尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年8月9日

法会が始まる前に、ある弟子は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに彼女自身と家族を助けてもらったことを讃頌し、並びに自身が犯した過ちを懺悔した。

彼女は2012年10月13日に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。皈依前、彼女は賃貸住宅を探していた頃、白さんに出会った。因縁のせいか、気に入った物件が見つからなかった。その時、白さんは彼女が悩みを抱えていたことに気づき、地下鉄駅に行く途中で彼女としばらく話した。彼女は自分の旦那が数ヶ月前に往生したことを白さんに打ち明けた。間もなく駅に着いたから、白さんは骨董店の電話番号を彼女に渡して尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが自分の弟を済度したことを話した。

翌日、彼女はすぐ電話で会見を申し込んだ。しかし、その週リンチェンドルジェ・リンポチェは信衆に接見しなかった。また1週間経って彼女はもう一度申し込んだ。会見の時、娘さん、婿さん、孫さんも同行した。彼らの番になったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く「何のために会見に来たか」と尋ねた。彼女は自分の主人を済度することを願いたいと答えた。そしたら、リンチェンドルジェ・リンポチェは何時往生したかと尋ね、彼女はその時間を答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて菜食しなさいと言ったが、彼女と娘さんはその場で何も言えなかったので、リンチェンドルジェ・リンポチェは、検討してから答えなさいと指示した。討論の後、彼女は娘さんの都合がよくなかったと知っていたから、再びにリンチェンドルジェ・リンポチェにお願いした。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは娘さんに「あなたは答えられないなら、お母さん一人で来ればよかったのに。お母さんはもう菜食を始めた。」と言った。自分が菜食を始めたことがリンチェンドルジェ・リンポチェに知られたことに、彼女は大変驚いた。

帰り道で、娘さんは「お母さん、リンチェンドルジェ・リンポチェに菜食のことを話したの。」と聞いた。彼女は「いいえ。」と答えた。「お母さん、リンチェンドルジェ・リンポチェは何でも知っているみたいね。」と娘さんはこう言った。確かに、リンチェンドルジェ・リンポチェは何でも知っている。会見の翌日、施身法法会があった。その日、彼女は道場で某師兄のお母さんの隣に座った。法会の後、その師兄は、道場では毎週日曜日合同修行法会が行われることを彼女に話した。この情報をもらって彼女はその翌日に骨董店に電話してまた会見を申し込んだ。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会った時、リンチェンドルジェ・リンポチェは再び、慈悲を込めて何事があったかと尋ねた。「リンポチェ、私は毎週日曜日の合同修行法会に参加したい。」と彼女は答えた。言い終わると、彼女はすぐ怖くなった。「あなたが望んだら、期待通りにしてあげなければならないのか。」とリンチェンドルジェ・リンポチェはこう言った。どう答えればよいかも分からないまま、確固とした心で「本気で参加したい。」と彼女は答えた。そうしたら、「本気で参加したいと言ったら、そうしてあげなければならないのか。」とリンチェンドルジェ・リンポチェは続けた。その場、彼女はどう答えればよいかも分からず、ぼーっとして何も言えなかった。「誰の紹介でここに来たのか。」リンチェンドルジェ・リンポチェの質問に、彼女は紹介者の名前を尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに報告した。すぐに、リンチェンドルジェ・リンポチェは、登録に行きなさいと指示し、また、菜食しているかと聞いた。彼女はその場で妙に感じたから、その後白さんに電話した。肉食のことでも思ったのかと、白さんに聞かれて彼女は、ハイと答えた。彼女は、自分に具足の信念を生じさせて毎週の合同修行法会に参加させてくれたことに、リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

彼女は、自分は邪悪な人間だと思った。法会に参加したのに、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に対して厳しいから、皈依を求めることもできなかった。多くの兄弟子は長い時間をかけて求めた後に皈依できたことを、彼女は後になって分かったが、これで彼女は更に怖くなり、どうしても皈依を求めようと決心できず、大変猶予していた。ある日、リンチェンドルジェ・リンポチェは信衆に、1年以上来ても皈依していない信衆は、皈依したくなければ、道場に来なくていいと言った。自分はその時でも皈依を求めることを恐れていたと彼女は分かっていたが、決心がつくようにしてくれたことに、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。皈依を求めた時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲を込めて何事があったかと彼女に聞いた。彼女は皈依を求めたいことを、リンチェンドルジェ・リンポチェに報告した。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは、ここに来てどれくらいの時間になったかと聞いた。1年2ヶ月だと彼女は報告した。その後、親が子女の世話をするのと同じように、リンチェンドルジェ・リンポチェは、登録しなさいと言ってくれたので、彼女の怖い気持ちは瞬間に喜びに変わった。彼女は、門下に皈依させ、仏法を学習させ、生死を解脱させ、六道に堕ちない機会をくれたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。リンチェンドルジェ・リンポチェが方法を用いて助けてくれなかったら、彼女は皈依するのに、更に長い時間をかけるはずだった。

彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲に感謝した。「最初、自分は主人の往生で道場に来てリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の超抜を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生の苦しみを完全に理解している。主人も、私も済度してくれた。主人が往生した後、自分はよく主人のことを思い出して一人で家で泣いていた。うつ病になりかけていた。毎回施身法法会に参加した時、何とも言えない気持ちが湧いてきた。もともと狭心症があったから、針に刺されたような痛みを感じたり、呼吸が大変荒くなったり、症状が起きた。しかし、施身法法会に参加してから、だんだん症状の改善が見られたし、全てを捨てて悲しんで泣くのを止めようという強い思いが生まれた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが主人を済度して浄土に行かせたお蔭だ。祖先も衆生も同時に済度を受けることができた。因縁福報が得られて殊勝で有り難い施身法法会に参加できた全ては尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがくれた。」彼女は再びリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲に感謝した。

「主人が往生したその頃自分には仕事がなかったから、生活のことを心配していたが、家族には知らせなかった。道場に入って信衆になり、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞いてから、自分は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる救度を常に観想し、心の中でリンチェンドルジェ・リンポチェに自分の苦しみを報告した。仕事を探したいが、自分の年では雇ってくれる人もいないだろうが、自分は怠け者ではないから、リンチェンドルジェ・リンポチェに手伝ってもらいたいとお願いした。リンチェンドルジェ・リンポチェは、弟子たちは誰でも働くべきだと言ったことがある。自分はその時ただの信衆だったが、助けることをリンチェンドルジェ・リンポチェに敢えてお願いした。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の声を聴いてくれたと、自分は分かっていた。リンチェンドルジェ・リンポチェはどこにいても構わないが、求めれば応じてくれる観音菩薩だ。私は仕事を見つけることができたんだ。皈依の後、仕事はもっと安定になった。」彼女は、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも弟子を守り、弟子たち全員に安定な生活を与え、仏法学習の障害を払ってくれることに感謝した。

彼女は更に、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝した。「自分は信衆でいた時、娘は脳腫瘍で脳神経が圧迫された。微妙な位置にあったため、お医者さんも手術できなかった。ここ数年は気を失うことがよくあり、道で気を失って通行の人に病院に運ばれることも何回あった。」彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝した。「娘は通行の人に病院に運ばれなかったら、どんなことになるかはとても考えられなかった。娘は病気の期間でも家事はできたし、そんなひどい病気のなかでも、2番目の娘を無事に生んだ。自分の家族まで、リンチェンドルジェ・リンポチェは加持してくれたことにも感謝しなければならない。心配させくなかったから、娘は病気の状況を知らせてくれなかったが、自分は常に娘の病気を心配して一睡もできなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依してから、因果、業力と殺生の果報は返さなければならないものだと分かったし、娘の病気のことについても納得できて心配しないようになった。

最近、親友は娘の病気のことを知り、お寺に行って因果業障を解脱するよう娘のために祈ることを勧めてくた。そうしたら、自分には上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいると教えてあげた。更に、衆生を済度したリンチェンドルジェ・リンポチェの事績をも教えてあげた。親友たちは話を聞いて一言も言えなかった。家に帰った後、娘にその話をした。娘は『そう、お母さん、私たちにはリンチェンドルジェ・リンポチェがいるだけでいいんだ。ほかのどこにも行かなくていい。』と言った。1週間前に、娘は再検査のために病院に行った。病気はコントロールできる状態になったと、お医者さんに言われた。」彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる加持に感謝した。「衆生を利益するため、弟子たちに安心的に学仏させるため、弟子たちの学仏の障害と悩みを減らすため、リンチェンドルジェ・リンポチェは家族も眷属のことも同時に面倒を見てくれている。

今年3月頃、ある日私は晩課をしていた。1番上の孫娘が来てそばに座った。晩課を終えるところ、孫娘は急に泣き出した。晩課が終わった後なぜ泣いたか、お父さん、お母さんに会いたいのかと聞いたら、リンチェンドルジェ・リンポチェのお爺ちゃんの慈悲なる加持を見たから泣いちゃったと、孫娘は答えた。私は大変びくっりした。ただ5歳、仏法を学んだこともない子供が、慈悲なる加持が言えるなんて、大変不思議なことだった。今年5月の会食の時、孫娘を連れて参加した。白さんに会ってそのことを話したら、白さんは孫娘に、リンチェンドルジェ・リンポチェのお爺ちゃんはどのように加持してあげたのと、聞いた。そして、孫娘は、どのような加持なのかを言わなかったが、ただリンポチェは大変苦労して私たちに教えてくれているから泣いちゃったと答えた。

その場、私も白さんも思わず涙が出てきた。大変恥ずかしかった。それまで、自分たちは、上師が苦労して弟子たちに教え、何から何まで弟子のために考えて背負ってくれたことを思うこともなかった。弟子として楽しみたいだけ、努力したがらず、感謝の心も、恭敬心もなく、上師はいつも弟子と弟子の家族及び衆生の苦しみを最上位においていることも考えることがなかった。」彼女は自分の過ち、楽しみへの貪欲を深く懺悔した。「自分はいつも上師の言葉を聞き忘れてしまい、貢高我慢、独りよがりだ。加護を求める心でいい加減に日々を送っている。自分の心を放任し、因果の無常を信じず、勤勉に仏法を学ばない。私は間違っていた。深く懺悔しなければならない。」と彼女は懺悔を発露した。「道場に来る前に、会社の勤務時間を利用してプライベートの電話をしたり、作業現場の小口現金と文房具を盗用したりした。慈悲心がなかったから、無数のゴキブリ、アリ、蚊、ハエ、蚤、ミミズなどの衆生を殺した。子供の頃、家は飲食店をしていたから、鶏、家鴨、魚などの衆生を殺し、鶏、家鴨、ガチョウ、ウサギ、カエル、山ネズミの肉も、いろんな魚介類、魚、蝦、蟹などの衆生の肉をも食べた。魚を釣ったり、カエル、蝦、ネズミを捕まえたりした。たくさんの悪行を懺悔しなければならないし、更に、仏法を学んだ後も教えに従って修行せず、自分の行為を改めないことについても懺悔しなければならない。」

彼女は現場にいる大徳、師兄の皆さんに、自分自身のことを戒めとして同じような過ちを決して犯さないように励ました。最後に、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体が安康で、法輪が常転し、この世に常住すること、仏法事業が興隆になり、一切の衆生を利益すること、並びに直貢噶舉教派が永遠に伝承されることを祈った。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、慈悲を込めて現場の弟子と信衆に貴重な仏法を開示した。

「今日は続けて『宝積経』大乗十法会の第九を開示する。前回の開示において、「仏は三十二相、八十種好荘厳其身(八十随形好)、身有円光があると信じること」を話した。この段落は極めて重要だ。私たちは生きる時仏の三十二相、八十随形好と円光を見ることができない。仏に大体丸い後光があり、三十二相の大部のことをできるだけ実践する。そのなか実践できないことはもちろんあるが。この段落の重要性は何だろうか。世間に仏を自称する人がいるが、仏法を説明できるのだから、仏を自称できるわけではないのだ。『宝積経』は、信諸如来を言ったが、即ち、一切の諸仏はこの三十二相、八十随形好の条件を持っている、このことを信じる意味だ。

三十二相、八十随形好は仏の涅槃の後に顕れたものではない。釈迦牟尼仏が成仏した後に顕れたのだ。そのため、経典の中で記述された物語は多かった。多くの人は、仏の荘厳な面相を見ると、すぐ大きな恭敬心と懺悔心が生じ、皈依して仏法を学ぶようになった。仏を自称すれば、仏になれるわけではない。仏経の中でこのことは注意されてきた。理由は、末法時代に仏を自称する人が多く現れたらいけないからだ。実際に仏の時代にこんなことが起きて歴代にもあったから、経典の中でこのことははっきりとされている。

仏にあるいくつの相は、私たちはきっと見てわかる。例えば、仏の髪は必ず螺のように右回り、1つ1つになっている。そして、頭頂の真ん中は必ずぐっと丸くなってその上に螺髪がある。仏の目、鼻、耳に関する形容もあったし、最も大事なのは歯は全く乱れないことだ。仏には40本の歯もある。普通の人よりも多いうえで、何れも貝殻みたいに真っ白だ。今の私たちのようにホワイトニングテープを貼る必要もないし、何れもきれいだ。もし、今世に乱れた歯を持っていたら、過去世と今世にひどい口業を犯したことだ。家に帰ったら、自分でチェックしてみればいい。

今時、歯の矯正が必要な人は何故多いだろうか。今の人、嘘をつく人が多いからだ。前に某国では女の子の犬歯が流行っていたが、今は矯正するようになった。口業を犯していたら、歯はきっと整然としてきれいにならない。私たちは生生世世たくさんの口業を犯してきた。この点だけで私たちは仏ではないとすぐ分かるのだ。三十二相、八十随形好は、私たちは生きる時に間違った道に連れていかれないようにしてくれる。外道にも神通があるし、大神通を持っている者もいるし、力強い、仏を化ける者もいる。前回の話で、仏が在世の時、足の裏に法輪がついているのを人が見てすぐに似たような焼きごてを作って馬に付けるように自分の足裏にも焼き付けた話をした。こんなことは仏の時代からあった。三十二相、八十随形好も経典の中で記述されたが。今日はおいて話さないことにする。

二番目に大事なのは、往生の時に報身仏に迎えに来てもらいたければ、この条件を備えなければならない。本当に菩薩道の学習と修行をしている人だったら、化身仏でなく、報身仏が迎えに来てくれるし、釈迦牟尼仏以外にも、経典の中に記述された一切の諸仏が来てくれる。仏果であったら、この条件は必ずある。人間が死んで中陰身にいる時、仏の様子に化けた妖怪も出てくるが、それらの妖怪に円光があるはずはないのだ。だから、飛び回る赤い光を見たら、偽物だと分かる。円光があるからこそ本物だ。円光が顕れる時こそ、報身仏が迎えに来てくれる時だ。ついて行っていいのだ。

仏経内の記述は何れも死亡に関係するものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはわざわざこの段落を開示するが、理由は、ポワ法を習ったこともなく、その程度まで修めなかったら、釈迦牟尼仏は何故、仏経の中で三十二相を信じることを話したかが理解できないからだ。仏は考えずに人と世間話をしたりしないし、私たちに生死に無関係の言葉も言わない。この段落は、在世の時に仏を自称する人がいたら、必ず三十二相、八十随形好を持っていることを言っている。この条件がなければ、弁才無礙の人であっても、仏経の話をする時は朗々と口にする人であっても、何某の仏の転生だ、その1つの化身だと自称しても、全部偽物だ。

その人が化身仏だったら、三十二相がなくても、少なくとも八十随形好があるはずだ。この条件がなければ、きっと仏ではない。仏には仏の相、菩薩には菩薩の相、阿羅漢には阿羅漢の相、護法には護法の相がある。外相は単に表象に過ぎないが、外相があるのは、人間は相に執着を持っているからだ。全く見えないものであれば、人間は本当か嘘かと思ったりして疑心が生じるからだ。

三十二相、八十随形好は神話ではない。何某の衆生を済度するために変えた相でもない。仏だからこそ顕れるものだ。仏には寂静尊しかないが、忿怒尊になれるまで修めたければ、金剛部を修めなければならない。密宗の修行は仏部、金剛部、護法部、蓮花部などに分かれる。仏部を修めるから仏に成るわけではない。仏部を修めているから、他人よりも早く成仏できると思う人がいるが、正しくない言い方だ。その縁があるしか言えないのだ。実際に、仏ではないから、仏部を修める人のほうが大変だ。金剛部と蓮花部の修行も大変だが、成就するのもより速い。

この段落の仏の開示は、私たちの在世にとっても往生にとっても大切だ。仏はわざわざ菩薩のことについて触れたが、私たちは菩薩道乃至金剛乗の修行をする時、金剛乗は事、行、瑜伽と無上瑜伽部に分かれる。事は一切の身口意、行は一切の外在の行為が本尊の菩薩と完全に同じにすることだ。私たち自分の身口意は菩薩と全く一致しているかどうか、どうやって分かるのか。これは事部だ。顕教の内容であるため、密乗の中では詳しく記述されなかった。顕教の内容、事部を理解しなかったら、菩薩の様子になるまでに修行したくてもできないはずだ。

菩薩道の修行はよく言われているが、菩薩は何だろうか。どうすれば、菩薩になれるだろうか。外見が観音菩薩に見えるようになるまで修行するのでなく、身口意が変わるように修行するのだ。菩薩と同じように身口意を変えれることこそ、顕部の菩薩道の中にいることだ。あなたたちは菩薩と同様の身口意に変えられたら、菩薩の行為、即ち利益衆生ができる。あなたたちは常に菩薩になると発願しているが、何故できないのか。大乗仏法を修める理由についてもあなたたちの以前の師父に聞いたのに、仏経の言った変化、利益衆生ができないのは何故だろうか。

リンチェンドルジェ・リンポチェは35歳の時、台湾で仏法に接触した。その時はただ一人の女衆の『宝積経』を聞いたが、その話は続けられなかったから、大体1ヶ月後続かなくなった。リンチェンドルジェ・リンポチェの話の後段になると、あなたたちはその原因が分かる。理由は誰も菩薩になる資格がないからだ。資格がないのなら、何故リンチェンドルジェ・リンポチェは開示するのか。小乗仏法はあなたたちに関係がないからだ。小乗だったら、出家、家を出る必要がある。家を離れなければ、修行できないのだ。ご飯も作らないし、数珠も付けず、加護も求めない。悩みを完全に断ち切れたらこそ、阿羅漢になれるまでの修行ができる。阿羅漢の一番すごいところは悩みを断ち切ることだ。悩みをたくさん抱えている人だったら、どう修行できるというのか。

菩薩乗は悩みを菩提に変えるが、金剛乗から言えば、悩みは菩提だから、転化する必要もない。しかし、金剛乗を修行する前に、大乗仏法の顕教理論に関してははっきりと理解しておかなければならないし、行動で実践するのも必要だ。それなのに、仏法を学ぶ人は誰でも、ゆっくりしており、まだまだ時間がある、家族が一番大事だと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェはずいぶん前にも開示したが、普賢菩薩はかつて、学仏の心は髪が燃えてすぐにでも火を消したいほど急ぐ心構えにならなければならないと開示した。あなたたちはどうだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはいくら話しても、あなたたちは聞き入れない。

昨日、ある皈依して10年になった弟子が息子を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求めて来た。その息子は8年前にリンチェンドルジェ・リンポチェに会ったことがあるが、8年以来再びに来たことはない。たぶん最近何かの状況でもあったかは分からないが、来たらすぐうまい話をたくさん言った。リンチェンドルジェ・リンポチェの話す前に、その弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに供養するよう息子に教えた。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは、極めて特例でなければ、皈依者以外の人の供養を受けないと、何度も法座の上から話した。彼らに借りを作りたくないからだ。彼らは仏法を学習したくないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは供養を受けるわけにはいかない。彼らが跪いたことは供養になり、リンチェンドルジェ・リンポチェも返しとして疑惑を回答してあげた。それでも、その弟子は全く聞き入れず、皈依して10年もなったのに、いまだに息子を一番大事にしており、会見に連れて来た。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の息子を処罰するため、2年半も会わないことをあなたたちは知らないのか。何故、あなたたちの息子のことになったら、リンチェンドルジェ・リンポチェの息子とは違うと思うのか。リンチェンドルジェ・リンポチェのほうが厳しいのでも思っているのか。もし昨日リンチェンドルジェ・リンポチェはその息子の御捻りでも受け取ったら、たくさんのことを世話してあげなければならないことになる。リンチェンドルジェ・リンポチェはできないわけではないが、その責任を取るべきではないのだ。彼自身の行為に対して、続けることを励ましてあげてはならないのだ。それなのに、親としてその皈依弟子は息子が一番かわいいと思い、リンチェンドルジェ・リンポチェを見下した。御捻りを1つあげれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは何でもしてあげるべきだと思った。

この間、リンチェンドルジェ・リンポチェの体力を消耗しないよう出家弟子は皆に呼びかけたが、結局またこんな弟子が出てきた。誰も話を聞かない、いつも物語だと勘違いして聞いている。自分には関係ないと思う。自分のことだったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲で特別処理してくれる思う。リンチェンドルジェ・リンポチェは金剛部の修行を深めているから、弟子に過ちがあると、リンチェンドルジェ・リンポチェ決して相手にしない。

ある信衆は、道場として仁愛路にある300坪の場所を、更に事務所として300坪をリンチェンドルジェ・リンポチェに提供したかった。唯一の条件は肉食を許してもらいたいことだった。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれでも許可してあげなかった。あなたたちは自分を何だと思っているか。仁愛路にある600坪の物件の価値はいくらだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェはお金で買収できる人でも思っているか。自分の子供が悪いことをして、親は何もせずに、ただリンチェンドルジェ・リンポチェに投げたい。子供は成年者にもなったのに、あなたたちは家族のことになると、すぐ仏法を忘れてしまう。

過去数週間、出家弟子は話し続けてきたが、結局、昨日同じような弟子がまた現れた。彼女の周りの人は何も言ってあげなかったから、彼女は自分のことになったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲で扱ってくれると思い、子供に状況があったら、リンチェンドルジェ・リンポチェの助けを求めに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは助けてあげることができない。別の話だが、ある弟子の妊娠中の息子嫁が会見に来たいと言ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェはやめなさいと返事した。何故会わないのか。その息子嫁は未だに肉食をしているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは繰り返して言ったが、その弟子の息子は肉食していれば、道場に入ることも許されない。

あなたたちは誰でも、リンチェンドルジェ・リンポチェは何でも聞いてくれると思っている。確かにそうかもしれない。そうでなければ、今日の風災はこの程度に済まなかった。それにしても、皆はこのようにリンチェンドルジェ・リンポチェの体力を消耗してはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞こうとしないなら、ここに来る必要もないだろうが。何かはだめだとリンチェンドルジェ・リンポチェが言ったら、あなたたちは機嫌が悪くなり、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲でないと文句を言うようになり、口業を作ってしまう。先に話した信衆は600坪の物件を供養したいことに、リンチェンドルジェ・リンポチェは全く引かれなかった。その信衆はただ肉食の許可を求めたかったし、リンチェンドルジェ・リンポチェの前で肉を食べるわけでもないし、それでも、リンチェンドルジェ・リンポチェは許さなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは要求に応じてくれると思うあなたは何の根拠があるか。

今の仁愛路上の物件は1坪に80万元の価値もする。600坪はどんな大金になるだろう。なんと4億8千万元。4億8千万元の巨大金額の十分の一のことをする弟子は1人もいないのに、先に話したその弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェは息子嫁への助けに応じると何故思えただろうか。自分は特別だと彼は思ったからだ。信衆の巨大金額の供養を目の前にして、リンチェンドルジェ・リンポチェは決して動揺しなかったのに、あなたたちはどんな立場があるだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェの以前の話だが、あなたたちはリンチェンドルジェ・リンポチェを変えたいなら、まず自分自身を変えなければならない。何故リンチェンドルジェ・リンポチェは変えようとしないか。20数年以来、この方法でたくさんの衆生を助けてきたから、リンチェンドルジェ・リンポチェは、この方法は正しい、仏法の根拠があるとはっきりと分かっているからだ。しかし、あなたたちは頑固として仏法を変えようとしている。

仏法を批判することだけが仏法に対する中傷だと、あなたたちは思っているだろう。仏の言った話を変えたいことは仏法に対する中傷だ。肉をちょっと食べても構わない、自分の息子だから肉を食べていい、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちの息子に親切をするのは当然だと、あなたたちは思っている。信衆が大金を供養してくれるようなことに対しても、リンチェンドルジェ・リンポチェは決して変わらなったし、肉食もその人自身の果報だし、しかし、そのお金を受け取ると、リンチェンドルジェ・リンポチェは責任を取らなければならない。

ここまで話すと、リンチェンドルジェ・リンポチェは思わず悔しく思える。いくら注意してあげても誰も聞かない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの段落の『宝積経』を開示し終えると、今後は何も言わなくなるだろう。昨日、10年の皈依弟子までこんなに振る舞ったのを見て、リンチェンドルジェ・リンポチェは大変悲しかった。これはリンチェンドルジェ・リンポチェの深い業障の表しだし、末法時代の衆生を済度する難しさの印でもある。

経典に『善男子、云何菩薩摩訶薩行成就。』という仏の言葉あった。仏は、大菩薩は修行においてどのように成就を得るかについて話した。第九会のこの段落は大変面白い。仏は菩薩摩訶薩を言い続けたが、一般の菩薩を言わなず、大菩薩、つまり法身菩薩のことを話した。今日リンチェンドルジェ・リンポチェは『宝積経』を開示するが、あなたたちに今すぐできなければならないと要求しているわけではないが、あなたたちの第八意識に叩き込んでおきたいのだ。皆はちゃんと聞き入れなければならない。将来『宝積経』を開示する者はだんだんいなくなると信じているからだ。

仏は菩薩摩訶薩を言い続けたが、菩薩摩訶薩は第八地以上の菩薩であり、登地菩薩ではない。第八地以上の菩薩を成就するには、真言をたくさん唱えることだけではできない。全部の行為、身口意まで変えて調整しなければならないのだ。私たち今持っている福慧では実践する資格がなくても、せめて自分は必ずそうする、必ず実践すると信じなければならない。今の自分はまだできていないから、その時になればと思ってはならない。発願というのは、仏の教えを必ず実践すると発願することだ。どれたくさんの人を済度する、仏寺を建てると発願することではない。仏経の中で、どれくらいの人を済度する、大い仏寺を建てる、どの宗を成就することは一切触れられなかった。ほかの経典はこれほどはっきりしていないかもしれないが、『宝積経』は確かに菩薩道について話した。

もし、何某の宗を創立した誰かがいたら、その人について学ばなくていい。数千年を経過した今、区分すべきものは既に区分された。今になって更に区分する必要はない。末法時代に大成就者はどこにもいるはずがないのに、今はたくさんの宗、派が現れ、互いに指摘し合っている。本当はよくないことだ。だから、仏法には経典がなくてはならない。『宝積経』は菩薩摩訶薩に関する内容だが、一般の登地菩薩、二地菩薩の話ではなく、八地以上の法身菩薩の話だ。私たちは今世において法身菩薩になるまで修行する条件はないが、せめて浄土、阿弥陀仏国土、アキの浄土で修行を続けられることを願いたい。現代の言葉で言うと、この修行の方向を心に深く刻むことだ。仏法で説明すると、種を阿頼耶識に植えることだ。

『阿弥陀経』は、阿弥陀仏の所に行けば、阿毘跋致になれることを言った。何故生きる時修行しないのに、阿弥陀仏の所に行けば、こうなれるだろうか。『阿弥陀経』の中に記述があるが、善男子、善女人には必ず福徳因縁があり、生きる時仏法を聞き、修め、この種があっても、阿弥陀仏の所に行ってから初めて花が咲く。法会の前に弟子が話したように、彼女の旦那を浄土に送ったことではない。彼女の旦那は死ぬまでに何の修行もしなかったから、浄土に行けるはずがない。今世行くことはない、来世になったら行くのだ。

何れの仏経にもその因縁があり、仏の開示もその理由がある。仏は口が滑ったり、いい加減なことを言ったり、供養を受けるために何かを言ったりしない。仏の何れの開示にもそれぞれの法門の根拠がある。この段落は菩薩摩訶薩を言い続けている。仏法を学ぶ人は謙虚でなければならない。何故なら、私たちは仏のいた2500年前の時に生まれず、今になって生まれたのは、私たちの福は浅い、業は深いからだ。もし、私たちは十分な福があって業が浅かったら、釈迦牟尼仏のいた時代に仏に追随できたはずだ。今の時代に生まれたから、出家にせよ、在家にせよ、誰でも福報が少ない、因縁が浅い人だ。出家したら福は増える、在家だったら福は少ないと思わないでほしい。決まったルールはないのだ。とにかく、私たちは仏の時代に生まれなかったことが、福報が少ない、因縁が浅いからだ。だったら、どうすればいいだろうか。教えを聞いたら、信じるのだ。

先週は一疑、二惑、三不決定を開示した。特に不決定について話した。昨日会見に来た10年も皈依した弟子こそ、生死を解脱しようと決めていない例だ。自分の息子が過ちを犯したと分かったのに、ここに連れてきてリンチェンドルジェ・リンポチェに助けてもらいたかった。もう一人の弟子もそうだ。彼の息子は肉食をしている、それは間違いだと分かっていたのに、ここに連れてきていいかと尋ねた。そんなことをしてリンチェンドルジェ・リンポチェの元気をとことん消耗し尽そうでもしたかっただろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェは1回助けた以上、2度とは助けない。彼の息子はリンチェンドルジェ・リンポチェとの因縁がない。そうでなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェの言葉、ちゃんと聞き入れたはずだ。

誰もが仏法は面白いものだと勘違いしている。仏法は面白いものであれば、仏は衆生の好きにしてよい、衆生を満足させてから助けてよいと開示したはずだ。しかし、こんなことを仏は言わなかった。衆生に従順するとは衆生の意に従って振る舞うことではない。まずは隨縁だ。衆生の好きのように従うのでなく、衆生の縁に従順することだ。学仏の因縁があればそれでいいし、叱りたければ叱っていいし、何れも衆生自身の因縁だ。修行者自身の方法で衆生を助けるのでなく、衆生の因縁に随順する。順とは衆生の業力と因縁に従って助けてあげること、無理して変えようとしない。衆生は聞かないなら、教えてあげても無駄だから、まず放っておくことだ。

仏は大変有能だったが、仏の種族が消滅されても仏は助けなかった。何故だ。また、目犍連尊者は仏が一番かわいかった弟子だったし、神通も最高だったのに、目犍連尊者は外道に殴られて死んだ。仏は何故助けてあげなかった、注意してあげなかっただろうか。神通を持っていたら、避けられたはずだったと思うだろう。しかし、目犍連尊者は殴られた死んだのは借りを返すためだった。生死についてはっきりと分かっていたし、見通していたからだ。今のあなたたちは誰も自分で借りを返そうと思わず、ただリンチェンドルジェ・リンポチェに返してもらいたい。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェにあなたたちの代わりに返してもらう根拠はあるだろうか。あなたたちの中、教えを守り、仏法をきちんと聞く人は一人もいない。

経典のこの言葉は、浄土に往生できたら成就を得たと言えることを教えている。あなたたちは自分が菩薩だと自慢してはならない。今日リンチェンドルジェ・リンポチェの開示したのは『宝積経』、釈迦牟尼仏が広めたもので、ジッテン・サムゴンの全部の著作の根拠でもある。とりわけ菩薩に聞かせるもの、つまり更に法身菩薩になれるまで修行するための調整方法を、登地菩薩の証得できた者に対して開示されるものだ。登地菩薩が証得できたのはたくさんの成就、修行ができたことではない。このような成就まで修行できた以上、真剣に広大な衆生を利益し、自分自身が更に精進できるようにしなければならない。だから、この言葉は極めて重要で、菩薩摩訶薩を強調し続ける。

経典にある『善男子、菩薩摩訶薩行成就故、剃除鬚髪被正法服。』という言葉は、出家衆全員に聞かせるものだ。法身菩薩の成就を得るには、必ず何某の世において出家する。出家は何かの理由があってするものではないが、今時体が弱い、家庭に何らかの問題がある、自分の周りから逃げたいからなどの理由で出家する人が多いが、これは正しくないことだ。経典では、ヒゲ、髪を剃ることが言われた。尊勝なる直貢チェツァン法王も以前リンチェンドルジェ・リンポチェに話したが、以前祖師ジッテン・サムゴンが在世の時、男性の出家衆全員はヒゲをきれいに抜かなければならなかった。どうやって抜いただろうか。2つの硬貨で1本ずつ抜いたらしい。これも仏経内の話だ。

被正法服とは、出家衆と弘法上師の着る法衣には決まった規則があり、自分なりの変化をつけてはいけない意味だ。チベット仏教の出家したリンポチェの着る服は在家のリンポチェと様式がきっと違うのと同様だ。その差異は、男女の欲があれば在家者、なければ出家者だけだ。今は男女の欲を抱えているのに、出家者の服を着ている人がいるが、これは正しくないし、正法服ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは在家者であるため、直貢チェツァン法王が下さった被る服は必ず白だ。白があったら在家衆だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは在家の修行者だから、白のない服を被ってはならない。これは混用してはならないことだ。一部偽物の密宗は全身に赤い服を着て本物を成りすまして見せているが、本物ではない。正式の法衣には4枚で構成されている。顕教もそうだが、密宗にはもう1枚のベストがある。これも法本内の記述だ。

経典にも『捨家出家。』がある。出家者はどうあるべきかははっきりしている。家を捨てて出家し、全部の眷属を捨てるのだ。母親まだ生きている、弟に解決していないことがあると気になるなら、いっそ出家を止めたらいいんだ、これは仏が言ったことだ。今時リンチェンドルジェ・リンポチェよりもたくさんの悩みを抱えている出家者は多い。弟のことでリンチェンドルジェ・リンポチェに手伝ってもらいたいからと言って会見に来た出家衆がいた。リンチェンドルジェ・リンポチェは応じてあげなかった。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだこの段落を読んでいなかった。出家相があるのに、世俗、輪廻の家を捨てられなかったら、出家してどうするか。還俗でもすればいいんじゃないか。これは開示すればするほど皆が怖くなる理由だ。

また、経典に『既出家已、修学菩薩戒行等事、修学声聞戒行等事、修学縁覚戒行等事、修菩薩如是学已、身口意等悪業悉滅。』がある。今日の修行は声聞縁覚にせよ、菩薩にせよ、菩薩の修行は在家と出家を含む。この段落の前半は出家に関する話だ。釈迦牟尼仏は大変慈悲であり、後世に在家相が顕れて菩薩道を修行する者がいることを仏は知っていたから、『修菩薩如是学已』の一言を付け加えた。出家衆だけでなく、あなたたち在家衆、直貢噶舉派寶吉祥仏法センターにいる人もそうしなければならない。ここは大乗と金剛乗の仏法を教えている。あなたたちはこれを実践できなかったら、修行していると他人に言ってほしくない。とにかく、従順な弟子になり、教えを聞くことだ。

『身口意等悪業悉滅』とは、僅かの悪の意念も消さなければならない意味だ。どうやって消すのか。教えてあげた仏法を活用して退治するのだ。学仏者として他人と区別をつけることを教えてあげたのは何故か。仏法を学んだ以上、普通の人と違うようにするのは当然だ。違うようにするなら、自分自身の身口意に関して謹慎しなければならないだろう。ちょっとでも間違えたら、戻すには大変の苦労をする。過ちを犯すのは簡単だが、正しいことをするのは大変だ。誘惑があまりにも多いからだ。何を取るべきか、捨てるべきかについて、リンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねてくる人は多いが、尋ねるまでのことではないのだ。皈依の時あなたたちに諸悪莫作、衆善奉行(諸々の悪しきことをせず、もろもろの善いことを実行しなさい)を教えたのは、この説を反映したものだ。悉滅とは、何もかも消滅し、駆け引きする余地もなく、とにかくやるしかない意味だ。できる分だけやることではないし、ゆっくりとやることでもない。何かが起きたら、リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔することでもない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはチベット古代の教法を広めていると、チベットで多くのシニア修行者はこう言っている。チベット古代の教法は『宝積経』から派生したものだ。今時の人は何故できないだろうか。今時の出家者は単にこの作法に従っていたら、暮らしはきっと大変厳しくなり、信衆が集まらないからだ。これもリンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子の全てを供養している理由だ。経典の教えた通りに実践させたいからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは在家衆だから、商売するのも当たり前のことだ。仏経に、在家上師は商売してはならないという言い方はない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子を供養し、何もかも消滅できるようにさせたい。起心動念にうっかりでもすれば、業と罪になるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子に悉滅(完全に消滅)できる環境を提供している。こうして、出家弟子は今世において菩薩道の修行道を歩むことができるようになる。さもなければ、可能性は全くないのだ。

ここで仏が言ったのは『修菩薩如是学已』、菩薩摩訶薩でなく、また一言を付け加えた。知恵がまだ開かない人は仏経を読んでも、見過すところが多い。この段落は菩薩摩訶薩の話だが、後ろに菩薩が加えられた。これは仏の慈悲、衆生を一人でも見落としたくなかったからだ。ところが、私たちは注意が不足で仏経を読んでも気づかない。何故気づかないだろうか。経蔵を深く理解していないからだ。経蔵を深く理解するのは仏経をたくさん読むことでなく、修行が仏の言った境界までに入っているかどうかのことだ。

そして、経典に『何者名為身不善業、所謂殺生偸盗邪淫、瓦石刀杖欺擲他人、傷手足等。』がある。身不善業は何の意味だろうか。殺生、偸盗、そして間違った意念による邪淫の意味は皆分かっている。今日は現場に子供がいるから、説明しないが、後半の言葉は重要だ。石、瓦で人に投げたり、刀で人を切ったり、いじめたり、手足を傷つけたりなどのことをする意味だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは今世において脊柱側弯症がひどいのは、過去世においてこのようなことをしたからだ。肩に軟骨がないのは、今世において人を殴ったから、今生にすぐ顕れた。来世までに待つこともなかった。だから、今生においてこけると、すぐ手足が骨折してしまった人は、このようなことをしたことがある。

人を殴ったことはないと自認する人は猫や犬を殴ったり、スリッパを持って家の中を走り回ってゴキブリを叩いたり、彼氏や彼女を打ったりしたことはないだろうか。あるだろうね。彼氏は愛してくれているから打っていいと思う女性もいるし、彼女は自分を畏れているから殴っていいと思う男性もいる。これらは悪いことだ。菩薩道を修行する人は決してこれらのことをしない。武器を売買する人は邪業する者だという定義があるのは、この範囲に入っているからだ。武器を製造する人も同じだ。

経典にも『若来若去行欺凌事。』がある。大変意味深い言葉だ。いじめているかのように、いじめていないかのようなことを指している。これは、言語面のこともが含まれているが。『時間があれば寄るよ』を言うのはこのような状況だ。人をいじめるように、いじめていないようなことだ。

次に、経典は『善男子、如是等名身不善業。善男子、何者名為口不善業、所謂妄言綺語、両舌悪口、不善言説、誹謗正法甚深経典。』という記述がある。妄語を言うとは嘘をつくことでなく、ポイントは修行面にある。果位の証得ができていないのに、証得したと自認することは妄語を言うことだ。言い換えると、自分自身に仏法を言う資格がないのに、常に人に仏法を話すこと、人を済度する資格がないのに、常にお経を唱えて持咒して人を済度することだ。ここの資格とは福と慧の条件を満たすように行動していないことだ。真言を伝える資格を持っていないのに、テレビに出てあれこれの真言を唱えるのは妄語を言うことだ。これは慈悲だ、たくさん唱えて伝えれば、皆は自然に分かり、衆生のためになるし、衆生のために福田を植えると誤解する人が多い。

真言はただの文字に過ぎないが、唱える人の心が重要だ。真言を唱える時は慈悲の心、懺悔心で唱えなければならないと教える人は多いが、唱える人はこの二つの条件を備える資格があるだろうか。何も教えず、やたらに真言を伝えると、衆生を害することになる。衆生は何時でも持咒するようになり、真言は世間のことをなんでも解決できると勘違いしてしまうからだ。このようなことはよくある。大悲咒を唱えて息子の懲役を避けたい人までいる。『普門品』に、観音菩薩に敬ったら懲役はなくなるという記述があったが、それには条件がある。即ち、今世において本人は十善業を修めているかどうかのことだ。十善業を修めなかったら、観音菩薩であったも助けてあげられない。『普門品』は、善男子、善女人でなければならないという条件をはっきりしている。何れの仏経も同じことを言っている。」

この時に、高い座席に座った年長の弟子は仏法を聞く時に敬う態度を取らず、今日開示の仏法は自分に関係ないと思ったため、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に退場して、仏法を聞きに来なくていい、連れの者も一緒に退場するよう指示した。

そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。「仏の基準から見ると、綺語は仏法と無関係の全ての言語だ。この基準は大変高い。あなたたちは菩薩の果位が証得できていないし、善男子、善女人も証得できていないため、綺語の範囲を少々小さくしてもいいが、非分のことを言わない、貪欲と嗔恨心を生じさせるようなことを話さない。皆は気を付けなければならない。特に女性はこのようなミスをすぐ犯してしまう。ほかの女性と男性がうまく付き合わないことを見たら悪口を言っててしまう。これは綺語だ。他人の因果と業は自分に関係ないだろう。

同じ女性だから、男性にいじめられているのを見て悪口を言ってよいと思ったらいけない。女性にいじめられる男性も多いのだ。今の世界は変わり続けている。男性がいじめられる状況はかえって多くなっている。女性を殺す男性は何故多いだろうか。男性が女性をいじめる状況ではない。男性は口で女性に勝てなかったら、どんな結果になるだろうか。だから、女性の弁才は必ずしもいいことではない。何故悪いことが起きただろうか。綺語、妄語が原因だ。何も考えずに言っちゃっても構わない、何かがあったら解決すればいいというふうに思ったからだ。

『両舌悪口、不善言説、誹謗正法甚親経典』とは弁舌の才能がよいかどうかのことでなく、仏法についてうまく言葉で説明できなかったら、正法・甚深経典を誹謗することになる意味だ。そのため、仏法を言う資格のない人だったら、他人に話してはならない。相手に自分の上師に尋ねて疑問を解けてもらうように言ってあげたらいい。上師が教えてあげたことを、その人が聞いて自身のことのように思えたら、聞き入れられるのだ。あなたたちは自分のことを大師のように思ってはならない。5年か10年学んだからといって、他人にいろいろを言い始めてはならない。

「不善言説、誹謗正法甚親経典」については、何れの正法も衆生の生死解脱を助ける方法ではあるが、それぞれの衆生の因縁と業力も異なるので、1つの方法でやり通すことはできない。業が深い人もいたら、業が浅い人もいる。いい話が好きな人もいたら、好きでない人もいる。あらゆるタイプ、様々なの人がいる。だから、不善言説は、弁才がよくないことではなく、言説に十善法がないことだ。即ち、相手に聞いてほしい、聞いてくれるまで言い続ける、どうしても聞いてくれないなら、相手にしない、これは不善だ。私たちの言った仏法を聞いて相手は決定できるかどうかは、法を言う本人の福慧のほか、最も大事なのは聞き手は決定するかどうかのことだ。先週話した疑、惑と不決定があるかどうかのと同じことだ。相手はまだ疑、惑と不決定の状態だったら、例え話し手は仏であっても無駄だ。待つしかない。相手が決める日までに待つしかないのだ。

不善言説は弁舌の才能がよくないことではない。名相が分からない、または修行がよくできていないことでもない。十善法の基礎がないのに、仏法の話をすることだ。これでは必ず正法・甚深経典を誹謗することになり、迷信になるように人を導いてしまう。唱えればよい、拝めばよい、加護が得られると誤解させてしまう。これこそ正法を誹謗することだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの経典を読んできたが、仏は自発的に私たちを守ってくれるという話はどの経典にもない。何れも善男子、善女人の話が優先的だった。末法時代に仏法が消えつつあるのは、今の時代に仏法を学ぶどころか、十善法を修める人は極めて少ないのだ。誰でも気ままに身口意、悪行を放任している。自己欲望を満足するため、仏法を軽蔑し、いざとなる時だけ上師の助けを求め、普段は上師には関係ないと思っている。もちろんリンチェンドルジェ・リンポチェには関係ないのだ。あなたたち自身のことだから。

この段落は学仏者にとって極めて重要だ。あなたたちは日常に他人を真似て仏法を開示してはならない。仏法で人の悪口を言ってはならない。仏法で他人の行為を批判してはならない。仏法は私たち自身の行為を修正するためのものだ。他人の行為の良し悪しはそれぞれの因果と業力がある。だから、私たちは身をもって示さなければならない。自分を批判したり、自分が得た仏法の利益を言ったりしてもよいが、仏法で相手を批判してはならない。これは仏法と外道の違いだ。もし、外道と同様な方法で、信じなければ地獄に堕ちる、信じれば天堂に行けるなどの言い方でもすれば、私たちも外道になってしまう。

仏法の根本は十善法にある。だから、仏法で他人を批判するのは両舌、悪行になる。仏法の話をしていても、他人の気持ちを悪くするからだ。しかし、皆はどこまでも体面をこだわっており、上師に叱られたことを一切言わず、自分の旦那、妻、子供を叱ることにしてしまう。何故妻を学仏させたくない亭主は多いだろうか。最初はどうでもいいように思っても、だんだん自分はどんなことをしても間違いだと妻に言われるから、妻の学仏を止めさせたくなる。現に子供に同じことを言う親も多いが、迷信せず、信じればいいと子供に言うくらいは大丈夫だ。

近頃ある信衆の奥さんは皈依した。彼もそれを見て皈依を求めに来た。初めて来た時、両親に話したかとリンチェンドルジェ・リンポチェは尋ねた。彼の答えは『まだ』だった。そしたら、彼の両親は彼に条件を付けると、リンチェンドルジェ・リンポチェは教えてあげた。昨日彼は再び会見に来た。両親は同意したかと、リンチェンドルジェ・リンポチェはまた聞いた。『ハイ、同意してくれた』と彼は答えた。そして、両親はどんな条件を言ったかと、リンチェンドルジェ・リンポチェは更に聞いた。『条件はなかった』と彼はこう答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは諦めずにもう一度どんな条件なのかと聞いた。その時、彼は『母は信じていいが、迷信になってはならないと言ってくれた』と返事した。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは、『信じていいが、迷信になってはならない』とはどういう意味なのか、母親に確かめるように彼に指示した。こうしないと、息子は迷信になってしまったと彼の母親が言ってきたら、いろんな問題が起きる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは言説ができるほうだ。不善言説だったら、彼を皈依させてから、彼の母親をじっくりと変えて行こう、ましてその母親に回向するように彼に言っただろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは前の会見で彼に両親からは条件が与えられると話したが、彼はそれが条件だと思わず、『信じていいが、迷信になってはならない』という母親の思いは自分のためだとしか思わなかった。しかし、信は何か。迷は何か。彼の母親はそれをはっきりしなかった。結局、リンチェンドルジェ・リンポチェに説明する責任を負わせることになった。

仏は私たちを責めたりしないし、話がうまくできていないとも批判したりしない。不善とは、言った話は相手のためではなく、自分がこだわる定義、即ち名、利、占有のためのことだ。こんな心でもあったら、不善言説になる。だから、修行すればするほど、大変になる、決して容易ではないことが分かっただろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏経を読めば読むほど、怖くなる。幸いにも実践している。さもなければ、ひどい目に遭う。

それからは『説諸和上阿闍梨等住正法者所有過短。』という経典の言葉、この言葉は全ての出家衆、阿闍梨、即ち伝法者らの「住正法者」は、正法の中にいて仏陀の教法を逸れずに仏法を広めているのに、彼らのことを過ちと短所だと批判する意味だ。伝法者はこの世間にいる限り、修行がいくらできても人間の身だから、人間の生活習慣はまだあるし、それぞれ違うのだ。それでも、自分にとって都合のいいように解釈して引用する人がいる。将来性を見ようともせず、ただ今は何をしているかを見る。また、過去のやったことだけを見て将来は何をするかも見ないで考えずに批判する人もいる。

伝法者、出家衆が広める仏法は釈迦牟尼仏の教えた仏法を背けなければ、それでよいのだ。ジッテン・サムゴンは、自身の広めた仏法は、釈迦牟尼仏の教え、及び上師からの伝承によるもので、上師と仏が教えたことを基礎に、自らの修行を経て生まれた経験だと言った。こうして、ジッテン・サムゴンは言い出しだわけ、自分の思いが正しいものだと思わなかった。チベット仏教では、自分の修行経験によるものは必ず上師の確認が必要だ。自分の言いなりになるわけはないし、閉関したからといって、一部の経典に詳しいと思ったらそれで十分だというわけでもない。

何故先に言った伝法者のことを過ちと短所だと言うのはよくないだろうか。彼らは私たちがよくないと考えることをしたとしても、その仏法を広める心は名声と利益のためでなかったら、その心は清浄だったら、衆生を利益することをしているのだ。意味は、彼らは実践しているのに対し、あなたは実践していないから、彼らのことを過短だと批判する資格はない。批判するなら、彼らと全く同じようにできる場合の話だ。本当に修行している人をすぐ批判してしまう人は多いが、自分でさえ実践していないのに、他人を批判する資格なんてあり得ない。もし、あなたは実践できていたら、確かめることはできるが、実践できなかったら、ただ世俗の目で他人を批判することになる。

経典の『如是等名口不善業、善男子、何者名為意不善業、所謂姤悋邪見。』という言葉の中、『姤』は汚れではない。『悋』も財だけでなく、法にも関係している。姤は心が清浄でないことだ。仏法を広める時、何らかの条件のために物事をする意味だ。例えば、一部の法会は功徳主の価格を設けている、これこそ姤だ。この目的で法会を行う。法会を開催するのは衆生の利益のためでなかったら、姤が顕れる。姤が顕れたら、布施の心もけちるようになり、施身法を修めれなくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェの肩に軟骨はないが、いつも最後まで修法できたのが、無我だからだ。無我とは『我』が存在しないことではない。修法の時は、『我』の定位なんかちっとも存在しない。全ての苦痛は単に『我』に対する執着に過ぎない。

『我』が存在しなければ、姤も顕れなくなるし、吝嗇も顕れなくなり、邪見もなくなる。話をわざと一部残してちゃんと相手に打ち明けないと思ってはいけない。実際に、リンチェンドルジェ・リンポチェもこうしたければできるし、毎日たくさんの仏法を開示しているから、全部保留したければできるし、修法も同じだ。しかし、こうしてはいけないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェのしてきたことから、あなたたちはどれくらいの利益が得られるか、あなたたち自身が決めることだ。前に開示した疑、惑、不決定のように、この三つを抱えていたら、得られる利益は減る、乃至全く得られない。上師はケチなことをしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは修法の時、1000名以上の参加者もいるが、リンチェンドルジェ・リンポチェはその中の誰かに特別な関心を示さない。誰もが衆生だからだ。

昨日ある弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェに自分のことを気遣ってもらったから、感謝したいと思って会見に来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の息子にも関心を示さないのに、その弟子のことを気遣ってあげたはずはない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の供養を受けなかった。彼はあまりにも自己中心的で、自分は病気だったから、リンチェンドルジェ・リンポチェは特別に彼に気遣ってあげたと勘違いした。このような貪欲が生じて何のためにもならない。貪欲が生じると、姤、吝嗇が顕れ、回向しようとしなくなる。彼は、リンチェンドルジェ・リンポチェの修法は彼のため、彼は病気になったから、優しくしてあげた、気遣ってあげたと勘違いした。

大金を供養したい信衆がいたが、それでも、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の肉食を許可しなかった。だから、あなたたちに気遣うことはあり得ない。あなたたちは医者に診察してもらうお金を持っているのに、供養に関してはどうだろうか。今リンチェンドルジェ・リンポチェの話しているポイントはお金ではない。仏法だ。リンチェンドルジェ・リンポチェの関心は、衆生は三悪道に堕ちることにある。あなたたちの世間に起きたいろんなことは自業自得だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは教えられるだけのことを教える。助けられるだけのことを助ける。しかし、あなたたちは改められなかったら、無駄だ。話せば話すほど起きる状況は増える。

経典内の『増上妬悋。』という言葉だが、増上とは上のことを増やすのでなく、傲慢のことだ。自分はよく修行できており、他人とは違うという考えだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは台湾にいる限り、毎週土曜日必ず信衆を接見する。自分はリンポチェだという思いではなく、自分には些細な能力があり、衆生のために何かが解決できると思ったからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは世間のいろんな苦を経験した。それらの痛い経験は衆生の問題解決に役立てる。しかし、もしリンチェンドルジェ・リンポチェは偉いリンポチェだと自認していたら、あなたたちの持って来てくれるものを見て会うか会わないかを決めることになっていただろう。

実に、尊勝なる直貢チェツァン法王は、こんなたくさんの人に会わないように何度もリンチェンドルジェ・リンポチェに勧めてくれた。こんなことをしていたら、大変だ。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは冗談を言ったように、『会わないわけにはいかない。リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子たちはあまりにも淘汰率が高いから、新人が入ってこなかったら、寶吉祥仏法センターの信衆はなくなるだろう。』と答えた。

自分は上の方に行っていると思ったら、自分は上級階層の人だと思って間違いをしてしまったことと同じだ。善業も姤と悋になってしまう。条件を持っているからこそ、何かのことをする。しかし、善には条件がない。行者は相手と何も交換する必要がないし、あげることだけをすればいいのだ。

経典内の『楽利楽称。』とは利益が得られて嬉しいことだ。法会の開催にはいくらが必要だ、唱えたらどうなれる、褒めてもらいたいなどのことだ。この話をする理由は何だろう。世俗・八風が私たちに貪瞋痴を生じさせることは、ここでもう一回触れられた。もし、あなたは、近頃は調子がいい、改めた、修行がよくできていると思って嬉しくなったら、それで終わりだ。あなたたちのどこがよく修行できていると言うのか。よく修行できていたら、すぐにでも阿弥陀仏の所に行けるのか。あなたたちは往生したくないのに、いいことはどこにあるか。

改めることは当然だ。改めたくなければ、仏弟子になる資格はあるはずがない。ちょっとでも褒められたら、旦那は自分を愛しているから優しくしてくれている、どこに行こうとしても反対されないと思う。実際に、旦那はあなたを信じるのでなく、仏菩薩と上師はあなたを悪い方向に導かないと信じているだけだ。以前あなたを信用しなかったのは、どこに行ってしまうかも分からなかったからだ。あなたは自分は改めたと勘違いしただけだ。数か月前にある信衆の妻が皈依した。彼は離れる時に、妻を教えることをお任せすると、リンチェンドルジェ・リンポチェに言った。

楽利楽称は衆生を助けることだ。今日の話は菩薩道であり、世間の一般の事ではない。菩薩道の修行は全ての利益のためだったら、お金のほかに、あなた自身に有利なことをして利益が得られるから嬉しくなることだったら、菩薩ではない。楽称は、他人にすごい、えらいと褒められる意味だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは控えめな態度をとっているが、批判されたくないのではない。名聞利養を避けたいからだ。名聞利養は菩薩道の修行に対して最大な敵だから、仏はこう開示した。有名になり、褒められたくなったら、業はすぐ顕れる。かつて、某教派の法師はあることを終えた時に顕れた楽称の表情をリンチェンドルジェ・リンポチェは見た。その法師は往生したが、その時業はすぐ顕れた。本当に謹んで振る舞わなければならないのだ。

次に、経典には『楽親愛等。』がある。ここの親愛は男女の愛情ではない。誰かに特別に親切にしてあげることも含む、たくさんの人に持ち上げられ、優しくされることだ。昨日の弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェに自分のことを気遣ってもらったと言い出したら、その場でリンチェンドルジェ・リンポチェに叱られた。リンチェンドルジェ・リンポチェに楽親愛をさせたかったからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の息子に対して好意も親しみも示さないから、あなたたちに対しては決してするわけもない。

リンチェンドルジェ・リンポチェのしている全てのことは平等心に基づいている。あなたたちは因縁があれば、何れの状況があったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは合わせて方法を使って助けてあげる。仏法をちゃんと聞けるようにあなたの心を落ち着かせる。もしリンチェンドルジェ・リンポチェは楽親愛の者だったら、自分に子供がいるから、あなたたちを愛する必要もないだろう。あなたたちは誰もが、リンチェンドルジェ・リンポチェのことを平凡な人間だと思っている。経典はここまで言わなかったから、あなたたちは理解できない。

昨日自分の息子を供養させようとした弟子に、リンチェンドルジェ・リンポチェはその寶吉祥の弟子用ベストを回収した。何故だ。その行為は楽親愛だったからだ。学仏者には家もない、愛もないだろうか。そうではない。嬉しい気持ちに溺れてはいけないだけだ。『宝積経』は、今世に家族の縁があったら、要求を断ってはならないと言っている。仏もこれについて話した。仏は片方のことだけを言うようなことをしない。必ず全部のことを話す。仏法を学んだ後何も求められないというあなたたちの批判を避けたかったからだ。真義はこれだけが人生の嬉しさだと思わないこと、仏法の学習で家族はもっと優しくなった、もっと仲がよくなったと思わないことだ。こんな考えは間違いだ。さもなければ、毎回法会の前に『仏子行三十七頌』を唱える必要もないだろう。

家族がいるのは、あなたたちの今世の縁だ。相手は情、法、道理の合理範囲内であなたに要求すれば、応じてあげるべきだ。情、法、道理を背けて戒律を破った弟子に対して、リンチェンドルジェ・リンポチェは何もあげるはずがない。リンチェンドルジェ・リンポチェの息子は一言を間違えただけで、2年半もの処罰を受けさせられた。あなたたちは、仏法は冗談、リンチェンドルジェ・リンポチェに甘えても構わないと思うのか。こんなことをする必要はない。リンチェンドルジェ・リンポチェの所に来てリンチェンドルジェ・リンポチェは自分のことを気遣ってくれたと言った弟子はまさにいた。これは本当だったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは楽親愛の者だということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、息子に食事のお金もない時に一銭もあげなかった。楽親愛のようなことをするはずがないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの言った言葉を、あなたたちは空気のようにしか思っていない。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も言ったはずだ。自分の息子は話を聞かなかったから、お金を使い尽くしても、食事のためのお金をリンチェンドルジェ・リンポチェは一銭もあげなかった。この話をあなたたちは聞いたはずだ。それでも、その弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェの所に来て、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼のことを気遣ったと言った。これはリンチェンドルジェ・リンポチェの過ちだ。自分の息子だけに関心でも向けたらよかったのに。

修行者はあなたたちの想像する様子と違う。慈悲と世間法には距離があり、感情のない人は慈悲の修行ができない。そのため、菩薩は覚有情とも呼ばれており、仏とは違う。しかし、菩薩は情愛に関するいろんなことを慈悲の力に変えることができるので、慈悲の力に転化する時、菩薩の全ての身口意は必ず十善法の範囲内で運用され、十善法を超えることはない。言い換えると、衆生に自身の問題を処置、解決できるように望み、何れの行為もそのためのものだ。在家や出家を問わず、あまりにも楽親愛になったら、修行には問題が起きる。

そして、経典は『家慢色慢。』を言った。意味は、家庭は富貴であることだ。以前のチベットの観点から言うと、勢力のある家庭のことだ。自分の家庭はお金持ちだから、寶吉祥仏法センターで仏法を学ぶ時、リンチェンドルジェ・リンポチェに特別な扱いをもらいたいと思ったら、それはあり得ないことだ。そのため、寶吉祥仏法センターには大金持ちの第2世代や第3世代もいないし、企業家もいない。例えいるとしても、少ない。あなたはお金持ちだから、リンチェンドルジェ・リンポチェは特別に優しくしてあげたりしないからだ。大金を供養したい信衆がいたが、それでもリンチェンドルジェ・リンポチェはその人の肉食を認めなかった。あなたたちは自分はどんな立場があると思うか。

この理由の根拠について、リンチェンドルジェ・リンポチェは以前この段落を読まなかったから、今になって初めて話した。家慢になるように他人を助けてはならない。例えば、他人を見下す家庭を持つ人を、リンチェンドルジェ・リンポチェは常に責めている。一人親家庭と両親家庭は一体どう違うか。ただ、ご飯を食べる一人が減るだけの違いではないか。それなのに、一人親家庭出身者はまるで社会の特種の人間、なぜこうなっただろうか。何故一人親家庭の子供は軽蔑されるだろうか。これは家慢ということだ。両親がいるあなたはその縁があるが、父親や母親のいない他人もそれなりの縁がある。別に悪いことをしたわけでもないのに、なぜ彼らを見下したり、批判したりするだろうか。

以前、尊勝なる直貢チェツァン法王は台湾に来られて噶舉密咒蔵の灌頂を3週間続けたことがある。その時、ある直貢チェツァン法王の信衆はリンチェンドルジェ・リンポチェに『師兄、あなたは離婚したのに、灌頂を受けに来たのね。』と言った。その人は離婚しようとせず、家慢があった。離婚した人は学仏してはいけないと、仏は言わなかったし、幸せな結婚をしている人は必ず成仏できるとも言わなかった。今、経典内の家慢を読んでその人は何故修行ができていないのか、リンチェンドルジェ・リンポチェは初めて理解できた。仏はえらい、仏の知恵は無辺のものだ。

色慢とは、自分はきれいだと思って傲慢になることだ。一番ひどいのは修行者だ。弥勒菩薩に似たように修行できたねと、他人に言われたら、本当に耳までがよくないでき、きれい、荘厳になった思ってしまう。修行による相は変わる。他人よりすごくなるのでなく、心の調整が進行しているから、外相も変わる。しかし、この外相は常に変わらないものでなく、無常だし、何時でも変わっている。もし、あなたは自分は荘厳だと、大げさに座ってゆっくりと話したり、嘆いたりしていたら、これも色慢だ。あなたは本来どんな性格だったら、そのままの性格だ。自分は大きい仏寺、大きい道場を持っていると思うことも家慢だ。全部はこの範囲に入る。大きい道場を持つことはよい修行の表しではない。衆生にあまりにも多い借りができたことだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはその例だ。

経典もまた『侍少壮慢、侍無病慢。』を言った。これは、自分は若くて健康だ、他人より修行ができる、理解できるという思い、つまり傲慢だ。自分は賢いという思いも含んでいる。こんな人は菩薩を証得することができない。侍無病慢とは、自分は修行がよくできてリンチェンドルジェ・リンポチェは加護、関心をしてくれるから、病気が癒されるという思いだ。自分は修行がよくできているからガンは治ったという思いだ。あなたたちにリンチェンドルジェ・リンポチェのまねをしてほしくない。何故なら、リンチェンドルジェ・リンポチェは生死を度外視しているからだ。持咒、発心、発願ともよくできているから、病気にならないと思うのも侍無病慢だ。ジッテン・サムゴンはかつて、病気が治ったら修行、精進しなくなる人がいたことを開示した。それは侍無病慢の話だ。しかし今でも、自分は健康、立派だから、慌ててリンチェンドルジェ・リンポチェの教えたことをする必要はない、自分は修行して福報が得られたと思っている人がいる。

続いては『侍寿命慢。』。この言葉は、自分は他人よりも長寿、どっちが長生きするかを他人と競争し、自分は体が丈夫だから、きっと長生きすると思う意味だ。仏法の学習はどれくらい長生きできるかを競争することではない。この間往生した信衆のことを、あなたたちは見ただろう。彼は皈依もしなかったのに、座ったままに往生した。しかし、あれだけ多い出家衆をあなたたちは見てきたが、座ったままに往生した人はいただろうか。24時間お経を続けて唱えても、死者は座れるようにならない。だから、長生きは過去の修行で得られた福報に過ぎない。他人より優れる、福報が多い、修行がよくできる、時間が多いということではない。決して傲慢になってはならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは今年に生き延びれたのは、寿命が長いわけではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは何時でも往生できるように心の用意ができているから、この慢がないからこそ、変化が起きたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに、自分の命を長くしてもらえる、自分で旦那、息子を変える力がもらえると勘違いする人が多い。いつまでもそれを待っていなさい。自分自身のことだけをきちんと処理すればよいのだ。

次は『侍多聞慢。』。出家者はこの過ちを簡単に犯してしまう。自分はたくさんの法師の開示した仏法を聞いたことがあるが、リンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞いたことがないなどを含む。仏は数多くの仏経を教えたから、もれなく全部を話したわけはない。今日リンチェンドルジェ・リンポチェは菩薩道、『宝積経』を開示している。在家衆を含めて多くの人は、自分はたくさん聞いてきたと思っている。今のテレビはいいものではない。特に携帯電話だ。電源を入れれば、何時でも仏法の内容が見られる。それで、人に仏法を聞いたと思わせた。実は勘違いだ。それらの内容を聞いた時の時空環境は法師の説法するのと異なるし、対象も違うから、その時の内容は今になって言い方は必ずしも同じではない。映像による説法を薦めている人は多いが、リンチェンドルジェ・リンポチェは今でも賛成できない。DVDを見たり、本を読んだりするくらいならまだいいが、テレビチャンネルを設けて毎日説法することなら、いろんな多聞慢を生じさせてしまう。

台湾には論を教えるグループがある。それらの人は多聞慢の過ちを犯している。あなたたちの中にも話を聞いた人が多いし、組長になり、自分はたくさん、他人よりもたくさんを聞いてきたと思っている人もいる。ほかの道場で学んだことがあってここに来た人は多いが、以前学んだことを全部捨ててゼロからやり直しなさいと、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに要求する。ほかの道場で法師はどの法門を用いて彼らを助けたか分からないからだ。もし、あなたは、自分はたくさん聞いたからと言って、あれこれを比較していたら、問題が起きるのはあなた自身だ。リンチェンドルジェ・リンポチェではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはゼロからあなたたちを教えて鍛えきたが、十数年を経てリンチェンドルジェ・リンポチェはいきなり『宝積経』について話し始めることをあなたたちは予想できなかっただろう。

以前話さなかったリンチェンドルジェ・リンポチェの理由は、『宝積経』は本当に菩薩道を記述する経典で、ちょっとした基礎がなければ、恐れる気持ちが生じるからだ。仏は何度も開示したが、あなたたちはこの内容では無理だ、できないと思うかもしれない。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェも時間をかけて自らの修行を経て仏法の甚深さと意味を理解できるようになってから、初めて『宝積経』を開示する勇気を持つようになった。経典内の全てのことは、私たち自身が改めなければならないものだ。

経典の後段に『侍修行慢。』がある。これはどの学仏者でも犯してしまう過ちだ。自分は座禅がよくできており、動かないし、持咒もしないと自認する。これは修行慢だ。もし、持咒は座禅と関係がなかったら、釈迦牟尼仏はこの法門を開示しなかっただろう。末法時代に、禅定だけに頼るのが難しい。我々に業力がなくても、地球全体の環境、磁場は変わっている。宇宙の磁場も変わっている。数千年前とは違って私たち自身の電波は干渉されやすくなっている。皆は道場から出て行くと、全部の電波が動き出す。体のエネルギーは終日これらの電波の干渉を受けている。状況は以前と全く違う。以前は宇宙と地球の自然電波しかなかったが、今は人為的な電波が溢れている。

携帯を体正面の服の中に入れる出家者がいるが、直接に心臓に影響することになる。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも携帯をほったらかしにして殆ど使わない。リンチェンドルジェ・リンポチェより忙しい出家者もいる。携帯をいじるのに忙しい。よく携帯をいじる人だったら、人差し指は太くなるだろう。『侍修行慢』は学仏者の共通問題だ。自分はたくさんの法を学んで、法を学んでから素晴らしくなるだと自認する。本当に安易に犯してしまう過ちだ。

『欲覚害覚瞋悩覚等。』という経典の言葉がある。欲望の範囲は大変広いから、自分にとって最大な欲望は何かを気づけなければならない。人間には欲望なしでは生きていけない。食べる、寝る、服を着るなどのことが私たちには必要だ。仏法を学ぶ身として、自分の一番重要視している欲望は何かを、自分は注意して検討しなければならない。これは個人のことだから、リンチェンドルジェ・リンポチェに教える必要はない。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆一人一人の欲望を知りたくもない。欲望の感覚は自分自身が一番分かる。あなたは寝る時何をするかを親も分からない、誰も分からない、分かるのはあなた自身だけだ。

欲覚とは、自分は今日中必ずこのことをやりたい、そうすれば、満足、快楽、安全になれる、やらなければ、何かを失った気分になるという意味だ。これは欲望に対する感覚が深いことだ。欲覚はあなたの感覚、必ずしも行為に表れることではない。毎日何かの欲望を追求しているかどうかのことだ。追求していたら、気を付けなければならない。

害覚は衆生を害することを含む。テレビで他人が愛人にいじめられたのを見てすぐ『ほら』と悪口を言ってしまう。害覚だ。被害の感覚を持っているから、そんなことを見てすぐ反発してします。反発の気持ちがあるのは他人を害する思いが生じることだ。その人が悪いと思ったからだ。覚の意味は、自己意識の中にまだ大変深い貪瞋痴慢疑があるかどうかのことだ。だから、欲覚と害覚を持っている時、上師の開示する仏法を聞いても聞き入れられず、上師の言葉は自分の聞くべき話ではない、上師の開示は自分に関係ないと思いこむ。これは欲覚だ。仏法を聞く最中に居眠りしたり、お手洗いに行ったりすることも全部欲覚だ。

これらは普段自分で鍛えることだ。どうやって鍛えるか。自分を検討し、自分の一番重視するものは何かを検討する。これがあったら嬉しくないと思うのは欲覚、これを手に入れたら嬉しいと思うのも欲覚だ。欲望なしでは生きていけないが、ただ一般に合理的な需要は大丈夫、所謂四大みな空なりではない。四大みな空なりは何も望まないことを要求する意味ではない。単に地、風、水、火の四つの物質要素の本質は因縁法であると解釈している。因縁が来れば、この四大要素は解散し、体はなくなる。因縁が来れば、四大要素は結ばれてこの体を形成する。

「四大皆空」は何もほしくないのではない。水も飲まない、食事もしない境界までにあなたたちは修行できていないから、やらなければならないのだ。働くことのような基本的な欲望は必要だ。欲とは何かをしなければ生きていけない、何かを失ったら生きていけらないという思いだ。これは欲覚、害覚と煩悩覚だ。自分はある程度までに修行しなければならないという思いも含めてこの範囲の中に入っている。どのような果位に修得できるかは、欲望でも悩みでもない、因縁だ。縁が具足したら、自然に顕れる。縁が具足しなければ、欲覚だ。座禅して病気になる人がいるのは、自分は開悟していない、仏に会っていないと自認して欲覚、煩悩覚を持っているからだ。

経典にも『及国土覚、衣服等覚。』という言葉がある。皆は皇帝ではないが、国土覚とは自分のどの物件は必ず息子に残したい、死ぬまでにそれを手配したいという考えだ。国土覚は王様をしている人に聞かせるものだ。この感覚を持っていたら、菩薩道の修行をしていても、国土が侵略されたと思ったら、すぐ戦争を起こしたりする。戦争を起こしたら、菩薩としての修行がいくら上出来でも、菩薩道は全く存在しなくなる。密法の誅法を学んで仏土に行けるように済度してあげられる者でなければ、資格はないのだ。国土覚は私たちにあまり関係がないが、多少は関係している。何故なら、私たちは一部の物を失うことを気にするから。

『衣服等覚』の解釈はやや難しい。服、ブランド品を着てはいけない意味ではない。自分の能力を超えても無理して買いたいから、この悩みが生じる。出家衆にとって、体が寒くならなければ、人からの布施は受け取ってもよいが、法師は体が弱いから、わざとカシミヤの生地を見つけて服を作ってあげるのをする必要もない。これらは衣服等覚だ。出家相が顕れた以上、在家衆とは違う行動をとらなければならない。衣服等覚にもう一つの解釈がある。自分は荘厳に装っているから、他人は話を聞いてくれると思ってはならない。出家者の服装をしているから、恭しく対応してもらいたいと思ってもならない。

どんな法衣や出家衆の服装を着ていても、諸仏菩薩を代表して仏法を広めていることだけだし、自分はどんなことをしているかを他人に表すことだけだ。法衣、出家衆の服装を着ているから、他人は自分を敬わなければならないと思ったら、間違いだ。出家衆は『着如来衣(如来衣を着る)』という仏の言葉があったが、着ているこの服装は如来衣の意味ではなく、如来の仏法で服装にする意味だ。

仏法がなければ、何れの服装もただのイメージに過ぎない。修行者にとって本物の服装は仏法だ。服装はただ体を保護するものだ。修行者に仏法がなかったら、法身、報身と化身を保護してくれる服装がないのと同じだ。そのため、着如来衣は、仏法を学習しているから、儀軌の面も含めて仏法は自分を守る服装のようなものだという意味だ。人間には道徳観があるから、服を着ずに街中を歩き回るわけにはいかない。私たちは学仏者、修行者だから、裸になって仏法という服を着ずに自分は学仏者だと自称するにはいかない。

あなたたちに裸になれと命令するのは不可能だが、あなたは学仏者だと自認するなら、服装は仏法だ、世間の服ではない。世間の服は偽物、破壊できる、存在しないものだ。その服を何年間を保存しようとしても、何時かは壊れる。仏法だけが永遠に変わらないものだ。永遠に変わらない意味は、仏法は因縁法を逸れることでなく、仏法の真理は万世不易だ。衣服等覚について、仏の言うには、私たちは修行者だから、服装への要求は一般の人と違うはずだ。今私たちの着ている服装は礼儀のためのもの、出席の会合に合わせて特定の服を着るのだが、私たちにとって本物の服装は法衣だ。即ち、仏法を服装とする。法衣、袈裟などを修行の象徴にするのは正しくないことだ。

今日は14行の開示しかできなかった。この篇を最後までに開示するのに1年もかかるかもしれない。先話した内容は全部、菩薩道の修行において犯しやすい共通問題だ。とりわけ多聞慢、修行慢、この2点に気を付けなければならない。私たちの修行は果位が得られるまでに、一日でも、何れの修行も自分の行為を改めるものだ。自分の修行は上出来だ、他人よりもたくさん聞いてきたと自認してはならない。仏法を聞く機会があるのはすべて因縁があるからだ。他人よりもたくさん修行しているわけではない。このような傲慢さが生じると、仏法のあらゆる空性は直ちに消えてしまう。慈悲もなくなるし、人天福報になってしまい、来世になれば使うものになる。

『宝積経』が大事である理由は、菩薩道の修行者の犯しやすい共通問題を、仏はもう一度話したからだ。だから、皆は気を付けなければならない。自分の身口意を思うままに放任してはいけない。在家者にとって、すぐに実践できるかどうかはポイントではない。不疑(疑わない)、不惑(悩まない)、実践しようと決定することが大事だ。果位が得られる時間は重要ではない。あなた自身の因縁福報に関係しているからだ。福報が備わり、知恵が開き、因縁が具足したら、どんな境界に達せるかを上師は教えてくれる。仏法の学習はごく自然なこと、苦労することではない。

仏法を学んで家族との距離がますます離れると思う人がいるが、それは自然なことだ。何時かあなたは阿弥陀仏の所に行くが、家族は肉食をしているため行けないのだ。旦那、息子だから連れて行けるなんて思ってはいけない。そうにはならないのだ。皆はそれぞれの修行をしている。あなたは因縁があって仏法の学習をしているが、旦那、息子との縁は世間の縁、世間の縁は何時かきっと終わる。しかし、諸仏菩薩に追従する縁は、あなたが決定した以上、何時までも終わらないし、成仏できるまで縁は続く。皆は何時かきっと会えるのだ。あなたは仏だったら、皆は常に話し合うし、運転するのも、飛行機に乗るのも必要がなくなる。思えばすぐ行ける。いくら遠い仏土にも行ける。

皆に分かってほしい。今日の開示は、今あなたたちの持っているものを全部捨てろという要求ではない。あなたたちの持っているものは単に因縁法に過ぎないことを理解させるものだ。この因縁は止まって動かないものではないし、止まって変わらないものでもない。この因縁は変わるものだからこそ、私たちは尚更に仏法を学ばなければならない。仏法を学んだら、この変化はいいものでもないし、悪いものでもない、自然の法則だから、変わるのは当たり前だと理解できる。何時まで持続できるかのも、速いものになっても構わない。すべて縁だからだ。こうすることにより、あなたの人生は本当に健康の方向に向かうことができる。

人は病気になるが、何故だろうか。自分はよくできていないと思ったり、プレッシャーを感じたりするからだ。人生は短い数十年にすぎないが、長いかもしれないが、短いかもしれない。年はどんどん過ぎていく。もう8月になった。速くもまた1年が過ぎようとしている。あなたたちもこの世にいる時間が1年減ることになる。たくさんのことを考えさせる時間は多くない。仏法の学習は、家庭のことが大事ではないということではないし、家庭のことをしなくていいということでもない。ただ、家庭のことは因縁法になり、支度できること、やれることはそうするべきだし、聞いてくれたらそれでいいし、悩みも、罣礙も自然になくなる。してあげても聞いてくれないなら、彼らの因縁だ。あなたたちが何時か成仏できる時になれば、助けてあげよう。そうするしかないのだ。今世に彼らを助けることは難しい。あなたたちは自分のことでさえ助けられない。リンチェンドルジェ・リンポチェの助けが必要だ。

仏法を学習する理由は、世間法は何れも悩みだと分かり、仏法を学んだら、法門が分かるようになり、それぞれの悩みを処理、対面、乃至調整するようになれるからだ。こうして人生に確実な嬉しさが生まれるのだ。この種の嬉しさは、心が嬉しくなるようなものでなく、悩みが軽くなる状態だ。悩みが軽くなるとは、寝れない原因の悩みが消えて今はぐっすりと寝れるようになったということだ。以前さんざん泣かせられたことで、今はもう泣かなくなったことだ。これは悩みが軽くなったことだ。悩みには重さがあるだろうか。誰かが悩みの重さでも測っているだろうか。あなた自身だ。あなたはひどいと思っていたら、それは本当にひどいことになる。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェは『宝積経』を開示したが、あなたたちを批判したつもりではない。経典にこのような内容があったから、リンチェンドルジェ・リンポチェは説明しなければならなかった。あなたたちはできるだけのことをやりなさい。要はうまくできるかどうかのことではない。実際にやっているかどうかが肝心だ。行動に移ってちゃんとやれば、何時かは仏の言った境界に辿り着けるのだ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いてアキ護法と回向の儀軌を修め、法会は円満に終了した。弟子たちは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる開示に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを恭しく見届けた。

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2015 年 11 月 01 日 更新