尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年5月8日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参列者に殊勝な緑多羅灌頂を慈悲的な賜った。本日の午前、自ら道場にいて先に予備法を修めて、それから、午後に法座に上がり、参列者に貴重な仏法を開示した。

先ほど修めたのは前行だ。前行は、発心、皈依し、灌頂法会を阻害する全ての衆生が壇城を離れるように彼らに布施する意味だ。今日は『緑度母』の灌頂を行う。緑度母は観世音菩薩が流した二滴涙の一つで、もう一滴は白度母だ。観世音菩薩が涙を流したのは泣いたわけでなく、慈悲の極致だからだ。大勢の衆生は未だに輪廻の苦海で苦しんでいるのを見たので、観世音菩薩は涙を垂らした。

この法本は直貢噶舉派が五十の本尊に授権して伝承されたものだ。その後、尊勝なる直貢チェツァン法王が自らリンチェンドルジェ・リンポチェに伝えた。灌頂は、古代のインドで国王が王位を王子や太子に伝えた認定の儀式だった。黄金や銀で作られた瓶にきれいな水を入れ、その水を王子の頭にかけた。仏教では、上師が弟子にこの法を修めることを認める象徴だ。

チベット仏教こそ灌頂の儀式がある。経典に関しては灌頂の必要がない。どんな経典、論、律であっても、直貢噶舉の伝承では上師の口伝がなければ、読んではならないし、唱えてはならない。理由は何だろうか。昔、釈迦牟尼仏の伝法は口伝によるものだった。今のようにテレビやビデオ通信で伝法できない。口伝の利点は、上師が仏経を口伝する時、歴代の上師を代表して仏経を伝授することになるので、加持力がある。加持力があったら、仏経を読み始めると、雑念が起きない。口伝によらず、自分で唱えていたら、仏経の意義を理解できず、自分なりの考え方で仏経の意味を想像してしまう。自分の習ってきた学問で文字の意味を解析しようとしてしまう。それで、仏経の意味を誤解することが時々にある。口伝してもらい、上師に対して恭敬心、信念を持っていたら、仏経を唱える時はただ唱えようと思う。そのうちに、仏経の意義が分かってくる。末法時代が進めば進むほど、仏法に関する解釈は多種多様になってくる。どんなこともあり得る。原因はここにある。

密咒を学ぶには、具徳の上師から灌頂、そして口伝による伝授を授けてもらうことが必要だ。チベット仏教では、灌頂を授ける資格がある人はきっとリンポチェの果位を持ったうえで、認証されたリンポチェでなければならない。転生したリンポチェであれば、灌頂を授けられるのか。そうではない。一連の学習、修行、閉関などの過程を経たうえで、灌頂できるリンポチェとして上師の認証が必要だ。そうでなければ、灌頂できない。直貢噶舉では、灌頂できるリンポチェは、必ず不共四加行を完全に修める必要がある。最低限としても閉関中において本尊を円満に修めなければならない。閉関の時間は本尊咒の長さによる。短い真言の場合、3ヶ月が必要で、長い真言の場合、1年が必要な場合もある。最も重要で、噶舉密咒蔵と呼ばれる灌頂がある。この灌頂は15日かかる。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの覚えている限り、尊勝なる直貢チェツァン法王は4回しか伝授しなかった。台湾、アメリカ、インドでそれぞれ一回、もう一回はラダックで伝授されたようだ。噶舉密咒蔵灌頂法会に参加する人がいつも多いが、最後の一日にある儀式がある。未来に他人の灌頂をしてあげられるリンポチェになれると認められた弟子がいたら、公開的にやることがある。そのリンポチェに未来に灌頂できることを授記する。そうしてから、そのリンポチェはその後灌頂などの儀軌のやり方について勉強できる。

灌頂は何のためだろうか。灌頂後、本尊と無二無別になるだろうか。そうではない。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは出家衆と一部の弟子に灌頂を授けるが、ほかの参加者にとっては結縁になる。本尊と未来世の縁を結ぶことになる。

灌頂、口伝、観想の教導、閉関を経なければ、今生はこの真言で成就のある修行ができるのか。あり得ない。上師がこの法を個人の富として持つわけではない。灌頂とは、この本尊を修めることの権限を与え、あなたは未来において本尊と無二無別になれる意味だ。諸仏菩薩は皆空性の慈悲心を持ち、強い能力で衆生の生死解脱を助けられる。しかし、この方向に従って仏法を学習することをあなたが決意しなかったら、灌頂を受けても修行できないのだ。修行できなかったら、上師は教えてあげない。あなたが傲慢になるのがいけないからだ。釈迦牟尼仏は『宝積経』を広めた時、何れの六波羅蜜を話した最後に、必ず『慢の心があってはならない』と一言を加え付けた。傲慢になってはならないと強調した。傲慢になったら、慈悲心はあり得ない。慈悲心がなかったら、仏法はあなたと全く関係がなくなる。2002年までに、尊勝なる直貢チェツァン法王は公開的にリンチェンドルジェ・リンポチェのことを褒めることがなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェに我慢があってはいけないと思ったからだ。

仏陀は何故、慢心があってはいけないと私たちに注意し続けたのだろうか。私たちは修行の時、偶に知恵が現れる。そんな時に、私たちは悟ったとか、得道したとかと思ったり、学仏と修行の理由を忘れたりする。学仏と修行は決してpeacefulや気持ちよくなりたいためではない。毎日、海を見ていたら、peacefulにもなれる。また、意識を集中したいなら、学仏する必要もない。多くの外道でもこんなことができる。仏法を誤解した西洋人が多い。meditationは精神を集中してほかの何も考えないことであり、精神を集中すれば煩悩が消えると勘違いする。しかし、精神を集中しようと思うことこそが煩悩だ。

灌頂とは、上師が自らの修行で得た功徳を本尊と結合させてあなたたちに授け、未来この本尊を修めて成就を得て生死を解脱する権限をあなたたちに与えることだ。密法では、上師に対して恭敬、降参することが要求されている。上師が怖いから、或は上師の地位が至高で立派だからだというのが理由ではない。具徳の上師が伝法する時、その心は清浄的で何も望まず、名利のためではないからだ。あなたも上師の伝法をもらう時、心が清浄的で好奇心も聞いてみようという気持ちもない。法本に、上師のことを本尊と無二無別だと思うべきだという話がある。あなたたちは本尊に直接に会う福徳がないので、上師は本尊の代表として伝法する。もし、あなたたちは上師を仏菩薩と無二無別のように見ることができたら、仏菩薩の加持がもらえる。しかし、上師は凡夫だと思ったら、本尊の加持がもらえない。上師は歴代の伝承上師を代表している。常に灌頂を授ける上師の場合、閉関する必要がある。何故なら、自分の福報をずっと与えているからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはまず本尊と灌頂の意義を説明する。灌頂は未来の運命を変えると盲目的に信じてはいけない。修行していたら、未来の運命が変わるのは当たり前だ。修行しなかったら、変わることもない。少しの福報が増えるだけだ。灌頂法会に参加することがあったら、福報は当然増える。理由は、本尊と上師は直接に加持力をあなたに与えるからだ。」

リンチェンドルジェ・リンポチェは修法の儀軌を行い、並びに前行は発心、菩提心を発すること、及びその動機は何かについて開示した。「今日の法会に参加したあなたたちの動機は何だったのか。この法会のことを嫉妬、障礙する衆生に布施する必要がある。彼らにここから離れてもらう。更に、一つの観想を修めて保護する必要もある。そして、本尊である緑度母を壇城に迎え、灌頂を授ける本尊を迎える。一部の修法儀軌を行ってから、リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示を賜った。

今ずっと修めていたのはトルマの布施だった。トルマの意義は深いが、簡単に言うと、法と財の布施を含み、世間の一切の護法、眷属に喜んで使って満足してもらい、我らを含める眷属を障害する全ての罪、過ちを犯す汚れが順調に縁に応じられることを願うことだ。あなたたちは皆、悪業に満ちたままで法会に参加した。こんなことはあなたたちの未来の修行を邪魔するだけでなく、今日の灌頂をもらうことの障害にもなる。そのため、布施と供養をまず行い、冤親債主に壇城から離れてもらい、あなたたちが順調に灌頂をもらい、上師が順調に進められるようにしなければならない。また、衆生に因縁、福報がなく、この壇城に残って灌頂をもらうことさえできないのも理由だ。出家弟子は衆生を代表して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにマンダラを献上して供養して、仏法の伺いを立て、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を始まった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。「普通、正式に灌頂をする前に、上師は開示する。灌頂の動機は極めて重要だ。だったら、私たちにはどんな動機が必要だろうか。今日、灌頂を受けるのは短い人天の享楽のためではない。自分が悟りたいためでもない。今日の灌頂を受けるのは、空際の無限の衆生を済度するためだ。この動機は必ずしも今生でできるとは限らないが、この動機さえあれば、あなたは未来世においてきっとできる。多くの人が会見に来が時、リンチェンドルジェ・リンポチェはその学仏したい理由を聞いた。衆生を済度したいという返事に、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも、自分のことでさえ解決できないのに、どうやって衆生を済度するかと開示した。また、発心の方法を上師に教えてもらわなかったら、発願ではなく、ただの思想で終わる。仏経にある話と同じだ。人間の言葉をまねた鳥がいる。何故そう話したかも分からず、ただ他人の言葉をまねて話す。まるでテープレコーダーみたいだ。学仏なら、自分でできると言う人がいる。こんな考えは間違いだ。導く上師がいなければ、間違った方向に行ってしまう。上師を信じることが必要だ。信じるとは、上師の凡夫の肉身を信じることではない。上師は歴代の伝承上師と釈迦牟尼仏が教えて伝えた仏法を得たことを信じるのだ。今日あなたたちを導き、教えた動機は普段、本やテレビ、または他人の言った動機とは違う。

『為了度化天辺無際的衆生(空際の無限の衆生を済度するため)』だというが、衆生の多さは、仏も不可思議だと話した。一体どのくらいあるかも分からない。私たちは宇宙にいるが、私たちのいる地球だけに人類がいるわけではない。仏経に、銀河系にある須弥山の話がある。その山の位置を探しに行く人がいた。実際に、山ではなく、エネルギーが山の形に現れたものだ。仏経によると、地球は南贍部洲であり、ほかにも東、西、北の三部洲があり、何れも人類が存在し、外形は地球と異なるが、彼らの福は地球の人類よりもいいそうだ。今の科学者もほかの三つの惑星を発見した。何れも地球と同じく、人類の生活できる条件があるようだ。その三つの惑星は火星、土星などではない。仏法は科学的なものだ。ただ人類の人生経験の法則では仏と違うものを見ただけだ。人類は設備や機械で探索し、あると確認できたら、あると認めるが。探索結果がなかったら、何もないと主張する。こんな考えは間違いだ。今日の法会に参加した理由は好奇心であってはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちの好奇心を満たす必要がない。学生時代のことを思い出してみなさい。入学初日に、あなたたちは皆先生の指示を聞き、大人しくじっとしていただろう。学仏する時も同じでいなければならない。

上師の開示した言葉をきちんと聞きなさい。今日、あなたたちはこの法を受けたが、未来に無辺の衆生を済度できることを望んでいるからだ。そうできるからこそ、仏と上師に恩返しできる。衆生がそれぞれの仏との因縁は何れも異なっている。施身法のある段落では、今日の施身法の修法によって諸仏が済度できなかった衆生を、私が手伝って済度した。仏法はあなたたちの考えと違う。決してpeacefulになるためのものではない。仏法は意味深くて立派な概念だ。

この概念のために、無上で殊勝な菩提心を発しなさい。菩提心は欲しければあるものではない。伝法の上師本人が菩提心を開発したことが必要だ。菩提心は想像によるものではない。開発すべきものだ。上師はあなたの菩提心を開発する方法を持っている。まずは、五戒十善を守ること、慈悲心を習うことを厳しく要求する。慈悲心を学んで持てた後、力があるからこそ菩提心を発することができる。お寺に行って拝んだり、ボランティアをしたりすることが菩提心の発心だと勘違いする人が多いが、これらは因縁法に過ぎない。菩提心を発する今後の因縁を与えるだけだ。菩提心の発心は口で言うことではない。弟子の菩提心を開発する上師の能力が必要だ。上師が弟子の菩提心を開発する時は、口で言うだけではならない。いろんな方法を用いてあなたの累世の無明の悪習を徹底的に取り払わなければ、あなたの菩提心を開発できない。自分が正しいと思う気持ちが僅かでもあれば、間違いだ。何故なら、まだ執着を抱いているからだ。執着がある限り、慈悲心は生じない。

『釈明論』によると、灌頂の時に、以下の心構えがあってはならない。

一、傲慢。今日は聞きに来ただけ、聞いてみようだけだと思う気持ちは傲慢だ。私の習俗と文化は違うと思うのも傲慢だ。

二、無正信。大変重要な言葉だ。私たちは何故仏法を聴聞するのか。あなた自身を含める空際の無限の衆生を済度するためだ。衆生を済度したいと言う人が多いが、自分でさえ済度できないのに、衆生を済度できるはずがない。1~2年も念誦したら『ほら、私が唱えたら、蟻は去って行った。』『私が唱えたら、猫は大人しくなり、毎日周りで仏法を聞いている。』と傲慢に話す人がいる。でたらめだ。人間を変えることさえできないのに、畜生を変えられるなんて、全く筋が通らない。畜生と人間のどっちが業障が重いのか。畜生だ。決まっているだろう。あなたは周りの人でさえ変えられない。畜生をどうやって変えるというのか。気を付けなさい。学仏をしなかったら、破戒にならないが、学仏すると、たくさんの戒を破ることになる。『宝積経』における六波羅蜜の伝授は、慢があってはならないと言っているが。このことだ。

今日の法会に参加したら、何が得られるのか。何も得られないのだ。法会に参加して健康をよくしたいとか、自分の何かを変えたいとか、など思わないでほしい。あり得ないのだ。だったら、何のためだ。『度化天辺無際的衆生』のためだ。『度』とは、輪廻の苦海を離れるように済度してあげることだ。『化』とは、生生世世の身口意で犯した悪業、身口意による因果法則への不理解を解決することだ。『天辺無際的衆生』はあなた自身、あなたの家族、あなたが食べたものを全部含んでいる。だから、未来において衆生を助けたいとわざと言ってはいけない。あなた自身のこと、お腹の虫、細菌でさえ助けられないのに、衆生をどうやって助けられるのか。

三、於法不希求。聴いてみようと思う人が多くいる。今のあなたたちは法を希求する心が全くない。誰もが『リンチェンドルジェ・リンポチェはもっと教えてくれるべきだ。そうしたら、私は理解でき、修行できる。』と思っている。これこそが希求しない態度だ。仏法に『仏法難聞、上師難遇。』という言葉がある。テレビを付ければ仏法が聞ける。お寺が多いから仏法が聞ける。そう思っているだろう。そんなに簡単ではないのだ。尊勝なる直貢チェツァン法王は大変忙しい。リンチェンドルジェ・リンポチェは、尊勝なる直貢チェツァン法王に伝法してもらいたくても、心の中でずっと望み、誠意で求めなければならない。欲しければもらえるはずがない。

四、外散。心がここにない意味だ。ここに来て法を聞いているが、心の中で妻、息子を待つことやデートのことを思っている。心がどこかに飛んで行ったことだ。

五、内収。退屈で聞いているうちに居眠りしてしまうようなことだ。そっちの話は自分と関係がなく、聞きたいものではないと思ったり、いつ結婚できること、金儲けができること、病気が治ること、悟れることだけが知りたいと思ったりする。そっちの話はこれらのことと無関係だったら、聞く気はないという態度を取る。これこそ内収だ。これらのことは何れも欲望だ。衆生を済度することとは全く関係がない。

六、疲厭。説法の時間が長すぎたからと言って嫌な気持が生じてしまうようなことだ。聞いている最中、まだ終わらないのかと思い、こっそりと腕時計を覗く人がいる。何れも仏法を聴聞する時の詬病(恥)だ。そうしたら、心は清浄でなくなる。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは常に、仏法を聴聞する時に寝てはいけないと言っている。寝たら、来世はペットになる。何故なら、清浄な心で仏法を聞かず、こんな詬(恥)が生じてしまうからだ。詬(恥)は因果不信、愚痴の意味だ。仏法を聴聞する時に寝ることは動物みたいだ。猫や犬を飼ったことがあるだろう。猫や犬は一日中長い睡眠を取るだろう。あなたは今生、仏法を聴聞したことがあるから、福があるが、因果を信じないので、畜生道に堕ちてペットになる。

『無正信』は信じない意味で、上師、正法に対して信念が生じないことだ。『不求法』は正法を求めない意味だ。今日の灌頂を受けたら、法を求められたと思ったら、勘違いだ。どのようにこの法を修めるかを求めるべきだ。『外散』は、心は外部にあり、あっちこっち見たり、ぎょろぎょろしたりする意味だ。『内収』は、内部に収める根門がない意味だ。ここの根門は耳のことだ。根門がないことは、聞くためのドアを閉めて聞かない意味だ。両親が自分を叱る言葉を聞きたくない時に、一文字も聞こえないのがこれだ。常にリンチェンドルジェ・リンポチェに叱られる弟子たちは、聞きたくないから、リンチェンドルジェ・リンポチェがいくら叱っても、彼らは聞こえない。時間通りにやればここを出たいと心の中で思っている。

これらの違縁(障害)から離れ、具足で殊勝な動機を持たなければならない。『将伝法上師観想為主尊、将聴法弟子観想為眷属。』この二つの言葉は、仏法を聞く時に、普通の人に何かを言われていると思わず、上師は本尊と同じくて区別がないと思うべきだという意味だ。区別があるのは、あなたたちの心がこうしているだけだ。区別がないとは、上師の肉身は緑度母だという意味ではない。上師の自性は緑度母になって衆生を助けている意味だ。私たちは千四百人以上集まって同じ場所で同じ仏法を受けているので、未来は法界の眷属になる。同じ仏法を受ける人々は、互いに嫉妬したり、闘争したりすべきではない。宗教団体では嫉妬が起きやすい。どっちの修行が上出来だとか、どっちが師父に好かれる、或は好かれないとか、比較することがよくある。よくないことだ。

『聴法者要聴聞無上殊勝的密法、要具足不共的動機和行為。』仏法には、金剛乗、大乗と小乗の区別があり、『共』の方法がある。慈悲心、菩提心の発心には『共』と『不共』の区別がある。経典は『共』のほうなので、三乗の修行者は皆読んでよい。しかし、真言は口伝、灌頂、教導を経なければ、ほかの二乗を修めてはいけないので、『不共』と呼ばれる。そのため、不共の動機と行為は『為了度化天辺無際的衆生』のためだ。それから、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参列者を率いて祈請文を唱えてから開示した。

今日の修める法は、釈迦牟尼仏が開示した八万四千法門の精続、密乗だ。密乗は、事部、行部、瑜伽部と無上瑜伽部の四つに分けられるが、今日は事部と行部を伝授する。また、無上瑜伽部は、父続、母続と不二続の三つに分けられる。

今日、伝授する法は密法において、道、果、因の三つの方便続の道次になる。この法を修めるのは、道果因を同時に次第的に修められるからだ。この法には成熟道と解脱道がある。この法の修行に専念していたら、今生は必ず成熟的になれる。成熟の意味は、生生世世の業障による障害を離れることだ。密乗の修行で早めに成就できるのは道、果、因を同時に修めるからだ。一般の修行方法は、因、道を先に、それからは果を修める。今生で成熟になれるのは、一生の修行によってきっと見られるし、実践できるので、衆生を利益できるからだ。仏法の修行で成熟になれず、利益衆生もできなかったら、自分自身と他人を騙すことになる。『即解脱道』とは、一生でこの法を専念に修めていたら、必ず生死を解脱できる意味だ。今日はこの灌頂を成熟にしたいので、簡潔な身語意による加持を皆に与える。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは継続的に灌頂正行を賜って、そして、参列者を率いて祈請文を唱えた。

今日の法会に参加しても恭敬心を持っていなかったら、上師の慈悲心は動かない。『無縁大慈、同体大悲』は衆生の恭敬心によるものだ。衆生に恭敬心がなければ、上師の慈悲は起動されない。分かりやすい例がある。釈迦牟尼仏と観世音菩薩は慈悲だ。そうでなければ仏や菩薩になれなかった。だったら、地球に災難に遭う衆生がいるはずがないのではないか。求めれば応じてくれるのではないか。慈悲心を起動させるには、敬った誠意の気持ちで願わなければならない。そうしたら、慈悲は垂憐になれる。『垂』は上から下へという意味だ。上師はあなたたちと違う。果位のためではない。上師はずっと修行しているので、福報はきっとあなたたちより多い。人に助けてもらいたい時に、必ず恭しい態度を取るのと同じだ。『自分は18才になった。法本がほしい。』と、跪くとこう話した弟子がいた。こんな態度でいいのか。今時、若者でも年寄りでも皆同じだ。法師が念誦してくれなかったら、法師は慈悲でないと言ったり、罵ったりする。こんな態度は仏菩薩をいじめるのと同じだ。あなたたちは仏菩薩のことを怖いと思わない。仏菩薩は地獄に堕ちることをあなたたちにさせない。あなたたち自身が堕ちたくなければ堕ちることはない。だから、あなたたちは怖くない。外道の信徒は地獄に堕ちるのが怖いから、こんな態度で彼らの神に向かって話さない。あなたたちはタンキー(童乩)が怖いと思っている。タンキー(童乩)があなたを叩いたり罵ったりする時、神がやっているとあなたたちは思う。しかし、上師の言葉をあなたたちは怖がらない。仏法の特徴をよく理解しなさい。いい加減なことはだめだ。それから、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参列者に「身」の灌頂を賜った。

ただ今、あなたたちは三昧耶戒を誓ったので、今生、仏、上師、本尊を敬わなかったら、将来は生生世世を経ても成仏できない。たくさんの人にとって、成仏できるかどうかはどうでもいいことだ。来世また人間に生まれて楽しめばいいと思う。しかし、ミラレバ尊者は、輪廻すれば、地獄に堕ちる機会があると開示したことがある。だから、三枚耶戒は仏菩薩、上師、本尊への約束だ。本尊咒をよく念誦すべきだが、どのくらい念誦するのがポイントではない。要はあなたの心を改めることだ。三枚耶戒を破ると、懺悔しても無駄だ。役立つ法門は一つしかない。リンチェンドルジェ・リンポチェは厳しく要求しているが、三枚耶戒の重要性を知っているからだ。今日あなたたちは三昧耶戒の誓言を読み上げた。この戒を守るかどう、どうでもいい。地獄に堕ちるかどうかを心配する必要もない。仏菩薩は地獄に堕ちることを私たちにさせない。しかし、約束を守らない人は、地獄に堕ちる。約束を守らない人が悪行をするのは当たり前だ。彼らの行為はきっと悪い方向に行ってしまう。一方、約束を守る人は、教えをちゃんと聞くので、悪業を作る機会も減るのだ。

法本に『願在主尊加持下、完成令悦意服侍、三門供養上師尊、生生世世為弟子、依恃上師不分離、請您随意差遣我。』という言葉がある。

これらの言葉から、どのように『如理(理に従って)』で密乗の誓言を守るべきかが分かる。『如理』の意味だが、仏が教えた戒律を離れないこと、そしては現地の法律を離れないことだ。どうやって誓言を固く守るのか。主尊の加持が必要だ。そうしたら、上師の頼れる助けがもらえる。だから、上師に喜んで仕え、身口意で供養し、生生世世で弟子にならなければならない。これこそが密乗の不共皈依だ。顕教ではこんな話を聞いたことがないだろう。今世が終われば、それで終わり、浄土で会うことになる。上師の灌頂を受け、三枚耶戒を破らなければ、仏果が成就できるまでに、金剛乗の上師は生生世世あなたのことを済度し、面倒を見る。今世、ジッテン・サムゴンはリンチェンドルジェ・リンポチェの命を一回助け、仏法を一回教えた後姿を消したようなことだ。ジッテン・サムゴンの時代から今まで八百年以上も経ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェを弟子として済度してくれた。これらの言葉から、密乗上師の重要性が分かる。上師の監督、引導がなければならない。あなたたちがもう一人の六祖だったら、話は別だ。六祖でさえ五祖に教えてもらう必要があった。六祖は詩偈を書いた後、五祖からの試験を受け、やっと六祖の衣鉢を受け継いだ。自分で修行できるから、見てもらう必要がないと思ってはいけない。業力に制限されるよりも、上師に監督されたほうがいい。あなたたちは生生世世業力に縛られる。業力から離れることはない。因果、業力を信じないものは皆邪見だと、仏はこう話した。因果、業力を信じなければ変わった行動を取ってしまう。」

リンチェンドルジェ・リンポチェは手に緑度母の仏像を持って開示した。「この緑度母仏像は、教派の大成就者であるユンカ・リンポチェからリンチェンドルジェ・リンポチェに伝えられた。その時、ユンカ・リンポチェはこの緑度母仏像を、リンチェンドルジェ・リンポチェの頭頂に置いて加持した。当時撮った写真に不思議な瑞相がたくさんあった。加持力は大変強い。神通を鼓吹するように思われたくないので、それらの瑞相の話はしない。それから、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いてアキ護法を修めて、また、修法が円満になった後で、慈悲的に続けて開示した。

直貢噶舉には五十の本尊の灌頂がある。密法を学んで全部の本尊の灌頂を受けたい人もいるが、そんな必要はない。一生で五十の本尊を円満に修めたくても無理だ。基本の本尊のほかに、岩伝法の灌頂もある。つまり、蓮師が伝えた灌頂の法本がまだたくさんあるのだ。灌頂の意義は、この本尊を修めることを認めてあげることだ。私たちは業報身なので、単に自分の力では今生の業力を変えられない。そのため、他力に頼る必要がある。浄土宗では、単に念仏で仏による他力の助けを得るという言い方があるが、灌頂の過程がないので、念仏の時は時々、心が迷ってしまう。

また、今時の人は学仏する際、民主的になりたくて監督されず、自分の意思通りに学びたい。衆生のこんな心は、仏法が1万年以後消えるようにしてしまう。衆生は自分の心を約束する能力がない。上師、仏菩薩、本尊の加持と監督がなければ、衆生は気を引き締められる。学仏は人の生活から遠ざかる必要がない。あなたたちはリンポチェになれなくても、わざと山の奥に隠れて修行する必要がない。しかし、閉関が必要だ。一生において閉関することがなかったら、生死を解脱する可能性はなかなかないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの修行過程、そして歴代の祖師の修行過程から、閉関しなければならないとはっきりと分かった。閉関できる適切な場所がなかったら、外部のあらゆる因縁を止められない。今は閉関センターがないので、上師は厳しい方法であなたたちを監督するしかない。ほかの方法はないのだ。供養だけをもらってあなたたちの好き勝手にさせることが、リンチェンドルジェ・リンポチェにはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェがあなたたちに丁寧に話すことでもあったら、そんな時は気を付けたほうがいいよ。」

リンチェンドルジェ・リンポチェは法務担当の弟子たちを叱った。「上師の周りで仕える弟子は皆、緊張して震えながら、怒られるのを恐れて処罰されるのを心配する。それは、あなたたちは法本通りにやらず、喜んで上師に仕えていないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王に仕えた時、緊張したことがない。何故なら、尊勝なる直貢チェツァン法王に仕えた時、リンチェンドルジェ・リンポチェは心に喜び、歓喜があり、上師に仕えることが弟子の義務だと思い、謙遜的に仕えたので、自然にうまく仕えられたからだ。

午前中、予備法を修めた時、法務担当の弟子の中で間違えた人がいた。リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ何も言わなかったが、その弟子は以前にある法務担当の弟子のまねをして自分の頬を叩いた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなことを要求したことがない。しかし、彼はもう一人の弟子のまねをして自分の頬を叩いた。いっそう、その弟子を上師にしてその伝承を受け継げばどうだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ古希の年になる。あなたたちはまだ若いのに、しょっちゅう過ちを犯している。それは、あなたたちは学仏していても今生で生死を解脱したいと決意していないからだ。未だに世俗の八風の中にいる。少しのことでもすれば、上師に褒められたい。よくやった、利口だと褒められたい。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王に仕えた時、世俗の八風を全く気にしなかった。上師に仕えるのが弟子のやるべきことだ。上師は受けようか受けまいか、上師次第だ。ちょっとしたことで上師に褒められたくてやさしくしてもらいたいと思う必要がない。あなたたちを扱う時、リンチェンドルジェ・リンポチェの態度が丁寧になればなるほど、あなたたちは気を付けなければならない。誰も叱らなくなったら、離れる時だ。

今日は緑度母の灌頂を授けた。灌頂は必ずしも伝法するとは限らないし、必ず法本を与えるとも限らない。法本の中で、灌頂する時、必ず法本を与えなければならないと書かれていない。上師に対するあなたたちの心に応じる必要がある。過ちを犯したのは意図的かどうかを問わず、学仏の心構えが正しくなくて正信を実践しなかったら、法本を伝えることはない。例えほかの所で法本を手に入れ、口伝してもらったとしても、あなたたちは修められるとは限らない。今日の法本は尊勝なる直貢チェツァン法王が自らリンチェンドルジェ・リンポチェに伝えた後、更に伝えられたものだ。この伝承は清浄で、望むことがないので、今日、法を求める時は渇望した心を持たなければならない。跪くとすぐ上師からもらいたいと思ってはならない。二祖は一本の腕を切って法を求めたが、あなたたちはそんなことをする必要がない。髪一本でさえ切らなくていい。とにかく、法を求める心が大事だと言っている。今は科学が発展すればするほど、仏法への尊重も減っていく。もし、仏法は貴重でなく、役立たないものだとしたら、数千年も伝わるはずがない。これほど修行して学仏したい人もいるはずがない。仏法はきっと人と衆生に役立つが、あなたたちの決意次第によるのだ。法会が円満になり、弟子たちは、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる灌頂を賜う事と修法と開示に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを見送った。

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2016 年 11 月 13 日 更新