尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年10月25日

法会の開始前に、今年7月26日に皈依した北京から一人の弟子は、上師の功徳を賛美し、彼女自身の皈依経過と上師に助けてもらった経過を語る機会が与えられたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝し、並びに過去において為した多くの悪業を懺悔した。
「私は健康の問題がきっかけで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求め、皈依を同意してもらった。子供の頃から体が弱くて18歳の時に甲状腺機能亢進症に罹り、体重は40キロ以下に下がった。薬を飲んで症状をしばらく抑えたが、根治しなかった。それで、30歳の時に再発し、状況は大変ひどかった。2011年に、婚前の健康診断で左側の卵巣腫瘍と多発性の結節性甲状腺腫に伴うリンパ節の問題などが確診された。そのため、毎週1~2回で漢方診療所を通い始め、鍼灸、放血とパッティングの治療を受けた。『地蔵経』の内容の通りに、人の心は頑固で調伏しがたいものだ。私もこのような無明の衆生の一人だ。目の前に因果が現れたにもかかわらず、懺悔の心を持たず、世間でいわゆる成功と幸せに対してただ大きな野望と欲望を抱えていた。それまでに、仏教徒だと自認していたが、仏教に対する信仰はただの形で、口先で世間は苦しいと言いながらも、本気で苦海から脱離したい決意はなかった。

それから2012年6月のある日、着替えた時に左の乳房に小さい傷口に気付いた。その傷口から液体が滲み出した。大したことはないと思い、普通に外傷の応急処置をしたが、1年経っても傷口は治らなかった。皮膚の表面にかさぶたができ、かさぶたが取れたら、下方の肉はまた現れ、傷口はますます大きくなった。腫瘍の専門病院に行って初めて傷口の下に腫瘍があると確認された。2013年3月25日に、左乳房の非浸潤性乳管癌であることが確診された。傷口が治らなかったのは、その下方にある細胞は正常ではなく、自己修復能力がないためだった。そして、右乳房もガンになる可能性があると告げられた。本当に無常さの現れだと、私は深く感じた。

先生は、直ちに左乳房の切除手術を建議したうえで、わきのリンパの壊死組織切除が必要の可能性もあると話した。そのため、友達に頼み、私の検査報告を持って台湾の大病院で合同診察をしてもらった。どこも同じ建議を出した。私はまだ若くて新陳代謝も速いから、ガン細胞がほかのところへの拡大を避けるには、早めに手術を受けたほうがいいと言われた。しかし、手術後命の危険はないと保証できる人はどこにもいないと、私はよく知っていた。先生は入院指示書を2回も出してくれたが、手術を受けないことにして病院を離れた。自分の命に完全な責任を取りたい勇気はあったが、力は足りなかった。どうやって体をよくするかも分からなかった。

その年、私は33歳で結婚して2年も経っていなかった。まだ、博士課程の勉強をしていた。高齢の両親には私一人の子供しかいない。あらゆる方法をやってみた。漢方薬を飲んだり、多くの神医に診てもらったり、気功を練習したり、精神的な修行コースで勉強したりした。また、因果が見える人に相談し、法会をやってもらって冤親債主を済度し、自分も毎日『薬師経』を念誦して拝懺した。その頃、私はあっちこっちで結縁しようとしたが、体の様子は明らかな改善が見れなかった。左乳房の傷口からは、相変わらず毎日白くて黄色の膿が流れ、服に付けてしまうのがしょっちゅうだった。出かける時も、シャワーを浴びる時も大変不便だった。その3年間、傷口は最初の細い状態から50元の硬貨の大きさよりも大きくなった。超音波検査を受けた時、その恐ろしい傷口を見て驚いた先生もいる。病気の関係で学校の勉強を後に延ばさなければならなかった。更に、この病気に罹って1年も経たないうちに、主人から離婚を求められた。私は夫婦の感情を大変重視していたので、離婚のショックで私は崩れて情緒が大変不安定になった。この病気で、私は身も心もいろんな苦しみと悩みを経験したが、希望も解決方法も全然見つけられなかった。

今年1月、紹介者である廖兄弟子から一冊の『快楽と痛苦』をもらった。本の中にある尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの写真を見た途端、この上師の法相は荘厳で、大変慈悲、知恵のある方だと思った。しかし、すぐ本棚にしまって読まなかった。当時、私は論文で忙しく、本棚には数人のリンポチェの本を含めて仏法に関する本が何冊もあったので、無知の私はその時、この本の特別さを知らなかったし、探し続けていた命の灯が現れたことも知らなかった。

確診された時は、友達に頼んで2人の上師に手術を受けるべきかどうかを聞いてもらった。一人はリンポチェ、一人は先輩が20年近くついていた上師だ。何れの返事も早めに手術を受けることだったが、私はそれらの意見を受け入れなかった。3年経って私は生きて健康な人のように生活するように頑張ったが、ガン細胞の拡散可能性は消えず、死ぬ可能性もあると知ったから、毎日は時限爆弾を抱えているような気持だった。今年初めの頃、先輩の上師は、その住所の地域の病院で完全検査を受け、手術の必要があったら、受けなさいと忠告してくれた。しかし、私は避けられない手術から逃げたくてあっちこっち占いを受け、北京にいるすごい仙人、修道の偉い人と易経の達人などに会った。当時は本当に絶望で大変苦しかった。しかし、何れも手術を受けたほうがいいとの答えが出された。その状態の中、運命を見極められない私は仕方なく、先輩の上師のいる所の病院で検査を受けることに決めた。

出発前、私は大変落ち込んで誰にも会いたくなかったが、ちょうど廖兄弟子が北京に戻ったので、会うことを約束した。病院に行くことを誰にも話す気はなかったが、廖兄弟子に会って話し合ったうちに、もう耐えられないから手術を受けるかもしれないと遂に話した。それで、廖兄弟子はすぐ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが病気で苦しまれた衆生を済度した事績を話してくれた。しかも、自分の上師はきっと私を助けてくれると固く言ってくれた。廖兄弟子は更に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは皮膚ガンに罹ったが、因果を深く信じているので、学仏と修行で皮膚ガンを治したことも教えてくれた。

寮に帰ったら、私は初めて『快楽と痛苦』を読み始めた。本の中にある尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法写真の前に跪き、敬虔な気持ちで祈った。涙を流し、心の中で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに、『リンチェンドルジェ・リンポチェに助けてもらいたい。どうしても手術を受けたくない。どうしたらよいのか、教えてもらいたい。』と何度も話した。廖兄弟子も台北の兄弟子の力を通して私の状況を尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは私の会見に同意した上で、貴重な開示をくれた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの開示によると、鍼灸、手術、マッサージの外面治療などは私に不向きの可能性があり、私の調子により、これらの方法は副作用が起きやすい可能性があるそうだ。以前、鍼灸の治療を受けたた後、いつも体の具合が悪くなって熱も出したことを思い出した。リンチェンドルジェ・リンポチェは立派だと、私は賛嘆した。私に会わなかったのに、体の調子を知っていた。私は長い間探し続け、達人たちにも会ったが、3年以来、初めてこんなに明確に言ってくれる人が現れた。その時、私は外地で入院して検査を受けた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにまだ会わなかったが、上師に対して無比の信念が生じた。自分の上師を見つけたんだと、自分に言い聞かせた。

長年仏法を学び、密宗の修行をしていると自称する女性の居士に追随したこともあるが、その人の問題に気付いたので、遠ざかることにした。また、博士号の勉強をした期間もたくさんの高僧とリンポチェと知り合った。しかし、皈依したい思いと縁は何故かなかった。いつになれば、自分の根本上師に出会えるかをずっと思っていた。10年近くの時間もかけた。入院期間、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの著作『快楽と痛苦』をじっくりと拝読したし、廖兄弟子の薦めで寶吉祥仏法センターのウエブサイト上の度衆事績を読んでいた。読んでいるうちに涙が流れて止まらなかった。皈依したい上師、具徳如法、戒律厳密で、仏法のために己を構わず、大慈悲、大知恵と大神通力を有するリンポチェが現れたと分かった。そのため、廖師兄に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェこそ、体、慧命を含めて私を助けてくれる人だと、メールをした。私にとって、慧命は命よりも大事だ。命を失っても仏法の慧命を続けたい。それで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見する前に、私は皈依を求めることに決めた。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見するため、私は準備を始めた。廖兄弟子は、皈依弟子は菜食をしなければならないと言ってくれた。私は2008年に菜食を始めたが、意志が強くなかったので、何回か中断したが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会う前に、再び菜食を始め、今後は一切肉食をしないことを固く決めた。また、占いを受けることもせず、正真正銘の仏弟子になろうと決めた。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と旅行会社のお蔭で、早くも入台証(台湾の入国ビザ)を取得し、その翌日に台北行きの航空便に乗った。その間、いろんな状況があったが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持があったので、とうとう今年6月26日午後、願った通りに寶吉祥仏法センターに来られた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がった後、信衆を接見し始めた。私は下で待っていた時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の顔を遠く見たら、すぐ泣き始めた。泣き続けて止まらなかった。私の番になり、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの前に跪くと、私は思わずふるい上がった。心の中に大変感動と感激が湧いた。万里を超え、長い時間もかけ、やっと、内心で本当に皈依したい上師に出会えた。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に慈悲の方だ。私に長く開示してくれた。リンチェンドルジェ・リンポチェはまた、今生に肉を食べたら、悪業があると教えてくれた。上師は更に『今までたくさんのお経を念誦してきたが、如法に実践していない。病気は必ず悪いこととは限らない。病気がなかったら、放下できないだろう。』と話してくれた。また、乳房のガン細胞は水滴状に散らかって分布しているから、手術では難しいと教えてくれた。私の病気に関する上師の判断は、病院で精密機器で検査された結果と同じだった。その後、上師は私の頭頂部に長らく加持してくれた。その時、涼しさを感じたが、間もなく汗まみれになった。加持し終えたら、上師は、その翌日に施身法法会に参加しなさいと言ってくれた。来る前に『快楽と痛苦』の中で施身法のことを読んだので、台北に来たら参加できるかなと思っていた。台北に来た週はちょうど施身法法会が開催されたので、上師は慈悲の心で衆生の願いを満たしてくれることに、私は思わず賛嘆した。

そして、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが何のために来たかと聞いてくれた時、私は迷わず、皈依したいと返事した。そうしたら、上師は私を見て『いいだろう、皈依を認める。登録に行きなさい。』と応じてくれた。周りの兄弟子たちは皆喜んでくれた。皈依を求めるのが容易ではないと、私は初めて分かった。初めての会見で皈依を求められた。私は大変幸せだ。上師の大慈大悲に感謝しなければならない。皈依が認められた瞬間、私は体中楽になった気がして長年来人に言えなかった死亡と病気によるプレッシャーはそれで解消され、心は大変落ち着いた。具徳の上師について仏法を学べるようになり、死も生も帰属があると思えた。これも上師の大加持力と大摂受力のお蔭だと、私はよく分かっていた。

会見の時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、私の子宮が大変よくないと指摘し、中絶したかと質問してくれた。妊娠は一度もなかったと私は答えた。下がった後、一緒に来た廖兄弟子は、上師の言葉に間違いはないから、よく考えなさいと言ってくれた。結局、12年前に、一緒に部屋を借りた女の子が病院で中絶手術を受ける時、同行したことを思い出した。その時の先生は私が人に頼んで紹介してもらった。そうしたら、廖兄弟子はこのことを上師に報告するようにほかの兄弟子に頼んだ。これは共業だと上師は開示した。当時、その女の子がかわいそうから、手伝っていると思ったが、このような無知で悪業を犯したことに、私は全く気付かなかった。上師は大知恵で指摘してくれたので、本当に感謝している。皆さんにも私のことを戒めとして思うことができたらと思う。その翌日の施身法法会の時、私はその生まれなかった小さな命を観想した。法会終了後、上師は、その日の来た者は全部済度されたと話したので、私は大変感動した。

上師に会って加持をもらった日の夜、傷口からの膿はそれまでになかったほど少なくなった。そして、翌日施身法法会に参加した後は更に少なくなった。特殊なくっつけないコットンを紹介してくれた兄弟子がいた。漢方軟膏を塗ってからコットンを貼れば、傷口を引き裂くことも、服にくっつくこともなくなった。それまでに傷口による外出時の不便は解決された。また、私は漢方診療所で診察を受け、最上級の漢方粉薬を飲むこともできた。身も心も完全に上師に世話してもらった。台北にいた時、多くの兄弟子も、上師に助けてもらったことを語ってくれたので、私は感動で胸が一杯になった。

台北から北京に帰った後、最初にすることは入台証の申請だった。7月のブータンのツアーを申し込んだので、入台証の許可時間は7月24日だった。しかし、その週になったら、大事なことで出発できなかった。7月26日に皈依法会がある連絡があったので、皈依の心は固いかどうか試された。私にとって如法の上師に皈依することより重要なことはなかったので、いろんなことを克服してようやく7月26日の早朝に台北に到着し、午後の皈依法会に参加して正式に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子になった。

外地にいるので、法会に毎週参加できない私は、台湾にいる兄弟子たちが羨ましい。過去世において仏法を大事にしなかったせいか、こんな果報ができただろうと私は思った。だから、今生に運がよくて具徳の上師に皈依できたから、倍以上に大切にしなければならない。新しく皈依弟子として、私はまだたくさん勉強しなければならない。毎週の日曜日、台北道場で法会が開催される時、私は北京で壇城前に静座して伝法のカセットテープを聞くようにしている。普段も以前の済度事績と行程日誌を読む。読む度にたくさんの収穫があると思えた。上師に大変感服した。私の博士号の研究テーマは仏学で、たくさんの有名な専門家の授業も聞いた。仏法に関するリンチェンドルジェ・リンポチェの解説は、とても分かりやすく、明白で深く入っているものだ。それまでに聞いた何れの教授の説明に比べれば、全然劣らない。というよりも、上師には実修、実証があるので、それらの授業よりも勝っている。

ガンに関する上師の開示に、『特にガンの患者は、人からの批判を受けなければならない。あなたを批判する人の何れもあなたの業を消している。自身の間違いは何かをあなたに気付かせている。何故ガンに罹ったのか。瞋恚心がひどかったからだ。』という話があった。この段落を読んだら、上師は私に言っているように思えた。自分はいい人だから、人は私を傷つけてはいけないとずっと思っていた。自分の瞋恚心も認めなかったが、本当はたくさんの間違いを犯した。皈依法会に上師の開示した言葉、『皈依は借りへの返しを速めることだ。』をよく覚えている。特に私のようなガン患者は、因果が現れたので、もっと因果を深く信じ、常に注意しなければならない。

ここで、私は真心で深く懺悔したい。今生に蛇、ドジョウ、タニシ、ウナギなどの水産物、及び家畜家禽等などの動物の肉を食べたことを懺悔する。小さい時から常に嘘をつき、子供の時両親の財布内のお金を盗んだことを懺悔する。邪師の言葉を信じて両親を傷つけ、そのせいで両親は未だに仏法に対して信念を持てないことを懺悔する。以前の主人に憎しみを抱き、私を傷つけたから、学校の先生たちと友達の前で彼を批判したことを懺悔する。また、自分の親不孝、邪淫、そして、内心で他人の悪口を言う行為など、いろんな悪業を懺悔する。意固地で小賢しくふる性格、ケチ、集中力を欠ける心など、いろんな悪習を懺悔する。

道場の兄弟子たち全員は関心と助けをくれて温かく感じさせてくれた。このことにも感謝したい。また、皆さんの前で上師の功徳を賛美する機会をくれることに、もう一度上師に感謝したい。6月に上師に会った時から、僅か4ヶ月だが、上師に面倒と加持をしてもらったことは数えきれない。それらのことは、後日機会があれば、皆さんと分かち合いたいと思う。私の体のことだけでも、十数年来腫れたままの甲状腺は、腫れがだんだん消え、左乳房の傷口からの膿は少なくなり、傷口も縮小する傾向がある。私は、健康のこと、傷口はいつ完治できるかのことをもう心配しない。上師の慈悲心と大威徳力はあらゆる所に現れ、衆生を見捨てない。私は、完全に上師、仏法を信ずるだけのことをしたらいい。

続きに、皈依後、壇城の設置で上師に尋ねたことについて語りたい。北京に家の仏壇に仏像と結縁品がたくさんあり、どう整理したらよいかも分からなかったので、無謀に処理することはできなかった。上師に会った時、視線を集中せず、上師を見なかったので、敬う心がないと上師に叱れ、道場の奥で30分間反省するように言われた。道場の奥に座って自分の恭しさを欠けた態度を深く懺悔し、上師の加持が得られて死亡の危機は解消されたからと言って懈怠してはならず、真摯な初心を忘れないように自己反省した。30分後、上師は師兄を来させて私を呼び戻し、自分の間違いは何かが分かったかと私に聞いた。私はその場で、自分の貢高我慢を懺悔した。上師は、仏壇の整理と壇城の設置をゆっくりと教えてくれた。弟子として、私は上師の教法の殊勝さを深く感じた。叱責も叱りも全部弟子のためだ。弟子は専念に上師の教えを守り、生死解脱と輪廻解脱の決意を固めなければならない。上師はこの世間私たちの周りにいる仏だと私はつくづく感じた。私たちは弟子として、上師を仏のように思い、尊重しなければならない。最後に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体が安康で、法輪が常転し、仏法事業が興盛になり、直貢噶舉の法脈が永遠に伝承されることを祈る。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、施身法法会を執り行い、並びに参加者たちに貴重な仏法を開示した。

「今日修めたいのはチベットで伝承された密法、八大成就法の一つである施身法だ。施身法は漢語の翻訳だが、チベット語では『断』の意味だ。『断』は一切の煩悩障を断ち切ることだ。煩悩は、煩悩障と所知障に分かれる。八大成就法の定義では、今生にこの法門を修め続けたら、行者本人はきっと生死を解脱でき、今生において衆生の輪廻解脱を利益して助けられることを指している。

施身法の法本を書いた行者はチベットの在家の女性瑜伽士で、彼女は結婚して子供もいた。聖号はマジラ尊者、独立した伝承だった。チベット歴史の記載によると、マジラ尊者は修行で成就した後、多くのインド人修行者はインドからチベットに行き、マジラ尊者に法を求めた。施身法の顕教理論の根拠は『大般若経』であり、『大般若経』は空性の知恵を講じるものだ。自分自身の生死解脱を助け、更に利益衆生をしたければ、空性の般若がなかったら無理だ。

施身法は煩悩を断ち切る法門だ。その中、最も重要なのは供養・布施だ。施身法は、修行者がまず自分の体を、諸仏菩薩、上師、本尊、護法、空行母と勇父などに供養してから、六道にいる一切の有情衆生に布施する。施身法を学ぶには、10年の顕教基礎が必要だ。顕教基礎は、どのくらいの仏経を念誦すること、皈依、菜食、或は出家のことではない。顕教基礎は、経律論、この三蔵の中にある。仏法を聞き、単独に考えた後、自分の身口意を修めることこそ、顕教の基礎だ。既にたくさんの経典、仏法を聞き、たくさんの名相が分かると自認しても、聞思修をしなかったら、いくら聞いても無駄だ。

『宝積経』の中で、釈迦牟尼仏は、菩薩道の修行において最もよくないのは『多聞慢』、つまり、たくさんの見聞と学識があると自認して生じた貢高我慢だと開示した。貢高我慢が生じると、慈悲心は自然になくなる。慈悲心がなければ、空性の体験は難しい。学仏で念誦、座禅をすれば、衆生を済度できると思う人が多いが、正しくない概念だ。『阿弥陀経』は、往生を発願したとしても、在世の時は必ず円満に十善法を修めなければならないし、福徳と因縁も欠けてはならないとはっきりしている。阿弥陀仏自身でも浄土に往生する時は、これらの条件を満たさなければならなかったから、衆生の往生を助けるには尚更だ。福は、礼仏、拝仏をすれば得られるものではなく、助縁に過ぎない。学仏と修行における障害の解消を助けてくれるものだけだ。福は、私たちの生死解脱を助けるものだ。弟子がいて大仏寺、大道場を持つことは福ではない。却って業障が深い可能性もある。リンチェンドルジェ・リンポチェは業がなかったら、こんなたくさんの弟子を持つ必要もなかっただろう。

業は、善業と悪業がある。弟子がたくさんいる人が羨ましく思う人が多いが、そんな必要はない。直貢噶舉では、殆どの大成就者は晩年の時、弟子を取らないし、信衆にも会わない。これは慈悲のないことだと批判する人もいるが、これこそ大慈悲だ。何故なら、成就者の果位から見れば、弟子を取った後、その弟子は如法で修行しなかったら、成仏の障害となるからだ。これは密乗の中で指摘されたことだ。

人を済度する時、大事なことがある。学仏者であれば、誰でも『金剛経』を読んだことがあるが、重要なのは、四相を破ることだ。経典だったら、阿羅漢を修める『阿含経』と『雑阿含経』では、衆生を助けて済度する方法は触れられなかった。目犍連尊者は誰よりも強い神通を持っていたが、母親が餓鬼道に堕ちても助けてあげられず、釈迦牟尼仏にお願いしなければならなかった。このことから、阿羅漢には済度の能力がないと分かる。何故なら、慈悲心、菩提心がないからだ。だから、例え禅定は四禅八定までの能力があり、四果の阿羅漢まで証得できても、済度する能力はないのだ。

どんな人に済度する能力があるだろう。『金剛経』から見れば、菩薩道の修行は必ず四相、つまり、人相、我相、衆生相と寿者相を破らなければならない。禅宗を学ぶ多くの人は、毎日あぐらをかき、我相を破り、我執はいらないと思っているが、これは我執だ。ひたすらに衆生相を破りたく、前に衆生がいないと思ったりするが、衆生がいなかったら、どうやって成仏できるのか。また、人相を破りたいと思ったりするが、あなたも人間ではないか。そして、我相を破りたいと思ったりするが、我という自分がここで座禅しているのではないか。どう破れるのかについて、『金剛経』の中では記述されなかった。

釈迦牟尼仏は『金剛経』の中で話さなかったが、『宝積経』の中で話した。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて経典の内容で開示した。四相を破るには、慈悲喜捨を修めなければならない。人に優しいのが慈、拝仏を教えるのが悲、人のために念誦するのが済度だと思う人が大勢いる。しかし、仏法を理解する人は、『慈』は、自分のよいものを他人の悪いものと交換することだと分かっている。密宗だったら、自他交換で、己のよいものを他のよくないものと交換することだ。これはかなり難しい。『慈』は、人を超抜して輪廻の苦海から離れるように助ける能力があることだ。『喜』は、後遺症が起きない快楽、つまり、輪廻を断った永遠な楽が生じるように人を助けることだ。『捨』は、済度を受ける衆生に、心の歓喜と不歓喜を全部等しく捨てさせる、大変難しいことだ。

衆生を済度する時、もし、衆生の心に執着があり、修法者の心にも執着があったら、衆生は済度を拒む。仏経の話だが、人間は死んだ後、中陰身に入って鬼になり、人類より100倍以上の能力を持つ。鬼のたくさんの意識は止まって作用しなくなったので、残りは業力と執着心だけだ。もし、修法者にも執着があり、四相を破れない場合、執着と執着がぶつかる状態では、死者は済度を受け入れるはずがない。修法者は、自分は死者のために済度している、或は、自分は修法して済度していると思ってはならない。

一部の所はずっと済度をしているが、鬼はますます増える。それに対し、寶吉祥仏法センターは済度法会をずっと開催しており、人はどんどん多くなる。済度法会は衆生に有益なのか。法会に参加した後、物事がうまく運ぶか、またはよくなるかを見る必要はない。法会に参加すれば、福報は生じる。もちろん、一部の悪の果報を軽減し、しばらく遮って修行に努める時間がもらうこともできる。はっきりと聞きなさい。しばらく遮るだけで、果報を消すことではない。しばらく止めるだけだ。しかし、法会に参加したから、今生は無敵になると思う人が多い。この概念は正しくない。ちょっと遮ることだけだ。後はあなた自身は精進するかどうかによる。

チベット仏教はミラレバ尊者のことを大変賛嘆している。2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェはミラレバ尊者が長年閉関した所で閉関した。現地の標高は4500メーター以上、リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関の時、毎日、一尊の護法が麒麟に乗って山谷を見回って保護しているのを見た。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェはその護法を見たことがなく、誰の護法かも知らなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関を終えた後、尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェを連れて更に高い所に行った。その時、初めてアキの外部護法だと分かった。

今回、リンチェンドルジェ・リンポチェは9月にチベットの直貢梯寺に行った時、ミラレバ尊者のタンカにその麒麟に乗った護法を初めて見た。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの法門や麒麟に乗った護法を受けたことがなかったのに、何故その護法が現れたのだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の修行は上出来だと、敢えて言えないが、死を恐れず、決意があるから、護法が現れてくれたとは言える。慈悲喜捨を修めず、四相も破れなかったら、これらの護法は現れない。何故なら、衆生のためでなく、自分自身のためにやっているだからだ。閉関を終えれば、大福報、大成就があり、大仏寺を建てられる、或はたくさんの仏経を聞いたから、弟子を取れるなどの考えは、釈迦牟尼仏の教えた仏法ではない。

もし、これらは釈迦牟尼仏が教えた仏法だとしたら、仏の周りの大弟子たちは済度の能力があるはずだ。仏に別途に教えてもらう必要もなかった。釈迦牟尼仏が初転法輪(最初の説法のこと)の時は、まず『十二因縁法』、『四聖諦法』を開示した。それから、『阿含経』と『雑阿含経』を開示した。菩薩道でなく、これらを先に開示した理由は何だろう。その時代に、インド人は誰でも更に苦しまないことを望み、苦しみの解脱のために単独で修行していた。そのため、菩薩道を話しても彼らは理解できなかった。だから、仏は先にこれらを開示し、彼らはすぐ受け入れられた。当時、インド人は苦の由来、発生させない方法について研究し続けていたが、結果はなかった。今のインドに、未だに苦行の方法がある。

最近テレビで報道されたことだが、あるインド人は十代の時から右手を挙げてきた。今は手を下せなくなった。その人は、一日24時間で手を挙げたままの方法で修行してきた。密乗に苦行する必要はないという話があるが、このように体を傷つける方法で苦行する必要がないことだ。インド人は、苦しみの原因と消滅方法に関する釈迦牟尼仏の開示を聞き、それまでに聞かなかったことだが、できるのだと分かった。それで、たくさんの人は直ちに釈迦牟尼仏に追随して仏法を学んだ。

釈迦牟尼仏の時代は大変苦しかった。外道ばっかりで仏法を話す人もいなかった。私たちは幸運にも釈迦牟尼仏が伝授した菩薩道を聞けるので、『宝積経』の通りに菩薩道の精神を学んでいるかを自問すべきだ。なかったら、自分は衆生を利益できるような妄語を何故言えるだろう。諸仏菩薩、上師と結縁できるよう衆生を助けていると、謙遜に言うべきだ。妄語を言ってはならない。皈依時の五戒のうち、最も破れやすいのは『不妄語』だ。果位が得られるまでの修行をしていないのに、修行できたということは妄語だ。

チベット仏教はより系統的になっている。仏経内の功徳を実践できなかったら、果位の認証はもらえない。チベット仏教では、行者の功徳が認証されてからでないと、行者は公開的に仏経を宣揚してはならない。仏学院から卒業すれば、できることではない。必ず、認証、坐床を経なければならない。もし、教派に法王がいる場合、法王を中心とし、法王がいなければ、リンポチェを中心とする。『坐床』は、行者に仏法を開示する資格があることを指す。資格とは、多聞でなく、行者は仏法の根本的な中心思想を理解したので、衆生を誤導することはない意味だ。リンポチェの果位は尚更に難しい。

済度したいが、執着心を抱いているなら、衆生の苦しみは理解できない。皆もよく知っているだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの人を済度する時、衆生が持っているいろんな執着が分かる。何れもお金、眷属と名声ばっかりだ。『父は何を言い残したか。』と聞く人は多い。ほかにないだろう。あなたの親不孝、大人しくしなかったことだ。親はたくさんの遺言がある、また財産の分配が分からないからどうしてよいかと思う人が多い。人間は死ぬ時に、生前の時最も大事なことへの執着だけが残る。ほかのことはどうでもいい。怖くて将来はどうなるかも分からないからだ。

そのため、行者は死者の苦しむ原因が分からなかったら、死者の離苦を助けることはできない。苦しみはどこから来たのか。皆は貪瞋痴慢疑の答えを出すだろう。貪瞋痴慢疑を消す方法はあるか。皆はたくさんの念仏だと言うだろう。しかし、たくさん念仏すれば役立つのか。大勢の人にとっては役立たないのだ。施身法には特別なところがある。助けられる死者に、修法者の慈悲を感じさせ、修法者は何も求めず、ただ皆の離苦を助けたいと分からせることにより、死者は初めて仏法を受け入れる。

皆は甘露を聞いたことがある。甘露雨が降るのはその一部だけだ。一番大事なのは、あらゆる衆生に、甘露は自分の形体に入ると感じさせることだ。六道では、無色界天の衆生だけが形体を持たないが、ほかの六道衆生は皆形体がある。しかも、六道衆生には悪習があり、ものを食べるのだ。仏経の中ではっきりとされているが、天界の衆生も食べる。ただ、食べ方と食べ物が違う。

悪習は、生生世世に食べる習慣と、生生世世の淫で輪廻を繰り返す習慣の二種類がある。淫は悪いことだろうか。儒家思想で考えると、悪いことだ。それに対し、仏教の概念では、両親に淫の心がなかったら、あなたたちは生まれて来ない。あなたは淫の念頭が生じ、両親が一緒にいるのを見て歓喜な心が起きたから、自ら入って生んでもらっただろう。だから、断ち切るべきことは私たちの飢餓と淫の悪習だ。

餓鬼道にいたら、ものが食べられないので、修法者は、観想と真言を通して体を甘露に変えて諸仏菩薩に供養し、それから、自分の体を衆生の好きな食べ物として観想する。血が好きだったら、血を飲ませる。肉が好きだったら、肉を食べさせる。骨が好きだったら、骨を齧らせる。自分もできると思う人がいるかもしれないが、決してこうしてはいけない。慈悲喜捨までの修行がなく、禅定中に離戲瑜伽まで修行できず、平等性智もなければ、このような観想は自身の体を傷つけるだけでなく、衆生には何の効果もない。
法本に、修法者はまず発心、つまり前行をする必要があると書かれている。発心は大事だが、修法の動機がよくなかったら、僅かでも自分を利益したい考えがあったら、衆生を済度することはできない。発心の動機が正しかったら、もちろん正行もよくなる。正行のうち、施身法は大変特別だ。修法者は自分自身を守ってはならない。つまり、自己保護のためのものを付けてはならない。また、修法時道場で結界をしてはならない。出家者は結界の意味が分かるはずだ。つまり、真言と観想を通して道場を囲んではならず、完全に開放しなければならない意味だ。

施身法を修める行者は10年の顕教基礎があったうえで、密法を学び、不共四加行を修める必要がある。直貢噶舉の伝統上、出家者は3年内に修め終えなければならないが、今時の社会では無理なので、修行時間は長く引き伸ばされる。不共四加行を修め終えてから、事、行、瑜伽と無上瑜伽部の灌頂を受ける。功徳を具する上師による灌頂を受けなければならない。灌頂を受けた後、必ず本尊、一般には観世音菩薩を主に修行する必要がある。理由は、観世音菩薩は慈悲の代表者だからだ。本尊を円満に修め、即ち、最低限に100万回の念誦を終えた後、施身法を学ぶ根器がある人に限って上師に灌頂、伝法を伝授してもらえる。それから、閉関する。

施身法の法本の種類は多いが、まとめて2種類に大きく分けられる。その一つは、自分のための修行で閉関の時はこの類の法本を修める。閉関が円満になるとは、閉関する時間の長さではない。上師が弟子に閉関の時間を教え、閉関終了後、弟子は上師に閉関中の全過程を報告し、そして、上師は、弟子の報告と自らの観察によって弟子の閉関は円満になったかを判断する。円満でなければ、閉関をやり直す。閉関が円満にならないと、衆生のために修法できない。理由は、あなたたち自身と衆生を害してはいけないからだ。

ちょっとした真言を念誦し、不共四加行を終えれば、密宗の学習だと思う人が多い。まだまだだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の理解と根器でも20年の修行をした。また、1年以上上師と親しめば、自分も風、雨を呼ぶ神通力が得られると思う人も多くいる。確かにこのような法門はあるが、修行で得られるものではない。風、雨を呼ぶような神通力は利益衆生のため、求める人がいたらすることだ。雨が降らない所があったら、修法で雨はきっと降る。しかし、全部の閉関を終えなければ、この法は修めてはならない。

施身法は、衆生の病気・苦痛の軽減、修行面の加持、衆生の済度と修行面の祈願等を助けることを含めている。そのため、布施については、単純に冤親債主と死者への布施だけではない。一切の有情衆生もこの法本の念誦内容に含まれる。あなたの想像できないことも含まれる。法本の内容によると、多くの衆生は福報と神通を持っている。修法者は慈悲喜捨、空性と慈悲心を備えなければ、神通を持っているそれらの衆生が来ると、修法者にひどい目を遭わせ、修法者によい暮らしをさせるはずがない。何故だろうか。瞋念を抱いている衆生は、わけもなく呼ばれて来たから、何も与えなかったら、どんな目が遭わせられるか、見てみなさい。

施身法は一切の衆生を利益できる。特に密法ではそうだ。しかし、反面にあなたを悪くすることもできる。何故なら、あなたは実践していないからだ。密法を学ぶ人を例える言い方がある。鋭い刃物の刃先に立ったように、全てが仏法に従ってやっていたら、鋭い刃物のように全てのことを断ち切ることができる。しかし、如法でなかったら、鋭い刃物は自分自身を切ってしまう。だから、密法の学習には貪欲があってはならない。顕教、座禅、念誦、出家を学んだからと言って自分には基礎があり、密法が学べると自認する人が多い。しかし、具徳の上師の目から見れば、もし、あなたに根器がなかったら、伝授してあげない。あなたを見下すのではない。保護してあげているのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの根本上師、尊勝なる直貢チェツァン法王には漢人の弟子がたくさんいるが、その中で、今生に修行できたリンポチェは、ただ一人、リンチェンドルジェ・リンポチェだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがたくさん供養したわけではない。リンチェンドルジェ・リンポチェよりお金を持っている人はもっといた。また、リンチェンドルジェ・リンポチェが大人しくして教えを聞いたわけでもない。リンチェンドルジェ・リンポチェも時々わんぱくのところがあった。違いは、リンチェンドルジェ・リンポチェは法に対し、100%服従したことだ。閉関が必要だったら、閉関した。閉関がだめだったら、閉関しなかった。尊勝なる直貢チェツァン法王がいくら冤枉の目でリンチェンドルジェ・リンポチェを見ても構わなかった。冤枉とは、からかう意味ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェの我慢の心は消えたかどうかを見ることだ。我慢の心を持つ人は密法を学べない。伝授してあげたら、却って害することになる。

寶吉祥仏法センターでは、最近『宝積経』の開示がずっと行われている。何故なら、『宝積経』は祖師ジッテン・サムゴンの全部の著作の根本だからだ。釈迦牟尼仏は大慈大悲で開示した『宝積経』は、菩薩道を修行する人にとって大変重要なのだ。『宝積経』は、身口意を凡人から菩薩の思考モードに切り替えることを要求する。だったら家に帰って『宝積経』を読めばいいと思う人もいるだろう。しかし、菩薩の果位まで修めなければ、菩薩の言葉は理解できない。

例えば、先週リンチェンドルジェ・リンポチェの開示した経典の内容に『易共同止』があった。この言葉の前後に仏が話した内容を、単に文字から読めば協調的ではなく、前後のつながりもないのだ。だから、この心で菩薩道を修めなければ、この4文字の意味は分からない。ほかの人と違ってリンチェンドルジェ・リンポチェは経文を開示する時、事前用意はしないのだ。何故なら、リンチェンドルジェ・リンポチェは経教を学ぶ基礎がなく、完全に上師の教えた通りにやっているからだ。実践できたら、仏経を読んで自分は実践できたと気付き、解釈できたのだ。あなたたちの場合、仏学院で勉強しても、仏の言葉は理解できないだろう。菩薩道に触れなければ、経文の意味は理解できないのだ。」

そこで、リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子に、先週リンチェンドルジェ・リンポチェが開示した『易共同止』について話すことを指示した。一人の出家弟子は「菩薩は衆生の苦しみに対し、四摂法があるから、同様な角度から突入でき、衆生の立場からその困難を解決することができる。衆生の煩悩に対しても、四摂法があるから、彼らと同じ視点で悩みを解決してあげられる。」と答えた。

リンチェンドルジェ・リンポチェはまた、もう一人の在家弟子に、覚えている内容を話すように指示した。その在家弟子は、「『易共同止』とは、菩薩は慈悲喜捨を修めたので、菩薩道の修行は共感する心で衆生の苦しみを理解、共鳴できる。このような理解に基づき、衆生と同じく、あらゆる煩悩を止めることができる。」と答えた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。「菩薩道を修めるのは、輪廻の苦しみから解脱するよう衆生を助けるためだ。どうやって衆生を助けるか。四摂法に同事という項目がある。菩薩は何故再来するのか。輪廻のように見えるが、願に乗じて再来するだけだ。衆生と同じ苦しんだ過程を現すことにより、衆生は、菩薩はこう修行できたから、自分にはできないはずがないと思うようになれる。そのため、仏は過去のある世に猿、孔雀、鹿だったし、ある世は地獄にいた。

もし、菩薩は衆生と一緒に苦しみに対面しなかったら、だんだん阿羅漢になるだろう。地蔵菩薩の願力、『我が地獄に入らなければ、誰が入るか』という言葉は同じ概念だ。衆生の代わりに苦しむことではない。衆生の業は自ら負担しなければならないが、菩薩は、菩薩はできた以上、衆生は何故できないのかと衆生に見せようとした。『宝積経』の経文のように、疑、惑と不決定が原因だ。この三つ消すことができたら、菩薩と同じように、一切の煩悩と輪廻を共に止めることができる。

しかし、輪廻する人が一人でもいれば、菩薩は再来する。衆生は輪廻を止めなければ、菩薩は輪廻を止めない。しかし、菩薩の輪廻は、衆生の輪廻と違い、願に乗じて再来するのだ。苦とは思わず、来て衆生を利益するだけだ。釈迦牟尼仏が人間に生まれ変わったように、仏も生老病死を経験したように見えたが、生老病死の苦しみはなかった。仏は生まれた時、産道を通らず、母親の脇から生まれた。仏経に、人間は産道を通る時、山に挟まれたような痛みを感じる話がある。釈迦牟尼仏も年を取ったが、老いる苦しみはなかった。また、釈迦牟尼仏は病気を見せたが、病の苦しみはなかった。、釈迦牟尼仏は死んだが、死亡前の一切の苦しさはなかった。

修行者として、生老病死の苦しみも把握できなかったら、利益衆生の資格がないはずだ。生老病死の苦しみはないという意味ではない。年を取ったり、病気になったりするが、苦のないように感じる意味だ。リンチェンドルジェ・リンポチェの例を挙げよう。皮膚ガンに罹り、今年の年初にも死ぬところだった。これらは生老病死の現しだった。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは病気で苦しんだことを、皆は知らなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの今年の状況を見て、尊勝なる直貢チェツァン法王も、リンチェンドルジェ・リンポチェは死ぬかと思い、施身法を修めるよう、リンチェンドルジェ・リンポチェに指示した。リンチェンドルジェ・リンポチェはその指示に従った。

当時、リンチェンドルジェ・リンポチェの状況は大変厳しかった。二人の医者の弟子と一人の看護婦の弟子は、水分が足りなかったらいけないと思い、リンチェンドルジェ・リンポチェに点滴を打ってくれた。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェに点滴を打たせたのは、血液、酸素でも足らなかったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは気絶、心不全が起こりやすくて命の危険があると心配したからだと、一人の医者の弟子はこう話した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。「3人の医療者は、リンチェンドルジェ・リンポチェの血管を探すのに30分以上もかかった。このような状況は、医療者の経験が足りないか、或はリンチェンドルジェ・リンポチェの血管が沈下して血液量が足りないことが原因だと、医者の弟子はこう説明した。患者に後者の状況があったら、医学上では大変危険な状態だと判断されるそうだ。

もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を自分に応用せず、仏法は衆生を助けられるものだとあなたたちに感じさせられなかったら、リンチェンドルジェ・リンポチェはいっそう修行を止めたい。何故、仏法はあなたたちに効果がないのか。あなたたちは教えを聞かないからだ。もちろん、リンチェンドルジェ・リンポチェにも障礙がある。さもなければ、今年のようなことは起きなかっただろう。しかし、無事になれたのは、リンチェンドルジェ・リンポチェはよい修行をしているのでなく、リンチェンドルジェ・リンポチェは教法を聞き、傲慢も我慢もないからだ。

今回の修法で、リンチェンドルジェ・リンポチェの体にひどい不具合があったのは、リンチェンドルジェ・リンポチェがうっかりして修法は大丈夫だと思い、事前に現地の山神に供養しなかったからだ。これは我慢だ。しかし、功徳は十分あったので、以前尊勝なる直貢チェツァン法王が開示したように、修行の功徳は誰にも取られない。功徳は何か。戒定慧だ。戒定慧がなければ、功徳はあり得ない。戒をよく守らなければ、定は生じない。定がなければ、知恵はあり得ない。知恵がなければ、功徳はあり得ない。来世のための福徳しかない。功徳があったら、今生のあらゆる障害は転じられる。これが、リンチェンドルジェ・リンポチェは2、3ヶ月で無事になった理由だ。

今年のことはよくないと、リンチェンドルジェ・リンポチェは思わない。仏菩薩の慈悲で、衆生に仏法はどんなものかを見せたと感じただけだ。『有求必応』という諺があるが、眷属が話を聞いてくれない、或はよくないことが起きた時、求めに行けば、必ず応じてもらえる意味ではない。生死の重要なことについて応じてもらえるかどうかのことだ。寿縁が不足の場合、連れて行くように仏菩薩に求めれば、必ず応じてもらえる。しかし、もしあなたには功徳があり、この世に残して仏菩薩のために苦労することができると、仏菩薩が思ったら、あなたは残される。求める必要はない。リンチェンドルジェ・リンポチェは何回か死にかけた時も求めなかった。慈悲喜捨まで修行できたら、求めたいことはなくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェは役立たないと、仏菩薩がこう思ったら、リンチェンドルジェ・リンポチェを連れて帰るだろう。しかし、もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは俗世間に役立つところが少しでもあれば、この肉体を残してあなたたちに現して見せる。

仏法を学んだら力が得られるかどうかは、どのくらいの名相と儀軌が分かるかのことに関係しない。自分自身の問題でさえ少しも処理できないなら、力があるはずもない。そのため、上師の助力が必要だ。法本に、上師の加持を願う内容がたくさんある。『どうして上師に願うか。仏菩薩に願えばいいだろう。上師より、仏菩薩のほうが立派だと決まっているだろう。』と言う人が出てくる。密法の上師は、何れも菩薩が願に乗じて再来したもので、仏、菩薩の化身だ。上師に願ったほうが重要である理由は、上師は目に見えるものだ。法身仏が見えると言える人はいるのか。あなたたちは化身仏でさえ見えないから、法身が見えるはずもない。法、報、化身仏の何れも見えないなら、仏菩薩に加持してもらったと話す資格もあるはずがない。

実際に、学仏者は誰でも仏の光と仏法を護持する護法の加持が得られる。『地藏経』は、行者は地藏王菩薩の聖号を唱え続けたら、行者の家を守るため鬼神が派遣されて来ると、はっきりとしている。地藏王菩薩が守りに来てくれると思ったら、勘違いだ。ここには持咒による利益があると知ったから、鬼神はもちろん守りに来る。『地藏経』を中傷し、『地藏経』を唱えたら鬼が来ると言う人がいる。そもそも鬼は来るものだ。但し、害することはなく、あなたを守るために来るのだ。このような問題が起きたのは、仏の言ったように、末法時代に邪師は恒河沙の砂の数ほど多いことが原因だ。誰もが一知半解だ。あまりにも仏法のことを捻じ曲げている。

リンチェンドルジェ・リンポチェは今、月に一回施身法を修めるが、体力の問題ではなく、十分な時間が取れないからだ。今、来る人はどんどん多くなってきた。リンチェンドルジェ・リンポチェは広告を掲載さず、テレビに出ず、法会の情報も宣伝しない。ただ、衆生を助けたことを寶吉祥仏法センターの公式サイトに掲載している。諸仏菩薩を尊重するよう衆生の恭敬心を喚起したいためだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは凡人に過ぎない。在世の時、聞いて学んだことで衆生を利益したいだけだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの学んだ法門は何れも大変な苦労が必要だ。施身法の全過程は大変だ。大変とは、この法に相応するために、たくさんのことを捨てなければならない意味だ。捨てなければ、相応できない。古代に施身法を修めるにはもっとたくさんの要求があった。ぼろぼろの服を着て乞食のように修法しなければならなかった。しかし、現代はこんな相を現してはだめだ。荘厳ではないと言われるからだ。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆のために施身法を修め、必ず皆のために福徳の資糧を累積するが、法会に参加する人は慈悲の心がなければならない。あなたたちは今日ここに来る福報があるが、たくさんの衆生はこの福報がない。だから、私たちは、あなたを害した衆生を含める全ての衆生に対して慈悲を持って接しなければならない。

施身法の法本に、自分を害した衆生を憐れむべきだという話がある。彼らの一つの瞋念で悪業、悪縁、悪果が生じたので、同情すべきだ。瞋恚を持たず、嫌いにならず、見捨てないでその心が菩提心に転化できるように望むべきだ。密法と顕教との最大の違いは転化にある。いかに貪瞋痴慢疑を五智に転化するかは、密法こそできることだ。転化できたら、全ての悪は善になれる。

だから、慈悲心は必要だ。それからは懺悔心だ。『宝積経』の中で、必ず懺悔の心を持ち、菩薩道を修めるには、決して傲慢になってはならず、私たちは衆生に借りがあることが書かれている。もし、衆生に借りがなかったら、私たちはとっくに成仏し、この娑婆世界にはいなかっただろう。何故、衆生に借りができたのか。私たちの飲む水、ご飯、おかずは、全部衆生が成就してくれたものだ。自分に福報があると思ってはならない。いくらお金持ちでも、仕えてくれる人がいなかったら、一杯のご飯は食べられたか。給料を払っているから、相手は働いてくれるべきだと思わない。そんなことはない。双方向のことだ。懺悔の理由は何だろう。私たちは衆生にまだ借りがあって完全に返していないからだ。

懺悔心のほかに、恭敬心も必要だ。法座に上がって修法できる行者は多くない。行者の修法は円満かどうか、或は確実かどうかは、ポイントではない。要は、この法会を開催する時、値段は付けられず、点灯、功徳主などの費用についても決まりがないことだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの執り行った毎回の法会は皆無遮法会だ。あなたたちは供養するかどうか、いくら供養するか、これらのことは関係なく、リンチェンドルジェ・リンポチェの修法に変わりはない。たくさん供養したからと言ってあなたを前に座らせ、リンチェンドルジェ・リンポチェに顔を見せることはない。或は、供養が少ないからと言って奥の方に座らせることもない。

恭敬とは、三宝と上師に対して完全に服従する意味だが、全ての話を聞くことではない。自分の中にあるあらゆる妄念を尊重に変える意味だ。何を尊重するか。諸仏菩薩と上師は何のために衆生に奉仕し続けてきたのか。これだけでも、尊重と服従の理由になれる。もし、あなたは能力があると自認するなら、いっそうやってもらおうか。他人を批判する人が多いが、自分はそれなりの能力がなければ、他人を批判する資格はないのだ。自分は本当にできるなら、批判してもいいだろう。

法会に参加する時、この三つの心があれば、法は相応してくれる。この三つの心がなければ、来てみる、或は好奇心で済度できるかどうかを見に来る思いだったら、さっさとここから離れてほしい。リンチェンドルジェ・リンポチェは入場料をもらわない。あなたたちのお金を無駄にしなかった。あなたたちは交通費くらい払っただけだ。疑う心でもあれば、加持力は直ちに消える。世間で助念がよく言われているが、修行、功徳がなくては、衆生のために助念してあげられないのだ。助念の意義は、行者本人は功徳があるように修行でき、少しの菩薩道も修められたからこそ、生前に仏法修行、座禅をした人のために助念でき、その人の死亡、執着の心を転じて仏法に定着させられる。

死亡後の死者のための助念は更に重要で、普通の人ができることではない。死者を助けられる善知識がいなければ、家族が助念すべきだ。出家者は助念できるが、清浄戒を守り、供養を気にせず、何もいらず、そして、死者と縁があったら、その出家者に助念してもらうのは役立つし、死者の怖がる心を消すことができる。例え死者を済度できなくても、念仏してあげたから、少なくとも地獄に堕ちさせない。念仏してあげたことにより、死者は将来に済度を受ける因縁が得られる。

今リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た人の中で、以前仏経を念誦し、仏法を聞いた人は多い。彼らは、念誦した仏経と聞いた仏法は効果がないと思うかもしれないが、実際にはある。何故なら、リンチェンドルジェ・リンポチェの所に来させたのだ。しかし、もし彼らはそれまでに念仏、拝仏、供養をしなかったら、決して密法を聞く福徳と因縁はあるはずがない。仏経に『福不唐捐』の言葉がある。仏法と関連のあることをしたことがあったら、きっと福はある。ただ、いつ利用できるかが分からないだけだ。何故なら、あなたの使い方は欲望のためだからだ。仏菩薩はこれらの福を大事に取っておき、あなたの人生の重要なこと、つまり生死のことに使うのだ。こうして、仏法は私たちのためになる。リンチェンドルジェ・リンポチェは今生に荒波を越えてきたし、死んだこともあるが、未だにここにいる。仏菩薩と上師はリンチェンドルジェ・リンポチェを特別に扱ったというわけではない。今話したこれらの概念だ。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて殊勝な直貢噶舉施身法を修持し始め、並びに修法過程において法本内容を開示した。

「最初に修めるこの段落は、三宝の全体から聖仏母尊者まで皈依する内容だ。マジラ尊者は女性なので、法本の中で、マジラ尊者は敬意で仏母と呼ばれる。仏母は在家のリンポチェの妻ではない。既に仏果を証得して女性の身で現れた修行者のことだ。今日リンチェンドルジェ・リンポチェは特別に、法本内顕教の部分について開示する。あなたたちに施身法の内容を体験させてみる。

法本の中で、施身法を伝法する全ての成就者に対し、敬虔な心で一切の有情衆生を代表して皈依し、一切の衆生は離苦得楽、自由・安住ができ、輪廻の苦を解脱してこの法を修行することが祈られた。施身法の修法目的は、衆生の輪廻の苦を解脱したいほかにない。そのため、自分の殊勝な菩提心という宝物を喚起するため、無漏施身瑜伽法の修行に励まなければならない。

仏法を学んだ人こそ、無漏の意味が少々理解できる。簡単に言えば、無漏は、善業と悪業を含めて私たちに業力を生じさせない意味だ。業は、私たちを輪廻させるあらゆる力のことだ。仏号を唱えて拝仏すれば輪廻から逃れると思ったら勘違いだ。空性と回向が分からなかったら、輪廻するのだ。法本にも、永遠の楽を得て成就するよう一切の衆生を助けるという話がある。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはしばらく修法を続けた後、修法時の観想内容を開示し、並びに法本内容で開示を賜った。

法本の中で、悉地、つまり福と慧の加持を二回賜るように祈られた。修法者は謙遜でなければならない。自分は修行できたと思ってはならない。しかし、今時の学仏者は誰でも自分は修行できたと思っている。上師と諸仏菩薩の加護がなかったら決して修行できないことも知らない。地藏菩薩のような成仏した大菩薩でも、経典内で、諸仏の加護がなかったらこんなたくさんの衆生を助ける能力はあり得ないと、自らこう話した。大菩薩でさえ自慢しなかったのに、あなたたちは、自分は修行できたと言う資格はないだろうか。

誰も仏経に気配らない。見聞と学識が多いと自認しているが、仏経内のポイントに全く気付かない。法本内にある加持への祈りは、衆生を助けるためだ。自身の福慧が足りず、衆生を妨げてはいけないから、自分の一番大事な体、富、福報、善根を中断することなく本尊と上師に供養する。これらの言葉を聞いて驚く人が多い。これらを全部供養したら、自分には何が残るかと心配する。全部なかったら、自由自在でいいことではないか。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはしばらく修行した後、法本の内容で開示を賜った。

「法本のこの段落はとても重要だ。身語意で成熟と解脱を得ることに関する内容で、身語意は一切の悪業と執着から離れ、身口意の全ては利益衆生のためだからこそ、成熟だと言える。解脱は、身口意の為した一切は輪廻の業力に牽引されないこそ、大手印から成就をもらう資格があることを指している。リンチェンドルジェ・リンポチェはこれらの言葉を開示しようと思っても一年はかかるだろう。今日はとりあえず簡単に説明する。身口意は人を非難したり、憎んだり、或は悪口を言うようなことをしていたら、成熟と解脱が得られるはずがない。成熟と解脱が得られかったら、禅定の能力もあり得ない。きっとまだ執着を抱き、自分は正しくて間違っていないと思うし、自分が受けた戒もそうだと思う。だから、この二つの言葉は修行者といわゆる学仏者を責めている。

法本に、上師の光による加持を願い、離戲離辺の平等性を得る内容がある。これは中観論だ。中観がなければ、施身法を修められない。しかし、論だけでは不十分なので、得られてから初めて離戲、平等を持って衆生を助けることができる。平等とは何か。諸仏菩薩にとって善人、悪人、悪魔、天使の区別はなく、業力、因果と因縁だけだ。諸仏菩薩は分別心がないので、優しくしてもらえば、相手にも優しくすることはない。悪人だから相手にしないこともない。懺悔心を発したら、諸仏菩薩は必ず助ける。平等性の修行は大変難しい。しかも、前行に過ぎず、修行まで行かない。前行の実践があってから初めて顕教の基礎が備わる。これらの条件がなければ、顕教の基礎はまだ不十分だ。更に仏法を通して自分を調整して直さなければならない。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を続けた。修法過程はとても尊く厳かだった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは自身の苦労を構わず、専念に鈴、鼓を揺らしながら、法本を念誦し、並びに自ら参加者たちを率いて六字大明咒を長らく念誦した。慈悲、真摯、荘厳、清浄な法音が鳴り響き、無数の有情衆生を利益した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの修法による加持力は極めて殊勝であり、一切の衆生を震え上がらせ、威徳力は虚空に遍満した。

修法は円満になり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは続けて参加者たちに貴重な仏法を開示した。
「法本の後段は回向の内容だ。この法本の願力は極めて大きい。ここで、リンチェンドルジェ・リンポチェはいくつかの言葉を皆に聞かせたい。法本に、「以此広大布施的功徳、有情衆中自然成就仏、往昔諸仏未度之有情、願以布施功徳以得度(この広大な布施からの功徳により、有情衆は自然に仏の成就が得られる。以前仏に済度されなかった有情を布施の功徳で済度してあげたい)」がある。これで分かるように、布施は非常に重要なことだ。布施の三輪体空というのがある。皆は輪の意味をよく理解しなければならない。布施物、我、対象として解釈した人がいるが、世間の言い方かもしれない。もし、三輪体空は、物、我、対象だとしたら、仏は『輪』という文字を使わなかっただろう。仏は密法を話さなかったと主張する人が多くいる。しかし、密法を学んだ行者だったら、経典内の話は、仏の修行した法門の多くは密法に関していると分かる。

どんなことでも身口意に関している。念頭がなければ、口に出さないし、行動もとらない。毎回礼仏する時、身口意で行う。身輪、喉輪、心輪、頂輪などがあるが、布施・供養をする時は何れも身口意に因縁が生じたから、行動に移ったのだ。しかし、身口意の本質は空性だ。空性は何もない意味ではない。なかったら、何もできない。『空』は縁の生起と消滅であり、言い換えると、布施・供養が行動になった瞬間に、その縁も消えることだ。

消えたら、何も残らないのではないかと、あなたたちは言うだろうが、そうではない。自分が供養・布施をする理由をよく知る必要がある。きっと縁がある。良し悪し、欲望の何れがあるから、供養したくなり、口で供養を言うから、体はそれを実行する。しかし、供養・布施の本質、つまり身口意輪の本質は本来のものでなく、縁があったからこそあるのだ。簡単に言えば、あなたは話したくなかったら、口があっても話さないようなことだ。エネルギーがなければ、作用も起きない。供養・布施について一番大事なのは、体得、理解だ。身口意が布施を行うが、本質は因縁生滅法なので、供養・布施をしたことに執着があってはいけない。

仏がこう教えてくれたのは、為したこと、供養した多少に執着があったら、供養・布施で得られるのは功徳ではなく、ただの福報になり、今世に決して使えない。あなたたちは皆供養・布施をした。出家衆も毎日供養・布施をしている。それなのに、何故使えないのか。本当の三輪体空を実践しておらず、身口意の効果が分からないからだ。縁がなければ、発動することはない。縁があったら、発動できる。しかも、縁は消滅のものであり、永遠に変わらないことはない。だったら、供養・布施をしてもしょうがないじゃないか。私たちには功徳が必要だからだ。功徳があったからこそ、自分の生死解脱を助けられる。そして、更に衆生の生死解脱を助けられる。

私たちは福報を培う必要がある。しかし、この福報は今生の病気、仕事と家庭に使うものではない。これらは過去世に植えた因縁で、今世に現れたものだ。今の為すことは将来のためのものだが、福報を得る考えでやり、たくさんの布施をしたこと、仏寺の屋根も仏像なども自分が寄付したことを思ったら、これらはただの福報になる。達摩祖師が梁武帝には功徳がなく、福報しかないと言ったのと同じだ。梁武帝は三輪体空を実践しなかったし、三輪の意味も分からなかった。三輪は身口意だ。身口意がなければ、供養・布施もできない。仏経の中でさえ、諸菩薩は皆身口意で仏に供養した内容が書かれた。身口意がなければ、布施・供養もできないだろう。身口意の本質は、縁があったからこそ生じ、縁が消えたら、身口意のエネルギーもなくなる。

供養・布施の時は、この行為は衆生と自分を利益するためのものだと理解する必要がある。何故、自己利益だろうか。福報の累積があるからこそ、生死の解脱ができる。福報が十分だったら、今生に業は転じられる。福報が不十分だったら、業は転じられない。福は人天の福でなく、修行上の福だ。人天福報のための修行だったら、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちに、仏法の学習を止めることを勧めたい。何故なら、ほかの宗教を学んだほうが速いかもしれない。早くも、近々お金が入るような気持をさせるからだ。しかし、仏法の学習は、お金がすぐ入るようなこともないし、家族がすぐおとなしくなることもない。

供養・布施は必要だ。何故なら、私たちの福報はあまりにも浅いからだ。信じられないほど浅いから、何かをしたからと言って福報はあると思ってはならない。供養・布施を終えた途端、行為も止まる。功徳だけが残される。しかし、功徳は、一回の行為で得られるものではない。累積が必要だ。尊勝なる直貢チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェは続けて供養・布施をしている。仏経もこう言っている。例え大菩薩でも、供養・布施を続けなければならない。だから、凡人は尚更だ。供養・布施は必ず金銭だとは限らない。大事なのは恭敬心だ。恭敬心がなければ、金や銀であってもリンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らない。道場にこんな事例が多い。大金であっても、拒否する。出所不明の金銭も受け取らない。

施身法は対象を限定しない。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちに済度したい名前を言わせるが、喜ばせるだけで、親族を済度したいという気持ちを持たせるだけだ。実際に、あなたたちがここに来て済度の念頭が生じたら、彼らは一緒に入って来る。寶吉祥仏法センターは済度の霊璽を設置しない。必要はないからだ。あなたに意念が生じたら、彼らは来る。このような例は多い。今までに名前を書かなかった人もいるが、ある日施身法の修法の時、誰かのことを思い出せば、その死者は直ちに来る。福報が十分になる時、来るのだ。

法本の中でも広大な布施の功徳が触れられた。施身法には限定対象がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは済度法を修める時、ポワ法を除いてはいつもたくさんの人のために修法する。実際に、施身法を修める時、ポワ法がなかったら、できないのだ。法本にこんなことがある。施身法を修法する広大な布施の功徳により、有情衆は自然に仏の成就が得られる。理由は、布施・供養をしたから、有情衆であれば、将来はきっと成仏できるからだ。自然とは、修行せずに成仏できる意味ではない。善根を植える意味だ。

済度が終わればいいと勘違いしないでほしい。この概念は正しくない。済度の効果は、まず、死者に三悪道(地獄道、餓鬼道、畜生道)から離れさせ、それからは、生前に修行があったら、死者に浄土に行かせる。また、善知識に十分な力があれば、死者を浄土に行かせることもできる。これで自然に成仏させられる。しかし、布施・供養をあげず、この福報がなかったら、できない。済度法会を修める行者は三輪体空の実践もなく、諸仏菩薩と衆生に供養・布施も与えなければ、衆生の済度を助けることはできない。

法本にある、諸仏が以前済度できなかったたくさん衆生がいたら、継続の布施を通して一切の有情衆に済度を得させたいと望む内容だが、この願力は大したものだ。願に乗じて再来する以上の願だ。金剛乗が金剛乗として呼ばれるのは、心が広いからだ。何らかのことのためやるのでなく、一番重要なのは、衆生の済度、成仏を助けることだ。ちょっとの念誦くらいで役立つものかと疑う人がいるだろう。確かに役立つのだ。何故なら、空性の中の念誦だったら、どの言葉も役立つ。

もし、リンチェンドルジェ・リンポチェの施身法の修法は役立たないのなら、あなたたちは何故ここにいるだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェはテレビに出ない。毛布を持って施身法法会に来なさいとも言わなかった。あなたたちの冤親債主があなたたちを来させたのだ。彼らはあなたが成仏でき、今生で解脱できることを望んでいる。あなたたちは自分の病気や何らかの問題が原因だと思うかもしれないが、本当は冤親債主があなたたちを来させたのだ。彼らはあなたたちよりもすごいのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの秘書は仏を信じない人だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはリンポチェのことを知っている。ある日、突然にリンチェンドルジェ・リンポチェに自分は夢を見たと報告した。時々夜中にベッドの傍らに誰かが座っている夢を見たそうだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、女性なのかと聞いたら、その通りだった。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは更に、彼が住んでいるスイートルームの隣にある2室のうち、一つが空室だろうかと聞いた。彼もそうだと答えた。これは衆生の能力があなたたち以上だという証拠だ。その鬼はリンチェンドルジェ・リンポチェと縁がなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはその鬼のことを知らなかった。

無縁大慈は、縁がないことでなく、縁はあるのだ。その鬼は、リンチェンドルジェ・リンポチェの秘書を通じて(リンチェンドルジェ・リンポチェのことを)知った。リンチェンドルジェ・リンポチェはその衆生と直接な縁はなかったが、あったのだ。だから、縁は空性のもので、『無』はないことではなく、空性の意味だ。修法者は縁に執着がないので、縁は続けて結ばれる。その秘書は法会に来た後辞めたが、自分のための善縁を植えた。その鬼が彼のために善縁を植えた。そのため、世間の因縁法則は仏だけが理解できる。平凡な人間は理解できない。

仏経に、阿羅漢は500世だけ見れるが、更に遠い将来のことは見れないという話がある。過去はどんなものかを気にせず、将来のことに注意を払うべきだ。将来はどう生まれるか。今やっている全てのこと次第だ。『リンチェンドルジェ・リンポチェはあまりにもすごいから、自分はリンチェンドルジェ・リンポチェと同じようにできるはずがない。あなたたちはこうする必要がない。』という言い方も出てくるだろう。すごいというのは苦しい運命だ。こんなすごさが必要というのは本当に苦しい人だ。夜中でもぐっすり眠れない。リンチェンドルジェ・リンポチェは昨夜よく寝れなかった。今日はたくさんの衆生が来るからだ。別に衆生がリンチェンドルジェ・リンポチェに迷惑をかけたわけではない。願力の磁場は衆生に応じたからだ。

今生において本当に学習、修行できることはあり得ないと謙遜しても、要は参加したことがあれば、縁はあるのだ。法本にもあるように、有情衆は自然に仏の成就が得られる。あなたたちは自ら法会に参加したから、将来はきっと仏果を成就できるが、今世でも未来世でもない。密法を修めれば、最低限として17世が必要だ。顕教の場合は、三大阿僧祇劫が必要だが、必ず成仏できる。だから、今から皈依時の指示『諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意』を実践しなければならない。法本内の言葉はこのような簡単なものだから、あなたたちは仏法は大変意味深いものだと思わなくていい。ちっとも深くない。『諸悪莫作、衆善奉行』を実践しているか。『自浄其意』は、実践できた時、本来の清浄な心はあなたの意をきれいにするから、自然に悪念は起きず、悪い言葉を言わず、悪い行為もせず、傲慢にもならないことだ。しかし、『諸悪莫作、衆善奉行』の実践は要件だ。

たかがの悪口、睨みだと思ってはならない。本当に問題が起きる。仏法は簡潔だが、実践が必要だ。どの程度までしたらよいかについては、仏はよいかどうかのことを言わず、ただ成就について話した。よいところがあれば、悪いところもきっとある。もし、仏法は上出来と不出来を講じるものなら、学ぶ必要もないだろう。仏法は自己修正のためのものだ。努力し続け、できるかどうかを心配しない。ただ努力し続ける。きっといつかは自然に成仏できる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、成仏の日はいつかを知らないが、仏だけが授記する資格を持っている。

あなたたちはまだ仏に授記してもらう資格を持っていないので、釈迦牟尼仏は阿弥陀仏を紹介して『宝積経』の中でこう話した。どんな法門の修行でも、全部の善根を回向できたら、きっと行ける。これは釈迦牟尼仏が『宝積経』の中で話した内容だ。阿難尊者が釈迦牟尼仏に尋ねたものだ。分かるだろう。阿羅漢は大乗仏法と矛盾していない。ただ、願力、根器と縁は阿羅漢の修行に用いられるだけだ。阿羅漢を修行する者を見下してはいけない。大乗仏法を見下してはいけない。これは皆の因と縁だ。阿羅漢にも慈悲がある。載せられる量が大乗、金剛乗と異なるだけだ。また、小乗は菩薩になる資格がないとも批判してはいけない。その人らの神通力は登地菩薩以上かもしれない。だから、こんなことを言ってはいけない。今日は参加者に出家の信衆もいるので、リンチェンドルジェ・リンポチェは専門的なことも開示した。素人は理解できないかもしれないので、すこしの我慢が必要だ。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いてアキ護法と回向の儀軌を修め、並びに修法が円満になった後、開示を賜った。

「今日、済度を受けた衆生は、生前に出家者だった者が連れて来たので、秩序はよりよくなっている。いつもなら、生前にきちんとしなかった衆生が押し寄せて入って来ることは時々ある。祖先は済度を受けたから、まだ法会に参加する必要はあるかと思う人もいるだろう。実際に、済度は彼らが三悪道に生まれる果報を善道に生まれる、或は天界に生まれる果報に変えるだけだ。しかし、死者は生前に修行しなかったら、そこに送っても直ちによくなるとは限らない。

『地藏経』に、死者のために広範囲に仏事をするという話があるが、広範囲とは、いろんな所に行き、たくさん点灯し、拝懺し、お寺で拝仏することではない。ただ1回や2回くらいのことではない。一生をかけて死者のため続けて法会をする意味だ。道理は簡単だ。私たちの遺伝子は祖先と同じだから、祖先がよくなかったら、私たちも影響を受ける。祖先がよかったら、私たちもよい影響を受ける。済度が終わり、彼らはよくなったからと言って法会に参加する必要はないと言ったらだめだ。祖先がよければよいほど、あなたたちはもっとよくなる。

寶吉祥仏法センターでは、信衆が法会に参加したら、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに一生菜食することを要求する。何故なら、10人のうちに9人は二度と法会に参加しないと、リンチェンドルジェ・リンポチェは信じているからだ。現代人は忙しくて不精になっている。誰もが自分は忙しいと言っているが、本当は不精だ。だから、要求基準を下げる。今生菜食したら、少なくとも殺すことを止めることになり、祖先のためにもなる。祖先は済度を受ける必要があるというのは、今生に殺生したことがあることだ。問題は解決されていないから、さもなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェの所に来ることもなく、ほかの所に行っただろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェの所に来た者は状況がひどい人が多い。以前弟子の紹介で会見に来た信衆がいる。その人は以前も来たことがある。彼は、ある道場に2億元寄付したが、結局騙されたと、リンチェンドルジェ・リンポチェに報告した。彼はその2億元に執着したのは、三輪体空がなかったからだ。その道場は仏の看板で騙したが、仏に供養しているので、因果は自己責任になる。しかし、この信衆は騙されたことに執着があったから、功徳もなくなった。彼を騙した人は彼に借りがあるから、来世は返さなければならない。

あなたたちは供養・布施をするかどうか、自分はよく知る必要がある。もちろん、仏経に、供養と発願をする修行者の功徳は大きいという内容があるが、今日のポイントではない。仏法学習は一つや二つの世のことでなく、生生世世のことだ。密乗上師の願力では、その門下に皈依した如法の弟子で成仏しない限り、上師は続けて加持して助けてあげる必要がある。リンチェンドルジェ・リンポチェはリンポチェの果位が証得できる前、祖師ジッテン・サムゴンはリンチェンドルジェ・リンポチェを2回助けた。大変明らかな助けだった。リンチェンドルジェ・リンポチェは神話や物語を言わない。これが祖師ジッテン・サムゴンの願力だ。800数年も前の修行者だが、800数年後その加持は続いている。これは顕教と大変違うところだ。

チベット仏教には顕教の学習がないと言う人が多いが、この言い方は正しくない。祖師ジッテン・サムゴンのあらゆる著作は『宝積経』を根拠とした。ガムポパ大師の著作の根拠は『華厳経』なので、今日の参加者の中で『華厳経』を修める人はきっとそれなりの原因がある。リンチェンドルジェ・リンポチェも『華厳経』を2回拝読した。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェの顕教の上師は仏法を教えてくれなかった。ただ、いくつかの仏経を読むようにリンチェンドルジェ・リンポチェに指示した。リンチェンドルジェ・リンポチェもその指示に従った。

今日の開示のポイントは、諸仏菩薩と修行者と縁が生じたら、この縁は生生世世存在することになる。リンチェンドルジェ・リンポチェも時々あなたたちに言っているが、諸仏菩薩と上師はあらゆる因縁を作って衆生に与える。しかし、衆生は縁を大事にして続けさせるかどうか、衆生が決めることだ。仏菩薩と上師には関係しない。だから、仏は『宝積経』の中で、疑、惑、不決定があったら、菩薩道の修行はできないと話した。明らかなことだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは『宝積経』の開示を続ければ続けるほど、聞いた人もますます怖くなるだろう。何故なら、仏は菩薩道の話をする時、全然遠慮しなかったからだ。衆生を助けるには、資格がなければやってはならないのだ。さもなければ、自分自身と他人を害することになってしまう。だから、仏のどの言葉も、私たちの実践していないことだ。それで、必ず仏経にある仏の言葉に従って修行しなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェの今生における修行はほかの人と違う。まずは実践し、それから仏経を読んで自分は実践できたと分かった。この修行方法は、過去世に少しの善根があることが要件だ。しかも、具徳の上師に追随する福報が必要だ。そうでないと、危険がある。あなたたちはリンチェンドルジェ・リンポチェのやり方をまねしてはいけない。この方法は時間の節約ができるという利点があるが、反面にうっかりして間違った道に行ってしまう欠点もある。だから、法に従い、人に従わないと常に言っている。法とは、仏が話した言葉だ。

祖師ジッテン・サムゴンはかつてこう開示した。ジッテン・サムゴンの伝法は必ず仏、上師が話したもの、及び自身の修行経験によるものだ。尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢噶舉のリンポチェなので、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示する仏法も、この三つの原則に従うべきだと話した。決してこの三原則からそれて話さないので、人を怒らせたことはしばしばだ。何故なら、市場需要に応じていないからだ。

あなたたちの親友が済度法を求めたいなら、今生に菜食ができなかったら来てほしくないと事前にはっきりしておくことだ。何故なら、『地藏経』は死者のために広範囲に仏事をすることを教えているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは謙遜的に菜食を頼んでいるから、これもできなかったら、死者を助けられるわけもない。死者を助けられなければ、死者は怒って自分と血縁のある親族を嫌がらせるかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは厳しく要求しているが、理由は、衆生が悪因を植えても気づかないことを避けたいからだ。何度もあったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは会見の信衆に菜食を要求したら、信衆は直ちに立ち上がって去って行った。仏も衆生を傷つけないことを教えてくれた。衆生の肉を食べると、慈悲の種は消える。だから、もしあなたはまだ肉食をしているなら、死者を代表して法会に参加する資格もないだろう。これは慈悲心を培う最低基準なのに、何故やりたくないのか。

仏は縁のある人を済度する。あなたたちの縁で、諸仏菩薩の縁ではない。仏は言ってくれたが、あなたは聞かず、やらないなら、縁がないことだ。何故こんなに厳しく要求するかと聞く人がいるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェが決めたものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが決めたルールだとしたら、更に厳しくなる。名利のためなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなに厳しくする必要もない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分なりの教法を伝授しているわけではない。これは仏経内の話だ。最近開示した『宝積経』の内容について、リンチェンドルジェ・リンポチェは実行していることを、あなたたちはよく知っている。嘘は言えない。

今日は皆のために施身法を修める。家に帰ったら、自分の学んだ仏法は本当に布施・供養を実践しているかを考えなさい。私たちは福報を貪っているためではない。生死を解脱したくても、福慧資糧がなければ、できないからだ。施身法は、皆のために福報を累積し、知恵を開けることを含めている。知恵を開けるとは、あなたの対応がよくなることではない。仏の知恵を学ぶことだ。法本にあるように、上師の灌頂、閉関を経て、そして生起、円満次第の修行方法を口伝してもらい、六字大明咒を唱え、もし閉関中生起、円満次第の方法で10万回念誦できたら、今生はきっと輪廻しなくなる。もし、100万回の念誦ができたら、きっと衆生を助けられる。だから、生起と円満次第は簡単に思えばできることではない。たくさんの口訣があるので、上師の口伝がなければ学べない。」

法会は円満に終わり、弟子たちは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法と開示に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを恭しく見送った。

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2018 年 06 月 18 日 更新