尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年6月5日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、施身法法会を主催し、参加者全員に貴重な仏法を開示した。「今日はチベット密教で八大成就法の一つである施身法を修める。施身法はチベットのあるヨギーニ、つまり女性の在家修行者が、顕教の『大般若経』の智慧に基づいて書いた法本のことだ。彼女は結婚して子供を産んだ。仏陀は世間で説法し、晩期にたくさんの時間をかけて『般若』、つまり空性の智慧を解説した。『大般若経』は『大蔵経』の四分の一も占めているので、大乗仏法、金剛乗の仏法を修めたいなら、空性の知恵を理解せず、智慧の功徳の海に入って理解しなければ、修めて得るのは僅かな人天福報に過ぎない。

智慧には根本智と後得智がある。何れの有情衆生も仏と全く同じ、清浄な根本智がある。そのため、仏は、衆生は皆成仏できると話した。衆生は仏と全く一緒な本性を持っているならば、何故、衆生は成仏できないのか。衆生は一念無明だからだ。一念無明とは、煩悩が起き、因果、輪廻を信じないことだ。一念無明が起きると、本来の備わった清浄な智慧を覆い隠してしまう。それで、我々は仏法を学習・修行し、文字の般若と修行の般若を通じて根本智と後得智を結び付けて初めて空性を体得できる。空性は宇宙における一切の現象の真実で本来の姿だ。空性の智慧がなければ、衆生が悩む縁起、衆生の執着、衆生が如何に苦しむ因を植えたかの状況を理解することもできない。医者は病因を突き止めなければ、症状に合わせた処方を出せないのと同じだ。上師として空性を体得できなければ、教える仏法はただ文字上の敷衍に過ぎない。説経、説法をする人は多いが、必ずしも智慧が開いたとは言えず、師父の伝承に従い、仏経の内容通りに話すだけだ。これでは、仏法を学問のみとして研究・議論することになる。既に智慧が開いた上師の説法だったら、仏経を説明する何れの言葉も衆生の煩悩に対するものだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの仏経解説は細かくて一字一句も解釈するとよく言われる。実際に、解釈する必要はないのだ。あなたたちは解釈のように聞こえても、リンチェンドルジェ・リンポチェにとって、仏の話した一字一句の全部は仏法修行の境地だ。本当の修行経験がなければ、仏経の文字を学問として研究してしまう。しかし、仏法を学問や研究と見なしたら、永遠に仏の話した意義を体得できない。智慧が開かなければ、自分自身を利益して衆生を助けることは永遠にできない。智慧を開くことを求めに来る人が多いが、智慧は求めて得られるものではない。『地蔵経』の話のように、多くの衆生は輪廻の深い淵にいる。善知識は衆生の悪業の重みを支え上げ、衆生が自らの力で輪廻の深淵から脱出するようにしてあげられる。これが上師のしていることだ。しかし、空性を証得しなかったら、上師は衆生が作った悪業を支えられない。悪業は大変重いのだ。衆生の代わりに業を背負いたいと言う人が多いが、空性の智慧がなければ、背負うことは無理だ。『地蔵経』に、善知識は衆生を助けて業の圧力を受けられるという話があるが、理由は何だろうか。善知識は空性を証得したので、一切の縁起性空を理解しているからだ。衆生が作った一切の悪縁、悪因は皆空性なので、善知識は執着せず、衆生の代わりに何らかの業を背負うことだと思わない。

『地藏経』には、家族に往生した人がいたら、済度後は死者のためにたくさんの仏事をして仏菩薩に願うという教えがある。ここにいるあなたたちの家族に往生した人は殆ど修行しなかった。皈依した、お香をあげた、法名があった、いくつかの戒疤をつけた、これらのことが修行だと思わないでほしい。経典によると、一番基本的な修行者は、十善法を修める善男子、善女人だ。十善法の修行に、まずは不殺生だ。あなたたちの両親の中で、肉を食べたことのない人が殆どいないだろう。『地蔵経』によると、肉を食べたら地獄に堕ちる。あなたたちは地蔵菩薩の話でさえ信じないから、法会に来なくてもいい。菩薩の話したことは確実に起きる。

地蔵菩薩の母親はスッポンの卵を食べるのが大好きだったので、地獄に堕ちた。あなたたちの母親はどうなんだ。地蔵菩薩の母親だから、自分の母親ではないとでも言いたいだろう。じゃ、何故その母親が地獄に堕ちた。あなたの母親は逃れられるのか。同じ母親ではないか。古代と現代の違いだけだ。同じ悪業を作ったから、その母親が地獄行きで、あなたの母親は地獄に堕ちないはずがない。自分の両親だからと思うなら、いっそう信じなくてよい。地蔵菩薩と釈迦牟尼仏はでたらめを言ったことになるのではないか。もう、信じるのを止めなさい。自分の両親がよい人だと皆はこう言っている。もちろん、あなたたちの両親はよい人だ。あなたたちを生んだからだ。しかし、あなたたちの両親は『善』を行っていないと、あなたたちはよく分かっているだろう。自分の母は分からない、理解できない、勉強しなかったと誰も彼も言い訳をしている。これが懺悔心がない証だ。リンチェンドルジェ・リンポチェの母親も勉強しなかったが、往生前の5年間は台湾に移住して突然菜食し始めた。子供に迫られることもなかった。何故なら、リンチェンドルジェ・リンポチェは福報を修行できて母親が殺生した一切の業力をまず支えてあげたからだ。自然に母親は理解できて大人しく菜食を始めた。『地蔵経』にはまた、法会に参加したことがあっても、その後は死者のために多くの仏事をし続ける必要があるという話がある。道理は、死者は善知識の助けを得て三悪道に堕ちず、天道人道に転生するが、輪廻を断ち切ったわけではないからだ。修法だけで阿弥陀仏の浄土に行けるわけではない。

リンチェンドルジェ・リンポチェのよく挙げている例だが、釈迦牟尼仏のは母親は修行せず、発願しなかった。仏が生まれる女性 でさえ忉利天宮のところまでしか行けなかったから、あなたたちの母親は浄土に行ける資格があるはずがない。釈迦牟尼仏を子供の頃から世話をして育てた叔母も、数年続けて釈迦牟尼仏に願ったうえで、仏陀のたくさんの大弟子も一緒に願ったので、やっとその叔母の出家への同意を仏陀から得て阿弥陀仏法門を教えることに同意してもらえた。あなたたちの母親は求めたことでもあるのか。あなたたちはどうだろう。来れば何でもほしいと思う。来れば浄土に行けるようにどうしても願いたい。釈迦牟尼仏は広大なる無辺無際、数えきれない衆生を利益していた。釈迦牟尼仏の母親は大きな福報があった。こんな偉大な人の母親でも天界までしか行けなかった。あなたたちの母親はあなたたちを生んで栄養を与えるために殺生し、子供の時から台湾人の大好物であるしらすを食べさせてあげた。あなたたちの中で食べたことのない人がいるのか。一茶碗量のしらすは少なくとも数十匹ある。あなたたちの母親は主人公で、あなたたちは共犯だ。そのため、あなたたちの両親の今生で稼いだ金銭が因果を背いたものがあれば、あなたたちもその因果から逃れられない。両親が稼いだお金で育ったからだ。『地蔵経』は、たくさんの仏事をし続けるのを求めているが、あなたたちは係わったこともあり、これで未来の輪廻を断ち切るように死者を助けられるからだ。

法律面で言えば、盗品を売買するのも懲役や判決を受けなければならない。」この法律を知らないと頭を振った人が現場にいたので、直ちにリンチェンドルジェ・リンポチェに叱られた。「経典の内容もこうして私たちを勧告したが、本当にできる人は何人いるのか。お寺で霊璽を設置すれば済度だ、名前を書けば要は済んだとあなたたちは思うだろう。翌年にお寺から電話がかかってきて『今年も済度をなさいますか。』『いくらですか。』『千元です。』のような会話が交わされる。これは仏事を多くすることではなく、わるいから、断れないことだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは決して法会参加の勧誘で信衆に電話しない。皆が参加したいから求めに来たのだ。極めて特別な人でなければ、法会のことを話さない。

それで、法会に参加したい人に、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず菜食のことを厳しく要求する。せめて十善法の第一条、不殺生をしなければならない。あなたたちが菜食して済度法会に参加した功徳は、自分が七分の六、死者が七分の一になる。こうして初めて死者は将来に輪廻を解脱する機会がある。死者は輪廻を解脱できるかどうかは、他人ことだとあなたたちは思うだろう。しかし、金剛乗の修行者であれば、その生生世世の両親に一人だけでも輪廻を解脱しなかったら、間違いだ。円満になったかどうかをどうやって分かるか。成仏だ。仏だけが、過去、現在と未来の全てを知っている。阿羅漢は五百世のことしか知らない。私たちは僅か五百世の輪廻をするだけではない。畜生道、餓鬼道、地獄道に生まれたら、各々の世にも両親がいたので、私たちは衆生にたくさんの借りができた。『地蔵経』の開示だが、悪夢をよく見る人の場合、生生世世の両親と眷属が未だに三悪道で苦しんでいることだ。そのため、なるべく早く学仏することを、仏は私たちに忠告している。それなのに、あなたたちが学仏しに来たのは、大体男女の感情、健康、子女、夫婦、あれやこれやのことのためだ。生生世世の両親が輪廻の苦しみから解脱するため求める人がいない。何故今は末法時代といわれているのか。感謝のことが分かる衆生がいないからだ。修行者だから、自分を助けるべきだ、よいことをすべきだとしか思わない。しかし、あなたを助けたら、あなたは数十万人の善行に影響を与えられるのか。できることなら、助けてあげても構わない。あなたたちは法会に参加したから、気持ちがよくなるかもしれないが 、固く維持していかなければ、生生世世の両親はまたあなたの所に来る。借りができたからだ。『地蔵経』の話ははっきりしている。彼らは他人を当てにすることができないから、子女と眷属の所に行くしかない。そのため、仏は輪廻を断ち切ることを忠告している。輪廻を断ち切れば、人に借りを作ることはないからだ。一世でも輪廻すれば、どうの道であろうが、二人の衆生に借りができるのだ。地獄道、餓鬼道にも両親がいる。一世に二人、結婚でもすれば、眷属は掛け算のように倍に加算され、無限に計算される。これでは、全部解決するのに、どれくらいの時間が必要だろうか。剃髪、出家して袈裟を着れば全部解決できると思ったら、勘違いだ。

昨日ある信衆は、二回の水懺に参加したからといって何でもかんでも解決できると思うなとリンチェンドルジェ・リンポチェに叱られた。悟達国師は三国時代から唐朝まで、千年近くも修行していた。悟達国師は三国時代に将軍を務めていた。その世以降、どの世にも修行者だった。唐朝の時、皇帝に御座が賜れ、彼は慢心が生じた。これは『宝積経』の話のように、六波羅蜜の修行に慢心があってはならないことだ。結局、彼が将軍時代に殺した一人が、直ちに彼の膝に人面瘡に変わって彼に話しかけた。彼は以前五台山に行った時に、文殊菩薩が人間に化けて将来に何かがあったらまた来てもいいと話してあげたことがある。それで、彼は行った後三昧水懺のことが教えられ、その水で洗ってやっと人面瘡をきれいに洗った。一回の法会に参加したくらいで、どんなことでも解決できると、あなたたちはこう思う資格でもあるのか。中国やチベットにこの類の話がたくさんある。あなたたちは全く聞こうとしない。自分には何の問題もないと思っている。だったら、とっくに阿弥陀仏の浄土、或は少なくとも天界に転生したはずではないか。この娑婆世界に生まれるはずがなかった。あなたたちは皆福も縁も薄い衆生だという証だ。たくさんのことをしたと思わないでほしい。あなたと悟達国師、どっちのほうがたくさんしたのだろうか。悟達国師は自らの修行が十分だった。大変よく修行できても、済度までの程度は修行できなかった。修行者は済度する能力を欲しければ、福も慧も円満に修める必要がある。もちろん、円満の程度は仏のレベルにはなれないが、少なくとも諸仏菩薩の加被が得られて衆生を利益できる。

今回ブータンから修法の招きがあったが、リンチェンドルジェ・リンポチェはまず尊勝なる直貢チェツァン法王に指示を仰いだ。何故ならこの招きは尊勝なる直貢チェツァン法王の紹介があったからこその機会だったから、リンチェンドルジェ・リンポチェは事前に尊勝なる直貢チェツァン法王の同意を得てから行くことを返事した。どんな法を修めることについても、昨日尊勝なる直貢チェツァン法王に尋ねて確認した。これが謙遜で、師を尊んで教義を重んずることだ。今時の人はこんな観念がなく、自分が学習・修行したんだ、自分の能力がよくて見れば分かるんだと誰もがこう思っている。修行者を尊重することを全く思わない。2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェは4500メーター以上のラキ雪山で3ヶ月間閉関した。ここにいるあなたたちの中で、こんなことをした人がいるのか。いないなら、ちょっとでも謙遜しなさい。ショーを見る思いがあってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはスターでも歌手でもない。

施身法は大変殊勝だ。施身法を修める人は必ず顕密両方が円融で、仏法の根本理念についてよく理解し、かつ言い間違えることもない。まずは、仏の話した内容に従い、自分なりの見解で仏法を解釈しない。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を開示する時、必ず仏経の各文字通りに話す。ほかの理論を持ち出して話さない。そしては上師が教えた内容だ。更には自分の修行経験だ。上師も仏もいなかったら、あなたたちはちゃんと修行できるのか。毎日お経を唱えるだけでちゃんと修行できると思ってはいけない。それら自分は感応したと思った人は、皆結局ひどい目に遭った。修行者である以上、往生時はきっと善逝になる。苦しんで死んでいくはずがない。例え生々世々の業報があって借りを返さなければならなくても、空性の中で返すから、苦しまない。釈迦牟尼仏は涅槃前に病気を示したが、その苦しさを示さなかった。ただ、生生世世の最後の一つのことを、今生において肉体で返したから、もう借りはない。

顕教の基礎を理解して初めて密法の学習ができる。密法のことだが、テレビに出た人が話した密法を聞き、それで密法の修行だというわけではない。聞いたことは知ることと違う。知っていても必ず修行できるとは限らない。また、修行できても必ず成就が得られるわけではない。聞いたら自分にもできる、法本があったら修行できると思う人が多い。こんなに簡単なことではない。修行者自身が密法において成就があってからでないと、この法を修められない。要は、修行者本人の慈悲心、菩提心と空性の智慧を通するからこそ、苦しむ全ての衆生は仏法の殊勝さと偉大さをやっと体得できるのだ。修法者が累積した福報を通さなければ、苦しむ衆生が輪廻の苦海を離れるように助けることはできない。例えば誰かをある所に行くように手伝いたければ、お金がなければ、助けてあげられないのと同じだ。毎日仏経を1時間唱えるだけだ福報があると思う人もいるが、本当はそうならないのだ。学仏と修行のことを気付かせてくれるだけだ。福報が起きることを望むなら、供養・布施が欠けてはいけない。点灯、供花、供果はただの行為だけで、空性の布施心と供養心がないので、これらの行為は人天福報しか得られない。

顕教における根本的な布施方法は財施、法施、無畏施だ。密法の場合、秘密供養が加わるが、公開的に言ってはならない。理由は、あなたたちにはできないので、聞いたら怖くなるからだ。施身法の特色は衆生を済度するほか、衆生の福徳資糧を速く累積してその累世の悪業を転動するように役立つ。去年(2005年)初リンチェンドルジェ・リンポチェはひどい病気になり、十分の一の命しか残らないと医者の弟子に言われた。風の中に置かれた蝋燭みたいに、すぐでも消えそうだった。そして、尊勝なる直貢チェツァン法王は、毎日施身法を修めるようにリンチェンドルジェ・リンポチェに指示した。早くも一ヶ月で回復した。これに対し、法会に参加した人は多いのに、一部の人の業は転動されないのは何故だ。悪を行っているからだ。

『地蔵経』にこうした内容がある。小悪をしても構わないと思わず、どんな小悪でも果報があり、小悪を累積すれば、大悪になる。起心動念が全部業だ、罪だ。自分の意念をはっきりと見ない人は悪を為し続ける。善と悪は些細だ。少しずつの累積によるものだ。悪をやめ、善を行い続けることによって大悪は起こらない。しかし、あなたたちは悪も善も続けて行っているから、善と悪がうねうねする。善果が現れたら、悪を為す。そして悪果が現れる。悪果が現れたら、あなたたちはまた仏菩薩に願い始める。そして、また少しの善が現れる。あなたたちの一生は曲折だ。何故、人間は五十才になると、衰え始めるのか。福報がそろそろ使い切れるところで、悪を断って善を行うことをしないからだ。十善法は人間としての根本条件だ。仏経には、人道が成り立ったうえで、仏道があるという話がある。私たちが人間になれたのは、十善法のお蔭だ。十善法を実行しなければ、今世においていくら真面目に修行しても、表面的なもので、ペットになる福報しか得られない。

後ほど修法の時、あなたたちは法に対して尊重の意を抱くべきだ。この法を得るには決して容易ではなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが楽そうに見えるが、ちっとも楽ではないのだ。諸仏菩薩と上師に必ず尊重しなければならない。上師と仏菩薩が尊重することをあなたに要求しているのではない。あなたが三宝に対して尊重しなければ、自然に恭敬心も起きない。恭敬心がなければ、供養はない。供養がなければ、福報はない。福報がなければ、衆生の業力を転動できない。この法を修める時、修行者は自らの身口意と体の全てを用いて諸仏菩薩、一切の護法、空行母と勇父に供養する。供養後、自身の体で密法の観想を通じて一切の六道にいる有情衆生に賜り、有情衆生に仏法の慈悲を体得させる。空性までの修行がなければ、この観想はできない。観想は単なる想像ではない。仏法における観想とは、清浄な本性と常に働いている意識を結び付けて修行し、清浄な本性が有為法の意識を支え、そして、意識は空性の法性によって力を最大限に発揮する。

菩薩は覚有情とも呼ばれる。覚悟のある有情衆には、できるだけたくさんの衆生を済度したいという煩悩がある。これは、第八意識田の阿頼耶識に残された種だ。今日の修法において、あなたに恭敬心があったら、家族に死者がいる場合、死者は必ずリンチェンドルジェ・リンポチェの前に来て済度を得て三悪道から離れられる。三宝に対して恭敬心があったら、例え体が弱くても、他人の状況とは違う。癌に罹った場合は痛みを感じない。もしも、あなたの福報は尽きる寸前だとしたら、癌が治らなくても仏法は役立たないというわけではなく、花は咲き終わり、もうすぐ実るのだ。痛みを感じさせないのは、神経を切り取るのでなく、また、あなたの冤親債主に平和に付き合いたいというのでもなく、冤親債主を済度するのだ。だったら、冤親債主を済度した後、癌細胞は消えるはずだという人も出てくる。癌細胞はあなたたちが思うように、外来のものではない。あなたたちの体内にあった細胞だ。しかし、何故その細胞が癌細胞になったのか。悪を行う、よく憎悪する、肉食が好きだなどの原因で体内の細胞が悪くなったわけだ。よりによってあなたたちは切り離したり、削り取ったり、切ったりする。自分の十本の指の一本を切り取ったら、便利だと思うのか。体のものを切り取るのがいいことなのか。

何故、癌に罹って痛くなり、そしてますます痛みが激しくなる人がいるだろう。強い瞋恚心を起こさせ、最後になって地獄に堕ちさせたいからだ。それに対し、癌に罹っても痛みを感じない人がいる。何故なら、冤親債主は得度できたからだ。ただ、細胞はまだ変化しない。仏法に対して恭敬心を抱いていたら、修行しなくても痛みは消える。患者は癌に罹っても痛くなかったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲だ、仏法は慈悲だと思い、恨む気持ちが生じず、地獄に堕ちることもない。リンチェンドルジェ・リンポチェの癌は治ったが、何故だろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェもよく分からない。全然相手にせず、ただ、上師と仏菩薩の教えに従って振る舞っていた。多分仏経の話のように、福報が起き、智慧が開き、リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生に役立つと仏菩薩はこう思ったから、残してくれた。あなたたちはどうだろう。衆生にちっとも役立たない。自分には両親、子供の世話をしなければならないと言う人もいるが、人間としての基本だろう。親の世話を見ない人は人間と言えるだろう。動物でさえ両親の面倒を見たり、子供を育てたりする。

日本の道場の階段に雀の群れがある。その中、年長の一羽がいてほかのは若いほうだ。五、六羽の若い雀は階段を下りて芝生に落ちていたコメの粒を取り、階段に持って来て年長の雀に食べさせた。きっと親だろう。今時の人はそうしない。家に帰って両親から何かをもらいたい。もらえなかったら、機嫌が悪くなり、両親を殺した人までいる。人口比率で見れば、台湾で親を殺した状況は近隣諸国よりひどい。殺業が原因だ。台湾の殺業は昔からひどかった。たくさん殺したし、今もまだ殺している。殺業はこの土地の残された。『地蔵経』には、死者の済度をしたからといって要は済んだと思ってはいけないという話がある。輪廻を継続させないほか、毎回済度法会を開催することにより、一部の衆生は利益を得るので、この土地の穏やかさに役立つ。毎回法会の時、リンチェンドルジェ・リンポチェは人腿骨法器を吹く度に、あなたたちと無関係の衆生が助けをもらいに来る。恭敬心、慈悲心、懺悔心を抱いていたら、あなたと縁のない衆生は入って来れる。利益をもらうのはあなたたちだ。何故なら、あなたたちが来なかったら、法会も開催できないからだ。

続けて法会に参加することを、仏は忠告してくれた。仏がそれを必要としているのではなく、自分は福も縁も浅い衆生だと、私たちは覚えていなければならないからだ。100元や1000元の供養をしてたくさんだと思わないでほしい。今の月給は最低でも2万2千元ある。全く正比例になっていない。住宅ローンがあるとか、子供の教育に使わなければならないとか、あなたたちは言うかもしれないが、もうこれ以上の傲慢は止めなさい。あなたたちには傲慢する条件も、資格も、能力もない。『地蔵経』に、地球の衆生は強剛で独断で調伏しがたいという話がある。誰もが自分が偉い、理解した、聞いたと思っている。修法者は空性を証得しなかったら、死者が入って来たら、修法者は怖がってしまう。死者のことが怖いのでなく、自分の能力不足でできないから怖いのだ。後ほど修法の時、リンチェンドルジェ・リンポチェは正面に黒いすだれのある冠を被って視線を遮断するが、リンチェンドルジェ・リンポチェが怖いわけではない。あなたたちも見たはずだが、修法の時、リンチェンドルジェ・リンポチェの目は特に輝く。しかし、鬼道の衆生が光を見たら怖くなるので、遮ったほうが彼らのためだ。満足させたいからだ。

毎回の法会に、あなたたちが連れて来た往生した両親、祖先はたくさんだが、毎回の法会にあなたの生生世世の両親と祖先が来るわけではない。福報が足りなかったら来れない。大変複雑なことだ。一回で解決できるとしたら、釈迦牟尼仏は何世も修行する必要がなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日修行する必要もない。あなたたちのことは一回で解決できるのか。一回の法会参加を求めるだけで全ての問題を解決したいと何故こう思えるのか。梁武帝は妃のことで宝誌公に頼み、法会を一回開催して拝懺したことで、妃が天界に生まれることをさせられたとは言え、梁武帝はどれほどのよいことをしただろう。出家衆の菜食は梁武帝の時に始まった。梁武帝は、出家者が菜食することを決め、多くの仏寺を建て、仏経をたくさんを印刷した。彼はたくさんのことをして初めて懺を書いてくれる人に出会えて一回で解決できた。あなたたちがしたよいことはどれくらいだろうか。十本指で数えればすぐ終わるだろう。だから、『宝積経』の内容は謙虚を要求している。謙虚すればするほど、仏法と縁がある。水懺の話は、僅かな慢心でも、あってはならないと教えている。リンチェンドルジェ・リンポチェは、高い程度の修行をした人が少しの慢心で病気になったのを見た。こんな人こそ危ないのだ。あなたたちのことではない。あなたたちはその程度になっていないから、少しの慢心くらいはまだ大丈夫だ。しかし、慢心があって空性が不足だったら、もっと多くの衆生を利益することはできない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは去年(2015年)に病気になったが、屏東の修法に行った時、うっかりしたからだ。そこに土地公がいるのを知り、行った時にも土地公を見たが、呼ばなかった。自分だけで修法していいと思った。尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェが空性も慈悲心も足らないと叱った。リンチェンドルジェ・リンポチェでさえ直貢チェツァン法王に叱られた。あなたたちはどんな立場があるのか。叱られたくないというのか。リンチェンドルジェ・リンポチェは問題が起きるのも借りを返すのも速いが、あなたたちは起きるのが遅いし、借りを返すのがもっと遅い。つまり、いつになるかも分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェは少なくとも自己反省をしている。リンチェンドルジェ・リンポチェは土地公のことを忘れただけで、そうなった。あなたたちはもっとたくさんの人のことを忘れただろう。どれたくさんの人が恩徳をくれたことも忘れただろう。損をさせてくれた人のことしか覚えていない。恨みに満ちた世界になったのはこれが原因だ。あなたたちは何でも食べるが、損だけはしたくない。去年のこのことで、尊勝なる直貢チェツァン法王に叱られたことにリンチェンドルジェ・リンポチェは嬉しかった。上師が叱ってくれなかったら、自分は何の役立たず、ほったらかされることになる。

『宝積経』に慢があってはならないという話がある。、特に出家衆は気を付けなさい。在家衆にはまだ何らかの理由を言ってもよいが、出家衆は全く理由を言ってはならない。出家したからと言って自由に通行したく、やり放題に無茶したいと思ってはならない。どんな人にも謙虚に接し、同居しているかどうかを問わず、他人の行為に納得できないとか、自分ほどにできていないとか、以前いた仏寺はこうではなかったとかと思わない。こんな思いがあってはならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは済度する時、あなたたちの書いた名前で費用を取ることはしない。あなたたちが思い付いたら、たとえ1000個の名前でも、済度が必要なら、リンチェンドルジェ・リンポチェは同様に済度する。一つの名前につきいくらか、冤親債主の済度にいくらか、一匹の猫や一匹の犬の済度はいくらか、そんなことはしない。如法ではないからだ。」

続いて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を始め、顔に慈悲の光が漂った。修法の過程はとても尊く厳かだった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは禅定の絶対の境地の中で、右肩の軟骨の摩損による痛みを構わず、施身法の儀軌を進めた。その勝義菩提心で自らの全ての血肉、骨を残さずに諸仏菩薩に供養したと同時に、一切の六道衆生に布施した。並びに、自ら六字大明咒を長らく唱え、慈悲、真摯、荘厳、清浄、そして願力の深い法音が鳴り響き、無数の有情衆生を利益した。参加者たちは、リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生の輪廻を憐れむ大いなる悲願力を感じ、思わず涙が溢れた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの修法による加持力は極めて殊勝で、一切の衆生を震え上がらせ、威徳力が虚空に遍満した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いてアキ護法と回向の儀軌を修持してから、開示を続けた。

「皈依弟子の多くは未だに何のために学仏するかが分からず、自分の思いを満足するように無理に上師に求めている。昨日リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求めた弟子がいた。息子が学仏することを望んでいると何度も繰り返して上師に無理を言った。」そこで、リンチェンドルジェ・リンポチェは『仏子行三十七頌』の内容は何かと聞いた。「親方貪心如水蕩」と出家衆と参加者たちは答えた。「その弟子が子供に学仏させたいのは、生死解脱のためでなく、子供が皈依後リンチェンドルジェ・リンポチェにしつけを任せ、大人しくなるのを望んだからだ。何でもかんでも上師にまかせっきりだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが教えるのは生死解脱、輪廻出離の仏法だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も開示したはずだ。子供の不孝は個人の因縁福報に関係がある。あなたたちは今生でどのくらいのよいことをしたかを考えてみなさい。親孝行の子供を産めるものなのか。

こんなことが許されるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェも尊勝なる直貢チェツァン法王に無理を言うことができる。昨日、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王と電話で話した。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日、尊勝なる直貢チェツァン法王に無茶を言うことだってできる。リンチェンドルジェ・リンポチェは子供に菜食、学仏を無理にさせることを決してしない。逆にここに来ることを2年間も禁じていた。あなたたちは違う。無理やりに子供を来させようとしている。学仏すれば、子供は大人しく従順になると思っている。昨日、教えてあげたにもかかわらず、彼は無理を言い続け、どうしてもリンチェンドルジェ・リンポチェに同意してほしかった。あなたの因果、福報はリンチェンドルジェ・リンポチェと何の関係があるのか。もしも、リンチェンドルジェ・リンポチェはその要求に同意し、その後でも子供は大人しくならないとしたら、仏を中傷し始めるのではないか。蓮師はずいぶん前に予言した。鉄で作られるものが空を飛ぶ時、その頃はまだ飛行機という名詞がなかったが、蓮師は、金属の器具が空を飛ぶ時になると、世間に子供が親不孝、女性が不貞、男性が不義、戦争が絶えず、天災が頻繁、伝染病が流行りといった現象が現れると予言した。これらの予言は一々当たった。だから、今時の子供が親不孝になっているのが普通で、孝行のほうがおかしい。あなたがまともではないから、孝行な子供を産んだ。我々はこの五濁悪世である末法時代に生まれた。福報のよい人だったら、在家や出家に関係なく、こんな時代に生まれない。菩薩の再来は話が別だ。自分は菩薩が再来したものではないとよく知っている以上、ちょっと念誦するくらいで子供は変わるはずがないと当然分かるだろう。皈依して僅か数ヶ月で子供は大人しくなる筋合いがないのだ。諸仏菩薩は慈悲なので、在家の上師を送り、上師ができることだから、あなたたちにもできると、あなたたちに見せようとした。リンチェンドルジェ・リンポチェは様子を見て行動する。あなたたちの求める世間法は因縁、福報が具足したものであれば、助けてあげる時もある。しかし、何でもリンチェンドルジェ・リンポチェがやるわけではない。十数年皈依しても病気になった弟子がいる。心構えの問題だ。何でもリンチェンドルジェ・リンポチェにやってほしいという心構えだ。あなたたちはリンチェンドルジェ・リンポチェに本当に優しいのか。そうでもないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちの日常生活の邪魔をしていない。あなたたちは自分の生活を送り、リンチェンドルジェ・リンポチェは相変わらず仏法を弘通する。

今回、日本での法会の時、リンチェンドルジェ・リンポチェは供養を拒否した上で、ただであなたたちのために二日間の法会を開催した。リンチェンドルジェ・リンポチェは因果のほかに、何も怖くないのだ。供養心が正しくなかったら、受け取らない。ちょっとした金銭をあげたら、何でも欲しいと思ってはだめだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに供養する時はその供養金はどの車両からとか、誰が供養したとか、誰が供養しなかったとかなど、リンチェンドルジェ・リンポチェに分からせようとした。リンチェンドルジェ・リンポチェは古希の年になり、二日間の修法もしたのに、どのくらいの供養金を受け取ったかまでのことも知らなければならなかったのか。あなたたちが供養した金額はリンチェンドルジェ・リンポチェにとってどうでもいいことだ。あなたたちがそれぞれに兄弟子に責任を負うべきだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに責任を負うのではない。誰も彼もわざといろんなことをやって一生懸命に責任を負っていると見せつけようとした。本当に責任を取りたいなら、一人で供養すればよかったのではないか。誰一人も懺悔せず、ただ泣いていた。リンチェンドルジェ・リンポチェが受け取らなければ、自分はリンチェンドルジェ・リンポチェに借りができると泣きながら言い張った。しかし、自分の問題は何かを懺悔した人は一人もいなかった。供養金を受け取ったら、リンチェンドルジェ・リンポチェがあなたたちに借りができることになる。受け取らなかったのは、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちをきちんと教育しなかったからだ。受け取らなかったら、平気であなたたちを叱っていいのだ。大したことではないとあなたたちは思うかもしれないが、金剛乗を修める人にとっては大変なことだ。どんなことでも意念を明確しなければならない。意念が明確でなければ、どんなことを学んでも修めても役立たない。具徳の上師はあなたたちの畏敬とか、リンチェンドルジェ・リンポチェへの畏懼を望んでいない。意念を重んじているだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが尊勝なる直貢チェツァン法王に供養した時、尊勝なる直貢チェツァン法王は何時でも喜んで受け入れたし、リンチェンドルジェ・リンポチェが供養したものを常に触れている。理由はなんだろう。簡単だ。上師の需要を常に気遣っているからだ。

法会に参加することは福報を得るためではない。自分を正さなかったら、法会に参加した福報は今世で使うことがない。来世にならないと、使えない。功徳を修めて得ることがないならば、この世に使うことができない。たくさんの法会に参加したのに、何故変化がないのかと、仏を中傷する一部の人がいる。変化するはずがないのだ。ただの人天福報を修められたからだ。人天福報は今世でなく、来世の使うものだ。功徳だけが今世の使えるものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは死にかけていただが、僅か一ヶ月で回復し、あなたたちを教え続けることができた。修行による功徳があったからだ。功徳は戒、禅定の修行、智慧が開くことだ。

あなたたちは、一見守戒しているが、皈依の戒でさえ守っていない。上師に、直ちにあなたの苦痛、欲望を解決してもらいたい。リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢噶舉において数百名の出家衆をよく知っている。彼らに、毎日修法するのを要求することもできるが、本当にそうしていいのか。だめだ。自分のことは自分で処理すべきだ。因果、因縁を受け止めて決意して仏法を学ぶべきだ。それで、きっとある日、ある一秒に、業は転動できる。どんな経典の中にも、諸仏菩薩と上師はあなたたちの悪行の果報を消せるという話がないし、念仏してよくない業力が消えるという話もない。業障は学仏の障害だ。裕福も貧乏も私たちの修行を妨げる。仏法を通して障害を止めることができても、悪因の果報を消せるわけではない。消せるなら、学仏の善因は善果をもたらすこともない。善だけがあって悪がないのはあり得ないことだ。一生においてたくさんの悪を作ったのに、悪果がないはずがない。一切の悪を止め、悪の力が現れなくなって初めて、善の力が悪の力を暫く被って見えないようにする。それで、あなたは悪果の苦しみを感じなくなる。

戒定慧で仏法を学習しなければ、今生学んだ全ては人天福報に過ぎず、来世になってやっと人間に転生するか天界に行くために使える。それでも輪廻から解脱できない。戒は修行において極めて大事なツールだ。在家の五戒、比丘尼の二百数個の戒、比丘の百数個の戒、また、菩薩戒、金剛乗の戒もある。これらの戒は、私たちの身口意を制限する範囲だ。守戒でたくさんのことをしてはならないというわけではない。その範囲内で行動しなければならない意味だ。今の複雑な社会で、完全に清浄な戒を守るのが容易ではないが、要はあなたの心で守戒すべきだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分のレストランで食事する以外、滅多に外の菜食レストランに行かない。肉食のレストランに行く機会がかえって多い。理由は、コックに菜食を作らせ、その時に殺生の機会を減らすことができるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは注文する時に、ネギ、ニンニクを使わないように特に一言加える。外食する時、料理にネギが入っていたら、人と喧嘩する人もいる。追加注文をしてお金を払えばいいことだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは外食する時、料理にネギが入っていたら、のけて食べないようにする。或はネギを入れないようにもう一つ頼む。お金を払う。料理用の鍋、ヘラは肉食の調理に使われたかどうかのことに気にしなくてよい。気にするなら、自分で持って行けばよい。菜食は鍋、ヘラを食べるわけではない。学仏者はかわいいと思われたほうがよい。喧嘩するのはよくない。

今日、この法を修めて諸仏菩薩の慈悲心をあなたたちに感じさせたい。この慈悲心はあなたたちに利用させるものではない。仏菩薩に願い、縁があれば、仏菩薩は必ず助けてあげることを感じさせたいのだ。あなたたちは助けてもらえるかどうかは、あなたたちは持続できるか、ちゃんと守れるか、その次第だ。上師と諸仏菩薩には関係がない。仏は縁のある人を済度するが、あなたは聞き入れるかどうかがポイントだ。未だに自分なりの考え方を持っていたら、教えを守らず、縁が浅いことだ。自分の考えを持たなければ、全部受け入れて守れるはずだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが他人の招きを受ける前に、尊勝なる直貢チェツァン法王の指示を仰ぐのと同じだ。人間としての道理だ。

学仏者は、どの思想も行為も普通の人より鋭いでなければならない。今回、日本での法会の時、リンチェンドルジェ・リンポチェの修法法座前の板を蹴った日本人信衆は一人もいなかった。供え物がもらえなかったことで、その場に立ち止まる人もいなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分を助けていると彼らは分かり、リンチェンドルジェ・リンポチェに尊重・恭敬の気持ちがあったから、リンチェンドルジェ・リンポチェの修法に影響してはいけないと、その板を蹴らないように気を付けていた。火供の供え物を順番に受け取る時、自分の番になっても受け取れないからと言ってそこに立ち止まることもなく、順番に進んでいた。リンチェンドルジェ・リンポチェを尊重して自分を助けたことに感謝したからだ。このことから、日本人と台湾人の違いが分かる。教育方法かもしれないが、彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェを尊重して感謝の心があるので、彼らは周りの環境に気を遣っていた。学仏者でない人もいたが、彼らは感謝した。あなたたちは違う。全然比べられない。

台湾からの弟子は200人以上いた。そのうち7人が板を蹴った。供え物を受け取れなくて立ち止まって待った人も、滑って転んだ出家衆もいた。その日、リンチェンドルジェ・リンポチェが手で供え物を取って渡した動作は2000回近くもあった。渡す動作には一定のリズムがあり、一旦止まったら、新たな力でやり直さなければならなかった。しかし、それらのいわゆる皈依弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェが供え物を取るリズムは彼らの邪魔で変わることを全く気にしなかった。多めの気力で弟子に配慮することをリンチェンドルジェ・リンポチェにさせた。彼らの行動は自分のことしか考えなかったのが原因だ。自分の手に持って皿しか見なかった。心に貪欲しかなく、とにかく供え物を取って火の中に入れたかった。側の侍者の忠告を無視した。侍者たちは早く進むことを少なくとも百回言ったにもかかわらず、彼らは耳を閉じて全く聞こえず、上師に恭敬しなかった。更に、あるアメリカから帰国した弟子は飛んだことをした。彼女は自分が重要だと思い、リンチェンドルジェ・リンポチェが手を伸ばして皿を取ろうとしたところを見て自分が持っていた皿をリンチェンドルジェ・リンポチェに渡した。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちの持った紙皿を取るはずがない。リンチェンドルジェ・リンポチェは修法の時、他所を見ない。受け取って重量が違うと分かってすぐ地面に捨て、側で立ちなさいと彼女に指示した。皆は自分なりの計算をしている。自己本位の修行しかしていない。

ある出家衆弟子の医療費はリンチェンドルジェ・リンポチェが負担している。ある日、リンチェンドルジェ・リンポチェが通りかかり、その家族全員がコーヒーショップで食事をしていたのを見かけた。彼女にはたくさんの子女がいてお金があるのに、親に孝養を尽くしていない。出家とは言え、親に仕えるのは子女としての責任だ。子供たちはお金を稼ぐのに大変で仕事も生活も厳しいと、こうばっかりと考えてはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェはお金のことを気にしないが。娘、婿、息子もいるのに、できれば上師のお金を使わず、子供に出してもらいたいと、何故彼らに言わなかったのか。リンチェンドルジェ・リンポチェのお金は利益衆生のためのものだと理解してほしい。その弟子に、リンチェンドルジェ・リンポチェへの借りを作ってほしくない。彼女は貪欲の過ちを犯した。子女も衆生だ。母親が出家したから面倒見なくてよいと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれらの医療費が惜しむわけではない。リンチェンドルジェ・リンポチェに借りを作ることを望まない。今日修める施身法だが、捨てることがポイントだ。捨得(惜しいと思わない)、捨てられるからこそ、得るものがある。あなたたちの貪欲を捨てなさい。執着を捨てなさい。

今話したことは、あなたたちを責めているわけではない。『地蔵経』の開示だ。うっかりして起心動念は全部業だ。罪だ。世界はあなたたちが思うほどの太平ではない。気候は乱れている。何でも乱れている。しかし、学仏者の心は乱れてはいけない。仏法をちゃんと聞き入れて行動に移す。この間、ある看護師をしている弟子が分娩室で働くように病院側に言われた。分娩室での仕事は中絶を処理することがあると分かっても、数千元多めに稼ぎたかったから、尋ねに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは全然相手にしたくなかった。話すのもしたくなかった。

中国の某病院の副院長はひどい病気になった。それで、中国の弟子は彼にリンチェンドルジェ・リンポチェに願ったらいいと教えてあげた。その頃、リンチェンドルジェ・リンポチェは日本にいた。名前と生まれ年を聞いただけで、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の症状を全部話した。彼は話を聞き、リンチェンドルジェ・リンポチェが偉いと思って会見を求めたいと思った。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは同意し、台湾に来なさいと言ったが、彼女は来れないと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェも向こうに行けない。北京で病院の副院長に務められる人はきっと勢力があるだろうが、リンチェンドルジェ・リンポチェはそんなことを重視しない。リンチェンドルジェ・リンポチェは去年体が不具合になった時、尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに毎日施身法を修めるように言ってくれた。尊勝なる直貢チェツァン法王と仏菩薩がリンチェンドルジェ・リンポチェの命を救ってくれた。何人かの医者の弟子がいたが、見かけだけだった。

去年初、リンチェンドルジェ・リンポチェは不具合で大出血があった。リンチェンドルジェ・リンポチェの命は十分の一しか残らなかいと医者の弟子に言われた。当時、医者である二人の弟子と数十年経験を持つシニア看護婦の弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに注射しようとした。栄養剤で栄養を補うつもりだったが、状況は緊急だった。血管は沈み、彼らは30分間探してもリンチェンドルジェ・リンポチェの血管を見つけられなかった。血管が沈んだことは血液の流れがないことだ。」この時、医者の弟子は、更に出血があったら、命は危険だと話した。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。「彼らは針を2、3回差し入れたが、リンチェンドルジェ・リンポチェの血管を見つけられなかった。血管が沈んだからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさん出血した。血管は血がなくてくっつけていた。その十数年経験のシニア看護婦弟子も血管を見つけられなかった。しかし、彼らは孝順だったので、リンチェンドルジェ・リンポチェは治療を任せたが、本当は、リンチェンドルジェ・リンポチェはもう人間ではないとはっきりと見せようとした。修行があるかないかによって差が出てくる。彼らは話し合い、それ以上注射できなかったら、太ももの血管に注射するという結論を出した。あなたたちに言いたいのは、医者はいいんだが、万能ではないから、自分自身で決意してあらゆることに対面すべきだ。

あなたたちは運が悪いだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは元気になってまだ叱りを続ける。リンチェンドルジェ・リンポチェは決意したのだ。あなたたちが教えを守らないなら、叱る。まだ聞かないなら、弟子を信衆の身分戻す。それでも従わないなら、赤い門の外に追い出す。どうしても正さないなら、一階の路傍に追い払う。今、弟子と信衆の人数は多すぎる。尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日修行しており、自然に結果が得られると話した。あなたたちを必要とすることはない。弟子たちは、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法と開示に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを見送った。

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2017 年 03 月 29 日 更新