尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示– 2015年11月1日

法会の開始前に、一人の弟子は、上師の功徳を語り、並びに自分の為した一切の悪業を懺悔する機会が与えられたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

「2010年9月、母は頚椎部骨棘で首が全く回らなくなり、1~2週間漢方医学と西洋医学の先生に診てもらっても全然改善が見られなかった。その時、まだ皈依されていなかった蓋兄弟子は、寶吉祥仏法センターのサイトにたくさん掲載されている、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を済度したたくさんの事跡を読んで大変感動したので、私にも是非読んでほしいと勧めてくれた。その話を聞き、私は好奇心を持って数日かけて『衆生済度の事績』を全部読み終えた。時々読みながら涙を流し、大変感動して不思議に思った。その時は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求めたい強い気持ちが湧き、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはきっと母を助けてくれると信じた。

初めて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見した時、候補番号は200号以後だったので、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会えないかと思ったが、兄弟子と一緒の前に参る因縁があるとは予想もしなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの前に跪くと、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『何のために来たのか。』と優しく聞いてくれた。両親の体がよくないと、私は返事したが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『どうしたらよいのか。』と言い、私は『法会に参加させることを、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお願いしたい。』と答えた。そうしたら、上師は『そんな都合のいいことはあり得ない。』と言い、側で大礼拝を108回するように指示してくれた。大礼拝をする途中、私は思わず涙が流れた。大礼拝を終えて側で待っていた時、上師は風邪をひかないようにジャケットを着ることを師兄を通して私に言い、大変優しく気遣ってくれた。その後、間もなく上師は私を前に来させた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『お母さんの頚椎部骨棘は殺業のせいだ。』と開示し、大声で『いつもどこを回っているのか。』を私に聞いた。『ある道教のお寺。』を返事したら、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは側の出家衆に、『我々の道場もこんなにお金をもらっていたら、大金持ちになれる。』と言い、側の兄弟子に、寶吉祥仏法センターの法会に参加する費用はいくらかを私に教えるように指示した。答えは、もちろん無料だった。

私は無謀にあっちこっちのお寺を回ったことを、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは知っていた。私の行ったお寺は毎年たくさんの法会と各種の名目があったので、たくさんのお金を費やした。しかし、家庭主婦をしていたので、給料もなく、単に主人の給料で家庭の出費を賄っていた。法会に参加して平安と加護を求めるため、お金がなかった私はいつもクレジットカードで費用を支払っていた。それで、カードローンをたくさん抱えるようになった。上師はあらゆる衆生を等しく扱い、寶吉祥仏法センターにでは功徳主と霊璽などが設けられていない。本当に感謝している。時々思うが、もし、寶吉祥仏法センターもほかの道場と同じく、功徳主と霊璽を設けているとしたら、私のようなお金も権力もない人は外で並ぶしかなく、道場に入るなんてあり得ないだろう。
そして、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは大声で叱ってくれた。『仏菩薩に会うのにこっそりとする必要はあったのか。』私はその場でびっくりした。上師は立派だ。実は、道場に来た途中で兄弟子にこっそりと話した。実家の家族は私がお寺を回ることにいい顔をしないから、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来ることは誰にも言わなかった。家族は全然分かってくれなかったから、家族にも言う気にならなかった。しかし、上師は私の傲慢と見高を知っていた。懺悔したい。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、上師の当日の開示を全部母に話すことを私に要求した。その時の私にとってとても話しがたいことだった。私は母の男尊女卑の観念を嫌っていたので、本心を明かすことは滅多になかった。しかし、上師の言葉を守らなければならないと分かったので、家に帰ったら、恥ずかしくて戸惑いながら、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会った経緯を母に話した。上師の加持と助けを感謝する。その晩、母の首は少し回るようになったし、それから、時間が経たないうちに全治できた。大変不思議、上師に深く感謝している。

二回目尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会った時、大好きな天珠を付けた。その天珠にカラーのビーズの飾りがあった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは私の首に指してそれは何かと聞いた。以前道教を信仰していた時、お寺に行った度に、貪って身につけていた、加持できる物であれば、何でも取り出して加持してもらった。上師が聞いてくれた時に、私の貪欲がまた現れ、つい天珠を外して上師に加持をお願いしようと思った。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、『外さなくていい。偽物だ』と話した。上師はまた、いくらだったかと二回も私に聞いたが、私は全く答えなかった。たくさん買ったので、数千円のもの、数万円のもの何でもある。だから、値段は全然覚えなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、私は常にそのようなものを身に付けていたので、化学成分が皮膚を経由して体に入り込んだのが、時々息が苦しくなった原因だと開示してくれた。命を助けてくれた尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの恩に感謝する。母は心臓が良くないので、私はそれを遺伝したとずっと思っていた。本当の天珠は私たちが買えないものだと、上師も開示してくれた。

2011年1月、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依をお願いした。仕事をしているかという尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの質問に、私はイイエと返事した。その時までに、私は7、8年くらい働いていなかった。社会を離れて長かったので、どんな仕事に就けるかも分からなかった。そのうちに家で子供の世話したいため、保母の仕事を探そうと思ったが、数ヶ月かかっても適当な仕事は見つけられなかった。2011年2月27日に、私はやっと尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依でき、しかも皈依後の3ヶ月ほど、大変よい保母の仕事が見つかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが賜ってくれたことだと、私は分かっていた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝しなければならない。

今年8月中旬、妊娠したと分かった。8週目の妊娠検査の時、胎児はまた心拍があったが、9週目の9月17日の妊娠検査の時、胎児は心拍がなかった。主人と一緒に9月18日に中国に行く予定だったが、このことで臨時に取りやめになった。夫婦共同の子供なので、9月19日(土曜日)に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに一緒に会うことを主人に頼んだ。私のために、主人は無理して一緒に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来てくれた。私たちが跪くと、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは要件を聞いてくれた。『妻が妊娠して9週目で子供は心拍がなくなった。』と主人は答えた。そうしたら、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『私に何の関係があるのか。』と言った。主人は仏法を信じず、私に無理矢理されたので、一緒に来るしかなかったことを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは知っていた。主人は信じなかったので、返事した時ははっきりと説明できなかった。それで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、側で大礼拝を1時間以上するように主人に指示した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、私たちは福報が足らず、福報を累積するため主人に大礼拝をさせたことに感謝を申したい。

次の週(9月26日、土曜日)、私はもう一度二人の子供と主人を連れて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェへの会見を申し込んだ。主人は来る気がなかったが、共同の子供だから、二人で一緒に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに済度をお願いしようと、私は説得した。それで、主人はもう一度無理して私と一緒に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た。兄弟子は主人に、子供を連れて施身法法会に参加したらと話してくれたので、主人は、『いいだろう。妻の体がよくなるなら、施身法法会に参加してもいい。』と思ったが、心の中では仏法を信じていなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会う番になったら、上師は私たちの要件を聞いてくれた。そして、主人は『明日の施身法法会に参加させてほしい。』と言い出した。予想外のことだと私は思ったので、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの前では口をはさんではならないと分かりながら、肘で主人を突いた。その瞬間、上師は、今何をしたかと大声で叱ってくれた。又、『女房を殴るのを許さないが、旦那を殴るのも許さない。今あなたの行為は旦那を殴ることだ。』と話してくれた。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはこう話した。本来はもう一度願う機会を主人にあげたかった。主人は信じなかったので、『お願い』ではなく『させてほしい』を言った。僅かの恭敬心もなかった。また、私の振舞で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『明日、4人とも施身法法会に参加してはならない。』と言い、そして『『宝積経』を開示したが、あなたは全然聞き入れなかった。眷属や子女に執着してはいけないと開示したばかりではないか。あなたは全然聞かず、未だに家族のことに執着を抱いている。』と大声で叱ってくれた。
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが優しく大声で叱ってくれたことに感謝したい。主人は気性のいい人で私には大変寛容だったので、私は気ままに行動し、主人のことを尊重せず、好き放題に振る舞っていた。このことを懺悔しなければならない。私の過ちで、その週は胎児の済度を尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお願いできなかったし、翌日の施身法法会にも参加できなかった。それでも、上師は私のことを加持、助けを続けていたと私は分かっていた。10月1日、木曜日の夜、私はアキ護法を修めていた時、突然継続の出血に気付き、その後は止まった。それで終わりかと思ったら、金曜日に大量の出血があり、午後3時、4時になってやっと止まった。胎児が流れるようにしてくれたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝する。本当に殊勝で不思議だった。

翌日は土曜日、私はもう一度尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求め、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と助けを感謝した。又次の週、今後は施身法法会への参加禁止という連絡がもらった。馬鹿で悪業が深い私は過ちを犯しても察さなかった。愚痴な私は胎児が流れたことが済度されたと思い込んでいた。自分の愚痴と深い悪業で、胎児はまだ済度されなかったことで尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにずっと心配をかけていたことを懺悔する。また、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの福報と時間を無駄にすることも懺悔しなければならない。そのため、10月24日(土曜日)私はもう一度尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を申し込んだ。会見の時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは何のために来たかと聞き、私は『尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝したい。胎児は上師に会見した2週間後流れた。弟子は、上師、三宝に対し恭敬せず、上師に十分な信念がなく、主人を尊重しなかったことを懺悔する。胎児の済度を尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお願いしたい。』と答えた。『旦那さんは何故来なかったのか。』という尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの尋ねに、『主人は信じない。』と私は返事した。そうしたら、『旦那さんが信じないなら、無理することは止めなさい。そうしないと、喧嘩になる。』と尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは話してくれた。上師は慈悲を込めて胎児の済度を同意してくれたし、施身法法会に1回の参加を許可してくれた。感謝を申したい。

続いて私は、子供の時から、数えきれない衆生の肉を食べ、親不孝をして親を悲しませたことを懺悔したい。子供の頃カエル釣りをしたり、スカラベに糸で足を縛って飛ばせたりしたことを懺悔する。淫戒を犯したこと、中絶したこと、恭敬心がなくてうっかりして友達が私に預けた地藏王菩薩の仏像を壊して五無間地獄に堕ちる罪を犯したことを懺悔する。その時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに『あなたは男性なのか、女性なのか。こんなに不注意なことをした。』と大声で叱られた。何事をしても不慎重で、いつもいい加減な態度を懺悔する。また、真面目に仕事せず、窃盗の罪を犯したこと、貪瞋痴慢疑が深いこと、他人を呪ったこと、両舌、悪口をしたことも懺悔する。怒りっぽいで短気なこと、平等心も慈悲心もないこと、一切の悪行と背徳を懺悔する。仏法学習において如法に行動せず、ただ平安、加護を求め、自己の言動を直さず、人を悩ませたこと、無数の有情衆生を傷つけたことを全部懺悔する。自分が犯した悪業について、勇気を持って全ての果報を受け止め、全部の悪習を正す。ここで発願したい。私は生生世世尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに追随して真面目に仏法を学び、教えを守って修行し、輪廻の苦海から解脱したい。最後に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体が安康で、法輪が常転し、仏法事業が興盛になり、法脈が永遠に伝承され、十方一切の有情衆を利益することを祈る。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、共修法会を執り行い、並びに参加者たちに貴重な仏法を開示した。

「今日は『宝積経』の開示を続ける。前回は『易共同止』まで開示した。仏法でこの4文字を詳しく解釈しようと思えば、長い時間はかかる。仏は仏法を話した時、時々文字の前後が繋がらず、前後の意味も関連しないようだ。特に『宝積経』は釈迦牟尼仏が菩薩道の実践、学習、修行をする人のために開示したものなので、中の一部の文字は簡略化された。行者はそれらの過程を経験したから、仏の言いたいことが理解できるはずだからだ。仏は『宝積経』の中で特に強調した。菩薩道の学習、修行をするなら、この範囲の通りにやるべきだ。自分なりに考えた方法でやってはいけない。『宝積経』内、釈迦牟尼仏が開示した菩薩道の学習方法から逸れれば、菩薩道の学習とは言えない。

チベット仏教では、金剛乗の修行に戒律、儀軌と方法がたくさんある。それらは何れも、今世に金剛乗を通して成就できるように行者を助けるものだ。どんな方法であろうが、どれも釈迦牟尼仏の教法を逸れていない。だから、釈迦牟尼仏の教法を逸れれば、間違った道だ。先週は、一部の修行者に自分の修行は上出来だという『慢』が現れることを話した。持戒慢と多聞慢は何れも菩薩道の学習においてあるべき思想ではない。上師に頼る理由は何だろう。経験のある上師は私たちの修行上の問題を見つけ出してくれる。しかし、今の世間に道場は運営するためにたくさんの信衆を必要としている。そのため、基本的に誦経・礼懺を専門にしている。また、法会参加に信衆を勧誘するため、似非の仏法がたくさん現れ、釈迦牟尼仏の教法を捻じ曲げてしまった。

『宝積経』にある話だが、釈迦牟尼仏はかつてこう開示した。末法時代に出家衆は名聞利養のために媚び諂い、仏法を捻じ曲げたので、仏は厳しく叱った。仏法を歪曲するとは、信衆が来ないのを心配して仏法の真の意義を信衆に教えない、或は信衆が来てから教えてあげようという考えの意味だ。また、一部の人は自分の名聞利養のために信衆に媚びる。このことは大変な結果が起きる。皈依が長くなった弟子たちは皆知っているが、数年前に、リンポチェは道場を探していた時、ある大金持ちがこのことを知ったので、仁愛路にある建物、300坪の一フロアを道場に、300坪を事務所に、また北投にある土地を閉関センターに、リンチェンドルジェ・リンポチェに提供すると話した。大変いい条件ではないか。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは貪欲がなかったので、その人の話に返事せず、更に何を言い出すかを見ようとした。彼は、リンチェンドルジェ・リンポチェが肉食を許してくれるだけでいいと言い続けた。それで、リンチェンドルジェ・リンポチェは全部断った。他人の場合は、まず受け取ってから様子を見ようと考えるだろう。供養を受け取ってあげれば、彼に福報が生じて自然に肉食しなくなると思うだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは商売をしているわけではない。商売は商売だ。仏法の話になると、リンチェンドルジェ・リンポチェは決して妥協しない。もし、名聞利養のため、信衆に戒律の不遵守をさせる、或は破戒までさせたら、(供養を)もらった人は生生世世をかけても完全に返せなくなる。また、もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の供養を受け取るとしたら、法会に参加する人たちも彼に借りができるようになり、生生世世彼に返さなければならない。寶吉祥仏法センターは清浄な所だと、リンチェンドルジェ・リンポチェは言える。何故なら、リンチェンドルジェ・リンポチェはこれらのものに貪欲がないからだ。考えてみなさい。仁愛路に600坪の建物は今時最低でも数億の価値がある。

菩薩道の学習はあなたたちが思っているほど簡単ではない。今は利益衆生のことをしており、道場が必要だから、とにかく受け入れ、道場への布施を発心できれば、将来はその小さな戒律を直してあげようと思う人は多い。直せるはずがない。600坪の場所を提供した人は直せるはずがない。これは人間の心だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の供養を受けなかったから、少なくとも仏法はこんなものではないと彼は分かり、将来はまた同じことでいわゆる修行者を誘惑しないだろう。

一部の修行者は弟子がいない時、間違いを犯さないが、弟子がいたら業力が現れると、仏経にこんな話がある。何故、業力は現れるだろうか。弟子たちは上師を害するために現れるからだ。いろんな誘惑が現れるので、釈迦牟尼は特別に『宝積経』の中で、媚びて仏法を歪曲してはいけないと開示した。学仏者だと自認した以上、餓死ならそれでいい。業だからだ。出家した以上、住む所がないならそれでいい。出家者は「乞士」とも呼ばれる。住む所のある乞食を見たことはあるのか。住む所を求めるため、信衆に好き放題をさせる人がいるが、仏法はこうして滅ぼされた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の修行はどれほどよいものだと言えないが、仏の言葉に関してはできる限りのことをしている。このような行為と思想は何故できるのか。菩薩の意味をきちんと理解することだ。菩薩は衆生を利益したいから、衆生に間違った思想を生じさせることに助力になってはいけない。『易共同止』の4文字は簡単に見えるが、実践はなかなか難しい。衆生に菩薩の心を理解させることは大変難しい。同じ生活を過ごしていると、影響されないのは難しい。お寺にいれば信衆と触れ合う機会があるので、彼らに『易共』される機会もある。あなたが彼らを『易共』するのではない。何故なら、偽りの慈悲心が現れれば、問題は起きるからだ。

古代の大徳たちの堅持を、私たちは不人情、不慈悲のように見えるが、あらゆる動作、言葉は仏法と修行はどんなものか、輪廻を如何に断ち切るかを衆生に見せるものだ。ちょっとうっかりすれば、貪瞋痴慢疑が生じる。貪欲が生じると、どんな悪でもやれる。『宝積経』に、菩薩道を実践する行者は寝具に未練があってはいけないという記述がある。食、色、名、利、寝は地獄の5本の根だが、寝るくらいのことで地獄に堕ちる理由を理解できない人が多い。寝るのは楽しみだと思っている。しかし、今の医学上ですでに証明されたことだが、睡眠時間が生理的ニーズを超えたら、病気になるそうだ。」

この時、西洋医をしている一人の弟子は、「人間の体には一定の概日リズムがあり、それを越えて寝るほど疲れる。理由は神経が適当に調節されないからだ。寝るべき時は寝る。目覚めるべきは目覚める。そうしないと、不精になってしまう。寝すぎる時、例えば8時間寝ても起きず、そのまま12や20時間寝る、或は翌日まで寝続ける。こんな場合、起きると、体のバランス、血管機能、筋肉機能は妙に違うように感じ、歩いたら浮いているようになり、筋肉も緩い。また、座ると動悸が起こり、心拍が変になる。却って元気が出なくなる。」と表した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。「子供の頃からずっと、今でもそうだが、リンチェンドルジェ・リンポチェは過剰な睡眠を好まない。学生の時代、日曜日の休日は普段よりも早起きをしていた。いつも父に、早起きして冷蔵庫や仏壇にワックスがけをするように言われた。父の指示で、リンチェンドルジェ・リンポチェは過剰な睡眠を取らないようになった。仏法の観点からだと、過剰な睡眠を好きになるまで取る人は禅定できる能力がない。何故なら、ずっと気だるいからだ。睡眠で昼間のあらゆる悩みと挫折から逃れると思う人は多いが。実際に、睡眠で昼間の悩みと挫折を止めようとしたら、却って夢見ることになる。

出家衆は早寝早起きすべきで、睡眠時間は大変短い。昼寝くらいする。行者は閉関の時、朝4、5時に起きる。リンチェンドルジェ・リンポチェはラプチ雪山で閉関した時、いつも3時過ぎに鳥に起こされた。その鳥はリンチェンドルジェ・リンポチェを寝かせてくれなかった。何故寝かせてくれなかっただろう。人間の意識は鍛えられるものだ。善や悪を問わず、意を鍛え続けたら、口と身は自然に意の影響を受ける。だから、寝具に執着してベッドは気持ちよいもの、寝ることは気持ちよいもの、死ぬまでにこんな快適なベッドで寝ることはないと思ったら、執着が生じて阿弥陀仏の所に行けなくなる。

座禅を学ぶには理由がある。論理的に言えば、修行が十分の行者は往生の時必ずあぐらをかく状態だ。人間は横になると、全部の気脈は乱れてしまう。釈迦牟尼仏は涅槃の時何故臥像の姿だったのか。何故左足を少し曲げ、右足を伸ばしたのか。理由は何だったのか。一般の能化に臥像の姿を教えてもらったのか。だから、釈迦牟尼仏は密法を教えたことがないと、これ以上批判しないでほしい。何故あぐらをかく時は必ず両脚を組むのか。何故定印の時は必ず臍の下方に手を置くのか。定印は心を落ち着かせるものだと皆は知っている。だったら、心臓のあたりに手を置くべきではないか。『金剛経』、『楞厳経』、『楞伽経』には何の説明もない。仏は何故説明しなかったのか。禅宗の心法は何だろう。これらのことだ。公開に書かれなかった理由は、心法だと言ったから、もちろん書く必要はなかったからだ。『不立文字』という言葉があるが、文字の記載がない意味でなく、文字で伝法する必要がないことでもない。心法は文字で書き表されるものではなく、一対一で口伝されるものだ。

たくさんの人が同時にあぐらをかき、板で背中を叩かれるのは座禅ではない。ただの静座だ。禅宗には密法がないとあなたたちは思うだろうが、実際に禅宗こそ密法だ。六祖は『花開五葉(一輪の花が五片の花瓣を開く)』を言ったが、結果を話さなかった。六祖の後、更に祖が現れなかったのは、六祖が心法を伝承しなかったからだ。あなたたちは聞けば聞くほど怖いだろう。あなたたちは皆禅宗を学んだ。先ほど、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示した内容は最も簡単なものだ。何故両脚であぐらをかく時、両足は必ず股関節の内側を押さなければならないのか。何故定印は必ず丹田の下方でなければならないのか。帰ったら能化にその原因を聞いてみなさい。

心法が欠けると、ただのうわべになり、参話頭だけが残り、何もなくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェは人を批判するつもりはない。ただ、釈迦牟尼仏の開示した仏法は、何れの行為も顕密両方の修行の意味がある。仏経を読んだ人なら、皆知っているはずだ。釈迦牟尼仏が菩提樹の下で開悟前、魔王は魔女を出して邪魔した。何故女性を送ったのか。釈迦牟尼仏が男性だからか。仏果までの修行ができた以上、男女の区別もないのだ。ところで、釈迦牟尼仏はどんな方法で魔女を退去させたか。説明はあったか。禅定だったのか。この点に関して密宗は触れた。しかも根拠がある。

チベット密教を学ぶ人は仏法と経典が分からないと思ったら、勘違いだ。釈迦牟尼仏が開示した経典がなかったら、決して密法の開示ができない。密法の修行がなければ、衆生に如来の真実義を開示することは決してできない。だから、顕密は共同に運用できる法門だ。末法時代に密教を学ぶ人はますます少なくなるが、学びたい人がいない意味ではない。学べる人が少なくなることだ。釈迦牟尼仏はたくさんの仏経を開示したが、その国土に生まれることを私たちに求めなかった。何故求めなかっただろう。世間の人はこれについて説明したのか。なかったら、彼らに聞いたらよい。釈迦牟尼仏は、何れの仏にもその国土があると開示した。私たちは釈迦牟尼仏の弟子なのに、仏は何故その国土に生まれるように、私たちに求めなかっただろう。

経教もたくさんの名相をよく理解したと自認しても如来の真実義が本当に分からないと思う人が多い。武則天の言った『願解如来真実義』のように、実際の修行があるからこそ、釈迦牟尼仏のあらゆる言葉、行動は何れも衆生の離苦のためのものだと体得できる。だから、私たちは分け隔てをすべきではない。人と自分の修行はそれぞれだと思ってはならない。自分のほうがよくできている、たくさん修行していると思ったら、釈迦牟尼仏が『宝積経』の中で話した『一切慢』と同じだ。慢のある人は決して慈悲の修行ができないし、平等性智の証得も決してできない。五智のうち、最も大事なのは平等性智だ。ほかの智慧はどうでもいいという意味ではない。ただ、衆生を助ける時は必ず平等性智の修行ができなければならない。もし、衆生に対して平等心が持てるように修行できなかったら、菩薩道を続けるのが難しい。

経典に『彼菩薩於一切上勝供養如心行施。』がある。この言葉に『上勝』が一番重要だ。供養は上中下の区別はないし、供物でもない。発心だ。自分の何れの利益のためでもない供養・布施の発心こそ、『上勝』の供養だ。口の利き方がいくらうまくても、本当であるかのように話しても、心がなければ、『上勝』の供養ではない。『普門品』の中で、無尽意菩薩は観世音菩薩に供養したかったが、観世音菩薩は受ける気がなかった。釈迦牟尼仏の説得で、観世音菩薩はやっと受け取った。それでも、振り返ると、すぐその供養を出した。リンチェンドルジェ・リンポチェは今この方法を学んでいるが、円満にやっているとは言えないが、少なくともやっている。今年9月、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子たちを連れて直貢梯寺に行った時、弟子たちの供養を全部ほかの所に出した。この種の供養・布施が『上勝』と言われるが、菩薩は衆生のために福報を累積したいから、衆生のために福報が累積できるあらゆることをするのが理由だ。リンチェンドルジェ・リンポチェも開示したことがあるが、弟子たちはリンチェンドルジェ・リンポチェに供養する時、特に何かを指定する必要はない。理由は、リンチェンドルジェ・リンポチェは何をするかが分からないからだ。もし、弟子たちは供養する時に何かを指定したのに、リンチェンドルジェ・リンポチェはやってあげられないとしたら、これではお互いに借りができてしまう。また、何かをするように指定する供養も『上勝』の供養ではない。

あなたたちを責めてはいけないだろう。何故なら、今時大勢の所では価格表で、仏像の布施、点灯等に値段が付けられているから、あなたたちも指定することに慣れ、仏像を供養したほうが功徳が大きいとか、ほかのものを供養したら功徳が小さいとかと思うようになった。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちと違う。自分自身が供養・布施を続けているほか、上師の言葉であれば全部実行する。上師がダメと言ったら、リンチェンドルジェ・リンポチェはやらない。このように自分の福報を少し修行できた。

誰もが好きなものを選んで供養・布施をする。法王への供養のほうが功徳が大きい、或は、リンポチェへの供養のほうが功徳が小さいと思う人もいる。しかし、これらはどれも『上勝』の供養ではない。菩薩道を学ぶ者の場合、点灯も供香も供養・布施で、自分のものではない。点灯する、お香を手に取る時たくさん求める人が多くいる。求めさせないわけではない。ただ、菩薩道の行者はよく知っている。供養・布施は本当に衆生のためだ。衆生を代表するような言い方も必要はない。何故衆生のためなのか。衆生が存在しなければ、供養・布施をする機会もないからだ。

次の経典の言葉だが、『所有諸事衣服飲食分捨与他、如是施已即生歓喜遍満身心。』、必ず『上勝』の供養を実践し、ほかは供養の内容だ。上勝心で行施し、供養で衆生を助けた後、直ちに歓喜心が生じて身心に遍満する。この言葉を少々理解する必要がある。例えば勉強のためのお金に困った人に寄付するのが好きな人がいる。寄付の相手が卒業できたら、嬉しくなり、やっと卒業できたと喜ぶ。また、野良犬を引き取るのが好きな人がいる。野良犬が嬉しいのを見て自分も喜ぶ。しかし、これらは単に欲望に過ぎない。善事をして自分は善人だという欲望を満たすことだけだ。

仏経に『即生歓喜遍満身心』があるが、歓喜が生じるのは、まず供養・布施をして衆生に仏法学習の因縁と福報を与え、衆生に福報が生じるように助け、自分は衆生に仏法学習の機会があったから嬉しく思うからだ。もし、衆生は輪廻から離れなかったら、菩薩も輪廻から離れられないからだ。歓喜が生じる次の理由は、衆生がいるからこそ、今日は福報を累積する機会があり、供養・布施の機会をくれたことに衆生に感謝したいからだ。三つ目の理由は、自分は菩薩道の修行をしており、諸仏菩薩は因縁を作ってくれたお蔭で、自分は福報を累積して衆生を助けられるからだ。だから、歓喜の理由は自分が功徳をしたわけではない。簡単に言うと、私たちの何れの行動で歓喜が生じるのは衆生のお蔭だ。そのため、慈悲喜捨は四相を破れる。これであなたたちはちょっと理解できただろう。

次は遍満の理由だが、如法の通りの供養・布施は無漏のものだ。たくさんの善事をしても善の業力が生じない。善の業力があれば、輪廻する。私たちはもし、供養・布施をする時上勝心がなかったら、善の業力が生じて輪廻するようになる。『上勝供養如心行施』を覚えると、善業がなければ衆生は自分に借りがなく、衆生の業力は自分を輪廻させるようにけん引しないとよく理解できる。それで、歓喜になる。ただひたすらに利益衆生のために努力し続ける。善い事をすれば善い報いがあり、善人には善い報いがあると言う態度はない。

例えば、自分の父親は善い人でたくさんの善事をしたと言ったりする人が多い。これは上勝心ではない。供養・布施をしても言う必要はないし、覚える必要もない。リンチェンドルジェ・リンポチェは何時でも記憶喪失になるように自分を鍛えてきた。たくさんのことをしても振り返ったら忘れる。何故忘れるのか。リンチェンドルジェ・リンポチェは一切の三輪体空の供養・布施ができるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの衆生、仏寺、出家衆を助けてきたが、リンチェンドルジェ・リンポチェはそれらのことを覚えていない。自分に福報が起きるようにわざとしたのではなかったからだ。縁があれば、力を尽くしてする。縁がなければ、自らあっちこっち探しまくることもしない。皆と一緒に騒ぎ立てたりしない。道でお花を売っている老婆を見かけたら、全部買ってあげて早く休ませるように共同購買を呼びかける人がいる。だったら、養ってあげればいいじゃないか。毎日危険の中で街道で物売りをさせないほうがよいのではないか。今日早く売り切れさせたら、翌日彼女は貪欲が生じるのではないか。

この社会に、似非の供養・布施の方法があくさんある。インドでは、法律で乞食に金銭を与えることが禁止されている。何故なら、与えたら、彼らは働かなくなる。彼らは貧乏でお金がないと思う人が多い。ほかの国、社会は本当にそうかもしれないが、今の台湾では福祉が大変よくなっている。リンチェンドルジェ・リンポチェは68歳になったので、最近は重陽節1500元の敬老金をもらった。台湾でお年寄りは皆世話をしてもらえる。もし世話をしてくれる人がいなかったら、衛生福利部に行ったら、必ず解決してくれる。もちろん好き放題な生活は無理だが、衣食の基本ニーズは必ず満たされる。

仏法面から供養・布施を学ばないと、過ちを犯してしまう。野良犬を引き取るのが好きで、リンチェンドルジェ・リンポチェに言いに来て慈悲だと自認した人がいる。結局、リンチェンドルジェ・リンポチェは『ホームレスを引き取ればでもよかったのに』の一言でその人の問題を指摘した。ホームレスを引き取ることこそ、真の慈悲だ。人を家に連れ帰さないのは、人はコントロールされず、畜生のほうがコントロールしやすいからだ。食べ物を与えれば大人しくなるが、人間の場合は、食べ物を与えても満足できないからだ。だから、私たちは今生に仏法において具徳の上師に追随して仏法の学習ができなかったら、仏法を学んでも間違いを犯すことがある。

次の言葉は『如是乃至捨上身分。』だ。施身法を修めたことがなければ、この言葉をはっきりと解釈できない。『捨上身分』とは、釈迦牟尼仏が菩薩道を修行する時、身を捨てて虎の餌になったこと、ハトを救うため自らの肉を切ってタカに食べさせたことを指し、また、某世地獄道にいた時、体の筋を一本ずつ取り出して燃焼の車を引きずる果報があり、周りの衆生に苦しませないため、自分で全部の車を引きずろうとしたが、結局、獄吏に殴られて死んでその後すぐに昇天したことを指している。この話から分かるように、最上のもの、最高のもの、最重要のものを捨てることだ。体まで捨てられる。施身法を修めたことのない行者は体得しにくいが、施身法を修めたらより分かるようになる。リンチェンドルジェ・リンポチェは1、2ヶ月で養生できたのは、施身法のお蔭だ。リンチェンドルジェ・リンポチェの健康に不具合が起きた時から普通に回復するまでかかった時間は、脈を診てくれた人が分かる。」この時、一人の漢方医の弟子は、「約2ヶ月ほどでリンチェンドルジェ・リンポチェの体は病気前の気脈に回復できた。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェの健康状況は命の危険があったうえで、気脈も3分の2ほど失った。普通の人の場合は、しっかりと養生しても1、2年くらいはかかるはずだ。しかし、大変不思議なことに、リンチェンドルジェ・リンポチェは2ヶ月足らず、気脈が健康状態に回復できた。」と表した。

もう一人の西洋医の弟子も、「当時、リンチェンドルジェ・リンポチェは大量出血した。唇は大変薄いピンク色だった。血色素は測定しなかったが、私の経験で判断すると、指数は5、6もなかっただろう。普通の人は13、14なので、半分以下だ。その時、気が足らないリンチェンドルジェ・リンポチェの話し方を初めて聞いた。早く話したり、歩いたりすると息が荒くなった感じだった。皆はチベットに行ったことがあるだろう。飛行機から降りた直後の状況よりも厳しかった。酸素を運ぶのに十分の赤血球がないので、呼吸困難になる。しかし、体が必要とする酸素消費量は変わらない。それで、このような代償不足が起こる。通常に、このような状況は、慢性貧血の場合でも半年、一年で指数が4、5まで下がるが、急性出血の場合、血色素が9、10になるとショックが起こり、5、6になると心不全、肺と腎臓に水がたまる。しかし、当時リンチェンドルジェ・リンポチェの様子を見たら、手と足に水膨れの気配はなく、話した声にも肺に水がたまった音がなかった。」と話した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。「仏法はもちろん病の苦しみを軽減することができる。しかし、あなたたちは何故軽減できないのか。体を捨てがたいからだ。密法には特別なところがある。寿命が尽きる前、業障が現れると、諸仏菩薩はあなたの寿を伸ばせる。しかし、よい暮らしをさせるためではない。もっと苦しくなる可能性もある。今のリンチェンドルジェ・リンポチェはその一例だ。体まで布施に使い、完全に捨てられる人こそ、菩薩道を実行しているのだ。

続きに、経典に『善男子、彼菩薩行如是行、若見如来、若見声聞、見已即生歓喜之心。』がある。もし、菩薩はこの通りに修行していたら、如来、声聞に会うと、歓喜の心が生じる。仏の言った歓喜は、決して欲望の概念ではない。仏、声聞縁覚に会う資格があり、つまり実践できたから、上師、仏菩薩と衆生の恩を裏切ることなく、自分は実践できたから感じた歓喜だ。仏に会えて嬉しくて仏に加持してもらいたいことではない。また、法王、リンポチェに会えて嬉しくて自分の福報がいいと自認することでもない。そうではないのだ。自分は仏菩薩が話した基準に達したことを知って歓喜心が生じることだ。仏に会いたければ会えることもない。時間にならないと、決して会わせない。

次の言葉は『善男子、菩薩摩訶薩成就如是法、名為性成就。』だ。想像できるだろう。菩薩道の修行をしていると自認しても、これらの条件を満たさなかったら、成就はあり得ない。『性』は菩薩の本性、本質を指している。この基準を実践して達成できたら初めて成就だと言える。この基準を満たさなければ、決して菩薩だと自称してはならない。ただの平凡人間で、今生において菩薩道を聞く機会があるだけだ。

次は『爾時世尊為顕此義、偈重説言:『相煙即知火、見鴛鴦知水…』』だ。煙を見ると、火があると分かる。また、一対の鴛鴦を見れば、近くに水があると分かる。菩薩を見る時もそうだ。菩薩がころころと変わるのを見ることではない。先ほど話した内容を実践したかどうかを見る。また、逆に自分はそうしているかを見ることもできる。しているなら、根本を見る資格がある。火があれば、煙がある。水がなければ、鴛鴦も生きられない。水があるからこそ、鴛鴦は棲み付く。つまり、このような本質がなければ、このようなことはあり得ない。

たくさん聞いて学んだから、自分は菩薩道の学習、大乗仏法の修行をしていると自認してはいけない。この2つの言葉だけであなたたちは潰される。煙でさえないのに、火があると言ってはいけないだろう。水がなければ、鴛鴦が棲み付いているとは言えないだろう。仏は何故鴿やほかの鳥を言わず、鴛鴦を話しただろうか。鴛鴦が必ず対になっているからだ。ほかの渡り鳥も対にもなるが、一生ずっと対になるのは滅多にない。しかし、鴛鴦はずっと対になっている。これは智慧と福報が同時にあるから仏法の修行ができたことだ。

仏はいい加減のことを言わない。ほかの鳥でなく、鴛鴦で例える。鴛鴦は決して互いから離れない。つまり、智慧があって福報がなくてもだめだ。福報があって智慧がなくてもだめだ。どうやって智慧と福報を両方留めるか。法水が必要だ。言い換えれば、実践したかどうかのことだ。実践できなければ、智慧と福報はあり得ない。あなたたちは何故いくら修行しても福報がないのか。実践していないからだ。『宝積経』を聞けば聞くほど怖くなる。何故なら、聞けば自分はたくさん実践していないと分かるからだ。しかし、怖がることはない。仏は、誰でもきっとできると話した。

次は『偈重説言:『…異相知菩薩、菩薩大智慧…』』。異なると言うのは、意図的に変わった行動を取ることではなく、菩薩には菩薩の相、阿羅漢には阿羅漢の相、凡人には凡人の相がある意味で、外形の現れということだ。内面の表現は菩薩が為した利益衆生のことで、1日、1年、10年も同じことをする。リンチェンドルジェ・リンポチェは10年来、いつも同じことをしてきて何も変わらないと言われるようなことだ。菩薩の意念は人間と異なることはないが、為していることはきっと世間の凡人とちょっと違う。風習、文化に流されて衆生を利益することはなく、因果と因縁に応じて衆生を利益するようにしている。

どの所もそれぞれの風習と文化がある。人類の風習、文化、倫理道徳はたくさんあるが、一体どれが正しいのか。誰もが自分のものが正しいと主張する。しかし、仏はこう話した。皆が自分が正しいと主張することは必ずしも正確とは限らない。また、皆が間違いだと指摘することも必ずしも正しくないとは限らない。因果と因縁法で物事を見るべきだ。『異相知菩薩』は、菩薩の為したことは仏法、因果、因縁に基づいているかを判断し、そうであれば、外形と内面はきっと普通の人間と異なる。普通の人間はどういう意味だろうか。つまり、苦海を輪廻する人で、貪瞋痴慢疑がある人、何もかも自分のために求める人のことだ。

菩薩の相は必ず普通の人間と違う。但し、人類と異なる相という意味ではない。為すこと、表現すること、表すことが必ず普通の人間と違う意味だ。密宗では、上師を3年観察するという言い方がある。何故なら、具徳の上師は必ず菩薩道の修行、実践をするからだ。上師を3年観察するとは、金儲けさせてくれたり、優しくしてくれたり、病気をよくしてくれたりするかどうかのことではない。上師は仏法を用いて本当に菩薩道を実行しているかどうかを見ることだ。寶吉祥仏法センターは1997年以来、点灯をせず、功徳主も設けないまま、何も変わらないようなことだ。功徳主がほしいなら、たやすいことだ。リンチェンドルジェ・リンポチェを知っている人は大勢いるから、リンチェンドルジェ・リンポチェが功徳主向けの法会を開催することを公表したら、きっと参加する人がいる。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはお金に対する敵意はないが、誘惑されるわけにもいかない。

『異相知菩薩』は、為す行為が世間をあっと言わせるようなものでなく、普通の人間と異なる意味だ。例を挙げよう、リンチェンドルジェ・リンポチェの息子は戒を破ったので、リンチェンドルジェ・リンポチェは2年も息子に顔を合わせない。これは普通の人間と異なる行為だ。リンチェンドルジェ・リンポチェの母親が孫のために頼み込んでも、リンチェンドルジェ・リンポチェは決して会おうとしなかった。しかし、普通の人だったら、情に流れそうになるだろう。自分にはただ一人の息子だし、家族にはこのただ一人の男子しかいないと思うだろう。あなたたちの考えでは、これは大したことではないし、一言くらい言い間違えたことではないかと思うだろう。まして息子は結婚して家庭を持っていることだしと思うだろう。普通の考えでは、一言を間違えたくらいのことだから構わず、改まることもあり得るだと思うだろう。

しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がったし、尊勝なる直貢チェツァン法王から果位をもらった以上、必ず普通の人とは異なる行動を取らなければならない。思いやりがなく、家族倫理がなく、家族に優しくないと思われるだろうが、これがリンチェンドルジェ・リンポチェのやり方だ。因果、因縁に基づくことだから、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の家族だからと言って優しくするわけにはいかない。逆に厳しくするのだ。何故なら、リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を深く信じているからだ。『異相知菩薩』は行者が立派かどうか、神通を持っているかどうか、弟子が大勢にいるかどうか、有名かどうかを見るのでなく、行者の全ての行為はずっと変わらないかどうかを見ることだ。釈迦牟尼仏はあまりにも優しいので、私たちが賢くないのを知って注意してくれた。私たちはいつも自分の知識で修行者を見ているから、つい誹謗することをたくさん言ってしまう。

『菩薩大智慧』は、菩薩の智慧は決して自己利益のためでなく、福報、仏法学習の因縁が生じて更に一切の輪廻を断ち切るよう、一切の有情衆生を助けるためだという意味だ。菩薩の智慧は空性的で、一定の対象を利益するものではない。菩薩の大智慧は戒定慧によるものだが、戒は簡単で、自分には定があるのに、何故智慧が開かないのかと思う人が多い。理由は、戒の遵守が清浄ではないからだ。別に、戒を犯したり、破ったりすることではないが、心構えだ。定は、一切の妄念を断ち切るようなものではない。これでもまだ定だとは言えない。定がなければ、智慧も開くはずがない。

智慧は2種類がある。一つは根本智、即ち何れの有情衆生自身も持っている諸仏菩薩と同じ智慧だ。しかし、累世で生生世世の善業・悪業がこの智慧の光を遮ってしまう。私たちが修行しなければならない理由は、いろんな法門を修行することにより、この本来ならの智慧、つまり後得智が生じるようになるからだ。本質から見れば、後得智と根本智は同じだが、違いは後得智は意識から転じたもので、根本智は仏性が現れた瞬間に具足するものだ。根本智が現れなければ成仏できないが、根本智を開く後得智がなければ成仏もできない。

法身が証得できるまでに決して法性の智慧、つまり根本智が見られない。法身を現せ、凡人の身から法身に転じるには、修行は欠かせない。修行で力が得られたら、後得智は根本智を引き出して開発し、二つの智が一つで無二無別になる。方便説のために、根本智と後得智を分けて後得智は意識から転じたものだと言う。そのため、貪瞋痴慢疑から転じる五智がある。金剛乗の特質は貪瞋痴慢疑を消すのでなく、転じるのだ。大乗仏法にも『転識成智』、つまり後得智の言い方がある。自然の本性や根本智は後得智のお蔭で続けて現れる。

仏経の中で、初地菩薩と二地菩薩との功徳の違いについて倍数ではなく、いくつかのレベルを飛んで数えることが触れられた。理由は、初地菩薩と二地菩薩との根本智の開発程度が違うからだ。根本智の開発が多いほど、上のレベルに上がる。リンチェンドルジェ・リンポチェは死ななかった後もっとすごくなったと皆は感じたかもしれない。あなたたちは運がよくないだろう。さもなければ、本来は厳しく叱られることはもっと少なかっただろう。行者は人生のいろんな過程を経た後、自分の意識を後得智に転じ続ける。そして、後得智は私たちが持っていた如来蔵を開ける。開ける程度は後得智の修行はどれほどできたかによる。開ける程度が大きいほど、智慧の光はますます大きくなる。

経典に『偈重説言:『……不渋不悩衆……』』がある。衆生が仏法の助けを必要とすれば、しかも恭敬心があるなら、行者は決して断ってはならず、仏法で衆生を利益することにけちを付けてはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た一部の人を、リンチェンドルジェ・リンポチェは加持してあげず、彼らを睨んだのを周りの人は見たことがあるだろう。理由はその人らは、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に対する貪欲があったからだ。そんな時、リンチェンドルジェ・リンポチェが加持してあげれば、却ってその貪欲を満たすことになり、安易に求められるものだと彼らに思わせてしまい、彼らは仏法を尊重しなくなるからだ。それでも、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の功徳で助けてあげることを惜しまなかった。彼らが感じない別の方法で助けてあげた。

仏の光はあまねく大地を照らすと、仏は言ったが、皆は仏の光に照らされると感じないのと同じだ。修行者でなければ、感じないのだ。何故、皆は感じないのか。仏は、いつでも仏に頼ってよいと皆に思わせたくないからだ。皆は諸仏菩薩と上師に頼ってはいいが、しがみついてはならない。自分の力と自分の本性でなければ、修行できないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの上師は尊勝なる直貢チェツァン法王で、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王にしがみつくこともできたが、最終的には自分の努力が必要だ。

経典に次に出る言葉は『偈重説言:『…捨諸諂曲行…』』。菩薩になるには、仏法を歪曲する全ての行為を捨てなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは時々、物事をはっきりというから、他人を怒らせてしまった。物事を正直に言うことは、目の前にあるリンチェンドルジェ・リンポチェの利益をたくさん損失させるが、よい点は人を助けて彼ら自身の問題を気付かせることができる。菩薩道を修行する者は捨てることを惜しんではならない。しかし、わざと叱る雰囲気を作る必要はないし、常に叱るこそ菩薩道の修行だという意味でもない。

以前、リンチェンドルジェ・リンポチェよりも中国語がうまい能化がいた。彼は、リンチェンドルジェ・リンポチェにたくさんの弟子がいること、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を叱ることを知ったから、リンチェンドルジェ・リンポチェのまねをした。結局弟子は二人しか残らなかった。別に、リンチェンドルジェ・リンポチェは責めるのが好きではないし、わざと責めるわけでもない。機会を見つけて雰囲気を作ってから責めるのだ。だから、いい加減に責めることは『捨諸諂曲行』ではない。肝心なのは、行者の心は相手のためなのか、助けてあげたいのかのことにある。今話した能下は弟子を増やしたいため責めたが、正しくないのだ。彼はたくさんの弟子を持ちたいから責めたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を減らしたいから責めた。結局、ますます増えた。どうしたらよいだろう。

能化は捨てることを惜しまず、間違ったら教えてあげなければならない。御捻りをもらったからと言って教えてあげないというのはいけないことだ。例えば、会見に来た人が、菜食をしているかというリンチェンドルジェ・リンポチェの質問に、旧暦の一日と十五日に菜食すると答えたら、リンチェンドルジェ・リンポチェはそれに応じた仏法を教えてあげる。また、便宜な方法で菜食をしていると答えたら、リンチェンドルジェ・リンポチェもそれに応じる仏法をあげる。仏法を信じてもいないのに、ゆっくりすると言う必要もないだろう。

普賢菩薩は、学仏は頭に火がついたように一刻も早く消さなければならず、ゆっくりとさせたら、地獄に堕ちさせることになると教えてくれた。教えてあげたら、聞くか聞かないかは相手の決定だ。少なくとも悪因作りに手伝ってあげないことになる。相手がすると決めた以上、仕方のないことだ。仏菩薩でさえ方策がないのだ。しかし、修行者としては、衆生にゆっくりとさせるわけにはいかないのだ。衆生に仏法に触れ合う縁があれば、断ち切るように助けるべきだ。断ち切れなかったらどうしようか。例え今世に断ち切らせることが無理でも、少なくともあなたの話し方で、自分は忙しいとか、生活のために稼ぐ必要があるとか、レストランを開かなければならないとかなどの言い訳で仏法の学習はゆっくりしてよいものだと、相手に感じさせない。

このような依頼心が生じ、今は生活が難しいからまずはレストランを開き、金儲けをしてからその時は店を閉めて菩薩に懺悔してもいいから、今は多めに供養するようなことを師父は言ったと、相手に思わせたら、仏法と言えるのか。仏法ではなく、媚びることだ。尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェの教法は古代のチベットで仏法を教える方法だと、公開的に言ったことがある。つまり、古代で仏法を教える方法もそうだということだが、今時は誰でも仏寺の大きさ、仏像の高さを比べている。仕方がないことだ。

次に出てくる言葉は『偈重説言:『…善信衆生故、是名菩薩性。』』。この二つの言葉の解釈はやや難しい。善、信、衆生は三つのことだ。衆生を見る概念は悪と善ではなく、慈悲の心で一切の有情衆生を見て一切の衆生はきっといつか成仏できると同情心で信じるからこそ、菩薩性だ。しかし、もし相手は政治家だから優しく扱うと言ったら、正しくないのだ。以前はリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子で、今は政府の大臣を務めている人がいる。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは飲酒でよくないことが起きるから、飲酒しないように彼に言ったが、彼は聞かなかったので、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を追い払った。彼は今政府部門の大臣だが、電話すればリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来る。リンポチェは彼のためだったと、彼は覚えているからだ。他人の場合、その人が将来大臣になると神通で分かったら、きっと媚びたくて追い払ったりはしないだろう。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を追い払ったし、彼からもらった大変古いタンカも同時に返した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、衆生は誰でも未来仏になれることを信じ、皆は善の功徳を持っていると信じているから、あらゆる方法を使っても利益して助けてあげたい。自分の名聞利養を考えない。身の回りに政府部門の大臣を務める弟子がたくさんいたら、大いに宣伝してもいいが、リンチェンドルジェ・リンポチェはこうしなかった。寶吉祥仏法センターにも政府部門に勤める人がたくさんいるが、皆は知らないだろう。別に、リンチェンドルジェ・リンポチェはわざと皆に知らせたくないというわけではない。寶吉祥仏法センターでは、リンチェンドルジェ・リンポチェは誰かを利用して有名になりたいとは思わないからだ。ただ、苦しみを抱えて上師と諸仏菩薩の代わりに仏法を宣揚し、少しでも仏法の命脈を世間に残したいだけだ。他人はそうしていないと、リンチェンドルジェ・リンポチェは敢えて言わないが、誰もが自分の責任を果たす必要がある。これこそ菩薩性と呼べて菩薩になる特質があることだ。

次は『善男子、云何菩薩摩訶薩楽菩提心。善男子、菩薩摩訶薩以有菩提相故発菩提心…』。釈迦牟尼仏は本当に立派だ。誰もが自分は菩提心を発心したいとか、菩薩戒を受けたとかを言っている。菩薩戒は菩提心のことだから、仏は特別にいくつかの言葉で私たちを警戒させた。経典は、何の理由で大菩薩は楽菩提心があることについて触れたのか。菩提相がないのに、菩提心を発したと自称するのは嘘だ。慈悲の外見がないのに、慈悲心があると自称するのも嘘だ。また、道場は物や功徳主を競売して募金するのも菩提心がないことだ。

菩薩摩訶薩だったら、きっと菩提の相を持っている。即ち、因縁があり、決して怖くなったり、退転したりしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは屏東に修法に行った時、20万本の樹木のある所は決していいことはないと知りながらも、修法に行った。あの時、リンチェンドルジェ・リンポチェは事前に尊勝なる直貢チェツァン法王に護法を修めることをお願いしたし、自分も護法を修法した。状況の厳しさを知り、きっと大変なことになるとも知っていたが、行くことを止めなかった。求められたからだ。この相があったからこそ、リンチェンドルジェ・リンポチェは菩提心を持っていると証明された。菩提相があって初めて施身法を修めたら変わる。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは菩提相、菩提心がなければ、いくら施身法を修めるように直貢チェツァン法王に指示されても、1ヶ月ちょっとで回復できるはずはなかった。

菩提心、菩提相は恐れる気持ちがなく、菩薩道を実行するため、何物をも恐れない。例え世の中が理解してくれなくても恐れず、世の中の人に傷つけられても怖がらずに地道にやり、決して妥協しない。つまり、釈迦牟尼仏と上師の教えた仏法を背かないことだ。だから、菩提相がないのに、菩提心を発したと自称するのは嘘だ。単に口先のことで、ちょっと考えることだけだ。

次は『未発菩提心時或諸如来或諸声聞勧発菩提心。』。この言葉は、菩提心を発さなければ、一切の仏と声聞は皆菩提心を発するように忠告してくれる意味だ。慈悲のほかに、菩薩道が最も重要なのは菩提心だ。菩提心がなければ、菩薩道の実行もない。慈悲は菩提心の沃土だ。だから、慈悲を覚えなければ、菩提心もあり得ない。そのため、慈悲は菩提心の根本だ。慈悲を学ぶには、基本条件は五戒・十善、『仏子行三十七頌』だ。これらを学ばず、唱えないのに、慈悲を学んでいると自認するのが嘘だ。あり得ないことだ。大変難しいと言う人もいるが、本当は難しくない。難しいと思うのは、あなたたちは未だに決意せず、まだ疑、惑を持っており、自己利益のために仏法を見ているからだ。これでは、当然に難しいのだ。

もし、あなたたちは菩薩道の学習と修行を発願したが、菩提心をまだ発していなければ、一切の仏と声聞縁覚は菩提心を発心するようにあなたに忠告する。それで、毎回回向する時は『菩提心文』を念誦する。例え諸仏菩薩、声聞縁覚に会えなくても、彼らはいろんな方法で菩提心を発するようにあなたを助ける。菩提心を発さずに衆生を利益したいというのは、ありえないことだ。何故なら、菩薩道の根本エネルギーは菩提心からのものだからだ。菩提心がなければ、単に念誦で衆生に地獄に堕ちさせないことは難しい。

菩提心は諸仏が成仏までに必ず通る道だ。菩提心がなければ、成仏はあり得ないし、菩薩になるまでの修行もあり得ない。しかし、菩提心を発して修行したら、例え戒を犯すように見える行為が少しあっても、懺悔する必要はない。何故なら、どんな行動でも、戒を犯すように見えるが、実際には人を利益しているからだ。しかし、これはあなたたちのできることではない。

皆の知っている話だが、釈迦牟尼仏は某世に500人の商人と一緒にある船に乗った。船主はその500人の商人は大金持ちだと知り、船を沈めて彼らのお金を横取るつもりだった。釈迦牟尼仏はその世に菩薩道の修行をしていた。神通でこのことを知ったので、船主を殺して500人を救った。その500人は未来の五百羅漢だった。戒律の観点では、釈迦牟尼仏は人を殺したが、逆に釈迦牟尼仏は船主を殺して500人の阿羅漢を殺すのを止めたので、その船主は五無間地獄に堕ちなくなった。それに、船主は500人を殺さなかったので、その500人は阿羅漢になり、将来にたくさんの衆生を助けることができた。

菩薩の一つの行動は、一見戒を破ったように見えたが、菩提心による行動で自分のためでなく、自分が地獄に堕ちても衆生に地獄に堕ちさせたくない気持ちだったので、どんな行動についても懺悔の必要はない。あなたたちと違う。あなたたちはどこにいても懺悔している。理由はあなたたちに菩提心がないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは何故自分たちに菩提心がないと知るのかと思う人もいるだろう。知るのは当たり前のことだ。もし、あなたたちには菩提心、菩提相があるとしたら、少なくとも出家したはずだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがこう言ったから、あなたたちも出家しようと思ってほしくない。リンチェンドルジェ・リンポチェに迷惑をかけないでほしい。リンチェンドルジェ・リンポチェは比丘戒を受けなかったので、あなたたちの出家については受け入れられない。まして在家衆にとって、菩薩道はより容易に修められる法門だからだ。容易というのは修める必要がないという意味ではない。生活面において世俗に人間に向いている方法ということだ。

そしては『善男子、此是菩薩初発菩提心相。』。仏の定義として、諸仏菩薩、声聞、上師が菩提心を発するようにあなたに忠告し、そしてあなたはそれを聞いて行動に移すからこそ、『初発』だ。また、『善男子、彼菩薩聞有菩提、聞菩提心有大功徳、聞発阿耨多羅三藐三菩提心、此是菩薩第二発菩提心相。』がある。一人の菩薩が菩提心を発した後、『聞』は聞いた仏法を深く信じる意味で、菩提があり、菩提心を聞いて大功徳がある。功徳は福徳ではない。自分が生死を解脱でき、そして衆生の生死解脱のために利益できるためだ。大功徳を持つには必ず菩提心を発して菩提相を持たなければならない。こうして初めて阿耨多羅三藐三菩提心の発心ができる。この部分は中国語に翻訳しなくてよい。簡単に言うと、阿耨多羅三藐三菩提心は無漏智慧の菩提心で、空性の菩提心だ。わざとらしいものではない。

私たちが最初に発したのは世俗の菩提心で、考えて聞いて意図的に考えたものだ。その次のは自然に生じたもので、菩提心の発心で大功徳が得られるのを聞いたから決意したものだ。そのため、以前開示したように、疑、惑、不決定があれば、菩薩道の修行はできない。疑いもなく、迷いもなく、やることを決意し、菩薩道の修行を諦める理由と機会を自分に与えないからだ。

漢方医の弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェに鍼治療をしてくれた日もそうだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは相変わらず菩薩道を実践し、娘さんを殴らないように言ってあげた。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェを助けていた時でも、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に忠告してあげた。しかし、他人の場合、自分は助けられるかのことにしか関心を持たないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェのこの行動が菩提心だ。衆生を苦しませたくないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェのために鍼治療をしながら、助けられないことを心配する人はきっと大変苦しむだろう。漢方医の弟子はその時リンチェンドルジェ・リンポチェを助けられないことを心配していた。助けられなかったら、1000人以上もの人は彼を責めるだろう。経典では、衆生を悩ませないことが言われている。自分の利益で衆生を悩ませない意味だ。

『阿耨多羅三藐三菩提心』とは、菩提心が空性に入り、勝義菩提心のことだ。勝義菩提心は無自性のもので、意図的に考えられず、因縁によるものだ。因縁が現れると、菩提心は電気、光速よりも速く現れる。速度はあなたたちの想像以上だ。何故こうできるだろう。行者は菩提心の修行、発心で利益衆生のための大功徳があるとよく知っているから、疑わず、惑わない、決定を下し、自然に阿耨多羅三藐三菩提心に転じられる。これは菩薩が二番目に発する菩提心相だ。

そしては、『善男子、彼菩薩見諸衆生、無主無親、無救無護、無能度之令至彼岸、菩薩即為彼諸衆生起慈悲心而作是言:『我当於彼無主無親、無救無護諸衆生等而作救護。』為彼因縁故発阿耨多羅三藐三菩提心。』

世俗の菩提心があってもまだ衆生の済度ができないから、仏経を唱えるくらいのことで衆生を済度できると思わないでほしい。これは仏経の話だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆を騙していない。以前リンチェンドルジェ・リンポチェも話したが、家族が往生した時、眷属が念誦したほうがいい。理由は、本当に菩提心を発することができる人は多くない。だから、菩提心を発した善知識に助念してもらえなかったら、死者のためになれない時もある。『宝積経』によると、菩提心を発することで大功徳が得られるので、まずは菩提心、菩提相を発することだ。それから、もう一度菩提心、阿耨多羅三藐三菩提心、つまり勝義菩提心を発することだ。二番目の菩提心を発して勝義菩提心があってから、初めて衆生の苦しみが分かる。

2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェはラプチ雪山で閉関した。その時、衆生の輪廻の苦しみを実際に見た。実際に見たことは目を開けて見たのではなく、法性の中で見たのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれらの苦しみを見て思わず涙を流し続けた。涙を流したのは、リンチェンドルジェ・リンポチェは大変慈悲だというわけでなく、衆生は苦しんでいたからだ。それでリンチェンドルジェ・リンポチェは2日間も涙を流した。閉関を終えた後、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのことを尊勝なる直貢チェツァン法王に報告した。直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェは勝義の菩提心と空性まで修行できたと開示したと共に、一つの話も開示してくれた。ミラレバ尊者は見ることもできず、衆生が輪廻の苦海にいると思ったら、すぐ悲しくなった話だった。

あなたたちだったら、他人事のように思えるだろう。輪廻は何かも知らず、ただ子供は座るのも歩くのも自分の言いなりに、大人しくなってくれるかどうかを思うだろう。犬でさえこんなに大人しくなるはずがないのに、子供はこんなに従順にならない。できるなら、犬のトレーニングでもして何も食べさせず、座らせてみればいい。今時の親は皆子供に犬のように従順になってほしいと思う。ペットを飼う人が多いが、ペットは、食べさせたら、何でも自分の言いなりになってくれるからだ。しかし、人間は難しい。食べさせるだけでなく、洋服も与えなければならない。洋服のほかにも、携帯電話やパソコンを与え、コンサートに行かせなければならない。それでもまだ足りない。今時の親はなかなか務まらない。

菩薩は勝義菩提心があってから、初めて衆生の『無主無親』が見える。『無主無親』は今生に家族がおらず、住む場所がない意味ではない。主宰できず、未来に自分の命はどこにあるかも分からない意味だ。『無親』は、法界の眷属がおらず、頼れる者がいないことだ。『無救無護』は、全世界に輪廻から離れるように、衆生を導いて助けられる宗教がなく、輪廻するから、助けも保護もないことを指す。2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェが涙を流したのはこのことが原因だった。

『無能度之』は、勝義菩提心がなければ、彼岸へ済度する能力はない意味だ。それで、拝仏させたり、精舎を作らせたり、仏像を寄付させたりすることは済度してあげることではない。これらのことはただ、仏菩薩に触れ合う因縁を作ってあげるだけだ。『度』とは、彼岸の仏土に行くことだ。自分に彼岸に行く能力がなければ、他人を済度するのも無理だろう。そのため、勝義菩提心がないと、衆生を済度することはできない。チベット密法を含め、ラマは普段念誦しても衆生を済度していると敢えて言わず、念誦のことしか言わない。また、阿弥陀仏の所に行けるとも言えない。言えるのはリンポチェだけだ。しかし、リンポチェ全員はこう言えるかどうかは、リンチェンドルジェ・リンポチェは知らない。しかし、一つだけがリンチェンドルジェ・リンポチェは保証できる。それは、法会に参加すれば、きっと得度できることだ。何故なら、リンチェンドルジェ・リンポチェは厳しい条件を決め、肉食禁止、一生肉食してはならないと決めたからだ。あなたたちはこれができたら、仏菩薩も優しくなってくれるだろう。

それでも、肉食を止められず、法会が終わった後肉食しても構わないと思う人がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは阿弥陀仏大済度法会を開催しない理由がある。それは、毎年あなたたちのために浄めてあげなければならず、9年間浄めてきたが、肉食する人はまだたくさんおり、いっそう開催を止めたいからだ。こんなに大勢の金銭と時間を費やしても、衆生を傷つけないという基本の慈悲心を起こさせられないからだ。

菩薩が慈悲心を発したのは、衆生の輪廻解脱を助け、これ以上輪廻しないように助けたいからだ。病気の治療や子供を取り戻すことはリンチェンドルジェ・リンポチェに頼まなくていい。このようなことはタンキー(童乩)に聞けばいいのだ。密宗の修行をしている人はすごくて何でも知っていると思う人が多くいる。リンチェンドルジェ・リンポチェもすごい。あなたに学仏の縁があると感じたら、助けて機会を与える。つまり、『以欲勾之(相手の欲望を利用して教化する)』のことだ。『以欲勾之』は、衆生の欲望を満たし続ける意味ではない。相手が来る時は欲望を持っているが、縁があるかどうかを見る。縁があれば、助けてあげる。それからは苦しみの始まりだ。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはすごくて助けてくれると思ったら、その後のことには気をつけろ。

『起慈悲心而作是言』の部分だが、修行者の慈悲は世間の事のためではなく、輪廻を離れて彼岸に行けるように一切の衆生を助けるために生じた慈悲心だ。あなたたちは聞けば聞くほど怖いだろう。以前人のために念誦した出家弟子がいた。」この時、一人の出家弟子は間違いを犯したと認めた。そうしたら、リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示した。「彼女が間違ったとも言えない。教えてあげる人がいなかったのだ。彼女は以前ある死者のために21冊の経文を、自分の体を悪くしたまで念誦したが、体が悪くなった原因も知らなかった。彼岸に行けるように死者を済度しなかったのに、死者の家族からお金をもらったからだ。一定の値段は付けられるかどうかを問わず、お金をもらったら、必ずよくないことが起きる。

仏は、如何に衆生を助け、どんな基準で衆生を助けるかを教えてくれた。基準は、自分はこの能力を養成できたかどうかにある。できなかったら、衆生を助けられないだけでなく、自分をも傷つけてしまう。この出家弟子の例は明らかだ。彼女は大変頑張って念誦した。ほかの人は一冊の経文も終えられないだろうが、彼女は21冊も念誦し、これで無事だと思った。その結果に、彼女は本当に無事だった。たくさん念誦したから、リンチェンドルジェ・リンポチェに出会え、体も回復した。仏法は世間で言われるようなことではない。仏法を学びたいなら、当然に釈迦牟尼仏が話したことを守らなければならない。釈迦牟尼仏が話さなかったことを、私たちは決して言ってはならない。

次に『善男子、彼菩薩以見如来相具足身、生歓喜心、生勇悦心、心生歓喜、以是因縁故発阿耨多羅三藐三菩提心、此是菩薩第四発菩提心相。』

前の三つとも実践できたら、菩薩は初めて如来の相に会うことができる。ここは本当に仏の姿を見る意味ではない。『見如来相』は本当に如来に会う意味だと誤解する人が多い。『見如来相』は、修行者の行動は如来の教えた通りに一致して間違いなくやっているかどうかのことで、全く一致していたら、『見如来相』になる。『生歓喜心、生勇悦心』は、一人だけの衆生でも輪廻の苦海から離れたと見ると、歓喜が生じる意味で、何故なら、私たちが輪廻を離れる機会も増えたからだ。衆生が輪廻を離れなければ、菩薩も輪廻から離れることはない。しかし、菩薩の輪廻は苦しくない。本願に乗じて来たからだ。それでも、衆生がいる限り、衆生を助け続ける。先週の開示で、菩薩道を修行する人は『少欲、少嗔、少痴』が必要だと話した。理由は、物を貪ったり、ほかのことを求めたりするのではなく、輪廻を離れるように衆生を利益する欲望がまだあるからだ。

『生勇悦心』とは、三つ目の菩提心を発した後、仏法、修行、利益衆生のための進める力は大変力強くなる意味だ。今年、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に証明して見せた。『悦』は喜びで、衆生が離苦できたことを見たから、つまり、修行者は自分の全てを尽くして衆生に輪廻の苦から離れさせたから、もちろん喜ぶのだ。今のあなたたちは、他人の全てのもので自分を喜ばせようとしている。子供に対しても同様だ。子供が従順だったら嬉しい。従順でなかったら嬉しくない。また、子供が親孝行をしていたら嬉しい。そうでなければ嬉しくない。子供が授業中走り回って先生に怒られたら、あなたたちは面目を失って喜ばない。

今時の子供が従順にならないのは、小さい時から牛乳を飲むからだ。子牛は生まれると、あっちこっち飛び回って大人しくないからだ。あなたたちは母乳でなく、牛乳を子供に飲ませるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの家族の例だが、姉妹の一人は乳母の乳を飲んだから、性格はほかの兄弟と全然違う。他人の乳を飲んだから、遺伝子は異なる。今の女性は勤勉でよく働くが、母乳を子供に飲ませない。女性に乳があるが、男性にないのは、母乳育児は女性の仕事だからだ。現代に乳がんが多いのは、母乳で育児せず、脂肪が塞いでしまい、肉食をするとすぐ変化が起きる。こんなことを言ったら、お医者さんの収入がたくさん減るだろう。

その次は『心生歓喜、以是因縁故発阿耨多羅三藐三菩提心、此是菩薩第四発菩提心相。』勇悦心、歓喜心があるのは全部衆生のためだからこそ、四つ目の菩提心だ。今、皆は分かっただろう。『宝積経』は本当の宝だ。仏が話した菩薩道に関する法が全部含まれている。累積の『積』という字を使ったのは、菩薩道の学習は累積によるものだからだ。一挙に達成できないし、数時間長く座って木魚を叩くことで菩薩道の修行できるわけがない。仏経にこんな話はない。ただ、心はどのように自分を変えるのか、改めるのかについて絶えずに触れられた。このように四つの菩提心を発したら、初めて利益衆生、慈悲喜捨の修行、四相を破ることを言う資格があり、衆生を済度できる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは実践できたから、これらの経文を読んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの学んだ密宗の法門は全部済度に関するものだ。多分、過去世に菩提心を発しただろう。菩提心を発した人は、生生世世にエネルギーが存在する。例え今生に生死の解脱ができなくても、今生に菩提心を発せば、来世も未来のたくさんの世も、成仏できるまでに菩提心の効果は存在して消えない。しかし、俗世間の善を行うのはただの福報に過ぎず、使い切るもので、功徳は菩提心になる。『宝積経』によると、菩提心は4種類がある。4種類の菩提心を発した後、初めて菩薩になって衆生を助けられ、苦海を離れて彼岸に行かせるように茫然自失で身よりも頼りもない衆生を助けられる。さもなければ、可能性は低いのだ。

仏法の学習はちっとも複雑ではない。諸仏菩薩と上師の教えにきちんと頼れば、例え円満に実践できなくても、やる気と決意があったら、いつ円満に実践できるかどうかは重要でない。とにかく、やり始めることだ。仏法は少しずつ累積されるもので、いきなり全部あげられるものではないからだ。成仏には三大阿僧祇劫が必要だと、仏ははっきりと話したから、あなたたちは数年の学習、或は十数年の出家で十分だと思う資格があるはずがない。あなたの過去世に大した善根があったら、今生に機会があるかもしれない。さもなければ、地道に順序に従って次第に輪廻の行為を改めなければならない。このように修行する人は、今生決して間違った道、間違った場所に向かうことはない。

今日の開示はリンチェンドルジェ・リンポチェ自身の言葉ではない。釈迦牟尼仏が話した内容だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはただ自分の修行経験で、これらのことは実践できると証明しただけだ。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは三つ目の菩提心を発さなかったら、衆生の輪廻する苦しみを見ることもできなかった。経典の中で触れられた『彼菩薩見諸衆生、無主無親、無救無護』のことも、見るどころか、感じることでさえできなかった。三つ目の菩提心が現れれば、初めて空性に入れる。また、『見る』とは肉眼で見る意味ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏眼を話す資格がないが、仏の立場から言えば、法眼で見ることにより、衆生の苦しみが分かる。あなたたちは十分に苦しんでいない。これらの世間の苦しみは何れも因縁法で、生滅があることに過ぎない。

リンチェンドルジェ・リンポチェの今日の開示はここまでにしたい。あなたたちにとって菩提心の発心、菩薩道の修行において少しの啓示と助けになれればと思う。自分には無理だと決してそう思わないでほしい。こんな思いがあったら、疑、惑、不決定を持つことになる。リンチェンドルジェ・リンポチェはもう一度皆に呼びかけたい。きっと実践できるのだ。実践できる時間は重要ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが開示したからと言ってあなたたちは来年、リンチェンドルジェ・リンポチェにやって見せたいと思わなくていい。必要はない。いつになれば実践できるかはポイントではない。諸仏菩薩はちゃんと分かる。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子たちを率いてアキ護法と回向の儀軌を修め、法会は円満に終了した。弟子たちは、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる開示を感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを恭しく見送った。

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2018 年 06 月 16 日 更新