尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年8月16日

法会が始まる前に、ある女性弟子は、ご主人、息子さんと娘さんの付き添いで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに自分の家族を助けてもらったことを語る機会が与えられたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝し、並びに懺悔を発露した。

「以前の私は、人間は必ず大自然に勝てると信じ、できないことはないと思っていた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに出会ってから、やっと自分を変えることができた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいなかったら、私たちの家庭は維持できなかっただろう。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいなかったら、私たちは菜食、学仏をすることもなかっただろう。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいなかったら、私たちの家庭はきっと崩壊し、私と主人は娘を失くした悔しい日々を送っていただろう。

ちょうど人生もキャリアも順調だと思っていた頃、3ヶ月になった娘は保母の家で窒息死になった。自分のせいで娘を死なせたと、私は自責した。娘を生んだにもかかわらず、世話もせず、職場に戻りたいことばかり思い、娘の世話責任をすべて保母に押し付けた。夜中に娘の世話でもしてゆっくりと寝れなかったら、翌日仕事をする元気が出ないのを心配したので、娘を保母に預けて24時間の世話をしてもらい、週末の時だけ家に連れ帰って面倒を見ていた。2010年12月21日、娘が死んだ日はちょうど生まれて3ヶ月になった日だった。娘が3ヶ月になったら、家に連れて帰って夜は自分で世話することを、主人と計画していたが、何もかも間に合わないことになった。

娘が死んてから、自分は毎日目が覚めたら泣き続け、食事もできなかった。ある日、妹は、友達は父親のことで某リンポチェに会見を求めたいから、主人と一緒に行かないかと誘ってくれた。そしたら、邱師兄の協力を通して自分は12月25日に道場に来て、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求めた。当日の夜10時頃に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるところ、まだ自分と主人の番になっていなかったので、会えないかと思ったら、突然尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは周りの師兄に、その青いジャケットを着ている男性を前に来させなさいと指示した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの言った男性は主人だった。そのため、自分も主人と一緒に前に出ることができた。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは要件を聞いてくれた。そして、主人は、3ヶ月になった娘が保母のミスで死んだことを話した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは娘の死亡日を聞いてすぐ持咒して娘の神識を守ってくれた。その後、振り向いて『あなたは疑いを抱いてここに来たから、あなたを見えなかった。』と、私を厳しく叱ってくれた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて主人に『あなたしか見えなかった。彼女は疑いを抱いているから、私は彼女を見えなかった。彼女は因果を信じない。』と言った。また、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『あなたの子供ではない。』と私に言った。その時私は泣くことしかできず、何も答えられなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『あなたの子供ではない。』と言葉を繰り返した。私は泣き続けて答えられなかった。そしたら、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『娘さんに感謝しなさい。娘さんでなかったら、あなたは私に会えるはずがなかった。子供の因縁はそれぞれ、長いのもあったら、短いのもある。すべて因果だ。対面して受け止めなければならない。あなたたちはまだ若い。』と言ってくれた。その時、自分は娘を失くした全部の痛みを晴らすように泣き続けた。そんな私を見て尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『あなたは加持が必要のようだ』と言い、赤い法器を取って私の頭頂に加持し、そして頭頂において持咒、加持してくれた。終えたら、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは父親のように『家に帰ったら、菜食しなさい。』と私たちに話した。しかも、私の目を見て『何日もご飯、睡眠がよくできていないあなたは、家に帰ったら、ゆっくりと休みなさい。後ろに行って法会の参加を登録しなさい。』と言ってくれた。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは私の心を見通していた。二列目に座って会見を待っていた時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは法座に座って大勢の信衆に開示した。それを聞いた同時に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが大声で叱ったのも聞こえたから、大変心配と不安を感じた。主人を呼んでくれたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝したい。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会える期待を失いかけていた私たちを接見してくれたし、殊勝な施身法法会にも参加させてくれた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが主人を呼んでくれなかったら、その日会場を出ると、二度と会見の登録をしなかっただろう。自分と主人の家庭は既に壊れたから、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに頼って仏法を学ぶはずもないはずだった。しかし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは加持してくれた瞬間、私の心をも開いてくれた。その日、家に帰った後、母に会見の経過とリンチェンドルジェ・リンポチェの開示、そして殊勝な施身法法会に参加できることを話した。母は喜んで『前は何も食べず、何も飲まなかったから、ずっと心配していた。今は話をしてくれただけでなく、眉も顰めなくなった。これで安心できる。そのリンポチェはきっと偉い方だ。リンポチェに感謝する。』と話した。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求めて3ヶ月を経過した後、私は妊娠したので、再び主人と一緒に会見を申し込んだ。娘を失くした痛みから脱出させたこと、及び短い時間でまた妊娠させたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を申した。そしたら、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲を込めて『私には関係ない。ご主人に感謝しなさい。妊娠させてあげたのはご主人だ。私には関係ない。』と笑いながら言ってくれた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で慈悲なる加持をしてくれたうえで、入定した。並びに、家の中で家具の設置と移動に注意すべきことを開示してくれた。それからは主人に洗濯物を干してもらい、自分は手を高く上げるのも、重たいものを運ぶのも一切しないことを言い含めてくれた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは更に、毎晩地藏経を1時間唱えて全ての母親と赤ん坊に回向するよう開示してくれた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲なる加持で当時まだ信衆だった私に大修行者の摂受力を実感させてくれた。本当に感謝している。

その日尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、妊娠中は手を高く上げない、重いものを運ばないことを特別に言ってくれたので、道場を離れた後、私と主人は大変不安になった。私たちは引っ越しの予定があった。引越作業で妊娠中の諸症状が影響されると心配したから、もう一度尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求めることにした。会見の日に主人は引越のことを説明した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは何故引越するかと聞いた。質問を2回も繰り返したうえで、ベッドを動かしてはいけないと指示してくれた。そして、私は、家のベッドは持って行かないと愚かなことを答えた。それを聞いて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは私をちらっと見た。『リンポチェは妊娠が影響されたらいけないと言っている。』と、そばにいた師兄は説明してくれた。私と主人は何も答えられなかったので、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『家に帰って引越の理由を考えなさい。』と指示してくれた。

帰り道で主人と車の中で大喧嘩した。家の買主と連絡したら、最初の約束時間通りに撤去しなければならなかったが、主人は引越の件でもう一度尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見に行きたくなかったことが原因だった。しかし、その時自分は確固とした口調で主人に『尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはこれほど開示してくれたから、私たちは従うべきだ。あなたが行きたくなかったら、一人で行く。』と話した。最後に、もう一度主人と一緒に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た。自分も主人も自身の心が間違っていたことを知っていた。心が間違っていたら、因果を受け止めなかったら、どこに引越しても同じだ。だからその場で跪くと、私たちは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに報告して自分の過ちを認めた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲で『引越は問題の解決にならない。仏法の学習が離苦得楽させる唯一の方法だ。奥さんは妊娠だから大礼拝をすることはできないが、ご主人のほうが2時間の大礼拝をして子供のためにちょっとでも福報を蓄積してあげなさい。』と開示してくれた。

主人は大礼拝を2時間し終えた後、立ち上がることもできなかった。ほかの師兄に支えてもらってやっと尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの前に跪くことができた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは引越の期日とベッド設置の時間を優しく教えてくれた同時に、その時間にベッドを設置するように念入りに指示してくれた。まして風邪をひかないように速くきれいな服を着替えなさいと主人に親切に話してくれた。ご自分の病気や疲労を全く気にせず、何時でも衆生の苦を思い遣り、命を惜しまないで一切の衆生を利益しようとしている厳しい先生であり、優しい父親でもある金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝する。慈悲を込めて加持してくれて、福報を速く蓄積できる機会を与えてくれることにも、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ感謝しなければならない。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を受け、2011年11月24日に息子が無事に生まれた。その後息子を連れて主人、母と一緒に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求めた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは息子を抱いて長く加持してくれたうで、名前を与えてくれた。そして振り向いて主人に菜食しているかと聞いた。主人はしばらく黙った後、時々同僚と一緒に出掛けた時は便宜な方法で菜食をしたと答えた。すると、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、それでは方便の仏法をあげようと言ってくれた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが再び叱りと開示をくれたことに感謝する。その回の会見後、私と主人は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの前では、私たちの心を隠ぺいすることはできないとはっきりと分かった。何をしたか、何を考えているか、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは全部知っている。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいなかったら、私と主人はこんなに速く普通の生活に戻れるはずがなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいなかったら、私と主人は娘を失くした痛みをプラスのエネルギーに変えることはできなかった。そのため、主人は本気に菜食をすると決心がついた。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは漢方診療所を運営している。そのお蔭で、息子は6ヶ月になった時尿路感染症に罹ったが、早く治ることができた。そのことに尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝する。その頃息子は採血と抗生剤の注射でさんざん痛い目を遭わせられたので、私は電話で師兄に似た経験があるかどうかと尋ねた。そしたら、抗生剤は体によくないので、抗生剤の注射を止め、漢方診療所に行って診察を受けたらいいと師兄に勧められた。その時、私はすぐ息子の退院手続をし、怖がらせられた息子を漢方診療所に連れて行った。脈を診てもらった時、息子は意外に静かだった、全然泣かなかった。家に帰って漢方薬を3日間飲んで全治できた。息子は入院の時いろんな処置をさせられたせいか、家で漢方薬を飲んだ時は大変おとなしかった。きちんと薬を飲んで反抗もしなかった。

人生に最初の漢方医療であるので、印象深い経験だった。西洋医学の医者に最低3日の入院、3日の抗生剤注射が必要だと言われたが、治療前から体を痛ませるいろんな処置がさせられた。それに対して、漢方医療の医者は脈を診ただけだ。副作用のない天然漢方薬を飲ませてくれただけで、入院もせず、採血もいらず、注射も受けなくて全治できた。息子はたくさん苦しませられなくて済んだ。以前病気の時は漢方医療を受けようと思ったことのない私は、漢方医療は体質の調理のためのものしか思わなかった。病気の時はいつも西洋医学の診察しか受けず、効果のすぐ顕れる薬だけがいいものだとずっと思っていた。今回の経験で、家族に何かの病気になった時は、全部漢方診療所に行くようになったし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの苦心もようやく分かった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの経営している事業は何れも一切衆生のためだ。病気になった人によい漢方薬、食事できるよい環境、上質の日本食品を買える場所を提供し、心配せずによい暮らしができるようにしてくれるためだ。今生にこのような慈悲で済世する活菩薩に出会えて私たちは大変幸せだ。衆生の一人も見捨てないことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝する。

息子が生まれた後、施身法法会に参加するのは殆ど挑戦になったと言ってもいい。施身法法会に参加した度に、息子は泣いたり喚いたりして落ち着かなかった。いくらなだめてあげても変わらなかった。それで、自分は大変緊張になり、施身法法会に参加するのを止めようまで思った。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが2回厳しく叱ってくれたことに感謝する。自分は雷に打たれたような衝撃を受け、問題は自分にあり、自分の心は恭敬ではないことをはっきりと理解させてくれた。いつも息子が泣くと、私は緊張になって慌てて席を外してトイレに隠れた。それで大丈夫だと思い込んだり、法会が早く終わるようと願う念頭が生じたりした。起心動念の全ては自分の気持ちのため、自分の見栄のためだった。苦しんでいる衆生は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの済度を必要としていることを全く思わなかった。幼い子供でさえ尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの叱りが分かって泣く、喚くのを止めたのに対し、私は自分の気持ちしか考えず、悪念が生じた。本当に恥ずかしいことをした。

息子は8ヶ月になった時ノロウイルスに感染して嘔吐、下痢の症状が出た。施身法法会に出かける前にたくさん吐き出したから、母は『こんなにひどいから、今回の法会はやめなさい。』と言った。その時、私は躊躇ったから、急いで師兄に電話し、息子の状況を話して施身法法会に参加するかどうかを相談した。そしたら、『病気だからこそ法会に参加すべきだ。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいるから、心配はいらない。』と師兄に言われた。その兄弟子は患者エリアに一緒に座って息子の世話を手伝ってくれると言ってくれた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる加持に感謝する。その日の法会の進行中、息子は全く嘔吐しなかったし、全く泣かなかった。大変穏やかに寝ていた。きっと尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持力のお蔭だ。そうでなければ、出かける前にたくさん吐き出した息子は何もなかったように施身法法会に参加できるはずがなかった。毎回の殊勝な法会に参加する心を固めてくれたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝する。

2012年11月、主人と一緒に息子を連れて来て尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの助けに感謝して皈依と毎週日曜日の合同修行法会の参加を求めた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは優しく応じてくれたうえで、主人の事業に対して貴重な開示をもくれた。皈依を求めて間もなく、私は再度妊娠したことに気付いた。2010年末に一番目の娘を失くした後、生まれ変わることができ、早くも息子と娘を持たせてくれたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに大変感謝している。私たちの家庭は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがくれたものだ。2013年6月2日に私たち夫婦と息子は正式に皈依した。その時1歳半になった息子は壇城に出て皈依文を読んだ時、大口を開けて爽快に笑った。まるで大変長く待っていた様子だった。皈依前の毎回施身法法会に参加した時の大泣きの様子とは全く違った。まるで別人みたいだった。皈依後、毎週の合同修行法会に出て息子は大泣きしなくなり、静かに着席して法会に参加できるようになった。これも尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる加持と大摂受力のお蔭で息子は完全に変わったと私には分かっている。

皈依後、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求めて母の代わりに供養したいと申した。しかし、その時は自分の供養と母の分の供養を分けたから、分別心があると、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに大声で叱られ、供養を受け取ってもらえなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの大いなる知恵と殊勝な教法で私は巨大な衝撃を受けた。自分はひどい分別心を持っていたと分からせてくれた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに供養する時までどれが誰のものかをも区別していた。何もかもを区別していた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも法座に座って開示していたが、私は何も聞き入れなかったし、何も実践しなかった。ただ自分の感覚に従って動いていた。自分の問題を指摘してくれたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝する。分別心のある人は慈悲心の修得ができない、慈悲心のない人は学仏できないと、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように開示したことがある。

娘を身籠って34週になった時、病院で妊娠中の超音波検査を受けて胎位異常が分かった。お医者さんに出産間近のため胎位を変える可能性は少ないと言われたので、帝王切開の出産日を予約した。帝王出産のリスクを心配したから、主人に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの会見を電話で申し込むように頼んだ。これは自分の貪欲だ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を求める貪欲だ、子供が無事に生まれることを求める貪欲だと自分にははっきりと分かっていた。そのため、師兄に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに何を求めたいかと聞かれた時、自分は恥ずかしくて答らえれなかった。

土曜日の日に道場で師兄はほかの数名の師兄のこと、及び尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの貴重な開示を話してくれた。その時、問題は自分の心にある、胎位異常の問題ではないことを知ったので、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの会見申込をキャンセルした。一番上の娘が往生した時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが開示してくれたことを私は聞き入れなかった。因果に対する深い信念がなく、未だに子供との因縁に執着を持っていたから、いざと何かが起きると、自分の貪欲の心は剥き出された。家に帰った後、自分は壇城の前で跪いて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに、自分の貪欲、上師の加持を貪ることを懺悔した。上師の教えを聞き入らず、実践せず、ただ加護を求めたくて上師の福報を消耗したことを懺悔した。また、壇城の前で諸仏菩薩と上師に、帝王切開の出産をしなければならないなら、自分は納得すると報告した。

こうして2週間が経った。36週目の検査の時に、胎位は正常だと医者に告げられた。病院で健康教育を担当する看護婦さんも奇妙なことだ、出産予定日の直前に胎位が正常になったのは稀だと言った。これは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持だと私は分かっていた。以前、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『仏法学習は簡単なことだ。つまり、教えを聞きいて戒律を守ることができたら、求めなくても、諸仏菩薩は面倒を見てくれる。』と開示したことがある。自分の心は全く変わらなかったことを知らせてくれて懺悔と改める機会をくれたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝する。

2013年12月1日に入院して娘の出産の準備をした。破水の時から陣痛室に入って10時間以上にもなったが、子宮口は指3本分しか開かず、状況は全く進まなかった。主治医は『4時に桃園で会議があるから、午後2時までに出産しなかったら、別の医者に代わってもらう。若しくは破水後24時間が経ても出産しなかったら、会議終了後、帝王切開手術をする。』と言った。それを聞いて自分はがっかりした。急いで主人に持って来た尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法照を出してもらった。そして、法照に向かって尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに当時の状況を報告し、午後2時までに出産させてくれるように願い、また、もし帝王切開手術を受けなければならないなら、自分は納得できることをも申した。およそ1時間半経って急に状況が速く変わり、子宮口はもともとの指3本分から7本分に開いたから、看護婦さんに分娩室に運んでもらった。そして30分ほど過ぎた後、娘は生まれた。主治医は『ちょうどいい時間に生まれたね。ちょっどでも遅かったら、桃園の会議に行ってしまうことになるんだ。』と笑いながら言ってくれた。その場、私は思わず涙が流れ、弱い声で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにありがとうを言った。これも尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のお蔭だと知っていた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいなかったら、こんなに順調になるはずはなかった。

娘が生まれた週の土曜日、主人、息子と母と一緒に娘を連れて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求めた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは娘を抱いて長く加持してくれたうえで、名前をもくれた。本当に感謝している。その時主人と私はあまりにも緊張したので、娘の皈依を求めることを忘れた。そのため、次の土曜日に、もう一度尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求め、娘の皈依と法会への参加をお願いした。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは優しく応じてくれたし、この1週間はよく食べれて寝れたかと聞いてくれた。ハイ、よく食べれたと答えたら、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『あなたのことではない。彼女のことを聞いている。』と娘を指して言った。私は慌てて『ハイ、娘はこの1週間よく食べてよく寝た。ありがとう。』と答えた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる加持があったから、娘の体重は生理的脱水が起きた時の2600グラムから、僅か1週間で3200グラムに増加した。私は心の中で驚嘆した。

娘は生まれてから顔と頭皮にひどい脂漏性皮膚炎に罹っていた。顔全体にひどい炎症とかぶれが起き、ひどい時は潰瘍と化膿もあった。1ヶ月になって病院で予防注射を受けた時、お医者さんは娘の皮膚の状況がひどいと言ってステロイド軟膏をくれたが、全く使わなかった。代わりに、毎週漢方診療所に連れて行って診察を受けさせ、漢方薬を飲ませてシソウオーターと緑色の軟膏を塗っていた。ほかの兄弟子たちも娘の皮膚の状況を心配してくれて経験と方法を教えてくれた。更に、娘を連れて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに行くことを勧めてくれた師兄もいたが、私は大変迷っていた。

そのまま娘が3ヶ月になっても皮膚の状況は全くよくならなかったので、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求める念頭が生じた。そうしたら、しばらく様子を見て見ようと、主人に言われた。こうして、私は家の壇城の前で娘の皮膚の症状を癒して皮膚炎が治るように、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに加持を願った。このように願うことは間違いだと分かっていた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは自身の皮膚ガンが治るように諸仏菩薩に願うことを決してせず、仏法学習を通して自然に治ったと以前開示したことがある。自分の心は間違っていたと分かり、娘の皮膚は何故治らないか、一体何時になったら治るか、または娘の皮膚炎が早く治ることを望むなどに執着してはいけない。この思いは間違いだと分かった。こうした質問したのは因果を深く信じず、衆生に対する慈悲心がなかったからだ。娘には返すべき借りがあり、徹底的に返せば、治るんだと分かった。すると、壇城の前で娘の皮膚の病気が速く治ることを求めなくなり、ただ毎週の法会の時娘を連れて行って供養するようにした。またも定期的に漢方医療の診察を受けさせて漢方薬を飲ませた。ある日、夜中に泣いていた娘の面倒を見た時、『仏法の学習は如何に自分の心を改めるかを学ぶことだ。』という尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの以前の開示を突然悟るようになった。その時は思わず涙が出て娘の皮膚病に感謝し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる加持に感謝した。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが甘露水をくれたことにも感謝する。その甘露水を毎日娘に飲ませ、その水で炎症、潰瘍があった娘の顔にパッティングをして拭いていた。甘露水で拭いた後、娘の肌の症状はいつも直ちに和らげられた。炎症でかぶれた顔はすぐピンク色に戻った。娘が6ヶ月になった時脂漏性皮膚炎は大分改善が見られ、1歳になった頃はほぼ全治できた。これも尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝しなければならない。更に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝しなければならいことがある。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいなかったら、私たちは転重軽受ができるわけがなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが頼りになってくれなかったら、私たちの心は落ち着かないままのはずだった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいなかったら、私たちは無常にどう正対すればよいかも分からなかっただろう。あらゆることは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝しなければならない。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいなかったら、私たちの家庭は維持できなかっただろう。

一番上の娘の往生で、家族全員が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依できたことにも感謝する。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは以前このように開示した。『あなたたちは改めようとしない、いざになると上師の加持だけを求めて上師を利用する。自分はちゃんとやっていないと常に口にする。それを口癖にしている。実は何もしていない。』自分の心はちっとも変わらず、悪習を繰り返したことをも懺悔する。自分は苦しい時だけ上師に近づけよう、仏法の学習を精進しようと思っていた。生活が順調になったら、すぐ怠けてしまった。また自分はわがままな人間、いつも言い訳をしており、常に子供を最優先にして仏法を後回しにしていた。未だに苦しんでいる衆生のことを頭には置かず、意固地で、教えを聞いてると思い込んでいた。しかし、実は何も頭の中に入れなかったし、何もしなかった。そのため、問題が現れた時、自分の貪欲もそのまま丸見えになった。また、懺悔しなければならないのは、自分は何時も家事を終えた後やっと早課・晩課のことを思い出した。早課・晩課をする時も常にほかのことを考えていい加減にしていた。自分の累世の悪業で無数の衆生を傷つけたし、無数の鶏、家鴨、魚、肉、魚介類を食べたし、無数の蚊、ゴキブリ、蟻と昆虫を殺したことで自慢もしたし、これらのことを懺悔する。また、以前会社に勤めていた時勤務時間を盗んでプライベートのことをしたり、会社の文房具を持ち帰って友達にも分けたりした。取引先の招待を受けて遊んで職業倫理を違反する可能性があっても全く気にしなかった。これらのことについても懺悔しなければならない。

教えを聞かない弟子が往生寸前に上師の加持が得られるようにするため、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは毎週日曜日の法会において開示と叱りを繰り返してくれていることに感謝する。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは自身の体の痛みを気にせず、常に苦しんでいる衆生のことを思い、24時間も休まずに一切の有情衆生を助けて利益していることに感謝する。自分の心を改める信念を固めてくれるように、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩の加持をお願いしたい。私は必ず教えを聞き、戒律を守り、生死を解脱して輪廻を繰り返さないことを決意する。上師の恩、仏の恩、両親の恩及び衆生の恩に返したいと思う。』最後に、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体が安康で、法輪が常転し、仏法事業の興隆、そしてこの世に常住することを祈った。

続いて出家弟子は参加者を率いて六字大明咒を唱えた。

午前9時30分、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは日本寶吉祥仏法センターで殊勝な法会を執り行い、自ら『地蔵菩薩本願経』を開示した。日本、インド、チリ、中国と台湾から14名の信衆、及び日本、中国と台湾から198名の弟子、合わせて212人参加した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、参加した大衆に貴重な仏法を開示した。

「今日修めるのは地藏王菩薩の儀軌、この法本は『消除煩悩悲痛薩埵賜予清涼法』と呼ばれている。上師の誘導でこの法を修めたら、一切の悩みを断ち切ることができる。私たちの持っている多くの欲望は悩みを生じさせる。悩みの多い人は、体の健康、情緒の安定を求めることが難しい。

煩悩の元は私たちの貪欲にある。何を貪ろうにせよ、自分の能力範囲を超えても欲しがることは全部貪と言える。貪が生じると、手に入れたい、或は手に入らない時は何れも瞋恚の心が顕れる。瞋恚の心が生まれると、あらゆる自分にとって有利な手段を使っても自分に都合のいいこと(もの)を手に入れようとする。続いては痴(愚痴)だ。つまり因果を信じないことだ。この法は如何に因果を見極めることを教えてくれる。多くの人は口で因果を信じると言っているが、実は信じていない。因果は仏法の発明ではない。宇宙の自然法則だ。機会があれば、後日リンチェンドルジェ・リンポチェはこのポイントについて深く説明する。

何故悲痛は顕れるだろうか。求めたいが、思った通りにならず、乃至入手した後よくない後遺症がたくさん顕れ、それで生じた苦しみのことだ。これは将来地獄、餓鬼道、畜生道を輪廻することも含まれるが、その悲痛さは我々人間の理解できるものではない。『薩埵』は地蔵王菩薩の略称だ。賜予は、私たちが地蔵王菩薩に祈ったから、地蔵王菩薩は慈悲心が生じて清涼法を賜った意味だ。清涼とは、欲望、貪欲が深い時、心は火に焼かれたような感覚のことだ。皆は誰もがこの一生において味わうことがある。誰かを憎悪する時、胸は熱くなる。人の悪を話すと、興奮になり、ますます大声を出す。そんな時、瞋の炎が起こる。

瞋恚心が強いことは、自分が正しいと思うのも、自分は間違ったと思うのも、人を傷つけるのも、傷つけられるのも全部含まれる。特に女性はこのようなことをよく犯してしまう。他人の話が間違えたとか、自分と寵愛を競っているとかと思うと、すぐカッとなる。一方、男性の犯しやすい過ちは権力、金銭に対する欲望だ。瞋恚の炎に燃えると、地獄に堕ちる因を作ってしまう。清涼法とは、上師の修法を通して私たちの瞋恚の心と煩悩の炎を消した後、清涼の感覚が顕れることだ。しかし、清涼の感覚は何だろう。あなたたちは海辺に行ったことがあるだろう。海辺で落ち着いて海を眺め、心の中で何も考えない状態は少し清涼の感覚の説明に適用できる。こうした経験が皆はあると思う。また、雲一つもない快晴の日に、空を見上げて何の負担も感じないのも、やや清涼の感覚の説明にふさわしい。

今日の修法は密法だが、密法は顕教を基礎としており、上師の密法修法を通して衆生を助けることになっている。法本の中、最初の言葉は頂礼上師(上師に頂礼する)だ。密教における上師の地位は仏菩薩よりも重要だ。上師の伝授、教導がなければ、あなたたちは仏法を学ぶことができない。字が読めるから、自分で仏経を読めば、仏の言葉が分かると思ってはならない。この観念は正しくない。上師がいなければ、私たちは仏法が得られず、学ぶこともできないし、仏法に接触する機会もあり得ない。仏寺で写経したり、お経を聞いたりすることが仏法の学習だと勘違いしないでほしい。上師の教導が必要だ。勉強の時、何かを習う時、必ず誰かに教えてもらうのと同じだ。今はパソコンが発展され、情報も多いが、口でやり方を教えてもらわないと、いろんな問題が起きることは避けられない。

そのため、上師は極めて重要だ。密宗の法本でまずは上師が提起され、その次は諸仏菩薩だ。理由は何だろうか。上師が学んだのも諸仏菩薩が伝えた仏法だからだ。法本に『在所有如来仏弟子衆前、発心月輪光明妙』がある。この言葉は密法なので、今のところは説明しない。法本の中で言及された聖者地蔵王菩薩は、今日私たちが修める本尊地蔵王菩薩のことだ。以前説明したことがあるので、今日は地蔵王菩薩の法号を説明しないことにする。

法本の言葉『以及真誠極恭敬』は、法会に参加する人はまず頂礼する必要があり、頂礼する時、一番大事なのは恭敬心だという意味だ。恭敬とは、上師が開示する仏法を全部聞き入れなければならないことだ。しかし、『上師は言いたいことだけを話すが、それは正しいか間違いかも分からない、あるいは上師の話は上師自分なりの道理だから、聞く必要はない』と多くの人は思っている。上師の話す仏法は道理ではない。道理は各地方の風習民俗から生まれた理論だ。しかしながら、仏法は理論ではなく、学んできっと実践できるものだ。しかも、仏法は人類の一切の経験法則を超えている。恭敬せず、上師のしていることを聞いても分からない、知らない、できない、或は本当なのかと疑うという不信を抱いていたら、恭敬のないことだ。

諸仏菩薩は私たちを騙す必要がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは日本で仏法を広める時、ほかの所と同じくお経を唱えることに値段をつけたりしていない。そのため、上師が仏法を広めることは無欲であれば、あなたたちは恭敬しなければならない。真誠とは、諸仏菩薩の教えた一切のことは、私たちの将来をよくする、或は宇宙にいる全ての有情衆生がよくなるようにするためだという意味だ。だから、あなたたちはきちんと受け止めて聞き入れなければならない。

法本に『一般這類不普遍。』がある。今日修める法門は普段聞ける、あるいはどこの仏寺でも修められるものではない。福報、縁のない人は知っていても聞きに来ないし、いろんな言い訳をして来ないようにする。これは福報のないことだ。自分に仏法はいらないと思う人がいるが、今日はお墓参りをしなければならないと思ったりしている。しかし、鬼と菩薩のどちらを拝んだほうが役立つだろうか。言うまでもないことだ。仏経によると、仏菩薩に求めたほうが、私たちと眷属に役立つことは決まっている。

お墓参りの観念は中国から伝わってきた。中国は3000数年も前の殷の時代に祖先、鬼を拝んでいた。この風習は中国人の心に深く根差したから、以前はとりわけ重陽の時に祖先のお墓参りをしていた。中国人の最も基本的な社会構造は家庭によって作られたから、お墓参りを通して家族全員を集まらせた。以前の交通状況はよくなかったし、電話もなかった。家族全員を集まらせる機会は年に数回しかなかった。それを機会に家族内の長者は家庭の教育方針を若い世代にもう一度話すようにしていた。こうして、一つの儀式になったように、お墓参りをしたら、安心できる。実際は違う観念だ。

中国は春秋戦国時代になって孔子の儒家思想が生まれた。儒家思想は家庭と親孝行を重んじる理論だ。親孝行のできる人こそ上司、国王に対して忠実になれる。これは思想の基本だ。そのため、お墓参りは春秋戦国時代になったら、更に毎年の定期行事となった。お墓参りは随の時代に日本に伝えられてきた。日本人にとってお墓参りは心の安らぎを求めるためのもの、旧暦7月に祖先を拝む人も多い。盂蘭盆祭の典故は民間の風習ではない。どの国の風習でもない。目犍連尊者が亡くなった母親に孝行するために、母親を済度する方法を釈迦牟尼仏に尋ねたことがその由来だ。

今の台湾、中国、日本では済度するのに、誰かにお経を唱えてもらえばいいと思われている。実際にそうではないのだ。死者を済度する時、主法する者が長い時間の閉関を経てから、自身はある程度の能力が証得できたと上師に確認してもらわないと、衆生の済度に手伝うことはできない。また、済度を求める者も大変恭しい心を持たなければならない。まさに法本の言うように『真誠極恭敬』のことだ。『極』は、自分は恭敬していると熟慮のないことを言うのでなく、内心から恭敬の意が起きることだ。上師はあなたたちに恭敬しなければならないと要求しないが、あなたたちは恭敬を実践できるかどうかは、内心に関係がある。『一般這類不普遍』とは、容易にできることではない意味だ。誰もが自分なりの考えがあるから。できる人は僅かしかいない。

次は、『具徳殊勝無差別。』という法本の言葉だ。意味は、この法本は何れの道の衆生に対しても特に優しくしたり、悪くしたりしない。先の『真誠極恭敬』の条件を満たすことができたら、今日この法会に来る功徳には差別がない。日本人か、台湾人か、弟子か、弟子以外の人か、インド人かの違いで得られるものが違って来ることはない。『真誠極恭敬』の条件を備えられたら、具徳で殊勝な功徳も差別、差異がなく、平等に得られる。だから、条件はあなたたちにある。リンチェンドルジェ・リンポチェは台湾で修法した時、1000人以上の人もいた。同じく修法をしていても得られるものは皆まちまちだ。理由は『真誠極恭敬』を備えられたかどうかにある。しかし、本当にできた人は何人いたか。極めて難しい。私たちはこの一生にたくさんの教育を受けてきた。それらの教育は私たちの行為、思想の雛形になったから、今になって変えようとしても大変難しい。異なる民族、風習があったら、尚更だ。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏経の通りに仏法を広めようと思っても極めて困難だ。しかし、いくら困難なことであっても、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法の教えた通りにしていく。仏経を逸れてはいけないし、自分で何かを発明してもいけない。

また、法本に『衆多言者不言義。』がある。たくさんの話があるが、生死解脱の意義を説明する言葉は一つもない意味だ。自分は上師を恭敬している、衆生を代表するなど、たくさん話しても、全然無意味だ。私たちの話は、生死の輪廻から解脱するよう衆生を助けられるかどうか、未来乃至未来世の命をよい方向に向かわせられるかどうかに関するものでなければ意義がない。皆は普段礼儀正しいようなことを言っているが、人間の礼儀に過ぎない。仏法には関係ない。ここの言葉は特別だ。ほかの法本では言われなかった。あなたたちは毎日たくさんのことを話すが、ちっとも意味がないのだ。仏法を逸れたら、意義はない。自分を助けられないし、今世において輪廻から解脱する乃至三悪道の苦しみから解脱することについて衆生を助けられないから、意義がないのだ。

法会に参加して皆ができる唯一の条件は、十分な信念を持って責任を負うことだ。信念を持ちたいと決めたら、重要なことを全て負うことができる。例え生生世世においてたくさんの悪業、悪事をしたとしても、法会に参加する時、本当の敬った信念が生じれば、全部の業力を負うことができる。負うとは、このような信念が生じたから、本来地獄に堕ちるべき、事故に遭うべき、難病に罹るべきのような重みも、信念を持っているから負えるようになり、自分を傷つけることはない意味だ。例を挙げると、重量挙げの練習みたいに、50キロしか挙げられないのに、わざと100キロ挙げたいと思ったら、負えなくなる。負える範囲内で自己の業を負うことで体は傷つけられない。その条件は信念だ。信念とは、諸仏菩薩は私たちを騙さないことを信じること、また、未来世に諸仏菩薩と同じように衆生を利益する、成仏する機会は自分にもあることを信じることだ。

以上の言葉はほかの法本にほとんどなかった。理由は何だろうか。地蔵王菩薩の発願は、衆生が決して地獄に堕ちることのないように助けることだからだ。衆生に地獄に堕ちさせないようにしたかったからだ。しかし、諸仏菩薩と上師に対して衆生は恭敬心、信念を持たなかったら、地蔵王菩薩が毎日そばについてくれても、何もならない。仏法をただ一つの宗教だと思う人が多いが、仏法は宗教ではないのだ。何が違うか。どの宗教も同じだ。ある特定の対象に願えば、願いを叶えてもらいたい。自分は何もせず、ただ求める。求めたから、もらいたい。しかしながら、仏法の教えは、仏菩薩と上師に求めたら、得られるのが自分自身を変える方法しかない。自分自身で実践しなければならないのだ。だから、何が宗教か、何が仏法か、皆ははっきりと区別する必要がある。

厳しく言えば、仏法は一種の宗教ではないが、これたくさんの儀式ができたのは各地の風習民俗が異なるからだ。その土地の風習民俗に合わせるためにいろんな儀軌ができた。この状況を理解し、自分の法会に参加する目的は、自分自身の平安、加護を求めることではないとはっきりする。信念を持たなければ、自分の業力を負うことは決してできない。信念が生まれれば、業力を負えるようになる。諸仏菩薩と上師に十分な信念を持ち、仏法を学びたければ、重量と業を軽くすることができる。

仏経の使った文字はどれでも意味深く、熟慮のない言葉ではない。信念があるからこそ重みに耐えられるが、軽減はできない。どうしたら、軽減できるか。上師の教導に従って確実に行動に移すことだ。こうすれば、業の重さはゆっくりと軽減になっていく。先ほどの言葉は、法会に参加する動機(motivation)が何かを教えてくれている。単に好奇心で、仏法はどんな話なのか、仏法を理解したいなど、これらの動機は正しいものではない。仏法は大変幅広い。数千年も伝えられてきた内容は膨大だ。仏法を全部説明し終えようと思えば、100年かけても足りない。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは続いて地蔵菩薩法門を修持し始め、並びに修法中において開示を賜った。

「先ほど修めたのは、まず上師の観想と持咒を通したものだった。上師と本尊地蔵王菩薩は無二無別だ。続いては修法だ。法会に参加する人は菩提心を発さなければならない。経典はよく八大菩薩のことに触れた。地蔵菩薩もその中の一人だ。ほかの菩薩には髪の毛があり、在家相が現れたが、地蔵菩薩だけが髪の毛がなく、出家相が現れ、本質的に成仏していた。即ち、この八大菩薩は本質的に修行で仏果を証得したことだ。しかし、衆生を助けるため、彼らは何度も戻って来て衆生を助けることを繰り返している。無数の有情衆を済度するため、数々の菩薩は衆生を済度するよう大いに発心した。そのため、菩提心は虚空、全宇宙に満ちている。

宇宙は地球のことだけではない。近頃、天文学者は、地球によく似た惑星を発見し、そこに人類が棲んでいることも予測した。実際に、仏経の中で娑婆世界には四つの惑星があることが言及されている。私たちの住んでいる所は南部洲、ほかの三つの惑星にも人類があるそうだ。以前、仏の話は神話だと思った人が多かったが、今時になって天文学者は地球に似た惑星があることを発見し、そこに人類が棲んでいるとも予測した。

法本の後段にこういう記述がある。一切の有情衆生を利益し、輪廻の苦海から本当に解脱させるため、三世一切諸仏が経験した事件と歴史の一部は記載されなかったそうだ。不可思議な修行者、聖者の伝記、諸仏菩薩の修行した法門及び口伝した完全の法門を含めて雪域に伝われなかったらしい。法本、経典で提起された雪域はチベットのことだ。だから、金剛亥母(密法では極めて重要な本尊)は西域天竺南部(インド南部のこと)のある修行者に自ら伝授した。金剛亥母が自ら伝授した法門は108種の修持のための方便法があった。その修行者は八大菩薩の方便法門を含めて24種学んだ。この段落は法本の由来を説明している。

これらのことを話さない人が多い。しかし、法は誰かの発明ではない。人類に何れの仏法を発明する資格が全くないのだ。釈迦牟尼仏が伝えてきた仏法、及び密法の一部の本尊しかないし、全ては根拠がある。根拠がある法だけを修めるべきだ。自分は密宗だと自称するから、修法できるわけではない。」

続いて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは地蔵菩薩が持誦した法門を修め、並びに開示を賜った。

「先ほど修めたのは金剛亥母が歴代の上師に伝授した、今までに広められたうえで、リンチェンドルジェ・リンポチェに伝えられてきた法だった。伝授を受けたから、この法を修持することができ、弟子に口伝できる。順序的、徐々に弟子を修持させて口伝を受けさせることができる。あなたたちに仏法が聞ける福報を与えるために、まずは上師にハタ献上の儀式を行う。」

そして、ハタ献上の儀軌が行われ、入場時自らくじ引きで選ばれた日本、チリとインドからの信衆が衆生を代表し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにハタを献上した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは大衆を率いて皈依文を念誦した。乱れない心、つまり多く考えない、考えたとしても気をづける心で、本尊の話を専念に聞くように、参加者に注意を与えた。この後唱えられるのは本尊地蔵菩薩の言った話、上師が地蔵菩薩の代わりに話すことになる。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはしばらく修法を続け、並びに上師が修法する時、皆が持つべき観想方法と心構えを開示した。

「あなたたちは涙を咽ぶほど上師に感謝しなければならない。感謝の心で観想しなければならない。法会の参加は応援だと思ったり、本当に役立つかというと疑ったりしてはならない。感謝しなければならない理由は、密法は熟慮せずに伝われるものではないし、どの上師も必ず密法を伝える資格を持っているわけでもないからだ。そのため、感謝の気持ちを持たなければならない。あなたたちは教えられた通りに観想し、しかも歓喜心が起きなければならない。歓喜の心は、地蔵菩薩の加護があったから、あなたたちを他人と違うように、またはすごくしてあげるからではない。今福報と因縁があって本尊の真言を得ることができ、この法門を修める将来の機会がもらえるからだ。今日は上師の功徳を通してあなたたちは地蔵菩薩と結縁できる因縁が得られる。

地蔵菩薩を拝んだことがあると自認する人は多い。特に日本で多くのお寺で地蔵菩薩が供養されている。お墓参りの時もよく見かけられる。しかし、それは結縁ではない。単に一つの石を拝む、形式だけのことだ。その石は本当に地蔵菩薩であるかどうか、誰も分からない。その様子が地蔵菩薩に似ているだけだ。どうしたら地蔵菩薩になれるか。地蔵菩薩の真言を得る必要があるのだ。真言は他人を呪う、或は自分のことを変えるためのものではない。真義は本尊の願力、功徳、菩提心、慈悲と加持を含んでいる。即ち、本尊がその一生において菩薩になれた方法、理由とエネルギーが全部真言の中に含まれることだ。

真言を唱える利益は、すぐ神通を持ち、物事を見る感覚ができることではない。西洋人の多くは真言を唱える感覚の話が好きだが、それが利益ではない。本尊の真言を唱え続けていたら、業は軽減されるし、将来も本尊と同じことをするようになれる。」

この時、信衆の携帯電話が鳴った。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは信衆が携帯電話の鳴りを止めるのを待ってから開示を続けた。

「好奇心で密法の法会に参加するなら、携帯電話の電源を切り忘れたようなことが起きる。密法は有り難いものだと理解していたら、携帯電話の電源を切ることは忘れない。あなたたちは天皇陛下の演説を聞きに行く時、携帯電話の電源を切らないのか。何故法会に参加する時は電源を切らないのか。仏法を尊重していないからだ。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参加者を率いて真言を唱えたと共に、恭敬心を持つよう皆を注意した。「3回唱えたら、役立つだろうかと疑わなくていい。必ず役立つ。皆のために深い縁を植えたことになる。皆は将来においてこの法門を学べるようになる。」一切の仏、金剛上師が持つあらゆる仏法の力は、すんなりと皆の口の中に入った。リンチェンドルジェ・リンポチェも数珠を用いて皆に加持を続けた。

しばらく持咒をした後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは開示し続けた。この法を円満にするため、皆は上師に感謝し、ハタを献上して謝意を表した。

その後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法し始め、並びに開示を賜った。

「この法門の修法は必ず清浄な土地と家の中で行われなければならない。その土地で殺生、酒の販売と風俗業などの好ましくない商売が行われたことがあってはならない。あったら、この法門を修めてはならない。今の日本では、家で『地蔵経』を唱えてもらうことがよくあるが、実には役立たない。清浄な土地で行う必要があるのだ。今時、菜食する人は殆どいないから、部屋の中で殺生したり、肉食したりしたことはきっとある。あなたたちは念誦を繰り返してきたが、何も変わらないのは、土地は清浄でないからだ。日本寶吉祥仏法センターは清浄な場所だ。昔は清朝の外交官が住んでいた。その時からずっと清浄のまま、殺生も悪事もなかった。また、清浄の意味だが、修法前に上師により毎日修法し、その土地を浄めて全ての衆生に布施する必要がある。こうしてその土地と道場をこの修法のために使うことができる。

法本に『清潔円満』がある。昨日、皆がここに来る前、リンチェンドルジェ・リンポチェは護法を修めてこの土地を浄め、法会を邪魔したい衆生に布施して彼らの瞋恚心を失くさせた。こうしたら、彼らは邪魔しに来なくなる。だから、誰かを家に呼んでお経を唱えてもらい、カーンと鳴らせたら、唱えることになるというわけではない。儀軌が必要だ。法本では、仏像をきちんと並べるほかにもいろんな儀軌があることが言われている。例えば、地蔵菩薩像、供え物、香花、ハタ、お香、お水、及びその他修法用のものは、何れも整えて並べなければならない。

法会に参加する人には清浄な発心が必要だ。清浄な発心は二種類ある。一つは善行清浄菩提心、つまり法会の参加は自分の欲望のためでなく、殊勝な仏法を学びたい、聞きたい、未来世に仏法で衆生を助けたいという期待を持っているからこそ、清浄な菩提心と言える。もう一つは、上師の加持を通して一切の業力が溢れる自分の体を浄めたい思いだ。私たちの体にどんな業力に満ちているだろうか。この一生、煙草を吸ったり、肉を食べたり、悪業をしたりしているから、この体は清浄ではない。加持をもらった後、この肉体は浄められ、法器になって仏法を受け入れることができる。上師に入定して加持してもらわなければ、無理だ。だから、皆は少しでも善行清浄菩提心になれるようにしなければならない。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはまたしばらく修法を続け、参加者全員を率いて禅定を進めた。「この種の禅定は、私たちが持っている複雑でいろいろ考える心を少々落ち着かせてくれる。本来、法本は空性に固着すると言ったが、あなたたちにはできないから、やや心を集中させてほかのことを考えないようにしなさい。」出定後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。「出定後、慈悲の目で物事を見なさい。別に何かを見ろと言っているわけではない。内心に慈悲心を持って慈悲心で、未だに悟っていない、生死を解脱していない多くの衆生を見ることだ。」

この時、法会の進行中何事もなかったように子供の遊びをほおっておいた弟子がいた。まるで道場を子供の遊び場にしていた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはその行為を叱って子供を道場の後列に連れて行くように指示し、そして修法を続けた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは皈依と発心を修持し、一切の有情器具を浄め、大地(修法地)、上師の座敷、全ての供え物を加持した後、右膝を跪き、両手で合掌し、指にお花を挟んで仏に供養することを、参加者に指示した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、お花で仏に供養する功徳を開示した。「きっと、来世に男性は優れる容貌になり、女性はきれいになる。リンチェンドルジェ・リンポチェが今世に荘厳な面貌になれたのは理由がある。また、お花で仏に供養したら、来世に指はきれいになる。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは更にしばらく修法を続けた後、参加者を着席させ、出家弟子に大衆を代表させるよう、膝立ちの姿勢をとらせた。そして、先ほど唱えた内容は、皆を助けるよう諸仏菩薩と一切の護法・眷属に壇城に来てもらうこと、及び地蔵菩薩にここに来てもらうことの祈りだと開示した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がって開示と修法をした。進行中、参加者全員は空から優しくて心地よい勝妙の法音が聞こえた。その音は綿々と長続いて尽きなかった。大変奇妙、殊勝だった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示した。「今修めたのは、皆の福徳を累積するため、及び『地蔵十輪経』の一段落を唱えた内容だ。そして、衆生の知恵と資糧を累積するための内容でもあった。最後は、私たちを憐れみ、加護し、私たちに仏法を学習させ、利益衆生ができることを、仏菩薩に祈ったものだ。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは『仏説地蔵菩薩陀羅尼経』を念誦し、並びに陀羅尼は真言だと開示した。「通常に、ほかの本尊真言は経文がなかったが、地蔵菩薩は特別だ。真言の功徳と念誦の心構えを説明する経文がある。法本の最後にいくつかの言葉がある。地蔵菩薩の真言を誠に念誦したら、苦痛から離れて解脱できる。つまり、輪廻から解脱し、世間の一切の苦しみから離れられる。しかしながら、真言は唱えたければ、唱えられるものではない。必ず上師の灌頂と口伝を受けなければならない。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは灌頂を行わない。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはしばらく修法し、開示を続けた。

「続いては持咒だ。持咒の時、諸仏菩薩と上師に清浄な身口意で皆を加持してもらう必要がある。多くの人は持咒する際、自分にはできる、念誦できる、実践できると勘違いしているが、そうではないのだ。凡人は生死解脱の修得ができるまでに、心は清浄な状態ではなく、自分のことしか考えない。清浄でない心で持咒しても、真言の功徳を得ることはできない。そのため、仏菩薩と上師の身口意で加持してもらい、私たちの身口意を浄めてから、法に従って修持する時に加持が受けられるようになり、自分自身と一切の有情衆生を利益することができる。自己を利益するとは、仏法を得てから未来世において輪廻しなくなるように自分を助けることだ。今世に法に従って修行していれば、三悪道に堕ちることは決してない。

私たちは、自分の修持は虚空に満ちるようになり、三悪道(地獄道、餓鬼道、畜生道)の衆生が私たちの修持によって光が得られることを望んでいる。衆生に光を与えて一日でも早く三悪道を離れさせることは済度だ。光をくれること、衆生を助けさせてくれること、私たちの身口意を諸仏菩薩と上師に相応させること、衆生に体と心の苦から離れさせること、衆生に具足の根器を与えて禅定を得させること、私たちの心を清浄のままにして加持をくれることを、諸仏菩薩と上師に願う。リンチェンドルジェ・リンポチェが持咒している時、あなたたちは理解しなければならないことがある。即ち、今日法会に参加した理由は、決して世間の欲望を求めるためでなく、自分の生死を解脱し、輪廻しなくなって三悪道に堕ちないためだ。そして、更に衆生を利益する。こうすることだけで、持咒は功徳が得られるのだ。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは持咒し始め、その後禅定に入った。並びに当法本は、地蔵菩薩の加持を願うほか、済度にも役立つと開示した。大勢の人にとって済度は、誰かにお経を唱えてもらうこと、自分でお経を唱えること、仏像の前で跪いて勿体ぶって唱え続けて願い続けることだと勘違いしている。しかしながら、済度には儀軌が必要だし、仏教の中でも済度する者が持つ必要な条件がはっきりとされている。学仏者として、将来に仏法を学ぶことを決めるかどうかを問わず、未来世にまた人間になりたければ、今生は十善法を修めなければならない。

十善法は不殺生、不飲酒などを含めている。不飲酒とは、大酒を飲まないことだ。皈依していない人は、たまにちょっと飲んでも構わないが、暴飲してはならない。飲酒を大事な趣味にしてはならず、酒がなければ、生きていけないと思ってもならない。こんな行為はよくないことだ。十善法もまた不偸盗、不両舌(他人の良し悪しを言わない)、不悪口(人の悪口をしない)、不綺語(悪事をするように人を誘導しない)、不妄語(考えずに自分の修行は上出来だと言わない)、不貪欲(自分の得るべきでないものを取らない)、不瞋恚(他人に対して怒り、憎しみの気持ちを抱かない)、不愚痴(因果を信じなくてはならない)を含めている。

更にあなたたちに瞋恚心について言い聞かせなければならない。女性は感情に対する瞋恚心がひどい。傷つけられたと感じると、瞋恚が生じる。体によくないのだ。あなたたちは仏法を修めているかどうかが分からないが、仏経によると、今生人間の身が得られたのは、過去世において十善法を修めたからだ。そのため、未来世にも人間の身がほしければ、今生も十善法を修める必要がある。仏の言葉を聞こうともしないなら、法会に参加しても無意味だ。

十善法を真面目に修行するほか、慈悲を学び、慈悲心を養成し、菩提心をも習う必要がある。菩提心が生じたら、衆生の済度を助けられる。坊主頭をしている人を呼んでお経でも唱えてもらうことではない。密法を学ぶ人に対して法本には特に記述があるが、修法したければ、決してお酒を飲んではいけないのだ。修法者がお酒を飲む、或はお酒のおいている場所にいることは正しくないことだ。一部の密宗のお寺では赤ワイン、葡萄酒を供養に使われているが、それは別の意義があり、飲むためのお酒ではない。しかしながら、直貢噶舉ではなるべくお酒を使わず、代わりに葡萄ジュースを使っている。

あなたたちは法会に参加した。仏法の概念ではお墓参りよりも役立つのだ。お墓参りはただ野遊びのようなことだ。それで祖先に対する責任を果たしたと思っても、実際は祖先のためにならない。祖先は加護してくれると思う人が多いが、祖先は自身のことでさえ守れないのに、あなたを守るはずもない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、祖先は私たちを加護してくれないことがはっきりと分かっている。祖先は生まれ変わらなくても、あなたに何か厄介なことが起きたと知っても、加護してあげられない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を学ぶまでにお墓参りもしていたが、仏法を学んでからは、祖先を済度することこそ大事だと分かった。だから、二度とお墓参りには行かなかった。仏法にはお墓参りの概念がないし、土葬の概念もない。しかし、理由はインド人にお墓を建てない習慣にあるのでない。祖先が亡くなった後、私たちは済度のための善知識を求め、祖先を地獄、餓鬼、畜生道に堕ちさせないようにすべきだと、仏は考えたからだ。2回の拍手をしたり、鐘を鳴らしたりすれば、祖先を済度できるわけがないのだ。こんなに容易いことではない。持咒が必要だ。真言は福報、功徳を累積するものだから、祖先を済度することができる。さもなければ、あり得ない。

次に、本来の予定は仏経の念誦だったが、今日のところはしないことにする。リンチェンドルジェ・リンポチェは『地蔵経』の説明を続ける。前回は鬼王のことを説明した。鬼王必ず人を害するとは限らない。人を害しないのもいる。どうしたら、鬼王になれるのか。生前に宗教の修行をちょっとでもしていたら、なれる。どの宗教でもいいから、宗教面の修行があったら、なれる。何れの宗教も信衆に善のことを教えているからだ。こういう類のことをすることがあれば、福報が得られる。死ぬ時、その宗教の神や先知が迎えに来なかったら、鬼王になる。迎えに来ない原因は複雑だが、その人の心に神祇は存在しないという思いがあるか、或は神祇は既に輪廻したか、または宗教に要求された戒律を守らなかったなどが考えられる。しかし、その人には福報があり、死んだ後は別の六道に行く時が来ていないから、力を持つ鬼になるわけだ。

力を持つ鬼はエネルギを集中させて何らかのことをすることができる。仏経では、非人と呼ばれているが、実は人間だ。ただ、人間になる条件、つまり十善法という条件を有さない。普通、一部の鬼王は善のことをするが、悪いことをするのもいる。その人の本来の宗教にしがみつき、善だと思っていたことをし続ける。そのため、仏法を護持する鬼王もいるし、しないのもいる。

仏経に『爾時釈迦牟尼仏、告文殊師利法王子菩薩摩訶薩。』がある。文殊菩薩は八大菩薩の一人だが、菩薩の中で法王子と呼ばれるのが文殊菩薩だけだ。ここは、釈迦牟尼仏を仏法の国王、仏の王子を文殊師利菩薩だと例えている。つまり、文殊師利菩薩は釈迦牟尼仏と同様な知恵を持ち、釈迦牟尼仏が持った仏法面の果位を継承する資格があったから、法王子と呼ばれたわけだ。菩薩摩訶薩は大菩薩、法身菩薩の意味だ。

次に『汝是の一切諸仏菩薩及び天竜鬼神。此世界、他の世界、此国土、他の国土より、是の如く今来り集会して忉利天に到る者を観ずるに、汝数を知るや不や。』がある。釈迦牟尼仏は文殊菩薩を試した。文殊菩薩に、これほどたくさんの菩薩、天竜鬼神、此世界(娑婆世界)、他世界(その他の宇宙の国土)、此国土(地球)、他国土(ほかの惑星)が全部忉利天に来ているが、その数は知っているかと試した。

そして、『文殊師利、仏に白て言く。世尊、若我神力を以て、千劫に測渡るとも、知る事を得ること能わず。』という言葉だが、文殊師利菩薩は、自分は大神通の力を持っているが、千劫(地球の成、住、空再空、壊、住、成という一周期は一劫)の長い時間をかけて忉利天を見ても、その数は一体どのくらいあるかも分からないと答えた。

その次は『仏文殊師利に告ぐ。吾仏眼を以て観ずるに、ことさらに猶数を尽くさず。』仏眼と菩薩眼は違うのだ。仏は三千大千世界の隅から隅まで見ることができる。見られないところはないが、菩薩眼には障害がある。肉眼や天眼で見るのでなく、仏は、仏眼で見ても、その数字は分からないと言った。それなのに、何故これほど大勢の衆生が天界に法を聞きに来たのか。

経典にこの内容がある。『此は皆これ、地蔵菩薩、久遠劫より来。已度、当度、未度。已成就、当成就、未成就なり。』地蔵菩薩は久遠劫からやって来た。人類の数字で言い換えるれば、千億万年において地蔵菩薩が既に済度した、今済度している、まだ済度していない、既に成就を助けた、今成就している、まだ成就していないのを全部含めている。地蔵菩薩は遠い昔から衆生を利益してきたが、今だけのことではない。釈迦牟尼仏は何某の菩薩を紹介した時、いつもその菩薩の追従した仏を紹介したが、しかし、地蔵菩薩を紹介した時はそうしなかった。それは、地蔵菩薩は菩薩道の修行をした時間が大変長かったからだ。宇宙に有情衆生が現れた時から、地蔵菩薩は現れて衆生を続けて済度してきた。

経典に次の内容は『文殊師利、仏に白て言さく。世尊、我すでに過去より、久しく善根を修して、無礙智を証せり。仏の言う所を聞いて、即ち当に信受すべし、小果の声聞、天竜八部、及未来世の諸衆生等、如来誠実の語を聞くと雖も、必疑惑を懐かん。設使頂受すとも、未だ謗を興すことを免れず。唯願くは世尊、広く説き玉え。地蔵菩薩摩訶薩、因地にいかなる行をか作し、いかなる願を立てて、而も能く不思議の事を成就せる事を。』

この段落において、文殊師利菩薩は、自分は善根を非常に長く修めてきたと表した。諸仏菩薩が長いと言った時、数字で表せない意味だ。その時間はあまりにも長いから、菩薩も分からない。善根は単に善を行い、善事をすることだけでなく、一切の身口意も衆生を利益するために実践すること、自分の欲望はちっともなく、善を深く根差したことだ。証無礙智とは、知恵は全部の障礙が払われたほど証得できることだ。無礙とは、その知恵は宇宙全体のどの所にも届き、利益衆生ができることだ。

しかし、『小果の声聞、天竜八部、及未来世の諸衆生等』の部分は、如来の本当で正直な言葉を聞いてもきっと疑惑を抱くことを言っている。これはあなたたちのことだ。あなたたちはきっと疑う。本当にそうかな、或は神話だろうという疑惑を持つ。『設使頂受すとも、未だ謗を興すことを免れず。』も同じだ。何故頂礼するか、拝むのか、拝まなければならないほど偉いかなどを思う人は多い。何故仏を拝まなければならないのか、ちょっと見ればいいだろうと思っている。仏でもこのような事件を発生した。

『唯願くは世尊、広く説き玉え。地蔵菩薩摩訶薩、因地にいかなる行をか作し、いかなる願を立てて、而も能く不思議の事を成就せる事を。』の部分だが、文殊菩薩は世尊に、地蔵菩薩はこのような功徳が成就できたが、一体修行の因地でどんな行為をしたか、どんな発願をしたかと尋ねた。これは仏の先の言葉に呼応している。釈迦牟尼仏はまず文殊菩薩に、当時はどれくらいの衆生が忉利天に来て仏が話した地蔵菩薩の話を聞いたかと聞いた。その質問に対し、文殊菩薩は、自分は大神通を持っていても分からないと答えた。そしたら、仏も自分の仏眼でも見て分からないと言った。それで、文殊菩薩は、自分はよく修行したし、仏の話を聞くとすぐ信じた。それに対して多くの有情衆は信じなかったし、仏を中傷することまでした。地蔵菩薩の功徳を仏が話す時は何故、こんなにたくさんの衆生が聞きに来たのか。こんなに不思議なことがあるなんて、以前地蔵菩薩が因地で修行した時は一体、何を修めただろうかと表した。

経典は下記の内容に記載されていた。『仏文殊師利に告く。譬ば三千大千世界の、あらゆる草木叢林、稲麻竹葦、山石を微塵として、一物一数を一の恒河と作し、一の恒河沙の一沙を、一界とし、一界の内の一塵を、一劫とし、一劫の内に積む所の塵数を、尽く充る劫と為すが如く、地蔵菩薩、十地の果位を証して以来、千倍なること上の喩より多し。何に況や地蔵菩薩、声聞辟支仏地にましましきをや。』

釈迦牟尼仏は仏法を開示した時、私たちを理解させるため、私たちの知っている、地球で見られる現象で例えた。仏は三千大千世界の例をあげた。三小千世界は一つの中千世界、三つの中千世界は一つの大千世界。三千大千世界とは、宇宙全体を含む銀河系にいる全ての衆生、目に入るあらゆる草木・叢林、稲・麻・竹・葦、山・石・微塵のことだ。一つ見ると、一回数える。一つ見ると、恒河のように長いと思う。恒河川の沙だと思う。一つの沙を見ると、一つの世界だ。一つの世界に、何れの塵にも成住壊空がある。何れの劫において累積された塵埃の総数は全部一つの劫になる。

この段落の概念は、世界全体において数多くの原子、分子、粒子が動いていることにある。その数の多さは誰も分からない。例え私たちの目に入った樹林・草木、恒河沙の数も及ばない。何れの沙の中に一つの世界があり、それぞれに成住壊空がある。どの沙も一つの劫だ。劫の中で生まれた塵埃は、今最大倍率の顕微鏡を使わなければ、その中の粒は見られない。これらの全部が一つの劫になる。

『地蔵菩薩、十地の果位を証して以来、千倍なること上の喩より多し。』の意味は、地蔵菩薩は法身菩薩に証得できた時から、助けた衆生の数が先の仏の例えより多いことだ。経典は『何に況や地蔵菩薩、声聞辟支仏地にましましきをや。文殊師利、此菩薩の、威神誓願不可思議なり。若し未来世に、善男子善女人ありて、この菩薩の名字を聞いて、或は讃歎し、或は瞻礼し、或は称名し、或は供養し。』を言った。

この段落において仏が言いたかったのは、まして地蔵菩薩が阿羅漢果、辟支仏を修めた時期もそうだ。辟支仏と仏の差別は辟支仏は有余涅槃であるのに対し、仏は無余涅槃だ。これは仏法の専門用語なので、また別の機会があれば説明する。仏は、地蔵菩薩が声聞縁覚、阿羅漢果、辟支仏の境界を修行した時期を指して、文殊菩薩に、地蔵菩薩の威徳力、神通力の不可思議さが、私たちの思想・経験法則を超え、地蔵菩薩が発した威神力と誓願の大きさが私たちの考えられるものではないと話した。ここに善男子、善女人が言及されたから、リンチェンドルジェ・リンポチェはもう一度皆を諭したい。十善法を修めなければ、地蔵菩薩を毎日拝んでも無駄だ。日本に地蔵菩薩像がたくさんあるが、十善法の修行がほとんど見られないため、地蔵菩薩像の数が多くても、天災が多い。その原因は、十善法の修行をしていないからだ。

仏経は絶えずに私たちに聞かせてきた。どの仏菩薩の修行と学習をするにせよ、善男子、善女人でなければならない。何らかの慈善を施す、お金を寄付することで男子、善女人になれるわけではない。これらは人間がやるべき基本のことだ。仏の言った善とは、必ず十善法を修めることだ。この条件を備えていたら、何れの本尊を修めることを問わず、本尊は助けてくれる。何故仏菩薩はこのような分別心があるだろう、何故十善法を修めなければ、相手にしてくれないだろうと、思う人もいると思う。理由は、十善法の修行しなければ、まずは人間ではないからだ。例え人間の体を持っても、人間の行動をとらないから、修める仏法は成就につながらない。

何れの諸仏菩薩も人間の身から修得できた。何れの惑星、世界も、人界から修得できた。地獄道、畜生道、天道から修得できた者はいなかった。人間になる条件は善男子、善女人だから、ほかの宗教は宗教ではあるが、十善法を修めないから、法会に参加しても結縁のことになるだけ、役に立たない。善男子、善女人は私たちの実践しなければならない目標だ。今日の地蔵菩薩法会に日本の信衆の参加もある。これはとりあえず十善法の修行方向に向かっていることだ。十善法を目標として修行しない人なら、この仏法を聞く因縁はなかったはずだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの信衆に招待状を送ったが、家のことで忙しいなどの言い訳をする人もいたが、彼らは十善法を修めていないから、仏経の開示を聞きに来る福報はない。

仏法の学習は大切ではない、ただの宗教だから、暇の時に参加すればいいと思う人が大勢いる。リンチェンドルジェ・リンポチェも多忙な人だ。たくさんの事業と弟子を抱えている。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは来られた。それはリンチェンドルジェ・リンポチェが善男子で、衆生を助けたいから、来られた。リンチェンドルジェ・リンポチェより忙しい人はいない。リンチェンドルジェ・リンポチェにも母親、子供がいる。来られたんだ。簡単に言うと、地蔵菩薩が手伝って家族の面倒を見てくれているから、リンチェンドルジェ・リンポチェは心配しなくてもいいからだ。来られなかった一部の信衆の理由は、信じない、十善法の修行をしていないことにある。あなたたちは十善法を修行し始めたい意欲があれば、未来世、乃至今世において学べる福徳因縁がきっとある。

お経には『この菩薩の名字を聞いて、或は讃歎し、或は瞻礼し。』と記載されて、讃歎は、地蔵菩薩の彫像は大変荘厳だと讃歎することでなく、衆生を利益した地蔵菩薩の功徳と出来事を讃歎することだ。瞻礼は大部の日本人がしていること、仏像の前で恭しく立って恭敬心で仏像を観賞することだ。京都に数多くの古い仏像が残されている。数百年も数千年以上の仏像もある。それは日本人はこういう特質があるからだ。日本人は仏像は修行のために利用しなくても、国宝、骨董として観賞する目で仏像を見る。仏法学習をしようという思いで仏像を見るわけではないが、瞻礼の仕草(仰ぎ見て礼拝する)をする。一方、中国人は仏像を見る時、この仏像は荘厳だ、あの仏像は荘厳でない、この仏像は老けている、あの仏像は若いなど、あれこれを言う。日本人のような礼儀はない。

次は『或は称名し、或は供養し、乃至、形象を彩画し、刻鏤し、塑漆せんに、是の人当に百返、三十三天に生ずる事を得て、永く悪道に堕せざるべし。』と記載された。或称名は地蔵菩薩の名号を称する意味だ。諸仏菩薩は金銭を欲しがらない。供養は水、ランプなどのことだ。ここで皆は理解しなければならない。地蔵菩薩は大変慈悲だから、あなたたちは今生に十善法を修め、地蔵菩薩の名号を聞いて讃歎する(地蔵菩薩は大変だと言い出すことも讃歎だ。地蔵菩薩の顔は長いほう、リンチェンドルジェ・リンポチェもそうだ。また、耳も小さい。これは苦労人の相だ。)、或は瞻礼する(敬って地蔵菩薩の仏像を見ること)、または恭しい気持ちで供養し、まして人に頼んで地蔵菩薩の形象を描き、彫刻し、漆器で作ってもらうことがあれば、今生にリンチェンドルジェ・リンポチェほどの厳しい修行をしなくてもいい。十善法を修行し、地蔵菩薩の名号を聞いて讃歎、瞻礼、称名、供養をしたり、地蔵菩薩の像(どんな材質でもよい)を作ったりすることがあれば、きっと百回も三十三天に生まれることができる。

三十三天は33日のことでなく、一つの天の名前だ。仏経に三十三天の由来が記述されている。古代にある人は仏を供養する偉いことをし、衆生を利益する偉い発願をした。このことは、今世の人類の文化がある時代に起きたことでなく、過去世に起きたことだ。当時、32人は彼に随従した。そのため、彼らは人道が終わった時に全員昇天した。この33人は天界で皆天帝になり、皆を率いたその人の福報と眷属はほかの人より大きかっただけだが、全員は一切の天の福報を享受したうえで、決して悪道に堕ちることはない。即ち、生生世世の生死の解脱ができなくても、決して地獄、餓鬼、畜生道に堕ちることはない。

地蔵菩薩の修行はずっと簡単だ。今生に十善法、即ち不殺生、不偸盗、不邪淫、不飲酒(不喫煙を含める)、不綺語(官能小説を書く人もよくない)、不悪口、不両舌、不貪、不瞋、不痴を必ず修行することだ。。地蔵菩薩を見たら、地蔵菩薩の名号を聞いたら、讃歎、瞻礼、称名、供養をし、乃至地蔵菩薩の像を作る。今生が終わった後は必ず百回も三十三天に生まれ、永遠に地獄、餓鬼、畜生道に堕ちることはない。これほど便宜なことはないのだ。あまりにも簡単すぎるのだ。但し、あなたたちは決めなければならない。実践しなければならない。

地蔵菩薩は大変苦労した。理由はあまりにも大勢の人が三悪道に堕ちたからだ。そのため、あなたたちは今生にこの段落のことを実践しなければならない。しかし、天に生まれたかどうかは、どうやって分かるのか。簡単だ。往生の5年前になれば、分かるのだ。往生までに何年があるかは分かることだろうかと、あなたたちは聞くと思う。ほかの誰に聞く必要もないし、仏菩薩と上師に聞く必要もない。簡単に分かることだ。天に生まれる人なら、生きる時は病気に罹っても大した病気にならない。数ヶ月入院して退院できないこともないし、認知症、脳中卒、ガンなど手術が必要な状況にもならない。以上のことがあったら、天界に生まれることはない。例え既にガンに罹ってもまだ間に合うのだ。今からやる気があったら、きっと間に合う。病気になっても、他人の病気とは違う。他人は痛くて喚いたり、手術やいろんな治療を受けたりする状況になっても、あなたは同じことを経験しなくてよい。十善法を修めているから、しかも教えに従って地蔵菩薩を供養するなどのことをしているから、地獄、餓鬼、畜生道に堕ちることは決してないのだ。

生前に認知症になる人、今の日本にもこの病気になった年寄りが多くいるが、物忘れになったり、自分の名前が覚えられず、間違った道に入ったり、迷子になったりするなどの状況がある。西洋にも多い。これらの人は畜生道に堕ちる可能性が非常に高い。原因は何だろうか。これらの人は死ぬ前に仏法を聞くこともない。仏法は何物なのかも分からない。どんな人が年取ったら認知症になるだろうか。若い時あらゆる悪事を気ままに行い、因果を信じない人が老年の時に認知症になる。

どんな人が地獄に堕ちるだろうか。生きる時深い欲望を持ち、常にあれこれを貪り、悪いことをもたくさんやって大きな瞋恚心をも持つ人が、地獄に堕ちる可能性がある。餓鬼道に堕ちるのは、生きる時善行を惜しみ、やっても不承不承で、他人の善行を見てまずいことを言ったりもするからだ。餓鬼道に堕ちるかどうか生前にどう見れば分かるだろうか。ますます損得にこだわる、ますますケチになる、何を見ても気に入らないなどの振舞から分かる。年取ったら瞋恚心が甚だしいお年寄りもいる。子供は不孝だ、眷属はどうだこうだなど、あれこれを言う。これらの人が地獄道に堕ちる可能性は大きい。これらのことから分かるのだ。仏菩薩に教えてもらう必要もない。全て因果だ。自分に悪道に堕ちさせないためには、上師と仏菩薩の手伝いのほか、まず自分自身は善男子、善女人、不瞋恚、不愚痴、不貪欲を行動で示さなければならない。この点は極めて重要だ。

続いて経典に『文殊師利、是の地蔵菩薩摩訶薩は、過去久遠不可説不可説劫の前に於いて、身大長者の子となる。時に世に仏あり。号して師子奮迅具足万行如来と曰く。時に長者の子、仏の相好の千福荘厳せるを見て、因て彼の仏に問玉う、いかなる行願をなして、而も此相を得玉えるや。』がある。

ここから、釈迦牟尼仏は、地蔵菩薩はどのような原因で地蔵菩薩になるまでに修行したかを説明した。地蔵菩薩は於過去久遠不可説、不可説劫前、この言葉は、地蔵菩薩はかなり昔に証果できたという、先のリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を裏付けた。仏が不可説と言った時、不可説は、人類の数字でも計算できない、人類の言葉でも説明できない、人類の認知でも説明できない、つまりずいぶん大昔、地球が現れる前の意味だ。地球が現れたのは数百億万年前のことだから、この時間もっと長い。

『身大長者の子となる』の長者は老人でなく、古代の観点から言えば、族長、酋長、田舎で徳望のある人になる。普通の人民ではない。つまり地蔵菩薩は積悪の家でなく、積善の家に生まれたことだ。当時『師子奮迅具足万行如来』と呼ばれた仏がいた。その世に長者の子として生まれた地蔵菩薩は、瞻礼の時に仏のよい相を見た。ここの相は、木や銅で作られた像のことではない。仏が在世の時の相のことだ。『千福荘厳』とは、千種もの福報により仏の相は荘厳になった意味だ。そのため、地蔵菩薩は、仏はどんな行為をしてどんな願いを発願してその荘厳な相になれたかと、仏に尋ねた。

そして、『時に師子奮迅具足万行如来、長者の子に告げ玉う。此身を証せんと欲せば、当に須く久遠に、一切受苦の衆生を度脱すべし。』がある。仏と同様な荘厳な相を得るには、永久に一切の衆生を済度し、苦しむ一切の衆生を解脱させなければならないと、仏は答えた。意味は、輪廻する衆生がいる限り、済度と解脱のために助けてあげなければならない。

次は『文殊師利、時に長者の子、よって発願して言く。我れ今より尽未来際、不可計劫、是の罪苦、六道衆生の為に、広く方便を設け、尽く解脱せしめて、而して我れ自身方に仏道を成ぜん。』ここで、地蔵菩薩は大願を発した。地蔵菩薩が大願菩薩とも呼ばれているのは、地蔵菩薩の願は師子奮迅具足万行如に習ったからだ。これは私たちは自ら願を作り出す必要がないことを表している。私たちの願は何れも凡人の願に過ぎない。菜食を発願して体の健康を求めたいと願うことは一例だ。しかし、どの経典にもこのような願いが書かれなかったから、このように願っても無駄になる。また、金儲けができたから、菩薩像を作ると発願する人もいる。経典の中はこのことも書かれなかった。経典にない願は何れも虚偽の願だ。仏菩薩を脅かし、仏菩薩に交換条件を出して何かを叶えてくれなければ、自分はやらないと言うことになる。自分のほしくないものをくれないように仏菩薩に願ることは脅かしではないか。

仏経の中で言われている何れの願も修行、利益衆生のためのものだ。しかも、必ず仏、菩薩、上師にどう発願するかを教えてもらう必要がある。発願したければ、自分で発願するわけではない。地蔵菩薩を拝む人もいるし、観音菩薩を拝む人もいる。これは過去世に彼らが某菩薩の話した願力を学んで聞いたから、このような願を発して願力を実践したからだ。だから、何某の菩薩と縁があると思ってもよいが、自分が観音菩薩のそばにいる童子だと思ってはいけない。何某の菩薩の願を学びたい、同じく発願したいから、その菩薩に接触することになるわけだ。

経典に、地蔵菩薩が仰った『我れ今より尽未来際、不可計劫』があるが、未来が尽きるまでという意味だ。当然、未来は尽きるものではない。輪廻を繰り返す六道の衆生がいる限り、未来は永遠に存在する。未来は仏、主(キリスト教の神)や神祇が創造したものではない。私たちが創造したのだ。私たちが輪廻しなければ、未来は存在しない。しかし、衆生はきっと輪廻する。何故なら、衆生の数はあまりにも多いからだ。ただ一人の衆生だけでも輪廻すれば、未来は必ず顕れる。尽未来際はあり得るが、どのくらいの時間がかかるかは分からない。不可計劫とは、時間の計算ができない意味だ。

『是の罪苦、六道衆生の為に』は、罪を犯して受難する六道衆生(天、阿修羅、人、地獄、餓鬼、畜生)のためだという意味だ。世界中の宗教は何れも昇天できたらよいと主張しているが、仏にとって、天界の衆生も輪廻するし、天界の輪廻は苦の中にあるから、天界も苦しい。ほかの宗教は、天界は十分によい境界だと考えている。日本、西洋、中国の宗教の何れも、人類は死後天に帰ると考えている。何故人類は天界に帰るのを希望するだろうか。ほかの宗教が形容する天堂でいろんな享受ができるほか、更に重要な概念は、地球の人類はチンパンジーから進化されたものではないことだ。もし、人類はチンパンジーから進化されたものだったら、全てのチンパンジーは人間に進化するはずだ。仏経では、人類は光音天から飛んで来たと書かれている。人類の祖先は天から来たから、人類には天界の遺伝子がある。それで、天界に帰りたがるのだ。

しかし、人類は地球にいる時たくさんの悪行をした。殺生したり、毎日たくさんの魚介類を食べたりするようなことしては、昇天できるわけがない。殺生しても昇天できると思う人が多いが、しかし、これははっきりしている。今生に殺生したことのある人は天界に行けるはずがない。修行することがあっても鬼道に行くことになる。肉食する人は皆鬼道に行くことになる。何故なら、天界の人は殺生しないからだ。殺生したら、天界に行けるはずがないのだ。

『広く方便を設け』の方便はいい加減の意味ではない。衆生の有するそれぞれの縁、業力、根器、民俗に合わせて各種の方法を用いて衆生を助け、衆生に尽く解脱せしめて。『而して我れ自身方に仏道を成ぜん。』は地蔵菩薩の発願だ。即ち、例え一人の衆生だけでも、六道を輪廻していれば、地蔵菩薩は成仏しない発願だ。地蔵菩薩の願は単に『地獄不空、誓不成仏』ではない。この段落の言葉によると、六道衆生は一人だけでも輪廻していれば、地蔵菩薩は決して成仏しない。この願は立派だ。地蔵菩薩は衆生を助けるため、永遠に成仏しないから、立派だ。仏法の概念で言えば、地蔵菩薩は仏だ。しかし、仏と菩薩の違いはただ一念にある。仏は衆生を済度するため、何の罣礙もなく、受け身の立場にある。あなたたちが願い、そして仏との縁が来れば、仏は現れる。一方、菩薩は衆生の済度をずっと気に掛けている。この煩悩が破られていないから、菩薩のままだ。

仏が戻って来て菩薩になるのは、衆生のことを心がけているからだ。その心配がなかったら、衆生を済度する力も弱くなる。仏の心は寂静であるのに対し、菩薩の心は動く。衆生を済度したいという願が残っているからだ。地蔵菩薩の願は、衆生を済度しきらなければ、例え虚空に一人の衆生だけが残るとしても、地蔵菩薩は成仏しない。この話は、成仏は単に一つの概念だと示している。成仏は簡単だが、もちろんそうなれる段階までの修行も必要だ。また、経典も『是をもて彼の仏の前に於いて、斯の大願を立つ。』を言っている。地蔵菩薩は仏の前でこのように発願したから、冗談ではなく、熟慮のない発願ではなかった。

そしては『于今百千万億、那由他、不可説劫、尚お菩薩たり。又過去不可思議、阿僧祇劫に於いて、時に世に仏あり、号して覚華定自在王如来という。彼の仏の寿命、四百千万億阿僧祇劫なり。像法の中に、一人の婆羅門女あり、宿福深厚にして、衆の欽敬する所、行住坐臥に、諸天衛護せり。其母邪を信じて、常に三宝を軽んず。』

ここは地蔵菩薩の別の身を説明している。地蔵菩薩はあなたたちの思うように、一世だけで大願地蔵王菩薩に修得できたわけではない。あなたたちも一世だけで全部理解でき、悟れるわけではない。どうすればよいだろうか。今すぐ知りたい、理解したい、悟りたいと思う人が多いが、簡単ではないのだ。地蔵菩薩でも長い時間の修行を経たのだ。私たちは今世に仏法を学んでいるから、地蔵菩薩はまず法門を開いてくれる。即ち、十善法の修行、恭敬、瞻礼をしていれば、少なくとも三悪道に堕ちることはないし、未来世においても法の学習機会がある。密宗の観点から言えば、上師は今生において輪廻から解脱するようにしてくれることになる。輪廻せず、阿弥陀仏の所に行けたら、初めて仏果を修得することができる。

今日の内容は仏経の説明だが、皆に言いたいのは、修行は、自分が分かった、何でも知っていると思ってはいけないことだ。1~2年も開示を聞けば、自分は修行できたと思ってはいけない。本当にできたら、地蔵菩薩よりすごいではないか。しかし、多くの人は仏寺に行って数回、十数回の仏経を聞いてすぐ自分は何もかも分かった、自分はたくさん聞いたと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは台湾で『宝積経』を開示した。その中にある段落は、菩薩道の修行をしていたら、多聞慢があってはならないと言っている。たくさん聞いたから、よく分かったと思ってはならない。こんな態度は傲慢だ。

『于今百千万億、那由他、不可説劫、尚お菩薩たり。』は、地蔵菩薩は数えきれない劫を経ても菩薩のままだという意味だ。『又過去不可思議、阿僧祇劫に於いて、時に世に仏あり』は、仏の話した数字は、今になっても解明できた科学者が一人もいないことを指している。那由他劫も阿僧祇劫も以前梵語の数字で、兆を超えて表せない数字だ。『、号して覚華定自在王如来という』とは、当時ある仏は覚華定自在王如来という名号の意味だ。『彼の仏の寿命、四百千万億阿僧祇劫なり。』の意味だが、阿僧祇劫だけでも、数千万億年の時間だから、聞くだけで十分に頭を痛ませてくれる数字でこの仏の本命は四百千万億阿僧祇劫もあることを現している。

『像法』は何だろうか。釈迦牟尼仏の仏法は、地球で正法時代、像法時代、末法時代に分かれている。仏の在世の時間と滅度後の最初の500年を正法時代と言い、つまり、その時期の修行者は皆100%仏の教えに基づいて仏法を習い、修行した。その後の500年は像法時代だ。修行はしたが、ちょっと手間が省かれた。衆生の根器の違いもあり、福報を聞いた者もいたし、聞き落とした者もいたから、像法(法に似た仏法)と称したが、程度は少々足りない。100%の正法ではない。そして、末法時代、私たちのいる今の時代になった。末法時代は12000年ある。その後釈迦牟尼仏の教法は地球に存在しなくなる。56億万年も待って弥勒菩薩が成仏のためにやって来る時にならないと、それまでに仏法は存在しない。

末法時代は大変だ。誰でも一部の仏法を掴んで自分の修行のための仏法としている。だから、私たちの生まれた末法時代に、正式に仏法を教え、説明する人は殆どいないし、稀にいる。そのため、仏経は、末法時代に邪師は恒河沙ほど多いと言っている。つまり、仏法を間違えて説明し、捻じ曲げる者が多いことだ。出家者は肉食してよい、結婚してよいような間違った言い方は一例だ。これはただの民俗だ。修行者ではない。末法時代に残った仏法は限られているから、末法時代に阿弥陀仏を唱えるように皆に勧めるのは、あなたたちは単に禅宗の学習で生死を解脱する条件、根器を持っていないからだ。だから、この一生は阿弥陀仏を唱える必要がある。

『像法の中に、一人の婆羅門女あり、』とは、この仏の寿命は像法時代にあり、一人の婆羅門女性がいる意味だ。婆羅門は古インドの梵語用法、上級、貴族のことを指している。『宿福深厚』は、その女性は累世においてたくさんの福を修めた意味だ。『衆の欽敬する所』は、その婆羅門女性に出会った時、大衆は敬意が生じ、分を超えた念頭はなかった意味だ。

もし、あなたたちは今世に女性に生まれ、あなたを口説きたい、好きになった男性が多い。それは福がないことだ。もし、あなたはきれいな人で、人に恭しく接してもらえたる。それは福があることだ。賞賛されることもそうだ。男性だったら、二枚目な顔をして人に『小鮮肉(台湾の流行語、若い+爽やか+細マッチョのイケメンのこと)』と呼ばれるのも福がないことだ。修行者は荘厳な相をするから、人に親しくなりたいと思われる。それは少々の福があることだ。あなたたちは小鮮肉を見て何らかの意念が生じるのは、その男性に福がないからだ。女性がきれいな顔をしており、人に非分な念頭が生じられるのも、福がないことだ。仏経はこの点について特別に触れた。『普門品』も、観音菩薩に願って娘が生まれたら、その娘は人に尊敬されることを言っている。理由は何だろうか。福があるから、当然相もよくなる。人はその顔を見ても非分の念頭が生じない。

『行住坐臥に、諸天衛護せり。』とは、歩く時も、止まる時も、寝る時も、座る時も、全ての天が守って防衛してあげた意味だ。しかし、『其母邪を信じて、常に三宝を軽んず。』は、今こうしている人が多い。『軽』は見下す意味だ。ある日本人の弟子は、日本に仏法を見下す人が多いと、リンチェンドルジェ・リンポチェに話した。仏法は悪くない。悪いのは間違えた方法で仏法を利用した人だ。見下すようなことを言う人はよくない。仏法を宗教、理論、学問として見るのは別として、仏法は地球に存在して2500年以上もなったし、未だに存在している。ほかの学問、学説よりも長く存在しているのは、仏法は存在する価値があるからだ。利益衆生のためになるからだ。あなたたちは信じなくていいが、決して仏法を見下してはならない。仏法を見下すことは三宝を軽蔑するのと同じだ。

確かに一部の修行者のせいで、三宝は蔑まれることもある。例えば、肉食、飲酒をする出家者がいる。これは経典の中で為してはいけないことだと明記されている。これらのことをする修行者がいたら、三宝は蔑まれてしまう。仏教は喫煙しないことを教えてくれているが、ここでタバコを吸い、また別の所で写経を人に教えるなら、聞いてくれないのは当たり前だ。『あなたたちは仏法で金儲けをしているんだ』という言い方も常軽三宝になる。

経典にも『この時聖女広く方便を設け、其母を勧誘して、正見を生ぜしむ。而も此の女の母、未だ全く信を生ぜず。』がある。両親は業障が深いから、いくら忠告してあげても聞いてくれないと言う人が多いが、地蔵菩薩の前世である婆羅門女も福報が深厚だった。仏の言った福報深厚は私たちが理解できるものではない。そんな深厚な福報があっても、三宝を見下さない忠告を自分の母親に聞いてもらえなかった。だから、あなたたちはただ5、6年皈依しただけで、両親に聞いてもらいたい立場はあり得ないだろう。あなたたちはよくできていないのではなく、実際にやっていないのだ。

経典の中に、婆羅門女は一切の方便を尽くした。広説とは利益衆生のための仏法なら、婆羅門女は何もかも母親に教えたうえで、あらゆる方法を使い、仏法が衆生に与える利益を母親に知らせた。母親がその一生に福報が得られ、その一生においてすぐ改めるのを望んだわけでなく、未来に仏法の助けが得られるように望んだのだ。あなたたちは自身のことでさえ改めていないのに、自分と同様に仏法を学ぶよう両親に求めることは無理だろう。

『其母を勧誘して、正見を生ぜしむ。』だが、あなたたちのことだったら、一回言って聞いてもらえなかったら、すぐ無視してしまい、自分が修行して回向してあげ、何時になったら改めてくれるかを見るだろう。忠告とは穏やかに説得する意味だ。悪口ではない。『菜食しなければ、地獄に堕ちることになる。』というふうに両親に言わない。弟子としてあなたたちは気を付けなければならない。自分が皈依したからと言って仏法で両親を非難してはならない。ここの意味は、いろんな方法で忠告し、正見を生じて三宝を見下さず、恭敬するよう誘導してあげることだ。それでも、聞いてもらえなかったら、彼らの責任になるが、私たちは忠告し続けなければならない。

一つの例を挙げよう。家族の済度をリンチェンドルジェ・リンポチェに求める人に、リンチェンドルジェ・リンポチェは、その家族は知っているかどうかを聞く。知らないと答える人がいる。言えない理由でもあったか。仏菩薩に願うことは悪いことだろうか。ほかの宗教を信仰する人は常に主のことを口にしているのに、何故仏教徒は仏を口にすることができないだろうか。あなたたちはみんな同じだ。何かの状況があると、仏菩薩に願うが、普段は仏のことを頭の中に全く置かない。仏のことを言うのが恥ずかしいと思っているようだ。話してあげる必要があるのだ。話してあげても聞いてもらえなかったら、その人の決定だ。それでも、私たちは仏菩薩のやり方を習わなければならない。

地蔵菩薩は某世に婆羅門女だった。仏菩薩に接する機会を失くさないよう、広く方便を設け、其母を勧誘して、正見を生ぜしむこととした。母親を改めさせて正当な見解を持たせるように試みた。ところが、あなたたちは何回しただろうか。ただ一回で親は聞いてくれないと思う。親はこうなんだから、自分だけがよく修行すればいいと思う。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の母親に仏菩薩を信じてもらうため、どれほどのことをしたか。息子は仏法を習ってから大変よくなり、いつも母親のことを考えてくれていると、母親に思わせることができたら、母親も自然に仏法を習いたくなる。

私たちは、自分が仏法を学習して両親に回向すれば、両親も私たちと一緒に仏法を学ぶようになると思ってはならない。あなたたちに回向する能力がない。回向とは、自分は何もいらない、全部をあげることだ。あなたたちにはできるだろうか。できないなら、地蔵菩薩が両親を助けた方法を学ぶことだ。広設とは忠告を止めないことだ。親に黙れと言われても、どうしても信じないからと言われても、構わない。とにかく言い続ける。食事の時は話すなと親に言われても構わない。飲み込んだ後、穏やかに、ゆっくりと話してあげる、忠告する、勧誘する。ほかの方法で仏法学習の利益は何かを両親に分からせ、正見を生じさせ、三宝を蔑むことを止めさせる。

『而も此の女の母、未だ全く信を生ぜず。』という言葉は妙だ。婆羅門女の母親は、完全ではないが、ちょっとは信じた。全く信じないことよりはましだった。ちょっとでも信じることができたら、将来は助けをもらう機会がある。全く信じないなら、機会は全くないのだ。『久からずして命終して、魂神無間地獄に堕在す』は、婆羅門女の母親は死後に地獄に堕ちたことを言っている。無間地獄に堕ちるは大変かわいそうなことだ。何時になっても出てくることはないし、例えその無間地獄が壊れても、別の世界の無間地獄に引越すことになる。どんな人が無間地獄に堕ちるだろうか。仏法、仏像と仏経を誹謗する、仏に血を流せる、阿羅漢を殺す、親を殺すなど極めて悪いことをする人だ。何時無間地獄から出て来られるかは、期限も時間も分からないのだ。ずっとその中に閉じ込められる。入ったら、出て来ることはない。

地獄は死んだ後分かることだ、仏菩薩は皆を脅かし、怖がらせることで仏法を学ばせたいと思う人もいるが、そうではないのだ。仏法はほかの宗教と違う。ほかの宗教は主を信じなければ、地獄に堕ちると主張しているが、仏の言った地獄は違う。あなたの行為があなたを地獄に堕ちらせるのだ。罰としてあなたを地獄に入れることではない。或は仏を信じないから、地獄に堕ちることでもない。簡単に言えば、三宝を蔑む人のことだったら、因果を信じることもない。三宝を蔑むことは、衆生の肉を食べてはいけないと、仏ははっきりと教えてあげたのに、自分は信じるが、肉食を続けると思うようなことだ。その罪は無間地獄に堕ちることになる。

だったら、いっそう仏法を聞かないようにする。そうすれば、何事も起こらないじゃないかと、あなたたちは思うだろう。確かに、何も起こらないが、今後仏菩薩と善知識もあなたを助ける機会がないことになる。本当に何もないのだ。仏法を聞いて三宝を蔑むと、無間地獄に堕ちることになると誤解しないでほしい。意味を理解しなければならない。仏法は今でも世間で伝われている。誰でも軽々と仏法が聞ける。東洋人、西洋人、中国人や日本人を問わず、皆も同じだ。文化大革命の時代に何もかもがぶち壊された。仏経も、仏像も壊されたが、仏法は依然として存在している。何故だろう。釈迦牟尼仏の仏運がまだ存在しており、消滅されなかったからだ。今もまだ聞けるし、文化大革命の時代も聞けた。仏運が存在すれば、誰もが仏法を聞く機会、因縁がある。

ここの内容は皆の注意を喚起するためのものだ。信じなくてもいいが、決して仏法を見下してはならない。修行者の話は変だと批判してはならない。自分には自由意志があるのに、これはだめ、あれはだめだと決められることに対して納得できないと思ってはならない。これらはリンチェンドルジェ・リンポチェが発明したものではない。仏が仰った言葉だ。仏が教えてくれたことは全部私たちのためだが、無理やりに私たちにやらせようとしていない。婆羅門女もたくさんの方便を設けて自分の母親を口説こうとしたが、強引に母親にさせなかった。ほかの宗教とは違って、信じないと言ったら、刀で殺されることはない。仏は、信じなければ、地獄に堕ちるぞと言わなかった。婆羅門女も母親を説得しようとしたが、決して脅かさなかった。あなたたちは仏経を聞きに来たから、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏経の話を説明してあげなければならない。

だから、私たちは親にも眷属にも同じような方法を取るべきだ。信じなければ、地獄に堕ちると威嚇、脅威してはならない。こんなことでもしたら、ほかの宗教と全く同じではないか。私たちは手本を見せたり、たくさんの方便を設けたりして説得すべきだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの母も仏法を習う前に肉食していた。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは母親に強いてさせなかったし、『自分はリンポチェだ。あなたはリンポチェの母親なのに、肉食している。見っともない。』のようなことも一切言わなかった。

自分の母だからこそ、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法で母親に対して説教するにはいかなかった。母が信じないのはその自身の縁だと、リンチェンドルジェ・リンポチェは知っていた。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは地蔵菩薩の『広く方便を設け、其母を勧誘する』という方法を覚えた。母は車に乗るのも大変なので、リンチェンドルジェ・リンポチェは椅子の昇降できる車を用意した。車に乗る時はとても便利なので、母も喜んでくれた。これで法会に参加する時はもっと専念できるようになった。これは広設方便であり、母親も子供の孝行、気遣いが分かる。私たちは親に対してこんなことをすべきだし、更に全ての衆生にもこんなことするべきだ。仏法を利用して他人を威嚇したり、脅威したりしてはならない。参拝しなければ、不運になると言ってもならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのようなことを言ったことはない。お参りに来ないのはその人自身のことだからだ。

次に出て来る経典の言葉は『時に婆羅門の女、母の在世に因果を信せず。はかるに当に業に従いて、必ず悪趣に生ずべきを知り。』婆羅門女には福報があったから、聞かなくても何もかも分かっていた。多くの人はリンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねる。自分と親がガンに罹ったのは何かの悪いことをしたか、子供が不孝になるのは何故だと尋ねる。こんな質問した人は因果を信じない。更に自分の前世は何かの過ちをしたかを質問する人もいる。今世の過ちを認めていないのに、前世の過ちを認めるはずはないだろう。こんな質問をする人は、自分は今世に過ちを犯していない、ただ前世に何かをしたから、今世において罰が当たったんだと思っている。これは不信因果、必堕悪趣の意味だ。

実際に、自分の両親はどこに生まれるかを仏菩薩に聞く必要はない。簡単に一言で言えば、あなたの両親は今生において肉食をしたか。あったら、地獄に堕ちる可能性が高い。このことは仏経の中にあるし、『地蔵経』にもある。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも肉食しないようにあなたたちに言い聞かせている。それは、肉食をしたら、地獄に堕ちると地蔵菩薩は言ったからだ。あなたたちは地蔵菩薩を信じているのに、何故地蔵菩薩の言葉を信じないのか。

これはきっと中国語の翻訳だと、あなたたちは思うかもしれないが、中国語翻訳は梵語に基づいたものだし、仏の話に基づいて翻訳された内容だ。誰かの発明ではなかった。仏の言った経典の内容と修行方法は、何れの文字に翻訳されたからと言って変わりはないのだ。修行方法の変化は、法を広めた人が守り抜けなかったからだ。やり通そうとしたら、信衆がいなくなるのを恐れたからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは日本で法を広めているが、ほかの所よりも難しい。何故なら、日本人に喫煙しない、肉食しないことを言うのが難しいからだ。しかし、いくら難しくても、リンチェンドルジェ・リンポチェは法を広めなければならない。地蔵菩薩の法門を修めている以上、一人でも二人でも、とにかくできるだけのことをして済度してあげる。あなたたちは聞くか、聞かないか、受けるか、受けないか。全部あなたたち自身の決定だ。

今日ここにいる日本人の信衆は少ないが、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示する仏経を聞いて彼らはますます怖くなるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示内容は仏経に基づいたものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェ自分の発明ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはわざと日本で『地蔵経』を開示するが、理由は『地蔵経』は因果の話だ。しかし、因果を信じない人が大勢いる。因果は仏の発明ではない。今時の医者も肉をたくさん食べる人がどうなるかは分かっている。医療の仕事をしているある弟子は、医学の観点から、肉をたくさん食べると、ガン細胞の分化が増やされ、脳中卒と心血管疾患に導くと言ったことがある。」

「これは因果だ。」リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。因果を仏の発明だと思わないでほしい。因果は私たちを罰するためのものだ、或は因果は神話だと思わないでほしい。実際に医学では証明されている。それでも、あなたたちは肉食を止めない。おかしいのではないか。医者の話も聞かないし、仏の話も聞かない。そのため、経典の後段に、地球の人類が全宇宙で一番済度しがたい、教えを全く聞かない、最も頑固だ、大変対応しにくいという地蔵菩薩の言葉がある。

午前の開示はまずここまでにする。午後は開示を続ける。怖いと思う人は午後の部に参加しなくてよい。地蔵菩薩は遠慮しない。仏も遠慮することはない。あなたたちに間違えさせるような話を、仏菩薩は言わない。仏の言葉は何れも皆を改めるためのものだ。未来世に過ちを繰り返さないようにしてくれるものだ。過ちを繰り返さず、改めることができたら、きっと明るい未来がある。ところが、修行をする必要はない、人間は死ぬものだから、仏法を学ぶ必要はないと主張する宗派がある。確かに人間は死ぬものだが、こんな思いを持っていたら、生きる時勉強する必要もないだろう。お金を儲けるのも、結婚するのも必要がないだろう。これらのことを一切する必要がないなら、死ぬまでずっと待っていけばいいんじゃないのか。

人間は矛盾だ。前の内容も同じことを言っている。仏の話した仏法を聞いて疑惑が生じる人もいるし、自分の理念が正しいと思う人も大勢いる。ガンに罹ったから、いっそう遊びに出かけて死ぬまで遊び続けると思う人もいる。おかしいことではないか。ガンに罹ったと知っているのに、改めないのは何故だ。病気で苦しまれないためでも、改めないのは何故だ。自分と賭けをしている人も多い。臨終前にガンで大変苦しませられることを信じない。リンチェンドルジェ・リンポチェは死亡について専門家だ。全てのガンの症状を見てきた。死ぬ前に苦しまない人は一人もいなかった。その痛みはあなたたちが理解できるものではない。

日本では魚介類を食べる人が特に多いので、殺業が特にひどい。リンチェンドルジェ・リンポチェはわざとここで『地蔵経』を開示したが、たくさんの日本人に信じてもらいたいからではない。今日経典を開示してあなたたちの目で見られない衆生に聞かせた後、この土地に善の助けを与えることを望んでいるからだ。さもなければ、火山噴火、津波が絶えずに起きている。どうしよう。お金があっても残せない。リンチェンドルジェ・リンポチェが日本に来て法を広めるのは自分のためではない。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身のためなら、商売の観点から見ると、大変損することになる。こんな荘厳な道場を建てて仏法を聞かせることまでした。開示はここまでにしよう。午後2時半から続きを話す。

参加者全員は恭しく起立し、合掌して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを待ち、一斉に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を申した。

午後2時30分から、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは再び法座に上がり、『地蔵経』の開示を続けた。

午前は、婆羅門女は母親が在世の時因果を信じず、悪業に堕ちるべきだと知った話をした。だから、経典に『遂に家宅を売りて、広く香華及び諸の供具を求め、先仏の塔寺に於いて大いに供養を興し、覚華定自在王如来の、其形像、一寺の中に在りて、威容を塑画して、端厳畢く備るを見る。時に婆羅門の女、尊容を瞻礼して、倍々敬仰を生ず。私に自ら念言すらく、仏は大覚と名く。一切智を具し玉えり。若し在世の時ならば、我が母死して後、儻し来りて仏に問わば、必ず処所を知らしめんと。』がある。

この段落の内容は、婆羅門女は、母親が在世の時因果を信じず、必ず悪道に堕ちることを知ったから、自分の家を売ってたくさんの香花を求めた。私たち現代の人間にとって、お香と花は簡単に手に入るものだが、昔の時代に本当の花と本当のお香を手に入れて仏に供養するのがとても難しかった。今時、植えられる花は多いが、以前はそうではなかった。また、いい加減に1本のお香を買ってよいことでもない。仏経によると、本当に仏の供養に使われるお香の種類について、顕教ではいろんな種類に区別されているし、密法も同じだ。そのため、経典の話に基づいて特定の材料で作られるお香でなければ、仏への供養に使ってはいけない。

『及び諸の供具』は、仏の前に供えられるランプ、法器など、供養に使われるあらゆる器具のことだ。『先仏の塔寺に於いて大いに供養を興し』は、婆羅門女は自分の見た全部の仏寺で大きな供養をしたという意味だ。『覚華定自在王如来の、其形像、一寺の中に在りて見る。』とは、婆羅門女はある寺で仏像を見た意味だ。『威容を塑画して、端厳畢く備る。時に婆羅門の女、尊容を瞻礼して、倍々敬仰を生ず。』の意味だが、ここで皆に体得してほしい。観光の心構えで仏寺に行く人が大勢いるから、仏像を見る時は何の感覚もない。それは仏像の作用を認識する福報がないからだ。私たちはこのような時代に生まれた。自ら仏に会うことはないから、三宝を通して仏法に接触するしかない。仏像はその中の一つだ。

しかし、仏像は単に物に過ぎない。どうしたら仏像を等身仏と全く同じにすることができるだろうか。仏像を作る人、仏像の開光をする修行者と仏像を参拝する人、この三つの条件が備わらなければならない。もし、参拝する人は供養する心を持たず、ちょっと拝んでお香を燃やすことでもすれば、仏は何でも応じてくれるべきだと思うなら、その人は仏像に対して婆羅門女ほどの敬仰する心が生じない。生じる福報がないからだ。あなたたちは仏像、上師に対して敬仰する心が生じられないのは、善の供養心を持っていないからだ。婆羅門女は自分のために供養したわけではない。三悪道から母親に離れさせたいからだった。今の人は祈る時、求めれば、上師、仏菩薩に何もかもしてもらいたいと思う。しかし、先言った供養の条件は全然果たしていない。

仏経の言っている条件から言えば、あなたたちは何の供養もしていないことになる。もちろん、以前の家は今ほど高くなかったが、しかし、皆は気付かなければならない。経典内の『家宅』とは婆羅門の女が住んでいた家のことだ。供養する時、一番大事なのは本人の心構えだ。いくらあげることではないし、何か特別なものを供養したほうがよいと言うことでもない。何のために供養するか、その心構えが大事だ。金儲け、健康などを求めるなら、供養は全然役立たない。しかし、懺悔心、恭敬心で供養していたら、供養の効果は顕れる。

地蔵菩薩は最も貴重な供養を以て示してくれた。以前の時代に家を持つのはとても簡単ではなかった。もちろん、今時もそうだが、以前の時代に自分の住む家を持つのは大変難しかった。婆羅門女はまず家を売ってよいお香と花、そして全ての供仏用品を求め、仏寺、仏塔で供養した。そして、ある仏寺で覚華定自在王如来の形象で書かれた絵を見た。大変端厳だった。

『時に婆羅門の女、尊容を瞻礼して、倍々敬仰を生ず。私に自ら念言すらく、仏は大覚と名く。一切智を具し玉えり。若し在世の時ならば、我が母死して後、儻し来りて仏に問わば、必ず処所を知らしめんと。』の意味だが、当時、婆羅門女は私欲なく、何も留保せずに供養したから、仏寺で仏像を見た途端、自然に敬仰、恭敬、仰慕する心が生じた。これは福報があるからこそできたことだ。これたくさんの仏寺、仏像を見ても、絵画、骨董にしか見えず、全く敬仰の心がないのは、供養していないからだ。何故供養しないのか。仏像を見ることは簡単だと思っているからだ。

仏像を見るのは簡単だ、誰かに描いてもらえばいいと思っている人がかなり多い。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を学んで以来、人がなかなか見られない仏像をたくさん見てきた。最近も大変特別な仏像を見た。特別な仏像を見たことは修行がよくできているということだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェは敢えてこんなことを言わないが、少なくとも自分の福報で他人が見ることのできない仏像を見たのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれらの仏像を見ると、敬仰の心が生じる。私たちは福報が少ない、因縁が浅い時代に生まれた。生仏に会う資格がない。しかし、仏像を見て心は感激し、更に敬仰する心が生まれ、仏に衆生を利益してもらいたいと思うことはできる。

瞻礼尊容の意味は鑑賞する目で、或は骨董を見る目で見るのでなく、仏像を仏として見ることだ。『私に自ら念言すらく、仏は大覚と名く。一切智を具し玉えり。若し在世の時ならば、我が母死して後、儻し来りて仏に問わば、必ず処所を知らしめんと、』は、婆羅門女は、『仏は一切の知恵を備えているはずだ。仏が世間にいるなら、母が死んだ後、仏に聞けば、きっと母の居場所が分かる。』と言った意味だ。

続きは『時に婆羅門の女、垂泣良久うして、如来を瞻恋す。忽ち聞く空中に声あり、曰く、泣者聖女、至りて悲哀すること勿れ。我今汝が母の去処を示さん。婆羅門の女、合掌して空に向こうて、而も空に白して曰く。是れ何の神徳ぞ。我が憂慮を寛む。』

婆羅門女は仏像の前で跪いて長らく泣き続けた。ずっと仰ぎ見て未練があって離れたくなかった。突然、空から『泣いている聖女』を言った声が聞こえた。ここではわざと『聖女』が使われたが、仏が聖女を言う時は、その女性の十善は完璧であるうえで、為したことは親孝行のためだし、自分自身のためではないことを意味した。リンチェンドルジェ・リンポチェに聞けば、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の親はどの道に生まれたかと答えるべきだと多くの人は思っている。彼らはちょっとして供え物でも提供すれば、何もかもが変わるべきだと思っている。『地蔵経』のこの段落から見ると、あなたたちは全く供養しておらず、仏菩薩にも求めておらず、ただ自分の基準を満たすように自身の欲望で仏菩薩を脅かしていることになる。

何故こんなことをするだろうか。自分に能力があれば、両親を助けられるべきだ。親を助けることを仏菩薩に求めるのは、親が在世の時、自分は子女として親を変えられず、親は福を持っていなかったことだ。どうしたら、親に仏菩薩の助けが得られるための福報を与えられるか。親には必ず福報が必要だ。しかし、福報はどう生まれるか。供養からだ。私たちは子女として親の代わりに福報を累積することが必ずできる。

仏が婆羅門女のことを聖女と呼んだのは、一般の信衆扱いも、一般の参拝者扱いもしなかったことだ。婆羅門女は一般の人でなく、私欲の満足で仏に求めた人ではなかったと、仏は知っていた。そのため、仏は悲しまないよう教えてあげてすぐ母親の行き先を教えてあげた。『婆羅門の女、合掌して空に向こうて、而も空に白して曰く。是れ何の神徳ぞ、我が憂慮を寛む。われ母を失うてよりこのかた、昼夜に憶恋すれども、母の生界を聞知すべき処なし。』婆羅門女は、どの神明が指示してくれるかと聞いた。彼女には見えなかったから、婆羅門女は報身仏と法身仏が見えなかった。人の死ぬ前に、化身仏は現れて引接しに来ない。

仏菩薩が見えたと思ったのはただの幻想だ。仏が見える時はまず死ぬ時だ。死ぬ前に仏が引接に来てくれる時だ。その時は化身仏が来てくれる。そしては、生きる時菩薩の果位が修得できたら、報身仏が見えるのだ。婆羅門女は修行しなかったが、自分自身の基準はきちんとしていたから、仏の言葉が聞こえる能力があった。午前中リンチェンドルジェ・リンポチェが本尊を修めた時、皆は奇妙な声が聞こえたように、これは地蔵菩薩が現れたことだ。あなたたちは地蔵菩薩を見る能力を持っていないが、声は聞こえる。私たちにこんな声が聞こえたのは、人類の耳は大変すごいからだ。目よりもすごいから、聞こえるのだ。

仏は声で婆羅門女に教えた。婆羅門女には仏を見る条件がなかったからだ。今の科学の観点から言えば、婆羅門女は仏の空間に入れなかったことになる。多くの人は観音菩薩を見たと言ったが、嘘の可能性が高い。根拠、条件がなくてはならないからだ。婆羅門女は聖女の身でも仏を見ることができなかった。婆羅門女は、自分は24時間も母親のことを思ってほかに尋ねられる所もなかったと言った。その時代に上師がいなかったから、聞こうと思ってもできなかったことを、あなたたちは知っているか。古代にくじ引きも、卦の占いもなく、仏もいなかった。幸いにも婆羅門女自身はたくさんの福徳があり、因果も知っていたから、求め方が分かった。これに対してあなたたちは求め方でさえ分からない。婆羅門女はどこに行っても尋ねられなかったから、母親の生まれ場所を知りたくてこのように願った。

続きに経典は『時に空中に声あり、再び女に報じて曰く、我は是れ汝が瞻礼する所の者、過去の覚華定自在王如来なり、汝の母を憶うこと、常情の衆生の分に倍するを見て、故に来りて告げ示すなり。』を言った。

前の経典の内容に、この時は像法時代だと言われた。即ち、仏自身の体はもはや世間に存在せず、仏法と仏像だけが残された意味だ。末法時代になると、仏像はますます減っていくし、残すことさえ難しい。皆がよく知っているのは、数年前アフガニスタンにある世界最大の仏像も破壊されたことだ。人々が仏教を信じないという理由で仏像が壊されたのでなく、縁が尽きたからだ。

仏はその時、自分は過去の覚華定自在王如来であり、婆羅門女の母親を思う姿を見て一般人の様子うとは違うように見えたことを言った。一般人はちょっとだけ思って泣いて数滴の涙を流すだけ、ご飯を食べたければ食べるし、テレビを見たければ見るし、また出かけて友達に会ったりのこともする。母親のことを全く思っていない。全部嘘だ。親孝行のふりをしているだけだ。親の葬儀を終えたら、麻雀でも、よい食事でも何でもしていいと思う人も多いが、これでは求めても求められないのだ。経典のこの段落は、婆羅門女の母思いは、そのエネルギーも、感情も一般人よりも遥かに超え、親孝行の程度は甚だしかったから、仏は現れて教えてあげたことを表している。

次は『婆羅門の女、此の声を聞き已りて、挙身自ら撲ちて、支節皆損ず。左右扶侍して良久う方に蘇ぬ。』婆羅門女は声を聞いただけで全身が地面にうつ伏せになり、しかもとびかかった行動だった。ゆっくりと拝むのではなかった。四肢の関節も傷だらけになって出血した。雇い人はそばで支えていた。長らく気を失ったまま、やっと意識が戻った。婆羅門女のような人が、仏の助けがもらえるのだ。しかし、あなたたちは自ら聞きに来る。母親が死んだらどこに行くかを知りたいと、リンチェンドルジェ・リンポチェに言う。どこに行けるだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェは時々答えないで尋ねてくる人に仏を拝むように指示する。根拠はこの段落の経典内容だ。あなたたちは供養せず、供養したくもないし、恭敬もしていない。知るはずがないのだ。何故知らないか。あなたたちには知る福報がないからだ。

次の言葉は『而も空に白して曰く。願くは仏、慈愍して、速に我が母の生界を説き玉え。我今、身心将に死せんとすること久し。』婆羅門女は仏が現れたことを知ったから、母親はどこに生まれたかについて、すぐ空に向かって仏に慈悲なる教えを求めた。彼女は身も心も死期に近づいたと分かっていた。ここは、婆羅門女は母親を助けるため、罣礙する心を止めることはなかったと説明している。たくさんの人は多くても七七忌(四十九日)まで仏事をするだけで、後は知らない顔をするし、済度を求めるのもいい加減な態度をとっているのと違う。

そして、次に出てくるのは『時に覚華定自在王如来。聖女に告げて曰く、汝供養し畢らば、但早く舎に返り端坐して吾が名号を思惟せよ。即ち当に母の所生去処を知るべし。』この段落は意味深い。仏は話したが、婆羅門女には教えなかった。本来なら、覚華定自在王如来は直接に教えてあげてもよかった。しかし、仏は、供養をし終えた後、早く家に帰って仏の名号を唱え続ければ、母親の生まれ場所が分かると言ってあげた。何故仏はわざとこう言ったのか。婆羅門女の母親には福報がなかったからだ。仏が言おうと思っても、その縁がなかった。そのため、婆羅門女は仏の名号を唱え続けなければならなかった。即ち、持咒し続けなければならなかった。

持咒は自分の健康、問題解決のためだと思う人が多いが、そうではないのだ。自分自身と歴代祖先が犯した過ちを解決するためだ。婆羅門女は何故仏の名号を唱え続ける必要があったか。仏の名号は世間の輪廻から離れようと決意させてくれるからだ。だから、もし、仏は簡単に婆羅門女に教えてあげたら、婆羅門女の母親は何の感覚もなかったわけだ。婆羅門女とその母親は同じ遺伝子を持ったから、母親が死んで地獄に堕ちても、娘が仏の名号を唱え続けられたら、母親も感応できて福報が得られたはずだ。

毎日持咒することをあなたたちに教えたが、持咒がよくできれば、冤親債主はいなくなり、自分は金儲けができ、悪いことは全部起きないと勘違いする人が多い。これは間違いだ。持咒、念仏は福報の累積、知恵の表顕に役立つ。経典は、仏の名号を唱え続ければ、母親の生まれ場所が分かると言った。これで分かるはずだ。あなたたちの親はどこに生まれるかを教えてあげる能力がリンチェンドルジェ・リンポチェにあっても、あなたたちが仏菩薩と上師に恭敬しなかったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは済度しようと思ってもできない。

たくさんの人はリンチェンドルジェ・リンポチェに用事を尋ねて来たが、その時リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも一週間考えてから会いに来るように言ってあげた。何故考る必要があるのか。自分は何故仏法が必要なのか、仏法に対して恭敬心があるか、供養の心があるかについて、きっちりと考えなければならない。本当に分かったら、福報が顕れる。供養の心が起きると、実際にまだ供養をしなくても問題はすぐ解決できる。このような経験を持っている人は少なくない。この段落は、供養を終えたら、仏に知らせる福報が顕れることを言っている。しかし、多くの人は、何故供養が終えなければ、仏は分からないのかと思うだろう。仏経に、仏は大神通、力強いことが書かれているから、神社に行って手をたたけば、仏に知らせられるのではないか。こんな面倒なことをする必要がないだろう。お香をあげれば、何でも分かるはずだ。これらの考えは正しくない。仏経にはこんな記述がない。

供養する理由は何だろう。供養せず、誠意もなかったら、仏菩薩とは縁が起きない。リンチェンドルジェ・リンポチェは常にある例え話をする。仏は慈悲であるのに、何故世間に苦しんでいる人が多いし、戦争、自然災害と事故も起きているだろうか。何故仏は彼らを助けないのか。仏が助けようと思っても、助けられる縁がないからだ。仏は因果を違反することができない。例えば、誰かが悪の因を作ったにもかかわらず、懺悔心と供養の心が起ない場合だ。しかし、悪因の力は強大なものであり、その人を仏法に近づかせない力にもなる。皆は自分のことを振り返ってみなさい。急に行きたくなくなることがある。それは悪因の力が善因を超え、あなた自身が仏法に近づくのを止めさせたからだ。仏が止めたわけではない。

そのため、十分な福報、自分と仏の因縁を累積しなければならない。そうすると、仏はあなたたちの未来を変える方法を教えてあげられる。この段落は、仏は、婆羅門女に家に帰って仏の名号を考えることを要求したことを表している。あなたたちは大体お寺に行って簡単に手をたたいて鐘を鳴らすくらいしかしないが、仏に何もかも叶えてもらいたい。これで通じるなら、仏経の中にそう書かれているはずだ。しかし、これは単に民間の信仰に過ぎない。仏が教えてくれた方法ではない。仏が教えてくれた方法が、わたしたちは基本から徹底的に実践しなければならないものだ。

毎日、お寺、神社に行って祈る人は果たしてどのくらいいるだろうか。また、その中に願いが叶えられたのは何人だろうか。殆どの人は心の慰めがほしくて、自分は祈ったからと思っているが、願いが叶えられた人は僅かだ。何故僅かだろうか。鬼神は私たちを助けられないからだ。仏は果報を変えられない。皆自身で変えるしかない。仏は婆羅門女にこう言った。『あなたは供養したから、縁が起きた。だから、仏は助けてあげる。しかし、あなたの母親の未来を変えたいなら、あなたは理解する必要がある。仏が助けたいだけで助けられることではない。』

例を挙げよう、どこかの国に行けば、平安になると言われてあなたも行きたい気持ちがある時、旅の用意をする必要があるだろう。たくさんの準備をしなければならないだろう。お金、航空券、道の案内まで用意してあげても、現地の天気に合わせて衣類を準備したり、言葉を勉強したり、現地の民俗を理解したりしなければ、その土地に馴染むことは難しいだろう。もう一つの準備は行く決意だ。世間に存在する仏法も同じだ。来てほしければあなたを捕まえて来させるわけにはいかないし、本当にこうしたら、あなたも嬉しくなれない。きっとあなたが世間にいる時から係わらなければならない。つまり、仏の教えに従って振る舞うことが必要だ。

覚華定自在王如来は婆羅門女に、家に帰ったら、仏の名号をよく考えなさいと教えた。これを聞くだけで面倒くさいと思う人が多く現れる。仏はここまで言ったのに、何故言い残したのか、自分は供養したから、続けて言ってほしいと彼らは思う。仏寺に行ってくじ引きする人が多いが、期待通りのくじ出なかったら、そのくじを戻して引きなおす。神社に行って同様にくじ引きをする日本人もいる。悪いくじを引いたら、いらない、よいくじだけがほしいと思う。これはただ欲望で求めることだ。自分は何もしたくない。

次は『時に婆羅門の女、尋で仏を礼し已りて、即ち其舎に帰る。母を憶うを以ての故に、端坐して覚華定自在王如来を念ずる事。一日一夜を経たり。』婆羅門女は24時間唱え続けた。あなたたちだったら、1時間でも唱えたら、疲れて座り込んでいるだろう。あなたたちは2時間座って仏法を聞くだけであくびをし、疲れたとか、腰が痛いとか思うが、婆羅門女が仏法を求めた時の様子を見てみなさい。婆羅門女はたくさんの供養をしたにもかかわらず、祈ることに手間は省けなかった。それに対して、あなたたちは常に自分は修行している、仏経を読んでいる、佛教大学で勉強したと言い張っているが、何れも仏法と全く無関係だ。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示した内容は全部仏経の話だ。仏が教えてくれた方法だ。

婆羅門女は一日一夜をかけて覚華定自在王如来の名号を続けて唱えた。その前、仏は何時見られるかを婆羅門女に言わなかったし、婆羅門女も仏に見られる時間を聞かなかった。あなたたちだったら、きっとどれくらい唱えるか、何回唱えるか、何時まで唱えれば分かるかを聞くだろう。仏は婆羅門女に全く教えてあげなかった。仏は皆の縁に合わせているだけだ。あなたたちはどのような縁があれば、仏は合わせて助けてあげる。だから、ポイントはあなたたちの決意にある。婆羅門女には決意があったから、福報が起きたら、彼女は見えた。

そしては『忽ち自身を見るに、一の海辺に至れり。其水涌沸して、諸の悪獣多く、尽く復鉄身なり、海上に飛び走せて、東西に馳逐す。諸の男子女人、百千万数、海中に出没して、諸の悪獣に、争い取りて食噉せらるるを見る。又夜叉を見るに、其の形各異なり、或は多手多眼。多足多頭。口牙外に出で、刃剣の如し。』

婆羅門女は止まることなくずっと唱え続けた。そしたら、突然自分はある海辺に来ていることに気付いた。忽見とは、目を閉じて分からないほど持咒し続けている時でなく、意識がはっきりした時に起きたことだ。忽見とは定の境地に入っている意味だ。言い換えれば、仏の名号を唱え続け、心に仏の名号の以外の念頭は全くなく、母親はどこに生まれたかを知りたい念頭まで存在しなかった状態だ。仏が婆羅門女にそう要求した理由は何だろうか。別の空間に入りたければ、心に雑念がある時は無理だ。必ず心のあらゆる雑念を払って法界に入らなければ、見られないのだ。この程度になりたければ、私たち自身の力だけでは足りないので、上師と仏の加持が必要だ。全ての念頭を止め、清浄な本性だけを残すことができたら、求めたいこと、見たいことが見られる。

忽見は、最初から何かを何時に見たいと決めておくことではない。2007年に、リンチェンドルジェ・リンポチェが雪山で閉関した時、六道輪廻の苦しみを見た例を挙げよう。その時リンチェンドルジェ・リンポチェは見たいと望まなかったし、要求もしなかった。また、見ることも予想しなかった。その時も忽見した。突然、入定の時に光景が現れた。求めたわけではなく、そのようになるとも予想しなかったし、何かを見せるように仏にも願わなかった。法を広める人も、お経を聞くあなたたちも、もきちんと理解しなければならないが、何れの境界も人が想像するものではなく、必ず入定の時に見るものだ。

定は英語のpeacefulの同義語ではない。同義語だったら、unpeacefulの対義語があるはずだ。正しくないのだ。定の意味は心に仏の名号のほかに、何の意念もないことだ。とにかく唱えるのを続ける。人にはそれぞれの福報があるから、何時まで唱え続けるかは分からない。婆羅門女に大きな福報があったから、一日一夜で見られたが、あなたたちだったら、どれくらいの時間が必要かは分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身も閉関して1ヶ月以上になって突然六道輪廻の苦が見られたのだ。当時リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日18時間の持咒をしていた。

あなたたちは分かるだろうが、仏法はちょっとの学習だけですぐできる、或はすぐ分かることではない。仏法の学習は難しくないが、難しいと思う人が多いのは何故だろうか。信じていないからだ。経典の前半にあるように、仏は真実を語る。しかし信じない人が多い。婆羅門女は自分が海辺にいるのを見た。波は荒々しくうねり、たくさんの鉄の身をした悪獣は海上を飛び回ったり、歩き回ったりしていた。百千万もの男子、女人が海の中を出没して悪獣に食べられ、奪われていた。

それからは『又夜叉を見るに、其の形各異なり、或は多手多眼。多足多頭。口牙外に出で、刃剣の如し。諸の罪人を駆りて、悪獣に近かしめ、』それらの人は食べられないように悪獣から逃げようとしたが、結局はまた異なる姿の夜叉鬼が現れた。たくさんの手、目、足があるようで、歯は刃物のようにとんがっていた。罪人を追いかけて悪獣に食べさせようとした。

この次は『復自ら搏攫し、頭足相就く。其の形万類にして、敢て久く視られじ。』夜叉はそれらの男子、女人を掴もうまでした。まるである地方で人々が魚の頭と尻尾を縛るように、彼らの頭と足を縛った。蝦を食べる時も同じだし、蟹もそうだ。また豚を殺す時も同じだ。だから、生きる時、豚を殺したり、魚介類を食べたり、蝦の殻を剥いたり、魚を食べたりすることがあったら、似たような目が遭わせられる可能性がある。皆は待ってなさい。『其の形万類にして、敢て久く視られじ。』はいろんな姿があり、見るのも恐ろしい意味だ。

続きは『時に婆羅門の女、念仏の力を以ての故に、自然に懼なし。一の鬼王あり。名けて無毒と白して曰う。稽首して来り迎え、聖女に白して曰く。善哉。菩薩。何に縁て此に来れる。』婆羅門女は念仏し続けたので、力が顕れて心は清浄になり、仏の慈悲なる力の加持がもらえた。慈悲があれば、傷つけられるのを恐れず、衆生に絶えずに与えることができる。その時ある鬼王は、丁寧に婆羅門女を迎えて彼女にお辞儀した。彼女のことを菩薩だと思い、来た理由を尋ねた。

そしては『時に婆羅門の女、鬼王に問うて曰く。此は是いずれの処ぞ。無毒答て曰く。此はこれ大鉄囲山の西面、第一重の海なり。聖女問て曰く、我聞く鉄囲の内、地獄中に在りと。是の事実なりや否や。無毒答て曰く、実に地獄あり。』仏経に地球には二つの地獄があることが言われている。一つは海中に、一つは山の中に、ヒマラヤ山脈の向こうの山にある。当時、婆羅門女が行ったのは海中の地獄だ。魚介類を食べないようにリンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちに教えてあげたが、理由は数多くの魚に鬼がとりついている。鬼の使者である鬼さえいる。特に体形の大きい一部の魚はそうだ。そんな魚を食べて何も起きないだろうか。そのため、魚介類をたくさん食べる人はガンに罹りやすい。婆羅門女は、鬼王にここはどこかと聞いた。そしたら、大鉄囲山だ、西の最初の海にあると、鬼王は答えた。婆羅門女は続けて鉄囲山の中に地獄があると聞いたが、事実なのかを鬼王に聞いた。本当に地獄があると、無毒は答えた。

次は『聖女問うて曰く。我今いかんぞ。獄所に到ることを得る。無毒答て曰く、若し威神にあらずんば、即ち業力なるべし、此の二事にあらずんば、終に到ること能わず。』地獄に連れて行くことができると言う人はいるが、日本も、中国も、台湾もこんな人がいる。しかし、経典のこの段落は彼らの話を否定している。聖女は、自分は何故この所に来たかと聞いた。そしたら、菩薩の助けで来られる、或は自身の業力で地獄に堕ちるべき者が来られる、この二つの条件でなければ、地獄に来ることはないと、無毒は答えた。だから、通常の人が地獄の見物に連れて行くことができるというのは、地獄に行くことでなく、ただ鬼界に行って何かを見ることだけだ。

次は『聖女又問う、此水、何に縁りてか、而も乃ち涌沸して、諸の罪人及び悪獣多きや。無毒答て曰く。此は是れ閻浮提、造悪の衆生新死の者、四十九日を経て後、人の継嗣の、為に、功徳を作して苦難を救抜するなく、生ける時又善因なく、当に本業に拠りて感ずる所の地獄なるべし。自然に先ず此の海を渡る。』聖女は、水は何故沸騰したお湯みたいに滾っているか、また、何故罪人と悪獣がこんなに多いかと聞いた。無毒は、これらは地球で十悪業を作った衆生だ、十悪業の最初は殺生だから、肉を食べたら堕ちる可能性があると答えた。

この時、現場で唾をつけて仏経をめくた信衆がいたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは直ちに叱った。そして開示を続けた。

「唾をつけて仏経をめくってはならない。仏経は普通の本ではないから、仏経に対しても恭敬心を持たなければならない。恭敬心がなければ、読まなくていい。寶吉祥仏法センターは容疑に行儀に厳しいのだ。冗談してはならない。仏菩薩はあなたの唾を好きになるわけがない。仏経には護法がいるのだ。

無毒は、地球で悪事をした衆生で生前に殺業、邪淫等の十悪業をした人が、死んで49日経たと述べた。49日以内死者のために仏事をする根拠はこの段落の経典内容だ。49日後『人の継嗣の、為に功徳を作して苦難を救抜するなく、』だが、誰が死者のための功徳を積むことができるか。子女だ。誰かにお経を唱えてもらえばよいことではない。必ず善知識を見つけなければならない。仏経には善知識のことが触れられた。意味は、修行者の全ては善であり、衆生のためだと言っている。どのくらいのお経を唱えるのにいくらのお金が必要だと言うことではない。それは売買になり、功徳ではない。

『為に功徳を作して』は、死者のために功徳を積む意味だ。死者のための功徳を積むには、経典の前半に記述された供養、恭敬が必要だ。例えば、死者は生前においてたくさんの悪事をした。もし婆羅門女のように仏法を信じ、三宝を恭敬するよい眷属がいたら、49日以内の死者のための功徳を積むことができる。間に合うし、三悪道に堕ちないよう死者を助けることもできる。しかし、49日過ぎれば、助けられない。『生ける時又善因なく』とは、生きる時善因を植えなかったことだ。『当に本業に拠りて感ずる所の地獄なるべし』とは、自身の為した悪業によって地獄に呼ばれた意味だ。所感地獄は、地獄に堕ちるのは、魂が閻魔に引き付けられる、或は誰かに引きずられるせいではなく、死者自身が生前に為した業力が原因だと言っている。

日本で一部の所は閻魔を拝んでいる。しかし、閻魔を拝んでも、閻魔が会いに来る時間を後伸ばすことはできない。時間になると、来るのだ。日本人に閻魔に関する民俗があるのは、日本人は鬼を恐れているからだ。閻魔を拝めば、それらの鬼を掴まてもらえて反乱を起こさせないと思っているようだ。鬼が怖いと思うのは、いつも鬼と同じことをしているからだ。地獄に堕ちるのは他人のせいではない。自身の業力が原因だから、地獄に呼ばれてそこに生まれる。『自然に先ず此の海を渡る。』とは、地獄に堕ちる時、言われている奈何橋ではなく、この海をまず通さなければならない意味だ。仏経はこう言っている。この海は彼岸に行く方向の海ではない。地獄に向かう海だ。だから、夜に海辺に行くのが好きな人は、気を付けたほうがいい。

次は、『海の東、十万由旬に、又一の海あり。其の苦、これに倍す。彼の海の東又一の海あり。其苦復倍す。三業悪因の招感する所なれば、共に業海と号す、其処是なり。』

海東十万由旬(大変遠い距離)の向こうに、もう一つの海がある。そこの苦しみはこの海より倍以上だ。しかもその海の向こうにも、また一つの海がある。そこの苦しみも一つ前の海よりもっと甚だしい。三業悪因は自分の貪瞋痴による悪因だ。これに呼ばれてここに生まれるから、共通の名は業海と呼ばれ、悪業の海はここにある。

そしては『聖女又、鬼王無毒に問て曰く。地獄何にか在る。無毒答えて曰く、三海の内は、これ大地獄、其の数百千にして、各々差別あり。所謂大なる者は具に有十八あり。次に有五百あり、苦毒無量なり。次に有千百あり、亦無量の苦あり。』

聖女は無毒地獄はどこにあるかを聞いた。無毒は、三海の範囲内は全部大地獄、その数量は百千もあると返事した。地獄は外道の言うようにただ一つだけではなく、数百数千個もあるのだ。何故こんなに多いだろうか。悪事をする衆生があまりにも多いから、一つの地獄では足りないので、たくさんの地獄がある。しかもそれぞれ異なっている。つまり、為した悪事を根拠に、地獄で受けさせられる苦しみも異なる。『所謂大なる者は具に有十八あり』は皆がよく耳にする十八層地獄のことだ。実は海に18大地獄がある。18層に分けられるのでなく、1層目のほうが苦しみが軽く、下の層に行けば行くほど苦しくなることでもない。この名詞の出所は仏経だが、皆は誤解している。

大地獄は18個もある。そこで受けさせられる苦しみは生前の為した悪業によるが、それぞれ違う。小さ目のほうは500個ある。受けさせられる苦しみに含まれる毒は無量であり、数字で分かるものではない。更に小さいのは千個も百個もある。苦しみは同じく無量だ。意味は、生前に大悪をすれば、18個の大地獄に生まれる。大悪より軽い悪をすれば、500個の小さ目の地獄に生まれる。更に軽い悪をすれば、更に小さい地獄に生まれることだ。

続きに『聖女又大鬼王に問て曰く、我が母してより来、未だに久からず。知らず魂神、当に何れの趣に至るべき。鬼王、聖女に問て曰く、菩薩の母、在生に何の行業を習う。聖女答えて曰く。我が母邪見にして。三宝を譏毀す。設い或は暫く信ずるも。旋又敬わず。死して日浅しと雖も、未だ生処を知らず。』がある。

聖女は鬼王に、自分の母は死んだばかりだが、魂神はどこに生まれたかと尋ねた。鬼王は聖女に、菩薩の母親は生前どんな行業をしたかと聞き返した。あなたたちが親のことで会見を求めた時、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちの親の生前の為した行業を聞いたが、その根拠は仏経だ。鬼王も同じ質問したから、リンチェンドルジェ・リンポチェは凡人だからこそ、同様な質問をしなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは神通を持っており、自分の両親は何をしていたかについて分かっているはずだと思う人が多い。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは神通があっても言わないのだ。何故なら、多くの人は自分の親に過ちはないと思っているからだ。自分の親はどんな行業をしていたことを言い出す時に懺悔心が起きるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェのしていることは何れも根拠がある。以前あなたたちの親が為した行業を聞いた理由は分からなかったが、今仏経を読んでこの質問には根拠があり、思慮のない発言ではなかったと分かった。あなたたちの中で多くの人は聞かれたことがあるはずだ。何故質問したか。妙に思う人が多いだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェのことだから、聞く必要もなく、神通があるから、分かっているはずだと思うだろう。質問する理由は、まず第一に、大勢の人は自分の親に過ちがあるとは思わない、或は忘れている。この間のある弟子の例だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に、彼は母親に鶏の内臓を食べさせられたと言ったが、彼はイイエと答えた。その弟子は帰って一週間も考えて母親と話し合った後、本当にその通りだと確認した。しかし、その前彼はイイエと答えた。大したことではない、鶏の内臓を少し食べても病気にならないと、彼は思ったからだ。

リンポチェとして過去において人の為した悪因も見られなかったら、人々の未来の果を変える能力もあり得ないだろう。だから、前因を知らなければならない。しかもあなたたちの口で言わせたほうがいい。あなたたちが言い出す時に、意識内の記憶は甦る。鬼王は普通の衆生ではない。少なくとも鬼通があったから、きっと婆羅門女の母親は何をしていたかを知っていた。それでも質問した。鬼王は婆羅門女を菩薩と呼んだ。経典の前の内容に菩薩の威徳力がなくては地獄に行けないという記述があった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自殺死の地獄を見たことがある。今思っても怖く思える。病気や業力で死ぬ人でなければ、何れもその地獄に堕ちるのだ。その中は真っ黒、何も見えない。その地獄の中は一杯になっても、中にいる衆生は自分は一人きりだと感じる。しかも、自殺時の状況と死ぬ前の考えが繰り返させられる。例えば建物から飛び降り自殺の場合は、へとへと屋上まで登って飛び降りたら、自分の死体を見てまた登って飛び降りる。業が満了するまでずっと繰り返させられる。自殺死の人は、切腹か何れかの原因で自殺したかを問わず、その地獄にいて最低2000年以上の人類の時間を待たせられなければならない。大変苦しいのだ。

『聖女答えて曰く。我が母邪見にして。三宝を譏毀す。設い或は暫く信ずるも。旋又敬わず。死して日浅しと雖も、未だ生処を知らず。』の部分だが、皆に理解してほしい。『在生に何の行業を習う。』はどんな商売をする意味でなく、生前にどんな習慣、行為、業力がある意味だ。もし婆羅門女が答えられなかったら、彼女は菩薩でなく、十善法を信じなかったことになる。自分の親に過ちはないし、優しくて家族のためにたくさんのことをしてきたと思う人は多い。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはこんな話を聞くと、頭皮が痺れる(恐ろしくなる)。理由は彼らを助けられないからだ。

仏法は大変不思議だが、執着を持って自分に過ちはないと思う人も多い。本当にそうなら、阿弥陀仏の所に行けるはずだ。過ちがあるからこそ、行けないのだ。過ちを認めなかったら、冤親債主は許してくれない、行かせてくれないだろう。自分の過ちを認めることができたら、仏菩薩は邪魔しない、みんなで一緒に行くよう、あなたの冤親債主に忠告してあげられる。もし、あなたは自分に過ちはないと主張したら、冤親債主はあなただけが行けるが、彼らは行けないと思うから、当然あなたに行かせてあげない。

婆羅門女は自分の母親に邪見があり、三宝を嘲笑ったり、壊したりするのが好きで、時々にそんな行為があったり、暫く信じたりしたし、偶には少し信じたが、その後はまた信じなかったと、答えた。これは、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示する時は少し信じたが、道場を離れれば信じるのを止めた一部の人と同様だ。『旋又敬わず。』は直ちに恭敬しなくなる意味だ。『死して日浅しと雖も、未だ生処を知らず。』は、母親は死んで時間が長く経っていないが、婆羅門女は母親の生まれ場所を知らなかった意味だ。

次は『無毒問うて曰く、菩薩の母、姓氏何等ぞ。聖女答て曰く、我が父、我が母、俱に婆羅門種なり、父を尸羅善現と号し、母を悦帝利と号す。』リンチェンドルジェ・リンポチェもよくあなたたちの両親の名前、生まれ年を聞く。鬼王も聞いたから、リンチェンドルジェ・リンポチェは聞かないまでにはいかない。何故聞くだろうか。仏経によると、六道衆生の数は恒河沙を使っても数えきれないから、一人の衆生を探すには、名前がなければ、見つからない、見られないからだ。ちなみに、婆羅門種は以前のインドでは最上位の種姓だった。

次は『無毒合掌して、菩薩に啓して曰く。願くは聖者。却て本所に返り玉え。至て憂憶し悲恋することなかれ。悦帝利罪女は、天に生じて以来、今三日を経たり。孝順の子の、母の為に供を設け。福を修し、覚華定自在王如来の塔寺に布施せひを承くるが為に、唯菩薩の母、地獄を脱することを、得るのみなず、応に是れ無間の罪人、此日悉く楽を受ることを得て、俱に同く生じる訖るべし。』

婆羅門女は母親の名前を言い出したら、無毒は合掌し、菩薩は帰ってよい、心配、悲恋する必要はないと報告したと共に、次の内容を話した。婆羅門女は自分の母親は本来罪の身だったと知ったはずだ。往生後の三日間、子女の孝行で母親のため供養して福報を修めた。つまり、仏の教えた通りに家に帰って仏の名号を唱え続け、供養するのも福報を修めることだ。また、覚華定自在王如来に仏塔と仏寺を供養した。地獄で苦しんでいたほかの衆生は婆羅門女の母親のお蔭でなければ、一緒に地獄を離れることはできず、無間罪人のままのはずだったが、今日は受楽してそこに生まれた。

次は『鬼王言い畢りて、合掌して退く。婆羅門の女尋で夢の如くにして帰る。此事を悟り已て。即ち覚華定自在王如来の塔像の前に於いて、弘誓の願を立つ。願くは我れ尽未来劫。まさに罪苦ある衆生に、広く方便を設けて解脱せしむべし。』

ここで皆は分かるだろう。婆羅門女は手伝ってもらったからと言ってもう自分には関係ないと思わなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの段落を読んで我が事のように思えた。多くの人は助けてもらった後、姿を消してしまう。別にどうでもいいことだし、リンチェンドルジェ・リンポチェにも関係ない。仏経によると、仏は婆羅門女に仏法の修行方法を教えてあげ、彼女の母親に五無間地獄を離れさせた。それに、婆羅門女は真の聖女であり、そのことを悟ったから、覚華定自在王如来の塔像の前で偉大な誓いを立てた。自分は未来劫を尽くして罪のある苦しませられる全ての衆生にたくさんの方便を設け、あらゆる方法を尽くしても、輪廻の苦海、三悪道から解脱できるよう衆生を助けることを誓った。

そしては、『仏、文殊師利に告げ玉わく、時の鬼王無毒は、当今の財首菩薩是れなり。婆羅門の女は、即ち地蔵菩薩なりと。』仏は文殊菩薩に、当時の無毒鬼王は今の財首菩薩、そして当時の婆羅門女は今の地蔵菩薩だと教えた。何れの菩薩も菩薩になりたければ、衆生を助けた経験が必要だ。いきなり菩薩になる、或は仏経を唱えてじっと座るだけで修行できた菩薩になれるわけではない。菩薩になるには、たくさんの衆生を利益しなければならない。公開スピーチをする、或は何らかのことを話すだけでなれるわけではない。この段落ははっきりと表している。婆羅門女は親孝行な人で、仏法の利益、そして衆生を助ける仏法の効果を理解していたから、発願した。

仏法は親孝行をしなければならないことを言っている。親が私たちをどのように世話してくれたかは、最も理解しているのは私たち自身だ。例え私たちの縁で愛してくれる親がいなくても、生んでくれた母親と養ってくれた父親がいる。1歳まで養ってくれたら、私たちは親に1歳までの恩徳の借りができた。このような恩徳は世間のことで返せるものではない。仏法しかないのだ。仏経も、本当に親孝行をする人こそ、学仏者と言えると言っている。母親に電話して様子を聞き、何かを持って行ってあげることは親孝行だと思う人は多いが、そうではないのだ。

特に今の商業時代に、親との距離はますます離れる。両親は存在しないように振る舞う人が多い。両親がいなかったら、あなたたちが生まれたわけはない。親は生んでくれたから、世話してくれなければならないと思ってはならない。親はあなたを生んだが、あなたに借りはない。何故あなたを養って教育してあげなければならないのか。子供の頃、何かがあったら、何故親に何でも面倒を見てもらわなければならなかっただろう。ある親孝行に関する仏経はこう言っている。子供の頃、大小便は全部親にやってもらっていたが、今は全部あなたたちにやらせよう。あなたたちは喜んでやれるだろうか。臭い、気持ち悪いと文句を言うだろう。しかし、親は決して文句を言わなかった。この点だけでも、私たちは親孝行をしなければならない。だから、地蔵菩薩を習おう。

まだ済度を求めに来ていない人は、今になって求める方法が分かっただろう。リンポチェの慈悲なる済度をお願いすると、ただの一言ではない。こんなに簡単なことはどこにあるか。『地蔵経』の開示を終えると、要求はますます厳しくなる。仏はかつて、これらの菩薩はどこから来たかを説明しなければならないと開示した。石から生まれたのではない。必ず時間をかけて修行して菩薩になったのだ。

第二品は『分身集会品第二』と呼ばれている。経典に『爾の時百千万億。不可思、不可議、不可量、不可説、無量、阿僧祇、世界のあらゆる地獄処の、分身の地蔵菩薩、俱に来り集りて、忉利天宮に在す。』がある。

大変面白い段落だ。分身は何の意味だろうか。菩薩は神通があるから、たくさんの体を分けた意味なのか。仏法の分身の根本条件はどこから生じたか。何故分身ができるのか。まずは、空性まで修得できた慈悲心が必要だ。菩薩に空性の慈悲心がる時、慈悲の力はあらゆる所に存在する。即ち、宇宙全体に慈悲の力が溢れる。これこそ慈悲の分身だ。二つ目は、菩薩自身の願力の分身だ。菩薩になる願は一切の衆生を助けること、衆生は願があって助けてもらいたければ、力は顕れる。三つ目は密宗の観点、私たちは自分を鍛え続けており、心の大きさは無量であり、無量の衆生を加持できるから、長期に渡って自分を鍛えて行けば、たくさんの分身が現れる。

たくさんの分身が現れるとは、自分にどこに分身がいるかを知ることではない。孫悟空みたいに、一本の毛を抜いて息を吹いたら、たくさんの分身が作れることでもない。決してそうではないのだ。自分の慈悲の力が虚空を満たすことだ。単に顕教の訓練では足りないが、密法を学んだ人だったら、訓練できる。どう観想するか、どうやって自分の慈悲心を空を満たすかについて自分を鍛える。

『百千万億。不可思、不可議、不可量、不可説』の部分だが、仏が『不可』を言う時は、私たち人類の理解できる境界ではない。数字は信じられないほど多い。『無量阿僧祇世界』とは、宇宙の中に数多くの銀河系と世界があり、無数ほど多いのだ。仏にとって虚空は限りもなく、際限もないのだ。科学も証明したが、宇宙は外へと拡張し続けている。限界なし、ますます拡大している。仏は、宇宙は際限がなく、変わり続けており、この世界は増え続けていると早々に開示した。どの世界の何れの地獄も、地蔵菩薩の全ての分身の慈悲の力も、全部忉利天宮に集中している。

次に出る経典の言葉は『如来の神力に以が故に各方面とともに。諸の解脱を得て。業道より出る者も。亦各千万億那由他の数ありて、共に香華を持し、来りて仏を供養す。』地蔵菩薩の分身が全部来たほか、釈迦牟尼仏の神力による加護もあったため、あらゆる方面、即ち十方法界にいる生死解脱ができた、悪業・善業から離れられた、それらの衆生も、浄土、阿羅漢果、入定にいたかもしれないし、数多くの衆生も皆お香、花を持って仏に供養した。

来た人々は誰だろうか。経典は『彼の諸の同く来れる所の等輩、皆地蔵菩薩の教化に因りて、永く阿耨多羅三藐三菩提を退転せず。』これらの衆生は皆、地蔵菩薩に教えて転化してもらったから、永遠に阿耨多羅三藐三菩提に退転することはない。意味は、これらの人々は菩提心を離れることはない。あなたたちは地蔵王菩薩の仏経の説明と法門が聞けたのは、きっと過去世に唱え、拝んだことがあった。さもなければ、今世には機会はないのだ。実際には原因があるのだ。私たちは地蔵菩薩の教化を受けた人だが、教えを徹底していない。

次は『是の諸の衆等。久遠劫より来。生死に流浪し、六道に苦を受て、暫も休息する事なし。地蔵菩薩広大の慈悲、深き誓願を以ての故に、各果証を獲て』それらの衆生は本来昔に輪廻の苦海を漂っていた。六道で一切の苦しみを受けさせられていた。休むこともなかった。その後、地蔵菩薩の広大な慈悲心と強い誓願を受けることができた。この願力は全ての衆生を助けて証果させた。つまり、生死の果を輪廻しなくなったから、彼らは忉利天に行く能力が得られた。

そしては『既に忉利に至りて、心踊躍を懐き、如来を瞻仰して、目暫くも捨ず。』地蔵菩薩が来たから、地蔵菩薩と縁のある全ての衆生もついて来た。如来を目の前にして心は嬉しくなり、瞻仰如来、目不暫捨は、つまり、如来を瞻仰して目が離れられない。

次は『その時世尊、金色の臂を舒べて、百千万億不可思、不可議、不可量、不可説、無量、阿僧祇世界、諸の分身の、地蔵菩薩摩訶薩の頂を摩して、而も是の言を作く。吾れ五濁悪世に於いて、是の如き剛強の衆生を教化して、心をして調伏せしめ、邪を捨て正に帰せしむ。十に一二あり。』

その時、釈迦牟尼仏は黄金色の腕を出し、一切の世界から来た地蔵菩薩の分身の頂上を触ってこの言葉を言い出した。仏は、自分は五濁悪世、この悪が満ちる世間にいて剛強な衆生を教化している。つまり、教えを聞かない、信じない、臣服しない衆生を教化している。彼らの心を調伏し、邪道を捨てさせて正法に戻らせたい(生死解脱の法を学ぶこと)が、10人に1、2人しか教化できない。極めて難しいのだ。仏でも10人の中1、2人くらいしか助けられないから、リンチェンドルジェ・リンポチェのような凡人では、100万人に1、2人になるだろう。

続きは『尚悪習在り。吾また、身を千百億に分かちて、広く方便を設け。或は利根あれば、聞て即ち信受し。或は善果あれば、勤勧して成就し、或は暗鈍あれば、久く化して方て帰す。或は業の重きあり、敬仰を生ぜず。是の如き等の輩の衆生、各々差別なるを、身を分ちて度脱す。或男子の身を現じ、或女人の身を現じ。』

ここで仏はまず自分にもたくさんの分身がおり、その数は千百億ほどもあって一切の法門を用いて根器のよい、仏法を学ぶ決意がある、聞けば信じる心を助けていると話した。『或は善果あれば、勤勧して成就し、』は、善事をしたことがあって果報が成熟した人に、頑張って忠告してあげれば、その人も成就できる意味だ。『或は暗鈍あれば、久く化して方て帰す。』は、不器用で心が暗い人に対しては時間をかけて疑惑を解明してあげれば、やっと皈依させることができることを表している。

『或は業の重きあり、敬仰を生ぜず。』は、仏法に敬仰しないのは善業や悪業が重い意味だ。上師や三宝に敬仰しない人はこの類に入り、善業が多すぎるから、敬仰の心が生じない。上師は有能で自分を助けてくれる、自分のできない多いことも成し遂げられると知っても、業が重いから、敬仰の心が生まれない。仏法の学習はまず自分の業障を消すことだ。しかし、たくさんの人は、業障を消すとは、よくない果報を消す意味だと勘違いしている。そうではないのだ。本当は仏法学習を阻む力を消す意味だ。善業も悪業も阻害する力になる。

そして『是の如き等の輩の衆生、各々差別なるを、身を分ちて度脱す。』の部分だが、分身の定義はたくさんある。仏経も仏の分身だ。仏経を尊敬しなければならないのは、仏経は仏の分身であり、仏の言った話だからだ。そのため、唾を仏経につけるのは唾で仏像につけるのと同じ、恭敬のない行為だ。仏の舎利、仏像も仏の分身であり、仏はいろんな方法で衆生に仏法に馴染む因縁を与えている。

次の言葉は『或男子の身を現じ、或女人の身を現じ。或は天竜の身を現じ、或は神鬼の身を現じ、或は山林川原、河池泉井を現じ、利、人におよぼし、悉々皆度脱す。』

仏は男性または女性の様子で現れるかもしれない。相手の様子に合わせて仏はその様子で現れて済度してあげる。外道を拝むのはよくないと思う人もいるが、外道はよくないと言ってはならない。その鬼は仏菩薩の化身という可能性もあるからだ。私たちは鬼神に求める必要はないが、批判したり、見下したりする必要もない。それなりの機能があるからだ。一部の衆生に悪をさせない鬼神がいたら、その鬼神は菩薩だ。また、悪をしてはいけないことを衆生に知らせる鬼神がいたら、その鬼神も菩薩だ。

外道は悪いわけではないが、仏教界で外道を批判する人が多い。本当は、外道は私たちの生死を解脱させてくれないが、外道にもいろんな長所がある。例えば、ほかの宗教も善を行い、善事をすることを主張している。これも菩薩だ。しかし、生死の解脱を教えていないから、外道と呼ばれる。別にその宗教が悪いわけではない。

『或は山林川原、河池泉井を現じ』は、森、山、河川、池水、井戸に変身して衆生を利益する意味だ。人の病気を治す泉もあるが、仏菩薩の化身と言ってもいい。チベットでは山、森、河川が尊重されているが、その根拠は仏経だ。汚染された水源がよくないのは、水中の衆生を傷つけるほか、うっかりして竜を傷つけるかもしれないからだ。竜を傷つけたら、きっとガンになる。また、仏の化身を傷つける可能性もあるからだ。一部の人は郊外で入定しやすいが、良い風景を見たら、すんなりと受け入れられる。

次は『利、人におよぼし、悉々皆度脱す。或は天帝の身を現じ。或は梵王の身を現じ、或は転輪王の身を現じ、或は居士の身を現じ、或は国王の身を現じ、或は宰輔の身を現じ、或は官属の身を現じ。』

この部分は『普門品』の内容と同じだ。仏は天界にいる時、天帝の身で現れるかもしれない。この段落によれば、ほかの宗教の天主は釈迦牟尼仏の可能性だってあるし、その神祇も釈迦牟尼仏かもしれない。転輪王については未だに定義がない。転生の法王が転輪王だという言い方もある。仏経内の転輪王のローラーはいろんな種類があり、黄金、銀、銅、鉄、シリコンで作られたもので、空中のパトロールをしている。だから、UFOという可能性もある。

そして、『或は居士の身を現じ、或は国王の身を現じ、或は宰輔の身を現じ、或は官属の身を現じ。或は比丘比丘尼、優婆塞優婆夷の身。乃至声聞、羅漢、辟支、仏、菩薩等の身を現じて、而も以て化度す。但仏身独り其前に現するのみにあらず。』この段落によれば、仏法を教える人は出家しなければならないと、私たちは批判してはならない。修行者の話す仏法は釈迦牟尼仏の教えに基づいたうえで、本人も確かに修行できたら、話す資格があるのだ。釈迦牟尼仏はあまりにも慈悲だったから、自分はこんなたくさんの分身で現れて衆生を済度したと表した。

後段にある『但仏身独り其前に現するのみにあらず』は、仏は一部特別な衆生を済度する時、本来の仏の法身をその人らの前で現して済度してあげたことを言っている。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの内容を体験したことがある。皈依後すぐ、仏の金身がはっきりとリンチェンドルジェ・リンポチェのこの目の前に現れた。ある日、リンチェンドルジェ・リンポチェは台北で仏舎利を瞻仰した。その時、前後の人が見えた仏舎利は白だったが、リンチェンドルジェ・リンポチェだけが仏舎利からルビのような赤い閃いた光を放つのを見た。これは仏が済度のために現身した状況だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが腕白だから、仏は自ら姿を現した。

続きは『汝、吾が累劫。勤苦して是の如き等の、難化剛強の罪苦の衆生を度脱する事を観ぜよ。其の未だ調伏せざる者あり、業報の応に随いて。若し悪趣に堕して、大苦を受けん時、汝まさに憶念すべし。われ、忉利天宮に在りて、殷懃に付属することを。』

大勢の衆生は剛強であり、自分は苦難、苦しみを受けているのを知っていても、改めない。どうしても改めない。意地張って改めない。改めようとしない。だから、後ろのほうに『其の未だ調伏せざる者あり、』が出てくる。意味は、釈迦牟尼仏に調伏されていない衆生は業によって罰が当たるが、もし彼らは三悪道に堕ちて甚だしく苦しませられることがあったら、助けてあげなさいと仏が忉利天宮で言ったことを思い出すことだ。釈迦牟尼仏はそれらの剛強な衆生を見てどうしようもなかった。まだ調伏されていない衆生が多く残っていたから、忉利天宮で地蔵菩薩に助けることを指示した。それらの衆生がもし三悪道に堕ちて大きな苦難を受けることになったら、地蔵菩薩は今日仏が忉利天宮で念入りに指示したことを思い出すべきだと、仏はこう話した。

その次は『令娑婆世界、至弥勒菩薩出世已来衆生、悉使解脱、永離諸苦、遇仏授記。』大事な言葉だ。弥勒菩薩は世間で成仏する前、釈迦牟尼仏から弥勒菩薩の成仏までのその間、誰が娑婆世界を済度していたのか。地球上の衆生である地蔵王菩薩だったのだ。これも仏の指示だったからだ。

続いては『爾時、諸の世界の、分身の地蔵菩薩、共に一形に復して、涕涙哀恋して、其の仏に白して言く。我、久遠劫よりこのかた、仏の接引を蒙り、不可思議神力を得て、大智慧を具せしむ。我が分つところの身は、百千万億、恒河沙の世界に遍満す。』そのため、地蔵菩薩は彼らを助けて諸多の苦難から離れさせたうえで、仏の授記にも遇わせた。その場で全部の世界からの分身した地蔵菩薩は直ちに一体となり、自分は久遠劫から来た者、仏の引接をいただいたから、不可思議な神力が得られたと表した。地蔵菩薩は大菩薩の身でも、大変謙遜だったのに、私たちのような学仏者は、自分は修行した、仏を拝んだ、お経を唱えた、願ったから、仏菩薩が感応してくれるのは、私たちが願って得られたものだと思っている。地蔵菩薩のような大菩薩はどのように話したかを習うべきだ。

地蔵菩薩は、自分は大変昔から来た者であり、仏の助け、引接を受けたから、不可思議な神力が得られたと話した。あなたたちは自分の素質を見てみなさい。ちょっと参拝したら、自分のものだ、自分には神通、能力があると言い出す。傲慢だ。地蔵菩薩はどんな手本を見せてくれたかを見なさい。自分は長らく衆生を助け続けてきたが、仏の手伝いがあったから、不可思議で深大な力、知恵が得られ、百千万億の恒河沙世界を全ての分身で満たすことができたと、地蔵菩薩はこう話したのだ。

この段落も実に面白い。リンチェンドルジェ・リンポチェもよく開示しているように、リンチェンドルジェ・リンポチェの能力は自分のものでなく、衆生を助けるため、仏菩薩に求めてきたものだ。諸仏菩薩の加持と手伝いがなかったら、リンチェンドルジェ・リンポチェも衆生を助けることができなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも法座に上がる前に、諸仏菩薩の加持を観想する。こうして衆生を助ける能力が顕れる。リンチェンドルジェ・リンポチェは凡人だ。仏菩薩の加持がなかったら、衆生を助ける能力があるはずもなかった。地蔵菩薩は、自分が衆生を助けられたのは、仏の加持の引接のお蔭で神力が得られたからだと謙遜に話した。

これで、今の時代にもし宗教を創造する人がいたら、嘘の可能性があると分かる。仏経はこう言っていないからだ。仏経に、行者はきちんと法を広めること、仏が助けて加持してくれることが記述されているが、宗派を分けることは言わなかった。そのため、地蔵菩薩は、自分のあらゆる分身が百千万億の恒河沙世界を満たすことを発願した。多くの弟子と信衆はリンチェンドルジェ・リンポチェに会えたが、理由はリンチェンドルジェ・リンポチェに能力や分身があることではない。仏がリンチェンドルジェ・リンポチェを引接して加持してくれたから、こんな不可思議な神力が顕れて分身を現し、上師と三宝を敬う人を助けたのだ。

このようなことをあなたたちはよく聞くが、リンチェンドルジェ・リンポチェが手術室に現れて医者に手術のやり方を教えたのを見た人は多くいる。また、子供が生まれる前にリンチェンドルジェ・リンポチェの姿を見た人もいる。また、悪いことをした人もリンチェンドルジェ・リンポチェの姿を見たことがある。どうしてだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に分からない。何故分身がいるのか。リンチェンドルジェ・リンポチェの修行がよくできているのではない。地蔵菩薩ほどの謙遜さが実践できたら、諸仏菩薩は当然上師を敬う人を助けるのだ。現れたのは菩薩だったら、あなたたちは会ったことがないから、信じないだろう。現れたのは仏だったら、あなたたちは怖くなるだろう。しかし、現れたのはリンチェンドルジェ・リンポチェの姿だったら、大丈夫だろう。あなたたちは会ったことがあるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは人を叱るが、あなたたちは会ったことがあるため、リンチェンドルジェ・リンポチェの分身で現したのだ。

分身はリンチェンドルジェ・リンポチェが考えたものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェの空性の慈悲力、及び仏と本尊の慈悲力が一つになってできたものだ。衆生に仏法の助けが必要とする時、きっと自分のよく知っている様子を思う。そして自然にリンチェンドルジェ・リンポチェのイメージが現れる。そのせいか、リンチェンドルジェ・リンポチェのは毎日よく寝付けない。あなたたちは何もかも、猫の病気のことまで、リンチェンドルジェ・リンポチェに頼んでくる。

続きに『一世界毎に、百千万億身を化し、一身毎に百千万億の人を度して、三宝に帰敬して、永く生死を離れ、涅槃の楽に至らしむ。』がある。ここは、本尊の法身はあっちこっちを回ることはないと言っている。よく仏菩薩が来たと思う人はいるが、実は分身だ。分身にも法、報、化の三つの身が含まれている。今日来場したのは地蔵王菩薩の法身だから、リンチェンドルジェ・リンポチェの今日の開示はちょっと遅くなるが、あまり遅くなったら、あなたたちは耐えられないだろう。疲れを見せている人もいる。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェは適当なところで止める。今日たくさん開示したのは地蔵菩薩が現れたからだ。そのため、今日の法会に参加して途中で止めなかった人は、前の開示内容の通りに、今生において十善法を修め、地蔵菩薩に願い、礼拝することを徹底すれば、決して三悪道に堕ちるようにならない。地蔵菩薩が現れたから、話したことは約束する。あなたたちはその話を聞いたから、地蔵菩薩は約束してあげる。

経典は、どの世界にも地蔵菩薩の化身があることを言った。例え私たちは仏像を設置していなくても、今日は縁があって恭しく願えれば、地蔵菩薩はあなたを助けてあげる。『三宝に帰敬して』は、まず皈依して三宝を恭敬することを指している。だから、皈依せずに聞きに来ても、無関係な人に過ぎない。あなたたちは、先ほど十善法を修めればと言ったじゃないかと思うだろうが、十善法を修めるには、皈依して初めて十分な力が得られるのだ。しかも、大変厳しい上師に監督してもらわなければ、自分で十善法の修行をするのは大変むずかしい。『永く生死を離れ、涅槃の楽に至らしむ。』は、仏果の証得ができるまで、永遠に輪廻の苦海から、あなたを離れさせる意味だ。だから、地蔵菩薩は本当に立派だ。

次に出てくる経典の言葉は『但仏法の中に於いて、為す所の善事、一毛一渧。一沙一塵。或は毫髪ばかりも、われ漸く度脱して、大利を獲せしめん。唯願くは世尊、後世悪業の衆生を以て、慮を為し玉わざれ、是の如く三たび仏に白して言く、唯願くは世尊、後世、悪業の衆生以て慮を為し玉わざれ。爾時仏、地蔵菩薩を讃じて言わく、善哉善哉。われ汝が喜びを助く。汝能く久遠劫来、発せる弘誓の願を成就して、広く度し、将に畢らんとして、即ち菩提を証せよと。』

ここで、地蔵菩薩は開示した。あなたは仏法において、例え一本の毛、一滴の水、一粒の砂、僅かの微塵或はちっぽけな毫髪ほど小さな善事をすることがあれば、地蔵菩薩はゆっくりと生死の解脱を助けてあげる。今日の法会に参加して途中で止めた人でも、地蔵菩薩は助けてあげる。今日はリンチェンドルジェ・リンポチェの修法だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは生生世世それらの衆生を助け、ゆっくりと済度してあげる。彼らは十分の福報がなくても、今日はリンチェンドルジェ・リンポチェとの縁を植えたからだ。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは地蔵菩薩を修めた。地蔵菩薩はリンチェンドルジェ・リンポチェの後ろ盾だから、地蔵菩薩はリンチェンドルジェ・リンポチェを助け、そして、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちを助ける。『大利を獲せしめん』は、最後に大きい利益を得させる意味、つまり本当に成仏という利益のことだ。

『唯願くは世尊、後世悪業の衆生を以て、慮を為し玉わざれ、是の如く三たび仏に白して言く、唯願くは世尊、後世、悪業の衆生以て慮を為し玉わざれ。』のところで、地蔵菩薩は一回だけではなく、合わせて三回も言った。何故三回も言ったのか。釈迦牟尼仏は後世の悪業をした衆生のことを大変気になったから、地蔵菩薩は仏を心配させたくなかった。連続で三回も言ったのは、地蔵菩薩はきっと実行する意味だ。言い出した以上、きっと実行するから、後世の悪業をする衆生のことで世尊は心配しないことを願う意味だ。

『爾時仏、地蔵菩薩を讃じて言わく、善哉善哉。われ汝が喜びを助く。』は微妙だ。菩薩に喜が起きるのどんなことなのか。人が死なない、金儲けするのを見るのでなく、三悪道から離れるのを見る、三悪道から離れさせる、生死の解脱を助けてあげることで本当に歓喜になる。菩薩は世間の何れのことに対して歓喜も痛恨もない。菩薩にとって、人、事、物の何れも因縁法に過ぎない。しかし、菩薩は、一人の衆生でも苦しみから脱離させられたら、菩薩は内心で大変な喜びが感じる。そのため、仏は、地蔵菩薩の喜が起きるよう助け、地蔵菩薩が実行できるようにさせると言った。仏と地蔵菩薩は同じ言葉(same language)を話していた。一言を話せば分かる。仏の一言が、リンチェンドルジェ・リンポチェも分かるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェにも最も嬉しいことがある。例えば、ポワ法を修める時は嬉しい。衆生を助けて苦しみから離れさせて阿弥陀仏の所に行かせてあげれるからだ。済度法を修める時、リンチェンドルジェ・リンポチェも嬉しい。全身に痛みが出るが、リンチェンドルジェ・リンポチェは痛みを感じない。喜の力があまりにもすごいからだ。

『汝能く久遠劫来、発せる弘誓の願を成就して、広く度し、将に畢らんとして、即ち菩提を証せよと。』この言葉は仏が地蔵菩薩への授記だった。地蔵菩薩は大変長らく菩薩をしていたし、立派な発願も立てた。広度は終わるだろうという意味だ。将畢は今すぐの意味ではない。弥勒菩薩を度することを待つことだ。つまり五十六億万年を待つことだ。仏の観点の将会(できるだろう)とは必ず最後まで完成できる意味だ。即ち、立派な誓願を気にすることなく、きっと仏果の証得ができることだ。これは授記だ。仏だけが授記できる。ほかに根本上師がいるが、根本上師はあなたの成仏を授記することができない。後日どの程度まで修行できるかの授記しかできない。尊勝なる直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェにくださった長寿祈請文は授記だった。そのため、今後、リンチェンドルジェ・リンポチェは好きなようにどこにも行ける。誰にも止められない。どこに善縁があれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは行く。善縁がなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは行かない。

リンチェンドルジェ・リンポチェの仏法を広める方法は踊りみたいだ。こっちに行ったり、あっちに行ったりするようにあなたたちは感じるだろう。今日はわけも分からず地蔵王菩薩の修法をしたこともそうだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの今日の修法は火供のはずだったと思う人が多かったが、リンチェンドルジェ・リンポチェはわざと修法を見せなかった。会見を求めた人の多くは日本での法会の火供に参加したいと言ったが、誰から聞いた話かは分からないが、リンチェンドルジェ・リンポチェは踊んだところを見せてあげた。結局は地蔵菩薩の修法だった。

上機嫌な人だけが踊る。悲しい気持ちで踊るのは映画のシーンにしか出て来ない。踊るとは気持ちが嬉しいことだ。為していることは衆生の利益になるから、踊る。金剛舞において一人で踊るラマがいた。それは蓮師が伝えた舞踊だ。仏菩薩は皆踊るのか。違う。仏の喜びは衆生の離苦によるものだ。これ以上の嬉しさはない。ほかのものは全て世間法で、行ったり来たりする。瞋恚心がある時、自分の地位がほかの女性に乗っ取られる、権力が奪われるとも思えば、相手を嫌ってしまう。瞋恚心が生じると、体も健康にならない。

何れの衆生が苦しみから離れることを見たいからこそ、私たちは修行者だ。衆生の離苦を助けてあげられたら、嬉しくなる。あなたたちにはその能力がないから、助けてあげられない。地蔵菩薩は大菩薩だから、釈迦牟尼仏も助けると言ってあげた。あなたたちは決して自分は偉いと思ってはならない。法会に参加したら、家に帰ってあれこれを言ってはならない。『こら、話を聞かないから、こうなるんだ。』のようなことを言ってはならない。今日は『地蔵経』の二品を開示した。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏経の開示に時間をかける。だから、辛抱強くなければ、この経典を最後までに聞くのは無理だ。」

続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは後行を修め続けた。並びに修法を円満した後開示した。

「先の供養は一段落を読んでから、私たちを助けるように地蔵菩薩に祈る。私たちは地蔵菩薩の法門を修めているので、地蔵菩薩は、邪見、飢餓、戦争、怠惰、憂鬱、忘却などを消すのを助けてくれる。だから、怠惰な気持ちが生じて法会の参加を猶予する時は、菩薩に甘えるのもできる。忘却は言い出したことを忘れてしまう意味だ。自分を阻害することがあったら、地蔵菩薩の助けを求めるのもできる。私たちの命、運、福寿、吉祥は、功徳の宝、持戒、禅定と知恵が得られるようにしてもらいたい。とにかく地蔵菩薩が助けやすいようになりたい。何故リンチェンドルジェ・リンポチェはこの成就を得たいのか。衆生に済度できる縁が得られるのを望んでいるからだ。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いてアキ護法と回向の儀軌を修め、法会は円満に終了した。弟子たちは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法と開示に感謝し、起立して尊リンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを恭しく見送った。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは実証実修の経験で日本寶吉祥仏法センターで『地蔵菩薩本願経』を開示した。生き生きとした勝妙な開示で殊勝な証量が虚空に満ち、無数の衆生に不可思議な法益を受けさせ、仏法に対して無比な信念と恭敬心が生じさせた。参加者全員は心から讃歎して感謝した。

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2015 年 11 月 16 日 更新