尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年1月17日

尊きンチェンドルジェ・リンポチェがは法座に昇られ、多羅菩薩法会を主持なさり、参会者に貴重な仏法の開示を下された。

今日の多羅菩薩の法会は、責任者の弟子が忘れていたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは交代せず、弟子たちに準備をさせて、みずから続けて『宝積経』をお説きくださり、準備の時間をお与えになった。前回は釈迦牟尼仏がお説きになった六波羅蜜中の禅定についてお話しになったので、今日も続いて、開示くださった。

『宝積経』
菩薩不著欲故。不著滅故。不著離欲故。不著自身故。不著他身故。不著色受想行識。不著欲界。不著色界。不著空。不著無相無願。不著此世界。不著未來世界。而行布施。不依止施。不依止戒。不依止忍。不依止精進。不依止禅。如是修行禅定。迴向阿耨多羅三藐三菩提。而不分別。是名菩薩修行禅定。
『大正新修大蔵経』第11巻『大宝積経』152P

ここで説かれている密教の禅定と皆さんが外でお聞きになる顕教で説いている禅と座禅は同じではない。これは、座禅として、一日に8から9時間あるいは毎日一時間するような座禅の修行とは異なっている。『宝積経』で説かれているのは、菩薩の修行の方法である。ここで言われる禅定とは菩薩道、金剛乗の修行方法のことで、顕教で言う禅の修行とはまったく違う。菩薩道の禅定は、自分のすべての妄念が転ぜられて、衆生を利益する方法である。ここで言う菩薩道とは六波羅蜜の禅定の方法のことで、直貢噶舉派の大手印の修行方法と似ており、直接、人の心を述べている。直貢噶舉派の大手印は、インドのガンジス川からチベットに伝わり、直貢噶舉派のティロパが伝えたもので、インド・ガンジス大手印と呼ばれ、ティロパがガンジス川で修行した方法である。

「不著欲故。不著滅故。(欲に囚われず、欲望を消すことに囚われず)」とは、禅定を修めることは、悟りを開いたり、神のような能力を求めたり、何らかの超人的能力を求めたりするためではない。これらは、ただ、みずからが求めたもので、すべて欲望であり、執着心である。「不執著滅」とは、欲望を求めないことだが、欲望を消そうとすることに囚われてはならない。あなたには人としての身体があるので、欲望は当然おこるものである。食べたい、眠りたい、風呂に入りたいなどを思えば分かるように、これらは身体自体から生じる欲望で、自分が望んで起こしているわけではない。欲に囚われないとは、ものごとはすべて因縁によって生じまた滅することを意味しており、強いて欲望を消し去ろうとする必要はないのである。お腹がすけば自然に食べたくなり、満腹すれば、食べたいという欲求は自然に消える。それでもまだ食べようとするか?そんなことはない。だから、欲を消すことにこだわってはならないのである。出家の皆さんは、思いに囚われたくないと思う必要はない。あなたが「思ってはならない」と思うことが、すでに思いであり、これも執着である。もし人に何の感覚もないようにしたかったら、これが坐禅の修行なのだが、あなたには神経がある、あなたには皷動する心臟がある、また呼吸もしており、血液が流れている。どうして感覚を消すことができようか?消すことに執着してはならない。一切はみな空であり、因縁によって生じ、因縁によって滅びる。もし執着があると、空なる慈悲心はなく、自利利他は不可能になる。

「不著自身故。不著他身故。(自身に囚われず、他者に囚われず)」とは、禅定は自身が禅を修め、他の人と違ったものなるためではない。たとえば、人は禅の修行をして目が炯炯と神のようにはっきりし、頭脳、思考が明晰になって、仕事がさらによくなりたいと願うが、禅定とはこうしたものではない。自身に囚われずは、比較的、容易に理解できる。しかし、仏はまた他者にも囚われてはならないとお説きになっていらっしゃる。矛盾しているように思われる。「不著他身故。」とは、修禅は、自己の能力を高めて他者を助けるためではなく、仏となり菩薩となって衆生を済度することでもなく、悟りをひらくためでもない。実際は各個人都にはみな仏と同じ法性が備わっており、衆生はみな同じであり、修行の最後には、法に従ってみな捨てることができる。『金剛経』が説くように、衆生相ないのである。

禅を学ぶ人は容易に驕傲になり、皆さんはいつも修禅の人は淨土宗を認めず、禅宗は律宗を認めない。実際は。皆さんはみな罪業深重の人間存在であり、そうでなかったらここに来ていることはないだろう。ある人は、坐禅で体悟することがあり、非常に傲慢になって、他の人よりよく修行しているので、自分は他の人より優れているという考え方をすることがある。出家のもこうした人をたくさんご覧になってきただろう。これは結局、間違った方法で、事実上、非常に危険でもある。禅を修めることで我慢心が生じ、自己の修行に感応して他者より優れていると思い、他者と同じではないというのは、魔がまさにあなたの中に入り込んだのであり、仏教を学ぶ妨げになり、自己について何も知らないままになってしまう。禅定を修めることは、悟りを開き、知恵を求め、財産を求め、健康を求め、仏教を学んで障り内ない状態を求めることではない。また、衆生を利益するためでもない。こうした欲望が少しでもあると、心魔が入り込んでくる。禅定を修めるとは、『楞嚴経』の中で最もよく説かれているが、禅定が生むすばらしい能力や、それによって何かを得るためということは、すべて間違いである。だから、禅宗は魔が来れば魔を斬り、仏が来れば仏を斬ると言うのである。

「不著空。(空に囚われず)」とは、現在、ある人は「空霊」という用語を使っているが、いったい誰が発明した用語か分からない。霊とは一種の物質であるが、この物質は見ることができない、また触ることもできない。しかし、空とは、物質ではない。この「空霊」という用語は不正確である。寺院では、坐禅の指導をする人が空を放つと言い、頭脳がはっきりして、間違いなく物事を処理でき、事情をよく理解できるようになって、仕事がよくできるようになると言うが、これらは禅定の目的ではない。『宝積経』は禅定について、ただ「欲に囚われず、滅に囚われず、離欲に囚われず、自身に囚われず、他者に囚われず、色受想行識に囚われず」と言っているだけである。静坐、数息、放空などは一切言っていない。よく言われる「放空」とは、何を放つのであろうか?もし禅坐の時に空を放つなら、平常はどうすればよいのか?空を放つとは一個の思いであり、一個の欲望である。世尊は『宝積経』中ではっきりと私達に空に囚われずと仰っている。「放空」は現代人が作った名詞で、仏法とは関係がない。寺院のある人は人々に「数息」を教えているが、数息は禅定の修行ではない。仏経上、数息は禅定であるとは言われていない。

なぜ呼吸を数えるのか?呼吸を数えるのはただ私達の呼吸を整えるためである。実際、人が呼吸を始めたときの方法は、現在の我々のものとは同じではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、一人の名医として弟子に胎児は母のお腹にいるときどのように呼吸しているかと問うた。医師は弟子に、胎児が母の胎内にいるときは臍の緒を通じて母の血液から酸素をもらっていると説明した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、胎児は鼻で呼吸しているわけではない、だから、胎児は母の胎内にいるとき、母親の行動と父親の行動を除けば、ほとんど何も考えていない。ただし、外界に対してまったく無反応というわけではない。胎児は出生後、はじめて鼻を使い始め、肺で呼吸し始める。だから、人がしているこの方法での呼吸は、母の胎内での呼吸方法とは同じではないのである。修行した人は、みな丹田での呼吸をするようになるが、丹田はまさに臍の位置である。リンチェンドルジェ・リンポチェは現在、丹田での呼吸をしており、それほど大きく肺で呼吸してはいない。と言っても肺も萎縮しているわけではない。なぜ禅定では丹田の呼吸が必要なのか?それは私達に原初の呼吸方法を教えるためである。

「不著色受想行識。色受想行識(知覚と意識)に囚われず」とは、禅定の目的で私達に自己の念願をはっきりとさせる。いかにして妄念を転じて、衆生利益の道具とするのか。色受想行識は不要ということではない。まさに我々の色受想行識は転ぜられて修行となり、衆生利益の道具になえるのである。

「不著無相無願。(無相無願に囚われず)」とは、仏教が我々に、姿形から教えて下さるからである。なぜなら我々は、姿形のあるものを好むからである。ただし、また我々に姿形に囚われてはいけないとも教えている。また、我々に姿形のないことに囚われてもいけないと教えている。この衝突は大きい。どうすればよいか?だから上師の話しを聞くことが大事である。上師に依止し、教えに従って、しっかり実践し、そうすれば間違うことはない。修行の経過によって、次第に仏がお説きなさった境界が分かるようになる。上師は非常に厳格である。厳格でない場合は、我々は容易に自己の心の赴くままになってしまう。

先に述べた色受想行識に囚われずのこの姿形は、ここでまた無相に囚われずと言われており、非常に矛盾しているように思われる。ある面では、存在に執着してはならないと言い、ある面では空に執着してはならないと言う。しかし、私達が聞いて理解してきた法では、「相」は世間一切の「現象」である。もし姿形はいらないと言ったとしても不可能である。私達が生きるということは必ず姿形を産み出すからである。姿形はまた存在と言える。菩薩が発願して衆生を助けようとしたとき、この菩提心のエネルギーは発動し、ひとつの姿を産み出す。仮に発願がないとしたら、エネルギーは波涛どうできないので、衆生を救うことはできない。菩薩が衆生を救うのは、縁起によるのである。縁が起きることで、エネルギーが生まれ、よく衆生を利益できる。姿形も現れる。縁が尽きれば、姿形は自然になくなる。もしこうした姿形が要らないとしたら、菩薩は衆生を助ける方法もなくなる。無相に囚われずとは、姿形が存在しないと言っているのではない。これは、菩薩は一切の現象が生まれるのは、すべてみな縁生縁滅で、この姿形への執着を去る必要はないのである。『金剛経』は「若以色相、聲音來求我、皆是邪見邪說(もし姿形や音声で私を求めるなら、それは邪見邪説である)」と述べているが『宝積経』の所說と一致している。

リンチェンドルジェ・リンポチェが開示されたこの禅定の內容について、疑ってはならない。以前に学んだ内容と異なっていると思ってはならない。ただ正信の仏法が大事であり、出家、在家を問わず、尊重すべきである。また、リンチェンドルジェ・リンポチェは、在家の上師であると思う必要もない。八大菩薩の中で、ただ地藏菩薩だけが出家の姿で、その他の菩薩はみな在家である。禅定におは異なる層がある。以前、あなたが学んだのは禅定の浅い層の内容のみである。また、以前の師の説が間違っているということでもない。もし、さらなる階段を深めようとすれば、かならず『宝積経』に拠らなくてはならず、説かれている禅定の方法を修めなくてはならない。リンポチェにもA、B、C、Dの段階がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がどの段階かは知らない。ただ分かるのは、あなたがもし今までの仏教の修行の経験に拠らないで、自己の考えで修行しようとしたら、よれは誤りに陥りやすい。禅に長く励んでいるのに、なぜ禅定にいたらないのか?それは行き方が間違っているのである、学び方が間違っている、修行が間違っている、唸じ方が間違っているのである。人に法を説くには、ただ仏典に拠って説くしかない。あなたはそれを聞かなくてはならない。

私達は自分で修行できると考えているが、『地藏経』では地藏菩薩はよく百千万億世界に化身すると述べているが、また謙虚に仏の威神力を受けているゆえであるとしている。私達はどうして自分が坐禅して修行できると思っているのか?『宝積経』が指摘している禅定が犯す誤りはすべて私達が犯している。当然修行には成果がない。もし上師の教えに準じて修行し、教えを実行すれば、失うものはない。教えによらない修行は、ただ自分の満足にすぎず、役には立たない。

「不著此世界。不著未來世界。(この世界に囚われず、未来世に囚われず)」は、喩えて言えばリンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を済度し、この何十年、救った人々の数は数えきれない。救えばすべてを忘れる、すべては縁に従う。リンチェンドルジェ・リンポチェは、すでに救われる衆生にこだわることはないし、また、この世界を救うことにこだわることもない。もしリンチェンドルジェ・リンポチェが死者を済度することにこだわるとしたら、まもなく済度は終わって、救うべき人はいなくなるだろう。もしこの世の人々を助けることに執着するなら、それらの人々は間もなく死に絶え、救うべき人はいなくなってしまう。もし資産家を救うことにこだわれば、貧しい人々は来ることができず、それではこの世界にこだわることではない。発願してこの世界に戻り衆生を済度しようとするが、リンチェンドルジェ・リンポチェは二度と戻らないと決めている。あるいは、リンチェンドルジェ・リンポチェが浄土で修行していたとき、そのリンチェンドルジェ・リンポチェがかつて救った人々が、精神を病んでこの世界に戻りたいと願ったため、リンチェンドルジェ・リンポチェは戻って彼らを救った。リンチェンドルジェ・リンポチェは戻ることができる。しかし、あなた方はこうした人々ではない。なぜなら、なぜなら、あなた方は精神を病んでいるわけでない。

「不著未來世界(未来世に囚われず)」この句は浄土に執着し、その世界に行きたいと思ってはならないということである。法身の仏となればそれは容易かもしれないが、数年の修行でどうしてそんなことができようか?法身仏、報身仏と言ってはならない。私達の身では、菩薩になることも不可能であるから、浄土に行くのである。阿弥陀仏の浄土は、人に幸福を与えたり、楽な生活を送ったりさせるところではない。また、永遠の世界でもない。阿弥陀仏浄土に到るのは、ただ一つの中継地点である。また、そこは修行をさせるところである。行がなれば、ある日、仏にまみえることができる。継続して修行すれば仏の果と位をえることができる。そして、多くの衆生を救う能力を得る。しかし、もし阿弥陀仏の浄土に囚われると、それは「著未來世界(未来世に囚われる)」ことで、行なって仏にまみえることはできない。

「不依止施。不依止戒。不依止忍。不依止精進。不依止禅。如是修行禅定。(布施に止まるに依らず、持戒に止まるに依らず、忍辱に止まるに依らず、精進に止まるに依らず、禅に止まるに依らず。かくの如きは禅定を修行するなり。)」私達は六波羅蜜として布施、持戒、忍辱を行ずる必要があると知っている。自分の忍辱の行が好くできたからと言って、禅定が他の人よりよくできていると思ってはならない。布施、持戒、忍辱は、我々が福徳を積むのを助けるものであると知るべきである。仏を学ぶ障礙を除き、福徳があってはじめて禅定の行をすることができる。どうして病気のときに薬を飲むのはよくないのか?なぜなら福報がないからである。しかし、われわれはただ福報を求めるためだけに布施持戒忍辱するわけではない。これらを為すことで禅定を助けるのである。しかし、こうしたことをしたからと言って他の人より優れていると思ってはならない。歴代の大禅師は、大きな福報がなければ修行することはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、修行の時からこのことをよく知り、福報がなければ禅定の修行はできない。福報がないと、禅定は謝りやすい。しかし、福報があっても禅定がよく修行できるということではない。誤った道に行かせないということである。だから、ここで説かれている禅定は「不依止施。不依止戒。不依止忍。布施に止まるに依らず、持戒に止まるに依らず、忍辱に止まるに依らず」」である。喩えて言えば、 リンチェンドルジェ・リンポチェは法座の上で坐禅を組み2、3時間して、法座からそのまま離れることができる。皆さんにはできないだろう。なぜか?福報がないからである。簡単な二つのことばで、御法話を終わりたい。福報が身につかなければ、みなあなたの障礙になる。俗に言う「福至心霊(精神の至福)」で、福報が十分になると、為すことはみな正しくなる。福報が十分でないと、為すことはみな誤りになる。歴史上の人物から分かるように、ある皇帝は愚昧ではなかったが、結果としては人に殺された。ある家臣はよく政治をなし、忠心で皇帝に仕えたが、結果としておかしなことに、人に殺された。ある奸臣は、かえって一生幸福に過ごした。

禅定はあなたの心の訓練である。修禅は我々を空に至らせるものではない。思いをもってはなかない。禅定は一種の道具である。仏典の上では、禅定で仏果が得られるとは説かれていない。禅定は我々の能量を妨げる電波の障害を停止するもので、煩いを減らし、どのような助けが必要かを教え、自己の本性は因縁果に拠ることを明らかにするものである。みなさんは表相から見ても、ただ相手の外見や、話し、行動、ふるまいが分かるだけで、世間の哲学、心理学はただ姿形から入るものである。しかし、相手の動機や起源は何か?どうしてこうしているのか?は分からない。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは衆生の因果と因縁をはっきり理解できるのか?それはよく禅定を行じたからである。禅定を通じて、衆生にどんな助けが必要かが分かる。皆さんは「自然」が非常に重要だということを知らなくてはならない。禅定を修めることはとても自然であり、作為ではなく、故意でもない。禅定を修めると、法性が顕現して菩薩と同じになると思ってはならない。あなたのいかなる執着も誤りであり、ひとつの誤りが次の誤りをもたらす。ひとつの誤りは次の誤りに繋がる、よく慎まなくてはならない!

『宝積経』を説く僧侶は非常に少ない。なぜなら述べた後恐ろしいからで、仏経が説いたことは何も為すことができず、弟子はみな逃げてしまうと恐れるからである。だから、敢て説くことはしなかったのである。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは、よく皆さんを救う力があるから、皆さんは逃げることはなかった!しかし、この身は一個の説教者であり、『宝積経』で説かれることができるようにするわけではなく、内容について説くことができるだけである。なぜならこの仏の教える修行の方法は、自分で為すことができなければ語ることはできないもので、そうでなければ戲れ言と言ってもいいであろう。『宝積経』は祖師ジッテン・サムゴンが説いた顕教の修行を基礎に、ジッテン・サムゴンの弟子である私が、もし経典を語ることができなければ、上師に申し訳がたたない。仏経の言うように、説法者は仏法は皆さんが聞いて分かる話を超えてはならない、それでは皆さんは聞いても分からない。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはなお説かねばならない。しかし、身さんが聞いて修行できるわけではなく、この世では行はならないであろう。ただ、皆さんに種子をまくことにはなる。来世ではきっと修行できるようになるだろう。経典をいただけば、語ることができない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、ユーモアをもって全身が不快だとお話になった。説くことができたら、皆さんは将来、続けて仏道を学ぶ機会が生まれ、皆さんが続けて仏道を学び、行を続ける助けになるであろう。

もしあなたが阿羅漢を修めれば、『阿含経』と『雑阿含経』を説くべきである。菩薩道を歩みたいなら、『宝積経』を説かねばならない。『宝積経』は菩薩道の修行をする人に、心と顕教の基礎を説いている。これが一切の基本である。リンチェンドルジェ・リンポチェは『宝積経』は長い間だれも本当に役立てることができなかったと述べ、また『宝積経』についての教えを聞くこともなかったと言われた。なぜ、役立てられないのか?それはみな世間法の渦の中にいるので、言ってみればほとんどはご主人、奧さんが話しを聞いてほしい、子どもが話しを聞いてほしい、健康でありたい等、みなさんは皆、こうした渦の中でもがいている。しかし、私は一人の上師であり、仏が説かれたものについて説かずにおくことはできない。顕教の出家の師は、果のあるなしに関わらず、仏のお説きになられたとことを開示しなくてはならない。それは、仏がお説きになられた経典だからである。菩薩道、金剛乗が継続して世間に残ることができるように、リンチェンドルジェ・リンポチェは、まだ説かなくてはならない。

禅定を修める目的は、私達に自己本来の面目を教えることにある。しかし、禅定は智慧ではない。修禅では開悟できない。般若が智慧であり、開悟させるものである。禅定は両刃の剣のようなもので、一面では自分自身を明らかにして、妄念を去る助けをするが、間違った修行をするとあなたを傷つける。その区別は非常に微妙である。ある人々は、皷動が不規則になる。なぜ心律不整になるのか?それは、重い患いが多すぎるためである。未来への期待が多すぎるのである。事実、今あることはすべて因縁によるので、いくら細かく計画しても、因縁がなければ役にはたたない。皷動が速くなる、血圧が上がるのも妄念が多いためである。かといって、ただ何も考えず、仕事をして、家族に給料をあげればよいというわけでもない。成功や失敗を考えるのもよくない。これらも欲望への執着で、とにかく努力して為すことをなし、為すべきことを継続していれば、きっと結果の現れる日がくるであろう。立身出世に患わされてはならない。高峰に登ることがなければ、谷底に落ちることはない。一時の成功は、永遠の成功を意味しないし、一時の失敗も永遠の失敗を意味してはいない。速く走る人は、すぐに息切れしてしまう。ゆっくり走る人がかえって遠くまで行くことができる。

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2018 年 04 月 15 日 更新