尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年3月13日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、共修法会を主催され、参加者全員に貴重な仏法の開示を下された。

「今日は続けて『寶積経』を開示する。先週は禅定について講じ、六波羅蜜の禅定修行の心に対する把握まで講じた。前回開示した禅定の心持ちを、一般の禅を修める信衆は聞いたことがないだろう。それは、そなた達のこれまでの学びが誤りだったという訳ではなく、禅定を学ぼうという発心が間違っていたからだ。なぜなら、大部分の人が学禅するのは何かを求めてだからだ。禅七を行えば、それが禅定修行だと思っている。これは釈迦牟尼仏が開示くださった菩薩道を学ぶ六波羅蜜の禅の意境とは完全に異なる。『寶積経』は祖師ジッテン・サムゴンのすべての著作と論の根拠だ。ガムポパ大師の一切の著作は『華厳経』の理論に則っている。チベット仏教は読経しない、という人がいるが、それは過ちだ。チベット密法は修法持咒だけだ、という人がいるが、それも過ちだ。実は密法学習は顕教を基礎とするのだ。顕教の基礎とは、いくらか仏法が語れ、上師の相を現せば、一切の顕教の基礎を具足するというものではない。顕とは明らかなことだ。上師が言語を用いて開示し、我々の顛倒な心を一時的に停止し、さらには再び顛倒しないようにすることだ。よって、『心経』が講じる『顛倒夢想から離れる』とは菩薩道を修める人の心について言っているのだ。

多くの人は、たくさんの事を当然だと思っている。自分が慣れていると考える方法で物事を行う。そのため、世間の様々な真実の現象を見落とすのだ。修行とは、何かを増やすのではない。百万遍、二百万遍念じ、たくさん念じれば功力が増し、禅七を行えば心が定まるというのでもない。たくさん念じれば福報も増えるというのではない。修行過程での読経、拝懺、持咒、観想等は学仏の助縁に過ぎない。いつの日かの開悟を助ける縁だ。自分はよく念じている、よく拝んでいる、と考え、仏法を学問のように研究し、仏法の歷史の研究を学仏と呼び、この種の方法で学仏するなら執著の心が生じる。我々は仏法の歷史を知る必要があるだろうか?ある。だが、仏法の歷史は修行の法門ではない。我々は仏法の意義を知る必要があるだろうか?ある。だが、意義を知っても、それが修められたということではない。かつて多くの大徳がひたすら示現なさった。学問は仏法ではない。学問とは、人がある場所、時代、ある種族の経験法則を積み重ねたものに過ぎない。それが人類の経験法則であるなら、それは仏法ではない。仏教の仏法とは、我々の生活方式を捨てなければならないのではない。仏法を通して、凡夫俗子を学仏修行人に変えるのだ。自分は修行人だと自称する人が多い。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば、何を修行しているのだ?と尋ねる。それらの答えはすべて、何を念じている、何を読んでいる、何を拝んでいる、というものだ。だが、これは修行ではない。修行とは、我々を輪迴させる一切の行為を改めることなのだ。

衆生を助けられるというのは非常に良い事だ。2007年リンチェンドルジェ・リンポチェはネパールの標高4500m高のラプチ雪山で閉関した。3ヶ月の閉関を終えた時、尊勝なる直貢チェツァン法王は、ある寺の執事にリンチェンドルジェ・リンポチェを連れて付近の寺へ、直貢噶舉派の聖物を見に行くようご指示になった。その中の一つはヤクの臼歯だ。舍利子だが、その表面には観音菩薩聖像が自然に現れている。なぜヤクにこのような瑞相が出現したのか?ある時、祖師ジッテン・サムゴンは一人の弟子に、別の弟子を連れてラプチ雪山で閉関するよう指示なさった。その弟子はいっしょに行き、関房の老師を務めた。関房は標高5000mの地にある。このヤクは閉関に必要な物資を每年一往復、死ぬまで運び続けた。ヤクは念咒できない。菩薩聖像を顕現させる条件がどうして備わったのか?每年夏チベットから関房までの道は同じだ。このヤクは、自分がこうすればどうなるなどと一度も考えたことがなかった。考えなければ、間違えるだろうか?考えなければ、叱られるだろうか?ただひたすらやるべきを行ったのだ。そなた達はヤクにも及ばない!そなた達のように福報が得たい、あれこれ考え、叱られることを恐れ、むやみに緊張しているのではないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの反応は非常に速い。着いてこられる者は誰もいない。リンチェンドルジェ・リンポチェは最近ようやく知った。自分にはかつて鷹眼というニックネームがあったのだ。そうなのだから、そなた達がどうしてリンチェンドルジェ・リンポチェのようでいられるだろうか?無理なら、そのヤクのようにおとなしく、言われた通りにしていれば良いのだ。だが、そなた達はヤクにも及ばない。山のように自分の考えを持ち、何かをするなら功徳、福報を得たい、と考え、他人の事を忘れてもどうということはない、謝ればそれで良い、と考えている。謝罪すれば相手の怒りは収まるかもしれないが、植え付けた悪因はすでに存在しているのだ。よって、菩薩道を修める人は凡夫畏果、菩薩畏因というのだ。そなた達は何をしても間違えることを恐れ、反対に全て間違い、ひたすら間違い、たくさんの間違いを犯し、果報が出現すると恐れる。だが、菩薩は物事の果報をご存知なので、因地で行わないのだ。

近頃一種の言説が流布している。仏法に基づけばビジネスは行えないという。ビジネスに仏法を用いてはならないと、誰が言ったのだ?このように言う人、このような事を聞き信じる人は、因果を信じず、仏法を信じていないということだ。因果はそなた達を恐れる。金金が全てだ。利益が損なわれることだけに腐心し、約束を守らない。いかなる約束をしようと、情にかない、理にかない、法にかない、倫理道徳に背いていないなら、因果法則の下では、いかなる約束であろうと必ず果たさなければならない。俗に『人不為己、天誅地滅(他人が自分のために何かをしてくれなければ、その他人には天誅が下され、その他人が住む地は滅亡する)』とは言うが、悪事を働くと約束してもやり遂げなければならない、ということではない。理にかなわない事なら、最初から応じてはならない。利益があるかもしれない、と考え、先ずは約束し、少しやったところで、自分の利益が損なわれるということに気づき、約束を反故にし止めてしまう、ということがあってはならない。そのようにするなら、いつか他人にそのようにされるだろう。先ずは金金をだまし取り、その後に善事を行おう、などとあってはならない。善は善であり、悪は悪なのだ。相殺されることはない。相殺できるなら、仏は因果を説く必要などないではないか。世間の人はみな信じない。謝罪すればそれで良いと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も開示した。謝罪すれば相手は怒りを鎮めるだろうが、植え付けた悪因はすでに存在しているのだ。そなたがどんなグループに属しようと、どんな環境にいようと、人の道徳倫理はすべて遵守しなければならない。仏法の基準を満たせないのではないか、皈依後にもっと深刻な過ちを犯すのではないかと恐れて、皈依しない人がいる。皈依すれば、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなたの誤りを目にすれば、すぐに指摘し、改める因縁を与える。皈依しないなら、いつまでも誤り続けるだけだ。どこまで誤り続けるのだ?地獄までだ!なぜ皈依する必要があるのか?それはそれにより、上師は衆生が植え付けた因を知ることができるからだ。

先週ある弟子は、出勤しなければならないので法会に申し込みしない、と連絡担当者に告げた。だが、この連絡担当者は組長への報告を忘れたため、申し込みしたのに来なかったということになってしまった。リストをリンチェンドルジェ・リンポチェに提出し、リンチェンドルジェ・リンポチェが留意せず、来なかった者は今後来てはならないと指示したなら、この弟子に害をなしたことにならないだろうか?なぜ報告を忘れたのか?それはこの弟子は道場の重要人物ではないからだ。この弟子は理監事でもなく組長でもない。そのため報告を忘れたのだ。人を軽んじているのだ。実に嫌な奴だ!

先週ある出家弟子が仏像を持って装蔵を求めて来たので、リンチェンドルジェ・リンポチェは求めに応じ、法務組の弟子に、先ずは受け取っておくよう指示した。ところが今週リンチェンドルジェ・リンポチェが尋ねると、法務組の弟子は請示も受けずに、その出家弟子に持ち帰らせていたのだ。この法務組の弟子は、どうするかとリンチェンドルジェ・リンポチェは指示せず、ただ受け取っておくようにとだけ言ったが、請示を求めれば叱られると恐れ、持って帰らせて、このことに関わらないようにしようと考えたのだ。このようなやり方は、リンチェンドルジェ・リンポチェの約束の破壊だ。近頃世間ではある説が流行している。それは『このリンポチェ、この法師はとてもいいが、その下で動いている弟子が良くないので、この道場へ行かない方が良い』というのだ。そなた達がよくないからといって、世間の人はそなた達の名前を覚えているだろうか?覚えたりしない。世間はその上師の名前しか覚えない。そのため、領衆、度衆してはならないと出家衆にいうのだ。とても大変だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは心が細やかで、この件を覚えていたので、まだよかった。そうでなかったなら、この人は心にわだかまりを抱いただろう。これこそ責任感がないというのだ。どうしたら良いか分からないくせに、尋ねることもしない。学仏の第一の条件は責任を負うことを学ぶことだ。自分が生生世世に行った一切に責任を負うのだ。その中には良いことも悪いこともあるだろう。そなた達はあらゆる事の責任を負いたくない。それなら、良いことの責任もないのだ。なぜこんなにもたくさんの人が学仏しているのに、自分の命運を転動できた人は何人もいないのか?それは責任を負おうとせず、物事を適当に行うからだ。物事を適当に行うのは、六波羅蜜を修めないからで、自分の見方に執着するからだ。

ある日、ある従業員が漢方薬診療所の入り口で二千元余りを拾った。ちょうど診療所の入り口に落ちており、しかもこの従業員は出勤しようとしていたため、診療所内の胡という姓の弟子に渡した。この胡という姓の弟子を、そなた達はみな胡媽と呼んでいる。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは胡麻煩(面倒)と呼ぼう。なぜなら『胡』とは無いということだからだ。彼女は、面倒なことが自分に関わらないよう願った。当時『胡麻煩』はこの従業員に、自分は処理しなければならないことが多く忙しいので、自分で派出所へ届けるように言ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの件を知り直ちに胡麻煩に処理させた。その結果、ある弟子が落とした金だと分かったのだ。胡麻煩はこれを大した事ではないと思い、手伝いを望まなかった。なぜ彼女は病気がちなのか?それはこうだ。性格が悪いのだ。そなた達はすべて小事を処理する人間だ。そなた達は国家の大事には関われない。自分の家庭の事さえうまく処理できない!我々は小事から開始しなければならない。情と理にかなっているなら、手助けしなければならない。たとえ情と理にかなっていなくとも、悪事でないなら、手助けしなければならないのだ。学仏で難しいのは己を改めることだ。己を改めるのは宇宙全体で最も困難な事業だ。なぜか?それは、自分は愚か者で悪人だと信じている人はいないからだ。みな自分は善人だと必ず言う。

リンチェンドルジェ・リンポチェは日本と台湾を行き来している。しばしば言う。日本は一億余りの人口を抱えているが、殺人事件は台湾より少ない。台湾ではこんなにたくさんの人が念仏拝仏しているのに、なぜ殺人事件がこんなに多いのか?交通事故がこんなに多いのか?そなた達は何も感じない。なぜなら、自分の家族が殺された訳ではないからだ。どれだけの人が殺されているか、ニュースを見ないのか?交通事故でどれだけの人が死んでいるのか?インフルエンザでどれだけの人が死んだのか?この地ではこんなにも多くの人が学仏しているのに、なぜなおこんなにも多くの事態が起きるのか?自分は改められているかと自分に問いかけなければならない。誰もが思うままに、自分の心を放縦し、後になって懺悔している。懺悔法門が良くないというのではない。懺悔の後ではゼロから開始しなければならない。それまでに修めたものはなくなってしまう。なぜならすでに破戒したのだから。みな破戒している。毎日念じる四無量心はそなた達の誓いの言葉、行わなければならない事だ。そなた達は約束を違えている。

胡麻煩はこんな小さな事さえ手助けしようとしない。考えることもせずに、すぐに拒絕した。これは、他人を助ける習慣がないことを示している。自分の家で何事もなければそれで良いと思っている。布施の心さえない。道場のために事を行えば、因縁福報、機会ができる。本来とても良いことなのに、ひたすら過ちを犯している。我々の道場はもうすぐ1500人となる。人数は拡大を続けている。これ以上増えるなら、過ちを犯すスペースは無くなるだろう。それでは、何をするにも緊張して尻込みし、責任を負うのを嫌がり、叱責するのを恐れるのか?そうではない。我々の責任感を訓練するのだ。責任感がある人が過ちを犯すことはない。

昨日の土曜日、信衆を接見した時、横に付いていた弟子が口を開くや過ちを犯した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、あの弟子は誰の紹介だ?と横に付いていた弟子に尋ねた。すると、この侍者は『以前あの悪弟子はどうだった、こうだった』と答えたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示した。これは他人を毀損することだ。悪弟子とは、そなた達が言えることではない。悪弟子とは己だけが言えるのだ。他人を批判してはならない。この侍者は、自分がこう言えばリンチェンドルジェ・リンポチェが喜ぶと思ったのだが、逆に又してもリンチェンドルジェ・リンポチェに害を及ぼした。そなた達は揃いも揃って馬鹿者だ!正法の弘揚はとても大変なのだ。『寶積経』に基づけば、菩薩道と言わずとも、十善法の標準さえ、そなた達はまったくできていない。なぜ今になってもリンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達を見捨てないのか?それはそなた達が必要だからではなく、そなた達が仏法を必要だからだ。

土曜日だった昨日はおよそ四百万元の供養金を退けた。リンチェンドルジェ・リンポチェは苦労して金儲けをするほかはない。だからこそ、より多くの人を助けることができるよう、アキ護法もリンチェンドルジェ・リンポチェに少しの金儲けをさせてくださるのだ。誰もが懺悔しに来る。そなた達はみな、過ちを犯してからようやく供養する。金があるなら、なぜ前もって供養しないのか?過ちを犯して初めてやって来る。金で贖罪しようと思っているのか?普段は不要だと思っているので、何もなければ金を出さないのだ。金で贖罪しに来ているなら、ありったけの財産を出さなければならないだろう。どういう理由で少しの金で贖罪できるのか?外道なら贖罪のシステムがある。そなたはここで外道になるのか?みな注意するがよい。今年は開けたばかりなのに、こんなにも多くのことが発生している。学仏人として、社会で発生する事に関心を払わなければならない。そなた達は何も感じていない。自分には関係がないと思っている。そなた達がたった一人でも行善を始めれば、周辺の人に影響を与えるチャンスがあるのだ。二、三人に影響を与え、それがより多くの人へとゆっくり広がっていく。そうしなければ、台湾が良くなり、全世界が良くなることはない。周囲の国で戦争が起きれば、そなた達にとっても良いことはない。戦争で金儲けできる人もいるかもしれないが、この種の金は残らないのだ。なぜ衆生の心は彷徨い恐れているのか。近頃の社会が非常に不安定で、見たところ多くの問題があるが、みなの貪嗔痴慢疑が改められておらず、相互に謀略を企み、他人の金をなんとか自分のものにしようと考え、自分の金をなんとか手元に残そうと考えている。こんな有様で経済が好転するだろうか?社会が公平になるだろうか?

『寶積経』を講じるのは、どれだけ上手く経典を説けるかと自慢するためではない。釈迦牟尼仏が二、三千年前にこのように仏法をお教えになったので、今同じように仏法を教え、未来もやはりこのように教えるのだ。仏法を捻じ曲げてはならない。名利のために仏法を捻じ曲げてはならない。弘法人として名利を掌握できないくらいなら、おこなってはならない。非常に危険だ。昨日土曜日、リンチェンドルジェ・リンポチェは信衆を接見した時、四百万元余りの供養金を退けたが、心は動かなかっただろうか?動いた。何に動いたか?どのようにして金を退けようかと考えたのだ。金は大切か?大切だ。だが、釈迦牟尼仏がお教えの仏法に背くほど大切ではない。尊勝なる直貢チェツァン法王がお教えの仏法に背くほど大切ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは金のために動く人間ではない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは菩薩道を行う六波羅蜜について開示するが、必ず開始しなければならない。毎日の生活、仕事に必ず用いることができる。その通りに行いさえすれば、事故に遭うことはなくなる。多くの人が仕事の上で法を犯し、他人を訴え、他人に訴えられ、一日中争っている。それは仏法に基づいたビジネスを行っていないからだ。経典は、商売は極悪だとは言っていない。もし、商売してはいけないなら、仏は必ず仰せになる。出家人は当然商売をしてはいけない。仏が出家人を『乞士』と呼ばれたと経典にある。つまり、一切の名利を捨てて暮らす生活だ。当然商売してはならないし、何かのために、或いは必要のために、少しの商売をするということもあってはならない。物を一個売ってもダメなのだ。だが在家衆は違う。商売しても良い。なぜなら済度する対象が、出家衆とは違うからだ。

つまり、菩薩道の六波羅蜜を修めるということは、我々の暮らしが一般の人とは異なるということだ。自分が正しいと思うやり方で暮らしてはならない。仏の標準に基づかなければならないのだ。『仏子行三十七頌』は仏子としての標準だ。できていないなら、仏弟子ではなく、信衆と呼ぶことしかできない。菜食し、拝仏し、読経していれば仏弟子だというのではなく、ただの信衆だ。なぜなら、仏弟子が具備すべき身口意の標準を備えていないからだ。よって、少しの誤りでも叱責しなければならないのだ。絶えず悪業を累積する機会は少しであろうと与えることはできないが、善業を累積する機会はたくさん与える。そのため、寶吉祥道場の上師は人を罵る。罵るために罵るのではなく、そなた達の行為がそなた達の修行に影響を与えるので、リンチェンドルジェ・リンポチェは当然阻止しなければならないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは人を罵るので、こんなにたくさんの弟子がいるのだ、と考え、自分もその通りにやってみたところ、弟子がすっかり逃げ出してしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェは罵倒する。それは、そなた達のプライベートな生活に対してではなく、そなた達が学仏する上での障礙を消しているのだ。

先週、六波羅蜜禅定を修める心構えについて開示した。これに依止せず、あれに依止しない。学禅において何らかの考え、何らかの事に依止しようとするなら、それは六波羅蜜の禅ではなく、外道の禅だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは四十歲代で初めての閉関を完了した。『中観論』を恭読する必要があるか?とかつて尊勝なる直貢チェツァン法王に請示したことがある。尊勝なる直貢チェツァン法王は『そなたは不要だ。大手印を証するだけで良い』と仰せになった。大手印とは中観だ。当然『中観論』を読む必要がある人もいる。だが、文字を用いて『中観論』を説明できるのでないなら、何が中観だと理解するのだ?当然そうではない。上師の教えに従い、絶えず仏法を学ぶのだ。因縁が満ちれば、中観が何を説いているかを自然に体得できる。『寶積経』中では、特別に中観について語ってはいない。これはいけない。あれもいけないとあるだけだ。実はこれが中観を説いているのだ。よって、禅定の心構えをしっかり理解しなければ、般若の修行を始めることはできない。

経典では『善男子。菩薩云何修行般若。』とある。般若については、ここでは翻訳がない。『大般若経』という経典がある。仏は非常に長い時間をかけてこの経を講じておられる。般若とは空性の智慧だ。あらゆる衆生、一切の有情衆生はみな同等の智慧を具備している。同等の智慧を備えているのに、なぜ成仏できるものもいれば、餓鬼道、畜生道にいるものもいるのか?いわゆる同等の智慧とは、根本智だ。いわゆる根本智とは、すべての衆生が具備する成仏の種子だ。だが、因縁がなくこの根本智が開発されなければ、生生世世の貪嗔痴慢疑五毒により隠されてしまい、見えることはない。いわゆる見えないとは、目で実際に見えないということではなく、自分が具備するこの宝を感じられないということだ。根本智は、如来蔵ともいう。

いかにすれば根本智を開発できるのか?我々は普段は眼耳鼻舌身意を用い、声色香味触法により日々暮らしている。だがこれは智慧ではなく、仏の本性でもない。これは有為法だ。小乗を修めるには、眼耳鼻舌身意の六つの意識の作用を一つ一つ停止していく。そうでなければ、輪迴してしまう。菩薩乗を修めるには、眼耳鼻舌身を五智に転じる。金剛乗を修めるには、眼耳鼻舌身を仏の本性とし、すぐに五方仏に転じる。仏法学習を通して、それに頼って生きてきた眼耳鼻舌身を智慧に転じるのだ。転じようと思えば、すぐに転じられるだろうか?考えなくとも、後得智は出現するだろうか?いわゆる智慧とは、世間で言われる頭が良い、ということでは絶対にない。世間の理論ではなく、世間の学問ではない。そなたがどんなに素晴らしく、どんなに頭がよく、どれほど有能でも、輪迴を断つことはできない。智慧だけが我々が輪迴を断つ手助けができ、それにより輪廻を断つよう衆生に利益できるのだ。後得智を具備していないなら、自分の輪迴を断つことはできず、衆生が輪迴を断つ手助けをすることもできない。だが、後得智はどうすれば開発できるのか?それには因縁と時間が必要だ。後得智が開発されれば、根本智と後得智が結合し、そうして初めて仏法を用いて自分と衆生を救うことができる。後得智は、我々の仏法に対する認知を通して、上師が教導する一切の法門に基づき、福徳智慧の資糧を絶えず累積する。智慧があっても福徳がないなら、激しく傲慢になる。福徳があっても智慧がないなら、愚痴だ。つまり両方修めなければならないのだ。六波羅蜜とは福徳、智慧双修の法門だ。

この胡麻煩はつまり六波羅蜜の布施を修めていないのだ。このような小さな事がつまり行布施なのだ。会社の職員が入り口で金を拾った。客が落としたのではないかと、必ず推測するはずだ。だが、自分は急いで出勤しなければならない。そのため、胡麻煩に頼んだのだ。もしリンチェンドルジェ・リンポチェが金を拾い、胡麻煩に頼んだのなら、彼女は必ず請け負っただろう。だが、若い同僚がドアの外で金を拾ったなら、それは自分とは関係がないのだ。これこそ大小眼(不平等待遇)だ」と仰せになった。リンチェンドルジェ・リンポチェは眼科医である弟子に「この胡麻煩の目は大小眼ではないか?」とお尋ねになった。医師である弟子は「目の大きさは異なります。二つの眼の瞳孔の大きさには約2〜3mmの差があります」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示くださった。「道理でだ!それで大きなものが見えて、小さいものは見えない。リンチェンドルジェ・リンポチェは小物をもっぱら済度させている。胡麻煩は大物しか助けない」と仰せになった。リンチェンドルジェ・リンポチェは再び「なぜ眼に大小があるのか?」とお尋ねになった。この医者である弟子は「瞳孔の大きさの違いには、生理と病理の二種の現象があります。胡という弟子の眼は異常な現象といえます」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの眼科医である弟子に、胡という姓の弟子の検查をするよう申し渡され、開示を続けられた。「心に分別があるのは、生理現象であろう病理現象であろうと、すべて心が作り出したのだ。心の中に大小眼(不平等待遇)があるのだ。『仏子行三十七頌』は教えているが、そなた達はまったく従わない。それでは六波羅蜜を修めることはできない。六波羅蜜を修めないなら、どんな菩薩道を行おうというのか!末法時代は出家であろうと在家であろうと、菩薩道の六波羅蜜さえあれば、輪迴を断つ手助けができる。他の法門はない。なぜなら、そなた達は阿羅漢を修める器ではないからだ。アメリカに拝懺に行っても良いかと請示に来た出家弟子がいる。これは阿羅漢の修行ではない。もし阿羅漢の修行なら、すべてをすっぱりと切り捨ててしまっているはずだ。

声聞縁覚を修めることができないなら、上師に頼るしかないではないか。だが上師であろうと無常だ。いつでもいなくなってしまう可能性がある。ポワ法を修めてやると約束したからと言って、必ず上師より先に逝けると思ってはならない。そうとは限らないのだ。上師が先に逝ってしまうことも有り得る。リンチェンドルジェ・リンポチェは『寶積経』をすでに長いあいだ講じている。これは一冊目だ。二冊目があるのだ。開示に時間がかかっているのは、話が横道にそれるからではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェの修行過程において体得した仏が仰せの真実に基づき開示しているからだ。我々はちょっとしたアクシデント、ちょっとした不注意、ほんの少し自分を放縦するだけで、すぐに過ちを犯す!鄧という姓の弟子が出勤しなければならないとなぜ分かったのか?それはこの弟子は、理由もなく来ないということがないからだ。だが、連絡担当者は報告を忘れた。それは、この鄧という姓の弟子が理事でも組長でもないので、謝罪すればそれで良いからだ。他人を軽んじてはならない。衆生はすべて平等で、みな根本智を具備しており、すべての衆生は成仏する機会を有するのだ。そのため我々は殺生してはならない。肉食してはならないのだ。菩薩道を学び学仏するなら、なぜ余分な心、忍心で衆生の肉を食べることができるのだ?真の放生は心中に殺生の念頭がないことだ。殺生の念頭がありさえすればそれは殺生だ。市場で魚を買い、読経し持咒し魚を海に放せば放生というのではない。台湾ではこんなにもたくさんの人が放生しているのに、なぜこんなにも多くの殺人事件が起きるのか?こんなにも多くの交通事故が起きるのか?すべての人が不殺生で、他人に影響を及ぼし不殺生とするなら、人に飼われて放生されるための鶏や鳥が、なぜなおあんなにもたくさん市場にいるのか?

経典には『出家人はペットを飼ってはならない』とある。なぜペットを飼ってはならないのか。飼う人がいるからこそ、ペットの市場があり、そのために不法な事をする人がいるのだ。経典では、出家衆は狸、猫を飼ってはならない、という。なぜならこの二種の動物は殺生の習慣が非常に重いからだ。イギリスのあるテレビ局が調查(Survey)を行った。それによれば、農村に住む一匹の猫は一日に十数匹の鳥を殺すということだった。食べるためではなく、殺すだけなのだ。猫に菜食させている、と言う人もいるかもしれない。だが猫が外で殺しを行っているとしたら、猫が憐れとは思わないのか?猫がどれだけ生きられるか、人に飼われるかは、その猫の因縁福報による。今日何を行うとしても、すべては智慧の手助けが必要なのだ。何をするにしても、智慧の手助けが必要なのだから、この五濁悪世、五光十色、種々様々な世界では、勤めて慎重でなければならない。ちょっとした不注意で、因果輪迴の中に陥ってしまう。よって、仏教の方法を事を行う際の準則としなければならない。これは脅迫でも迷信でもなく、必ず何かをしなければならない、絶対に何かをしてはならない、と規定するのでもなく、仏法の規範、釈迦牟尼仏が教導くださった方法を用いるのだ。仏は我々に害を及ぼしたり、我々を騙したりなさらない。それなのになぜまだ為さないのだ?それは決定を下していないからだ。

学仏は自分の生活と衝突すると考える。それは、まだ決定を下していないからだ。学仏すれば商売できないのか?もちろんそうではない。学仏しても日常生活を捨てる必要はない。仏教は我々の心を転動させ、行為を改めさせる。これにより話すことも変化する。この胡麻煩は、専門家に証明されたように大小眼だ。そのため許そう。だが理解することはできない。なぜなら改めておらず、他人の心に方便を与えず、権威を振りかざすことが習慣になっているからだ。権威があるのは累世の福報だ。権威ある者は他人を助けなければならない。他人に自分を畏れさせるのではない。このような権威でなければ役には立たない。

智慧を求めに来た人がいたので、何のために智慧を求めるのか?とリンチェンドルジェ・リンポチェが尋ねたところ、相手は、よい成績をとるため、と答えた。これは智慧とは無関係だ。累世の業力と関係がある。そなたが累世で読経したことがあるかどうかと関係があるのだ。そなたが累世で多くの経を読んだことがあるなら、この世での学業も自然に上手くいく。読経と言っても、必ず経典の内容を理解しなければならないと言うわけではない。読経したことがありさえすれば、この世での学業は他人よりも上手くいくのだ。

般若智慧を修めれば、対人関係も物事の処理においても上手くいくようになると、多くの人が思っている。これは誤った観念だ。人や物事に対する倫理道徳はそれぞれの地域の文化的な背景によって異なる。智慧があれば、他人が自分によくしてくれると思うか?これも過ちだ。智慧とは他人を助ける物だ。衆生に用いるものなのだ。自分の身に用いても聡明になるだけだ。聡明は自分にとって好ましいだけだ。仏法だけが般若智慧を講じる。この一世で得られたものは、過去世で為したものなのだ。現在為しているものは、未来世で得られる。人の次の一世はすべて現在作り出されるのだ。仏教だけがこのように教える。なぜなら外道には般若というこの法門がないからだ。そのため外道は、好むもの、好まないもの、と分別し、意識を用いて物事を処理する。先週説いた禅定の回向は、無分別の回向だ。回向とは与えることだ!地獄は悪なので少しにし、天道は良いので天には多く与える、というような分別はない。胡という姓の弟子はこのように考えたのだ。

無分別とは、衆生の本質は同じだということだ。輪迴が異なるのは業力が違うからだ。だが業であっても空性で変化する。永遠ではなく、不動のものではない。どの法門であろうと、法門を修める際はすべて平等心で修め、この人が自分に害を及ぼそうがどうしようが、過去世で害を及ぼしていようがどうであろうが、仏法を求めているなら、必ず助けなければならない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは般若を用いて事を為すからだ。そうであるなら当然、恨みも執著もなく、愛情においても誰が自分を傷つけたなどとは考えない。この種の事を考えないなら、苦痛はあるだろうか?苦痛はどこから来るのか?あの人は自分に悪いことをし自分を傷つけた。軽ければ恨みを抱き、重ければ復讐する。それで楽しいか?楽しくないだろう。とても消極的に相手が自分を傷つけたので、相手を傷つける、というのではないか?忍辱の法門からみれば、こうだ。相手がそなたを傷つけたのは、当然因果と関係がある。

ある弟子が交通事故で左手を骨折し、土曜日に懺悔に来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは、どちらの手で鶏をつかみ絞めるために人に渡していたのか?と尋ねたところ、彼女は、左手と答えた。折れた方の手だ。果報は非常にはっきりしている。今日骨折した腕は、かつて絞めるために鶏をつかみ、人に渡していた腕だった。これは他人が彼女に害を及ぼしたのか?当然そうではない。業報が成熟したのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、因果をはっきり分けられる、とまではとても言えないが、善悪の因を識別できるとは言える。悪の因を為しているのに、リンチェンドルジェ・リンポチェが阻止せず、やめさせず、絶えず悪の因を累積させることができるだろうか?急いで行き、罰し、叱責するのは、この法門のためなのだ。

修行人であるなら、原始智がいつ開くか?後得智をいつ得られるか?と聞いてはならない。因縁が具備すれば自然に開くのだ。因縁が具備するとは、我々が絶えず六波羅蜜を用いて我々の六識、眼耳鼻舌身意を転動していれば、いつか必ず智慧が開くということだ。求める必要はない。文殊師利菩薩を専ら修め、文殊菩薩は智慧の代表だ、智慧が開けると考えている人がいる。そうではない。文殊菩薩を修めれば、将来般若を修める際の障礙が少なくなるというだけだ。すぐに他人より聡明になり、すぐに智慧が開け、人に対し物事を処理するに対して話し方が穏やかになる、ということではない。仏教は慈悲を修めるのに、なぜ文殊菩薩は手に宝剣のような武器を持っているのか?と批判する人がいる。宝剣は一種の象徵だ。智慧とは鋭利な剣のように一切の煩悩を断つことができるということを表しているのだ。よって、般若まで修めようというなら、根器が非常に鋭利な人でなければ無理だ。そなた達の根器は鋭利ではないので言い付けに従う他はない。他の法門も、自分の考えもないのだ。そなたの考えはすべて眼耳鼻舌身意だ。般若とは関係がない。自分は毎日禅定しているので、智慧が開けるなどと期待してはならない。

経典には『善男子。菩薩常作如是思惟而化衆生。化衆生已復作是念。』とある。菩薩が学ばれた一切の仏法は永遠に、いかにして衆生を済度させるかを考えることだ。自分のためではなく、すべては衆生のため、衆生に利益するためだということだ。般若を修めれば他人よりすごい、というのではなく、般若を修めれば開悟できるというのではなく、般若を修めれば菩薩に変われるというのでもない。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェはどんどん人を追い出すのか?それはリンチェンドルジェ・リンポチェの思維のすべてが衆生を助けるためだからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは外のレストランで食事をしている時さえ、妊婦を目にすれば『産月に近くなったらリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来るように。助けてあげよう』ということもある。彼女が信じるなら、出産の数ヶ月前に菜食を勧めることができる。

菩薩道を学ぶ人が、この胡麻煩の真似をして面倒を退けることを学ぶことができようか?菩薩道を行う人は面倒を恐れてはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェが面倒を恐れるなら、そなた達がここにいるだろうか?先ほど壇上で経験談を語った弟子は、先週は自分は医者だと言わず、医療に従事しているとだけ言っていた。彼女は自分の命さえ救えず、自分の病さえ治せないので、今後患者が来なくなるのではないかと心配し、自分は医者だと言えなかったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子の息子を抱き上げた瞬間に、この子の心臓に肉が一欠片足りないと、なぜ分かったのか?それはリンチェンドルジェ・リンポチェの心中の思惟がすべて、いかにして衆生に利益するか、だからだ。

『化衆生已復作是念』とはつまり、衆生を済度させた後にある念頭が浮かんだ、ということだ。『我化無量無辺衆生界』とは、菩薩道を行うのは単純にここで菩薩道を行うのではなく、衆生はいるだけ出現するというのではない、ということだ。無量無辺の化身があらゆる界へ行き衆生を救う。この段階まで行けば、それは法身菩薩だ。そなた達には無理だ。地蔵菩薩は『地蔵経』で、百千万億世界の化身が衆生を済度する、と仰せだ。だが謙虚にも『承仏如来威神力』とも仰せだ。何人かの信衆が自分に供養するからといって、自分の修行が成就した、大悲咒をうまく念じられる、と思ってはならない。自分を供養してくれる人が数人なんて観世音菩薩は慈悲深い、などと思ってはならない。もしかしたら、累世の業障になるかもしれないのだ!

菩薩道を学ぶなら、あらゆる思惟で衆生を済度しなければならない。我々は今日衆生を済度することはできないが、少なくともいかにして衆生に尽くすかを思惟しなければならない。チャンスが訪れれば、情と理にかない合法で倫理に背いていないなら、助けを与えなければならない。胡麻煩のように面倒を退けてはならない。小事だと思うかもしれないが、学仏人にとっては小事ではない。胡麻煩が六波羅蜜を修められていないということでもない。面倒が近寄ってくればすぐに退ける。リンチェンドルジェ・リンポチェに面倒をかけたことがない者がおろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェが退けたことがあるか?リンチェンドルジェ・リンポチェが退けるのは金だけだ。もしこれまで退けてきた供養金をすべて受け取っていたなら、とっくに新しい寺を建てる金があっただろう。今寺を建てる金がないのは、供養金が引き揚げられてしまったからだ。台湾の銀行の金がますます多くなるのは、そなた達のおかげだ。

観音法門の最初の四文『諸仏正法聖賢僧。恒当敬礼所皈依。無変六道有情衆。諸仏果位願成就。』こそ、無辺無際のあらゆる界の衆生を済度しようとの思念だ。念じれば、それは誓いの言葉であり願だ。いつ成し遂げるかは重要ではない。あらゆる念頭の中に着実に根付かせられれば、上師と仏菩薩が成就させてくれる。リンチェンドルジェ・リンポチェは高校しか卒業していない。この生で度衆をすることになるなど考えてみたこともなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がリンポチェの果位まで修められるなどと考えたことは一度もなく、このようになると考えたこともまったくない。ただ経典の仰せの通りに行っただけだ。経典は、いつでも衆生への利益を考えよと説くので、リンチェンドルジェ・リンポチェはその通りにした。それが念頭だ。前行で毎日そなた達に念じるよう言っている三皈依、四無量心は非常に重要だ。つまりこの二語に呼応しているのだ。我々の一つ一つの念頭はすべて『化度衆生、化無量無辺衆生界』でなければならない。

なぜ胡麻煩は罵倒されるのか?それは、小事さえ手伝おうとせず、退けてしまうからだ。なぜたくさんの人が過ちを犯すのだ?それはこうだからだ。なぜまだ彼女を追い出さないのか?なぜならこれまではこの二言を言ったことがなかったからだ。だが今言った。もう一度物事を退けたなら、追い出すだろう。我々は衆生済度を為すことはできない。だが衆生に尽くす心は健全でなければならない。情と理にかない合法で因果倫理に背いていないなら、機会があれば行わなければならない。行いたいのに機会がない人もいるのだ。よってこの二言は覚えておかなければならない。

経典には『令入無余涅槃界中。』とある。菩薩の思惟は、いかにして衆生の成仏を助けるかが全てで、自分がいつ成仏できるか、ではない。衆生が成仏しないなら、自分一人が成仏してどうするのだ?我々の成仏は、衆生の成仏を助けるためなのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの本尊に対する誓いの言葉は、一人の衆生でも輪迴するなら、自分は成仏せず、衆生を救い続ける、というものだ。

『無余涅槃』とはどういう意味だろうか?真に仏の境界に入れるよう助けることで、辟支仏に至ることではない。辟支仏の境界とはなんだろうか?辟支仏では、自分が涅槃に至りたいというとてもとても微細な、ほんの少しの塵埃のような考えがやはりある。リンチェンドルジェ・リンポチェは、まだこの境界を体得できていない。よって辟支仏は仏の果位からいえば『有余涅槃』と言えるのだ。この定が消失してしまえば、また輪迴する。よって無余涅槃を修めなければならないのだ。仏法は我々に自然に従うことを求める。自分の縁に従い行い、どんな果位まで証できるなどと期待したり期限を決めたりしないということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが好例だ。何年でどこまで修めようなどと考えたことは一度もない?もちろん閉関では、3ヶ月で何遍行うと期限を定めなければならない。だが、どの果位まで証しようなどとは考える必要はない。10年でどの果位まで証しよう、20年でどこまで証しようなどと考える。これこそ有余であり、過ちだ。水が流れれば自然に溝ができるのだ。福慧資糧が十分なら、果位は自然に出現し、求める必要はない。仏法が説く自然とは、行わない、ということではなく、いつまでに何を必ず行うと祈念しないことだ。これはそなた達の人生設計とは異なる。行おうとするだけで、願力がここで説くものに符合するだけで、この一生で必ず、仏菩薩と上師がどのように助けてくれるかを体得できるだろう。助ける、と言っても、超能力を与える、というような意味ではなく、衆生を助けられるようにするということだ。

経典には『而無一衆生入涅槃界者』とある。前の方では『令入無余涅槃界中』とあり、続いて『而無一衆生入涅槃界者』と説く。これは前述の禅定に呼応している。どちらにも偏らず、有無に執着しないのだ。今日自分は、衆生が仏果となるよう手助けしたが、それはその衆生の因縁であり、自分に力があるからではない。どれだけの衆生の成仏を助けたと言っても、そなたは菩薩ではない。これは『金剛経』で説く。自分は衆生を済度していると考えるなら、そなたは菩薩ではない。菩薩には済度できる衆生は一人もいない。ここまで聞いて怖くなったのではないか?前の方では、我々に行えと求め、ここでは行わなくとも良いという。どうしたらいいのか?リンチェンドルジェ・リンポチェに学ぶが良い。衆生を救っても、踵を返せば忘れてしまう。皈依して数年になる弟子でも、まだ覚えていない者もいる。これには多くの要因がある。

どのように心を訓練すればこのようにできるのか?今日何を為しても、結果がどうなるかは、自分一人で決められるものではない。世間のあらゆる事は、必ずたくさんの人の手助けがなくては成し遂げられない。物事に良い結果があれと期待し、その中の問題と衆生の必要に目がいかないなら、過ちを犯すだろう。菩薩道を行う行者は何を行うとしても、物事全体の過程において、あらゆる件の詳細をすべてしっかり処理し、どんな小さなところにも留意しなければならない。これら理事達は、これほどの大事をやらかしながら、リンチェンドルジェ・リンポチェが知らなければ、何事もなかったかのようにし、リンチェンドルジェ・リンポチェに叱られなければ誤りがなかったことにする。これこそ物事をうまくやることに執著しているのだ。それによって過程が主観になってしまい、留意していない多くの詳細が見えなくなっている。だが、必ずうまくやろうと執着せず、過程で衆生が害を受けていないかどうかにだけ留意する。それなら過程における詳細が見えるようになる。

この二文から分かることは、菩薩は多くの衆生の成仏を助けたが、菩薩は心中で、衆生の成仏を助けたとは思っていないということだ。そなたが呼吸する必要があるようなものだ。呼吸する時に、自分は呼吸しているとは思わないようなものだ。空気の良し悪しなど忖度せずに呼吸しており、呼吸器を装着しているなら別だが、普通は酸素が多いので多めに吸おうなどと考えてもいない。衆生済度は成菩薩の生命だ。人が空気を吸う必要があるようなものだ。空気は我々の生命のようなものなのだ。眠っていても、やはり同じように呼吸している。自分が呼吸しているとは意識しない。それはすでに習慣化しているからで、これは非常に自然なことなのだ。多く呼吸しようなどと執著することはない。仏と菩薩の度衆もまさにこうなのだ。極く自然にやるべきを行っている。菩薩は度衆に当たり良し悪しを分別しない。リンチェンドルジェ・リンポチェがかつて開示したように、菩薩道を行う人はあらゆる事に執着せず、ただ行うのだ。衆生が受け入れても受け入れなくても、学仏しても学仏しなくても良い。すべては衆生の縁なのだ。

経典には『何以故。如仏所説。一切之諸法。無我無衆生無命無養育無富伽羅。』とある。なぜか?仏が仰せの一切の諸法とは、ここの『法』とは、なんらかの法を修めることではなく、眼耳鼻舌身意が感じる宇宙の中の一切の事と相だ。『無我』を、小我が大我に変わり、大我が大愛に変わる、と多くの人が説明を試みている。これは仏法の説明ではない。これは世間法から、世俗寄りの説で説明したものだ。修行の法門については、リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて『我』とは何かを開示したことがある。そなたの氏名、生年月日、身分証番号を全て取り去ってしまえば、『我』には何が残るのか?今日我々の我に対する定義は、父母が何と呼ぶか?名前は何か?何年に生まれたか?仕事は何か?だ。これらを全て取り去ってしまえば、どれがそなたなのだ?我とは何か言えないのではないか?つまり、我の定義はすべて、たくさんの名詞をその上に加えたものだ。よって我とは偽のものだ。真実のものではないのだ。無我とは我が存在しないということではない。もし存在しないなら、どうやって修めるのだ?だが、我はどこから来たのか?業力から来たのだ。業力は無常だ。変化する。我は真実ではない。この我は自然に生まれたのではない。因縁によって生まれ、因縁によって滅するのだ。我に執着すれば過ちを犯す。我は因縁法則だと知れば、執著が減り、さらには執著がなくなり、『我』が騙された、他人に害されたとも思わなくなる。

仏法は生活に用いることができないと誰が言ったのか?用いることはできるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、ある弟子に何年も騙されてきたが、それでもとても嬉しく思い、ずっと口に出さないできた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子の命を救った。この弟子は喜んで騙していた。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは騙されたとは感じていない。それは、この弟子が自分自身を騙しているからだ。彼が、自分はリンチェンドルジェ・リンポチェを騙していると思っていたなら、煩悩、懊悩が生まれただろう。害を受けた自分を感じる、損した自分を感じる、この種の感覚はどこから来るかを理解しなければならない。それは貪嗔痴からだ。上師に叱られると辛く感じる。これこそ我への執著だ。他人に叱られ、辛く感じる。それは、因果を信じておらず、学仏人ではないということだ。

『金融業を営んでいます。金融業は一分一秒たりとも金から離れることはありません。こんな状態で学仏できるでしょうか?』と尋ねる人がいる。仏は、金融業に従事してはならないと仰せではない。だが、そなたには良い点も悪い点もすべて顧客に伝える責任がある。それによって、投資するかどうかは顧客が決めることだ。良い点だけ伝え、伝えれば契約が取れないのではないか、自分は金儲けできないのではないか、と考え悪い点は知られないように隠す、というようなことがあってはならない。誠実に長所も短所も伝えなければならない。この世界に完璧なものはないのだ。そなたが手数料を稼げるかどうかは、欠点を隠すかどうかには関わりない。手数料が稼げたのはそなたの福報だ。もし、欺騙を用いれば、第一に福報がもたらす財を得ることはできず、第二に稼いだ金は手元に残らず、第三に事故が起きる。福報があれば、長所と短所を誠実に説明することで、稼げるべきは手に入る。少なくとも欺騙を用いていない。我に執著するなら、欺騙を用いてしまう。自分が損をした、傷つけられたと感じた時、騙していないだろうか?騙している。先ほど話した理事たちのように、あらゆる事を隠し、リンチェンドルジェ・リンポチェに知らさない。リンチェンドルジェ・リンポチェを騙し、将来誰かに騙される。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェに知らさないことに執着するのか?それは我に執着しているからだ。我に執着すれば、学仏の過程で多くの障礙にぶつかる。我に執着すれば、業力が現前しても、遮ることはできない。

昨年(2015年)年初の頃、リンチェンドルジェ・リンポチェは健康に大きな問題を生じ、もう少しで死ぬところだった。だが、すぐに健康を回復した。それは絶えず福報を累積していたからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはたとえ重病を患っても、医者である弟子に、彼の娘について伝えることができた。そのように、何をするにも、先ずは衆生のことを考え、我はない。自分になお命が残っているかどうかにリンチェンドルジェ・リンポチェは執著しない。リンチェンドルジェ・リンポチェにとって、リンチェンドルジェ・リンポチェの命は衆生に利益するために用いるものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは当時『この業報身に問題が生じた。なお命があるなら、生きて衆生を救い続けられる。寿命が尽きたなら、終わるだけで、どうということもない』と考えた。そなた達は毎日この身体に執着している。これを食べてこれに対処し、これを用いればそこらが良くなる、と望む。これこそ我への執着だ。病気になっても医者にかかるな、というのではない。仏法の観念は、そなたが執著するこの我を治療するのではなく、我々がこの業報身を治療し、業力を一時的に停止させ、福報を育てる十分な時間を与えるのだ。福報が起きたなら、病がそなたを連れ去ろうとしても、それはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェはまさに明確な例だ。本来は死ぬところだったが、元気を回復し、再び罵倒し、再び急がせている。しかも、どんどん速くなる。どうしてできたのか?それは、絶えず福報を累積したからだ。そなたの病はなぜ良くならないのか?それは福報がないからだ。なぜ福報がないのか?それは、いかにして病を癒そうかと自分で考えているからだ。そなたには、自分の病を癒すことはできない。言い付けを守っているだけで良い。そうすれば福報が起きてくる。

六波羅蜜は見たところ非常に深奧だが、日常生活に用いることができる。『無我無衆生』という。『金剛経』では破四相について説く。『寶積経』はいかにして破するかを教える。それは慈悲喜捨を修めることによってだ。そなた達はなぜ破できないのか?それは修めていないからだ。胡麻煩の様にだ。面倒が訪れれば外に追い出してしまう。それは、慈悲喜捨を修めず、我に執著し、『我』と『他』を分別しているのだ。彼女にだけこの問題があるのではない。そなた達すべてそうだ。自分に関係のない事は他人に押し付ける。叱られなければそれで良い、と思っている。

謙虚に言おう。『富迦羅』という言葉は、リンチェンドルジェ・リンポチェにも分からない。仏学辞典を調べなければならない」と仰せになり、リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子に仏学辞典を引くようご指示になった。出家弟子はその場で調べ、『見つかりません』とご報告申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは再び開示なさった。「帰宅してから仏学辞典を引こう。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏学辞典を一冊持っている。分からないとはっきり言う法師は、最近とても少ない!

『無命無養育』とは、子供の命は自分が与えたと思ってはならない、成人するまで育てたのは自分だ、と父母は思ってはならない、ということだ。捨て犬を引き取って、自分が育てていると思っている人がいるが、これは誤った考えだ。『無命無養育』とは、誰も育てない命はない、という意味ではない。因縁福報があったので、そなたに育てられたのだ、ということだ。因縁福報とは無常だ。子供を育て、大きくなったら父母に恩返ししてもらいたいと考える。これは行菩薩道ではない。18歲まで育てたなら、父母としての養育の責任は終わりだ。その後は子供は自分で責任を負わなければならない。父母の中には、子供が三十何歳、四十何歳になってもまだ面倒を見ているものがいる。そのため、親のすねかじりが生まれるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは進歩的な父親だ。それは六波羅蜜を修めたからだ。誰と付き合おうと、誰と結婚しようと、子供に任せ、干渉しない。尋ねられたなら意見を言うが、それに従うかどうかも構わない。不要なら言わない。面倒を起こさないなら、子供も嬉しく、リンチェンドルジェ・リンポチェも嬉しい。今日は出かけてはならない、などとも決めない。朝起きられなくなるから、夜はあまり遅くならないようにとだけ言う。これだけ進歩的でいられるのは、仏法を用いるからだ。

修行の面から言えば、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなたの命を救えば、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなたを救ったようだが、実はそなたを救ってはいない。リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの弟子を養っているようだが、リンチェンドルジェ・リンポチェが養っているのではない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは菩薩道を行っているので、過去世でリンチェンドルジェ・リンポチェが作った借りを返さなければならないのだ。返済し終えれば、さようならだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはどれだけの人を養っているかに執著しない。布施がどれだけだ、どれだけの人の命を救ったと執著しない。そなたを救うのは、リンチェンドルジェ・リンポチェ自身のためではない。自分のためなら、昨日数百万元を退けることなどなかった。なぜそなたの命を救うのか?そなた達を済度させ、そなたがいつか成仏できるように助けるためだ。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達を救っているとは思わない。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは一度しか救わない、と言うのか?その道理が分かっただろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたの命を救っているとは思わない。ただ、そなた達を済度しているとだけ思っている。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がどれだけの衆生を救ったとも思わない。リンチェンドルジェ・リンポチェの行為から、適当に言っているのではないことが分かるだろう。経典からも見てとることができる」と仰せになった。一人の出家弟子が「リンチェンドルジェ・リンポチェの行為は菩薩のようです。経典で完全に証明できます」とご報告申し上げた。

『如是修慧而以彼慧。迴向阿耨多羅三藐三菩提。作如是願。』という。我々はこの方法を用いて智慧を修める。それが後得智だ。自分が何をしたか、どれだけの衆生を済度させたか、どれだけの人を救ったか、養っているかに執着してはならない。執著せず、ただ行う。これこそ空性の智慧の修行だ。もしこの種の事に執著するなら、そなたの累世の業は転動しない。リンチェンドルジェ・リンポチェはあまりにも多くを見てきた。在家衆であろうと出家衆、修行人であろうと、これは非常に細微な部分だ。不注意ですぐに陥る。慎重でなければならない!菩薩道を修めたものだけが輪迴を解脱できる。念に頼って輪迴を断つことなど不可能だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分がいつこの世を離れるかは分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分がどこへ行くのかも分からない。そなた達は着いて来られないのだ。だが、そなたがリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子で、リンチェンドルジェ・リンポチェが在世の頃、この一生で如実学仏し、決まりを守り言い付けに従っていたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの名前を呼べば、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ずそなたを助ける。これもリンチェンドルジェ・リンポチェの誓いだ。

このように智慧、つまり根本智と後得智を修める。後得智は回向できるが、根本智は回向に用いない。なぜなら彼はそなたと同じだからだ。すべて平等なのだ。一匹のアリであっても、その本性は自分と同じだ。アリが小さいからといって、その仏性も少ないということはない。同じなのだ。よって、回向は存在しない。この一生と過去世で修めた智慧は回向しなければならない。なぜ回向しなければならないのか?それは、先ほど講じた『無衆生可度』に呼応するのだ。もし回向せず、自分がかつて為した好事に執着し、自分の智慧に執着するなら、輪迴に陥ってしまう。そなたが回向すれば、地蔵菩薩が仰せのように『承仏威神力加持(仏威神力を以って加持する)』なのだ。回向とは、何かを与える、というのではなく、身口意を、仏法が為されたものに基づき、上師と仏菩薩の功徳大海中に溶け込ませるのだ。功徳大海中に溶け込めなければ、生死を解脱し、それによって衆生を助ける福報はない。利己的な人は決して為せないだろう。

皈依していない若い女性は、よく考えてから学仏を始めるが良い。そうでなければ、いつか泥棒猫が現れるだろう。どうしたらいいと思うか?そなたの相手に、別の相手が現れるかどうかは、そなたの因縁と関係がある。先ほど言った、鶏を掴んでいた腕を骨折したのと同じだ。この生で発生することはすべて、因果因縁と関係がある。学仏人の苦痛が減るのは、因果を理解し因果を受け入れるからだ。良いことが起きても、それほど喜ばず、悪いことが起きても苦痛を感じない。なぜならはっきり分かっているからだ。非常に消極的に日々を過ごすのではない。反対に非常に積極的に日々を過ごすのだ。我々は、自分が慣れてしまっている思惟方式を改めなければならない。これは非常に苦しく容易でない事なのだ。

阿耨多羅三藐三菩提に廻向しないなら、真の迴向とは言えない。親族に廻向し、誰かに廻向する、というのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは誰か特定の人に迴向することもある。だが、それはすべて特別な助けが必要な人なのだ。阿耨多羅三藐三菩提の仏法的な意義は非常に深い。最も重要なのは、身口意の三門ですべて菩提を行うことなのだ。『作如是願』とは、修めているからこそ、これが願であり、この程度まで修めないなら、そなたの願は偽物だ、というのではなく、成し遂げられない、ということだ。最も重要なのは言い付けに従うことだ。仏が我々にお教えくださった方法で発願し、新しい方法を発明してはならない。

経典では『而於智慧不生分別。是名菩薩修行般若。』とある。我々は、いずれかの経を読んで智慧を開きたい、この法門を修めれば智慧が高くなるとしばしば望む。だが、これはあってはならない。智慧がどれだけ顕露するかは、その人の福徳因縁によって決まる。他の人が智慧を開く方法は、我々とは違う可能性がある。だが誰の方が良い、ということではない。大切なのは、すでに智慧を開いたが、そのすでに智慧を開いた人の行為が、仏法の標準を用いているかどうか、世間法で見ていないかどうか、ということだ。仏法の標準とは、その人が行うすべての事が、すべて他人に利益しているか、学仏を受け入れる人に他人を変えているか、というこどだ。智慧には分別がない。大小の別もない。智慧を小事に用いれば、当然顕露する智慧も小さい。大事に用いれば、顕露する智慧も大きい。仏の智慧と菩薩の智慧を比べれば、当然仏の智慧の方が大きいようなものだ。だが、仏の智慧が菩薩の智慧より凄いということではなく、すべて同等だ。ただ、仏の後得智と根本智はすでに結合しており、少しの無明もなく、菩薩の智慧にはやはり少しの無明があるだけだ。菩薩の果位が異なれば、その無明も異なる。凡夫ならなおのことたくさんの無明がある。

太陽が黒雲に隠れれば、我々は太陽光が少ないと感じる。黒雲とは我々の無明、貪嗔痴慢疑、煩悩だ。我々の光は隠されてしまう。仏法修行を通して、黒雲を少しずつ減らしていく。黒雲が徐々に見えなくなれば、智慧の光がゆっくりと顕露してくる。黒雲が全くなくなってしまえば、光は自然に完全に顕露する。この智慧の光とは、太陽の光のようなものだ。黒雲が太陽の光を遮れば、太陽の光は減るだろうか?減らない。太陽の光は同じだ。黒雲が遮った範囲が違うなら、漏れ出てくる光も異なる。太陽光は黒雲の量の多少により、顕露する量に差があらわれ、太陽光が少なくなったように感じるのだ。これは我々が分別しているのだ。太陽そのものの光には違いはない。これが理解できれば、思い上がってはいられないだろう。自分は密を修め、禅を修め、何を修めているからと言って、他人を見下すことはなくなるだろう。小さな智慧でも他人を助けることができる。声聞縁覚は大乗に比べものにならない、金剛乗の智慧は大乗より良い、禅宗は浄土宗より良い、などと思うことはなくなるだろう。ただ個人の因縁の違いによるのだ。学んだ、聴いた法門が違うに過ぎないのだ。無分別の智慧を必ず具備しなければ、無分別の心で衆生に利益することはできない。分別心があるなら、胡麻煩のように分別があるなら、小さな面倒は避け、大きな面倒には関わり、一般人が求めても請け負わず、大人物が求めれば応じる、というようになる。毎日の生活から、自分が学仏しているかどうかを検視することができるのだ!

経典には『而於智慧不生分別。是名菩薩修行般若。善男子。菩薩摩訶薩如是発菩提心。名為菩薩楽菩提心。』とある。先ほど説いたことがすべてできて初めて楽菩提心だ。楽菩提心とは衆生にもたらす永遠の楽で、さもなくばすべて嘘だ。衆生が永遠の楽を得られないなら、このような菩提心は世俗菩提心であり、勝義菩提心ではない。世俗菩提心も良くない訳ではないが、有為のもので、故意のものだ。勝義菩提心は空性なのだ。世俗菩提心は思想により作られる。仏菩薩が修めるのは勝義菩提心であり、空性が自然に流露するものだ。衆生が必要なら自然に顕露する。そなた達はどうだ。考えてみる必要がある。胡麻煩のよう考え、小事は手伝う必要はないと考える。もし今日誰かがクリニックの外の通路で転んで血を流したなら、彼女は助けに行くだろう。なぜなら、それを大事だと考えるからだ。そうでなければ、為そうとは望まない。これこそ分別心だ。もう一度言う。情と理にかない合法で、倫理道徳にかなっているなら助けなければならない。助けることができないとしても、気に留めなければならない。毎日ニュースでこんなにもたくさんの不如意が報道されている。菩薩道を修める人は留意しなければならない。衆生の業力を目にしたなら、こうあってはならないと自ら体得しなければならない。そうでなければ、しっかり学仏しようと自分を励ますことはできない。そうでなければ、人生無常、死亡無常をはっきりと弁えることはできない。自分には回ってこないだろう、法会に行きさえすれば仏菩薩が守ってくださる、リンチェンドルジェ・リンポチェが守ってくれる、などと考えてはならない。誰がそなたを守るのだ?そなたが自分自身を守るのだ。自分で改めなければならない。

経典には『爾時世尊。為顕此義。偈重説言。猶如真宝珠。光明不捨離。又如鉱中金。治已転増明。如是菩提性。転明菩提心。二辺清浄已。魔所不得便。』とある。

『猶如真宝珠。光明不捨離。』とは我々の智慧、本性は本当の宝石のようで、光は離れず、たとえ布に覆われたとしても、そなたがその布を取り除いた時に、その光明はやはり顕現してくる、ということだ。

『又如鉱中金。治已転増明。』とは、本性は鉱石の中の黄金のようで、黄金は採掘されたばかりの時は銅などの様々な金属雑質が内部にあり、その価值は定かではないが、精錬の過程を経ることで、最後には光を放ち価值のある純金となる、ということだ。仏法は、我々の精錬を助けるのだ。我々の身体は様々なものでいっぱいだ。だが、精錬の過程を経て、貪嗔痴慢疑などの雑質を取り除いてしまい、智慧を開発するのだ。

『如是菩提性。転明菩提心。』この二文は、我々が本来具備するこの菩提性が、精錬を経て、光と熱を放つ菩提心に変化するということだ。たとえ菩提性があっても、菩提心を発することができるとは限らない。よって精錬を経て、菩提心は出現して光を放ち、こうして初めて菩提願を持てるようになり、こうして初めて衆生を助ける能力を有するようになるのだ。これは一つの過程だ。十善法を修めず、慈悲心を学ばないなら、一日中過ちを犯す。このような人がどうして菩薩道を為せるだろうか?いわゆる過ちを犯すとは、他人の考えを考慮せず、衆生の事情を考慮せず、自分が叱責されないように、とだけ考えることだ。

『二辺清浄已。魔所不得便。』ここでいう『二辺清浄』とは『有』、『空』のどちらもが清浄だということで、無いということではない。この二つに執着することはない。そなたは、『有』までできれば、一定で不変だとは思わない。思わない。『空性』まで為せれば、それは無いのだ、とも思わないだろう。また、これに執着するのでも無い。いわゆる衆生に隨順する、とは衆生に従う、ということではなく、衆生の因縁に従う、ということだ。縁が至らないなら、無理に手助けしてはならない。縁が到れば、手助けしない訳にはいかない。衆生に隨順する、とは甘やかすことではない。好きにさせることでも、放っておくことでもない。

『二辺清浄已。魔所不得便。』ここでいう『二辺清浄』とは『有』、『空』のどちらもが清浄だということで、無いということではない。この二つに執着することはない。そなたは、『有』までできれば、一定で不変だとは思わない。思わない。『空性』まで為せれば、それは無いのだ、とも思わないだろう。また、これに執着するのでも無い。いわゆる衆生に隨順する、とは衆生に従う、ということではなく、衆生の因縁に従う、ということだ。縁が至らないなら、無理に手助けしてはならない。縁が到れば、手助けしない訳にはいかない。衆生に隨順する、とは甘やかすことではない。好きにさせることでも、放っておくことでもない。

先週土曜日ある政治家が道場に会いに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が政治家だと知っていたが、やはりいつも通り叱責した。彼は単独での会談を要求したが、リンチェンドルジェ・リンポチェは同意しなかった。国家の大事のためでない限り、リンチェンドルジェ・リンポチェは単独で会うことはない。リンチェンドルジェ・リンポチェは他人を怒らせることを恐れない。そなた達なら、この人は政治家なのだから、と考え、違った態度をとるだろう。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは真実の話をし仏法を説いた。たとえ彼が受け入れなくとも、帰宅後に、自分を叱責した人がいたことぐらいは覚えているだろう。それによって、以後物事を行う際にいくらかの行為が減るだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を怒らせたとは思っていない。なぜなら仏法を講じただけだからだ。聞き入れるかどうかは、その人の縁次第だ。この人が政治家だからと言って、リンチェンドルジェ・リンポチェが世俗の八風(仏の教えに基づいた修行を妨げる八つの出来事)に従い講じ、彼が好む話をしたなら、それは逆に彼に害を及ぼしたことになる。経典では『一歷耳根,永為道種。』という。今日リンチェンドルジェ・リンポチェが彼に仏法を開示したのは、彼に種子を植え付け、いつの日か、学仏修行をする機会を持たせるためなのだ。実は必ず叱責すべきとは限らず、仏法を用いて真実を語っても良いのだ。相手はとても苦しんでいるので、先ずは彼に従い、信心を起こさせれば、以後学仏に来る、という人もいるかもしれない。だが実はこの種の方式を用いることはできないのだ。

ある人にガンが発見されたが、抗がん剤治療で痛くて、すでにワーワー泣き喚いている。痛まないようにしてくれるようリンチェンドルジェ・リンポチェに加持を求めて来たとしよう。リンチェンドルジェ・リンポチェは『それは無理だ。ガン細胞は自分の細胞だ。自分の細胞を殺すのは、もちろん良くない』と告げるだろう。毒薬を煽りながら、痛みを感じたくない、とは、どうしてそんなことができるだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェが片側に執著するなら、彼に加持し慈悲深く感じさせ、さらに耳に心地よい話をし、彼にダメだと感じさせても、それはリンチェンドルジェ・リンポチェには関係がない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの種の能力を備えている。だがこのようにしてもいいだろうか?できない。正直に話すのは、この信衆が今後リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来ることに執著せず、今後リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来ないことに執著しないということだ。因縁に従うのだ。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは必ず仏陀の教導に従い如実にそなた達に伝えなければならないからだ。なぜなら真実を話さなければ、因果輪迴に陥ってしまうからだ。

『寶積経』は、末法時代の弘法人は名利のために仏法を捻じ曲げ、信衆に媚びへつらう、という。リンチェンドルジェ・リンポチェは名利のために仏法を捻じ曲げ、真実でないことを言ったりしない。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェは『両辺清浄』だけを学んだのだ。菩薩道を行う人は名利にこだわってはならない。有無に執著してはならない。両方ともに、衆生の成仏を助ける心に影響を及ぼすことはない。彼は得られたとしても、喜ぶことはない。無いことにより、失ったと感じることも無い。なぜなら、衆生を済度させているとは感じないからだ。

『魔所不得便。』という。そなた達はなぜ病魔に襲われるのか?それは両辺不清浄だからだ。菩薩道を行うなら、両辺清浄でなければならない。まだできていないなら、低姿勢でいなければならない。慌てて衆生を済度させようとしてはならない。そのため、前の方で、先ずは思惟しなければならないというのだ。先ず行うのではなく、最も重要なのは先に考え、思惟することだ。考えるだけで、まだ衆生を済度させない。だが、このように考えなければ、魔につけこまれてしまう。これらは『楞厳経』でも説いている。なぜ忘れてしまうのか?なぜなら、誰も出家人を叱責できないからだ。出家人はどんどん少なくなる。寺には誰も参拝しない。リンチェンドルジェ・リンポチェがこう言えるのは、経典に基づいて話しているからだ。自分で発明したのではない。魔はどうしてつけ込むのか?それは『有』に執著し、名利について考えるからだ。『無』に執著すれば、何もしたくなくなり、非常に消極的になる。

今日講じた六波羅蜜は、出家であろうと在家であろう、すべてはそなた達の人として生きるための基準だ。できるかできないか、どれだけ為すかは重要ではない。為さねばならないのだ。仏法は前もって言っていない。ただ、行わなければならない。努力して行わなければならない。いつ成し遂げられるかと予期してはならない。いつか必ず結果が出る。予期してはならない。死のその瞬間こそが結果だ。そなたが多くの弟子を持っていようと、死に至れば解決できないし、役には立たない。たとえそなたが非常に美しい寺を持っていようと、そなたの生死を主宰できないなら、役には立たない。仏はだからこそ特別に開示くださったのだ。明らかな菩提心が顕現し、両辺が清浄なら、魔が付け入ることはできない。しっかり覚えておくように!慎重であるように!自分に対して高い期待を持ってはならない。先ずは思惟から開始し、あらゆる念頭を考えなければならない。必ず為せるだろうか?それは重要ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが学仏していた時、すべてで衆生を助けるよう、仏は教導くださった。その通り行ったら、訳も分からずリンポチェになってしまっていた。では、なぜそなた達はなれないのか?こんなにも大きな願を欲して出家したのに、なぜそなた達はなれないのか?未だに広東語訛りの中国語を話す者に教えられている。原因はどこにあるのか?法に依らず、道を誤るからだ。だが、誤っても良い。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達を引き戻そう。言い付けに従うように。

これまで学んで来なかった、どうしたらいいのか?ということはない。過去に学んでおらず修めていなかったなら、今日の開示を聞く福報因縁はなかったはずだ。正も誤もない。ただ、心が仏法の上に根付いていないのだ。過去に修め、福報が養われていたので、今日の開示を聞くことができたのだ。将来成し遂げられるかどうかは、自分で決めれば良い。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分の修行経験を、仏が仰せの境界に対応させて、そなた達に聞かせるだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが必ず導いてくれる、などと頼ってはならない。できるかどうかは、そなた達の決心、根器と関係があるのだ。自分自身で行い、改めなければならない。

今日開示した六波羅蜜の部分は、一時的な教導としよう。この部分は何度も聞き何度も読まなければならない。六波羅蜜は仏が仰せのように『真宝珠,魔不得便』だ。魔は外魔とは限らない。心魔であるかもしれないのだ。心魔とは貪嗔痴慢疑だ。他人が離れるよう望み、あれもこれもと望んで持咒するのもすべて魔心だ。仏菩薩の心ではない。夫の側にいる泥棒猫が離れるよう願って持咒することは、決してあってはならない。これは他人を呪うことで、これこそ魔の心だ。そなたのパートナーに別の人がいる、いつになったら別れる、これは、そなた自身の福報と関係がある。夫が側にいることを喜んでおらず、衆生の成仏を願い持咒しなければならない。とても難しいだろう。だが、行わなければならない。敵の状況が悪くなるよう願ってはならない。この種の心を持ってはならない。仏のお教えに従い、それを自分の思想に根付かせて初めてチャンスがある。そうでなければ、チャンスはないのだ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達を導いてアキ護法と回向儀軌を修められた。法会は円満し、弟子達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲開示を感謝し、立ち上がって恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りられるのを見送った。

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2018 年 12 月 10 日 更新