尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年9月20日

法会が始まる前に、一人の弟子は、今回のチベット旅行の瑞相を見る機会が与えられたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を申した。彼はあれらの瑞相を見て大変感動したので、今週皆に瑞相について報告したいと思った。

「まずは、直貢梯寺に行ったことのある師兄たちに手を挙げてもらいたい(現場で半分以上の人が手を挙げた)。そして、今回梯寺に行った方の挙手をお願いしたい(300人)。また、今回梯寺に行って写真を撮った方の挙手をお願いしたい(10数人)。これからは、これらの師兄たちが現場で携帯電話やカメラで記録した内容を話したいと思う。

話しの前に、撮影においてよく見られる「白斑」について説明したいと思う。「白斑」は写真を撮る時、カメラが光害の影響を受けて画面に現れる余計な光線のことだ。例えば、スクリーンに出ている写真に矢印のある箇所は、太陽からのたくさんの光線と光点が映られ、それぞれの形はカメラの構造に合わせて通常は8や16角形の多角形がよく形成される。

今はスクリーン上の写真を見てもらおう。真っ昼間にダブルの日暈が現れるのが大変珍しい。太陽の上方に光斑のような形のある箇所をよく見てもらいたい。見やすいように、ちょっと拡大しよう。光斑が拡大された後、浮彫りのように見える。外見は多角形だが、中身は浮彫りに似ている。これは大自然の中でなかなか見られない光景だ。そのため、これが瑞相だと信じてよいと思う。私の覚えている限り、今回チベットで現れた瑞相は少なくなかったようだ。

続きは移動的な光点だが、内容をまとめてみた。撮影チームは師兄たちが提出した写真からこの部分の写真をまとめた。画面から見れば、光点は確かに移動していると確かめられる。分かりやすく見てもらうために、赤い表示をつけた。

次は10数名の師兄たちが携帯電話、カメラで記録した映像だ。皆さんにスクリーン上の写真を見てもらおう。これらの写真は確かにカメラで撮られたものだ。しかも、それぞれの携帯電話やカメラはその後も正常だった。これらの映像は10数名の師兄たちが提出したものからまとめられた内容だ。撮影現場で肉眼で見られなかった紅花が、全ての携帯電話とカメラで記録された。

一部の写真は、光線が大殿に直接に照らした光景を表した。不思議なのは、光線の中に虹の光が現れた現象だ。皆さんも分かるように、光線は真っ直ぐで反射的なものだが、曲がった光線を、皆さんは見たことがあるだろうか。奇妙な写真がある。まずは、曲がった箇所に虹が現れた。次は、一連の光点がきちんと密集的に横一列に連なった。これらは何れも特殊な意味があり、大変珍しい。

最後は、今回チベットに行った一人の出家衆の話で終わらせたいと思う。その出家衆はある寺院に10数年いた。そこで撮影と編集の作業を担当していた。彼女は以前瑞相を見たことがあったが、これほど素晴らしい瑞相を見ることがなかったそうだ。最後に、もう一度尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を申したい。」

続きに、もう一人の弟子は語る機会が与えられたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。彼は、奥さんが出産の時に上師に済度してもらい、口唇口蓋裂があった息子さんが上師の慈悲なる加持と加護をもらったことがあるので、ここでその経過について語った。

「私は2012年4月に皈依したが、妻は最近皈依した。皈依後、私は行為を確かに改めなかったので、妻は具足の信念を持てなかった。それで、妊娠前は毎週日曜日の法会参加と皈依を求めることができなかった。妻はかつて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに法会の参加をお願いしたが、その時妻は正しい心構えを持たなかったので、上師は『家に帰って法会の参加理由を考えなさい。答えを待ってあげる。』と開示してくれた。仏法学習の因縁をくれること、及び大能力を示して私と妻との間の問題を指摘してくれたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝する。そのため、去年(2014年)10月に、妊娠検査を受けて胎児は口唇口蓋裂があると分かった時、妻は恭敬心で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに助けをお願いすることができた。私と妻との間の問題を解決し、妻を済度して仏法を学ばせたことに、もう一度上師に感謝したい。

息子の問題は定期の妊娠検査で発見された。息子に口唇口蓋裂の疑いがあると分かった時、私たち家族全員は大変心配した。妻は毎日泣き、忙しい仕事のせいで胎児発育が不良になったと自分を責め始めた。また、一部の家族も菜食で栄養不良になったのではないかと内心で責めていた。それらの悩みは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見した後に改善が大分見られた。上師はまず、私たちに家に帰って話し合いなさいと言ってくれた。そして、妻に仕事を止めて家で静養するように指示した。更に、一緒に会見した妻の母は妻のことを大変心配してくれたが、その時の状況には全く役立たないと指摘してくれた。更に、そのような状況になったのは、私が上師の要求基準を守らなかったからと開示してくれた。その時、上師は私の供養を受けてくれなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教えに感謝する。

二回目の会見を求めた時、妻の無給休暇申請は済ませられたと上師に報告した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは以下のことを開示してくれた。家での静養期間、毎日壇城でお花を供養し、地蔵経を1~2回念誦して地蔵王菩薩の聖号を100~1000回唱えることを妻に指示した。実践できるなら、加持すると、妻に言ってくれた。しかも、家族に反対されたら、どう対応するかと何度も妻に聞いた。妻は反対されてもきっと実践すると答えた。そうすると、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは直ちに長らく妻を加持し、胎児の口唇口蓋裂は祖父が農業をしていた時、牛の鼻に穴を開けて苦しませたことが原因だと、優しく開示してくれた。問題を明らかに指摘してくれたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝したい。上師も私に、毎日大礼拝を1000回して妻の代わりに懺悔するように指示した。最後に、優しい金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、胎児を助けるように地蔵王菩薩に祈ることを約束してくれた。

妻は静養期間において、毎日泣いたり、文句を言ったりしなかった。ただ上師の指示した法門を毎日修めていた。胎児は上師の助けがもらえたため、出産後、口唇口蓋裂の範囲は唇から口蓋までに広がったが、亀裂のところに肉ができて両側を繋げていた。それで、息子出産後、口唇口蓋裂は更に拡大しなかったので、亀裂の幅はコントロールできる範囲内に収まった。お医者さんに診断してもらった時、口唇口蓋裂の幅は0.1cm以内で、口を閉じる時その亀裂もほぼくっつくため、手術で直接に縫合できるし、亀裂のところに肉があったので、一般の口唇口蓋裂のある新生児のように出生後直ちに口蓋保護プレートを装着する必要もないと、説明してもらった。

口蓋保護プレートは、アクリル樹脂材質の模型で、新生児の口に入れられて口腔の亀裂を閉じるためのもの。装着後、新生児は正常に乳を吸えるようになるし、亀裂の両側を通気性テープとワイヤで引き寄せる苦しみを耐えることもなくなる。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大能力で助けてくれたことに大変感謝している。息子は前述の問題を除いてほかは全て正常だった。ここで、自分が地道に持戒せず、行為を改めなかったことを懺悔したい。私の行為で問題を起こし、上師までに苦労をかけ、助けてもらった。また、私は毎日1000回の大礼拝をきちんとしなかったので、懺悔しなければならない。それでも、上師はこの不肖の弟子を加持して助けてくれた。自分の行為と上師の大恩徳を思ったら、私は本当に恥ずかしくて面目ないのだ。

私は信衆になって以来、いつでも加護を求めるという間違った心構えを持っていた。皈依を求めた頃、当時まだ夫婦になっていなかった妻と一緒に会見を求めたが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、妻は私の仏法学習の障害になると指摘してくれた。しかし、私は欲望を最優先にした。繰り返して会見を求めれば、皈依を求められると思った。私は加護を求めた心構えで、仏法学習の理由を妻に素直に話せなかった。皈依後は依然として気ままで、自己中心で仏法を利用する心構えを持ったまま、とことん自分を見直さなかった。ただ、毎週の法会に参加していた。上師の教えを実践しなかった。問題が起きた後、初めて過ちを検討しようと思った。本当に愚かだった。

皈依して時間も経たないうちに、よく持咒できたと自認した。こう思うと、晩課に参加し忘れてしまい、その後は申し込めなくなった。皈依後、私の悪念は全くなくならなかった。時々尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会った時は防衛的な心があった。しかし、上師の教法は大変優れて伸ばしてくれるものだ。この悪い弟子に自身の業はどれほど深いかを理解させてくれた。初めて上師に会見を求めた時に、尊き上師は、ひどい執着心を持っていては仏法の学習ができないだろうと、叱ってくれた。

皈依して3年過ぎになったが、私は上師が話した、剛強で調伏しにくい人の代表者だ。それでも、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはこの悪い弟子を拒否することが決してなかった。母と祖母は上師に施身法で済度してもらった。妻も上師に助けてもらったので、出産後は大出血があったが、無事だった。地獄の一丁目を通りかかったようだ。出産直後、妻は原因不明の出血があった。1500cc近くもの出血だった。大変緊急だったので、妻の実家の家族も大変焦り、電話して上師に助けてもらうよう、私に要求した。しかし、私は心に、上師は至る所に遍在しているから、電話する必要はないと思った。家族全員は上師の加持と加護をもらったから、妻はきっと助かると思った。最後、本当に奇跡のように、妻の出血は止まった。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と済度でなかったら、恐らく私は今一人で口唇口蓋裂の息子の世話をしているだろう。上師の慈悲の助けがなかったら、私はどう生きていけばも分からないだろう。しかし、上師は慈悲の心でこの悪い弟子を受けて入れてくれた。それで、今私は毎週法会に参加して上師の仏法を受け続けられる。1000回の大礼拝をすることが上師に要求されたが、私は確実に実践しなかったので、深く懺悔している。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが賜った恩徳を思ったら、私は大変恥ずかしい。上師の恩徳を受け、大礼拝をしてちょっとしてから、ある日私は出勤の途中でブレーキをアクセルに間違えたので、前の車を分離帯にぶつからせてしまった。幸いにも皆無事だった。賠償金額は100万台湾ドル近くだったが、会社内、全危険負担で保険を付けた唯一の車を運転したため、修理費用の全額は保険会社が支払うことになった。自分の懈怠で上師が要求した回数の大礼拝をしなかったことに、懺悔する。

最後に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大能力を話したいと思う。今年1月11日、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが主法した緑度母法会の時に、勝手に生まれていなかった胎児のために上師の慈悲なる助けを祈った。結局、修法後、上師が開示した内容の一段落は、前に私が上師に会見した時の開示と同じだった。その内容は以下の通り。既に状況が起きたから、自分の修行に何が問題なのかを検討しなければならない。状況が起きた以上、コントロールできる範囲内であれば、上師、護法は処理、解決できる。息子のことに重ねてみれば、本当にそうだった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な加持があったから、息子の口唇口蓋裂のところに肉ができ、手術はやりやすくなり、回復も大変良かった。

今私の持っている全ては尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがくれたのだ。心に感謝の気持ちが溢れている。息子が1ヶ月になった時、息子を抱っこして会見を求めた時、3~4回の手術で治ると、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示してくれた。心から厚く感謝したい。息子を加持してくれた時、上師は『以前会ったことがあるよ。』と息子に囁いた。私と家族全員を助けてくれたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝している。上師の助けがなかったら、今の私はきっと『一家離散』になっているだろう。つまり、妻とは既に死別すること、そして私一人の力で特別な世話が必要で口唇口蓋裂の息子を面倒を見ることができず、息子を無事に育てられなかいことだ。何故今になって仏法を学ぼうと思ったのかを妻に聞いた。妻は、このことが起きても覚悟できず、仏法を早く学ぼうと思わなかったら、あまり愚かではないかと答えてくれた。このことを教訓として思い、上師が要求した十善法の基準と仏子行三十七頌を守る。何かが起きてから初めて自分を見直したり、果報が表れる時上師に面倒をかけたりしていつになっても成長しようとしないことはしていけない。最後に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法輪が常転し、衆生に本当の仏法学習の因縁福報を与え、生死解脱と離苦得楽ができるように助けることを祈る。」

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、参加者たちに貴重な仏法開示を賜った。

今日は『宝積経』の開示を続ける。仏法学習は、自分の学んでいる法門について方向を決めなければならない。寶吉祥仏法センターは金剛乗の法門を伝授しているが、基礎からすぐ金剛乗を伝授することはない。金剛乗の基礎は大乗であり、つまり菩薩乗のことだ。在家衆はこの法門を修めて生死の解脱しかできない。小乗を修めることができない。今は小乗を修める出家衆がいるが、成就までに修めるのが極めて難しい。何故なら、その環境がないし、修められる方便なこともないからだ。『宝積経』に、身口意の調整に対する菩薩道を修める行者の要求が一般の人と違うという記述がある。

リンチェンドルジェ・リンポチェはよく開示すしているが、梁武帝は中国でたくさんの仏寺を建て、全部の出家衆に菜食を要求したし、論を書いたこともある。達摩祖師が梁武帝に会った時、梁武帝は、自分はたくさんの仏法事業をしてきたが、功徳はあるかと尋ねた。達摩祖師は、ないと答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェもこの言葉を皆に贈りたい。ちょっとしたお金を供養したから、毎週法会に参加したから、毎日持咒、菜食をしているから、功徳があると思ってはいけない。或は、自分は出家衆だから、発願して修行しているから、功徳があると思ってはいけない。本当はちっともないのだ。何故ないのか。身口意が菩薩の持つべき基準に達していないからだ。『宝積経』において、釈迦牟尼仏は、菩薩道を修めたければ、身口意は一般の人と異なる基準があると、衆生に開示した。『異なる』ことは、外見の違いではない。世間を驚かせる行為、行動をすることでもない。菩薩と同じ考えを持たなければならないことだ。

『宝積経』に『着処』がある。止まる所に執着する意味だ。居住、閉関を含めて一定の所でなければならないと執着する意味だ。多くの修行者には『不隨縁』という同じ問題がある。自分の縁で行く所だから、何故山、川のある所でなければ修行できないと執着するだろう。また、何故好きな道場でなければ修行できないと執着するだろう。何れも正しくないのだ。『着乗』とは、乗り物に執着する意味だ。古代には車がなくて馬車、牛車しかなかった。出かける時は馬車でなければならない。牛車に乗りたくない。牛車があれば、ロバの引く車に乗りたくない。執着だ。『着敷具等』とは、自分の座る席は高く敷かなければ、修行者らしくないという執着を持つ意味だ。行者が法座に上がって修法する法座には決まりがあるが、必ずしもこういう法座でなければ、修法できないという執着を持つ必要はない。

直貢梯寺に行った時、皆はよく見た。アキ護法殿にいた時、梯寺側はリンチェンドルジェ・リンポチェが座る椅子を用意しようとしていたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、必要はない、席があれば修法できると彼らに話した。理由は、修法するのはリンチェンドルジェ・リンポチェで、椅子ではなかったからだ。修行するには法座がなければならないと、行者はこう執着する必要がない。施身法を修める行者はどんな所にいても修法できるのだ。皆に教えたいのは、法座があるかどうかに執着を持たないで、要は利益衆生のための菩提心があるかどうかのことだ。『着敷具』は皆のことでなく、法師、リンポチェ、ケンポスなどの行者に対して言うことだ。世間によくあることだが、一定の設置を要求する。そうでなければ荘厳ではないという。しかし、荘厳なのは椅子なのか、修行者なのか。だから、『着敷具等』の執着があれば、例え菩薩道の修行をしていると自称していても、本当は何も学んでいない。

『着飲着食』とは、必ず何かを飲んで食べなければならないという執着の意味だ。直貢梯寺にいた時、僧衆は酥油茶、ヨーグルト、甘いお茶を出してくれた。リンチェンドルジェ・リンポチェは全部飲んだ。好きでないからと言って自分のプーアル茶を飲んだりしなかった。そうすることは正しくないのだ。供養してくれたものなので、おいしくなくても多少は飲むべきだ。供養の機会を与えるべきだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは梯寺を離れてアキの出生地に行った時、現地の信衆はずっとリンチェンドルジェ・リンポチェのためにお茶を入れてくれた。リンチェンドルジェ・リンポチェが席を外そうとするところでも、信衆はまたお茶を入れてくれた。側の人が信衆を止めようとしたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは止めてはいけないと指示した。供養の機会を与えるのが理由だった。

菩薩は飲食に執着があれば、人の供養する機会を止めさせてしまうことになる。リンチェンドルジェ・リンポチェに食べ物を供養しても、リンチェンドルジェ・リンポチェは食べないのではないかと、思う人がいるかもしれない。スタイルを維持したいから、皆が供養してくれた食べ物を、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆のために仏菩薩に供養して皆に持ち帰させる。もちろん、この話はリンチェンドルジェ・リンポチェのユーモアだ。しかし、チベットのような所に行ったら、現地の生活は大変だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは現地の人々に機会を与えたかった。だから、あなたたちは、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちの供養した食べ物を食べないなんで言わないで。時々リンチェンドルジェ・リンポチェは食べることもある。但し、供養した人の心にもよるのだ。

『着児女』とは子供のことに執着する意味だ。たくさんの人は子供に対して執着を持っており、修行がいくらできていても、死ぬ前は子供のことを心配する。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェは例を皆に見せた。息子が話を聞かなかったから、リンチェンドルジェ・リンポチェは2年間顔を合わせないことで息子に罰を与えた。あなたたちのことだったら、心はナイフで切られるように痛かっただろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも弟子に、子供に会うために海外に行く必要がないと言っている。何故なら、執着心を培うことになるからだ。もちろん六親と縁を切る意味ではないが、仏法を学んでいるからこそ、子供は今生結縁しに来ただけのことを理解しなければならない。この縁は悪縁の可能性もたくさんある。善縁が結べる理由でもあったかと考えてみなさい。あなたたちは今世と過去世においてきちんと修行してこなかったから、子供が善縁を結ぶために来た理由はないのだろう。

子供は今生の縁に過ぎない。借りを返すか、借りができるか、借りを返してもらうか、何れも今生のあなたが死んだら、その縁は終わる。来世もまた自分の子供になるという思いは勘違いだ。来世は必ず彼らの親になるという自信を持てるのか。ひょっとしたら、彼らの妻や旦那になる可能性もある。これでは、乱倫になってしまうのではないか。だから、子供のことに執着してはいけない。子供が18歳になるまでに、親として教育する責任がある。しかし、18歳にすぎたら、子供は独立して生活すべきだ。常に子供を自分の周りにいさせる人が多い。宝石のように大事にしている。自分の子供だから、苦労させたくないと思う。しかし、苦しんでいる衆生が大勢いるのに、何故少しも関心してあげないのか。子供に執着を持つことは子供を害してしまう。親に可愛がられているから、子供は自分を改める必要がないし、どんなことがあっても家に帰ればよいと思うようになる。

この間、一人の弟子は子供が過ちを犯したと分かっても、なれなれしく連れてきてリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェに開示を願った。これは子供に執着していることだ。親としてきちんと子供を教育しなかっただけで衆生に申し訳ないと思うべきだ。懺悔しなければならない。子供の教育を仏菩薩に任せば、子供は親孝行が分かるようになり、過ちを続けないと思うのが間違いだ。仏経に、子供をきちんと教えないことが親の責任だと書かれている。例え子供は過去世にたくさんの悪業をして業によって再びに来るとしても、子供が胎内にいる時から、親は教え始めてよいし、生まれた後も教えられるのだ。間違った行為があってから仏菩薩に業障を取り払うように願うのが筋が違う。このことは何故分からないのか。

仏経に、子供を教育しない親は地獄に堕ちるとはっきりした記述がある。何故子供を教えなければ、地獄に堕ちるのか。子供をきちんと教育しないと、子供は他人を害するからだ。子供が生まれた時、前世から持ち越した業のほか、今世について何も分からない。今世のことは全部親があげるので、子供が悪くなったり、悪いことをしたりするなどのことは、きっと親の行動、言葉の影響を受けたに違いない。だから、仏菩薩が加護してくれないなんて文句を言う筋はないはずだ。小さい時から一体どのように子供を教えてきたかを考え見なさい。仏の言う仏法は何れも私たちの問題を指摘している。

一部の出家衆は出家した後も、子供のことを思い続けている。出家したのに、まだ子供のことを心配している。以前、二人の出家衆がこのことについてリンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねて来た。出家衆だったので、リンチェンドルジェ・リンポチェはちょっと遠慮した。もし、彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子だったら、その場で帰させただろう。このような質問をしに来たことは、仏法を教えてあげる人がいなかったことだ。家で菩薩道を修める行者でも子供に執着心を持ってはいけないのだから、出家衆はなおさらだ。子供を正しく教育すれば、その後は子供自身の業になる。あなたたちと一緒に仏法を学びたいかどうか、子供自身の業による。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏門に入って以来、自分の子供に菜食と修行を要求したことはない。子供に決めさせる。子供にこのような福報と業があれば、自然に仏法を学びたくなる。なければ、無理にさせる必要はない。

経典には『犁牛耕種諸所作等、憂奴憂婢諸作者。』がある。古代に一部の大金持ちである菩薩は牛、耕種の作物の良し悪しに執着することを表している。ここの『憂』は、その人に何かが起きるかどうかを心配するのでなく、その人は自分を騙すか、自分のために金を稼いでくれるか、きちんと働いてくれるかを心配する意味だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは在家の修行者、事業を持っており、会社で若者を育ている。従業員は長く勤めれば勤めるほど給料が増える。会社には昇給制度がある。会社に制度が完備されているから、リンチェンドルジェ・リンポチェは従業員を誘惑しない。『憂』は好ましいことが起きるのを心配すると思う人が多いが、経典の中では、雇い主のためにきちんと働かない、利益を獲得しないことを言っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に従業員にこう言っている。利益を出せるかどうかは雇い主の福報によるのだ。従業員の福報ではない。従業員は給料をもらう立場なので、その給料分の時間と体力で努力しなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこの言葉をアルバイトしている人にも贈りたい。雇い主には自分がいなければ困ると思ってはいけない。辞めてやろうと思って辞めちゃう人が多い。あなたが辞めるのは縁が尽きることだ。信じない人がいるが、自分が辞めたら、会社はつぶれると思う。こんな思いは大変よくない。自分が辞めることで会社がつぶれるのを望み、それで自分がいかに重要なのかを分からせてやろうという心はあまりにも悪いのだ。しかし、このような問題を抱えている人は多い。

一方、雇い主と管理者としては従業員が過ちを犯すのを恐れてはいけない。却って従業員は仏法の概念通りに働いているかを心配すべきだ。仏法の概念がなければ、間違った人を雇ってしまい、でたらめを言ったり、貪瞋痴のことをいっぱいしたりするようになってしまう。最近のMRT悠遊カードの事件は一例だ。あこのことが起きたのは、市民に見せられるパフォーマンスがほしいと気になって全部のことを部下に任せたからだ。事件が起きた後は止めようと思ったが、部下の失業を心配して適切に処理しなかった。結局、事件はますますひどくなった。このことから分かるように、仏法がなければ、世間は乱れてしまう。

経典にあるここの言葉は、雇わせてくれる人がいるのが自分の修めた福報だという概念だ。従業員に優しいことは、常にお金をあげて優しい言葉を言ってあげることではない。要は、正しく働くように教えてあげなければならない。お客さんを騙したり、嘘をついたりしてはいけないと教えてあげるべきだ。それでも聞かないなら、婉曲な方法で辞めさせる。従業員のミスで会社は利益を出せないと、常に心配するのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェにもミスをした従業員がたくさんいる。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに罰を与えない。リンポチェ自身に処罰するのだ。こんな雇い主が世界のどこにいるかを聞いたことがないだろう。従業員は会社のために利益を出せるかどうかを、リンチェンドルジェ・リンポチェは心配しない。金儲けをしなくてもいいという勇気を持っている。これは菩薩道を修めている者とあなたたちの違いだ。捨てることができるからだ。

同じように、あなたたちもリンチェンドルジェ・リンポチェに対して似たようなことをしてはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲だから、あなたたちを必要としているという考え方は間違いだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の子供にも執着を持っていないから、あなたたちに執着するわけがない。あなたたちが信じないなら、このように続ければいいだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはますます偉くなり、信者が増えているとても思っていいだろう。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつか急にいなくなるだろう。その時になれば、あなたたちはどうすればいいのか。リンチェンドルジェ・リンポチェはどんなことにも心配、執着を持っていない。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは執着心があったうえで、あらゆる修行方向も間違っていたとしたら、今回直貢梯寺に戻った時、瑞相が現れたと、リンチェンドルジェ・リンポチェは敢えて言わないが、リンチェンドルジェ・リンポチェのやり方を仏菩薩はサポートしているとは言える。

過去の20数年において、もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは修行で三昧耶戒と全ての戒律を背いたことがあるとしたら、決してあれらたくさんの瑞相は現れなかったはずだ。仏菩薩と護法はバカではない。騙されない。毎日これほどたくさんの人が仏菩薩に祈っている。仏菩薩はそんなに暇ではないのだ。あれらの瑞相が現れたのはリンチェンドルジェ・リンポチェに見せるためではなかった。あなたたちのようなバカな弟子に見せるためだった。何故バカか。分からないのに、分かるふりをしている。本当の修行者を見分けられないのに、見分けられるふりをしているから、バカだ。『宝積経』を根拠にしていたら、あなたたちは何の修行もしていないことになる。何を修行していると言うのか。よい暮らしのために修行しているのか。梁武帝はたくさんのことをしたにもかかわらず、達摩祖師は梁武帝には功徳がないと言ったから、あなたたちは何の功徳があると言うのか。梁武帝に功徳がなかったのは、菩薩道の修行ではなく、自分が嬉しくなるために修行していたからだ。自分はたくさんのことをしたから、よくなると思うのが菩薩のすることではないのだ。

経典にはも『憂心穀帛庫蔵諸財物等』がある。多くの人は仏法の修行をしているように見えるが、本当は嘘だ。一昨年に外国産米混入事件があった。事件が発覚されるまで、当事者はインドでリンチェンドルジェ・リンポチェに会った。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは在家の修行者なので、彼は大功徳主、大菩薩だと言わなかった。それで、彼はちょっと傲慢だった。リンチェンドルジェ・リンポチェはインドで彼に、従業員の作業で彼の知らない好ましくないことが起きることに気付けるように注意してあげた。その時、彼は、自分は農家に有機栽培のお米を作らせ、善事をしていると言い張った。しかし、彼の家族は常に人を騙すことをしていたと、リンチェンドルジェ・リンポチェは心に思った。結局、事件が発覚された後、彼の息子の悪行だと、彼は初めて分かった。

また、最近は皆お馴染みのブランドにも事件が起きた。子供の時からずっと飲み続けてきた飲料のブランドだ。社長の奥さんは以前リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求めたことがある。その時、数十年も経営してきてその利益は十分だと、リンチェンドルジェ・リンポチェはアドバイスしてあげた。事件前のことだった。彼女は自分は企業のおかみさんだから、リンチェンドルジェ・リンポチェに単独的に仏法を教えてほしいと要求した。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ断った。何故だろう。仏経に、上師が法を伝授する時、密法でなければ、一対一で伝授してはならないとされているからだ。また、皆に対して単独的に伝授しようと思えば、今は1000人以上の弟子もいるので、できるわけがない。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェが断った理由は、彼女は、密宗の行者から一対一で伝法してもらうことによってどんなことでもカバーされると思った可能性があったからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも事前に警告を与える。彼らは学仏、菜食、供養、法会参加をしたのに、何故事件が起きただろうか。菩薩道を学ばず、お金がないのを心配し、倉庫内の物が壊れて売れなくなり、お金に変えられないのを悩んでいたからだ。経典の内容は私たちに菩薩道を修行することを教えているように見えるが、厳しく言えば、そうすることによって貪欲が生じて過ちを犯すチャンスがなくなるのだ。自分の財産を心配してあらゆる方法を尽くしても守りたいと思う人がいる。こうしていたら、自然に悪をしてしまう。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェの一人の弟子は大企業のために株売買をしていた。何もないように見えたが、実は相場操縦を通して会社の株価を下落させず、株主に配当できるようにしていた。しかし、厳格に見れば、これは詐欺の行為だ。

株価の上昇と下落には要素がある。一つは企業自身の業績、もう一つは市場の動向だ。意図的な操縦を通して株価を変化させ、会社にもっと稼がせる人がいたら、損してしまうのは個人投資家だが。しかし、このやり方は間違っていないと思う人がかなりいる。リンチェンドルジェ・リンポチェの会社は店頭株式を発行する資格があるが、登録しようとしない。別にリンチェンドルジェ・リンポチェは登録が面倒くさいと思っているからではない。従業員がミスした場合、会社はいつでも商売を止められるからだ。しかし、店頭企業に登録したら、何故商売しないのか株主に問い詰められる挙句に、従業員を首にして新しい人を雇うように求められる。会計士をしている弟子によれば、今グループの財務状況では店頭企業に登録できるそうだ。」

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。「会社が店頭企業になれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは今すぐでも引退できるが、嘘だ。こうするにはいかない。株式には意義がある。株式発行の計画を立て、その計画によってたくさんの人に仕事を与えられるから、資本を募集して商売を始める。これだったら、まだ合理のことだ。しかし、自社の株式相場を操縦するのは会社を損失させないためだという言い方は綺麗事だけだ。正当だろうか。会計士である弟子によれば、意図的な操縦だったら、投資家全員を騙す行為ではあるし、法律と証券取引法の違反にもなるし、しかも会社の経営陣にも責任が問われるそうだ。

ここまで話すと、リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に感慨深いのだ。台湾には、商売する時何も怖くないが、ただお金がないのが怖いと思う人が多い。彼らに比べれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは何も怖くないが、因果だけが怖い。決してお金がないことを怖いと思わない。今日リンチェンドルジェ・リンポチェのこの開示は、決して自身が他人との違いを強調したいわけでない。経典のこと言葉、自分の財産に執着しないことについて話したかっただけだ。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは財産に執着があるとしたら、会計士もいるから、操縦しようと思えばできたのだ。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはこう操縦しない。仏法の修行をしているからだ。密宗の観点で言えば、成就があるまでに修行できる上師に、財産などの物は自然に現れるそうだ。リンチェンドルジェ・リンポチェにとって、全てが因縁法に過ぎない。自分の享受のためではないし、誰かがからもらったものでもない。自分の修行を通して得たものだから、意図的に新しい財産を増やしたいとは思わない。

しかし、会社が店頭企業になれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは今のようにたくさんのことを管理しなくて済むし、会計士に任せてきちんと管理してもらえばいいのだ。多くの人は悪をしても分からない。自分は間違っていないと思う。どの企業も同じことをしているのではないかと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェの経営している企業はこうするにはいかない。仏陀の教えを反することになるから、リンチェンドルジェ・リンポチェはするはずがない。因果が怖いからだ。『穀帛庫藏諸財物等』に執着していたら、菩薩道を修める資格もなくなる。自分にはお棺を買うお金がないと心配するから、ちょっとは貯めておきたいと思う出家者がいる。如来衣を着ている以上、死ぬ時構ってくれる人がいないと心配する必要はないだろう。出家者にお金を貯めておく必要がないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは法脈を継続させるため、少しは貯めなければならない。やむを得ないことだ。

次の言葉は『彼菩薩如是着已、於向所説種種事中若失一事、其心則生憂悲苦悩。』。菩薩道を修める行者は、もし周りの物に対して因縁法で見ておらず、それらの物は自分の所有物であり、自分だけのものだと思って主張していれば、それらのあらゆる物が何かのことでなくなった時、心配や悩みも自然に生じてくる。

私たちが仏法を学ぶ理由は、悩みを減らし、できれば悩みを断ち切りたいからだ。しかし、あなたたちはここで仏法を学びながら、ほかの所で悩みを増やし続ける。仏菩薩に迷惑をかけてしまうのではないか。ここで念誦しながら、向こうで旦那に話を聞いてもらいたい、息子を改めさせたいと仏菩薩に祈ったり、上師に加持を求めたりする。リンチェンドルジェ・リンポチェの息子はちゃんと話を聞かなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、息子を変えて一刻でも早く帰って来てくれるように、決してアキ護法に願わなかった。それは自分の縁だと分かったからだ。衆生と仏菩薩への承諾をきちんと守るべき、毎日息子に回向すべきでないと分かったからだ。息子が帰って来るかどうかは彼が決めることだと、リンチェンドルジェ・リンポチェはこう思っているが、あなたたちの場合は自分の子供に回向ばかりしている。

直貢チェツァン法王には大勢の弟子、信衆がいたが、リンチェンドルジェ・リンポチェだけが自身の修行を通してきた。あなたたちがよく修行できないのは、執着が原因だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが直貢梯寺で修めた法は自分のためでなく、衆生、教派と弟子のためだったから、仏菩薩の心と相応できた。自分も話したと思う人がいるかもしれないが、あなたたちが話したことは普段の行為に一致していない。リンチェンドルジェ・リンポチェの思うには、直貢梯寺に行った当日、300人の弟子は全員自分のためだったということはないだろう。その中に自分は衆生を代表して、供養、参拝しに来たと思う人もいただろう。しかし、相応できなかった。理由は、普段は執着心を抱き、突然に閃いた思いが現れて自分は偉い、発心したという思い込みだったからだ。

話を語った一人の弟子のことだが、彼は、前に10人の話があったから、自分は人の前で話すのが恥ずかしいと言った。上師を賛嘆するのも怖いなら、法を広める資格はあるはずがない。今回、直貢梯寺に行ったのは、皆に自分の修行面における問題と課題を分からせたかったからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが偉いとずっと賛嘆する必要がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分は平凡な人間の身だから、ちっとも偉くないと思っている。あなたたちとの違いは、心だ。

もし、あなたたちは仏の教えを聞き入れない、地道に実践しない、しようと決意しない。これでは再来しても無駄だ。リンチェンドルジェ・リンポチェも助けてあげられないから、あなたたちが死ぬのを待って一番苦しくなる時に助けてあげるしかない。経典には『憂心、不捨財物等々』がある。これは皆の共通の問題だ。この間、一人の弟子が往生した。彼女、娘はお金に困っていたから、お金を残してあげたいと気になっていたので、往生した時はすぐリンチェンドルジェ・リンポチェを見つけられなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはポワ法を修めてあげると約束したが、彼女はその問題があったので、菩薩と上師の心と相応できなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはその後済度してあげたが、彼女は暫く苦しまなければならなかった。

一日くらいの苦しみは大したことではないだろうと、あなたたちは思うかもしれない。考えてみなさい。一日自分を真っ暗の部屋に閉じ込める時、誰も全く構ってくれなかったら、あなたたちはどんな気持ちになるだろう。きっと大変怖くなるに違いない。」この時、リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の弟子を指名し、毎日漢方薬を飲んでいるかと聞いた。この弟子は、ハイと返事した。この弟子に起きたことを知らない人が多いから、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に、助けを受けたことについて話すように指示した。

「私は2005年7月10日に皈依した。常にリンチェンドルジェ・リンポチェの周りで使い走りをしていたので、リンチェンドルジェ・リンポチェに頼れると思っていた。高血圧が160、180の時に往生できれば、リンチェンドルジェ・リンポチェから済度をしてもらえると思った。自分はこうして悲壮に往生できるならば、まだ頼れるリンチェンドルジェ・リンポチェがいると思った。結局、本当に起こった。ある日、私は小脳梗塞で意識を失った。昏睡状態の中で自分の神識は弾丸の弾頭の中にあったようで、薬室の中にあった。前方に強い光があり、私は無意識に振り返った。そしたら、弾倉の液体燃料に一滴のインクが落ちてきたのを見た。真っ暗の中に、かすかな光があり、燃料が汚染されたのを見た。爆発しそうで危機一髪のところでリンチェンドルジェ・リンポチェが私の名前を呼んで降りなさいといった声が聞こえた。私は考えずにすぐ薬室を離れた。その瞬間、『バン』と鳴り、弾丸は撃ち出された。このことで私は、リンチェンドルジェ・リンポチェの話を守ることが大事だと深く感じた。もし、その時、リンチェンドルジェ・リンポチェが間に合って呼んでくれなかったら、師兄たちに寶吉祥のベストを着て私にお辞儀してもらうことにでもなっただろう。」

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示し続けた。「この弟子の経験したことは皆が往生する時の過程だ。ニンマ派の観点で言えば、黒を見れば黒成就心になる。人間は死んで息が絶えた後、まずは真っ黒の状況が目に入る。私たちは皆暗闇を恐れるが、人類は何故暗闇が嫌いなのかを説明できる精神科医は世界のどこにもいない。これは、死亡の時に誰もがこの過程があるからだ。光を見るのは(神識が)体から離れようとしていることだ。この弟子がその状況にいても、リンチェンドルジェ・リンポチェは助け出してあげられた。理由は、上師の福徳と弟子の信念があったからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に、暗闇を見た時は怖かったかと聞いたことがある。彼は、本当に怖かったと返事した。」

リンチェンドルジェ・リンポチェは更に開示を続けた。「あなたたちはこれ以上教えを聞き入れようとしないなら、この弟子と同じ体験をすることになるが、結果は違うかもしれない。何故なら、リンチェンドルジェ・リンポチェは一人一人助けてあげられるわけにはいかないからだ。普段に養成した心が大事だ。あなたたちが皈依した時、上師の加持について話してあげたはずだ。上師を讃頌するのは、上師があなたたちの讃頌を必要としているわけではない。上師は自身の修行状況をよく知っている。ただ、上師の功徳を讃頌することにより、初めて上師の功徳はあなたに届き、加持力は常に存在し続く。死ぬべきでない人を助けられるし、死ぬ時が来ている人を三悪道に堕ちさせないようにしてあげられる。

密法を修める在家の上師を軽蔑してはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が如何に偉いかを自慢しているのではない。あなたたちのことを心配しているのだ。もし、あなたたちは疑、惑、不決定のままであれば、あの日が来る時は助けてくれる人が現れないのだ。この弟子は一例に過ぎない。仏菩薩と上師はどのように弟子たちを済度するか、また、死亡の過程はどんな状況なのかをあなたたちに理解させられる。このようなことが起きなかったところは多い。いくら広いところも起きなかったが、何故この弟子にこんなことが起きただろうか。彼は大礼拝をし始めたし、上師も一心で弟子たち全員のことを思っているからだ。

その時、この弟子は黒成就心に入った状態、それからは息が絶え、すぐ白菩提に入って間もなく往生するところだった。西方にも死ぬ時に光を見た人が多い。天使が迎えに来てくれたと思われているが、実は違う。その光は自身の光、いわゆる自性光だ。その光を見て入ったら、おしまいだ。全く助けられない。上師がこの程度までに修められるのは、当然過去世に関係している。しかし、肝心なのは今世において教えを守ることだ。教えを守る気がなければ、いくら話してあげても無駄だ。人間はもし常にあれこれを心配していたら、憂悲苦悩が生じてしまい、心は乱れて不安定になる。心が不安定で、清浄な心、禅定の心がなかったら、いくら持咒、念誦しても仏菩薩と相応できない。仏菩薩は定境にいて何の念頭も持たない。行者のエネルギーが仏菩薩のエネルギーと同じでなければ、相応できないのだ。あなたたちは、毎日念誦しているのに、何故なんの効果もないのかと思っているだろうが、効果があるわけはない。何故なら、あなたたちは欲望、憂悲苦悩の心で念誦しているからだ。

経典において次の言葉は『彼菩薩以愛潤心、是故生於後有牙心。』、菩薩道の修行者は仏法ではなく、愛で心を潤う意味だ。そのため、仏法で心を潤っていたら、心は清浄になれず、自分を歪めてしまう。自分の本来の清浄な本性を歪めてしまうから、欲望が生じる。そのため、この程度までに修行しようと思えば、短期にできることではない。それでも、皆にこの論理を覚えて目標として実践してほしい。できるだけのことをしてほしい。いつになれば円満になるかは、自分自身に時間の定義をつける必要はない。因縁が具足になれば、自然に円満になる。因縁が具足でなければ、いくら考えても無駄だ。

次は『善男子、略説意業猶如輪転、如是名為意不善業。』という言葉。釈迦牟尼仏はここで善男子について触れたが、今日は説明しないことにする。仏は意による業を簡単に説明した。『地蔵経』が触れたように、起心動念は何れも業だ、罪だ。生じる念頭は全部輪廻に向かわせる力になる。これは業だ。業は必ずしも悪業ではない。善業も私たちを輪廻させる。仏は経典の中で簡単に触れたが、意による業はローラーのように回り続けて止まることはない。この状態は全部『意不善業』というのだ。はっきりと聞きなさい。先ほどの仏の言葉は、人を害する、憎悪する心に全く触れなかった。触れたのは執着のことだけだったが、それでも不善業だ。自分の心を反省してみなさい。毎日どのくらいの『意不善業』をしているのか。意不善のままでは、人に自分は菩薩道の修行をしていると言わないほうがいい。

『宝積経』を開示する人がいたが、続けられなかった。原因はそのうちにますます怖くなったからだ。自身も実践していなければ、続けられるはずがない。すぐでも経典を閉じてほかのお経を話すようになるだろう。執着心だけでも、仏は不善業だと説明したから、菩薩道の修行、利益衆生をしたいなら、意念にも注意を払わなければならない。ちょっとした執着心だけでも持っていたら、大布施、大供養ができるはずもない。惜しむ気持ちが一杯で、慈悲の行動もあるはずがない。

慈悲は人に優しいと思ってる人が多いが、実際には正しくないのだ。惜しむことなく、善の意念を持っているからこそ、慈悲の修行ができる。仏の教えたことを、自分は100%実践していると、リンチェンドルジェ・リンポチェは言えないが、一体リンチェンドルジェ・リンポチェは実践しているかどうかは、皆は確かめていいだろう。大量の現金を供養したい弟子がいたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは断った。リンチェンドルジェ・リンポチェはもちろんいろんな支出がある。会計士をしている弟子なら、リンチェンドルジェ・リンポチェの支出が多いことを知っているはずだ。

以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは『宝積経』のこの段落を読んだことがない。今これを読んだから、直貢梯寺であれらの瑞相が現れた理由が分かった。自分はちょっとでも実践できたからだ。しかし、あなたたちは全く実践していない。実践していなかったら、もちろん菩薩道の修行だと言ってはいけない。

次は『彼菩薩離身等業。』、菩薩道を修める行者は体の諸業力から離れなければならない意味だ。善も悪も業だ。そして、私たちを輪廻させる全ての力も業だ。そのため、『地蔵経』はあらゆることが業だ、罪だと言っている。犬がかわいそうだから、もらいたいと思う人が多いが、これも業だ。もらう念頭があってはいけないという意味ではない。畜生道に堕ちたことでかわいそうだと思い、来世は畜生道に堕ちないように願ってあげることこそ、慈悲だ。一見に、犬をもらうことは優しくしてあげるように見えるが、もしその犬の寿命はその翌日に終わるべきだったら、あなたにもらわれて更に2、3年畜生のままでいなければならないようになる。そんなこともあり得るのだ。

金剛乗に一つの祈祷文がある。三悪道の衆生の寿命が短いことを祈るための祈祷文だ。寿命が短いからこそ、一日も早く人間に生まれ変わって仏法を聞き、学ぶようになれる。野良犬をもらう優しい心があれば、何故ホームレスを受け入れてあげないのか。かわいそうな衆生がいてもらいたいという選択的な思いがあるのは、慈悲の修行をしていないことだ。ただ人間の『愛潤心』に過ぎない。今、あなたたちは理解できただろう。野良動物をもらうことは慈悲だとあなたたちはいつも思っているが、これはただの『愛潤心』だ。ものに対する好き嫌いがあるという愛欲を持っているからだ。

しかし、畜生界の衆生に対し、仏法は、憐れむ、傷つけない心で未来世畜生道に堕ちないように望んでいる。『愛潤心』とは違うのだ。仏は、なるべくペットを飼わないように勧めている。理由はペットを飼うと、『愛潤心』が生じるからだ。今は犬を息子のように呼ぶことが流行っている。彼氏のはずだったのに、犬のお父さんだと言ったりする。本当に世間は乱れている。六道も一緒に乱れ始めた。人類は犬と関係を持つことができるのか。やっていないと言っても、戒律の角度からみると、邪淫を犯すことになるのだ。動物と関係を持ってはいけないことが邪淫に含まれているのだ。お母さん、お父さん、そして犬の息子がいる。このようなコンビネーションは一体どうしてできたのか。生物学を反してはならない。自分の犬をずっと息子だと呼んでいることは、二人の関係で生んだのではないか。こんなおかしいことはあり得るのか。仏経にペットを飼うことに反対する記述がある。皆はチベットの多くの仏寺で犬を見たが、理由は、チベットでは(人間が)食べないものがたくさんあり、犬が食べてくれるからだ。犬をペットとして飼っているわけではない。

次の言葉は『於和上所起於尊想、於阿闍梨起和上想。』、意味は、出家衆、修行者に出会えれば、彼らとは縁がなくても、尊敬する気持ちを持つべきだということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの以前開示したことだが、首吊り自殺で死んだ人がいた。本来、こういう死に方の人はポワ法を得ることができないはずだった。過去世の彼は男性でローストダックレストランの見習いであり、毎日家鴨を吊り下げて風乾する作業をしていた。しかし。過去世のリンチェンドルジェ・リンポチェが出家衆だった時、彼は、閉関を終えて通りかかったリンチェンドルジェ・リンポチェを見て恭しく合掌したことがある。そのため、彼は今世に自殺死、短い寿命、女性の身であっても、過去世のその尊敬した態度で、今世、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法を修めてもらえた。

法を守らない出家衆がいるが、本当に三壇大戒の剃髪を受けた出家衆だったら、尊敬してあげなければならない。尊敬とは、その人の言葉を聞く意味ではなく、あなたは受けていないが、その人の戒を受けたことを尊敬することだ。その人の修行の良し悪しはあなたに関係がない。その人自身のことだ。そのため、どの修行者に対しても、その人が如法であれば、例え一つの戒だけを守っているとしても、尊重してあげなければならない。『於阿闍梨起和上想』の部分だが、阿闍梨は、私たちに仏法を教えてくれる行者の意味だ。阿闍梨を和上として見なさなければならない。ここは出家の意味ではない。修行者で仏法を教えているから、尊重してあげなければならない。

続いては『於餘若老若少起止恭敬。』、子供やお年寄りを問わず、会ったら恭敬すべきだ。恭敬とは、跪いて参拝する意味でもない。何事でも好きのようにさせる意味ではない。子供が生まれていくつであってもその一生においてよい因縁に出会えれば、衆生を助ける人になるチャンスがある。どのお年寄りも、70歳を過ぎたら、その一生においてきっと福報を累積したから長生きできたのだ。そのため、そのお年寄りが善事を行ったことに恭敬しなければならない。また、子供が世間に生まれたのも、きっと過去世において善事を行ったことがある。それで、菩薩道を修行する人は子供やお年寄りをいじめてはいけないし、見下してもいけない。子供だってよく修行できるのだ。以前、禅宗に一つの典故がある。一人の子供が禅師も反駁できない言葉を言い出したと言う典故だ。また、一部のお年寄りが物事を見る観点は私たちより明確だとこともある。

壮年の人だけがよく修行できると思うのは勘違いだ。一概には言えない。道場で何度も表しがあったはずだ。念誦できないお年寄りがいるが、上師を尊重する心があれば、あなたたちよりもよく修行できるのだ。皆は菩薩道を修行している以上、どの衆生にも恭敬しなければならない。恭敬の意味は、優しくしてあげることではない。心に軽蔑、軽視の心があってはならないことだ。何れの衆生も学仏、修行、行動においてよいところがあるので、恭敬すべきだ。軽蔑してはならない。

そして『彼菩薩在於独処作是思惟。』がある。菩薩道を修める時、人に会う時でも、一人だけの時でも、これを方向として思うべきだ。会ったら思うのでなく、普段も鍛えなければならない。今回直貢梯寺に行った時、病気に罹った二人のお年寄りのことを忘れた弟子が何故いただろうか。普段はお年寄りに恭敬していないから、無意識にああいう行動を取ってしまうのだ。もしかしたら、リンチェンドルジェ・リンポチェは68歳になってもお年寄りのように見えないから、あなたたちはお年寄りに恭敬しない習慣にでもなったのだろうか。普段一人でいる時の考えは、いざとなる時に、自然に現れる。人に言われるのも教えられるのも必要がない。

仏法の特別なところは『聞思』にある。仏法を聞いたら、必ずどこかで一人で、自分は上師の教えた仏法を実践しているかをよく考え、していなかったら、どう行動すべきかを考えなければならない。それからは、改めるだ。つまり、自分の間違った行為を改めることだ。仏法を聞いたから、自分は立派だ、知っている、理解した、以前とは違うようになった、以前聞いたことがない、などを思ってはならない。本当は自分自身が実践していないだけだ。自分に遠慮することはない。よく聞く話だが、実践しない、決意しないから、自分のことを悪い弟子だと自称する人がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、人生は無常だと入念に忠告してあげているのに、未だに重病になっても自分は死なないと言い張っている人がいる。実際に病気にならなくても死ぬ可能性があるのだ。交通事故や急性心筋梗塞ですぐ死んでしまうこともあり得る。だから、今でもこの世間に未練を持っているなら、法会に来ても意味がない。

死亡を恐れれば恐れるほど死ぬ可能性が高い。リンチェンドルジェ・リンポチェのような死亡を恐れない者が生き残っている。自分はこうしてはいけないだと考えるべきだ。ここでの釈迦牟尼仏の言葉は厳しかった。菩薩道を学びたければ、こんな考えを持ってはならないし、行為もあってはならないと教えてくれた。全くあってはならないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆を厳しく責めるが、『宝積経』はその根拠だ。あなたたちは、自分は菩薩道の修行をしていると主張しているが、菩薩には菩薩のあるべき姿があり、それなりの考え方もある。しかし、あなたたちのやっていることは何れも平凡な人間の行為だ。菩薩道を修める資格なんかないのだ。」

この時、リンチェンドルジェ・リンポチェは、同じチームの弟子に再度皈依の同意書に署名を依頼しているベストを返還させられた弟子をその場で叱った。「更に20日の期限を与える。それでも署名済みの同意書などの書類を備えなければ、今後は来なくてよい。ここでは、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちのごまかしをほっておかないのだ。あなたの命はリンチェンドルジェ・リンポチェに救われたのに、この数年はこんなにごまかしてきた。もう十分だろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは『宝積経』を開示すればするほど、あなたたちはごまかしている、仏菩薩と諸天護法を騙しているように思える。あなたたちは騙しているから、リンチェンドルジェ・リンポチェはいなくなるかもしれない。

次は『我不応爾。』、先ほど言ったことは全くあってはいけない意味だ。未だに実践していないことなら、やったことがあるかどうかを考え始めなさい。二度とリンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔したいと言う必要はない。あなたたちは供養したくないし、改めようともしない。もしかしたら、席を取る心構えでも持っているのか。リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず助けてあげるとでも期待しているのか。

次の言葉だが、『我已起度一切衆生、救一切衆生心、令一切衆生住正定行中。』は、前の内容を指している。あなたたちが毎日思わなければならないことではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは2年以上息子に顔を合わせさせなかった。息子は何時に帰ってくるか、改めるかなど、全く考えない。じゃ、何を考えるべきなのか。経典の言葉のように、一切の衆生を済度し、一切の衆生を救うの心を起こして,一切の衆生を正定行の中に安んぜよ。あなたたちは実践したのか。菩薩道を修行していると自称できるのか。自分は発心、発願をしたと言えるのか。仏はどう言っているか、そしてあなたたちはどうしているかを見てみなさい。

自分は文字を読めないと言う人もいる。しかし、広欽老和尚と六祖慧能も字を読めなかった。また、自分は年だから無理だと言う人もいる。年だから無理だということはないのだ。この言葉について、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王に尋ねたことがある。結局、直貢チェツァン法王は、上師に恭敬して決意をすれば、きっとできると開示してくれた。リンチェンドルジェ・リンポチェはチベット語が分からないのに、どうやって理解できたのか。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前の数世において鍛えられてきたから、『宝積経』を読んだら、近付いていると分かり、大変嬉しかった。しかし、未だに門外漢がたくさんいる。

だから、心にこれらのことをもう考えるのを止めなさい。仕事があり、収入があり、住む場所があることは、何れもあなたの福報と縁だ。このような福報と縁は今生の終わりにつれて消えてしまう。子供や眷属に残してあげなければ申し訳ないと思ったり、優しくしてくれたから返さなければならないと思ったりする必要はない。仏菩薩と上師もあなたに優しくしてあげているのではないか、何故仏菩薩と上師のことを心におかないで家族のことだけを思うだろうか。病気の時、家族はせいぜいお医者さんに診てもらいなさいくらい言ってあげる。入院の時、ちょっとしたお見舞い品を差し入れてあげる。このくらいのことではないか。命を助けてあげられるのか。こう考えると、リンチェンドルジェ・リンポチェは思わず慨嘆する。仏経は本当に大事だ。

続きにあるのは『彼菩薩作是思惟:『我今自身不調諸根、不勤修行、不覆諸根、不調諸根。』彼菩薩作是思惟:『今我已作如是修行、是諸衆生既見我已、心即調伏随順我教、諸仏歓喜、及諸天、竜、乾闥婆等悉皆歓喜。』』

仏は菩薩にこう言った。衆生に、あなたの教えに従わせたければ、あなた自身は実践し、諸根を調整しなければならない。もし、自分の修行において諸根は調整せず、眼耳鼻舌身意は貪瞋痴のまま、調整もせず、修行にも励まないなら、先ほど話を語った弟子と同じだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは大礼拝を1000回するように指示したのに、彼はそうしなかった。手間を省けてもいいと思った。リンチェンドルジェ・リンポチェの加護があれば大丈夫だと思った。薬の処方を出してあげたのに、本人は薬を飲もうとしないのと同じだ。これでは、病気は治るはずがない。リンチェンドルジェ・リンポチェは不審に思った。はっきりと教えてあげたから、彼の息子は生まれた時口唇口蓋裂がないはずだったのに、原因は、彼はきちんと指示を守らなかったからだ。

いいだろう。あなたたちが怠けたければ、好きにしていいだろう。全ての果報を植えるのはあなたたちだ。果報が成熟になる前なら、上師は必ず対応できる法門がある。しかし、教えてあげても、あなたたちはやらない。疲れるから、500回拝めばいいだろうと思ったり、どうせ菩薩はそんなに厳しくないから、リンチェンドルジェ・リンポチェはきっと加持してくれるからと思ったりする。先ほど言った『不勤修行』は、毎日どのくらい念誦する、礼拝する意味ではない。毎日続けているかどうか、中断することはないか、輪廻に導く自分の行為を修正し続けているかのことを言っている。しかし、誰も教えを聞かない。この一生の自分はよい人だから、地獄に堕ちるはずがないと思っている。

『地蔵経』を読んでみなさい。地蔵菩薩に某世の母親が三宝を軽視した結果に、地獄に堕ちた。今のあなたたちは上師と仏の教えた仏法を聞き入れないのに、自分は間違っていないと思っている。これも仏法を軽視することだ。大変な結果になるとは信じず、自分なりの考え方で行動している。リンチェンドルジェ・リンポチェににとって、本当にちっとも関係のないことだ。修行に励まないことは、自身の行為を修正していないのに、自分は修正したと思い込んでいることだ。リンチェンドルジェ・リンポチェも未だに自分の行為を修正し続けている。一秒の懈怠ですらあってはいけない。

『不覆諸根』だが、私たちの毎日の眼耳鼻舌身意は、命がある限り、必ず外部と連結する。連結ができると自然に自分の心に影響する。『不覆諸根』とは、仏法を用いなければ、貪瞋痴慢の行動が起きてしまい、諸根を覆ってしまう意味だ。あなたたちはまだ六根を空性に入らせ、六根に影響されないようにする能力を持っていないが、六根は単に生活するための道具に過ぎない。自己の欲望を満たすためのものではないのだ。あなたたちの中で仏法を用いている人はいない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の弟子に海外に行かないように忠告したが、よりによって彼は出かけた。欲望があって自分の息子だから、短い時間であっても会わなければならないと、彼は思った。結局、お金を使い果たした。帰って来た時はお金が全く残さなかった。毎日好ましくない状況に対面しなければならない。あなたたちは自分が仏法を学んでいると思っているなら、身口意と眼耳鼻舌身意がちょっと動くと、まずは仏法で見極めるべきだ。自分の悩みを増やし続けているか、或は衆生に悩みを与えているかを見極めるべきだ。これこそ修行だ。口にしたり、無謀でコミュニティサイトにいい加減な書き込みを残したりしても大丈夫だと思ってはならない。コミュニティサイトに書きこみを残した後、内容が消えない限り、きっと何かが起こる。しかも好ましくないことだ。

『不覆諸根』は、仏法で覆わない、抑えない、体の機能を超えることを発生させない意味だ。肝心なポイントだ。今はまだできてなくても大丈夫だが、学んでやっていくのだ。ゆっくりとすることは、数百世を待つことではない。少しずつやり始め、自分を放任しないことだ。学仏者が自分を放任しないのは、仏法でこの六根を覆っているからだ。諸根を抑えられたら、何の影響も起きない。学仏者の悩みが減られるのはこの法門があるからだ。

『不覆諸根』と『不調諸根』の違いは何だろうか。『覆』とは、まず仏法で抑えてから、眼耳鼻舌身意を調整する意味だ。眼耳鼻舌身意は単に生理的な欲望と需要のためのものだから、この範囲を超えないようにすべきだ。それからは『調』、つまり仏法で調整することだ。貪欲が深い人は大布施をし、供養し続ける必要がある。瞋心が強い人は励んで十善法を修め、しかもさらに慈悲の法門を修める必要がある。痴の者は因果を深く信じ、自分の諸根を調整する必要がある。誰かに調整してもらうのか。自分の調整能力は不足なので、仏法では調律師が調弦するように上師に調整してもらうことが書かれている。調整する時、あまりきつかったら切れてしまうが、あまり緩かったら音が出ない。自分は自分のことをはっきりと見えないので、上師に仏菩薩を代表して調整してもらう。調整の方法は多いが、弟子を叱ったり、止めさせたりするなどがある。『覆』は自分でやれるが、『調』は閉関を通さなければならない。だから、叱られたくない人、叱られるのを恐れる人は、寶吉祥仏法センターに来なくてよい。

『彼菩薩作是思惟:『今我已作如是修行、是諸衆生既見我已、心即調伏随順我教、諸仏歓喜、及諸天、竜、乾闥婆等悉皆歓喜。』の部分だが。

リンチェンドルジェ・リンポチェの前に跪いて叱りを受けて泣いた人が多いのは、リンチェンドルジェ・リンポチェは修行者だからだ。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは修行せず、自身の諸根を調整せず、諸根も覆わなかったとしたら、衆生はリンチェンドルジェ・リンポチェに対面しても、心はリンチェンドルジェ・リンポチェに調伏されるはずがない。信衆が多いから、行者の修行はよくできているわけではない。肝心なのは『調伏随順我教(調伏して自分の教えにしたがわせる)』ができるかどうかのことだ。縁に従ってリンチェンドルジェ・リンポチェの教えを聞かない人がいれば、ここから離れてよい。残る必要はない。縁がなけば、無理しなくていいのだ。上師として調整もせず、諸根を覆うのもしないなら、衆生に影響を与える資格もあるはずがない。

リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来たら、長らく泣く人がよく見かける。リンチェンドルジェ・リンポチェに会ったら、泣かなかない人は殆どいなかった。泣かなかったら、リンチェンドルジェ・リンポチェはその人の心を調伏できなかったことだ。本当は調伏したはずだが、未来のことかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも遠慮なく、ズバリと指摘する。指摘される人は家に帰ったら、二度とリンチェンドルジェ・リンポチェに会う面目がないほど恥ずかしくなる。こうしたら、リンチェンドルジェ・リンポチェの心配する対象も多少減るのだ。恥ずかしくて会えないのは、その人は自分を調伏したくないし、リンチェンドルジェ・リンポチェの教法にも従う意欲がないからだ。しかし、せめて叱られることを覚えて同じ行動をしなくなる。これも調伏だ。ただリンチェンドルジェ・リンポチェとは師弟の縁がないだけだ。

『諸仏歓喜、及諸天、竜、乾闥婆等悉皆歓喜』は、このようにできたら、諸仏は歓喜になる、天竜八部等々も歓喜になる意味だ。歓喜が生じるから瑞相が現れる。もしこの数十年来、リンチェンドルジェ・リンポチェの修行の方向は間違ったとしたら、全ての行為は間違ったとしたら、仏菩薩は歓喜になるはずがなかった。瑞相はリンチェンドルジェ・リンポチェに見せるためのものではなかった。このような修行した人類がいるから、諸仏菩薩は大変嬉しかったからだ。これらのことは何れも根拠がある。長く閉関する、たくさん念誦する、荘厳な相をしているなどのことで仏菩薩は歓喜になるわけがない。本当に根拠があるのだ。仏菩薩は行者のしたことを見て歓喜心が起きるかどうかは、身口意が変わったか、調整したかなどのことによるのだ。仏菩薩と天竜八部が歓喜になったら、悪いことが起きるのを恐れなくてよい。起きないのだ。例え起きるとしても、自分自身の業と果報の現れだから、逃げる必要もない。

経典にも『如是等行名菩薩慚。』がある。菩薩道を修める行者は、もし以上の各種の思想や行為があったら、慚愧すべきだ。このよう思いが起きると、直ちに懺悔しなければならない。仏菩薩と衆生に申し訳ないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関した時も、夢を見ると、直ちに起きて懺悔した。あなたたちだったら、眠りを続けただろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは夢の中で先ほど話した内容を背いた念頭でも現れたら、すぐ懺悔しようと目が覚めて礼仏してから寝るようにしている。2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェはラキ雪山で閉関した。夜の温度は零下10~20度くらいだった。起きるのは大変面倒だった。まずは寝袋を開けなければならなかった。そして起きて礼仏、懺悔をしてから、もう一度寝袋の中に入るしかなかった。

何故リンチェンドルジェ・リンポチェは気付けられたのか。昼間でも自分を鍛え続けているから、夢の中でも鍛えられるのだ。密宗八大成就法の一つに、夢瑜伽がある。昼間自分を自制できる人は多いが、夜になったらできなくなる。多くの出家衆もそうだ。昼間はよく自制できるが、夜になったらいくら念誦しても念頭が起きる。密法の助けがないのが原因だ。そのため気脈が乱れて念頭が起きる。

次の言葉は『彼菩薩作是思惟:『勿令若道若俗於我若身若口若意等業諸威儀中訶責我者、所謂毀壊戒行、或作見行、或作行行、或行邪命。』』、大変厳しい言葉だ。意味は、菩薩道を学ぶ行者は考える必要があり、自分の身口意の一切の威儀がきちんとなっていないことで、修道者、俗家に叱られないようにすることだ。そして、『毀壊戒行』は、菩薩道を修めているから、自分の身口意のやり方で衆生に誹謗の機会を与えてはいけない意味だ。時々、リンチェンドルジェ・リンポチェは席を外すことがある。仏法が誹謗されるのを避けたいからだ。ここまでするのは大変だ。容易ではない。」

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子たちを率いてアキ護法と回向の儀軌を修め、法会は円満に終了した。参加者たちは一斉に声をあげて感謝した。そして、起立、合掌して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを恭しく見送った。

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2016 年 03 月 23 日 更新