尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年6月26日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北の寶吉祥仏法センターにて殊勝な「チベット仏教直貢噶舉派ジッテン・サムゴン799年記念大法会」を主法し、祖師ジッテン・サムゴン、歴代祖師、尊勝なチヤツァン法王及びアキ護法の加持加護の下、直貢噶舉のナンジュ・ケンポス、顕密四衆が具足し、今回の殊勝な記念大法会が1500人参加しました。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは宝傘、楽器、薫香炉の先導及び護送のもと、八吉祥図模様の白い絨毯の上を歩いて壇城に上り、諸仏菩薩に恭しく頂礼しました。また、尊勝なる直貢チェツァン法王の如意寶法座にハタを献上し、灯をともして仏を供えた後、法座に上がり、参加者全員に貴重な仏法を開示した。

「今日、修めるのは直貢噶舉の上師供養法の儀軌、中国の顕教にはない法本と儀軌だ。中国の顕教は、自ら念誦、拝懺をし、何らかの仏法を話すことを修行だと主張している。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは以前顕教を学んでいた時も同じ概念を持っていた。今の在家者や出家者もそう思っている。仏経には『本師釈迦牟尼仏』があるが、自ら釈迦牟尼仏に会う人がいなくてただの標語だ。釈迦牟尼仏の開示した仏経は単に文字を通じて仏の真義を理解できるものではない。もしも、釈迦牟尼仏はその開示した仏経だけで修行できると思ったとしたら、釈迦牟尼仏は弟子を取る必要がなかっただろう。弟子を取ることはその自身を仏だと肯定するためではなく、仏法を伝承するためだった。仏法を伝承するには、仏に従って学び、学んで資格があると仏に認められてから、初めて仏法を弘通でき、代々に伝えていくことができる。

人間は誰でも傲慢の所があり、『本師釈迦牟尼仏』を唱えれば、釈迦牟尼仏は加持してくれると思いこんでいる。しかし、大きい願力を発することがなく、累世の善根も足りなかったら、釈迦牟尼仏は教えてくれるはずがない。我々は末法時代に生まれ、福報がないので、釈迦牟尼仏自ら教えてもらえない。それでも、末法時代において転生や化身で世間にいる菩薩がたくさんで釈迦牟尼仏の代わりに仏法を弘通している。リンチェンドルジェ・リンポチェは密法を学んだ後、一生において上師の教えがなければ、成就はあり得ないことをやっと理解できた。聞きに来ればいいと思う人が多い。聞けば修行の方法が分かると彼らは思っている。しかし、上師からその修行の功徳を伝えてもらわなかったら、一生をかけて聞いても結果のある修行ができない。金剛乗の弟子選びは大変厳しいものだ。根器がなければ、決して伝えない。無駄になるからだ。我々の学仏において上師は大事な存在だ。上師の助けがなければ、今生で成就できることはあり得ない。上師の加持がなければ、今生で仏法を体得するはずがない。これがリンチェンドルジェ・リンポチェの修行経験だし、学仏者全員が必要とする経験だ。

上師を敬うことは標語ではないし、怒られるのを避けるためでもない。上師を敬う意義は、上師を敬わなければ供養にならず、恭敬にならなければ福報にもならず、福報がなければ累世の業を転じることができないことにある。先ほど、最初に話を語った弟子はたくさんの名相を話したが、何れも標語だった。なぜ実行できないのか。顕教には上師がいなくて上師からの加持がないからだ。顕教では、出家者は領衆(大衆を率いる人)と呼ばれる。領衆は衆生を代表して修行する者ではない。衆生をリードして礼仏、拝仏をし、三宝を尊重する者だ。衆生から食事をさせてもらい、衆生からの布施・供養をもらうので、領衆の機会をもらって福報を累積するが、修行しているとは限らない。出家者は傲慢になりがちだ。理由は、自分は修行していると思いこんでいるからだ。それに対し、在家者は傲慢になることがより少ない。領衆になれないからだ。しかし、煩悩が多い。それぞれの長所と欠点がある。上師の役割はあなたたちの長所を発揮させ、欠点を直すことだ。

法本にある話だが、上師に供養することが福報を累積するのに一番早い方法だ。報身菩薩になる修行ができなければ、仏は供養を受け止めてくれない。一皿の果物を供養すれば、仏は分かると思ったら、勘違いだ。徹底的な懺悔心、恭敬心がなければ、仏に伝わらない。どうしたらよいかについて、仏経にはたくさん書かれた。今日は時間が十分でないため、開示しない。あなたたちは恭敬心が全くない。あなたたちの行為は正しいか間違ったかについて、上師は知っている。昨日、リンチェンドルジェ・リンポチェが上師相応法の灌頂を伝えた時、5人も追い払われた。十万回の念誦を終えれば、上師は伝法してあげなければならないと思わないでほしい。心が正しくなければ、伝法しない。上師の伝える仏法は、あなたたちの行為・思想に相応しているか。相応しなければ、上師はあなたたちに伝法する理由がない。上師は慈悲だから、念誦を終えれば、伝法してくれるべきだと思ってはいけない。上師は慈悲だからこそ、厳しくしなければならない。

今日は、祖師ジッテン・サムゴンの円寂を記念する。本来なら、二日後にすべきだったが、あなたたちは出勤しなければならないので、法会の時間を今日にした。地球の経緯度は少し変化したが、今日の暦法は八百年前と違う。空性から言えば、日付は人間が決める。

今回、リンチェンドルジェ・リンポチェがブータンでの修法の初日は釈迦牟尼仏の涅槃と成道の記念日だった。奇妙だ。経典によれば、この日に為す全ての功徳は普段の億萬倍にもなるそうだ。何故ここで修法しなかったのか。あなたたちに恭敬心がなかったからだ。ブータンから法を仰ぎに来た人は恭敬心を持っていた。彼らは台湾に来てリンチェンドルジェ・リンポチェに一度だけ会ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは修行者だと知ったら、あらゆる方法を使ってリンチェンドルジェ・リンポチェを招きたいとした。ブータンは仏教の国だから、弘法したければ行けると思ったら、勘違いだ。ブータンの文化部の事前調査による確認を経なければできないことだ。資格がなければ、行かせてもらえない。例え行くことがあっても、行動が如法でなかったら、二度と招かれない。ブータンからの正式な招請が来る前、リンチェンドルジェ・リンポチェはまず尊勝なる直貢チェツァン法王に指示を仰ぎ、同意を得てから、招請を出していいと先方に返事した。これこそが上師に対する尊重だ。あなたたちの場合、『法王に報告する。行って来る。』とか、『法王に報告する。帰って来た。』とか、こうなるだろう。あなたたちは上師を恭敬することを理解していない。尊勝なる直貢チェツァン法王は何度もリンチェンドルジェ・リンポチェに注意した。ブータンの文化部は弘法者に対して大変厳しく監督するそうだ。三日連続の修法どころか、間違いがあれば、半日だけでも中止を要求されることになる。

今日の何れの因縁でも諸仏菩薩の願力と関係し、衆生が仏菩薩と上師に対する恭敬心に関連している。因縁が十分でなければ、どんなことがあってもリンチェンドルジェ・リンポチェは決して行かない。今回のブータンのことだが、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の修行がいくらできているかを誇りたいのではない。直貢噶舉の法脈の種をいろんな所で植えたいと思ったからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身の利益のためでも、リンチェンドルジェ・リンポチェのことを現地の人に知らせるためでもなかった。弘法者として、正法との縁を結ぶ機会を衆生に与えたかった。仏教国家であるかどうか、現地の人は本当に修行しているかどうかのことが、リンチェンドルジェ・リンポチェが知るべき、或は観察すべきことではない。縁があったから、行った。この縁は全部衆生のため、その土地の衆生を助けるためのものだった。

今日は、ジッテン・サムゴン上師供養法を修めるが、私たちは永遠に、上師のことを忘れてはいけない。生生世世も上師のことを続けて思わなければならない。密法において、上師は生生世世、私たちが成仏できるまでに、面倒をずっと見てくれる者だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは祖師ジッテン・サムゴンに2回助けてもらった。1回は命を助けてくれたことで、もう1回は伝法してくれたことだ。上師が生生世世面倒を見てくれることがなければ、悪業が成熟する時に、助けてくれる人がいないのだ。仏菩薩が助けてくれると思ったら、勘違いだ。我々は仏菩薩との縁が本当に深いのか。毎日何冊かのお経を唱えることで、仏菩薩との縁ができるわけではない。これはただの助縁に過ぎない。尊勝なる直貢チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェは何度も開示したはずだ。念誦、拝仏、拝懺はあくまでも私たちの助縁を強めるもので、私たちの修行を助ける助縁に過ぎず、根本的な修行の方向ではない。

今日は上師供養法を修めるが、別に上師が私たちの供養を必要としているわけではない。この儀軌と法門を通して私たちの福と慧を迅速に累積し、私たちの我慢の心を減らすことができる。我慢の意念が減って初めて上師がくれた恩徳を体得できる。上師がくれた恩徳を体得して初めて常に上師のことを思うことができる。もしも、自分が修行していると思ったら、上師との縁はなくなる。不共四加行の最後の上師相応法を修めるのが、全部上師がくれるものだ。何故仏菩薩からのものではないのかと、あなたたちは疑問を持つだろうが、自分はどんな立場なのかを自問しなさい。自分は出家者だからといって仏菩薩は何でもくれるべきだと思っていないか。あなたが『水懺』を書いた悟達国師であれば、その可能性はあるかもしれない。さもなければ、どんな理由で仏菩薩は自分の夢に出て来て加持してくれると思えるのか。その可能性はほぼない。だったら、上師はあなたたちにとって十分な重要性がある。

チベット仏教は上師の重要性を大変強調しているが、何故だろう。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学んでいた時は、こう思ったことがある。たくさん勉強してもいろいろと監督される。やっと卒業したといってもまた、先生に監督される。学仏まで管理される。学仏は自在を主張するのではないか。自在とは、やりたい放題の意味ではない。生死自在だ。生きたければ、できる。死にたければ、できる。戻って来たければ、できる。戻る気がなければ、できる。これこそが自在だといえる。監督されないことが自在ではない。今日はお経を一冊多めに読もうとか、明日は忙しいから一冊少なめに読もうとか、こんな概念ではない。誰もが怒られることや監督されることが好きではない。もちろんできるが、仏果が証得でき、業力の借りをきちんと返し、自由になれた時だ。人間は一日でも輪廻の苦海にいると、自由になれず、業力によってけん制される。神通を持っていても業力に勝てない。上師の機能は自身の学習と修行の経験を通じて衆生の問題を突き止め、いろんな方便法門を用いて衆生を助けることだ。上師に助けられていると衆生が感じられるかどうかはどうでもいい。上師が助けてあげればいいのだ。上師相応法は私たちの修行過程にとって極めて重要だ。

祖師ジッテン・サムゴンは龍樹菩薩の再来だ。龍樹菩薩の書いた『中観論』がなかったら、後世の人は『宝積経』の話が中観だと理解もできない。龍樹菩薩は一生をかけて空性のある修行ができ、その後、ジッテン・サムゴンに転生してチベットという雪の国で直貢噶舉の伝承を始めた。ジッテン・サムゴンはかつて予言した。直貢噶舉の伝承は清浄であり、清浄とは代々に弘法者がいて法、口訣、真言を中断することなく伝えていく意味だ。途中に問題が起きた教派はいくつかがあり、十数年来、弘法者が現れず、暫く経って伝法する人が現れた。これこそが中断だ。しかし、直貢噶舉の伝承は一度も中断したことがない。つまり、法輪が絶えずに回り続けることだ。法輪が回るのが仏の働きではなく、衆生が修行したい時こそ、法輪が回る。

直貢噶舉の最も興盛の時期に、『山は直貢山、堤防は直貢ダム。』という言葉があった。山があれば、必ず直貢の寺院と閉関センターがあり、川があれば、必ずダムがあった。つまり、直貢教派が建設したダムのことだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの直貢噶舉の寺院に行ったことがある。多くは山の奥にあった。人に見られない隠れた場所にある寺院もあった。直貢噶舉は実際の修行を重んじている。一切の修行法門は釈迦牟尼仏、蓮師、インドのティロパが伝えた伝承に基づいている。全く変わらない。この吉祥の日に上師供養法を修めることにより、まずは福報及び直貢噶舉の歴代の伝承上師との深い因縁を累積すること、そして、上師がいなかったら、私たちは何もできないことを体得できる。

ここにいる人の中で、リンチェンドルジェ・リンポチェの顕教時期の修行と同じ程度の修行をした人がいないはずだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは顕教の上師を大変恭敬した。出藍の誉れという諺があるが、上師が必要ということは変わらない。上師の教導が必要だ。よく修行できたからといって自立して宗派を新たに作ろうと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは上師を感謝しているので、こんなことはしない。私たちはまだ成仏できていない。未来仏だと仏からの授記も受けていない。だから、新しい宗派を作ったり、寺院を建てたり、精舎を作ったり、センターを設置したりすることができる理由はないはずだ。上師の恩徳を忘れたら、修行には必ず問題が起きる。上師に対して少しでも恭敬しなかったら、修行に必ず問題が出てくる。仏菩薩と上師は私たちを処罰したりしない。全ては私たちが招いたのだ。上師に修行の境界を認証してもらっていないのに、境界のある修行ができたと自認することは妄語だ。境界というのは、仏経を通して見る、或は、自認できるものではない。上師の確認が必要だ。

今回、ブータンの件についても、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王に指示を仰いで同意を得た後、招待状を送ってもらったが、ほかの人はこうするだろう。招待状を送ってもらってから報告する。或は、出発の前日に報告する。または帰って来たら報告する。帰った後は何も言わない人もいるだろう。上師のことを忘れたら、仏法の修行に支障が出てくる。先ほど話を語った出家衆は、今回のブータンの旅は、わけもなく行ってきた。しかも昨日の灌頂に間に合ったと話した。上師を恭敬すれば、アキ護法は学仏における一切の障害を取り払ってくれる。ブータンに行った弟子の中でも、上師をちょっと敬わなかっただけで、帰って来れなくて今日の法会に間に合わなかった人もいる。」

リンチェンドルジェ・リンポチェは上師供養法を修め始め、先ほど唱えたのは不共の皈依と発心だと開示した。「仏法には小乗、大乗と金剛上の区別がある。不共の発心は小乗仏法に向かず、菩薩道を修行する大乗と金剛乗に適合している。不共の発心にある念誦の内容だが、私たちに怒りを持っている一切の敵、私たちを傷つける邪魔、私たちの解脱と得道を妨げる一切の衆生、虚空にいる一切の母のような諸有情、彼らが安楽で諸苦痛から離れることを望む、という内容がある。

この発心はあなたたちの普段唱える内容と違う。あなたたちは念誦して冤親債主に回向するが、自分の望みと彼らはどうなってほしいことを言う。実際に、不共の発心には、自分の望みが全く入っていない。だから、あなたたちに言ってきただろう。念誦する時は旦那が不倫しないように回向してはいけない。正しくない発心だ。また、冤親債主を追い払うことや彼らを済度することでもない。発心の理由は何だろうか。学仏の理由は何だろうか。私たちは累世においてたくさんの衆生を傷つけてきたし、肉をたくさん食べてきたし、返すのが当たり前だ。」

リンチェンドルジェ・リンポチェは参加者たちを率いて不共の発心を唱えてから共の発心を唱えた。即ち、三乗とも唱えてよい発心のことだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは参加者たちをリードして共の皈依文、四無量心を念誦した。

続きに、七支供養が行われた。修法がしばらく続いた後、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に禅定灌頂を賜り、並びに灌頂前に仏法の開示を授けた。

「あぐらをかいて座禅し、仏像に向かって目を閉じてじっと動かないこと、或は、何らかの話頭を参究すること、『山を見る時、山を見る、山を見る時、山を見ない。』を言ったりすること、誰かが念仏すること等が禅定だと思う人が多くいる。実際に、中国の禅宗には心法の伝承が必ずある。達摩祖師から六祖までもそうだ。六祖は、禅宗は花が5枚の葉が咲くと予言した。葉だけが咲くが、実らない意味だ。

本当は、禅定は仏法における独特な修行法門だ。八万四千の法門があり、何れも禅定と関係がある。禅定がなければ、生死の解脱はあり得ない。禅定の習得は、『楞厳経』、『楞伽経』、『六祖壇経』、『金剛経』を読んで座禅を七日間行うだけでできることではない。今言った過程をリンチェンドルジェ・リンポチェは何れも経験したが、最後は定になれなかったと分かった。『禅』と『定』は別々のことだ。『禅』が分からなければ、決して定になれない。定になれれば、初めて入定できる。毎日20分や30分座っても無駄だ。禅も定もなれない。自分を騙すことだ。『六祖壇経』を含めて何れの経典も心法を伝えなかった。心法は公開的に伝承できるものだったら、達摩祖師はとっくに書いたはずだ。当時、五祖が六祖に心法を伝授した時は夜だった。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前、わざと夜に伝える理由でもあったかと疑問を持った。五祖は六祖に殺されることでも恐れていただろうか。密法を学んでやっと分かった。中国の禅宗が本当は密法だ。密法だから外部に伝授しない。心法を得られないのが、修行できないからだ。歴史上に禅宗を修めた人が多かったが、本当に生死解脱ができた人は僅かだった。理由は灌頂と授権がなかったからだ。

ジッテン・サムゴンの不共甚深法三摩地授権灌頂法だが、不共は小乗では得られない灌頂で、菩薩乗と金剛乗を修めることを発心しなければ、この法を受けられない。三摩地は禅定の中で灌頂を受けることだ。前行、正行と後行を含むが、まずは座席に七支の座禅を行う必要がある。今日は解釈しない。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは禅定灌頂を授け始め、並びに体を真っ直ぐに伸ばすようにナンジュ・ケンポスに特別に指示した。

「何故、上師供養法には禅定灌頂が必要だろうかと、あなたたちは妙に思うだろう。理由は、上師が自身の修行による功徳力であなたたちの貪瞋痴、清浄でない身口意を暫く抑えることにより、あなたたちは法会に参加する時に恭敬心が起きて供養することができるからだ。だから、法会中は妄念が減る。上師と本尊の威徳力があなたたちの心を暫く降伏するからだ。」

続いて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは鈴杵を加持する儀軌を修め、並びに、鈴杵を手に持つと、鳴らすことができると思う人が多いが、そうではないと開示した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは上師供養法の儀軌を修持した。暫く修法を続けた後、ハタ献上の儀軌が行われた。ナンジュ・ケンポスが代表として寶吉祥の出家弟子らを率い、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩にハタを献上して伝法を仰いだ。修法はまた暫く続き、その後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参加者たちを率いてジッテン・サムゴンの心咒を念誦した。それから、八供女が歌を捧げ、お茶とご飯を供養する儀軌が進められ、並びに薈供の儀軌が行われた。参加者たちは全員リンチェンドルジェ・リンポチェの加持した供え物をもらったと共に、法会で仏菩薩と共に飲食する有り難い殊勝な因縁が得られた。

修法が暫く続いた後、リンチェンドルジェ・リンポチェはまた開示し始めた。「この段落の回向文は普通のとちょっと違い、上師の加持を祈り続ける内容だ。例えば、あなたたちは因果を知り、分かって理解していると自認する。ここに大変重要な二句、『於諸黒白思惟の因果』がある。あなたたちは殺人と殺生の悪い因だけを知っているが、思惟の因に関してはよく分からない。人のお金を騙し取るのがよくないと分かっているが、約束を果たさないのも騙すことだと理解していない。自己利益のために承諾したことを否認する人は世間に多くいる。これが騙しだ。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは子供にこう教えた。できないことを約束しない。約束した以上、必死に果たさなければならない。そうでないと、悪い因ができてしまう。上師の仕事は『祈請加持如理之取捨』だ。如理の意味が分からないだろう。『理』は仏法の理論を指している。取捨は一切の善を取り、一切の黒を捨てる意味だ。あなたたちは白黒の思惟に関する因果も分からず、『地蔵経』の内容通りに、起心動念は皆業だ、罪だ。

先ほど話を語った弟子はよい心境を持たなければならないと話した。よいとはどんなことか。よいと言ったら、分別心があることだ。良し悪しの区別があったら、自在に証得できない。それで、世間の人は仏法を話したら、問題が起きやすい。心境がよいことは何もかもが気持ちよくなることなら、一切の障害はよくないのか。違う。仏法には良し悪しの区別がない。上師の指導と加持がなければ、時々に間違えったことを言っても仏法を話していると誤認してしまう。その中の些細なところに気付くのが難しい。何故なら、自分の多くの意念は自己利益のためだと気付かないからだ。そのため、具徳で修行経験のある上師の教導と加持が必要だ。そうでなければ、間違っても正しいと勘違いしてしまう。取捨も分からず、やるべきことをしないで小さい善業をやらなくていいと思ってしまう。

先ほど話を語った、方という弟子は詳しく話さなかった。現地のホテルの支配人は14頭の犬を飼っている。リンチェンドルジェ・リンポチェ、ナンジュ・ケンポスと方は一緒に座っていたが、犬たちは方だけをいじめた。その体に腹這って食べ物をもらおうとした。翌日、リンチェンドルジェ・リンポチェは加持したパンをそれらの犬にやるようにVIPサービスアシスタントマネージャーに話した。私たち一行が庭を通った時、犬たちはちょうどそのマネージャーからパンをもらっていた。犬たちは前に出てほかの人に向かって吠えたが、真ん中にいたリンチェンドルジェ・リンポチェには吠えなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは白黒の取捨が分かっているからだ。それらの犬は分からない。『妙法蓮華経』に一つの話がある。田舎では、自分の尻尾を追って回る犬がいたら、近所に鬼がいて犬をからかって犬の尻尾を引っ張っていることだ。実際に、犬は周りのエネルギー変化に大変敏感だ。側に鬼がいたら、すぐ分かる。犬の鼻も鋭い。リンチェンドルジェ・リンポチェのテーブルにケーキもあったが、犬は方だけに腹這って食べ物をもらおうとした。リンチェンドルジェ・リンポチェにも吠えず、ほかの人だけを追っかけて吠えた。この話はリンチェンドルジェ・リンポチェの修行は如何によいかの内容ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェも敢えてこんなことを言わない。修行には良し悪しの概念がなく、上師に対する恭敬がポイントだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王に皈依した後、過去の顕教で学んでことを全部止めた。間違ったことを学んだかどうかが分からなかったから、全部一から学びなおした。リンチェンドルジェ・リンポチェは特に皆に言いたいが、過去の学んだこと、聞いたことを全部捨てなさい。さもなければ、学仏の道はますます大変になる。今日は特別にこの段落の祈請文を開示するが、どんな修行でも必ず上師の加持が必要で、閉関も上師の加持を祈請する必要があることを皆に話したかったからだ。上師に加持を祈請するのは、上師が偉いからではなく、どの上師もいろんな苦しい経験を持っており、苦しんできたし、必死で学仏しているからこそ、ちょっとした成就を得て衆生を利益できるからだ。ここにいるあなたたちは苦しんだことがない。あなたたちの人生は決して苦しいとは言えない。上師だけが理に従って取捨することが分かる。あなたたちがやるべきではないと思うことでも、上師はすることがある。あなたたちがやるべきだと思うことを、上師は逆にやらない。

今回、ブータンでの弘法だが、見知らない土地だから、来た信衆はどんな身分であっても間違いがあったら、一律に叱った。『宝積経』の内容だが、弘法者は衆生を助ける者であれば、何も怖くない。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らが黒業を犯すのを止めに行ったから、怖いものはない。例えそれで傷つくことがあるとしても、自分の業だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは叱り方が分かる。何故なら、上師はあなたたちの黒・白業について叱るのだ、自分のためではないから、あなたたちは真似てはいけない。真似て叱った人がいたが、結局、弟子たちに逃げられた。

今日、上師供養法を修めてあなたたちをよく理解させたいのは、引きこもって仏法を学び、自分で毎日念誦すれば、悟れる、或は、何とか光が見えたり、観世音菩薩のことを夢見たりすることができると思ってはならないことだ。こんな修行方法が役立つなら、経典や法本にはきっとこんな話がある。自分で学仏したいが、監督されたくない人なら、ここから出て行けばよい。テレビにたくさんの法師やリンポチェ、或は法王が出て法を開示している。彼らと縁があるなら、テレビを通すこともなかったのだ。テレビはあくまでも一種の宣伝方法に過ぎない。今日、上師供養法を修めて単に何らかの福報を得るだけでなく、あなたたちの知恵を開くことにもなる。修めた法のうち、あなたたちに教えなかったものもある。言っても、あなたたちは分からないから、リンチェンドルジェ・リンポチェは直接に修法した。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ弟子を率いて回向とアキ護法儀軌を修めて、法会が円満になった。弟子たちは、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法と開示に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを見送った。

« 昔の法会開示 – 法会開示へ戻る – 新しい法会開示 »

2016 年 12 月 11 日 更新