尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年2月21日

台北寶吉祥仏法中心の共修法会において、弟子と信衆は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2015年5月24日、日本道場で主法なさった『地蔵王菩薩祈福法会』での開示要旨を恭敬して拝聴した。

「今日は特別だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは日本ではほとんど経典を講釈しない。経典講釈は文字により意味を説明するだけではない。経典とはなんだろうか?釈迦牟尼仏がかつて開示くださった仏法であり、仏のご自身の修行経験だ。釈迦牟尼仏は在世の折49年間弘法なさった。仰せの一切は六道衆生を輪廻苦海から離れさせてくれる。釈迦牟尼仏がおられた時代には、レコーダーはなかった。筆、紙での記載も非常に困難だ。特に釈迦牟尼仏の開示はいつも法会の最中とは限らず、弟子が仏法を求めれば開示くださったからだ。

後世の末法時代に生きる人のために、末法時代とは釈迦牟尼仏涅槃の1000年後だが、釈迦牟尼仏はかつてその法運と教導された仏法を開示くださった。地球上には12000年存在する。残り時間はどんどん少なくなっているのだ。12000年はとても長い時間だと思うだろう。だが、宇宙の時間において、12000年はほんの一瞬だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日『地蔵菩薩本願経』を開示する。それは、中国、韓国、日本等大乗仏法を修行する地域では、たくさんの人が『地蔵菩薩本願経』を知っているからだ。

地蔵菩薩は仏法中の八大菩薩の一尊であられる。仏法中では大菩薩の特別な名前—菩薩摩訶薩と呼ばれる。菩薩は自分がそうだと言えばそうだというものではなく、初地から十六地まで16のレベルがあると仏はかつて開示になった。八地までの菩薩には、なお人の習性、つまり貪嗔痴の習性が残っているとも仰せだ。八地以上十六地までを大菩薩、菩薩摩訶薩とお呼び申し上げ、また法身菩薩とお呼びすることもある。この種の菩薩はすでに開悟されており、しかも成仏の段階に非常に近い。十六地以上は成仏の段階だ。

菩薩は初地から始め第二地の功徳に至る。みなが考えているように。1+1=2となるのではなく、功力は何倍も高まる。功力とは、衆生に利益する力だ。地蔵菩薩は大菩薩なので、法身菩薩であられる。法身菩薩が備えるべき条件は、またの機会に開示しよう。『地蔵菩薩本願経』を開示するだけで、一日でも足りないからだ。法会への参加は読経、写経だと思っている信衆が多いが、そうではない。これらはただ仏法を学び、修行する機会のための因縁を植え付けるだけなのだ。学仏修行は必ず経典を聞かなければならない。聞くとはどういうことだろうか?それは、人生で学んだ経験を用いて、仏法に対してはならないということだ。仏が説かれた一切の方法は、我々人と六道衆生に生死を解脱させてくれる方法だ。書籍、倫理道徳、神話、伝説から学ぶのではなく、すべては経典の中にあるのだ。

経典を講釈するには、学問があるかないかに関わらない。この一生で博士まで学び、博士号がダブルディグリーなら経典が講釈できるというものではない。経典を講釈する修行人は、必ずある条件を備えていなければならない。それは仏教界で果位まで修めることだ。いわゆる果位まで修めるとは、大きな寺の住持になるということではなく、仏教界で有名になる、または博士でなければならないということでもない。修行の果位のことだ。チベット仏教においては、経典を解釈するには、果位は絶対にリンポチェでなければならない。リンポチェとは、少なくとも初地の菩薩まで証し、生死自在、つまり自分の生死を把握できるということだ。

経典は文字で記載されている。誰が経典を記載したのか?仏の開示時には文字で記載されていなかった。仏滅度の後、仏の500人の弟子、経典中では大阿羅漢と呼ばれるが、これら阿羅漢はすでに神通と一切修行の功徳を備えている。この500人の弟子が集まり、仏が49年講じられた一切のお言葉を、文字で記載したのだ。そなた達は『彼らの記憶力はどうしてこんなに良いのか?聞き間違いはないのか?』と必ず言うだろう。彼らは聞き間違わない。なぜなら釈迦牟尼仏の弟子は凡夫俗子ではないからだ。仏法を聞いている時には入定、つまり非常に集中し、別の考え方、念頭を持たず、心を込めて仏が開示する仏法を聞いているので、仏が説かれた仏法を第八意識田中に入れて、すべて記憶しているのだ。

500人の弟子が集まったのは、釈迦牟尼仏は49年間で非常に多くの場所で仏法を開示されたので、弟子の中にも参加したり、参加していなかったりする者もいたからだ。経典では『仏がどこで弘法なさろうと、必ず1200人の弟子がお側に従った』とある。この1200人の弟子はそなた達のように、写経し線香をあげ金銭を寄付し、弘法を聞けば自分は学仏人だと思っている者たちではなく、すでに開悟した修行者だ。どうして500人の弟子が集まり経典を記載しなければならなかったのか?それは、一人一人の修行果位が異なるため、文字で記載する以外に、仏が説かれた仏法の真の意義と内容が符合するかどうかをチェックしなければならないからだ。符合しないなら、それは書き間違いだ。そのため、経典は容易には得られないのだ。

仏は三寶を尊重しなければならないと仰せになった。一つ目の寶は仏法だ。なぜなら仏法は容易には得られず、聞けばすぐ理解できるというものではなく、学問があれば聞いて理解できるというものでもないからだ。そんなに簡単ではない。我々人が学問する際には、幼稚園から大学卒業まで十数年から二十年余りも費やす。それなのに、そなた達は学仏では、一日や二日、一度や二度、一年や二年で、仏が説かれた仏法の真の内容を理解できると思っているのか?それは不可能だ。必ず一人の修行者が仏法を通して生活修行することで体悟した経験を開示しなければ、仏が説かれた仏法の内容を体得することはできない。

どうしてこのようにする必要があるのか?それは仏が仏法を説かれた時に用いた言語は日本語や中国語ではなく、我々には分からない言語だからだ。後世の人はインドで最も古い文字—梵語を用いて記載したが、釈迦牟尼仏が梵語をお話になっていたとは限らない。なぜなら仏がお生まれになったのは、現在のネパールだからだ。ネパールにも固有の言語がある。梵語は古代から現在まで2500年の間に、非常に多くの変化を経ている。しかも、今に至るも解読できないたくさんの分かりにくい文字がある。なぜか?それは梵語は中国語とは異なるからだ。中国語は一個の字が一個の意味を表し、別の字が加わらなければ別の意味には変わらない。だが、梵語は一個の字に非常に多くの意味が有る為、後の人にとっては非常に分かりにくいのだ。

中国では、経典は漢の時代以降伝わった。およそ2000年前だ。中国で大量の翻訳が実質的に始まったのは、隋朝からだ。漢が滅亡した後、五代と隋朝が翻訳を始めた。最初に翻訳に携わったのは、インドから中国に来て、中国語が理解できた僧侶だ。日本で言えば、飛鳥時代の前になってようやく中国語翻訳の経典が手に入るようになったのだ。漢の時代に翻訳は始まったが、訳された経典は多くなく、しかもどちらかというと簡単だった。隋朝の頃は、経典を翻訳した文章も内容も、かつてとは違っていた。厳密に言えば、日本の仏法は聖徳太子から始まった。およそ隋朝の末期の頃から仏法は日本に導入され始めた。当時は正式な日本語訳はなかったので、すべて中国語版を用いていた。

唐代になって、伝わる経典は多くなり始めたが、隋の時代、日本はまだ経典の翻訳を始めていなかったため、当時中国から渡来した僧侶の話に基づいて修行していた。長い時代を経て、日本人が現在使う言葉、文字は、飛鳥時代以前とでは違っている。飛鳥時代以後に用いた文字も現在とは異なる。そのため、非常に多くの言葉が伝わらず、または誤解を生じ、しかも長い期間、経典に対する尊重も存在しておらず、仏法は学問だ、学べば理解できる、文章を理解すればその意味も分かる、と多くの人が考えた。そのため、中国であろうと日本であろうと、非常に多くの間違った言い方がまかり通っている。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェが開示する経典は、釈迦牟尼仏が説かれた仏法を中国語に訳したものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の生生世世とこの一世で仏法を修行した経験により、経典中の文字を証し、自分の修行に誤りがないかどうかを検討する。もしあるなら、経典に基づき、自分の心構えを調整し直さなければならない。自分の修行過程と証悟と経典で説くことが同じでなければ、仏菩薩と相応することはできない。同じとはどういうことだろうか?それは、仏は経典中で、人はいかにして自分の心を調整するか、どんな方法を用いて調整するか等について、非常にたくさん触れておられるからだ。

地蔵菩薩は八大菩薩の一尊であられる。地蔵菩薩は必ず出家者の様子を現しておられると思っている人が多い。また、地蔵菩薩は度鬼、地獄だけだと思っている人が多い。よって日本では、墓がある場所には必ず地蔵菩薩像がある。日本では、地蔵菩薩を土地神として拝むことさえある。地蔵菩薩は土地神ではない。これは誤解だ。たくさんの人が地蔵菩薩の『地』は地獄、土地、区域の『地』だと誤解しているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの学仏経験から言えば、一週間かかっても、『地』の真の意義を明確に講釈することはできないだろう。

みなこの事を弁えておいてほしい。つまり、中国語の経典は梵語から訳されたものだということだ。梵語の字が表す意味は単一ではない。前後の言葉と字が違うなら、同じ文字でもたくさんの違った意味を表す。梵語が現在消滅してしまったのは、あまりに複雑だからだ。梵語がこれほど複雑なのは、古代インド人が冥想好きだったからだ。冥想とは中国人が言う禅定ではなく、座って何かを考えることだ。そのため、すべての思想を一つの字内に詰め込むのだ。梵語がそのようなのは、思想を符号で書き表していたため、一個の文字が非常に多くの意味を表していたからだ。

よって、梵語を中国語に訳すには困難があった。なぜなら中国語は非常に簡単だからだ。象形文字から来ており、本来は符号だったのだ。梵語を我々が理解できる中国語に翻訳し、さらに日本語に翻訳する。これは非常に膨大な作業であり、普通の人にできるものではない。経典を説く人は、自分の修行経験を通さなければ、中国語で講じる経典内容を体感することはできない。梵語を学ばなければ、仏が説かれた経典を理解することができないのではないか?とそなた達は問うだろう。だが、これは正しい言い方ではない。なぜなら、現在の梵語は古代とは違うからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェのある弟子は北京大学で博士まで学んだ。その指導教授は梵語を研究しているのだ。かつてある人が、学仏には梵語を理解する必要がありますか?とその教授に尋ねた。教授は、不要だ、とあっさり答えたという。

どうして不要なのか?なぜなら梵語は仏法を代表しないからだ。梵語を研究すれば仏法を理解できると考えている人が多い。だが、これは正しくない。梵語は古代インドの言語に過ぎない。背景を知れば、仏法の内容を聞くのはそんなに容易でなく、仏法の内容を誰もが説明出来るというものではないと分かっただろう。地蔵菩薩は地獄、墳墓、土地を守り、地蔵菩薩に加護を求めることができる、と皆が考えていたのは、字面から生まれた誤解なのだ。

仏法における『地』とはどのように説明されるのか?みなも知っておろう。仏法は慈悲を説く。慈悲がなければ仏法もない。リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲を開示しようとすれば、2年間開示しても終わらないだろうし、しかもそなた達には慈悲を理解する資格はない。それは、そなた達が善人にさえもなっていないからだ。善人とは十善法を修めた人だ。第一に戒殺生で、最後から三つは貪嗔痴を断つことだ。みなできていない。だから、無理なのだ。なぜなら仏法の根本は慈悲だからだ。良いものを生み出すには、種子が必要で、種子は土地がなければ芽を出せない。そのため、肥沃な土地に種蒔きする必要が絶対にあるのだ。水耕栽培でも作物を育てられるのだから、今は土地は不要ですよ、と反駁する者が必ずいるだろう。だが、水耕栽培では水が土地だ。

良い土地がなければ、仏法は成長できないのだ。つまり『地』とは慈悲を表す。慈悲とは肥沃な土地だ。肥沃な土地は、一切の有情衆生が具備する成仏の本質で、それがなければ種を蒔き芽が出ることはない。地蔵菩薩は大慈悲肥沃な土をお持ちなので、一切衆生の成仏の種子を萌芽させ成長させ成仏させることができるのだ。菩薩の根本の願は、一切の有情衆生を救うことだ。根本とは基本的概念だ。有情衆生は動物も含む。そなた達がなお動物の肉を食しているなら、法会に参加してはならない。なぜなら、それは動物を自分たちが食べるものだと思っているということだからだ。動物は過去世でしっかり行わなかったために、この一世で動物になったに過ぎない。だが、動物が人類より慈悲に富んでいることもある。非常に多くの実例において、動物が別の動物、さらには人類をさえ救う姿を見ることができる。

生活において、人類は最も多く衆生を傷つけている。現在地球は崩壊へと向かっている。それは人類が衆生を傷つけるからだ。人類が戦争をするのは、衆生を傷つけるからだ。世界中の多くの学者が、仏法だけが人類の問題を解決出来ると公開の場で言っている。人類は常に平和を追求している。平和はどうすれば得られるのか?戦争を以って戦争に対すれば平和が得られるのではなく、仏法に寄らなければ平和は得られないのだ。地蔵菩薩の『地』とは、一切慈悲を具備する肥沃な本質で、一切の有情衆生に生死を解脱させ、さらには成仏させられるのだ。『蔵』を、地獄に隠れて衆生を救う意味だと考えている人が多いがそうではなく、如来蔵なのだ。すべての有情衆生は仏と無二無別の成仏条件を備えており、あらゆる衆生はこの寶蔵を備えている。だが、自分の貪嗔痴の汚れのために、この寶蔵を覆い隠してしまい、見えない。そのため、仏法学習と上師の教導を通さなければ、如来蔵を出現させ、光を再び開発することはできないのだ。

誰にでも成仏の機会がある。だが、仏と上師の教導を聞き入れられるかどうかを端視し、自分の成見を捨てなければ、如来蔵は出現しない。菩薩は覚有情だ。有情とは生死を恐れ、愛、恨、貪欲、欲望があるだということだ。植物にも感覚があるのに、なぜ植物は食べてよくて、肉は食べてはならないのか?という人がいる。植物の感覚と有情衆とは異なる。なぜなら有情衆は自分の選択、好き、嫌いを知っており、非常に濃厚な情欲を有するからだ。植物はこの種の条件を備えていない。有情衆は移動の能力を有する。ある種の植物は移動可能だとも言えるが、畜生界の移動能力とは異なる。いわゆる有情衆は、慈悲、仏の本性を備えるが、植物にはない。そのため、有情衆ということはできないのだ。

菩薩は覚有情と呼ばれる。なぜならすでに輪廻の苦痛を知っておられ、二度と輪廻しないよういかにして修行するかを知っておられ、一切の有情が輪廻の苦痛を離れられるよういかにして助け、教導するかを知っておられるからだ。輪廻があると信じない人が多い。人が死ねば必ず天界へ行くと信じている人は、特に信じない。ある主、神明、神社を信じてさえいれば、人は死後、必ず天へ行けると、非常に多くの宗教ではいう。これは正しくない。この一生で人として生きる過程の中で、次の一世に何になるかが決まるのだ。最も簡単な論理により推論すれば、もし誰もが死後必ず天に生まれるなら、あらゆる人の死に方は同じであるはずではないか。

死後必ず天へ行くなら、天の天主、或いは神社の神はそなたを領民、子孫と考えているはずだ。それなら、一人一人の死に方が違うはずはない。また、不慮の事故、病気、手術或いは他の非常に複雑な死に方をするはずがない。それなら、地球上の人類、自分の領民の面倒を見ていないということになるのではないか?それでは、子供が成長する前に、すべての子女に平等な養育を授ける為の方法を父母が使い切ってしまうようなものではないか。当然父母も贔屓はする。この子の方が好きで、あの子はあまり好きじゃない、というのはあるだろう。だが、たとえそうだろうと、食事の際にはみないっしょに食べる。ただ、あの子は野菜が好きだから、というので多めに与えるという程度はするだろうが、基本的には平等の心で養育するものだ。もちろん例外はあるだろうが、基本的にはそうだ。長女がこの種の教育を受けたなら、末の娘もやはりそのように育てられる。末の娘を特別に気に入っている、というのなら、別だが、普通は平等に世話をするのだ。なぜならすべて自分の子女だからだ。

死後は必ず天へ上れると考えるなら、天上の責任者が国王であろうと天主であろうと神道の神であろうと、地球上の人類を平等に世話すべきではないか。どうして一人一人違うのか?この事は研究する値があるだろう。いわゆる菩薩は覚有情だ。なぜなら輪廻の苦をご存知だからだ。どうして未来世を信じない人がいるのか?なぜならそれは、この一世が最も重要で、未来世を見たことがないからだ。どうして過去世があると信じない人がいるのか?なぜなら、過去世を見たことがないからだ。現在、世界中の非常に多くの国の文献に、自分の過去世を知ったという事が記載されており、しかも証拠もある。欧州、アメリカにもこの種の文献はとても多いが、みな研究していない。

自分に過去世があったかどうかをどうすれば体感できるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に多くの一卵性双生児を見たことがある。医学的には、同一の卵子から分裂して生まれた二人の子供は、本来完全に同じはずだ。それなのに、非常に多くの一卵性双生児は、二人の性格に絕対的な差異があり、好きなものにも差があり、後の成長にも差があり、最後には往生にも差がある。これは医学では説明がつかない。同じ卵子であれば、全く同じはずではないか。なぜなら複製品なのだから。どうして違うのか?それは、二人が過去世で為した事が違うために、それがこの一世に影響しているのだ。

どうすれば未来世があると分かるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは自身のこの一生の修行の経験を用いて、簡単に説明しよう。我々の未来世は死後でなければ出現しないのではない。実は毎日寝た後、明日も、もう一つの生活と世間の出現なのだ。我々は毎日同じ作業を繰り返しているようではあるが、気をつけて見れば、毎日繰り返すものにはいくらかの違いがある。眠りにつき、翌日起きる。これは仏法的に言えば輪廻なのだ。新しい始まりなのだ。簡単に言おう。子供の頃から見れば、我々が母の胎内から生まれて今日まで、見た目は変化している。人は老いれば変わるのは当然だ、と言うものが必ずいるだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは最近、自分の2009年の写真を取り出してみたが、髭が少し白くなった以外は、現在と比べて変わっていない。なぜ変わっていないのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが輪廻の時間を遅くしたからだ。そなた達は今は若いので、深く感じてはいないだろう。だが、40、45歲を超えた人ならわかるはずだ。自分の現在の様子と以前の様子とを比べてどこに差があるだろうか?そなたを知らない人は、そなたが誰か分からないだろう。科学的には、年を重ねたので変わったのだ等の言い方があるだろうが、仏法によればこれこそ輪廻なのだ。良い輪廻からよくない輪廻へと、ひたすら輪廻しているのだ。心の状態も、常にひたすら輪廻している。我々は何も考えないということもない。よって思想もひたすら輪廻し、良と悪が絶えず回っているのだ。

好きと好きではない、嫌いと嫌いではない、聞きたいと聞きたくない、良いと悪いとはどういうことだろうか?なぜならひたすら輪廻しているので、苦痛が生まれるのだ。何か食べに行く時さえ、あれこれ考える。これも輪廻だ。つまり、輪廻とは、死を待つ必要はないのだ。輪廻、次の一世を信じないなら、なぜこの一世で努力するのか?どうせこの一世で必ず死ぬのだ。自分を諦めホームレスになってしまう人もいる。それは自分に未来があるとは信じていないからだ。自分に輪廻があると信じていないなら、どうして放棄してしまわないのか?日本の福利では、仕事がなくても食べていける。政府が世話してくれるからだ。それなのに、なぜ努力して事を為し、勉強し、子供を養育するのか?現在だけを信じているなら、不要ではないか。

この一世は70、80年あるだろう。だが、それでも非常に短い時間だ。仏はかつて、輪廻を信じない人は必ず邪見を生じると開示くださった。邪見とは自分と衆生を傷つける考えだ。輪廻を信じる人は、未来をさらに良くしようと今から準備をしている。人類は一生努力して事を為す。それは、良い未来があると信じているからだ。それだからこそ、努力して自分を変え、何かを失うのを恐れる。それは、なぜなら輪廻があると信じているからだ。自分は信じていないと口では言いながら、内心では信じているのだ。信じていないなら、なぜこんなに苦労するのか?一番を争って、それでどうなのだ?どうということもない!メダルを受け取ればうれしいだろうが、家に置いておくだけでは何も感じない。仕事で一番を争う。管理職になったとてそれが何なのだ?給料が少し多くはなるだろう。だが責任も非常に重くなる。

輪廻については、我々は実は心の中ではっきり分かっているのだ。認めていないに過ぎない。覚有情とは、まさに菩薩が輪廻をご存知だということだ。そのため、衆生の輪廻を断つのだ。本願の『本』とは根本、基本だ。つまり、地蔵菩薩がなされる一切の行為、思想、言語はすべて、発した根本願力から離れることはない。例えば、料理を作って人に食べさせようとする時、料理の根本から離れることはできない。調味料はどれだけ入れるか、どのくらい煮るかなどから離れることはできないのだ。これらから離れれば、料理は不味くなってしまう。いわゆる根本とは菩薩の言語、行為、動作等の一切が発した誓願から離れないことだ。

地蔵菩薩が発した願は『地獄不空、誓不成仏(地獄が空にならない限り、成仏しない)』だ。この願のために、地蔵菩薩は地獄を守り、度鬼を専ら行うと考えている人が多いが、実はそうではない。『地獄不空』とは、第一に、地蔵菩薩は衆生に、いかにすれば地獄に堕ちないかを教え、第二に、地獄に堕ちないように衆生を救い、こうしなければ、地獄が空になる機会はない。いわゆる『空になる』とは地獄に堕ちる衆生がいなくなるということだ。第三には、地蔵菩薩は地獄へ行かれ、衆生がなるべく早く地獄を離れられるように助けてくださる。地獄へ赴けばすぐに、地獄の衆生を救い出すのではない。

どうして地蔵菩薩はこの願を発せられたのか?地獄にいる時間は非常に短いと思っている人が多い。また、地獄に堕ちる、その苦しみは何なのかが分からない人が多い。今は肉が好きなので先ずは肉食し、殺生したければ先ずは殺生し、タバコが吸いたいなら先ずはタバコを吸う。リンチェンドルジェ・リンポチェがどんなに諌めても、どうしてもやめられない。人はほんとうに奇妙だ。喫煙すれば病気になることは明らかなのに、それでも吸う。仏はかつて、学仏を人に勧めるのは非常に困難だ、と開示くださった。『地蔵菩薩本願経』でもはっきりと触れておられる。宇宙全体で最も導きにくい衆生は地球の人類だ。頑固で聞き分けが悪く、自分はすごいと思っている。世界中の科学者と医者がみな、喫煙は身体に良くないと言っているのに、たくさんの人が喫煙している。自分は情緒が不安定なので、タバコを吸わなければ思考できない、はっきりと考えることができない、などと理由をこじつけている。これこそ不信だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子は必ず菜食し、喫煙してはならない、というのは、これが地獄に堕ちる根だからだ。喫煙する人は高い確率で地獄に堕ちる。肉食もそうだ。これは『地蔵菩薩本願経』が仰せなのだ。日本人全体が地蔵菩薩を信じているのに、地蔵菩薩が経典中で講じる話をどうして信じないのか?地蔵菩薩が経典中で講じる話を信じないなら、地蔵菩薩を拝んでどうするのだ?これは論理的に矛盾している。学問において教授の話を信じないなら、単位が取れるだろうか?不可能だ。どうして菩薩が講じる話を聞き入れないのか?菩薩に加護だけを求めている。だが、そなたが聞き分けが悪いなら、菩薩が加護をくださるはずはない。

日本で2011年に大地震、津波が発生した後、リンチェンドルジェ・リンポチェはある写真を見た。それは、その地の倒れなかった地蔵菩薩石像を人々が拝んでいるものだった。地蔵菩薩をそこに祀っているなら、そのように大きな災難は起きないはずなのだ。それなのに、どうしてこんなにも大きな災難が起きたのか?それは、2011年の地震が発生した地域は、魚を捕らえ、魚を売って生活していたからだ。殺生していたので、災難も多いのだ。殺生すれば災難があるとは皆信じず、天災だと思っている。天は我々に災いをもたらすことはない。殺生が重いので、天災が起きるのだ。地蔵菩薩がこの願を発せられたのは、衆生が地獄に堕ちる確率があまりにも高いからだ。経典の説に基づけば、地獄の衆生は降雪時に舞い散る雪のように、数え切れないほど多いという。

地蔵菩薩は成仏なされるだろうか?恐らく非常に難しいだろう。なぜなら非常に多くの衆生が地獄に堕ちるからだ。学仏しても地獄に堕ちる。ちょっとの不注意で堕ちるのだ。そのため、地蔵菩薩は非常にご苦労の多い菩薩であられるのだ。地蔵菩薩は地獄のために生まれた菩薩だなどと誤解してはならない。地蔵菩薩は六道(天、阿修羅、人、畜生、餓鬼、地獄)の衆生を救うために発願された。願から言えば、地蔵菩薩はすでに成仏されている。なぜなら仏も、衆生が輪廻に堕ちないこと、最も根本的には地獄に堕ちないことをお望みだからだ。地獄に堕ちればどんなに苦しいかを知らず、今のところはそんなに苦しそうだとも思えない、と考えている人が多い。実は死を待たなくとも、自分が地獄に堕ちるかどうかを知ることができる。死への過程、死の5年前の生活で、ほとんど90%は次の一世にどの道に生まれるかが、非常にはっきりと確定する。

死の前に大小便を垂れ流し、閉じこもり誰にも会わず、大声で叫ぶというような人がいる。この種の人は基本的に畜生道に堕ちる可能性が高い。死の前に意識を失い、何も聞こえない。意識を失うのは良いじゃないか、と思う人もいるだろう。実はこれも畜生道に堕ちる可能性が高いのだ。死を前にして、小さなことのために、一日中小利や小事に細かくかかわり、金銭や名誉や感覚を手放せず、一日中人と争っている。この種の人は餓鬼道に堕ちる可能性が高い。死を前にして手術ばかり受けている人は地獄に堕ちる可能性が高い。喫煙者は注意せよ。手術を受ける可能性が高い。なぜなら喫煙は肺、心臓に悪いため、手術に至る可能性が高いからだ。遅かれ早かれそうなるだろう。この一生で死の5年前に手術ばかり受けていれば、それは足だろうと手だろうと、そうであれば地獄に堕ちる可能性が高い。なぜなら、足や手を切られ、胸を開けられ、臓器を取り出される地獄の様子が経典では触れられているからだ。

2500年前は西洋医学はなかった。当時は医者に掛かっても、手術であちこち切り刻まれることはなかった。医学が発達し、地獄に堕ちる確率はますます高まっている。他の地域を言わなくとも、中国でも、経済が未発展で改革が行われる前は、糖尿病、高血圧、心臓病を患う人は非常に少なかった。だが、近頃は何でもある。なぜなら肉食、殺生する経済的余裕ができたからだ。日本でもそうだ。日本でもかつてはこの種の病は非常に少なかった。経済発展の後に、殺生を開始しひたすら肉食するようになったのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは日本では、中国古文化が非常によく保護されていると思う。日本人の食物保存の方法に、中国の古文化を見ることができる。日本人が長寿なのは、この地に福気があるからではなく、食べているもののおかげだ。だが近頃は西洋化され、身体に良くない食品を食べている。祖先が伝えてくれた食物を忘れ、西洋人の食物を食べている。喫煙を続けるがよい!手術に至る可能性は極めて高いのだ。

『経』とは、仏がかつて仰せになった話を指す。『地蔵菩薩本願経』は上、中、下卷に別れる。前回日本人は上、中卷を唱えた。下卷はまだ唱えていない。この経典は唐于闐国三蔵沙門実叉難陀が翻訳した。つまり訳者は中国人ではない。三蔵とは顕教において、経、律、論のすべてに精通している法師だ。経とは一切の経典、論とはすべての菩薩が仰せになった仏法に間する理論、律とは仏法中の一切の戒律だ。経、律、論に精通した人でなければ、経典を翻訳する資格はない。学問、梵語、日本語、中国語が分かる学者なら翻訳できるというものではなく、必ず三蔵でなければならないのだ。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェであっても経典を翻訳する資格はない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは出家衆ではないので、経典を開示することしかできないのだ。

第一品は『忉利天宮神通品第一』と言われる。仏は、宇宙は欲界天、色界天、無色界天の三界に分かれる、と仰せだ。地球は欲界天の内にある。道教であろうと、神道、回教、プロテスタント、カソリックであろうと、人世間で拝む一切の天はすべて欲界天の中にある。どういう人が死後に欲界天に生まれるのか?それは、在生時に十善戒(不殺生、不邪淫、不偷盜、不悪口、不綺語、不打妄語、不飲酒等)を修めた人だ。飲酒しない、と聞いて日本人は怖くなっただろう。なぜなら日本人は少しでも飲酒する人が多いからだ。不飲酒とは飲酒を節制できないことだ。酒を毎日の必需品にしてはならない。この他、喫煙、麻薬吸引もダメだ。十善戒は『不貪』も含む。つまり、自分の分でない財を手にせず、他人に金があるとなると、なんとかしてその金を手に入れようとする。これには、少しの損も受け入れられない人も含む。商売は儲けることもあれば損をすることもあるものだ。どの商売も必ず儲けられるなら、この世の中に貧乏人はいなくなるはずだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェがこの一生で商売し、金を儲けられているのは、ひたすら人に譲り続け損し続けているからだ。損すればするほど、儲けられる。すべての金の出入りをきちんと管理し、何が何でも儲けようとする人の晚年は必ず金に困る。なぜなら、あまりにもちまちまとこだわるからだ。そなたがあまりにもちまちまとこだわるので、相手もそなたに対してちまちまとこだわる。そなたが計算すれば、相手も計算する。これこそ因果だ。よって、自分の分でない財を手にしてはならない。第二に、嗔恨の心を起こし、何かというと怒っていてはならない。更年期だから、ストレスがあるから、などと近頃の人は説明する。男女を問わずこのように言う。或いは、騙されたので、恋愛がうまく行っていないので、男に捨てられたので、などという。女性に捨てられる男性も実は非常に多く、しかも男は女性を殺すこともある。捨てられたので、相手を殺してしまう。これが正に嗔念だ。嗔念を抱く者は、理由を見つけてそれを正当化しようとする。人に罵倒されたから、人が憎いから、なんだかんだとたくさんの理由を並べる。向こうに害を加えられたなどと、言うが、これこそ嗔念だ。嗔念がある人は、必ず衆生を傷つける。

どうして仏は我々に衆生の肉を食べてはならないとお教えになるのか?なぜなら衆生の肉さえ食べられるなら、必ず嗔念を抱くからだ。釈迦牟尼仏から現在まで、日本以外では、仏教では宗教のために戦争を起こしたことはない。日本では江戸時代に、宗教のために、小さな戦が起き、たくさんの人、十数万の信衆が命を落とした。十善法は不痴も含む。痴とは因果を信じないことだ。やってから考えれば良い、いつか処理しよう、と考えている。これは良くない。在生の人が十善法を修めるなら、死後に欲界天へ行き、天人の福報を受けることができる。

忉利天とは欲界天中の一つの天だ。色界天へ行けるのは、在生時に修行した人、禅定、禅を修行し、しかも欲望が非常に少ない人だ。色界天は、透明の形状に見える。だが、欲界天の欲望のように重くない。無色界天とは形状さえもなく、光だけがある。非常に多くの学仏人は無色界天に生まれる。

忉利天宮神通品第一中の『神通』とは仏の神通だ。人であっても神通を修めることができるが、最多でも5種の神通しか修められない。仏は天眼通、天耳通、神足通、私心通、宿命通、漏盡通の6種の神通を有しておられる。天眼通とは鬼の様子が見えるというのではなく、全宇宙のものが何ものにも遮られることなく見える、ということだ。こうでなければ真の天眼通ではない。人類にも天眼はあるが、人類の天眼には限界があり、ある人があるところである事をやっているのが見えれば、すでに十分だ。自分は見えるなどと思ってはならない。修行人でなければ天眼を開発することはできない。他人にちょっと何かしてもらえば、天眼が開けるというのでもない。我々人は本来この条件を備えているが、この一生で食べる食物、備える心構えのために、この種の能力が覆い隠されてしまっているのだ。この種の能力を開発するには、ちょっと何かしてもらうとか、ちょっと加持してもらうとか、読経するとか、そんなことで天眼を開くことなど絶対にできない。これは嘘だ。絕対に不可能だ。

天耳通はあらゆる音を聞くことができる。経典で説くように、地下に隠れた虫の音さえ聞くことができる。これこそ天耳通だ。天眼、天耳があればどんなに良いか、と思っている人が多いが、決してそうではない。この種の条件があるなら、寝られなくなる。天眼、天耳を有する人は、もともと禅定の功夫を有し、聞くか聞かないか、見るか見ないかを選択する能力を持つ。その能力がないなら、万が一にも好奇心で『自分に天眼があったら未来がどうなるか分かっていいな。自分に天眼があれば、この男性の自分に対する将来の心が分かるのに』などと思ってはならない。見えれば、必ず後悔するだろう。『天眼があれば、将来どれだけお金が稼げるか分かるのに』などと思ってはならない。必ず後悔するだろう。

他心通は衆生が何を思っているか分かることだ。最もすごいのは、衆生が過去世で何であったか、未来世は何になるかが分かることだ。仏だけがこの能力をお持ちだ。自分の過去世に、たくさんの人が強い興味を抱いている。万が一にも誰かに過去世を尋ねてはならない。その人は、そなたが喜ぶことか、喜ばないことを言い、必ず金を騙し取るだろう。仏は私たちにどうやって自分の過去世を知るのかを教えてくださった。自分のこの一生で得られたものこそ、過去世で為した果報だ。簡単だ。例えば、この一生で同じ家庭の兄弟姉妹で兄の暮らしがそなたより良く、そなたは兄より暮らしが劣るなら、過去世で為したことがこの一世で現れたのだ。自分の過去世を尋ねる必要はない。なぜなら経典に基づけば、大阿羅漢だけが、人の過去の500世を見る資格があるからだ。我々の過去世は500世だけだろうか?そうではない。数万世、数十万世あるのだ。過去世を見る必要はないとはどういうことだろうか。自分のこの一世で何を得て、何を為したかを見るだけで、過去世で為したことがわかるからだ。未来世はどうなるのか?それはこの一世、現在為していることによるのだ。

他心通、とは動物、昆虫等を含むあらゆる衆生が心中で何を思っているかを完全に知ることができるということだ。たくさんの人がリンチェンドルジェ・リンポチェの面前に跪くと、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず、彼らに関する事をいくらか口にする。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分に他心通があるとはとても言えないが、少なくともそれに近いものはある。そのため、万が一にも心に悪念を抱いてリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来てはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは一度目や二度目は気づかないかもしれないが、いつか必ず見破るだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは入定すれば分かる。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェを騙してはならない。

宿命通とは過去世、未来世が分かることだ。最もすごいのは、自分が分かることだ。他人が分かっても、どうということはない。自分を知る方がすごいのだ。自分の過去の過ちを知れば、この一生で再び過つことはない。自分が過去で行った正しいこと、衆生に利益できる事が分かれば、この一生でも継続して努力するだろう。自分がなぜこうしたか分かるなら、未来世でもそうするだろう。一切の修行人は、必ずゆっくりと自分の過去世を知る。だが、これは突然見えるのではなく、修行の中で自分の過去世がどうであったか、この一生はどうであるかが分かるのだ。真の宿命通とは、好奇心で他人を理解する事ではない。真の他心通とは、好奇心で他人を理解する事ではない。この二種の神通で最も重要なことは、衆生に利益し、救う事だ。

かつてある人がリンチェンドルジェ・リンポチェに聞きに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに、今このようであるのは、過去世にどういう事を行ったからだ、と告げた。ここにいる多くの弟子もこうだ。他心通と宿命通とは衆生を救い、衆生に信心を芽生えさせることができるのであって、この二つの能力があるので、好奇心で他人を理解するというのではないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの生活において、普段は誰かを理解しようとは思わない。誰かがリンチェンドルジェ・リンポチェの面前に跪き、仏法の救いを求めるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはその人を理解しようとする。いつでも他人を理解しようとするなら、どんなに大変だろうか!何を思っているかリンチェンドルジェ・リンポチェに知られてしまうので、リンチェンドルジェ・リンポチェに近づくのはやめようなどと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に近づいてもらう必要はない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたの名前と干支を知るだけで、そなたが何を思っているか分かるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェがこのようにするのは、自分を守るためではない。そなたが何を思っているかが分からなければ、どのようにしてそなたを助けるかが分からないからだ。そなたの事を知り、そなたに対決しようというのではなく、そなたの問題を知りたいのだ。これまでどうしていたのかを知り、どのような方法を用いて助けたらいいのかを知りたいのだ。よって、他心通と宿命通とは、他人をコントロールするためのものでは決してなく、他人を救うためのものなのだ。

神足通が出現した後は、全宇宙のあらゆる場所へ行くことができる。この種の能力はどのように証明できるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは他人のことは言わない。自分の父について言おう。リンチェンドルジェ・リンポチェの父はかつて仏教ではなく、道教を修行していた。そして、どんな宗教であっても、神足通を修行することはできる。ある晚、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟が4時頃下校したはずなのに、8時頃になっても帰宅しない。リンチェンドルジェ・リンポチェの母は非常に心配し、夫に言った。リンチェンドルジェ・リンポチェの父はしばらく入定し、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟はどこそこでパフォーマンスを見ているので、何時頃帰宅する、と言ったが、本当にその通りだったのだ。

また、リンチェンドルジェ・リンポチェの父はリンチェンドルジェ・リンポチェの母を娶る時、リンチェンドルジェ・リンポチェの母方の祖父はすでに第二次世界大戦時に日本軍の飛行機に爆撃されて死んでいた。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェの父は会ったことはなかった。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェの父はリンチェンドルジェ・リンポチェの母を娶った後、ある日母方の祖父が現れたのを見た。祖父はリンチェンドルジェ・リンポチェの父に、一人目の息子が生まれるので、墳墓を探すように、と言った。これは中国人のある地方の習俗だ。一人目の外孫が生まれる前に、妻は実家の墓参りをするのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの父はリンチェンドルジェ・リンポチェの母方の祖父に会ったことはなかったが、知っていた。これこそ神足通だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの人にポワ法を修めてやっている。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場に行っていないが、亡者が何を思っているかが分かる。ここにいる非常に多くの弟子もかつて親族や友人の往生時に、リンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法超度を得たことがあるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに亡者の考えを伝え、しかも非常に的確だった。これを用いて何をするのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がすごいと見せびらかしたいのではなく、亡者の親族に恭敬心を起こし学仏してもらいたいのだ。祝儀袋を多めに欲しい、というのではない。そなた達も分かっているだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの修法後に、供養するかどうかはそなた達次第だ。どうして仏は、この一品を神通品と呼ばれたのか?なぜなら仏は、神足通を用いて忉利天へ行き仏法を説かれたからだ。最後の一項の神通は漏盡通だ。これは仏だけがお持ちの神通だ。つまり、何らかの業力に引きずられ、宇宙において何らかの輪廻を行うことは決してない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは『地蔵菩薩本願経』と第一品の名称について少し説明しよう。みなも知っていると思うが、経典の講釈とは、そなた達を率いて読経すればそれで良い、というものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは二言開示しただけだが、すでに一時間と5分も話している。リンチェンドルジェ・リンポチェは講釈を続けることができる。なぜなら、自分の修行経験と恭読した多くの経典から、仏が説かれたものの意味をゆっくりと理解し、そうして仏の含意を知ったため、信衆に対して明確に講釈できるのだ。信衆は聞いても懐疑を抱いてはならない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェが発明したのでも、言い出したのでもなく、仏が説かれたのだからだ。

仏にはさらにもう二つのお名前、真語者(仏が説く話はすべて真実だ)と実語者(実際に存在している)がある。仏が弘法の初めから涅槃されるまで、毎日講じられた話こそ仏法だ。『あなたのボーイフレンドはハンサムだから、彼と出かければ鼻が高いだろう』とか、『あなたの奥さんは綺麗ですね』とか、『この人は金がある。頭を働かせて、この人とビジネスをやったらいいですよ』などとは言わないのだ。仏はこの種のことは全く言われない。講じるのは仏法なのだ。そのため、仏が仏法を講じる時には、絕対に衆生に利益する。我々は仏が仰せなのは真実語であり、自分に対して何らかの利益があるとはっきり弁えなければならない。仏は2500年前に仰せになったのだ。仏が説かれたこれらは、ご自分にとって助けになるとしたなら、今では仏は世間におられない。仏は我々が信じることを望んでおられるのか?とそなた達は問うだろう。だが、仏はすでにおられない。そなた達が仏像を信じることを望んでなどおられないだろう。そなた達が仏を信じたとしても、仏には実質的な助けも利益もないのだ。

よって、我々は仏が経典で講じる話を信じなければならない。なぜなら仏は我々を救ってくださるのであって、我々を批判したり、我々に対処しようというのではない。仏法により自分を改めるかどうかは、そなたが自分で決定するのであって、仏が我々を罰したり、我々を脅したりするのではない。みながこの点を弁えたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を講釈しよう。

あらゆる経典の書き出しはすべて『如是我聞(私が聞いたところでは)』だ。この4文字の最も重要な定義は『この経典の内容は、我々が言ったものでも考えたものでもなく、我々の学問でもなく、仏の仰せを真に聞き、講じるものだ』ということだ。どうして『聴』を用いず『聞』を用いるのか?それは『聴』は聴覚だけで、聴いても忘れてしまうが、『聞』は真心で定中で仏の仰せを聞くので、コンピューターにデータを入力するように、データを改めて取り出して、我々に見せることができるのだ。

よって、経典の書き出しがこのようでないなら、基本的には偽の経典だ。この四文字を適当に書く者もいるだろう、反駁する人が必ずいるだろう。だが、書く勇気があるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは敬服する。なぜなら『如是我聞』とは仏の弟子を代表しているからだ。2500年後、我々は自分は仏の弟子だということはできるが、仏の身辺で仏法を聞いたことはない。よって『如是我聞』ということはできない。仏のお側で自ら仏の仰せを聞いたものでなければ、この言葉を口にする資格はない。我々には資格はないのだ。

今日この経典が存在するのは、我々が聴きたいからではなく、間に非常に多くの複雑な因縁があるのだ。先ず、仏が仰せの仏法を聞こうとする人がいて、これら仏法を伝えようとする人がいて、これら経典を世界各地で現地の言語に翻訳しようとする人がいて、経典に基づき如実修行し、自分で証悟し、開示しようという人がいて、それを聞こうとする人がいる。これは非常に複雑だ。よって、自分が聞きたいのだから、聞かせてくれれば良い、などと思ってはならない。特にリンチェンドルジェ・リンポチェは日本では知られていない。それなのに、そなた達はどうして来たのか?それは、そなた達が前世で地蔵菩薩を拝んだことがあるため、この一世で聞く因縁があるからだ。この一世でやはり真面目に聞かないなら、また無駄になってしまい、次の一世に再来することとなる。

つまり、書き出しの『如是我聞』とは、聞き入れるように言っているのでもある。聞き入れないなら、記憶することなど有り得ないだろう。記憶しないなら、そなた達は行わないだろう。『如是我聞』とは阿羅漢が我々に、自分たちは聞いたので今日みなに伝える、と告げているようだ。だが、みなは経を聞く心構えは真面目に聞かなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェがたくさん言っても、全然理解できないと思い、聞きたくないと思い、或いは自分が聞きたい部分にまだ至っていない、などと思ってはならない。自分が聞きたい部分が聞けた、と思ったなら、それは仏法ではない。なぜなら経典で講じるのは、すべてそなたが聞きたくない事ばかりだからだ。仏が説かれるのは、すべてそなたの過ちだ。そなたが改め、心中から改めることを望んでいるのだ。どうしてこれをみなが好むだろうか?自分が理解できることを聞きたいと思う。『他のところではこうではない。どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェはこうなのか?』と思っているだろう。

他人が講じることをリンチェンドルジェ・リンポチェは批判しない。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示するのは、リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を深く信じ、自分の思想で仏法を講じることはできないということだ。用いるのは仏がお教えの方法、三恩根本上師であられる尊勝なる直貢チェ・ツァン法王がお教えの修行方法だ。それをリンチェンドルジェ・リンポチェが自分で験証後に、経典の講釈を始めたのだ。さもなくば、リンチェンドルジェ・リンポチェはとてもできない。経典の講釈を間違えば、その果報は非常に重い。仏菩薩を用いて金儲けする人の果報も非常に重いのだ。

『如是我聞』とは、阿羅漢が我々を代表して仏法を聞くと簡単に言うのではなく、重要なのはこの一分一秒、みなも一切の有情衆生を代表し仏法を聞いているということだ。こうでなければ慈悲ではない。分かりたい、理解したい、と願うなら、何を以って一時間以内に仏法を理解できるか考えてみるがよい?修行したことがないではないか!よって、心を込めて聞くのだ。簡単に言えば、虚心を用いて仏法を聞き、『自分は仏学院で学んだことがある。他の人はこうは言わない』などと思ってはならない。他の人はそなたの供養が必要なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは要らない。よって直接言うのだ。仏が仰せの通り、リンチェンドルジェ・リンポチェも言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは調子よくいうこともできるのだ。そなた達を率いて読経後に『みな喜びなさい。今日は地蔵菩薩を拝んだので、地蔵菩薩が加護してくれます。今後は健康でいられますよ』といい、三回手を打ち、鐘を鳴らし、賽銭を投げる。

これは仏法ではない。仏法はこのようには言っていない。これはここの習俗だ、とそなた達はいうだろう。そうだ。これこそ習俗だ。仏法ではない。地域によって拝仏の方法はいくらか違う。そのため、これは仏法だとは言えない。風俗と習慣なのだ。仏法を講じるなら、経典で講じる通りに、一字一句たりとも経典を離れず、経典に沿った内容でなければならない。

経典では『一時仏在忉利天』という。いつかは分からないのだ。仏は仏法を講じられる際に通常は、時間、地方、請法者などについて特に注意される。仏は通常は自ら仏法を講じられない。仏に仏法を講じるようお願いしなければならないのは、仏が偉そうにしていたり、傲慢であったり、お願いしてから講じたりするのではなく、縁のわけだ。相手は聞きたくなければ、求めないからだ。テレビを見たければ、自分の好みのチャンネルを選び、自分の好みの歌手の歌を聞きたいと思い選ぶだろう。これこそ縁なのだ。好きな食べ物、衣服まですべては縁だ。そなたが聞きたくないなら、仏がどれだけ講じたところで、役には立たない。なぜなら、受け入れようという心がないからだ。そのため、経典中では必ず法を講じた場所、時間、請法者について述べる。

誰かがリンチェンドルジェ・リンポチェの面前に跪くと、リンチェンドルジェ・リンポチェは一言目に必ず『どうしたのだ?』と聞く。リンチェンドルジェ・リンポチェは、そなた達がどうしたのかをいくらかは知っているが、それでもどうして尋ねるのか?それは、そなた達が口を開かなければ縁がないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェと縁がないので、リンチェンドルジェ・リンポチェが『何かあるのではないか』と尋ねても、『何もありません』と答える人がいるのだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは『それは良い。そうであれば、そなたは仏だ。なぜなら、仏だけが何もないのだから』というだろう。どうして『自分は何もない』というのか?簡単だ。それは縁がないのだ。さらに、何を聞けばいいのか分からないからだ。また、リンチェンドルジェ・リンポチェが自分を助けてくれる能力があるとは思っていないのだ。よって、何もない、と言うのだ。そなた達は皆このように隠している。

仏が『一時』と言われたら、どれくらいなのか分からない。なぜなら仏は入定されれば行っておしまいになり、阿羅漢にいつとは言われないからだ。だが、間違いなく時間はある。行う時間がないのではない。どうして時間を説くのか?宇宙を研究している人は、宇宙には時間がないことを知っている。時計を持って宇宙に行かなければ時間は生じない。時計がないなら、ほんとうに時間はない。星が行ったり来たりしているようだが、実は時間はないのだ。時間が生じるのは、人の心が動いているため、自然に時間が現れるのだ。地球においても、ロンドンと日本の時間は違う。どうして違いが生まれるのか?それは、人の心が動き、地球を動かすからだ。そのため、時間が生まれるのだ。地球が動かないなら、時間はない。太陽はひたすら一ヶ所に固定され、一方は暗黒で、もう一方は昼間というようになる。

どうして時間について説くのか?仏は、心念が動いて初めて行かれ、心が動かないなら、行かれないからだ。仏はある時間は神足通を通して忉利天へ行かれる。どうして行かれるのか?『母に説法するため』だ。すべての経典では、仏は誰のために説法するとは言われない。原因があり、誰かが求め、それで説法される。だが、ここだけは母のために説法されるのだ。仏はかつて、最も親孝行な人は学仏修行する人だ、と開示なさった。それは、学仏修行すれば父母、祖先を輪廻の苦痛から解脱させられるからだ。学仏しないなら、それは真の親孝行ではない。父母に対する親孝行には、食べる物、着る物、住むところ、医薬の四つの供養が必要だと、経典ではいう。これは最も基本的な四つの供養だ。この四つの供養ができていないなら、親孝行について語る資格はない。そなた達は、父母はお金があるので、自分の事は自分で面倒がみられる、と言うだろう。だが、父母にちょっとしたものをあげて喜ばせてあげることだってできるのだ。それなのに、そなた達は父母はお金があるので不要だと考える。父母はそなたのお金を見ているのではない。見ているのは、そなたの心だ。よって、たまにはネクタイの一本でも買って父に贈るといいのだ。

釈迦牟尼仏は天宮へ行き母のために仏法を説かれた。仏の母君はすでに天におられ、すでに天の福報を受けられているのに、なぜ母のために仏法を説く必要があるのか?と思うだろうか。それなら、それは誤りだ。なぜなら天に生まれた衆生もやはり輪廻するからだ。六道(天、阿修羅、人、地獄、餓鬼、畜生)の中に生まれれば、必ず輪廻する。釈迦牟尼仏は母の輪廻を望まれないので、神足通を用いて忉利天へ行き母君に説法されたのだ。釈迦牟尼仏の母君は天宮におられたので、仏は母が地球におられた時には母に説法できなかった。なぜなら母君は釈迦牟尼仏をお生みになった後すぐに往生され昇天なさったからだ。

釈迦牟尼仏がお生まれになるまで、地球上に仏法はなかったが、釈迦牟尼仏の前に仏法がなかった訳ではない。釈迦牟尼仏の開示に基づけば、『七仏住世』つまり、七尊仏が地球におられた。釈迦牟尼仏は第五尊であられ、後には二尊がおられる。第六尊は彌勒菩薩が成仏されたが、第七尊はまだ分からない。なぜなら、彌勒菩薩にとってであり、釈迦牟尼仏にとっては一代ずつ伝わるからだ。釈迦牟尼仏の前にもかつて仏がおられた。だが、滅せられ、釈迦牟尼仏の後に再び地球には仏法が現れたのだ。

現在では日本を含む世界で、一、二万年、さらには三万年前の人類文化が発掘されている。これこそ人類の歷史が数千年、一万年だけでなく、かなり以前から続いていることを示している。さらに今では、十数万年前のテクノロジーさえが発掘されている。それは現在の人類にもないものだ。宇宙人がもたらしたものだという人もいるが、実はそうとも限らない。

仏が天界へ行かれたのは、仏がお生まれになった後、母君がすぐに往生されたからだ。釈迦牟尼仏は叔母君に育てられたので、母君がお育てになったのではない。釈迦牟尼仏の母君が死後天界へ行かれたのは、母君に福報がなければ、仏をお生みになることなどなかったからだ。ではどうして短命だったのか?それは母君は在生時に仏法修行をなされていなかったため、息子の福報を受け取る福報がなかったからだ。よって昇天されたのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは簡単な例を挙げよう。尊勝なる直貢チェ・ツァン法王の母君は90歲で往生された。直貢チェ・ツァン法王をお生みになったのだ。福報がおありで当然だ。そのため、高齢者がよく患う簡単な病の他は往生の前にも病が少なくおありだった。直貢チェ・ツァン法王の母君の往生時には、直貢チェ・ツァン法王の関係で、非常に多くの出家衆が読経申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェも読経申し上げたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが読経申し上げた時、非常に多くの出家衆が読経し、非常に大きな蓮花座を捧げているのを目にした。直貢チェ・ツァン法王の母君はその上で昇天されたのだ。これは母君の福報だ。息子が直貢チェ・ツァン法王だからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの事をご家族にお伝え申し上げたところ、皆喜んでおられた。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは適当なことは言わない、見ていないことは言わず、目にしたことしか言わない、と皆知っているからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの母はリンチェンドルジェ・リンポチェを生んだので、福報がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは2年半ほど前に母を台湾に迎えた。医者の見立てによれば、母は三年前に脳卒中を起こした。心室が震え心室と心房が対応せず、血栓ができ、血栓が脳に至り脳卒中が起きる。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェの母は今になっても頭は非常にはっきりしている。リンチェンドルジェ・リンポチェがやっていないこと、何時に戻るなど、どれもはっきり分かっている

仏が母君に説法されたのは、母君が天界におられ、輪廻に堕ちる可能性がなおあったからだ。天人の往生前の苦痛は、人類よりもはるかに大きい。なぜなら天人には五神通があるので、死ぬ前に自分がどこに生まれるか分かるからだ。基本的に、天人を終えた後は地獄に生まれる。それには二つの原因がある。第一の原因は、人道にいた時、十善法を修めていたが、生生世世の悪業を完済できていなかったのに、福報が大きかったので先ずは昇天したが、天道で福報を使い切ってしまったので、輪廻に堕ちるというものだ。普通は先ず地獄に堕ちる。第二の原因は、天界にあって、生前何かの宗教を試したことがあり、何かの神に祈ったことがあったが、死に直面した時、自分のかつての祈り、かつての修行は無駄だった、と気づき、嗔恨の心を起こして地獄に堕ちるのだ。

また、天人は死を前にして五衰の相が現れる。天人になると、20歲の外観を取り戻す。どれだけ老いていようと、天へ行きさえすれば、見た目が20歲になってしまい、しかも顔色が天の色と同じように青色になる。これは経典で説くのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の父がこのようになったのをこの目で見たことがある。リンチェンドルジェ・リンポチェは、父の外観が経典で講じるものと全く同じになるように求め、それが叶ったのだ。第二に、天人となると、天衣を身に付ける。ブランドをあれこれ選ばなくとも良い。天衣がいつの間にか着せられている。第三に、身体中が良い香りを放つようになる。それは、髮の上に自然に花が現れるからだ。第四に、容貌がとても美しくなる。そのため、化粧も基礎化粧品も不要になる。実は修行人の身体にはゆっくりと香りが出現するのだ。第五に、法座が自然に現れる。

五衰の相は次の五つだ。第一に、衣服が突然崩れる。神通を用いても再び出現することはない。第二に、頭髮が乱れる。どんなに立派にヘアスタイルを整えても崩れ、しかも花も消える。第三に、体臭が現れる。つまり、この一生で体臭が強い人は、修行しないなら、畜生、地獄、餓鬼道に堕ちる可能性が非常に高いということだ。肉食すると地獄に堕ちる可能性が非常に高く、男であろうと女であろうと体臭が強いのは、肉や海鮮を食べるからだ。食べたものの匂いを身体が放つのだ。

天人は死を前にして体臭を発し、衣服が崩れる他、いっしょにいた親族が全て離れていき、近寄らなくなる。その人が発する匂いが天人の匂いではなく、他の道に堕ちる人の匂いなので、親族が近寄らなくなるのだ。さらに、心に苦しみを感じるようになる。なぜなら、自分がどの道に生まれるか分かり、また自殺することもできないからだ。天人は自殺できない。人は自殺できるが、自殺すればこの一生の事柄は片付いてしまうのだろうか?そうではない。首吊りであろうと、飛び降りや服毒、割腹であろうと、非常に勇敢なようだが、業によらない死、自らを滅する人は、リンチェンドルジェ・リンポチェが神通で見たところによれば、必ず地獄に堕ちる。

地獄にいるとはどんな感じなのだろうか?真っ暗で、自分一人しか感じられない。しかも、自殺の業報が終わるまで、自殺の過程を絶えずひたすら繰り返す。なぜなら、そなたは人なので、自殺は殺人となり、その業は少なくとも地獄に1000年いなくてはならない。この身体は自分のものだと思っているかもしれないが、身体はそなたのものではない。父母が与えてくれたものだ。その身体を殺してしまえば殺人に等しい。よって必ず地獄に堕ちる。そなたの身体はどうやって来たのだ?父母が与えてくれたのだ。それなのに、身体を損ない、殺してしまうことなどできるだろうか?つまり、自殺した人は必ず地獄に堕ちるのだ。考えてみよ。自分が切腹して死んだとする。業力が尽きるまで、毎日それをひたすら繰り返すのだ。人の思想と風俗はあまりに奇怪だ。

天人に五衰の相が出現すれば非常に辛い。人に比べて何倍も辛い。人は自分が未来世にどこへ行くか分からないので、自分は天へ行けると夢想している。自分がした事に責任も取らず、その結果地獄に堕ちる。天人の寿もいつか必ず使い切ってしまう。寿はかつて修めた福報だ。だが、天に生まれたのでそれで満足し、続けて福報を修めず、他人を助けることもせず、常に自分の福報を享受している。

よって、そなた達もこの一生で自分の福報をひたすら享受しているだけなら、とても酷い死に方をするだろう。福報を享受するとはなんだろうか?喫煙、肉食、深酒、贅沢のための金儲けなどは全て、福報の享受だ。福報を使い切ってしまえば、手術等の種々の事柄が発生するだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは今年死ぬところだったが、結局死ななかった。それは福報があったからだ。衆生がリンチェンドルジェ・リンポチェに害を及ぼそうとしても、リンチェンドルジェ・リンポチェの健康を害せるだけで、他を害することはできないのだ。

仏は母君のために、生死を解脱する法を説かれる必要があった。なぜなら仏は母君に対して子としての恩徳を欠いていたので、お返しになったのだ。さらに、自分の母の生死さえ解脱させてやらないなら、衆生に生死を解脱させてやる資格はないからだ。そのため、この行動は必ず必要なのだ。父母を面倒がり、不恭敬な態度をとる者もいるが、このような人は死後地獄に堕ちる可能性が高い。父が死に葬儀などもきちんと執り行えば、法会まで行う必要はないと考えている人がいる。この種の人こそ親不孝だ。父を見ることもできないのに、父が幸せかどうかがどうして分かるのだ?という人もいる。この種の人も親不孝だ。

母に説法するのは、生死を解脱する方法を説くのであって、『お母さん、どうですか?楽しいですか?』などというのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは母とはあまり話さない。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが今でもかつてのような小さい子供だと、母に思われることをリンチェンドルジェ・リンポチェは望まないからだ。母が、リンチェンドルジェ・リンポチェを自分の息子だと今でも思っているなら、母がこの世を去る時、リンチェンドルジェ・リンポチェが超度させようとしても、母が自分の息子だと思って信じないかもしれない。それでは、リンチェンドルジェ・リンポチェは母を超度させることができないのだ。

もう一つ例を挙げよう。ある時、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王は関房中で、ある極めて秘密性の高い法をリンチェンドルジェ・リンポチェにお伝えくださっていた。当時関房中には直貢チェ・ツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェしかいなかった。ところが、直貢チェ・ツァン法王の母君がそれを知らず関房中に入ってこられた。母君が入ってこられた瞬間、直貢チェ・ツァン法王はすぐ口をつぐみ、また母君に、なんですか、とも聞かず、ただ母君を見ておられた。直貢チェ・ツァン法王の母君はそれを見た瞬間、自分は入ってくるべきでなかったと気づかれ、すぐに出て行かれた。直貢チェ・ツァン法王の母君は修行を良くご存知なので、自分は聞いてはならないと知っておられたからだ。

たとえ母であっても、密法を学ぶ者でないなら伝法することはないし、聞かせることさえない。よって、リンポチェがいれば密法を伝えてもらえ、或いは青海、チベットでチベット人を見れば密法を伝えてもらえるなどと思ってはならない。修行者はある修行果位に至れば、法において母との間もはっきりさせているのだ。『お母さん、どうして入って来たの?何か用ですか?ちょっと待っていて』などと言ったりしないのだ。尊勝なる直貢チェ・ツァン法王はその時ただ母君を見ておられた。なぜなら母君は伝法をかき乱したからだ。仏法は最も尊い。仏法より尊貴なものはないのだ。母が関房に入って来たのは、何か用があったからこそ入って来たのだろう。そなた達なら『お母さん、何?伝法しているから、ちょっと待っていてくれる?』などと言うだろう。ある弟子はこのように言った。当時直貢チェ・ツァン法王は口を閉じられ、母君を見た。リンチェンドルジェ・リンポチェは若輩なので何も言わなかった。すると、直貢チェ・ツァン法王の母君は速やかに出て行かれた。

仏は母に生死を解脱する法を説かれた。母君が天界で楽しく暮らしているか見に行ったのではない。経典では『爾時十方無量世界』と言う。その時、という意味だ。現代人は3D空間についてよく知っているが、6D空間があることが、すでに科学で証明されている。5D空間は見つかったが、6Dはまだ見つかっていない。仏が説かれたのは10D空間、十方だ。仏の仰せは神話だと考える人がいるが、そうではない。科学で証明できるのだ。十方とは科学的に言えば、つまり空間だ。高度等は今は説明しないが、現代人は3D空間は分かっている。科学はすでに5D空間を推論し、6D空間があることも分かっている。だが、証明されていない。つまり、これが十方世界がある理由なのだ。

仏は『一剎那十方無量世界』へ説法に行かれた。無量とは我々が推算できる銀河系ではない。太陽系は宇宙の中の極々小さなシステムに過ぎず、銀河系は宇宙全体の中の一つのシステムに過ぎないことが現在すでに証明されている。宇宙は拡張を続けていると現代科学は証明している。仏はかつて無量と開示くださった。それは算出できず、常に成長しているということだ。仏法は迷信だと考える人がいるが、誰も説明できないだけなのだ。無量世界とは、いくつの銀河系があるか見通せないということだ。その中にいくつかの惑星システムがあり、一つ一つの惑星システムがすべて世界なのだ。

経典では『不可説不可説一切諸仏』とある。言葉では言い尽くせない数字、ということだ。全宇宙の一切の有情衆生は成仏できると仏はかつて開示なさった。つまり、仏は一尊だけではなく、十万、二十万だけではなく、仏が仰せのように億万仏、つまり一億以上もおられるのだ。よって『不可説不可説』とは、十方世界の中に言語では全く言い尽くせないほど多くの仏が来られた、ということだ。なぜか?それは仏が説法されるからだ。一切の仏は誰が偉い、偉くない、誰が優れている、大したことはない、などとの区別はない。これは人が区別するのだ。ある宗教は優れており、ある宗教は良くない、ある宗教を抹殺しよう、浄土宗と華厳宗は比較的良い、などと人は区別する。仏は区別なさらない。釈迦牟尼仏が説法なさるので、すべての仏が聞きに来られたのだ。

どうして諸仏はご存知だったのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは日本の信衆に招待状を送り、確認を求めているが、釈迦牟尼仏はそれとは違い招待状を出してはおられない。リンチェンドルジェ・リンポチェは哀れなことよ!リンチェンドルジェ・リンポチェは日本人道の中では修行がうまくいっていないが、リンチェンドルジェ・リンポチェがどこで説法、修法しようと、付近の鬼道と神は聞きに来る。どうやって証明するのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が知らないところへ行って修法しても、どの方向に廟がある、鬼がいると分かる。しかもそれは必ず当たっている。リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ仏果まで証していないため、仏は聞きに来られない。来るのは人、鬼、神だけだ。今日リンチェンドルジェ・リンポチェは修法している。表面的にはそなた達だけが聞いているようだが、実は外では非常に多くの衆生が聞いているのだ。

経典では『及大菩薩摩訶薩,皆来集会』とある。つまり、すべての法身菩薩が皆この法会に参加しているのだ。『賛歎釈迦牟尼仏』とは偽善を言っているのではなく、恭敬と供養だ。どうして釈迦牟尼仏を賛美するのか?なぜなら仏はすでに成仏され、母君は天界におられる。道理から言えば、仏は念頭を用いて母君に伝法でき、自ら赴く必要はないのだ。他心通で伝法できるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの念頭に浮かぶと、良くなる弟子がいる。これこそ他心通だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは電話を掛けたりする必要はなく、この人に事があると知るだけで、リンチェンドルジェ・リンポチェが心の中で思うだけで、その人は良くなるのだ。これこそ他心通だ。

では、釈迦牟尼仏はどうして自ら行かれたのか?非常に簡単だ。仏の母君のための説法は縁起に過ぎない。この法は単に母のためではなく、天界全体のための説法で、天界全体の衆生と六道の一切の衆生が聞けることを望んでおられるのだ。そのため、これら仏と大菩薩は、自分のためではない、釈迦牟尼仏のこの種の大慈悲の菩提心を賛歎しておられるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの果位まで証したので、行く必要がなく、念頭を動かすだけで衆生を救うことができるとはっきり分かっている。釈迦牟尼仏が神通力を用いてそちらに行かれた。入定しなければ行くことはできない。世間の事情から解放されなければ行けないということだ。肉体が行くのではない。神識が行くのだ。

仏の大力量によれば、ほんとうに不要だ。念頭を動かすだけで良い。リンチェンドルジェ・リンポチェのようなちっぽけな修行人でさえ念頭を用いて衆生を救えるのだ。仏がおできにならないことがあろうか?どうしてそれでも仏は行かれるのか?仏は単に母君のためだけではない。これはただ『地蔵菩薩本願経』の縁起だ。理由がなければ、仏が行かれることはない。必ず理由がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは自らどこかへ旅に出ることはほとんどない。縁がないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは行かないのだ。

釈迦牟尼仏を賛歎するのは、仏だから賛歎するのではなく、釈迦牟尼仏がなされる功徳が非常に大きいからだ。講じられる経典がたくさんの人に影響を与え、非常に多くの衆生を救うからだ。これら大菩薩はみな神通をお持ちで、仏が何を仰せになろうとしているのかが分かり、仰せの後の未来への救いと影響がどれだけ大きいかをご存知だ。今日まですでに数千年経ったというのに、地蔵菩薩は中国人、日本人、韓国人に影響を与えている。釈迦牟尼仏を讃嘆するのも一種の供養だ。いわゆる随喜功徳なのだ。供養とは物質ではない。心が非常に重要なのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが今日法座で行う講法は何も求めていない。まだ疑っているなら、供養がない。リンチェンドルジェ・リンポチェを疑う必要はない。リンチェンドルジェ・リンポチェにこの経典を講釈する能力がないなら、法座上にこんなに長く座っていることなどできない。すぐに耐え切れなくなり、すぐに下りているだろう。それは、護法がリンチェンドルジェ・リンポチェに講釈させないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは頂礼する度に、自分の能力を伸ばして下さいなどと祈っているのではなく、諸仏菩薩に、自分の説法が智慧如海であり、衆生に利益できるよう加被下さいと祈っている。この種の祈求のおかげで、リンチェンドルジェ・リンポチェの説法は途切れることがないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは準備しない。経典を開いてそのまま講釈する。他の人ではどうだろう。たくさんのものを書き写し、たくさんのものを書き、ゆっくりと捲りながら講釈するだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはそうではない。

リンチェンドルジェ・リンポチェが講釈を間違え、講釈内容に誤りがあったなら、リンチェンドルジェ・リンポチェがひたすら話し続けることなどできるだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは言い間違い、そなた達は不機嫌になり笑えないだろう。それはリンチェンドルジェ・リンポチェにユーモアがあるからではなく、そなた達がすでに上師が講じる仏法に溶け込み始めているため、リンチェンドルジェ・リンポチェの語る意味が理解できるからだ。日本人はあまり笑わない。それは、実直だからではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェが講じる仏法に溶け込んでいないからだ。先ずは、リンチェンドルジェ・リンポチェが何を言うかを聞き、リンチェンドルジェ・リンポチェの講釈は日本人の講釈とは違うと思い、リンチェンドルジェ・リンポチェは日本語が分からないからだ、と考える。だが、言語は方便でしかない。真の修行の方式ではないのだ。

経典には『賛歎釈迦牟尼仏,能於五濁悪世,現不可思議大智慧神通之力,調伏剛強衆生』とある。釈迦牟尼仏は地球を五濁悪世とお呼びだ。『濁』とは混濁、不浄という意味だ。五濁の一は見濁だ。見解がすべて汚れており、貪嗔痴で物事を見ることだ。煩悩濁は、自分が良くなり、他人は悪くなれと、あらゆる点で起心動念することだ。他人が自分を愛しながら、自分は他人を愛する必要がなく、自分に対して良ければそれで良い、と起心動念することだ。他人が自分を必要とし、自分は他人を不要だと起心動念することだ。他人から金を儲けとってやろうと考え、他人にはチャンスを与えないと起心動念することだ。子供のことをあれこれ悩む⋯⋯これらはすべて煩悩だ。

続いては衆生濁だ。地球は奇妙な場所で、地獄、人、天人と非常に単純なところもある。だが地球には、無色界天がない以外、何でもある。欲界天、畜生道、地獄もある。経典では、地球には二つの地獄があると言う。一つは山の麓、ヒマラヤ山のあたりにあり、もう一つは深海中にある。地球には畜生道、餓鬼道、人道、阿修羅道、天道があるため、非常に混濁したところなのだ。浄土のように単純な修行の場所ではない。今日みなが衆生になったのは、生死を解脱できておらず修行しても証果を得ておらず、よって心が不浄で、非常に多くの誤った見解と見方があるからだ。この種の濁があるため、地球も濁を生み出している。

地球が温暖化しているのは、我々人がどんどん欲深くなっているからだ。地球のすべてを自分たちが使用する物として採取している。よって天災が増えているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは年初に、今年は地震が非常に多いと預言したが、果たして本当に多くの地震が発生している。これこそ衆生の心が濁っているからで、シンプルな浄土ではないからだ。

五濁には命濁も含む。人が天界に生まれれば、その運命は福の享受だ。一切の例外なく、すべての福報を使い切って死ぬまで、濁は出現しない。我々は人または動物である。その生には100%の福はなく、心の苦であろうと身体の苦であろうと、苦がとても多い。生老病死の苦もある。人は老いると老態が出現する。仏法を聞いても居眠りし、まぶたを開けることができない。なぜなら老いたからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェも年を取っているが、老濁の出現が遅い。どうして遅いのか?それは心の中に濁がないからだ。命濁には事故死、故のない病、中毒も含まれる。どうして命が濁るのか?それは、過去世で清浄な法を修めておらず、非常に多くの悪が内部に混雑されているからだ。悪があれば不慮の事故がある。皮膚が剥がされるのも、蚊に刺されるのも、毒虫に咬まれるのも、過去に為した殺生と関係がある。絕対に離れられないのだ。

五濁には劫濁も含む。地球は災難でいっぱいのところだ。天災だけでなく、人災も多い。リンチェンドルジェ・リンポチェは年初に、今年は肺と呼吸器系統の病が多いので、身体を冷やしてはならないと開示したばかりだ。近頃韓国では新しいSARSが流行っている。中東から来たものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは旧暦の正月に、この種の病の発生をすでに語っていたのだ。そなた達は冷たい飲み物を飲み、アイスを食べ続ければ良い!日本人は特にアイスが好きだ。アイスを食べれば体温が下がり、この種の病に罹る確率が高くなる。新SARSでなくとも、風邪などのこの種の病に罹りやすくなる。暑くとも冷たいものを食べなければならないと言う訳ではない。事実、中国も日本も古代には冷たいものを食べる習慣はなかったのだ。西洋文化が伝わり、洋食レストランで食事し、冷たい水を飲むのがおしゃれだと思っている。二度と冷たいものを食べてはならない。今年はほんとうに極めて特別な一年だ。

いわゆる劫濁とは戦争の劫も含む。つまり、経典で講じる『刀兵劫』だ。古代には銃がなく刀で人を殺していたので、刀兵と言うのだ。最近は戦争がないが、刀兵がないなどと思ってはならない。訳も分からずナイフで殺されたり、自動車事故で死んだり、飛行機が墜落して死んだり等も全て刀兵劫に含まれる。これこそ、殺生し、殺業が重いため、過去世であろうとこの一世であろうと刀兵劫があるのだ。刀兵劫の他に、地震、津波、火山の噴火、火災、毒虫に咬まれての死、毒蛇に咬まれての死、動物に殺される、医者に間違った薬を出されて殺される等もこれら劫だ。これらはすべて殺生によるものだ。今殺生をやめれば、これら劫が発生しても死ぬことはなく、救われるだろう。死んだとしても、学仏していることで、必ず天界へ行けるだろう。

この地球には五濁が満ちている。悪世とは『良い世間ではない』ということだ。現在人の悪は善より多い。自分は善人だと思っているだろうが、どんな理由があろうと、肉食し、他人を罵倒し、頭を働かせて他人を叱責すれば、それはすべて悪なのだ。『罵』とは怨気の発散だ。みな怨気で充満し、世間には闘争があり、闘争があれば戦争が起きる。他人を征服し、物を自分のものにできるのだから、戦争はいいじゃないかと皆思っているのだろう。

中国でも日本でも、古くから非常に多くの戦争を経てきた。この種の苦しみをみな忘れてしまっている。戦争は人類にとって最も残酷な応報だ。仏が殺生してはならないと強調なさるのは、このためなのだ。悪世は、人がみな貪嗔痴で日々を過ごしているためで、一切を貪り、一切を恨み、倫理道徳と因果を信じないからだ。

『現不可思議大智慧神通之力』とは、仏の為されることは不可思議で、六道衆生の思維で考え出せる方法ではなく、仏が説かれる不可思議のは、考え出すことも行うこともできないのではない。簡単な例を挙げよう。小学生は、博士が言うこと、博士が理解できることが永遠に理解できないため、それは小学生にとっては不可思議だ。つまり、そのため、仏の境界は我々にとっては不可思議なのだ。なぜなら我々は仏ではないので、仏が何をなさっているのか分からないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが何をしているのか推測しようとしている弟子が近頃とても多い。これは同じような考え方だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分は菩薩だなどとは、とても言えないが、少なくとも修行はしている。修行人が考えることは、そなた達とは当然違う。リンチェンドルジェ・リンポチェが次に何をしようとしているのか弟子が推測しているので、リンチェンドルジェ・リンポチェは、次は何かをするのではない、ということをそなた達に知らせる。そなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェは左側へ歩くと思えば、リンチェンドルジェ・リンポチェは右側へと歩いて見せる。そなた達が考えている事はすべて貪嗔痴だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが次に何をしようとしているかを、どうして考え出すことができるだろうか?

大智慧の『大』とは『無遠弗屆』ということで、どこへでも行ける、ということだ。『智慧』とは人類が学ぶ学問ではない。仏法により『智慧』を説明しようとするなら、一年掛かっても終えられないだろう。簡単に要約すれば以下のようになる。智慧には二つの条件がある。一つは、空性とは何かを理解すること、もう一つは、すべての思想で衆生に利益し救うことだ。何かの基金会を作ったりすることも含め、何らかの自分の利益のための聡明さ、自分が良い暮らしをするための聡明さ、自分が何かをできると知りたいがための聡明さ、これらは智慧ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが基金会を設立しないのは、それよりも、しっかり仏法を説き、修行し、自分自身が悪を為さず、悪を為さないようたくさんの人に影響を及ぼすことが大切だからだ。これこそ真の智慧だ。基金会は名誉のためでしかない。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日善事を行っているが、みな知らない。なぜなら知られてしまえば、善事はなくなってしまうからだ。

『神通之力』の神通とは智慧に基づき生まれる。智慧がない神通は非常に危険だ。なぜなら、神通があれば、何かの発生を恐れ、故意に果報を変えてしまい、それによってより深刻な事が起きてしまうからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分が皮膚癌を患ったことを非常に早い段階で知った。だがそれを変えようとせず、放っておき、普通に日常生活を送っていた。すると皮膚癌は良くなってしまったのだ。これこそ智慧の神通だ。神通があるからといって、変えようとするのではないのだ。果報は変えられない。ただ、果報を軽くすることができるだけだ。だが、果を消してしまうことはできない。因が生じさえすれば、果は必ず出現する。間に非常に多くの善を為し、果報が出現する力を覆い隠してしまえば、感じられないようにすることはできる。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一生で肉食し、殺生した。よって大法の修法が終わる度に、いつも必ずなぜか指を引っ掻いている。それを見ると、自分は肉の負債をまた一つ返した、と知り、リンチェンドルジェ・リンポチェはとても嬉しくなる。肉を以って肉債を返すのではない。みな誤解しないでほしい。リンチェンドルジェ・リンポチェは肉を食べたことがある。『地蔵菩薩本願経』では肉食すれば必ず地獄に堕ちるとはっきり記載されている。そのため、この一生で菜食する決心を下せない人、『別にどうということもない。どうしようもなくなったら菜食すれば良い』と思っている人に対して、リンチェンドルジェ・リンポチェは、お好きにどうぞ、と言いたい。なぜなら地獄に堕ちるのはそなたであって、リンチェンドルジェ・リンポチェではないからだ。

決心を下していないなら、仏法を聞いてもそれは学問で、修行ではない。修行とは毎日仏法を聞くことではなく、自分の行為を改めることから始めなければならないのだ。自分の行為さえ改められないなら、何を修行するのだ?読経し仏法を聞き写経すれば、それが修行なのか?これらはすべて修行ではない。修行とは、自分を輪廻に陥らせる行為を改めることだ。仏法を講じる人、仏、菩薩は衆生に利益するために、智慧を用いて話す。絕対に自分のためではなく、自分が何かを得られたことを讃えるためでもない。

『力』とは、どれほど大きな力があるというのではない。科学的に言えば一種のエネルギーだ。この種のエネルギーがなければ、何事かを行うことはできない。この種のエネルギーが福報と智慧だ。修行人が福報と智慧を修められていないなら、力はない。剃髪し、父の寺を継ぎ、経典を唱えられれば修行人だというのではない。福報と智慧を必ず備えていなければならないのだ。福報があるかどうかはどうすれば分かるのか?何をしても問題がなく、うまくできている。仏法に関する事を行おうとすれば必ず行える。それなら、福報があると言える。

仏法に関する事とは、大きな寺を建てたり、たくさんの弟子を取ったりすることではない。正法を用いて衆生を助けているかどうかだ。智慧がなく、衆生の心を理解しないなら、その困難を開解し助けることはできない。少し前、ある女性が失恋したと言って、死ぬの生きるのと言っていたことがあった。慧がない人が彼女に、一生懸命読経せよと勧めたとしよう。だが、読経することができるだろうか?その女性は、相手のの男性の姿が一瞬たりとも脳裏を去らないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは当然智慧を用いて彼女を救う必要がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは在家だし、失恋したこともある。それで『私も失恋したことがある』と告げた。すると、彼女は大声で笑ったのだ。もし出家衆なら、失恋したこともなく、しっかり念仏し観世音菩薩をしっかり唱えよ、ということしかできず、彼女の心は定まらない。よって智慧が必要なのだ。

菩薩道を修める人は誰でも、成就するまでは、人世間のすべての苦を経験する。行者が苦を経験せず、苦を理解しないなら、どうして衆生を救うことができようか?リンチェンドルジェ・リンポチェが恋人に捨てられたことがなければ、捨てられる苦痛がどうして分かるだろうか?分からなければ、彼女にどのように言えばいいのか?『富貴修道難(富む者の修行は困難だ)』というのはこのためだ。現在日本では、仏法は段々と重視されなくなっている。ここ数年日本人は、自分はとても快適に暮らしており、神社にちょっと祈ればなんでも叶えられると思っている。そのため、仏法を重視せず、さらには仏法を軽んじてさえいる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは他の宗教を軽んじたりしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前道教を学んだことがあるからだ。道教は日本人の神道に少し似ている。求めれば与えられる。ただ方法と儀軌は違う。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法に触れ、仏法だけが物事を解決でき、問題を徹底的に解決できると知った。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を始めてから現在まで、『地蔵菩薩本願経』の十文しか開示していない。この『地蔵菩薩本願経』の講釈をすべて聞きたくとも、日本の信衆に忍耐力がないなら、この一生で聞き終わることはできないだろう。どうして聞き終えられないのか?なぜなら仏法の講釈は少し話し、唱えればそれで良い、というものではなく、必ず内容を説明しなければならないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが今日開示する仏法を聞き入れられるなら、そなた達のこの一生と未来世に非常に大きな助けとなるだろう」と仰せになった。

この時、リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の弟子に「最初から今までずっと寝ているので、午後は法会に参加しなくとも良い」と指示なさった。「リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで聞かせてやったのだ。すでに十分だろう。眠らないように努力しているようだが、やはりひたすら居眠りしている。居眠りには三つの原因がある。一つは身体の問題、二つは夜十分に眠れていない、三つは仏法と上師を尊重していないのだ。そのため居眠りするのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはある時、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王のために法会を執り行った。その際には夜一時間しか眠らなかったが、一日中全く居眠りしなかった。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは上師を尊重しているからだ。よって居眠りしないのだ。この弟子は午後来なくともよい。帰って寝ているように」と仰せになった。

« 昔の法会開示 – 法会開示へ戻る – 新しい法会開示 »

2017 年 03 月 29 日 更新