尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年6月19日

台北寶吉祥仏法センター共修法会、弟子と信衆は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが2015年8月16日日本道場で主法された「地蔵菩薩祈福法会」の開示仏法テープを静聴した。

「経典にある言葉だが、『遂売家宅広求香華及諸供具、於先仏塔寺大興供養。見覚華定自在王如来其形象在一寺中、塑画威容端厳畢備。時婆羅門女瞻礼尊容、倍生敬仰私自念言。』。

この段落では、婆羅門女は、母親が在世の時、因果を信じなかったため、必ず悪道に堕ちると分かったので、住む家を売却し、香花を広く求めたことが語られた。現代にいる私たちにとって、お香とお花はすぐ手に入るものだが、古代には、本物のお花とお香を手に入れて仏に供養するのが難しいことだった。今の時代に、お花はたくさん植えられているが、昔はそうでもなかった。また、いい加減に一本のお香を買ってよいことでもない。仏経によれば、本当に仏の供養に使われるお香の種類について、顕教ではいろんな種類に区別されているし、密法も同じだが、経典に基づいて特定の材料で作られたお香でなければ、仏に供養できないそうだ。

『及諸供具』とは、供養に使われる器具のことであり、仏前の灯、法具などがある。『於先仏塔寺大興供養』とは、婆羅門女は訪れた全ての仏寺で大規模の供養をした意味だ。『見覚華定自在王如来其形象在一寺中』とは、婆羅門女はある寺院で仏像を見た意味だ。『塑画威容端厳畢備。時婆羅門女瞻礼尊容、倍生敬仰』の意味だが、ここで皆に理解してほしいことがある。多くの人はお寺に行く時、見学の気持ちを持っているので、仏像を見たら、何も感じない。仏像の作用を体得する福報がないからだ。私たちはこのような時代に生まれ、自ら仏に会うことがないので、三宝を通して仏法に馴染むしかない。仏像もそのうちの一つだ。

しかし、仏像は物に過ぎない。どうやって仏像を等身仏と一致にすることができるだろう。つまり、仏像を作る人、仏像の開眼を行う修行者と仏像を拝む人、この三つの条件が備わらなければならない。礼拝する人に供養心がなく、ちょっと拝めばよいとか、お香をあげれば仏は何でも叶えてくれるべきだとかの思いがあれば、婆羅門女ほどの敬仰の心が生じないはずだ。何故なら、生じる福報がないからだ。そなたたちに仏像、上師に対して敬仰の心が生じないのは、善の供養心がないのが理由だ。婆羅門女のした供養は自分のためでなく、母親を三悪道から離れさせるのが目的だった。しかし、今時の人は誰でも拝む時、上師や仏菩薩に願えば、何でも叶えてもらいたいと思っている。前述の条件、即ち供養のことを全く実行していない。
仏経の指した条件からでは、そなたたちは誰も供養をしていないことになる。もちろん、以前の時代に、家は今ほど高価ではなかった。一つのことに注意しなさい。経典でいう『家宅』は、婆羅門女が住んでいた家のことだ。供養の時に、最も重要なのは自身の心構えだ。どれだけたくさんあげたことや、特定のものを供養したほうがいいことはどうでもいい。供養の心構えが大事だ。金銭や健康などを求める目的であれば、供養は何のためにもならない。しかし、懺悔心、供養心を以て供養したら、供養はためになる。

地蔵菩薩は一番貴重な供養を以て示現してくれた。以前の時代に家を持つことが非常に難しかった。例え今の時代でも容易ではないが、古代に自分の住む家を所有するのが本当に困難だった。婆羅門女はまず家を売却し、よいお香とお花、及び供仏のための用具を取得した。そして、仏寺、仏塔で供養した。やっとある仏寺で覚華定自在王如来の形象で書かれた絵に出会えた。とても『端厳畢備』だった。

経典に次の言葉だが、『倍生敬仰私自念言。仏名大覚具一切智、若在世時我母死後、儻来問仏必知処所。』。

当時、婆羅門女は私欲がなく、何も残さずに供養したので、仏寺で仏像を目にすると、自然に敬仰、恭敬、仰慕の心が生まれた。福報があったからこそできたことだ。皆はたくさんの仏寺、仏像を見ても、絵画や骨董のようにしか見えず、敬仰の心がない。理由は、供養がないからだ。何故供養がないのか。理由は、仏像を見ることが難しいと思わないからだ。

多くの人は、仏像は簡単に見れるものであり、誰かに書かせればいいと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは学仏して以来、多くの人が見れない仏像をたくさん見てきた。近頃も大変特別な仏像を見た。特別な仏像を見たことは、よりよく修行できたことだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェはあえてそう言わない。少なくとも自分の福報で他人が見る機会のない仏像を見ることができた。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれらの仏像を見ると、敬仰の心が生まれる。私たちは福も縁も浅い時代に生まれ、生きている仏に会う資格がないが、仏像を見ると、心は感激し、更に敬仰の心が起き、仏が衆生を利益することを望むことができる。『瞻礼尊容』は、鑑賞する態度や骨董を見る態度ではなく、仏像を仏と同じ見る意味だ。

婆羅門女は、仏は一切の智慧が備わっているので、仏が世間にいるとしたら、母親が死んだ後、仏に聞けば、きっと母親の居場所が分かると表した。

また経典の言葉だが、『時婆羅門女垂泣良久、瞻恋如来忽聞空中声曰。泣者聖女勿至悲哀、我今示汝母之去処。』。

婆羅門女は仏像の前に跪き、長らく泣いて瞻仰し続け、名残を惜しむ気持ちが一杯でその場を離れようとしなかった。突然に、空中からある声が現れ、泣いている聖女よと話しかけてきた。ここで『聖女』が特に言及されたが、仏は聖女を言った時、意味があるのだ。つまり、その女性は十善が完全になった上で、その行動は自身のためでなく、親孝行のためだという意味がある。リンチェンドルジェ・リンポチェに聞けば、自分の親はどの道に生まれたかを教えてあげるべきだと勘違いする人が多い。ちょっとした供え物をあげれば、何もかも変化が起きることを望む。『地蔵経』のこの部分で言えば、そなたたちは全く供養をしていない。仏菩薩にも願っていない。ただ自分の基準が満たされたいと、私欲で仏菩薩を脅かしているだけだ。

どうしてそこまでしたのか。自分に能力があれば、親を助けられるはずだ。両親を助けるように仏菩薩に願うことは、両親が在世の時、子女として両親を変えられず、両親に福がなかったことだ。仏菩薩に助けてもらえる福報を持つには、両親をどう助けたらよいのか。両親には必ず福報が必要だ。しかし、福報はどこから来るものなのか。供養によるものだ。私たちは子女なので、両親に代わって福報を累積することがきっとできる。
それで、仏は婆羅門女のことを聖女と呼んだ。つまり、一般の信衆と見なさず、普通の礼拝する人として扱わなかった。何故なら、婆羅門女は普通の人でなく、私欲の満足のために仏に願ったわけではないと、仏は知ったからだ。それで、仏は、悲しまないで今すぐお母さんはどこに行ったのかを教えてあげると話した。

次の経典の言葉だが、『婆羅門女合掌向空而白空曰、是何神徳寛我憂慮、我自失母以来昼夜憶恋、無処可問母生界。』。

婆羅門女は、どの神が指示を下したかと尋ねた。彼女には見えなかったからだ。婆羅門女は報身仏と法身仏が見えなかった。人間は死ぬ前に、化身仏が引接しに来ることがない。

仏菩薩が見えたと自認することは、皆幻想だ。仏に会うには、まずは死ぬ時、死ぬ前に仏が引接しに来る。化身仏が来る。そしては在世の時、菩薩の果位までに修行できたら、報身仏に会える。婆羅門女は修行しなかった。単に一人で大変よい基準の行動をしたので、仏の話が聞こえる能力があった。今朝リンチェンドルジェ・リンポチェが本尊を修めた時、皆は大変奇妙な声が聞こえただろう。地蔵菩薩が現れたからだ。そなたたちは地蔵菩薩が見える能力がないが、声は聞こえる。声が聞こえたのは、人間は鋭い耳を持っているためだ。目よりも鋭いので、聞こえた。

仏は声で婆羅門女に教えてあげた。婆羅門女には仏が見える条件がなかったのが理由だ。今時の科学で言えば、婆羅門女は仏の空間に入れないことになる。観音菩薩が見えたと言い張った人が多いが、嘘の可能性が高い。根拠、条件が必要だ。婆羅門女のような聖女でさえ仏が見えなかった。婆羅門女は、母親のことを24時間も思い続けたのに、尋ねられる所がなかったと表した。分かるだろう、当時は上師がいなかったので、聞きたくても聞けなかった。古代にはくじ引きや卦の占いもなく、仏もいなかった。幸いにも婆羅門女はたくさんの福徳の持ち主で、因果も知っていたので、求め方が分かった。それに対し、そなたたちは分からない。婆羅門女は誰に聞いたら分からなかったので、そのように祈って母親の転生した場所を確認しようとした。

経典の言葉、「時空中有声再報女曰、我是汝所瞻礼者、過去覚華定自在王如来。見汝憶母倍於常情衆生之分、故来告示。」。

前に出た経典の内容に、当時は像法時代だったという話がある。つまり、仏の体はもはや世間に存在しなかったが、仏法と仏像だけが残された時代だった。末法時代になると、仏像はますます少なくなる。最後は仏像も全く残らない。最も明らかなのは、数年前にアフガニスタンにあった世界最大の仏像が破壊されたことだ。人間は仏教を信じず、仏像を破壊したわけではない。縁が尽きたからだ。

当時、自分は過去覚華定自在王如来であり、婆羅門女の母親思いは普通の人と程度が違うと感じたと、仏は話した。普通の人だと、ちょっと思って泣くだけだろう。数滴の涙を流した後、お腹すいたら食事をしたり、テレビを見たければそのまま見たり、間もなく出かけて人に会ったりするだろう。これは母思いとは言えない。全部嘘だ。本当の親孝行ではない。大勢の人は両親のお葬式を終えたら、麻雀をしたり、いい食事をしたりしても構わないと思うが、これでは求められるはずがない。ここの内容は、婆羅門女の母思いは普通の人の程度を遥かに超え、普通の人の感情よりも深く、とても親を大切にしていたので、仏は教えてあげたことを説明している。

経典に次の言葉は、『婆羅門女聞此声已、挙身自撲肢節皆損、左右扶侍良久方蘇。』。

婆羅門女は声が聞こえただけで、全身が地面にうつ伏せになり、しかもゆっくりと礼拝したのでなく、飛びかかった行動だった。四肢の関節は傷だらけになり、血が流れた。僕従は彼女の側で支えたが、彼女は長らく気を失ったままの後、やっと意識が戻った。婆羅門女のような人でなければ、仏に助けてもらえないのだ。しかし、そなたたちはここに来たら、母親の死後の居場所を知りたいと、すぐリンチェンドルジェ・リンポチェに聞く。どこに行けるというのか。リンチェンドルジェ・リンポチェは答えない時もある。聞きに来る人に仏を拝むことを指示する。根拠は経典のこの段落だ。そなたたちは供養せず、供養したい気持ちもなく、しかも恭敬心が欠けている。だから、知るはずがない。何故知らないのか。知る福報がないからだ。

また、経典の言葉だが、『而白空曰、願仏慈愍速説我母生界、我今身心将死不久。』。

婆羅門女は、仏が現れたことを知ったから、すぐ空に向かって話しかけた。母親はどこに生まれたか、自分は身も心もくだくだで死期に近づいているから、仏に慈悲の教えを願いたいと話しかけた。ここの意味だが、婆羅門女は母親を助けるため、罣礙の心を止めることがなかったと説明している。大勢の人は多くても七七忌(四十九日)まで仏事をするだけで、後は知らない顔をする。済度を求める時もいい加減な態度を取る。全然違う。

次の経典の言葉だが、『時覚華定自在王如来告聖女曰、汝供養畢但早返舎、端坐思惟吾之名号、即当知母所生去処。』。

この段落は意味深い。仏は話したとはいえ、婆羅門女には教えてあげなかった。普通なら、覚華定自在王如来は直接に教えてあげてもよかったのではないか。しかし、仏は、供養を終えたら、早く家に帰って仏の名号を唱え続けたら、母親の転生した場所が分かると話してあげた。何故仏はこう話しただろうか。婆羅門女の母親には福報がなかったので、仏は話したくても、その縁がなかったからだ。それで、婆羅門女は仏号を唱え続けなければならなかった。即ち、持咒だ。

持咒は健康のためで、どんな問題でも解決できると多くの人は思っているが、そうではないのだ。自分と歴代の祖先が過去において為した過ちの解決に役立つだけだ。婆羅門女は何故、仏号を唱え続ける必要があったか。仏号は、世間の輪廻から離れようと決意することに役立つからだ。もし、仏は簡単に婆羅門女に教えてあげたとしたら、婆羅門女の母親は何も感じないはずだった。婆羅門女は母親と同じ遺伝子を持っていたので、その母親は死後地獄に堕ちたが、娘が続けて仏の名号を唱え続けたら、母親も感応でき、福報を得られるはずだった。

そなたたちに、毎日持咒するように教えた。持咒がよくできれば、冤親債主はいなくなり、自分は金儲けができ、悪いことは全部起きないと勘違いする人が多い。正しくないことだ。持咒、念仏は福報の累積、智慧の表顕に役立つ。経典に、仏の名号を唱え続ければ、母親の生まれ場所が分かるとの内容がある。これで分かるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたたちに親の生まれ場所を教えてあげる能力があるとしても、そなたたちが仏菩薩と上師に恭敬しなかったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは済度してあげたくてもできない。

多くの人が尋ね事を聞きに来る時、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも帰って一週間考えてからもう一度来なさいと要求する。何故考える必要があるのか。自分には何故仏法が必要なのか、仏法を敬っているのか、供養心があるのかについてよく考え、はっきりと理解できたら、初めて福報が起きるからだ。多くの人はこんな経験があるだろう。単に供養心が起きただけで、実際にはまだ供養をしていないのに、問題はすぐ解決できた。この段落は、供養をし終えてから、初めて福報があって仏に知ってもらえることを示している。何故供養を終えなければ、仏は知らないのかと疑問を持つ人が多いだろう。仏経に、仏は大神通があって力強いことが書かれているのではないか。神社に行って手を叩けば、仏は分かるのではないか。何故こんな面倒なことをしなければならないのか。お香をあげれば、何でも分かるはずではないか。これらの考えは正しくない。何故なら、仏経にこんな話がないからだ。

供養する理由は何だろうか。供養も誠意もなければ、仏菩薩とは縁があるはずがない。リンチェンドルジェ・リンポチェのよく挙げた例だが、仏は慈悲なのに、何故世間に苦しんでいる人がこんなに多いのか。しかも、戦争、天災と事故も起きている。仏は何故助けてあげないのか。仏は助けたくても、縁がなければ助けられない。仏も因果を背くことができない。悪の因を植えたにも関わらず、懺悔心と供養心が起きい。悪因の力は強いので、自分が仏法に接したいことも阻害されてしまう。自分にもこんなことがあったかをちょっと思い出してみなさい。急に行きたくなくなったことがあるだろう。これは、悪業の力が善業の力を越えて仏法に接することを邪魔したのだ。仏が止めたわけではない。

だから、十分の福報、仏との因縁を累積する必要がある。こうして初めて仏はそなたたちの未来の変え方を教えてあげられる。この段落では、仏は婆羅門女に、家に帰って仏の名号を思惟することを要求した。そなたたちの場合、いつもお寺に行って簡単に手を叩き、鐘を鳴らすだけで何でも仏に願いたい。こんなことができるなら、仏経には手を叩き、鐘を鳴らすことで何でも叶うことが書かれたはずだ。あくまでも民間の信仰だ。仏が教えてくれた方法ではない。仏が教えた方法こそ、根本から徹底的にやらなければならない。

毎日お寺や神社に行って祈る人はどれだけいるのか。そのうち、願いが叶った人は何人いるのか。何れも心の慰めしか得られない。祈りに行ったが、願いが叶わなかった人が多い。何故、願いが叶った人が少ないのか。鬼神は助けてくれないからだ。仏は果報を変えられない。皆自身の力で変える必要がある。仏は婆羅門女に次のことを話した。彼女は供養をして縁が起きたので、仏は助けてあげられるが、母親の未来を変えたければ、婆羅門女は事情を理解する必要があり、仏は自由に助けられない。
例えば、ある国に行けば安全だと教える人がいる。そなたはその話を聞き、行く気があったら、旅の用意が必要だろう。いろんな準備をする必要があるだろう。例えお金、航空券を渡して道を案内してあげても、そなたは現地の気候に応じた服を用意し、言葉を習い、現地の風習民情を理解する必要がある。そうでなければ、その土地に馴染むことが難しい。もう一つの準備が必要だ。決意だ。世間に存在する仏法も同じだ。来てほしいから、そなたを捕まえて来させるわけにはいかない。こんなことができても、そなたは嬉しくない。世間にいる時から参与することが必要だ。つまり、仏の教えた方法に従って行動することだ。

覚華定自在王如来は婆羅門女に、家に帰ったら、仏の名号をよく思惟しなさいと言った。これを聞いたら、面倒くさいと思う人が多く出てくる。仏は話した以上、何故最後まで言わなかったのか、話を最後まで言うべきだと思う。自分は供養したのではないかと思う。たくさんの人はお寺に行ってくじを引く。望み通りのくじではないから、そのくじを戻して引きなおす。一部の日本人もそうだ。神社に行ってくじを引き、よくないくじが当たったら、いらない。よいくじだけがほしい。これが欲望で求めることだ。自分は何の努力もしたくない

また、経典の言葉だが、『時婆羅門女尋礼仏已即帰其舎、以憶母故端坐念覚華定自在王如来、経一日一夜。』。

婆羅門女は仏に頂礼して家に帰った。24時間仏の名号を唱えた。そなたたちの場合、1時間だけ唱えたら、へたへただろう。そなたたちはそこに座って仏法を2時間聞いただけで、あくびをしたり、大変だと思ったり、腰が痛くなったりする。婆羅門女はどのように仏法を求めたかを見て見なさい。婆羅門女はたくさんの供養をしたにも関わらず、必死に祈った。そなたたちは常に、自分は修行しているとか、仏経を読んだとか、仏教大学で勉強したとか言っている。それらは仏法と全く無関係だ。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示したことは、全部仏経の内容だ。仏が教えてくれた方法だ。
婆羅門女は一日一夜をかけて覚華定自在王如来の仏号を唱え続けた。その前、仏は婆羅門女にいつ見られるかを教えなかった。婆羅門女も仏にいつになったら見られるかを聞かなかった。そなたたちの場合、どのくらい唱える必要があるのか、何回唱えなければならないのか、いつまでに唱えたら分かるのかなどのことをきっと聞くだろう。仏は婆羅門女に全く教えなかった。仏は皆の縁に応じているだけだ。そなたたちはどんな縁があるかによって仏はそれに応じる助けをする。だから、そなたたちの決意次第だ。婆羅門女にはそのような決意があったので、福報が起きると、彼女に見せた。

経典に出る次の言葉だが、『忽見自身、到一海辺其水涌沸、多諸悪獣尽復鉄身、飛走海上東西馳逐、見諸男子女人百千万数出没海中、被諸悪獣争取食噉。』。

婆羅門女は中断なく、唱え続けた。突然に、自分がある海辺にいるのが見えてきた。『忽見』とは、目を閉じてだらだらと持咒する時のことでなく、明確な意識がある時に起きたことの意味だ。忽見は、定に入ることで、つまり仏号を唱えるうちに、仏号のほかに何もなくなることだ。心に他の意念が全くなく、母親はどこに生まれたかを知りたいと願う意念でさえなくなった。仏が婆羅門女にそのように要求した理由は何だろうか。別の空間に入ったければ、心に雑念がある時はできないからだ。それで、心の雑念を全部取り払い、法界に入ってからでないと、入れない。その程度までのことをしたいなら、私たち自身だけの力では足りない。必ず上師と仏の加持で、私たちのあらゆる意念を止め、清浄な本性だけが残るようにしてもらわなければ、求めたくて会いたいものに出会うことはできない。

忽見は、最初からいつに会いたいと決めておくことではない。2007年に、リンチェンドルジェ・リンポチェがラプチ雪山で閉関した時、六道輪廻の苦しみを見た例を挙げよう。その時リンチェンドルジェ・リンポチェは見たいと望まず、要求もしなかった。また、何かを見ることも予想しなかった。その時も忽見した。突然、入定の時に光景が現れた。求めたわけではない。そのようになるとも予想しなかった。何かを見せてほしいと仏に願うこともなかった。弘法者がお経を説明する時も、そなたたちがお経を聞く時も、もきちんと理解する必要がある。どんな境界でも人が想像したものではない。必ず入定の時に見えるものだ。

『定』といのは、英語のpeacefulではない。peacefulであれば、unpeacefulという字もある。正しくない解釈だ。定とは、心に仏号のほかに、別の意念が全くない意味だ。とにかく唱え続ける。いつまでに続けるかは分からない。人はそれぞれの福報があるからだ。婆羅門女は大きい福報があったので、一日一夜で見られた。そなたたちの場合はどうだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェも1ヶ月以上閉関した後、突然に六道輪廻の苦しみが見えた。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日18時間持咒していた。

考えれば分かることだが、学仏はちょっとした勉強ですぐできて分かることではない。学仏は簡単ではないが、難しいと思う人が多いのは何故だ。信じないからだ。経典の前の部分にあったように、仏は真実を語るが、信じない人が大勢いる。婆羅門女は自分が海辺に来ていることが見えた。波が荒々しくうねり、たくさんの鉄の身をした悪獣が海上を飛び回ったり、歩き回ったりしていた。百千万もの男性と女性が海の中を出没して悪獣に食べられ、奪われていた。

経典の言葉だが、『又見夜叉其形各異、或多手多眼多足多頭、口牙外出利刃女剣、駆諸辠人、使近悪獣。』。

それらの人は食べられないように悪獣から逃げようとしたが、結局はまた異なる姿の夜叉鬼が現れた。たくさんの手、目、足があるようで、歯は刃物のように尖がっていた。罪人たちを追いかけて悪獣に食べさせようとした。

経典の言葉だが、『復自搏攫頭足相就。』。

夜叉は更にそれらの男性と女性を捕まえて彼らの頭と足を縛り付けた。まるである地方で人々は魚の頭と尻尾を縛り付けるのと同じだった。蝦を食べる時もそうだし、蟹も同じ処理だ。また、豚を殺す時も同じだ。だから、生前、豚を殺したり、魚介類を食べたり、蝦の殻を剥いたり、魚を食べたりすることがあったら、似たような目に遭う可能性がある。皆は待ってみなさい。

次は、『其形万類不敢久視』、いろんな姿があり、見るのだけでも恐ろしい意味だ。

そしては、『時婆羅門女以念仏力故自然無懼。有一鬼王名曰無毒、稽首来迎白聖女曰、善哉菩薩何縁来此。』。

婆羅門女は念仏し続けたので、力が現れて心が清浄になり、仏の慈悲なる力の加持がもらえた。慈悲とは、傷つけられるのを恐れず、衆生に絶えずに与えることだ。その時、ある鬼王は、丁寧に婆羅門女を出迎えて彼女にお辞儀した。彼女のことを菩薩だと思い、訪れた理由を尋ねた。

また、経典の言葉だが、『時婆羅門女問鬼王曰、此是何処。無毒答曰、此是大鉄囲山西面第一重海。聖女問曰、我聞鉄囲之内、地獄在中是事実不。無毒答曰実有地獄。』。

仏経に、地球に二つの地獄があるとの話がある。一つは海にあり、一つは山にある。ヒマラヤの向こうにある山だ。婆羅門女が行ったのが海中の地獄だった。リンチェンドルジェ・リンポチェは魚介類を食べないようにそなたたちに教えているが、理由は、数多くの魚に鬼がとりついているからだ。鬼の使者である魚もある。特に一部体形の大きいの魚はそうだ。彼らを食べたら、無事にいられるのか。だから、魚介類をたくさん食べる人が、癌に罹りやすい。婆羅門女は鬼王に、ここはどこかと尋ねた。そして、鬼王は、大鉄囲山で、西側にある最初の海だと答えた。婆羅門女はまた、鉄囲山に地獄があると聞いたが、事実なのかと鬼王に尋ねた。本当に地獄があると、無毒は答えた。

次の経典の言葉だが、『聖女問曰、我今云何得到獄所。無毒答曰、若非威神即須業力、非此二事終不能到。』。

地獄見学を案内できるという人がいる。日本、中国、台湾にこんな人がいる。しかし、この段落の内容で、彼らの言い方は否定された。聖女は、自分は何故こんな所に来たかと尋ねた。無毒は、まずは菩薩の助けが必要で、菩薩の助けで来るか、自身の業力で地獄に堕ちるはずの者がここに来ること、この二つの条件でなければ、地獄に来ることはないと答えた。だから、普通の人が地獄の見物に連れて行くことができるというのは、地獄に行くことではない。ただ鬼界に行ってそこの様子うを見るだけだ。

経典の言葉だが、『聖女又問、此水何縁而乃涌沸、多諸罪人及以悪獣。無毒答曰、此是閻浮提造悪衆生新死之者、経四十九日後、無人継嗣為作功徳救抜苦難、生時又無善因拠本業所感地獄、自然先渡此海。』。

聖女は、水は何故沸騰したお湯みたいに滾っているか、また、何故罪人と悪獣がこんなに多いかと聞いた。無毒は、これらは地球で十悪業を為した衆生だと答えた。十悪業の最初に出てくるのは殺生だから、肉を食べたら堕ちる可能性がある。」
この時、現場で唾をつけて仏経をめくた信衆がいたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは直ちに叱った。そして開示を続けた。

「仏経に唾を付けてはならない。仏経は普通の本ではないので、仏経を敬うべきだ。恭敬心がなければ、読むのを止めなさい。寶吉祥仏法センターは大変厳しいところだ。冗談はやめなさい。仏菩薩はそなたの唾なんて好きになるわけがない。仏経には護法がいるのだ。

無毒は、それらは地球で悪を為した衆生で、生前に殺業、邪淫などの十悪業を為した人であり、死後ちょうど49日を経ったと話した。49日以内に死者のために仏事を行う根拠は、経典のこの段落だ。49日後、『無人継嗣為作功徳』だが、誰が死者のための功徳を積むことができるのか。子女だ。いい加減に誰かにお経を唱えてもらえばよいことではない。必ず善知識を見つけなければならない。仏経でいう善知識は、修行者の全てが善であり、衆生のことを思っている意味だ。唱える量のお経に応じて費用を取ることではない。それは商売だ。功徳ではない。

『為作功徳』は、死者のために功徳を積む意味だ。死者のための功徳を積むには、経典の前半で記述された供養、恭敬が必要だ。死者は生前においてたくさんの悪事をした。もし婆羅門女のような、仏法を信じて三宝を恭敬するよい眷属がいたら、49日以内の死者のための功徳を積むことができる。間に合うし、三悪道に堕ちないよう死者を助けることができる。しかし、49日過ぎたら、助けられない。『生時又無善因』とは、在世の時、善因を植えなかった意味だ。『当拠本業所感地獄』とは、自身の為した悪業によって地獄に呼ばれた意味だ。所感地獄は、地獄に堕ちることは、閻魔に魂が引き付けられる、或は誰かに引きずられるせいではなく、死者自身が生前において為した業力に原因があると表している。

日本で一部の所は閻魔を参拝する。閻魔を拝んだら、閻魔の来る時間は後に延ばされると彼らは考えている。しかし、時間になると、閻魔は来るのだ。日本人に閻魔参拝の民俗があるのは、日本人は鬼を恐れているからだ。閻魔を拝んだら、閻魔はそれらの鬼を捕まえて反乱を起こさせないと思っているようだ。鬼を恐れる人は、常に鬼と同じことをしているからだ。地獄に堕ちるのは他人のせいではない。自身の業力が原因だから、地獄に呼ばれてそこに生まれる。『自然先渡此海』とは、地獄に堕ちる時、いわゆる奈何橋ではなく、仏経で言及されたこの海をまず渡る意味だ。この海は彼岸に向かう海ではない。地獄に堕ちる海だ。だから、夜に海辺に行くのが好きだったら、気を付けたほうがいい。

次の言葉は、『海東十万由旬又有一海其苦倍此、彼海之東又有一海其苦復倍、三業悪因之所招感、共号業海其処是也。』。

海東十万由旬(大変遠い距離)の向こうに、また一つの海がある。そこの苦しみはこの海より倍以上だ。しかも、更に向こうにまた一つの海がある。その前の海よりもまたもっと苦しい所だ。三業悪因は自分の貪瞋痴で為した悪因だ。それに呼ばれてここに生まれるので、共通に業海と呼ばれ、悪業の海はここにある。

そして、次の言葉は『聖女又問鬼王無毒曰地獄何在。無毒答曰、三海之内是大地獄、其数百千各各差別、所謂大者具有十八次有五百苦毒無量、次有千百亦無量苦。』。

聖女は、地獄はどこにあるかと無毒に尋ねた。この三つの海の範囲内は全部大地獄で、その数量は百千もあると無毒は答えた。外道の言っているのと違う。地獄は一つだけではなく、数百・数千もある。何故そんなに多いのか。悪行を行う衆生があまりにも多いので、一つだけの地獄では足りない。それで、たくさんの地獄がある。しかもそれぞれに異なっている。つまり、為した悪に応じて地獄で受けさせられる苦しみも違う。『所謂大者具有十八』だが、十八層地獄のことを、皆はよく耳にするが、本当は18個の大地獄があって海中にある。18層に分けられるのでなく、1層目のほうが苦しみがより軽くて下の層に行けば行くほど苦しみが重なることでもない。この言葉の出所は仏経だ。皆は誤解している。

大地獄は18個もある。そこで受けさせられる苦しみは生前の為した悪業によるが、それぞれ違う。小さ目の地獄は500個ある。そこで受けさせられる苦しみに含まれる毒は無量であり、数字で数えられるものではない。更に小さい地獄は百、千個もあり、同じく苦しみは無量だ。意味は、生前において大悪を行えば、18個の大地獄に生まれ、大悪より軽い悪を行えば、500個の小さ目の地獄に生まれ、更に軽い悪を行えば、もっと小さい地獄に生まれることだ。

続きの言葉は、『聖女又問大鬼王曰、我母死来未久、不知魂神当至何趣。鬼王問聖女曰、菩薩之母在生習何行業。』。

聖女はまず、自分の母は死んだばかりだが、魂神はどこに生まれたかと鬼王に尋ねた。そして、鬼王は、菩薩の母親は生前どんな職業をしたかと聞き返した。そなたたちが親のことで会見に来る時、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたたちの親の生前の職業を聞くが、根拠は仏経だ。鬼王でさえこの質問をする必要があったから、リンチェンドルジェ・リンポチェは凡人だからこそ、同様な質問をしなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは神通を持っており、自分の両親は何をしていたかについて分かっているはずだと思う人が多い。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは神通を持っていても言わない。何故なら、多くの人は、自分の親は間違っていないと思っているからだ。自分の親はどんな職業をしていたかを言い出す時に、初めて懺悔心が起きる。

リンチェンドルジェ・リンポチェのしていることは全部、根拠がある。以前は理由もなくてそなたたちの親のしていた職業を聞いたが、今、仏経を読んで初めて根拠があることに気付いた。いい加減に質問したわけではない。そなたたちの多くはこの質問をされただろう。何故聞くのかと、理解できない人が多い。リンチェンドルジェ・リンポチェは聞く必要がないのではないか、分かって言い出す神通があるはずではないかと疑問を持つだろう。この質問をする理由は、まず、両親は間違ったと自認しない人が多いし、忘れる人もいる。この間、リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の弟子に、そのお母さんは頻繁に鶏の内臓を食べさせていたと、言ってあげた。その弟子は、そんなことがないと返事したが、家に帰って一週間考えてお母さんと検討した後、確かにその通りだと分かった。しかし、その弟子は何故そんなことがないと言っただろうか。大したことではないと思ったからだ。鶏の内臓をちょっと食べたくらいで病気になるとは思わなかったからだ。

リンポチェとして、人の過去の為した悪因が見えないのなら、未来の果を変えることを助ける能力もあり得ない。だから、前の因を知る必要がある。しかも、そなたたち自身が言い出したほうがいい。そなたたちが口にすることができたら、意識田にある記憶は浮かんでくる。鬼王は普通の衆生ではない。少なくとも鬼通を持っており、婆羅門女の母親の過去の職業を知っていたはずだ。それでも質問した。鬼王は婆羅門女のことを菩薩だと呼んだが、先ほどの経典内容にあったように、菩薩の威徳力がなければ、地獄に行くことはできない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自殺死の地獄を見たことがある。今でも恐ろしく思える。病気や業力で死ぬ人でなければ、必ずその地獄に堕ちる。中は真っ黒で何も見えない。例え地獄は一杯になっても、そこにいる衆生は相変わらず自分一人しかいないと感じる。そして、自殺時の状況と死ぬ前の考えが繰り返される。例えば、建物から飛び降り自殺の場合は、苦労して屋上まで登って行き、飛び降りる。自分の死体を見てまた、屋上に登って飛び降りる。業が満了するまでに同じことをずっと繰り返さなければならない。自殺死の人であれば、切腹かほかの原因かを問わず、少なくとも2000年以上の人類の時間、その地獄にい続けなければならない。大変苦しい。

経典の言葉、『聖女答曰我母邪見譏毀三宝、設或暫信旋又不敬、死雖日浅、未知生処。』。

皆に理解してほしい。『生習何行業』は商売のことではない。生前にどんな習慣、行為、業力があったかの意味だ。もし婆羅門女はその質問に答えられなかったら、彼女は菩薩でなく、十善法を信じなかったことになる。自分の親は間違いがなく、優しくて家族のために大変頑張ったと思う人が多い。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはこんな話を聞くと、頭皮が痺れる(恐ろしくなる)。何故なら、彼らを助けられないからだ。

仏法は深奥なものだ。執着を持って自分は間違っていないと思う人も多い。本当にそうなら、阿弥陀仏の所に行けるはずだ。過ちがあるからこそ、行けないのだ。過ちを認めなければ、冤親債主は許してくれるはずがない。阿弥陀仏の所に行かせてくれるはずがない。自分の過ちを認めることができたらこそ、邪魔しないで皆で一緒に行くようにと、菩薩はそなたの冤親債主に忠告してあげられる。もし、自分は間違っていないと言い張っていたら、冤親債主はそなただけが行けるが、彼らは行けないと思うから、当然、そなたに行かせるはずがない。

婆羅門女はこう話した。自分の母親には邪見があり、三宝をよく中傷したり、破壊したりして時々にそんな行動をしたり、またしばらく信じたりしていた。偶には信じたが、その後はまた不信になった。一部の人は、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示する時に信じたが、道場を離れると信じなくなるのと同じだ。『旋又不敬』とは、敬う態度がすぐなくなる意味だ。『死雖日浅未知生処』とは、母親は死んだばかりだったが、婆羅門女は母親の生まれ場所を知らなかった意味だ。

次の経典の言葉だが、『無毒問曰、菩薩之母姓氏何等。聖女答曰、我父我母俱婆羅門種、父号尸羅善現母号悦帝利。』。

リンチェンドルジェ・リンポチェは時々そなたたちの両親の名前、生年を聞く。鬼王でさえ尋ねる必要があったから、リンチェンドルジェ・リンポチェは尚更だ。尋ねる理由は何だ。仏経によれば、六道の衆生の数字は恒河沙の数量でも及ばないそうだ。一人の衆生を探すには、名前がなければ、見出すことも、見つけることもあり得ない。ちなみに、婆羅門種は以前のインドでは最上位の種姓だった。

次の経典の言葉、『無毒合掌啓菩薩曰、願聖者却返本処、無至憂憶悲恋。悦帝利罪女生天以来経今三日、云承孝順之子為母設供修福、布施覚華定自在王如来塔寺。』。

婆羅門女は母親の名前を話すと、無毒は合掌して以下のことを報告した。菩薩は帰ってよい。これ以上の心配や悲恋は無用だ。母親には本来罪があると婆羅門女も知っていたはずだ。往生後の3日間、子女の孝行をして母親のために供養して福報を修めた。つまり、仏の話を聞いて家で仏号を唱え、供養したのが福報を修めることだ。しかも、覚華定自在王如来に仏塔と仏寺を供養した。
経典の言葉だが、『非唯菩薩之母得脱地獄、応是無間罪人此日悉得受楽俱同生訖。』。

そなたがこうしなかったら、お母さんは地獄を離れることなく、無間罪人のままで、一緒に享受してそこに生まれるはずがなかった意味だ。

経典の言葉だが、『鬼王言畢合掌而退。婆羅門女尋如夢帰悟此事已、便於覚華定自在王如来塔像之前立弘誓願、願我尽未来劫、応有罪苦衆生広設方便使令解脱。』。

ここで分かるように、婆羅門女は助けられたからと言って、もう自分には関係がないと思わなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの段落を読んで我が事のように思えた。何故なら、多くの人は助けをもらった後、姿を消してしまう。別にどうでもいいことだ。リンチェンドルジェ・リンポチェには関係がない。仏経によると、仏は、修行の方法を婆羅門女に教え、彼女の母親を五無間地獄から離れさせた。婆羅門女は真の聖女だ。このことを悟って覚華定自在王如来の塔像の前で偉大な誓いを立てた。自分は未来劫を尽くしても、罪と苦しみのある衆生のために、方便を広く設け、あらゆる方法を尽くして彼らを助け、輪廻の苦海、三悪道から解脱できるように助けることを誓った。
そして、次の言葉は、『仏告文殊師利、時鬼王無毒者当今財首菩薩是、婆羅門女者即地蔵菩薩是。』。

仏は文殊菩薩に、当時の無毒鬼王は今の財首菩薩であり、そして当時の婆羅門女は今の地蔵菩薩だと教えた。どんな菩薩でも、菩薩になる前、衆生を助けたことが必要だ。いきなり菩薩になる、或は仏経を唱えてじっと座るだけで修行できた菩薩になれるわけではない。菩薩になるには、必ずたくさんの衆生を利益しなければならない。公開スピーチをしたり、何らかの発言をしたりだけではなれない。この段落ははっきりと表した。婆羅門女は親孝行な人で、仏法の利益、衆生を助ける仏法の効果を理解していたから、発願した。

仏法では、親孝行のことが必要とされている。理由は、両親が私たちをどう扱ったかを、私たちはよく知っているからだ。例え愛してくれる親がいる縁がなくても、少なくとも生んでくれた母親と養ってくれた父親がいるのだ。例え1才までしか育ててもらえなくても、私たちは両親に1才までの恩徳の借りができた。この恩徳は世間のことで返せるものではないので、仏法を用いるしかない。仏経の中で、本当に親孝行をする人は学仏者だとされている。孝行は、母親に電話して元気かを聞いたり、何かをあげたりすることだと勘違いする人が多いが、そうではない。
特に今の商業時代において、両親のと距離はますます離れる。親の存在を無視する人も大勢いる。両親がいなかったら、そなたたちは生まれるはずがなかった。自分を生んだからと言って面倒を見るべきだと思ってはいけない。親は生んでくれたが、私たちに借りがないから、養って育ててくれなければならない理由がない。子供の頃、何かがあったら、親はどうして一々気遣ってくれなければならなかったか。ある孝行に関する仏経の中にこんな内容がある。子供の頃、大小便の処理は全部親がやってくれていた。今、全部そなたたちにやらせるとしたら、そなたたちは喜んでやれるだろうか。臭いとか、気持ち悪いとか、文句を言うだろう。しかし、親は決して文句を言わなかった。この点だけでも、私たちは親孝行をしなければならない。だから、地蔵菩薩に習おう。
まだ済度を求めに来ていない人は、もう求め方が分かっただろう。リンポチェの慈悲なる済度をお願いすると、ただの一言ではない。こんなに簡単なはずがない。『地蔵経』の開示を終えると、要求をますます厳しくするだろう。仏はかつて、これらの菩薩はどこから来たかを説明しなければならないと開示した。石から生まれたのではない。必ず時間をかけて修行して菩薩になったのだ。

第二品は『分身集会品第二』と呼ばれている。

経典に『爾時百千万億不可思不可議不可量不可説無量阿僧祇世界、所有地獄処分身地蔵菩薩、俱来集在忉利天宮。』がある。

この段落はよく考えさせてくれるものだ。分身の意味は何だろうか。菩薩は神通があってたくさんの分身をした意味なのか。仏法における分身の根本条件はどこからなのか。何故分身ができるのか。まずは、空性の慈悲心が得られるまでの修行が必要だ。菩薩に空性の慈悲心があると、慈悲の力はあらゆる所に存在する。つまり、全宇宙に慈悲の力が溢れる。これこそ慈悲の分身だ。次は、菩薩自身の願力の分身だ。菩薩の願は一切の衆生を助けるためである時、衆生にも助けてもらう願があれば、その力は現れる。そしては、密宗の観点だが、私たちは自分を鍛え続け、心の大きさは無量になり、無数の衆生を加持できるので、長期に渡って自分を鍛えていけば、たくさんの分身が現れる。
分身が現れるとは、分身はどこにいるかを知る意味ではない。孫悟空みたいに、一本の毛を抜いて息を吹けば、たくさんの分身が現れることでもない。そうではないのだ。自分の慈悲力が虚空に遍満する意味だ。単に顕教の訓練ではできないが、密法を学ぶ人は訓練できる。自分の慈悲心が虚空に遍満する観想を訓練できるからだ。
『百千万億不可思不可議不可量不可説』の部分だが、仏の言う『不可』は、私たち人類の理解できる境界ではない。その数字は信じられないほど多い。『無量阿僧祇世界』とは、宇宙に数多くの銀河系と世界があり、無数ほど多いことだ。仏にとって虚空は限りもなく、際限もないものだ。今の科学も証明したが、宇宙は外へと拡張し続けている。限界なし、ますます拡大している。仏はとっくに、宇宙は際限がなく、変わり続けており、この世界は増え続けていると随分前に開示した。どの世界の何れの地獄も、地蔵菩薩のあらゆる分身の慈悲の力も、全部忉利天宮に集中した。

次に出る経典の言葉は『以如来神力故、各以方面与諸得解脱従業道出者、亦各有千万億那由他数、共持香華来供養仏。』。

地蔵菩薩の分身が全部来たほか、釈迦牟尼仏の神力による加護もあったため、あらゆる所、即ち十方法界にいた、生死解脱ができて悪業・善業から離れられた衆生も、浄土、阿羅漢果、入定に入ったかもしれないが、数多くの衆生も皆お香、お花を持って仏に供養しに来た。

経典の言葉だが、『彼諸同来等輩、皆因地蔵菩薩教化、永不退転於阿耨多羅三藐三菩提。』。

これらの衆生は皆、地蔵菩薩の教えと転化をもらったから、阿耨多羅三藐三菩提に退転することは、永遠にない。意味は、これらの人々は菩提心を離れることがない。そなたたちは地蔵王菩薩の仏経の解説と法門が聞けたのは、きっと過去世に念誦、礼拝したことがあったからだ。さもなければ、今世には機会がない。実際には原因があるのだ。私たちは地蔵菩薩の教化を受けた人だが、教えを徹底的に守っていない。

次の言葉は、『是諸衆等久遠劫来、流浪生死六道受苦暫無休息。以地蔵菩薩広大慈悲深誓願故、各獲果証既至忉利。』

それらの衆生はずいぶん前から、輪廻の苦海を漂っていた。六道で一切の苦しみを受けていた。休むこともなかった。その後、地蔵菩薩の広大なる慈悲心と強い誓願を受けた。その願力は全ての衆生が証果できるように助けることだった。つまり、生死を輪廻しない果を証得できるように助けたいことだった。そのため、彼らは忉利天に行けるようになった。

次の経典の言葉は、『心懐踴躍瞻仰如来目不暫捨。』。

地藏菩薩が来たので、地藏菩薩と縁がある全ての衆生もついて来た。如来に会えて心は大変嬉しくなり、如来を瞻仰した。『目不暫捨』は、目が離れられない意味だ。
また、経典の言葉だが、『爾時世尊舒金色臂、摩百千万億不可思不可議不可量不可説無量阿僧祇世界諸分身地蔵菩薩摩訶薩頂。而作是言、吾於五濁悪世、教化如是剛強衆生、令心調伏捨邪帰正、十有一二尚悪習在。』。
その時、釈迦牟尼仏は黄金色の手を伸ばし、一切の世界からの地藏菩薩分身の頭頂を触ってこの言葉を話した。仏はこう話した。自分は五濁悪世、この悪の満ちた世間にいてそれら強剛な衆生、つまり、教えを聞かず、信じず、従わない衆生を教化し、邪道を捨てて正法に服従する(生死解脱の法を学ぶ)ように彼らの心を調伏しているが、10人のうち一人か二人くらいしか教化できない。極めて難しい。仏でさえ10人のうちに一人か二人しか変えさせられなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェのような平凡人間の場合、教化できるのは100万人のうちの一人か二人くらいだろう。

続きの言葉だが、『吾亦分身千百億広設方便、或有利根聞即信受、或有善果勤勧成就、或有暗鈍久化方帰、或有業重不生敬仰。』。

ここで、仏は、自分にも千百億に及ぶたくさんの分身があり、あらゆる方便法門を使い、根器がよくて学仏したい決意が固まり、聞くと信じて受ける衆生を助けたいと話した。『或有善果勤勧成就』は、善事をしたことがあり、果報が成熟した人に、頑張って忠告してあげれば、その人は成就できることを表している。『或有暗鈍久化方歸』とは、不器用で心が暗い人に対しては時間をかけて疑惑を解明してあげれば、最後も皈依させることができる意味だ。

『或有業重不生敬仰』は、仏法に敬仰しないのは善業や悪業が重いからだという意味だ。上師や三宝を敬仰しない人はこの類だ。善業が多すぎるから、敬仰の心が生じない。上師は有能で自分を助けてくれるし、自分のできないことの多くも成し遂げられると知っていても、業が重いから、敬仰の心が生じない。仏法の学習はまず自分の業障を消すことだ。しかし、業障を消すとは、よくない果報を消す意味だと多くの人は勘違いしている。そうではない。本当は学仏を阻害する力を消す意味だ。善業も悪業も阻害する力になる。

経典の言葉だが、『如是等輩衆生、各各差別分身度脱。』。

分身にはいろんな意義がある。仏経も仏の分身の一つだ。仏経を尊重する必要があるのは、仏経は仏の分身、仏の言葉だからだ。そのため、唾で仏経につけるのは、唾で仏像につけるのと同じ、恭敬のない行為だ。仏の舎利、仏像も仏の分身であり、仏はいろんな方法で衆生に仏法に馴染む因縁を与えている。

経典の言葉だが、『或現男子身或現女人身、或現天竜身或現鬼神身、或現山林川原河池泉井、利及於人悉皆度脱。』。

仏は男性或は女性の様子で現れる可能性がある。相手の様子に応じて仏は姿を現して済度してあげる。外道を拝むのはよくないと思う人もいるが、この言い方はよくない。その鬼は仏菩薩の化身という可能性もあるからだ。私たちは鬼神に祈る必要はないが、批判したり、見下したりする必要もない。それなりの機能がある。一部の衆生に悪をさせない鬼神がいたら、その鬼神は菩薩だ。また、更に悪をしてはいけないと衆生に知らせる鬼神がいたら、その鬼神も菩薩だ。
外道がよくないわけではないが、仏教界に外道を批判する人が多い。意味からでは、外道は私たちの生死解脱に役立たない。しかし、外道にはそれなりの長所がたくさんある。例えば、ほかの宗教も善行、善事を主張している。同じく菩薩の行為だ。ただ、生死解脱のことを教えていないので、外道と呼ばれる。よくないわけではない。
『或現山林川原河池泉井』は、森、山、河川、池水、井戸の様子に変わって衆生を利益する意味だ。例えば、病気を治す泉がある。仏菩薩の化身とも言える。チベットでは山、森、河川が尊重されているが、仏経に基づいたしきたりだ。汚染された水源がよくないのは、水中の衆生を傷つけるほか、うっかりして竜を傷つけるもあるからだ。竜を傷つけたら、必ず癌になる。また、仏の化身を傷つけることもあるからだ。一部の人は郊外で入定しやすいが、よい風景を見たら、すんなりと受け入れられる。

経典の言葉だが、『或現天帝身或現梵王身、或現転輪王身或現居士身、或現国王身或現宰輔身、或現官属身、或現比丘比丘尼優婆塞優婆夷身、乃至声聞羅漢辟支仏菩薩等身、而以化度。』。

この段落は『普門品』の内容と同じだ。仏は天界にいれば、天帝の姿で現れる。ここの内容によると、ほかの宗教の天主は釈迦牟尼仏の可能性だってある。ほかの宗教の神祇も釈迦牟尼仏であるかもしれない。転輪王については、未だに定義されていないが、転生した法王が転輪王だという言い方もある。仏経の中で、転輪王のローラーはいろんな種類がある。黄金、銀、銅、鉄、シリコンで作られたもので、空中を巡回している。だから、UFOかもしれない。
この段落によると、仏法を教える人は出家しなければならないと、批判してはならない。修行者の話した仏法は、釈迦牟尼仏の教えに基づいたうえで、その本人も修行できたのあれば、資格があるのだ。釈迦牟尼仏は慈悲だ。自分はたくさんの分身で現れて衆生を済度すると話した。

続きは、『非但仏身独現其前。』。

この言葉は、仏は一部の特別な衆生を済度する時、本来の仏の法身で、その人らの前に現れて済度してあげる意味だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの内容を体験したことがある。皈依後すぐ、仏の金身が明らかにリンチェンドルジェ・リンポチェの前に現れたのを見た。ある日、リンチェンドルジェ・リンポチェは台北で仏舎利を瞻仰した。その時、前後の人が見えた仏舎利は白だったが、リンチェンドルジェ・リンポチェだけが、仏舎利がルビのような赤い光を放ったのを見た。仏が現れて済度しに来たのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが腕白な人だから、仏は自ら姿を見せてくれた。
続きにあるのは『汝観吾累劫勤苦、度脱如是等難化剛強罪苦衆生。其有未調伏者随業報応、若堕悪趣受大苦時、汝当憶念、吾在忉利天宮殷懃付嘱。』。
強剛な衆生が大勢いる。苦難、苦痛を受けているのを知っていても、改めない。改めようとしない。意地張って改めない。改めたくない。それで、後段に『其有未調伏者』がある。意味は、釈迦牟尼仏に調伏されていない衆生は業によって罰が当たるが、もし、三悪道に堕ちて甚だしい苦しみを受けることがあったら、助けてあげることを、仏が忉利天宮言い渡した指示を思い出しなさい。釈迦牟尼仏はそれらの強剛な衆生を見てどうしようもなかった。それに、まだ調伏されていない衆生が多くいるので、忉利天宮で地蔵菩薩に指示した。それらの衆生は、もし三悪道に堕ちて大きな苦難を受けることになったら、地蔵菩薩は今日仏が忉利天宮で念入りに指示したことを思い出すべきだと、仏はこう話した。

次の言葉は、『令娑婆世界至弥勒菩薩出世已来衆生、悉使解脱永離諸苦遇仏授記。』。

大事な言葉だ。弥勒菩薩が世間で成仏するまでに、釈迦牟尼仏の時から弥勒菩薩が成仏までのその間、誰が娑婆世界を済度するのか。地球上の衆生である地蔵王菩薩だ。仏の指示があったからだ。
そしては『爾時諸世界分身地蔵菩薩、共復一形涕涙哀恋白其仏言。我従久遠劫来蒙仏接引、使獲不可思議神力具大智慧。』。
そのため、地蔵菩薩は彼らを助けて諸多の苦難から離れさせたうえで、仏の授記にも遇わせた。その場で全部の世界からの分身した地蔵菩薩は直ちに一体となり、自分は久遠劫から来た者、仏の引接のお蔭で、不可思議な神力が得られたと表した。地蔵菩薩は大菩薩の身であっても、大変謙遜だった。それに対し、私たちのような学仏者は皆、自分が修行した、礼拝した、念誦した、祈ったと思い、仏菩薩に感応してもらえるのは、自分で願って得たものだと思っている。地蔵菩薩のような大菩薩はどのように話したかを習うべきだ。

地蔵菩薩は、自分は大変遠い昔から来た者で、仏の助け、引接を受けたから、不思議な神力が得られたと表した。そなたたちはどんな素質があるのか。ちょっと礼拝すれば、自分のものだと、自分には神通、能力があると自認する。傲慢だ。地蔵菩薩が示めしてくれた手本を見なさい。地藏菩薩は、自分は長らく衆生を助け続けてきたが、仏の助けがあったため、不思議で深大な力、知恵が得られ、百千万億の恒河沙世界を全ての分身で満たすことができたと、話した。

実に意味深い段落だ。リンチェンドルジェ・リンポチェも常に開示しているように、リンチェンドルジェ・リンポチェの能力は自分のものでなく、衆生のことを助けたいから、仏菩薩に願ってもらえたものだ。諸仏菩薩の加持と助けがなかったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生のことを助けられない。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎回法座に上がる前に、まず、諸仏菩薩の冥護を観想する。こうして衆生を助ける能力が現れる。リンチェンドルジェ・リンポチェは凡人なので、仏菩薩の加持でなければ、衆生を助ける能力なんてあり得ない。地蔵菩薩は、衆生を助けられたのは、仏の加持と引接のお蔭で神力が得られたからだと謙遜に話した。
これで、今時に宗教を創造する人がいたら、嘘だという可能性があると分かる。何故なら、仏経にこんな話がないからだ。仏経の中で、行者はきちんと法を弘通していても、仏の助けと加持が必要だと書かれている。宗派を区別することは出なかった。

次の言葉は、『我所分身遍満百千万億恒河沙世界。』。

多くの弟子と信衆はリンチェンドルジェ・リンポチェに会えたが、リンチェンドルジェ・リンポチェに能力や分身があるわけではない。仏がリンチェンドルジェ・リンポチェを引接して加持してくれたので、こんな不思議な神力があった。分身が現れて上師と三宝を敬う人を助けることができた。

このようなことをそなたたちはよく聞くが、リンチェンドルジェ・リンポチェが手術室に現れて医者に手術のやり方を教えたのを見た人もいれば、子供が事故に遭う直前にリンチェンドルジェ・リンポチェの姿を見た人もいる。また、悪事をする人もリンチェンドルジェ・リンポチェの姿を見たことがある。どうしてだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェも分からない。何故分身がいるのか。リンチェンドルジェ・リンポチェがよく修行できたわけではない。地藏菩薩ほどの謙遜さが実践できたら、自然に、諸仏菩薩は上師を敬う人を助ける。菩薩が現れたら、そなたたちは会ったことがないから、信じないだろう。また、仏が現れたら、そなたたちは怖がるだろう。しかし、現れるのはリンチェンドルジェ・リンポチェの姿だったら、大丈夫だろう。そなたたちは会ったことがあるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは時々怒るが、少なくともそなたたちはリンチェンドルジェ・リンポチェに会ったことがあるので、リンチェンドルジェ・リンポチェの分身で姿を見せる。

分身はリンチェンドルジェ・リンポチェが想像したものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェの空性の慈悲力と仏の本尊の慈悲力が一つになったものだ。衆生は仏法の助けを必要とする時、よく知っている様子が浮かぶので、自然にリンチェンドルジェ・リンポチェの姿が現れる。そのせいか、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日十分な睡眠がとれない。そなたたちはどんなことでも、例え猫の病気のことでも、リンチェンドルジェ・リンポチェに頼んでくる。

経典の言葉だが、『毎一世界化百千万億身、毎一身度百千万億人、令帰敬三宝永離生死至涅槃楽但於仏法中所為善事。』。

ここでいう本尊の法身はあっちこっちを走り回ることがない。仏菩薩が現れたと多くの人が思うが、本当は分身だ。分身には、法身、報身、化身の三つがある。今日ここに現れたのは地藏菩薩の法身だ。それで、リンチェンドルジェ・リンポチェの今日の開示はちょっと遅くなる。ただ、あまり遅くなっても、そなたたちは耐えられないだろう。疲れが出ている人もいるので、リンチェンドルジェ・リンポチェは適当な所で終わらせる。今日はたくさん開示したが、地藏菩薩が来られたためだ。それで、今日の法会に参加して途中で退場しなかった人は、前の開示の通りに、今生において十善法をきちんと修め、地藏菩薩に祈り、礼拝したら、決して三悪道に堕ちることはない。地蔵菩薩が来られたから、話したことは約束する。そなたたちの聞いた話を、地蔵菩薩は約束してあげる。

経典に、どの世界にも地蔵菩薩の化身があるという話がある。例え実際に仏像を供奉していなくても、今日のような縁があり、しかも恭しく祈ったら、地藏菩薩は助けてあげる。『令帰敬三宝』は、まず皈依して三宝を敬うべきの意味だ。だから、皈依していないで聞きに来る人はまだ信徒のままだ。先ほどは十善法を修めたらいいと言ったのではないかと、そなたたちは疑問を持つだろう。理由は、十善法を修めるには、皈依しなければ、十分な力があり得ないからだ。厳しい上師の監督の下でなければ、自力で十善法を修めるのが大変難しい。『永離生死、至涅槃楽』とは、仏果の証得ができるまでに、輪廻の苦海を永遠に離れさせる意味だ。地藏菩薩は本当に立派だ。
次に、経典の言葉は『一毛一渧一沙一塵、或毫髪許、我漸度脱使獲大利。』。
ここで、地藏菩薩はこう開示した。仏法の通りに善を行い、例え一本の毛、一滴の水、一粒の砂、微塵或はちっぽけな毫髪ほど小さな善事であっても、地藏菩薩はゆっくりと生死解脱ができるように助けてあげる。例え今日の法会に参加して途中で退場した人でも、地藏菩薩は助けてあげる。今日の修法はリンチェンドルジェ・リンポチェが行ったので、リンチェンドルジェ・リンポチェは生生世世もそれらの衆生を助け、少しずつ済度してあげる。その人らは福報が足りないが、今日は、リンチェンドルジェ・リンポチェとの縁を植えたから、助けてあげる。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは地藏菩薩を修めた。地藏菩薩はリンチェンドルジェ・リンポチェの頼りなので、地藏菩薩がリンチェンドルジェ・リンポチェを助け、そして、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなたたちを助けることになる。『使獲大利』は、最後に大きい利益、つまり、本当に成仏できる利益を得させる意味だ。

次の言葉は、『唯願世尊不以後世悪業衆生為慮。如是三白仏言、唯願世尊、不以後世悪業衆生為慮。』。

一回では足りなかったので、地藏菩薩は三回話した。何故三回も話したのか。後世の悪業をする衆生のことを、釈迦牟尼仏は大変心配したこともあり、地藏菩薩は仏に心配させたくなかったからだ。話を三回繰り返したのは、地藏菩薩は必ず実現するという意味だ。話した以上、必ず遂行するから、後世の悪業をする衆生のことを、世尊は心配しないで願いたい意味だ。

続きにあるのは、『爾時仏讃地蔵菩薩言、善哉善哉吾助汝喜。』。

奇妙な言葉だ。菩薩に歓喜が起きるのはどんなことだろう。そなたが死なず、金儲けするためでなく、そなたが三悪道を離れること、三悪道を離れて生死解脱ができるようにそなたを助けることができるからこそ、本当に歓喜になれる。世間のどんなことに対しても、菩薩は歓喜も痛恨もないのだ。菩薩にとって、どんな人、事、物でも因縁法に過ぎない。しかし、菩薩は、一人の衆生だけでも、苦しみから脱離させられたら、心で大きな喜びが感じる。そのため、仏は、地蔵菩薩に歓喜が起きることを助け、地藏菩薩が実現できるようにさせると話した。仏と地藏菩薩は同じ言葉(same language)を話した。一言を話せば、すぐ互いに理解できた。

リンチェンドルジェ・リンポチェにとって最も嬉しいことは、ポワ法を修めるようなことだ。苦しみを離れ、阿弥陀仏の所に行くように衆生を助けられるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは済度法を修める時も嬉しい。全身に痛みがあるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは痛みを感じない。歓喜の力があまりにもすごいからだ。

また、経典の言葉だが、『汝能成就久遠劫来発弘誓願、広度将畢即証菩提。』。

この二句は仏が地藏菩薩に対する授記だ。地藏菩薩は長い間たくさんのことをしてきたし、立派に発願したので、広く済度することは何時か終わるだろうという意味だ。『将畢』は、今すぐの意味ではない。弥勒菩薩が済度しに来るのを待つことだ。つまり、五十六億万年を待つことだ。仏にとって、できるだろうというのは必ず完成できる意味だ。即ち、立派な誓願を気にする必要がなく、必ず仏果の証得ができることだ。これが授記だ。授記は仏だけが行える。ほかに、根本上師も行えるが、根本上師は成仏の授記が行えない。未来はどんな程度の修行ができるかの授記しか行えない。尊勝なる直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに賜った長寿祈請文は授記だ。それにより、今後、リンチェンドルジェ・リンポチェは好きなように行きたい所に行ける。誰にも止められない。善縁のある所であれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは行く。なければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは行かない。

リンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を弘通する方法は踊りみたいだ。あっちこっちに飛んだりしているようにそなたたちは感じるだろう。今日はわけもなく地藏王菩薩を修めるようなことだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの今日の修法は火供だろうとたくさんの人は思ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェはわざとそうしなかった。会見に来た時に、日本での火供法会に参加したいと言った人がたくさんいた。一体誰がそんなことを言っただろうか。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは飛んだところを見せようとした。結局は地蔵菩薩の修法だった。

上機嫌な人だけが踊る。悲しい気持ちで踊るのは映画のシーンにしか出て来ない。踊るとは気持ちが嬉しいことだ。為していることは衆生の利益になるから、踊る。金剛舞に一人で踊るラマがいたようなことだ。それは蓮師が伝えた舞踊だ。仏菩薩は皆踊るのか。違う。仏の喜びは、衆生の離苦を見たからだ。それ以上の嬉しさはない。ほかのものは皆世間法で、行ったり来たりする。瞋恚心がある時、自分の地位がほかの女性に乗っ取られ、権力が奪われるのではないかとも思えば、相手を嫌ってしまう。瞋恚心が起きると、体も丈夫にならない。

衆生の離苦を見たいからこそ、修行者だ。衆生の離苦を助けてあげられたら、喜ぶ。そなたたちは能力がないから、助けてあげられない。地蔵菩薩のような大菩薩に対しても、釈迦牟尼仏は助けると言ってあげた。そなたたちは、決して偉いと自認してはならない。ちょっと法会に参加しただけで、あれやこれや話したりしてはならない。『ほら、話を聞かないから、こうなるんだ。』のようなことを言ってはならない。今日は『地藏経』の二品を解説した。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏経の開示に時間をかける。だから、辛抱強くなければ、この経典を最後までに聞くのが無理だ。
今日の修めた地藏菩薩は顕密とも含まれている。顕は仏経の解説で、密は本尊の地藏菩薩に、私たちに地藏菩薩の法門を修める因縁を与えるように加護を祈ることだ。今日で将来に皈依したい気持ちがある人でも、皈依する気がない人でも、あるいは、将来に仏法に接したい人でも、十善法の修行が必要だ。こんな修行をしていない人でもいい暮らしをしているのではないかと思ってはならない。例え皇帝や首相になれても、必ずしもいい将来があるとは限らない。仏法は、今のやっていることが将来を決めると語っている。今のような乱れる世界において、仏法に頼らなければ、いろんな危機を乗り越えるのが難しい。例えば、今年(2015年)年初に、金融為替市場では波乱が起きるから、皆に注意しただろう。学仏には世間法も含まれているので、上師は世間法についていくつかの注意をしてあげる。金儲けのためや、そなたたちを特別に優しく扱いたいわけではない。知らないうちに傷つけないように忠告してあげたいだけだ。地藏菩薩の本願は一切の衆生が輪廻の苦海を離れるように助けることだ。また、釈迦牟尼仏も仏経において地藏菩薩に授記した。弥勒菩薩が来るまで、地藏菩薩の衆生を済度する願力は続く。地藏菩薩に対する十分な恭敬心、上師の今日伝えた法に十分な信念があったら、そなたたちも今生、十善法を修め、仏像を敬うことがあったら、決して、地獄、餓鬼、畜生道に落ちることはない。死ぬ時にならなくても、どの道に行くかが分かる。死ぬ前に分かる。」今日の法会は円満に終了した。

« 昔の法会開示 – 法会開示へ戻る – 新しい法会開示 »

2018 年 11 月 09 日 更新