尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年6月12日

尊貴的 仁欽多吉仁波切升法座主持共修法會,並賜予與會大眾珍貴的佛法開示。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ共修法会を主催され、参加者全員に貴重な仏法の開示を下された。

「今日は『寶積経』の開示を続ける。学仏には一つのポイントがある。仏法を聞いた後、自分の身口意は仏法と一致するかについて思惟することだ。一致とは実践した意味ではなく、最低限としてその方向に向かって行動し、ますます一致になり、できなかったところを直し続けることだ。末法時代に、衆生の仏法学習において最も犯しやすいのは所知障だ。所知障の『所』は、所以(そのための意味)の所でなく、神経の中枢の意味だ。『能』はそこから生まれた力だ。所知障は私たちの第八意識田にある、生生世世からもたらしてきたいわゆる人生の経験法則であり、私たちが六道輪廻から持ってきたあらゆる経験法則を含んでいる。これらは全部、第八意識田である阿頼耶識に保存されている。これを科学者は本能で表す。リンチェンドルジェ・リンポチェはその言い方がどうしても理解できない。本能はどう生まれたのか。科学、医学は説明できない。犬にはそんな本能があるとか、人間にはこんな本能があるとかといった言い方はあまりにも断定的だ。名詞を付けて解釈しているだけだ。同じ本能が備わっていれば、背の高さ太り具合や美醜の区別が何故あるのか。精神病やいろんな問題もあるはずがなく、皆が同じ本能で生きればいいのではないか。しかし、いろんな矛盾がこの世界に存在している。

多くの人は、いろんな学習を通してたくさんのことを知りたいと言っている。自分は学問があると表したい。そなたの学問はどこからのものなのか。学問は、古代から今まで、人類の数千年の生き方の累積によるものだ。古代には今私たちが過ごしているライフスタイルがなかった。だからといって古代の人は人間ではないと言えるのか。以前には現代の科学技術がないと、そなたたちはこう言うだろうが、今のように複雑な情報で暮らす必要が、古代の人にはなかったのだ。しかし、ある点から、古代の人は私たちよりも福報があると分かる。彼らはオーガニックな食べ物を食べていた。それに対し、私たちは毒性のあるものを食べている。今の私たちは知識、学問を求めるために、毎日自分の身口意を放任している。生生世世からの『所知』に頼り、知っていると思い込んだ知識を生活に使っている。学仏の最大の障害は所知障だ。この障害は私たちの学仏過程を妨げる。何故なら、探したい、よく理解したい、何を聞こうか、何を学ぼうかなど、望み続けるからだ。しかし、仏法は理解、学習のためのものではない。悟ることが必要だ。所知障は、そなたに執着の心があり、文字や他人の書いた文書、或は他人が話した何らかの仏法について、自分は聞いた、分かった、理解したと思いたいことが原因だ。本当に理解したとしたら、少なくともリンポチェになれるだろう。

古代の大徳はこう話した。文字で仏経の文字を解釈しようと思えば、三世仏も不平を言うだろう。過去、現在と未来の仏もそういう意味ではないと言うだろう。違うのだ、そなたたちは内容を誤解したんだと言うだろう。だから、武則天は『願解如来真実義』を書いた。この言葉は、リンチェンドルジェ・リンポチェが以前顕教を学んだ時もよく読んだ。ここの『解』は解釈でなく、解く意味だ。智慧で解く。如来は仏のことだ。武則天の発願は成仏することでなく、彼女は仏が開示したことの本当の意義を解けたいと願った。武則天はそなたたちよりましだ。彼女の聡明と才能、知恵はそなたたち以上だ。彼女は歴史上、唯一の女帝だ。ほかの女性は皇太后しかなれなかった。彼女には大した福報があったので、皇帝になれた。彼女は『願解』を書いたが、解けなかったからだ。何故だ。彼女の福報はあまりにも大きかったので、誰も敢えて上師にならず、教えてあげる上師がいなかった。そなたたちは武則天になる気持ちがなければ、この言葉を言わないほうがいい。武則天の最期はひどかった。彼女は夫と息子を支配したが、最後は息子に反逆された。高齢の母親が晩年になって息子に裏切られ、最後は独りぼっちでこの世を去った。

自分には身分、地位、名声、学問があると自認していたら、決して上師に出会えない。上師はそなたを怒らせない。そなたの機嫌を損なえば、二度と来ない。しかし、仏法の前では、どんな身分、地位でも、皆は平等だ。身分、地位は過去、そなたが修めた福報で、今世が終れば、福報もなくなる。福報は因縁法、生滅法、変わり続けて無常なものだ。自分には地位があり、上師に教えてもらう気がなく、謙虚に接してもらいたいと思ったら、間違いだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはミラレバ尊者に学んだ。ミラレバ尊者に大成就があったので、国王は使いを派遣して山の洞窟から出てくるように彼を誘ったが、彼は行く気がなかった。ミラレバ尊者の思うには、国王は学仏しないから、自分には用がないはずで、国王になれたのはそっちの福報で、自分には関係がない。

学仏において最も難しいのは所知障だ。そなたたちはもう分かったと思っているが、リンチェンドルジェ・リンポチェは今でもまだ分からず、修行している。そなたたちは六祖慧能より賢い、或は広欽老和尚より精進だろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェは信じない。だから、ちょっと念誦した、或は聞いただけで何でもよくなりたいと望む資格があるのか。何故、チベット仏教では、10年の顕教基礎が必要だとされているのか。仏の開示した仏法の原則をよく理解する必要があるからだ。ちゃんと基礎と作ってからでないとよいビルは建てられないのと同じだ。よい基礎がなく、ちょっと聞いたらどうすべきか、これを修めてよいと自認したら、いろんな状況が出てくる。リンチェンドルジェ・リンポチェは細かく注意を払っていると、尊勝なる直貢チェツァン法王はこう開示したことがある。世間のことに対するのでなく、そなたたちのどの心念についてもよく知っている意味だ。そなたたちのどの起心動念も、リンチェンドルジェ・リンポチェは全部知っている。指摘するかしないかのことだけだ。そなたたちが行動に移すのをリンチェンドルジェ・リンポチェが見て機縁が成熟すると、何が問題なのかを教えてあげる。

日本での火供法会の時、二百数人がいて一人の出家弟子だけが供え物を受け取る時に足を滑った。彼女以上の年寄りも若者もいたし、行動の不自由な人、彼女より体が弱い人もいた。しかし、彼女だけが問題を起こした。緑豆を踏んでしまったと彼女は言ったが、ほかもに緑豆を踏んだ人がいた。何も起きなかった。仏菩薩が示現して見せたのだ。基礎をきちんと作らなかったと注意した。特に、その日修めたのは忿怒尊不動明王だったので、上師に対して完全な恭敬心がなかったら、必ず何かが起きた。改めるべきで、そうしなければいろんなことが起きると警告して注意した。金剛部の本尊のほうが厳しいというわけではない。慈悲心、恭敬心がなければ、金剛部を学んだら、自分と衆生に不利益をもたらすからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが『寶積経』を開示して以来、弟子たちにいろんな状況が現れた。弟子を淘汰する時が来たのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を多く取りたくない。本気で菩薩道を学ぼうと発心する人でないと、聞く資格さえない。引き留められない。護法に追い払われる。かつてリンチェンドルジェ・リンポチェが雲南にいた時、密咒をリンチェンドルジェ・リンポチェに伝授したい人がいた。すると、リンチェンドルジェ・リンポチェに直ちに不動明王の忿怒相が現れた。激しい忿怒相だった。全く抑えられなかった。その人は驚いて逃げた。二度と現れなかった。何故だろう。如法でない密咒だったら、聞くことでさえさせない。菩薩道を修めて行うことを発心した人であれば、金剛部の本尊は助けるし、警告もする。一挙一動も、どんな意念でも、仏菩薩は見ている。

火供の供え物を受け取る時、日本の信衆は順番を守って進み、修法者の行動を見ていた。供え物を受け取らなかったからといって立ち止まことはなく、リンチェンドルジェ・リンポチェの邪魔をせず、そのまま前に進んだ。このことについて、先週開示した。逆に、台湾の弟子は供え物と受け取らなかったら、そのまま立ち止まってどうしても受け取りたかった。こんな貪欲は十善法を修めていない証だ。例え受け取れても供養になるのか。受け取らなければ供養にならないと、リンチェンドルジェ・リンポチェは信じない。日本人の信衆は何の問題も起きなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子にはたくさんの状況があった。民族性が原因だろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェには関係がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは日本人に特別な扱いをしなかった。同じく修法し、供え物を渡した。日本人の信衆は受け取れなくても構わず、全く足を止めなかった。しかし、そなたたちは皆一歩待とうとした。そなたたちは何でも食べる。損だけはしたくない。損したくない心構えではちゃんと学仏できないし、何を学んでも無駄だ。損することは、虐められても黙って受けいれべきだということではない。因果論の観点だったら、受け止めるべきだけど。そなたは過去世において人を虐めることがなかったら、今生は虐められない。世間法で言えば、不器用なことだと思えるかもしれないが、損することを六波羅蜜の一つの修行法門に転換することができる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは『寶積経』の開示で、菩薩道を修行する時の身口意の理論をそなたたちに分からせたい。釈迦牟尼仏の開示だ。リンチェンドルジェ・リンポチェの主張ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏経を開示する時、事前に用意せず、ページをめくったら、その時のページの内容を開示する。リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を深く信じる。仏経の内容を、例え一字だけでも、間違えた説明をしたら、畜生道に堕ちることを知っている。つまり、自信がなければ、仏経を開けない。仏経を開示する時、リンチェンドルジェ・リンポチェは自らの修行経験に基づき、仏経内容に照らしながら、自分は実践できたかを考える。実践できたら、もちろん説明できる。何故リンチェンドルジェ・リンポチェは事前に用意する必要がないのかと、疑問を持つ人もいる。長年以来、リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの準備をしてきた。だから、ほかの理論を探して一字一句を対照する必要はない。リンチェンドルジェ・リンポチェの修行過程と経験、上師と仏の教えた内容があるので、もし、リンチェンドルジェ・リンポチェはある程度の修行ができていたら、仏経内容を読むと、自分は実践できたとすぐ分かる。

仏経は学問として研究するものではない。文字で意味を研究するものではない。歴史の経験で何故そう開示するかを研究するものでもない。仏経は仏の修行経験で、仏の弟子に聞かせるものだ。彼らは皆阿羅漢の果位だった。博士号を二つ、三つ、四つ持っている人でも、阿羅漢と比べるものではない。釈迦牟尼仏は単に、菩薩道を修行するにはその思想、方法に従ってやるべきのことを弟子たちに言い聞かせた。『寶積経』は、菩薩道の修行者が知るべきのことを仏が開示した内容だ。もしも、そなたは心にいろんなことを潜んでいるのであれば、この経典を聞けば聞くほど、そなたは怖くなるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは予言する。この経典の後半に進めば進むほど、淘汰される人はどんどん出てくるだろう。聞きたいのに、何故聞かせてくれないのかと文句を言うのを止めなさい。実行していないなら、聞く資格はない。経典には、そなたはこんな根器がないから、言ってはならないという話がある。

近頃、たくさんのことが起きた。それらのことは道場やリンチェンドルジェ・リンポチェ、或は仏法に害がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは『寶積経』を弘通するが、それでもそなたはまだ凡人の考え方を変えないで学仏しようとしたら、決してここに残れない。リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの弟子を欲しくない。リンチェンドルジェ・リンポチェは十善法、孝順経を開示してもいい。それらの経典について、リンチェンドルジェ・リンポチェも説明できる。聞きに来る人はもっと多いだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェも行動で皆に見せられる。しかし、祖師ジッテン・サムゴンの著作と教えの全ては『寶積経』を根拠としたので、直貢噶舉の弟子として、リンチェンドルジェ・リンポチェはもちろん祖師ジッテン・サムゴンの歩んだ道を進み、続けて『寶積経』を宣揚すべきだ。もし、皆は相変わらず自己本位、身勝手なままで、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞かず、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示した仏法をリンチェンドルジェ・リンポチェの見解だと思うなら、そなたの学仏には問題が起きる。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示した仏法は決してリンチェンドルジェ・リンポチェの見解ではない。全部、諸仏菩薩、釈迦牟尼仏、尊勝なる直貢チェツァン法王、祖師ジッテン・サムゴンの加持を受け、自性の中で宣揚した仏法だ。そなたたちは聞いても気ままにいたいのであれば、そろそろ護法はそなたたちがここから離れるようにする。その速度はどんどん加速するから、何をすべきかをちゃんとわきまえなさい。

リンチェンドルジェ・リンポチェは巨額の供養を断った。決意したから、そうできた。そなたたちは如法のことをしないなら、ここに残ってほしくない。信衆や弟子が足りない所がたくさんある。リンチェンドルジェ・リンポチェはほかの道場を閉鎖するのを望まない。そなたたちを恐喝しているのではない。今回日本での行事のため、リンチェンドルジェ・リンポチェは一銭の供養も受け取らなかった。相変わらず二日間修法した。手間を省かなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはお金のために行動しない。そなたたちの心が間違リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らなかった。『寶積経』に、末法時代に供養のため信衆に媚び諂う人がいると書かれている。こんなことをリンチェンドルジェ・リンポチェはできない。今でも仏法を宗教で、欲望を満足するものだと思うなら、ここにいてほしくない。

昨日懺悔を求めに来る弟子がいた。何を懺悔するかも分からない。彼女は以前、リンチェンドルジェ・リンポチェが土曜日に信衆を接見する時に道場で大礼拝するのを求めたことがある。しかし、先週の土曜日、彼女は大礼拝をするため道場に来なかった。会社から休暇をもらえかったのが理由だ。いつも自分の言い訳がある。大礼拝するのは彼女自身が求めたのだ。来れないのも決意が足りないだけだ。求める前に休みを取れるかどうかをよく考えなかった。学仏は仕事より大事だと、リンチェンドルジェ・リンポチェは言わない。そうでなければ、仕事に行くなとリンチェンドルジェ・リンポチェに言われたようなことを言いそうだ。彼女が懺悔しに来たのは、会社から休暇をもらえかったことを理由にし、また大礼拝をし続けてもいいかの同意を求めるためだった。先週の開示で、数千元多めに稼ぎたいから分娩室で働きたい看護婦の話をした。今週はまた一人現れた。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前尊勝なる直貢チェツァン法王に閉関の指示をもらったので、リンチェンドルジェ・リンポチェは行った。会社の運営とか、仕事があるとかのことを全く考えなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェのお金よりもそなたたちのお金のほうが高額だと思っているのか。リンチェンドルジェ・リンポチェの話を神話物語だと、そなたたちは思っている。

釈迦牟尼仏はたくさん開示したが、神話物語ではない。仏の開示した現象はどの衆生にも適合している。ただ、それぞれの欲望の大きさが違うだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは『寶積経』を宣揚しているが、淘汰された人はどんどん現れた。弟子を欲しくないのを聞いたことがないだろう。こんなにたくさんの供養金を断ったのを聞いたこともないだろう。お金は大事だが、仏法を歪曲するほど大事ではない。

経典に『善男子、云何菩薩摩訶薩観法順法。』がある。

大事な言葉だ。十善法を修めなければ、菩薩戒を受ける資格、菩提心を発心する資格、菩薩道を修める資格が全然ないのだ。十善法は円満でなければならない。菜食もできないのなら、十善法を修める資格がない。何故なら、十善法の第一条は不殺生だからだ。私たちが今生人間になれたのは、過去世において十善法を修行できたからだ。十善法は極めて重要だ。十善法を実践しなかったら、今世は人間になるはずがなかった。官員になることもない。もし、そなたは今生、全く十善法を修めないなら、再来して人間になる機会はない。仏が開示した言葉だ。仏の言葉も聞かないなら、ここに来てもしょうがない。自分の方法で学仏できるのか。あり得ない。

初めてチベットでドラブ・ワン・リンポチェに会った時、リンチェンドルジェ・リンポチェはドラブ・ワン・リンポチェのことを知らなかった。ただ敬って頂礼しただけだ。しかし、ドラブ・ワン・リンポチェはすぐそばの侍者に、この人は善男子だと話した。その時、ドラブ・ワン・リンポチェはリンチェンドルジェ・リンポチェのことをよい人だと話したと思った。リンチェンドルジェ・リンポチェまだ今の果位ではなかった。その後、仏経を読んで初めて自分はずいぶん前に十善法を修め始めたと分かった。言い換えれば、もしリンチェンドルジェ・リンポチェは以前十善法を修めなかったら、リンポチェになれず、学仏する機会も、少しの成就もあり得なかったことだ。

『云何』はどういう意味か。『菩薩摩訶薩』は法身菩薩、大菩薩のことだ。

『観法順法』の『法』は宇宙のあらゆる現象だ。観は、目や天眼で見る意味ではない。『心経』の『観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空。』の観だが、六波羅蜜で禅定を修める時、大変深い自身の智慧に入り、智慧の光だからこそ五蘊皆空を観察できる意味だ。文字でこの現象を解釈するのでなく、人生の経験法則で宇宙のあらゆる現象を見るのではない。現代の科学はいくら発展していても、宇宙の多くの現象について解釈できない。推測や推論しかできない。智慧の光があって初めて、私を惑わす全ての現象を破ることができ、あらゆる現象の本質を見極めるのだ。修行で後得智を得なければ、根本智は開発されない。後得智の第一条は守戒で、六波羅蜜を修めることだ。常に自分は病気だから、優しくしてもらうのが当たり前だと言っているなら、守戒していないのだ。維摩詰居士が病気を示現した時、文殊菩薩に優しくしてもらいたかったのか。なかったら、そなたは優しくもらえる筋合いがないだろう。病気だからとでも言いたいのか。維摩詰居士が病気を示現したのは、文殊菩薩に因縁法を教えるためだった。

『観』は智慧の光を用いるのだ。『菩薩摩訶薩』は法身菩薩であり、普通の凡人ができるものではないし、登地から八地までの菩薩ができることでもない。十地以上の菩薩にならないと、こんな智慧で宇宙のあらゆる現象の実体、本質を見分けることができない。法身菩薩は世間のあらゆることを見通す智慧と能力がなければ、一切の広大なる衆生を利益する能力もあるはずがない。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を助ける時、それらのことを引き起こした因は何かを見れるのがこれだ。リンチェンドルジェ・リンポチェでも、因についてよく理解して初めて、適当な処置ができる。因も分からなかったら、どうやって助けられるのか。リンチェンドルジェ・リンポチェの済度した衆生は法身菩薩の済度した数ほどではないが、この能力が必要だ。広大な衆生を利益する法身菩薩の場合は言うまでもない。六波羅蜜を通して続けて修行したからこそ、『心経』の『観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時。』の境地ができたのだ。『行』は行動、修行のことではなく、身口意の一切の行為は世間法によらず、意識で区別しない意味で、般若、智慧で世間のことを見ることだ。『観法』は、大菩薩、法身菩薩はこの方法で一切の衆生が起こした全ての現象を見ない限り、衆生の問題を解決できないことを指している。

『順法』は、そなたたちの意に従うのでなく、衆生の因縁に応じる意味だ。衆生が起こした因縁と全部の現象に応じてまずは『以欲勾之(相手の欲望を利用して教化する)』をすることだ。『普門品』に、観世音菩薩は居士の姿、ほかの姿で現れた話がある。衆生の因縁に応じて姿を現したほうが、相手は受け入れられるからだ。仏法の『以欲勾之』は、そなたの欲望を満足することではない。そなたの今の欲望は何か。そなたの同類なら、そなたは受け入れやすいだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは在家の上師の姿を現し、外出する時は法衣を着ないのと同じだ。こうしたら、もっとたくさんの人に接することができる。人々は、自分と同類だと思い、馴染みやすい。菩薩はいろんな異なる相を現していろんな道の衆生を済度する。そなたたちは水陸法会に参加したことがあるだろう。その時の焦面大士は、観世音菩薩が地獄道、餓鬼道の衆生を済度するために現した相だ。怖くて醜かった。しかし、違う相を現したら、鬼道の衆生に醜いと思われて相手にされない。地蔵王菩薩の場合、人道の衆生を済度するので、出家相を現した。天界の衆生を済度する時は出家相以外の姿を現す。また、地獄、餓鬼道の場合は別の相を現す。そなたたちが普段見るのと違う。大変怖い様子だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはタンカで見たことがある。

順法は、一切の衆生の因縁から生じた現象に応じて助けることだ。それで、釈迦牟尼仏が某世は鹿の王、ある世は孔雀、ある世は猿だった。自分と縁のある衆生に応じて衆生の様子を示現して助けた。だから、菩薩には一定の様子、行動スタイル、儀軌がない。ただ衆生が受け入れられる方法で助けてあげる。尊勝なる直貢チェツァン法王は、衆生を利益できることなら、何でも仏法だと、こう話したことがある。必ずしも出家者ということはない。世間にいろんな衆生が菩薩道を行っているが、私たちは愚痴でどの衆生が菩薩の化身なのかが分からないだけだ。犬や猫かもしれない。金剛乗は、全ての衆生を本尊として見なし、全ての声を真言として見なすべきだと教えている。全ての衆生を本尊だと思うなら、そなたは衆生の肉を食べられるのか。金剛薩埵の肉を食べられるのか。餓鬼道に堕ち、菩薩が自ら肉を布施してあげる話は別だ。

先週、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法した時、何人かの鬼は使者が鉄のチェーンで縛って連れて来たのだ。彼らは鬼道、地獄道にいるそなたたちの祖先だ。『観法順法』で修めたから、分かった。施身法を修める時、鬼道の衆生に彼らの生前の大好物を布施する。順法のことだ。外見は彼らの大好物だが、中身は甘露だ。飲み込んだのは甘露だから、彼らは涼しく感じる。貪欲、憎悪、愚痴の心は一瞬に止まる。そして上師の修法を衆生は聞き入れられる。しかし、そなたたちはそうしてはならない。そなたたちの肉にはいい匂いしないから、リンチェンドルジェ・リンポチェの肉はいい匂いがする。

経典に次の言葉は『善男子、菩薩摩訶薩観色無常。』だ。

法身菩薩が見た全ての現象は無常なものだ。無常は死亡ではない。無常は、眼耳鼻舌身意の感じた宇宙の全ての現象は変わり、永遠ということはない意味だ。永遠の愛を誓うとか、生生世世も同じ人を愛するとか、三世の夫婦になるとかといった観念はない。これらはあくまでも小説に出る話だ。来世になっても同じ旦那が見つけられるわけではない。来世も同じ人を旦那にしたいのは、執着だからだ。旦那の体に棲みつく虱になって彼の血を吸うようになるかもしれない。『観色無常』は、大菩薩がその智慧の光で見た色鮮やかなあらゆる現象は変わり続け、止まらないことだ。そなたたちは信じても信じなくても、子供の時から、そなたたちの様子はずっと変わっている。これが無常だ。年齢が重なるほか、何よりも貪瞋痴慢疑をずっと経験しているから、顔立ちもずっと変わっている。実際に、私たちは毎秒変わっている。医学の観点では、人間の細胞もずっと変わっている。だから、定年後80才になるのを待って修行したいと思わず、時間があったら修行しようとも思わないことだ。そなたたちは決してリンチェンドルジェ・リンポチェより忙しくないはずだ。時間がある時になれば、死ぬ時だ。その時も暇があるはずがない。どこに行くかの確認を待たなければならないから。本当に暇ができたら、退屈になれず、何かすることを探すだろう。私たちの心は止まることがない。血が流れ、呼吸をし続け、一刻も止まることがない。

だから、観色無常は、執着するものは全て変わり、悪い因縁はよくなる可能性もあると教えている。よいことは悪くなったり、悪いことはよくなったりする。全宇宙に決まって変わらない現象はない。だから、女性が男性を支配したいことがバカだ。男性の心が変わるだけでなく、女性の心も変わる。様子も体格も変わる。支配欲が生じたのは観色無常でないから。男性も同じだ。家庭は毎日無事で、妻はきちんと子供の世話をするだけでいいと望むのは間違いだ。家庭で揉め事は何故起きるのか。夫も妻も相手に自己欲望を満足してもらいたくて無常を信じないからだ。そなたのためだと、人々はよく言う。自分の良心を見て見なさい。本当に相手のためなのか。一見は他人のためだが、本当は自分のためだろう。健康のためだから、接待に行ってほしくない。本当は体が悪くでもなれば、養ってくれる人がいなくなるのを心配するのではないか。本当に他人のためなら、学仏と修行をすることだ。

次の言葉は『而不以滅色故証於法界。』だ。

この言葉は、菩薩道、金剛乗の修行においてとても重要だ。小乗の修行は苦集滅道を修め、一切の苦しみを絶滅することだ。苦はある種の色の表しなので、病気の痛みで苦しいと喚く人がいる。阿羅漢の修行もできない。阿羅漢はあらゆる苦しみの因を消す。その後、苦しみはない。しかし、菩薩道の修行は、あらゆる因縁によることをきれいに消すことが空性だと思わない。菩薩道の修行は時間を費やして役立たないこのようなことをしない。例を挙げよう。今道場にいる人数は1300人、それぞれの家の設置は違う。それぞれの思う現象も違う。例え皆の思った家の様子は同じであっても、皆の家に同じ色を使うことをそなたたちに要求したら、何時かある色のペンキが足りないから、より薄い色に変えたいとか、或は、ある色のシーツが切れて入手できないから、より深い色に変えたいとか、そなたたちは言い出すだろう。これが無常の概念だ。

菩薩道を修めている以上、世間のあらゆる現象は悪いものでも、よくないものでも、私たちの敵でもないと理解しなければならない。衆生はこの宇宙にいるので、輪廻を断ち切るまでに、これらの現象はずっと現れる。全部絶滅することが、私たちはできるだろうか。誰かを嫌いだから、消えてほしいという考え方は仏法ではない。或は、一部の人は必ず一定の環境でなければ修行できない。全部、色を絶滅することだ。大手印の修行者は、山の洞窟で基礎を作らなければならないが、成就を得た後一定の所にいる必要がなくなり、一分一秒も禅定を修めており、人が多ければ多いほどうまく修行できる。外にポンポンと騒音が立てられてもリンチェンドルジェ・リンポチェは全く影響されず、相変わらず大手印を修めれらる。そなたたちの場合、騒音が速く消えるように望むだろう。色を絶滅することに執着があるからだ。しかし、外部の音について、他人のライフスタイルに過ぎないと、リンチェンドルジェ・リンポチェは思う。それで満足できるなら、それでよい。衆生を傷つけない限り、好きも嫌いもないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは一切の色を消したいと思わない。色も無常だからだ。

この色は色情の色ではない。『色』は現象の意味なので、仏法では、『色』で具体的に見える全ての物を言う。例えば、鈴、杵、テーブル、カーペットなどの物を色で包括的にいう。だから、目にする全てを消して全部消さなければ、法界には入れないというのではない。このような修行をしない。今時の人が言っている空っぽにするというのは、好きでない現象、或は好きな現象を消すことだ。菩薩道の正しい修行方法ではない。解脱のための修行方法でもない。菩薩は衆生を済度する時、願力に従って各道を行き来する。業に従わない。尊勝なる直貢チェツァン法王が賜った『リンチェンドルジェ・リンポチェ長寿祈請文』の中に、『自在於諸善縁所伏洲』という言葉がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは来世必ずしも地球にいるとは限らない。仏経に、四大洲に衆生がおり、銀河系に四つの惑星に人間が住んでいるという話がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは母親のお腹にいた時から牛肉を食べなかった。北の洲の人が牛肉が好きで、仁欽多吉仁波切リンチェンドルジェ・リンポチェが済度しに行く時、牛肉を食べないことを要求する可能性もある。

この言葉は、好きな現象、或は好きでない現象を全部消す意味ではない。無為、感覚も考えもない状況に入ったことが空性の証得と称される。外道にはこんな修行方法がある。世間の現象に頼らず、無為に修行する。しかし、大乗仏法はこのように修行しない。といっても、このような『色』を求めることを薦めているわけではない。これはあくまでも人生現象の過程だ。好きか、好きでないか、求めるか、求めないか、全ては変わる。人間は何故、男女間の愛情に執着があるのか。最初から最後まで同じ感覚を望むからだ。あり得ない。愛情は変わるものだ。老いになって魅力がなくなることや体格の変化には関係がない。そなた自身と相手の考え方、環境の変化に関係があるのだ。いくら相手を愛しても、或はどんなことをするように自分に要求しても、最後は変わる。無常だからだ。しかし、人間は変わる現実について納得しない。本当に変わった時、どう対処するかも分からない。だから、まず事実は変わるものだと理解し、心と仕事においても事前に用意する。安きに居て危うきを思う意味だ。しかし、そなたたちのような皈依弟子たちは危機感がない。釈迦牟尼仏でも、成仏後九つの難があった。そなたはなんで皈依、学仏後、今生は順調になって何も起こらないと思えるのか。こんなふうに思うのは因果を信じないからだ。十善法もそなたたちと無関係になる。そなたたちは母親のお腹にいた時から、身口意は清浄だったのか。生まれた後、身口意は全部、善のものなのか。だから、今世だけでも返すべきの借りがたくさんだ。一口の肉を食べるだけでも返さなければならない。果報が現れる時、そなたは信じるしかない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは36才になった後、菜食を始めたが、未だに借りを返している。そなたたちよりたくさん修行していると思うが、まだ借りを返している。だから、そなたはリンチェンドルジェ・リンポチェに返してもらいたいと思う根拠でもあるのか。こんな観念があるのは、色の無常を信じず、色は消せるもので、消したら安らぎに暮らせると思っているからだ。菩薩道の修行は色を消さない。凡人の心を、証果でき、衆生の生死解脱を利益できる菩薩道の心に転換する。この理論をきちんと覚えなさい。理論を知っていても、必ずできるとは限らないので、上師と本尊の加持が必要だ。真言を伝授してもらい、そなたたちの心の転動を助けてもらわなければならない。悪業と果報を消すのではない。もしも、諸仏菩薩はそなたたちが植えた悪因の果報を消せるなら、諸仏菩薩は私たちに因果を教える必要もなかった。外道の神に毎日拝めば、その神は何とかしてくれる。簡単ではないか。仏法は簡単でも複雑でもない。自分自身の問題を見極めてから、仏法の薫陶で未来の人生を変えることが必要だ。今生はこれで満足だ、願いは全部叶ったと思ってはいけない。あることはきっとできない。死なないことだ。誰も死にたいと思わないが、必ず死ぬ。科学はいくら発展しても死なないようにしてくれない。学仏は死亡に対面することを学ぶことだ。この問題に直面する時、上師と諸仏菩薩は私たちの頼りになってくれる。たくさんの医者を知っており、病院のVIPだから、その時はいろんな手を尽くして治療してもらえると思わないほうがいい。その時はひどい目に遭うぞ。

だから、法界に証入することは、全部の色を絶滅する意味ではない。一人だけでも有情衆生が法界にいる限り、色は現れる。衆生の心は不可思議だと、仏もこう話した。理由は、衆生の心、意念の動き方があまりにも複雑だから、仏は大智慧があっても不可思議に思った。大変複雑な有情衆生によるいろんな色は、簡単に僅か数年間の学仏、禅定で無くすはずがない。自分に嘘をついているだけだ。何でも無くしたいと思うなら、まずそなた自身を先に無くすべきだ。だから、これは禅定に対する間違った考え方だ。密宗の観空は、周りの空っぽの状態を見る意味ではない。本当の観空は、虹光身の程度の修行ができ、体を五彩の光に変えて法界と一体になる。虹光身の修行ができたら、何もなくなるというわけではない。肉体の形が消えるだけだ。上師として、この根本的な理念の修行もできなかったら、一、二千キロを離れてポワ法を修められる成就はあり得ない。死者の頭蓋骨に梵穴を開けることもできない。修法者は、全ての色は無常だと深く理解した上で、一切の色を消さなければ衆生を助けられないことはないとよく理解しているからだ。来る衆生はいろいろ、考えが多すぎて消せないので、修法者の慈悲心、福報で衆生の執着心と交換して初めて、衆生は仏法を受け入れて浄土に往生できる。だから、この二つの言葉をよく覚えなさい。うまくできるかどうかは重要ではない。この二つの言葉を覚えなければ、いくら修行してもどんどん外れた道に進んでしまう。執着と頑空の外れた道だ。どっちも邪見だ。

経典の次に出る言葉は『以如実智於法界中所有諸法、如実覚知諸法相已。』だ。

以如実智とは、後得智と根本智が確実に結びついたものであり、意識による想像ではない。そなたたちにとっては神話物語みたいだろう。経験したことがないだろう。仏が『如実』を言ったら、その意義は真実で偽らず、無常でなく、因縁によるものでもなく、本来のその姿だ。『心経』の中でこの言葉を観察できる。」

出家弟子は『心経』を暗唱した。「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄 舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是、舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中無色、無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。無眼界、乃至無意識界、無無明、亦無無明尽、乃至無老死、亦無老死尽。無苦集滅道、無智、亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提、故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪 是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説般若波羅蜜多呪、即説呪日、掲諦掲諦、波羅掲諦、波羅僧掲諦、菩提薩婆訶。」

「これらの言葉は『心経』の意味を表す。世間のあらゆることは因縁無常法で、決まって変わらないものはない。『以如実智於法界中所有諸法』は実相の智慧を通して、全ての法界を、法界は仏や菩薩の境地でなく、虚空内のあらゆる有情衆生が存在する全ての現象だ。『如実覚知諸法相已』は、本当の大智慧がある限り、全部の現象自体の相は無常で、変化的だと理解できる意味だ。数十億万年でも、数百億年でも、人間が考えた時間だが、宇宙に時間は存在していない。全ての変化は一瞬間のことだ。『心経』が教えてくれたのは、あるとそなたの思った現象は皆嘘だ。ないと思っても間違いだ。因縁があれば、また現れる。現象自体は自性の有ではない。それらの相は因縁によって生まれたので、菩薩の見た一切の諸相は皆、因縁から生まれたものだ。

法本にある『愛憎住平等捨』は、何かを愛するか憎むかは私たちの輪廻解脱を障害する意味だ。だから、どうやって平等的に愛への執着、憎悪への執着を捨てるのか。男性は自分の指示に従うくべきだと主張する女性がいる。こんな考え方では輪廻する。犬に食べさせなかったら、そなたの話を聞かないだろう。女性だからといって男性を支配できることはない。何時か変わることを覚えなければならない。古代の人は『丈夫(夫の意味)』の言葉を使った。よくできた使い方だ。一丈を離れれば、夫ではない意味だ。一丈以上を離れて悪いことをするように男性に薦めるわけではない。男性はアクティブなので、自由を与えたら、自分で家に帰ってくる。自由がなければ、迷子になって帰り路が分からなくなるかもしれない。そなたたちはいつも感覚で生活を見て本やテレビから教わったことで暮らしているから、世間のいろんな苦しみもそこから生まれる。世の中に本来は無事だったが、私たちの執着心が問題を起こしたのだ。

一切の諸仏菩薩は衆生のことを、因縁と因果の観点から見ると、釈迦牟尼仏は教えてくれた。そなたは仏弟子だから、特別に扱うことはない。そなたの根器がいいから、優しくしてあげることもない。そなたは総統や部長だから、親切にしてあげることもない。相の因縁法で見るのだ。そなたは衆生を助けられるとしたら、諸仏菩薩はそなたのことを優しく見てもっと多くの衆生を助けられるようにする。悪く扱うことだったら、自分の間違いを気付かせたいからだ。そなたが改めた後、衆生に優しくしてあげられるようにする。そなたたちは毎日『愛憎住平等捨』を唱えているのに、何故よく修行できないのか。諸法皆空を拒んであらゆる相は無常であることを拒否するからだ。一切の色は無常だと認めず、悪いものを消さなければ未来はよくならないと考えるから、苦しみは生じる。だから、色は無常だという心構えで世間のいろんなことを見ていたら、例え悪果が成熟しても、苦しみは他人よりずっと少ない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは皮膚癌に罹ってもめちゃくちゃに泣かなかった。男は泣いてはいけないとよく言われるけど、女性よりたくさん泣く男性もいる。ある弟子は奥さんが亡くなった時、ひどく泣いたが、今は新しい相手がいる。その時、彼は自殺ではないかと、リンチェンドルジェ・リンポチェは大変心配していろいろと忠告してあげた。私たちの今の人生は非常に複雑だ。生生世世の善業、悪業が続けて現れるほか、私たちの眷属、友たち、社会、地球から宇宙全体までのこともある。私たちは本当の自由がない。時々、知らない衆生に支配される。例えば、電気会社のストライキで、私たちは電気が使えなくなる。ここのエアコンも入らない。彼らのことを私たちは知らないだろう。だから、常に自由がほしいと叫ぶ人がいるが、過去の西洋社会において貴族を倒して権利を手に入れるため掲げられたたスローガンだ。実際に、私たちには自由がない。いつも物事、業力にけん引され、支配されている。学仏者は生活面においていろんな面倒があってもちゃんと日々を送っている。彼らの不快指数はそなたたちよりずっと低い。或は全く苦しみを感じない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは癌に罹っても苦しくなかった。死ぬのを恐れなかったのでなく、菩薩道を修行して一切の色は無常で、一切の色の本質、相はどう生まれたかを知ったからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは魚介類が大好物だったから、皮膚癌に罹ったのは普通の果報だ。癌に罹らないほうが心配すべきだ。果報があったら、必ず地獄に堕ちる。しかし、そなたたちは、自分は地獄に堕ちないと思っているだろう。だったら仏法を聞きに来なくてよい。『地蔵経』の内容ははっきりしている。地蔵菩薩の某世の母親はスッポンの卵が大好きだった。ある世の母親は三宝を軽蔑して地獄に堕ちた。軽蔑とは、仏法を必要とする時だけ聞きに来る。問題が解決したら来なくなることだ。仏法を見下すことだ。

地獄に堕ちるのはそんなに簡単ではないと思ってはいけない。人間に生まれることよりずっと簡単だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは何故、日本で『地蔵経』を開示し続けているのか。仏菩薩の話は神話物語ではないとそなたたちに理解させたいからだ。そなたたちには間違った考えがある。仏の開示は二千数年前の話で、仏は修行者だったから、話したことは神話物語だと間違えている。実際に、仏が話したことは全部、人間に起きることだ。仏はまず人間に仏法を話す。それからは六道に行って話す。二千数年前に仏が話したことだが、人間が存在する限り、それらのことは続けて繰り返す。貪瞋痴慢疑を持つ人がいたら、起きる。それでも、そなたは単に神話物語だと思っているなら、仏法を宗教化、神格化にして中傷することだ。そなたは、リンチェンドルジェ・リンポチェの話したことはそなたと無関係だと思っているだろう。そんなことはない。同じ人間だから、名字が違うだけだ。

今日は、簡単にいくつかの言葉を話したが、菩薩道を修行する心法にとっては極めて重要だ。忘れてはいけない。できるかどうかは次のことだ。きちんと覚えなさい。『観色無常』をスローガンのように言い、変わるものであればそれでいいと思い、無視して消極的な態度で振る舞ってはいけない。『観色無常』だから、よくないものはよくなるので、もっと積極的になり、よい因縁を作ってよくなるようにすべきだ。よい因縁がなければ、よくなるはずがない。勝手に悪くなるよに放っておいてはいけない。地球の地形が形成するのも、勝手に変わるわけではない。いろんな要素があったからこそ変わった。つまり、そなたのこと、人生、すべてはそなた自身が支配する。仏とリンチェンドルジェ・リンポチェがあげられるものは何もない。そなたたちを教え、加持し、修行・学仏するそなたたちの心を固めてあげることしかできない。もしも、リンチェンドルジェ・リンポチェは何かをあげられるとしたら、そなたは全財産でリンチェンドルジェ・リンポチェに供養したくても足らない。諸仏菩薩がくれるものは何もない。ただやり方を教えてくれるだけだ。今でもまだ決意できず、いろいろと躊躇してリンチェンドルジェ・リンポチェに怒られるのを心配しているなら、学仏していないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたに怒る必要でもあるのか。機嫌を取ることを言えば、もっと供養をもらえるかもしれないだろう。

最近、リンチェンドルジェ・リンポチェは巨額の供養を拒否した。7月17日の『阿弥陀仏無遮大済度法会』のマンダを献上の供養金も断った。理監事を務めている弟子たちに、法会の開催に節約させるのが目的だった。リンチェンドルジェ・リンポチェは供養が必要だと、これ以上言ってほしくない。今でも注意を払う気がなければ、いっそう帰ったらどうだ。そなたたち自身の業力に戻ったらどうだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが先にマンダを献上の供養金を断らなかったら、理監事たちは大法会を開催するためのお金を節約しようとしなかっただろう。大法会の開催は衆生のお金を使う。衆生のお金は苦労して集められたものなので、一銭も無駄使いにできない。リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らなかったので、紛れられない。リンチェンドルジェ・リンポチェをお金で支配できると思ったら、勘違いだ。

『寶積経』のこのいくつの言葉は大変重要だ。今時の人は学仏する時、犯しやすいことがある。何でも消さなければ修行できないという間違いだ。色のあるものは正しいということでもない。釈迦牟尼仏の最初の言葉は『観色無常』だった。まずは、無常の概念を知らせる。それからは、無常だから、全部の色を消す必要がないと教えてあげる。ちゃんとした論理があるので、順序をスキップし、色を消す必要がないから、事の発生に気にする必要はないと、先に言うのもできない。こんな概念ではないのだ。今話した内容は、仏が話した、菩薩道を修行するための正しい心構え、論理と理念だ。これらの言葉で他人を訓示してはいけない。相手の本質ではどの程度の理解ができるかが分からないので、間違えて話したら、衆生を誤解させてしまう。他人のことに口を出したり、教えたりしてはならない。まだこの境地の修行ができていないから、間違ったことを話してしまうかもしれない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは仏経を開示する時、気が重いのだ。一字だけでも間違えたら、五百世も狐の身にならなければならないからだ。二文字の間違いだったら、千世になる。いい加減に仏法を開示してはならない。狐には匂いがあるから、狐になる気はない。」リンチェンドルジェ・リンポチェは冗談を話した。「リンチェンドルジェ・リンポチェは経典を開示する前、必ず諸仏菩薩、上師、本尊、護法と祖師ジッテン・サムゴンの加持を願う。釈迦牟尼仏の教えを通してリンチェンドルジェ・リンポチェの弘通する仏法は更に多くの衆生を利益したいと願う。

金剛乗を修める時の言葉だが、『目に見えたのは皆本尊だ。耳に聞こえたのは皆真言だ。』は『観色無常、而不以滅色故。』に基づいた言葉だ。密宗なんてないものだと、これ以上言うのを止めなさい。この二つの語句を解釈できない人が多いが、密宗の修行ができていないからだ。『目に見えたのは皆本尊だ。耳に聞こえたのは皆真言だ。』のこともできないなら、解釈はもちろんできない。例え外に音楽が流れていても、そなたたちは音に影響されたと思うだろうが、リンチェンドルジェ・リンポチェからすれば、全部真言だ。六字大明咒や百字明咒のようなもので、リンチェンドルジェ・リンポチェの説法には全く影響がない。こうしたら、煩悩心は起きない。消す必要もない。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの二句を読まなかった。今日初めて読んだんだ。過去世の時、リンチェンドルジェ・リンポチェは経典を読んだかもしれない。それで、今世は自然にこの方向に向かって行動するだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの修行経験を経典内容に照らせば、拝読すると、すぐ分かった。『心経』で開示したら、そなたたちは分かるが、別の経典なら、そなたたちは聞いたことがないだろう。大体の人は『心経』のことを知っているが、説明できない。例えば『無無明尽』に何故二つの『無』が使われただろうか。修行を通さなければ、仏の真実義を理解できない。

今日開示した仏の真実義をちゃんと覚えなさい。今はできなくても、悟れなくても重要ではない。因縁が具足していないからだ。まずこの因があり、いつか果が現れる。心の中で、この修行の心法を確実に覚えなければならない。以前の話と違って覚えたくないなら、縁起は生じない。将来は果が現れない。仏は『諦聴諦聴』を話したが、この因縁法則だ。そなたたちのQuality(質)、standard(レベル)では、そなたたちに経典を開示するのに、リンチェンドルジェ・リンポチェは苦労する。何故なら、そなたたちのstandardに応じなければならないからだ。だから、聞いた後、そなたたちのstandardで他人に話してはいけない。そうでなければ、仏法を歪曲してしまう可能性がある。リンチェンドルジェ・リンポチェはなるべくそなたたちの理解できる文字、般若で、仏の真実義をちょっと説明した。更に続けようと思えば、えらい仕事になる。たくさんの修行がなければ、理解できないのだ。
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いて、アキ護法及び回向儀軌を修められた。
法会が円満になり、弟子たちは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの修法及び慈悲なる開示に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを見送った。

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2018 年 11 月 23 日 更新