尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年2月6日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、皈依法会を主法くださり、35名の信衆を皈依弟子としてお受け入れくださった。荘厳かつ殊勝なる皈依儀式の円満後、続いて上師供養法法会を御自ら主法くださり、慈悲深くも参会者に貴重な仏法の開示を下された。

今日修めるのは上師供養法だ。修法の前に、皈依を求めていた信衆のために儀式を行った。

前回、尊勝なる直貢チェツァン法王が寶吉祥仏法中心においでになった際『リンチェンドルジェ・リンポチェは自然に修められた』と開示くださった。毎日修めている。「どうだ?」と仰せになると、参会者は「修めておいでです」とお答え申し上げた。「行事日誌組という作業チームが、リンチェンドルジェ・リンポチェが法会で開示する内容を書き出しているが、この言葉を記載しなかった。行事日誌とは何たるかが分かっているのか?このチームの名称も実に奇妙だ。尊勝なる直貢チェツァン法王が法座で開示くださるのは、すべて衆生への利益だ。尊勝なる直貢チェツァン法王のお話は衆生への利益であり、リンチェンドルジェ・リンポチェへの利益だ。尊勝なる直貢チェツァン法王の一言一言はすべて非常に重要だ。尊勝なる直貢チェツァン法王が仰せのあらゆるお言葉を、リンチェンドルジェ・リンポチェはすべて記憶している。だが、行事日誌組の者たちは尊勝なる直貢チェツァン法王の『リンチェンドルジェ・リンポチェは心遣いが非常に細やかで、とても真面目に毎日修行している。自然に修められたのだ』との開示を記録しなかった。尊勝なる直貢チェツァン法王の開示を、そなた達はしっかり聞いていない。行事日誌を記録する者達までこの部分を書き漏らしてしまっているのだ。どのような言葉が、衆生に有用で、衆生に利益するかということに注意していない。行事日誌の担当者が記載しなかったのは、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日修めているが、彼らは毎日修めていないため輪迴を解脱できず、せいぜいいくらかの善を次の一世で使えるだけだ。彼らは罰せられるのを恐れ、強制され無理に修めているのだ。そのため、自分ができていないので、書けないのだ。尊勝なる直貢チェツァン法王は『リンチェンドルジェ・リンポチェは自然に修められた』と開示くださったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは清浄な本性で自然に修められた。彼らは罵られても急かされても修められない。それに比べて、自然に修めるのはレベルがさらに高い。そのため書けないのだ。そなた達、嫌ならやめれば良い!

自然に修めるとはどういうことだろうか?仏法において非常に重要なことは自然であることだ。わざとらしく、或いはわざわざ行うのではない。自然に、つまり自性に、清浄な法性中で修めるのだ。毎日修めるので殊勝なる法益が得られ、仏法が衆生に利益できると知り、そのため絶えず修持し、こうしてより多くの衆生が仏法の利益を得ることができるのだ。

今日は先ず学仏を望む者達のために皈依法会を行った。法本中の最初の二言は『敬礼上師宝、一切諸仏教法之所在』だ。釈迦牟尼仏が伝承された仏法は上師の教導による。先ずは上師宝に皈依する。上師は仏菩薩に代わり伝法する。そのため宝なのだ。『一切諸仏教法之所在』という。我々は末法時代に生まれたので、仏陀に直接教法を頂戴する福報がなく、仏と言わずとも、菩薩であろうと、そなた達には目にする資格はない。そのため、具徳の上師に仏法を伝授してもらう必要があるのだ。どうであれば具徳と言えるのか?先日開示したように、上師であれば、20の条件を備えていなければならない。ガムポパ大師もかつて開示なさった。この部分については、以前開示したことがあるので、今日は開示しない。一人の上師は諸仏菩薩を代表し仏法を教導する。そのためには、少なくとも生死を解脱する方法を知っており、しかも自身に経験があり、如何にして衆生の解脱を助けるかを知っている必要がある。今日リンチェンドルジェ・リンポチェは、尊勝なる直貢チェツァン法王に『自然に修められた』と公の場で認めていただいた。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェの二十数年にわたる仏法弘揚が間違っていなかったということだ。いわゆる『間違っていなかった』とは上師に欠点がなく、修行の末に聖人になった、ということではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分は今もやはり凡夫であると考えている。もちろん今も欠点がある。成仏するまでは必ず過ちを犯すのだ。だが、我々が見なければならないのは上師の長所だ。上師が衆生に利益する心を見なければならない。時下の人は上師の粗探しばかりしている。上師にはなお欠点があるだろう。上師はまだ仏ではないのだ。だが、それら欠点と、衆生に利益する上師の心及び衆生に利益するために行った一切の事とを比較すれば、どうということはないと言える。このような考え方で、上師の欠点を決して探してはならない。そなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェの欠点を探そうというなら、それはそなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェの上師だということになるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの問題を探すことができるのは、尊勝なる直貢チェツァン法王と仏菩薩だけだ。そなた達ではない。『間違いない』とは、仏法の面で進む方向を間違えたり、行いを間違えたりしないということだ。そのため『上師は一切の諸仏教法の所在だ』というのだ。『どうして上師が一切の諸仏教法の所在なのだ?経典こそが諸仏教法の所在ではないのか?自分で経典を読めばそれでいいのではないか?』と不満に思う者もおろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示する。地藏菩薩はすでに法身菩薩まで証されているのに、『地藏経』には『地藏菩薩は衆生に利益する時、やはり諸仏菩薩の加持庇護に感謝しなければ、一切の広大な衆生に利益することはできない』とある。そなた達は何を以って自分は修められるというのか?

伝法時の上師の心は清浄なのだから、そなた達も欲望を叶えることを目的に来てはならない。先ほどの弟子が語ったことはすべて、修行とは無関係の事だ。自分の健康のため、家族のため、妹が命を大切にするように等のため。学仏はこれではいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなにたくさんの仏法を開示しているのに、弟子はやはりこれら世間の事しか言えない。最初から最後まで、輪迴を解脱するとも浄土に往生するとも、この弟子が言うのを聞くことができなかった。このような学仏の心構えでは修められないのだ。学仏は我々に清浄な本性を回復させてくれる。上師は清浄な法性を用いて衆生に利益し、仏法は我々の未来に必ず影響を及ぼし、我々の未来を良い方向へと進ませてくれる。

上師と弟子の関係は時に矛盾しているものだ。上師は普通の見方で物事を見ているのではなく、見ているものもそなた達とは異なる。上師の能力で見透せるものを、そなた達が見られるとは限らない。上師がそなた達のために行う配慮は、そなた達自身で行うことはできない。つまり矛盾しているのだ。上師は因果を用いて見るが、そなた達は欲望、貪嗔痴を用いて見るので、もちろん違ってくる。道理がないのが当然だ。上師がそなたに対して行う事は、見たところ理にかなっていないかも知れない。だが、もし上師がそなたに道理を語るようなら、それはそなたを弟子として見ていないということだ。

そなたが今日皈依したのは、皈依することで健康になり、病にかからなくなり、家庭が和やかになることを願ってのことなら、皈依してはならない。このような気持ちを抱いているなら、皈依しても、護法に追い出されるだろう。皈依の心構えが、病気に罹らないように上師に庇護してもらおうというなら、皈依してはならない。健康保険は今にも破産しそうだ。誰も病気に罹らないなら、医者も看護スタッフも仕事がなくなってしまうのではないか?学仏することで、恋愛がうまくいき、パートナーの浮気が収まることを期待しているなら、皈依してはならない。結婚生活に問題が生じているなら、アドバイザーを訪ねればよい。アドバイザーを訪ねれば、料金を払わなければならないだろう。これはどういう意味だろうか?それは、上師と仏菩薩を利用するな、ということだ。このような考え方がなくとも、かつて一度でも思ったことがあるなら、それもこの内に入る。そなたがこのように利用しようと思っているなら、仏法は非常に貴重なのだ、金銭を用いて計れば、世界中の宝を集めても買うことはできない。修行人はそなた達に対して必ず慈悲深く対処しなければならない、とでも思っているのか?そなた達にそんな価値があるのか、考えてみよ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に対して身分で区別したりしない。金持ちだとか、貧乏だとかで区別したりしない。上師の伝法はすべて清浄であり、心は何一つ求めていないのだ。そのためそなた達が学仏皈依するなら、それも清浄な心で行わなければならない。世間の事のためではなく、完全に生死を解脱するために行わなければならないのだ。

『成辦衆生安楽』とあるが、ここの安楽は世俗の安楽ではない。衆生に平安と幸せをもたらす、というのではなく、衆生の福報累積を助け、学仏の障礙を減らし、落ち着いてしっかり学仏できるようにするのだ。

そなた達は今日直貢噶舉派に皈依した。直貢噶舉派はチベット仏教だが、皈依すれば、すぐに学密できるというのではない。皈依の後に学密できる機会があるかもしれないというのだ。密法を学ぶには、少なくとも10年の顕教の基礎が必要だ。その後、上師はそなたの根器に基づき、ゆっくりと伝えるのだ。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは『在家五戒-不殺生、不偷盜、不邪淫、不妄語、不酗酒』を伝える。『不酗酒』というが、現在では、食品の中に調味料として少しの酒を含むこともたまにはある。これは許される。『不酗酒』とは、飲酒の楽しみのために飲酒してはならない、ということだ。また、飲酒は身体の作用にも影響を与えるので、禅修行にとっては大変によくない。ここでいう『不酗酒』は、タバコ、麻薬、一切の麻酔薬の使用も含む。釈迦牟尼仏の時代には、タバコ、麻薬はまだなかったが、タバコ、麻薬もすべてこの範囲内に含まれる。『根本五戒』は後に『沙彌戒、比丘、比丘尼戒、菩薩戒』に発展する。すべては『五戒』から始まるのだから、皈依を甘く見てはならない。それに、リンチェンドルジェ・リンポチェは一年に一度か二度しか皈依儀式を執り行わないのだ。なぜ必ず菜食しなければならないのか?それは、そなたのために、より多くの衆生により多くの悪業を植え付けさせないためだ。そなた達が肉を食べるには、誰かが調理し、誰かが屠殺しなければならない。魚を食べるには、漁師が魚を獲らなければならない。そなた自身が肉食して犯す悪業の他に、そなたが肉食することで、非常に多くの人に多くの悪業を為させてしまっているのだ!

皈依の後に、これらの事を行ったなら、上師の加持を受けることはできない。加持とは、上師、諸仏菩薩が、そなた達の学仏を阻害する事情を一時的に抑えつけてくれることだ。だが、障礙を転じてしまう、或いは変えてしまうには、やはりそなた達自身が修め、改めなければならないのだ」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは皈依の真義を詳細に開示くださった後、皈依に申し込んでいる信衆に「先ほど挙げた条件を満たせなければ、皈依してはならない」と再度ご注意くださった。続いて荘厳な皈依儀軌を執り行われ、金剛薩埵の持咒の中、リンチェンドルジェ・リンポチェは35人の信衆の皈依をお受けになった。

「チベット仏教の合掌は顕教とは異なる。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示しよう。宝を捧げ持つように、二本の親指をいくらか内側へと曲げる。合掌時には、10本の指を合わせる必要はなく、両手を蓮の花のように開く、と考えている人がいる。だが、チベット仏教の合掌は10本の指を合わせる。これは、十方法界が仏菩薩に礼敬するという意味だ。手のひらの根元のところを合わせるのは、三悪道の門を閉じ、輪迴の根を断つということを表す。皆が持っている皈依証の、正面中央は祖師ジッテン・サムゴンの法照だ。左側は尊勝なる直貢チェツァン法王の法照で、右側がリンチェンドルジェ・リンポチェの法照だ。裏面の中央は釈迦牟尼仏で、左側はそなた達が皈依した上師の法名、リンチェンドルジェ・リンポチェと皈依の日時、右側は皈依文で、毎日少なくとも3〜7回唱えなければならない」と仰せになった。

皈依の儀軌が円満となった後、リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて開示くださった。「今年も残すところあと二日となった。我々が上師供養法を修めるのは、我々に対する上師の教導に感謝するためだ。我々は上師に対して感謝の心を持たなければならない。上師に対して感謝の心を全く持たないなら、他人の助けに対しても感謝することはできないだろう。会社の規律を無視し、会社の制度を守らない人が感謝の心を持てるはずがない。会社で少しの事をしたと言って自分はすごいと思っている。これも感謝の心がないからだ。すべては他人の過ちで、すべては他人が害を及ぼし、他人が教えてくれなかったので、自分は知らなかったのだから、すべては他人が悪い、と思っている。これも感謝の心がないからだ。うまくいかない、または人に指摘されればその人を訝る。これらすべては感謝の心がないからだ。給料をくれる雇用主に対してさえ感謝の心を持てないで、誰に対して感謝の心が持てるのか?上師に対して感謝せず、衆生に対して感謝せず、父母には孝行を尽くさない。このような人は修められないのだ。先ほど話した弟子は、道場を離れたいと思っている、と言っていた。なら、さっさと離れるが良い!なぜ離れたいと思っているのか?それは感謝の心がないからだ。離れたいという念頭を起こせば、ここにいる誰もがすでに皈依したのだから、このような念頭を起こせば、それはすでに皈依戒を破ったということで、皈依し直さなければならないのだ。

チベット仏教における上師と弟子との関係は、そなた達が考えているように、真言を伝授するだけではない。その関係は非常に緊密なのだ。そなた達が成仏するまでは、上師は生生世世にそなた達の面倒を見る。だが、その前提は、そなた達が皈依の後に三昧耶戒を破戒しないということだ」と仰せになった。参会者は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けられた。「先ずはそなた達ができるかどうかだ。今は礼を言う必要はない。自分は皈依したのだから、その後行かなくとも、仏教徒であることに変わりはない、と思っている人がいる。実は道場を離れれば、ここで累積した福徳因縁はリセットされてしまい、別のところへ行ったなら、ゼロから始めなければならないのだ。どこかの宗教のように、離れれば罰が下ると言ったりはしない。仏菩薩はそなたを罰したりしない。すべては自ら為したことの因果だ。皈依なんかどれも同じだろう?という人がいる。その通り。どれも同じだ。だが縁は異なる。そなたがこの道場で持した戒律、因縁は、そなたが離れた時に無くなってしまう。大学で一年学んだ後に休学し復学すれば、試験に備えるために改めて勉強し、新たに登録しなければならないのではないか?学業と言わずとも、仕事であっても、何年も働き、そなたがしっかりやっていれば、会社は自然にそなたを常に昇進させ続けるだろう。昇進しないのには、必ず原因があるのだ。だが仕事を換えたいなら、自分の経歴が合っているかどうかをよく考えてみなければならないのではないか?学仏もそうだ。なぜそなた達会は学仏は違うと思うのか。気が向けば来て、嫌なら出て行く。その通りだ!そなた達は来るのも去るのも自由だ。だが、仏法的には、そうではない。この道場の縁を離れれば、上師、教派、護法の加持は断たれてしまう。ここを離れて、別の道場へ行った人がいたが、二年もしないうちにそこも離れてしまった。何が原因なのか?それは、ここを離れても懺悔しないなら、新しい道場へ行っても改めて学仏に皈依することはできないからだ。つまり、学仏の心構えが正しくないなら、どちらも空っぽなのだ。

なぜ尊勝なる直貢チェツァン法王は『リンチェンドルジェ・リンポチェは自然に修められた』と仰せになったのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような考えを持ったことは一度もない。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが感謝を知っているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、尊勝なる直貢チェツァン法王の恩徳を永遠に記憶している。この一世から未来世まで、尊勝なる直貢チェツァン法王に対するリンチェンドルジェ・リンポチェの尊重と恭敬は不変なのだ。上師がおられなければ、我々は何一つできない。2007年リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王に従い、ネパールの4500mのラキ雪山で閉関した際、関房内にはリンチェンドルジェ・リンポチェ一人だけだった。尊勝なる直貢チェツァン法王は一度もリンチェンドルジェ・リンポチェを見にはお越しにならなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王、歷代伝承祖師、護法がひたすら加持をくださり支えてくださっているのがはっきり分かっていた。一日目にはアキ護法の内の一尊の護法が現れ、絶えず山谷を回り巡視しておられた。尊勝なる直貢チェツァン法王が御自ら閉関に伴い、金剛本尊を喜修くださったのは、リンチェンドルジェ・リンポチェが唯一であり、また最後の一人となった。尊勝なる直貢チェツァン法王は昨年(2015年)ラキ雪山の関房へ赴かれた際には、リンチェンドルジェ・リンポチェをお連れにならなかった。その折、尊勝なる直貢チェツァン法王は御自分が当時閉関した際にそこに残しておかれた衣服とリンチェンドルジェ・リンポチェが残していた衣服を、すべてまとめて水に流してしまわれた。つまりこれは、尊勝なる直貢チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェは二度とここに来ないということだ。しかも今後も、尊勝なる直貢チェツァン法王は誰かを伴いラキ雪山で閉関することはないということだ。将来変わるかどうかは分からないが、少なくとも10年以内は変わらない」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは上師供養法の修持を始められた。先ずは出家弟子衆が衆生を代表して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにマンダを捧げ請法申し上げた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはしばらく修法を続けられた後開示くださった。「不共の発心は上中下の三種に分けられる。『上士夫、中士夫、下士夫』だ。『上士、中士、下士』については以前説明したので、今日はこれには触れない。これこそ早くに皈依した者の利点だ。皈依が遅かった者はゆっくりと待つがよい。なぜ『士夫』と呼ぶのか?経典には『学仏人は大丈夫だ』とある。これは普段言っている『男らしい男』と言う意味ではない。『士』と言う文字を用いているからには、一般人を代表しているのではない。チベット仏教でいう修行人とは、学仏していない一般の人と違うというわけではない。金剛乗の心は、一切の障礙を恐れず自分の心を変え、ひたすら前進することができる。

法本は『不共』と『共』の発心を含む。『不共』というのは、発心の方法が他の法本とは異なるからだ。第一文では『我に対して憤怒する敵、我を傷害する邪魔、我と一切の有情衆生の生死解脱を阻害し、虚空宇宙において我々に対して恩がある一切の如母有情衆生が皆、離苦得楽できることを願う』とある。我々の普段の発心とは異なる。皈依したことで、冤親債主を追い払い現れなくすることを願う、というのではない。

『不共』の発心とは、菩薩乗と金剛乗の発心だ。第一種は『仏果を証するまでは、身口意の三門で行善することを誓う』、第二種は『命が終わるまで、身口意の三門で行善することを誓う』、第三種は『今この時より、明日のこの時まで、身口意の三門で行善することを誓う』だ。寶吉祥仏法中心道場では、リンチェンドルジェ・リンポチェは第三種は教えない。なぜなら、結縁させるだけだからだ。寶吉祥道場では、少なくとも第二種までは為さなければならない。この一世で身口意の三門で行善する。なぜなら第二種まで行えたなら、この一世が終われば阿彌陀仏のお側へ行けるかもしれないからだ。第一種まで行えたなら、菩薩道を修行し仏果と成れるかもしれない。寶吉祥道場では、この一世で行善、学仏し、生死を解脱し、浄土に往生し、さらに仏果を証するまで生生世世に学仏する決心を下さなければならないと教える。菩薩道と金剛乗を教えるところなのだ。そのため非常に厳格なのだ。

尊勝なる直貢チェツァン法王はなぜ『リンチェンドルジェ・リンポチェ自然に修められた』と仰せになったのか?それは、尊勝なる直貢チェツァン法王が仰せのことを、リンチェンドルジェ・リンポチェがまさに良く聞き、行ったからだ。何をするよう上師が望んでいるかなどを探ったり、推測したりしてはならない。上師が望んでいることを行う、或いは自分の考えで、何をするよう上師が望んでいるかと考えて行う、という人がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、そなた達に何かをやってもらいたいとは思わない。上師の教えの通りに行ってもらいたいだけだ」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率いて懺悔、隨喜功徳、発菩提心等を含む「七支供養祈請文」を唱えられ、修法を継続し、みなの福報を累積してくださった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは鈴杵の儀軌を修められ、「鈴杵は加持したものだ。適当なものを持ってきて、鳴らしているのではない」と開示くださった。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を継続し、禅定灌頂を賜り、灌頂前に開示を下された。「続いては禅定灌頂を行う。これにより将来、大手印を修める権利を得ることができる。灌頂の権利を授けると言っても、この法を修められるということではない」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは「七支坐法」を伝授くださり、禅定修習時の注意事項、正しい姿勢と心構えについてご説明になり、続けて開示をくだされた。

「帰宅後すぐに禅坐を修めてはならない。まだ教えてはいない。禅修行とは一般の人が考えるように、数息できればそれが禅修行だというものではなく、胡座をかいて座り長く動かず足も痛くならないなら、禅修行がうまくいっているというものでもない。禅宗とは達摩祖師が二祖に伝え、六祖慧能まで伝わったものだ。つまり、禅修行とは伝承があるものなのだ。時下非常に多くの人が、自分で『楞厳経』、『金剛経』が読め、『金剛経』についていくらか語れれば、禅宗を理解できている、と思っている。もしそうなら、達摩祖師がインドから中国へ来られる必要はなかったし、二祖慧も自分の片腕を切り落として求法する必要はなかったのだ。これは、禅修行は文字の中で行うのではなく、文字によって表せる境界ではないということを示している。今日の法会を修めることで、将来、大手印離戲瑜伽まで証できる因縁を得ることができる」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参会者に、合掌し背筋を伸ばして座るようご指示になった。「これからリンチェンドルジェ・リンポチェは発願文を唱える。発願文には『世尊が歓喜して我を攝受くださることを祈願する』という非常に重要な一文がある。世尊はなぜ歓喜するのか?上師に供養しなければならないのは、仏が供養を求めているからではなく、我々の供養を見て歓喜なさるのではなく、我々が上師と仏教導の方法で供養するのを目にし、自然に我々に福徳資糧を累積させてくださり、未来を変え、生死を解脱させてくださるのだ。経典にも『釈迦牟尼仏を歓喜させる。上師を歓喜させる』とあるが、どういうことなのか?供養の金銭ではない。そなた達の心だ。なぜなら上師と仏が教導する方法に基づき行うようになれば、未来を変えられ、輪迴を解脱できるからだ。上師と仏が救うべき人が一人少なくなれば、上師と仏は他の人を救え、より多くの人が仏法の利益を受けられるようになる。そのため上師と仏は歓喜するのだ。上師と仏が教導する方法に従い供養するなら、自然に福徳資糧を累積することができる。いわゆる『福至心霊』だ。福が累積すれば、仏法はそなた達の人生において自然に作用を生じるようになるのだ」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を継続なさった。修法の過程では八供女献唱、薈供の儀軌が行われ、参会者はみな一つずつ、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが加持くださったお供えを頂戴し、法会中に仏菩薩と共食する得難い殊勝なる因縁を賜った。

修法が終了し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参会者を率いてアキ護法と回向を修められた。

「リンチェンドルジェ・リンポチェは開示する。今日新しく皈依した弟子は、これで密法が学べるなどと思ってはならない。密法を修めるには、少なくとも10年の顕教の基礎が必要なのだ。上師は一人一人の程度に応じて決定する。現在、道場内では組分けがされている。現在は全部で8組ある。なぜ8組で、10組でも20組でもないのか?これには理由がある。寶吉祥仏法中心では弟子同士での金銭の貸し借りを厳しく禁止している。金を貸しても、借りても、発覚すれば二人とも出て行ってもらう。ほんとうに困っているなら、連絡係り、組長に言えば良い。組長はリンチェンドルジェ・リンポチェに報告する。リンチェンドルジェ・リンポチェは事情を鑑み、ほんとうに必要があるなら助けてやるだろう。助けてやらないのは、明らかに間違っているのに、それでもひたすら間違い続ける人だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは1997年より弘法している。すでに20年になるので、学問する金がないもの、葬儀費用がないもの、片親で子供を育てる金がないもの等非常に多くの弟子を助けてきた。道場内では、納骨堂を販売してはならない。互助会を作ってはならない。『吸金』して投資してはならない。マルチ商法に誘ってはならない。『吸金』とは、少し金を出せば毎月一二万元の利息が受け取れる、などと言って、金を集めることだ。これらはすべて許されない。誰かがこれらのことを行っていると知ったなら必ず報告しなければならない。知っていながら報告しなければ、その人にも出て行ってもらう。なぜなら、報告しないのは、その人の心も動いたということだからだ。マルチ商法もいけない。どうしてもやりたいなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが第一線になろう。それで、そなた達に第二線、第三線が回ってくるだろうか?これらは絕対にやってはならない!

この道場はリンチェンドルジェ・リンポチェのものではない。仏法中心のものだ。この道場を見つけたのは、リンチェンドルジェ・リンポチェだ。市価より一坪当たり9万元から10万元低い価格だったが、リンチェンドルジェ・リンポチェはそのままの価格を協会に伝えた。高く言ったりせず、また何らかの費用を上乗せしたりもしなかった。それによって協会は市価より安く買うことができたのだ。道場を買った時には、リンチェンドルジェ・リンポチェ自身もいくらかを道場に寄付した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、道場から何らかの費用を支出したことはこれまで一度もない。道場も、リンチェンドルジェ・リンポチェの名義ではなく、協会名義だ。寶吉祥道場は非常に清浄な道場なのだ。ここは一つの大きな家だ。たくさんの兄弟姉妹がいる。今日この1500人は、実際の家族よりも親しい間柄だ。何かの事態に遭遇すると、家族はあれこれうるさいものだ。だが、連絡係り、組長に相談すれば、状況に応じて対応してくれる。

皈依弟子は定期的に道場を護持しなければならない。使用者が費用を負担するのは当たり前だからだ。供養する金がないなどと言ってはならない。金がないと言っていれば、ほんとうに無くなってしまうだろう。そなた達が每月10元出せない、1000元出せないなどと信じられるだろうか。供養とは金額を見るのではなく、心を見るのだ。黄という姓の医者である弟子は每月の收入の二十分の一を供養している。非常にきっちりと計算し、一ヶ月に一万元供養する。每月一万元で上師と仏菩薩に、家庭の平安と調和を祈るのか。それでは安すぎるのではないか?上師は一万元の価値しかないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは金についてあれこれ言っているのではない。そなた達は仏法を買売、価格があるものとして扱っている。それなら、一億元を持ってきても十分ではない。その弟子の家族全員は、リンチェンドルジェ・リンポチェが救ったのだ。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子について言う資格がある。

リンチェンドルジェ・リンポチェは企業グループの忘年会で特賞を用意した。現金20万元だ。引き当てたのは徐という姓の弟子だった。リンチェンドルジェ・リンポチェは豪放磊落なので、この忘年会では、特賞までの賞ですでに数百万元を出していた。当たらなかったのは、そなたの運命だ。そして、最後の特賞はリンチェンドルジェ・リンポチェが自らの手で引いた現金20万元だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは冗談で、この弟子は会社では叱られることが多いので、彼にこの賞を与えたのだ、と言った。賞を引き当てた後、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子がどのように処理するかを見ていた。会社でこのような職位にあり、大きなクジを引き当てたなら、普通は何かを買って同僚に振る舞い日頃の感謝を示すのではないか?」と仰せになった。参会者は「そうです」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示された。「一般に大きなクジを引き当てた人は何かを買って同僚に振舞ったりする。だが、この弟子は特賞を当てても動かぬこと山のごとしで、全く何もしない。彼は、これはリンチェンドルジェ・リンポチェのお金なので、とても使えない、と言うのだ。だが、同僚に食事をご馳走するのと、この金を使うのとは無関係だ。これはこれ、あれはあれだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは別の弟子を通して、彼の妻に上師の考えを伝えさせた。この徐という姓の弟子はそれを聞き入れ、会社のすべての部門の同僚に、野菜料理レストランで食事した後、電話してくれれば、お金を払いに行く、或いは金を払った後に領収書を持って金を取りに来ても良い、と言った。だが、そなた達が彼の同僚なら、こんな条件で食事に行くだろうか?絶対に行かない。なぜか?それは申し訳ないからだ!それに乞食でもない。このようなやり方は、馳走になる人には負担だ。徐という姓の弟子はあまり健康でないのに、食後に彼を呼んで金を払ってもらうなど、誰ができるだろうか?もし人としてしっかりしているなら、5万元ほどをレストランに預けておき、食事した人は徐という姓の弟子のその金で払うということもできただろう。ところが、彼は心配で金をレストランに置いておけないという。『人道成、仏道才成(人道で成就できなければ、仏道で成就することなどない)』と言うが、人として生き方における道理が備わっていてこそ、学仏の道へと進むことができるのだ。実際にこの弟子はあらゆることで吝嗇な性格だったが、今回のことで、やはり以前と変わっていないことが分かった。手放せないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ彼の供養を受け取らないのか。それは、その供養がすべて条件付きだからだ。供養すれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の病気を治し、自分を浄土に済度させてくれなければならないと思っている。そなた達が目玉をちらっと動かすだけで、何を考えているのか、リンチェンドルジェ・リンポチェはすべて分かる。リンチェンドルジェ・リンポチェに何かの神通があるとまで言わなくとも、少なくともいくらかの定力はある。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェの面前で手練手管を弄しようなどと考えないことだ。

この徐という姓の弟子はしばしば遅刻するので、人事担当者が注意したところ、年次有給休暇も忌引きもまったく取っていないから、と言い訳したというのだ。このように答えるとは、だからこれで相殺できる、と考えているのだ。だが、これは関係のない二つの事だ。年次有給休暇や忌引きを取るかどうかは、そなた自身の権利だ。だが、時間通りに出勤するのは、そなたの義務だ。そなた達は、学仏においても、この過ちを犯している。一つ悪事を犯しても、一つの善事で相殺できる、と考えているのだ。善悪は相殺できない。なぜ会社に遅刻するのか?それは、傲慢で会社の規律を無視しているためだ。それでいて、自分は何をしても、すべては会社のためだ、などと他人に言っている。彼がほんとうに全心全力で会社のために尽くしているなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは寝転んで何もしなくていいはずだ。どうして毎日こんなに大変なのか?この弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェの側にこれほど長くいるのに、まったく改められていない!

少し前、ある弟子の母親(皈依弟子)が家を担保にして借金し、二百万元をリンチェンドルジェ・リンポチェに供養した。家を担保に借金した金で供養したので、リンチェンドルジェ・リンポチェは哀れに思い受け取らなかった。二百万元の現金だ。普通なら、受け取ってから、後で考えようということになるだろう。『非常によろしい。これで福報を累積できます』などというかもしれない。言おうと言うなら、リンチェンドルジェ・リンポチェでももっと甘い言葉が言えるし、どう言えば信衆が喜ぶかも分かっている。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはそうしなかった。彼女が借金して供養すれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に借りを作ることになる。リンチェンドルジェ・リンポチェは二百万元を受け取らなかったようだが、実際には弟子の供養の心を受け取ったのだ。これは、先ほど言った黄という姓の弟子より良い。受け取るなら、その現金二百万元は、黄という姓の弟子の供養を受け取るより遥かに良い!黄という姓の弟子も、これを聞いて、定期預金を解約して供養したり、家を二軒売り払って供養したりなどしなくとも良い。リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らない。つまり、リンチェンドルジェ・リンポチェは金銭の多寡を言っているのではない。供養の心構えが如法の心構えか、それともやはり損得にこだわり計算する心であるかを言っているのだ。計算できないものなどいようか?そなた達はみな、細かく計算し残った金で供養している。リンチェンドルジェ・リンポチェは供養する際に計算したことなど一度もない。昨年、尊勝なる直貢チェツァン法王にいくら供養申し上げたか、リンチェンドルジェ・リンポチェはまったく覚えていないが、少なくとも舍衛城の護持の部分では80万米ドルを供養した。自分の能力を尽くし、行うべきを行うのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは何をするにも非常に素早いが、衆生を済度させる際には非常に忍耐力がある。なぜなら衆生済度はこの一世だけのことではなく、とてもたくさんの世のことかもしれないからだ。この二人の弟子については、リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に長く待った末に指摘したのだ。では、彼らは過ちを犯したのか、悪人なのか?過ちを犯した。だが彼らは反対に善人だ。仏法における過ちの状況を示し、どこが過ちなのか、二度と過ちを犯してはならない、とそなた達に知らしめた。そなた達は彼らに感謝しなければならない。誰かが過ちを指摘してくれなければ、改める機会はない。過ちを犯しても誰も指摘してくれないなら、どこまで過つか分かったものではない。地獄に至るまで過ち続けるだろう。過去に善を行ったことがあり福報があったからこそ、過ちを続けないよう、後に誰かが過ちを指摘してくれたのだ。そのため『仏子行三十七頌』では『我々を批判し攻撃する人を賓客としてもてなさなければならない』というのだ。彼らが我々の過ちを指摘してくれなければ、それを知り、改めることができないからだ。弟子の間ではお互いに注意し合い助け合わなければならない。だがそれは、世俗の物事においてではない。皈依の後は、何かが起こったと言ってはすぐにあれこれ訊ねてはならない。上師の教法の通りに行えばよく、どんな事でも先ずはお伺いを立てて、などということでもない。だが、ほんとうにどうしたら良いのか分からない場合には、リンチェンドルジェ・リンポチェに聞きに来るが良い。皈依後に、問題が起きた際に便利だからと言って外道に頼り、何かがあると外道に訊ねていれば、仏菩薩の護法も離れてしまうだろう。外道の護法はそなたが皈依していると知り、助けてくれることもない。こうして中途半端になってしまう。リンチェンドルジェ・リンポチェは、学仏人がアフリカへ行き、そこで病気に罹ったのでシャーマンに頼ったという話を聞いたことがあるが、真偽のほどは定かでない。病気になっても医者に行かないと言う訳ではないが、正規の医者に診てもらわなければならない。迷信に惑わされてはならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を一律に平等に見ている。貧富や社会的身分、地位で区別したりしない。寶吉祥仏法中心には、ほんとうに貧しい人がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェが言う貧しいとは、金銭的に貧しいのではない。もったいなくて金を使えない人だ。学仏人にとって最も大切なのは、衆生と善縁を結ぶことだ。衆生と善縁を結ばないなら、将来も衆生はそなたと善縁を結ばない。簡単に言えば、学仏とは一個の独立した個体ではないのだ。そなたが菩提願を行わないなら、心には衆生がないので、閉関しても修められないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示したことがある。供養布施は呼吸のようなもので、必ず行わなければならないのだ。そなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェに供養すれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは、そなた達がより多くの事が行えるように手助けする。上師は衆生に借りを作らない。供養を受け取れば、仏法を用いて手助けし、仏法を教導する。リンチェンドルジェ・リンポチェはどれだけたくさんの人を助けられることか!

今日この法会を、リンチェンドルジェ・リンポチェは先ほどすでに台南に回向した。恐怖に慄く心を慰め、今回の地震による恐れを減らすことができる。ある災難が深刻であるかどうかは、死傷数によるのではない。ある場所で災難が起きれば、被災した人だけでなく、付近に暮らす人達も恐怖に襲われるのではないか?心に恐怖が生まれれば、自然に身体にも悪い影響が及ぶ。我々は諸仏菩薩と上師の我々に対する保護に感謝しなければならない。なぜなら、仏の教法、護法の保護があり、尊勝なる直貢チェツァン法王が弘法のために、世界中を奔走されているご苦労があったればこそ、我々は安心して学仏でき、新しい年を平和に迎えることができるのだ。これほど幸せに暮らしているというのに、そなた達はまだしっかり修めないというのか?また同時に、仏法の保護を受けられない衆生を憐れまなければならない。今回は上師の保護が受けられたが、それでもやはり楽しく新年を迎えることはできないだろう。なぜなら近くでこのような事が発生したのだ。どれだけの人がこの新年を幸せに迎えられるだろうか?

南部の弟子で、今日の法会に来られなかった者達もいる。交通手段がなく来られなかったのだ。この者達は普段から非常にきっちり計算する。いつ来て、いつ帰るか、ちょうど良くきっちり計算している。彼らは無常を信じない。たった8秒間で、命も財産も何もかも無くなってしまうなどと誰も考えなかったのだ。これこそ無常の示現だ。無常とは死だけを指すのではない。無常とは『変』だ。いつでも変化している、ということだ。我々は、世間のあれこれを自分の思惑通りに変えないよう求めることなどできない。それは執著だ。執著する人は、苦痛を軽減し、さらには消してしまうことは決してできない。

旧正月時、リンチェンドルジェ・リンポチェは法会を催す。参加できないなら無理する必要はない。家庭内で問題を引き起こしてはならない。誰かが引き止めるので法会に参加できないというなら、それはそなた自身の問題だ。それまでの供養布施、学仏、発心の方向が間違っていたということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなにも長いあいだ学仏しているが、誰かに邪魔されたことなど一度もない。2007年に三ヶ月閉関した時でさえ、何らの事情もリンチェンドルジェ・リンポチェを妨げることはできなかった。業力以外に、なぜこんなにもたくさんの問題がそなた達の邪魔をするのか?

過ちを犯して反省する時、一般の人はみな物事を検討し、なぜこの事で過ちを犯したのか、同じような過ちを二度と犯さないようにしよう、と考える。だが、同じ過ちを二度と犯さない、など不可能だ。なぜなら問題を根本から反省していないからだ。問題の根本とは心構えだ。過ちの全てには貪嗔痴がある。仏は、一切の現象はすべて心が為すとお教えくださる。心構えが間違っているなら、行為も過つ。どのように心構えを過つのか?それは貪嗔痴だ。つまり『仏子行三十七頌』を実践しておらず、上師に対する恭敬心が足りないのだ。上師に対する恭敬心が足りなければ、非常に容易に過ちを犯す。自分の考え方を用いるなら、過去の悪癖がすぐに出てくるからだ。行うべきは、物事そのものを検討することではなく、物事の背後にある心構えが貪嗔痴慢疑でないか検討することだ。誰でも貪嗔痴慢疑を抱えているが、みな認めようとしない!同じ過ちを繰り返すのは、物事の真の根本、原因が何なのかを検討しないからだ!

旧正月には、多くの家庭で祖先を祭る。学仏では祖先を祭ってはならない、とは言わないが、祈願してはならない。祖先に、孫の成績が良くなり試験がうまくいきますように、健康になりますように、仕事がうまくいきますように等と祈願せず、感謝の心を用いるのだ。祖先を敬い祀るのは、我々東洋人特有の伝統だ。祖先に対して感謝の心を持つのだ。東洋人にはこの考えがあるので、現在まで続いているのだ。西洋の宗教の中には祖先崇拝を禁じるものもある。それなのに、我々東洋人はなぜ西洋人の思想を受け入れたのか?

羊年も今日を入れてあと二日だ。今日は羊年の最後の法会だ。次は申年だ。法会終了後は、車を急いで走らせるもの、年越しの品を慌てて買いに行くもの等みな忙しいだろう。だが、法会に参加した後は、この一年どんな過ちを犯しただろうか?と静かに考えなければならない。どうすれば二度と過ちを犯さないだろうか、と考えるのではない。そなたはどうしたってやはり過ちを犯す。物事全体の根本がどこにあるのかを考えなければならないのだ。たくさんの時間を思惟に費やす必要はないが、帰宅後に考える際にぼんやりしていてはならない。それでは、家の人に『新年を迎えるというのに何をふくれっ面をしているのか。眉間にしわを寄せて難しい顔をしている』などと思われてしまう。それではいけない。数秒で、考えがパッと開けることがある。上師の教法に従い自分を改めているかどうか、しっかりと己を見つめなおし、一切の功徳を衆生に回向しなければならない」と仰せになった。

法会が円満となり、参会者のために荘厳な皈依儀軌と慈悲なる修法を執り行ない、殊勝なる開示をくださったことを、弟子達は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げた。これにより、無数の衆生は無辺の法益を受け取ることができたのだ。弟子達は起立して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを恭しくお送り申し上げた。

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2016 年 05 月 15 日 更新