尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2017年1月28日

旧暦正月一日午後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥仏法センターで点灯供仏を行い、主法に登られ、御自ら『三十五仏懺』、大象財神法会を主持なさり、参会者に貴重な仏法の開示を下された。

法会が始まってすぐ、リンチェンドルジェ・リンポチェは「昨日頼という姓の弟子に、法務組の人員から、今日の法会のフローシートを二人の出家弟子に渡すよう伝えたのに、なぜ一人にしか渡さなかったのか?」とお尋ねになった。頼という姓の弟子は「自分は二回言いましたが、二回目はその内の一人についてしか言いませんでした」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示くださった。「そなたはリンチェンドルジェ・リンポチェの言葉を変えても良いのか?出て行け。今日の法会に参加してはならない。一言言い間違っただけなのに、それがそんなに深刻だろうか?と皆思っているだろう。もちろん深刻だ。なぜなら衆生の事だからだ。なぜ伝達ミスが起こるのか?それは重視しておらず、注意していないからだ。我々はこんなにも複雑な社会に存在している。他人に注意を払わず自分のことだけを考えていたなら、過ちを犯す。なんについても自己の利益しか考えないなら、簡単に過ちを犯すだろう。

今日は中国人にとって初一(旧暦正月一日)だ。中国と聞いて、受け入れ難く感じる人もいるだろう。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに七十歲だ。中国と呼び慣れているのだ。旧正月は中国の文化習俗だ。どの省であろうとどの民族であろうとそうだ。寺院の多くでも、初一には法会を行い、読経等を行う。一年の開始にあたり、衆生が皆、善の因縁に触れられることを願うのだ。寶吉祥道場も習俗に従い、旧正月の一日目に法会を行う。寶吉祥道場はチベット仏教直貢噶舉の伝承に属し、チベット仏法を主体とする。チベット仏法は中国顕教とどこが違うのか?いずれも仏法であり、結論も同じだ。修行の過程と発願の力量が違うだけだ。顕教は凡夫地から修行を開始し、証仏果まで修める。釈迦牟尼仏の仰せに従えば、三大阿僧祇劫を経なければならない。それは我々人類が想像できる時間ではない。顕教は因地から修行を開始する。顕とは明らかなことだ。文字、仏像、仏塔を通して、仏陀の教導と慈悲を体得することができる。すべての学仏人は、仏法を学び修行する時、必ず顕教から始めなければならない。つまり修行の基礎だ。顕教の基礎がなければ、金剛乗は伝えても教えてももらえない。話して聞かせることさえしないのだ。顕教の基礎は土台のようなものだ。土台が不安定なら、その上に建物を建てても崩れてしまう。

顕教とは善知識の教導を通して、仏法の道理がどこにあるかを深く体得するものだ。後世の人は仏法を小乗、大乗、金剛乗に分けたが、どの乗であろうと、始めは顕教を深く体得しなければならない。そうすれば、思惟の方向を過つことはない。仏法の思惟において常に正しい観念を持っていなければ、顕教を学ぶことはできない。チベットでは十年以上の顕教の基礎があり、上師がその弟子の根器が密法を伝えられるものであるかどうかを見極める。チベットの上師、法王、リンポチェに従えば密法が学べるというものではなく、チベット人なら誰でも密法を学んでいるというものではなく、一度や二度の灌頂を受ければ密宗を修めた、というものではないのだ。

今日は先ず皆を率いて『三十五仏懺』を拝む。『三十五仏懺』は『宝積経』から出たもので、釈迦牟尼仏が御自ら口伝なさったものだ。中国顕教ではほとんど『三十五仏懺』を拝まない。顕教では千仏懺、『梁皇宝懺』、地蔵懺、水陸法会を拝むが、これら懺はすべて後世の大徳がお書きになったもので、人天懺に属する。人天懺とは人道、天道へ至るものだ。『梁皇宝懺』中では千仏を拝むが、梁武帝の妃はどの道へ行ったか覚えているか?天界だ。どうして釈迦牟尼仏は『宝積経』中で『三十五仏懺』を開示なさるのか?『宝積経』は釈迦牟尼仏が、衆生に利益しようと発心し、菩薩道を行う菩薩に開示なさるものだ。すべての菩薩は過去世で必ず修行の障礙にぶつかっている。この種の障礙は財、家族等世間のものとは限らない。自己の過去世には必ず、累世から携えてきた清算し終えていない悪習、悪業がある。これら悪癖は、何かをする習慣があるというのではなく、残り香があるのだ。『宝積経』中でも、登地菩薩は何を修めなければ、二地、三地菩薩はどんな法を修めなければ、累世の悪癖を消すことができない、という。『三十五仏懺』は菩薩道を修めると決心した人が拝む懺だ。菩薩道を行うと発心していないなら、拝めば何かが良い方に変化すると考えているなら、今日は三十五仏と結縁でき、未来世に菩薩道を修める機会があるというだけになろう。

釈迦牟尼仏はかつて、衆生がみな輪迴の苦を離れられ、いつか必ず成仏できることを願うと開示くださった。成仏するには当然、広大な衆生に利益しなければ、十分な福徳因縁を累積し覚悟成仏することはできない。修行の面では、衆生に利益する能力を備えるため、先ずは自己の問題を解決しなければならない。『宝積経』は空性、因縁、菩薩修行の面をひたすら強調するが、出離心についても強調している。学仏人の世間輪迴を出離する心がとても弱く、それどころか全くなく、学仏は加護を求めるため、学問成就を求めるためだと考えているなら、これは出離心ではない。学仏は度衆のためだと考えているなら、この考え方も正しくない。自分が輪迴を解脱することができないのに、何を以って、衆生の輪迴解脱を助けられるというのか?出離心は輪迴を解脱するために、最初に下さなければならない決定だ。

出離とは厭離ではない。この世間を嫌って離れるのではないのだ。厭離であれば、小乗の方で修行し、阿羅漢になる可能性が高い。菩薩道修行では出離が大切だ。つまり、自分自身が生生世世に為してきた善悪業の影響を受けず、この一世ですっかり清算した後、六道輪迴で自分を牽引する一切の業力がなくなり、戻ってくるのは願力のためであって業力のためではないということだ。この一世で自己の生生世世の善悪業の力量を解決できないなら、必ず戻ってくる。釈迦牟尼仏はなぜ後に阿弥陀仏をご紹介になるのか?それは、そなた達がこの一生で自分の問題を解決できないからだ。少なくとも阿弥陀仏のお傍に行け、つまり阿鞞抜致(無退、不退、不退転)となり、良い菩薩に登録することができる。菩薩にならなければ衆生に利益することなどできない。菩薩戒を受ければ菩薩だなどと思ってはならない。現在他人に良くすれば、それが行菩薩道だなどと思ってはならない。自分は非常に大きい願を発したので未来の菩薩だなどと思ってはならない。この一世で菩薩になれなければ、どうして未来に菩薩になれるのだ?修行の重点に留意しなければならない。心から強く納得し強烈な出離心を確立しなければならない。

出離心とはなんだ?あらゆる眷属がそなたの重石だ。そなたを出離できなくする。今日リンチェンドルジェ・リンポチェの子供は寶吉祥仏法センターのベストと識別証を忘れたが、道場に入り法会に参加できるようリンチェンドルジェ・リンポチェは融通してやらなかった。そなた達は、一回忘れたぐらいいいじゃないかと言うだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼をこっそり中に入れても、誰も気づかないだろう。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは入れなかった。非常に重要だと考える事は、心に留め、忘れないはずだ。たまにであっても忘れないはずだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように子女に執著しない。そなた達よりあっさりしているのだ。自分が出離心を持てているかどうかは普段から分かる。自分の眷属、名利にどれほど執着しているのだ?自身の自尊心にどれほど執着しているのだ?損をすることをどれほど恐れているのだ?自分が一番はっきり分かるだろう。

先週尊勝なるチェツァン法王が寶吉祥道場にお越しになられた際、一切すべて因縁に従い行う、と開示くださったが、そなた達には理解できまい。この因を開いたなら、いつ縁が成熟するかなどと考える必要はない。チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェが舍衛城の八大菩薩をお迎えした例を挙げて因縁法を説明くださった。チェツァン法王がこの八大菩薩をお迎えしようとのお考えを起こされたなら、弟子であればそう行い、上師の心願を完成するのだ。その後上師がどうなさるかは、弟子の知ったことではない。それは上師の因縁だからだ。何をしようとしているかとリンチェンドルジェ・リンポチェにしょっちゅう聞いてくるそなた達とは違うのだ。出家衆が何をしようとしているか、だと?そなた達に関係があるのか?一切すべては因縁だ。因縁を信じず、自分自身の考え方を行おうとするなら、ダメだというのではないが、過程で非常に多くの人を傷つける。それにはそなた自身も含んでいるのだ。因が開いたなら、自己の能力を尽くし、一切を善縁に従い行う。いつ結果するかは、重要ではない。因縁が具足でないなら、因縁が成熟していないなら、無理に行おうとしても、たくさんの問題が起きる。

仏法で言う隨縁とは消極的な方法ではない。隨縁とは、因がすでに行われたなら、途中の多くの過程もすべて縁だということだ。百個の動作を行っても、この縁には果報が出現しないかもしれない。だが、たった一個の縁であろうと、すぐに果が出現することもある。これは非常に複雑なのだ。衆生の心は非常に複雑だ。行善しようと心に決め、善の方向へ歩もうと心に決めたなら、必ず善果がある。いつになったら善果が成熟するのか、などと尋ねてはならない。仏だけがご存知だ。時下の人は、学び始めたならすぐに善果が出現し、すぐに通じ、すぐにOKとなることを望んでいる。どこにそんな良い事があるのだ?釈迦牟尼仏であろうと、過去世であれほど多くの世の菩薩道を修められ、この一世でようやく成仏なされたのだ。ちょっと仏法を聞きに来ただけで、一足飛びに行ける、感応する、学問を身につけられる、などという事がどうしてあるだろうか?これらはすべて過ちだ。

尊勝なるチェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェは自然に修められた、と仰せになった。それは、因縁に随い行う、という事だ。修行の結果いつどうなるというのではなく、いつ開悟するというのではない。これらはすべて執著心だ。『金剛経』では、法さえも捨てよという。法とは仏法ではない。世間で顕現する種々の現象にいっさい執著してはならない、ということだ。そなた達に言っても馬の耳に念仏ようなもので、理解できないだろう。なぜなら、行おうとしておらず、行う気もなく、行えるはずもないからだ。そなた達は、現在知っている、擁している、理解しているものを捨てるのを恐れている。捨て去れば、何も無くなってしまうと考えている。なぜ学仏は難しいのか?学仏とは何かを捨てるのでも、何かを増やすのでもない。仏法とは、何かを増やすのでは絕対になく、我々の執著心を減らし、消してしまうのだ。我々が拝仏するのはすべてこのためだ。拝仏すれば、あらゆることが好転し、あらゆる問題が解決されてしまう、というのではない。もしそうなら、因果などなく、過去世で為した悪因もなくなってしまう。因果がないなら、拝仏の因果もなくなってしまう。生生世世にどれだけの悪を為したのか、全く知ろうとせず、理解しようともしない。

皈依して十年余りになる九十歲代のある弟子が最近、死を前にして卒中を起こし昏睡状態に陥ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェが主法した普巴金剛法会に参加すると目を覚まし、三日後に往生した。昏睡状態で往生すれば苦痛がない、などと言ってはならない。昏睡中に往生すれば必ず畜生道に堕ちるのだ。仏法を聞けないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女のためにすぐにはポワ法を修めなかった。先ずは彼女の二人の娘にそれぞれ一万回の大礼拝を行うよう指示し、五日後一万回を終えた後、修法した。だが、福報がやはり不十分だったようで、ポワ法を修めた後、リンチェンドルジェ・リンポチェは一日具合が悪かった。この弟子は因果を信じず、真面目に懺悔せず、過去多くの肉を切り、多くの衆生を傷つけたことが、どれだけ深刻であるかを信じていなかった。この弟子は菜食をとても上手に料理したので、以前普通食を食べていた時もきっと美味しく料理していただろう。魚を食べエビを食べ、本当に美味しいという。それは地獄畜生道へ向かう道を一歩一歩歩くことなのだ。夢で美味しいと感じる。それは肉の味を忘れられていないのだ。それも畜生道へ堕ちる可能性がある。たくさんの人が皆そうしているではないか、と言うだろう。そうだ!だから地獄に墜ちる人は多く、人に投生するのは非常に少ない。地球は60億というとてつもない人口を抱えているなどと思ってはならない。他の衆生に比べれば極めて少ないのだ。この弟子は皈依していたのでいくらか福報があり、上師が方法を考えてやることができた。もし皈依していなかったならどうだっただろうか?それでは縁がない。

法会は伝承、上師、仏菩薩、護法を結縁させてくれる。この縁を結んだなら、大切にし、この縁を続けさせなければ、後の善の果はない。どうして必ず『三十五仏懺』を拝まなければならないのか?菩薩道修行を決心し、菩薩道を修めようと思っても、三十五仏の助けがなければどうしようもないのだ。顕教であろうと密宗であろうと、我々この代の学仏人はみな釈迦牟尼仏がお教えになったのだ。『三十五仏懺』は釈迦牟尼仏が御自ら伝えられたものなので、我々はこの懺を懺悔心で拝まなければならない。

懺悔は全宇宙だ。地球に限るのではなく、仏法だけにある法門だ。初心者であろうと中級者であろうと、後学者であろうと、どんな根器であろうと、必ず懺悔法門を修めなければならない。懺悔したことならあるなどと思ってはならない。一度拝んだだけで、どんな事であろうとすべて解決すると思っているのか?口では、どうかお許しください、ご容赦ください、と言っている。経典では、許しや容赦について言わない。自分がした事には自分で責任を負わなければならない。懺悔とは、上師と諸仏菩薩の面前で衆生に伝え、自己が為した悪の結果を完全に負う事だ。『地蔵経』では、善知識が障礙を一時的に押しとどめてくれるという。そなた達が懺悔心を起こしたので、上師の善知識の能力で、そなた達の冤親債主に、ひとまず借金取りに来ないでほしいと伝えるのだ。そなた達が十分稼いだなら改めて彼らに返済すれば良い。何を以て、十分稼ぐ、というのか?そなた達が仏法内で絶えず学習修行するなら、そなた達の福報が彼らを救うのであって、彼らを追い払ったり、彼らを超度させてしまったり、冤親債主を我々の身体の中から出してしまう、というのではない。この考え方は過ちだ。悔とは二度と再び犯さないということだ。懺悔を望んだということは、悪の心がその瞬間停止し、善の心が始まったということだ。懺悔を望まない人は、仏法と無縁だ。諸仏菩薩が成就できたのも、懺悔法門から始めたのだ。

懺悔したことがあるので、あとは幸せになるだけだ、修行を少ししっかりしたので、すぐに開悟するなどと思ってはならない。そんなことはない。懺悔とは、そなた達に修行の機会を与えることだ。修行しないなら、上師であろうと、押しとどめることはできない。法会に参加すれば福報があり、福を受け始める。だが、そなた達に傷害された衆生を助けることができなければ、衆生は善知識に尋ねに来る。善知識は彼らに、自分が代わりに返済することはできない、そなた達の方へ行けば良い!と言うだろう。懺悔しても、それは障礙を一時的に停止するだけなのだ。ただこの障礙はそなたの修行の業力を停止するだけで、業報の力量は消えてはいない。消してしまえるなら、仏ははっきり仰せになるだろう。懺悔すればすぐに消えてしまうと。

顕教は因地から修行を始める。チベット仏法は果地から修行を始める。仏はかつて「衆生の心は、もともとは清浄で、衆生は皆仏性を有している」と仰せになっている。学仏は我々が本来具備する仏性を顕現させるだけなのだ。つまり、さらに厳しく己を監督し、自身の心にほんの少しであろうと過ちの考えを抱かせたり、過ちを犯したり、過ちを口にしたりすることを許してはならない、ということだ。拝懺は非常に重要だ。三層がある。第一は泣く。さめざめと泣くというのではない。それは演技だ。嘘泣きは、数のうちに入らない。自分が良くなることを願っているので、子供が悪いことをして泣き、親にちょっとお仕置きの手を緩めてもらおうとしているようなものだ。中程度のは、床にひれ伏して泣き、全身の毛孔が開き、淚が止まらないという状況だ。最大の懺悔力量は、目が赤くなるまで泣き、さらには目尻に血が滲み流血するというものだ。わざわざ目をこすっても無駄だ。流血するまで目を擦れるはずがない。わざわざ目を突いてもいけない。流血するまで泣くというのは、累世で十分な善根がなければ、この生の懺悔力は生まれない。我々は生生世世で善を行ったことがあり、悪を行ったこともある。善の方が多ければ、悪があれば非常に容易に体得できる。悪が多ければ、善が出てきても体得できない。よって、上師の任務とは、なんらかの悪の念頭が出現しないよう、そなた達を救い、さらにはそなた達を制止することだ。

『三十五仏懺』を拝む前に、『百遍頂礼証知』を唱える。この法本の因縁は素晴らしい。経典にはこの法本について記載されていない。チェツァン法王基金会設立のパーティーで、チェツァン法王はこの法本をお伝えくださった。経典の記載に基づけば、この法本の起源はこうだ。正法がチベットに出現する前、ある地方の一人の国王が、王宮で天上から降りて来る予兆を目にした。この国王は夢の中でも『五世の後、その含義を理解したなら、それが法の開端だ』と授記を得た。五代後でなければ、この法本の含義を理解できないというのだ。つまり、この法本は書かれただけで、説明がなく、ポイントがどこにあるのかも講じられていない。『妙法蓮華経』でも、我々が仏を恭敬に頂礼するなら、すでに成仏道だという。非常に多くの人が、すでに成仏した、とめちゃくちゃに解釈しているが、もちろんそうではない。仏に成就するための道をすでに歩き始めている、ということだ。頂礼すればすぐに成仏が始まるというのではない。それではあまりにも簡単ではないか。十万遍大礼拝を拝んでいるのだから、すでに成仏している。そういうことではないのだ。『証知』とは、そなたと諸仏菩薩とに縁がなく、そなたが仏だ、菩薩だ、阿羅漢だなどと、仏の認証を得ることなどありえない、ということだ。チベット仏法では、自分はリンポチェだと言っても、自分で言えば良いというのではなく、上師が必ず公開の場で果位を認証しなければならないのだ。ここでは仏を頂礼するというが、メインは菩薩道修行だ。

法本は『永遠皈依三宝、敬献此身』という。それは、皈依はこの一世だけではなく、成仏するまで皈依の力量は存在する、ということだ。この一生でどうすべきか?それは仏に対して衆生に対して完全に恭敬で、身体を捧げて修行し衆生に利益するのだ。自己の人世間の名利、功名のためなら、拝仏しても役には立たない。

『重罪清浄諸善増』とある。清浄は消除ではないという。二つの方法で解釈することができる。善の心持ちで拝仏すれば、本来悪の罪もゆっくりと清浄となり、悪の力量は減り、さらには消えてしまうだろう。菩薩道において、罪の本性は空で、因縁法だ。真の姿をはっきりと見据え、罪が我々の心を汚染しておらず、何かに執著しているだけであるので、そなたは、罪は良くないと考える。だが、菩薩道修行には分別心がない。良いと良くないとを分けず、これは良い人だ、悪い人だと考えない。完全に因縁因果法則から衆生を救うのだ。我々が十足の信心を具備し三宝を頂礼する時、我々の罪は清められ始め、我々の清浄な本性は回復を始め、法界諸相皆空をはっきりと見ることができる。当然この罪の果報が出現したとしても、少しの苦痛も感じることはない。『宝積経』中では、釈迦牟尼仏はいくつかの難を示現なさる。仏は清浄心であり、苦を受けているとは感じない。仏は経典で、愚痴な世人は仏が苦を受けているとひたすら思っているようだが、仏はそうは思わない、と言う。それは、今日そなたはひたすら自分は苦を受けていると感じているが、そうではない、ということだ。現在の身体は業報身だ。累世で為した善悪業によってこの身体を得たのだ。この身体は報を受けるためのものなのだ。借金取りでなければ、返済だ。自分の身体は苦しみを受けているので、悲惨だなどと思ってはならない。

『諸善増』とある。罪の本体は清浄だと理解したなら、善の力量は非常に速く増える。それらの良くないものをわざわざ排除しようとしない。これは良くないものなので、拒絶しようとは考えない。その本質を理解した後、すべての悪果は出現する。自分が罪を受け、苦を受け、難を受けているとは思わない。これら執著心を消してしまえば、行う一切の善は非常に速く累積される。なぜなら、心に悪がないからだ。良くないものは悪だ、この人は自分をバカだと罵る、自分は明らかに間違っていないのに、この人は自分を攻撃する、と考えるなら、それこそが悪だ。なぜなら、これが自分の因縁だ、自分の事だと分かっていないからだ。果報が成熟すれば過ぎ去ってしまう。この心で『百遍頂礼証知』を唱え、『三十五仏懺』を拝まないなら、役には立たない。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座を降りられ、参会者を率いて『百遍頂礼証知』を唱えられた。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは再び法座に登られ、開示を下された。

この法本を唱える。それはすでに我々にどのような心持ちで死に向き合うかを教えている。中に『死が確実となった時、諸仏菩薩が金色の右手を我が頭上に伸ばして授記くださるのを目にできるよう願う』とある。そなた達は誰もその資格はない。なぜなら、ここまで出来ていないので、この後もないのだ。また『煩悩により心が乱れ希求法無我とならないよう願う。無量菩提心般を得て死に向き合えるよう願う』とある。これは菩薩道の修行者にとって非常に重要な注釈だ。重要なので、覚えておくように。我々は、諸仏菩薩が金色の右手を我々の頭上に伸ばし授記くださることだけを希求する。だが、自分はどうしたいとあれこれ考えるのではなく、入定すれば必ず開悟できるというのでもない。我々が死に向き合うのは、この一生が終わる、この身体はもう使えないからではなく、この業報身で返済しなければならないものは完済したので、この世間を離れる時なのだ。心では無量の菩提心を発し、自己の死を通して、死は無常で、この一生でどれほど優れていようと、死は影のようにひたすら付き従い、一秒たりとも傍を離れることはない、と衆生に知らせるのだ。占い師に、80歲まで生きられると言われても、保証はない。なぜなら、一口肉を食べれば一点の減点だからだ。この蒸し魚は本当に美味しい、このエビは本当に美味しい、といえば、さらに一点の減点だ。最後まで減点されれば、あらゆる病が現れる。さんざん病に苦しみ、さんざん金を使えば、さようならだ。我々は死を恐れるのではなく、死を拒絶するのではない。どうしようもないのだ。死なない人などいるだろうか?有情衆生で死なないものなどいない。死は必ず起きるのだ。必ず起きるのなら、菩提心を以て向き合い、死の過程を通して衆生に死の無常を理解させ、学仏修行を急いで行うよう促すのだ。

寶吉祥道場は一般の道場とは違う。初一に死について講じる。初一に講じず、大晦日になってようやく講じるなら、そなた達はそれまでもたないだろう。チェツァン法王は非常に慈悲深い。この法本をリンチェンドルジェ・リンポチェにお伝えくださった。リンチェンドルジェ・リンポチェは死の専門家だ。人は往生を前にすると、たくさんの念頭を持つ。死を前にして、今後は誰が夫の食事の準備をするのだろうと、まだ考えている。そなたと結婚する前も、夫は飢えていなかったではないか!息子はどうなる、などと考えてはならない。そなたが死ねば、息子は大喜びするかもしれない。なぜなら、自分の好きな人が見つけられるからだ。これらはすべて心が乱れることで生み出される煩悩だ。

もう一つは、希求法無我だ。我がない。そなたが『我がない』と考える。これも執著だ。我々は無量の菩提心で死に向き合わなければならない。死の過程で衆生に警告する他、自分がこの一生で為した一切の善業で、未来世でも継続して衆生に利益できるよう希望する。これこそ菩提心だ。この一生でほんの少しの善を為したとしても、未来の衆生に利益できるのだ。自分はこの一生で非常によく修行したので、必ず阿弥陀仏のお傍に行けるというのではない。『阿弥陀仏経』ではこのように言わない。『阿弥陀仏経』は発願往生を説く。発願とはなんだろうか?菩提心を用いることだ。阿弥陀仏のお傍に行くと言っても、人生の種々の苦痛から逃避する、というのではなく、阿弥陀仏のお傍に行くのは、以後より広大な衆生に利益するために、博士課程、大学院で学ぶためなのだ。福を享受するためではない。食べたいと思う魚やエビは全く出現しない。浄土では仏法を聞きたくないと思っても、それは無理だ。

2007年リンチェンドルジェ・リンポチェはネパールのラキ雪山で3ヶ月閉関した。一日目、一羽の鳥が午前3時に鳴いた。目覚まし時計より正確だ。鳴き声はとても美しく、『阿弥陀仏経』で言う迦陵鳥のようだった。リンチェンドルジェ・リンポチェがこれまで聞いた中で、もっとも美しい鳥の鳴き声だった。一羽が鳴くと山谷全体の鳥が一斉に鳴き出し、起きない訳にはいかない。浄土では楽に暮らせるなどと思ってはならない。鳥が起こしに来るのだ。そなた達のような怠け者は、地球では8、9時間眠れるだろうが、浄土では菩薩がお越しになりさえすれば、それがmorningcallだ。起きて法を聞くように呼ばれる。いつ何時であっても呼ばれるだろう。

菩提心がなければ、死に直面すれば苦痛を感じる。死の様々な苦痛により、生生世世に傷害した衆生に返済することができる。これも菩提心だ。古代には多くの大瑜伽士が自分に死が迫っていると知ると、病気になっても薬を飲まず治療しなかった。だが、そなた達は真似してはならない。末法時代にこのようにすれば訴えられてしまう。一部を切り取って都合よく解釈し、帰宅後家族に、リンチェンドルジェ・リンポチェは薬を飲むなと言った、などと言ってはならない。これほどたくさんの衆生を食べたことがあるのだ。手術でメスを入れられるのも当然だ。そなた達は修行人ではなく、懺悔心を起こしていないのだから、メスを入れられるのは当然だ。菩薩道修行すると発心せず、この世間を出離すると発心せず、息子や娘のことを考えているなら、仏法とは善縁が結ばれるだけだ。それなら、死の際に非常に苦しむことになろう。

この二言を言うのは簡単だが、行うのは容易ではない。だが、深く体得すれば、実は少しの困難もなくなってしまう。そうでなければ、仏は、このようにせよとは仰せにならないだろう。この二言は経典が説く一切に帰納される。覚えていられれば修行の法門であり、覚えていられないなら、一心不乱に念じるなどと滅茶苦茶なことを言う。それなら、乱れていれば良い。自分は仏成片を唱える、というが、やはり非常に多くの片がある。死に直面したなら罣礙を持ってはならない。自分はどこまでやりたい、などと自分に一切の脚注を与えてはならない。この一生で修めたものは、死に際してすべて出現する。仏は、そなた達が道を誤るのを恐れ、この二言をくださったのだ。これは顕教の修法だ。密法はこうではない。ポワ法は直接そなたを浄土に送る」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはガムポパ法帽を被られ「次は『三十五仏懺』を拝む。法帽は上師に賜ったのだ。遊び半分に被るものではない。法帽を被るとは、上師諸仏菩薩がそなた達の頂礼を受け入れてくださった、ということなのだ。参会者は『三十五仏懺』を拝む時、懺悔心を起こし、仏号を耳にする度に頂礼跪拝せよ。後の方は人が多くて混雑しているので、頂礼できないなら、恭敬にお辞儀するだけでも良い」と慈悲なる開示をくださった。

参加信衆及び弟子は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲力の攝受の下、自然に慚愧悔悟し、深く懺悔し、涙に咽いだ。

頂礼跪拝の完了後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは開示くださった:

菩提を得証するために、我々はみな回向しなければならない。自己と衆生のために仏果を証して回向しなければならない。ガンに回向、夫に、息子に回向するのではない。この種の人世間の回向では成仏の資糧を累積することはできない。『三十五仏懺』を拝んだ後は、将来一切の悪業を二度と再び為してはならない。

続いてはホワイトマハガラの大象財神を修める。顕教では財神法を修めない。財神法とは息懐増誅中の『増』法だ。財神を修めるのは財への執着だという人もいる。だが実は財神は護法部に属する。密法は仏部、護法部、金剛部、蓮花部の四部に分かれている。『宝積経』では世尊が開示なさる。人はどんな原因で死ぬのか。四種の状況がある。寿も財もあり死ぬ。寿も財もなく死ぬ。寿がなく財があり死ぬ。寿があり財がなく死ぬ。これから分かるように、人が世間で生きるには二つのものが要る。それが財と寿だ。寿も財もあり死ぬのは、いわゆる事故死だ。財も寿もなく死ぬのは、非常に多くの悪業を為し、突然寿と財をすべて使い切って死ぬのだ。寿があり財がないのは貧困で死ぬ。財があり寿がないのは、福を植え付けるのが惜しくて、寿が急速に短くなり死ぬ。違法な金儲けをするなどだろう。福報は寿と財で合成され、財は過去世の供養布施から得られる。

財は『外財』、『内財』、『法財』、『秘密財』に分けられる。『外財』は一切の得られたもの、食べるもの、着るもの、用いるものをすべて含む。この一生で非常に貧しいなら、『地蔵経』はそなたに布施の法門を教える。この一生で金が残らないことが多いなら、それは過去世で非常に多くの殺生を行い、非常に多くの悪業を行ったためだ。『内財』は、生生世世に修めて来た善根と学んだ学問を含む。『法財』は法界財で、虚空中には非常に多くの財富があるが、人類が必要とする珍宝は法界中にすべてある。修行人がある成就に達すると、すべての珍宝財富は出現し得られ、わざわざ願ったり求めたりする必要はない。修行で成就があるなら自然に福報があり、福報があるなら、財は自然に出現するからだ。『秘密財』とは公の場で言ってはならないものだ。

なぜ財神法を修めるのか?この種の世間で生きるには、いくらかの財富を持っていなければ生きていけないからだ。学仏してなお金儲けを求めるのか?という人がいる。出家人は大した金は要らない。だが、金がなければ食事もできない。現在の環境では托缽に頼って生活することはできない。さらに、チベットでは五年、十年と閉関する出家人もおり、資糧が必要なのだ。施主、功徳主が供養してくれなければ閉関することはできない。よって財は必要なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが提供する宿舍に暮らしている出家弟子なら、リンチェンドルジェ・リンポチェは每月彼らに食事し生活必需品を買う金を渡している。

財神法を修めれば、誰にでも役に立つ、というのではなく、財神の咒を唱えれば役に立つというのでもない。リンチェンドルジェ・リンポチェに財神法を修めるよう依頼する企業家もいるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは応じない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の会社のためにさえ財神法を修めないのに、どうして他の企業のために修めようか?過去一年の間、そなた達は三宝と道場に供養したので、リンチェンドルジェ・リンポチェは今日そなた達のために修めるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは一年に一度しか財神法を修めない。修めれば相応する。三宝へ供養する金が途切れることのないよう、年内の仕事が途切れることはなく、雇用主から給料を差し引かれることもない。

大象財神の本尊はホワイトマハガラであられる。ホワイトマハガラは大黒天のもう一つの化身だ。ホワイトマハガラの本尊は観世音菩薩で、観世音菩薩の本尊は阿弥陀仏であられる。つまり、観世音菩薩と阿弥陀仏を成就まで修められていなければ、白瑪哈嘎拉はそなたに構ってはくれない。ホワイトマハガラを成就まで修められていなければ、大象財神はそなたに構ってはくれない。唱えれば役に立つというものではないのだ。

大象財神の背後には物語がある。大象財神は前世で非常に裕福で寛大な王子だった。この王子は布施が好きで、誰かに金を求められれば、理由も問わずに必ず与えた。その金を用いて悪事を働いたものもいたので、王子は間接的に人の行悪を助けることになってしまった。誰かがそなたから金を借りて賭博し、麻薬を買い、悪事を働き、そなたに貸してくれなければ自分はおしまいだ、と言うようなものだ。このような話は経典にもある。お人好しも地獄に堕ちる可能性があるのだ。マハガラは王子のこのようなやり方を見て、彼を未来世で地獄に堕とし、首を切り落としてしまい象の首を取り付けた。象は無限の力を象徴する。ホワイトマハガラが大象財神を支持しないなら、どうすることもできない。大象財神が足元に踏みつけているのはサルと財鼠だ。サルは財を運び、財鼠は金を齧る。

財神法を修めるのはそなた達に金儲けをさせるのではない。あるべき財富を取り戻させてくださるのだ。だが、そなたの悪が重いのでなければ、というのが前提だ。今日我々はこの世間で財がなければ、全くどうすることもできない。何かを買って食べることもできない。古代なら家々を托鉢して回れば、誰かが供養布施してくれたが、今は非常に難しい。出家であろうと在家であろうと、この色身を養うためには必ず資糧が必要なのだ。健康に問題があれば修行することもできない。だが今日、慈悲心を備えておらず、貪欲な心で参加しているなら、役には立たない。慈悲心とは何だろうか?貧困も一種の苦だ。

財神法会への参加は、自分がより多くの財富を得るためではなく、過去世に非常に多くの悪業を為したことで貧困の苦を受けている衆生のため、今日の財神法が彼らの貧困の苦を軽減し、さらには消してしまえることを願う。どうしてホワイトマハガラの本尊は観音菩薩なのか?それは、観音菩薩は衆生の苦を目にされたので、真心で祈求しさえすれば、助けてくださるからだ。よって、観音菩薩の法門を相応まで修めず、密法まで修めていないなら、この財神法が修められることなどありえない。

続いて、出家弟子衆が衆生に代わり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにマンダラを献上供養を行い請法した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を開始された。修法が一段落した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示をくだされた:

大象財神の修法には黒沈香を供養しなければならないと定められている。黒沈香がないなら、この法を修めることはできない。今日の香はいくらだ?」とお尋ねになられたので、弟子が「四十数万元です」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示された。「昨年は二十数万元、今年は四十数万元だ。そなた達の考え方からすれば、この法は非常に高価だ。この法を大切にしなければならない。この後リンチェンドルジェ・リンポチェが持咒する時、大象財神に祈求するが良い。何を願っても良い。この法本は直貢噶舉の大成就者であられるユンカ・リンポチェが御自ら伝えられたものだ。チベット密法にはある特色がある。簡単な一文の経文、一個の咒語であろうと、必ず上師が自ら口伝しなければ、修行を始めることはできないのだ。聞いて、覚えられたら、修行を始められる、というものではないのだ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率いアキ護法と回向を修められた。修法が円満となり、リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて開示をくだされた︰

今日修めるのは大象財神であり、象鼻財神とも呼ばれる。ある説明では、本体と勝楽金剛の心には分別がないという。勝楽金剛とは無上瑜伽部で非常に重要な本尊だ。無上瑜伽部には勝楽金剛と喜金剛がある。喜金剛の法本はマルパ尊者がインドからチベットへもたらし、ミラレパ
尊者が勝楽金剛を修め始められた。喜金剛の法本は直貢噶舉ではしばらくの間、誰も修めていなかった。尊勝なるチェツァン法王は十数年をかけて喜金剛の法本を整理なされた後、2007年リンチェンドルジェ・リンポチェを連れてネパール北部のラキ雪山で閉関され、御自らリンチェンドルジェ・リンポチェにお伝えくださった。ラキ雪山はミラレパ
尊者が当時閉関なさった聖地であり、勝楽金剛の壇城だ。そこは標高4500m、関房は約5000mの場所にある。そこに3ヶ月閉関し喜金剛の本尊を修めた。

チベット仏教では、リンポチェであれば必ず事部、行部、瑜伽部、無上瑜伽部まで修行し成就を得なければならない。そうでなければ、仏法を利用して広大な衆生を迎えて救うことはできない。尊勝なるチェツァン法王はこの一生でただ一人、つまりリンチェンドルジェ・リンポチェだけを従えラキ雪山で3ヶ月閉関なさった。2016年チェツァン法王はラキ雪山上のチェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェの関房を取り壊され、チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェの閉関時に残していた衣服をまとめて河に流してしまい、衆生と結縁なされた。これはチェツァン法王がこの一生で、誰かを伴いラキ雪山へ行き閉関することは二度と再びないということだ。

チベット仏教の閉関は特殊だ。閉関には、関房で修めると規定があり、期間が満了しならなければ関房を出ることはできず、外界と何らかの接触を持つこともできず、話しをすることさえ許されない。3ヶ月の閉関を発願したなら、期間が満ちるまでは、内部で死んだとしても関房を出ることはできない。死を恐れるなら閉関に行くことはできない。このように大きな願力がなく、衆生を救おうという決心もないなら、修めることはできないし、上師も伝えることはない。密宗に好奇の心を抱いている人が非常に多い。密宗を修めれば、すごいことになると思っているらしい。だが、すごいというようなことはなく、修行が速くなり、この一生で生死を解脱でき、広大な衆生に利益できるようになるだけなのだ。この種の根器と条件を備えていないなら、無理に学ぼうとしても、自分自身には何の助けにもならない。リンチェンドルジェ・リンポチェの知る限り、チェツァン法王は台湾に非常に多くの弟子と信衆をお持ちだが、閉関に伴われたのは、リンチェンドルジェ・リンポチェただ一人だ。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェの中国語がとても上手だから、というのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはチベット語さえも話せない。だが、チェツァン法王は中国語と英語がお話しになれるので、二人の間の法におけるコミュニケーションに問題はない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは昨日非常に光栄なことに、尊勝なるチェツァン法王を我が家にお迎えでき、チェツァン法王は室内でリンチェンドルジェ・リンポチェに伝法くださった。上師が完全に弟子を受け入れていさえすれば、密法の伝法には時間や場所の制限はなく、いつでもどこでも伝法できるのだ。こんなにもたくさんの法をお伝えていただいているのは、衆生に利益するためだ。経典には『菩薩が衆生を欲により引っ掛けて救う』とある。欲と言っても、欲望を満たすのではなく、必要なものを先に少し与え、一先ず来るようにさせるのだ。金が欲しいか?財神法を修めてやろう。病を免れたければ、金剛薩埵を修めよう。煩悩から離れたいなら、プルパ金剛を修めよう。慈悲が欲しくて泣きたいなら、観音法門を修めてやろう。これが『欲により引っ掛ける』だ。

衆生を救うと決心していないなら、リンポチェという身分は、実に難しく苦しい仕事だ。7-ELEVENのように、いつでも誰かが助けを求めに来る。今日は大象財神を修めたので、この一生の世間財が断絶することはない。断絶することはない、とは本来あるべきものはあり、ないとしても飢えたり、貧しさで死んだりすることはないということだ。だが、この後でロトを買えば当たるのではないか?などと考えても無駄だ。そんなことはない。二億元ちょっとの賞金はすでに別の人が当てているのだ。そなたにはそのような運はない。だが、もともとは越えられなかった関を、ある日突然越えられた、ということが感じられるかもしれない。これこそ財神の救いだ。金儲けをさせてくださるのではないのだ。

財は福報中の一つだ。だが、我々はこれに執着してはならない。あれば良いが、なくても良い。あっても苦しく、なくても苦しい。自分自身の心がこれをどう決めるかだ。先週日曜日尊勝なるチェツァン法王は舍衛城について開示くださった。チェツァン法王は、もともとはある人がこのことを手伝ってくれていた、と仰せになった。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子として、傍にいたので正に行ったのだ。ところが因縁がリンチェンドルジェ・リンポチェの方に落ちてきた。皆聞いただろう。チェツァン法王が、リンチェンドルジェ・リンポチェは大功徳主だと御自ら仰せになるのを。弟子とはこういうものなのだ。上師がなさろうとすることは、何であろうと自分も行う。どれだけ足りないのか?などと尋ねてはならない。上師が何を考えているかなどどうして分かるだろうか?行えば良いのだ。そうすれば、多くの因縁が自然に備わる。わざわざ考えてはならない。修行もそうだ。修行を始める因縁がありさえすれば、この縁はいつか必ず成熟する。自分のこの一生は大丈夫だろうか、などと過度に心配してはならない。この一生でそなたは絶対に無理だ。絕対に成仏できない。だが、修行しさえすれば、どの一世かで必ず成仏できる。成仏するまでは、善知識と上師の教導が絶対に必要なのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは在家衆だとこだわるものではない。在家衆には在家衆の修行の方便があり、出家衆には出家衆の修行の長所がある。一概には言えないのだ。因縁がその上師に従っているなら、知らず知らずの内に接触するものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェも、これら弟子がどうして出現したのか分からない。訳が分からない内に現れていた。

旧暦正月の一日に懺悔法門の重要性について教えた。成仏するまでは、毎日必ず懺悔しなければならない。成仏するまでは、やはり無明があるのだ。仏法の教導を通して、如何にして自己を監督するか、自己の内心に本来存在すべきでないものを如何にして整理するかを理解する。つまりそれにより、煩悩から解脱できるのだから、学仏とは非常に自在なものなのだ。当然一朝一夕にできるものではなく、時間をかけた薰陶が必要だ。みな上根器ではない。六祖慧能ように、聞いた瞬間に開悟することなどできない。そなた達はもう一度聞いても無理だ。大迦葉尊者のように、釈迦牟尼仏が一輪の花をつまみ取るのを見て開悟することなどできない。そなた達は一本の樹木を見てもどうしようもない。そなた達がこの種の根器でないなら、そなた達の上師も花を見てすぐに開悟できる、というようなものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは一歩一歩、仏と菩薩の歩みに従い行っている。だが、これが最も安全なのだ。道を誤ることがない。道を誤れば他人も自分も傷つける。学仏で道を誤れば、結果は非常に深刻だ。

明日は上師供養法を修める。顕教にはなく、チベット仏教にしかないものだ。上師は諸仏菩薩に代わり我々に仏法をお教えくださる。法本には、上師はそなた達の最も良い友人だ、とある。世間のあらゆる友人は、そなた達と利益の往来がある。だが、上師と弟子との間には利害関係がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは供養を要求したことなど一度もないし、何を供養せよなどと要求したこともない。

九十数歳で往生したあの弟子について言えば、上師は弟子の状況を知っていたので、あらゆる方便法門を動員して、弟子のために因縁を作り、福報を累積してやった。この弟子の家は豊かでなかった。豊かでなかったので、娘に大礼拝を行わせたのだ。上師が弟子を救うかどうかは、金銭の有無では決まらないし、経を唱えれば超度できるというものではない。亡者に福報がなければどうしようもないのだ。これは『地蔵経』で説くものだ。母が往生後にどの道に生まれたかを知りたかった地蔵菩薩は、どのような供養を行ったか?そなた達にできるだろうか?無理だ。できないなら、上師はさまざまな方法を考える。大礼拝を行えば、福報の累積は最も速い。点灯はどうだと尋ねるものがいるだろうか?点灯は駄目なのではない。そなた達の心が開いていないなら、点灯は因縁に過ぎないのだ。チベット仏教では点灯には儀軌が必要で、咒語、祈禱文、祈請文がなければ、点灯の功徳が虚空全体に満ちることはない。考えれば、すぐに虚空全体に満ちるというものではないのだ。そなたの心力には限界がある。一つの場所に向かって話しているに過ぎない。

尊勝なるチェツァン法王はかつて『密宗を修めても、我々の身体がいずれかの本尊に変わるのではない。内心と本尊とは無二無別だ』と開示くださった。自身と本尊の身口意は無二無別だとしっかりと弁え、自身と本尊との間の功徳を絶えず累積しなければ、衆生を救う力を備えることはできない。ここまで成したいと思うなら、自己を捨てなければならない。仕事、職業、婚姻、好き嫌いを捨てるのではなく、自我在修の考え方を捨てるのだ。全く修めず、変わっておらず、依然として凡夫のままなら、どうして衆生に利益できるのか?密宗は生起次第と円満次第に分けられる。生起次第は、如何にして自己の凡夫の念頭から転化して聖者、諸仏菩薩の考え方、行為と同じにするかだ。円満次第は、この本尊に執着してはならない、ということだ。執著し過ぎれば、それも一種の煩悩だ。よって円満でなければならないのだ。

明日は午前9時に上師供養法と黒水財神を修める。それぞれの財神の願力は異なる。衆生には八万四千種の煩悩があるので、各財神の、衆生の業力に対する救いも違うのだ。黒水財神は朝修めなければならないと規定されている。大象財神は時間に決まりはないが、四十数万元の黒沈香を供養しなければならない。それがなければ修めることはできない。そなた達の願いも叶うだろう。

法会は円満に終了し、参会者は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なる修法及び開示に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りられるのを恭しくお送り申し上げて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに「新年明けましておめでとうございます」とお祝いを申し上げた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝して、旧暦正月一日に苦労を顧みず、参会者を率いて、『百遍頂礼証知』を唱えられて、『三十五仏懺』を拝まれて、衆生のために殊勝な大象財神法会を主持なさり、貴重な仏法の開示を下された。

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2017 年 06 月 11 日 更新