尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年1月3日

法会が始まる前に、一人の弟子が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ・リンポチェのご恩を感じ、懴悔をする機会をいただいた。

12年前、つまり2003年であるが、彼は病気の患者を診察していて、SARSに感染し、病状が悪化して危篤に陥った。兄弟子の徐氏が紹介で、弟に代わって尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ・リンポチェに会い、弟弟に代わって法会に参加し、リンチェンドルジェ・リンポチェの助けを得て、起死回生し、危うく一命を取り留めた。退院の後、彼は尊く貴い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会い、リンチェンドルジェ・リンポチェに非常に強く大きな温厚な受容力を感じ、これは彼が何十年も求道してきて、今まで会ったことのないものであった。リンチェンドルジェ・リンポチェは簡単な説明で無限の仏法の深い意味を示し、冬の温かい陽光のように、彼の身口意の業の一切の問題と矛盾を解き明かした。それで、彼は皈依することを決めた。

皈依の後、続けて法会に参加して、約半年が過ぎた頃、彼のSARSの後遺症に大部分は治瘉し、次第にリンチェンドルジェ・リンポチェの大慈、大悲、大功徳と、衆生済度の大きな威徳力を体認した。しかし、彼はまじめに努力しながらも、警戒心は何年もそのままであった。その後、懈怠怠惰に襲われ、時をただ過ごすうちに、ますます教法から離れていくようになった。表面上は每週法会に参加しながらも、与えられた課題は踈かになり、內心の深いところでは、ただ形ばかりの習慣になり、生死の一大事を忘却してしまった。そして、最近の2年あまりはさらにひどいことになってしまった。というのは、教えを実行せず、心は怠慢に陥り、ただ表面を取り繕っているだけで、小さな出来事にあっても落ち着かず、上師の教えを聞かない誤りを犯すようになってしまった。

2013年、つまり一昨年の11月に、彼はネパール法会団に参加した。出発前、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ・リンポチェは特に「仏像を買ってはいけない、タンカを買ってはいけない」と説き「この世界には安いものはない」と諭した。他は長い間、買い物を好む悪い習慣ができており、努力して自制し、仏像を買ってはいけない、タンカを買ってはいけないと言い聞かせた。しかし、心の中ではネパールのものは質がよく安い、買わないのは惜しいと思うようになった。それで最後の3分に、気がゆるみ、自分の貪欲、安いものを貪る心のままに仏像を買ってしまい、上師の教えを聞かない誤りを犯した。同じ年の12月13日リンチェンドルジェ・リンポチェは「他らはいつも話しを聞かない、その時が来ても話しを聞かないであろう」と説き、彼が日常、話しを聞く習慣を持たず、信心の境地になっても話しを聞かない、これは彼の犯した誤りの結果である。彼は多くの誤りを犯した、尊き金剛上師は、このことによって、彼の頭に警策で喝を入れ、彼を夢から目覚めさせた。

皈依弟子のベストを回収された以前の自分を回想して、供養心、恭敬心、降伏の心はすべて打ち折られ、留められていた。身口意の小悪に気づかず、警戒心は散漫で、悪が次第に大きくなって收拾が付かず、いつも誤りを犯すようになっていた。懈怠怠惰とは、己を是とし、自から修行していると思い込んでいるが、実は供養、恭敬の心はただ表面だけである。心は遠く上師から離れ、仏法僧から遠ざかっている。心の中に悪心の貪嗔痴慢疑が常に大きくなり、終には小さなことでも自分の装っていた仮面は剥がれ、仏像を買うという小さな行動でも、内面のひどい懶惰と悪を露呈してしまった。

最近の何年間か、彼は道場に来て法会に参加し、話しを聞いてはいたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、こう説いた。ただ、彼は悪をなさず、善に励むことはせず、貪嗔痴に浸っていた。投資を愛し、節約したのも結局は自分の私心からで、これは、貪欲をほしいままにしたことである。自分の好きなものをやたらに買っていたのも、ものを持ちたいというのも貪欲をほしいままにしたことである。上師に対して完全に皈依して話しを聞かない、これは愚痴の心である。兄弟子の勧めを聞かず、受け入れないで、かえって自分を他人よりよいと思ってきたことは、瞋恚の心に振り回されていたのである。これはただ道場でのことではなく、日常生活や家族、同僚との関係でも自分の利益だけを考え、自己を中心にしている。自らを善しと思う心や態度、これがまさに貪嗔痴に振り回される姿で、今のように上師の加持と兄弟子方の助けにより、2年あまりの反省を経て、彼は次第に自分には数えきれないほど、說きつくせないほど多くの問題があることが分かってきた。彼は現在、思い出すだけでも恥ずかしく、恐ろしく思っている。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する以前の数十年は、彼は各種の宗教に人生の真相を求め尋ねて、何度も見つけだしたと思ったが、心中の疑問には完全に答えることはできなかった。とうとう全てに失望し、生命の迷いから拔けだせなくなった。人生は、まるで暗闇の中を過ごしているようで、何度も躓いた。生活中の失望感、挫折感、未来に対する不確定感、理智と感情が矛盾した亀裂感などが、常に自分を苦しめ、何度も狂暴になり、気の狂ったようになった。皈依して後、尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェの奧義を分かりやすく説く教えにより、非常に強い潜在的なパワーを受けて、知らず知らず、彼の精神と習慣は変化し始めた。仏法の正知正見が、だんだん心中に生まれ、自己を変えることができるようになった。知恵が一歩一歩深まり、心の濁りが少しずつ減って、身口意は整い始め、他は尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェは百千万劫にも遇いがたい知恵の師だと体得し、また、本当に弟子を生死から説き放ち、六道輪迴を解脱させるすばらしい師であると分かった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、百千万劫にも遇いがたい無上の深い妙法を説き、他はこれによって菩提心を起こし、すべてを捨てて尊く貴い金剛上師であるリンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏法を学びたいと思った。かつては何度も懈怠に陥った。逆境の困難に遇うと法座を去りたいと思い、萎縮してしまうのも懈怠である。順境になると放縦になってしまうのも、また懈怠である。

長年にわたり、寶吉祥仏法センターの道場でいつも法会に参加することで、少しずつ福報を得て、次第に改善があり、彼は好き日々を過ごすには自分がなさなくてはならない、気軽にほしいままにするべきではないと分かったが、好き日々が、リンチェンドルジェ・リンポチェが力を尽くし、苦労して、弟子たちがリンチェンドルジェ・リンポチェの保護のもとで穩やかに仏道に励めるようにしてくださった結果とは、知らなかった。寶吉祥仏法センター道場で、気ままにすることは悪をなすことで、努力なしに教えを奉じることも悪である。なぜなら、ただリンチェンドルジェ・リンポチェが、皆が仏教を学べるように保護している結果をただ享受して、自分の幸せをただ求める罪悪は非常に大きいからである。

彼は尊く貴い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの優れた教法の恩に感じ、兄弟子に同意書へのサインを求め、懺悔の過程をよく自分に反省させ、もう一度よく自己の內心の深底にある偏見と隠された悪を認識させるように求めた。

一、最初からリンチェンドルジェ・リンポチェの教法を受け入れず、傲慢にも兄弟子が彼を批判する資格はないと思っていた。ただリンチェンドルジェ・リンポチェは彼に懺悔の心が無いことを知っていた。その後、兄弟子の批評を受け入れることができるようになり、心の中で先輩方の説明は正しいと分かり、改めるべきところを学べるようになった。いわゆる「三人寄れば、必ず師有り」である。

二、最初の頃は、兄弟子がみな彼の顔色を窺うのは虐待のように感じていた。その後、悟りを得て、もともと先輩たちはひとつひとつの鏡であり、悪いものを映し出し、彼の中外にある欠点と悪念を照らしていると分かった。

三、始めは苦しいことを進んでする気にはならなかったが、後になると抵抗する気持ちは、受け入れる気持ちに変わり、リンチェンドルジェ・リンポチェの優れた教法が、まさに彼に学習し変化する機会を与え、努力しないと好機を逸することになると気づかせた。

四、始めから兄弟子の指摘はみな不合理だと思い、傷ついたが、その後、飴のように甘いと分かり、兄弟子が何を言っても反論することなく、みな自分を気づかせ、鏡となり助力となった。自己をよりよく聞き、受け入れ、反省し、繰り返し考え、改めるべき点を思うように変わった。

兄弟子の提起する多くの指摘、アドバイスは彼にまごころが足りないことを気づかせた。彼の行為には反省が見られないなど,彼が自分を守っていた殻を脱がせた。それは貪嗔痴慢疑、汗垢の殻であり,事実上、彼の我慢の一部分であった。繰り返し、繰り返しの過程により,その殻は一層また一層と剥がされ,思っていた以上に多くの殻があった。同意書を交わす過程を経なければ,自分がどれほど深い塵埃汙垢の多くの殻に塗れていたか分からなかったであろう。また、一層、一層と脱いでいくこともできなかったであろう。尊く貴い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教法のなんとすぐれていることか!

心根の転換は本当に不思議なもので、「自らを是とする自我の傲慢」という大きな断層を超越すると、人の心は、それ以前とは同じではなく、世界全体もまったく違って見えてくる。それは、一回限りの人生の転回であり、その個人にとっても奇蹟と言える!彼が自身の犯した過ちをよく分析してみると、教法を聞かなかった根本の原因は以下のような点にあった。

一、意識では尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェは大菩薩摩訶薩であり、仏のような金剛上師であると認知している。しかし、深い信心で心から信じ、投降したわけではない。もし100%の金剛上師への信心と、心から敬っての投降でなければ、教えを聞くことはできない。彼はこう懺悔した!

二、教法に拠って因果の道理を深く認識せず、強い出離の心がない、これでは貪嗔痴慢疑を超えることはできない。彼はこう懺悔した!

三、常に尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェがSARSに感染した自分の命を救ってくれた恩人と思ってはいなかった。彼はこう懺悔した!

四、教法に拠って清淨心から供養することがなかった。彼はこう懺悔した!

五、教法に拠って清淨な戒律を守り、実行していなかった。彼はこう懺悔した!

六、教法に拠って自己の心をコントロールしようとせず、正しい心構えで自己の身口意を改めようとしていなかった。彼はこう懺悔した!

以前、仏道を修めようと、いろいろな道場に出かけていた。時間が経てばたつほど、矛盾と懷疑が益々深まっていった!尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェ之に皈依してからは、状況はまったく変わった。尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェは威儀、慈悲、智恵、大いなる包容力を備え、自然に光と熱を人に与え、煩悩の氷霜を解かし、因緣に拠って福報があり、善根を持つ多くの人々は、ただ最初にリンチェンドルジェ・リンポチェを見たときに激しく泣いて、感動して臣服した。あまりにも多くの弟子、信徒が、リンチェンドルジェ・リンポチェの教化を受け、表面はいつもとなんら変わらないように見えても、ちょうどよい時機を見抜いて、弟子や信徒にまるで奇蹟がもたらすような大きな転回をさせる。寶吉祥仏法センター道場に、尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェがいらっしゃって、様々な奇蹟をお起こしになるのは見なれたことであり、尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェの威徳は人に自然に恭敬心と信心を起こさせる。具徳の上師は弟子達を啓発し、次第に上師の三宝の慈悲智恵が無量無辺で限り無いことを体得させる。尊く貴い リンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲と大いなる智恵に接して体得したので、仏菩薩の慈悲智恵を推測できる。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ・リンポチェの恭敬心と信心を体得し受け入れたので、仏菩薩が生み出す真実の恭敬心と信心もうなずける。上師は仏法僧の全てを集めたと体得できるので、上師の加持は、仏菩薩と繋がっていることも分かる。

この2年あまりの尊く貴い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの言葉による教え、行動による教化は、仏陀がご存命の当時の教導である、経典中に書かれたものとまったく同じで、みな、隨機教化、それぞれの人に応じた教えである。各種各様な人と物事に応じて因果を示し、衆生の因縁に従って援助をし、教えを授けている。この末法の時代にあって、二度と捜し当てることのできない尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ・リンポチェの大慈悲と大成就は、無量の功徳を備えて一切の仏法の事業を成就している。去年(2015年)9月に初めてチベットに行ったとき、多数の瑞相が諸仏菩薩を示し、飛行機での旅も諸仏菩薩と空行護法に守られ尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェを歓喜し賛嘆した。事実上、十数年前、リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子を連れて拝謁し、テンジンニンマ・リンポチェ、ヨンガ・リンポチェ、老ヨギーニと会見したときも、不可思議な瑞相があり、甚だしいものでは6月にも関わらず雪が降り、今の瑞相をさらに超えて、かつてあったものは及ばないぐらいであった。

大陸地区と台湾ではときどき聞くことがあるが、仏教を学んでいる人は、その時が来るのを予知したり、あるいは、座ったまま往生したり、することがある。また、立ったまま旅立ったり、ある場合には死亡したときでも身体が軟らかいままということもある。仏教界ではそうした人々のことを仏教を表すものと説明し、仏法の殊勝さを示すものとして顕彰している。しかし、鳳凰の毛や麒麟の角のように、非常に稀で、数十年に一回ぐらいしかない。寶吉祥仏法センター道場ではかえって、非常に多く見られ、常に起こることであり、弟子達もそんなに珍しいことではないと感じるほどである。しかし、事実上、こうしたことも非常に得がたい瑞相であり、リンチェンドルジェ・リンポチェの無量の慈悲と功徳が瑞相を成就しているのである。尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェは時と場に応じて、一言一行一動がみな仏法を表しており、いたるところで不可思議な殊勝の瑞相が見られるのである。

尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェは類い希な加持力を持っており、癌の重症患者の痛みが再び来ないようにさせる。また、恭敬と信心のある人の問題を解決して、転回させる。まさに死に臨む人に信を起こさせ、その時を予知させる。ある場合は、往生したとき身体が軟らかく、頭頂が熱を帯びて、まるで生きているかのようである。ある者は座ったまま往生し、ある者は紅白の菩提を出現させる。また、ある時には頂骨に円孔が現れ、多くの病気の弟子の、生命ある最後の日々に、苦痛を最小にまで減らし、往生のときには瑞相を出現させる。尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェは、各種の法を修め、他と比べることができない超度力と加持力を備えて、この世界では誰も及ぶ者がない。リンチェンドルジェ・リンポチェが成就した無上の果位は無量の功徳に及び、私たち凡夫俗子に想像できるところではない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェの比類ない果位と大いなる威徳の力は、弟子たちの業力を転換させて、発生するべき問題を変えることができる。末法の時代の私たちは、大多数が福は薄く縁が浅く、悪業は重く、習気が深い。もし上師の加持が無ければ、私たちは逼迫して一生を過ごし、世世生生、何度もの劫を重ねても、修行は何の成果ももたらさない。では、どのようにすれば上師の殊勝の加持を受けることができるのだろうか?当然それは聞法しなければならない。そして、ご法話を聞く良い循環を次第に身につけることである。もし、お話を聞かなければ悪循環に陥る。必ず深く真剣に懺悔し、疑を抱かず、惑わず、深く信心を決定しなければならず、ご法話を聞き、信を深めて、ご法の前に身を投げ出すことである。

彼は懺悔して、彼がSARSに感染したとき尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェが命を救ってくれたことを常に思わず、まるで自分では父母の恩は山のように重いとよく知り、また父母がしてくれた一切は自分にとってよいことだと分かりながら、ある時には心の中に偏見が起こり、ある時には疑心、反抗心が生じ、父母に孝行すべきだと知りながら何もしなかったと述べた。そして、具徳の金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは大聖大菩薩摩訶薩であり、弟子たちにはひたすら慈悲をかけ済度し、弟子たちに対しては自分よりもその生死の大事を重く見ている。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ・リンポチェは、弟子達にとってその恩徳は父母に勝り、このような具徳の金剛上師に対して、もし懐疑心や抵抗心を持つならば父母への孝行を果たさないよりさらにその罪は重く、大いなる極悪である。このように彼は懺悔した!

彼は、教えを大切にして自己の心をコントロールしようとせず、正確な心のあり方で真剣に自己の身口意の三業を改めようとしなかった。自らを正しいと思い、あまりにも自己の考えに拘り、高慢我慢であり、全て自分の利益ばかりを考え、すべてみな自己中心であって、正しく修行しようとしなかった。12年の間、リンチェンドルジェ・リンポチェが自ら説かれた数知れない法会に参加し、生活、仕事、家庭、さらに仏道修行に関わる各種各様の問題について、すべてリンチェンドルジェ・リンポチェがお説きになった中に答えを見出すことができた。大事な点は教えに従わなければならない点にあり、もし日常生活の人事や物事に拘って自分を改めることに思い至らないならば、結局、自分は何も修行していないのと同じである。また仏学の知識についてよく討論していないことも、これらは彼の障礙になる。彼は懺悔した!彼の誤りは、ご法を聞かなかったことにあり、言葉や行ないでの錯誤の多さは説き尽くせず、みな心の邪見により、心がよくコントロールされず、心の態度が整えられず、小悪を軽んじ、また小さな悪念をそのままにしていた。

彼は自己の供養心にむらがあることを慚愧し、自分が時には努力し、時には懈怠であったことを慚愧した。彼はだんだん、発心は情緒の激昂でもなく、熱血の沸騰でもない。深い心中において真に信じ、不断に自己をただしていくことだと体得するようになった。リンチェンドルジェ・リンポチェの簡単で直接的な教導、無疑は浩瀚な仏典が弟子たちに受け入れられる甘露になり、私たちの内心の奧底にとどけられる。それは、ただ人の心を意味するばかりでなく、簡単で行じやすいのは、結局、お話を聞くことに尽きる。彼は常に自己に注意を払わねばならず、一分一秒一念でも鬆懈であってはならない。最高の指導原則で、最も重要な的根本は、すなわち完全な供養心、信心、恭敬、聴聞により上師に皈依することである。同じくリンチェンドルジェ・リンポチェのお話、尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェがなさったものは仏法から来たもので、私たちが自分でするものはみな悪業である。

修行には非常に多くの因縁による助けが必要であり、自分が自分の身口意をほしいままにしない決心が求められる。全世界で最も難しいのは、結局、自己自身であり、自分は自分にとって最大の敵であり、自分にとって最も危険なものも自分である。彼は自分を絶対に好いものだとみてはならないし、自分を肯定する深い病を改めなくてはならない。自我の思いを減少させねばならず、少しずつでも思いを減らして、思いを減らすことに力を尽くし、自我意識が強い人は絶対に平等心は持たず、平等心がなければ絶対に慈悲心を修行することはできない。慈悲がなければ、仏法ではない。慈悲心とは何か?自己の個性を根本から改め、分別心と自己中心の思いを減らし、不足や苦しむことを受け入れ、人に一切を与えようと願う人は、少しずつ慈悲心を養うことができる。

尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェは、弟子たちの日常生活、仕事、家庭あるいは道場の多くの小さな問題について、弟子たちに気づかせ、弟子たちを正し、弟子たちを教育し、彼が次第に人の道にいかに応ずるか、仏弟子としていかに為すべきかを知らせる。もし十数年、大聖上師である尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェの監督の下で為すことができなければ、もし上師の監督と教導を失えばさらに事を成就することはできず、苦海に沈淪するのは当然で、二度と取り返せなくなる!

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ・リンポチェは何百年もの間、絶えてなかった大修行人であり、大成就者にして、大聖大菩薩摩訶薩である。もしこのように具徳の金剛上師に従うことがなければ、無上の幸運を失うことであり、明師を見失い、生死解脱の機会を逃すことになる。この一生を空しく空費して、累世の父母、縁者、一切衆生に申し訳できないことをしたことになる、。今の彼のように深い心から懺悔し、決心して、疑わず、惑わず、ご法を聞き、恭敬して、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ・リンポチェに投降しなければならない。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ・リンポチェのご恩を知らねばならない!尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ・リンポチェがご健康であり、法輪を常に転じて、法脈を永く伝え広めるように願うべきである。

尊く貴い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはご法座にお就きになり、参加している弟子と信徒に続けて『宝積経』をお説きになった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは出家の弟子に前回、『宝積経』の段落をお説きになり、出家の弟子はすぐに回答できなかったので、リンチェンドルジェ・リンポチェは、誰も覚えていないとは!まだ討論して、まるで船が航行して跡を残さないように仏法を学ぶときは聞いたことは忘れてはならないと一喝なさった。

尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェは、『宝積経』は釈迦牟尼仏が菩薩の修行の方法を述べた大きな経典であると続けて、お話しなさった。いわゆる菩薩乗と金剛乗は、最も根本の菩提心である。大乗を修めるということは、つまり菩薩乗と金剛乗の行者のことで、菩提心はとても重要な法宝である。リンチェンドルジェ・リンポチェの修行の経験から言うと、菩提心がなければ、全てがないということである。もし発菩提心がなければ、ただ自己の世間の欲望を満足させるために仏教を学んでいるのと同じで、容易に迷い、絶対、修行を続けることはできない。あなたがもし、ただ家庭が円満で、奧さんが話しを聞き、子どもが優秀で、仕事が順調というばかりでは、仏を学んだことにはならない。これらはだだのあなたの欲望にすぎない。当然、ある時仏菩薩があなたの欲望を満足させられないときには、三宝を敬わなくなる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の趙さんという弟子を助けて14年になる。そこで、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の機に応じて説き、この趙さんという弟子は先週、皈依の妻と子どもたちを連れて来て、リンチェンドルジェ・リンポチェに会って、彼の90歲の父親の病苦を軽くしてほしいと願った。この弟子は皈依してすでに14年になるが、彼の父親を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに会わせようとしたことはなかった。彼は全心全霊をもって妻と子どもたちの世話をしていたので、心の中にはただ自己の家庭があるばかりで、父親の事についてはかえってほとんど関心を払っていなかった。十数年前に彼が皈依した時、彼の妻は不満で、毎日家で彼と大小の喧嘩を繰り返していたが、その後リンチェンドルジェ・リンポチェが仏法によって彼の妻の心を転回させると、彼の妻もリンチェンドルジェ・リンポチェのすばらしさを知り、子どもも授かった。子どもが生まれると、また多くの身体上の問題が起こったが、全部リンチェンドルジェ・リンポチェが見抜いて援助して解決した。

先週、この家族が父親のためにリンチェンドルジェ・リンポチェに会いにきた時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼ら一家3人が父親のために大礼拝で福報を積むように求め、その結果昨日また面会を求めリンチェンドルジェ・リンポチェに会った時、大礼拝は役にたたないと応えた。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたが大礼拝をすれば、必ず役に立つ。ただ、あなたはいつそれを用いればよいのか知らないので、それはあなたが一番必要とする時である。しかし、彼らは役に立たないと言った。それが役に立たないのは、彼らが自分で大礼拝の福報を無意味にしてしまったためで、リンチェンドルジェ・リンポチェは6年の時間をかけて自分の母親の業報を払ったのだから、どうして彼らが一回の礼拝でできるはずがあろうか!昨日、弟子の趙さんは、また彼の他の兄弟姉妹は世話ができないので、彼が介護に便利なように父親の気管切開の署名に同意し、苦痛を軽減できなかった。彼は自分で医師が彼の父親の気管切開をすることに同意したが、署名した後、しないほうがよかったと後悔して、リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た。結局上師を利用したのは、こうした程度の問題に過ぎなかった。自分は家の中で一番格下で、兄弟姉妹が介護に熱心で、彼は方法がないと説明したが、実際には彼自身が怠惰であり、兄弟姉妹に彼は親不孝だと言われ、彼らのせいにできないので、リンチェンドルジェ・リンポチェを訪ねて、煩わせたのである。

あなた方は最も常に口にするのは自分ではうまくでないということだが、しかしリンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方にどのようにすればいいか教えていなかったであろうか?皆さんはそろって答えるだろう。教えてくださったと。リンチェンドルジェ・リンポチェは、続けてお説きになり、リンチェンドルジェ・リンポチェはあえて自分でよくできているとは言えない、しかし、護法の援助によって、リンチェンドルジェ・リンポチェの母親が往生する前、リンチェンドルジェ・リンポチェも病院の同意書に署名した。ただ、同意書の内容はリンチェンドルジェ・リンポチェは母親が通常の医療行為を受けることを承諾したが、いかなる救急医療も受けないことを決めた。今、この弟子の父親はすでに気管切開を受けており、果報はすでに成熟し、すでに定業であるのに、まだ求めようとしている。釈迦牟尼仏と言えども衆生の果報を変えることはできないように、どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェが変えることができようか。気管切開をすると、中脈が断たれてしまうことを知らねばならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼らが何を求めているのかまったく理解できなかった。

その場で、リンチェンドルジェ・リンポチェは一名の医師を指名して、気管切開をした患者はまったく痛みを感じないのかどうか、説明するように求めた。その医師は、人の呼吸器官は鼻腔から気管の部分で湿度と温度を調節する機能があるので、もし気管切開をするとその機能は失われる。そして、気管に穴ができるため、人体に不自然な傷口があることになり、非常に容易に感染し炎症を起こす。その老人がこうした手術を受けたことは非常な苦痛であると、説明した。

あなた方はみな妻、子ども、仕事に注意を払って世話をし、毎日、自分の生活を送っており、父親母親もそうして自分の生活を送っている。時が過ぎ、こうして一日一日が過ぎていくと、父親母親は病気になり、医師に診てもらうようになる。この弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェは、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼の妻の話を聞くべきだと求めた。彼の妻もまたリンチェンドルジェ・リンポチェに、彼女の義父は本当にかわいそうだと言うように求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは説明なさって、今は彼らが交替で上師を勤めているのか?いったい、いつから彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼の妻の話しを聞かねばならないと指図できるようになったのか?彼の妻が自分の家の中で使っている話し方で彼女の夫に話すことはかまわないが、しかしリンチェンドルジェ・リンポチェと彼女の夫は同じ男性だから、彼女の話を聞かなければならないのか。リンチェンドルジェ・リンポチェは決まった名前を持っている。いつから趙姓に改めたのか?ただしリンチェンドルジェ・リンポチェは男性に偏っていることはない。なぜなら修行した人は最後には男女の別はなく、男でもなく女でもなくなるからである。

弟子の趙さんの子どもは眼がもともと弱視で、また歩行するときうまく歩けなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが加持した後には非常によくなって、もし単純に医療の話で言えば少なくとも500万元は必要になったであろう。ただ、彼らは元もと真心で供養する気がなかったので、500万元要るとはいわず、50万元も出さなかった。その場でリンチェンドルジェ・リンポチェは一名の眼科医師に弱視の疾患について説明するように求めた。視力が戻ることは可能なのか?医師である弟子は説明して、彼はかつてこの子の検査を手伝ったことがあるが、ひどい乱視で、さらに近視があった。こうした状況では、もし効果がないとしても、ひたすら治療が必要である。ひたすら医師を探すことに多額のお金が必要で、費用はリンチェンドルジェ・リンポチェがお話になったのと大体同じで、弱視は非常に直しがたい。リンチェンドルジェ・リンポチェはお説きになり、ただ子どものこうした問題が改善された後、この十数年間、彼らは平安な日々を過ごしてきて、これはきっと自分の修行の結果であると認識して、完全に上師が彼らのためにこうした安穏な日々を過ごせるようにしてくれたことを忘れてしまった。趙一家には菩提心がないので、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らを助けて、多額の金銭の負担を除いてくれたことを忘れ、恩義を忘却した。上師である仏菩薩が彼らの欲望を満たせないとき、今回の父親のような問題が起こった。その場でリンチェンドルジェ・リンポチェは怒った。もし彼らが不満足なら、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らの欲望を満足させられないと認識して、ここを直ぐに離れてかまわない。リンチェンドルジェ・リンポチェに怒らないようにしてほしい。それはリンチェンドルジェ・リンポチェが彼らの怒りを恐れてるからではなく、仏典で説いている、三宝を軽視すると地獄に墮ちるからである。リンチェンドルジェ・リンポチェは、皆さんの誰一人として地獄に堕ちるのを見たくはない。

この弟子は話しの最後に、リンチェンドルジェ・リンポチェに父親には彼への恩があると言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に、どんな恩があるのか?と問うた。あなた方はよく聞きなさい、彼は父親が彼の妻を紹介したと言った。彼は完全に父親の彼への生育の恩を思わないし、また上師が彼の妻を仏を学ぶようにさせた恩に気づかない。上師が彼の妻に他を殴らないように助けたことも言わないし、上師が彼の子どもを助けたことも話さない。ただ父親が妻を彼に紹介したことだけを言っている。だから、彼に恩がある。彼の心の中にはただ彼の妻一人しかいないようである。仏学を学んだ最後が、心中にただ妻と子どもしかないというのは、非合理極まることである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、弟子の趙さん一家の皈依した弟子のベストと持っている法本を没収するように指示し、ただの信徒とした。今回、彼らを放逐しなかったのは、最近、最も尊い 直貢チェツァン法王が、現在の末法の時代の衆生は罪業が重く、真実で正しい仏法を聞き抜くのは非常に困難で、衆生に因縁が尽きるまで仏法を聞かせ、真正の仏法を聞き取るのは将来のまたの機会とする必要があるとお話になったからである。リンチェンドルジェ・リンポチェが変わったのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは変わらないが、ただ最も尊い 直貢チェツァン法王の意見を聞くことにしたからである。皈依して14年は長い時間であるが、今になって何が出来したか?一つはリンチェンドルジェ・リンポチェは忍耐心があるからで、二つにはリンチェンドルジェ・リンポチェもすでに古稀を過ぎ、時間は多くないからである。

別の呉さんという弟子であるが、彼は皈依する前から人工透析を受け始めていた。皈依してから、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が毎週、透析を受ける回数を減らせるように助けた。事実上、腎臟に問題のある人や糖尿病に罹っている人はみな殺生の仕事に関係している。ただ、弟子の呉さんはひたすら法会に参加してきたので、傷つけてきた衆生はたぶんみな済度されたと思い、今までの殺生の家業は気づかなかった。また、先代のことは自分には関係がないと思ってきた。この人はただ健康状態が悪く、今まで懺悔心を起こしたことがなかった。彼は後になるとリンチェンドルジェ・リンポチェに、自分は早く死にたい、もう苦しみを味わいたくないと言った。今回はリンチェンドルジェ・リンポチェが日本で彼の施身法を助けたので、福報が起こり、上師と話すようになった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、この弟子に尋ねて、あなたは苦しみを受けたくないが、では、あなた方の家はにだいに渡って殺生を家業にしたがもうそれはしなくてよいか?この弟子はついに家族が二代にわたって養鶏と鶏肉の精肉を家業としてきたことに思い当たり、懺悔心を起こした。彼は皈依してこんなに長い年月が過ぎたのに自分の家族の養鶏のことは一度も話さなかったが、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェの教法を受け入れたので、懺悔心を発し、彼の家族が二代に渡って養鶏を営み、殺生を業としてきたことに気づいたが、彼はまだ苦しみ続けなくてはならず、死ぬことはできない。実際、苦しみたくないというのはただの現実逃避の心理にすぎず、果報を引き受けたくないということである。なぜあなたは苦しめられなくてはならないのか、それは痛みがあなたにあなたのしてきたことを感受させるからであり、痛みが起こるたびにまたひとつ、あなたにまた機会を与えてくれたことで、あなたは痛みに感謝しなくてはならない。もし、あなた方に立場が換わった場合、それは先代のしたことで、私がしたことではない、私とどんな関係があると思うかもしれない?事実、関係はあるのである。

弟子の呉さんは、特に仏教の修行はしなかった。ただ、リンチェンドルジェ・リンポチェのグループの会社で問題が起きたとき、弟子の呉さんは問題の処理を手伝うことができたので、リンチェンドルジェ・リンポチェはよく覚えていて、だからこの弟子は因縁があってポワ法で救われたのである。皆さんは、いろいろな人が来て手伝いましょうというのを聞いてはならない。皆さんは、みな手伝ってもらえばもらうだけひどくなり、手伝ってもらえばもらうほど、忙しくなるだけである。

弟子の呉さんは往生したとき口が開いたままになり、彼の奧さんもまた皈依して十数年になるが、彼女は主人が口を開いたままだったのは歯がなかったためだと言った。これは彼女が仏法を信じていなかったことを示しており、親類の解釈に拠っていた。ただリンチェンドルジェ・リンポチェの老いた母親も歯はなかったが、往生のときには口は閉じていた。大修行者を除けば、通常の人は往生の時口は開いたままである。それは最後の呼吸をしようとしたときの自然な反射的動作だからである。リンチェンドルジェ・リンポチェは神通によって、母親自身は自分が往生したことを知らず、まだ自分が眠っていると思ったので、口は閉じたままだったのであると分かった。リンチェンドルジェ・リンポチェの老母には歯はないが、まだ酸素吸入管が入っていて、唇はかえって固く閉じられていた。母親は肺炎で、多くの痰を吸い出していた。仏菩薩がリンチェンドルジェ・リンポチェの一人の文字を知らない、懺悔も分からない、仏法の修行をしたこともない、上師と弟子の関係もよく分からない母親を通じて、皆さんにリンチェンドルジェ・リンポチェが母親のためにどれだけ多くの準備をし、往生の時には種種の瑞相を表したかを分かるようにさせたことに感謝する。母親は台湾に来たばかりの時には涎をながしていたが、香港に居たときに薬を飲み過ぎ、一種類の薬が彼女の神経を弛緩させてしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェは非常な注意を払って母親の涎が止まるようにした。

リンチェンドルジェ・リンポチェは感嘆なさった。末法の時代、医療はますます進步したが、衆生の業はますます重くなるばかりである。古代の人は、事故による死亡でなければ、みな家の中のベッドで死ぬことができた。今の印度のある地方には、まだこうした伝統が残っており、病気で最期を迎えようとしている病人は家の中で死を待ち、病院の内で過ごさなくてもよい。インドのある地方は、また場所を準備して、帰る家のない貧しい病苦の人に、安寧のうちに最後の階段を迎えるようにさせて、いなかる医療もおこなわない。台湾ではもし医療を施さないと、被告として法廷に立たされることになる。非常に多くの死者がリンチェンドルジェ・リンポチェが彼の仏教の修行を助けていたとき、何かを言おうとしていたが、弟子の呉さんもそうである。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼の妻にそれを伝えた。最近また洪さんという弟子が往生したが、彼は往生する時、ポワ法はしようとはしなかった。なぜなら彼は生前ひたすら死にたくないと思い、ポワ法を必要とは思っていなかった。この二名の弟子はともに高齢で、病身であったが、二人の因縁は異なっていて同じではなかった。

別な江さんという弟子の主人が二週間、新たにもう一度皈依することを求めていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼に、次のとき奧さんを連れて、もう一度、皈依することを求めるようにと指示した。彼は、次のときに奧さんを連れて皈依を求めた。先週の土曜日、リンチェンドルジェ・リンポチェは江さんにあなたはどんな誤りを犯したかと問うた。8回訊ねたが、答えは要点がはっきりせず、ただ懺悔が必要で、主人がとても驕傲だと言うばかりであった。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で弟子の江さんに、あなたのことを他の人に聞かせてもいいか?と聞いた。弟子の江さんは答えて、いいです。ありがとうございます、リンチェンドルジェ・リンポチェ。私に皆さんの前で懺悔する機会を与えてくださってと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、続いて説明なさり、この弟子の主人は11年前に別な道へ行ってしまった。つまり、皆さんが言うところの二号さんである。その当時、この弟子はご主人を連れて会いに来てリンチェンドルジェ・リンポチェ、リンチェンドルジェ・リンポチェが主人を叱って、主人を回心させてくださいと言ったが、かえって彼女の主人を傷つけてしまった。しれは、当時彼らが面会に来たときリンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女の主人に話しながらその半ばで、ただ、「できることは、二号さんをつくるということだ」と言い、その後はもう何も言わなかった。彼女の主人は、怒って身を起こして、その場から立ち去った。

昨日、彼らが会いに来たとき、リンチェンドルジェ・リンポチェは、後半の話しを言い終えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女の主人に、「できることは、二号さんをつくるということだ、しなければならないことは家族の世話をよくすることだ」と説明した。しかし、11年前は彼女の主人は、ただ前半だけを聞いて離れていった。リンチェンドルジェ・リンポチェは忍耐強いので、11年前のことをみなまだ覚えていて、11年彼が来るのを待っていた。彼らはまた、もう一度皈依することを願い出て、とにかく一家で皈依することを希望し、正常な生活を取り戻して、すべてが幸福におさまった。また、仏菩薩によって欲望を満足させようというのは、まったく真心からの皈依ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェの心はとても繊細で、あなた方が前で跪くと、リンチェンドルジェ・リンポチェは何でも分かってしまう。リンチェンドルジェ・リンポチェは、なぜあなた方の問題を取り出そうとするのか、それはリンチェンドルジェ・リンポチェは皆さんが皆死んでしまうのを生きて待っていることはできないからで、皆さんの大部分は、リンチェンドルジェ・リンポチェに比べると、この世を去るのはその後になるからだ。ただ、あなた方に現在のこうした様子や行為を見てみると、その時に浄土に往生するということも、三悪道に墮ちないようにするのも非常に難しいことは言うまでもない!だから、ちょうど今話した弟子の趙さんの事情も起こったのである。

今までのこうした事情を聞いたら、あなた方はお話を聞いたと思わず、こうした問題は皆、あなた方自身に起こりえるのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて、参加している皆のために『宝積経』の御法話を続けた。前回の『宝積経』のお話は、すでに4種の菩提心を発する次元についてであった。第一段階は上師と声聞、縁覚、菩薩がみな来てあなたに菩提心を発することを勧めるときである。この時、修行者は動かされるが、主動的な発菩提心ではない。また、過去世に発した発菩提心の願の機縁が成熟した時、自然に修行者があなたに菩提心を発することを勧める。第一種はまだわざとらしいである。発菩提心にも菩提の相が必要で、相とは外に顕れる行為であり、言行や日常の動きが、因果の道理を信じ、戒を守ることを含め成すことの一切はみな衆生のためであり、自己のためではないということである。菩提相はあなたが心で理解できればよいということではない。これはあなたの行いを指しており、あなたが表に出して為すべきことである。もし戒を守らず、また慈悲を修めていなければ、まだ菩提心を発したことにはならない。少なくとも菩提の相があることが必要で、深く因果が道理を信じ、戒を守り、お話を聞くことである。

修行しても、もし菩提の相に関連する相がないということは、結局はただの信徒のひとりに過ぎず、よろしいか、まさに信徒なのである。不信の人よりはましであるが、しかし、生死を解脱しなくてはならないが、それにはまだほど遠い。菩提心がなければ、今まで積んで来た功徳は、あなたが銀行に貯蓄してきたわずかの貯金のようなもので、この世代では使うことはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェは過去世に必ず菩提心を発していたのにちがいなく、だからこの世代で釈迦牟尼仏の舍利に会ったときに、虹色の光を見ることができたが、多くの人には見えなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはまた非常に多くの偉大な成就者と会う縁を得て、大成就者の加持を得てきたが、これで初発菩提心である。修行者が衆生の苦を理解し、菩提心の功徳と衆生の益するところを知るようになって、第二段階の菩提心を発することができる。修行者はよく苦しみと輪迴を離れる方法を知り、進んでよく衆生が輪迴を離れて、生死を解脱する助けをする。これがすなわち第三段階の菩提心になる。第三段階の菩提心を発する行者は、自身がすでに生死を解脱しており、自身の事をよく処理できる人である。他者の問題を解決する能力を持つためには、まず自身の問題を解決する力を持たねばならない。菩提心の力と功徳を知った後、衆生の利益のために発願して成仏する。所こうして発した菩提心が第四段階の菩提心で、いわゆる阿耨多羅三藐三菩提心である。

『宝積経』の、この段落の話からわかることは、修行には段階があるということである。一層一層、上がって修めていく。皆さんが思っているようにすぐに為しとげられるものではない。真の発菩提心には、六波羅蜜を為しえることが必要である、六波羅蜜を為しえれば、私たちが煩惱を断つことを助けてくれる。世尊は、存在する菩薩道の修行をまとめて言えば、六波羅蜜の修行の法門であるとした。菩提心がなければ、六波羅蜜を実行することはできない。菩提心を発するまえにまず慈悲心を持つことが必要なのである。

経には「善男子、何をか菩薩、忍辱を修行すると云わん。善男子、乃至、毀罵され、その悪を聞說さる。若しくは打たれ繫閉され、若くは手足を截たる。皆能く忍受す。彼の前の人の為に忍辱心を起こす。菩薩、かくの如きの忍の修行を已んぬ。阿耨多羅三藐三菩提を迴向して、彼を以って忍にして慢心を起さず。これを名づけて菩薩の忍辱の修行とす。」

忍辱を修めるということは、自分が福報を得るためではない。また、自分の身口意のはたらきでいかなる衆生を傷つけないようにさせることではない。後で話をするが、忍辱を修める功徳は阿耨多羅三藐三菩提を回向することで、自分が忍辱を修して、自分が他の人よりも好いと認めてもらうためではない。仏を学ぶとは自己を見つめるためであり、他の人の誤りを指摘するためではない。自分がより多く理解したことで、結局、他の人を正すこともできるようになる。他者を批判するのは、みな誤りであり、あなたの誤りである。もし自分が戒を保っていると思い、他の人は戒を守っていないというのは他の人を批判していることで、つまりは我慢を強めているだけで、妄りに言葉を使ってはならないという戒を破ったことになる。この戒は非常に容易に犯してしまう。あなたは伝戒師ではないし,他の人の破戒を指摘する資格もない。世界中のすべての上師が死に絶えたのなら別だが、決して他の人のためによいことをしているなどと思ってはならない。上師はまだ存在しているので、もし相手があなたに教えを請うて来たら、あなたはその人によい先生がいることを教えるべきである。決して、言葉を妄りに使う誤りを犯してはならない。寶吉祥仏法センターという道場の特色は、同じ問題のある事情についても時と人に応じて異なる処理の方法がある。もしあなたが以前はこのようにはしなかった、自分のほうが正しいと思い、先輩後輩のよき師よき同朋に意見するとしたら、これは我慢を強めるだけで、忍辱を修したことにはならない。

忍辱を修める主要な目的は、私たちが我執を破ることを助けることにある。皆さんも常々、我執を破ると言っている。では、どうやって破るのか?私たちは明らかに神経があり、身体があるのに、我執を破らなくてはならないというのは矛盾している問題である。当然だが身体はあなたである。空腹になったときに、あなたは自分の体にお腹が空くのは許されないなどと言えるのだろうか?たとえ禅定を修めたとしても、肉体はまだ存在し、身体はまだ呼吸を必要とし、血液もまだ流れているから、空腹が長く続きすぎれば、いつかは血糖値が低下しすぎることになる。だから、私たちはみな身体の神経反応に左右されており、意識が心に与える影響に支配されている。ではどのような法を修行して我執を破らなくてはならないのか?それは六波羅蜜を用いることである。六波羅蜜の中の第三の法門が忍辱であり、その前の二つが布施と持戒で、つまり捨を修めることなのである。

心と意識はものの両面で、心は単独で存在しているのではなく、修行していない人は、心は意識の影響を受けて行動を起す。煩悩と欲望は眼耳鼻舌身意の六根が外界の色声香味触法の六塵に接触して生まれた反応で、意識は好き嫌いを分別できるので、心は意識に従ってすぐに動いてしまう。意識はすなわち、私たちの眼耳鼻舌身意と、末那識と阿賴耶識である。心の習慣は意識に影響され、意識は人生経験の影響を受ける。人生経験とはなにか?身口意はみな貪嗔痴慢疑の五毒である。私たちの煩悩と欲望は眼耳鼻舌身の五根が外界に接触して生み出された神経の反応で、阿賴耶識は、まるでコンピューターのハードディスクのように、こうした反応が蓄えられる場である。私たちの意識が生み出した反応は、あたかもコンピューターのスイッチを入れたように、意識の反応は非常に速く、直接、心に影響し、心は意識に従って動かされる。修行とは、私たちの心が意識をコントロールするようにさせるのを助けることである。

もしまだ身の回りの人を見て気入らないときは、つまりこれは、あなたが慈悲心を修めていないことを示している。慈悲がなければ空性を理解することはできないし、慈悲なくしては菩提心を持つこともできない。リンチェンドルジェ・リンポチェがそのまま皆さんに示したいことは、この森羅万象の世界の中には、誰一人何ひとつとして、あなたと同じ存在はないということである。たとえ一卵性双生児であっても、たとえ親や兄弟であっても、あなたと毎日生活をともにして十数年過ごした夫妻であっても、みな同じにはなりえない。仔細に観察してみれば、それぞれの個人が毎日目覚めて最初にしていることはみな同じにはならない、どうしてか?それは習慣がみな異なっているためである。みな同じではないならば、どうしてあなたは他の人がしていることをみたとき、自分がしていることよりも劣っていて、彼らはよくないと思うのであろうか?まさにあなたが好し悪しと思うことすべてをよく忍ぶことができれば、「我」の思いを自然にだんだん減少させるべきである。我執の重い人は慈悲心を修めることはできない。

経文には、「善男子、菩薩いかんが精進を修行すべき。善男子、菩薩、作すはこれ思惟なり。虚空界は無量無辺のごとく、衆生界もまた無量無辺のごとし。唯我一人独無にして等侶なし。余りなく涅槃界中に入らしむるに、菩薩、彼の因縁のために精進の行を発するがごとし。」

精進は、あなたが毎日どれだけ唸仏したか、どれだけ礼拝したか、どれだけ皈依したか、と言っているのではない。これらはみなただの助縁にすぎない。菩提心がなければ役にはたたない。私たちは心の大きさを拡大して、虚空のように無量無辺にしなくてはならない。あるとき一度リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関の修行中に、尊勝なる直貢チェツァン法王に教えを請うたことがある。「心は太虚を包む」この句は検討しなくてはならない。なぜなら心が太虚を包むという句は、太虚には限りがあるということで、心が太虚を包むことができるとは、もし心が太虚を包むことができるなら、心もまた限りがあることになるのではないか?また、虚空が一つの固体の形状をとっているなら、心もまた一個の固定した形状なので虚空を包むことができるということになる。だから、「心は太虚を容れる」が「心は太虚を包む」より適切であろう。心には限りがないので、無限大になりえる。心は無量無辺にして限りがないので、遍くよく虚空を満たすことができる。つまり、『般若心経』が説くところの不生にして不滅、不增にして不減である。『金剛般若波羅蜜経』はそのままこの箇所を解釈して、以前に述べた空性は体得しがたいとしている。現代では科学が発達して物質について分子の組成として理解している。あなた方も比較的容易に空性は体得できる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、体悟して心に到ることは虚空に遍在しているので、仏法はよく無辺無際の衆生を助けることができる。この部分が示している宇宙観と現代科学の発見とは呼応している。事実上、科学界の研究は既に。宇宙は常に止まることなく外に膨張していると証明しており、これもまた無限ということである。虚空とは無辺にして限りがないということであり、虚空が無辺無際であるから、虚空中の衆生も無量無辺である。虚空を地球上にどのぐらいの生き物がいるか、何種類の生き物がいるかと関連付けてはならない。科学者もまだ確定することはできない。科学者には、ただ毎日新しい昆虫、新しい動物、植物の品種が発見されているということがわかるだけである。菩薩は、衆生は無量であるから、無量の衆生の利益のために、発起して精進して仏法を勤めて学ぶのである。だから、菩薩は自分が何千何万の衆生を済度したかに満足したり、驕傲に陥ったりしない。また、只自分ひとりで、他者はないと思ったりもしない。弟子の趙さん一家の心中にはただ三人の世界しかなく、三人の世界で全世界に向かおうとしたが、こうした心はまことにあまりにも狭隘だと言わざるをえない。

リンチェンドルジェ・リンポチェの母親が往生した後、その何時間も前から、リンチェンドルジェ・リンポチェは出家の弟子と何人かの弟子を念仏のために行かせた。これらの出家の弟子は六字大明咒を唱えその念仏は非常に力があった。しかしながら、リンチェンドルジェ・リンポチェの母親はまだ死には到っていなかった。ただその傍らにいて、彼らが何をしているのかと見ていた。亡者は非常にはっきりとあなたは本当に自分を助けてくれるのかどうか分かっている、なぜ彼女は旅立たなかったのか?それはあなたがたの功徳が足りなかったからで、慈悲心がなく、菩提心もなかったからである。リンチェンドルジェ・リンポチェは他の人を例にして範を示し、あなたがたは自分の母親に対して、リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜそんなことをするのか、残酷だと思うかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、わざと彼らを呼んで念仏させたのであり、彼らに自分の功徳力を知らせようとしたのである。修法する人に菩提心があるかどうか、亡者はみな知っているからだ。

経文には、「初めて自身を持す。身を持して行じ已に心法を観受す。かくの如く正しく心法を観受し已んぬ。」

ここの身には二つの意味が含まれている。一つは私たちの肉体の身で、もうひとつは私たちの法身である。私たちは自分の肉体を正しい方向に用いるべきで、まさに肉体によって学仏修行をなし、衆生を利益する法器とすべきである。顕教では藉仮修真(仮の姿によって真実を修める)と言う。仮とは私たちのこの身体は因縁が集まって合して生じたもので、固定した不変のものではないことを指している。真とは真正の法性を意味する。しかし、私たちがこの身体を排除しなくてはならないということはない。法器である身体がなければ、私たちは学仏修行する方法がない。私たちはこの仮の身体を以って修行するべきで、真正の仏性を了解し、進んで自己の法性を見出す必要がある。法身は実際私たち一人ひとりの衆生がみな持っているであり、法性は本来、元から已に存在している。ただ現在していないだけであり、自分がそれを知らないのである。しかし、あるときにそれを感得することができる。なぜならこの法身が在ることで、私たちは善を行ずべきと知り、動物、一羽の小鳥、猿もまたみなあるときに何が善かを知るのである。まさにあなたが初めて自身をしっかり保つことで、身口意の一切行為は悪を止め、為す所はみな善となり、衆生のためであって自己のためではなくなる。この時、法性が顕現し、心のはたらきは自然に成就することになる。

正観の「観」とは観照、観想の意味である。釈迦牟尼仏は仏法を49年説教なさったが、ただひとつの大事は、衆生が生死輪迴を解脱することを助けることであった。だから、このことに関わっていないことは正しくないことであり、間違っていることになる。もしあなたが仏道を学ぶ目的が、将来は御法を語ることができるようになって、弟子をとることができ、多くの人々を統率して皈依させることができる。ことにあれば、これは正しくないということである。

正観は、まさにあなたが心のはたらきを了解した時、すべて生死を解脱して衆生を利益するためであり、少しも自己の利益ではないということである。どうしてか、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたがたの灌頂の儀式をした時、あなたがたになぜこの灌頂を受けるのか?動機は何か?と問うたのか。これらには正観が必要である。第一にはあなた方に動機を教えることがとても重要であり、第二にはあなた方が上師とご本尊を無二にして別なしと見ることが必要だからである。上師の灌頂は、伝法の時に心が清浄であり、自己の利益のためではないからであり、一方、あなた方が灌頂を受けるときの心も清浄である。このようにすることが正観である。正観の解釈はもし密教を修行していない人が解釈しなければならないときは、はっきり説明することは容易ではない。多くの人は、密教はないと思っている。事実上、非常に多くの仏典の中にはみな密教に繋がる部分があり、今回のこの部分もそうである。今、こうした方法で解釈してみると、あなた方は比較的容易に理解できるであろう。灌頂の時、上師は何度もあなた方に繰り返し告げたのは、この道理のためである。

観と受は二つの方向で、上師は正観を以って心のはたらきを伝えることが必要で、そうでなければ役には立たない。心のはたらきを受け止めた人も正観を以って役に立てることが必要である。「心のはたらき」とは修行者がまさしく衆生を利益する法門であり、心のはたらきをいかに用いるかはその中心思想のひとつである。釈迦牟尼仏は仏教をお広めになった49年の間、8万4千種の法門をお開きになったが、最も主要な私たちへの教える中心思想は、輪迴の解脱である。もしただ家庭の妻子のためであっても、遅かれ早かれそうした状況に出遭う。まさにあなたがはっきりさせておかなくてはならないのは、この中心思想であり、また心のはたらきの観受である。心のはたらきは非常に複雑だなどとしてはならない。あるとき尊勝なる直貢澈贊法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに心のはたらきを教えたときは、ただ簡単な一こと、もっと言えば一音で可能であった。あなたが覚えておかなくてはならないのはただ、私たちに生死を解脱させる法である。仏典には、釈迦牟尼仏は花を示して微笑なさったとき、大迦葉尊者は世尊が花を示して微笑なさったのを一目見ただけで、開悟した。なぜか?それは彼がわが身に正観を修めて保っていたからである。これはみな善念であり、結局、因縁によって、心は到った現象(法)を受け止めることができると、その場で開悟したのである。

経文には「心行を行持して、菩薩、既に心行を行持し已んぬ。次に復た見法等の行を修行す。菩薩、かくの如く心意を持し已んぬ。未だ悪と不善の法を生ぜしめざるが故に勤めて精進せんと起欲す。」

このところは、釈迦牟尼仏が厳しく繰り返しお説きになったところである。金剛乗の密教から言えば、自己の利益のためになす行為はみな悪である。あなた方は聞くと恐れるだろう。なぜならあなた方の持つ身口意はみな自己の利益のためだからである。ある人はなぜ自分はまだ悪念を起しうるのか?と問うであろう。菩薩もみな同じである。『宝積経』に拠れば、衆生利益のためでなければ悪念である。水を飲んだり、食事をしたり、呼吸は入れない。リンチェンドルジェ・リンポチェが修行で体得したのは、まさに菩提心を起こすとき、起こる念はみな善念で、自然に悪が念頭に起こらなくなる、あるとしても、すぐに消えてしまうということである。

私たちの心は元来、不動のものである。私たちの煩悩は眼耳鼻舌身意が外界と接して生み出した反応で、影響は意識に到り、心がそれに連れて動いてしまう。修行で分からなければならないのは、意識を用いるところである。修行は何を修めるとしても、意識が心を支配しないようにするように修行して改めることで、意識が心に干渉するのを減らし、だんだん心が意識にコントロールと影響を受けないようにすることで、何が起こっても心が動かないようにするということである。禅宗にある故事がある。第六祖の慧能は当時、猟師と共に十数年過ごしていたが、離れるとき、一人の法師が説法しているのを聞いた。そこに二人の出家者がいて、この二人の出家者が旗が動いているのを見て、一人は風が吹いて幡を動かしていると言い、もう一人は幡が風に従って動いていると言った。この時、六祖慧能は突然、話し出して、仁者(仁者は出家者を指す)はあなたの心が動いているのですと説いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは説明なさり、一切の現象はみな私たちの心の動きである。もし心が動かなければ、事物は動かない。科学者も、もしあなたが宇宙にいけば、もし星の運行と照らし合わせるのでなければ、あなたは宇宙船が動いていることは分からないと言っている。

「未だ悪と不善の法を生ぜしめざるが故に勤めて精進せんと起欲す。」ここで「欲」の字が使われている。一般に顕教では欲望は好くないものであるから、欲望を除かねばならない。しかし、ここの欲望は好いものである。世尊は私たちがある種の欲望を懐くことを願われた。菩提心を起す欲望があって、精進する心が発して仏教を学び修行する。なぜ菩薩は覚有情と見なされるのか、それは菩薩にはまだ修行の欲望があるからで、菩薩の欲望とは衆生済度の欲望である。だから私たちは欲を用いるところをよくコントロールしなくてはならない。もし欲がなければ、それでは何も想わず、なにもすることはない。心は何の変化もない死んだような海ではだめである。仏を学ぶのはあなたが何も必要ではなくなるためではなく、消極的に日を送るためでもない。前に述べた透析の弟子のように、いよいよ最期のときが迫ってきてもう生きているのは嫌だといったとき、リンチェンドルジェ・リンポチェはそれを聞いて、彼を叱咤した。なぜなら彼には仏を学ぶ意欲もないからである。自己を懺悔する欲望もなく、菩提心を発することもないからである。事実上、彼は透析のたびに、痛みを覚え、また我に返った。それが彼に懺悔して仏を学ぶ心を起させ、彼が褔報を積み重ねることを助け、往生の時に彼を救ったのである。

経典では「菩薩、かくの如く次に復た第一の如意足を修行す。かくの如く第二、第三、乃至、第四の如意足を修行するを分つ。修めてかくの如く行じて慢心を起さず。これを名けて菩薩、精進を修行すという。」

ここで言われる「如意足」の足は、神足通あるいは五神通ではない。ここでは、こうしなくてはならないとき、十分に備えているべき能力のことで、衆生を満たすことができる能力の意で、衆生を意のごとくさせることである。まさに菩薩が常に菩提心を修行している時、彼の菩提心は衆生を利益する能量を十分に高める。これによって衆生を意のごとくさせるに足るのである。これは四臂観音の手に持っている如意宝のようなもので、ここでの衆生の意の如くは家庭円満、事業繁栄のようなこうした願望のことではなく、生死を解脱する修行の意である。あなたがこの人生で出遭うことはすべて過去世になされた結果であり、まさにあなたが生死の解脱を願えば、仏菩薩は必ずあなたの願いを満たしてくださる。菩薩道を修する行者は非常にはっきりと、婚姻、家庭、子供、仕事等はみな過去世の業果がこの世で実現したものだと知っている。しかし、すべて不要ということではない。生活は、そのようにして過ごすものである。食事のときには食事をし、なすべきことはうまくしなければならない、結婚すべきときは結婚すべきである。あなたにすべて何もしなくてよい、何も要らないと言っているのではない。ただ、すべては仏法の基準で為される必要がある。現在、心に出遭うものは、これらは一切みな因果因縁であるとはっきり知らなくてはならない。また、自己の過去世の為す所であると知らなければならない。これらのものを追求することは修行とは関係がないと知らなくてはならない。これらはすべてただの過程に過ぎず、執著することは許されない。

「かくの如く第二、第三、乃至、第四の如意足分を修行する」この第二、第三、第四はいつもどの教本でも最初に出ている四無量心のことで、衆生に愛憎に生きながら平等に捨てるように説いている。これは非常に難しいところである。また慈悲と喜捨をよく用いて衆生の愛憎が平等に捨てることができるようにさせる。リンチェンドルジェ・リンポチェは現在、自己の癌がなぜよくなったのか知っている。あなたがたの癌はなぜみな好くならないのか?なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは癌細胞に意のままにさせているからである。だから、ここの第二、第三、第四の如意足に言って、仏は多くを語ることはせず、『金剛経』中に説かれた破四相のように、仏のお説きになったことには含蓄がある。

「修めてかくの如く行じて慢心を起さず。これを名けて菩薩、精進を修行すという。」ここまで話してきて、皆さんはびくびくするであろう。まさに私たちが修行して、少しばかり神通を得て、弟子をとるようになり、お寺を持つようになったなどとしても、驕傲な心を起すことは許されず、自分はすでに修行してとてもよい結果を得ていると思ってはならない。衆生は無量であると知らねばならず、またいつまでも衆生を利益しなくてはならない。観世音菩薩はこんなに多くの衆生はいくら度しても尽きないと知り、たちまち両目から涙をお流しになった。私たちが衆生を度し終わるということはありえないのである。急いではならない。いつ完成するのかと問うてはならない。重要なことは現在、始めなくてはならないということである。

『宝積経』は大部の経典で、釈迦牟尼仏が多くの菩薩道を修する行者がいかにすればよいかを示している。內容は非常に多く、世尊の一句を結びにしている。つまり上師の教導を聞いて従うということである。こんなに多くのことを皆さんに聞かせても、あなた方は実行できない。あなた方がこの世で菩薩になることはできないと言ってはならない。あなた方が最初に慈悲心を養うことで、菩提心を起さないとなしえない。どうしてまだ皆さんに御法を説いて聞かせているのか?それはあなた方の阿賴耶識(アラヤ識)中に種子を蒔いているのである。未来世で為しえるであろう。後の内容は『般若心経』の内容ととてもよく似ている。これからまた話して、あなた方の頭をクラクラさせることにしよう。

尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェは参加した大衆をリードして阿奇護法を修し儀軌を回向した。続いて、尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェはアキ護法の儀軌を口伝して説明し、一般に顕教では、弟子は護法を修行しない。顕教の寺廟では伽藍護法を修して顯教の寺廟と中で修行している出家衆を保護する。チベット仏教の弟子は護法を修行できる。四大教派はみな同じである。護法は二種に分かれ、一種は世間の護法で、いわゆる鬼神であり、家族や上師と関わる鬼神で、通常は外に出してはならない。もう一種は出世間の護法で、これは仏道を学び修行することの本質で、少なくとも八地以上の菩薩の果位に到らなくてはならない。アキとは直貢噶舉派のチベット仏教では出世間の護法で、寂静尊と忿怒尊に分かれる。寂静尊はあなた方が日常、修するもので、忿怒尊はリンポチェの果位あるいは仏寺が事件に遭ったときに修することができる。

アキ護法は祖師ジッテン・サムゴンの祖母で、アキは結婚して、子供を生み、彼女の子供がまた子供を生んだのが ジッテン・サムゴンである。在家の修行の成仏の果は、通常、その結果が比較的、はっきりしているが、それは、在家の修行が出家のものより優れているのではなく、在家は煩悩がより多く、每日いつも多くの問題が生じて煩悩が起こるので、修行できることはより少ないので、もし在家で修行できる行者がいれば、成就はより明らかに見えることになる。アキ護法の願力は直貢噶舉派で発心し修行している弟子を保護し助ける。護法の意義は、護持仏法である。あなたが力で、人を制圧することではない。もしあなたが真心から仏教を学べば、アキ護法と眷属がみなあなたの修行を助けて進歩させる。

アキ護法の儀軌を伝え終わった後、毎日必ず修さねばならない。通常は晩御飯の前後がよい。なぜなら、いつもは晩御飯の後に外出することはないからである。いや、最も好いのは就寝の前に修することで、もし護法を共に修さなければ、ここに仏教を学びに来なくてよい。いかなる時でも修することができる。毎日10分、20分の暇がないということはありえないので、今日はとても忙しくて疲れたから、一回休もうと言ってはならない。一日修さなければ、一日修行が減ったことになる。弟子の趙さん一家はアキを修することはほとんどなかった。あなた方がアキ護法を修さないと、護法はリンチェンドルジェ・リンポチェにそれを知らせる。

陳さんという弟子は自分で別にひとつの独立した祭壇を作って修そうとした。自分の家はとても大きいのか?部屋はそんなに多いのか?家を離れて出て行きたいのか?彼の以前に為した悪行の影響の残りがまだあり、前にしていたことは前科になる。今、まだ何を浪費しようというのか?つまり、本当の徹底的な懺悔がなければ、修行で多くのよい果を得ることはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼よりも必ず早くこの世を去るので、その時が来たらどうするのか。

法会は円満に終わった。弟子たちは声をそろえて尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェの修法と説法に感謝を示し、起立して尊く貴いリンチェンドルジェ・リンポチェが法座からお下がりになるのを見送った。

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2016 年 09 月 27 日 更新