尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年5月15日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、参加者全員に貴重な仏法を開示した。「今日は『宝積経』の開示を続ける。『宝積経』は大変重要な経典だ。私たちは菩薩道の修行をしていると自称するが、菩薩の思惟と理念を理解するまでには、菩薩戒を受けても菩薩道の修行をしているとは言えない。仏法には大乗、小乗と金剛乗の区分がある。この三つの乗のうち、どれのほうが立派だということはない。『乗』とは、器量の大きさだ。器量が小さいとは、みみっちい意味ではない。器量が虚空の衆生を納められなければ、小乗だ。一切の衆生を納められたら、菩薩道の修行だと言える。さらに、成仏して無辺無際の衆生を利益したいと思う器量が、金剛乗の修行になる。この三つの乗はやりたければできるものではない。上師の引導と説明・指導などの過程と方法を経なければ、あなたの器量は開けられない。皈依の時に話したが、皈依後、心の善行は増え続ける。

増え続ける善根という言葉は、病気が治るとか、必ず浄土に行けるとか、出家後でも眷属問題の解決を仏菩薩に願うとかの意味ではない。これらは全部間違いだし、あなたはまた執着が生じ始め、器量が狭くなり始める表しだ。自分の眷属のことばかり考えていたら、他人の眷属はどうなるか。自分の家庭のことばかり考えていたら、他人の家庭はどうなるか。『人不為己、天誅地滅(自分のためを考えないと、天と地がその人を滅ぼす)』という諺がある。この考え方は間違っていないように聞こえるが、仏法の観点からだと、間違いだ。菩薩乗の器量は一体どんなものか。どんな方法で菩薩道の修行をしているかどうかを判定するのか。人好しになったり、念誦やちょっとした布施をしたり、他人を批判しなかったり、いくつかの動物にやさしくしたり、放生し続けたりすることが菩薩乗の修行ではない。厳しく言えば、菩薩には仏教の菩薩だけだという分別がない。仏経によると、一切の有情衆生を利益できるものは皆、菩薩だ。それで、菩薩は億万の化身があり、外道で衆生を助けるものもいれば、ほかの惑星にいるものもある。

釈迦牟尼仏は菩薩の心を衆生に理解させるため、『宝積経』のこの段落で『法』に対する菩薩の見解を続けて開示した。ここの『法』は方法やあなたたちの言う修法ではない。修法は念誦、人を率いて拝懺して十小咒を唱えること、あるいは観想、持咒をすることではない。ここの『法』は、身口意で感じた宇宙のあらゆる現象であり、現代の言葉で言うと『現象』だ。この『現象』は、音、風が吹く気配、冷熱に対する感覚、あるいは心構えの変化もあり得る。これらはいずれも法だ。『法』という名詞が現れたので、私たちは修行の時、何に対面するかが分かるようになる。『法』の定義が納得できなければ、修行は難しい。例えば、禅定の時に目をつぶる必要があり、何も見えないようにしなければ、入定できないと思う人が多い。しかし、目が見えなくても、耳は聞こえる。耳で聞かなくても、皮膚にも感覚がある。皮膚で感じなくても、心は止まるとは限らない。例え亀息大法を習ったことがあっても、一時間に一回呼吸するので、血液は流れる状態だ。このように、ある特定の現象について修める方法は何れも正しくない。

初期、仏は阿羅漢道の行者に白骨観の修行を教えたが、そのうちに、だんだんそうしなくなった。白骨観とは、自分の体が最後に白骨しか残らないと観想することだ。修めた結果、概念が間違って自殺してしまった人もいる。彼らは自殺が白骨観の修行だと思った。これは考えの狭い修行法だ。中、後期になったら、世尊は菩薩道を広めた。

菩薩道は修行者に、宇宙の真相、衆生の苦と煩悩はどう生まれたか、どう終わるかを確実にに体得させた。こうしたら、自身の輪廻問題が処理できるようになる。自身の輪廻問題が処理できてからでないと、衆生を助けられない。どうやって輪廻問題を処理するか。縁起性空、諸法皆空を理解する必要がある。空性の『空』は空っぽで何もない意味ではない。仏経には十八空の話があり、最後に、頑空に堕ちず、つまり、空に執着しないことが取り上げられた。釈迦牟尼仏が滅度後の五百年において、空と有をそれぞれに主張する二派に分かれた。空と有の二派は絶えずに修行の方法について言い争ってきた。その後、龍樹菩薩はインドに現れ、『宝積経』の内容を中観論にまとめ、因縁性空の修行論理と心構えを書いた。中観は真ん中に立って両方を見るのではない。本当にそうなら、真ん中に執着することになる。

中観論は、空と有は何れも互いに生滅するものだと主張する。あると思うと、減り始める。減っていると思うと、あることの始まりだ。これらは凡夫が感じた全ての宇宙現象を指している。これらの現象には生滅があるか。仏の見た現象は決して生滅がないのだ。全ての現象の動きは私たちの心の動きによるものだ。私たちの六識は六塵にけん引され、私たちの心の動きに影響を与える。私たちの心が動くと、全ての現象が現れる。

心の動きは体や物事をどう影響するかについてどうやって分かるか。皆の知っているように、人間の情緒は心拍の変化に影響を与える。心拍は何故変わるのか。もし、情緒の変化は心拍の変化を影響するとしたら、命を主宰するのは心拍ではなく、情緒が命の主宰になってしまう。情緒は何故起きるか。脳が情緒を発生させると思われるとしたら、人間の脳細胞と構造はほぼ同じになる。ただ一部の人は何らかの部位がより発達しており、何らかの部位がそれほど発達していないだけだ。脳が私たちの情緒を支配しているなら、何故皆の情緒はそれぞれ違うのか。誰が脳を指揮しているのか。脳細胞が結合してエネルギーを生じさせたので、私たちは思考ができる。しかし、脳細胞がバラバラになった後、何故単一の脳細胞では思考できないのか。一体、誰がこの脳を主宰しているのか。この話になると、科学や医学では全然説明する言葉がない。」医者をしている一人の弟子は、「医学では解釈できない。人間の見えるものは組織を持つものの存在だが、これらのことは組織のあるもので考えることができない。脳からこれらのものを取り除くと、これらのものは活動できなくなる。情緒を制御することでさえできない。」と報告した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。「医学上、心拍停止が死亡で、脳の電波も止まると思われている。しかし、心拍がなくても脳波の反応が測定できた、あるいは、脳波が止まっても心拍があったこともある。医学では、脳死の後、心拍はあるはずがないと思われている。その理由は、脳が私の体の動きを指揮しているからだ。だったら、これらの現象をどう解釈すべきのか。解釈できないのだ。外道は、霊、魂が脳の動きを指揮すると主張するので、霊魂学を研究し始めた人もいる。

人間はどう生まれたのか。外道は、神様が男女を一人ずつ、人類の祖先を創造したと主張した。神様が創造したとしたら、皆は同じ肌色、同じ外貌をして同じ生活をしているはずではないか。しかし、世界の人口は61億だが、全く同じ生活を過ごす人がいない。リンチェンドルジェ・リンポチェの女性出家弟子の場合、同じく出家衆で寮に住んでいても、皆の毎日の生活は違う。彼女らは寮に住んでおり、同じ女性で出家者だし、皆は同じはずのではないか。実際は違う。この話の意味は、あなたたちは何でもよく知っていると自認していても、本当は何も知らないのだ。勉強して学問を持っていると自認していても、自分の体の構造、体内のあらゆる現象について全然分かっていない。だったら、何故知識人だと、何でも主宰、管理でき、他人より偉いと自認できるのか。

また、魂や三魂と七魄が私たちの体を動かしていると思う人もいる。だったら、魂や三魂と七魄はどこから来たのか。三魂と七魄が命の源だと思うとしたら、両親が必要でなくなる。孫悟空のように石から生まれるはずだ。しかし、今まで石から生まれたものは、一人の孫悟空に過ぎない。過去も、現在も、未来もそのほかにいない。だから、物語だと分かる。真実ではないのだ。親がいたからこそ私たちは生まれた。親に生んでもらわなければならないと分かっても、あなたは生まれた後、親の学んだこと、為したことと全く違うことをする。外国人は、羊や犬のクローンを作ったが、それを止めた。何故なら、親の細胞で犬や羊をそっくり作れても、生長後はその親と違って習慣も行動も違うと分かったからだ。

魂や三魂と七魄は主宰だとしたら、何故違う人間が現れたのだろう。どの宗教もこれを説明できない。起源は何かが分からないからだ。それで、人類は天から降りてきたなどの神話の物語が現れた。仏は衆生に生命の源について分からせたかった。命の起源を明らかに理解できてからでないと、未来の命を主宰することができない。もし、自分の命の起源でさえ分からないのなら、自分の未来を変えられるはずがない。

釈迦牟尼仏は、宇宙の真相、つまり、縁起性空について私たちに理解させたいので、たくさんの経典を開示した。それらの経典は何れも縁起性空に関する内容だ。はっきりと理解できたら、始めて学仏、利益衆生、修行、教えを聞くことの理由が分かる。私たちは生生世世、自分の感覚、自分の分別心で暮らすことに慣れてきた。自分に有利な方法で生活することに慣れてきた。こんな命は限られており、汚染されて不善のものだ。完璧で善の命を得ることを仏は私たちに教えた。そのため、皈依の時より、地道に修行するほか、心構えも調整しなければならない。能力、方法がなくても、縁起性空の体得する因縁がなくても、せめてこの概念を受け止め、学仏は何かを得るためではないときちんと理解すべきだ。

出家したからと言って仏菩薩は自分の眷属の面倒を見るべきだと思ったら、縁起性有になる。これは外道の修行法だ。矛盾なところがある。あなたたちは法に従って修行することに励んだら、福報が得られて眷属にも利益があるとよく分かっている。しかし、あなたたちは修行せず、福報もないが、眷属のことを仏菩薩に任せっきりにする。仏菩薩は悟った、縁起性空を理解して証果した聖者なので、あなたの因縁を破壊するはずがない。あなたは今世、眷属を持つ因縁があれば、眷属を捨てたり、ほっといたり、眷属に怖い気持ちを抱いたりすべきではない。ある弟子は自分の眷属に好きなようにさせている。こんな態度は間違っている。

私たちは身をもって示すべきだ。一切の法性が空だと体得できたら、世間法と出世法を含めて物事の全てを縁起性空の下で処理する時、後遺症は殆ど起きない。学仏は自分だけの感覚のためではない。眼耳鼻舌身意の短い感覚のためでもない。人と喧嘩しないために学仏したいと言う人もいる。こんなことなら、学仏しなくていい。孔子の本を読めばいいのだ。また、気持ちを落ち着かせるためでもない。落ち着きたいなら、毎日海辺に行って30分や1時間座れば、心を落ち着かせるのもできる。学仏は自分と衆生の未来の命を変えるためだ。この立派な文章は平凡人間が理解できるものではない。自分なりの考え方で仏経を読んだり、自分の学問で上師の開示した仏法は自分に役立つかどうかを比較したりするとしたら、分別心があることになり、仏法はあなたに役立たない。上師は仏法を開示する時、自分の考えを根拠にしない。過去上師からの伝授、釈迦牟尼仏の開示、修行過程で得た経験、および仏法に対する自身の体得に基づいてあなたたちに言い聞かせる。これらのことはあなたたちの理解した生命、常識、倫理道徳とは違う。別に、倫理道徳を違反するように呼びかけているわけではない。理解できたら、倫理道徳、文化の全ては縁だとあなたたちは分かる。

自分は出家したからといって仏は自分の眷属の面倒を見るべきだと思う出家衆がいる。ここにいるあなたたちは皆そう考えている。自分は学仏しているから、仏菩薩は助けてくれるべきだと思う。眷属に影響されないとか、病気が治るとか、体が丈夫になるとか、子供は学校で喧嘩しないとか、アキ護法に子供を守らせるとか、いろんなことを考える。これらの考えは菩薩道の修行ではない。学仏する時、釈迦牟尼仏は何をしてきたかを見るべきだ。仏経によると、仏の息子とおばさんだけが学仏したそうだ。あなたたちの考えが正しいなら、釈迦牟尼仏はきっと、自分は仏になってたくさんの衆生を助けたから、十方の諸仏菩薩は皆、釈迦族が滅ばないように助けるべきだと言ったはずだ。しかし、仏はそう言わなかった。結局、釈迦族は滅ぼされた。仏と私たちのどっちが立派なのか。もし、あなたは学仏しているから、菩薩はあなたの眷属の世話をしてあなたを悩ませないようにすべきだと思ったら、間違いだ。眷属はあなたの修行する法門だ。もし、あなたは今生に眷属の縁がなければ、孫悟空のように石から生まれたはずだ。あなたは親に生んでもらったから、親に借りができた原因で、あなたはその家庭に生まれた。自分は何もしないで、親をリンチェンドルジェ・リンポチェに任せっきりにした弟子もいる。これで親孝行だと思い、いい加減に念誦すればいいと思っている。これらは全部執着だ。一切の法を理解しようとしない。法性の中に、全部が生滅、空性だ。

上師に仕える時、あなたたちは何故か怖い。昨日、宝石の箱を供養した人がいる。その箱を上師の部屋に置くように指示したのに、担当の弟子はそれを部屋の外に置いた。しかし、前はぼろぼろの瓶が上師の部屋に置かれた。学仏は悩みを断ち、器用になるためだ。あなたたちはどうだろう。今話したことをしたのは、怒られないことに執着し、間違いをするのが怖かったからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前、働いていた時、上司に叱られることが殆どなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは給料をもらったことに上司に感謝し、真面目に働き、きちんと仕事をすることが当たり前だと思っていたからだ。あなたたちは、法会の時、衆生を代表して何かを担当する機会があったら、他人とは違うと偉そうに自認し、その位置が取られるのを恐れる。しかし、間違いを犯してはいけないと常に緊張する。その挙句に、わけの分からないことをしてしまう。皆は前任の法務担当の弟子から学ぶことしかしない。いくら言っても、叱っても誰も聞かない。どう教えたら、本当に分からない。実際に、学仏は全然難しくない。上師の開示した仏法を全く聞かず、自分の考えで修行しているから、あなたたちは難しく感じる。

経典の言葉だが、『一切法生滅、因縁成故。』

二句で全てを解釈している。仏の智慧は立派だ。因縁があるから、あなたはあらゆる現象の中から生滅を見る。逆に言えば、因縁も生滅法だ。この二句は、消極的に暮らすべきだという意味ではない。苦しくても、楽しくても、全部は因縁で、生滅だし、永遠がないと教えている。癌は死ぬほど痛いものだと言う人もいるが、そうとは限らない。癌に罹った後、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を受け、死ぬ前、痛くない人もいた。仏法を受け入れられる人なら、どんなことに遭っても落ち着いて向かい合える。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前、皮膚癌に罹ったが、全然怖くなかった。しかし、あなたたちは癌に罹ったら、大変なことだと思い、死にそうな気分になる。人間は死ぬものだ。あなたたちは癌に罹ったら、かわいそうだと思う。あなたたちは本当にかわいそうだ。輪廻を離脱できなければ、かわいそうだ。癌に罹ったから、苦しいと自認する人もいる。人間は苦しいものだ。人は癌に罹ったことに、あらゆる精神を同時に集中するが、糖尿病、高血圧は数十年の過程がある。高血圧に罹り、十数年経っても死なないが、20年も苦しませられる。病苦も生滅因縁法だ。学仏後、業力を早めに発生させて借りを返すのもいいことだ。大礼拝をするように指示を受けたのに、きちんとやらない弟子がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェの会社に勤めているから、加護があると思ったりする。そんなはずがない。釈迦族でさえ滅亡されたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは永遠にあなたたちを守っていられない。

教えをちゃんと聞きなさい。上師の指示することを真面目にやりなさい。緊張しなければ、福報は生じる。リンチェンドルジェ・リンポチェにうまく見せたい人もいるが、その必要はない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、尊勝なる直貢チェツァン法王の前で何かを見せたいと決して思わないので、自然に振る舞うことができる。如法で暮らし、如法で物事を処理する。いつでも他人のことに気を配り、もっと考えるべきだ。自分の感覚だけを考えるようにしない。この二句、『一切法生滅、因縁成故。』を生活に運用できたら、損得に拘る気持ちはきっと減る。あるいはなくなる。決してプレッシャーを感じない。誰かに悪いことをされたとか、害されたとかを言わなくなる。例え病気に罹っても決して苦しく思わない。

当初、リンチェンドルジェ・リンポチェは皮膚癌に罹ったと分かった時、何の反応もなかった。」医者をしている弟子は、「リンチェンドルジェ・リンポチェはメラノーマに罹った。この病気はほかの部位、胃、肝臓、腎臓、脳などの内臓に転移する可能性がある。皮膚は早く化膿になるし、転移後は出血、痛み、圧迫などの問題が起きる。皮膚癌の中で最も悪性のタイプだ。」と説明した。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェはその弟子に、リンチェンドルジェ・リンポチェが皮膚癌の診断が分かった時の表情を聞いた。その弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェは何もなかったような表情をして何の感覚もない様子だったと返事した。

この時、リンチェンドルジェ・リンポチェはある出家弟子を叱った。「未だに自分は癌でかわいそうだと思っているなら、追い出すぞ。あなたはリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子だ。癌に対するリンチェンドルジェ・リンポチェの態度は気楽だったのに、何故あなたは、自分は癌に罹ってかわいそうだから、皆に優しくしてもらいたいと思っているのか。何故皆に同情してもらいたいのか。癌を利用している。癌が続けばいい。リンチェンドルジェ・リンポチェは癌の確診に何の感覚もなかったが、仏の『一切法生滅、因縁成故。』を受け止めたからだ。因縁が成熟して癌になるべきだったら、そうなってもいいと思った。全然怖くなかった。また別の因縁が成熟するし、治るかどうかも分からなかった。今、あなたたちは皆同じ問題がある。病気が治るまで、できるだけ拝仏し、健康になるために、できるだけ持咒すると思っている。全く因縁を信じていない。考えてみなさい。あなたたちは一体どれくらいのことをしたか。仏はどれほどのことをしたか。リンチェンドルジェ・リンポチェはどれだけのことをしたか。尊勝なる直貢チェツァン法王はどれたくさんのことをしたか。尊勝なる直貢チェツァン法王は転生のリンポチェだ。第八世の転生だと言っても、一昨年は病気になった。あなたたちは何故、学仏すれば、何も起きなくなると自認できるのか。間違っている。全部因縁だ。悪の因縁は今生で成熟できたら、いいじゃないか。お棺の中までに持って行かないからだ。今生と過去世の業力は死ねば終わると思ったら、勘違いだ。借りをきちんと返さなければ、来世までに持っていく。

リンチェンドルジェ・リンポチェは皮膚癌に罹って感覚がなかったのは、まず、自分のことで他人に迷惑をかけたくなかったからだ。また、因果と因縁を深く信じたのも理由だった。学仏の前、よく魚介類を食べていたので、皮膚癌に罹ったのは自業自得だ。なるのが遅かったというのもいいだろう。今は完治したが、理由が分からない。ただ、仏法通りに生活し、どの本尊が加持してくれたも分からないし、護法がリンチェンドルジェ・リンポチェに特別に優しかったかどうかも分からない。仏が開示した仏法を体得できたら、無畏になれる。無畏施は、人にいくつかの仏法を話して怖がらないようにすることではない。起きた全ての現象に対して恐懼心がない意味だ。受け取って向き合い、怖がらないようになる。私たちが怖く思うのは、過去の為した善悪の因縁を信じないからだ。学仏者は、よい因縁が起きたからと言って嬉しくなったりしない。また、よい因縁が消えたからと言って悲しくなったりしない。仏法の教えるレベルは一般の民間信仰と違う。民間信仰は、求めればあるし、求めればあげる。それで、あなたは法起性空を信じない。『一切法生滅、因縁成故。』を信じなければ、正法ではない。

正法は、菜食することや、大乗仏法を聞くことではない。『一切法生滅、因縁成故。』、この二句は大事だ。あなたたちは今、悟れなくても、ちゃんと聞き入れるべきだ。そうしないと、第八意識田に深く植えられない。念仏、禅定をすることこそが正法だ。もし、この二句は大事でなかったら、釈迦牟尼仏はたくさんの時間を費やしてこの道理を開示し続けるはずがなかった。要は、この二句は私たちの生命を変えることができる。この生命は生生世世のものだ。そして、さらに私たちの眷属、私たちと縁のある、または縁のない衆生の命を変えることができる。この二句をしっかりと覚えなさい。順調な時は喜んでいい気にならず、うまく行かない時も悲しくて落ち込まない。何れも因縁だけだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの前で、自分は十数年来きちんとやっていないと話す人がよくいる。これを聞いたら、リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示する。きちんとやっていないのは当然だ。きちんとやっていれば、逆境は現れるはずがなかった。何度も言ったはずだ。業力を動かすのに、あなたたちの努力が必要だ。上師と仏菩薩があなたたちの運命を変えられるとしたら、釈迦牟尼仏の種族は滅ぼすはずがなかった。世尊は道の真ん中に座り込んで止めようとしたが、とうとう起き上がってそこから去った。衆生の業を動かすのが無理だと分かったからだ。一番の神通を持った目犍連尊者は神通力で500人の釈迦族の人を鉢の中に入れて空中に上げた。軍隊が去った後、その鉢を下した。それにもかかわらず、彼らは血に変わった。神通は業を転じることができない。自らの力でなければ、業を転じることはできない。仏菩薩と上師はあなたたちを助けることしかできない。もし、仏菩薩と上師はあなたたちの悪業をよくすることができるとしたら、世間に苦しむ人がいないはずだ。仏はこの現象の真実を話したが、誰も信じない。あなたたちが外道を信じるのは、誰かに助けてもらいたいと思ったからだ。

仏は真実を話したが、大変苦労した。何故なら、こんなことを見る能力を持つ人がいなかったからだ。人間はこんな生活に慣れている。何世も生活してきたし、今世もこのように生活しているので、自然にたくさんのことに執着を持っている。自分を損することがあったら、他人を攻撃し始める。どんな結果になるかも考えない。学仏は立派な行為だ。勇者のすることだ。自分の心を変えるには多大な勇気が必要だ。自分を変えるのが宇宙で最も困難なことだ。簡単ではないが、やらなければならない。ちょっとでもうっかりして立ち止まったら、少々でも自分を放任したら、あなたは今生であなた自身を変えることはできない。

よいことが現れた時、善果が『報われた』のだ。だから、私たちは絶えずに善業を累積すべきだ。皈依の時に、『衆善奉行(もろもろの善いことを実行する)』を話した。止めてはいけない。何かを享受している時は、何かの福報を使っていることになるので、絶えずに累積、投資し、仏法事業の中で累加すべきだ。世間の小さな善は未来世の人天の善を累積することだけで、今生において使うことはない。何故、今生においてあなたのことは転じられないのか。修行していないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの癌は完全に消えた。理由は、上師の話したことだったら、全部したし、疑ったり、手を省いたりせず、正しいか間違いかという自分の考えを全部捨てたからだ。こうして仏法に触れることができた。リンチェンドルジェ・リンポチェは癌に罹っても、仏菩薩や尊勝なる直貢チェツァン法王にお願いしなかった。あなたたちの場合、上師に話して助けてもらいたいだろう。

また、経典の言葉だが、『一切法不生、真如性故。一切法不滅、以無生故。一切法無作、以無作者故。一切法如虚空、以無染故。一切法寂静、体性無染故。一切法離垢、離一切垢故。一切法永滅、以本滅煩悩故。』

『一切法永滅、以本滅煩悩故。』という言葉を消極的に考えないでほしい。本来は何の現象もなかった、あるいはどうせ消えるから、ほうっておこうと思ってはいけない。そうではないのだ。あなたの本性、清浄な法性は煩悩で動かないのなら、目にした全部のことは必ず消えるし、あなたを影響せず、学仏と修行の清浄な本性に影響を与えないはずだ。親の病気で時間がないとか、住宅ローンで時間がないから学仏できないと言い訳をする人もいる。これこそ煩悩だ。どうやって煩悩を消すのか。因縁法で対処する。煩悩が何故起きたか。何かに執着を持っているからだ。執着しなければ、悩まない。それで、煩悩は消える。煩悩が消えたら、一切の法は清浄になる。

全ての現象はもともと動かないのだ。全部因縁法だ。動かないとは、自性の有でなく、自主で自然に何かのことを起こすのではない意味だ。目が見えるもの、耳が聞こえる音、科学装置で検測できるものを含む全ての宇宙の現象の発生、大型ハドロン衝突型加速器は粒子を誕生させるのもそうだが、全部因縁法だ。仏法の名相で言うと、全部自性の有ではなく、自然に発生したのではない。また、自性の空でもなく、自然になくなるのでなく、因縁で起きるのだ。動いていると私たちは思うが、この法は自然に誕生したものでなく、大勢の衆生の心が動いているので、現象が発生した。仏経でいう娑婆世界とは地球のことだ。地球は何故回るか。地球上の人間の心が動いているからだ。宇宙飛行士は宇宙に行ったが、宇宙は動かないし、時間はない。理由は宇宙の中で大勢の人の心が動いていることがないからだ。それで、宇宙は動かない。ほかの惑星も回っており、流星が流れることもあると反論する人もいるだろう。これも、地球にいる私たちの心が続けて動き、何かよいことを絶えずに探しているからだ。探す過程において悪いものを見つけることもある。よいものを探しているうち、衆生を傷つけることを思わずやってしまい、悪い因縁が成熟してしまう。

仏経によると、この娑婆世界、つまり、この地球に7尊の仏が住世するそうだ。釈迦牟尼仏は5尊目だ。仏経には、それまでの4尊の仏の法運の時間に関する話がないが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、それまでの仏法が世間にあった時間は数十万、一、二百万年あったと推論した。しかし、釈迦牟尼仏の法運は短いほうだ。何故なら、衆生の福報が少なくなったからだ。以前の人のほうが、福が多くて法運がもっと長かった。釈迦牟尼仏が授記を受けた後、その次は弥勒菩薩だが、弥勒菩薩の後にまた1尊の仏がいる。その後、地球は滅びる。この7尊の仏が住世する長い間、どのくらいの衆生が輪廻しただろうか。その数字は考えられない。それらの衆生の輪廻の力が、それぞれの惑星を回させる力だ。科学者の言葉だったら、惑星間の吸引力、あるいは磁場が理由だと説明する。しかし、磁場はどう発生したのか。地熱だと主張する人もいるが、地熱はどう生まれたのか。哲学の論理から推論しても決定的な説明がない。

経文の『一切法生滅、因縁成故。』は、全ての現象の発生はいずれも因縁が成熟したので、緊張しなくていいと言っている。例えば、私たちの修行はよくできるか、上達するかも因縁と関係がある。因縁が成熟すると、果報は自然に現れる。尋ねたり、求めたり、毎日話したりする必要はない。また、『一切法永滅、以本滅煩悩故。』は、世間のあらゆることに消極的な態度で対処すべきだという意味ではない。一切の法はどうせ滅びるからと、あなたはこう思ったら、煩悩が生じる。もし、因縁成故という仏経の言葉があるからだと理解できるとしたら、どうでもいいように思える。しかし、積極的に行動していたら、悪い因縁はよい因縁に変わる。よい因縁が現れる時、努力したら、修行のためになる。数年前、リンチェンドルジェ・リンポチェの閉関した時、因縁が成熟になったので、机の脚を蹴った途端に悟ったようなことだ。善縁が十分でなければ、蹴って足が骨折しても悟れないのだ。

仏はこう話したから、私たちはこう考えたらよい。仏は二句を話したが、全ての意味を表した。あなたはその中の過程を理解すべきだ。古代の人は簡単に考えたが、今の私たちのように複雑ではない。今の人は朝起きたら、すぐ携帯をいじる。メールが入っているかどうかをチェックする。朝食の後、また携帯をいじ始める。しかも、夜寝る前は必ずもう一度携帯をいじる。末法時代になったら、衆生の心は複雑になったので、上師はもっと話すほか、話しを繰り返す必要がある。古代の人は簡単な生活をしていたので、悩みは少なかった。悩みが少ないほうが知恵が高いということだ。簡単に教えれば、すぐ理解できる。古代の人は本当に私たちよりよい根器があった。あなたたちは決して自分はよく修行できたと思ってはいけない。

『一切法永滅、以本滅煩悩故。』だが、もし、私たちは証悟した人だとしたら、因縁法だとよく分かるので、法は決して動ず、自分の心が動いていると理解できる。因縁法だとよく理解した以上、煩悩は本来消えるもので、何かのことに執着があるから生じたものだと分かるので、学仏者の煩悩はどんどん減っていく。上師に仕える弟子たちは何故かよく緊張するだろうか。仏法には『人身難得、仏法難聞、上師難遇。』という言葉がある。よい弟子がいない。尊勝なる直貢チェツァン法王が取った在家弟子のうち、今までにリンポチェの果位が修行できたのはリンチェンドルジェ・リンポチェ一人だけだ。難しいとは敢えて言わないが、きっと容易でないとよく知っている。

次は、『一切法無色、不可見故。』

『心経』に『是故空中無色、無受想行識。』がある。人類は現象を目にした時、初めて信じる。ものを見て嗅いで感じることに慣れている。そうしなければ、存在を信じない。この二句は、あなたたちは何かを作らなければ、信じない意味だ。だから、あなたたちはリンチェンドルジェ・リンポチェを信じているのは、リンチェンドルジェ・リンポチェが何かを実践したし、あなたたちもそれらのことを見たからだ。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの立場から言うと、大変なことだ。何かの能力がなければ、あなたたちは信じない。これであなたたちはよい機会を失ってしまった。今回、仏寺の建設工事の件で、まだ見ていないからと思った弟子たちは機会を失った。学仏しても上達できない人がいる。何故だ。まだ自分が死ぬことを目にしていないからだ。

この二句の意味は、目にしたものだけを本当だと思い、見なかったものを嘘だと思うべきでないことだ。自分が感じたから、嘘だ、間違いだと思ってはいけない。一切の法は本来、様子がなかった。様子は私たちが考え出したのだ。このテーブルを例にしよう。テーブルという名前が付けられたが、取り外したら、テーブルでなくなる。どんな物事でも同じだ。この相、この様子は私たちが想像したもので名前を付けた。もし、私たちは身分証明書も名前もなく、両親もいなかったら、私たちのことは誰かが分からなくなる。私たちがどうあるべきかを考えるから、あらゆる執着が生じた。

修行者のあるべき姿を思う人がいる。誰が決めたのか。僅かの衆生でも、利益することができたら、修行者だ。これらの出家衆は生死解脱の法を求めたかったから、リンチェンドルジェ・リンポチェの門下に皈依した。色相で修行者のことを見てはいけない。修行者に慈悲心、菩提心があるかどうかを見るべきだ。何をしたかを見るか、あるいはそのライフスタイルを疑うか、そうすべきではない。古代の維摩詰居士は大金持ちで、歌・舞踊の興行をする芸者がいた。今のリンチェンドルジェ・リンポチェは何も持っていないから、あなたたちはリンチェンドルジェ・リンポチェを批判する根拠がないはずだ。維摩詰居士には専任の運転手もいた。仏経にも長者居士は黄金を地面に敷いた話がある。

仏経の内容をよく読みなさい。自分なりの考えで修行者を批判してはならない。少なくとも、出家者はあなたたちよりましだ。彼らの心は落ち着いたので、修行している。彼らは求めたいものについてよく分かっている。あなたたちの場合、リンチェンドルジェ・リンポチェに願うばかり、配偶者に愛人を持たないことや会社に敵がいないことなどを求める。これらのことは仏法と無関係だ。しかし、あなたたちは何でも欲しいと思っている。過ちを犯している。何も変わらないと思っている。

『一切法無色、不可見故。』は、肉眼で見えないのでなく、現象には様子がない意味だ。本来は様子がなかったが、私たちが考えて作って様子を出現させたのだ。清浄の法性の中で、あらゆる現象の変化を見る。何れの現象の変化は止まることがない。密法を修める人は、最後、原子、分子が虚空を飛び回るのが見えてくる。飛蚊症ではないよ。現象の変化が見えることだ。原子、分子は虚空を飛び回るが、何も発生させない。相互にぶつかると、私たちの心で望む様子が生まれる。大型ハドロン衝突型加速器を使っても、粒子がぶつかり合った後、何を発生させるかを発見できない。何を探すべきかが分からないからだ。心に結論がなかったら、何も誕生させられないのだ。

『不可見故』は、清浄な本性の中にいて固く変わらない様子が見られない意味だ。化身仏、報身仏を含め、全部因縁成熟故だ。法身仏について、あなたの本性が諸仏の清浄な本性と触れ合い、一つになったら、自然に法身仏の現れが感じられる。これも因縁だ。『因縁成故』になれるよに修められたら、こうなれる。修行者だと自認するなら、このいくつかの言葉が大事に思うべきだ。今生で荘厳な相があるように修行できたからと言って修行で菩薩になれたと自認してはならない。これが『色』に対する執着だ。『色』に執着があったら、息が絶える瞬間に、心は落ち着かない。何故かというと、何かのことに執着し始めるからだ。仏の話した全ては、死亡の過程において私たちの心を明らかにさせるためだ。

次は『一切法離心意意識、以無身故。』

何れの現象も私の心から離れて為した意で、この意と共に生じた感覚だ。心が動くから、考え方が生まれる。考え方が動くから、感覚が生まれる。一つの経験で説明できる。例えば、皆はある男性がかっこいいと言っているが、あなたの好きなタイプではないので、その男性に会っても、あなたの心は動かない。あるいは、ある女性は大変セクシーだが、あなたのタイプではないので、あなたの心は動かない。心に考え方がなければ、感覚は現れない。どの体もずっと変わらないものだと思わないでほしい。何れの体も因縁法だ。身は私たちの肉身ではなく、私たちが存在していると思う全ての体のことだ。鬼を見たと主張する人がいた。鬼の体はずっと変わらないのではないか。また、菩薩を見たと主張する人もいた。中国人、チベット人、ネパール人、日本人の作った仏像は皆違う。だったら、どの仏像を指しただろうか。宋朝以前の観世音菩薩にはひげがあったが、宋朝以後はひげがなかった。だったら、ひげがあったのとなかったのと、どっちが正しいのか。だから、観世音菩薩を見たと主張する人の話はきっとでたらめだ。中国に、観世音菩薩は32の応化身がある。一体、どの尊だろうか。隋朝の仏像と今時の仏像のどっちを基準にすべきか。この一句は私たちの執着を破る。私たちの法執を破り、私たちが勝手に考えた諸仏菩薩の様子を破る。それ故、『金剛経』に、『以色相来求我、皆是邪見。』という言葉がある。釈迦牟尼仏は必ず姿を見せる、あるいは、阿弥陀仏は必ず現れて引接しに来ると思うのが全部執着だ。執着心があれば、『定』に入るのが無理だ。『定』がなければ、諸仏菩薩からの引接があり得ない。

今は仏像の絵があるが、釈迦牟尼仏が涅槃までには仏像がなかった。諸仏菩薩の様子は全部、釈迦牟尼仏が形容したが、何れも方便法だ。あなたたたが何かを見て心が落ち着くようにするためだが、仏の清浄な法身を表すことはない。それで、『金剛経』ははっきりしている。色相で求めに来てはいけない。だから、誰かが仏菩薩を見た話を聞いたら、そんな人を相手にしなくてよい。本当に見たとしても、言わないのだ。何故なら、話し相手はそのレベルでなかったら、仏法を中傷することもあるからだ。

もし、鬼を見たとか、菩薩が話しかけてきたとか、このようなことを言いに来る人が必ず怒られる。昨日、一人の信衆は携帯を持ってそれに仏像があると話した。テレビで見た仏像で、その時に三文字が現れたが、忘れたので、尋ねに来たとその人はこう話した。こんなことを聞いたら、叱られるのが決まっている。仏は色相で求めに来てはいけないとはっきりと話したが、あなたたちは聞かない。未だに自分の考え方で学仏したいし、自分の考えが正しいと思う。仏は慈悲なので、末法時代にこれを利用して衆生を騙すのを避けたかった。だから、仏はこれらのことを求めるべきでないとはっきりと話した。仏は姿を見せたければ、簡単だが、そうしなかった。」

ここで、リンチェンドルジェ・リンポチェは、前回の緑度母灌頂法会の時、全身が熱くなった人に手を挙げなさいと話した。一部の人は手を挙げた。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。「全身が熱くなった理由は上師に対して信念があったからだ。熱くならなかった人のほうが受けた加持力はより弱かった。全身が熱くなったことを簡単に言うと、通電のことだ。よくなるのでなく、きちんと修行できるようにさせるためだ。熱くならなかった人は、専念せず、灌頂くらいなんて、何をしているかが分からないと思った人だ。だから、灌頂を受けた弟子がたくさんいたが、皆の感覚はまちまちだった。心に関係しており、得たものも違った。熱くなった人のほうが利益が大きかっただろうか。そうではない。たまたま緑度母は今回熱く感じさせただけた。あなたたちの分かる言葉で言うと、エネルギーの注入だ。上師と諸仏菩薩のエネルギーは冷たいだろうか。そんなはずがない。鬼の気こそが冷たいのだ。

『以無身故』の『無』は、ないこと、消えることの意味ではない。あなたたちが見た全ての様子は生滅のものであり、永遠に変わらないものではなく、固定ではないと教えている。体はずっと変化しているから、整形は役立たないことをも教えている。老けたくないなら、密法に方法がある。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェとあなたたちはそれを修める条件を持っていない。

今日はいくつかの言葉しか説明できなかった。少ないのだ。あなたたちにはっきりと理解させようとしたら、5年も足りない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェの修行経験で、なるべく皆に開示するしかできない。」弟子たちは、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる開示に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを見送った。

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2016 年 10 月 02 日 更新