尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年3月27日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、参加者全員に貴重な仏法を開示した。
今日は『宝積経』の開示を続ける。

経典には『又作是念。我久遠来為貪欲火之所燒然。未蒙雲雨。今忽遇之。是故即起大雲雨想。』とある。

『久遠』が指すのはこの一世ではなく、過去世でもない。輪迴を解脱するまでの生生世世のことだ。『貪欲之火』の『貪』とは『貪汚(汚職)』の貪だ。もともと自分に属さないものを、違法に或いは欺騙を用いて自分のものとし、強奪し、賄賂を用いて便を得る、他人を陥れる、他人を傷つけ自分が得をする、他人を不幸にし気持ち良く感じる。これらもすべて貪に含まれる。学仏人として、我々は貪欲の制御を身につけなければならない。無限に求めてはならない。仏は八万四千種の法門を開示し、人の八万四千種の煩悩を対治なさった。人のこれら煩悩は、八万四千種の貪ということもできる。畜生には、こんなにもたくさんの煩悩はない。腹いっぱい食べられ、十分に眠れれば満足だ。人は食べるものがあり住むところがあり着るものがあっても、満足しない。もっと欲しがり、いつまでも求める。

『欲』とは、そなたの眼耳鼻舌身意のすべての要求を満たすものを指す。自分は欲が少ない、考えるだけだ、という人がいる。だが、考えさえすれば、欲望が生まれる。人であるなら、必ず欲望がある。それは、生存の必要があるので、基本的な欲望が存在するからだ。例えば、我々の業報身はものを食べ、眠り、衣服を着る必要がある。この種の欲望が停止することはなく、回避することもできない。これは第一層の欲望だ。第二層の欲望は、出家衆は関係がないが、在家衆なら、男女関係の欲があるのも正常だ。例えば、あることを追求し、自分が得られるはずはないと明らかなのに、なんとかして手に入れ自分の欲望を満たそうとする。この種の貪欲は火のように自分を燃やしてしまう。この種の人は通常は心臓が良くない。なぜならしばしば火を用いて心臓を焼くからだ。医者も治療できない。脳も良くない。最後にはガンに罹りやすく、多くの病が生じるだろう。この上なく自分好みのものを見た瞬間、はっとして息を飲む。これこそ貪念だ。怒りを感じて人を罵ろうとする時、胸の中に火があるようなものだ。経典でいう火地獄と寒冰地獄は、こういうことなのだ。地獄とは仏菩薩が、衆生に仏法を信じさせるために創造なさったのではない。地獄は、衆生が自分の行為で作り出した結果なのだ。仏菩薩は地獄を創造なさらない。仏は浄土をだけ創造くださり、衆生が浄土へ行けるよう助けてくださる。死後に地獄へ堕ちるとしても、自分が見られる訳ではない、という人もいるが、死を待つ必要はないのだ。在生の際に地獄に堕ちる因を作っているのだ。

物を放り投げ、衣服を切り裂き、人を罵り、唸り声をあげ、絶叫し、階下に物を投げ捨てる人はみな、地獄に堕ちる因を植えつけているのだ。みな、連続ドラマでこのように演じているのを見たことがあろう。また、自分もこのように振る舞ったことがあろう。『地蔵経』には、理由なく物を破壊すれば地獄に堕ちる、との開示がある。この物には何の問題もなく、まだまだ使える。これもそなたの福報だ。それなのに随意に破壊してしまうなら、地獄に堕ちる。これは自分の物なのだから、どうしようと構わない、などと思ってはならない。どの物にもその縁があるのだ。そなたに福報があったからこそ、これを擁することができたのだ。縁がまだ尽きていないのに、物を随意に破壊するなら、そなたの福報をも損耗してしまう。よって、テレビや映画を真似て、怒り狂って物を放り投げたり、衣服を切り裂いたり、物を窓から投げ捨てたりしてはならない。捨ててしまえば、跡形もなくなり、スッキリしたと思っているのだろう。『随意』とは気の向くままに怒りを発することだ。みな経験があるだろう。これも地獄に堕ちる因を植えつけているのだ。これは貪欲だ。心が火に焼かれているようなものだ。現代医学では、理性を失っているという。衆生はみな本来清浄な本性を備えている。だが、清浄な本性は貪欲の火に覆い隠されてしまっているのだ。そなたは完全にそなたの欲望、そなたの知覚で物事を為す。一日中、誰かが自分を傷つけた、自分を苛んでいる、自分に悪いことをした、と思っていれば、地獄に堕ちる可能性がある。すべて菩薩道を修めたもののすることではない。皈依し、菜食し、礼仏していたとしても、やはり地獄に堕ちる。ただ、堕ちる地獄は小さめで、その時間は少し短くなるだろう。

我々は生生世世に欲望を用いて日々を過ごしている。だが、仏は我々に欲望を持ってはならないとは仰せでない。我々は有情衆だ。有情衆に欲望があるのは正常だ。だが、どうやってコントロールするのか?

経典には『未蒙雲雨。』とある。

生生世世で善知識に巡り会わず、導師に巡り会わず、或いは導師が仏法を講釈してくれない。長い間、貪欲の火に焼かれているからだ。経典では『雲』というこの文字を常用する。これは本当の雲を言うのではない。経典にしばしば出現する雲が形容するのは仏法で、慈悲雲、光明雲等たくさんある。これは天空の雲をいうのではない。以前リンチェンドルジェ・リンポチェは日本で『地蔵経』を開示した際、雲について開示したことがあるので、今回はここまでにしておく。『雨』とは法雨を指す。衆生の心は非常に複雑だ。数語の言葉で問題を解決できるなど有り得ない。雨は、小雨であろうと大雨であろうと、雨水はすべてとても細かい。水滴の一つ一つは非常に細密だ。すなわち、我々の清浄な本性が貪欲に覆い隠されていても、法雨は、我々の清浄本性を包み込んでいる汚れを洗い流してくれるのだ。ここで言う法雨は、すべての貪嗔痴をきれいに洗浄してくれ、我々の清浄な本性を取り戻させてくれるのだ。

自分には問題はないなどと思ってはならない。仏だけが問題がないのだ。八地菩薩になるまではやはり貪欲がある。そなた達これら凡夫なら言うまでもない。貪欲がないなど有り得るだろうか?『地蔵経』で説くように、起心動念はすべて業でありすべて罪だ。完全に欲望をなくすなどありえないし、『四大皆空』など有り得ない。『四大皆空』とは『ない』ということではなく、我々の身体は地風水火が結びついたもので、すべて因縁生滅だということだ。空とは『ない』ということではない。我々は欲望が不要なのではない。欲望がないなら、我々は生きていけない。腹がへれば何か食べたくなり、寒い時には衣服をもう一着着たいと思う。何かを見て買いたくなることもあるだろう。これは基本的な欲望だ。『貪欲の火』とは、自分の心の中で、自分を楽しませ、苦痛を感じたくないという欲望を限りなく追求することだ。永遠に楽しいことなど有り得ない。幸せは永遠ではないし、苦痛も永遠ではない。基本的な欲望のほか、人はしばしばさらに多くを欲しがり、永遠に満足しない。自分のものでない物に対して、なんとかして手に入れようと考える。

そなたが幸せを得たいと考えた時、衆生に苦痛をもたらす。そなたが苦痛を避けたいと考えた時、他人の苦痛を作り出す。ガンに罹ったことで、この世の終わりのように大騒ぎする人がいる。ガンを患っていることを、あらゆる人に言い、すべての人はそなたを慰めなければならない。そうして、誰かが自分に関心を払ってくれていると満足する。これも欲望だ。悪いことは他人と分かち合い、うれしいことは分かち合わない。一人で黙って病の苦しみに向き合えと言うのではないが、我々は自分を訓練しなければならない。ガンを得たのは自分なのだ。自分で向き合わなければならない。周りの人まで、自分と同じように暗い気分、鬱々とした気持ちに陥らせてはならない。死とはもともと孤独なものだ。事切れる時には孤独なのだ。死んだ後は、周りに多くの衆生がいたとしても、何も感じない。そなたは孤独に自分に向き合わなければならない。人はこの世で非常に孤独なのだ。限りなく貪欲に追い求めてはならない。今日仕事があるなら、しっかり取り組み、やり遂げたなら、それで良い。仕事があり、食べるに困らず、着るものもあるなら、それで十分幸せではないか。金がありさえすれば食べ物があるなどと思ってはならない。今日仮に停電し、店がみな閉まっていれば、金があっても何も食べられないのだ。物が食べられるかどうかは、その人の福報と関係がある。ミシュランの星付きレストランへ行けば、必ず良いものが食べられるという訳ではないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつてある高級ホテルに泊まったが、ちゃんと菜食できた。ところが、リンチェンドルジェ・リンポチェが行ったことがあるので自分も行こうと考えて行ったある弟子は、毎日麺の水煮しか食べられなかった。これは、第一にこの弟子には福報がなく、第二に貪欲だからだ。貪欲の火により、修行ができなくなるのではなく、貪欲の火があるので、自分には苦痛も煩悩もあると知り、こうして初めて諸仏菩薩の法雨、法雲により、汚れ切った神識と考え方を洗い流す必要があると分かるのだ。

雨により形容するのは、水はあらゆるものを洗い流すことができるからだ。上師に巡り会ったなら、導師と見なし、しかも大雲雨と見なさなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェを占い師だと思い、結婚について聞きに来る者がいる。これは上師を導師だと思っていないからだ。付き合い始めたばかりの頃にリンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねに来ておらず、一塁、二塁、三塁と進んでもリンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねに来ておらず、一塁から三塁へと駆け込み、ホームランを打ってからようやく尋ねに来る。なぜ結婚についてリンチェンドルジェ・リンポチェの保証を求めるのだ?因縁は随時変化する。良いものも悪くなり、悪いものも良くなる。愛は非常に複雑だ。なぜならこの愛にはあまりにも多くの人が関わっているからだ。そなたにはそなたの友人、家族があり、相手には相手の友人、家族がいる。欲望を満たしてくれれば、自分に良くしてくれるといい、欲望を満たしてくれないなら、良くしてくれない、といって相手を愛さなくなる。そなた達はこういうのではないか、どうだ?愛とは変化するのだ。相手が変わるだけではない。そなたは自分が永遠に不変だと保証できるのか?変わると言っても、浮気とは限らない。相手に対する愛はまだあっても、以前ほどには相手を愛していない、ということもあるかもしれない。よって、今後はこの愛という字を口にしてはならない。一切はただそなたの貪欲だ。尋ねるなら、付き合い始める前に聞きに来るがよい。始まったばかりの頃に聞きに来るなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはその人の性格はどうだ、と分析して聞かせることもできる。結婚相手としていいだろうか?と聞く人もいるが、もしリンチェンドルジェ・リンポチェが、この人と結婚したなら将来ひどい目に遭うと答えたなら、これではリンチェンドルジェ・リンポチェが破戒することになるのではないか?リンチェンドルジェ・リンポチェがこのように言うことなど絶対にない。

自分の子供が結婚する時、リンチェンドルジェ・リンポチェはただ傍観していた。聞かれた時には意見を言ったが、応援も反対もせず、よくてもただ物質的な応援をしただけで、保証はしなかった。自分の子供のことにさえ、まったく関わらなかったのに、そなた達は何を以ってリンチェンドルジェ・リンポチェに関わらせようとするのか?今後どうなるでしょうか?と聞くなら、二人が学仏修行をしているかどうかによるだろう。仏法を学んでいるなら良いだろうし、貪欲がそれほど多くないなら、少なくとも結婚後の衝突は少ないだろう。学仏修行していないなら、一日中貪欲を用いて相手に自分を満足させるよう要求し、そなたの本業を回復してしまう。そなた本来の業力により喧嘩が絶えなくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲を行いたいと思うが、誰もこの慈悲を感じてくれない。

我々は突然一人の導師に巡り会った。大雲雨と考え、この導師は凡夫でないと思わなければならない。彼がそなた達と同様、食事もし寝るとしても、心はそなた達とは違うのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの心はどうだろうか?尊勝なる直貢チェツァン法王、諸仏菩薩、アキ護法だけがご存知だ。そなた達には絕対に分からない。先週『若見沙門若婆羅門如法人已。』を開示した。菩薩摩訶薩は一人の如法の沙門、婆羅門を見ても、導師と考えなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王が認証くださったリンポチェだ。このような果位であるのに、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェを導師と考えず、占い師と見なし、この相手はどうだろうか、結婚はどうだろうか、とこのような問題ばかり聞きに来る。

経典には『菩薩如是為彼因縁。忍寒熱等諸苦悩事。及諸衆生能悩人者。』とある。

菩薩が一人の導師に巡り会ったなら、導師は彼に仏法を説く。よって、この因縁のために、菩薩は一切を忍ぶのだ。ここで言う『寒熱』とは天気を言うのではない。そなた達の貪念、嗔恨の心を言うのだ。自分にとって良かれと法を貪り、上師を貪る。それはすべて寒熱だ。菩薩が修行の過程で遭遇する気候は、そなたが想像できるものではない。ここの寒熱は世間的に言えば、リンチェンドルジェ・リンポチェが2007年にラプチ雪山で閉関した時のように、夜間は零下5度から零下15度、昼間も十数度にしかならないようなものだ。またかつて、インドで閉関した時には、気温は四十数度にもなった。この種の状況に遭遇しても、念頭によってのみ転じるのだ。今日一人の導師に巡り会えた。導師は我に仏法を教えてくれた。よって、自分の身の上に発生したあらゆる事を忍ばなければならないのだ。いわゆる忍とは、飲み込むのではなく、息を止めてやり過ごすのでもなく、一切を因縁と見なすのだ。寒熱等諸々の苦悩に出会っても、そのような環境で進んで行かなければならない。生きていくためには、適応しなければならない。諸仏菩薩が助けて下さり、上師が加持してくれる。何を恐れることがあろうか?そなた達は一日中怖がっている。それは導師を信じていないからだ。導師を占い師だと思っているからだ。

因縁福報が不十分なら、多くの逆縁が出現する。学仏人の心が、この念頭のために修めるのでないなら、忍べないだろう。そなた達は快適な環境とソファー、荘厳な道場を望んでいる。だがこれでは菩薩道修行ではない。菩薩道を修める人は、どんな環境であろうと適応できなければならない。ある年、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王にラピスラズリの缽を供養申し上げた。当時地面は泥水でぬかるんでいたが、リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり大礼拝を行った。なぜなら泥水はリンチェンドルジェ・リンポチェとは無関係だからだ。ラプチ雪山での閉関が終了した後、尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェを率いて三日間の火供を修められた。火供の円満後、リンチェンドルジェ・リンポチェは上師の伝法に感謝するため、泥水と雪で覆われた地面でやはり大礼拝を行い、一切の功徳を尊勝なる直貢チェツァン法王に供養申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分のことは考えなかった。上師は自分より重要だと考えた。『宝積経』を講釈する道場は非常に少ない。それは半分講釈するのが精一杯だからだ。みな、その辺りまで聞き、自分ができていないと思うと、逃げ出してしまうからだ。できない、のではない。そなた達はまったく行っていないのだ。

忍寒熱には、修法をも含む。台風であろうと、降雨、降雪であろうと、太陽が照りつけ酷暑であろうと、衆生が必要ならリンチェンドルジェ・リンポチェは修法する。菩薩道を行うのに選り好みするのか?そなたが好むもの、好まないものを、選別しなければならないのか?忍できないなら、それは自分の分別心を養っているのだ。分別心があるなら、慈悲を修めることはできない。法本上の『遠離愛憎住平等捨』を念じながら、このようには修めず、『愛憎住平等捨』はそなたとは関係がないなら、そなたの業は消えないだろう。何を見ても気に入らず、他人がやることなすことが気に入らない。寒熱とはただ気候について言っているのではない。最も重要なのは、そなたの心だ。貪念を起こせば寒であり、嗔念を起こせば熱なのだ。

経典には『及諸衆生能悩人者。』とある。

他人が自分に面倒をかける、自分に対抗してくる、修める時間をくれない、と一日中思っている。さらに、自分を集中させてくれない、その料理は好きではない、と責めている。それなら、すべて『諸衆生能悩人』を忍んでいないということだ。持咒の際、他人の話し声が邪魔で持咒できないという人がいる。少しの干渉も望ましくないと考えるなら、これは菩薩道修行ではない。修行時に誰かがそなたに煩悩を抱かせるのは、その人がそなたと有縁だからだ。過去世で他人の修行時にその人に煩悩を抱かせていなかったなら、この一世で誰もそなたの邪魔をしに来たりしないだろう。この種の考えがある人こそ、因果を信じないのだ。誰もが自分の思い通りでなければならないと要求する。あらゆる人が自分の思い通りだなどとあり得るだろうか?衆生が我々にもたらす煩悩を忍べないなら、菩薩道を修めることはできない。衆生が悪事を働いていても、それを忍ばなければならないというのではない。忍で最も重要なのは、修行過程、学仏過程で、誰かがそなたに障害、煩悩を与えても、起嗔恨の心を起こしてはならないということだ。これはそなたの縁なのだ。受け入れれば良い。受け入れれば、過ぎ去ってしまう。受け入れられなければ、分別心が起きる。分別心が起きれば、慈悲心を修めることはできない。

なぜならこうでなければ、『見楽衆生不生著心。』であることはできないからだ。自分に煩悩をもたらす人を忍べなければ、喜んで衆生を見ることはできない。こうでなければ、造業した、破壊した、因果を犯したと一日中他人を罵り、衆生をどんどん嫌うようになり、傲慢になり、自分の修行は素晴らしいと思うようになる。菩薩道とは絕対に一般の凡夫が為せることではない。そなた達に為せるかどうかは重要ではない。重要なのは、この観念を理解することだ。なぜ、菩薩は苦を受けている衆生を愉悦して見ることができるのか?それは、自分が菩薩道を行えると知るからだ。菩薩の眼中には良い人も悪い人もない。ただ因果因縁があるだけだ。悪因を植え付ければ悪果が得られ、善因を植え付ければ善果が得られる。菩薩が衆生に利益する場合には、必ず因果から行う。この人が好きなのでこの人には多めに、この人は嫌いなのでこの人には少なめにということはない。この人は悪人なので放っておき、この人は善人なのでよくしてあげる、ということはない。こうであるからこそ、衆生に執着せずにいられるのだ。衆生が苦しんでいるのを見て喜ぶ、というのではなく、衆生を済度させたので喜ぶ、というのでもない。衆生に与えられた煩悩を忍ぶことができたのを喜ぶのだ。そなた達はしばしばリンチェンドルジェ・リンポチェに面倒をかけに来るが、リンチェンドルジェ・リンポチェも説法を諦めたりしない。菩薩道を修めることができないとしても、それはそなた達の事だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは講じるべきはすべて講じ、そなた達に執着もしない。縁が尽きれば何もないのだ。縁が尽きるとは、衆生が仏法を聞かなくなることだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが怒るなどということはない。それはない。リンチェンドルジェ・リンポチェが罰するということはない。それはない。『宝積経』に基づき衆生を教導しているだけなのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに、親族、弟子を含む一切のものに執着していない。もし、まだこれらに執着しているなら、リンポチェとは呼べない。衆生はリンチェンドルジェ・リンポチェに多くの煩悩をもたらす。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは忍ぶ。それは何事かが起きることを恐れているのではなく、衆生はみな多くの無明を持っているからだ。衆生の煩悩が少なくなれば、善の心が出現する。よって待つ。いくら待ってもこの一生で現れないなら、次の生でもいいではないか!

経典には『若蚊虻等皆能忍之。亦能忍受飢渴等事。』とある。

ここでは蚊を忍ぶとある。これは、手を差し出して蚊に血を吸わせ、身体中いっぱいに刺されろ、ということではない。科学者のように手を箱の中に入れて蚊に吸血させるというのでもない。蚊やノミの中には病原菌を持っているものもいる。ここの忍とは、これらを害しようという心を起こしてはならないということだ。蚊が飛んで来たら、運が良ければ吸血できるだろうし、運が悪ければ吸血できないだろう、とだけ考える。これもそなたとの縁だ。今日蚊に吸血させたので、この蚊はたくさんの卵を産むだろう、また来たら吸血させてやろう、というのではない。仏法の忍とは、外在環境の影響を受けない心を持つことだ。他人が自分に喜びをもたらしてくれるからといって、その人に特別良くしようという心を起こさず、他人が自分に良くないからといって嗔念を起こさない。毎日念じている『遠離愛憎住平等捨』とは正にこれだ。前世の修行が悪かった、三悪道に堕ちて蚊になれ、と人を罵倒する人がいる。このように人を罵倒してはならない。寝ている時に蚊が飛んで来たなら、血を吸わせよ、というのでもない。蚊に刺されたことで、眠れなくなるなら、翌日の修行に差し障りが出る。このような訓練は、我々の執著と分別心を減らしてくれる。このように日々を過ごさなければならない。字面からだけ解釈するのではなく、仏の仰せを理解するには『心』が最も重要なのだ。

今日我々は五濁悪世に暮らしている。この五濁悪世を離れられない。ではどうしたらいいのか?仏法とたくさんの衝突があり、あらゆることを行えない、というのではない。汚水を捨てられないと思うなら、捨てなければ、罰金切符を切られるのだ。最も重要なのは『心』だ。今日そなたは蚊に刺された。それは、蚊がそなたに一口分の血の借りを作ったということだ。叩き潰すまで探そうなどと、蚊に対して嗔恨の心を起こしてはならない。普段から環境を清潔にしていれば、蚊は自然に来なくなるのだ。不幸にもそなたが行ったところに蚊がいたとしよう。だが、この種の昆虫がそなたを刺すかどうかは、そなたの福報修行と関係がある。うまく修行できている人は、蚊に刺されることはない。かつてある時、ある人が何か分からないものに刺され、すぐにそこが腫れてきた。毒があったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはその人の横に座っていたが、何ともなかった。その人の血の方が美味しいのだろうか。それは知らないが、これは修行と関係があるのだ。

一切すべては因縁法だ。蚊に刺されようがどうしようが、すべて因縁なのだ。菩薩道を学んだことで、そなたを害するかもしれないが、それも因縁だ。衆生と因縁がないなら、いかにして度衆するのか?山洞中に住んでいるとしても、衆生は面倒をかけにやってくる。地球上には多くの衆生がいる。我々の眼に見える衆生はこんなにもたくさんいるのだ。目に見えないものはどうだ。なぜ学仏すると、鬼に憑かれたように感じるのか?それは、心魔が出てくるので、鬼がいるように感じるのだ。菩薩道を学ぶなら一切を忍べ。害を及ぼさないなら、それは静かに座っているだろう。蚊のようなこんなに小さな衆生でも、我々は忍ばなければならないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェがラプチ雪山で閉関した時、毎晚二十から五十匹余りの蜘蛛が関房に入り込んできた。リンチェンドルジェ・リンポチェは袋を用いて、なんとか彼らをその中に入れ、朝外に出すようにした。またかつて、毛虫が首の後ろに這い上がってきたことがあったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは注意深くそっと退けた。力ずくで行ってはならないのだ。これら事情に遭遇したなら、忍だ。忍の功夫が出現すれば、あらゆるものが自然に変わる。

『亦能忍受飢渴等事。』で言うのは、閉関時の事だ。閉関の際には、食事や飲料水の心配をする必要はない。観音菩薩はかつて、そなたが真の修行人なら、喉の渇きや飢えでそなたを死なせることはない、と仰せになった。閉関していても、食事がいつ届けられるのだろうか、空腹になったらどうしよう、食事が来ないうちに胃が痛み出す、と心配している人がいる。食事ができるか、水が飲めるかは、すべてそなたの福報因縁だ。福報があるなら、大勢の人が列を成して食べ物を届けてくれる。リンチェンドルジェ・リンポチェがかつて閉関した時、食事を届ける担当の比丘尼が、その関房に人がいることを知らなかったが、関房内では電話もできず、壁を叩くこともできないため、忍ばなければならなかった。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェは一日食事をしなかったが、行うべきはやはり行った。

『亦能忍受飢渴等事。』と言う。ここの重点は、これらすべては我々の因縁福報だということだ。忍ばないなら、それは何かに執著し、貪欲が起きたということだ。菩薩道を修める過程では多くの事が出現する。そなた達が不如意と考える事がたくさん出現する。忍べるかどうかだ。それなら、菩薩道を修めず阿羅漢を修めよう、と言うかもしれない。だが、阿羅漢なら忍はよりいっそう必要だ。何かを口にし他人を怒らせても駄目なのだ。出家であろうと在家であろうと、菩薩道修行だけが衆生との縁の方法を変えることができるのだ。どんな事に対しても嗔恨の心を起こさずにいられるなら、いつか必ず冤親債主から害を与えられなくなるだろう。

経典には『見楽衆生不生著心。』とある。

ここでは、衆生に執著しないことを言う。この衆生と縁があり、救ってやったが、救ってやった後は忘れてしまい、再来するかどうかなどと考えない。

経典には『彼菩薩作如是念。我雖得受世間快楽。若我得聞一句法已。能成聞慧。生聞慧想。』とある。

『彼菩薩作如是念。我雖得受世間快楽。』とは、菩薩はこのような考えを持たなければならないということだ。多くの財や宝石を持つ菩薩もいる。この一世でさらに修行することでもっとたくさんを得る。多くの親族がいる菩薩もいる。これはすべて前世の修行によるもので、世間的な幸せを受けることができるのだ。だが、仏法に比べれば、これは真の楽ではない。そのため、法語を聞くことができれば『能成聞慧』と菩薩は言われる。

『能成聞慧。』と言うこの文は非常に重要だ。会いに来る人の多くは、仏菩薩が智慧を開いてくださることを願う。ではいかにして智慧を開くのか?それは『聞慧』からだ。智慧は他人から与えられるのではなく、心を込めて、恭敬して仏法を聞き、仏法を第八意識田、つまり阿賴耶識に至らせるのだ。阿賴耶識に至らなければ善の法雨はない。将来、因縁が成熟し、後得智を得なければ、原始智或いは本来智を開発しなければ、智慧が開かれることはない。そなた達は仏法を聞く時、リンチェンドルジェ・リンポチェが講じることが自分にとって有用であって欲しい、喜んで聞けることを講じて欲しいと願っている。そなた達は、上師が講じることが、自分が今考えているものでないなら、聞いても理解できない。これでは『聞慧』を得ることはできない。『聞慧』の『聞』とは恭敬の心で聞くことだ。『慧』とは智慧だ。つまり諸仏菩薩、歷代上師が開示する仏法で、衆生の生死解脱を助け、衆生がこの世間を離れられるよう利益することができる。講じるのはそなたの欲望、そなたの必要を満たすものではなく、すべて出世間の法だ。導師の開示のすべては出世間法だと理解できたなら、恭敬して聴聞した後、智慧は開き始める。聞くに当たってさえ不恭敬で、聞いても心に届かないなら、智慧が開けようか?必ずその場で理解しなければならないのか?そうではない。仏法を聞き、すぐに開悟できるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが釈迦牟尼仏であるばかりか、そなたは大迦葉尊者だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは釈迦牟尼仏ではなく、そなた達も大阿羅漢ではない。これら条件がまったく備わっていないのに、何を以って聞いてすぐに開悟できるというのか?

『聞慧』とは一日でも二日でも三日でもない。聞き続けなければならないのだ。経典には、仏のお側にはしばしば1200名の弟子がおり、仏に従いあちらこちらへ行き仏法を聞いた、とある。これら弟子はすべて阿羅漢だ。そなた達のような者ではない。これら弟子さえ、仏のお側にいても、なおまだ仏法を聞こうとするのだ。それは、智慧は無辺無際だからだ。知らない者が多い。聞かなければならない。聞いた後でなければ『聞慧』が生まれることはないのだ。

『生聞慧想。』とは恭敬心を以って導師が開示する仏法を聞き、聞いた後に第八意識田に至らせ、後得智に転じる。後得智に転じた後でなければ、聞慧は生まれない。『想』とは、恭敬心を以って導師が開示する仏法を聞き、仏法は我々と衆生の生死解脱を助けるもので、この種の智慧は聞き、受け入れるものだと知っている、ということだ。そなたにこの種の考えがあるなら、この種の『聞慧』はそなたの智慧を開くことを助ける道具となる。仮にそなたが上師が開示する仏法に先入観、比較法を以って臨み、傲慢な心で聞くなら、『聞慧』の考えは起こらない。そなたの智慧は永遠に開かれない。これこそ法門だ。

なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは在家衆でありながら成就できるのか?それは、聡明だからでも、たくさん学んだからでもない。かつて尊勝なる直貢チェツァン法王がチベット語で開示なさった際、リンチェンドルジェ・リンポチェは入定して心で聞き、恭敬して聞いた。いつ終わるのか、疲れたなあ、この後なにがあるんだっけ、などとは考えなかった。よって、聞慧が生まれたのだ。上師が仏法を開示したなら、理解できようができまいが、心を込めて聞き、恭敬心で聞けば、いつか必ず智慧が開け理解できるようになる。

『宝積経』を説く人は非常に少ない。それは、経験がないなら、説けないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェでも、もし実践できていなかったなら、『聞慧』をいかにして開示したらいいのか、どれほど重要なのかは分からないだろう。尊勝なる直貢チェツァン法王はチベット語で講じられた。その場には英語通訳もいたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは通訳を聞かず、尊勝なる直貢チェツァン法王のチベット語での開示だけを聞いていた。そなた達は、通訳だけを聞き、通訳を聞いて、尊勝なる直貢チェツァン法王が何を仰せかようやく分かったと言っていたではないか。仏法とはそなたに分からせるのではない。仏法はそなたに悟らせるものだ。どうすれば悟れるのか?因縁を具備する以外に、最も重要なのは智慧を開くことだ。いかにして智慧を開くのか?聞慧だ。釈迦牟尼仏はあまりにも慈悲深い。いかにして修行すべきか、ひたすらお教えくださる。だだ、そなた達は従わない。自分の考え、自分の方法を用いる。自分の考え、方法を用いるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたを仏と呼ぼう。仏教の方法を用いなければ、成仏できない。自分の考え方こそ正しい、上師と仏の講じる仏法を聞く必要はないと思うなら、そなたこそ仏だ。だが、そなた達は仏ではない。それなのに、それでも自分の考えを用いるなら、修行において、どうして得力できようか?不得力で一日中ゆらゆら揺れているだろう。

経典には『菩薩以是楽法因縁故。行布施不生憂愁。乃至無有憂苦等事。』とある。

菩薩は先ほど言った一切の方法を、非常に喜んで受け入れた。これは良い、あれは良くない、と選り好みしたりしない。結婚したほうがいいでしょうか、とばかり尋ねる。それこそ選り好みだ。上師がこの相手は良いと言えば、上師は慈悲深いと言うが、これは慈悲とは関係がない。楽法とは導師と仏がお教えくださる仏法だ。楽法とは非常に楽しい、というのではない。上師と仏が開示する仏法を完全に受け入れることだ。拒絕せず、排斥せず、完全に受け入れる。自分の考えを挟まず、信じて受け入れるのだ。自分の考えがないなんて、それではバカみたいではないかと言う人がいる。その通りだ。経典では、釈迦牟尼仏はしばしば弟子を叱責される。前回二度の法会では、愚痴盲目の地球上の人類について開示した。愚痴とは人を罵っているのだ。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが他人をバカだと罵ったなら、訴えられるかもしれない。だが、経典で講じるなら訴えられることはない。なぜなら依拠があるからだ。よって、仏はほんとうにとても慈悲深い。経典を用いて後世で伝法する上師を守ってくださる。上師が経典に依拠して仏法を講じるなら、訴えられることはない。

『行布施不生憂愁。』と言う。布施には財施、法施、無畏施がある。菩薩は布施を行う時、一切何も心配なさらない。リンチェンドルジェ・リンポチェは財施を行う時、金が足りるだろうかなどと考えないし、布施後に金がなくなったらどうしようなどとも考えない。いかなる心配も生じない。この種の思いが生じれば、それが憂愁だ。

直貢噶舉派が台湾で初めての道場を設立した時、道場は資金が必要だった。リンチェンドルジェ・リンポチェは先ず事務所の家賃を回して、道場を護持した。だが、家賃を払えなかったらどうしようなどとは考えなかった。そなた達はみな、お金が儲かったら供養しようと考えていただろう。供養布施は、金を儲けたら行えばいいのか?このような考えこそ憂愁だ。住宅ローンが払えなかったら、銀行と調整し利息を払い、それでも払えなかったら、家は差し押さえられてしまうだろう!もちろんリンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達にこうせよ、と言っているのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に家を売れ、車を売れ、と言っているのでもない。そなた達にこの種のプレッシャーをかけているのではない。一人の菩薩が仏法を受け入れ、空性を理解し、因縁因果を受け入れた。よって、彼は一切の力を尽くして供養、布施を行う。そのため、彼は心配しない。それは、布施は六波羅蜜を修めることで、自分の修行と度衆の福報を養うことができると知っているからだ。布施はどれだけ行うかではなく、すぐに行うかだ。ちょっと待って後で行おう、というのではない。

昨年尊勝なる直貢チェツァン法王は舍衛城の計画をお持ちだった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、計画の当初、尊勝なる直貢チェツァン法王がご苦労されていることを知った。そのため、自ら進んで、尊勝なる直貢チェツァン法王にいくら供養申し上げる、とご報告申し上げ、さらに尊勝なる直貢チェツァン法王に每月いくらか供養申し上げている。こうして、尊勝なる直貢チェツァン法王は心を煩わせることがなくなった。弟子であれば、上師の面倒を減らして差し上げるべきだ。これにより、尊勝なる直貢チェツァン法王は、時間を作って誰かに会ったりする必要がなくなり、より多くの時間を弘法に用いられるようになった。そなた達ならとても口に出せないだろう。口に出した後、お金が作れなかったらどうしようと心配するだろう。その時になってお金が作れなかったら、またそれはその時だ。だが実は、リンチェンドルジェ・リンポチェが口に出せば、菩薩、護法が手伝ってくださるのだ。

先頃の金剛舞がそうだった。チベット仏教の金剛舞で入場料を徴収したことは、今まで一度もなかった。有料の金剛舞は、リンチェンドルジェ・リンポチェが始めたのだ。当時、尊勝なる直貢チェツァン法王はまとまった資金がご入用だった。リンチェンドルジェ・リンポチェも当時はそれだけの金額がなかったし、金がどこにあるのかも分からなかった。そのため、尊勝なる直貢チェツァン法王にラマを派遣していただき、金剛舞を舞ってもらったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、金剛舞の公演で20万ドルが尊勝なる直貢チェツァン法王に供養できますように、とだけ、アキ護法にお祈り申し上げた。アキ護法はすばらしい。算術に長けておられる。入場料収入から経費と税金を差し引いたら、ちょうど20万ドルと少し、約数百ドルほどになったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが報告のため、尊勝なる直貢チェツァン法王に電話をかけると、尊勝なる直貢チェツァン法王は開口一番、2万ドルのことか、とお尋ねになったので、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王に、そうです、20万ドルです、と申し上げると、尊勝なる直貢チェツァン法王は『わあ!』と仰せになった。これこそ菩薩布施の方法だ。そなた達は何であっても細かく計算し、余分がなければ上師に供養しようとは思わない。金がないのは、そなたの因縁福報だ。金がないなら、なおのこと真心で布施しなければならないのだ。

経典には『菩薩如是遠離一切之憂苦等事。起如是心。』とある。
布施をしながら、ちょっと多すぎた、知っていたら少し残したのに、などと考える。憂愁心で布施してはならない。供養布施する金がないのではないかと心配し、供養布施したら金がなくなってしまうのではないか、と心配している。これこそ憂愁だ。憂愁を抱いているなら、いっそのこと供養布施しない方が良い。憂愁心で供養布施しても、功徳がないばかりか、人天福報さえなく、ペットに転生する福報があるだけだ。供養布施を行いながら、なお貧乏を恐れている。布施の法門は学ばなければならない。祝儀袋を供えれば何もかも叶う、というのではなく、供えないなら何もない、というのではない。心と関係があるのだ。

釈迦牟尼仏は開示くださった。ある貧しい女性がいた。貧しくて、身につけている衣服以外は何も持っていなかった。釈迦牟尼仏が通りがかった際、釈迦牟尼仏がお通りになる際に足が汚れないよう、彼女は衣服を脱ぎ捨て地面に敷いた。この女性は後に国王の妃となったのだ。彼女は妃となった後、さらに一度釈迦牟尼仏に供養した。その際の供養はたくさんの財物だった。彼女の二度目の功徳は一度目より大きいのではないですか?と釈迦牟尼仏の弟子は尋ねた。仏は、そんなことはない、と開示なさった。二度目の供養では彼女は驕り高ぶった心で供養したし、最も貴重なものを供養したのでもないからだ。一度目は自分にとって最も貴重なもの、たった一つのものを供養として差し出した。供養とはそれがどれだけか、というのではなく、質が大切なのだ。二度目の供養は量は大きいが、質が伴っていない。つまり供養で最も重要なのは心なのだ。

『起如是心。』という。菩薩が供養なさったような心を起こさなければならない、ということだ。布施を行えば、どんな困難があるだろうか、などと考えてはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェがこれらを行うのは、自分のためではなく、教派、上師のためであり、護法が必ず助けてくださると信じているからだ。当時はアキ護法に祈った。アキ護法は、数学に優れておられるばかりか、レートもしっかり計算されていた。タイミングも正確につかんでおられた。さもなくば、ちょうどぴったり20万ドルなどということはなかっただろう。

経典には『我為得聞如来所説一句法故。乃至入於阿鼻地獄。寿命一劫。若百千劫無疲倦。無疲倦已。』とある。
菩薩は仏と導師が少しの仏法を講じられるのを聞くために、阿鼻地獄へ堕ちなければならないとしても、それを願い、100劫の間、地獄にいなければならないとしても、それを願った。仏が地獄で説法されるなら、菩薩も共に地獄へ行き法を聞いた。たとえ100劫の間そこにいなければならないとしても、地獄で100劫を過ごすとしても待つことを願った。ただ仏法を聞くためだけにだ。これは仏法に対して期待、渴望、希求の心があり、仏法を尊ぶ心があるからだ。そなた達のように、仏法に求めれば、必ず何かを得なければならないというのではない。『私は父のために何ができるでしょうか?』といきなり聞く者がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような言い方を聞くと、ほんとうに困ってしまう。なぜならこのように言うのは、三宝を軽視し仏法を軽視し、自分ができると思っているからだ。『地蔵経』で地蔵菩薩は、自分は仏の威神力を受け取っているからこそ、千万億に化身して衆生を済度できると仰せだ。そなた達に何ができるのか?仏法の面では何一つできはしない!教えに従うことしかできないのだ。『宝積経』の開示によれば、そなた達にはこのような考えさえないのに、何ができるのか?身口意で、意は最も重要だ。そなた達にはこのような念頭がないのに、どうして為せるだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェを導師とみなさず、リンチェンドルジェ・リンポチェを占い師としか思わず、加護を得たいとしか思っていない。どうして修めることができようか?菩薩道を修めるには、『宝積経』に基づき思惟しなければならない。仏法のために地獄へ行き待つことをさえ願う。そなた達は施身法を修めよ、法会に参加したい、と一日中リンチェンドルジェ・リンポチェを急かしている。仏法をこんなにも軽視している。累世で仏法を聞かなかったので、菩薩はほんの少しの仏法を聞いただけで、この上もない喜びを感じた。そなた達はすでにたくさんの仏法を聞いたのに、仏法を聞いたことで喜びを感じただろうか?上師に叱責された、上師はとても荒々しい、上師は非常に厳しい、上師は我々にあれこれ迫る、とだけ思っているのだろう。上師が自分の問題を解決してくれることだけを求め、問題が解決されれば上師は慈悲深いと言い、何事かが起きればすぐに自分はしっかりできていないという。しっかりできていないのではなく、根本的に行っていないのだ。

経典には『若百千劫無疲倦。無疲倦已。然修行一切之種智。』とある。

菩薩道修行は実に厳しい。『無疲倦』とは菩薩道を修める心が一秒足りとも止まったことがない、ということだ。修行はこの種の念頭から来るのだ。金剛乗を修める行者はこの念頭、この心を持つのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは因縁が具備すればすぐに尊勝なる直貢チェツァン法王に求法する。だが尊勝なる直貢チェツァン法王がいつお伝え下さるかは考えず、ただ待つ。そなた達は施身法を求めにやって来れば、必ず得られる、すぐに応じてもらえる、と考え、応じないなら、無慈悲だという。自分はガンになって非常に苦しいと思っている。そなたはまだ死んでいない。まだものを食べられているのに、それほど苦しいのか?さめざめと泣き、ガンの苦しみを知り、初めて学仏を理解する。交通事故では突然この世を去ってしまう、と考えたことがあるか?今日インフルエンザに罹って、明日すぐに死んでしまうとしたらどうだ?心筋梗塞で突然死んでしまう人もいる。それらの人は哀れではないのか?そなたはガンに罹った。だが少なくとも数ヶ月、数年は命が続く。抗がん剤治療を受けなければ二年の寿命です、という医者もいる。手術を受ければ良い。だが、心筋梗塞には何の前兆もないのに、すぐに死んでしまう。どうして心臓を切除してしまわないのだ?ガンになればガン細胞を取り除くのではないか?これこそ『顛倒夢想』だ。これも医者と関係がある。病人に対して、数ヶ月の寿命です、という医者がいる」と仰せになり、「病人にこのように言ったことがあるか?」とその場にいた医師にお尋ねになった。医者である信衆は「あります」とお答え申し上げた。「ある面から言えば、二年の命があると、予告することは非常に良い!こうすることで、自分には二年の寿命がありしっかり学仏できると知ることができる。ガンに罹ったのは、自分で植え付けた因だ。しっかり対面すればそれで良い。

そなた達は、仏法を聞けば良い人と結婚できる、白馬の王子、紅馬の王子が見つかる、仏法を聞けば心が落ち着き、仏法を聞けば智慧が開け、同僚と喧嘩しなくなる、仏法を聞けば上師に注目してもらえるようになる、とだけ思っている。『宝積経』はこのようなことは一切説いていない。説いているなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず教える。菩薩道修行では結婚してはならない、子供を産んではならない、とは説いていない。前段の方で経典も、菩薩の中には世間の一切の楽しみを経験し、世間の財や富を擁する者もいる、と言っている。それは前世の修行の結果だからだ。つまり仏法を誤解してはならない。菩薩道を修行しなければ、未来世を速やかに変えることはできない。在家にはこの法門しかない。そなた達は出家衆を真似ることなどできない。朝4時に起きられるか?最初の数日は良いだろう。一日、二日と続き数日の後には、早起きするので、うるさくて目覚めてしまう、とパートナーが抗議するだろう。よって、菩薩道は在家のもので、出家なら共修の法門を修めることができる。

『無疲倦』とは菩薩道を学ぶ心、求法の心、仏法を渇望する心が永遠に倦むことがない、ということだ。倦めば諦めてしまう。『疲倦』を感じれば止めて、ちょっと休みたくなる。だが、菩薩道を行う人は、自分の念頭には、後ではなく、停止せず、行為上ではない、と自分を諌めなければならない。こうすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェが教導する仏法に対して、疲倦を感じず、疲れたと感じることもない。行菩薩道を止めれば、再び開始するのは非常に大変だ。そのため、そなた達に対して厳しいのだ。

経典には『無疲倦已。然修行一切の種智。』とある。

菩薩道を長く修行しても疲倦を感じないでいられて初めて一切の種々の智慧を修行することができる。他人が煩わしい、と感じるなら、それは疲倦で、他人が自分の座禅を阻んでいると感じるなら、これこそ疲倦だ。なぜなら衆生の煩悩を忍ぶことができないなら、菩薩道修行ではないからだ。停止すればすぐに退転し、すぐに業障が現前する。仏は、仏法が非常に明晰で、人をだまさない、と仰せだ。自分がこうであるかどうか振り返ってみよ。リンチェンドルジェ・リンポチェは適当に口を開かない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一生で過去には『宝積経』を読んだことはなかったが、過去世では読んだことがあったはずだ。そうでなければ、現在『宝積経』を開示する因縁があるはずがない。菩薩道を行おうという念頭を止めてはならない。菩薩に成るまでできるかどうかは重点ではない。よって、ここで言うように百千億劫であっても停止しない。だが、その時に成就して菩薩果位を証するかどうかは重要ではない。重点は疲倦しないことだ。八地以前の菩薩は退転する可能性がある。つまり度衆生で疲倦を感じるのだ。少しでも停止すれば、ゼロからのやり直しだ。だがどうしてこんなにも厳格なのか?それは菩薩道修行は、成就が速いからだ。当然厳格になる。自分の心をしっかり検視しなければならない。

なぜ一切の種智を修行しなければならないのか?それは、衆生には八万四千種の煩悩があるからだ。八万四千種の智慧を具備していないなら、一切の有情に円満に利益することはできない。少なくとも衆生の因縁を理解しなければ、いかにして衆生に利益するかを知ることはできない。この種の智慧さえ具備していないなら、一切の有情への利益は非常に困難だ。

経典には『若有未得仏正法者。能令得の。』とある。

ある衆生が正法を知らないなら、正法とは輪迴を解脱させてくれる一切の方法であり、線香をあげる、拝む、念仏する、結婚できるかどうか尋ねるなどでは決してない。これは世間法だ。正法ではない。ある衆生が正法を得ていないなら、菩薩道を行う行者は一切の方法を用いて、衆生に正法を得させなければならない。どのような方法か?四攝法、打つ、罵倒する、急がせるなどだ。衆生に正法を得させることができるなら、それはすべてそうだ。

経典には『善男子。菩薩摩訶薩。如是楽法名為菩薩楽法。』とある。

もし誰かが、仏法の楽に対して、皈依学仏の後にガンが治った、結婚生活が順調だ、すべてが好転したからといって、仏法を尊ぶなら、これは楽法ではない。貪欲だ。仏法を利用しているのだ。楽法とは、この二週間で開示した菩薩の仏法に対する一切の楽を、これら念頭ができて初めて楽法なのだ。仏法に対して少しでも拒絕、否定、マイナスの考えがあるなら、それは楽法ではない。修行に対して極めて大きな障礙になる。

仏の仰せ、当時の歷史的背景、なぜ仏はこのように言われたのか、あのように言われたのか、と考証する人がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェの学仏経験から言えば、これは不要だ。そなたに大神通があり、入定して仏法僧と接触できるのでない限り、3000年前に釈迦牟尼仏が在世時に説法された真の状況を知ることはできない。現在存在する文献からだけ、当時の情況を推察するのは根本的に不可能だ。これらは有為法にすぎない。時間の無駄だということもできる。このようにする人は、仏の仰せに懐疑を抱き、信じていないのだ。仏が仰せの仏法に対して、懐疑を抱き、自分はできない、自分の知識範囲を超えていると考え、そのため研究しようとするのだ。これは楽法ではない。経典から学べる、衆生の輪迴解脱を助けられる一切の方法、これこそが仏法だ。ある弟子はドイツの大学でチベット語を学んだ博士だ。彼の教授は、登地菩薩まで研究したが、それ以上研究できないと言うという。なぜなら登地菩薩と一般人の世間的な価值観、行為は違うからだ。講じるのは正にこれらだ。仏法とは研究対象ではない。修行するためのものだ。どれほどの書を読んでも、どのような肩書きがあろうと、着実に行っておらず楽法でないなら、仏法を体得することはできない。

経典には『大智求法者,いわゆる菩薩』とある。

聡明で雄弁で、学歴が高く、立派なバックグラウンドがなければ法を求められないというのではない。大智とは、智慧があり生死を解脱でき、衆生に利益できるということだ。大智を備えず、生死解脱を決心せず、衆生への利益を決心しないなら、智慧を備えていない。この智慧により法を求めないなら、諸菩薩ではない。

リンチェンドルジェ・リンポチェが尊勝なる直貢チェツァン法王に求法しても、尊勝なる直貢チェツァン法王は、何をするのかとお尋ねになったことは一度もない。リンチェンドルジェ・リンポチェが求法すれば、必ず衆生を助けるとご存知だからだ。他人は、六字大明咒、アキ法本を伝えられるのに、自分にはないのを目にして、慌てて求めに来る人がいる。アキ法本がなければ皈依弟子でない、と思うのだ。これは智慧のある求法ではない。

そなた達の求法はすべて自分の欲望のためだ。ある政治家は、あることで教派に便宜を図ってくれたことがあったため、後にこの人に問題が起きた時、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法し解決してやった。すると彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに伝法を求めてきたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは応じなかった。なぜならこの政治家は智慧によって求法しているのではないからだ。その求法は衆生のためではなく、自分のためだ。伝法しなかったところ、彼はその後まったく姿を見せない。求法しているのに伝えてくれない、とリンチェンドルジェ・リンポチェを無慈悲だと思ったのだ。金があり権力もある人が来て求法するなら、応じる人もいるだろう。先ずは灌頂を授け、このような人を自分の弟子にできるとは自慢できる、と考えるだろう。もしその時、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼に伝法したなら、今頃は寺を建立する資金も揃っていただろう。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは経典の仰せに背くことはできない。

経典には『求法無厭足。以恭敬心故。』とある。

法門は無量だ。無量とは、法が得られどんどん凄くなるということではない。種種色色の衆生がいるので、無量の方便法門で彼らを救う必要があるのだ。『無厭足』とは、一つの法門を修め成就を得ればそれで満足するのではなく、新しい法門の学習を疎んじるというのでもない。実は新旧の別はないのだ。尊勝なる直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに法を伝えようとなさるなら、『法王、十分です』などとリンチェンドルジェ・リンポチェは言わない。そなた達にはこの種の考えがある。六字大明を咒し、アキがあればそれで十分だという。十分なことがあろうか?

『以恭敬心故。』とは求法には恭敬心が必要だということだ。法本がないといってもらいに来る人がいる。満18歲になったので、必ずもらわなければならないというような様子だ。18歲になったなら、必ず法本を授けると誰が言ったのだ?空手で求めに来る者までいる。供養がなければ福報もない。空手でも構わない。だが、少なくとも恭敬心はなければならない。仏法は非常に貴重なのだ。どれほどのお金を積んでも買えるものではない。そなた達に金について言っているのではない。仏法に対して必ず恭敬で、求法を希求、渴望する心でなければならないのだ。求めればすぐに得られ、聞きたいと言えば講じ、修めたいと言えばすぐに伝えるというものではないのだ。

経典には『当求於正法。是名菩薩相。』とある。

菩薩が求める一切の法はすべて衆生に利益するためだ。この種の心構えで正法を求めるなら、たとえ果を証していなくとも、菩薩相を現す。衆生の訴訟を解決するため、金運を求めるためなら、菩薩ではない。『大悲咒』と『普門品』は訴訟問題を解決することができる。だが、それも対象による。衆生が適した条件を備えているかによる。十善法を修めているかどうか、大供養、大懺悔を行っているかどうかによるのだ。できていないなら、役には立たない。菩薩が不公平なのではなく、金がなければ救わないというのではない。大供養、大布施とはいくらだ、というのではなく、心のことだ。

いつまでも過ちを犯す人は、あまりにも思い上がっており、自分はとてもうまくやっていると思っているか、また先ずは自分のことを考え、自分の事が最も重要で、面目を保とうとするからだ。いつも先ず自分のことを考え、間違いを恐れ、叱責されるのを恐れている。また、物を売るのを申し訳ないと思っている人がいる。一言言っただけで誰かがそなたの物を買う。催眠術をかけるにしろ一分間はかかるだろう。どこの客が、話を聞いてすぐにそなたから買うのか?リンチェンドルジェ・リンポチェがこんなに講じても、そなた達はすぐに修めてはいない。仏法は実は生活に用いることができるのだ。そなたは客に対して恭敬でなければならない。客にしっかり説明し、良いところも悪いところも誠実にじっくりと説明しなければならない。そなた達はなぜ緊張するのか?それは面子が潰れるのを恐れているからだ。分からないなら分からないと言えば良い。客は尊重されていると感じ、そなたから買うだろう。そうでなければ、非常に傲慢だと感じ、この人は金があるのだろうと思い、別のところで買うだろう。なぜ恥をかくことを恐れるのか?前回開示した時、リンチェンドルジェ・リンポチェは一つの名相が分からなかったので、分からないと言った。面目を失うのを恐れるのは、菩薩道を修められていないからだ。

経典には『聞已常憶持。復如法修行。』とある。

一切の法を聞いた後は記憶して、把持しなければならない。だが、そなた達は聞いても馬耳東風だ。インターネットで開示の内容を確認しなければならない。一度見ても覚えられず、二度三度と見ても覚えられず、諦めてしまう。修行がそれほど難しいと感じるのは、上師が教導する仏法を記憶しなければならないとは思わないからで、把持しようという心構えがないからだ。

これこそ学仏の三段階、聞、思、修だ。仏法を聞いた後は思維し、続いて行わなければならない。そなた達は聞くのではなく、聴くのだ。聴き思惟せず修めない。それでどうして改められるだろうか?以前言ったように、今回この事で間違ったなら、この事だけを改め、しばらくすればまた別の事で間違い、また別の事を改める。根本から己を改めることがなく、仏法を記憶せず、自分の心を把持しない。一日中誰かが気をつけさせ、誰かが教え続けなければならない。

近頃の若者は会社で働いていても、何を聞いても携帯電話、インターネットで調べるといい、見つからなければ、誰も教えてくれないという。会社を開いて社員を教育しなければならない。それなら、学費を払ってもらおう。学校を開いたのではないのだ。そなた達は、他人の事は自分とは無関係だと考え、関心がない。何であろうと見ないし聞かないし覚えない。雇用主の言いつけさえ、すっかり忘れてしまう。そなた達は、忘れていました、としばしばいうが、なぜ忘れるのだ?リンチェンドルジェ・リンポチェはそれほどたくさん学問しておらず、それほどたくさん人に教わってもいないが、なぜこんなにもたくさんの事ができるのか?それは、誰かが自分が分からないことを言えば、それを聞き、それを覚えるからだ。人はこの世界において、一対一ではない。以前言ったように、この人は良い結婚相手でしょうか、と尋ねるようなもので、この世界では多くの人に対面しなければならないのだ。多くの事がそなたの周囲で発生している。自分で見て聞き、記憶する。長くなればできるようになる。インドの会社の総経理は、リンチェンドルジェ・リンポチェは活動の百科辞典だと褒めてくれた。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは菩薩道を行っているので、人が言ったことを全て記憶しているからだ。

すでにこんなにもたくさん講じ、こんなにもたくさん教えている。教えた仏法が、日常生活、仕事と関係がないなどと思ってはならない。仏法を聴聞したなら、日常生活における自分の言動を思惟し、学んだ仏法と相反しないか考えなければならない。相反するなら、改め、手放さなければならない。いつまでも執著してはならない。こうでなければ聞思修ではない。

ある皈依受戒した弟子は看護師だった。かつて、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来て、『自分は分娩室の担当に移るかもしれない。給与は每月数千元上がるが、中絶に関わる機会もある』と報告した。そしてリンチェンドルジェ・リンポチェに、移っても良いか尋ねるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはまったく口を開く気にもなれなかった。こんなにもたくさん開示しているのに、まだこのようなことを聞きに来るのでは、上師の開示をまったく心に留めていない、記憶把持していない、完全に恭敬心がないということではないか。数千元多い給与をもらえば、供養布施できると思っているのだが、これこそ不聞思修だ。仏法を利用し、仏法を適当に扱っている。誰に対してであろうと、どんな物事に対してであろうと、恭敬心がありさえすれば、過ちを犯すことはない。恭敬とは相手を主に考えることだ。間違えるのではないかと緊張するのは、自分を主に考えているからだ。雇用主も客も大切にせず、思い上がり、意固地なら、学仏する資格はない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは経典を開示する時、なぜ予め準備しないのか、経典を開いて、なぜすぐに宣説を始められるのか?と聞く人がいる。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが経典研究から始めるのではなく、実際の修行経験から経典の内容を開解するからだ。実際の修行経験がないなら、字面から説明するだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは文字を用いて文字を説明するのではない。経典の内容はすべて修行の過程と境界について説いている。自分の実修の方法と心構えが経典で言う修行過程、境界と符合するなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはできている、とまではとても言えないが、だが行っている。そのため、経典の意義を開示できるのだ。

そなた達は、リンチェンドルジェ・リンポチェが経典の開示をとてもスムーズに行うのを眼にするだろう。それは、経典を開示する前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは釈迦牟尼仏、祖師ジッテン・サムゴン、歷代の上師、護法の加持を祈願し、智慧が海のごとく衆生に利益できるよう祈願するからだ。『宝積経』は祖師ジッテン・サムゴンの最も重要な著作の出処であり、修行の根拠だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは祖師ジッテン・サムゴンの加持を祈願申し上げる。祖師ジッテン・サムゴンが加持くださるので、リンチェンドルジェ・リンポチェは『宝積経』の意義を法に則って開示できるのだ。その内容も文字に寄るのではない。今日の開示はここまでとする」と仰せになり、リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子に「素晴らしかったか?」とお尋ねになると、参会者はみな熱烈な拍手を響かせた。

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2018 年 04 月 06 日 更新