尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示– 2015年10月18日

続いて弟子と信衆は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが2015年4月5日の開示カセットテープを静聴した。

今日は皆に、『宝積経』第18巻、釈迦牟尼仏が開示した『無量寿会第五の二』を少し説明したい。無量寿仏は阿弥陀仏のこと、釈迦牟尼仏は『宝積経』において、阿弥陀仏の一切のことと功徳を話そうと思えば、一劫の時間をかけても終わらないと話した。一劫はどのくらいの時間だろうか。地球が成、住、壊、空、また空、壊、住、成の一循環を経る時間を一劫と呼ぶ。だから、大変長い時間だ。

釈迦牟尼仏はまた、経典の中でこう話した。無量寿仏はほかの名前もある。無量光、無辺光、無着光、無碍光、光照王端厳光、愛光、喜光、可観光、不思議光、無等光、不可称量光、映蔽日光、映蔽月光、掩奪日月光とも呼ばれる。これらは何れも阿弥陀仏の別称だ。何れの名号にも『光』という字がついている。阿弥陀仏の光は十方法界のあらゆる所を照らしている意味だ。衆生が往生を望めば、阿弥陀仏の光は届く。科学名詞として解釈すると、宇宙の虚空であれば、阿弥陀仏のエネルギーはあらゆる所の隅々まで現れることだ。

最初の部分は、浄土のいろんな現象に関する解釈だが、今日はおいて説明しない。『無量寿会第五の二』の一段落だが、阿難尊者は釈迦牟尼仏に開示を求めた。ここから分かるように、阿難尊者は羅漢の果位までに証得し、殊勝な法をたくさん知っていても、釈迦牟尼仏に開示をお願いする必要があった。だから、たかがな成就があると、偉いと自認してはならない。この世間には阿羅漢が殆どいない。阿羅漢までの修行は大変難しい。阿羅漢まで修行できた弟子である阿難でさえ、衆生を代表して大乗と金剛乗の仏法を開示することを、世尊にお願いしなければならなかった。

釈迦牟尼仏は金剛乗の仏法について話さなかったと思う人がいるが、実際にはあるのだ。『宝積経』の次の会には不動仏が触れられた。不動仏の経文には、金剛乗と密法の修行方法に関するものがある。しかし、密法を修める経験がなければ、経文を読んでも分からない。尊勝なる直貢チェツァン法王はかつて、リンチェンドルジェ・リンポチェに伝法した時に話したことがある。法本内のいくつかの言葉をリンポチェたちは皆知っているが、どう修行すればよいかは分からないそうだ。そのため、仏法は必ず口伝が必要だ。一冊の仏経を読むのも同じだ。上師、経験した修行者の口伝を受けなければ、勝手に考えて行動するようになる。修行していると自認していても、実は全然修行していない。

懺悔したら、悪いことは何も起きないと思う人は多いが、そうではないのだ。懺悔後こそ、全部のことが起きる。何故だろう。『懺』は借りを返すことだ。借りを返したい人こそ、新たに借りを作らない。しかし、何故か誰もが懺悔すれば、生まれ変わる、病気にならない、旦那はやさしくなり、愛人もいなくなる、子供は大人しくなると思っているだろうか。これらの言い方は何れも正しくない。心から懺悔したら、福報が直ちに生じるのは、悪行を止めて善行をするからだ。自分の間違いをよく知り、更に間違いを犯さず、貪りに求めないからだ。こうして善の福報が始まる。さもなければ、拝仏すればするほど、精神上の問題が起きる。こんな人をリンチェンドルジェ・リンポチェはたくさん見てきた。リンチェンドルジェ・リンポチェは数十年の修行をしてきたが、精神上の問題はない。しかし、そなたたちは修行して数年の時間しか経っていないのに、精神上の問題が起きて声が聞こえたと言ったりする。

『金剛経』の内容ははっきりしている。色相、声で仏に求めるのは全部邪説だ。これは釈迦牟尼仏の言葉だ。何故間違えたのだろうか。仏法を学び始めた頃、ちょっとでも聞いたら、自分は家で修行できると思ったからだ。どんな修行ができると言うのか。実際に、大勢の弟子たちも未だによく理解していない。そんな簡単なことはあり得ない。そなたたちには経典を読む因縁がないが、『宝積経』のこの段落は大変重要なので、皆は心に覚えなさい。実践できるかどうかは、リンチェンドルジェ・リンポチェの心配事ではない。

経典に、仏が阿難に東方に恒河沙界があると話した内容がある。釈迦牟尼仏はよく恒河のことに触れた。理由は何だろう。恒河はインド人の生命の源であり、中国にとって黄河の意義と同じだ。中国は古代に黄河がなかったら、中華民族もなかっただろう。インド人は今まで生存し続けられたのも恒河があったからだ。そのため、仏は常に恒河のことを話した。そうしたら、インド人は理解できる。恒河沙は岸辺と川の底にある砂を含む。数えられる数字ではない。数えきれないから、仏は『恒河沙』で数量の大きさを例えた。だから、仏土はそなたたちの思いと違ってたくさんあるのだ。宇宙はただ一つの太陽系、銀河があるほど簡単なものではない。夜の空に現れる星も、何れも一つの仏土であり、巨大で人類が計算できるものではない。スーパーコンピューターを使っても計算できる数字ではない。

この膨大な数量の中に、人類は宇宙内の一粒の砂の資格さえ持っていない。一人の人間も一粒の砂内の些細な分子に過ぎないから、偉いはずがない。よく修行できたと自認する資格もない。私たちは宇宙全体においてただ一つの分子に過ぎないのだ。昨日、一人の信衆がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来て衆生を助けたいと話した。リンチェンドルジェ・リンポチェはその人を帰した。そなたたちは理解できないだろう。その人は衆生を助けたいと言ったのに、何故帰したのだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェでさえ自分は衆生を助けていると言えないからだ。『金剛経』に、菩薩は衆生を済度していると自認したら、菩薩ではないと言う話がある。今時、たくさんの弘法者は信衆に、利益衆生を発心するように求めている。しかし、『金剛経』は、四相を破るように要求している。そのうちの一つは衆生相だ。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェも『宝積経』の一部の内容で、四相を破るには慈悲喜捨を修めなければならないと開示したことがある。慈悲喜捨もできないなら、衆生を助けられる資格があると言えないだろう。

念仏、菜食を勧めれば、衆生を助けているとでも思っているのか。ただの結縁だ。一冊の仏経を家に持ち帰るように言ってあげれば、衆生を助けているとでも思っているのか。これも結縁だけのことだ。本当のことを言うと、冤親債主を含めて衆生は私たちの修行を助けてくれている。もし、そなたたちは病気、痛みもなければ、寶吉祥仏法センターには来なかっただろう。まずは旅行に行ったり、彼氏と一緒にあっちこっちに行って自撮りをしてすぐウエブサイトに載せたりするだろう。そなたたちはだれでも何かの状況があってここに来たから、教えを聞かないままでいられるはずがないだろう。自分はどうしたいと思ったりして何が得られるとでも思うのか。あれこれを欲しがる。全部そなたたちの貪欲だ。人間は無常さを深く信じ、無常のことをよく知っていたら、嬉しみも苦しみも気にせず、穏やかに日々を送るようになる。リンチェンドルジェ・リンポチェのように、死にそうになった時でも、穏やかに暮らしたし、しかも、漢方医をしている弟子に娘さんを殴らないように言ってあげた。そなたたちは能力があるなら、やってみればいい。死ぬ寸前にどうなるかを見ればいい。その時は、死んだら旦那や妻はどうなるかを思ったりするだろう。これは修行していない証拠だ。

仏は『東方如恒河沙界』を言った。『界』は何れの仏土、境界線を指している。『一一界中如恒沙仏』、釈迦牟尼仏ははっきりと仏が多いと話した。地球では、人類の歴史が始まって以来、知られているあらゆる宗教の中、衆生は平等であると主張するのが仏教だけだ。衆生平等の定義だが、大統領や父親と平等だということでなく、衆生は皆成仏の本質があり、一切の有情衆生は皆清浄な本性を持ち、平等だという意味だ。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示したことだが、魚を死なせないため、鼻を使って地面の魚に一所懸命水をかけた犬がいたというテレビの報道があった。この話から、その犬が魚は水中の生き物だと分かり、仏性があることが分かる。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェはあるドキュメンタリーを見た。動物園で飼われていたオランウータンは一羽の鳥が水に溺れたのを見て、一枚の葉っぱを取ってその鳥をすくい上げようとした。最後は2、3枚の葉っぱでその鳥をすくい上げて岸辺において飛ばさせた。しかし、そなたたちだったら、興奮してその鳥がいつおぼれ死ぬかを見ているだろう。この点から分かるように、私たちは畜生にも及ばないのだ。

以前、アフリカでチンパンジーの世話をしていたアメリカ人を紹介するドキュメンタリーがあった。大きいから小さいまでいろんな大小のチンパンジーの前に一本の木の幹があり、毛虫が這っていたのをそれらのチンパンジーはじっと見ていた。『この虫は動いている』と思ったような表情で見ていたが、手を伸ばして触ろうとしなかった。しかし、そなたたちだったら、枝を取って虫を払おうとするだろう。動物でさえほかの命を尊重することを知っている。そなたたちは他人のことを尊重したことでもあるだろう。自分の気持ちだけが大事だと思っているのではないか。

仏は恒沙仏を言ったが、仏を恒沙のように例えたのでなく、仏は恒沙沿岸と川の底の砂ほど多くいるという意味だ。経典に『彼諸仏等各各称歎阿弥陀仏無量功徳、南西北方四維上下、諸仏称歎亦復如是。』があるが、この段落は仏が『阿弥陀仏経』で話した内容を簡略して繰り返したものだ。

経典に次に出てくるのは『何以故、他方仏国所有衆生、聞無量寿如来名号、乃至能発一念浄信歓喜愛楽、所有善根廻向願生無量寿国者、随願皆生得不退転、乃至無上正等菩提、除五無間誹毀正法及謗聖者。』

あらゆる仏国、衆生は、無量寿仏、つまり阿弥陀仏の名号を聞いたら、一念を発すことができる。二つの観点から言うことができるが、カセットテープを流して仏号をたくさんの人、畜生に聞かせば、阿弥陀仏の所に行かせられると思う人が多い。そんなことはない。上師に唱えてもらわなければ、カセットテープだけを聞いても役立たない。ただの結縁になる。テープレコーダーでも衆生を済度することができたら、リンチェンドルジェ・リンポチェは手を挙げて引退もできる。尊勝なる直貢チェツァン法王に報告し、施身法の念誦を録音して毎日流せばいいのではないか。

人はますます不精になってきた。科学はどんどん発展しているが、その割に人間は怠けるようになった。ちょっと反省してみなさい。毎日はどのくらいの時間で念仏しているか。自分の生活は仏法に関連しているかをどのくらいの時間で考えているか。何もしていないだろう。拝仏、法会参加、発願、拝懺をしているからと言って十分なことをしていると自認する。何故まだ病気になるかを思うだろう。簡単だ。福報が得られるまでに修行していないからだ。拝仏すれば、福報が得られるのではないかと、そなたたちは聞くだろう。先ほど、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示した。浄信、つまり清浄な信念を持ち、自分のためのことを全く求めない。このような拝仏こそ、福報が生じる。

しかし、そなたたちは拝仏する度にたくさんのことを求める。仏菩薩を脅かして無理やりに求める。自分は病気だ、精神的な病がある、声が聞こえるなど、治してくれと仏菩薩に求める。治してくれれば、修行を続けられてたくさんの衆生を助ける機会があるなど、でたらめばっかり言っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは死んだ時でもこんなに仏菩薩にお願いしなかった。2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェは雪山で閉関した時に、息が絶った。その時もアキ護法に願わなかった。ただアキ護法に、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ役立つところがあればこの世に残していいが、なければ連れて行ってもいいと告げた。逆に、そなたたちだったら、まだ済度していない衆生がたくさんいるから、道場には弟子がたくさんいるからと言って死なせないようにアキ護法に願うだろう。こんな執着心があったら、道場に戻ってゴキブリでもなるだろう。戻って上師、弟子になることはあり得ない。何故なら、これは執着、脅威、強要だ。菩提心ではない。そもそも死にたくないためにしたことだ。

今日の開示内容をきちんと覚えなさい。阿弥陀仏を念誦して聞かせれば、阿弥陀仏と結縁させられると勘違いしないでほしい。どんな心構えで念誦するかが肝心だ。経典に、阿弥陀仏の仏号を聞くには、証量を具する修行者に言ってもらわなければ、役立たないという内容がある。釈迦牟尼仏の話した仏法は簡単だと思ってはならない。もし、釈迦牟尼仏は、仏号を唱えるくらいで一般の人も浄土に往生できると思っていたら、一言でも追加しただろう。しかし、仏はこう話さなかったし、条件も付け加えた。その条件は釈迦牟尼仏が決めたものではない。福、功徳、因縁がなければ、本当に行けないのだ。阿難尊者は阿羅漢だったので、仏にたくさん言ってもらわなくても一言で分かった。そなたたちは違う。リンチェンドルジェ・リンポチェがいくら口うるさく言ってあげても、そなたたちを動かせられない。まるで石みたいだ。石よりも、ダイヤに似ている。ダイヤの硬度は10で、世界一だ。いくらでも動かせられない。身勝手で自分の意思通りに動く。道場を出れば、また別人みたいになる。どうしようもない。

経典に触れられたあらゆる衆生は諸仏の願だ。仏は皆、あらゆる衆生に輪廻を解脱してほしいと思っている。しかし、衆生には重い業障があるので、一生ないし何百世をかけても輪廻の解脱まで修行できない。それで、釈迦牟尼仏は阿弥陀仏を紹介した。阿弥陀仏には特別なところがある。例えそなたが持っている今世の善業が終わらなくても行けるが、悪業があったら行けない。動物を連れて行けると思う人が多い。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは『阿弥陀仏経』と『宝積経』を読んでも、動物は触れられなかった。鳥だけが取り上げられた。しかも、それらの鳥は仏が神力で現せたものだと、特別な解釈があった。だから、鳥が鳥に、犬が犬になってそなたのペットになってい続けるはずがない。あり得ないことだ。畜生道から天界には行ける。もうちょっと悪いものは人界に行く。畜生道から天界に行けても最低の欲界天までだ。浄土に往生する衆生には動物がいると勘違いしないでほしい。動物は言葉がよく理解できない。死んだ後、清浄な本性に戻り、自分のことを助けて済度してくれる人がいることを初めて知るようになる。リンチェンドルジェ・リンポチェはつい最近一匹の猫を済度した。

経典に、無量寿仏の名号を聞いたらすぐ一念を発することが書かれている。一念は口で言い出すことではなく、念頭だ。簡単に言うと、呼吸のことだ。検査でも分からないことだが、一回の呼吸で息が長ければ、定力も長い。呼吸の時、息を吸ったり吐いたりする間、心念が止まって動かない大変短い時間がある。しかし、普通の人はこの時間を察することができない。禅定により、自分が息を吸って息を吐き出す前に、心念は全部止まり、その瞬間に何の念頭もなく、何の考えもないことに、初めて緩やかに気付けられる。

『一念』について解釈できない人が多い。気付かないのが原因だ。一念は一つの念頭ではない。念頭にも、粗念頭、粗細念頭、細念頭、微細念頭、微微細念頭の分別がある。そなたたちの思いと違って自分は何も考えないことではない。何も考えないのも一つの念頭だ。今日は落ち着いていると感じたのも一つの念頭だ。だから、このよな解釈ではない。決してボーっとする、或は考えがないということではない。仏は経典の中で『念』という字をたくさん話した。例えば、『阿弥陀仏経』の中で、一念から十念に触れた。つまり、毎回の呼吸の定の中で仏号を唱える。これこそ清浄で、何の妄念もないことだ。清浄な本性で念仏する時、初めて作用が起こる。

皆がいくら念仏しても無駄なのは何故だろうか。それは、心に変で汚いものがあったうえで、意識で唱えているからだ。もちろん、最初からできるわけがないが、鍛える必要がある。ゆっくりと自分を鍛える。仏法の特徴はほかの宗教と違う。ほかの宗教は、いわゆる奇跡、感応を体験させるが、仏法は、上師の教える方法を体験させる。順序にやっているうちに、自分の内心世界の変化に気付かせる。物事がよくなるように感じた、見たかについて気付かせることではない。これらは余計なのことだ。全く関係がない。修行者、大成就者の加持にパワーがあるのは、定が理由だ。きちんと戒を守っていれば、定力はもちろん現れる。

一念清浄は、行者の意識は瞬間に清浄な本性に転換する意味だ。これは普通の人ができることではない。だから、誤解しないでほしい。リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏経に一念で行けると言う話があると話したから、自分も一念で行けると思ったら勘違いだ。そなたは未だに意識で考えているのだ。どう鍛えたらいいのか、後ほど開示する。釈迦牟尼仏はたくさんのことをうるさく言わなかった。仏が話したら、後のことは上師が責任をもって仏の言葉を説明する。釈迦牟尼仏は多忙だったから、簡単で肝心な言葉しか言わなかった。

『歓喜愛楽』は重要だ。法喜が溢れる意味で、仏号を唱えるのは何の目的もなく、ただ歓喜心が一杯のことだ。『愛楽』は、阿弥陀仏に惚れる意味ではない。本当に阿弥陀仏に惚れたら、大変だ。阿弥陀仏は男性や女性のどっちでもない。仏経によると、阿弥陀仏は男女の相で現れないそうだ。『愛楽』は、世界で一番貴重なものでも、仏号を唱えるための一つの清浄な念に取り換えられない意味だ。簡単に言うと、仏号を唱えるのは自分の病気のためでも、浄土に往生したいためでもない。ただ、仏号を聞くと歓喜心が生じ、喜んで仏号を受け入れることだ。そなたたちが常に条件を出してたくさん念誦すればきっとどうなると思うようなことではない。たくさん念誦しても何も変わらない。自分自身のことだけだろう。

『所有善根廻向願生無量寿国者、随願皆生得不退転』の意味だが、この一生に植えた何れの善の根器、即ち一生の為した何れの善事は、回向しなければ、この善の根は存在せず、花の報になってしまうことだ。それで、善因は今生或は来生に善果になるが、善根にはなれない。善根のポイントだが、全部の慈悲は善根から始まる。善の根器がなければ、決して慈悲を修められない。だったら、どうやって善根を累積するか。回向だ。拝仏でもすれば病気はすぐ治る、或は物事がすぐうまくいくというはずはない。衆生を助ければ、すぐ見返りがほしい。大金を寄付すれば、特別な衣装が着れる。どの団体に入れば、工事をやらせる機会がある。これらのことは決して善根ではない。

善根のポイントは、仏が教えてくれた仏法を守って行動し、何も求めず、いつ開花、実るかも期待せず、いつ萌芽も追求しない。ただやり続ける。こうして根はどんどん丈夫になる。さもなければ、一部の根の中にも悪習慣がある可能性だから、善根が芽生える時に、悪根も同時に生長する。私たちの一生に良いことも、悪いことも起きるのは何故だ。累世において為した善根を回向せず、自分は修行しているとずっと思った、或は回向したら自分は何もかも失うと心配して誠意もなく回向をしたからだ。自分の使用にも足りないのに、回向なんてできないと言う言い方を、リンチェンドルジェ・リンポチェは聞いたことがある。

回向しないことは決してだめだ。回向は仏法の特別な修行法門であり、ほかの宗教にはない。仏が回向を教えてくれた理由は何だろうか。私たちには福報がないからだ。仏号を唱えれば福報が得られると思うのは間違いだ。本当は、回向して諸仏菩薩と深い縁を結ぶ機会をくれることだ。こうして善根は深く植えられる。水がかけられても、善根は持っていかれることはない。善根をどこへ回向するのか。全部、浄土に回向する。阿弥陀仏をたくさん唱えれば、病気は治り、治れば行けるが、治らなければ浄土に行った後は病気が続けると思っている人が多い。正しくないのだ。世間のこんな言い方はでたらめだ。また、今生の病気が治らなければ、来世もまた病気が続けるなんて間違った言い方がある。

私たちのどの世に罹った病気は、過去の因、今の成長環境内のいろんな原因も含めて大変複雑だ。去年の初め頃、リンチェンドルジェ・リンポチェは、台湾の食品に毒性が入っていると開示したことがあるが、そなたたちを含めて誰も信じなかった。数十年も食べてきたが、未だに生きているから、毒なんてあり得ないと、そなたたちは思った。

上師の言葉をどこ吹く風と聞き流す。子供にソフトドリンクを飲ませず、健康にいい食品を食べさせなさいと言い聞かせてきたが、そなたたちは子供が欲しいからと言い訳をした。本当はそなたたちが食べている。食いしん坊の弟子がいた。病気になるまで食べていた。あれこれを買う時間とお金があり、体は弱いのに、健康にいい食品を食べようとしなかった。そなたたちは皆病気になった。さもなければ、寶吉祥には来なかっただろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは更に、めったに話されない大事なことを開示したい。私たちは地球に生まれたので、そもそも体は地球と宇宙の周囲のエネルギーに適応できる。ごく自然なことだ。しかし、今時の科学は発展しすぎたので、私たちの体は毎日異なる電波にひどく干渉されている。よく見られることだが、ハイテク産業の大手企業で働いているエリートたちは脳神経と不妊の病気に罹りやすい。彼らは毎日スクリーンを長時間見続け、電波で脳はずっと刺激されているから、病気になりやすい。たかが1~3万元くらい多く稼ぎたいだけのことではないか。だから、用がなければ、終日コンピュータをずっと見ないほうがいい。また、用がなければ、時々SNSを使ったり、メールのやり取りをしたりしないほうがいい。昔はこれらのものがなかったが、普通に暮らせたのではないか。

全部の善根を一つも残さず、世間の福報のために残さない。世間のことをきちんと解決したら、死ぬ時は安心になれるし、今生にも遺憾が残されないと思う人が多い。文芸的な言い方だ。経典に『所有善根廻向願生無量寿国者、随願皆生得不退転』があるから、十善法を必ず修めることだ。肉食者、殺生者は決して行けない。十善法の最初に、不殺生がある。また、他人を嫉妬する人も行けない。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に、相手の愛人を恨まないように、そなたたちに忠告している。女性は特に相手の愛人を恨む傾向がある。相手の愛人を恨むことは貪、瞋だ。瞋念が起きるのは十善法を修めていないことだ。だったら、どう行けると言うのか。動物を阿弥陀仏の所に行かせるために、常に阿弥陀仏を唱えても無駄だ。動物が行けないことを知っているのに、わざとやっているのではないか。

なぜうまく修行できないのか。要は十善法の修行をしていないからだ。この泥棒猫が憎くて自分の旦那を誘惑したと理由を言うかもしれないが。旦那が急に泥棒猫が好きになったのも彼の勝手だし、とにかく急に人間が好きでなくなった。旦那に帰ってほしいなら、そなたも泥棒猫になり、皆で輪廻しようじゃないか。人間の観念は微妙で解釈しにくいものだ。そなたたちの中で梁皇宝懺を拝んだ人が多い。何故この懺が現れただろう。梁武帝の妃は、在世の時ほかの妃を嫉妬し、競争して彼女らを陥れたから、死んだ後は大蛇になった。だから、女性は大蛇、毒蛇になる可能性が男性よりやや高い。男性はもちろんなる可能性はある。今時の男性も女性と同じく嫉妬するようになっている。

このような瞋念は十善法を修めなかった結果だ。皆は理解しなければならない。十善法は一から十まで全部修める必要がある。最初の一から五までだけを修め、残りの五個は少々程度が落ちてもいいというわけではない。仏経にはこんな話がない。常に人を非難する。優しくしてもらっているのに、非難する。これこそ悪口だ。少しでも恩情をもらったら、覚えなければならないのだ。例え害されたことがあっても、仇でなく、その恩情を覚えなければならない。これこそ十善法の修行だ。もし、害されたと思って恨みが生じれば、十善法もこれで終わりだ。十善法は簡単だと思う人が多いが、どこが簡単というのか。十善法の修行をきちんとできたら、来世は人道に生まれることが保証できる。修行する必要もないし、上師に叱れることもない。ただ十善法の通りの修行に努力すればよい。しかし、本当に難しい。私たちはこの末法時代の五濁悪世に生まれた。監督してくれる人がいなければ、どうやって十善法の修行ができるのか。一つの念頭で悪になる。常に悪念が起きる。

十善法を修めない人には善根があるはずがない。仏号を唱えれば善根はあると思ったら、勘違いだ。どの修行者でも根本条件が十善法だ。仏の言った善男子、善女人は十善法を円満に修行した人だ。そなたたちは何もしていないから、善男子、善女人になるはずがない。『阿弥陀仏経』の中で言われた善男子、善女人でなかったら、そなたたちはどうして行けるのか。病気になった以上、たくさん念仏して自分の病気、ガン細胞に回向すれば、優しくしてもらえると決して思ってはいけない。そんな必要は決してないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはガンに罹ったが、念仏を通してガン細胞と無事に付き合いたいと思ったことはないし、ガン細胞に回向して一緒に西方極楽世界に行こうと思ったこともない。そもそもガン細胞は体の一部だが、何故悪くなっただろう。心に純粋な善がなく、まだ悪があるからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェのガン細胞は何故良くなったのか。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏菩薩にお願いせず、尊勝なる直貢チェツァン法王にも修法をお願いしなかった。自らも修法せず、ただ毎日このようなことをしてきた。大変奇妙なことに、福報が修められ、善根が十分になったら、ガン細胞もリンチェンドルジェ・リンポチェと一緒に善になった。細胞が悪になったのは、そなたたち自身が原因だ。そなたたちは肥料であり、悪を続けて注いだからだ。ある弟子はどんなことをしても注意を払わない。これは悪だ。責任を他人に押し付けるのも悪だ。何もかも他人のせいだと思うのも悪だ。

昨日政府機関に勤めている一人の職員がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た。自分は大きいプレッシャーを抱えて20日一睡もできなかったと話した。それで、プレッシャーがあまりにも大きいなら、仕事を辞めればいいと、リンチェンドルジェ・リンポチェは言ってあげた。彼女は20年近くも楽な仕事をしてきたのに、今はちょっとした状況で耐えなくなった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に、国民が納めた税金を彼女の給料として払われたから、彼女は国民に借りができたと話した。だから、善根がなかったら、物事をはっきりと見分けられない。彼女は以前悪の生活になれていたから、そんな生活が当たり前だと思った。今は、ちょっと注意されただけで、彼女は批判する、正しくないのだ。

『随願皆生得不退転』は、菩提心が退転しないこと意味だ。私たちは娑婆世界にいるから、菩提心は簡単に退転してしまう。仏教界に大勢の人は退転を言っているが、退転はそなたたちのことではない。そなたたちは懈怠、不精だ。昨日一人の弟子が会見に来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女の脳腫瘍を抑えて十数年の寿命も延ばしてあげたのに、最近は別の問題が起こった。懈怠が原因だ。『六字大明咒』を伝授してあげたが、彼女は念誦しなかった。『不共四加行』も伝授してあげたのに、彼女も真面目に修めなかった。自分がほしいからもらえると彼女は思った。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も話した。祖師ジッテン・サムゴンも何回か開示した。そなたたちに病気があるなら、上師は一回の助けをしてあげてもいいが、そなたたちはその後精進しなければ、病気は再発する。

病気に罹ったのは福報がない、或は福報を使い切ってきていることだ。上師が助けてあげるのは、とりあえず福報を使わせるだけだ。それから自分で努力しなければならない。『救急不救窮』という諺のように、そなたが飢えて死にそうになった時は、とりあえずご飯を食べさせる。それでもそなたたちは養生して外で働いて自分を養わなければならない。続けてご飯をあげるわけにはいかはない。しかし、そなたたちは今、仏菩薩と上師はそなたたちの好きになるまであげなければならないと考えている。そんな都合のよいことはあり得ない。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏経を読んだが、このような話はなかった。そなたたちが病気になったら、上師はまずそなたたちの良くない福報を一旦止めて良い福報を先に現れさせる。それからはそなたたちの努力次第だ。経典の言葉の通りに、善根がなければ、行きたくても行けないのだ。

善根がないというのは、菩提心、衆生が成仏できるよう助ける心がなくなったことだ。こうなった人は大勢にいる。仏経に、八地菩薩は以前に退転の機会があったことが書かれた。人の菩提心は退転したかどうか、検証できるか。リンチェンドルジェ・リンポチェは息絶える寸前でも、娘さんを殴らないように弟子に言ってあげた。これこそ退転がないことだ。そなたたちだったら、『娘は帰って来たか。今はどうしているか。』を言い出すだろう。自分のことしか考えない。『不退転』は、阿弥陀仏の所に行けば、平凡な人間が行って登地菩薩になり、仏果が得られるまで修行を始め、少なくとも法身菩薩になるまで修行し続けてから本願に乗じて戻ってくることを指している。今生に発願したことがあるから、戻って来れば衆生を済度できると思う人が多くいるが、正しくない言い方だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分はどこに行ったことがあると敢えて言えないが、少なくとも三悪道の輪廻、人道の輪廻ではなかったから、今生はこれらの条件があった。自分でも戻ってくることを発願すれば、修行者になれると思ったら、勘違いだ。今生において十善法を修めて悪念を断ち切らなければ、戻って来ても修行者になれない。経典内のどの文字ついても、私たちはその意味を深く理解する必要がある。単に字面の通りに解釈してはいけない。

『随願皆生得不退転、乃至無上正等菩提』は仏果の証得を指している。そなたたちは在世の時、生生世世菩薩になって衆生を利益しようと発願すれば、きっと十地菩薩、法身菩薩まで修行できる。法身菩薩になれたら、初めて菩提心は退転しなくなる。阿弥陀仏の所は清浄な仏土だから、毎日耳に入る鳥の鳴き声、水の流れる音、木が風に吹かれる音はすべて仏法だ。今私たちがここで聞いている喧嘩、非難、批判し合いの声とは違う。ここの風まで顔を擦るものだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは2007年ラプチ雪山の4500メーターの高所で閉関した。その時初めて『阿弥陀経』にあったこと、つまり鳥の鳴き声が修行者に対する重要性が分かった。そこの鳥の鳴き声は平地のものとは少々違った。鳥の鳴き声を聞いてみなさい。最初は郊外の自然の声だと思っても、2時間も聞き続ければ、飽きて鳴かないでほしいと思うようになり、それからは石で投げたくなるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの閉関初日の朝3時半から、一羽の鳥が鳴き始めた。大変きれいで朗々とした声だった。いつも山谷を一回りしてから鳴き始めた。そして、ほかの種類の鳥も鳴き始めた。それで、リンチェンドルジェ・リンポチェは起きなければならなかった。その鳥は毎日鳴いていた。リンチェンドルジェ・リンポチェの閉関が終了前鳴き続けていた。リンチェンドルジェ・リンポチェのことをかわいそうだと思ってくれただろうか。鳴く時間を3時半から4時半、5時に変えてくれた。リンチェンドルジェ・リンポチェの修行は速くなったと分かってくれただろう。閉関の初期に、念誦は大変難しかった。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェ自身の業力がまだあり、心も大変清浄ではなかったからだ。それで、同じ真言でも唱える速度は遅かった。

『阿弥陀経』の内容は本当に存在している。いい加減に神話や物語を作ってそなたたちを騙して行かせようとするものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関の時聞いた毎回の鳥の鳴き声は、念頭を断ち切って入定するように助けてくれた。地球上の人類はほかの世界にいる人類と違う。耳が最も敏感で、いろんな音を聞き分けられる。愉快な音が現れると、私たちの悩み心も直ちに消える。そのため、『阿弥陀経』には鳥の鳴き声は修行に役立つと言う話がある。正しいことだ。音楽の愛好家は皆よく分かっている。良い音楽は人を喜ばせるが、良くない音楽は悲しませる。道理は同様だ。もちろん、仏法の音はもっと違う。雑念を止めさせ、抑制できる。

次の言葉は『除五無間誹毀正法及謗聖者』だが、皆は五無間罪を知っている。正法は、自分自身と衆生を助け、輪廻を脱離させるあらゆる方法のことであり、菜食、拝仏、拝懺のことではない。これらはあくまでも助縁に過ぎない。正法とは、上師が話した内容で、そなたは学び、修行してから、今生で生死を解脱できるかどうかのことだ。特別な服装や横額をあげるか、或はそなたは最近よく発心したから工事をやらせるようなことではない。正法は、今世間のどのようなことをしても仏法になれることだ。もちろん、これは上師の心による。そして、謗聖者は、修行者を含めて人間に役立つあらゆる人を指す。決して誹謗してはならない。

次に経典に出てくるのは、『阿難、若有衆生、於他仏刹発菩提心、専念無量寿仏、及恒種植衆多善根、発心廻向願生彼国、是人臨命終時、無量寿仏与比丘衆、前後囲繞現其人前、即随如来往生彼国得不退転。』。ここは、別の方法を指している。どの衆生でも、どの仏の国を問わず、菩提心を発したらという意味で、菩提心の根本は慈悲心なので、慈悲心の力が発揮できなければ、菩提心の力はもちろん現れない。世俗菩提心、勝義菩提心の実践を含め、ただ一つの世だけでも菩提心を発することができたら、この人はきっと仏土に往生できる。しかし、そなたたちは今、慈悲心も菩提心もない。どうしたらよいか。先ほど開示した通り、十善法を修めることだ。上師の教えを実行、修行し、でたらめを言わなかったら、行く機会はある。

『専念無量寿仏』は、修める法門は何れも阿弥陀仏の意味だ。阿弥陀仏の仏号を専らに唱えることではない。あらゆる念頭は阿弥陀仏の意味だ。『華厳経』の教えた通りに、目覚める瞬間から、何れの思想、仕草も衆生を代表し、仏法のために行動する。決して自分が着替えたいから、歯を磨いて顔を洗いたいからやっていることではない。これこそあらゆる念頭が衆生のためだ。『専念』は単純に阿弥陀仏を唱えることではなく、念頭だ。『普門品』にある、常に観世音菩薩を唱えることと同じ、永遠の念頭は何れも恭敬心であることだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの場合は、金剛薩埵とほかの諸仏菩薩を修めることで衆生を利益するが、全ての念頭は阿弥陀仏を敬っている。持咒する真言ではなく、念頭が大事だ。仏法において最も重要なのは意念であり、口先で唱えるものではない。

例えば、口先で阿弥陀仏を唱えながら、心に泥棒猫が速く離れることを望んでいたら、仏号ではなく、泥棒猫を唱えることになる。それで、来世は泥棒猫になるかもしれない。また、口で阿弥陀仏を唱えながら、心に子供の試験がうまく行くように望んでいたら、来世は試験会場内の蝶々になり、飛び回って子供の試験が順調であるかどうかを見るかもしれない。だから、心念が口で唱えることと一致だったら、正しいのだ。一致しなければ、正しくない。ただ仏菩薩と結縁し、人天福報を植えることになり、未来にたくさんの世を経てからでないと、良くならない。ガンに罹ってなかなか治らず、いくら念誦しても変わらないのは何故だ。念頭に問題があるからだ。諸仏菩薩に条件を出して病気が治れば精進できると言ってはいけない。それでは、治らなければ精進する必要がないことになるのではないか。よりによって密宗には『病為道用』の言い方があり、病気こそ精進させられる。病気が治るまでに待ちたければ、さっさと帰ればいいじゃないか。

リンチェンドルジェ・リンポチェはガンに罹った時でも、治してくれるように仏菩薩に願わなかった。今回のように、リンチェンドルジェ・リンポチェは死にかけても精進を図って退転しなかった。精進のポイントは、菩提心が退転しないことだ。屏東で衆生を済度することで死にそうになったからと言って衆生を助けるのを止めなかった。相変わらず毎日修法していた。リンチェンドルジェ・リンポチェの修法は自分自身のためではない。いつもの通りに精進している。どのくらいの念誦や拝仏をしたかのことではない。

『及恒種植衆多善根』は、永遠のことで、呼吸のある限り、その瞬間はいつでも善根を植えなければならない。世間にいる限り、どの行動も、念頭も、言葉も衆生のために望む。だから、他人に責任を押し付けるのは最悪だ。間違いを犯して悪いことをしたうえで、更に責任を他人に押し付ける。他人を害してしまうのではないか。ある弟子は皈依して長年もなったのに、乳癌に罹った。何故だろう。彼女は今、時々リンチェンドルジェ・リンポチェに叱られている。症状はよくなった。それでも、乳癌は治ったと思ってはいけない。症状が抑えられただけだ。彼女は悪念が生じて過ちを犯したし、誰かが話さなかったからどうなったようなことを話した。こんなことは今流行っているが、とんでもない。

決してこうしてはならない。自分のミスで間違いをしたのは確実だから、他人のせいにしてはならない。詳しく見ないで間違ったことをしたのに、他人のせいにする。これは自分自身の因縁しか言えない。良い福報のある人は、うっかりしてはきっりと見えなかったとしても注意してくれる人がいる。いわゆる『恩人』がいることだ。そなたたちに何故恩人がいないのか。前世に人を助けることがなかったら、今生は相手にしてくれる人もいるはずがない。何故周りに小人が多いのか。そなたは過去世の時小人だったからだ。出家衆でも同じだ。何故だ。そなたたちが引き起こしたんだ。類は友を呼ぶのだ。だから、そのうえで他人が小人だと批判したら、また悪になる。悪が生じたら、十善法も消えてしまう。

『火焼功徳林(火は功徳の林を焼く)』という言葉がある。怒ったら、それまでに修めた功徳を全部焼いてしまうことではない。『火焼功徳林』は、菩提心を発して修行したら、初めて功徳があるが、菩提心がなければ、何を修めても功徳がないことを指している。功徳は自分のためでなく、基本として十善法を修めなければならない。瞋恚心が起きると、瞋恚の心は火になる。瞋恚の火は、修めた功徳の林を炭になるまで焼いてしまう。炭は利用できるとは言え、炭と木材のどっちが良いだろうか。木材の販売価格が高いと決まっている。だから、人天福報になり、今生は使えない。この言葉の意味は分かっただろう。まだはっきりと理解できない人は、家に帰ったら、今日の開示をよく考えなさい。

怒ることは『火焼功徳林』だと勘違いしている人が多い。そうではない。要は瞋恚の心だ。顔は怒っているように見えても、相手のためなら、大丈夫だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは時々弟子を叱っているが、怒ってはいない。その弟子らは全く教えを聞かないから、リンチェンドルジェ・リンポチェが忿怒金剛相を見せなければ、彼らは怖がらないからだ。ある弟子はそうだった。リンチェンドルジェ・リンポチェが修法の時、法本を用意しなかった。

『恒種』は停止しないことを指している。そなたたちはいつも、自分は十分にやった、あれやこれをやったと言っている。これは停止だから、大変だ。成仏できるまでに、一日でも、私たちは衆生のために福報を累積しなければならない。自分のためでなく、衆生を助けるためだ。今回リンチェンドルジェ・リンポチェが不具合になったことについて、リンチェンドルジェ・リンポチェは、衆生が済度を受けられるように健康で取り換えたと弟子たちに話した。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェが修めて功徳は取られることがない。尊勝なる直貢チェツァン法王もその後こう話してくれた。修めた功徳は決して誰にも取られない。ずっとそなたのものだ。それらの功徳はどう使うか。生まれ変わられたら、また弟子を叱ることができる。命を延ばして子供のために更に数年間生き延びるためではない。

功徳と福徳の違いは、衆生のために人生に立ち向かうか、或は自分の健康のためにたくさんの時間をかけていろんな検査を受けるかのどっちかのことにある。福報が得られたら、検査しなくても治る。治らなければ、まだ功徳が得られず、十善法の修行が円満でなく、自分自身にまだ欠点があることだ。気を付けなければならない。修行は難しいか。かなり難しい。何故なら、自分を見分けることが難しいからだ。修行は簡単なのか。かなり簡単だ。お金も名声もいらず、常に叱ってくれる上師がいたら、簡単だ。

『発心廻向願生彼国』については、あらゆる善根も発心、回向だが、発心とは、阿弥陀仏の所に行くことでなく、菩提心を発して衆生は皆浄土に往生できるように願うことだ。もちろん、そなたたちは衆生を行かせるように助ける能力がない。関係している衆生全員を今のそなたについて行かせられるはずもないが、この心は大事だ。未来に成仏の種、未来阿弥陀仏の国土で登地菩薩になる種だ。この心を発することができなかったら、疑城に行くことになる。阿弥陀仏の教法を疑う人は(阿弥陀仏の)国土外にある生まれる。疑城内にいれば、500世を経ても仏法を聞けない話の起因はここにある。

仏経を聞かず、その通りに行動せず、自分の方法を取ることは懐疑だ。懐疑は、不信ではない。仏経の方法は一体どんなものか、やらなければどうなるか、往生を求めた以上行かせてくれなのかなどを疑う意味だ。こんなに疑っていたら、行けるよ。ただ、仏土の外、境界線に近い外部に生まれ、500世も仏に会えず、仏法も聞けない。これほど惨めなことはない。上のほうでは、500世は人類の時間よりも大変長い。だから、先ほど開示した方法をきちんと実践できなくても、今世においてやれる能力がなくても構わないが、少しの疑いも持ってはならないことだ。『何故だ。少し残したいが、どうしていけないのか。』と思ったりしない。こう思いたいなら、そなたの勝手だ。仏には関係がないのだ。経典にある『恒』は永遠の意味で、全部回向しなければ、彼国に生まれることを発願できないのだ。

『是人臨命終時、無量寿仏与比丘衆、前後囲繞現其人前、即随如来往生彼国得不退転。』、ここの話は特別だ。比丘衆については二つの概念がある。一つは今生に仏のような出家衆が現れること、一つは未来世に出家して比丘相を現すことを発願すると、迎えに来てくれること。それで、もし、そなたは出家を発願せず、今生にも出家相が現れなければ、比丘は来てくれず、化身仏だ。仏は詳しく話した。そなたたちを騙さなかった。そなたたちの不注意で、浄土五経を永らく唱えてきたのに、この段落を見落とした。理由は、『宝積経』を読む福報がないからだ。この経典は存在しているのに、そなたたちは見落とした。何故だ。浄土は簡単で、行けない人はいないと思っているからだ。今、そなたたちは話を聞いて分かっただろう。簡単ではないが、複雑でもない。教えを聞けば、行けるほどのことだ。

『前後囲繞現其人前』は、そなたが息絶える前に現れ、そなたをよく守ってあげることを指している。冤親債主やら、そなたを揺るがし、死なせたくない人やら、そなたの周りでいろんな音を立てる人やら、一人も現れないように、そなたをしっかりと守ってあげる。リンチェンドルジェ・リンポチェは1996年から、たくさんの人を済度してきた。いろんな業障を見てきた。何れも死者は生前にこれらのことをしなかったからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたたちに、教えを聞いて実行するように要求しているが、それは、そなたたちはリンチェンドルジェ・リンポチェより若いから、リンチェンドルジェ・リンポチェよりもずっと後に死ぬ可能性があるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがいなくなったら、助けてあげられる人もいなくなる。しかし、そなたが発願したら、その時になると、リンチェンドルジェ・リンポチェは阿弥陀仏に連れられて来るかもしれない。

そなたたちはきちんと教えの通りに実行しなければならない。手を省けてはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の何らかの目的を達成したいからやっているわけではない。もしそうなら、こんなに苦労することもないだろう。病気になって死にかけていた。せめて1年の休みを取ってもよかった。ほかの人だったら、1年の休みを取り、結縁だと言って相変わらずに御捻りももらうだろう。経典に、如来について往生し、『当証無上正等菩提』がある。大変良いことだ。12小劫待つこともなく、すぐ証得できる。だから、そなた自身が修める法門に係わっている。

釈迦牟尼仏は更に『若有善男子善女人、願生極楽世界欲見無量寿仏者、応発無上菩提心、復当専念極楽国土、積集善根応持廻向、由此見仏生彼国中、得不退転乃至無上菩提。』を言った。善男子善女人になれるまで修行し、極楽世界に行って阿弥陀仏に会いたいことを発願する。この願力さえあれば、行ける。阿弥陀仏が迎えに来てくれるまで待つ必要もない。この言葉をよく理解しなさい。強い願力を持っている意味だ。例えば、必ずどこかを旅行したいと、強烈な願望を持つのと同じだ。阿弥陀仏が来てくれなくても、そなたは一分一秒もこの願を発しているから、この力でそなたは行ける。もちろん、生前は善男子善女人という条件がある。しかも、無上の菩提心を発さなければならない。

無上の菩提心を発せば、今生において菩薩道を修めなければならないのか。これは触れられなかったが、必ず菩提心が現れることだ。毎回の仏号、拝懺、言葉も自分のためでなく、ただ自分の行為で衆生は利益が得られることを望む。科学の観点から、ただ今見えている人数は1200人を超えているが、この空間には、私たちの目が見えない無数の生き物がいる。そのため、私たちのどの仕草、念頭の電波を、全部の生き物は感じ取られる。だから、私たちの何れの念頭、仕草も衆生のためであることを、彼らは感じ取られる。チベット仏教では大礼拝をするが、理由は何だろう。地面にうつ伏せになって礼拝する時、たくさんの衆生も一緒に礼拝するように彼らを助けてあげられるからだ。カバーする面積が大きいから、背が高くて体が太っているほうがいい。これはチベットの言い方だが、事実もそうだ。

『願生極楽世界欲見無量寿仏者、応発無上菩提心』は、無量寿仏に会いたいと言っているが、仏に迎えに来てもらいたいとは言わない。阿弥陀仏に会いたいが、在世の時でなく、死ぬ時に願力がそなたを押し上げて阿弥陀仏に会わせることだが、無上の菩提心を発することが条件だ。無上の定義は、利益衆生のために成仏したい心なので、法本の『但願為衆生而成仏(衆生のために成仏したい)』までに唱える。自分が成仏してよい暮らしをしたいのでなく、成仏後、円満な福報と知恵があり、初めて広大なる無辺、無際の衆生を利益することができる。無上の定義では、成仏は自分のためではなく、衆生のためだ。これこそ無上の菩提心だ。

『復当専念極楽国土、積集善根応持廻向』、ここの念頭は先と異なっている。先は『専念阿弥陀仏』、ここは『専念極楽国土』だから、これを修めるには、『観無量寿経』にある阿弥陀仏の国土に関する形容を理解する必要がある。在世の時から観想しなければならないので、上師の指導が必要だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが阿弥陀仏済度法を修めたのと同じだ。その中に阿弥陀仏の国土を形容する真言がたくさんある。専念とは、修法前に、全部の念頭で仏土の出現を観想することだ。普通の人ができることではない。密法の事部と行部を修めて成就が得られた者でなければ、できるはずがない。『阿弥陀経』と『無量寿経』では紹介されたが、『宝積経』には更に詳しい話がある。阿弥陀仏の国土について触れられた内容は、決して普通の人のできることではない。

今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが国土を解釈しないのは、そなたたちは観想できないからだ。何故できないのか。心がまだ清浄ではないからだ。釈迦牟尼仏は『心浄国土浄』を話したが、どんな概念だろうか。そなたの心が清浄になった時、初めて清浄な仏土が現れ、観想できるからだ。心が清浄でなければ、描いて見せてあげても、そなたは間違った観想をしてしまう。これこそ、『心浄国土浄』の理由だ。心が清浄で、国土も清浄だと言うことではない。外部環境の状態は依然に存在している。清浄になれないから、大事なのはそなたの心だ。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関した時は、気温が40度超えて大変暑かった。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が地獄にいて清浄な念頭で地獄の衆生を助けることを観想した。そうしたら、すぐ暑さが消え、汗もかかなかった。できることだ。『心能転境』という仏の言葉は実際にできることだ。そなたたちの因縁福徳にもよるだが、そなたたちは今その能力がないから、わざと40度以上にしてリンチェンドルジェ・リンポチェのまねをする必要はない。さもなければ、熱中症でもなったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは知らないよ。

仏は阿難に開示し続けた。『若他国衆生発菩提心、雖不専念無量寿仏、亦非恒種衆多善根、随己修行諸善功徳、廻向彼仏願欲往生、此人臨命終時、無量寿仏即遣化身、与比丘衆前後囲繞、其所化仏光明相好与真無異、現其人前摂受導引、即随化仏往生其国、得不退転無上菩提。』この段落は明確に言っている。どんな法門を修めても極楽世界に往生できる。専念でなくても、念頭に阿弥陀仏だけでなく、永遠にたくさんの善根を植えなくても、自分の修行した諸善と功徳に応じて彼仏に回向して往生を願えばよい(『廻向彼仏願欲往生』)。だから、功徳は重要だ。功徳があれば、往生できる。功徳がなければ、行けない。修行して功徳を得たら、阿弥陀仏の国土に回向する。往生の願望があれば、臨終の寸前、息絶える前に、無量寿仏は化身と比丘衆を派遣してそなたの周りを囲んて迎えに来てくれる。不退転の無上菩提も得られる。

仏はまた開示を続けた。『阿難、若有衆生住大乗者、以清浄心向無量寿如来、乃至十念念無量寿仏願生其国、聞甚深法即生信解、心無疑惑乃至獲得一念浄心、発一念心念無量寿仏、此人臨命終時、如在夢中見無量寿仏、定生彼国得不退転無上菩提。』

リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の信衆のことを思い出した。その人は生前、仏寺でトップ二番目の地位があった。ガンに罹って入院した時、彼女は浄土に往生することを発願したが、寝込んだら阿弥陀仏に会えないのを心配して寝ないようにしていた。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは、心配せず、リンチェンドルジェ・リンポチェは手伝うから、夢の中でも阿弥陀仏は迎えに来てくれると言ってあげた。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだこの段落を読んでいなった。今日、初めて経典にこの話があると知った。彼女は良い福報があったから、リンチェンドルジェ・リンポチェの助けがもらえた。しかし、もし、そなたたちは福報がなくて助けてくれる人もいなかったら、自分の修行に頼るしかない。

『住大乗者』は菩提心を発して将来は仏果を成就したい人だ。『住』は、修行する一切の法門は、回向する時大小の分別があってはならず、自分だけが修行できればよいと思ってはいけないことを説明している。決してだめだ。こうすれば、大乗に住むことではなくなる。大乗と小乗の違いは、載せられる容量にある。大乗のほうがよいとか、小乗のほうが素晴らしい、或は大乗のほうが大したことではないとかということではない。載せられる衆生の量の違いだ。大型車はよりたくさんの人を載せられるが、小型車はもちろんできない。自分しか乗れない。ここの概念は、そなたのしていることは決して家族の一人や二人くらいのためではない。心は寛大で、何れの念頭もたくさんの衆生が苦海にいることを知り、自分の修行を通して衆生を助けたいと望むことだ。助けることは実質的なものでなく、そなたの意念だ。

常に泥棒猫や特定の相手に回向してはいけない。このような回向は何のためもならない。意識だけで、回向でも功徳でもない。『以清浄心向無量寿如来』だが、仏の慈悲と菩提心は無漏のものだ。私たちが仏法を学んでいるのは仏の慈悲と菩提だから、心は仏と同じ方向に向かうべきだ。ただ仏に向かうのでなく、心は仏と同じ方向を取る。仏号を唱えて誰かに回向すれば、その人は話を聞いてくれると言うのが慈悲ではない。だったら、リンチェンドルジェ・リンポチェの修法はそなたたちを変えたのは何故だと、そなたたちは反論するだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲の心でそなたたちの冤親債主を助け、そなたたちを助けるわけではないから、変化が起きたのだ。しかし、そなたたちは他人を呪う。人の話を聞き、もっと念仏して旦那に回向すれば、旦那は気が変わってそなたの学仏に同意してくれると思ったりする。

そなた自身が十分な福報がないからそんな男と結婚したのではないか。他人のせいにすることはないだろう。そなたのことだから。だから、寶吉祥仏法センターでは、旦那さんの同意がなければ来てはならないという規則がある。何故なら、福報がなくて無理やりに来られたことで、夫婦喧嘩を起こし、旦那さんが仏を誹謗するようなことでもなれば、大変だ。来世もまたその旦那さんに返さなければならないことになる。そなたのせいで仏を誹謗するようにさせたからだ。この概念を理解できない人が多い。人の話を聞き、大悲咒を常に唱えて旦那に回向すれば、反対されないと勘違いしている。この概念は正しくない。そなた自身の福報が足りないのだ。

『以清浄心向無量寿如来、乃至十念念無量寿仏願生其国』だが、十念は死ぬ前に唱えると思う人が多いが、そうではない。普段修行の時に唱えるのだ。教えられていない法門が多いが、今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に一つの法門を教える。十念とは、一つの真言、仏号を唱え始め、その過程に何の雑念もほかの考えもなく、つまり、一つの呼吸にはただこの念頭だけだという意味だ。これこそ清浄な意念だ。仏法には金剛誦があるが、大勢の顕教学者も金剛誦をよく理解していない。金剛とは不動、即ち破壊できない意味だ。どんな真言を唱える時でも念頭は動かず、どんなものにも破壊されない。誦は、単純に真言を唱えることでなく、諸仏の功徳を賛美、称賛するなどの概念を含めている。こうしてこそ、十念はためになる。

十念を学ぶのに、単に毎日数万回の念誦をすればできることではない。『不共四加行』を完全に、そして気脈明点を修めなければ、十念までに修行することはできない。この十念を見下してはならない。今、皆でやってみよう。一つの呼吸で六字大明咒を唱え、自分に他の考えがあるかどうかをチェックしてみる。『阿弥陀経』の中で、皆は一念や十念を読んだはずだ。戒定慧も、大契印も、密法も修めなければ、全く十念を把握できない。偶に一度あってもそなたは必ずできるとは限らない。リンチェンドルジェ・リンポチェは死ぬ寸前の時でも、衆生を助けられたのは何故だ。清浄な心があり、罣礙も煩悩もなかったから、このような菩提心の力が延々と現れたのだ。簡単に言えば、普段慈悲、菩提心を修めていない人が、臨終の時になって十念法を唱えたくてもできない。気が足らず、たくさんの雑念がどんどん現れてくるからだ。今晩、家に帰ったら試験してみなさい。自分を騙さないように。決して自分を騙してはいけない。自分には雑念がないと言ってはいけない。本当はあるのだ。自分は落ち着いているかどうかを見れば、明らかに分かる。

金剛誦、金剛念において一回の息に一つの仏号しかない。ほかのものはなく、きれいで清浄だ。仏が迎えに来てくれるかどうかの念頭ですらあってはいけない。こうすれば、きっと往生できる。普段の訓練が必要だ。リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を成功に修められたのも、十念ができたからだ。十念法も衆生を済度できる。もし、そなたの心に数えきれない妄念があったら、後ほどの供養など、そんなたくさんのことを考えているそなたを見たら、鬼もついて行くはずがない。寶吉祥仏法センターは助念団を組織しない。リンチェンドルジェ・リンポチェが施身法を修める時でなければ、そなたたちを一緒に唱えさせることはない。理由は、そなたたちの心にたくさんの妄念があり、それらの衆生はよく知っており、彼らに瞋念を生じさせるからだ。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたたちに教えた。家族が往生したら、親族が念誦したほうが真摯だ。何故なら、そなたの心は家族のためだと思っているからこそ、助けてあげられる。

『聞甚深法即生信解』は、今日開示した法は簡単でなく、大変深いことを言っている。意味深いことではない。表面的に見える焼香、拝仏、拝懺、念誦、念仏だけのことをすればよいということでなく、仏が教えてくれた心法だ。仏が教えた法は大変深い。人類の経験法則、意識を通じても内容を理解しがたい。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの生死ほど重要なこと、閉関を経験しなかったら、今日はここでこの経典を解釈できなかった。関連した経験がなかったら、理解できないのだ。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を済度する能力がなかったら、皆のためにこの経典を解釈することもできなかった。『深』は経過のことだ。そなたたちは経過しなかったから、根器を見なければならない。累世の善根が十分であれば、この法を聞くと、直ちに信念が生じ、見解もすぐ正しくなる。『解』は解釈するや解ける意味ではなく、『信解』を生じさせるには、この方法のほかに別の方法も、そなたの考える方法もなく、十善法と善根によって生じることをはっきりと認知し、知る意味だ。

『心無疑惑乃至獲得一念浄心』は、心に少しの疑い、迷いもないから、一念の清浄心が得られる意味だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは十念法の実践ができたのも、心に疑いがなかったから、清浄な心を得て十念法を念誦することができた。呼吸に頼ったわけではない。この心、信解がなければ、いくら念誦しても何も変わらない。だから、そなたたちは仏の話した仏法を理解しなければならない。仏は私たちに一文字も余計に言わない。これこそ心法だ。そなたたちはちゃんと話を聞き、自分なりの方法や考えを使ってはならない。さもなければ、疑いを抱いていることだ。仏は清浄な本性で仏法を話した。自分自身のためではなかった。それでも、そなたは、『聞いたことはない。こうなのか。こんなことを言った人はいない。』と思っていたら、疑っていることだ。この経典はリンチェンドルジェ・リンポチェが書いたものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが開示している時に、そなたは疑った思いがあったら、善根がないのだ。すぐ懺悔しなければならない。もし、仏経にこの話がなかったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは決して言わなかった。

そしては、『発一念心念無量寿仏、此人臨命終時、如在夢中見無量寿仏、定生彼国得不退転無上菩提。阿難。以此義利故、無量無数不可思議無有等等無辺世界諸仏如来、皆共称讃無量寿仏所有功徳。』

今日、ちょっとした段落だけで、リンチェンドルジェ・リンポチェは2時間以上も話した。だから、仏法は本当に広大だ。そなたたちの思っているように仏号を唱えるくらいのことではない。専任の人がそなたたちについていなければ、そなたたちは理解できないだろう。冗談だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはその専任者だ。敢えて指導だとは言えない。当初、リンチェンドルジェ・リンポチェは顕教を通してこの『大蔵経』を学んだ。今日、ここで皆に役立てるとも思わなかった。実際に、この十数年、二十年来、リンチェンドルジェ・リンポチェが話してきた仏法は、この範囲を超えたことはない。何故、リンチェンドルジェ・リンポチェは以前話せたのだろうか。過去世に修行したからだ。そなたたちの疑いを解けるため、数日前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは経典を拝読した。その時、そなたたちの疑っている内容だと気付いたので、今日はちょっと苦労して皆に開示した。

僅か数百字の内容だが、修行のためには十分だし、そなたの一生をかけて努力するのにも十分だ。多く貪ってあっちこっち探し回ったり、発願したりする必要がない。仏はいろんなレベルのことを皆に話した。きちんと教えを聞いて行動に移せばいい。仏法は広大なものだ。要は人間には八万四千種もの煩悩があるから、仏はいろんな方法を通して皆を助けたい。八万四千種の煩悩は粗い煩悩に過ぎないが、更に細い煩悩、際のないものに分けられる。だから、仏法の学習は決して目の前にある何らかの利益のためではなく、生生世世の死亡のような重要なことのためだ。もし、今生に力が得られるまで修行できなかったら、リンチェンドルジェ・リンポチェに起きた今までのことを見たら、仏法を学ぶことにはこんなたくさんの問題があると思ってそなたたちは怖がるだろう。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは嬉しい。何故なら、問題が起きる度に、リンチェンドルジェ・リンポチェはまた、仏法は更に多くの衆生を利益できると気付くことがあるからだ。

人生に現れたどんな困難でも、私たちの仏法学習への試練と検査だ。そなたの心は変わったか、改めたか、転じたかを検査する。自分に起きたことで自分自身を検査しなければ、修行できないだろう。安らぎに過ごしていたら、どうやって自分を検査するだろう。何もかもよくてほしいものは何でも手に入る。いい気持ちだ。しかし、人生に障害があることは良いことだ。まずは仏法面で更に精進できる。そして、今世に借りを返す機会にもなる。返す時間を来世までに繰り延べない。来世までに繰り延べたら、利息が加算されるよ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、目の前にある責任から逃げることを勧めていない。取るべきの責任は自分で負担する。仏法で果たすべき責任を避けてはいけない。負うべき責任は何だ。在家衆だったら、たくさんのことについて自己責任を負うべきだ。仏法を逃げるための口実にし、これはダメ、あれはほしくない、どれは良くないなどのいいわけをしてはならない。

今日は、皆に無量寿仏を開示した。阿弥陀仏の法門にはいろんなの修行方向があることを皆に分からせた。しかし、いくら変わってもいくつかの法門から離れることはない。一つ目は、疑わないこと、二つ目は菩提心を起こすこと、三つ目はあらゆる善根を回向すること、最後は必ず十善法を修めることだ。これらを全部備えたら、浄土に往生できる。唱え続ければ行けるというそなたたちの思いとは違う。臨終の時になっても恐怖心が生じないまで唱え続けるのは、決して簡単なことではない。菩提心が必要だ。菩提心があるからこそ、そなたを守れる。なかったら、守れない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは死にそうになっても漢方医の弟子の娘さんのために願っていた。菩提心があったからだ。そうでなかったら、漢方医の弟子に救急処置をしてもらっている最中、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の娘さんのことを思うこともできなかっただろう。菩提心は衆生のことを思うから、衆生は邪魔しに来ない。しかし、菩提心がなく、自分だけが行きたいと思ったら、衆生はわざと来て道を遮らないほうがおかしい。これは、菩提心は奇妙な宝だと言う理由だ。いつ、きちんと菩提心を発せるかはポイントではない。大事なのは、菩提心が私たちと衆生にとって立派な利益道具だと分かり、その方向に向かって努力し続けることだ。こうして仏法の中から望みが見えてくる。さもなければ、たくさんのお金を集めても役立たない。出家者はたくさんのお金をもらってどうするか。お金は問題付きのものだ。ないほうが問題は少なくて済む。

  • 法会の始まる前、弟子の分かち合い内容(衆生済度の事跡No.761)

  • « 昔の法会開示 – 法会開示へ戻る – 新しい法会開示 »

    2018 年 08 月 13 日 更新