尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年7月26日

法会が始まる前に、ある弟子は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲で自分の母親を離苦させるよう加持、済度したことについて話し、そして、これを機に自分がした諸多の悪業を懺悔した。

彼女は子供の時から、家で媽祖を供奉して来た。両親の因縁に従って同じ宗教を信仰して来たが、心の中では、加護を求めるこのような信仰は自分が学びたい仏法ではないとはっきりと分かっていた。そのため、仏寺で礼仏した度に、彼女はこの娑婆世界で具徳の上師に出会って仏法の学習ができることを諸仏菩薩に願った。この願いは、仏と同様な金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依するまで、長い14年もかかっり、やっと叶えた。

彼女はいつも、毎回日曜日の合同修行法会の後、上師が衆生を済度した事績を両親に話した。最初、彼女の母親はその度に「いつも同じ話だね。ほかの話はないのか。」と聞き返した。しかし、1回、1ヶ月、1年、時間が経つと、彼女の母親もこのような話に慣れて来た。彼女は母親に、リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求めようと聞いた度に、自分の母親に申し訳ないから、まだ菜食ができないからと言う理由で、母親に断られた。

ある日、保健センターからの電話連絡があった。彼女の母親の健康診断の結果に一部の数値が基準を上回ったため、より精密的な検査を受けることが勧められた。その後の検査結果で彼女の母親は大腸ガンが確診された。増々増大する腫瘍で腸が塞がれるのを避けるため、腹腔鏡手術を受けて腫瘍を切除することが医者に勧められた。彼女の家族は母親と相談した後、その手術を受けることに決めた。彼女の記憶では、母親は自分の信仰に大変忠実だった。いつもお香をあげて媽祖に祈っていた母親はいつの間にか、常に彼女の部屋で壇城に面し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真にひざまずいて合掌して囁くようになった。リンチェンドルジェ・リンポチェに何を話したかと聞いたら、「私とリンチェンドルジェ・リンポチェとの間の秘密だ」と彼女の母親はいつもこう答えた。また、いつの間にか、彼女の母親は毎晩寝る前に、上師の法写真に向かって合掌して「リンチェンドルジェ・リンポチェ、おやすみなさい。私を加持してくださいね。」と言うようになり、これを終わってから寝るようにしていた。

彼女は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝した。彼女の母親の手術は大変順調かつ円満で、手術後の翌日にベッドから降りて歩けた。80歳近くの患者とはとても見えなかった。しかも、速くていつもの顔色と体力に回復出来た。主治医も大変びっくりした。

去年6月、彼女の母親は突然「私を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに行くでしょう。リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに行きたい。」と彼女に言った。彼女は母親の気が変わったらいけないと思って繰り返して確認した後、他の妹さんをも招いた。最後、同行したのは両親と3番目の妹、4人で会見に行った。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに7月21日の会見を申し込んだ後、彼女は何度も妹さんにこう話した。「尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは大変慈悲で具徳の修行者、法界にいる衆生の因縁と因果に応じてそれぞれの方法で衆生を済度してくれるから、私たちは誠意をもって恭しい気持ちで、リンチェンドルジェ・リンポチェにお母さんの加持だけを願ったらいい。ほかのことはお母さんの因縁に任せよう。」

しかし、7月21日にリンチェンドルジェ・リンポチェに会見した時、彼女にある念頭が生じた。母親も法会に参加できたらという念頭だった。慈悲の上師に何かと聞かれたら、彼女は「今まで数年間リンポチェが加護してくれて来たことに感謝する。母はガンに罹ったが、施身法法会に参加させることをお願いしたい」と愚かに答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で彼女を大変厳しく叱った。「あなたは大変親不孝な娘だ。あなたの母親には仏法学習も生死解脱をしたい思いがない。死亡と痛みを恐れて会見に来ただけ。法会に参加して、もし最後に病気が治らず、あなたの母親は悪口を言うようにでもなったら、両親に口業をもたらすことになるのではないか。」また「今世に仏法学習の因縁はない。来世を待たなければならない。」と開示を続けた。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の母親のために大変長く加持した。

彼女は大変恥ずかしく思ってこの機会を借りて懺悔した。「自分は本当に親不孝な娘だ。母が大腸ガンと確診された時から往生までの6年間、自分は母のために道場に来て大礼拝、福徳資糧の蓄積をする機会を上師に願うことは一度もなかった。母のために大供養をしたこともなく、母の福徳資糧を蓄積するよう上師に祈ることもなかった。ただ上師の功徳の無量さを身勝手に利用したかった、頼りたかっただけ。母に悪口で三悪道に堕ちる因をもたらすところだった。

両親は民間信仰があったが、菜食を極めて嫌っていた。しかし、母はリンチェンドルジェ・リンポチェの加持をもらった後、断固とした口調で妹たちに『今からリンチェンドルジェ・リンポチェに追随して菜食をする。』と言った。それまでに母の菜食を大変反対していた一番上の妹、四番目の妹と一番下の妹も反対しなくなった。往生前に、母はいつも『リンチェンドルジェ・リンポチェが助けてくれた、加持してくれたことがよく分かった。リンチェンドルジェ・リンポチェ、本当は菩薩だ。話すことができる菩薩だ。』と言っていた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは菩薩であって仏でもある。法界にいる衆生が苦しむのを見捨てず、いつも法界にいる衆生の因縁と因果に応じて空性の慈悲力、威徳力で離苦得楽ができるよう衆生を摂受して済度している。」

彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲で自分の母親を加持してくれたことに感謝した。大腸ガンに罹った彼女の母親は、確診、発病の時から往生まで侵襲的処置を受けることがなく、抗がん剤を飲むこともなかった。末期ガンの患者によく見られる痛みと血便もなく、腹水と腫脹もなかった。同時に挿管治療をも受けることがなく、救急医療も一切受けなかった。年取った彼女の母親は家で穏やかに往生した。往生の時に意識ははっきりしていた。彼女は「リンチェンドルジェ・リンポチェ、助けて。」と母親の叫び声が確かに聞こえた。彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲で自分の母親を済度しとことに感謝した。彼女の母親はそれで善道に往生でき、離苦得楽ができるようになった。同時に、身口意も悪業も深い、根器も大変悪い自分を見捨てなかったことについても尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。それで、彼女は、仏法学習の慧命が持続できるようになり、この末法時代に具徳の上師にも出会って殊勝で貴重な仏法が聞け、生死解脱の機会が得られて輪廻しなくなった。彼女は更に、母親の養育の恩に報う因縁ができたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。母親の恩に報えても、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの莫大な恩徳に、彼女は生生世世を渡っても報えないと彼女は表した。

母親が往生した後、彼女は3月7日に父親と4人の妹を連れて道場に来て母親のための殊勝な施身法の済度を尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお願いした。彼女の母親の葬式は3月23日だった。当日、彼女は何度も妹たちに母親の頭蓋骨を見るように言った。火葬後、葬儀社のスタッフはきれいで明らか、小さな丸い穴のある頭蓋骨を彼女の前に置いた。その場、彼女は喜びが生じ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対して無限の感謝が湧いた。

彼女は話の中で累世と今世において自分が傷つけた法界の全ての衆生に懺悔したうえで、過去と今生において自分の妄念、悪念、貪欲、邪念を含めた起心動念についても懺悔した。清浄な心ではなく、計算した心で供養したことをも懺悔した。彼女は母親の往生前、菜食と侵襲的処置に関する観念の違いで妹たちと喧嘩して悪口、嫌悪の心が生じた。その全てのことについても懺悔した。皈依前に不動産の前売り物件の業績のために鬼神を拝んだことをも懺悔した。彼女は皈依前、肉食のレストランを投資していた。自分が植えた各種の悪業について全部、彼女は懺悔した。

最後に、彼女は十方のの一切法界衆生を代表し、大慈大悲の尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩の大恩大徳に感謝したうえで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体が安康で、法輪が常転し、この世に常住し、仏法事業が円満と興隆になり、直貢噶舉派の法脈が永遠に伝承されることを祈った。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、合同修行法会を執り行った。まずは『百遍頂礼証知』を修持した。本来、この儀軌は、唱える度に礼拝すべきだったが、今回は時間が足りないため、リンチェンドルジェ・リンポチェは参加者全員に起立し、出家弟子たちが全ての衆生を代表して十方三世の一切諸仏菩薩、無量無辺の眷属と一切の本尊、上師に3回頂礼するように指示した。その後は出家弟子は参加者全員を率いて経文内容を念誦した。

参加者全員が経文を念誦し終えた後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは貴重な仏法を開示した。

「今日、あなたたちが唱えた『百遍頂礼証知』は尊勝なる直貢チェツァン法王が伝えてくれたもの。法本にある『この正法はチベットが現れる前のものだ』は、チベットで法本が得られる前に正法が現れた意味だ。法本には、『この経文は天から降りた兆しで、夢の中で覚えて記録された。5世代を経た後その意味が分かるようになり、これは法の始まりだ』という記述がある。『百遍頂礼証知』には三乗の修行法門が含められており、後の念誦に含められる内容は諸仏菩薩、阿羅漢、上師僧衆を礼敬し、そして供養、懺悔などをしなければならない等がある。

法本の後段にいくつかの言葉がある。皈依しようとする人も既に皈依した人もはっきりと聞かなければならない。法本の中に、『これ以上趨向しない、業と悩みの因を蓄積しないことを願う。この下生と一切の苦果から解脱できた後、今後決して受忍することのないよう願いたい。』が記載されている。私たちは何故仏法を学ぶのか。生死から解脱したいからだ。生死、過去世と今世で成した悪、善業から解脱したいからだ。浄土宗の観点から言えば、善業は持って行けるものだが、ほかの本尊を修める場合、善業は持って行けない。法本のこの部分の言葉は、発願すべきことを言っている。これ以上趨向しないとは、この方向に向かって続けない、悪業と悩みの因をこれ以上蓄積しない、今世と来世の苦果の全てから解脱できるよう願うことを言っている。今世において全ての苦果を償還しなければ、来世になっても返さなければならないのだ。菩薩道を修める人は自分のこの果報を償還することを恐れたり、逃げたりしない。徹底的に返さなければ、生死を解脱することは絶対あり得ない。

多くの人は、自分は皈依したし、経文も唱えたし、それ以上何ができるかを聞く。実は、何もできない。懺悔も償還もしていないから、何もできないのだ。ほかの法本、経文では触れられなかったが、『百遍頂礼証知』は私たちに、借りをきちんと返さなければならないことを特に指摘してくれた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの法本を入手する前から、借りを返すようと、皆に注意して来た。仏法を学んでいるから、当然に立派になれる、いいものだけを望んで悪いものは何もほしくないと思ってはいけない。こんなことはあるはずがない。あるなら、あなたたちは思わなくても、経文の中はとっくに記述があったはずだ。私たちは誰でも愚かなものだ。愚かさは貪瞋痴から生まれる。これらの祈願文は何れも証道できて生死を解脱した菩薩と仏が書いたものだ。法本にある『いわゆる一切の苦果は、自分が植えた全ての苦しい因の果報であり、必ず返さなければならない。返せたら、初めて解脱ができるのだ。』、この言葉はとても大事だ。

皈依したら、リンチェンドルジェ・リンポチェの保護、加護が必ず得られると、あなたたちはこう思ってはならない。あなたたちは全財産をリンチェンドルジェ・リンポチェにあげていないし、いい生活をさせてあげても、その財産の半分をリンチェンドルジェ・リンポチェにも分けていない。当然、リンチェンドルジェ・リンポチェもこんなことをあなたたちに要求していないし、仏菩薩もこのように要求していない。あなたたちは、いい生活をさせてくれと言えるような根拠はあるはずがない。それはリンチェンドルジェ・リンポチェがあなたたちに対する借り、義務だと、あなたちは思っているのか。あなたたちの皈依を通じて上師は全ての方法で一日でも早くあなたたちが借りを返せるようにしてあげる。立派になり、もっと金儲けができ、商売ができ、女房がますます順従になり、子供がよくなるなどは皈依の目的ではない。体が健康になり、恋が順調になるのも目的ではない。皈依したら、前世の借りが全部現れて恋の悩みはもっと増える可能性もあるのだ。

借りを返したら、儲けたお金も貯められるようになる。借りを返したくなければ、いつまでも存在し続けるのだ。この世は逃れられても、来世は逃れられない。来世のことは分からないだろう、とりあえず今世を過ごそうと言う人は多い。でも、ごく簡単なことだが、借りをきちんと返さない人は、死ぬ前に必ず苦しむ。あなたたちは出家衆だが、たくさんの出家衆の死ぬ前の苦しんだ様子を見ただろう。それは借りを返さなかったからだ。借りを完全に返さなかったら、必ず苦しんで三悪道に堕ちる。死者のそばで念仏をしてあげても、大修行者の助力がなかったら、無駄だ。

仏法学習と皈依の前に最初の観念として、何故仏法を学びたいのか、仏菩薩と上師の助力を通じて借りを速く返すのを理解しなければならない。この観念がなかったら、後の皈依に参加してほしくない。さもなければ、将来口業をしてしまう可能性がある。仏経では因果についてたくさん触れられた。しかも内容は大変細かい。医者が注射の針を刺す時、痛みで患者を喚かせることでさえ果報ができる。お金をもらったのに患者に痛みを感じさせたからだ。それは注射の時の失神だ、体質が悪いからだと言ってはいけない。そうなら、患者の脈をはっきりと見極めてから注射したらいいんじゃないか。

仏経の中では、お灸で痛みを感じさせたら、医者でも地獄に堕ちると言っている。何故だろう。患者が病気で苦しむから、医者は金儲けができる。医者の腕がいいからと言うのではなく、人の弱みを利用して金儲けをしているからだ。人の弱みを利用して金儲けをしているからこそ、もっと気を付け、他人の危険をそれ以上増やしてはならない。他人の危険を増すことは、必ずしも病気を完治させ、健康にしてあげることではない。診察を受けに来た以上、その人に対する関心を示さなければならない。関心とは、その病気は完治できるかを思うことではない。完治してあげたいとばかり考えることではない。最適な方法でその病気の苦痛を低減してあげる思いやりのことだ。福報がなかったら、華佗のような医者でもその人の病気を治すことはできない。

私たちは借りを返さなければ、生死を解脱することはできない。法本の後段に『今後受忍することはない』ともう一言が付け加えられた。意味は、この因、果報を解決すれば、無事に終わることができ、再びに来る、顕れることはない。今世にガンに罹ったら、来世もまた罹ると言う人はいるが、そうではないのだ。来世には別の病気に罹るのだ。今世においてガンに罹って死んだ後は地獄に堕ち、借りを全部償還した後出て来たら、別のことになるが、ずっと持ち歩いて行くことはない。善果と悪果は顕れたら、消える。私たちは何故仏法を学ぶのか。使い切れないほど善業の力を蓄積し続けたいからだ。最後に証される空性の善は使い切れないほどになり、一真の法界の中にあるものだ。あなたたちには今このような能力がないが、とりあえず自分の借りを返す必要があると知らなければならない。

懺悔とは、懺悔したら自分には関係がなくなることではない。懺は認める、責任を取る、自分がした全てのことに対面する意味だ。悔は決して二度とやらない意味だ。そうすることにより、法本の言った通りに今後受任することはなくなる。例えば、1匹の蟻を殺した。その後、手は血が出た。もしたくさんの善業をすることがあったら、果報はそれまでだ。しかし、善業をたくさんしなかったら、血が出るだけでなく、更に多くのことが起きる。この言葉は重要だ。あなたたちはいい修行ができるかどうかはこの言葉に係っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関の時にいろんな障害が顕れた。それは過去世に他人にたくさんの障害を与えたからだ。ほかの人は閉関の時に快適だったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは不運にも午後に日が当たる部屋を選んでしまった。午後の気温は42度にもなるほど大変熱かった。ほかの人は冷房のついた部屋の中で閉関できた。尊勝なる直貢チェツァン法王もリンチェンドルジェ・リンポチェのために冷房のついた部屋を選んでくれたが、零下10度の季節だった。しかも郊外にある部屋だった。

これは閉関の理由だ。借りを返還でもすれば、立派の人になれる、すごくなれると思う人は多いようだが、そうではないのだ。借りを返すためだ。部屋に閉じこもったら借りを返す速度も大変速くなるし、功徳も大きくなる。長く閉関した後、出て来たらすごくなれるという間違った観念を持っている人は多い。長く閉関でもしたら、悪業を徹底的に返せたから、もちろん出てくる時は善業だけが残っている。それ故、一般の人よりも立派だ。

閉関する理由は何だろう。閉関は懲役のようなことだ。懲役された人は何故多いだろうか。彼らは生生世世、動物、ペットを閉じ込めることがあったからだ。仏経も、この世に動物を籠の中に閉じ込めたら、来世に牢屋に入れられると言っている。ペットを飼うことがあったら、このような目に遭う。あなただったら、籠の中に入れられて荷物のように運ばれても構わないだろうか。だから、子供にペットを飼わせる親だったら、今世になくても来世には牢獄に入る可能性はある。閉関する理由は何だろうか。私たちは生生世世このようなことをよくやってしまうから、閉関しなければならない。閉関の理由が分からない人は多いが、お経を唱えれば唱えるほどよくなると思っているようだ。実は強制的に借りを返させるためだ。外にいる時、借りを返す気持ちは強くならないが、部屋に閉じこもっても頑固として返さないのか。閉関の時の食事もほかの生活面のことも一番簡単な形になり、乞食に似たような生活だが、理由は借りを返すためだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはネパールの標高4500メーターの高山で閉関した時、食べたのは白い水で茹でた白い麺に、外の白い雪一枚だった。いわゆる3白のことだ。あなたたちは、閉関の時においしいものが食べれるとも思っているだろうが、おいしいものはないのだ。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王の所で閉関したことがある。その時、食事担当の比丘尼は交代の時、次の人に部屋に閉関する人がいることを言い忘れた。結局、リンチェンドルジェ・リンポチェは一日中食事できなかった。このことは、リンチェンドルジェ・リンポチェは過去において食糧を布施しなかったことの表しだ。だから、今世に一日の飢えることになった。閉関はお腹が空いても中止することはできない。あなたたちのようにお腹がすいたら寝ればいいし、そして目が覚めたらほかの機会を見てみればいいし。こんなことをしてはいけないのだ。しかも、閉関中はドアをノックして人に話しかけることもできない。人が外を通り過ぎても話しかけることはできない。一旦しゃべったら、その前のことは無駄になり、最初から計算し直さなければならない。

仏法は、今世において借りを返せるよう助けてくれるものだ。もし、あなたたちは借りを返したくない。いいことだけを求めたいなら、後の皈依に受けてほしくない。後悔するから。あなたたちの期待に背くから。皈依したら何でもよくなるとあなたたちは思っているから。確かに皈依したら、よくなるが、しかし、それは将来のことだ、今ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは最適な例だ。ゆっくりとよくなるが、急によくなったわけではない。よくなるとは、金、権力があるようになることではない。悪業を果たして善業の力が自然に顕れることだ。悪の行為がなくなったら、新しい悪果も顕れなくなる。あなたたちに悩みが生じたら、人生の末路までに来たかのように思えたら、あなたたちを祝福する。何故なら、あなたたちは借りを返しているからだ。相手は正しいだろうか、間違っただろうか、何れにせよ、あなたは借りを返しているからだ。

これらの言葉をちょっと唱えればよいと思ったら、大間違いだ。これらは発願だ。皆は引っかかっただろう。以前、この法本がなかった時、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの観念を開示していた。今は、法本があったから、更に根拠付けられた。だから、あなたたちはよく考えなければならない。考えずに前に出て皈依してはいけない。皈依したら、借りの償還が始まる。よく考えなさい。ほかの所と違ってリンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちに皈依してほしいとは思っていない。それは、法に従わなければ、皈依の後は却ってあなたたちによくないからだ。法に従わなかったら、必ず悪行をする。悪行でもすれば、ここから離れて行く。何故悪行をする人を離れさせるのか。根拠がある。リンチェンドルジェ・リンポチェの好き嫌いで離れさせるのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェのすることは何れも仏経の教えに基づいている。仏経が触れないことなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはしない。だから、皆は気を付けなければならない。

法本には、『隠さず、隠匿せずに懺悔を表すことを知るべきだ。修行すべきでないものをしてはならない。』がある。とても大事な言葉だ。多くの人は、自分に悪いことが起きたら、念誦、回向し続け、そしてまた念誦、回向を繰り返す。悪いことがこれ以上起きないように祈る。修行すべきでないものをしてはならないことを、法本はっきり示している。特別の場合でなければ、してはならない。例えばリンチェンドルジェ・リンポチェは大勢の衆生のためにたくさんのことをしたから、尊勝なる直貢チェツァン法王は自ら修法してくれたし、他の人にも修法するよう指示した。あなたたちもリンチェンドルジェ・リンポチェと同様なことをしていたら、修法してあげる者が現れる。時々、あなたたちに些細なことが起きるが、これは借りを返すことだ。それなのに、あなたたちはまだ修法を求めたい。借りを返したくないとも思っているのか。

私たちは毎日持咒、礼仏、護法の修行をしている。これは借りを返さなくてよいと言っているのではなく、この世にいて借りを返すのに十分な時間を与えてくれることだ。借りをきっちりと返せたら、いいことが顕れる。一日でも借りを返さなかったら、いいことを望んでもびくびくするだろう。何時か債主に出会ってしまい、いい生活をしているのに、債務を返さないことがばれたら、その場で殴られるのではないか。だから、私たちは借りを返さなければならないのだ。皈依でもしたら、リンチェンドルジェ・リンポチェの修法の助力で返さなくて済むと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェの修法は何れも借りを返すよう、あなたたちを手伝っている。それから、債主に命が取られるのを暫く防ぎ、そして償還のための福報を持たせるようにするものだ。体が悪い状態では借りを返すこともできない。とにかく、借りを返すことはよいことだ。悪いことではない。

法本にある『修行すべきでないものをしてはならない』は、修行、念誦を止めろと言う意味ではない。自分は『金剛経』を唱えるべきだと思ってはならない。経本は、因果は何れも空性のものだと言っているから、このような観念があってはならない。仏こそこう言う資格があるのだ。平凡な人間は未だに輪廻の中にいるのに、空性を言う資格なんてあり得ない。言う資格がないなら、借りを返すのだ。借りを返したいことは空性だ。返したくないなら、執着だ。『金剛経』を唱えたら無事になれると思うことは一種の執着だ。執着を持ったら、必ず戻ってくる。あなたたちはこんな開示を聞いたことがないだろう。『金剛経』を唱えれば、因果はなくなると言う人は多いが、誰が敢えてこんなことを言うのか。リンチェンドルジェ・リンポチェは敢えてこんなことを言わない。

因果は必ずある。一方、仏は何故因果の影響を受けなかったのか。空性に入って執着がなくなったから。あなたたちは何故果報が怖いのか。執着を持って苦を恐れて楽だけを期待し、苦はいらないと言う心を持っているからだ。しかし、苦の因の全てによる根本的な問題は、何れも快楽を望むことだ。苦の因、苦果がなかったら、まだ快楽を求めたいと思うだろうか。その必要はなくなる。何故、皆はいつでも楽しいことばかりを望んでいるだろうか。私たちは生生世世に苦の因を植えて来たからだ。そのため、この一生苦果を味わわなければならない。人生を100分に分けたら、1分だけが楽しみ、ほかの99%は苦と悩みだ。どれも私たちを悩ませることだ。『修行すべきでないものをしてはならない』とは、私たちがしている仏事は何れも、自分の過去の行為を変えるためのものではなく、将来に成仏するため、衆生を利益するためのものだ。こうして皈依も意義的になる。

法本にも『今後一切の罪を浄めることができたら、初めて一切の福徳は円満になれる。』がある。大勢の修行者は修行が大変よくできた時に、障害、問題が顕れるようだが、福徳は円満にならず、罪は浄められていなかったからだ。罪を浄めていないとは、まだその罪に執着を持っており、果報、問題が顕れるのを恐れることだ。私たちはこの一生の起心動念の何れも業だ、罪だ。この一生にたくさんのことをして来たが、逃れられるだろうか。一日でも生きれる、食事できる、念仏、拝仏する時間があったら、私たちは福報のある者だ。念仏、拝仏したくても機会がない、できない人がいるのだ。したくないのではなく、能力、体力がないうえで、障害もたくさんある。だから、ご飯が食べれて着る服がある、住む場所がある、仏法に触れられる、拝仏できる人は皆福報のある人だ。事業、恋、家庭倫理等、ほかのことは何れも因縁に過ぎない。風と共に去って行き、止まることはない。好きだから残ってくれる、或は嫌いだから去って行くことは何れもないのだ。却って、好きになればなるほど、早く去って行くし、嫌いになればなるほど止まって動かないのだ。いつもそうだが、何れもあなたたちが持っている借りが原因だ。

今日の開示はあなたたちに仏法学習の理由と皈依の理由を理解させ、皈依して福報が得られるという坊間で言われるような誤解を解くためだった。もちろん、福報があるからこそ皈依ができるのだ。しかし、この福報は過去の過ちを変えるためのものではない。過ちをしないように今のあなたを変えるためのものだ。こうして将来は自然に過ちを犯さず、福のある果報が得られる。私たちは一分の努力をすれば、一分の収穫がある。毎日少しずつ足して行けば、たくさんの蓄積ができる。だから、焦ることはない。必ず何時に実現したいと言ってもいけない。仏の記述は保守的なもので、今世において返しきれなかったら、来世になって続けて返すことを言った。それは、仏は衆生のことをよく理解したからだ。今世にいては必ず完全に返したいと言う確固とした信念を、衆生は持っていないと分かっていたからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは本尊に、死亡が私のためなら、死なせてもらいたいと発願した。意味は、死ぬことによって生生世世の悪業を返すことができるなら、死んでもいい。ほかの方法で自分の果報を返すことができたら、死後は地獄に堕ちない。病気に罹ることもない。だが、自殺で死ぬことは別だ。自殺で死ぬ人は必ず地獄に堕ちる。恋は苦しい、世間は苦しいから、死なせてほしいと、意図的に毎日仏菩薩に願うこともしてはいけない。自分は来世になったらよく修行すると言う言い方も正しくない。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示内容はあなたの感覚ではなく、果報を言っているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがそんなことを言ったからだと思って、あなたたちも真似て言ってはいけない。恋で悩まされ、家族が順従ではないから、仏菩薩に連れて行ってほしいと願うことは間違いだ。決心して借りを返すのだ。学仏、修行したい人だけが、その発願は効き目がある。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、病気は私のためなら、病気に罹らせてもらいたいと発願した。病気によって生生世世の殺業を果たせて地獄に堕ちなくて済むなら、それでいいと言う意味だ。地獄に堕ちる時の状況が分からないから、今こそ大事だと思う人もいるが、地獄に堕ちる時の状況を知る必要はない。死ぬ前に分かるのだ。親戚や友達が死ぬ前にいろいろと苦しんだ様子を、あなたたちは見ただろう。それらの苦しみは一生の悪行の結果で、死ぬ前に顕れて地獄、畜生道、餓鬼道に堕ちさせるものだ。死亡は必ず苦しいものなのか。実にそうではない。寶吉祥仏法センターでは、死ぬ時に全く苦しまない人がたくさんいた。何故彼らは死亡の時に苦しまなかっただろうか。借りを全部返したからだ。

多くの人はいつも阿弥陀仏を唱え続けていたのに、死ぬ前も苦しんでいた。何故だろうか。借りを返そうとせず、自分の修行は借りを返すこと、冤親債主に回向することだと思っていたからだ。法本には『修行すべきでないものをしてはならない』があるが。私たちの修行は生死解脱のためだから、借りを返さなければならない。特定の相手に毎日回向することではなく、西方極楽世界に回向すべきだ。法本にも『今から菩提果位を証得するまで』がある。だから、この法本は小乗ではなく、大乗のものだ。仏果が証得できるまで修行を続けることは、金剛乗のものと言ってもよい。皈依する今日から、仏果の証得ができる時まで、三門から生じる善、即ち身口意で生じる全ての善の力は流れる川の水のように絶えない。私たちは皈依して仏法を学んだ後、身口意の全ての善の力は、水のように続けて流れる。借りを返す意欲があり、善を修め続けることができたら、将来善の力は川の流れように絶えない。やる気が大事なのだ。

今日はたくさん開示しない。法本の後段でよく説明されている。法本を得てから5世代を経たら、初めて内容の真義が理解できる。この法本も金剛乗のものだ。『今から仏果を証得するまで、永遠に三宝に皈依し、己の身を貢献する』と言う言葉があるからだ。ほかのことのために皈依するのではない。皈依の後、生生世世三宝に皈依することになり、中断することはない。ほかの所では、皈依は隨縁で、仏菩薩との因縁を結ぶためのものだが、永遠に三宝に皈依することを念誦していない。」リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアで言った。「今日あなたたちは念誦した。あなたたちのためだ。皆は引っかかったと言ってもいい。あなたたちはいつも、たくさん念仏したら、たくさんの加護が得られると思っているが、実は、あなたたちを落とすわながたくさんあるのだ。そんな便宜なことはないのだ。

法本は『永遠に三宝に皈依し、己の身を貢献する』をいっているが、即ち、一身上の考えのためではなく、恭しく体(化身、報身と法身を含む)で衆生を利益する意味だ。法本の後段は空性について触れた。その中空性に関する内容があるが、今説明してあげても、あなたたちは理解できない。法本は、世間と出世間の全ての福徳について随喜しなければならないと言っている。即ち、誰かがの善行を見たら、世間か出世間(修行)の善を問わず、この福徳を見たら、随喜しなければならないことだ。随喜は御捻りの金額に関係がない。その人の善行によって歓喜心、賞賛が生じる。こうして福徳が顕れる。他人の善行、或は自分よりも上出来だと嫉妬でもしたら、いくら修行ができても、福徳は顕れない。私たちは随喜功徳の心を持たなければならない。だから、七支供養に随喜も含まれている。随喜は好きなだけすることではなく、修行、世間、出世法を問わず、他人の善業を見て自分には嫉妬の心構えがなく、心に賞賛、歓喜の気持ちが自然に生まれることだ。

そして、法本にも『死亡が確定される時』と言うのがある。『確定』と言う言葉を付け加える理由は、死亡は100%確定できるものではなく、寿命は減少も増加もするものだからだ。確定とは、定業のことだ。即ち、変える機会は全くない意味だ。今年初めの件みたいに、その事はリンチェンドルジェ・リンポチェに死なせるものだったが、死亡が確定されなかったから、尊勝なる直貢チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェ自身の修法で命は持続できた。1ヶ月も経たないうちに、体は回復出来た。

法本内の『死亡が確定される時、諸仏菩薩が金色の右手を差し出して私たちの頭頂に置き、授記をくださることをこの目で見たい』は、今世において借りを完全に返し、上師に恭敬することができたら、死亡が確定される時に、上師の修法がなくても、諸仏菩薩が金色の右手を差し出して梵穴に置き、授記をくださることを自分の目で見れる意味だ。つまり、来世は菩薩、未来世は仏になることだ。但し、前提は借りをきっちりと返す必要がある。借りを返さなかったら、差し出してくれるのは金色の右手ではなく、黒い手でフォークを持ってあなたの頭を刺すことになるかもしれない。

法本に2つの言葉があるが、出家衆ははっきりと聞きなさい。『悩みで心が乱されないように願い、法無我であることを希求する。無量菩提心が得られて死亡に立ち向かいたい。』人間の悩みは実に種類が多い。以前話したことのように、ある出家衆は阿弥陀仏に会えないのを恐れて夜も寝ることはできなかった。これも悩みと心の乱れだ。多くの出家者は死ぬ前に、自分の修法はできているか、正しいのか、どのように念誦したらよいか、たくさん聞いたが、どれがいいか、阿弥陀仏なのか、観音菩薩、それとも禅定なのか、といろいろ考えてしまう。これこそ心の乱れだ。

この一生を通して借りを返し、自分は悩みと心の乱れに影響されないように発願し、法無我であることを希求する。法無我とは、この我がないことではない。法は何れも特定の単一個体のために生まれることでなく、法は何れも因縁法である意味だ。因縁法だから、死亡も因縁法、空性のものだ。死亡も涅槃も空性であると理解する時は、無量の菩提心を持って今世の死亡は、今世の何かを解脱または回避するためのものでなく、来世の用意だけだと理解しなければならない。私の体が使えなくなったら、建物が破損して使えなくなったのと同じ、別の建物に引っ越して衆生を続けて助けて行くのだ。

こうして、このような心で死亡に対面して心は乱されない。皆ははっきりと理解しなければならない。頼るのは禅定でもない、心が乱れないまで念仏を続けることでもない。菩提心に頼るのだ。無量の菩提心で死亡に対面できたら、修法は完璧でなくても、菩提心さえ持っていれば、諸仏菩薩と上師は必ず来てくれる。菩提心がなければ、生前は大法師であっても、何のためにもならない。

今日は以上の内容を開示したが、理由はたくさんの人は中国、オーストラリア等ほかの所から皈依に来たからだ。念のため、リンチェンドルジェ・リンポチェはもっと開示したい。皈依に誤解があったら、皈依は自分によい生活をもたらしてくれるという誤解があったらいけないため、皈依の前に、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも、仏弟子は皈依後、してよいこと、していけないこと等、注意すべきことをちょっと開示する。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは続いて皈依後の各種の利益、すべきこととすべきでないことを開示した。経典に基づいて弟子たちが仏法学習において犯してはならない過ち、弟子が過ちを犯した時上師の対応方法、及び弟子は上師の加持が得られない原因について開示した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは近頃3人の弟子が犯した過ちを例に挙げた。ある理事を担当している弟子はその経過について話した。「先週、リンチェンドルジェ・リンポチェは修法の時に2つの法を修めた。その過程に20分間の休みを挟んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは最初に施身法を修めた。修法の時には必ず鈴を揺らし、鼓を叩き、持咒し、法本をめくなければならない。修法が1時間続けた後、リンチェンドルジェ・リンポチェは法座から降りて休憩室に入った。

本来なら、修法事務担当の弟子は、お茶、水とタオル等を持って来るよう食事担当チームに連絡し、リンチェンドルジェ・リンポチェに休んでもらうはずだった。結局、連絡担当の弟子は前日に連絡し忘れた。そして、別の弟子がその間に食事担当チームに連絡した。休憩室の門番をした弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェに1分後食膳が送られることを報告したが、運ばれて来た時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは目を閉じて休んでいたのを見て、お茶もタオルも休憩室外に置かれるようにした。

また、休憩室のドアも開けたままだった。リンチェンドルジェ・リンポチェは2つ目の法を修めるまでの20分間全く水を飲まなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェに休んでもらいたいと思っても、ドアは閉められなかった。休憩室外は大変騒々しい状況だった。それらの弟子は上師を奉仕、恭敬する、弟子が果たすべき責任を守らなかった。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェはその3人の弟子に、2つの法を修める間に水を飲まなかったうえで、持咒しなければならない、そのリンチェンドルジェ・リンポチェの苦労を理解させた。リンチェンドルジェ・リンポチェはその3人の弟子に、右手で鼓を揺らし、左手で鈴と同じ重さの水が入った保温瓶を持ち、中断せずに持咒するよに指示した。20分間の休憩を挟んでよいが、飲む水はなかった。その後、更に1時間の真言を念誦させた。

これを経験して3人の弟子は自分の過ちが分かった。その後、3人に手は疲れたと聞いたら、疲れたと3人は答えた。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェみたいに脊柱側弯があるかと聞いたら、ないと3人は答えた。彼らは、鼓を揺らし、保温瓶を揺らしただけだったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは鈴と鼓を揺らしながら、持咒して法本をめくり、法帽をかぶって人腿骨法器を吹奏しなければならなかった。しかも、リンチェンドルジェ・リンポチェの揺らした鼓は、その3人の弟子の揺らしと鼓より倍くらい大きかった。それに、リンチェンドルジェ・リンポチェの肩関節軟骨は摩耗で大変痛かった。その3人の弟子は1時間鼓を揺らして疲れたし、その後も持咒で口が大変渇いたから、3人とも大変疲れて痛みを感じて懺悔した。」

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。「その3人の弟子が懺悔した理由は渇きと痛みだった。今後、ポワ法に恭敬しない人がいたら、遺体でも見つけてその遺体の頭頂に穴が出るまで修法させようか。そのことが起きたのは、彼らは自分の役目が分からなかったからだ。門番の弟子はスタッフ以外の人を入れないようにすべきだったが、彼は自分に権威があると思ってリンチェンドルジェ・リンポチェが休んでいたのを見て食事担当のスタッフが入るのを止めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは喉が渇いてたまらなかったが、それは当然のことだったのか。リンチェンドルジェ・リンポチェは忍耐強い人だから、その場は何も聞かなかった。弟子たちはどう対応するかを見ていた。アキ護法の親切かもしれないが、その日のその水に毒でも入っていたかもしれない。

ほかの2人、お茶を送った弟子も送るべきものが分からず、門番の弟子を怒らせるのを恐れた。門番の弟子は背が高いが、細目で弱い体形の人だ。彼より体が大きい2人は恐れたなんて。何故こんなことを言ったか。その2人は、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲だから怒らせても構わないが、他人を怒らせてはいけないと思ったからだ。門番の弟子が送らなくていいと言ったから、彼らは送らなかった。だったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは休みをとっていたから、彼らもついでに休めばいいんじゃないか。多くの人は自分は上師を奉仕していると思っているが、慈悲心で上師のことを配慮しない。上師が慈悲で接してくれるのは当たり前だと思うのに、自分は慈悲で上師を扱わない。

子女として親は自分のことが分からないと言う人は多いが、自分は親のことをどれくらい知っているだろうか。同じ概念だ。先に話した弟子たちはそんなことをしたから、すぐ加持がなくなった。お茶を送らなかったことは恭敬しなかったのと同じだ。恭敬心があったら、その人が仕事の後の苦労を見て水を差しあげるのは礼儀だ。おかしいことではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは休んでいたとしても、ノックしてお茶を送り込んだら、飲もうか飲むまいか、リンチェンドルジェ・リンポチェが決めることだったし、門番の弟子が決めることではなかった。しかし、その時は門番の弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェの代わりに決めた。そうしたら、その弟子がリンポチェにでもなればよい。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェを代表して飲水、休憩をするかどうかを決めた。大した権威だ。

数多くの道場はそのような弟子のせいで悪くなった。中にいる住持はそうではないが、外にいる接待係は法師の指示だと言う。その日、リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分は休んでいると、門番の弟子に言わなかった。その3人の弟子は昨日リンチェンドルジェ・リンポチェを供養に来たが、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らなかった。彼らは未だに自分の過ちが分かっていないからだ。道場と言う所は、友達作りの場ではない。人間は容易に、権力のある人に近づいて他人の権勢をかさに着て威張るのだ。門番の弟子は長い間その役を務めて来た。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも、休む時に自らドアを閉めたか、或はドアを閉めるように指示した。その日、リンチェンドルジェ・リンポチェは指示しなかった。疲れて座っただけだ。なのに、門番の弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェは目を閉じて休んでいたと勝手に思った。

何故上師を恭敬、奉仕することはこんなに大事だろうか。上師のすることは何れも衆生を利益しているからだ。上師に対する弟子の奉仕は随喜功徳であり、善の共業にも含まれている。だが、門番の弟子は自分が権威者のように見せる手段を取った。道場ではこのようなことが多い。リンチェンドルジェ・リンポチェのはっきりと言ったことを弟子たちはやらないが、それに対してリンチェンドルジェ・リンポチェの言ったこともないことをで弟子たちはやっている。世の中が混乱するのは、皆が教えを守らないからだ。今日、開示したその3人の弟子の話は見せる芝居だ。彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェの修法は簡単、楽なものだと思っていた。鈴と鼓を揺らすことについてリンチェンドルジェ・リンポチェは教えてもらうことがなかった。手に取ると、すぐできたんだ。その3人の弟子に鼓を揺らさせて彼らは手に傷ができた。リンチェンドルジェ・リンポチェは楽にやっているように見えたが、前世に善根がなかったら、この法を学びたくてもできないのだ。」

リンチェンドルジェ・リンポチェは経典に基づき、皈依後弟子の持つべき心構えと犯してはならない過ちについて開示を続けた。「それらの過ちを犯したら、上師の加持が得られなくなる。上師が加持してあげないのではなく、弟子自身が加持を止めたのだ。後で皆の皈依の時、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆の梵穴の所の髪を少し切ってあげる。この儀軌には意義がある。1つ目は悩みを絶つこと、皈依後仏法の薫陶によって悩みを絶つ意味だ。2つ目は出家の相だ。比丘、比丘尼の相ではなく、輪廻の家から出離する意味だ。髪を切る意義だが、人間にとって最も大事なのは頭頂であり、阿弥陀仏浄土に行くにせよ、ほかの菩薩の浄土に行くにせよ、何れも梵穴から出て行く。だが、顕教には髪を切る儀軌がない。」

リンチェンドルジェ・リンポチェは、それから皈依する弟子に、皈依する直貢噶舉派の伝承と三恩根本上師の尊勝なる直貢チェツァン法王を紹介した。並びに皈依上師の仏法学習の背景について理解するよう注意した。「上師はどのような修行をしたかを理解し、転生の活仏だけが言えるのでなく、はっきりと説明できるようにならなければならない。上師は多少でも自分自身はどのように修行したかについて弟子に話すが、自分自身は急にすごくなったとは言わない。こう話すのは正しくないのだ。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、それから皈依する弟子に対し、道場の護持と皈依後の心構えについて開示した。

「皈依の後、あなたたちは学仏者になる。直ちにほかの人と全く違う人間になるわけではない。身口意が悪から善に変わって行く。皈依した後、親友から離れようとするのではない、全て縁に任せる。縁があれば、一緒にいられる。縁がなければ、自然に離れて行く。追い払ったり、無理したりする必要はないし、わざと、気が狂う人みたいに一日中唱え続ける必要もない。心を改めなければ、24時間唱えても無駄だ。大事なのは仏法の薫陶を受けて心を改めて調整しなければならないことだ。皈依後の宿題は、経咒をどのくらい念誦することではなく、皈依後戒律を守り、自分の心構えを見直すことだ。念誦の内容について、リンチェンドルジェ・リンポチェは段階的に教えてあげる。焦ることはない。焦っても、得られてから、あなたたちは修め続けるとは限らない。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは続いて皈依の儀軌を進めた。86名の信衆の皈依を受け、一人一人のために髪を切る儀軌を執り行い、並びに五戒を教えてあげた。そして、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子たちを率いてアキ護法と回向の儀軌を修めた後、すぐに新皈依弟子たちに礼仏の正しい姿勢、意義と観想の方法を教えた。そして、顕教とチベット仏教の礼仏方法の違い、坊間によくある誤解について説明した。

法会は円満に終了した。弟子たちは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる開示に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを恭しく見送った。

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2016 年 03 月 21 日 更新