尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年2月28日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ施身法法会を主法くださり、参会者に貴重な仏法の開示を下された。

今日修めた施身法はチベット密法中の八大成就法の一つだ。施身法とは中国語訳で、チベット語では『断』という。切断の意味だ。何を断つのか?一切の煩悩を断つのだ。経典では煩悩を二種に分けている。一つは煩悩障で、もう一つは所知障だ。人生における身口意の欲望はすべて我々に煩悩を生じさせる。この種の煩悩は我々の仏法学習と仏法修行の根本の動力を妨げる。煩悩障については比較的馴染みがあるだろう。人は自分の煩悩について、ある程度感じることができる。うれしかったりうれしくなかったりした時には自分自身で強く感じることができる。だが、所知障を感じるのは難しい。所知障とは我々の六根つまり眼、耳、鼻、舌、身、意が積み上げた人生経験法だ。この部分については多くの人が自覚していない。自分はたくさん学び、たくさんの本を読んだので、仏法とは何であるかを理解している、と思っている。これには眼、耳、鼻、舌、身、意を通して生じる貪嗔痴慢疑が生み出す障礙も含む。自分の人生経験を用い、自身が正しいと思う方法で事を行う。そなた達の方法がどうして正しいだろうか?すべては貪嗔痴だ。最近リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥仏法センターの理監事の心構えとやり方を正している。彼らは自分がどんな過ちを犯したのか分からないようだ。これこそ所知障だ。彼らは『間違わないでおこう』とだけ考え、無責任で、『自分は理事だ。すごいだろう。何かあってもどうせリンチェンドルジェ・リンポチェが解決してくれる』と思っている。これこそ彼らの所知障だ。所知障があれば因果を信じることはできない。

因果を信じていると言う人は多い。だが皆ほんとうは信じていないのだ。口で言っているだけだ。この一世で起きる事のすべては、自らが蒔いた因から生まれた果なのだ。自分は前世にどんな過ちを犯したのでしょうか、と会いに来た途端に訊ねる人がいる。このように訊ねるのは、責任から逃げているということだ。まさかこの一生で過ちを犯したことがないのだろうか?今世で発生する事のすべては前世によるものだ、などと前世に責任をなすりつけ、自分は責任逃れをしている。この種の人は因果を信じていないのだ。前世などと言うものではない。前世でしっかりできていれば、とっくに阿彌陀仏のお側に行っていたはずだ。今頃地球にいるだろうか?自分は前世でどんな過ちを犯したのかを誰もが知りたがる。では、この一世は関係がないのか?これこそ所知障だ。『地蔵経』では『凡夫俗子の起心動念はすべて業でありすべて罪である』という。我々の起心動念はすべて自分のためだ。自分の利益について思うなら必ず衆生を傷つける。自然に罪を犯し、自然に悪業、善業を生じる。

今日修める法は、表面的には衆生を超度させ、そなた達の病痛を軽減する。この法の正式名称は『施身断法二資糧』と言う。重要なのは最後の『二資糧』だ。『二資糧』とは『智慧』と『福報』だ。

学仏とは輪迴の苦からいかにして解脱するかを学ぶものだ。学仏には福報が必要だ。福報がないなら、仏法を聞く条件も資格もない。たとえ仏法を聞く機会に恵まれたとしても、福報も条件もないなら、仏法を学び修行することはできない。たとえ仏法を学び修行できたとしても、福報がないなら、閉関修行する環境が得られることはない。たとえ閉関できたとしても、福報が十分でないなら、閉関の過程で障礙が現れるだろう。福報が足りないなら、たとえ閉関を完了し成就が得られたとしても、出関後に障礙にぶつかるだろう。やはり問題が起きるのだ。それは、福報が不十分なので、往生時にすべての業力が邪魔しにくるのだ。

福報は二種に分けられる。一種は人天福報で、もう一種は輪迴解脱を修行する福報だ。上師に薄っぺらい祝儀袋を供養し、たまに何かをくれてやれば福報がある、道場でボランティアを行えば福報がある、災害が起きた時、慈善団体に募金すれば福報があり、テレビの募金活動に電話して500元寄付すれば福報がある、などと思ってはならない。これらは結縁に過ぎない。ほんの少しの人天福報が得られるだけだ。これをこの一生で使えるとは限らない。次の一世、或いは何世も経た後でなければ使えないかもしれないのだ。人天福報を得るのは非常に容易だ。募金を続ければ、それだけで得られる。過去で大した布施供養をしなかったなら、この一生で努力して行っても、過去生の不足と相殺することはできない。過去生でたくさんの悪を為したなら、この一生でたくさんの因縁があり行善できたとしても、過去生の悪と相殺することはできない。真の人天福報とは、三宝の指示に従い行わなければ善とは言えないのだ。なぜなら、どんな行為を行えばどんな果報が得られるかを上師は極めてはっきりと分かっているからだ。上師はどのように行えば良いかを指導してくれる。実は人天福報を修める際にも福報があるかどうかは関わってくるのだ。以前ある男性信衆が奇怪な病に罹った。知っておろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは信衆の供養は受け取らない。この際にはこの信衆に、病院へ行き、金がなくて医者に掛かれない人に寄付せよと指示した。ところが、この人は病院で2ヶ月待っていたが寄付すべき人が見つからなかったというのだ。彼はこの一生でも過去生でも、善の念頭で他人を助けたことが全くなかったからだ。人天福報を一生懸命積み、報いを得たいと期待しても、金銭を寄付し、健康を得たい、有名になりたいと願っても、これらはすべてこの一世では使えないのだ。次の一世、さらには何世をも経た後でなければ使えないかもしれないのだ。

そのため仏は、我々が修める福報は、修行の中で出現する福報だ、とお教えくださった。先ほど言ったように、福報が不十分であれば障礙が生まれる。修行の障礙をすべて克服したとしても、福報が不十分なら、臨終の際に善知識が助けに来てくれることはない。自分はこの一生でとても大きな成就を得たと考えている修行人は特に所知障を犯している。

つまり我々は福報の定義を明確にしなければならないのだ。健康でも病を癒すことでもない。これは極めて小さなことだ。これまで何度も言ったが、もう一度言おう。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて皮膚ガンに罹った時、尊勝なる直貢チェツァン法王にも、仏菩薩にも加持をお願い申し上げなかった。そなた達は口を開けば『因果を信じる。冤親債主が浄土に行けるように回向する』と言っているが、実は心の深いところでは、すべての冤親債主が自分から離れ、自分が健康でいられることを願っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは皮膚ガンを得たが、加持を求めずとも良くなったし、医者に掛からずとも良くなった。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが上師を信じ、仏菩薩を信じ、無常を信じていたからだ。ガンに罹ったのが良くない事だとは考えず、自分の因果だと考え、受け入れたからだ。ガンで死ぬのなら、ガンにならなければ死なないのか?」とリンチェンドルジェ・リンポチェがお訊ねになると、参会者は声を揃えて「やはり死にます」とお答え申し上げた。

「みな、ガンになるのを恐れている。ではなぜ高血圧を恐れないのか?糖尿病を恐れないのか?心臓病を恐れないのか?インフルエンザを恐れないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは每年言っている。今年の年初には今年は肺疾患が流行する、呼吸器疾患が流行すると言ったばかりだ。本当にそうなったではないか。最近ではインフルエンザが流行り始めた。どうしてこれら病に罹るのか?冷たいもの、肉、海鮮を食べるからだ。近頃では肺疾患が流行り始めている。インフルエンザに罹った人達は抵抗力が弱いのだ。それは冷たいもの、肉、海鮮を食べたからだ。ガンに罹った人は、なぜ地球最後の日が訪れた、とまで思うのか。なぜ、ガンに罹った人は極端に恐れるのか。ガン罹患は自分の殺業、家族の殺業にかかわらず、基本的には必ず殺生と関係がある。殺される時、衆生も恐れるのではないか?そのためガンに罹った人は非常に怖がるのだ。ガンで死ぬ多くの人は、ガンそのもので死ぬのではなく、絶対多数は恐怖のあまり死に、或いは治療で死に、或いは心臓病、肺炎、腎臓病等の合併症で死ぬのだ。ガン細胞のために死ぬ人はとても少ない。ガンに罹ったなら、大喜びしなければならない。そのおかげで、自分の過ちが何なのかが分かるではないか。誰でも、幼い頃から大人になるまで、自分が過ちを犯したとは考えていない。自分が悪人だとは考えていない。仏法では、心が病に侵されるので身体に病が現れる、と言う。心の中が貪嗔痴慢疑、五毒だからだ。医学でも、心理的な異常があれば、身体にも悪影響が及ぶと言うではないか。仏は数千年前に同じことを仰せだったのだ。ガンになったのは、心に病があったということだ。ガンになり上師の加持を得ても、なぜなお痛むのか?それは心に病があるからだ。心の問題を治療せずに、外に助けを求めてばかりいるからだ。

中国のある弟子の、その前妻の母は2年前にガンに罹った。その際彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに20万人民元を供養した。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らなかった。それでもやはり、妻の母に加持を与え、彼女に、臨終の際にも痛むことはないと伝えた。今では彼女のガン細胞はすでに脳にまで転移しているが、ほんとうに痛まないという。またある米国の弟子は、2、3年前に肝臓ガンで、治療しなければ死に至ると宣告されたが、今になっても生きており、体力が弱まっている以外は、痛みもないという。なぜ痛まないのか?それは、上師に対して信心を持っているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子でありながら、なぜ痛むのか?それは上師に対して信心がないからだ。上師の加持を得たので、あとは家で自分で修めようと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは百万回、千万回も開示した。成仏の前でありさえすれば、とひたすら言っている。地蔵菩薩はすでに法身菩薩であられるが、『地蔵経』中で『自分が衆生を救えるのは、仏菩薩の加持を頂戴しているからだ』とはっきり仰せだ。そなた達は何を以って、法会に一度参加しただけで健康になり、何度か拝むだけで、線香をあげるだけで、少しの金を投げ入れるだけで良くなると思うのか?誰も聞き入れようとしない。経典は物語だと思っている。これこそ所知障を犯しているのだ。自分には何が必要で、自分の問題がどこにあるのか、自分の痛みがどこにあるのかを知っていると思っている。自分が求めれば、与えなければならない。何もやっていないのに、ちょっと来ればすぐに良くなり、どこかの法王に面会できれば、あっという間に法身菩薩になれる、と盲信している人もいるようだ。もしそうなら、歷代の大徳は修行する必要などなかったではないか。リンチェンドルジェ・リンポチェも修行する必要などない。もしそんなに簡単なら、それは大変だ。天下に法身菩薩がうじゃうじゃいるのに、なおこんなにたくさんの人が苦しんでいるとは。

有名でお金もある人は、特に所知障を犯しやすい。なぜならそういう人は自分は成功していると思っているからだ。社会で成功している人は、学仏は簡単だと思っている。経典上の文字を一通り見て、意味が分かれば修められると思っている。もし、そんなに簡単なら、釈迦牟尼仏が仏法を49年間弘法しても終わらないということはないのではないか。釈迦牟尼仏の時代のインドでは、外道が最も盛んだった。そして、インド文化が隆盛を極めていた時代でもある。インド人の思想は非常に細やかだし、思維も非常に特殊だ。インドがコンピューターのソフトウェアで全世界で知られていることからも分かる。釈迦牟尼仏ほどの智慧をお持ちのお方が49年間講じても終わらず、すべての衆生を済度させ切れないほどなのだ。そなた達は何を以って、ちょっと聞き、経典を一冊手にしただけで仏法を宣揚できるというのか?成就もないのに衆生に利益しようとすれば、反対に衆生を傷つけてしまうのだ。

尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法に対して強いこだわりを持ち妥協しない、と仰せになった。尊勝なる直貢チェツァン法王も同様であられる。なぜ同じなのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが尊勝なる直貢チェツァン法王に従い学んだからだ。そのため、仏法に対して強いこだわりを持ち続けているのだ。先週リンチェンドルジェ・リンポチェは、そなた達千人余りの欲望を受け入れることはできない、と開示した。リンチェンドルジェ・リンポチェが仏法にこだわらず、そなた達式の考え方を受け入れるように、みな望んでいる。それなら仏法など不要だ。台湾風に拝んでいれば良い。仏法の根本は、過去に行った一切を明確に認識するよう教え、いかにして改めるかを教えるのだ。だが、行うのはそなた達自身だ。上師が何かをしてやることなどできない。仏は仰せになった。そなた達が現在為している業は、経典で講じるもののようだ。家の中にたくさんの海の生物やアワビなどを詰め込んでいる。とてつもなく臭い。上師はそれらを外に出した。だが、内部にはやはり匂いが残っている。誰が掃除するのだ?もちろん外に出してくれた人ではない。その家に住んでいる人、つまりそなた達自身だ。仏法は自分の過ちにしっかり向き合うよう、自己流の方法を改めるよう教導くださる。だが、実際に行うのはそなただ。自分自身で修行し学習しなければならないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、一度しか救わない、とかつて開示した。初めて救いを求めに来たなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは救ってやろう。なぜなら、業力を食い止める力がまだないからだ。洪という姓の弟子、吳という姓の弟子はこうだったのだ。一度目は救ってやるが、その後言いつけを守らないなら、それはもう仕方がない。仏菩薩と諸上師のリンチェンドルジェ・リンポチェへの加持を通して、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達を救う。だが、それはちょっと業力をブロックするだけで、動きをちょっと止めるだけなのだ。これにより、そなた達は自己の過ちに気付く時間が得られる。続いての部分は、自分自身で修め、己を改め、生死を解脱する決心を下さなければならない。学仏とはガンに対抗するためではなく、これに対抗するためなのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェのガンはなぜ治ってしまったのか?それは福報が溜まり、智慧が開けたからだ。冤親債主が、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分たちを助けてくれると感じたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがガン細胞を済度させ、救いと呼ぶのではない。今日の法会は、そなたの家の中の一部の海の生き物やアワビなどを外に出したが、そなた達自身が掃除を続けなければ、生臭い匂いを消してしまうことはできないのだ。祖師ジッテン・サムゴンは『いかなる具徳の上師であろうと、ここの徳とは道徳ではなく功徳だが、具徳の上師は衆生の病を一時的に停止させることはできるが、衆生は病が癒えた、状況が好転した、と感じ、自分の修行がうまくいったのだと思えば、それ以上精進しない』と開示なさった。『宝積経』は精進、六波羅蜜修行について開示する。精進とはどれだけ念誦せよ、どれだけ排仏せよ、というのではなく、心が衆生のためにあるかどうか、ということなのだ。そなたの命を救うのは、息子の成長を見届けさせたり、金儲けをさせるためではない。

昨日ある信衆が会いに来た。自分はガンに罹ったが、老いた母がいるので、母が生きている限りどうか自分を生かしてほしい、とリンチェンドルジェ・リンポチェに求めるのだ。これもリンチェンドルジェ・リンポチェに対する無理強いだ。能力があるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェに従いひたすら修め、母の往生を見届けることができるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェがガンに罹ったことがないなら、他人を批判する資格はないだろう。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を用いてガンを治してしまったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが、所知障と煩悩障を断つよう、己の成見を捨てるよう、己が考えるその種の知覚を捨て、仏法の薰陶を受け入れるよう絶えず努力したからだ。

学仏で大切なのは、決心を下したかどうか、自分の考えを捨て上師と仏の教法に従うかどうかだ。もともとの生活を捨てて、何もかもしてはならないというのではない。官吏であれば、官吏を続ければ良い。学仏するなら辞めなければならないと言うわけではない。官吏であれば造業は簡単だ。だが行善も簡単なのだ。官吏であれば、一つ命令を下すことでたくさんの人を救うことができる。衆生に対する影響力は、一人のリンポチェよりよほど大きいのだ。学仏するので、仕事へ行ってはならない、商売もしてはならないというのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェさえ商売をしているのだ。なぜそなた達が商売をしてはならないのか?商売でもたくさんの人を救うことができる。学仏したので、ある日突然智慧が開け、なんでも分かるようになるので、勉強しなくともよい、などということもない。そう思うなら、待っていればよい!学仏したので、夫や妻と距離を置き離れて生活する、などと家で宣言するような必要もない。『宝積経』では『この一生の眷属の縁を拒絕することはできない』とある。これはリンチェンドルジェ・リンポチェが言っているのではない。経典が言っているのだ。

『宝積経』は、執政者を批判してはならない、と我々に教える。執政者が良くないと、なぜ考えるのか?それは、自分の欲望を満たしてくれないからだ。良く考えてみよ。そうではないか?みなが法に従い暮らしているなら、どうして良し悪しの違いがあるのか?その地の法律はどのように制定されたのか?それはその地の住民の平均值に基づき制定された規範だ。もちろんあらゆる人が満足することなど有り得ない。満足する人もいれば、不満を持つ人もいるはずだ。英語でもcannot please everybodyというではないか。家庭内の決まりでも、子供達にはそれぞれ違った意見がある。支持するものもいれば、反対するものもいる。今日この執政者が現れたのは、そなたと衆生の共同の業力であり、そなたの因縁なのだ。批判するなら、それは己を批判しているのと同じだ。福報が良いなら、すべての欲望を満たしてくれる執政者に自ずと巡り会うだろう。執政者を批判してはならない。なぜなら、そなたの欲望には限りがないからだ。そんな有様でどうして修められるだろうか?

菩薩道を修める行者には、良いも悪いもない。なぜガンを恐れるのか?それは、そなた達がガンを良くないものと位置付けているからだ。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェはガンを恐れないのか?それは、ガンを良くないものと位置付けていないからだ。執政者を批判するなら、それは菩薩道を学んでいない、学仏する資格がないということだ。そなたの運が良いなら、仏法にとって良くない時代に暮らしているだろうか?そなたは仏法にとって良くない時代に暮らしている。それは、そなたの修行の時代だということだ。なぜ仏は、地球は修行に最も適した場所だ、と仰せなのか?それは苦が多く楽が少ないからだ。良く思い返してみよ。人の一生にどれだけ楽しいことがあるだろうか?試験で一番だった人は、次の試験で一番を維持できないのではないかと恐れ、結婚すれば子供を産まなければと悩み、子供を産めば夫が浮気するのではないかと心配し、子供がいれば子供の成績が良くないと悩み、さまざまなことが山のようにある。煩悩は止まることを知らない。

昨日ある弟子が、出家者である母親を連れてポワ法を求めに来た。ところがその弟子は、自分の妹が以前、遅到したことで道場に入場禁止となってしまったので、どうか妹を入場させて欲しいという。母親のためにポワ法を求めに来たことなど跪いた瞬間に完全に忘れてしまい、口を開いた途端、妹について話す。これも学仏していない証拠だ。この弟子は、妹も入ってきて求めれば、母への救いがより大きくなると考えている。この弟子の母は出家者だ。娘が一人足りなければ死ねないのか?それとも、娘が一人多ければより良く死ねるのか?入ってきて求めれば有用なのか?

地蔵菩薩の母君は生前スッポンの卵を好んで食べていたので、死後地獄に堕ちた。この段にはっきり書いてある。仏は地蔵菩薩に、母はこの一世で奴婢の子として生まれ、短命で13歲までしか生きられない、とお伝えになった。もしそなた達なら、自分が死ぬまで母を生かしてくださいと必ず求めるだろう。これこそ所知障だ。死にたくなく、因果を信じない。母は前世で殺業が重かったので地獄に堕ちたのだ。出てきても、畜生道に堕ちるはずだったが、地蔵菩薩が仏に大供養を行ったので、母は人道に来られた。だが、殺業のために短寿で、貪心のために賎しい家に生まれたのだ。裕福な家に生まれるということは有り得ない。『地蔵経』を読み通せば、仏が開示くださるのはすべて因果に関することだと分かる。だが、この一段に注意を払う人は多くない。地蔵菩薩はその時まだ菩薩ではなかったが、そなた達より遥かに優れておいでだった。地蔵菩薩が法身大菩薩におなりになったのは、地蔵菩薩が因果を深く信じられたからだ。経典中のたくさんの物語はすべて因果を開示しているのに、そなた達は気づいていない。そのため、学仏によって病気がよくなりますように、健康になりますように、などと祈ってはならない。そなたの寿は自分自身で修めるものだ。仏菩薩がくださるのではない。

地蔵菩薩は母君が短寿であるとご存知だったが、仏に母の延寿を求めたりなさらなかった。それどころか、因果を深く信じ、この一切のすべては因果業力であるとご存知だった。果報がすでに現前したなら、それは果報が成熟したということなので、未来について求められたのだ。地蔵菩薩は未来を求められた。つまり、現在の果を未来善の因となされたのだ。母君のために、地蔵菩薩は宏願を発せられ、生生世世に六道の一切広大な衆生の生死解脱を助けると発願され、しかも成し遂げられた。重要なのは『成し遂げた』ということだ。そなた達のように口で言うだけではないのだ。そうでなければ、母は、仏の授記を得る福報はない。そのため、仏は地蔵菩薩の母君にすぐに授記くださり、長寿の天に生まれさせ、母が未来に仏果となるよう授記くださった。地蔵菩薩の母君は全く修行したことがなかった。すべては、娘が大願を発し、しかも成し遂げたことによる。この福報が母君を救ったのだ。なぜこの弟子は叱責されるのか?それは、彼女が母のために求めているのではなく、自分の姉妹の情のために、良い人振ろうとして、求めているからだ。この弟子は、自分が求めに行き、リンチェンドルジェ・リンポチェが応じれば、その後は『あなたが入場できたのは、私がお願いしたからなのよ』と妹に言えると考えたのだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは、この弟子に、直ちに立って後ろへ行くよう指示した。

この出家弟子の娘は先ほどリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来て、『もし』母が世を去るのなら、と、『もし』を用いて、二種の選択肢を示した。『もし』とは、一種の欲望だ。この弟子は母の死を受け入れられないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは高卒だが、中国語に対する造詣は浅くないと思っている。『もし』というのは、つまりこの結果だけを欲し、その結果は望まない、ということだ。そなた達1500人の欲望を満たすよう、リンチェンドルジェ・リンポチェに望んではならないと先週言ったばかりなのに、今週またこのようなのが現れた!学仏しているのか?していない。煩悩障、所知障が頭の中にいっぱい詰まっており、それを捨て去ろうとしていない。一つ目に『もし』と求めたのは、母が死んだらポワ法を求める、とこの弟子は口にできないからだ。これはつまり、母を救って欲しいということだ。母はすでに出家相を現しており、とっく世俗から自由になっているのに、娘はできていないのだ。死を、因果を深く信じなければならない、と仏法で説いた時だけ、怖気付いて悪を為せなくなる。誰が胸を叩いて自信満々に、自分は死なないと言えるだろうか?このように言える人がいるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはその人を上師と仰ごう。誰でも死ぬのに、なぜ学仏しなければならないのか?そなた達なら学ぶ気などなくなるだろう。だがそれは間違っている!やはり学仏しなければならない。さもなくば死の苦しみを受けなければならない。そうすれば、阿彌陀仏のお側へ行け、二度と死ぬことはなく、将来仏法の利益を得て衆生を教導することができる。学仏だけが、真に不死としてくれるのだ。さまざまな歌の歌詞に『もし、そうなら。もし、こうなら』とあるが、それらはすべて欲望だ。『もし』の英語はIFだが、このような英語の歌もある。これも欲望だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、こんなに何度も『地蔵経』を開示しているのに、この弟子はやはり聞き入れず、リンチェンドルジェ・リンポチェに歌って聞かせている。

今日修めた施身法は顕教の理論に、密法を加えて生まれた法本だ。この法を学ぶのはとても大変で、修められれば成就が得られ、衆生に利益できる。施身法を修めての衆生への利益は非常に大きい。行者自身に対しても非常に大きな助けになる。昨年(2015年)の年初、みなも知っておろう。障礙がリンチェンドルジェ・リンポチェの身体に不調を来たさせ、もう少しで死ぬところだった。当時尊勝なる直貢チェツァン法王は、毎日施身法を修めるよう、リンチェンドルジェ・リンポチェにご指示になった。その結果、ほんの少しの期間で、わずか一ヶ月余りで、健康を取り戻し、今ではそなた達を叱り続けている。このように速かったので、効果があったのだ。そなた達には無理だ。リンチェンドルジェ・リンポチェには基礎があり、もともとできていたので、福報が十分だった。それに施身法が加わったので、すぐに健康を取り戻せたのだ。これは、一日二日ではなく、仏法には時間の蓄積が必要だということを示している。自分は二年間学仏したのに、どうしてこの様なのだ?と思っている人がいる。もともとそんなものなのだ。二年間がなんだ。二年間など人生においては、あっという間に過ぎてしまうではないか。それに比べて宇宙の時間はどうだ。二年間、毎日24時間念誦したのか?毎日心を不動にして30分持咒できれば、そなた達のレベルならすでに十分過ぎるほどだ。

毎日30分持咒する間にどれだけの妄念を生じているのだ?毎日2分間だけでも、妄念を生じず清浄に持咒できればすでに十分だ。持咒しながら考える。夫はなぜまだ帰宅しないのか?ドアを開ける鍵の音が聞こえない。観音菩薩、どうか夫を早く帰宅させてください。持咒しながら考える。子供はまだ帰宅しない。またどこかへコンピューターゲームをしに行ったのだろうか?在家衆がこの種の念頭を克服できるなら、その進歩は出家衆より速いだろう。出家衆は煩悩が少なく、借りも少ない。そのため出家相を現すことができるのだ。そなた達は在家衆だ。煩悩が多い。つまり、返済すべき債が多いのだ。いわゆる冤親債主とは普通は家庭内の人だ。つまり、そなたが愛している、或いは愛してくれている者すべてが冤親債主なのだ。そして、そなたが恨んでいる者、そなたが恨んでいない者も、冤親債主だ。借りを完済し、借りを返してもらわなければ、この世間を離れることはできない。ガンも、そなたに借りがあるので、取り立てに来たのだ。それなのに、ガンを切り取ったりすれば、ガンがそなたを許すだろうか?

二年前、リンチェンドルジェ・リンポチェの日本の従業員の、その父親に鼻咽頭ガンが発見された。リンチェンドルジェ・リンポチェは二年後に再発すると伝えた。彼らは、医者が『うまくコントロールできている』と言うし、抗がん剤治療を行ったので心配しなくとも良い、と考えていた。だが今では再発して、ガンは口腔の下の方の咽喉から気管にまで至っている。切除して腸を持ち上げてつなげると言うのだ。どうだ?苦しくないだろうか?科学が発達すればするほど、衆生の業は重くなる。かつて人は病になれば最後には病死したが、受けたのは病の苦しみだけで、別の苦しみはなかった。ところが今では、切るだの削ぐだのと色々あり、傷口が癒えてから次の処理を行うというのに、傷口から合併症が起きることもある。生老病死苦を、釈迦牟尼仏ははっきりとお見通しだったので、努力して修行なさり、修行の経験で愚昧な衆生を救い、生老病死の苦が再び生じないようにしてくださったのだ。

今日病を得ていなかったなら、二時間もここに座って叱られていただろうか?1000万元与えたとしても、あんな奴に叱られてなどいられるか!と言うだろう。病に侵されたからこそ、大人しくここに座っているのだ。釈迦牟尼仏は『全宇宙で最も貴重なものは仏法だ。仏法だけが我々が生生世世で犯した悪業を徹底的に解決してくれる』と開示くださった。リンチェンドルジェ・リンポチェの身の上に仏法が応験できないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは上師である資格はないだろう。なぜ、そなた達の身の上には応験しないのか?教えに従わず、所知障を犯すからだ。あの弟子はこんなにも長い間仏法を聞いており、死は無常だとの開示を常に聞いている。それなのに、父母がこの生でリンチェンドルジェ・リンポチェの救いを得て生死を解脱できるよう求めてくるのだ。上師として自分に対しては残酷だが、怒鳴りつける方法を用いる。怒鳴りつければ供養はなくなってしまう。だが、弟子が地獄に堕ちようとしているのを目にしながら、叱責しないなら、それは上師の過ちだ。それら理監事は揃って地獄に堕ちようとしている。前任、前前任の理事長は全く働かなかったし、理監事もみな彼に同調して何もせず、リンチェンドルジェ・リンポチェは知らないと思っていたようだ。何も言わないし、何事も起こらないので、それで大丈夫だと思っていたらしい。我々の道場は大きくない。だが、每週1300から1500人が活動しており、小さいということはない。少しの不注意で、他人から誤解を持たれてしまう。それで仕方なく、この古希になるリンチェンドルジェ・リンポチェが片付けているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはもとはこの十数人の理監事を完全に信用していたが、8年の間、彼らは全く何もせず、責任を負おうともしていなかった。ある監事は道場の事務について全くタッチしていなかった。誰もが自分の事だけにかまけ、自分勝手だ。彼らはそなた達が選んだのだ。選ばれたのは福報があり、衆生に尽くす能力があるということだが、結果はまったくの唯我独尊だ。何もしなければ、衆生に借りを作ってしまうのだ。これら理監事は自分達は給料をもらっていない、と考えているようだ。だが、台湾の法律は、宗教団体ではこうだと規定しているのだ。あまりに多くの事務が住持に集中すれば早死にしてしまうと心配し、住持をサポートして雑事を処理する人を選ぶのだ。雑事をさえうまく処理できないなら、うまく学仏でき、衆生にいつか利益できるはずがあろうか?理事になれば、あれこれ構わなければならないのだろうか?そうではない。だが、物事には対処し、事態が煮詰まってから処理するというのではいけない。

また、ある理事はリンチェンドルジェ・リンポチェを7、8年騙していた。リンチェンドルジェ・リンポチェはずっと黙っていたが、ある時一気にそれを暴いた。リンチェンドルジェ・リンポチェはずるいと言ってはならない。これは修忍だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは六波羅蜜を修めたからだ。この忍が相手にとって良いなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはそれを修める。リンチェンドルジェ・リンポチェは欺かれることを恐れない。恐れるのは、リンチェンドルジェ・リンポチェを欺いていることに、その人が気づかないことだ。相手が自分を欺いていると知ってもどうということはない。リンチェンドルジェ・リンポチェは反対に嬉しく思うだろう。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは、そなた達に騙される能力があるということだからだ。

今日修めた法は、未来で、阿彌陀仏、観世音菩薩と非常に深い因縁を結ばせてくれる。この一生で生死を解脱し、浄土に往生すると決心を下しさえすれば、菩薩と仏がお導きくださる。病を癒すため、仏法を明らかに理解するため、それらだけのためならば、理解することはできないだろう。どんな理由であろうと、一度法会に来たならば理解できるだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは現在まで修行を続けても、完全には悟っていない。どんな理由であろうと、一度聞きに来れば、自分が求めているものかどうかが分かるのか?どんな理由であろうと、一度法会に来れば、生生世世の債をすべて完済できるのか?仏はこのようにはお教えでない。仏は決心を下すようお教えだ。決心を下さないなら、釈迦牟尼仏が法座におられたとしても、何の助けにもならない。上師としては、衆生が善の因縁を積み、学仏の障礙を停止できるよう絶えず助け、衆生が善の業を積み、善の念を起こせるよう助ける。

先ほど法会前に語った弟子は言わなかったが、彼女の息子は初めてリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た時、ワーワー大泣きしていた。一般の人なら、何かを目にしたのだ、と考え、彼の身体についている冤親債主が仏菩薩を目にして恐れて泣いている、とでも言うだろう。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのようには言わなかった。母であるあの弟子さえ忘れているが、当時リンチェンドルジェ・リンポチェが『恐れることはない。リンポチェは注射はしないから』と言うと、息子は泣き止み、リンチェンドルジェ・リンポチェに抱かれたのだ。子供は注射を恐れていたのだ!リンチェンドルジェ・リンポチェが所知障、煩悩障を断っていなかったなら、子供が何を考えているのかどうして分かっただろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは、子供が何のために泣いているか、なぜ分かったのか?そなた達は、流行のファッションを身につけているリンチェンドルジェ・リンポチェを見慣れているだろうが、自分の子供が小さかった頃は、オムツ替えなどはすべてリンチェンドルジェ・リンポチェがやっていたのだ。つまり、在家と出家とどちらが良いとは、一概に言えない。出家人は煩悩障が少なく、借りも少ないので、この一生で出家できた。在家は、衆生が何を求めているかを、より理解できる。在家がすごいとか、出家がすごいとかいうのではない。この様には比較できない。この末法時代にあっては、すべての人に果たすべき役割がある。そなたを良くないと思う人がいるだろう。だが、良くない状態であればこそ、良いものも際立つのだ。そうでなければ、どの様に行うべきかを選択することはできない。今日我々はこの世間に暮らしている。この国家、社会で発生する様々な事はすべて、我々と衆生の共同の業だ。すべて衆生の必要と欲望に基づき生まれた現象なのだ。我々がこの世間に生きているのは、我々と衆生に共同の縁があるということで、衆生の苦と楽を我々は分担しなければならないのだ。学仏では自分勝手であってはならない。これら理事は自分勝手で、リンチェンドルジェ・リンポチェが知らなければそれで大丈夫だと思っていたのだ。

この理監事は8年もの間隠し続け、協会の事務所がどこにあるかを、誰もリンチェンドルジェ・リンポチェに知らせず、リンチェンドルジェ・リンポチェに見に来るよう招きもしなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは協会の会長ではないが、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の上師だ。これほど師を敬わない者達は見たことがない。リンチェンドルジェ・リンポチェも何も言わず、何も訊ねなかった。もし、そなた達なら必ず罵倒していただろう。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは忍耐力が強い。リンチェンドルジェ・リンポチェが急いでいるのは、時間が有限だと分かっているので、修行に急いでいるのだ。だが、忍耐力があるので、この種の世俗の事柄では待つことができる。彼らも所知障を犯している。リンチェンドルジェ・リンポチェが忙しいと考えて言わず、リンチェンドルジェ・リンポチェも言わなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分のためではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは何にしろいつか必ず行くし、いつか必ず分かると思っていたのだ。そしてそれが、リンチェンドルジェ・リンポチェが手を出す時だ。彼らはアキ護法に求め、アキ護法が見に行かれれば、それで良いと思っていたという。アキ護法は誰が伝えたのだ?護法が来られて助けてくださったのを見たと誰かが言ったのか?リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子でないなら、アキ護法がそなたなどに構うだろうか?アキ護法を伝えた際『そなたが真に直貢噶舉の弟子であるなら、アキは必ずそなたを守ってくださる』と開示した。他の教派がどうだというのではなく、伝承がそうだというのだ。上師の言葉に従わないなら、アキ護法が守ってくださるだろうか?自分は在家なので読経するだけで良いと思っている人がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの経典、修行人を見てきたが、在家者が一人で念誦して修められたのを見たことはない。

リンチェンドルジェ・リンポチェが尊勝なる直貢チェツァン法王の基金会のために事務所を探している際に、リンチェンドルジェ・リンポチェにこの住所を教えてくれた人がいたため、そこに行き、そこが協会の事務所だと初めて知ったのだ。どうだ?道理に合わないではないか?」とお訊ねになると、参会者は「道理に合いません」とお答え申し上げた。「なぜだ?」とお訊ねになると、参会者は「上師を尊重していません」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示くださった。「そなた達に尊重してもらう必要はない。だが、物事を行うには道理がある。協会はリンチェンドルジェ・リンポチェが設立したのだから、上師に報告するものではないか。経典では『人道成、仏道成』と開示する。人としての道理を為せなければ、学仏を始めることはできない。社会にはこんなにもたくさんの誤解がある。それは知らせないからだ。仕事の場でもそうだ。他人を尊重することを学ばなければならない。会社で働いているとしよう。やることをやっていれば、上司に知らせなくとも良いのか?知らせるのは、人としての基本的な礼儀と尊重だ。秘密というほどのことではなくとも、まだ言うべきでない時というのは確かにあるものだ。だが、みな知っているようなことは、言った方が良い。これは、彼らが修行できていないことを示している。同じところで足踏みしており、どんなに口を酸っぱくして言ったところで、やはり同じだ。自分の業を転じることはできず、未来世で用いることができる少しの人天福報を積めるだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが誰かの事を言っている時、それを聞いて喜んでいる場合ではない。そなた達にも同様の問題があるのだ。人にはすべて共通の問題がある。人は誰でも責任を負いたがらず、因果を受け入れない。悪果も受け入れられないなら、善の果であっても受け入れないのか?

心の中に悪しかなく、善がないなら、善の力は出現せず、始まらず、善を積むことはできず、悪の力が絶えず成長し、自分の業力を変えることはできない。ガン細胞は、リンチェンドルジェ・リンポチェがほんとうに自分達を救ってくれると思ったので、リンチェンドルジェ・リンポチェを障礙せず、それによりリンチェンドルジェ・リンポチェは衆生に利益し続けられたのだ。これは彼らにとっても好ましい。リンチェンドルジェ・リンポチェの皮膚ガンが治ったのは、菩薩がリンチェンドルジェ・リンポチェに対して特によくしてくださったからではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェが絶えず悪を停止し、善をひたすら累積したため、福報が自然に起き、病が良くなったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの心の中の五毒はひたすら減少し、絶えず減少している。尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日修めている、と仰せになった。玄人が、毎日修めている、と言うのは、毎日修法持咒している、ということではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェが毎日内心から己を改めている、ということだ。止まることなく、自分に満足することなく、自分が停止することを許さず、自分が伝法上師であるからといって自己満足し修めない、ということもない。リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ成仏しておらず、衆生の恩徳に借りがあり、仏菩薩の恩徳に借りがあるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは上師と伝承上師の恩徳を忘れることはできず、衆生の恩徳を忘れることはできない。『上報四重恩』という。現在は国王はいないが、国家の恩はあるので、国家の恩に報いなければならない。国がなければ我々は生きていけないのだ。昨年どれだけの国がなくなってしまったか。国を失ってしまった人々はとても苦労しているのではないか?流浪の暮らしを送っているのではないか?己が暮らす場所で、己がすべき仕事に全力で取り組んでいれば、善の力がゆっくりと起こり、その国も自然に良くなるのだ。

今日の法会により、そなた達は仏法内での福報が積め、良い縁起を得ることができる。この断法があることで、煩悩は一時的に停止し、智慧が顕露するだろう。誰にでも智慧があるが、自分にもあるとは知らず、どのように運用するかを知らないだけだ。智慧と世間的な頭の良さとは異なる。世間的な頭の良さとは自分の利益のためだ。仏法的な智慧とは、すべてが衆生のためであり、自分のためを考えることなどほんの少しもない。智慧を開くのは、自分の問題と、それをいかにして改めるべきかを見極めるためだ。今日そなた達は福報があり、1400人ほどの規模の施身法法会に参加できた。この世界で、同時にこんなにもたくさんの人を参加させ施身法を修められる上師は数人もいない。この法は非常に大きな因縁がなければ修められないのだ。みなこの法会を大切に思わなければならない。ガンに罹るのは、自動車事故ですぐに死んでしまうより良い。昏睡状態に陥ってしまうよりは良い。なぜなら少なくとも、仏法を聞き、仏法を修める時間があるからだ。今日の法会に参加しても、やはり自分の思いを満たすことはできず、やはり痛みは消えず、やはり病情は悪化するかもしれないが、これは本来の福報だ。この法会とは関係がない。心構えが正しく仏法の教えを受け入れることができさえすれば、この法会に参加したことで、少なくとも往生の際には善の因縁が出現する。今日上師が開示した仏法に対して、やはり自分の欲望を用いて求めるなら、今日の法会の功徳は福報となり、未来世でなければ用いることはできない。

昨日ある信衆が会いに来て、自分はガンに罹ったが、今後働けなくなり金に困るのが心配だ、という。ガンと言わずとも、自動車事故で片手を折ったり片足を折ったりするだけでも、何年も働けない、ということがあり得る。この信衆がこの様に言うのは、ガンに罹ったのが良くないと思っており、予め一本境界線を引き、自分は不幸だ、必ず良くない事が起きる、と考えているからだ。これは自分に催眠術をかけているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは皮膚ガンに罹った時も、普段と変わらず働き、普段と変わらず衆生に利益し、それらを止めることはなかった。ガンに罹ったのは良くない事だと考えるなら、人生は自然に良くない方へ転がってしまうだろう。ガンに罹ったのは身から出た錆なのだ。肉食せず不殺生であったなら、ガンに罹っただろうか?この一生で悪口せず、人を罵らず、殺人も侵さないのなら、ガンに罹っただろうか?ガン細胞を良くないものだと考え、切り取り、切り捨てようと考えている。だが、ガンを得たが切除せず、それでも長生きしている人もいるのだ。それには、とてつもなく複雑な要因がある。実はガン細胞は自分自身の身体の一部だ。医者に訊いてみよ。医者は、身体組織の病変で、外来のものではない、と答えるだろう。自分自身の臓器を憎悪するのか?心臓が1秒たりとも休まずに動き続けているのを、なぜ煩わしく思わないのか?寝ている時にふと胸を押し付け、ドンドンドンドンという心臓の音が聞こえることがあるが、煩わしくないのか?なぜ先に心臓を取り除いてしまわないのか?毎日腹が空くのは面倒ではないか?なぜ胃を取り出してしまわないのか?夏に汗をかくのは実に気持ちが悪い。なぜ身体中の汗腺を取り除いてしまわないのか?このようにしないのは、そうであっても自分がすぐに死んでしまうことはないと思うからだ。だがそれは、死なないということではない。

病気になれば必ず医者に掛からなければならない。だが、医者はデータを示して、治療しないなら死亡率は10%で、生存率は90%です、などと言えるだけだ。データに基づき、どれだけの生存率なのか、医者は参考值、統計的な数字を示せるだけで、それを保証することはできない。先ごろ肉食してはならない、飲酒してはならない、と言ったが、肉食も飲酒も喫煙も身体に良くないと誰でも知っているのに、みな止めない。つまり賭けをしているようなものだ。医者は肉食すればガン、高血圧になり易いというが、みなその通りになるかならないか、賭けをしているようなものだ。なぜもう一度賭けないのか?台湾人は非常に賭博好きなのに、なぜもう一度賭けないのか?

リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王よりこの施身法を学び、衆生の心中の恐怖を消している。仏菩薩と上師は必ずそなた達の面倒を見てくださり、必ず助けてくださる。助けると言っても、そなたの心中の欲望に基づいてではなく、因果因縁に基づいてだ。たくさんの人が『地蔵経』を読んだことがあるはずだが、この一段がこれほど重要で、これほど衝撃的で、これほど古典的であるとは気づいていない。地蔵菩薩は、母君の長寿を仏に求めておられない。ただ、衆生を救うとの大願を発せられただけだ。仏はすぐに授記なさった。なぜ信衆は仏法に対して誤解を生じるのか?それは、そなた達が経典をはっきり理解せず、瞑想だと思い、『梁皇宝懺』を拝めば衆生を救えると思っているからだ。懺を拝んでも衆生を済度させることはできず、衆生はそなたに会いに来るだろう」と仰せになった。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を開始された。御顔は慈悲の光を発せられ、リンチェンドルジェ・リンポチェは勝義なる菩提心、無量衆生を済度させようとなさる大慈悲力で、虚空十方法界を遍く照らされた。修法の過程は極めて厳粛で、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは苦労を厭わず、絕対的な禅定で法本を念誦なさり、施身法儀軌をお修めになり、六字大明咒を御自ら長い時間持誦くださった。慈悲、懇切、荘厳、清浄、宏亮なる法音は広がり、無数の有情衆生に利益し、参会者は知らず知らずの内に満面を涙で濡らした。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの修法の加持力は極めて殊勝で、一切の衆生を攝受し、威徳力は虚空に満ち満ちた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率いてアキ護法と回向儀軌を修持くださり、修法の円満後、参会者に貴重な仏法の開示を続けて下された。

「拝懺について少し話そう。リンチェンドルジェ・リンポチェの学仏も顕教から始まった。厳密に言えば、仏法を顕教と密法に分けることはできない。法師と上師自身の成就に基づき、また弟子の根器に基づき、教導する仏法の範囲が違うのだ。顕教と密法についてはっきり分かっていない人がいる。『顕』とは『明らか』という意味だ。仏陀は49年間弘法なさり、言葉で学仏の根本原理をお伝えになった。経、律、論は顕教の範囲に含まれ、仏法の理論的基礎だ。学仏において顕教理論を基礎としないのでは非常に危険だ。家を建てる前には、堅固な基礎を作らなければならない。堅固な基礎がなければ、将来発願し、浄土に往生しようとしても、すべて不可能だ。

中国では唐代には唐密があったが、唐を最後に伝わっていない。唐密を探し出そうと、非常に努力した人もいたが、どうしようも無い。なぜなら伝承がなく、上師がおらず断たれてしまったからだ。中国仏教であろうと、チベット仏教であろうと、すべては大乗と金剛乗を伝える仏法だ。金剛乗は中国には伝承がないが、チベットにはある。つまり、大乗仏法或いは金剛乗まで学ぼうとするなら、顕教を基礎としなければならないのだ。顕教の基礎が固まってからでなければ、密法を学ぶことはできない。

しばしば『理事円融』と耳にするが、仏法が理解できることを『理』、それを言葉にできることを『事』というのではない。『理』と『事』とは二つの事であり、同一の事だということもできる。学仏では明確に『自利利他』でなければならない。先ず自分の生死解脱を成し遂げてから、衆生の生死解脱をサポートする。釈迦牟尼仏は先ず修行して仏果と成られ、一切の仏の利益を得てから、一切の衆生に利益なさった。『理事円融』とは、生死解脱の道理をすでに極めて明確に理解しており、過ちを犯すことがないということだ。こうして初めて、自分と同様に、衆生も生死を解脱できるよう願うことができる。いくつか真言を伝えられ、少しの仏法を伝えられ、というのではない。これはただの結縁だ。

いわゆる『理事円融』とは、伝法者が自分が何をできるかが明らかであるということだ。経教から着手する人もいる。経典を徹底的に研究してから信衆を教導し、経を用いて衆生の学仏の心を芽生えさせる。論をしっかり研究してから、信衆に経典研究を指導する人もいる。研究とは、経典の歷史的背景、文字的な研究をいうのではなく、経典で、仏陀は我々に何を改めよと指導くださるのかを研究するのだ。律から始める人もいる。戒律を極めてしっかり守り、律から入って福報を累積し、輪迴を断つ機会を得られるよう衆生をサポートする。経も律も論も不十分なら、広大な衆生に利益しなければ、密法を学習することはできない。上師に従い鈴や鼓の鳴らし方を学び、いくつか真言を唱えれば、密法学習だ、などと思ってはならない。密法は非常に厳格なのだ。決して簡単に伝えられるものではない。そなたの根器が不十分なら、密法を学んでも、衆生を誤解させ、衆生はそなたが学べたと思ってしまう。ある上師が密法で成就してかどうかは、たくさんの論を極めて明確に説明できるかどうかで分かる。だが、重点はそなたの上師がその修行の過程、閉関の過程を含む伝承を明確に説明したかどうかなのだ。マルバ尊者とミラレバ尊者の伝記から明らかなのは、どの上師から法を得たか、どのようにして閉関修行したか、修められたと如何にして証明するのかを含め、修行過程を記録しているということだ。自ら言っているのではない。直貢噶舉派から見れば、つまり閉関過程をはっきりと申し渡しているということだ。

そのため『理事円融』とは、そなたが学んだ理、事の部分で、先ずは自分に利益し、次に衆生に利益できるかどうかということだ。『理』と『事』とを二つに分けることは実はできないのだ。今二つに分けて言っているのは、方便に過ぎない。一言で開悟することはあり得るだろうか?あり得る。だが、そなた達はそのような根器ではない。我々は釈迦牟尼仏ではなく、大迦葉尊者の根器でもない。毎日30分瞑想することで開悟できるだろうか?あり得ない。心を落ち着けられるだけだ。煩悩は一旦離れても、またやって来る。現在、仏法にはたくさんの宗派がある。どの宗が優れているだの、どの派が優れているだのと言えるだろうか?そのようなことは一切ない。ただ衆生の根器とその上師の因縁によるのだ。

釈迦牟尼仏は『空性を体得できない根器の衆生もいるので、その衆生には空性について語ることはできない。根器を体得できる衆生には、空性について語れば良い』と仰せになった。そのため老師には、弟子が求めているものを識別する資格が必要なのだ。ある一世で、釈迦牟尼仏も阿彌陀仏も同時代に伝法上師であられたことがあった。釈迦牟尼仏は難解な空性について専ら語られ、阿彌陀仏はさまざまな方法を用い、衆生の根器に基づき、適した修行法門を説いておられた。釈迦牟尼仏はその一世で『彼は空性を理解しておらず、仏法を説いているのではない』と阿彌陀仏を批判なさった。清浄な仏土では批判も破戒もない。釈迦牟尼仏は阿彌陀仏を批判なさったので、地球というこの五濁悪世で成仏なさったのだ。これは釈迦牟尼仏が成仏なさる前のある一世で起きた事だ。古の時代に釈迦牟尼仏の身に起きた事は誰も知らないし、釈迦牟尼仏もお話になる必要はない。それなのに、なぜ話されたのか?自分もかつては過ちを犯し、戒を破ったと釈迦牟尼仏までもがお認めになったのだ。我々凡夫俗子が認めなくて良いことがあろうか?何を以って隠すのか?釈迦牟尼仏は、修行人であっても、自分の身口意に注意しなければ、やはり果報を受け止めなければならない、と衆生にお教えくださる。釈迦牟尼仏は阿彌陀仏を批判なさったので、五戒中の挑発、批判、両舌の戒を破られた。そのため地球というこの五濁悪世で成仏なさったのだ。そなた達は、地球だってどうということはないじゃないか!というだろう。だが、浄土と比較するまでもなく、天界や欲界天であっても、地球よりは遥かに快適だ。毎日自分の身口意を検視しないのであれば、『理事円融』を成し遂げ、この一生で成就することはできない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、毎晚『仏子行三十七頌』を用いて自分の身口意を検視するよう教導しているが、そなた達は全く行っていない。なぜ弟子にこんなにも厳しいのか?それは、そなた達が全く検視しないからだ。前回あの法務組の弟子はボランティアを務めたが、リンチェンドルジェ・リンポチェの行く手を遮った。それは、ボランティアを務めリンチェンドルジェ・リンポチェをサポートすれば福報があると思っていたからだ。利己的で自分の仕事をさっさと終わらせよう、自分が最も大切だ、とだけ考えていたので、上師に気を配っていなかったのだ。これも、毎日自分の身口意を検視していないからだ。なぜ、一日中叱られてばかりいる弟子がいるのか?彼らは自分には過ちがないと考えているため、叱責され続けるのだ。上師がそなたの悪い癖を取り上げたなら、正しいことは正しいし、間違っていても正しいのだ。なぜなら上師は因果を見ており、事に対しているのであって、人に対しているのではないからだ。そなた達は何につけても人に対し事に対していない。上師は、そなた達が悪因を植え付けたのを見つけたなら、必ず改めさせる。

中国の仏法は『事』の部分で、顕教が非常にうまく行っているので、チベット人は読経しないと思っているようだが、チベット人も読経する。チベット出家人も『華厳経』、『妙法蓮華経』、『心経』を念じるが、ただ彼らが念じるのはチベット語であるので、そなた達には理解できないだけだ。彼らは、中国でのように木魚を叩いたりせず、鼓を叩く。チベット人であれば学密だと思っている人が多いが、実はチベット人が1000人いれば学密するものは一人だけだ。あるリンポチェに近づくだけで、学密できると思っている人がいるようだが、それは間違いだ。密法はたくさんの部分に分けられるが、いかなる法門であろうと、我々のこの一生での生死解脱を手助けできる。学仏で最も大切なのは、内心の調整だ。心構えを正しく調整できないなら、どれほど拝んでもどれほど読経しても、さらには無上瑜伽部まで学んでも、全く役には立たない。心構えが正しいなら、浄土宗を学べば阿彌陀仏の浄土へ行くことができる。

正しい心構えとはなんだろうか?それは、決心を下したかどうかだ。懺を拝めば悪い事が起きなくなる、などと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは『梁皇宝懺』、『地蔵懺』を拝んだ。普通は一日に一回拝む程度だろうが、リンチェンドルジェ・リンポチェは暇さえあれば何日でも拝み、最初から最後まで拝み、途中で休息する時でもやはり拝み、夜もやはり拝んでいた。役に立つだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェのように拝懺すれば有用だ。累世の学仏の障礙を消し、そのおかげでリンチェンドルジェ・リンポチェは、尊勝なる直貢チェツァン法王との縁を結び、密法を学ぶことができた。この種の心拝懺は有用だが、拝懺しても、自分の病が良くなりますように、災難が降りかかりませんように、と望んで拝懺するなら、それは動機が間違っている。拝懺する際には、信衆に拝懺の理由を告げなければならない。線香をあげれば拝だ、というのではない。そうでなければ、拝懺すれば病痛が消えると考え、信衆が仏を誹謗してしまう。拝懺しても、ちょっとした報いが現れ、簡単な病気にかかることもある。それによって、法会に参加しても役に立たない、という人がいる。これこそ謗仏だ。衆生を率いて拝懺するのは非常に良い事だ。だが、拝懺の意義を信衆に聞かせ、しかも信衆がそれを受け入れなければ、彼らを率いて拝懺してはならない。ある目的のために行う懺ならば、行わないようが良い。

なぜこの2年リンチェンドルジェ・リンポチェは『阿彌陀仏無遮大超度法会』を行わないのか?その理由は複雑だが、要約すれば善縁が備わっていないということだ。大法会の度に毎年菜食を勧めているが、每年法会に参加し、每年きれいに洗ってもらっても、二、三日後には皆また肉食を始める。リンチェンドルジェ・リンポチェがあれほどたくさんの金を使い、あれほどたくさんの心力を用いて行う必要があろうか?大法会の後、未来世での阿彌陀仏との縁を結ばせてやっただけだ、とリンチェンドルジェ・リンポチェは毎回言っているのではないか?」とお訊ねになったところ、参会者は声を揃えて「そうです」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示くださった。この一言を言うだけで、リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生に借りを作っていない。つまり、ここにいるたくさんの人が仏法を信じていないということが、分かったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、因果を信じない者が悪を為し続けるのを手伝う訳にはいかない。衆生の心が分からず、欲望に従い求めるために、彼らを法会に参加させているなら、彼らは得られなければ、仏を誹謗するだろう。

読経し、菜食し、木魚を叩けば正法だというのではなく、伝法人が仏の仰せを正しく衆生に伝えているかどうかなのだ。名利のためなら、絕対に正法ではない。『宝積経』では、この種のことをたくさん説いている。末法時代の正法弘揚は非常に困難で、非常にたいへんな事であり、たくさんの批判を受けることとなる。台湾というこの地で、正法弘揚にこだわるのは非常にたいへんだ。それは、この地のトレンドがそうではないからだ。信衆はみな仏菩薩に加護を求めている。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェが一日弘法しても、釈迦牟尼仏、上師、伝承がお教えくださった仏法は変わりはしない。リンチェンドルジェ・リンポチェにも変える勇気はない。命を危険にさらす脅しをかけ、または他の何らかの方法を用いて仏法を変えるよう求めても、リンチェンドルジェ・リンポチェは妥協しない。リンチェンドルジェ・リンポチェは未来世に至るまで、経典の仰せ、仏の仰せに完全に従い仏法を弘揚する。仏の仰せを変える勇気はないし、それをする気もない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の問題を改めることしかしない。名利のために仏法を捻じ曲げたりはしない。衆生に随順するために、仏法を変えたりはしない。衆生に随順するとは衆生の欲望に従うことではなく、衆生に従い悪を為すことでもなく、衆生の因縁に従うことだ。衆生の因縁に従い、適した法門を教導するのだ。

在家であろうと出家であろうと、未来世で弘法する機会があろうとなかろうと、今日の開示は覚えておいてほしい。仏法は人情に流されたり、何かを良くするための道具ではないのだ。いかにして良くするのか?止悪行善によってだ。最も大切なのは自分の身口意を見つめることだ。そなた達1500人の欲望を満たすよう、リンチェンドルジェ・リンポチェに望んではならない、と前回の法会で開示した。この出家弟子の娘は、姉妹の情のために母のために求めることを忘れてしまい、姉妹揃って求めれば母にとって良い、自分が上師だ、と考えたのだ。この様に自分の考えがあるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが上師である必要があろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェがどんな法門を用いれば、その妹にとって良いか、どうして分かるのだ?どのようにして妹を助けるのか?この弟子は、自分の身口意をしっかり見ておらず、母は出家衆なので特別だと考え、全く師を重んじていない。誰もが世俗の目で仏法を見ている。自分の子供が言うことを聞かないと言って、リンチェンドルジェ・リンポチェが尊勝なる直貢チェツァン法王に電話で手助けをお願いすれば、尊勝なる直貢チェツァン法王は加持くださるだろう。だがこうでは、リンチェンドルジェ・リンポチェは少しの成就も修められていないということになる。自分の事は自分で解決しなければならない。上師がお教えくださる仏法を学びもしないで、上師の加持だけを求めてはならない。閉関へ行くなら加持が要る。これは当然だ。持咒の心が乱れるので、加持を求める。これも当然だ。何かあっても上師に頼ってはならない、というのではない。もちろん頼って良いのだ。誰かが亡くなったなら、もちろん上師に頼れば良い。だが、これ以外の家庭内の事は自分で解決しなければならない。皈依していないなら助けてやることもできるが、皈依し、さんざん仏法を学びながら、それでも家庭内の問題を丸投げしてくる。そなた達は自分はしっかりできていない、とよく言うが、しっかりできていない、のではなく、端からやっていないのだ!経典では、未来仏となる福報をどうすれば母に持たせることができるのかを説く。自分の母が仏法の救いを受けられるようにする方法をリンチェンドルジェ・リンポチェもそなた達に見せている。リンチェンドルジェ・リンポチェに、自分はしっかりできていない、と言ってはならない。そなた達は、根本的にやってもいないのだ。やればやっただけの功徳が得られるのにだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェにとって、少しの印象もない人が今ではたくさんいる。今後道場が5000人、10000人にまで発展すれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは誰の名前も言えなくなるだろう。現在道場には1500人いるが、3倍になれば4500人だ。リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達の問題を毎日一件ずつ解決するなら、一ヶ月でも足りない。土曜日に会いに来た10人の内の2人は、リンチェンドルジェ・リンポチェが、どうしたのだと聞いても、なんでもありません、という。リンチェンドルジェ・リンポチェに会えれば、それだけで加持を得ているのだ。他のものは、問題があるために来ている。これを『無事不登三宝殿(困った時の神頼み)』と言うが、問題が起きた時もリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来てはならない、というのではない。世を去るまでに、父母を上師に会わせる時間はたくさんあるはずなのに、そなた達は父母が往生する時になって初めて済度を求めに来たり、ICUに入る時になって初めて救いを求めに来たりする。皈依して非常に長くなるある弟子は、一度も父を連れて上師に会いに来たことはなかったが、ついに父が往生した。これは、そなた達が全く行っていないということだ。これでは、そなた達の父母は、自分たちに対する仏法の良さを感じることができない。発願せず、積極的に行おうとせず、リンチェンドルジェ・リンポチェに加護を求めるだけだ。收入のすべてをリンチェンドルジェ・リンポチェに供養している訳でもないのに、加護がなければ修行せず、来ようともしない。あまりにも利に聡い。リンチェンドルジェ・リンポチェはそのようにはそなた達に対していない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは過去までを見ている。リンチェンドルジェ・リンポチェのように、自分の老化を止めているのでなければ、誰でも一年一年老いていく。内心は分からないが、外見は一年一年老いるのだ。ある時リンチェンドルジェ・リンポチェはある弟子に年齢を訊ねた?彼は65歲だというが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、70歲を超えていると思っていた。また別の弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェより年上のように見える。老いてはならない、というのではない。老いるのは普通だ。誰でも自分の本業に従いこの一生を生きるのだ。本業とは仕事のことではない。本来の業力のことだ。つまり、修行しないので、自分の業力を変えることができないのだ。仏菩薩も上師も、そなた達の転業を助けることはできない。転業には、そなた達すべての果報を受け止めなければならないのだ。業は自分自身で転じなければならない。そなた達が全く修行していないことは、外観を見れば分かる。そして、そなた達は自分の業を消すことも転じることもできていない。

あまりにもたくさんの事を処理しなければならないので、今後はリンチェンドルジェ・リンポチェの修法回数はどんどん少なくなるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの特徴は、つまり念誦することだ。そなた達が学仏の心構えを改めないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはある日突然念誦を止めるだろう。その時になって後悔しても遅いのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはここにいる必要はない。別のところで弘法しても良いのだ。これら理監事も含めてそなた達は二つに分けられる。仏法がなければリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来ない者と、仏法でなければ会いに来ない者だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこれまで二つに分けたことなどない。すべて一つだ。

今日後半で開示したのは、リンチェンドルジェ・リンポチェがどんなにすごいか、ということではなく、学仏では心が非常に重要だということだ。心構えを調整しないなら、やはり凡夫俗子だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、そなた達と同じ在家なのに、なぜリンチェンドルジェ・リンポチェにできて、そなた達にはできないのか?それは、決心を下したかどうかなのだ。そなた達が為したものと、リンチェンドルジェ・リンポチェが為したものとでは、程度の深さが違う。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは成し遂げられ、そなた達にはできないのか?必ず為さなければならない。自分に一切の言い訳を与えてはならない。そなた達は、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達の欲望を満たしてくれるのをまだ待っている。そなた達の欲望を満たしてくれなければ、信じない。これらは、リンチェンドルジェ・リンポチェと全く関係がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分は業が重いと感嘆せざるを得ない。そのため、自分は頭が良く優れていると考えながら、自分のことばかり考えている利己的な弟子に囲まれているのだ。歳はリンチェンドルジェ・リンポチェより若いが、リンチェンドルジェ・リンポチェより速く老いており、何かをするにもリンチェンドルジェ・リンポチェに劣り、頭の働きもリンチェンドルジェ・リンポチェより遅い」と仰せになった。

法会が円満となり、弟子達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法と開示に感謝申し上げ、起立して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを恭しくお送り申し上げた。

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2016 年 09 月 04 日 更新