尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年5月1日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、参加者全員に貴重な仏法を開示した。

今日は密法の八大成就法の一つである施身法を修める。施身法はあるチベットの在家瑜伽士が書いた法本だ。その女性は結婚して子供がいた。その伝承については、今でもその法脈を修める人がいる。施身法は顕教の『大般若経』の理論、及び供養・布施の法門に基づいたものだ。密法には、大印契の離戲瑜伽、観想、真言などが一つになった法本があるほか、ポワ法も含められている。施身法は漢語の翻訳で、最初の文字は布施、体を布施して供養し、苦しむあらゆる有情衆生を利益する意味だ。チベット仏教のしきたりでは、この法を学ぶには十年の顕教の基礎が必要だ。顕教の基礎とは、釈迦牟尼仏が話した全ての仏経について正確な概念を把握し、自己意識の考え方を持たず、他人の影響を受けて仏陀の教えた仏法の真義に対して態度が変わることもないことだ。この法本の本尊はマジラ尊者であり、マジラ尊者の頂戴、即ち頂輪上方の上師は釈迦牟尼仏だということだ。それで、この法本は釈迦牟尼仏が伝授したものだ。

顕教を十年修めたら、上師は不共四加行を伝授する。不共四加行をきちんと修めた後、上師は一つの灌頂を伝授し、修持のため、一人の本尊を行者に授与する。六字大明咒を例に挙げよう。閉関して百万回を完全に修める必要があるが、決して口先で唱えながら、計数器で数えることではない。必ず口伝による法本を通じて生起次第と円満次第の法本に従って修めなければならない。こうして百万回を修めなければ、認められない。この種の閉関は普通の禅七・仏七(座禅・念仏を七日間行う瞑想修行法のこと)とは違い、別のレベルの閉関だ。本尊を円満に修め、兆候が現れる。兆候とは、仏菩薩を見ることや感応することでなく、修行面において、自分が閉関前に持ったいろんな考え方に大きな変化が自然に起きることだ。このような兆候は必ず自分の上師の確認を受けなければ、承認されない。今時、閉関後、感応があって自分の修行に成就ができたと思う人がいるが、大変危険なことだ。とにかく、本尊と相応できてからでないと、施身法を伝授するかどうかを考える必要はない。

施身法には二つの部分がある。最初に学ぶのは自利の法本だ。人を助ける前に、自分は能力を持つ必要がある。金剛乗の修行には、まず自分が修める法本が必要だ。自利とはいえ、法本の内容は利他的なもので、自利のほうが少々多くなっているだけだ。これもまた、閉関で施身法を修める過程が必要だ。閉関が円満になってから、初めて利他の法本が伝授される。つまり、今日の修める法本だ。

利他の実践は、念誦、拝懺をすればよいことではない。台湾や中国の顕教はいずれも拝懺をよくするが、拝懺の目的を忘れている。拝懺したら、悪いことが起きないとか、一人前になって出直せるとかを思う人がたくさんいる。この考え方は間違っている。中土で最も有名な懺は『梁皇宝懺』だ。その起源は、梁武帝の妃が嫉妬心の強い人で寵愛を手に入れるため他人とよく競争し、その妃が死後畜生道に堕ちて大蛇になったことからだ。梁武帝は宝誌公にこの懺を書くことを頼んだので、宝誌公は持戒した比丘を率いて千仏を拝んだ。それで、梁武帝の妃はやっと畜生道から離脱でき、欲界天に行けた。この懺から分かるように、拝懺は死者に役立つ。しかし、懺を行うことで功徳主や副功徳主、あるいは霊璽の設置に値段を付けたら、役立つだろうか。分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェは長年、学仏してきたが、仏経の中でこんな内容を見たことがない。施身法を修める時も供養が必要だ。何故なら、福報は供養を通して生じるからだ。どうやって供養するかは、供養する人が決める。一切の縁はあなたたちから始まる。

供養・布施には財施、法施、無畏施がある。財施の効果については、あなたのこの一生における受用の全ては過去世で財施をしたことよるものだ。受用とは、着る服があり、食べる食物があり、住む家があり、稼げる給料がある意味で、何れも過去世の財施によるものだ。アルバイトして給料をもらう概念とは違う。安定した仕事を持たず、あるいは給料をもらっても病気で使ってしまう人が多い。現代社会の労使トラブルは何故どんどん増えたのか。雇用者は労働者に給料を払っていると思っている一方、労働者は雇用者のために働いているからこそ、雇用者は利益が得られたと考えている。それで、労使衝突が起きた。この状況になったのは、福報と功徳がどう得られたかを、皆は理解していないからだ。それで、誰もが自分の重要性ばかり主張している。

つまり、出家や在家を問わず、今生で受用ができる全ては過去世において財施をしたことがあるからだ。毎日使っていることは、過去世の財施による福報を毎日減らしていくのと同じだ。観察してみればよい。数少ない大金持ちがたくさんの財産をまだ持っているほか、普通の人は六十才を過ぎると、貧乏になっていく。もちろん、今は定年退職金があるので、福祉はよくなっている。貧乏の原因は何だろう。財を使い切ったからだ。財には健康も含められている。病気になるのは財が減っていることだ。仏法は、供養・布施をすることを教えている。別に、仏や上師はお金を必要としているわけではない。あるいは、お金で福報が買えるわけでもない。あなたたちの今生の福報を持続させるためだ。福報を増加するのでなく、中断することなく存在させるためだ。五百元や千元はたくさんの物に変えられない。あなたの全財産が五百元であれば、それを全部供養に出したら大したものだ。しかし、そうできる人はいない。誰もがお金がないことを心配している。リンチェンドルジェ・リンポチェは何故修行できたかについて、疑問を持つ人が多くいる。リンチェンドルジェ・リンポチェはお金を失うことを決して心配せず、仏法が学べないことだけを心配するからだ。今生において供養・布施を続けてするには二つ大きい理由がある。一つは、過去の財施は今生においてずっと使われており、銀行預金みたいに、ずっと引き出していたら、最後は使い切ってしまうからだ。また、仏法を学習、聴聞する福報を与え、学仏の障害を減らすのも一つの理由だ。多くの人は間違った観念を持っている。求めに来る時、御捻りを一つあげれば、何でも求められると勘違いしている。

財施は、外財、内財と秘密財に分けられる布施・供養だ。あなたたちに今できることは、外財の布施・供養だけだ。外財とは、あなたたちの金銭、好きな全てのものだ。あなたたちの学問も含まれる。他人に、何かの実践ができるように教えてあげることを法の布施だと思っている人が多いが、この考え方は正しくない。同じく外財に過ぎないのだ。仏法には法界財があるが、これについては、後ほど説明する。内財の供養・布施は仏弟子こそができることだ。即ち、全部の身口意で供養・布施に捧げる。施身法も内財の布施・供養だ。ほかに、密宗には秘密財の供養があるが、ここでは話しにくい。分からないから話したくないのではない。あなたたちは密法を学ぶ資質がないので、話さない。財の布施は修行するか否かに関係なく、大変重要な資糧だ。あなたは今生、学仏も修行もしなくても、財の布施を止めるにはいかない。それで、仏教は収入の四分の一で供養・布施に使うことを教えている。しかし、一々計算する弟子がいる。彼らは税引き後収入の四分の一を供養に出すようにしている。収入の四分の一とは、稼いだ総額の四分の一だ。納めた税金について、政府はあなたたちのためのことに使う。供養のことをこのように計算すべきではない。こんなに供養するとしても僅かの人天福報しか得られない。

財施をどうやって功徳に変えるのか。これは重要な話だ。私たちは常にお金がないことを心配している。お金がなければ、暮らしは困ると悩んでいる。お金がなければ、確かに暮らしは貧しいが、お金があることもつらいのだ。だったら、どうやって財施を修行の功徳に変えられるのか。まずは、計算尽くしないことだ。供養・布施の因縁が現れる際、その時に初めて浮かんだ意念が大事だ。しかし、あなたたちは、まだどのくらい残っているかとか、いつになったらお金が入るとか、どうしても計算したい。リンチェンドルジェ・リンポチェの為した布施・供養の例を、皆は見てきただろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは決してお金があるかどうかを考えない。しかし、誰も聞かない。財の布施を正しくしていたら、功徳・福報は生じる。そうしたら、体はもちろん健康になる。尋ねに来る必要はない。だから、施身法法会に参加した弟子の中で、体が丈夫になる人と体の弱い人がいる。差別は『信じる』ことにある。信じなければ、百万回参加しても無駄だ。しかし、信じる人は、信じるからこそ、上師が布施・供養をする時、彼らはその功徳の大海にいる。特に、施身法にあるちょっとした段落は衆生の病を軽減するか、あるいは治すためのものだ。何故、法本にこんな一段落があるだろうか。体がよくなかったら、修法したくてもできないからだ。どうやって修めるかについて、あなたたちは聞く資格がないから、話すわけにはいかない。

法施だが、他人に念誦、拝懺を教え、皈依を説得することを法の布施だと思っている人が多い。私たちは講経する能力がないし、他人を済度する能力もないが、どのように法の布施ができるか。法の布施は大事だ。法の布施がなかったら、あなたの為した全ての財施は、来世にならないと使えない福報に過ぎず、功徳だけが今生において使える。だったら、財施の福徳を一体どうやって功徳に変えられるのか。法の布施を通じなければ、起きないのだ。どのように起きるかというと、私たちは毎回、布施をする時、見返りを望んではいけないことだ。供養・布施をしたら、人生はうまくいくようになり、病気は治って死ななくなると思うと、直ちに福報になってしまう。供養・布施をするのは、人間にとって食事と呼吸が必要だというのと同じ概念だ。

どんな心構えで供養・布施をすべきか。まずは、懺悔心で供養・布施をすることだ。利益衆生のための能力がないことを懺悔する。自分は未だに輪廻の大海を輪廻していることは、自分にまだ間違いがある証だ。そしては、慈悲心で供養・布施をすることだ。慈悲は、誰かを助けたら自分は喜ぶことではない。慈悲は、一切の衆生が遭難している時、同体大悲が理由で、自分も彼らと同じ立場であることだ。衆生の苦しみには清浄な本質があるが、衆生は生死を解脱していないので、私たちも影響を受ける。どのように法の布施の効果を発生させるかについては、『華厳経』に教えがある。何れの法本の最後にある回向にも教えがある。つまり、あなたたちが為した、利益衆生、自利の法の全てを法界の一切の有情衆生に回向する必要があることだ。対象を指定する必要はない。たくさんの名前を唱える人が大勢いるが、あなたたちの眷属も衆生に属しているので、たくさんの名前を言わなくてもいいだろう。あなたの眷属に何かができたのは、たくさんの衆生と悪縁ができ、あなたの眷属に対する衆生が抱いている恨んだ心が解けられていないからだ。それではよくなるはずがない。たくさんの癌患者は加持を得た後、苦しまなくなるが、理由は、冤親債主の瞋恚心が消えたからだ。

眷属のために、自分のできることは何かを、リンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねる人がたくさんいた。」リンチェンドルジェ・リンポチェは以下のように開示した。「あなたたちは何ができるというのか。真言をたくさん唱えたら、よくないことをたくさん解決できると思う人が多くいるが、間違った考え方だ。供養・布施の心がなければ、真言を24時間唱え続けても、拝仏しても役立たない。未来世の人天福報を培うことしかできない。誰もが今の苦痛が消えることを望むが、今の苦痛は過去において供養も布施も守戒もしなかった結果だし、今のやっていることは未来のためだからだ。そうしたら、未来のためだったら、やらなくていいし、どうでもいいと思う人が出てくる。こんなに考えていたら、またも間違いだ。今からやり始めたら、未来はきっとよくなる。いつからよくなるだろうか。死ぬ前からだ。決意して改め始め、やり始めたら、死ぬ前、三悪道に堕ちる現象は消える。集中治療室に入ることも、手術室で切られることも、家族が喧嘩し合うことも、たくさんの弟子がいろんな悪いことをして死なせてあげないこともなくなる。

あなたのやっている法施は自分が悟りたいため、果位を得るため、弟子を取るため、上師になりたいための何れでなかったら、こんな法施の回向は必ず役立つ。法の布施は学仏者の命だ。法の布施をしなかったら、あなたたちはリンチェンドルジェ・リンポチェに金銀をいくら供養しても、あなたたち自身の修行のためにはならない。大きい福報の累積しかできない。法の布施をはっきりと理解したら、未来に無畏施をする資格を初めて持てる。無畏施は怖がらず、心配せず、死亡を恐れないことを人に忠告することだと思っている人が多いが、そうではない。無畏施は済度のことだ。死者は息が絶えた後、未来の体験についてちっとも知らないから、ひどい恐怖心を持っている。仏法こそが死亡に対して恐懼せず、未来世に対して怖がらないように、死者を助けられる。これもリンチェンドルジェ・リンポチェの済度を得た死者の遺体は柔らかかった理由だ。恐懼、緊張しなくなり、ほっとしたからだ。これこそ、無畏施と言える。この三つの布施をやり続けていたら、あなたの世間におけることも動き始められる。何故、あなたたちのことは動かないのか。拝仏すれば、何でも欲しかったり、御捻りをあげれば、何でも求めたかったり、常にお金がないのを心配していたりするからだ。

仏経にこんな話がある。観世音菩薩は如法に修行する人の全員に、今生において住む家がないこと、食べる食物がないこと、着る服がないことが決してないように承諾した。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェは以前、貧乏で食事するお金がなくても全く心配しなかった。観世音菩薩は承諾してくれたからだ。もし、最後に食べる物がない結果になったとしたら、きっと自分がきちんと修行しなかったせいだ。もし、住む家がない結果になったとしたら、きっと自分が間違いを犯したせいだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように自分を見直している。あなたたちは、学仏はたくさんのお金がかかると思うが、学仏でお金が無くなるのは、学仏と関係がないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは貧乏の時期があったから、あなたたちのことを言える。菩薩、上師を信じたから、乗り越えられた。もし、貧乏で飢え死になったとしたら、自分はきちんと修行せず、教えを聞かず、ちゃんと学べなかったしか言えず、全部自分の問題だ。仏菩薩、上師、仏法には関係がないのだ。ほかの外道は奉献した後、奉献でお金が無くなると思う人がいないが、仏教徒の態度は違う。仏菩薩、上師はあなたたちの機嫌を損なうのを心配しない。あなたたちを懲罰することもしない。全ての因果に関する責任は、あなたたちにあるからだ。

台湾で仏法を弘通するのは極めて困難なことだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは一部の出家衆を見て悲しく思った。あなたたちのやり方に従わなければ、彼らは生存できない。しかし、あなたたちのやり方に従っていれば、それらの出家衆は今生で成就のある修行ができないとよく分かっている。幸いにも、仏菩薩は慈悲なので、一部の出家衆の面倒を見る能力をリンチェンドルジェ・リンポチェにくれた。学仏であなたたちの欲望が満足されないからと言って仏法を誹謗することをしてはならない。お金があるかどうかは、あなたの供養・布施とちっとも関係がない。リンチェンドルジェ・リンポチェもかつて目先の食事を済ませば、次の食事があるかどうかも分からないほど貧乏だったし、数ヶ月の家賃も払えなかった時期もあった。しかし、道場に必要があった時、事務所の家賃の支払いを遅らせてもは道場の護持を優先させた。あなたたちの中でこんなことができる人がいるのか。いないはずだ。これもリンチェンドルジェ・リンポチェはリンポチェになれたが、あなたたちはそこに座って叱られる分しかない理由だ。何故、リンチェンドルジェ・リンポチェはできたのか。『信じた』からだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの家族は、リンチェンドルジェ・リンポチェの学仏を止めることが決してできなかった。あなたたちの場合、姑やら旦那やら女房やら妹に叱られるのを心配する。外道を信じる人が誰かに怒られるのを心配するという発言を、リンチェンドルジェ・リンポチェは聞いたことがない。他人と争うべきだと言っていない。仏菩薩に対する自分の信念を固めるべきだと言っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは転生のリンポチェではない。今世で信衆から修行してやっとなれたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは少しの成就が得られたのは、尊勝なる直貢チェツァン法王と諸仏菩薩がリンチェンドルジェ・リンポチェをかわいがったのでもない。ちゃんと教えを聞いたからだ。あなたたちはどうだろう。十分の一の話だけでも聞き入れることがあったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは嬉しいよ。

今日、施身法を修めるのは、あなたたちの煩悩を断つためだ。まずは煩悩障で、何もかも煩悩という障害だ。そしては所知障で、自分は知っている、何でも理解して分かっていると思うという障害だ。この二つの煩悩は、私たちの修行、学仏、輪廻停止の道において大きな障害を起こす。

法会の進行中、皆は専念しなさい。この法はリンチェンドルジェ・リンポチェが書いたものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェの上師が伝授し、かつ、リンチェンドルジェ・リンポチェが公開的に修法できると認証してくれたので、あなたたちは法に対して疑いをもってはいけない。この法はあなたたちのためになるかどうかは、あなたたちの心次第だ。信念、慈悲心、懺悔の心を持っているかどうかが肝心だ。ここで法会に参加している人数は千五百人以上だが、それぞれに得られる利益もきっと違う。違いは、あなたたち本人の福徳・因縁、および三宝に対する信念によるのだ。信念がなければ、病気になったりする。

密宗を誤解する人が多い。密宗はたくさんの骸骨を使うから、鬼道の済度をしているのではないかとその人らは考えている。実際に、あなたたちの参加する水陸大法会に焦面大士がいる。観世音菩薩が鬼道の衆生を済度するために鬼道の相を現した姿だ。それらの骸骨は人生の無常さを表す。死んだら、骸骨の以外に、何も残らない。そしては衆生に、修法者はあなたたちと同類、つまり、四摂法にある同事だと教えている。そうしたら、衆生は、仏は上方から降りてきたからと言って触れ合うのを避けなくなる。更に、人生は死亡という無常だ。いくつまで生きられるから、死亡は自分に関係がない、或はまだ自分の番になっていないと考えてはいけない。学仏者は死亡の無常さを完全に受け入れたら、学仏の道において精進できるし、諦めずに努力できる。この言葉は、出家者にも在家者にも適用する。

家にいていつも大変忙しくて修行する時間がないと思わないでほしい。リンチェンドルジェ・リンポチェも在家者だ。尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日修行していると、公開的に話したことがある。何故、直貢チェツァン法王はこう話しただろうか。理由は、リンチェンドルジェ・リンポチェは心で、毎日修行している。まさにリンチェンドルジェ・リンポチェがあなたたちにあげた教えのように、毎日、寝ぬ前に一日中の為した全ては皈依の戒を違反したかどうか、上師、諸仏菩薩と衆生への約束を破ったかどうかを見直すべきだ。あったら、直ちに懺悔して二度と犯さないと決意すべきだ。明日になるまで待つことはできない。仏法の最も重要なところは即座、即時だ。今時の人間はゆっくりと行動する傾向がある。ゆっくりとしていたら、悪の業力はますます重くなり、善の業力は減っていく。しかし、直ちに調整し、悪の業力を止めたら、善の業力を累積する機会が出てくる。施身法の修法はこの理由だ。あなたたちを助けたいからだ。

施身法には、修法者が発願した言葉がある。『過去において諸仏が済度できなかった衆生を、私は未来にそれらの衆生を済度できると望む。』六道にいるどの衆生でも、修法者と縁があるか否かを問わず、助けがもらえる。大した願力だ。『済度』とは、念誦を教える意味ではななく、彼岸に渡すように済度することだ。この法は簡単で、完全に念誦すれば、得られるものではないと、あなたたちに体得させる。『大般若経』のあらゆる精神はこの法本にまとめられた。『大般若経』は大きい経典であり、普通の人が見られて理解できるものではない。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは続いて修法し始めた。顔から慈悲の光を放った。リンチェンドルジェ・リンポチェはその勝義の菩提心、無量の衆生を済度したい大慈悲力で、虚空の十方法界をもれなく照らした。修法の過程は極めて尊く厳かだった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは自らの苦労を全く構わず、完全な禅定の中で法本を念誦し、施身法の儀軌を進め、かつ、自ら六字大明咒を長らく念誦した。慈悲、真摯、荘厳、清浄、朗々とした法音が鳴り響き、無数の有情衆生を利益した。参加者たちは思わず涙があふれ落ちた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの修法による加持力は極めて殊勝であり、一切の衆生を震え上がらせ、威徳力は虚空に遍満した。法会が円満になり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示する。

今日、ここに来た、往生した衆生がかなり多くて複雑だ。自殺死の者もいれば、海難死の者もいる。また、死んてから長い時間が経った死者もいる。更に、杖をついている大変年長な男性出家者もいて、その後ろにたくさんの衆生がついている。今日の出家衆が多いためか、韋駄菩薩も来ている。今日、済度を求めたい者を、必ず済度してあげるが、もちろん死者の生前のいろんな業力と福報に応じなければならない。いくら悪くても人道に生まれるはずだ。それからは天界に行く。生前、阿弥陀仏を修めたことがあったら、浄土に行く機会がある。最も大事なのは、三悪道を離れるように死者を助けることだ。それから、阿弥陀仏浄土に行けるかどうかはその生前において修行したかどうかによるのだ。『地蔵経』の中で、家族は死者のために『広做仏事』をすることが言われている。『広做』とは、仏教に基づいて行う意味だ。『広』とは、ちょっとだけすることや年に一回法会に参加することではない。年に一回、名前を書いて済度するのは『広』ではなく、『狭』だ。地蔵菩薩の言った『広做仏事』は、道場巡りや仏寺巡りのことではない。仏が教えたことであれば、何でもすべきだという意味だ。やっていたら、あなたと関係している往生した全ての眷属は皆利益が得られる。人道に生まれることがあったら、学仏の機会がある。また、天界に生まれることがあったら、今生の終わる時は天界にい続ける機会がある。

済度が終わった後、自分とは何の関係もなくなると思ってはいけない。あなたたちと関係があるのは決まっているだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェや仏菩薩のことではないのだ。あなたたちの遺伝子は祖先と同じだから、彼らの磁場のエネルギーはあなたたちと連動する。お金を払って誰かに済度するのを頼み、終えれば、それで終わりだと勘違いする人が多くいる。皈依していないが、施身法法会に参加したいと申してきた人に、リンチェンドルジェ・リンポチェは一生で菜食することを要求するだろうか。あなたたちは十善法を修めていなかったら、誰かに祖先を済度してもらっても、単に見せかけることに過ぎない。皈依していない信衆からの供養を、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らない。供養をしなければ、福報・因縁もあり得ない。唯一の方法は、不殺生を要求することだから、信衆に一生で菜食するように要求する。不殺生は、諸仏菩薩と上師に供養することの表しだ。供養をしたからこそ、死者の福報が生じる因縁が現れる。

リンチェンドルジェ・リンポチェはテレビ報道から、全世界で地球の二酸化炭素排出量の問題で菜食の実践が鼓吹されているのを見た。菜食者の二酸化炭素排出量はより少ない。優雅な言い方ではないが、肉食者の二酸化炭素排出量がより多いので、地球を害していると言ってもよい。今の外道は皆、肉食禁止の時期を決めている。一方、仏教徒は常に仏菩薩を信じると言っているのに、家ではお肉を食べる。そうしないと、家族に怒られると言ったりする。家族のことがそんなに怖いのか。あなたたちはこの一生、きっと何か嫌いな食物がある。無理やりに食べさせられたら、きっと怒るだろう。しかし、菜食のことになったら、他人に怒れない。あなたたちは因果も仏菩薩も信じないから、菜食をする気がなければ、法会の参加はさせない。リンチェンドルジェ・リンポチェはもう年だ。いつもあなたたちを助けているが、あなたたちは法会に参加して福報が生じ、更にたくさんの物が食べられる。しかし、家に帰ったら、また肉食に戻る。衆生を傷つけてしまうのではないか。いっそう来なくていいのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を弘通する時、あなたたちの機嫌を取らないし、信衆がいなくなるのも全然気にしない。逆に信衆の増加を望まない。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法に基づいた行動を取るから、あなたたちを怒らせても構わない。だから、怖いことはない。もし、あなたたちは仏経の内容を信じないのなら、一体何を求めたいというのか。

仏法は何れの衆生にも効果がある。それぞれの衆生が実際にやろうとしたら、きっといつかできるのだ。しかし、やろうとしないなら、懈怠だ。不精だ。携帯をいじる時間があるのに、自分の問題を反省する時間がない。スマートフォンの発売は人類文化崩壊のきっかけだ。

一日中スマートフォンを使わないほうがいい。毎日見ていたら、目に悪いが、夜に寝る時枕元に置いたり、目覚まし時計にする人までいる。スマートフォンの電磁波は脳波に干渉して睡眠品質を低下させる。今時の若者はいつでも携帯をいじっている。年寄りまでも同じだ。何かのメッセージを漏らしてはいけないと心配する。ついに病みつきになってしまう。常に携帯を見ていたら、目によいことは絶対にない。早くも緑内障に罹る。携帯をいじる時間があれば、心の中でもっと仏号、六字大明咒を唱えたほうがいい。きっとあなたたちのためになる。これ以上携帯をいじると、八婆(お喋りオバサンの意味)や三姑六婆(人の噂話が好きな女性)になってしまう。リンチェンドルジェ・リンポチェも携帯を使うが、普段は電源を切っている。使う時だけ電源を入れる。見ることはそんなにないはずだが、皆は本当に忙しいようにしている。リンチェンドルジェ・リンポチェは世界各地を回っているが、倫理道徳が壊れて最もひどいのは台湾だ。毎日のニュースを見ると、たくさんの問題が見えてくる。

一見では、今の台湾で宗教は盛んでいる。実際に、そうではなく、伝統がないのだ。今の仏教界には伝統がなく、親はそれぞれの信仰がある。海外から伝わってきた仏教に付する外道もあるし、全部台湾で発展している。今日は法会に参加する因縁があったとしても、よい修行ができるとは限らない。善の種を植えたに過ぎないのだ。堅持しなければ、この因縁は今生において継続していくことがない。学仏の道を歩むのは難しいか簡単なのかは、あなたたちの決意次第だ。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子たちを率いてアキ護法と回向の儀軌を修め、法会は円満に終了した。弟子たちは、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる開示に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを見送った。

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2016 年 08 月 01 日 更新