尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年8月23日

法会が始まる前に、ある出家弟子は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが日本で開示した『地蔵菩薩本願経』を拝聴して摂受力を受けた感想を語る機会が与えられたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

「自分は『地蔵菩薩本願経』を百回以上も念誦してきた。中の何れの文字も読めたが、経典の意義については全く理解しなかったし、記述された善事に関しても全然分からなかった。自分の念誦は健康、平安、修行のためだった。出家して数年にもなったが、修行はうわべで、懺悔も合言葉にすぎず、心は貪、瞋、痴、慢、疑で一杯、全ての行為も人を傷つけてばかりしていた。他人の身になって考えることは一切なかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが少しずつ教えてくれること、少しずつ弟子の修行障害を消去してくれること、そして徐々に弟子の福報累積を助けてくれることに感謝する。更に、自身で見本を見せてくれることにも、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝する。

今回、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが日本で開示した『地蔵菩薩本願経』にある段落だが、衆生に善があれば、例えそれは一本の髪ほどの微小なことであっても、地蔵菩薩は必ず生死の解脱を助けてあげるように、弟子に仏法を学びたい念頭があれば、例えそれは瞬間のことであっても、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは地蔵菩薩のように、方法を尽くして弟子の仏法学習における障礙を取り除いてくれる。正しい修行の概念を教えてくれる具徳の上師がいなかったから、自分の過ちは、多くの出家者も仏弟子も犯しやすいものと同じだ。ここ数年、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはあらゆる方法を使って教えてくれきた。『地蔵菩薩本願経』を一字一句で開示してくれたお蔭で、漸く、自分がその『暗鈍、久化方帰。或有業重、不生敬仰』の剛強な衆生(心が暗くて不器用で、長らく疑惑を解明してもらい、やっと皈依した、業が深くて敬仰心のない剛強な衆生)であることを少々認められた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが大変の苦労をして毎週日曜日に仏法を加持してくれるお蔭でなかったら、自分の観念は間違いだと気づくことはなかった。また、知恵のある経験者でなかったら、たくさんの修行の境界に関しては理解できなかっただろう。

『分身』という言葉だが、分身はあっちこっちに現れるものだと、私は思っていたが、ここにいる皆さんもこのように理解しているだろう。しかし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが分身について開示した後、自分はテレビを見すぎたと分かった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示した。分身は菩薩の慈悲力、願力の顕れであるため、仏経も舎利も仏像も分身だ。仏はあらゆる方法を使って仏法に馴染む因縁を衆生に与えようとしている。そして、危難のあった時に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの済度が見えたのは、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲力と願力によるものだ。これはちょっとした出来事を思い出させてくれた。何人かの師兄の家で、紙燭が燃えた時、焼かれたのはきっと尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法照だった。そしたら、火は消えた。自分は深く体得した。仏法の学習は持咒、念誦、拝仏をどのくらいしてよいような簡単なことではなく、具徳の上師に随従して徐々に懺悔心、衆生を傷つけない心、自身の果報を負い、対面して受け止める心を育てると共に、上師の慈悲心を習うのが肝心だ。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは日本でこう開示した。勇気を持って責任をとる心があれば、病気になっても体は傷つけられない。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは業報を転化する方法を教えてくれたうえで、仏法に対する弟子の信念を強めてくれた。無限の感謝を申したい。

また、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが『名相』について徹底的に解釈してくれたことにも、讃頌したい。過去においてたくさんの法師による仏法の開示を聞いてきたが、『法王子』この名詞に関して明白な説明はなかった。しかし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェははっきりと説明してくれた。文殊菩薩は八大菩薩の一人だが、菩薩の中で『法王子』と称されたのは文殊菩薩だけだ。これは、釈迦牟尼仏を仏法の国王に、文殊師利菩薩を仏の王子に例えた。文殊師利菩薩は釈迦牟尼仏と同様な知恵を有して釈迦牟尼仏の果位を継承する資格があった意味だ。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞いて自分は言葉も出ないほどだった。」

次に、彼女は讃歎、瞻礼について語った。「こんな簡単な文字に、どんな深い意義があるだろうか。讃歎は、諸仏菩薩の荘厳な相を見て讃頌すると、大体の人は思っている。しかし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはこいうふうに開示した。讃歎とは、地蔵菩薩の仏像が荘厳だと称賛することではない。地蔵菩薩が衆生を利益する功徳と事業を称賛することだ。その言葉を聞き、讃歎の心があるからこそ、恭敬心、歓喜心、学習の心が生まれることが初めて分かった。また、上師を称賛する時、私たちは上師の慈悲の功徳の海に入り、それも慈悲心を学ぶ始まりになると、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは開示した。ただの一念で天と地の差になることを実感した。

次は瞻礼だが、仏像を見続ける時、心はどんな気持ちを抱くだろうか。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、瞻礼は、仏像を仏として見ることだと開示したうえで、日本の例をも挙げた。瞻礼は多くの日本人がしていること、日本人は恭しく仏像の前に立って仏像を鑑賞する。そのため、京都には歴史のある仏像がたくさん残されている。数百年以上のものもある。日本人にはそういう特質があり、仏像は修行のためのものだと思わなくても、国宝、骨董として敬うので、鑑賞する気持ちで仏像を見る。仏法を学ぶためではないが、瞻礼の仕草をする。逆に、中国人は仏像を見る時、この仏像は荘厳だ、あの仏像は荘厳でない、この仏像は老けている、あの仏像は若いなどを思い、日本人ほどの礼儀作法がない。瞻礼とは、鑑賞の態度でも、骨董を見る態度でもない。仏像を仏として見ることだ。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは更に、婆羅門女は母親の死後の居場所を知りたくてとった行動、そして、覚華定自在王如来は何故、家に帰って念仏することを婆羅門女に要求したかについて、その意味を開示した。経文の内容は『遂売家宅、広求香華、及諸供具、於先仏塔寺、大興供養』から『端坐念覚華定自在王如来、経一日一夜』などまであるが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの開示によると、以前の人にとって一軒の家を持つのは容易ではなかったし、お香とお花を買うことはなおさら難しかった。今のように栽培されたお花の販売はなかった。婆羅門女は母親の生まれ場所を知りたかっただけで、住んでいた家を転売してお香とお花を買って仏に供養し、手と足が傷だらけになって気を失ったほどまでに参拝した。それでも、覚華定自在王如来は直ちに、母親はどこに生まれたかを婆羅門女に教えなかった。代わりに、家に帰って念仏するよう要求した。

そこで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、家に帰って念仏する要求について開示した。仏号は、世間の輪廻から離れるようと、私たちの決意に役立てるため、もし仏が簡単に婆羅門女に教えてあげたら、婆羅門女の母親は何も感じなかったわけだ。婆羅門女は母親と同じ遺伝子を持っていたので、母親は死後地獄に堕ちたが、娘が仏の名号を唱え続けることで、母親は感応できて福報が得られるはずだった。これも、毎日持咒するように、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが教えてくれた理由だ。よく持咒できれば、冤親債主はいなくなり、金儲けができ、悪いことは起きないと思う人は大勢いるが、こんな考えは正しくない。持咒も、念仏も福報の累積、知恵の表顕に役立つものだ。この開示は大変殊勝、細密で、以前には決してなかったものだ。利く目と善知識がなければ、これほど意義を深く開示することは決してできなかった。ここまでの話を聞き、いかに深甚で敬虔な恭敬心が必要なのか、いかに極大な供養する決意が必要なのかを自分は初めて理解して大変驚いた。決して三本のバナナや四つのリンゴやいくつかの仏号のような簡単なもので、自分の供養が恭謹だと表せることではない。また、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの前に跪いてちょっと涙を流すだけで、私たちの希望が叶えられるように、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに求められることでもない。

自分のことを反省してみると、三宝、つまり仏・法・僧に対して敬虔な心のどころか、計算する心を持っていた。常に、お香を惜しんでお花も買わないようにしていたし、お金があれば、上師に供養しようと思っていたから、自分にいろんな問題が起きた。三宝に対して敬虔な心がなかったから、もちろん供養する心もあり得ないものだった。自分にとって最も感動した部分は、『仏讃地蔵菩薩言、善哉、善哉。吾助汝喜。』の言葉だ。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示した。菩薩には念頭がないのに、歓喜になったのは何故だ。衆生の離苦を見て菩薩は歓喜の心が生じるのだ。その歓喜は体が耐えられる全ての苦しみ以上だ。今年初めに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは体の不具合を耐えても、皆のために修法し続け、信衆を接見し続けていた。衆生が苦しんでいるのを見捨てなかったからだ。菩薩の心は貴重で有り難いから、皆さん、私たちは熟慮して認識すべきではないか。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは菩薩のあらゆる行為を見せてくれてきた。自己本位、我執が強い人々に少々に感動を与えられた。上師に対する感謝の気持ちはとても言葉で表せるものではないので、謹んで誠意と恭敬を込める心で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教えに感謝したいと思う。

皆さんに考えてもらいたい。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの威徳力でなかったら、皆さんは悔しまずに煩悩を捨てられただろうか。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大知恵力でなかったら、皆さんは心を開いて仏法を理解しようとなれただろうか。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大摂受力でなかったら、静かに座ってここで午後の時間を過ごすことはできただろうか。弟子として、私たちは幸せだ。今生においてこれほどの大菩薩に教えて助けてもらえる私たちは、なんの努力もせず、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と加護をただ求め続けるような残酷なことをしてよいのだろうか。無知のままにいて教えを聞かず、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの精神と体力を、ただ消耗することをしてよいのだろうか。また、恥を感じず、仏法を衣装ともせず、仏弟子、または尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子を自称してよいのだろうか。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を代表して仏法を教える上師、三悪道に堕ちないように助け、衆生に生生世世に光明を持たせる根本上師であることに、心より讃頌する。ここにいる皆さんは上師を持つ幸せを大事にし、上師の教法を聞き入れて生生世世の光明を有することを祈る。最後に、再度に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を申したい。」

続きに、もう一名の弟子は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに助けてもらったことを語り、並びに犯した過ちを懺悔した。

「数週間前に、私は事務的な手続きをするために海外に出かけた。出発前は自信満々で、同行の友達も見つけたので、それくらいの世間のことは自分で処理できると思っていた。謙遜の心もなく、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ、仏菩薩と護法の加持を真心で祈りもしなかった。傲慢で身口意を放任した。何もかも問題ないと思っていたが、結局、ある部門から、更に書類の審査が必要だと告げられた。更に、審査結果が不合格の場合、全ての書類も手続きも一からやり直す必要があり、大変時間がかかることになると言われた。

その時、私は大パニックになり、どうしてよいかも分からなかった。最初の時は身口意を放任していたし、当時も早いうちに尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを観想せず、加持を願わなかった。大変緊張して慌ただしくなり、見苦しい様子を見せて恥をかいてしまった。

最初に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見する機会を得た時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは家族のことを話してくれた。私の家族に深い殺業があり、祖先は漁師をしていたうえで、作業の規模は大きかった。まして、鶏をも殺していた。何れも深い悪業だった。衆生は捕らわれて殺される時、大変緊張になり、落ち着かない状態だったため、今世において私の家族全員の果報は緊張しやすい、慌ただしくなりやすい性格になった。まるで漁網内で飛び上がる魚みたいだし、あっちこっち走り回って逃げようとする鶏のようにそわそわする性格だ。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに随従して仏法を学んで以来、常に緊張するな、落ち着けろと上師に叱られてきたが、これは上師が助けて教えてくれていることだと思う。しかし、私は、上師に対して具足の信念と恭敬心を持つことは一度もなかった。懺悔心もなく、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの指示に従うことも全くなかった。ただ、皈依後は上師のお蔭で安らぎの暮らしができると思っていた。それで、私は全く成長しなかった。いざとなる時、慌ただしくなってどう処理してよいかも分からない。上師が入念に開示した仏法と指示を全く頭に置かなかった。今考えてみれば、本当に恥ずかしかった。

しかし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは私の状況を知ると、直ちに心血を注いで忙しい中でも助けてくれた。私の海外での生活と安全を配慮してくれたうえで、仕事のことをも考えてくれた。更に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの指示をくれた。落ち着くように言ってくれた。自分は大変恥ずかしかった同時に、感謝した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは利益衆生の仏法事業を抱えていても、毎日私の海外生活と用事の進捗について気遣ってくれた。上師に心配をかけて元気を費やさせた。本当に上師に申し訳なかった。しかも、仏菩薩、衆生にも申し訳なかった。大変恥ずかしいことをした。

結果を待っていた時、ある日、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、外に出かけなさい、たくさん考えず、緊張しないように指示してくれた。そのため、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが過去世において修行の聖地である曹渓寺に行って参拝しておみくじを引いた。そのおみくじに『仏聖指爾遊東西、莫要頼仏加顕栄、虔心戒意尊依奉、必定功円果位栄。後象:真誠生果位、菩薩保皈依、波浪打船穏、神聖顕奇応。』が書かれた。

そのおみくじを読んで私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝と称賛の気持ちが湧いた。しかも、恥ずかしくて懺悔の涙を流した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはそのおみくじの内容を知った後、開示してくれた。『莫要頼仏加顕栄、虔心戒意尊依奉』は仏菩薩の慈悲なる警告だった。『真心で仏法を学びなさい。仏法を学んだからといって福報が得られると思ってはならない。皈依と学仏は利益、昇進、富、家族の幸せを求めるためのものではない。完全に上師に従い、上師の教える仏法に頼って自分の身口意を正し、生死輪廻の苦を解脱することこそ、仏法を学ぶ本当の目的と意義だ。』

私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して18年にもなったが、仏菩薩と上師を利用してよい暮らしをしたいことばかり考えていた。過去世と今世において植えた悪業を正直に懺悔しなかったし、真面目に上師の教法に従って習ったこともなかった。また、謙遜で調伏された心もなく、上師と仏菩薩に対して感謝の気持ちもなかった。傲慢、意固地に振る舞っていたから、どんなことをしてもわけなく障礙が現れた。これからは必ず、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに頼り、教えに従って仏法を学ばなければならない。

良い結果に、翌日の午後過ぎ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩の大威徳力と加持のお蔭で、しかもおみくじに書かれたとおり、『神聖顕奇応』のように『奇応(不思議な結果)』が顕れ、円満な転機が顕れた。最初の事務局から後続の手続きをするように連絡があった。本当に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩に何度も感謝したい。

私はここで懺悔する。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して18年にもなったが、今まで上師、仏菩薩を利用してただ安らかな生活を望んでいた。懺悔心で仏法を習うことが一度もなかった。私の家族には深い殺業があり、無数の衆生を傷つけてきたが、ちっぽけな懺悔心で仏法を学ぼうともしなかった。私の家族に傷つけられた全ての衆生を利益しようとも思わなった。ちょっとでも順調になると、すぐ傲慢になり、自分には能力があるから、なんでも処理できると思っていた。本当は全部、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩、護法の助けとお蔭だった。弟子に仏法を習わせたいため、数十年来、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の時間と生活も、プライバシーと安らぎも犠牲にしてきた。仏法学習のために、弟子に意欲、穏やかな環境、健康な体を与えることを一筋に思ってきた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の全てを犠牲して弟子たちに与えてきた。それなのに、馬鹿な私は自慢していてうわべだけで仏法を習うふりにしていた。心には上師のことが全くなかった。ただ上師と仏菩薩を利用していた。ほんとに冷酷だった。大変恥ずかしい。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお願いしたい。叱って罰を与えてもらいたい。深く懺悔、検討させてもらいたい。ここにいる大徳と師兄たちに、私のことを戒めとして、同じ過ちを犯さないように願いたい。そして、仏菩薩がくれた曹渓寺のおみくじ、『虔心戒意尊依奉』のように、敬虔な気持ちで自戒し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに奉仕し、教えを守って修行すること、並びにきちんと仏法を学び、輪廻の苦から解脱できることを願いたい。

ここで、も一度曹渓寺のおみくじの内容を読もう。『仏聖指爾遊東西、莫要頼仏加顕栄、虔心戒意尊依奉、必定功円果位栄。』皆さん、このおみくじの内容には、功名と富、勉強と家庭のことが全く触れられなかった。文字の内容は何れも、専念に敬虔な心で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに頼って仏法を恭しく学び、最後に苦しみから離れて幸せを得ることを忠告してくれている。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいつも開示してくれているように、出世法の修行がよくできたら、世間法に関して心配することはない。このおみくじの内容で大徳と師兄の皆さんとお互いに励ましたいと思う。

また、旅行会社のほうにも感謝したい。手続きを終えた後、ちょうど台風の後だった。当時の国内外の航空便は何れも運行が乱れていた。旅行会社の助けでいろんな帰国オプションを考えてくれたお蔭で、一番早い便の航空券を入手して順調に帰国できた。仕事に影響せず、同僚にも余分な負担をかけなくて済んだ。最後に、もう一度、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を申したい。諸仏菩薩に感謝を申したい。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、自らプルパ金剛法会を主法し、並びに参加者に貴重な仏法を開示した。

「今日はプルパ金剛を修める。金剛乗(密乗)において、リンポチェになるには、四つの方便な事業を円満に修行しなければならない。この四つの事業法は息(息災)、懐(懐柔)、増(増加)、誅(誅殺)だ。一般的に、息法は普通の金剛乗弟子に伝えられるが、懐法と増法は、上師の厳しい評価を経たうえで、伝授される。そして、誅法は、殆ど伝えられることはない。

仏は慈悲を重んじているのに、誅を語る法門は何故あるかと、疑問を持つ人が多いと思う。誅の法門は文字から見ると、『殺す』になるが、意味は何だろうか。息法、つまり忠告する方法を用いるが、衆生は業障があまりにも深くて聞き入れない時、懐柔の方法に変えるのも考えれらる。即ち、衆生の剛強な心を少々和らげ、諸仏菩薩の開示を受けられるようにする。増は、権力の増加、言い換えれば、修行者は自身の勢力と富を増加する必要があることだが、その目的は、更に多くの衆生を利益することにある。権力の増加は、大仏寺を建てたり、大勢の信衆を持ったり、常にテレビに出て有名になったりすることではない。要するに、増法を用いることであらゆる護法部は、仏法事業が順調に進められるように、行者を助ける。

厳しく言えば、誅法は、私たちの貪瞋痴慢疑の意念を一つも残さず消してくれる。誅法は衆生の命を奪うと言う人もいるが、あくまでも表面的なことだ。要は誅法を修める人はどのような心構えで修法しているかにある。誅法を修める人に、僅かな瞋恚心でもあれば、例えば、人に不利に扱われるのを恐れて誅法で人を扱うようなことは瞋恚心だ。空性の慈悲心までに修行できなければ、その誅法の修行は大きな後遺症をもたらす。

尊勝なる直貢チェツァン法王は以前、常にリンチェンドルジェ・リンポチェにこのように話した。チベットとインドで誅法を上手に修めていた人がいた。求められたら、修めてあげたし、修法もよくできていた。しかし、それらの修法者の末路は皆よくなかった。軽い者はたくさんの病気に罹り、ひどい者は寿命が短くなった。直貢チェツァン法王は何度も、リンチェンドルジェ・リンポチェを訓戒した。誅法の修行は人々の利益のためではないし、修行の時も瞋恚心があってはならない。

『地蔵経』の言うように、衆生は頑固かつ独断であり、大変調伏しにくい。息法、懐法、増法を使っても調伏できないから、最後は誅法を用いるしかない。誅法を誤解してテレビで堂々と話す人がいる。自分はどの法を使うかをどのように決める、または法律違反になるかどうかを考えるなどを話すが、余計な話だ。誅法は人殺しのものではない。もし、そうであれば、仏法の必要性はなくなる。ほかの宗教にも殺人の方法があるからだ。皆はゴンタウという呪術を聞いたことがあると思うが、本当に存在している。リンチェンドルジェ・リンポチェは子供の頃に見たことがある。だから、人を害したり、殺したりすることに、仏法を使う必要はない。

仏法の誅というのは、殺すという簡単な意味ではない。修法者に慈悲の力がなければ、修法しても相応しない。まして、修法者は誅法を修めたければ、済度する能力を有さなければならない。衆生の済度を助けられなければ、誅法の修法は無駄になり、ただ口で唱えることになる。誅法の修法ができるのがすごいこと、鬼神も怖がるようになるし、誅法を修めれば、どんなことでも解決できると思う人がいるが、本当にこの通りなら、チベットは何も起きないはずだったし、戦争も、海外に亡命するチベット人もいないはずだった。誅法で彼らを全部殺すこともできたのではないか。チベットには数多くのラマとリンポチェがいるので、毎日念仏すればよいだろうが、だから、誅法は決してそのような概念ではない。

金剛乗を誤解する人が多いから、金剛乗についてよくない言い方がされる。物事を話す時は適当な言葉を使ったほうが衆生を迷信に導くことにならない。また、法律が誅法の修法を禁じているかどうかをはっきりしたいと言う人もいるが、こんな解釈は正しくない。誅法を修めたい行者本人は息、懐、増を成就があるまでに修めなければ、誅法の修行はできないのだ。誅法を修める行者は閉関の時、大印契の離戯瑜伽が証得できなければ、つまり禅宗の説明では空性の証得ができなければ、閉関の時に誅法を修めて肝潰しになることもあるそうだ。というのは、本尊が来る時の状況があなたたちの想像とは違うからだ。

行者は、本尊と相応できるまでに修めなければ、この法で衆生を利益することができない。だから、閉関の時、心が清浄にならず、福報も功徳も足りなければ、誅法を修めたくてもできないのだ。本来、リンチェンドルジェ・リンポチェは、しばらくしてからプルパ金剛の灌頂を授与しようと考えていたが、あまりにも容易に修められる本尊ではないため、教派の中ではプルパ金剛を修める人は少ない。プルパ金剛の寂静尊は金剛薩埵であり、金剛薩埵百字明咒を閉関中において100万回以上も唱えなければ、プルパ金剛には全く相手にされないのだ。

プルパ金剛法会に参加できたら、大変すごくなると思う人が多いが、そんなことはない。修行の障害を消去してくれるだけだ。法会に参加しても、自分が病気の回復を求めたい、開悟したい、将来は奇抜になりたいなどのためなら、この法は全く役立ちにならない。しかも、後遺症が顕れることもある。法会の前に話を語った弟子が引いたおみくじの内容のように、ふてぶてしく仏菩薩に頼ってはならない。あなたたちは誰でもそうしているが、上師がいなければ、仏法はあり得ないだろう。上師の教えを聞かず、自分の方法をやり通そうとしている。婆羅門女のような善女人に対しても、仏は家に帰って仏号を思い続けなさいと要求した。つまり、自分自身の修行をちゃんと行い、教えを聞かなければならないことだ。

一流派を作ってはならない。いくら有名になっても、経典を逸れれば、何もかも間違いだ。経典に出ておらず、そして一流派を作る人が現れれば、間違いだ。誰であろうかを問わず、間違いだ。行者はちょっとした境界に達するまでに修行できれば、往生の時にガンがあっても苦しまない。リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさん見てきた。最初にリンチェンドルジェ・リンポチェに施身法を教えてくれた雲南の年寄りのラマ僧は、胃ガンで往生したが、往生の時は座禅で入定状態だった。ベッドの中で喚くこともなく、一杯の点滴を打ってもらうこともなかった。何の苦しみもなかったのだ。このことは古代や現代の発展状況に関係なく、個人の修行に関係している。一生において衆生に悪いことをしたかどうかに関係している。衆生に悪いことをしたほかに、一杯の供養をもらっていたら、きっとその借りを返さなければならない。これも、皈依していない信衆の供養を受け取らないリンチェンドルジェ・リンポチェの理由だ。

あなたたちは誅法の意義を理解しなければならない。法会に参加したら、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちの冤親債主を全部消してあげると思わないでほしい。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らを消すことはしない。ただ彼らの頑強で揺るぎのない貪瞋痴を壊すだけだ。彼らの貪瞋痴を壊して清浄な心を表せれば、あなたたちが唱えるものが、彼らは受け入れられるし、許してあげられる。あなたたちは、ごく簡単なことだ、梁皇宝懺の参拝でもすれば、何事も起きないと思っているだろうが、ここにいるあなたたち全員は、リンチェンドルジェ・リンポチェ以上の参拝をすることがないはずだ。今後もまたたくさんのことが起きるだろうが、それは生生世世において為した悪業の結果だから、ちょっとでも参拝すれば、何もかもを解決したいと思うのが甘い。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェは皆のために、プルパ金剛を修める。末法時代になった今、特にここ2、3年に災害がたくさん起きたし、ちょっとしたことで悪い状況が起きたので、プルパ金剛を修める。自然災害であなたたちが危険にさらされないよう、修行を続けさせる。もちろん、今すぐ成就できるわけではない。密宗の心続では、プルパ金剛は金剛手菩薩で、四続では事業続での摧破金剛だ。四続の意味は、息、懐、増、誅の四つの密法のことだが、旧続ではプルパ金剛になる。

プルパ金剛は、金剛薩埵の忿怒尊であり、阿弥陀仏、大勢至菩薩、文殊菩薩、金剛手菩薩と大威徳金剛の『意志』の代表でもある。そのため、今日プルパ金剛を修めたら、ほかの金剛部にも通じられる。プルパ金剛が意志の代表だからだ。これらの菩薩の意志はなんだろうか。衆生の成仏を助けてあげる意志だ。プルパ金剛は、決してむやみに殺すことをしない。衆生の頑強な執着心を壊してくれる。蓮花生大士はかつてネパールの山の洞窟で修行した時、あらゆる阻害に対してプルパ金剛で消去して大いに円満な成就が得られた。

金剛部の行者は無常瑜伽部までに修行した時、必ず金剛部と護法に加護を必要とする。2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェは、標高4500メーターの雪山で閉関した時、アキの外部護法が毎日山谷を見回っていたのを見た。以前に、尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェにその護法のことを教えなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関を終えた後、ミラレバ尊者の閉関したことのある所に行った。そこにあった小さいお寺で直貢チェツァン法王は供養法を修めた。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェはそばに座っていた。傍らにタンカの掛け軸があり、リンチェンドルジェ・リンポチェは振り向いて見たら、毎日見回っていた護法だったと気づいた。

そして、リンチェンドルジェ・リンポチェの閉関が1ヶ月経った後も、プルパ金剛が現れた。このような金剛部の本尊に加護してもらう必要がある理由はなんだろうか。釈迦牟尼仏が成仏する時も、成仏させないように魔女が妨げに来た。何故なら、成仏できたら、魔の人民も子孫もたくさん減るからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分が成功できるとはあえて言わないが、閉関が成功できたら、少なくとも助けを必要とする一部の衆生に役立つから、魔は必ず機会を見て阻害しに来る。因果で言えば、修行者は過去世の貪瞋痴を清浄に消去できなかったから、今世は阻害される。一方、妨害を受けることなく成仏できた仏もいる。不動仏、阿弥陀仏はその一例だが、釈迦牟尼仏は邪魔されたことがある。

私たちは地球に生まれ、釈迦牟尼仏の仏法を学ぶ。というのは、私たちは釈迦牟尼仏と同様の業力を持っていることだ。そのため、私たちの修行にも、自分と外部のことを含むいろんな障害がある。だから、自分は大したものだ、或は座禅する時は大変落ち着くなどを思ってはならない。釈迦牟尼仏より偉いことはあり得ないのだ。この数千年以来、成仏できた修行者は一人もいなかった。だから、あなたたちは単に座禅で何もかもを解決したいと思う資格がない。釈迦牟尼仏でさえ成仏の際は魔女に邪魔されたのだ。今の言った考え方は貢高我慢だ。これは『宝積経』の話だ。

プルパ金剛は意志を代表している。しかも極めて重要な保護本尊であるため、プルパ剛はあらゆる仏事業の本体でもある。ここの事業は商売のことではない。仏の全ての行動は、衆生の生死解脱を助けるためのものであるため、プルパ金剛は、仏がやろうとする全てのことの本質であり、その願力は仏と同じく、衆生の生死解脱を助けることだ。プルパ金剛の修行者は皆、吉祥、具徳、長寿、眷属円満、政教発展、威力無限、始終円満になれると、蓮師はかつてこう開示した。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェはプルパ金剛の法門を修めているから、少々の吉祥、具徳、長寿、富があっても自然なことだ。

理由は何だろうか。行者がプルパ金剛を修める時、過去世のいろんな借りは直ちに返されることになる。何れの法門の修行も福報の累積ができるが、福報は今世においてすぐ使えるのもあるし、来世になれば使えるものもある。それに対して、プルパ金剛を修める福報は、今世にすぐ使える。但し、享受のために使うのでなく、恭敬心を生じさせて仏法に馴染めるように衆生を助けてあげるために使うのだ。今の社会は実質的なものを重視している。お金がないのも、お金があるのも、何れも辛い。修行者はあまりにも貧乏だったら、誰にも相手にされない。しかし、あまりお金があったら、今度はお金をかき集めると言われる。困るのではないか。末法時代は憐れみの時代だ。行者の修行の兆しだと分からず、批判する人が大変多い。

眷属円満の意味は、リンチェンドルジェ・リンポチェは知らないうちにこれほど大きい道場を持ったようなことだ。政教発展は、政治に関わっているリンポチェのことを言っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは政治に関わらないが、リンチェンドルジェ・リンポチェの意見がほしいと、多少は思われるけど。威力無限は、行者が偉いという意味ではなく、意念が生じれば、利益衆生の威力は実践できる意味だ。始終円満は、行者は仏果が得られるまでにこれらの条件をずっと備え続け、減ることはないという意味だ。

あなたたちがこの法門を学びたければ、できないことはないが、かなり大変だと覚悟する必要がある。何が大変だろうか。つまり、死ぬ覚悟を持つ人でなければ、修められないのだ。それらのものは世間法の兆候に過ぎない。言い換えれば、副産物、副作用のことだ。植物を植えることに例えれば、花がきれいに咲くことができたら、もちろん葉っぱが醜いことはない。果実が甘かったら、それまでに咲いた花もきっときれいだった。これは一種の因縁だが、ポイントではない。だから、あなたたちは今日の開示を聞いてなるほど、だったらプルパ金剛を専ら修めればよいと思ってはならない。

以前、プルパ金剛を学んでいた頃、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのようになるとは思いもしなかった。触れられたことは確かだったが、わざと覚えようともしなかった。しかし、自然にこのようになった。プルパ金剛には法本がたくさんある。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが修めるのは、尊勝なる直貢チェツァン法王が台湾に来られた時に、リンチェンドルジェ・リンポチェが灌頂を受けた後、閉関に行った時修めた法本だ。

今日、修める法本は『普巴金剛秘密無上了義如意宝灌頂』と称されている。了義とは、法本の意義は世間のことのためでなく、出世、つまり生死の解脱、空性の会得のためだという意味だ。この法本は伏蔵大師が見つけたものだ。以前、蓮師がチベットを離れた時、重要な本尊の法本をたくさん隠した。法本を探し出す必要のある法門を専念に修めるリンポチェもいる。しかし、今の四大教派は何れも伏蔵大師が現れていない。これは、衆生には十分な福報がないということだ。

今日の修法の法本は、伏蔵大師ネナリンバ(Ratna Lingpa)が取り出した岩伝大法であり、直貢噶舉派の第二十九任の直貢チェジジャツェン(Chokyi Gyaltsen)法王によって整理されたものだ。プルパ金剛は、金剛乗の行者のために、あらゆる障害を取り除くことを発願した本尊だ。もし、あなたたちは金剛乗を学びたい心の用意も、学びたい心構えもなく、しかもその素質もなかったら、今日の法会に参加したことは単に結縁になり、仏法学習の障害を全て消すことにはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身の例をあげよう。金剛乗を学びたいと決めると、リンチェンドルジェ・リンポチェは直ちに離婚した。商売が失敗になり、食事のためのお金もなかったうえで、ガンにも罹った。このような勇気があるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェについてきてよいが、勇気がなければ、金剛乗を学ばなくてよい。

法会に参加してあなたたちの心が求めたいことは、今日の本尊と全く関係しない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこうして修行してきた。金剛乗を学び、尊勝なる直貢チェツァン法王に皈依することを発願すると、すぐ離婚し、商売にも失敗し、お金がなくて食事もできず、しかも、ガンになった。何れも早く発生して数年内に全部顕れたが、全部解決できた。解決の意味は、累世の借りを解決することだ。それらのことが起きてリンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ借りを返すことができた。あなたたちは借りを返そうとしないし、返すのも恐れている。こんな都合のいいことはあり得ないだろう。後のことを順調にするためには、以前のことをきちんと処理しなければならないのだ。

似たような医療法は、漢方医学にも西洋医学にもある。病気の時は症状が現れないのは体によくないと考えられているため、わざと発病させるのだ。風の治療に関し、西洋医学は症状を抑えて起こさせないようにするが、一方、漢方医学は風の症状を起こさせる。両者の考えは異なる。だから、累世のことが現れるのを嫌うなら、寶吉祥仏法センターに来ないでほしい。寶吉祥仏法センターは金剛乗だから、あなたたちがここに来たら、きっと叱られる。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェの修法は障害の除去、金剛乗への加入のためだ。意味は、あなたたちはまだ加入していないことだ。四加行を学べば、金剛乗の修行は始まったと勘違いしないでほしい。始まっていないのだ。金剛乗の修行は、あなたが欲しければ、応じてあげることがない。あなたたちのいろんな行為を見る必要がある。リンチェンドルジェ・リンポチェはガンに罹った時、怖いなんて喚くことは一度もなかった。以前病院の内科、感染症科で勤務していた医者の弟子によると、その時リンチェンドルジェ・リンポチェの顔に成長した黒点があり、彼はメラノーマだと推測したそうだ。メラノーマは大変ひどい皮膚の悪性腫瘍で、脳、内蔵、胃腸などのいろんなところに転移する可能性があり、内蔵ガンよりも悪性のものだ。その弟子の推測だったから、間違いはないはずだった。その時、その弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェに治療、切除などの西洋医学の医療を受けるように願ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは聞かなかった。」

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。「その医者の弟子の要求を聞かなかった理由は、リンチェンドルジェ・リンポチェはこう考えた。金剛乗の行者になると決めた以上、こんなことで怖くなってはいけない、痛いのを恐れてはいけない。痛みを感じることも自業自得だ。それまでにたくさんの肉食をしてきたから、返さなければ、済まないことだ。拝懺すれば、返せることではないからだ。あなたたちは梁皇宝懺の礼拝をしても、リンチェンドルジェ・リンポチェほどの礼拝したわけではない。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェは初日から、毎日礼拝していた。人が休んでいても、リンチェンドルジェ・リンポチェは礼仏し続けていた。あなたたちにはできるだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェはお香に火をつける瞬間から礼拝を始めたのだ。お昼を済ませた後も夜休むまでに拝み続けていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分は深い業障があることを知ったからだ。あなたたちのことなら、自分の業障は浅いと思い込んでいるだろうが。

障礙とは、私たちの今生の修行を妨げることだ。私たちを阻害し、機嫌、健康を悪くし、恋を失敗させるようなことではない。そもそも失敗することなら、早く失敗させてくれたほうが、相手の本音が見えるようになるのだ。だから、何れの本尊を修める時でも、プルパ金剛を護法として修めることができたら、どんな挫折も受けず、一切の魔王、鬼魅を降参させることができ、特別な法力が持てる。大変殊勝な法力だ。

自分の子供は業障が深いと言う人がいるが、誰が生んだのだろうか。その人自身ではないか。その業がなければ、そんな子を産むこともなかっただろう。両親は業障が深いと言う人もいる。両親が生んだのではないか。縁がなければ、その両親に生まれることもなかっただろう。除去の意味は、あなたを続けて阻害させないことだ。しかし、いつになれば、阻害しなくなるかは、仏菩薩と上師に対するあなたの信念の程度、つまり思い続けられるか、修行しているかにもよる。何もなければ、除去することはあるはずがない。

業障と果報の除去とは異なることだ。果報は除去できないものだ。拝懺でもすれば、ガンは治るなどと勘違いしないでほしい。拝懺法には病気の治療とか、体の健康とかに関する話がなかった。業障を取り除くことだけが書かれていた。しかし、あなたたちは業障を消すことを理解していない。病気を治してくれることだと常に思っている。本当にそうなら、記述があったはずだ。病気の苦しみを軽減できたら、法本にはそう書かれたはずだ。施身法の法本では言及されたが。今年初めの頃に、リンチェンドルジェ・リンポチェは具合が悪かったが、早く回復出来たのは施身法のお蔭だった。法本の内容はそれぞれだが、この法本には、累世の業障を消すことが書かれているので、累世の悪業があっても、この法会に参加できたら、きっと役立つ。

プルパ金剛を修める時は、必ず離戲瑜伽を用いなければならない。大印契には四つの段階に分かれ、更にそれぞれに三つの次第に分かれる。一つ目は専一瑜伽、二つ目は離戲瑜伽だ。経典を読んだことがあるなら、離戲の意味を知っているはずだ。即ち、一切の表象を離れ、我々の清浄な本性に影響を与える全てのことから離れることだ。離戲瑜伽の段階に達せず、空性の会得ができず、またはひどい執着心を持っていれば、修行者はこの法を修めても無駄だ。何故なら、修法者に執着心があった時、誅法を修めると、『この人は悪いから、退治しなければならない』という考えが自然に生じる。そのため、離戲瑜伽の証得ができていない人は、プルパ金剛を修めてはいけない。」

その後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、プルパ金剛の法門を修め始めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは入定して修法した。本尊と完全に相応した忿怒金剛の相を何度も現した。慈悲なる力で衆生の貪瞋痴を消し、仏法の助けが受けられ、病気と災難から遠ざかるよう、清浄な本性を現させた。しかも、参加者たちの累世の業障を取り払い、仏法修行のあらゆる阻害を取り除いてくれた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、プルパ金剛の法門を修持し始め、本尊の真言を持誦した時に、猛烈な勢いを見せた。顔も眉も引き上がり、眼球は突出し、口は大きく開き、頭は揺れていたうえで、顔も少々正方形に変わり、胸が膨らんだ。普巴金剛の忿怒尊と同様になり、本尊と相応した殊勝な兆候を表した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは口を大きく開け、うなり声を出した。口は動かなかったが、はっきりとした、低くて波のような綿密な声で金剛誦を唱えた。持咒の声が大きくなるにつれてリンチェンドルジェ・リンポチェの表情も次第に柔らかくになった。しばらく持咒をしたら、顔はまた素早くプルパ金剛の忿怒相に変わった。修法、持咒の過程において、リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も、極めて低くて雷のような怒鳴り声を出した。尊身と腕が少々回り、その瞬間にプルパ金剛のごく殊勝な法相に転じた。首をひねて非常に威厳の目で衆生を見つめ、広大な菩提心で六道の衆生を加持、加護した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法の時、入定して本尊の真言を15分間も念誦し続けた。持咒の時は、両眼が大きく開き、瞬きもせず、完全に禅定と観想の境界に入った。本尊と完全に相応して一つになった。大変不思議な様子が、決して平凡な人間が表せるものではなかった。

現場で法会に参加した大勢の弟子は皆、地動を感じて一連の雷の音が聞こえた。一部の弟子は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが青い顔を見せ、尖る金剛の歯を表し、目も赤くなったのを見た。そして、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが尊身の裏から輝く金色で円状の光を放ち、金色の光に包まれ続けたのを見た弟子もいた。

子供を含めて現場には1000人以上の参加者もいたが、リンチェンドルジェ・リンポチェの修法中、全員が専念して法会に参加した。移動する人は一人もいなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの強力な摂受力を表した。リンチェンドルジェ・リンポチェは修法の時、自分の名前と守りたい人の名前を三回呼んでよいと、慈悲を込めて現場の参加者に開示した。そして、五色旗で参加者を加持した。その後は、薈供儀軌を行い、参加者に貴重な寿球と寿酒を与えた。参加者全員は、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持した供え物をもらったと共に、法会で仏菩薩と共に飲食する有り難い殊勝な因縁が得られた。

続きに、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法本の注記を用いて開示した。「この法は、以前口伝されていたため、中断したことがある。それで、空行母が書いた法本が取り出された。全体の儀軌は完全でないので、事業の目次しかない。廻遮勾召とその他の法に関しては、後からのその他の法本で補われた。補われた後、夢の中で見た兆候は全部よいものだった。

今日、あなたたちのために修めたのは事業の部分だけだ。廻遮、勾召、真言までに続けようとしたら、別の法本になるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは簡単にそれを皆のために修めることはしない。あなたたちはそれらの法を受ける資格がないからだ。大修行者に最後に障害が顕れ、今生において大成就をさせないことでなければ、それらの法を修めることはない。一部の衆生のこと、病気や家運が悪くなったという理由で修めることはない。

あなたたちはこの法を聞きにくる必要がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなたたちのためにこの法を修めることはない。釈迦牟尼仏が成仏の時に魔女に邪魔され、魔女を降参させたための法本だからだ。あなたたちは、魔女を降参させるために、釈迦牟尼仏はどの法を使ったかを知っているか。顕教の経典にはないが、続部には出ている。もし、釈迦牟尼仏は単に入定で魔を降参させられたとしたら、仏は長く入定したのに、何故魔女が現れたのだろうか。そのはずがないのではないか。一体、どの法で降参させたのか。実際に用いられたのが金剛部の中の本尊だった。

誅法を求めたい人が多いが、実際に、法本の後段に最も大事な内容がある。誅法の修法は一般の人のためでなく、瑜伽行者のためだ。つまり、無上瑜伽部までに修行できた行者が、その一生において虹光身、拙火定までに修行したければ、この誅法を修めることだ。あなたたちの場合はその必要がない。ポワ法や施身法で十分だから、複雑に考えなくてよい。何故だろう。虹光身、拙火定までに修行できれば、早く戻ってくる菩薩になる。そのため、累世の障害を今世において取り除かなければならない。

ガンに罹ったのは大したことではない。信念があれば、何でも転化できる。しかし、信念がなければ、いくら修法しても無駄だ。そのため、ある法本は自身の修行用のもの、もう一つは簡軌だ。法本はたくさんあるが、あなたたちには話していない。話しても役立たないからだ。あなたたちは修行できない。簡軌は、大法本の修行を終えた後、毎日閉関して修めるためのものだ。終えたら、戻ってもう一度大法本を修める。言い換えれば、本尊の相応が得られず、修得できなければ、衆生を利益するのは決して無理だ。

お経を唱えて特定の相手に回向すればよいと思う人が多いが、自分自身に慈悲心と菩提心があるかどうか、執着心が減ったかを自問する必要がある。答えが否定だったら、衆生を助けることはできないだろう。しかし、台湾では他人の先生になりたがる風潮がある。ちょっとでも念誦すれば、大したもんだと思い、息子の試験が順調になるように回向する。あれやこれのことに回向する。あなたたちは浄土に回向することでもたりない。あなたたちは回向させない意味ではない。回向は必要だが、世間のことのためにするのではない。仏弟子は回向する必要があるが、世間のことのためにしてはならない。世間のことは人それぞれの因縁だ。因縁は生滅のものだし、きっと消える。

あなたたちに注意した、リンチェンドルジェ・リンポチェの理由は、あなたたちの出世法の修行がちょっとした境界に達せたら、世間法は問題にならないからだ。出世法までに修行できれば、執着心も軽くなり、世間のことに対する執着も減るからだ。執着心が減ると、苦痛も煩悩も自然に軽減する。その時、あなたたちは、自分の命は業力の顕れに過ぎず、何もかもが因果と因縁に過ぎないことが理解できる。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェは皆のためにプルパ金剛を修法したが、あなたたちの生活を安らかにするためではない。今後金剛乗の修行に生じる障礙を取り除くためだ。障害の様相はたくさんある。誰かに急に愛される、急に結婚したくなるなど、これらのことも障礙かもしれない。仏経も、リンチェンドルジェ・リンポチェも結婚してはいけないと言わない。しかし、仏法を学んだ以上、結婚条件は厳しくなるはずだ。相手は菜食したくないなら、結婚してあげることもないだろう。自分は将来相手を影響できると思っても、そうはいかないのだ。関係を持つ前に相手を影響できなかったら、関係を持った後は更に難しいのだ。それでも、自分の欲望で自分を騙したいと言うのか。

ほかの宗教は結婚相手に厳しいが、何故仏法の学習はそうならないのか。簡単に言えば、決意がないのだ。決意があれば、善の因縁は顕れる。求める必要もない。出家に比べて在家の修行のほうが悩みがずっと多い。しかし、悩みを抱えているからといって、修得できないことはない。悩みがあるからこそ、修行できるのだ。悩みがなかったら、自分の苦も分からないだろう。失恋も、恋も悩みだ。失恋も、失業も、破産も必ずしもよくないことではないし、お金持ちになるのも必ずよいことではない。ちょっとお金があっても、ベッドに横になる時は拳銃で撃たれる可能性もある。自分には無関係なことであっても、拳銃で撃たれる可能性がある。これは金持ちになる悪いところだ。

お金がある時は悪いこともあるし、お金がない時でも悪いことはある。とにかく、何故仏法を学ぶ必要があるか。最低な要求は、今生三悪道に堕ちないように願うことだ。よりよい要求は、西方極楽世界に生まれるのを願うことだ。更によい要求は、今生において自分の肉身は生死から解脱できるように願うことだ。これらのことはきっと実現できる。あなたのことでも私のことでもないが、きっと実現できるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の目で見たことがある。

仏法学習は決して迷信ではない。将来の人生を変えることだ。やる気があれば、気を落とせず、諦めず、世間のことで誘惑されて変わらなければ、きっといつかは自分の成果が見えてくる。『地蔵経』にも、婆羅門女は仏が現れるまでに求めたが、それでも、仏は母親の生まれ場所を教えてあげず、家に帰って修め続けることを要求した。縁がなければ、助けたくてもできなかったからだ。だから、あなたたちは、上師の教えた仏法で自分を改めなければならない。こうして、縁は生じる。さもなければ、縁は生じない。縁がなければ、何を言っても無駄だし、修法しても役立たない。

いろんな方便法があるが、何れもしばらくあなたたちの阻害を阻む、或は取り除くように助けるものに過ぎない。大事なのはあなたたちの決意だ。覚華定自在王如来は婆羅門女に家に帰ってよく考えなさいと教えた話だが、もし、婆羅門女は家に帰って1時間や2時間の念誦だけで疲れたと文句を言ったら、望んだ結果はあり得なかっただろう。あなたたちは常に仏菩薩に願い求めているが、一体どれくらいの時間をかけただろうか。仏経の教えをよく読みなさい。リンチェンドルジェ・リンポチェの行動を見なさい。そして、あなたたち自身の行為を反省しなさい。皆はただリンチェンドルジェ・リンポチェと仏菩薩に苦労をかけてばかりではないか。

法会の前に話を語った弟子が引いたおみくじの内容のように、ふてぶてしく仏菩薩に頼ってはならず、仏菩薩は助けてくれると思ってはならない。あなたたちは仏菩薩が助けてあげなければならない身分でもあるのか。あなたたちは輪廻の苦海にいる。仏菩薩が助けてあげたいのは、あなたたちに輪廻から離れさせることだ。世間の苦しみから離れさせることではない。それらの苦しみはあなたたちの自業自得だ。あなたたちは決意のある修行者にならなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェのように、ガンに罹っても、そのうち、仏菩薩は全治させてくれた。何故なら、リンチェンドルジェ・リンポチェは決意して何も怖くなかったからだ。それに対し、あなたたちは怖いことが多すぎて他人に言われるのも恐れている。何故だ。別に悪いことをするわけでもないのに、仏菩薩は、悪いことをするようと教えたことがないはずだ。

また、修行して変になった人もいる。仏法の学習は変にならせるはずがない。継続すべきでない生活方法を変えさせてあげるはずだ。例えば、飲酒、肉食、夜は帰宅しないなどのことだ。これらは為すべきでないことだし、普通の人間は毎日これらのことをすべきではない。仏法はあなたを変人に変えるはずがない。変人を遠ざかるようにしてくれるはずだ。私たちも、彼らもそれぞれの観点で物事を見ているから、私たちは変人だと思われるようになるが、しかし、仏法の観点から彼らを見ると、彼らは三悪道に堕ちる可能性のある変人になる。私たちは口で他人を呪ってはならない。心に定見があれば、どうすべきかを知っていれば、行動に移ったらよい。地獄行きの用意でもしなさいと、常に口にしてはいけない。主に恭敬しなければ、地獄に堕ちると常に主張するような宗教を学ばない。

仏法の学習は自在で大変良いことだ。結果を聞く必要もない。体が丈夫でなくても納得すべきだ。死なせないだけで満足すべきだ。体が大変悪くなった以上、以前のように元気に回復するのは無理だ。その貧弱な体で仏法の学習に来れるようにさせただけで、感謝すべきだ。貪ってはならない。例えば、腎臓の移植を受けた。あなたの腎臓ではないから、完治は無理だ。臓器移植をすれば、病気は治ると思う人が多いが、同じ遺伝子であってもそもそもあなたのものではなかったし、業力も違うのだ。だから、あなたたちは健康のことで仏菩薩に願う必要がない。修行して福報を得れば、健康は改善する。聞くまでもないことだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、漢方医学の観点では、体のためなら、症状を起こさせるのと、抑えるのと、どちらがよいかと、漢方の医者である弟子に聞いたことがある。その答えは、漢方医学の観点では、病邪を完全に外に出したいのだ。その過程において正気を回復させるから、漢方医学は邪気を外に出すことを重要視している。」

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。「漢方医学でもこのような方法を採用している。仏法もそうだが、抑えずにあなたたちの悪いところを外に出したいのだ。さもなければ、地獄に堕ちることになる。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちのためにプルパ金剛を修めたが、プルパ金剛は怖そうだから、先ほどリンチェンドルジェ・リンポチェは忿怒の相が顕れて怖そうだったから、あなたたちを見たら、妖怪も逃げると思ってはいけない。

仏法の概念はごく簡単だ。悪いものをさらけ出し、法性を浄めれば、法体は回復する。法体が現れれば、肉体も自然に伴ってよくなる。病気の症状が残っても他人よりはましだ。あなたたちは病院の集中治療室に行ったことがないかもしれないが、その恐ろしさを見たこともないだろうが、ちょっとしたことで喚いたりするのはおおげさだ。お風呂に入って肌が乾燥、かゆくなったことで、リンチェンドルジェ・リンポチェに聞きに来る人までいた。いくら話しても、あなたたちは聞かない。誰も聞き入れない。

皆はきちんと教えを聞きなさい。リンチェンドルジェ・リンポチェは年だし、あと数ヶ月で69歳になる。あなたたちに苦労ばかりかけられてはいられない。リンチェンドルジェ・リンポチェも自身の修行がある。どうしても教えを聞き入れないなら、あなたたちを放っておくしかない。やり甲斐がないからだ。今まで、リンチェンドルジェ・リンポチェはどれくらい話してきた。それでも、あなたたちは聞かない。婆羅門女のような修行できた人に対しても、仏は、家に帰って仏号を唱えて考え続けなさいと言ったのに、あなたたちはどんな立場があると思うのか。お香も、お花も供えず、何もやらないのに、何もかも仏菩薩とリンチェンドルジェ・リンポチェに投げ込んで応じてもらいたい。

法会の前に話を語った弟子が引いたおみくじは、ずうずうしくいてはならないと言ったが。意味は、仏菩薩はあなたたちのような教えを聞かない人を助けるのでなく、一番苦しんでおり、地獄に堕ちた人を助けようとすることだ。『妙法蓮華経』の話だが、せっかく菩薩はあなたたちをここから救い出したのに、あなたたちはすぐでも自ら入って行った。あなたたちは毎日このように繰り返している。ちゃんと教えを聞きなさい。仏菩薩の言った話は全部真実だ。何れの文字も修行の概念だ。決して物語ではない。仏は婆羅門女のことを言ったから、自分には関係ない、自分は婆羅門女と違うと思ってはならない。どこが違うのか。衆生のことだったら、皆同じだ。自分だけが偉いでも思っているのか。父親から土地の遺産をもらったからといって、他人よりは偉いと思ってはならない。ちっとも偉くないのだ。一番大したことは因果だ。自分に因果が顕れる時、自分の間違いに気づいては遅いのだ。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いて回向の儀軌を修め、法会は円満に終了した。弟子たちは、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法と開示に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを恭しく見送った。

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2015 年 11 月 29 日 更新