尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年2月14日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ観音菩薩灌頂法会を主持なさり、参会者に貴重な仏法の開示を下された。

「今日は観音菩薩灌頂を授ける。本来今日は金剛薩埵の灌頂を修めるはずだったが、昨日中国の弟子が観音法門を求めて来たので、今日は観音菩薩灌頂を授けることとする。その前に伝えることがある。

1997年の寶吉祥仏法センター設立以来、リンチェンドルジェ・リンポチェはひたすら供養布施が必要だと教導してきた。供養布施しないなら仏法を学ぶことはできない。なぜなら福報がないからだ。供養布施と言っても、金額がいくらだというのではなく、心の問題なのだ。心構えが正しいかどうかが非常に重要だ。数日前にも言った。ある時マルパ尊者がミラレパ尊者に伝法しようとした。ミラレパ尊者には供養できる貴重なものがなかったが、マルバ尊者の明妃がそれを知り、自分が身につけていた小さな珊瑚をミラレパ尊者に与えた。それをマルパ尊者に供養させようというのだ。だが、マルパ尊者はミラレパ尊者の供養を一目見るなり、すぐに放り投げ『それはそなたのものではない』と大声でミラレパ尊者を叱責した。後にミラレパ尊者は自分が身につけていた唯一の衣服をマルパ尊者に供養したところ、マルパ尊者はお受け取りくださった。この話は我々に『自分のものではないものを以って供養してはならない。供養では心が非常に重要であり、供養する物はそれに比べてそれほど重要ではない』と教えている。『宝積経』には、仏菩薩と上師への供養では、他人のものを用いてはならず、脅迫したり脅したり、だまし取ったものを用いてはならないとある」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは観音菩薩灌頂儀軌を開始され、さらに開示くださった。

「灌頂については、言ったことがある。尊勝なる直貢チェツァン法王はかつて開示くださった。古代インドでは、国王が王子を世嗣ぎとして認める際には、清潔な壺に清潔な水を入れ、それを王子の頭に注ぎ、権利を授けたことを意味し、王子が自分の継承者であることを確認していた。今日はそなた達に灌頂を授ける。それは一つには、そなたが伝承の加持を受けたことを意味し、もう一つには、そなたがこの法を修める権利を授けられたことを意味する。授権を経ていない持咒は、よくてもいくらかの人天福報を得られるだけで、生死解脱や開悟の助けにはならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは灌頂を授ける前に、観音菩薩灌頂預備法を修めるが、今日午前中にすでに修めてしまった。法本内には駆魔もあるが、これも終えてしまったため、このまま灌頂の手順に入る。今日伝える観音菩薩灌頂は釈迦牟尼仏がお伝えくださった続部密法であり、8万4千個の法門のエッセンスだ。金剛乗密法中の無上瑜伽部は父続、母続、不二続に分かれている。今日の灌頂で伝える観音菩薩の心続を通して、四部の無上瑜伽部中の成熟道と解脱道、大手印の道、果、因を証し、最後には仏果を証することができる。灌頂の後に、成熟道というこの法門を専ら修めれば、資糧福報と善根を積んで解脱道に入り、未来世では金剛乗密法を修行して成仏する機会がある。密続は事部、行部、瑜伽部、無上瑜伽部の四部に分かれている。今回は事部と行部の灌頂だ」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはしばらく修法くださった後開示くださった。「法本には『上師に加持をくださるよう、先ず本尊にお願いする』との言葉がある。仏菩薩がそなた達に直接お与えくださることはない。なぜならそなた達の身体は汚れているからだ。灌頂は上師の福報功徳を用いて、与えるものだ。そのため法本では、しばしば灌頂を授ける上師は、閉関を通して福報功徳の資糧を補う必要があるという。よって、上師に加持くださるよう、先ずは本尊にお願いするのだ。その後、上師がそなた達に加持を授ける。なぜ本尊は先に上師に与え、直接自分達にくださらないのか?とそなた達は尋ねるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示する。なぜならそなた達はみな汚れているからだ。そのため、もちろん先に上師に与えてから、上師からそなた達に与えるのだ。違いはあるだろうか?もちろんある!なぜならそなた達は直接本尊の加持を得ることができないからだ。だが、上師は違う。上師の心は本尊の願力と無二無別なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて見たことがある。ある時、尊勝なる直貢チェツァン法王が伝法くださっている際に、そのお伝えくださっている本尊には16本の腕があると言って、伝法の最中に手を絶えず動かして真似している人がいた。大切なのは実は形体上のことではない。無二無別とは形体上のことではなく、心念、動機が本尊の願力と同じであるかどうかなのだ。本尊の加持を得ることで主法上師の福報功徳は十分となり、その後主法上師がそなた達に加持を授けるのだ」と仰せになった。

続いて出家弟子衆が衆生を代表してマンダ献上儀軌を執り行った後、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示をお続けになった。

「修法は前行、正行、回向の三種に分けられる。先ほど修めた部分は前行だ。前行の目的は、灌頂法会を障礙する一切の衆生を供養によりなだめ、吉祥の祈請文を唱えることで参加者の災難を消し、そなた達が灌頂を受けるのをこれら衆生に邪魔させないことだ。なぜならそなた達の福報は不十分なので、灌頂前には先ずマンダを供養し、福報を累積しなければならない。

続いては正行、つまり灌頂の儀軌を行う。釈迦牟尼仏は『釈明論』で、正行に次の六つの状況があるなら、汚れていると仰せだ。

1.傲慢。心の中で、自分は以前灌頂を受けたことがある、と思っている。これこそ傲慢だ。或いは、自分は長年学仏し、たくさんの経典を読み、多くを理解しているが、密法を学んだことがないので、密法とは何なのかをここに見に来た、という人もたくさんいるだろうが、これも傲慢だ。

2.不信。この灌頂は役に立つだろうかと、自分の考えで判断してはならない。そなた達は上師ではなく、仏菩薩でもない。

3.求法しない。正法を求めない。この灌頂は昨日来た中国の弟子が求めたものだ。他の者は求めていない。法を求めてこそ、上師は授ける。求められないなら、授ける因縁はない。そなた達に求法の心がないなら、法会はそなた達とは無関係だ。

4.外散。つまり上師が修法している時、心が別のところへ行ってしまい、散乱して集中しないことだ。今は何時かと時計を見たり、この後何時に待ち合わせていたっけ、などと考えたりすることも含む。

5.内收。上師の修法時に自分のすべての感覚を閉じてしまう。居眠りする、眠いと感じるなどもすべてそうだ。さらに、自分は入定していると思い、さらには目を閉じ自分は入定していると思っているが、実は一切何も聞いていない。

6.飽きる。どうしてこんなに長いんだ、法会は何時に終わるのかと考え、時計を見て、なぜもっと早く終わらないのかと考える。

リンチェンドルジェ・リンポチェの修法時に、リンチェンドルジェ・リンポチェが何をしているか知りたい、などと考えてはならない。そなた達にはもちろん分からない。そなた達に分かるなら、そなた達はつまり観世音菩薩だ。恭敬心で聞けばそれで良い。法本では、正しい動機があれば殊勝な心構えが起き、上師を本尊と無二無別と見なし、一緒に法会に参加する参会者を眷属と思う、とある。このように殊勝なる灌頂を今日みな一緒に受けるのだから、参会者は互いに家族のようなものなのだ。そなた達の家の眷属はこの一世だけのものだ。この一世の縁が終われば終わってしまう。だが、同一の伝承上師の下で学仏すれば、そなた達は法界眷属だ。法界眷属は生生世世のものなのだ。ただ今後、誰が誰を済度させるかは分からない。法会参加時には正しい心構えがなければならない。自分への加護を求めるのではなく、仏法を学習し生死を解脱し、将来衆生に利益するためなのだ。今日観音菩薩灌頂を受けても、学仏を継続しなければ、法会参加は仏菩薩と結縁させるに過ぎない。

法本には『祈請上師慈悲垂憐我』とある。どうすれば上師の憐れみを得ることができるのか?輪迴を出離したいという心がなければ、上師の慈悲心を引くことはできない。そのため、誰かがリンチェンドルジェ・リンポチェにある弟子の状況を報告しても、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子の名前を耳にはするが、その弟子に対して何の印象もないことがあるのだ。それは、彼らが供養していないからではなく、彼らがボランティアしていないからではなく、彼らが輪迴出離をまだ決定していないからだ。そのため上師の心が動かず、上師の憐れを引くことができないのだ。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは観音菩薩灌頂の儀軌を開始する。リンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率いて法本を唱え、本尊に加持をお願いする。みなはこの殊勝なる灌頂を受けることを通して、如実にこの法を修習し、生死を解脱し、将来菩薩の果位を証することができる。今日の灌頂は非常に重要だ。我々の一生における大事だと言える。先ずは、身灌頂を行い、累世に累積された身の垢障を清らかにする」と仰せになった。

続いて「語」の灌頂を行う前に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、しっかり座るよう仰せになり、「語」の灌頂を受ける際の観想の方法について指示くださり、みなを率いて法本を念誦くだされた。「『語』の灌頂を受けた後は、如法の修行を通して、累世の『語』の汚れ、障礙、悪癖を清め、未来で報身仏を証する因縁を得ることができる」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参会者に「意」の灌頂をお授けくださり、みなの「意」の垢障と悪癖を清め、これによりみなは未来で法身仏を証する因縁を得ることができた。「続いて明空双運の灌頂を授ける。これにより仏の清浄な本性を証悟することができる」と仰せになり、リンチェンドルジェ・リンポチェは「意」の灌頂を受ける際の観想の方法についてご指示くださり、「みなに告げる。特に出家衆は他の考えを持たないように。上師が教える通りに行うのだ。目を閉じてはならない。観音菩薩が自分の頭頂から入ってこられたなどと言ってはならない。なぜならこれは法本が仰せだからだ。法本が仰せでないことを、自分勝手に加えてはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェがどうして知っているのかなどと疑ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェには『他心通』があるので、そなた達の考えが分かるのだ。今の人の学仏はなぜこんなにも複雑なのか。自分の考えを山のように持っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは学仏を始めたばかりの頃、自分の考えを持たず、上師の仰せの通りに行っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェが自然に修められたのは、完全に法本に従い行ったからだ。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェは観音法門の灌頂を授ける。上師の観想を通し、今日の深く無上なる灌頂を受ければ、観音法門を学習、修行でき、行者は不共の殊勝なる動機を生起し、如理如法の修行過程を通して、未来に観音菩薩と無二無別の果位を証することができる、と法本にはある。いわゆる『不共』の動機とは、輪迴を解脱し、一切の有情に利益することだ。自分の健康、仕事、家庭、富のことだけを考える、つまり『共』の動機である。

法本には、そなた達が喜ぶ、今日の観音菩薩灌頂を通して、金剛乗上師と弟子の『財富名誉隆盛』し、一切の障礙を消し去り、最後には観音菩薩の果位を証悟することができる、という言葉がある。これは、一切の学仏の障礙を一時的に他所に遣り、しっかり学仏修行する時間を与えるということだ。障礙を排除する能力は、そなた達にはない。そのため、仏がその福報と功徳を用いて、これら障礙を一時的に離れさせてくださるのだ。だが、永遠に消し去ってしまうのではない。その後はやはり、自分自身で修行しなければならない」と仰せになった。

続いて短いマンダ供養を執り行われ、リンチェンドルジェ・リンポチェは修法後に続けて開示をくだされた。

「法本中には『願在主尊加持下、完成令悅意服侍、三門供養上師尊、生生世世為弟子、依恃上師不分離、請您隨意差遣我』とある。

これは、本尊の加持を得なければ喜んで上師に仕えることはできない、ということだ。なぜそなた達は、上師のために何かを行う際に、ひどく緊張し、叱られるのを恐れ、罰せられるのを恐れるのか?それはそなた達が、法本の通りに行っていないからだ。『悅意服侍上師』ができていないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは喜んで、歓喜の心で尊勝なる直貢チェツァン法王にお仕えしている。そのため過ちを犯し、尊勝なる直貢チェツァン法王のお怒りを買ったことはない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自然に修められたと尊勝なる直貢チェツァン法王にお認めいただいている。それは、生き方すべてが法本に完全に則っているからだ。そのため、祈請文では最初から主尊の加持を求める、とあるのだ。主尊の加持の下でなければ、そなた達は『悅意服侍』を行うことはできない。仏菩薩の加持が得られず、悅意、歓喜の心で上師に仕えないなら、しばしば過ちを犯すこととなろう。あの辞職した秘書長も、乗り気でないなら最初から断ることができたのだ。金をもらう仕事であっても、受けるかどうかは自分で決められるのだから、報酬がない仕事ならなおのことだ。自分はひどく忙しく時間がないので遅れてしまうかもしれない、と言って断ることもできるのだ。だが、やると決めたなら、しっかりやり遂げ、喜んで歓喜の心で行わなければならない。文句を言いながらやったり、おざなりに済ませたり、やりかけたところで止めると言い出したりしてはならない。

祈願文では特に『願将所有善根與財富、身、口、意完全供養上師、並祈請在上師與本尊加持下、恒常依止上師、生生世世為弟子、請上師隨意差遣我』という。なぜ、すべての善根と財富を上師に供養しなければならないのか?なぜなら我々の一切すべては、上師がおられるからこそ得られるからだ。上師が我々に仏法を教導くださらなければ、我々は学仏することはできない。そのため、すべての善根と財富を上師に供養申し上げるのだ。そなた達のような供養心では、この祈願文を唱える気にはなれないだろう。すべて供養しなければならないのだぞ。仏菩薩と上師にお世話になったからこそ今日があるのだ。財産をすべて供養するのも当然なのだ。黄という姓の弟子のように二十分の一を供養する、というのでは、供養していないのと同じだ!諸仏菩薩はそなたの金が必要だろうか。そうではない。供養の心を見ているのだ。一切すべてを用いて供養するなら、法本には『一部を戻して(賜回)使わせてくれる』とある。仏菩薩と上師がちまちまと損得にこだわるだろうか?そんなことは有り得ない!『賜回』の『賜』とはどういう意味だろうか?それは『上のものが下のものに与える』ということだ。つまり、上師がいなければ、そなた達は何も得られないのだ。仏菩薩に一つ供養したとする。仏菩薩は一つしかお返しくださらないだろうか?それとも何倍もお返しくださるだろうか?金をすべて供養せよというのではない。仏陀は我々に稼いだ金の四分の一或いは五分の一を供養せよとお教えくださる。三分の一を供養せよと求める宗教もあり、この宗教は金銭的に非常に豊かだが、仏はそうではない。恭敬と一切何も求めない供養心がなくて、どうして加持が得られるだろうか?だからこそ、リンチェンドルジェ・リンポチェは修められ、そなた達は修められないのだ。黄という姓の弟子は自分のやり方を貫き、一ヶ月に一万元を変えようとしない。縁起は非常に重要だ。縁起は一万元、つまりそうなのだ。うちを抵当に出して供養してはならない。また、今後はもっとたくさん供養しよう、などと思ってはならない。そんなことをしても、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らないだろう。道場では様々なcaseが見られる。複数なので、casesというべきだろう。供養の心を起こしただけで、実質的な供養を行ってもいないのに、状況が改善し問題が解決してしまう弟子がたくさんいる。それは心が最も重要だからで、仏が仰せの『万法唯心造』と
いうことだ。なんらかの行動を起こす前には、この意が必要なのではないか?この意があったればこそ、そうするのではないか?だが、考えるだけよく、実際の行動は不要だ、などと言うのではない」と仰せになり、リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを交えて「勇気があるなら、やってみれば良い」と仰せになった。

「法本中には『請您隨意差遣我』とある。秘書長は『隨意差遣』ができていないので、学密は無理だ。そなた達もこの語を唱える勇気はないだろう。そんな有様でどうして密法が学べるだろうか?道場のために働くことで、そなた達は衆生のために尽くすことができ、衆生と善縁を結ぶことができる。リンチェンドルジェ・リンポチェのために尽くすのではない。小事で過ちを犯してもどうということはない、などと思ってはならない。あらゆる大事はすべて小事から始まるのだ。寶吉祥仏法中心道場はリンチェンドルジェ・リンポチェが設立した。道場に尽くすことは、上師に仕えることともなる。道場設立は非常に困難で大変な事であり、たくさんの因縁が必要だ。だが、道場を破壊するのはこの上もなく簡単だ。みなと上師の心とが乖離すれば簡単に壊れてしまう。上師は非常に細やかにあらゆる事を処理するが、そなた達はどれもこれも大雑把で、とりあえずやってしまえばそれでいいと思い、功を争い罪をなすりつけ合っている。誰かが紫檀の椅子を壊したなどとでっち上げて言いつけてくるような事まで出てきているではないか!

罰せられ密法が学べなくなっても、密法など学ばなくともどうということはない、と思っている人がいる。どうということはないと思うなら、どうということはない!ひたすら輪迴するだけだ。密法は非常に殊勝なのだ。この一世で輪迴を解脱させてくれる。学密したところで何があるのだ、と思っている人がいる。それは、密法を学んだことでどんな良いことがあるかをそなた達が知らないからだ」と仰せになった。

灌頂が円満となり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは続いて観音法門の観想、持咒の方式を口伝くださり、六字大明咒を口伝くださった後、参会者に貴重な仏法の開示を続けてくだされた。

「四臂観世音菩薩は慈悲喜捨を修められる。今日そなた達は観音菩薩の灌頂を受けたので、観世音菩薩をご本尊とする。今日は四臂観音の法本をそなた達に配布する。法本は寶吉祥仏法中心の財産だ。そなた達のものではなく、上師から賜るものだ。そのため、法本を回収する道理がある。自分はもう覚えてしまった、もうコピーしてしまった、だから回収するならすれば良い、などと言ってはならない。コピーは役に立たない。覚えても役には立たない。上師が息を吹きかけるだけで有用なのだ。本尊の咒語、本尊の聖号がある法本ならなおのことだ。上師は法本を回収するので、賢く立ち回って先にコピーしてしまおう、などと思ってはならない。上師自ら下賜したものには、上師の加持があるのだ。コピーはそなた自身が行ったのであり、上師が下賜したものではないので、上師の加持はない。

尊勝なる直貢チェツァン法王は『仏法の道を師徒がいっしょに歩む』と仰せになった。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェはいっしょに歩めるのか?それはリンチェンドルジェ・リンポチェが成し遂げたからだ。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは、そなた達は将来リンチェンドルジェ・リンポチェが見つけられなくなる、というのか?それはそなた達がまったくできていないからだ。尊勝なる直貢チェツァン法王が口を開かれれば、それは適当に仰せなのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェがすでにできているとご存知だからだ。そなた達は上師を宝とみなしていない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達とあまりにも頻繁に顔を合わせるので、そなた達は会いたい時にいつでも会えると思っているのだ。そなた達も知っておろう。チベットでは、リンポチェにお目にかかるのはどんなに難しい事か。大功徳主でなければ、お目にかかることはできないだろう。上師は宝だ。上師と関係が有るもの、例えば上師の衣服もすべて宝だ。大修行人の靴下であっても、宝瓶とできるものさえある。リンチェンドルジェ・リンポチェが着用した下着、ズボン、靴下、衣服もすべて如法の処理を行わなければならない。適当に廃棄することはできないのだ。

灌頂を受けても修めないなら、以降、修行において非常に大きな障礙が出現する。灌頂を経ないで持する咒語は、本尊と結縁し、人天福報と未来世で学仏する因縁が積めるだけで、修行、生死の解脱、開悟には関係がない。密法上師と弟子との関係は非常に特殊なのだ。必ず上師の加持を受けなければ修めることはできない。灌頂を受けた後は、そなたと上師との関係は、一般の凡夫と上師との関係ではなくなる。上師に対して単純な恭敬心を持つだけでなく、上師の教法をすべて遵守しなければならない。他の上師の教法を持ってきて、上師と比較してはならない。上師が違い、衆生も違えば、その縁の深さもすべて異なるのだ」と仰せになった。

伝法が円満となり、参会者は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは開示くださった。「法本を外部に流出させてはならない。討論してはならない。海外の弟子に注意する。録音録画をしてはならない。書き留めてもならない。経典や法本を持ってきて、偉そうに他人を教えたりなどしてはならない。このことは守れていないだろう。特に出家衆はこの点に特別に注意するように。覚えているなら覚えておき、覚えていなくとも聞きに来なくとも良いし、兄弟子に聞いてはならない。兄弟子に聞くなら、それはその兄弟子がそなたの上師だということになるのだ。特に、そなた達出家衆は、経典や法本を用いて、中身の解説など決してしてはならない」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いてアキ護法と回向儀軌を修持くださった。

法会が円満となり、弟子達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる灌頂、伝法、修法、開示に感謝申し上げ、起立して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを恭しくお送り申し上げた。

« 昔の法会開示 – 法会開示へ戻る – 新しい法会開示 »

2017 年 03 月 28 日 更新