尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年2月8日

旧暦の正月であるこの日、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥仏法センターで午前の白度母仏像開眼、黒水財神法会と午後の『三十五仏懺』、大象財神法会を御自ら主持くださった。

午前9時30分、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ白度母仏像開眼、黒水財神法会を主持くださり、参会者に貴重な仏法の開示を下された。

今日午前中はまず白多羅仏像を開眼申し上げる。昨年(2015年)リンチェンドルジェ・リンポチェの母は病に罹った。リンチェンドルジェ・リンポチェは母のために福報を積もうと、白多羅仏像をお迎えしたが、母は往生したので、今日は旧暦正月の法会の時間を利用し仏像を開眼申し上げる。チベット仏教の伝統では、新しい仏像をお迎えする、或いは道場の使用を開始する際には、開眼儀軌を執り行う。そなた達が道場で目にする仏像は、仏菩薩を代表している。だが、開眼を経ていない仏像は基本的にはただの一個の物だ。仏像ではあるが仏法の真義を備えていない。つまり磁場が異なるのだ。そなた達の言葉で言えば、どうすれば仏の磁場をそれに付けられるのか?そのため、仏像に装蔵申し上げるのだ。普通は内部に多種の薬材と経文を入れる。そして、具徳の修行者が清浄本性で修法し、仏像を開眼申し上げた後、本尊にご降臨賜り、仏像は仏菩薩と相同の清浄な法性を備え、道場において仏菩薩を代表する仏像となられるのだ。『心が清浄なら、仏像も自然に清浄となる』との言葉があるが、これは正しいのだ。ただ、三地以上まで修めた菩薩でなければこうではない。外型は仏像のようでも、開眼の手順を経ていないなら、ただの物に過ぎず、道場で信衆の頂礼を受けることはできず、幽鬼が恐れることもなく、幽鬼がそれに取り憑くことさえある。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自称学密人が手にした数珠に幽鬼が取り憑いているのを見たことがあるし、タンカに幽鬼が取り憑いているのを見たこともある。寺廟内には幽鬼はいないと思っているのではないか?寺廟内にも幽鬼はいる。寺廟内に幽鬼がいるかどうかは、寺廟の住持が清浄な修行人か、守戒しているかに関わっている。仏像が開眼を経ていないなら、仏像が清浄かどうかを確かめることはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏像に良くないものが取り憑いているのを見たこともある。これは、その仏像を造った時の製作者の心が清浄でなかったか、仏像の輸送の過程で何かが起きたからだろう。これはとても複雑だ。

白多羅は観世音菩薩の淚の化身であられる。観世音菩薩は衆生の輪迴の苦を目にされ、ふた粒の淚をこぼされた。一粒が緑多羅になり、もう一粒が白多羅になったのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、修法を始めようとした時、壇城法務を司る方という姓の弟子が、白多羅の法本を予め準備していなかったことに気づいた。しかもその時になって何度も探し、それでも法本が見つからず、リンチェンドルジェ・リンポチェの指示でようやく見つけられたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子を叱責した。今日白多羅仏像を開眼申し上げると伝えてあったのに、法本さえも準備していないとは!この弟子はいつまで経っても改めない。何かを尋ねれば、『以前白多羅を修めた時には本尊の法本は不要だった』などと必ず口ごたえする。リンチェンドルジェ・リンポチェは叱責した。以前は不要だったからと言って、今回も準備が不要だとは言えない。なぜ尋ねないのか?思い上がっているからだ。以前は不要だったとしても、この法を修めると事前に知っていたなら、予め準備していたところでどうだというのだ?リンチェンドルジェ・リンポチェは嘆息を禁じえない。この弟子は旧暦正月から三十日まで叱責したとしても、やはり改めないだろう」と仰せになった。

続いて白多羅仏像の開眼儀軌を執り行われた。

開眼儀軌の円満の後、リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて開示を下された。「寶吉祥仏法センターは非常に清浄な道場だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、道場から一銭足りとも支出を受けたことはこれまで一度もない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自身も壇城を持っているので、道場のは用いていない。道場はみなのものだ。道場の必要経費はみなが共同で護持し維持しているが、道場の護持を忘れている者もいる!道場の收支はすべて公開されており、透明性が高く明確だ。每月道場の収支項目は後ろの掲示板に貼って公開している。誰か見たことがあるか?道場の経費が十分かどうかは、そなた達自身の事なのに、みな全く関心を払わない。自分は毎月ちゃんと護持しているのだから、お金が十分かどうかは自分とは関係がないと思っており、自分の住宅ローンのことしか頭にない。掲示板上の収支項目を見たことがある者は20人に満たないだろう。誰も関心を払わない。すでに護持しているのだから、経費が足りないなら、理監事が通知するだろうと思っている。法会に参加するすべての弟子は、使用者が費用を負担するという原則に基づき、每月道場を護持しなければならない。この道場に一歩足を踏み入れただけで、金を払わなければならないのだ。トイレに一度行くだけで、水道料金に電気料金も払わなければならない。これらはすべて基本的な支出だ。

以前『常住を侵損したら、死後に地獄に堕ちる』と開示した。『侵損常住』とは『常住のものを盗む』というだけではない。これらも含むのだ。罰として護持を供養できない人もいる。10年にもなるのに、まだ許しを求めに来ない。この者らは、他の者たちにどれだけ借金しているのだ?これも『侵損常住』の一種だ。道場護持は弟子が行うべきことなのに、なお理事達に面倒をかけなければならないのか?理事達が前に出て、わざわざそなた達に言わなければならないとは。道場を護持する金がないなどと言わないことだ。ほんとうに金がないなら、組長に言うがよい。組長から、リンチェンドルジェ・リンポチェに報告があれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは状況に応じて助けるだろう。10元でもよいのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに10元さえもない等と言ってはならない。理事達を悩ませ、組長が電話で催促しなければならないとは。今月の道場護持を忘れていないかとの組長からの電話を受け取ったことがある者は、手を挙げよ」と仰せになった。その場で弟子が数人挙手した。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示なされた。「この後修める財神法は、これらの者達とは無関係だ。

続いては黒水財神を修める。顕教では、黒水財神を修めることはない。黒水財神は蓮花生大士が御自ら伝えられた岩伝密法であり、蓮師が直接本尊に伝法をお願いされた法だ。経典には記載はない。黒水財神を修めれば、もともとそなたのものであった財が戻ってきて、学仏の資糧となる。過去世で布施供養の心が十分に堅固でなかったなら、この一世の金銭は不安定となる。かつて悪を為し、或いは皈依後に不持戒、破戒があれば、この一世の財は切り取られ、減損し、減ってしまう。しっかり聞くように。減損してしまった財を補ってやるのであって、別に余分に与えるのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェのように、すべてを衆生に利益するのでなければ、もともとの財より多くなることはない。だが、補ってやる財は、学仏に用いるためだ。贅沢に、楽しく日々を暮らさせるためではない。我々のこの一生のすべての福と持てるものは、過去世での供養布施から来たものだ。今日、黒水財神を修めるのは、そなた達に大儲けをさせるためではない。そなたが為した悪業がそなたの財を阻害している。その阻害を取り除き、あるべき財を得させてやるのだ。

黒水財神は密宗の護法であられる。財神は護法部に属する。密宗の財神には黒白紅黄緑の財神がおられ、世間でいうところの五路財神或いは五鬼運財ではない。黒水財神を修めるのは簡単ではない。なぜなら黒水財神の本尊は不動仏なので、法本には、黒水財神を修めるには、先に不動仏と相応するまで修めなければならないとある。『宝積経』には、不動仏を修めるにはどのようにする必要があるのかとの記載がある。経典には非常にはっきりと書かれているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェには修行上の経験があるので、少し見ただけでどうすればいいのかが分かる。つまり、不動仏を修めるには、瑜伽部或いは無上瑜伽部まで修めなければならないのだ。黒水財神を修める道場はほとんどない。なぜなら、不動仏と相応しなければならないからだ。不動仏は又の名を金剛仏と申し上げる。金剛部だということが、これで分かるだろう。黒水財神は観音菩薩の護法の一人でもあられる。そのため修法者は、本尊と相応するまで、観音法門を修めなければ、黒水財神はお越し下さらないのだ。空性の慈悲心がない者が黒水財神を修めても、財神はお越しになってもちょっと覗いただけで、すぐに去って行かれる。だが、ちょっと覗いてくださっただけでも有用だ。仕事がないということも、食べるに事欠くということもなくなるだろう。菩薩道を修めないなら、黒水財神はそなたとは無関係だ。

黒水財神は八地の菩薩まで修められた覚有情の衆生であられる。成仏するまでは、菩薩もやはり有情衆なので、やはり無明があるため、先ずは不動仏を修める必要があるのだ。不動仏に調伏をお願いし、これにより黒水財神は広大な空性の慈悲心を生起する。さもなくば、黒水財神はそなた達になど構っては下さらない。今日修める黒水財神は息懐増誅中の『増』法に属する。法本には『祈求財神大悲化身済貧窮』とある。黒水財神に、空性の慈悲を億万分身に変えて窮苦の衆生をお救いくださるよう祈るのだ。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェのように空性の慈悲心を用いて供養することはできないが、少なくとも続けていくことはできる。

密宗では財神法を修めて財を求める、という人がしばしばいるが、実はこの考えは正しくない。人はこの世界では必ず財を用いざるを得ない。物を食べたり、どこかに住んだり、出かける際には交通手段を利用する。これらすべてで財を用いる。皈依受戒するにも福報が必要だ。そなたのこの一世に財があるのは、過去世で布施供養しいくらかの福報を累積したからだ。経典には、人は四種の状況で死ぬ、とある。一つ目は、財があり寿があって死ぬ。つまり非業の死だ。これはみな知っておろう。今回の台南大地震では8秒間でたくさんの人が亡くなった。二つ目は、財があり寿がなく死ぬ。リンチェンドルジェ・リンポチェの母はまさにこれだ。寿縁が尽きたので往生したのだ。だが、母の最後はたくさんの人がそばについており、良いものを用い、出棺時も一切非常にスムーズだった。つまりこれに属するのだ。母は一生供養布施を知らなかったが、自分に尽くしてくれた人には必ず心付けをした。三つ目は、寿があって財がない。金を惜しんで供養せず、餓死してしまう人だ。四つ目は、財も寿もなく死ぬ。これは説明するまでもないだろう。つまり福報を使い切ってしまったのだ。

学仏閉関にも財が要る。閉関時には誰かに資糧を提供してもらわなければならない。これも財の一種だ。ミラレバ尊者の閉関の際には非常に大変だった。なぜなら、ミラレバ尊者は一生でたくさんの人を殺し、一生財に恵まれなかったからだ。そのため閉関時は食べるものがなく、植物の種子を食べるしかなかったので、全身が緑色に変わってしまった。ミラレバ尊者は一生ひどく貧窮していた。マルバ尊者がミラレバ尊者に伝法しようとした時、ミラレバ尊者はマルバ上師に供養しようとしたが、供養できるような貴重なものを何一つ持たなかった。その際マルバ尊者の明妃が、御自分が身につけておられた小さな紅珊瑚を外してミラレバ尊者に与え供養させようとした。ところが、マルバ尊者に厳しく叱責されることとなった。なぜならそれはミラレバ尊者のものではなかったからだ。経典は我々に教えている。供養は必ず自分のものを用いて行わなければならない。借りたり、騙したり、取り上げたりした金で供養してはならない。また、供養するよう他人を脅すこともならない。最近、家を抵当に出して借りた金を供養した弟子がいたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らなかった。供養は金額の多少に関わらない。供養の心が大切なのだ。供養の心が間違っているなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは二千万元の現金であっても受け取らない。

往生した人を見たことがあろう。往生の状況は一人一人異なる。皈依していなくとも、最後に念頭を起こし、リンチェンドルジェ・リンポチェを信じた者もいる。そして上師を信じたために恭敬心を起こし、恭敬心を起こしたので供養し、供養したので自然に福報ができ、往生時には何の苦痛もなかった。ところがひどく苦しみながら世を去る弟子もいる。これら例をそなた達も見ただろう。それなのにまだ信じないのか!告別式にたくさんの人が参列する。それは福があるからだ。人付き合いが上手く、或いは重要人物だからだ、というのではない。すべては福報の為せる技なのだ。

供養はそなたの福報を累積してくれる。だが、何も求めない心で行わなければならない。供養とは交換条件を提示するものではない。上師に供養したので、上師は必ず自分に伝法し、自分の病を癒し、自分に仕事を与えなければならないと思っている人がいる。これらはすべて買売だ。真心の供養ではない。このような人が非常に多い。金が儲かったら供養しようとみな言う。仏菩薩がそなたに金儲けをさせてやったなら、どんないいことがあるのだ?本当に金儲けをさせてやったなら、そなたは每月の收入の一定割合を決まって仏菩薩に供養するのか?そうではないだろう?真の供養心がないなら、供養の機会さえも与えない。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつてある信衆を助けたことがある。この人は奇妙な病を患っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、病院に行き、医者に掛かる金がない人を助けるよう伝えた。ところが二ヶ月経っても、この信衆は、金に困っている人を助ける機会がなかったのだ。これも福報がないためだ。なぜか?なぜならこの人には、他人を助けようという心がないので、布施の機会さえも与えられないのだ。

家庭に計画があるので、という人もいる。家庭に計画、経済的な計画がない者などいるだろうか?住宅ローンを返済し終わったら、子供の学費が必要なので、などという者もいる。リンチェンドルジェ・リンポチェもこのような状況を経験したことがある。リンチェンドルジェ・リンポチェは家賃の支払いに充てなければならなかった金を、先に道場の護持に用いた。そして家主に事情を伝えた。息子の学費を払う金がなかった時も、やはりなんとかして花を買い供仏しようと考えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、そなた達とは違う」と仰せになり、リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを交えた口調で仰せになった。「息子は学問に向いていないと分かっていたので、学費をひとまず払わなくともよい、と思ったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて7、8ヶ月失業していたことがあった。その頃リンチェンドルジェ・リンポチェは仕事が見つかりますようにと緑多羅に祈ったが、仕事が見つかり最初に給料が支給された時、それを全額供養した。言行一致でなければならないのだ!そなた達はどうだ?できるか?そなた達は、二ヶ月住宅ローンが払えないだけで大騒ぎだ。ようやく給料がもらえたなら、急いで住宅ローンを払い、子供の学費を払うだろう。初めての給料を全額供養するなどできるわけがあろうか?供養することで、住宅ローン返済の金がなくなり、子供の学費に充てる金がなくなると恐れている。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を信じ、観世音菩薩の仰せを信じているので、真心で学仏するなら、衣食住で困ることはないと信じているのだ。

以前みなに話したことがある、あの、收入の二十分の一を供養に充てている医者である弟子は、每月一万元供養する。彼にとっては、供養しないのも申し訳ないので行うに過ぎない。余った金で供養布施しないでほしい。この弟子は、金を貯めようと思っているのだ。貯金をしてはならない、との記載は経典にはない。仏は最初から我々のために用意してくださっているのだ。收入の五分の一を貯金し、五分の一で供養し、五分の一は自分で用いよと我々にお教えくださっている。金を全て使ってしまえとは仰せでない。リンチェンドルジェ・リンポチェも貯金をする。貯金してどうするのか?いつか他の衆生を救うのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王に舍衛城で80万元米ドル供養申し上げた。これは覚えている金額だ。他にもたくさん供養したが、金額はすでに覚えていない。リンチェンドルジェ・リンポチェはできるのに、そなた達はなぜできないのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェにとって、金銭は出入りするものだからだ。そなた達のように、自分はたくさん貯金したのですごい、などと思っていない。たくさん貯金したので金持ちだ、というのではない。なぜ台湾は不景気なのか?それは、みな金を使わないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、2015年台湾の貯蓄総額が上昇したとのデータを目にした。つまり、みな金を持っているのだ。だが使わず、銀行に預けているので、最後には自分に害が及んでいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは過去の仕事の経験で、金融に関する常識が少しある。貨幣価値は下がるもので、マネーの値打ちは下がるものなのだ。2015年台湾元は6%値下がりした。医者であるあの弟子が100万元貯金していたなら、100万元から6万元減ったのだ。もしこの6万元で布施供養していたなら、どんなに良かったことか!

金の問題について言っているのではない。心構えについて言っているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが今回の地震でいくら寄付したか知っているだろう。350万元だ。道場からは50万元だけだ。そなた達がみな金を出したがらないのを知っているからだ。50万元を1500人で均等に負担すれば、一人たったの三百元あまりだ。なぜ寄付しなければならないのか?それは我々の道場組織もある程度の規模を備えているので、世間の人が見ているからだ。そのため、世俗の善もやはり行わなければならないのだ。

食の面で節約できる、と多くの人が言う。これが十数年前ならそうだろう。なぜなら、かつてのものはすべて、真に天然の食材を用いていたからだ。だが、現在では不可能だ。物価が上がり、人件費も上がり続けている。安い給料では店員を雇えないのだ。商売をするなら利益も上げなければならない。そなたが金儲けをするなら、他人は金儲けができないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェの会社を例とすると、毎日従業員に支給している弁当は、かつての100元から今では110元に値上がりしている。ここにいる者たちは、こんなに良い弁当を一食でも食べられるか?しかも、この代金は従業員の給料から差し引くのではない。基本給に諸手当を加えた給料ではなく、すべては別に支給する賞与なのだ。理屈から言えば、110元まで出さなくとも、70元でも、レストランは弁当を用意できるだろう。だが70元では、どんな食材を使っているか分かったものではない。どのようなレストランであろうと、利益をあげなければならない。利益をあげないにしても、やはり水道料金や電気料金や家賃は払わなければならないだろう。家賃と言えば、リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに分からなくなってしまった。食事を提供しているこの弟子に代わり、何年家賃を払っているのか?」と仰せになると、ある弟子が「4年です」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示なさった。「每月三万元余りの家賃を加えれば、弁当一個の値段は110元どころではない。つまり、リンチェンドルジェ・リンポチェがレストランに支払っている弁当の代金はすでに110元を超えているのだ。なぜ従業員に良い物を食べさせるのか?それは従業員が良い物を食べれば健康になり、健康であれば何事もよくでき、会社にとっても良いからだ。だが、世間の人は布施を惜しむ。このようにできる会社経営者がどれだけいるだろうか?

リンチェンドルジェ・リンポチェは世界中を巡っている。台湾は美食のパラダイスと呼ばれるが、本来なら台湾にもミシュランの星付きレストランがあってもおかしくないはずだ。なぜ今に至るも一軒もないのか?それは経営が続かないからだ。台湾人はミシュランの星付きレストランへ行けば、高いとケチをつけるだろう。台湾人は、食べるなら安くなければならず、吐くほどお腹いっぱいに食べなければ満足しないのだ。ある弟子は、わずか100元で十全大補湯(薬膳スープ)を買いに行っている。この弟子は、野菜料理レストランへ行って補湯を飲むのが惜しいのだ。また、良質の漢方薬を買いに漢方クリニックへ車で行くのが面倒で、或いは漢方クリニックの漢方薬は高過ぎると金を惜しんでいる。100元で良い漢方薬材が手にはいるだろうか?不可能だ」と仰せになった。その場で漢方医である弟子が「100元では十全大補湯の良い薬材を買うことは不可能です」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示された。「十全大補湯は10種の漢方薬材を用いる必要がある。一つの薬材が10元だとすれば、それは良い薬材だろうか?100元で薬材店も利益をあげなければならないのだ。50元の利益をあげ、そこから水道料金、電気料金、家賃を差し引く。50元しか残らない。あれもこれも差し引いて、どんな薬材が買えるというのだ?この弟子が、100元で道場を護持したなら、道場の経費は100元増えるのではないか?」と仰せになった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは黒水財神の修法を始められ、出家弟子衆が衆生を代表し、マンダを献上する供養儀軌を行った。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示なさった。「法本には『黒水財神を修める人は、護法の助けがあるので、物事を満願できる』とある。尊勝なる直貢チェツァン法王が『リンチェンドルジェ・リンポチェが行おうとする事はすべて満願となる』と仰せになったのも、このためだ。『リンチェンドルジェ・リンポチェが少し心念を動かしさえすれば物事はすぐに実現する』と教派のたくさんの長者も仰せになっている。もちろんこれらすべては衆生に利益し、仏法事業を成就させる事だ」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を開始され、「リンチェンドルジェ・リンポチェが持咒を始めたら、黒水財神に加持をお願いし、或いは六字大明咒を持誦するように」と開示された。

修法が終了し、リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて開示をくだされた。

「黒水財神の修法は急いで行う。なぜなら必ず午前中に修法し、正午前には終了させなければならないからだ。他の財神にはこのような決まりはない。先ほど言った方という姓の弟子が、少し前、駐車場にいた時、ちょうど数人の弟子も行っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の弟子にカバンを道場に持ってくるよう指示した。すると、この方という姓の弟子のいつもの悪い癖が現れた。他人に命令したがるのだ。道場に戻った後、本来ならば彼自身がリンチェンドルジェ・リンポチェの休憩室に来なければならなかったのに、別の弟子に指示して行かせた。リンチェンドルジェ・リンポチェが、自分の入室を禁じていると思ったというのだ。上師がどうしようとしているかを自分勝手に詮索したのだ。この弟子とその妻は真に学仏に来ているのではないと、リンチェンドルジェ・リンポチェはとっくに見透かしていた。この夫婦はかつてリンチェンドルジェ・リンポチェに家を供養しようとしたが、リンチェンドルジェ・リンポチェはとても受け取れなかった。10年前のことだ。その家は、現在の不動産価格なら少なくとも一千万元にはなる。彼らが皈依したのは、家庭の平安、快適な暮らしを求めるためで、真に学仏するためではなかった。先日彼にドマのことを尋ねると、ケンポスがすでにチェックし問題ないと言っていると答えたのだ。まさか彼は、ケンポスでも、リンチェンドルジェ・リンポチェが大丈夫だと言わなければ、大丈夫ではないということを知らないのだろうか?どう言っても改めない。彼のこのなんでも口答えする悪習はすでにしっかり根付いてしまっている。改められないのだ。

特賞を引き当てたあの男性弟子は、みなに食事をご馳走する理由を同僚に言ったが、みなはそれを聞き恐ろしくなった。会社の従業員の大部分は若い女性だ。彼は同僚に、今日食事をご馳走するのには理由がある、と言ったというのだ。このように何やら曖昧に言ったというのだ。徐という姓の弟子は男性で妻がおり、荒々しい性格で、身体にいつも袋をかけて行ったり来たりしている。みなどう思うだろうか?そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェは社員に、彼に食事をおごってもらうのを禁止したのだ。彼は皈依してこんなに長くなるのに、なぜなお病に罹るのか?それは福報がないからだ。この弟子はもったいないと思っているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがくれた20万元は使えないと思っている。だが、食事をおごるなら、自分で別に金を出さなければならない。彼とその妻はすべて同じだ。ちまちまと損得にこだわる。とにかく損したくない。一家揃ってこうだ。

学仏に皈依すれば餓鬼道に堕ちないなどと思わないほうが良い。吝嗇の果報で次の一世には餓鬼になるだろう。水であっても飲めない。痰しか飲み込めないのだ。そなた達は仏法を聞いたのでいくらか福報があり、鬼になっても大便は食べられるだろう。肥溜めにはたくさんの鬼がいるとの古人の言葉を聞いたことがあるだろう。これはほんとうだ。金があれば大旦那だと思い、人に傅かれて偉そうにし、自分に仕える人を雑に扱い、またはほんのわずかの金のことで大騒ぎする人がいる。

リンチェンドルジェ・リンポチェの企業グループで働いている者でも、リンチェンドルジェ・リンポチェに注目してもらおうと、張り切って出しゃ張る人がいる。自分は頭が良く、特別だと示そうとする。驕っているのだ。そなた達はみな、傲慢なことこの上ない。すべての仕事を一人にやらせれば、疲れ果ててしまうではないか!仕事でパフォーマンスを上げたりすると、あの人はできない、うまくやっていない、首にすべきだ、などという。

グループの宝石店で働いているある弟子は、少しの頭金を払えば品物の受け取りは二年後でも良い、という便宜を客に図ってやった。みな知っておろう。宝石は価値が上がるのだ。他は置いておいて、ダイヤモンドだけについて言っても、每年10%ずつ決まって上がっていく。翡翠ならなおのことだ。この客も弟子だ。まったく有りえない。別の宝石店で、頭金を払えば品物の受け取りは二年後で良い、というふうにしているなら、リンチェンドルジェ・リンポチェも必ずこのようにするだろう。だが、そうではないではないか!この客は欲深いのだ。そして、経営者を舐めている。店内のインテリアがすばらしいので、経営者の資金は十分だと見て、少しの頭金を払いこの翡翠をキープし、自分の金が十分になったところで、二年後に買うというのだ。布施供養の心がまったくない。宝石店で働いているこの弟子は、オーナーの同意を得ずに、業績が良くなると考え、客にこのようにさせると勝手に決めた。普通の経営者ならどうだ。この事を知れば、店員とこの客との間には何か特別な関係があるのではないかと勘ぐるだろう。店の他の二人の従業員まで彼女に同意したが、これこそ悪の共業だ。この二年間、この宝石は他人に売れないということを考えたことがあるのだろうか?少しでも早く売ってしまえば、得られた金でもっとたくさんの事が行えるのではないか?この従業員はこのようにとにかく役目を果たせばいい、という程度の心構えで物事を処理し、傲慢に自分勝手で、経営者の立場に立って考えていない。会社には会社の決まりがある。オーナーはリスクを負担しなければならない。彼女の給料を二年経ってから支給しても良いのか?これが受け入れられないなら、ではどうして客は二年後に代金を支払えば良いのか。

リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女らに雑に扱われたと言って怒っているのではない。彼女らがオーナーをいじめるのは、もともといけないことだ。我々はオーナーに対して感謝の心を持たなければならない。経典では、普通の人をいじめても地獄に堕ちるという。それがリンポチェならどうだ?そなた達は勤めていてもこの有様だ。決まりを守らない。何かをするにも先に尋ねるということをしない。方という姓の弟子と同じだ。自分の考えで事を行っている。分からない、はっきりしないなら、聞けばいいではないか!会社を大切にしないなら、上師も大切にしないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの事をずっと知らなかった。この従業員をずっと信じており、彼女らがこのようにリンチェンドルジェ・リンポチェを軽んじているなど信じられなかった。だが、この事が明るみに出て分かった。昨年(2015年)宝石店で働いていた弟子が過ちを犯し、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分を罰するため、自主的に一ヶ月営業を停止した。それなのに、彼女らは今になってもこのざまだ。宝石店で働いていたもう一人の弟子はなぜ辞めたのか?それは彼女が、したいようにして、宝石店を自分の家のようにしていたからだ。そのためしばしば叱責されていた。それで、彼女は恐れ、辞めたのだ。しばしば叱られる人がいる反面、なぜ叱られない人もいるのか?会社の規定をしっかり守って事を為していさえすれば、どうして叱られるだろうか?

この方という姓の弟子は口答えをせずにはいられないのだ。すでに習慣になってしまっている。この種の習慣は彼の死に際にたくさんの苦しみをもたらすだろう。なぜ尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェは自然に修められた、と仰せになったのか?尊勝なる直貢チェツァン法王が仰せの事は、リンチェンドルジェ・リンポチェはなんであっても必ず行う。リンチェンドルジェ・リンポチェがたとえこの事をやっていないとしても、尊勝なる直貢チェツァン法王がやっている、と仰せになれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず受け入れる。彼ら二人が叱られている、と思っているだろうが、実はこの場にいる一人一人がみな同じなのだ。そなた達はみな三国時代の楊修だ。『一人で一口に食べろ』の故事のように、思い上がっている。会社で何かを行う時、分からなければ聞けば良いのだ。分からない事があるなら聞くように、とわざわざ方という姓の弟子に伝えていたのだ。それなのにやはり聞かずに、自分の考えで行ってしまう。リンチェンドルジェ・リンポチェは最近ある仏寺の手伝いをする必要ができたが、リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり尊勝なる直貢チェツァン法王にお伺いを立てた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、物事が完璧ではないと感じた時には、尊勝なる直貢チェツァン法王にお尋ね申し上げるし、或いは何かを行う時には必ず尊勝なる直貢チェツァン法王にご報告申し上げる。なぜならこれが尊重だからだ。

三宝に不恭敬なら、臨終時に上師、仏菩薩がそなたの面前で助けようとしても、そなたは気づかない。この場にいる者はみな、今はのんびり日々を過ごしている。上師、仏菩薩がそなた達に安穩な日々を過ごさせてくれているのに、なぜまだ自分の行為を改める決心を下さないのか?尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日修めている、と仰せになった。そなた達はどうだ?自分は皈依したので地獄には堕ちないと思ってはならない!法輪常転とはどういうことか?学仏人が仏の仰せに従って行い修めて、初めて法輪を常転させることができるのだ。そなた達が回転させるのだ。仏菩薩ではない!上師は教えることしかできない。そなたに代わり修めることはできない。自分自身で行わなければならないのだ。平和に日々を過ごしているなら、しっかりと修め、そなたの身の上の仏法の体現を人々に示さなければならない。仏法が常転するには、そなた達が回転させるのだ。仏法を日常生活に真に根付かせることを皆が願わないなら、それはこの世界が仏法を求めていないということで、法輪は動かない。アフガニスタンはかつては仏教伝来の重要な地方だったが、現在衆生は仏法を求めていないので、大仏さえも爆破されてしまった。

上師として、そなたのためにこんなにもたくさんの事を行い、こんなにもたくさんの仏法を教え、こんなにもたくさんの法を修めているが、そなたの善縁を増やすことしかできない。だが、そなたが自分で毎日行い、毎日自分の心を改めれば、善根を深く根付かせることができるのだ。さもなくば、善の種子は風に吹かれて飛んで行ってしまうだろう。そなた達は現在は悪念を深く根付かせている。その根は非常に深い。リンチェンドルジェ・リンポチェは今になっても毎日自分を見つめ、自分の心を検視している。

今日は旧暦の正月だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり叱責する。今日は旧暦正月の法会に参加したので何か良いことがある、などということはない。寶吉祥道場にはタブーはない。いつでも同じように叱る。リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達に対して腹を立てている、などと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは嗔念を起こさない。腹を立てることはない。怒れば、経典で言うところの悪口を言う人になってしまい、地獄に堕ちる。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェがその人を叱ればその人に利益することになるのではないか?叱るのは、そなた達が良くなることを願ってなのだ。

台南で大地震が発生した。だが、そなた達は何も感じないようだ。或いは自分はリンチェンドルジェ・リンポチェの加持が得られたので大丈夫だった、と思っているのだろうか。だが、菩薩道を修める者にとっては、あのような惨状を目にすればとても辛く感じる。辛く感じるのは、亡くなった人がいるからではない。因縁福報がなく、仏法の救いを受けていない衆生がやはりいるからだ。なお、こんなにもたくさんの衆生が学仏の必要に気づいていないのか?今回の災害から分かる。経典では、ビジネスを行う際に手抜き工事をした人は死後地獄に堕ちるというが、それはまさにこれだ。理屈から言えば、台湾ではこんなにもたくさんの人が学仏しており、こんなにもたくさんの仏寺があるのだから、この種の重大な災難は起きないはずなのに、なぜ発生したのか?それは学仏の方向で、正しく行っていないところが必ずあるからだ。この種のことが起きたなら、皆揃って台南に行ってボランティアをするというのではない。そなたの周囲に必要があればいつでも手助けをするのだ。これも一種の布施だ。

現在安穏と暮らせていることこそ福報だ、などと思ってはならない。現在安穏と暮らしているのは、反対に悲惨なのだ。なぜならそなたの福報を使っているからだ。そのため絶えず福報を累積し続けなければならない。供養布施法門を絶えず行っている人は健康だ。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは、道場には貧しい人が多いというのか?彼らに金がないのではなく、もったいなくて布施供養できず、心が貧しいのだ。真の貧しさは世間の金銭財産ではなく、少しの法財もないことだ。心中に法財があれば自然に供養布施を行うことができる。供養布施とは、上師がそなた達の金を狙っているということではない。供養布施は一種の法門なのだ。どのように行い、修めるのか学習しなければならない。今日はそなた達にこの法を修める。これで、そなた達は布施できるようになるだろう。

自分は毎日持咒し、大礼拝を行い、献マンダをしているが、これこそ修行だと思っている人がいる。これらは少しの助縁にすぎない。真の修行ではないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは『不共四加行』を弟子に伝えた。大礼拝、百字明咒、献マンダを修め終えたので、『上師相応法』を伝法してもらえると思っている者がいる。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは『上師相応法』を伝えない。それはリンチェンドルジェ・リンポチェが観察を続けているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず伝法しなければならないと誰が言ったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ伝法しないのか?それはそなた達がまだ菩薩道を行っていないからだ。宝石店で働いているあの弟子は菩薩道が行えていない。二年後に翡翠を入手するというその弟子も菩薩道が行えていない。あの黄という姓の弟子も菩薩道が行えていない!『上師相応法』を伝えられれば、密法を学ぶことができる。そなたがしっかり学仏しないなら、行えないなら、『三昧耶戒』を簡単に破ってしまう。『三昧耶戒』を破ったなら、生生世世で輪迴を解脱することはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェが伝法しないのは、そなた達のためなのだ。五戒を破っても、別の法門はやり直すことができる。『三昧耶戒』を破ったなら、ただ一つの法門しか救ってはくれない。別の法門ではどうすることもできない。他の人にとっては、輪迴を解脱できなくともどうということはないだろう。だが、学仏人にとっては、これは最も深刻な事態だ。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェが伝法しないのは、そなた達のためなのだ。そなた達が不注意で『三昧耶戒』を破ってしまうのを恐れているのだ。そのため、自分は献マンダを修め終えたので、上師は伝法しなければならないなどと思ってはならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分は功徳が非常に大きいある事を行ったと最近発見した。それは、方という姓の弟子に仕事をさせ、彼の以前の雇用主を非常に大きく助けたということだ。彼は以前一〜二十年間どのように事を為すかを知らなかった。いかにして忍耐していたのかと、彼の以前の雇用主に敬服してしまう。なぜ、そなた達にこのように厳しくしなければならないのか。それは、厳しくしなければ、そなた達に良いことはないからだ。そなた達が三悪道へ向かい、或いはもう直ぐ地獄に堕ちようとしているのを目にして、叱責しないわけには行かないではないか。そのため厳しくするのは、そなた達のためなのだ。叱ることは叱るが、そなた達が学仏の資糧を積む機会が得られるよう、やはり修法はする。福報がなければ学仏することはできない。閉関であろうと金が必要なのだ。每年そなた達のために財神法を修めるのは、金儲けさせるためでも、贅沢させるためでも、安穏と暮らさせるためでもない。もちろん生活の質は良くなり、健康にはなるだろう。だが、閉関時にサポートしてくれる人がいるなど、それは学仏修行の資糧なのだ。

先週土曜日、帰宅して自分を省みるよう、物事そのものを見るのではなく、問題の根本を見つめ、自分の内心の問題を探し出すよう言った。そなた達が過ちを犯せば、リンチェンドルジェ・リンポチェはどこが間違っているか指摘するので、そなた達は以後その過ちは犯さない。だが、なぜなのか、別の事を行い、再び過つ。皈依弟子は1500人いる。リンチェンドルジェ・リンポチェは年をとったので、そなたの過ちに気づかない、などと思ってはならない。そなた達が為した事が、まだ許容範囲内であれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは手出ししない。だがいつか、アキ護法がリンチェンドルジェ・リンポチェに『この者には注意した方が良い』とお教えくだされば、リンチェンドルジェ・リンポチェは行動を開始する。

そなた達はしばしば過ちを犯すが、故意に過ちを犯して、リンチェンドルジェ・リンポチェの注意を引こうという者もいる。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれを知れば、やはり精神と心力を用いてその過ちを糾さなければならない。これも上師の時間と体力を無駄にしている。そなた達に、自分の過ちの根本がどこにあるか検討せよというのは、過ちを検査して再び犯さないようにし、同じ事を為さないようにせよ、というのではなく、この事の背後の真の源はどこなのか検討せよということだ。それこそ貪嗔痴慢疑なのだ。毎日自分を検討せよと言っているのに、この場にいる一人もできていない!自分のどこに過ちがあるのかを検討できないなら、これこそ過ちだ!自分に過ちがないと考えることこそ過ちだ!自分はすべて正しいと考えるのは傲慢だ。この後の正午の休憩時間に、自分はいったいどれほどの過ちを犯したのか考えてみよ。

一年一年はあっという間に過ぎていく。上師の教えは、自分自身で実践し修めるのだ。帰宅後には、自分の学仏の問題をしっかり検討せよ。こんなにもたくさんの人の出入りを容認してくれているのだ。我々のこの道場は、このビルの住民に対して丁重でなければならない。相手の立場に立って考え、我々もこのビルに恩返しをしなければならない。それは当然だ。自分は学仏人なのですばらしい、あらゆる人は自分に譲らなければならない、などと思ってはならない。学仏人が他人に譲るのは当然だ。学仏人なら謙虚でなければならない。午後の法会は2時半から始める」と仰せになった。

法会が円満となり、弟子達は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの修法と開示に感謝申し上げ、起立して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを恭しくお送り申し上げた。

午後2時30分、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは再度法座に上られ、先ず参会の弟子と信衆に『三十五仏懺』を拝むよう指示なされ、続いて「大象財神法」をお修めになった。拝懺前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも参会者に貴重な仏法の開示を下された。

「『三十五仏懺』の法本はどこから来たのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはすでにあまりはっきり覚えていない。この三十五仏のタンカもリンチェンドルジェ・リンポチェが自分で求めたもので、白度母仏像と同じで、道場の金は一銭たりとも使っていない。『三十五仏懺』と三十五仏について、聞いたことがない人が多いだろう。『三十五仏懺』と『梁皇宝懺』、『大悲懺』、『地蔵菩薩懺』は異なるし、拝千仏ではない。『宝積経』の内容に基づくのだ。これは釈迦牟尼仏が御自ら伝えられた懺だ。三十五仏が発した願が非常に大きいので、菩薩道と金剛乗を修める行者を助けることができるのだ。たくさんの仏寺では旧暦大晦日の際、五日間をかけて『千仏懺』或いは『梁皇宝懺』を拝む。『梁皇宝懺』が良くないというのではなく、『梁皇宝懺』は宝誌公が『千仏懺』に基づき書いたもので、いくらかの懺悔の文字が加わっているのだ。今日拝む『三十五仏懺』は釈迦牟尼仏が御自らご紹介くださった方便法門だ。仏菩薩が御自ら伝えられたたくさんの法門は明文化されていない。だが、衆生を救うためには文字で法本を書き出す必要がある。『三十五仏懺』を拝む仏寺は実は非常に少ない。みなどちらかというと、『千仏懺』を好む。たくさんの仏を拝む方が良いと思っているからだ。

『宝積経』は菩薩道を修め、菩薩道を行う決心を下した人の行為を規範する。今日拝む『三十五仏懺』では、上師はこんなにもたくさんの仏法を開示したのに、自分はなぜ聞き入れられないのか?と懺悔しなければならない。自分はこんなに長い間学仏しているのに、なぜ今だにはっきり分からないのか?仏法をなお明確に理解できないのか?と懺悔しなければならない。なぜ、学仏でなお情理に近づけず、進歩しないのか?それは累世の善業悪業が我々を邪魔しているからだ。また、傲慢で我執が重いため、自分の清浄な本性が見えず、清浄な本性が見えないために平等な慈悲心を養うことができず、平等な慈悲心がないため修めることなど不可能だからだ。そのため『三十五仏懺』を拝み、菩薩道を学ぶ上での障礙を圧伏し、消してしまうのだ。障礙を消すのは、そなた自身で修めなければならない。

午前の法会で、リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに方という姓の弟子に警告したが、先ほどまた問題が起きた。上師が法座に上るのを手助けするのは良い事なのに、彼は何を考えたのか、法座後方の狭い側に入り込み、上師はもう少しで法座にぶつかるところだった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼のこの尋常でない挙動に気づき動きを止めた。この弟子は、自分の左手は力が弱いので、反対側へ行けば右手で支えられると思ったらしいのだ。だが、彼は上師が何を必要か全く考えていない!ここのスペースはすでにこんなに狭いのに、突然入り込んだのだ。いつリンチェンドルジェ・リンポチェより痩せたのだ?リンチェンドルジェ・リンポチェは左利きでもない。彼が右手で支えるなら、上師は左手で支えなければならないのではないか?そのためもう少しで転ぶところだった。上師に害を及ぼすことになってしまった。彼がいかに利己的で、自分のことしか考えず、他人を大切にすることを知らないかがよく分かる。ほんとうに進歩がないし、何のために学仏するのかが分かっていない。業障が深刻だ。しっかり懺悔するがよい!

先ほど、リンチェンドルジェ・リンポチェはまたある過ちを捉えた。地下室からエレベーターで上階に上る前に、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子に、朝、黒水財神の修法を終えたが、仏龕のガラスドアは閉めたか?と聞いた。すると彼は直ちに『閉めました』と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェがさらにこの弟子に、その目で見たのか、それとも推測しているのか?と尋ねると、この弟子はようやく『推測です』と答えたのだ。この弟子はこの一〜二十年来すべてこの有様だ。下の者をいじめながら、なんとかして上の者を欺こうとしている。リンチェンドルジェ・リンポチェは今、この弟子を自分のために働かせているのは、とてつもない善行だと感じている。なぜならこの弟子の心構えは正に利己的で自分勝手で、リンチェンドルジェ・リンポチェでなければ彼を教えることはできないだろうからだ。十数年前この弟子夫婦が、内湖にある家をリンチェンドルジェ・リンポチェに供養しようとした時、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの夫婦には悪い癖があることに気づいた。当時は彼らに、子供がまだ小さいのだから必要だろう、とだけ笑って言っておいた。実はリンチェンドルジェ・リンポチェはとっくにこの夫婦を見透かしていた。彼らは真心で学仏を望んでいたのではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェに自分たち一家を守ってもらおう、自分たちが安穏と暮らせるようリンチェンドルジェ・リンポチェを利用しようと思っていたのだ。みなこの弟子は悪人だなどと思ってはならない。彼は自分をsample、example、例としてみなに見せているだけで、実はみなの鏡なのだ。学仏では思い上がって、自分勝手ではならないと、みなに注意してくれているのだ。彼に仕事をさせているのは、リンチェンドルジェ・リンポチェが過去世で彼に借りがあるのだろう。だが、彼は口を開けばまず口答えする。すでにこのような習慣が身についてしまっている。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェに仕えているのだから、彼には福報があると言えるだろう。過ちを犯せば、すぐにリンチェンドルジェ・リンポチェに見つかる。死を恐れない上師が、自分の問題を一つ一つえぐり出す。自分を検討するとは、自分の最も醜いものをほじくり出すということだ。

自分は善人だ、などと思ってはならない。我々は本来悪人なのだ。全身が罪業にまみれていなければ、この世界に投生するはずがないし、この道場で学仏するはずもない。自分は現在皈依したので良くなった、などと思ってはならない。欠点がないなら、人にはならないのだ。尊勝なる直貢チェツァン法王は、今回寶吉祥道場にお越しになり、リンチェンドルジェ・リンポチェは今に至るも毎日必ず修めている、と開示くださった。それはリンチェンドルジェ・リンポチェが絶えず自分の心を改め、自己を検討しているということだ。学仏で最も重要なのは我々の内心世界を改めるということだ。出家の姿をし、学仏人らしい様子をしていたとしても、内心世界が全く改められていないなら、学仏人とは呼べない。在家衆であり、毎日仕事に忙しいとしても、毎日継続して修められるなら、絶えず自分の心を改められるなら、それこそ真の学仏人だ。

釈迦牟尼仏は『宝積経』で、どんな成就まで修めることができたとしても、傲慢の心を起こしてはならない、と何度もご注意くださる。六波羅蜜を修める際の最後の一言にはすべて、傲慢の心を起こしてはならない、忍辱を修めなければならない、思い上がってはならない、とある。少し精進したと思っても、思い上がってはならない。持戒がうまくいっても、思い上がってはならない。少し禅定が修めるられたと思っても、思い上がってはならない。傲慢心を起こしさえすれば、他人を尊重できなくなる。他人を尊重できないなら、当然平等な慈悲心などないだろう。慈悲心がないなら、どんな仏法を教えても、修められる筈がない。我こそは、と考えるのは、正に傲慢だ。自分勝手に行うのも、傲慢だ。自分は累世の習性を改められた、と考えるのも、傲慢だ。自分は他人にいじめられていると考えるのも、傲慢だ。この末法時代は、発願に頼っているだけでは、生死を解脱するまで修めることはできない。そなた達は、しっかり学仏せず、しっかり自分を改めず、しっかり布施しない。そのため、懺悔がよりいっそう重要なのだ。そなた達には懺悔というこの法門しか残されていない!

釈迦牟尼仏は慈悲深くあられ、末法時代には衆生の業が非常に重く、禅定に頼るだけでは開悟できないとご存知であられたので、『三十五仏懺』というこの法門を伝え、菩薩道を修める行者を助けようとなさったのだ。末法時代の今、他の法門ではそなたは救われない。上師の教法に頼って菩薩道を修行するしかないのだ。『三十五仏懺』内の多くの仏の仏号は聞いたことがないだろう。これら仏は累世で菩薩道を修行され仏果を成就証されたのだ。菩薩道を修める行者にとって非常に大きな助けとなる。

法本の第一文は『一切有情恒常皈依上師』だ。それは、一切の有情衆生がみな上師に皈依し、正信仏法を学習できることを望む、ということだ。今回の台南地震では、我々は無常を思考し、心に悲憫を抱く他に、なぜ仏法は、これら苦を受ける人々に利益する機会がまだないのか?について考えなければならない。瓦礫に押し込められている人の中には、一人も学仏人はいないのか、誰も観世音菩薩を拝んだことがないのか?そんなことはないはずだ。だが、なぜ真の作用が起きなかったのか?それは仏法を堅持せず、真に清浄な心で拝まず、ただ加護を求めるだけで、ほんとうに自分を改めず、仏の仰せに従い行わず、拝仏の心構えが正しくなく、欲望を用いて拝んでいたからだ。『普門品』では、真に学仏する人は何を求めても得られる、とある。ここの『求』とは我々の欲望を満たすのではない。前提は『仏子行三十七頌』ができているかということだ『仏子行三十七頌』は観世音菩薩の仏弟子に対する開示だ。そのため、学仏の基本はしばしば自分の身口意がこの『仏子行三十七頌』の範囲にあるかどうかを検討することだ。できていないなら、仏弟子とは言えない。ただの信衆だ。信衆のほとんどは欲望を用いて求める。仏と菩薩は衆生を助ける。だが、仏と菩薩は衆生の業力を変えることはできない。有縁の衆生を助け、業力の干渉を緩和し、しっかり学仏させることしかできないのだ。寶吉祥は直貢噶舉の道場だ。祖師ジッテン・サムゴンの伝承弘揚に努力しなければならない。自分は菩薩乗と金剛乗を学ぶ弟子だというのなら、そなた達の現在の状況は端にさえ触れてもいないとは言っても、上師はやはり一切の機会を捉えて、そなた達に福慧資糧を累積させる。今日拝む『三十五仏懺』は、そなた達に少しの学仏の資糧を積ませるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェがすべての参会者に『三十五仏懺』を拝むように慈悲で開示したなら、自分はなぜ菩薩道を聞き入れられないのかしっかり懺悔しなければならない」と仰せになり、上師に従い三十五仏の名号を持誦するよう出家弟子に指示なさった。すべての参会弟子と信衆は一尊の仏号を耳にする度に、頂礼して拝んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは「後の方は人が多く頂礼できないだろうから、頭をさげるだけで良い」と慈悲深くも指示なされた。頂礼が完了すると、リンチェンドルジェ・リンポチェは参会者に、過去一年に犯した過ちを大声で言い、上師の面前で懺悔するよう開示なされた。参会した信衆と弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲力の攝受の下、誰もが心に慚愧悔悟を起こし、深く懺悔し、嗚咽を漏らす者もいた。最後にリンチェンドルジェ・リンポチェはみなに三拝するようご指示になった。第一拝は諸仏菩薩に対して身口意で懺悔し、第二拝は歷代の伝承上師と現在の上師に懺悔し、第三拝は一切の衆生に対して懺悔する。拝懺が終了し、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示くださり、『三十五仏懺』は円満となった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示くださった。「続いては白マハーカーラの大象財神を修める。白であればすべて息懐増誅中の『息』法に属する。大象財神法本は直貢噶舉の最長老のリンポチェであられるユンカ・リンポチェが御自らリンチェンドルジェ・リンポチェに伝法くださったものだ。ユンカ・リンポチェの上師は、教派の最後の伏蔵師であられた。そのためこの法本は岩伝法に属する。チベット仏教はどうしてヒンズー教の天神を拝むのだ、と批判する人が多い。実はそうではないのだ。大象財神は白マハーカーラの眷属であり護法なのだ。マハーカーラは仏教の護法であり、観世音菩薩の護法だ。

大象財神は、前世では非常に富み寛大な王子だった。この王子はとても布施を好み、誰かが金を求めれば、理由も聞かずに必ず与えた。だが、その金を悪事に使った人もいる。その金を用いて武器を作った者もいる。その金で人を騙した人もいる。この王子がむやみやたらと布施したことで、かえって人に行悪させてしまったのだ。経典では、智慧を用いて行善することを知らない人、お人好し、慈悲の濫用も地獄に堕ちる、という。マハーカーラはこの様子を見ていけないと思い、この王子を殺し、彼の首を落としてしまった。けれども、彼にはなお福報があったので、象の頭を据え付け、マハーカーラの眷属の一人としたのだ。象の頭は、この王子の福報がやはり非常に大きく、力が非常に大きいということを示している。つまりそなた達が求める事は、世俗の願であっても、そなた達が仏弟子であるなら、やはり少しは叶うのだ。そのため行善にも智慧が必要だ。黒水財神と大象財神は異なる。黒水財神は忿怒相を現されており厳格であられる。そなたがもともと得られるべきであった財を遮っている障礙、或いはそなたの財を吸う鬼を押さえつけてくださる。大象財神はそれよりは修め易いが、それは簡単だというのではない。大象財神に世間の財を求めることができるということだ。だが、不法な財はいけない。

大象財神を修める際には、黒沈香を供養すると規定されている。檀香でもダメなのだ。大象財神はこの香りだけを好むので、必ず沈香でなければならない」と仰せになり、リンチェンドルジェ・リンポチェは線香を商っている弟子に「沈香の市価はいくらだ?」とお尋ねになった。弟子は「1斤300万元のものもありますが、良いものだと1斤一千万元を超えるものもあります。今日用いたのは1斤250万元あまりです」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けられた。「寶吉祥道場は福報がある道場だ。リンチェンドルジェ・リンポチェに福報があるのだ。そなた達ではない。頷かなくとも良い。

リンチェンドルジェ・リンポチェが大象財神を修め始め、参会者に大象財神に祈願するよう言ったなら、何を祈願しても良いが、株で儲けたいなどと祈願してはならない」と仰せになった。修法終了後、リンチェンドルジェ・リンポチェは「今日は大象財神のために黒沈香を灯して供養申し上げたが、これで20万元燃やしてしまった」と開示くださった。

この時リンチェンドルジェ・リンポチェは、中国人弟子が今日法会に来ているか?とお尋ねになった。他の弟子が「来ていません」とお答え申し上げた。「先日リンチェンドルジェ・リンポチェは、春晚の番組が終わったら、すぐに空港へ向かうよう告げていたのだ。ところが、彼は自分の前途のためだと言って、春晚の終了後にあちらこちらに行き人と写真を撮り、挨拶し、おしゃべりしている。そしてその後になってようやく、急いで飛行機に乗らなければならない!と言っている。その結果、飛行機に乗り遅れたのだ。これも皈依時に言う『上師と争う』に当たる。これでは、上師の加持を得ることはできない。『上師と争う』とは、口答えし、いいつけに従わず、自分の考えで上師が言ったことを変えてしまうことだ、などと思ってはならない。この中国人弟子のようでも、上師と争ったことになるのだ。彼は、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼が疲れることを心配し、早く離れるよう言ったのだと思ったのだろう。実はリンチェンドルジェ・リンポチェは彼が飛行機に間に合わないととっくに分かっていたが、彼にヒントを与え、チャンスがあるかどうか観察していたのだ。この弟子は来る気持ちはあったが、言いつけに従わなかったのならどうにもならない。今日修める法は彼とは関係がない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは一年に一度しか財神法を修めない。自分も商売をしているが、自分の会社のために修めたこともないし、会社にも店舗にも財神に関わる仏像を安置していない。なぜ財神を修めるのか?それは、そなた達がこの一年で供養布施したので、財神を修めてそなた達に返すのであり、そなた達のためなのだ。これにより、そなた達は資糧ができ、学仏の障礙がなくなる。なぜ一年に一度しか修めないのか?俗に『財多身体弱』という。それは、福報が十分でない人に一度にたくさんの財を与えれば、身体が受け止めきれないということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分は財神を修めれば必ず相応できると分かっている。だが、何も構わず、ひたすらそなた達のために修法しても良いだろうか?ダメだ。それにより、そなた達が『財多身体弱』になってしまう。修めよと言ってもそなた達は修めない、供養せよと言ってもそなた達は供養しない。だが、上師はそなた達のためにやはり財神法を修めるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、グループの従業員で皈依している者に、毎朝『八聖吉祥祈禱文』を唱えるよう指示している。彼らは、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らに福報を累積させ、こうすることで会社に良いのだと思っているようだ。実は、彼らがしばしば間違いを犯して叱責されるので、彼らが叱られなくても良いように、唱えさせているのだ。唱えることで、間違いが少なくなり、叱責される機会も少なくなる。唱えたことで、叱責される機会が本当に少しは減っている。

先ほど正午の食事中、おしゃべりしている時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは計算してみた。ここ数年で、返却した供養は少なくとも5億元はある。なぜ彼らの供養を受け取らないのか?2000万元であっても受け取らない。なぜなら供養の心が間違っているからだ。彼らは交換の心もちで供養している。求めているのだ。真の供養は何も求めないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの仏寺を助けているとの尊勝なる直貢チェツァン法王の仰せを聞いたことがあるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜひたすら布施供養できるのか?それは何も求めていないからだ。すべての心力を自分の娘の身の上に置いている、あの黄という姓の夫婦とは違う。彼らは、娘が大学に行き、博士課程まで学べるよう貯金している。『仏子行三十七頌』では『親方貪心如水蕩』という。『家族は水のように行ったり来たりするもので永遠ではない』ということだ。自分の家族に構うなということではない。尽くすべき責任を尽くせばそれで良いということだ。一部貯金すればそれで十分で、二部は不要だ。急用の際に金があれば応急措置がとれる。仏は人の情に疎いのではない。仏はそなた達の心構えをあまりにもよくご存知で、金が少しでもあるならすぐに貯金してしまうと知っておられるからだ。危機意識を持たなければならないという人がいる。学仏人には危機意識が必要だろうか?一切すべては因果の顕現だ。執著してはならない。

ある仏法故事がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前開示したことがある。ある時一人の国王が釈迦牟尼仏に法会を供養申し上げた。法会の終了後、弟子が釈迦牟尼仏に『今日の法会は誰の功徳が最大ですか?』とお尋ね申し上げた。釈迦牟尼仏は最も遠いところに立っている非常に貧しい身なりの老婦人を指差し『彼女の功徳が最大だ』と仰せになった。弟子は『この老婦人の功徳が最大だとどうやって証明できるのですか?』とお尋ね申し上げると、釈迦牟尼仏は『この老婦人が灯した灯は消えない。なぜなら彼女は隨喜(他人の良い行いを見て、心に歓喜を生じること)の心で、国王がこの法会を催し、たくさんの衆生が参加し、すべての衆生に利益できたことに感謝し賛嘆しているからだ。彼女は国王に対して恭敬と尊重の心を持っている。そのため彼女の供養の功徳は最大なのだ』と仰せになった」と開示された。

続いて、円満マンダを修めるため、出家弟子衆が衆生を代表して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに円満マンダを献上申し上げた。

修法が円満となり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率いてアキ護法と回向を修められた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは開示なされた。「2016年は申年だ。動乱の一年となるだろう。良いことも悪いことも起き、良いことと悪いことが半々の年となるだろう。今になってもなお修めないなら、悪の共業に簡単に巻き込まれてしまうだろう。なぜならそなた達は、自分が累世でどれだけの共業に関わって来たか分からないからだ。人体において肝臓と肺は問題が生じやすい部位だ。注意するがよい。肝臓のためにはなるべく夜更かしせず、肺には空気汚染が良くない。肺と呼吸器の疾病が流行するだろう。投資では、投機であろうと投資であろうと、慎重が一番だ。今年持ちこたえられれば、二、三年後に転機が訪れる。

他国が良くないと言って、一緒になって批評してはならない。特に激しい批判はいけない。周辺国の局面の変化を理解する智慧はそなた達にはない。この国が他国と争えば自分たちにとって得だ、などと思ってはならない。どの国も行うことはすべて自国の利益のためなのだ。批評してはならない。消極的に何も見ないで何も聞くな、と言うのではない。この土地に暮らす人々がみな平和に穏やかでいられるよう我々はみな願っている。だが、自分たちだけが平安でも、他国に戦乱が起きたなら、自分たちとっても良くないだろう。そなた達は、地方行政のトップが気に入らないと言って、すぐに首を挿げ替えようとする。これがダメなら別のに換えようと考える。別のに替わっても良くないし、そなたに替えても、やはり良くない。なぜならみなすべて欲望を抱いて投票しているからだ。この社会は報復の心で満ちている。昨日のニュースにあった。ある家庭で、弟が怒って放火し、5人の命が失われてしまった。ただ、口喧嘩しただけだったのだ。我々は報復の心を減らす努力をしなければならない。社会が穏やかなら、みな平安に日々を過ごすことができる。正法を聞き修習する機会に恵まれたなら、すでに十分の福があるのだ。

一切すべては当然だ、などと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達に対する保護を断ち切ってしまえば、ここにいる半分ほどの人は食に事欠くようになるだろう。自分がどんな善事を行ったことがあるか考えてみよ。何を以って職にありつけているのか?何を以って昇進できるのか?人脈やコネを使って昇進している人たちはもちろん関係ない。他人をすべてなぎ倒し、他人の屍体を踏み越えて登っていく。これはいいのか?この場にいるたくさんの人がやはりこのような考え方を持ってる。他人の顧客が自分より二人多いと見ると、相手を打ちのめしたいと考える。他人の視線が、自分を見下しているようだと考える。他人の一言が、自分を批判し害を及ぼそうとしていると考える。他人のパフォーマンスが良ければ、その人は自分に取って代わろうとしているのではないかと思う。これこそ我執が非常に重い人だ。自分が傷つくことだけを恐れ、自分が損することだけを心配している。感覚と意識を用いて学仏してはならない。他のところでは、観世音菩薩のようですねなどと、いいことしか言わない。だがここでは、そなた達が過ちを犯し、一歩ずつ地獄へ向かっていくのを目にすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず阻止する。

会社に勤めており、その会社が法を犯していないなら、我々は会社の決まりに従い働くべきた。雇われていれば大したリスクはない。会社が倒産しなければ、每月給料を受け取ることができる。だが経営者となれば、リスクを負わなければならない。宝石店で働いているこの弟子は、最初から思い上がりが甚だしかった。他人を見下し、自分は優れていると思い上がっていたので、ひたすら過ちを犯していた。彼女は、方という姓の弟子と同じで、上師に害を及ぼしている。だがその方法は違う。そなた達はみな、リンチェンドルジェ・リンポチェが法座上で言うことだけが仏法だ、聞かなければ、法座を下りて言うことは聞かなくとも良い、と思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは、法座上だとも、法座を下りているとも区別していない。そなた達が区別しているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは何を行おうとすべては衆生に利益するためだ。

一年一年と過ぎていく。あっという間にまた一年が過ぎてしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェはもう長くは生きられない。リンチェンドルジェ・リンポチェはあとどのくらい生きられるだろうか?分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに古稀の年齢だ。そのため、いくらか話がくどくなり、繰り返し注意もするようになっている。数日前ある人が『旧暦大みそかの晚は何を唱えるのか』と聞いてきたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは『何を唱えるかだと?普段、修めず行わないので、そなたの問題は改められていない。何を唱えたところで役には立たない!』と開示した。長く抱えている問題を改めないなら、大礼拝を百万遍やったところで役には立たない!

一昨年(2014年)の交通事故では、リンチェンドルジェ・リンポチェは、これは過去世の果報だと分かった。これこそ修忍だ。経典には、必ず忍辱を修めなければならないとある。忍辱とは、打たれても打ち返さず、罵られても言い返さない、というのではなく、忍耐でも受け入れるのでもない。この一切すべては自分の因果業報なのだと知ることだ。忍耐を用いるなら、これは最悪だ。機会を捉えて報復し、反擊しようとするだろう。今日自分の身の上に起こった事は、必ず自分もかつて行ったことがあり、自分と関係があるのだ。良くない事が起きた時、因果を信じるなら、この業は報いられる。報いが終われば、借りはない。もし受け入れられないなら、反撃しようとするなら、それは二倍、三倍になって加わるだろう。菩薩はなぜ忍辱を修めよと仰せなのか?かつてある大修行者が売春宿に行き度衆したところ、批判と辱罵を受けた。だが、彼の目的はそれら売春婦を済度させることだった。なぜなら彼女達はとても哀れだからだ。そのため、修行人の行為を、そなた達の考え方で勘ぐり、批判してはならない。もちろんこれは、すでに菩薩道を行っている行者についてだ。修行人は因果の面からだけ行うので、当時の風俗と道徳からは受け入れられないこともある。この種の例は過去にたくさんあったのだ。

そなた達は一日中自分の心を放縦し、学仏すれば縛られると恐れている。実は行ってはならない事は、本来たくさんあるのだ。素っ裸で階下に降り大通りを走り回ってみよ。どうだ。自由極まりないだろう?できるか?どうしてやらないのだ?この社会でも、やってはならない事はもともとたくさんあるのだ。現代は非常に自由だなどと思ってはならない。実は自由であったことなど一度もないのだ。そなた達はいつ何時でも因果、業力に縛られている。自由になどなれないのだ。阿彌陀仏のお側へ行かなければ真の自由など有り得ない。考えてみよ。毎日必ず何かを行わなければならないのではないか?苦痛に感じるのは、煩悩から来ているのだ。煩悩は貪嗔痴慢疑から来ている。学仏しなければ解脱の方法、永遠の自由と快楽を得ることはできない。そのため、修める決心を下す必要があるのだ。如法の上師は必ず弟子に取捨の道を教える。現在は馬鹿な人はいない。テクノロジーが発達し、みなインターネットでたくさんの情報を得ることができる。だが、最も重要な生死の問題については一律に分かっていない。どれだけ理解していようと、すべては他所で読んだのであり、聞いたのであり、そなたが真に体得したのではなく、またそなた自身が自ら経験したものでもない。仏法では、衆生は平等だという。仏法の良いところは、そなた達一人一人が自ら体悟できるところだ。上師が教えるすべては、上師が経験したものだ。つまり、学仏とはそなた達自身が行い、自ら体験しなければならないと言うことだ。誰も、そなたと相同の体験をすることはできない。『如人飲水、冷暖自知』と言うように、冷たいか暖かいかは自分だけが知っているのだ。経験を有する上師だけが知っている。上師はそなたを見れば、そなたができているかどうかが分かるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの境界が何処なのか知ろうと考えてはならないと、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示したことがある。なぜなら尊勝なる直貢チェツァン法王だけが知ることができるからだ。知ろうとするなら、それならそなたは尊勝なる直貢チェツァン法王だ。ガムポパ大師は、上師と仏菩薩だけが我々を救ってくださると仰せになった。尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェは上師と仏菩薩の教えに従い、如実に弟子を教導していると評価してくださっている。上師と諸仏菩薩が教える方法に従い行いさえすれば、いつか必ず、もしかしたらこの一世ではないかもしれないが、そのような快楽を体得できるだろう。快楽と言う言葉で形容することはできないかもしれない。それよりは、一種の法喜が感じられる感覚だ。修行がある境界まで至れば、自然に笑みをこぼすだろう。この種の笑みは快楽ではない。何かを得たからではなく、一切すべてを下ろし、肩に担っていた重荷が消えてなくなったように、ある種の煩悩が、押さえつけたのでもなく、それから逃避するのでもなく、真に解き放たれ、束縛がなくなってしまうのを体感できるだろう。それを体感すると、この種の法喜はそなただけが分かり、そなただけが感じられる。『心経』では『観自在菩薩』という。『自在』とは『生死自在』のことだ。禅宗は明文化しないというが、ほんとうに文字がないのか?実はある。さもなくば『金剛経』があるはずがない。その境界は文字の境界中にはなく、文字で表せるものではなく、筆で形容できるものではないということだ。世間の快楽はすべて一時的だ。美しいと褒められたとしよう。だが、どんなに美しくとも、老いることはないだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェの母は、若い時美しくなかっただろうか?」とお尋ねになると、参会者はみな口々に賛同した。「母はとてもおしゃれが好きだった。だが往生前には、頭髮さえ洗いたがらなくなった。母は子供がとても好きだった。子供を見ると、必ず慈愛に満ちた笑顔を浮かべていた。これも一種の布施だ。そなた達のように、誰を見ても気にくわない、というのではないのだ。母には婦徳(婦人が守るべき道徳)があった。もし、母に婦徳がなかったなら、福徳があったはずがない。男性には男性の徳があり、女性には女性の徳がある。違うのだ。男女平等など有り得ない。何から何まで西洋に学ぶ必要はない。行う決心を下さなければならない。自分の能力が少しでも高いなら、よりたくさん他人を助けることができる。真の自由が欲しいなら、生死輪迴を解脱し浄土へいくほかない。浄土であれば永遠の楽を得ることができるだろう。行う決心を下さなければならないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは法喜充満とはどんな感じなのかを既に味わっている。なぜそなた達は行わないのか?

尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法について頑張り通している、と仰せだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、そなた達によく言う。尊勝なる直貢チェツァン法王は普段は朗らかなお方だ。だが、仏法については一切妥協なさらない。一切妥協しないとは、仏法と関連のある事では絶対に譲らず、名聞利養のために衆生に対して媚び諂ったりしないということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはいくらかの有名人を知っている。ビジネスマンもいれば政治家もいる。大財閥もいるし、メディアによく出る著名人も芸能人もいる。彼らはしばしばリンチェンドルジェ・リンポチェと会うが、道場に仏法を聞きに来るというなら、道場の決まりを遵守しなければならない。ある弟子の夫は政治家だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を会社の忘年会に参加させたことがある。参加したいというので、一度参加させたのだが、彼は菜食しない。そのため今日も来られないのだ。来たければ来られる、などと思ってはならない。来たくても来られない人がたくさんいるのだ。そなたは法会に参加し、皈依してリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子になっているなら、もちろん仏菩薩とリンチェンドルジェ・リンポチェが教導する決まりを遵守しなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェがこのように厳しくなかったなら、3000人の弟子であっても問題はなかっただろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェが歌うのを聞いたことがあるか?うまいかどうだ?」とお尋ねになったところ、かつて有名歌手だった弟子が「とてもお上手です」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェの仏法弘揚は名利のためではない。名利のためなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなに歌がうまいのだ。どれだけ有名になっていることか。だが、名聞利養のためなら、信衆を増やし供養を増やすためなら、経典に開示があるように、媚び諂い仏法を捻じ曲げるなら、それはリンチェンドルジェ・リンポチェが行うことではない!リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子を叱責する。信衆の供養のために、そなた達はどれだけの過ちを犯したのだ?なぜまだ懺悔しない!この道場が今までこれほど清浄に維持されてきたのは、住持上師が正信の仏法を堅持してきたからだ。如法の道場であれば、仏菩薩は護持にお越し下さる。

『謗仏』とは仏を罵るのではない。仏弟子にふさわしくない、と他人に思わせる行為をすることだ。尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェの3000人道場の願は実現される、と仰せになった。尊勝なる直貢チェツァン法王は、そなた達とは違う。直貢チェツァン法王が一度口に出されたことは、必ずやり遂げられる。つまりこれは、この場にいる多くの人が淘汰される可能性があるということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは大小眼ではない(贔屓しない)」と仰せになり、眼科医である弟子に「リンチェンドルジェ・リンポチェは大小眼ではないだろう?」とお尋ねになると、この眼科医である弟子は「ありません。リンチェンドルジェ・リンポチェは大小眼ではありません」とお答え申し上げた。チェンドルジェ・リンポチェは開示された。「仮に今日3000人の道場が成立したとしよう。そなた達、今この場にいる者達は彼らの手本だ。そなた達は、今のこのような状況でいいだろうか?

尊勝なる直貢チェツァン法王は寶吉祥道場にお越しになった日に、グループの忘年会に参加なさった。尊勝なる直貢チェツァン法王は喜んでおられた。それは、弟子の一人が毎日修めており、自然に修められ、仏法を離れないからだ。この道場は正法を弘揚している清浄な道場だ。尊勝なる直貢チェツァン法王は寶吉祥仏法中心にお越しになった時、そなた達が『仏子行三十七頌』を唱えているのを目にされ、なぜ歓喜心を起こされたのか?それは、この道場が少なくとも『仏子行三十七頌』を学仏の基準としているからだ。それは、そなた達には救いようがあるということだ。なぜならこれは学仏の根本だからだ。観世音菩薩は慈悲深くも『仏子行三十七頌』をお伝えくださった。だが、そなた達の中にただ暗記のために暗記している者がいるなら、これらの人は学ばない方が良いだろう。そなた達は『仏子行三十七頌』を防護としなければならない。一刻であろうとも離してはならない。毎日『仏子行三十七頌』を用いて自分を検視し、一つでもできなかったなら、それはその日一日仏弟子ではなかったということなのだから、その日は懺悔しなければならない。後になって、リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔するのではない。当日懺悔しないなら、明日また同じ過ちを犯す。今日は帰宅し『仏子行三十七頌』を用いてしっかり自らを検討するように。今日を検討するのではない。今日そなた達は一日中道場にいたので過ちを犯す機会はなかったはずだ。過去一年を省みよ。今日は白度母仏像を開眼申し上げ、みなに修法した。このすべては非常に吉祥である」と仰せになった。

法会が円満となり、参会者は声を揃えて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なる修法と開示に感謝申し上げ、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに新年のご挨拶を申し上げ、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを起立して恭しくお送り申し上げた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、新しい年の始めに苦労を厭わず、朝から晚まで殊勝なる密法を修持くださり、白度母仏像を開眼し、黒水財神と大象財神を修持くださり、参会者を率いて『三十五仏懺』を拝んでくださり、貴重な仏法を開示くださった。弟子衆は上師の教導を遵守し、上師を宝として常に戴き、菩薩道を如法奉行し、『仏子行三十七頌』を如実に精修して行くだろう。上師の御法体が勝妙康で、法輪が常転し、仏法事業が隆盛となり、一切の有情に利楽できることを祈願する!

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2016 年 05 月 28 日 更新