尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年5月22日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、参加者全員に貴重な仏法を開示した。「今日は『宝積経』の開示を続ける。台湾の大乗仏法は中国から伝わってきた。中国では大乗仏法の弘通が中心だ。大乗仏法は主として菩薩道の修行と学習をしている。念誦、拝懺、衆生を率いて礼仏することが菩薩道の修行だと思う人がいるが、そうではない。菩薩道を修める前に、菩薩の思惟方法を理解する必要がある。そうしなければ、自分と衆生を傷つけてしまう。

菩薩道を修行していても、菩薩はどんな思惟方法で菩薩道を行うかを知らなければ、修行者自身には危険があるし、衆生を助けることもできない。リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た人の中で、学仏で衆生を利益して助けたいと言った人がいる。こんなことを話す人は菩薩道を学ぶ資格がない。『金剛経』の開示だが、済度する衆生がいない時、自分は衆生を済度していると自認したら、菩薩ではない。

今日、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示したい『宝積経』の一段落の経文を、以前読んだことはない。上師の指示ではないし、特別に考えたわけでもない。ページをめくって出てきただけだ。私たちのような菩薩道を行っていると自認する人の場合、基本的な概念でさえ理解しなかったら、修めても有為法だし、僅かの人天福報になり、菩薩道の成就ができない。菩薩戒を受け、念誦や拝懺をすることが菩薩道の修行ではない。また、大乗の経典を習っていることが菩薩道の修行だと思うべきではない。あるいは、『宝積経』を聞いたことがあるから、菩薩道を修行していると思ったら、勘違いだ。諦聴は、仏法の根本的基礎をしっかりと作ることだけだ。

顕教は学仏、修行の基盤だ。密法を学ぶ前、10年の顕教の基礎が必要だ。家を建てるには安定した基礎が必要だというのと同じだ。基礎が安定しなかったら、高いビルを建てるどころか、二階建ての家でさえ作れない。顕教の修行も成仏できるが、三大阿僧祇劫の時間がかかる。三大阿僧祇劫はどのくらい時間だろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェも分からないが、大変長い時間だ。人類の時間では数えきれない。これで学仏、修行は大変難しくなるだろうか。仏はそう話さなかったので、仏は阿弥陀仏浄土の法門を開示したし、たくさんの経典の中で密法の修行法門を示現した。菩薩道の修行にせよ、未来に成仏したいにせよ、学仏の理論と理念を確実に実行しなければ、非常に危ない。将来、衆生を利益したい時に、心に理解、空性がなかったら、自身には大変な危険がある。『宝積経』の開示で、菩薩道を修行する根本的概念をあなたたちに理解させたい。

祖師ジッテン・サムゴンの全部の著作は『宝積経』に基づいたものだ。チベット仏教に、金剛乗、大乗、小乗がある。チベットにも小乗、つまり、阿羅漢道の修行がある。理由は、皆にはそれぞれの因縁があるからだ。釈迦牟尼仏は『宝積経』を開示したが、内容は、菩提心を発する用意ができ、すでに慈悲心を学び、修行している行者を対象とした。ここにいる人数は千三百人以上だが、今生で菩薩道の果位が得られるのは僅かだ。あるいは、殆どいない。それにしても、『宝積経』を聞く必要がないということはない。修行は生生世世のことだからだ。今世、あなたは金剛乗の学習ができ、一切の本尊から灌頂と加持が得られたとしても、今世の修行で成就が得られるとは限らない。根器が十分でなかったら、少なくとも17世を経なければ、仏果の成就ができない。各々の世の寿命はどれくらいかは、言ってはいけないのだ。時間で形容できない。何故なら、何れの衆生は違う業と願を持っているからだ。

発願したから、来世は願に乗じて再来できると自認する人がいる。今世で菩提心、空性の証得ができ、菩提行をし始め、願力は動き出して行動に移したうえで、少しの効果が見えてからでないと、来世は願に乗じて再来する可能性がない。

釈迦牟尼仏は『阿弥陀経』の中で、『在此五濁悪世、説此難信之法。』を話した。たくさんの人はこの言葉を読むと、言葉が出なくなった。大変簡単で、唱えるだけで、発願すれば行けることなのに、何故そう話したのか。仏の言葉は全部、私たちの修行と関係があるのだ。『阿弥陀経』に、十方諸仏は如何に阿弥陀仏の功徳を賛嘆したかに関する記載がある。仏は『阿弥経』の前段でたくさん話したことをあなたたちは知っているが、何故、後段で『在此五濁悪世、説此難信之法。』を話しただろうか。縁起性空を理解せず、体得もなかったら、念仏しても阿弥陀仏の浄土には行けない。何故『難信(信じがたい)』なのか。五濁悪世は地球のことだ。五濁のうち、最もひどいのは見濁で、我見だ。あなたたちは誰でも自分の見解で学仏し、自分の聞いた、読んだ仏経で学仏している。もし、釈迦牟尼仏は阿弥陀仏を唱えるだけでよいと思ったとしたら、たくさんの経典を紹介しなかったはずだし、分厚い『宝積経』を紹介することもなかったはずだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは長い間『宝積経』を開示してきたが、一品の開示しかできなかった。仏陀ははやく講経できたが、講経の対象が阿羅漢だったからだ。仏の弟子は皆、少なくとも阿羅漢の果位が得られたし、仏本人に会えるものだった。仏の開示を聴聞するのに、大きい福報が必要だ。だから、仏はポイントだけを話したし、弟子たちは皆分かっていた。しかし、あなたたちは分からない。自分の考え方と見解で講経を聞いている。

ほかに、劫濁、煩悩濁がある。劫濁は、往生前、浄土に往生できる修行の時間が不十分で、福徳が足らず、この世の命が終わってしまう意味だ。煩悩濁は、誰もがたくさんの煩悩を抱えている意味で、在家者には在家の煩悩、出家者には出家の煩悩がある。今はさらに一つ増えた。つまり、出家者には出家の煩悩のほかに、在家の煩悩もある。ダブルの煩悩で、煩悩が二重になった。近頃、リンチェンドルジェ・リンポチェが出会った出家者たちは皆悩んでいる。リンチェンドルジェ・リンポチェ以上悩んでいる。仏法は末法時代に興盛のように見える。たくさんの人が念仏しているが、本当に仏法を体得した者は限られている。

『宝積経』の内容は、仏がくれた開示を受け止めるべきで、悟ったかどうか、できるかどうかを問わず、完全に受け止めるべきで、推敲してはいけないと話している。推敲とは、『どんな意味なのか』をずっと考えることだ。何の意味もないのだ。『どう解釈したらいいか』を考えなくていい。解釈なんて、全くないのだ。本来なら、仏法には言語が必要でなかった。言語を使ったのはどうしようもない時の方便法に過ぎない。空性の証得ができたら、当時、釈迦牟尼仏はお花を取った時に微笑んで一言も言わなかったが、大迦葉尊者は悟ったようなことが、あなたにもできる。仏は涅槃の前に『未説一法』を話した。釈迦牟尼は49年間説法していたのに、何故そう開示したのか。最初の理由は、仏法は仏陀の発明でなく、宇宙の真理で、仏は何も話さなかったからだ。そして、縁起性空に基づくと、仏法も因縁法だからだ。仏法を聞きたい人がいると、縁が生じる。仏が話すと、この縁は終わる。修行するかはその人のことだ。仏には関係がない。法会に人が参加しに来る時、縁が生じ、リンチェンドルジェ・リンポチェは修法するようななことだ。あなたたちが修行するかどうかは、リンチェンドルジェ・リンポチェには関係がない。リンチェンドルジェ・リンポチェに頼りっぱなしにしてはいけない。

経典の言葉だが、『一切法離心意意識、以無身故。』

学仏で最も難しいのはこのことだ。眼耳鼻舌身意が生命の主宰であり、我々の思惟、行動と価値観を主宰していると、たくさんの人は思っている。実際に、眼耳鼻舌身意は命ではない。もしそうだとしたら、輪廻の観点からすると、人の死後、その眼耳鼻舌身意は残るはずだ。そうではない。人間は死後、神識が動物に転生することがあったら、眼耳鼻舌身意の形は変わる。目がない衆生もいれば、手や足、脳がない衆生もいる。これで分かる。眼耳鼻舌身意は仏の智慧から見れば、因縁法だ。『心経』に『無眼耳鼻舌身意』がある。『無』はないのでなく、空性であり、因縁法だ。私たちは、生生世世の数万年、数百万年も眼耳鼻舌身意の触れた全てが真実だと思ってきた。これらの器官で外部と内部の世界を感じてきた。私たちはこれらの感覚に執着があり、真実で、嘘はないと思ってきた。しかし、この六つのものは、私たちの持つ今生の業報身がこの複雑な社会で生存できるように助けるものに過ぎない。眼耳鼻舌身意は、私たちの法身が永遠に変わらないようにすることができない。不変は法身が永遠に変わらない、あるいは法身が不定になる意味ではない。眼耳鼻舌身意は、私たちの法身が持つ清浄な本性と何の関係もないのだ。

仏は眼耳鼻舌身意を六賊と呼んだ。貪瞋痴慢疑で生じた善・悪業によって生じ、呼びつけられたのだ。貪瞋痴慢疑の製品なので、私たちの起心動念は全部、容易に業や罪になる。常に欲しいものや欲しくないものを追いかけ続け、よい暮らしをしたい心を持っている。よく修行できたとか、立派に修行できたとかを言われたい。リンチェンドルジェ・リンポチェは、『仏子行三十七頌』を仏弟子の基準とし、毎日これを一日の身口意と全部の行為を見直すべきだと何度も開示した。この基準を実行しなかった一日でもあったら、仏弟子だと自称する資格はない。『仏子行三十七頌』を実行できたからこそ、ゆっくりと福徳・因縁の累積ができる。そして、さらに仏の開示した空性と慈悲が体得できる。『空悲双運』は口先だけのことではない。必ず二つ同時に運用すべきだ。空悲双運ができれば、初めて大勢の衆生を利益でき、自分を傷つけない。傷つけることに二つのレベルがある。一つは自分の肉身が傷つけられることだ。一つは空悲双運が円満にできなかったので、利益衆生のことに有漏ができることだ。

利益衆生のことを臆せず堂々と語る人が多いが、縁起性空の把握ができなかったら、衆生と結縁だけをすればいい。この意念があればいい。自分は修行者だと期待しなくていい。『離心意意識』について把握できなかったら、仕方がない。どんな意識、どんな心が動いているかを明らかにする必要がある。動いた後、私たちの清浄で真如の法性はついでに動かない。簡単なことではないが、する能力がない、或はできないことではない。仏はたくさん話した。その目的は、私たちに一つのことを打破してほしかったからだ。つまり、私たちは見えること、聞こえること、触れること、感じることに慣れており、これれらのことを打破してほしいと仏は望んだ。真如の本性は動かず、増減もなく、色や大小も決して変わらない。何れの衆生も真如の本性を持っている。それでも、今すぐ仏果が修行できるとは限らない。何故なら、私たちは生生世世、意識で日々を送ってきたからだ。どうやって意識を、本来の面目を見ることに助けるように変えるか。この六識はツールだ。ツールは使い終わったら、いつかは使わなくなる。職人はテーブルを作った後、手にのこぎりを持つ必要があるか。ないだろう。だから、のこぎりを手放す。放下とはこの意味だ。これくらいのことも放下できなかったら、世間の煩悩をどう放下できるというのか。今すぐでも家賃のことを解決しなければならないのに、お金はどこにあるかも分からない。どう放下できるというのか。仏法でいう放下とは眼耳鼻舌身意の六賊の放下のことだ。菩薩道の修行では、眼耳鼻舌身意を切ったり、切り落としたり、消滅したりしてはいけない。これらの方法は使えないので、眼耳鼻舌身意の意味をよく理解すべきだ。

眼耳鼻舌身意は六賊で、私たちの修行に影響すると、仏経にこんな話がある。眼耳鼻舌身意が接触する六塵は全部嘘で、因縁法、生滅法、世間法だ。世間法とは、六道輪廻における一切の事と相だ。出世法について、どんなことをしても真如の本性を動かすことがなく、如如不動の状態で、鏡から影像が反射されるようなことを出世法と呼ばれる。髪を剃って坊主頭になって山の奥に隠れるのは出世法ではない。輪廻の世間から離れなければ、いくら仏経を唱えても相変わらず世間法だ。『一切法離心意意識』の意味、つまり、因縁が成熟しなければ、やりたくてもできないこと、また、因縁が消えなければ、やりたくないから消せることもないことを理解すべきだ。今生、業報身を得たから、眼耳鼻舌身意を切り取ったり、切断したり、捨てたりすることはできない。だったら、一体どう修行できるか。

『一切法離心意意識、以無身故。』は、あなたの見た、聞いた、感じた全ては制御できるものでなく、全部因縁だという意味だ。逆に、たくさんを考えて行動に移すのも因縁の始まりだ。考えた後、他人を影響せず、言わず、行動しなかったら、どんなことも始まらない。身口意の概念はきちんと思惟を制御し、悪い思惟を拡大させないことだ。口で言い出したら、悪い意念が生じ、悪い行動が起きる。

眼耳鼻舌身意は私たちの体ではないが、私たちの体に眼耳鼻舌身意がなくてはならない。誰が誰なのか。もし、私たちは眼耳鼻舌身意があること、肉身があるからこそ念仏、拝仏と修行ができることに執着を持ち、また、善の体を作ったほうが修行が速まると思ったら、肉身に執着することになる。学仏で、体は健康になり、きれいで美しくなると思ったら、意識を離れず、体も因縁法だと思わないことになる。学仏して福と慧が増えたら、この業報身は自然に悪から善に変わる。求めたり、尋ねたり、考えたりする必要もない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは皮膚癌に罹った時、執着がなく、癌のことをも意識しなかった。ただ、仏法の修行を続けた。因縁が成熟になり、善業が悪業を越えたら、自然に癌の影響がなくなった。あなたたちには常に悪が現れるが、心に悪の意念があるからだ。唱え続け、病気が治ると望み、何らかの方法で癌に対処したいことだけを思う。これは悪だ。たくさんの借りがあるから、平和に向き合いたくても無理だろう。癌は誰を相手にすればいいのか。癌は過去の為した悪業によるものだと、あなたも分かっているはずだ。癌は開花だけだ。まだ実っていない。実るまでに、仏法の修行を通じたら、実の味を変えることができる。どんな方法なのか。修行し続け、教えを守り、意識を離れて念仏、拝仏することだ。いわゆる『念仏成片、老実念仏』はこのことだ。全く意識で唱えないことだ。今は意念で声を出して念誦すべきだとよく思われているが、意念と声も因縁法、空性だ。因縁法、空性だと分かったら、求めなくなるはずだ。因縁が成熟になり、時間になると、当然に浄土に往生できる。たくさん念仏しても阿弥陀仏が来てくれないことを心配する人が多い。正直ではない。正直とはほかの考えを全然持たない意味だ。

釈迦牟尼仏は慈悲だ。衆生は今生で空性を証得し、完全に無念になることができず、執着の習性があると分かったので、阿弥陀仏を紹介した。私たちは何かのものに執着を持つことに慣れている。例えば、子供、亭主、女房への執着を持っていることだ。これでは、浄土に往生できないのだ。ほかのことに対する執着よりも、阿弥陀仏の仏号に執着したほうがいいだろう。眷属に執着を抱くと、あなたはまた輪廻する。阿弥陀仏に執着を持ち、眷属にしてもらったほうがいいだろう。

念仏者でも、修禅でも、ほかの何宗の修行でもいいから、『一切法離心意意識、以無身故。』をよく理解しなければならない。よく修行できたから、あるいは法身を他人に見せたからではない。円満で空性の知恵の証得ができるまでに、法身は決して現れない。化身仏の引接がもらえるだけで、他人よりずっとましだ。

『一切法離心意意識、以無身故。』の本当の意味は、心の執着、意識で為したことだとあなたの思う全ては、本来その通りではなかったことだ。発生して縁があったから、あなたも意識で執着し、ついでに何らかのこと、あるいは何らかの身を発生させる。しかし、仏法の因縁、性空で言ったら、本来はなかったのだ。衆生を助ける時、リンチェンドルジェ・リンポチェは意識で助けない。『金剛経』の『無所住而生其心』のように、助け終わると、それで終了だ。心が起きるのは何かに執着したいのでないし、善や菩薩道を行うためでもない。因縁が起きたから、心が生起するからだ。心の生起は、私たちはたくさんのことを誓い、菩薩道の修行、菩提心の発心がしたいのが原因だ。そして、衆生が求め、私たちの発心と力と感応すると、心は生起する。この生起は自分のためや菩薩になるため、あるいは利益衆生のため、衆生を代表するためではない。完全に縁起性空のことだ。何かをし終わると、縁も終わる。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に言っている。上師の縁を続けるかどうかはあなたの決定だ。上師の決定ではない。上師は『無所住而生其心』で、因縁が起きる瞬間、消える。完成すると、忘れる。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちにけん引されて来世に来たくない。直貢噶舉派の高齢者、120才の老ヨギーニである唯一の女性リンポチェは、リンチェンドルジェ・リンポチェは再来しないと話した。何故なら、リンチェンドルジェ・リンポチェは過去世で結んだ全ての縁を今世で全部返したからだ。最も大事なのは、全てのことを縁起性空の中ですることだ。そうすると、借りを返せるのだ。

次の経典の言葉は『一切法無住滅。』

全部の現象は止まる、あるいは消えないと思ってはいけない。永遠の愛を誓うとか、永遠に心変わりしないとか、地球が滅びるまでに愛するとか、ダイヤは永遠の愛を表すとか、これらは何れも文人がでっち上げたものだ。因縁法を全く信じていない。子供は自分が生んだから、おとなしくいなければならないと思うのも、因縁法を信じないことだ。自分の子供に対するリンチェンドルジェ・リンポチェの態度はこだわりがない。子供は大人しくしなくても、気にしない。彼には、リンチェンドルジェ・リンポチェの子供というタイトルがあるが、因縁法から見ると、一つの縁に過ぎず、今生が終わると、消える。子供のために大泣きする人もいる。間違いは間違いだ。節度が必要だ。どの子供も親との関係は縁だけだ。どっちが借りを作ったのかも縁だ。縁が消えると、なくなる。この概念をよく理解できたら、女房、亭主、子供、ペットに影響されない。」

この時、リンチェンドルジェ・リンポチェはある弟子を叱った。「あなたは法会が始まった時から、ずっと立って子供の背中を撫でてきた。仏法よりも子供が重要だと思うのか。子供が他人に迷惑をかけるのを心配するなら、連れて来なくていい。子供を抱いてずっと立ちっぱなしで、後ろの人はリンチェンドルジェ・リンポチェのかっこいい様子が見えなくなる。」とリンチェンドルジェ・リンポチェは冗談を言った。

「次は『一切法無住滅、一切阿梨耶故。』」

リンチェンドルジェ・リンポチェは「阿梨耶」という名詞が分からなかったので、出家弟子に意味を聞いた。そして、出家弟子は「阿頼耶識」だと返事した。参加者たちは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのことを賛嘆した。仏法の名相を理解しなくてもリンチェンドルジェ・リンポチェの態度は堂々と分からないと表し、身口意で常に戒律遵守の重要さを示現した。このことから、リンチェンドルジェ・リンポチェは法、衆生を尊重していると分かる。まさに尊勝なる直貢チェツァン法王が開示したように、リンチェンドルジェ・リンポチェは自然に修行しており、毎日修行している。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示した。

「『一切法無住滅、一切阿梨耶故。』という言葉は素晴らしい。あると思われる全てのものは、第八意識田である阿頼耶識から発生した効果だ。意味は、生生世世、眼耳鼻舌身意の六つの意識を通して動いたことだ。もし、私たちは話すことを含めて動き始めたら、第七識の莫那耶識が動くことになる。第七識の莫那耶識で為すことは重大だったら、第八意識田に残る。すなわち、パソコンに入力したら、生生世世において存在する意味だ。先の弟子はずっと子供の背中を撫でていたから、もし彼女は成仏することがあったら、きっとそのように撫で続けるだろう。『阿頼耶識故』は、これが好きだ、あれが好きでない、この人は私を愛している、あの人が敵だなど、こんなに思うのは、全部阿頼耶識にあった種の作用だ。例えば、累世において八つの悪い種と二つ善の種があなたの第八意識田に植えられたとする。あなたはずっと善を行い続けているから、二つの善の種は芽生えるが、八つの悪い種は芽生えない。そのため、皈依の時、私たちは『諸悪莫作、衆善奉行』を話す。しかし、あなたたちは逆だ。『諸悪多作、衆善少作(諸悪を多く行い、もろもろの善を多く行わない)』だ。念誦だけでは善の種を阿頼耶識に植えることができない。農民が頑張って耕起する必要があるように努力を払わなければならない。あなたたちはいつも『六字大明咒』を千回軽く唱えれば、修行していると自認する。何でもリンチェンドルジェ・リンポチェに投げっぱなしにする。

昨日、リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た、三宝弟子だと自称する夫婦がいた。百年歴史の古い家を持っているが、その隣に新築工事があるので、自分の古い家が影響されるのを心配していると話した。また、観世音菩薩は隣の二階に現れたと言った。つまり、隣の新築工事がなくなってほしいと言いたかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示した。仏経を読み尽しても、観世音菩薩は家の建築を禁止したことを仏が言った内容はかった。古い家を守りたければ、法律通りに処理すべきだ。さもなければ、政府に寄付してもいい。政府は百年歴史の古跡を守ってくれる。しかし、彼はそうしたくなかった。彼らの言う三宝弟子は、恐らく銭宝、財宝、金銀珠宝だろうね。

阿頼耶識は私たちの今世の命を主宰している。変えられるのか。変えられる。先ほど話したように、十分の八は悪で、十分の二は善で、悪の種を芽生えさせなければよい。学仏、水をかけて肥料をやることによって善の種を芽生えさせる。しかし、あなたたちは逆のことをしている。嫌いな人がいれば、会社に解雇されたらいいと思う。悪だ。悪をしていたら、体は丈夫になるはずがない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなたたちの嫌いなことなら、わざとやって見せ、あなたたちの好きなことなら、わざとやらないといつも言っている。これこそが阿頼耶識のことだ。あなたの好きなものは生生世世において好きなものかもしれない。貪欲だ。嫌いなことは、生生世世において分別心を持っていたことだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはわざとやるが、そうしたら、あなたたちは阿頼耶識の意味を理解できる。西洋にはこの概念がない。東洋哲学にも触れられていない。仏法は人間の行為、思想、動作をくっきりと分けた。阿頼耶識はパソコンの保存ファイルみたいだ。保存ファイルを指定しなければ、出て来ない。仏法を聴聞できる人は、阿頼耶識にこの善の種があり、上師、諸仏菩薩が呼び付けたからだ。しかし、続きに肥料をやって水をかけるかどうかは、あなたたちの決定による。上師、仏菩薩は阿頼耶識にあった悪の種を呼び付けるわけがないので、あらゆる方法を尽くして降参させる。上師と仏菩薩はただ、悪の種を抑えるだけで、消すわけではない。善の力が悪の力よりも五倍や十倍、あるいは百倍になると、悪の種は芽生える機会がなくなる。皈依後、仏法の修行を通じて悪業をだんだん消して行くのがこの概念だ。

この二句の経文は、一切のことは止まるべきか消えるべきかを考える時の認識や感覚は全部阿頼耶識の働きだ。阿頼耶識の作用が分かると、愛されるかどうかを気にすることはないと理解できる。唯識宗は、人間の心理を細かく分析した。阿頼耶識は私たちの一生の命を主宰している。だったら、阿頼耶識を修行の助けにすることができるだろうか。もちろんのことだ。何故なら、阿頼耶識には善の種があるからだ。それで、あなたたちは学仏し、仏法を聴聞する。そうでなかったら、じっと座れず、ここから出て行っただろう。

次の言葉、『一切法無求、離此彼親愛故。』

どんなことをしようとしても、どんな法を修めようとしても、意図的に求めたり、尋ねたりする必要はない。全ての親愛は過去の阿頼耶識が残した作用だ。ここは世間法のことを言っている。生死解脱のため、上師、仏菩薩に加持を求めるのがいいが、他人に家を建てさせないことで、護法、観音菩薩に求めてはいけない。何かのことで求めるのは、きっと誰かを守りたいか、誰に優しくしたいか、誰のほうが自分と親しいか、誰のほうが好きだからかなどを考えるためだ。昨日、子供のことで悲しむ人がいた。だったら、他人の子供のことで悲しくなりたくなければ、どうしたらよいか。野良犬を助けたい人がいるが、ホームレスを助けたい人がいないのと同じことだ。放生すべきだと思う人がいるが、戦争が起きている国に行って殺人行為を止めたい人がいない。畜生道の命よりも、人の命を助けたほうがいいと思う。本当の放生は、心で殺生しないことだ。殺生の意念がなければ、正真正銘の放生だ。

近頃、道場に白蟻がいることをグループに話した弟子がいる。要は、会社の総務は学仏していないので、一般の世間法、つまり、駆虫業者に処理を依頼する方法を取るのが決まっているのだ。幸いにも、稟議書はリンチェンドルジェ・リンポチェの所に回され、この件は却下された。そうでなかったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは殺生しないことを要求しているのに、何故道場で白蟻を殺すのかと人に言われることになる。除障草でいぶしたらよかったのに。この道場には千人以上の弟子がいるにもかかわらず、処理の仕方が分からなかったなんてとんでもない。どう対処するかを弟子が分からなかったのは、心にまだ殺す意念があったからだ。道場に白蟻が現れたのは、きっと一部の弟子が教えを守らず、呼びつけたからだ。」ここで、一人の弟子は、白蟻はスモークで大分退治されたと報告した。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。「あなたたちで処理できることまで、リンチェンドルジェ・リンポチェにやらせたい。阿頼耶識にある善の種が不十分だ。

次の言葉は、『一切法無着、離一切煩悩境界故。』

何らかのことに執着するのは、煩悩の境界も空性だと理解していないからだ。『心経』に『心無罣礙』がある。罣礙は煩悩の境界だ。出家や在家を問わず、一部の人は死ぬ前になっても煩悩があり、たくさん考え、あれこれに対して執着を持つ。全ての現象は止まると思わないでほしい。そもそも止まることはなかった。好きかどうかは関係がなく、ずっと変わっている。好きなものが止まって動かないことを望み、好きでないものがすぐ消えてほしいと思ったら、煩悩は生じる。煩悩は執着から生じるものだ。全ての人、こと、ものが自分の望む通りになってほしいと思うから起きる。癌がすぐ治ると望む人がいる。あり得ない。リンチェンドルジェ・リンポチェは長年修行した後、皮膚癌がついに消えたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏菩薩に願わなかった。修法もしなかった。この概念に従って煩悩の境界を離れただけだ。癌に罹った後、たくさん悩む人がいる。死ぬこと、痛みが怖い。煩悩の境界は空性で、因縁法だと理解し、心に執着がなかったら、癌に罹っても痛くないはずだ。癌に罹って痛いと文句を言う弟子は、教えを全く聞かない人だ。

仏法はリンチェンドルジェ・リンポチェに効果を発揮したので、誰にも適用できるはずだ。時間の長さが違うだけだ。もし、仏法は皆に効果を発揮せず、僅かの人だけに役立つとしたら、仏は、衆生は平等で、皆はきっといつか成仏できると話さなかったはずだ。あなたたちができないのは、決意がないからだ。自分のことしか考えず、煩悩はいらないと思っているからだ。全ての煩悩の境界はあなたたちの心に執着があるから、消えない。心の中で、全ての物事、人、病気、富は空性だとよく理解できたら、煩悩の境界は自然に消える。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて貧乏で食事するお金もなく、昼食を終えれば、次の食事ができるかどうかも知らないほどの状況だった。それでも悩むことは一度もなかった。全てが因縁だ。食べる物があれば、食べる。なければ、それでいい。こう思えば、自然に悩まない。

次は、『一切法如蛇、以無方便呪術力故。』

蛇の移動はくにゃくにゃの形だ。真っ直ぐ前進する蛇はいない。また、一回のジャンプで目的地に行ける蛇もいないし、空を飛ぶ蛇もいない。こんな蛇がいるが、基本的に、蛇はA点からB点までに移動するのに、体を曲げながら前進するしかない。一歩で完成できることがない意味だ。『好事魔多し』という諺がある。世間法のことも全部同じだ。考えてみなさい。勉強、仕事、結婚、出産など、どのことも成り行きに任せられるものではない。いろんな過程が必要だ。ローマに直通する道はない。例え大金持ちの家に生まれた人でも、彎曲のな過程を経る必要がある。どの現象も直通列車のようなものではない。たくさんの真言を知っているといっても、真言を唱えるのも因縁法だ。持咒して勤勉に修行すれば、よくなると思う人もいるが、概念はそうではない。仏法の真言は、一切の諸仏菩薩の心法、功徳、慈悲が込まれており、あなたは仏子だと、あなたに注意を与えるものだ。また、諸仏菩薩は持咒を通じてあなたを加持し、あなたの修行に懈怠する機会を減らす。持咒のため、あなたの累世の冤親債主は暫くあなたの修行を妨げない。冤親債主を追い払ったり、消えるように済度したりすることではない。

例え諸仏菩薩はあなたの冤親債主を消えるように済度できても、仏とジッテン・サムゴンはこのように開示したことがある。一つの部屋に魚介類を一杯置いたら、それらを取り出した後でも匂いは残るので、毎日掃除しなければならない。掃除しなければ、魚介類の匂いは消えない。あなたたちの問題は、病気が治ったら、お金を稼ぎたいとか、結婚したいとか、子供に会えるとかなどをすぐ思う。これは、掃除を続けず、一生懸命に清掃せず、匂いはそのまま残り、また他人に魚介類を置く機会を与えるのと同じだ。病気が治ったら発願することを言う弟子も同じだ。ジッテン・サムゴンは、衆生の病と苦しみを軽減するように助ける法門があると開示したことがある。しかし、衆生は助けられた後、自分が求めて修行した結果だと思い、精進を図らず、生死解脱の決意をしない。ただよい暮らしがしたくて自分の計画をまず完成したくて学仏を後回しにする。

持咒で健康になれると思ってはいけない。持咒は、あなたと本尊の関係を親しくするだけだ。本尊と親しくなったら、本尊の加持力はあなたの今生の修行に役立つ。貪欲を持って持咒し続け、癌細胞を追い払おうとすることは思っていけない。修行の過程に障害があるのは当たり前だ。障害があることは、借りを返すことだ。果報が現れた後、きちんと返せたら、往生前に福報が現れ、やっと化身仏に引接してもらえる。外道の観点だと、呪文で他人を呪ってはならない。今の変化があっても、方向を変えることができない。人生の一切の法は蛇が体を曲げながら前に進むように、今は変えられても、戻ったりするのだ。また、浮気を止めることを外道に求めたりする人がいる。無駄だ。また別の浮気がある。これらは何れも暫時的の方法だ。福徳と因縁から着眼して修めなければ、無理だ。

次に出る言葉は、『一切法如芭蕉、以不実故。』

私たちはどんなことでも実際に存在して永遠に変わらないと思っているが、実に本質は芭蕉の木の幹のように中空で、真ん中は空っぽで実際的ではないのだ。世間法には使うのではない。どうせ全ては実際的でないから、出勤する時はきちんと働かなくていいと思ってはいけない。間違った考えだ。会社から給料をもらっている。給料は実際のものだ。一銭も減ってはならない。この二句は世間法のことを言っている。よくてもいいが、よくなくてもいい。損得のどっちでも構わない。失くしたと思ったものは別の所からもらえる。得たと思うものはまた別の所で失くしてしまう。世間法のどんなことも円満にならないし、実際的ではない。何れも損得の間にある。他人にないものであなたが享受すべきでないものを手に入れたとしたら、ほかの何かの欲望を捨てなければならない。触ってはいけない。そうしたら、煩悩は減る。もし、何かを得た後、また新しいものがほしくて掴もうとしたら、中空の芭蕉の木のように、一杯になると、必ず倒れる。世間のことは、あってもいいし、なくてもいい。永遠に変わらないことはない。本性だけが変わらないのだ。

次の言葉は、『一切法如水沫、性無力故。』

『水沫』は水上の泡であり、力がない。世間のことは大した力があると思わなくていい。例え地震や火災が起きた際、強い力を感じたとしても、あくまでも業力の現れだ。地震、風災、火災の毀損する力を軽減する方法はないのか。これらのことは全部因縁法なので、方法はある。事前に善の因縁をたくさん積んでおけば、災難が起きても損害は大分軽減できる。力の強い全てのものは、衆生の心による共同の業力で生じられるので、衆生全員の心が善であれば、地球に悪業は決して起きない。全部の学仏者が仏法を聞き、真面目に実行していたら、仏法は滅びない。仏法が滅ぼされることがあったら、きっと真面目にやらない人がいるせいだ。

貧乏の力は強いと思われるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは大変貧乏な時でも、菩薩の前に供えるお香、ランプ、お花を決して省かなかった。しかも、最高品質のお香を使っていた。1994年の時、一束のお香は100元だった。当時では上質なものだった。」現場にいたお香を販売している弟子は、当時に相当な値段のお香は今になって1万元くらいするので、上級品だと話した。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。「あなたたちはできるのか。50元でお弁当を買い、残りの50元でお香を買うだろう。台湾語に『先顧肚子再顧仏祖(生活を優先にしてから仏のことを考える)』という言葉がある。よくないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは供仏したからよくなったのだと、あなたたちは言うだろうが、そうではないのだ。仏菩薩に対する恭敬心だ。親にお腹を空かせるにはいかないのと同じ道理だ。仏菩薩は食事する必要がないが、私たちは恭敬心を払わなければならない。あなたたちはいつもよく計算して残ったものを供養に使う。これでは供養にならない。あなたたちはお金がないことだけを心配する。お金はリンチェンドルジェ・リンポチェにとって業力なので、あってもいいし、なくてもいい。全部は空性、因縁法だ。

次は『善男子、菩薩摩訶薩如是観正法行、名為菩薩観正法行。』

正法の意味は、持咒、拝懺、菜食をよくしたり、法会の参加に人を招いたり、朝山をしたりすることではない。あなたの行為、行動が仏の教えに基づいていたら、正法が生まれる。仏の言葉に基づかない全ての行為が正法だと言えない。正法の意味を中傷しない行動こそ、菩薩摩訶薩の行う正法行だ。

次の言葉は、『爾時世尊、為顕此義、偈重説言。』

そしては、『一切法如幻、覆衆生心故。』

一切の法はマジシャンの技のように、いろんな変化があり、衆生の清浄な本性を覆ってしまった。

続いては、『虚妄猶如夢、応如是受持。』

私たちの触れている全てのものは偽りで、私たちの妄念だ。夢みたいのだ。夜に見るものだけが夢だと、あなたたちは思うだろうが、昼間も夢の中にいるのだ。白昼夢のように、幻で非現実的だ。人生は夢のようなものだったら、真面目に働く必要がないだろうと、あなたは言うかもしれない。この色身を養うため、仕方のないことだ。全世界の人口は70億に達しており、競争は激しいので、少しでも気が緩んで頑張らなかったら、あなたのものはすぐ取られてしまう。他人が悪いという意味ではない。あなたはもらっている給料の分の責任を果たさないことだ。『虚妄猶如夢』は、一切の名聞利養、損得は嘘で、妄想は夢みたいだと言っている。損得、苦痛や快楽に対し、このような態度で応じて理解することができたら、悩んだり、悪行したり、仏を中傷したりすることもない。学仏後、仏菩薩、上師に自分の欲しい全てをしてもらいたいと思う人がいる。こんな人は自分の人生について正しい考えを持っていないからだ。学仏しないほうがいい。

次は、『諸法如水月、以影像起故。』

あらゆる現象は水に映る月みたいに、ただの影像だ。すくい上げられない。水中の月を真実だと思い、すくい上げようとしたら、その影は消えてしまい、水面に波紋を起こしてしまう。波紋はあなたの煩悩だ。他人のいいことを見たら、奪いたくなる、あるいはよくないものを見たら、わざと踏みつけるのと同じだ。間違いを犯しても弁解して他人のせいにする。こんな人はこの二句を理解していない。また、水中の月を見ると、貪欲が生じてすくい上げようとすることもいけない。これでは煩悩がどんどん生じる。私たちの一生に損得があるが、水中の月のように、月が出て水面が静かになったら、初めて水面に映る月の影が見えてくる。月が出ず、水が揺れていたら、月の影は見えない。つまり、いろいろ思案して自分の能力を超えたものを取ろうとする行為は煩悩だという意味だ。自分は偉い、きれいだ、賢いと思ってはいけない。全部水中の月と同じだ。

次は、『諸法如鏡像、智何不覚知。』

全ての現象は影像が鏡に映っているように、鏡から何かが見えるが、影像が鏡の前から消えると、鏡はさっぱりになり、その中から何も見えなくなる。鏡に映るものが見えても、掴めない。この言葉は、今日、あなたの見たもの、感じたものは鏡に映った影像に過ぎず、影像が動いて鏡から消えると、現象はなくなる。消極的に暮らすべきだという意味ではない。逆に、積極的に暮らすべきだ。今生の損得は全部、自分が為した因縁で、自分の業力だ。永遠的ではなく、常に変っている。永遠に変わらないものは何かを私たちは探し続けるが、仏果の証得こそが本当に永遠に変わらない。菩薩の果位が証得できても変わるのだ。この永遠に変わらないことを求めるのが難しくて遠い目標なのか。確かにそうだ。しかし、遠いことも無常だ。あなたたちの考えだ。仏は、成仏には長い時間をかける修行が必要だと開示した。何故なら、私たちの生生世世の善・悪業が重くて私たちの成仏の障害になるからだ。だから、学仏は何かを増やすのではない。逆に、本来あるはずがないものを減少、放下、放棄することだ。

『智何不覚知』は、釈迦牟尼仏が人を責める時の言葉だ。私たちには知恵があるのに、何故分からないのか。貪瞋痴慢疑、煩悩で私たちの清浄な知恵が覆われてしまったから、理解できない。責める言葉だ。仏は怒らないと思ったら、勘違いだ。この言葉はあなたたちを責めるものだ。ただ、仏は怒った時に簡単な言葉を使っただけだ。

一切の法は幻のようだ。皆の執着心が完全に起きないようにすることはできないが、せめて減らすべきだ。以前は自分に不利益なことをずっと考えたが、今になってその状況は減ったのか。以前は好きなことなら、必ず達成したいと思ったが、今になってそんな思いは減ったのか。減ったとしたら、煩悩が減ったことだ。次は、ゆっくりと煩悩は何れも縁起性空のもので、自分が作った因縁で、何らかの縁に執着したからだと理解すべきだ。このように修行していたら、簡単だ。しかし、実行は難しい。何故なら、誰も自分を見直さないからだ。

仏法の特別なところは、他人を見ず、自分を見ることだ。仏法で自分の毎日の身口意を見直すべきだ。実行しなっかたことがあったら、その日は仏弟子ではない。しかし、皆は不精で、懺悔だけで終わる。懺悔はやり直し、学仏し直すことだけに役立つ。その後も果報は必ず現れる。軽減するだけだ。この方法に従って修行しなさい。念誦、拝仏を多くすることは、因縁、福徳を増やすだけだ。心を調整しなければ、いくら聞いても、話しても、加持を受けても何も変わらない。

尊勝なる直貢チェツァン法王は法座で、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日修行していると自ら話した。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日修法しているのでなく、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日自分を修正しており、心境は毎日変化している意味だ。あなたたちはこうしているのか。していなかったら、皈依したと自称しないでほしい。していなかったら、仏弟子だと自称しないでほしい。自分の心境を続けて調整していたら、いつか宝を得た気分になれる。最初は難しくて大変だろうが、何もかもを失ってしまいそうと感じるだろうか、怖がることはない。『心経』の『無有畏懼』のようになればいい。何故畏懼があるのか。失うのを恐れるからだ。失うのを恐れるのは、因縁法を信じず、縁起性空を信じないからだ。縁起性空を信じなければ、いろんなことに執着してしまう。執着で煩悩が起きるだけでなく、他人に悩ませることもある。今生にたくさんの煩悩を抱えていたら、三悪道から離れられない。皈依、菜食をすれば、三悪道に堕ちないと思うのは間違いだ。堕ちるのが決まっているし、大地獄や小地獄の差だけだ。畜生道にいれば、ほかの犬は食べるものがないが、あなたはある。餓鬼道に入れば、ほかの鬼は大便の匂いを嗅ぐだけだが、あなたは食べられる。だから、謹慎でいなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を開示する時、尊勝なる直貢チェツァン法王の教え、仏の言葉および自分の修行した少しの経験を根拠にしている。決して物語を話すのではない。やろうとしたら、きっとできる。あなたたちはやるかどうか、精一杯でやるかどうかによるのだ。自分はよくできなかったと言いに来た人が多いが、そんな時、リンチェンドルジェ・リンポチェは、『あなたは何もやっていない。自分の心を全く調整していない。常に安らかな生活をしたい。毎日楽しんで過ごしたい。面倒なことを敬遠している。』と開示した。面倒があってもあなたたちの業で、あなたたち自身のことだ。学仏で何も起こらないと望むのは間違いだ。仏陀でさえ九つの難に遭った。あなたに何も起こらないほうがおかしい。あなたたちは毎日拝仏、念誦をどのくらいしているのか。全く教えを聞かない人たちだ。何故白蟻ができたのか。あなたたちは白蟻のようにかじり続けているだけで、きちんと自分自身を正さないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子に特別開示したい。チベット仏教の修行は大変だ。理論化でなく、実際の行動が必要だ。」

法会が円満になり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる開示に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを見送った。

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2016 年 11 月 13 日 更新