだ。末法時代に、禅の修行で成就を得た者がほとんどいない。根器があるかどうか、心が落ち着いているかどうかのことではない。今の空気は汚染されており、食べ物には毒性があるから、尊勝なる直貢チェツァン法王は4500メーターの標高にあるラプチ雪山で閉関するようにリンチェンドルジェ・リンポチェに要求した。ラプチ雪山だったら、空気はおいしいし、邪魔されることもなく、磁場もいい。しかも、比較的に空に近い。

禅定を修めるには、灌頂を通じる必要がある。灌頂は将来の禅定の仕方を教える権限を与えることだ。そなたが学びたいから、こちらは教えてあげなければならないことはない。また、目をつぶって胡坐を半時間かいて動かないことも入定ではない。血液は流れないのか。呼吸しないのか。でたらめだ。灌頂を通じて後で修法の時、そなたの心はより安定になる。灌頂は、前行の分別がある。つまり、用意のことだ。用意がよくなると、正行は最初からうまくできる。

先ほどは発心だった。一切の衆生が離苦得楽になり、仏土に生まれることを祈った。禅定は4つの灌頂を通さなければならない。本尊は金剛亥母と勝楽金剛だ。

平等智がなければ、我々は禅の修行がうまくできない。平等智がなければ、いわゆる境界について縁に高望みする。よい境界がほしいとか、軽安がほしいとかの思いは、平等ではない。平等性も、平等智もないと、禅を修める時に魔が入ってくる。禅の修行は求める、望む、何らかのものを減らすことではない。禅の修行はあなたに本性とは何かをよく認識させる。本性は清浄なもので、加わるものは全くなく、加えられるのは煩悩だ。禅の修行にもう1つの効果がある、煩悩の軽減、断絶を手伝ってくれる。我々の定力で煩悩を断ち切る。仏果を得ず、法身菩薩までの修行ができなかったら、わずかながらも、そなたは依然に煩悩がある。禅の修行をすれば、意念が消えるわけではない。意念が全くなかったら、木と同じではないか。禅を修行した後、そなたは専念になり、煩悩を減らして煩悩の源を断ち切ることができるが、煩悩を全部消すことではない。金剛乗と菩薩乗の修行法において、煩悩は菩提だ。金剛乗の修行法では、煩悩は智慧に転換できる。転換方法は平等智によるのだ。煩悩があるのは、好き嫌いの分別心があるからだ。皈依しない人は好きでないから、皈依しない。

大手印に4つの過程がある。まずは専一瑜伽、最初に心念を集中する。次は離戯瑜伽、平等智の意味と同じだ。平等性智がないと、もちろん世間のいろんな幻想、つまり戯のことから離れられない。離戯とは、我々の心が離れた意味だ。人間の体はこの世間で生きているが、内心は世間のいろんな束縛から離れることができ、もはや煩悩に縛られず、この好き嫌いのある執着心から離れた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは鈴杵の儀軌を修め、並びに開示を続けた。「鈴杵は加持が必要で、いい加減に持ち上げて揺らして鳴らしてはいけない。寺院で2つの鈴を揺らすのを見たことがあるだろう。あれは拍子を数えることだから、違う。寺院の入口にかけられるのが鈴だ。地蔵菩薩が持ったのは錫杖であり、錫杖の上方にも杵がある。ただ、地蔵菩薩は苦労してより長いものを持っただけだ。修法の時は、そんなに長いものを使うことはできないので、金剛杵を使う。鈴杵にはいろんな意義が含まれている。

続いて、出家弟子衆が衆生に代わり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにマンダラを献上供養を行い請法した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を継続なさって、参会者を率いて真言を唱えられた。

修法の過程では八供女献唱、供茶、供飯と薈供の儀軌が行われ、参会者はみな一つずつ、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが加持くださったお供えを頂戴し、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に貰った後少し食べると開示されて、法会中に上師、仏菩薩と共食する得難い殊勝なる因縁を賜った。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を継続なさって、また開示を下された。

法本の最後に、全てを、壇城に入れなかった衆生の全員に回向する。それらの衆生はそなたたちが見える人間でなく、虚空にいる一切の有情衆生のことだ。彼らが喜ぶことを祈る。最後に、大変重要な言葉がある。『諸仏は誓言者を護持する』、前に話した誓う内容だ。実行できたら、仏は護持してあげる。だから、先ほどあなたは1日の善行を誓ったら、仏は1日、24時間だけあなたを護持する。『仏教を発揚し、行者の願いを満足する』の意味だが、仏教を発揚する行者の全て願いがあれば、仏は助けてあげるので、求める必要はないことだ。どんな事業であっても、仏に祈れば、一切の成就を阻害するものはない。リンチェンドルジェ・リンポチェはどんな仏法事業を行っても成就できると直貢チェツァン法王が話したことを含め、以前のたくさんの成就者もこの言葉の通りだった。だから、そなたたちは一日の誓いを立てれば、一日の護持がもらえる。生生世世の誓いを立てれば、生生世世の護持がもらえる。もっと早く言ってくれればと言う人もいるだろう。仏は慈悲ではないわけではない。そなたたち自身の行動が原因だ。仏はあなたたちの縁に応じて3つの方法を話した。そなたたちのある縁だけにそうなるのだ。根器のいい人は自然に行動に移す。言ってあげる必要もない。しかし、あなたたちの根器はあまりにも悪い。どれくらいの学問があるかは、関係がなく、学仏の道においてあなたたちは皆、根器が悪い。あなたたちは質が悪いという意味ではない。縁がなかったら、この法会に参加しなかっただろう。直貢噶舉の伝承、リンチェンドルジェ・リンポチェと縁がなかったら、ここには来なかった意味だ。しかし、この縁は何故続かないのか。自分なりの考え方が多すぎて自分ですべてをコントロールできると思っているからだ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率いて、回向文を唱えられ、開示を下された。

回向文から分かるように、学仏には上師が必要だ。よそで皈依したからと思わないでほしい。それは結縁の皈依だ。法本があるよとあなたは言うかもしれない。よその上師は灌頂してあげただろうが、伝法してあげたのか。ないだろう。『彼等全ての後を我も修学し』だが、仏菩薩と上師に従って彼らの一切を学ぶ意味だ。オリジナルのものを作らない。家で仏経を読む時は早く読み上げたり、真言を唱える時は大きい声を出したりするようなことは全部でたらめだ。上師に従ってその教え方を学ぶからこそ、功徳がある。言い換えると、皈依せず、改めようとしないのなら、功徳はあり得ない。しかし、来世には必ず福がある。それでも、この福は、増しのものだったら、人天福になる。それほどよくないものだったら、ペットの福になる。世間にペットが増えたのは何故だろう。常に抱かれていいものを食べさせてもらったり、よい服を着せてもらったりしてあなたたちよりも快適に過ごしている。今の回向の祈願は上師が中心になって行う。『上師の加持が離れざる様に』だが、上師を離れないで加持がもらえることを祈る意味だ。離れないことは24時間も上師の傍にいるのではない。心が上師を離れないからこそ加持がもらうことだ。尊勝なる直貢チェツァン法王はかつてこう話した。直貢チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェは上師と弟子として心が常に一緒だ。つまり、弟子の心は決して上師から離れることがない意味だ。自分の考え方を持つと、上師を離れることになる。どんなことをする時でも上師に話さなければならない意味ではない。上師を尊重せず、恭敬せず、学仏の心が離れると、加持はもらえないことだ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率いて、六字大明呪を唱えられた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはちっとも休まないで、苦労を構わず引き続きに黒水財神法門を修められ、この法の殊勝さを開示された。

続きに、皆のために黒水財神を修める。財神には黒、白、黄、紅、緑の種類がある。財神は中国人の言っている五路財神のことではない。色によってそれぞれの本尊と願力が代表される。この法本は、蓮花生大師が自ら伝承した岩蔵法だ。財神は護法部で、八地菩薩まで証得できた。八地菩薩にもまだわずかな煩悩があるので、ちょっと念誦するだけでは叶えられない。きちんと観音法門を修め、観音菩薩の慈悲心を備えたら、初めて財神の助けを起動させられる。昨日も話したが、財神の助けは、いきなりたくさんのお金を儲けさせることではない。あなたは過ちを改めると発心し、皈依したとしたら、今生は学仏の資糧が備わるようになる。資糧とは、我々の言っている物のほか、体の健康も財だ。体の弱い人は、修行したくてもうまくできない。財の概念には外部の財、内部の財がある。秘密財もある。これは密法の範囲だ。

財を必要とするのは何故だ。八大菩薩の身に宝石がつけられている。菩薩は美しく見せたいとか、宝石が好きだとかというわけではない。『普門品』に、無尽意菩薩は、観音菩薩の功徳に対する釈迦牟尼仏の称賛を聞いたので、身に着けていた瓔珞を外して観音菩薩に供養した。瓔珞を今の言葉で表すと、宝石を繋ぐチェーンのことだ。学仏者は何もほしくないのに、宝石を付ける理由は何だという人もいるだろう。これは間違いなく出家者のことに適用している。出家者はどんなものもほしく思ってはならない。しかし、修行で福報が現れると、これらの世間の財や一切の受用は自然に現れる。求める必要はない。ある弟子は公開の場で旦那に宝石を買ってもらうと話した。いい加減な発言だ。旦那が買ってくれるなら、とっくに買ってくれた。公開の場所で大声で旦那に買ってもらうのを話す必要はなかった。結果はどうだったのか。決まって買わなかったのだ。見栄のためにほらを吹いてどうするのか。例え宝石を買ってもらったとしても、ケンカになってしまい、福報がないのと同じだ。福報があれば、旦那は必ず買ってくれる。

富を邪魔なもの、甚だしい災いだと思わなくていい。当然、出家者は財を集めてはいけない。出家者の財は衆生を利益するためのものなので、決して取っておいてはならない。しかし、在家者の場合、構わない。維摩詰居士は在家の相を表して菩薩道を行い、どんなものでも手に入った。今日は皆のために財神法を修めるが、我々はこの一生において肉食、飲酒、因果不信、不学仏、仏にほしいものを求めることのような悪を行うと、福報を損なってしまう。一人の福の根本は寿と財だ。悪行は必ず寿や財を減らす。

腐ったものを食べるのが福を大事にすることではない。我々が今生で得た福報はいずれも過去世の修行によるものだ。大事にしなければならない。福を大事にする目的は何か。人生を楽しむのが目的ではない。福を大切にして一日でも早く仏門に皈依して仏法を学習したいからだ。宗教でも迷信でもない。人生をはっきりと理解するためだ。睡眠、起床、結婚、生育、仕事が人生だということではない。これらは縁に過ぎない。夫や妻がいるかどうか、お金があるかどうかは、全部修行によるのだ。これらの縁はそなたの人生を変えられない。しかし、人生とは何か。あなたは自分の将来について確信があるのか。変えられるのか。できないから、我々は絶えずに学問や事業において何かを求めて肯定してもらいたい。学仏したら、将来はどうなるかが分かる。仏経に、将来のことがたくさん書かれた。

黒水財神は忿怒の相を表し、立ち姿でより速く行動できることを示している。そなたが今生でなした悪業、損害した財を、黒水財神は守ってくれる。本来なら、悪行で損失した財はしばらく損失が止まり、十分な資糧を与えて学仏できるようにしてあげる。嘘や欺瞞を続ける人は、財神法会に参加しても無駄だ。お寺に行って行列で待って銭母(金運を呼ぶお金)をもらっても役立たない。銭母だけで金儲けができるのなら、誰も働かなくていいのではないか。だから、財神法会に参加して引かれるはずだった給料は引かなくて済み、昇給のはずがなかった人は昇給できたことは、財神が金儲けを手伝ったわけではない。そなたの悪縁をしばらく止め、もらうべきものがもらえるようにしてあげたのだ。一方、出家者は、財神法会の参加によってたくさんの信者がお金をたくさん供養し、仏学院や寺院を建てる祈願が叶うこともない。出家者にとって財神法会の参加には2つの利益がある。1つは、学仏のための資糧があり、学仏に必要なものは決して不足にならないことだ。もう1つは、学仏のための法財があることだ。法界の財は仏法だが、仏法は金銭や地位で買えるものではない。学問のように理解できるものではない。完全に上師の指導を通じ、自分を変え続けていくからこそ得られるものだ。法財を得れば、自分の修行には大変役立つ。衆生を利益するのにも大変有益だ。こんな観念を持って財神法会に参加しなければ、何のためにもならない。

財神法会に参加し終えた後、すぐ宝くじを買っても何のためにならない。財神法会に参加したから、債権者は来なくなると勘違いしないでほしい。また、財神法会に参加した後、すぐ発注してもらえたのは財神の助けだとも思わないでほしい。そうではない。そなたに与えるべきものがあったが、そなたはいくつかの悪業をなしたから、得れなくなった。そなたの運命においてもらうべき財だったら、黒水財神はもらえるようにしてあげる。運命にないものだったら、修行する気がない人には、法界の財はあり得ない。誤解してほしくない。噂のように密宗で財神法を修めて貪欲を助けるようなことではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは商売をしているが、自分のために財神法を決して修めない。年の始まりというわけもあり、そなたたちも道場に供養したから、財神法を修めてあなたたちに仕事があるように手伝う。そうすると、道場に供養し続けられる財がある。さもなければ、道場の維持は難しい。

この財神法でそなたに役立つと共に、貧乏な衆生にも役立つといい。貧乏になる原因はいろいろあるが、悪いことをしたせいで貧乏になった人を助けるのが難しい。その人が過ちを犯した果報だからだ。黒水財神の頂戴は不動仏だ。つまり、密法の修行ができなかったら、黒水財神を修めても相応できない。黒水財神は八地菩薩で、本来仏果を証得したが、観音菩薩のように衆生を利益するために戻ってきた。このように衆生を助け、衆生の苦しみを軽減したい。法本には、相応できる修行をし、兆候が現れた時に限り、財神はあなたと結び、そなたはこれによって衆生のために修行できる。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの法を修行して相応できたので、衆生のためにこの法を修めることができる。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を始められ、開示を下された。

不動仏は有情の財神の身を調伏する。八地菩薩でもまだ覚有情だ。菩薩になれば、悟れると思ったら勘違いだ。菩薩でもまだ覚有情で、わずかな煩悩を抱えている。不動仏の調伏と祈請を通してやっと完全に平等心になれる。黒水財神が大慈悲の化身で貧乏者を助けることを祈願する。本当に貧乏でお金のない人の場合、今日この修法できっと有益になる。しかし、旦那に宝石を買わせたい人は、この修法でも役立たない。噓をつくのは見栄のためだからだ。我々は黒水財神に頂礼し、財宝の資糧が豊かになることを祈願する。後ほど、リンチェンドルジェ・リンポチェが持咒する時、皆は黒水財神に祈っていい。

黒水財神は不動仏の化身で、身が黒く、背が低くて太る体形をしている。顔が1つ、腕が2本、目が3つある。頭に被った宝冠に摩尼宝があり、右手にカパラを持って中に血があり、左手に財鼠を持つ。左足はまっすぐ伸び、右足は曲げ、月輪に立つ。この法を修める時、菩提心を発するのが基本だ。自然に祈願通りに一切が成就し、逆縁の障害が全部消され、受用が増える。」

修法が円満になり、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。

「ある祈請文の内容だが、先ほど菩提心を以て祈った人に、健康・長寿・富を全部与える。皈依したくない人には与えない。過ちを正す気がないからだ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率いて、アキ護法儀軌を修められた。修法が終了後、リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続きに開示を賜られた。

今日の修法は全部、円満になったので、皆に修行面で努力を続けてほしい。破戒してはいけない。破戒は簡単だ。先ほど話した、旦那に宝石を買ってもらいたかった弟子は何の戒を破ったのか。」この時、貪欲の戒だと、一人の出家弟子は答えた。「自分の欲望を満足させたかったため旦那に指図をしたのは、妄語戒の類に入る。」リンチェンドルジェ・リンポチェは更に開示した。「十善法の最後にある内容は何だ。不貪欲、不瞋恚、不愚痴だろう。他人が宝石をつけているのを見て自分も見栄を張り、公開的な場所で旦那に買ってもらうと大声で言い出した。もし、周りの人がそのことを聞き、旦那に怒って買ってちょうだいと要求したら、夫婦ケンカを起こさせてしまうのではないか。他人に宝石があるのを見たら、気持ちよく見るだけでいい。羨む気持ちも、貪欲、瞋恚を起こしてはいけない。自分は社長夫人なのに、何で自分にはないのかと思ってはいけない。この夫婦に、外でリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子だと自称してほしくない。十善法を修めず、綺語だけを言っている。妻のほうが家に帰って旦那に話しても旦那が買わなかったら、二人はこれでケンカをしてしまうのではないか。見栄のために公の場で破戒してはいけない。学仏者に上師がいなかったら、いつでも破戒してしまうことがある。特に、それら皈依していないで家に籠って修行できると思う人はそうだ。家で修行できるのなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王に、修行を止めると言うのもできる。

皈依して十数年になっても破戒のことをしている。人間の意念は大変複雑だ。人に教えてもらわなかったら、何を間違えても気づかない。簡単な発言は大丈夫だろうと思う。学仏者でないと、平気だと思うだろうが、学仏者だったら、どんなことが起きるかが分かる。十善法を円満に修めない人だったら、浄土に往生したい発願をする資格がない。『阿弥陀経』においてはっきりとされている。善男子・善女人が往生を発願できたのは、十善法を修めたからだ。そなたたちは十善法を修めなかったら、いくら念誦しても浄土に往生するのが無理だ。十善法を修めた人こそ人天果報が得られる。人天果報がなかったら、行けない。そなたたちは、凡人の起心動念はいずれも業、罪だと信じず、いい加減な発言を放任し、言い終わったら全く責任を負わない。今の台湾でたくさんの問題が起きたのも、皆が発言するのが好きだからだ。今時、電話で話さず、ネット上でいろんな発言をするのが悪だ。いいね!ボタンを押すのも悪だ。他人が言いたい放題に罵った後、そなたがいいね!ボタンを押したら、悪に従うことになる。末法時代にいろんな状況、いろんな環境で我々は誘惑される。間違った発言やちょっとした悪念はたやすいことだ。しかし、我々はこんな複雑な社会生活を離れて過ごすことができない。例え山の奥で生活してもきっと見つけられる。戒体の守りがなく、上師に監督してもらわなければ、我々はきっと時々間違いを犯す。しかも、間違いに全く気付かない。

先ほど話した夫婦のことだが、間違った発言はそんなに厳しいことなのかと思う人もいるだろう。因果を信じる人だったら、深刻さが分かる。今回は旦那に買わせるが、今度は他人に買わせることになる。もし、買ってもらえなかったら、心に文句を抱くようになる。言葉は心から発するものだから、考えずに言ってしまったと、言い訳をしてはいけない。テープレコーダーではあるまい。心にその意念がなかったら、口にしなかったはずだ。普段から、善の訓練をしていたら、口にする言葉も善のものになる。しかし、普段の訓練は悪のものだったら、仕草や言葉も全部悪いものになる。善悪のニュアンスは繊細で微妙だ。人間の善と悪は絶対的ではない。何故なら、人間の善と悪はいずれも自身の利益が中心となっているからだ。仏法の善だけが純粋だ。仏法の善には自己利益が含まれず、全部衆生の利益のためだ。衆生の利益を考えていたら、後の果報は自然に変わってくる。仏法は深く見えるが、本当は簡単だ。深いと感じたのは、自分の考え方、心が複雑すぎて独りよがりだからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは一般の信者から、今世で諸仏菩薩の加持、及び上師の認証したリンポチェの果位がもらえたが、言葉や真言がうまくできたことが理由ではない。ずっと実践してきたからだ。直貢チェツァン法王は今でもずっと見ている。

今年は大変複雑で、変化が多いの一年だ。もし、身口意の不謹慎で悪念が起きたら、すぐ悪い共業に巻き込まれる。謹慎にならなければならない。悪念というのは、そなたたちが判断する良し悪しではない。他人を傷つけること、他人を計算することが全部悪だ。安らかに暮らしたいなら、自分をよく管理することだ。他人に頼ってはいけない。本人のことだから、意念に何を考えているか、何をしようとしているかは、自分が一番よく分かる。仏も、衆生の心が不可思議だと話した。衆生の意念はあまりにも多くて複雑すぎるから、仏はこう話した。仏は深く入定しなければ、それぞれの衆生が持っている、ずっと変わっている意念を見極めることもできない。皈依弟子として寝る前は、『仏子行三十七頌』でその一日の身口意を反省することだ。確実に従ったのかをチェックする。『仏子行三十七頌』を違反したことがあったら、直ちに懺悔しなさい。翌日は繰り返してはいけない。そうしないと、悪業の果報が成熟になるまでずっと繰り返していたら、菩薩と仏も助けてあげられなくなる。この法門を教えてあげたにもかかわらず、そなたたちは聞かない。皈依すれば無事だと思ってはならない。ずっと悪業を累積しているのだから、無事だとか、今日は順調だとかを思ってはならない。間違いをしなかったと思う時、実は間違いを犯した。そなたたちは凡人だからだ。地蔵菩薩は経典において、はっきりと話した。地球の人類は、起心動念が全部業、罪だ。そなたたちのなしていることはいずれも、そなたたちに輪廻と三悪道に堕ちさせる可能性がある。

学仏は世間の名と利のためではない。今生の名と利は過去世の修行によるものだから、自然についてくる。尊勝なる直貢チェツァン法王が開示したように、リンチェンドルジェ・リンポチェの修行は自然に成就したもので、結果はどうなるか、何になるか、何を得られるを意図的に考えず、何も想像しなかった。直貢チェツァン法王は道場の作り方をリンチェンドルジェ・リンポチェに教えなかった。弟子を取るのにも手伝わなかったが、自然にできたのだ。理由は、リンチェンドルジェ・リンポチェは上師を完全に信じたから、自然に上師の加持力は絶えずに伝わってきた。リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子もどんどん増えた。仏菩薩が見つけてくれたのだ。テレビに出ることも広告を出すことも必要でない。そなたたちがここに来たのは何故か。きっと、いろんな因縁がある。だから、更に教えを守ろうとしかったら、果報の責任は自分で取りなさい。

リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさん教えてあげた。寶吉祥の道場だけが毎回の法会の時『仏子三十七頌』を必ず唱える。『仏子三十七頌』は、学仏者にとって身口意に関して根本的かつ重要な注意事項だ。皈依を拒む、皈依する気がない、皈依したらうまく行動できないと思う人が、毎日『仏子三十七頌』を唱えても無駄だ。仏の弟子ではないからだ。旧正月2日を過ぎたら、皈依していない人を全部ここから追い出す。リンチェンドルジェ・リンポチェが怒るのは自分自身のためではない。そなたたちに怒ってもリンチェンドルジェ・リンポチェの利益にはならない。」

法会は円満に終了し、参会者は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なる修法及び開示に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りられるのを恭しくお送り申し上げて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに「新年明けましておめでとうございます」とお祝いを申し上げた。

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2017 年 07 月 02 日 更新