尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年7月5日

法会開始前に6名の弟子は、ある出家弟子の母親は生前に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの世話と助けを受け、そして往生後上師にポワ法で済度してもらって顕れたいろんな殊勝な瑞相について語った。

始めに、一人目の出家弟子は、上師の慈悲功徳と利益衆生を皆に語る機会が与えられたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

話の内容に出た出家弟子の母親は2015年6月29日の夜7時過ぎに亡くなった。後期に皈依した弟子と一部の大徳は娘さん(2012年に往生した出家弟子)の方に会ったことがないため、彼女はまず簡単に説明した。「その出家弟子は本来台湾北部のある仏寺に住んでいた。2番目のお姉さんがその仏寺の住持だった。当時母親の方は既に90歳過ぎ、行動も不自由になっていた。母親は新しい環境に移ると、適応の問題が起きるだけでなく、同住する人にも影響するだろうと思って彼女は大変迷っていたので、すぐには寮に引っ越さなかった。

そのまま1年経って彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求め、本来住んでいた仏寺から台北に引っ越すことを報告した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲を込めて『あなたは今リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子だから、住む所がなければ、着る服がなければ、食べられるご飯がなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは全部の面倒をみる』と開示した。彼女はその場で高齢の母親が一緒に寮に引っ越すことを願い、リンチェンドルジェ・リンポチェも慈悲の心で応じた。その後、彼女の母親は寮に住むようになり、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる加持と世話を受け、そして2008年11月2日に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。

その出家弟子は2012年3月24日に亡くなり、往生の時に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが修めた殊勝なポワ法による済度を受けた。そのいろんな瑞相、そして尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに助けをもらってきた過程について、皆さんは2012年3月25日の法会開示を参照することができる。」と話を語った弟子は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに大変感謝すrことを述べた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも弟子たちのために、最適な仏法学習の環境と機会を与え、仏法学習の障害を減らし、心身安定の状態で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに追従して仏法の学習ができるようにしてくれた。

二人目の出家弟子は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの摂受を語り、そして感謝した。「その出家弟子が亡くなった後、この3年間、その出家弟子の母親は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの世話を受け、生活品質も以前と全く違うように変わったのを自分は見てきた。以前、その出家弟子が在世の時、母親の生活範囲は部屋内に限られていた。しかし、彼女が往生した後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは高価な台湾人ヘルパーを雇って毎日12時間介護した。その母親は朝晩も上の階から降りて散歩できたし、いつでも部屋を離れて活動することもできた。ヘルパーは大変念入りにその母親を介護した。その母親の食べた日本食品も全て最高品質のものだった。以上のいろんな出費は一般の中流家庭にとって、とても負担できるものではない。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは人に知れずに弟子とその家族を世話した。それほど注いだ心血は世間が考えられるものではない。」と話を語った弟子はかつて、自分は血の繋がらない人のためにそこまでできるかと自問した。参加者の皆も自分と同じ、できないと彼女は思えた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは自分自身のためだという思いはちっともなかったので、彼女は大変感動した。彼女自身を含めて全ての弟子は皆、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの守りの下で仏法を学習しているが、皆はいつも上師を傷つけたり、恩を知らないことをしたりしてばかり、自分を守ることだけを考えて上師の大きな恩徳を忘れている。それでも、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは依然として弟子を守ろうと思い続け、そっと加持し続け、あらゆる方法を尽くしても弟子を助けようとしている。決して弟子を嫌うことはない。彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに大変感謝している。

「その出家弟子の母親は高齢で上師のことを忘れ、浄土に行きたがらず、ただ家族のことと悩みを抱え続けた。それでも、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはその母親の状況を知り、母親に検査を受けさせるようと自分に指示した。その母親が亡くなった後、家族は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝するためにやって来た。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは『娘さんはリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは面倒を見る。心配はいらない』と、家族の方に開示した。往生した出家弟子は母親のためにポワ法を求めたことがあるが、その母親は心に上師のことがなかったため、往生の当時にすぐ上師に連絡が取れる福報因縁がなかった。しかし、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは翌日にそのことを知ってすぐその母親のためにポワ法を修めた。

その出家弟子の母親は往生の時に穏やかな瑞相がいくつか顕れた。これらの何れも尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加護だった。また、その出家弟子の母親は心に上師のことがなかったため、上師に連絡が取れる福報因縁がなかったが、上師は優しい方であり、無理してもポワ法を修めた。これは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの福徳と体力を大変費やした。弟子らは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの教えをしっかりと覚えず、念入りに仏法を修めなければ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにただ迷惑をかけることになってしまう。」その理由から、彼女は皆さんに、自分を守るだけ、上師の大恩大徳を忘れるような人間にならないように呼びかけた。

三人目の出家弟子は、最も尊貴の金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに、上師の慈悲功徳と利益衆生の事績を皆さんに語る機会が与えられたことに感謝した。「その出家弟子の母親は2007年に娘さんと一緒に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した時から、上師に馴れ親しむようになった。当時母親は93歳、上師はその出家弟子に安心に仏法を学習させるため、二人の親子を寮に一緒に入居させるように手配した。二人の衣食住、交通、日常生活と医者の診察料を含めて全部尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが世話をしていた。2012年に出家弟子が往生した時、上師は巨額な葬儀費用を負担したほか、その母親の世話責任をも全部引き受けた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは一人の台湾人ヘルパーを雇ってその出家弟子の母親を介護した上、自分の母親みたいに接するように出家弟子全員に指示した。また、お年寄りの食べ物にケチしてはいけないと言い付けたため、その母親は日本食品を食べて寶吉祥漢方診療所の漢方薬を飲み、体のケアを続けていた。本来真っ白になっていた髪になんと黒髪が新たに生えた。その母親もその時期が自分の人生において最も幸せな時間だと言った。その母親は晩年に大した病気もなく、最期まで疾患がなっかたと言ってもよい。これらは全部上師の大きな福報の庇蔭と行き届いた世話と加持の結果だ。

今年6月中旬、100歳になった出家弟子の母親は昏睡状態になり、言葉もできず、人との交流もできなかった。その家族は、母親の後は長くないだろうと思って道場にやって来て尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに母親の状況を報告し、上師の世話に感謝を表した。その時、上師は医者に診てもらうよう、もう一度病院に連れていくことを指示した。家で亡くなる場合、医者の診断証明書が必要なので、そのような面倒を防ぐためだった。上師の円満なる知恵はいつも、弟子の因縁を最も完全かつ理想的、最も苦しまない状態で輪廻の苦しみから自然的に出離させる。

6月29日の夜7時過ぎ、自分は道場での晚課を終えて寮に戻った。寮に入ると、ヘルパーは出家弟子の母親に食事を済ませたところだった。母親の頭はヘルパーの腕に寄りかかっていた。その時、ヘルパーは「師父、師父、お婆ちゃんの様子が変です」と声を上げた。そして、自分は手を出家弟子の母親の鼻の下に当ててみた。呼吸がなかった。脈を測ったら、心拍が止まっていた。時が来ている、往生したことが分かったので、ある師兄に電話をした。電話を切ってから10分も経たないうちに、出家弟子の母親の体は冷たくなったが、頭頂部はまだ温かくて全身は柔らかった。肌は白くて良くなり、皺もシミも減り、穏やかな微笑みを見せていた。本来曲がっていた体も、膝も真っ直ぐに伸ばせた。その時は上師に連絡が取れず、修法してもらえなかったが、明らかに往生時の瑞相が顕れていた。自分もヘルパーも、そして戻ったばかり、もう一人の弟子もその母親のことを喜んで見届け、上師の大威徳力と大加持力を大いに賞賛した。

以前、顕教では、浄土宗は顕教8大宗派の『易行難至』の法として公認されていた。つまり、やりやすいが、目標に達成しがたい方法のことだ。自分の出会った出家人の中に、そして知る限りでは、出家人は皆数十年の専修、持戒、精進をして福徳の資糧を蓄積したが、往生時に瑞相が顕れた者は一人もいなかった。大徳の皆さんもよく言ったが、末法の時代に数千万人の修行者の中でも1人、2人位しか顕れないそうだ。でも自分は見た。その出家弟子の母親は93の高齢になった後上師に皈依した。上師の開示が全く分からず、何もしなかった。自身の修行でさえ殆どできなかったのに。今は単に上師が持つ平等な空性慈悲と菩提願力の加持で往生の時に瑞相が顕れた。上師は彼女のために修法もしなかったというのに。数週間前に往生した、ある男性のお年寄りと同じ、その方も皈依も修行もしなかった、福報も修めなかった、功徳も蓄積しなかった。単純に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに対する信念を持っただけで、上師の願力と加持の力を借りて穏やかに極楽浄土に往生することができた。

なんと、極楽世界に往生することがこんなに簡単になったなんて!これほどの大功徳力を有する尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに出会えなかったら、こんなに天と地の差があるわけがない。ほんの一瞬、上師は弟子たちの疑いと必要でない考えを全部済度した。自分も極楽世界に往生する道を歩んでいるようで、前方にある極楽浄土の荘厳さが見えてきた。そうだ、上師は、生きている人間も済度が必要だと言ったことがある。それは、自分の冤親債主を済度するほかに、これらの疑惑、不納得、曲解のような思いをも済度することだ。

法医が検死した時、上師の指示で医者診断書の用意はできたため、法律面でも医学面でも、不必要で面倒な手続きが省けられた。葬儀に関する処理は全て簡単、順調且つ円満に完成できた。これら全部のことは上師が責任を持って手配した。家族の方も大変楽になり、皆さんはその出家弟子と母親と共に慈悲の上師に頼ることができて大変喜んでいた。そして、ヘルパーはお婆ちゃんの往生過程と瑞相を見て加持を受けることもできた。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲、殊勝な手配に何度も感謝した。この巧みな手配でなかったら、自分は出家弟子の母親の死亡に対面できず、怖くなってどうしたらよいか分からいままでいたはず。ヘルパーは、このような穏やかに往生した過程と殊勝な瑞相を見たことはなかったと強調した。以前介護した人は皆病院で医療的な救急の苦しみを受け、集中治療室でたくさんの激しい苦痛を受けた後亡くなった。その出家弟子の母親は家で往生し、医療面で苦しめられることもなく、穏やか、静か、自在、荘厳的に往生することができ、まさに静かな最期を迎えた。人間にとってこれ以上の福報はないもの。そのため、彼女も上師の大慈悲、大知恵を大変賞賛した。

出家弟子の家族はヘルパーにお礼を言ったが、その時ヘルパーは『自分はやるべきのことをしただけなので、感謝はいらない。母親の上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝すべきだ。世話をたくさんしてくれたのはリンチェンドルジェ・リンポチェだ』と述べた。全ては上師の大慈悲、大威徳、大知恵の庇蔭と加持があるからこそ、その出家弟子の母親の往生はこんなに円満になれた。生きている人も、亡くなった人も最も円満な仏法を見せてくれたし、全ての人も済度を受けたことができた。ヘルパーは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。気持ちに無限の謝意と賞賛を込めていた。」

四人目の出家弟子は、その出家弟子の母親の介護に手伝う機会が与えられたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝の言葉を述べた。「その母親は往生前に大した病気もなく、意識もはっきりしていた。物が飲みにくかったり、食べれなかったりするような問題もなかった。特に腹水の症状がなくて体に器官の腐敗臭もなく、大変元気だった。唯一の問題は呼吸がちょっと荒かっただけ。自分の以前住んでいたお寺で、ある出家衆が往生した後、排せつ物が止まらなかった。お腹に物があったから、排せつが止まらなかった。しかも失禁があり、死体臭がひどかった。しかし、その出家弟子の母親を介護したヘルパーによると、お婆ちゃんが亡くなった当日、物をたくさん食べたが、往生後は排せつ物が全くなくて肛門も閉じたままできれいだった。失禁もなくて体も清潔だった。しかも往生の前に恐怖と無力さを感じることも全くなくて穏やかで自在だった。つい最近、2人の師兄も往生の時にいろんな瑞相が顕れた。これらは全て上師がポワ法を修めた殊勝な功徳と加持力のお蔭だった。上師の加持がなくては浄土に往生することは不可能だ。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子の母親を自分の母親みたいに入念に世話した。使ったもの、食べたもの、全ては最高級なものだった。ましてヘルパーを雇って介護した。毎月の出費はかなりの金額だった。それに、3、4週間前、上師はその母親の往生時間が間近だと知り、お医者さんに診てもらって診断書を発行してもらうよう指示した。実際に上師は、その母親は寮で自然に往生することが分かっていた。家族の疑問からヘルパーを守るためでもあり、法医による解剖で苦しまれるのを回避するためでもあった。家で死亡した場合、死亡証明の発行はより複雑になる。上師の心は何時でも、絶えずに利益衆生を思っている。報いを求めることは決してない。どのお年寄りも自分の両親だと思ってどの若輩も自分の子供として扱い、公平無私で何時でも最高のものを衆生に与える。これは仏菩薩のような大成就者でなければ、できないことだ。」

この世でこのような珍しい実修実証の偉大なリンポチェに出会えて自分はなんと幸せだと、四人目の出家弟子は語った。「今まで浄土に往生するのに、一心不乱、念仏成片までに念仏しなければならないと思っていたが、なかなかできないことだ。師兄らと信衆が往生した時に瑞相を何度も見て自分は、浄土に往生するには、上師に対して絶対的な信念と恭敬心を持たなければならないと分かった。それにしても自分は依然として教えに基づいて行動せず、自己の悪習に従うまま、意固地、貢高我慢で五戒十善を守らない。上師のエネルギーを消耗してばかりしている。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはまさに善の調御者であり、あらゆる方法を使っても衆生の頑固な心を調伏しようとしている。弟子らは今生で輪廻から解脱し、大変苦しい輪廻転生をしなくなることをばかり、上師は思っている。上師に出会えなかったら、自分は六道輪廻をずっと繰り返すだろうし、仏法学習もできないだろう。自分は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの心遣いと苦労、絶えずに全ての衆生を利益することに感謝している。」

五人目の出家弟子は続けて語った。「その出家弟子の母親は最近往生したが、その出家弟子が往生してから、母親のほうは寝たっきりだった。日常生活、トイレも、飲食等の全て、人の世話に頼っていた。しかし、母親のほうは入念に介護してもらえたほか、毎日ヘルパーに付き添われ、コシヒカリやオーガニックの野菜と果物、日本食品を食べていた上、定期的に漢方医に診てもらっていた。診察を受けて薬を飲み、たまにはちょっとした病気があっても医療的ケアの作用に過ぎなかった。100歳の高齢と言っても、西洋医学の病院に出入りすることもなく、治療で苦しまれることもなかった。これらの全ては娘さんと共に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの皈依弟子になったからだ。」

話を語ってくれた弟子は、以前母親を看病した時のことを思い出した。「いつも母親の病気を心配し、母親は治療で苦しまれるかと、今度は何かの病気にかかるかと、常に悩んでいた。母親は高齢なのに、痛風の苦しみに耐えなければならなかった。2回も軽度の脳卒中にかかって行動不自由になり、また、原因もなく顎に肉腫ができてどこで治療を受けてよいかも分からなかった。西洋医学の治療を受けたくなかったが、腕の良い漢方専門医はどこにあるかも分からなかった上、現実的に経済的な問題も心配だった。たくさんのことで色々な心配、不安、悲しい気持ちが生まれ、母親が病気で苦しむ度に、自分も同じく苦痛を感じた。母親が苦しんでいるのをただ見るほか、何もできなかった。出家してかなりの時間が経ったとはいえ、仏菩薩と感応道交することが全くなく、本当に助けを求めようとしても誰も応じてくれない状況だった。

その亡くなった出家弟子に比べたら、状況は天と地の差と言っても過言ではない。その弟子は前もって母親を連れて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依したから、極楽世界に行けて自由自在の身になれた。その後のことは全部上師に任せた。何の心配もなく、その母親はこれで福報が得られた。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と庇蔭の下で、真面目に生活するだけすればよい、大した病気もなく、衣食のことも心配せず、病院を通ったこともない。ヘルパーの介護があって最良の漢方薬で健康を維持し、安穏な晩年を過ごすことができた。お年寄りが西洋医学の病院に行ったのはただ2回、しかも2回とも尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはその往生が間近だと知り、葬儀のことをやりやすいよう、診療記録を残すため病院に行かせた。皆さんはこんなことを聞いたことがあるだろうか。」

話を語った弟子は、自分の母親の往生前に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの話をしてくれた師兄がいたが、自分はこんなに偉大な上師がいることを信じず、間違った師父に追従してはいけないと恐れて機会を失った。そのため、母親も耐えるべきの苦しみから逃れなかった。

「そしてまた、自分の母親が往生した後、極楽世界に行けたかと悩んだ。極楽世界に行けなかったら、母親の往生前の様子では、臨終後の念仏で瑞相が顕れたとは言え、無限に輪廻の苦しみから逃れることはできないだろうと悩んだ。今回、その出家弟子の母親の往生を目の前にした皆の心はとても自在で何の心配もなかった。偉大な上師がいるからこそこうできたんだ。その母親は生前よりも往生時の模様はよかった。肌は以前よりきめ細かく、皺がなくて死斑もなかった。着替えさせた時、全身は柔らかく、肌にも弾力があり、四肢と全身は真っ直ぐ、横になっていた。生前はベッドの中で体が曲がって真っ直ぐなれなかったのに。その時、体の水腫も治り、頭頂部は温かかった。それらの様子をみて介護していたヘルパーも歓喜心が生まれて大変貴重なことだと賞賛した。

その出家弟子の母親が往生した時、すぐには上師に連絡できなかったが、それほど多くの瑞相が顕れた。それは自分自身が修行した結果ではない。何故なら、その母親は往生の前に長い間念仏していなかったし、上師を思っていてもなかったからだ。きっと上師からいつもの加持と守り、そしてその1日前に施身法による済度のお蔭だった。翌日、ある師兄からの電話によると、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはその母親のためにポワ法を修めた。きっと尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのエネルギーを大いに消耗したに違いない。

儒家に『聞道夕死可矣(朝に真実の道を聞くことができたら、夕方に死んでも構わない)』という言葉がある。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの下でこんなに多くの人が自在的に往生でき、何の努力もしなかったのを見た自分は生死について迷い、恐怖を感じなくなり、修行の時も無力さを感じなくなった。例え自分は夕方に往生しようとしても、遺憾はない。」と彼女は、上師が慈悲で摂受してくれることに感謝し、そして上師の法体の健康、この世で長生きして無辺な有情衆生を利益することを祈った。

六人目の弟子も話を語り、そして、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。「リンチェンドルジェ・リンポチェは大変仁慈な方、慈悲と仏法の殊勝さを見せ続けてくれた。その出家弟子の母親は6月29日の夜7時過ぎに往生し、翌日に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが修めたポワ法で済度された。家族と同居の出家衆が斎場に行った時、大変穏やかで微笑んで寝ているような顔を見た。不思議なのは、夏場だったため、冷凍庫の温度は大変低くされて額は氷のように凍っていたのに、梵穴は意外にも温かかった。肌は滑らかで艶々、以前の皺は見れず、四肢は柔らかく、それまでに真っ直ぐに伸ばせなかった背中と足も全部真っ直ぐに伸ばせた。今のように柔らかく安静に臥したことはなかったと、皆は言っていた。

その往生した出家弟子と母親は2007年1月に皈依した。出家弟子に安心に仏法の修行をさせるため、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女らを世話して衣食住、交通、治療とヘルパーなどの費用を全部に負担していた。以前、その出家弟子が往生する時に一番の気がかりは母親のことだった。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれを知って安心させるため、代わりに母親の面倒を見ると彼女に言った。2012年3月その出家弟子が往生した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは全部の医療費と葬儀費用を支払った。その出家弟子が顕教で知り合った出家衆と道場の師兄にお葬式に出席できるようにするため、わざわざ斎場で最大な会場を借りてお葬式を行った。お葬式終了後、出席者の皆は、大変荘厳なお葬式だと言ってくれた。また、リンチェンドルジェ・リンポチェもその母親を介護するためのヘルパーを雇った。数年来、リンチェンドルジェ・リンポチェはそっと費用を負担していたのに、人の前で触れたことは決してなかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェはその出家弟子の母親をまるで自分の母親のように世話した。ご自身が付き添っていたわけではないが、それよりも遥かにたくさんのことをしていた。食べるものにも、使うものにも、常に関心を見せた。しかも毎週漢方診療所で脈を診てもらい、漢方薬を飲ませるよう手配した。リンチェンドルジェ・リンポチェは大変忙しいのに、その母親の背中の不具合にも気付いた。お医者さんに診てもらうようヘルパーに指示した。更に、高価で治療効果のあるエアーベッドを用意した。それほど行き届いた関心はまるで自分の母親に付き添うようのことだった。

昨日その母親の子供は、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの数年間母親を入念に世話したことに感謝するためにやって来た。母親が残したお金をリンチェンドルジェ・リンポチェの供養に寄付したいと述べたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、そのお金を母親の名義で衛生福利部社会及び家庭署の302指定口座に寄付するようと求めた。」六人目の弟子は続けて皆さんに話した。「リンチェンドルジェ・リンポチェは助けを必要とする人々のために数年来衛生福利部に寄付し続けてきた。その金額は6千万台湾元も上回ったという。衛生福利部もリンチェンドルジェ・リンポチェの慈善に答えるため、特別に302指定口座を設置し、社会にいる助けが必要とする人々のために使う。去年7月の高雄ガス爆発事件の時も、この指定口座から300万台湾元の救助金を支払った。また、最近の八仙爆発事件の時もこの指定口座から300万台湾元の救助金の支出があった。ほかに、この指定口座からも20万台湾元の出費があり、高雄ガス爆発事件で亡くなった警察の子供の教育手当として使われた。リンチェンドルジェ・リンポチェは更に衛生福利部を通して、必要な時、いつでも申し出て来るように、彼らに伝えた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように人に知れずにたくさんの人々を助けてきた。」

リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法の殊勝さを見せてくれたと、六人目の弟子は感謝した。「リンチェンドルジェ・リンポチェは死亡に関して専門家であり、仏法の殊勝さを見せる因縁を与えてくれた。死者はリンチェンドルジェ・リンポチェに済度されたから、恐れることなく、顔に穏やかさを帯びていた。済度されたこのような瑞相について聞くことはなかなかできないのに、見ることは言うまでもない。死者を済度することは容易なことではないが、寶吉祥の弟子はこんなに貴重で有り難い機会が得られ、リンチェンドルジェ・リンポチェの済度を受けて顕れた瑞相を自分の目で見ることができた。得難い仏法を教えてくれるほか、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法学習におけるたくさんの障害をも消去して助けてくれた。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、慈悲な心で参加者に貴重な仏法を開示した。

「今日は続けて『宝積経』を開示する。前回、仏は菩薩摩訶薩成就十法、つまり『是行大乗是住大乗、何等為十、一者信成就』を話したことについて触れた。前回は信成就について少し開示したが、今回は更に強調するつもり。信ということは、人生の経験法を用いて仏法を信じることではない。それは、仏が話したのは出世法であり、世間法ではないからだ。世間法でないから、我々の全ての利害衝突と当然に関係はないがいが、比較的に我らの利害衝突に対して矛盾が生じる。その理由は、人間は皆利害衝突の中で生きることに慣れているからだ、誰も損したくないからだ。

しかし、仏法では損すべきだと言うところがたくさんある。損しなければ成就できないことを言っている。そのため、信というのは、仏が言った全ての方法は我々が来世で仏果の成就ができるようにするためのものだという意味。仏果を成就したければ、決して仏を拝んだり、加護を求めたりするような観念ではない。自分は単に加護を求めたいと思っている人がいるかもしれないが、これでは成就が得られない。成就が得られなければ、寶吉祥仏法センターでは大乗仏法と金剛乗を教えているが、信じてくれなければ、修行の時にいろんな問題が出てくる。

念仏ができれば成就できると思う人は多いが、こんなに簡単なことはない。信が強くなければだめだ。我々は仏に会える福報因縁がない。仏の教えを直接に受けることもできないから、上師を通して教えを学ぶことは当たり前のことだ。皈依の時にはっきりと言ったはず。あなたたちの行為に対して上師は相応することをする。あなたたちが何かの間違いをもすれば、上師からの加持がもらえなくなる。なぜこんなことを言ったのか。もし、あなたたちは上師の言うことも信じないなら、あなたたちは仏法を信じることもないだろう。仏経を説明することこそ仏法を教えることだと、大勢の人はこう思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェの話に、仏が言ったことだと特に説明しなければ、仏法ではないと思っている。しかし、上師は冗談したりしない。

多くの人はこう思っている。今リンチェンドルジェ・リンポチェがしていることは世間法。世間法だから、リンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞く必要もない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今世間にいるのは仕方がないこと、自分の業報がまだ残っているからだ。世間に生きているが、リンチェンドルジェ・リンポチェは出世法の修行をしている。たくさんの弟子は以下のような間違いをしている。リンチェンドルジェ・リンポチェが読みなさいというものだけを読む、読むものでなければ聞く必要もないと間違えている。信成就とは、上師は諸仏菩薩と歴代伝承上師が教えた全ての話を代表することだ。特に法座に座って話すことは全部仏法だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは冗談している、ユーモアがあるから、仏法ではないと思う人もいるが、それらの話も仏法だ、聞かなければ、信成就はできない。

二番目は『行成就』、即ち今から全ての身口意(行為、思想、動作)を、衆生が将来に成就できるように助けるためにやり始め、自分のためにやらない。菩薩に求めれば応じてくれると言っている人は多いが、なぜ菩薩はあなたに応じないのか。それは、衆生の成就を得るためにやっていないから、応じてくれないのだ。全部の諸仏菩薩はこの方法に従って成就を得た。自分は仏を信じるというのに、やっていることは仏と完全に無関係。それでは何が得られるのか。絶対無理だ。

末法の時代に上師になるのは悲しい事だ。あなたたちは何事に対しても二分法にする。自分の利害関係に相反すれば、もっとはっきりと見分けたい。自分の欲望に相反すれば、上師だと認めない。

昨日ある弟子が私に会いに来た。自分は前の施身法法会の時に肺の具合がよくなかったと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはその原因を聞いた。自分は以前煙草を吸っていたと、彼は答えた。そしてリンチェンドルジェ・リンポチェは、きっと冷たいものを食べたり飲んだりしただろうと言ったら、彼は認めた。今年旧正月一日に、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に冷たいものを食べたり飲んだりしないように勧告した。でも、彼は、それは個人の行為であり、リンチェンドルジェ・リンポチェは干渉しすぎだと思った。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は法座の上で行われたというのに。こんな弟子は将来に成就が得られるのか。それは大変難しいだろう。

『地蔵経』では衆生の起心動念は全て業だ、全て罪だと言っている。あなたたちは天気が暑いから、一回ぐらいは大丈夫だろうと思う。何回言っても聞かないなら、仕方がない。仏は最初に信と行を言ったが、なぜだろう。信じたのにも関わらず、行動を一緒に変えないのなら、信じても意味がない。あなたたちに仏を信じるかと聞いたら、皆は信じると答えてくれたが、行為はついて行っていない。自分の利害関係と衝突があったら、上師のことを忘れてしまう。皈依の時に承諾したことを全部忘れた。人に承諾したことを実践しなければ、成就を修めることはできない。

行成就とは、自らの行為を変えることで得成就ができるわけではない。信成就した以上、心の内面までどの動作も変えなければならい、自己主義であってはならない、生活様式を変えることではないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは日本食品の事業を経営しているが、殆ど儲からず、損を出してしている。しかしたくさんの日本企業からリンチェンドルジェ・リンポチェと商売したいと申し込んできた。リンチェンドルジェ・リンポチェは誠実的に商売をしている、今はこのような取引先が殆ど見つからないと思っているようだ。このような信用は代価を払って得られたもの、損失を出しても構わない。今の人は商売するなら、必ず儲かりたいと思う。そうすれば、信用はなくなる。

行成就は、仏法、大乗仏法を学習したいなら、自分の行為をも調整するかについて理解することを言っている。今すぐではないが、とにかくやること、少しずつやっていくこと。少しずつやれば、たくさんのことも起きなくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも、自分を甘やかさないように教えている。自分を甘やかして少しでも逸脱行動があれば、後は始末に負えなくなる。ちっぽけなことだと、あなたたちは思うかもしれないが、大型ダムの崩壊は突然に起きることではない、小さな亀裂がその始まりだ。それでも、あなたたちは、小さな亀裂は大したことではないと思う。

三番目は『性成就』。世間にあらゆることの本性は、我々が得成就できるように助けてくれるもの、衆生が得成就できるように助けるもの。自分にとってそのことは利益になる、或は傷つけるものだと思っても、成就のために助けてくれるものだ。何故こうなるのか。分別心がある人は得成就できるわけがない。良いものだけがほしい、良くないものはいらない。自分に役立つ話だけを聞きく、役立たないものなら聞かない、乃至忘れてしまう。このままでは得成就ができるわけがない。菩薩の慈悲心は平等なもの。平等とは、あなたは他人に親切するか、他人はあなたに親切しないか等の区別をしないことだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはその出家弟子の母親を助けたが、その理由を簡単に一言で言ったら、その出家弟子を安心的にこの世から離させたいからだ。その時、もしリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に承諾しなかったら、彼女は安心に往生できなかった。その出家弟子の死因はガンだった。ガンで死去する人間が執着を抱いたままでは大変苦しくなる。でも、彼女が往生した時に、苦しまない、穏やかな状態をたくさんの弟子は見た。彼女の心配事を解決してあげたからこそだ。上師が衆生の心配事を解決することは決してお年寄りの母親を養ってあげることではない。あなたたちも自分の母親をほったらかして全てのことをリンチェンドルジェ・リンポチェに預けてはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェは十分のお金があってもそれほどたくさんの場所はない。介護するのに良いヘルパーもそれほど多くない。その弟子は出家したから、リンチェンドルジェ・リンポチェはそれほどのことをした。彼女は気軽に供養を受けたが、少なくとも守戒はしていた。それで福徳があって最後の数年間にリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依できた。彼女には因縁があったから、そのような結果が得られた。あなたたちは自分も母親をリンチェンドルジェ・リンポチェに預けて世話してもらうことができると思ってはいけない。

その出家弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依してから全身全霊に修行し、ガンにかかっても何一つ文句を言わなかった。同居していた出家弟子は皆、彼女は文句を言わないことを知っていた。病気の身とは言え、全然そうには見えなかった。それは彼女自身が信の修行ができ、上師を完全に信用、信頼したから、無事にいられた。彼女は信成就、行成就の実践ができた。それに対し、あなたたちは上師を信じていない。彼女もまた性成就を実践した。自分の病気を知ることも成就の一種だ。この世で返すべきものをきちんと返さなければならない。この世に戻らないことは無理だ。きちんと返すべきのだ。誰も借りを返したがらず、短い数年で福報を修めたい、すぐに仕事をもらいたい、いい給料をもらいたい、子供にも旦那にもおとなしくなってもらいたい。こんな都合のいいことはあり得ない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは常にある例で開示している。例え勉強でも大学を卒業するのに十数年ないし20年もかかる。単に数年間の仏法学習で自分の人生を丸ごとにひっくり返したいなんて思ってはならない。ちょっとした感応があって修行にもうちょっと投入できると思っても、累世の業はまだ解決されていない。累世の業を解決しなければ、修行には必ず障害が出る。性成就というのは、良いことも悪いことも将来の得成就のためだということ。皆は知っているだろう。去年リンチェンドルジェ・リンポチェは誤解された。それでも、リンチェンドルジェ・リンポチェは修法せず、何も言わず、とにかく辛抱して気に留めなかった。その誤解はリンチェンドルジェ・リンポチェを成就し、リンチェンドルジェ・リンポチェの忍耐を成就した。

成就の修行には、必ずしも良いものや悪いものが現れるわけではなく、絶えずに現れるのだ。仏法を学習すると、何でもかんでも良いものを期待したい、すぐに開悟したい、理解したいというなら、それは本当の修行をしていないことだ。ミラレバ尊者はその一生、大変良い修行ができ、上師の話をちゃんと聞いたとしても、一生自分の殺業を背負わなければならなかった。貧乏、孤独、人に知られなかった。でもミラレバ尊者には福報があったから、後に有名になれた。ミラレバ尊者は国王に招かれても山から出て来なかった。ミラレバ尊者は上師の話を大変信じていた。その一生山の洞窟で修行しなければならないと上師に言われたから、洞窟から一歩も離れたことがなかった。上師が亡くなった後も、その教えを守り続けた。あなたたちと違ってあなたたちは上師のいない時に上師の話を守ろうとしない。このままでは、上師が亡くなったら、守ることもないだろう。

あなたたちは家に帰ったら、すぐいろんな雑念が出てくる。自分はリンチェンドルジェ・リンポチェに怒られた、リンチェンドルジェ・リンポチェは事情が分からなかったと思ったりする。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは事情が分からなかったら、この法座に座る資格もなかっただろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちの起心動念を全部見分けておち、分からないことはない。性成就というのは、全てのことは仏性を有していることの意味。仏性は必ずしも有情衆生が持っているものではない。禅宗は石まで仏性を持っていることを言った。典故はそこからだ。禅宗がこんなことを言ったのは、ただ1つの石でも我々の成就のためになれるからだ。訳も分からず石を砕けたら、その石の中に竜が棲んでいたかもしれない。訳も分からず石を家に持って帰ったら、その石に霊が取りついていたかもしれない。石に貪欲がなければ、鑑賞の目で見ることも一種の成就だ。

性成就と言うのは、金剛乗の行者にとって目に見える全ては本尊、耳に入る全ては真言の声。例え鬼の叫びを聞いても真言の声のように聞こえる。寶吉祥仏法センターで子供の泣き声を聞いてリンチェンドルジェ・リンポチェは一度も怒らなかった。何故だろう。親がほったらかして世話しない、子供が暑いのを知っていても着替えさせない、お腹が空いたのにミルクをやらない等の状況でなかったら。かつてある弟子は子供を道場に連れてきた。ミルクの用意を面倒くさいと思って持って来なかった。子供が泣くのを聞いてリンチェンドルジェ・リンポチェは決して叱らなかった。子供が泣くのは本質、泣き声は真言だ。今たくさんの親は子供に対して辛抱が足りない。それは気に入らない声を聴きたがらないからだ。子供が泣くと、打ったり、叱ったりする。もちろん、子供を甘やかすべきだということではない。子供はなぜ泣いたか、用心深く観察しないことを言っている。これは修行をしていないことだ。

四番目は『楽菩提心』。菩提心を発願する、菩提を実践することは自分が良くなるためでなく、菩提心を持って広大な衆生を助けて自分が一日でも早く仏になるためでもない。例えば天気が暑い時、突然に涼しいところに入って嬉しくなることみたい。これは自分の環境を変えること、自分の心に貪瞋痴を持たせないこと。貪瞋痴のない人は当然悩みが減る、或は消える、ないし恐怖心もなくなる。菩提心を発願し、尚且つわざとすることなく、あるいは何の目的で発願することなく、これこそ楽菩提心だ。昨日ある弟子が懺悔のために来てくれた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、それは不自然な行動と言ったが、彼は分からないふりをした。ちょうど国文の先生をしている弟子がそばで大礼拝をしていた。その場で『不自然』は虚偽、真実でないことを説明した。

昨日懺悔に来た弟子は『楽』で懺悔したのではなく、二、三の言葉でリンチェンドルジェ・リンポチェは騙されると思った。仏経では、不自然な慈悲心と空性の慈悲心、その両者の力は全然違うと言っている。偽りの慈悲、外見だけの慈悲を見せることは、一般によく聞ける『ああ菩薩、また来られたね」という言い方のようなもの。仏法を学習する人は何故一日中嘆いてばかり、『ああ』を言ってばかりだろう。何故こんなことが起きたか。それはこの人たちは楽の気持ちがなくて不自然の慈悲心と菩提心を持っているからだ。楽の定義は自然ということ、呼吸、食事、睡眠と同じ、わざと寝姿をよくすることはしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、寝込んだら誰だって大の字の形になるとユーモアを言った。何故離婚率は高まっているか。たぶん大勢の女性も大の字の形に寝込んだ後、ちょっとでも手を振って旦那を叩いてしまう。もし旦那は耐える強さがなかったら、それで別れてしまうことになるだろう。

楽菩提心は、自分は衆生を成就するために慈悲と菩提を修めることついて識別すること。この楽は快楽の楽ではなく、感じ、感覚や情緒でもない。自分の意識にある貪瞋痴の推進力を止めることだ。そうすることにより、菩提心の喜びに浸ることができる。その出家弟子の母親のために、リンチェンドルジェ・リンポチェはポワ法を修めたことみたいだ。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは具合が悪くなった。その母親はその資格がなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは承諾したから、仕方がなかった。楽菩提心を持たない行者なら、自分を悪くするからと言って修法するのを止めようと思ったかもしれないが、菩提心を有する行者なら、大丈夫だと思って修法しようと思う。

菩提心に対する見解は、決して成就するにはこんな過程を経なければならない、また、修行するにはこんな道具が必要だという考えではない。そんな思いまでも持たないからこそ、喜んで菩提心に浸ることができる。さもなければ不自然なことになる。不自然さがあったら、戻させるのは難しい。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法学習を始めた初日から、自分が何時か法座に上がって法を開示できるかを考えたことは一度もない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自己の修行結果について執着心がなく、ただ喜んで仏法に浸るだけ。こんな楽は仏法学習をしたから機嫌が良くなったことではなく、人に賞賛されたことでもない。自分の人生に仏法を取り換えるものは一つないと感じるだけのことだ。子供、妻子、事業、金銭、地位、これらの全部は悩みなので、楽菩提心はとても大事になる。

五番目は『楽法』。ここの法は修法のことではなく、前に触れた性成就に呼応するものだ。世間の何事に対しても分別心を持っていたら、この楽は生まれない。仏経でよく触れられる法は、ここでは現象のことを指している。内在、外在に現れる何れの現象に対して行者は何の分別心もない。これは容易なことではないが、皆はこの観念でやる、やり始める、ついてやって行く。何事をやっても利益衆生のためだったら、この楽が生まれる。何事をするのも利益衆生のためでなく、自分の利益のためだったら、儲けの有無、何があろうかを問わず、必ず後から悩みが出てくる。

修行とは毎日念仏をどのくらいすることではなく、瞑想をどのくらいすることでもない。心構えの調整だ。心構えを変えないのなら、毎日や24時間念仏しても無駄だ。これらの条件がないからだ。楽法は、身口意のやることの全て、外在の現象の全てが修行と衝突しないこと。全ては因縁法、全ての法は生滅、永遠の法はないとはっきりと分かる。法の全ては虚空にあり、法界に生じる現象である。楽法する人は涅槃に住せず、輪廻にも住しない。生死について自在に思える。この信条は菩薩道を修める行者にとって大事なことである。生きるのも、死亡するのも、衆生を利益するためである。因縁が来れば、戻ってくる。因縁が来ていなければ、戻ってこない。因縁が来れば、去っていく。だから、死亡を恐れない。死亡も法だ、現象だと知っているからだ。そして人生の苦痛を減らし続ける、或は発生させない。

楽法の境界は深い。開示を続けようと思えば、リンチェンドルジェ・リンポチェは1年かけても終わらない。良かろうか、悪かろうか、生じるのだろうか、消えるのだろうか、歓喜心を持つことが必要だ。悪いことがあったら、悪く思う、或は良いものが消えたら、不運だと思ってはならない。こんなに思うのは大乗仏法を修める人ではない。この法は生滅法だと、全てのことは因縁だと信じない。何事にも執着を抱いて手放さず、念仏、修法等を含む全ての現象にも楽の相応が生じない。

楽法は心構えの薫陶、訓練と調整である。そうすれば、何れの法にも、事にも強い執着を持つことはない。一部の人は阿弥陀仏をずっと唱え続けるが、阿弥陀仏がまだ来ていないうちに、執着心が起きてしまう。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェはある出家衆を助けた。彼は末期ガンの患者、寝ることを恐れていた。寝込んだら阿弥陀仏が来ても気づかないから、寝ることを恐れていた。それは楽法ではない。どうしてもそこまでやらなければならないと思う執着だ。「どうしても」や「必ず」は因縁に関係がある。縁がなければ、いくら偉くても無駄だ。縁を備えるには何をしたらよいのか。努力するしかないのだ。自分の名誉、賞賛等の全てを捨てられたら、物事の因縁はどう生じるかについてはっきりと見えてくる。リンチェンドルジェ・リンポチェは何故こんなに多くのことが見えるだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの本を読んでいない、毎日は大変忙しい。見えている理由は楽法だからだ。全ては因縁だと知っているからだ。因縁を知れば、物事に対する考えも明白になってくる。

六番目は『観正法行』。全ての行動は正法に関係しているかと観照する必要がある。正法は生死を解脱する方法である。どの行動も釈迦牟尼仏が教えてくれた生死解脱の方法を背いていたら、正法ではない。正法は菜食、拝仏、朝山だと思う人が多いが、実は違う。これらは単に助縁に過ぎない。生死解脱のためでなく、悪いものが来ないように、福報が早く来るように思うためのものだったら、どれも正法でない。観正法行とは、起心動念の時にちょっと観照することを言っている。この時間は信じられないほど、大変短い。しかし、観照することに慣れたら、決して心にもないことを言ってしまうことはない。

人間の言った言葉は心に思っていないことなんてあり得ない。もし本当に心に思ってもいないことを口先で言うのであれば、パソコンほどの程度のところか、ただのレコーダーだけではないか。人間に思想がなければ、口にすることもない。先に話したその弟子は寶吉祥のせいだと思っていた。でも、寶吉祥の名は誰のものなのか。寶吉祥を会社の名前にしたリンチェンドルジェ・リンポチェの理由は、寶吉祥を読んだ人だったら、誰でも来世に仏法学習、成就の機会が得られるからだった。もしその弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェのせいだと言ったら、まだいいけど、よりによって彼は寶吉祥のせいだと言った。人間に貪欲が生じれば、瞋恚も同時に生じるのだ。

観正法行でわざと『観』という字が使われることには理由がある。あなたたちが菩薩道を修め始めると、上師はゆっくりと禅定を教えてあげる。禅定する時、大事な第一歩は止観である。止観を覚えられると、修める過程も順調になり、進歩し続ける上、自分の身口意の把握も容易になる。教わる前に、方法はただ一つ、それは上師の教えをきちんと覚えること、止観である。上師の教えは自分に関係がないと思うのは、先話した冷たいものが好きである弟子と同じことになる。上師の言うことは大したことではない、見られない所で飲んでも構わない、同僚は皆飲んでいるから、自分も大丈夫だろうと思う。しかし、彼と違って他人は仏法の学習をしていない。これは観正法行をしていないことだ。上師は衆生のことを決して害さない。衆生の生死解脱に手伝いたいのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちが好きなことをわざとしない、あなたたちが嫌がることをわざとするのだ。

七番目は『行法慎法』。何事をするのも謹慎が必要だということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前あなたたちに、学仏の人は薄い氷の上を歩くように謹慎であるべきだと言ったことがある。これもダメ、あれもダメ、煩わしいと思う人が多いが、これもあれもダメだと言うことは本来のことだ。やっても構わないと思ったら、地獄に行ったり、晩年に病気で苦しまれたり、集中治療室に入れられて裸にされたりすることになる。多くの人は自分が集中治療室に入れられることを信じない、お医者さんは治してくれると思っている。しかし、お医者さんはあなたたちの運命を治すことができない。集中治療室に入れられたら本当に裸にされる。医者だった信衆がいた。彼は集中治療室に入れられてほかの人と同じく裸にされた。男性だったらまだいいけど、女性だったらどうなるだろう。一生貞操をよく守ってきたのに、晩年になったら、破られた。これは戒律を守らない、不謹慎だからだ。

行法慎法は、我々は毎日生きて息さえあれば、輪廻の世間から離れていなければ、毎日やることはたくさんあるから、謹慎に上師と仏の教えに従って生活しなければならないことを言っている。こうなったら、もちろんあなたたちは、してはならないことがたくさんある、付き合ってはならない友達がたくさんいる、自由までなくなったように思える。我々にはもともと自由がないのだ。自由はどこにあるというのか。我々の自由は生生世世の業力に縛られているのだ。自由であれば、諸仏菩薩のように自由自在になれる。来たければ来れる、去って行きたければ離れる。悩みは全くないのだ。

我々人間は転生する日から縛られるようになるのに、あなたたちはまだ自由が必要だ、自由を探したいと思うのか。今の世間にいる人が主張するのはやりたい放題、放任するような自由だ。何故このように思われただろう。我々に累世の悪業がまだ残っているから、少しでも不謹慎があれば、ちょっとした水分を与えると、種は発芽する。発芽すると、抑えようと思っても間に合わない。

行法慎法を実践する理由は、自分は修行して衆生を助けていると思っても、方法を間違えたら、他人、自分を害することになる。このような例は少なくない。以前、ある行者は1つの字を間違えただけで500世も狐の身にならなければならなかった。だから、謹慎しなければならない、うっかりしてはならない。来世になったら直そうと思ってはならない。来世はどこにあるか、誰も知らない。来世を話す必要はない、ただ今世を考える。晩年にお金を持っているかどうかは大事なことではない。福報があれば、養ってくれる人は自然に出てくる。前に言ったその出家弟子みたいに、彼女は出家して母親のための福報が得られたので、自然に正直な人が現れて彼女の母親を世話してあげた。リンチェンドルジェ・リンポチェは約束を守る人なのだ。

あなたたちは健常者、普通に行動できるが、福報を積むように修持していない。保険に加入していても、定年には労働保険、国民健康保険の保障があっても、大きな病気にかかったら、全部ゼロになる。子供がいても、その病気にお金を使い切ったら、何も残らない。だから、晩年にお金を持っているかどうかは、本当にポイントではない。お金を貯め始めたか、福を累積しているか、誠に布施して供養しているか、自分に問いなさい。その答えは否定なものだったら、あなたは保険に加入していても無駄だ。お金は残らない。銀行に預けても、誰かに使われてしまう。電話一本でそのお金は騙し取られてしまう。最近報道されたニュースだが、知識のある人まで騙される、しかも1,000万、2,000万の大金だ。もしその人らはその一生、間違いをしたことがなかったら、検察官に財産の差押を言われることもなかっただろう。自分なりに知っていることはあるあずだった。だから、騙されたのはきっとその原因があった。

『慎』は謹慎のこと。自分のしたことで再び輪廻の苦しみに堕ちない、自分の身口意による行為で三悪道に堕ちる機会を作らない。堕ちるのも、堕ちないのも自業自得、他人のせいではない。自分の身口意の結果だ。仏に注意されるのもその理由だ。

八番目は『捨慢大慢』。ここでは特に学仏者のことを言っている。自分の学習は上出来だ、たくさんの偉大なリンポチェに追従していた、法王に会ったことがあると思うのはまだ小慢のことだ。今、自分はどの偉大なリンポチェ、法王等々に会ったことがあると言う人はたくさんいるが、それは何の意味があるか。会ったことは生死を解脱することなのか。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も尊勝なる直貢チェツァン法王に会ったことがある。リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関の時、尊勝なる直貢チェツァン法王が3か月も付き添ってくれた。それにしても、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分で修行しなければだめなのだ。今はいろんな名人を訪れることが流行っている。偉大な法師、偉大なリンポチェ、法王に全部会ったら、自分の修行は上出来だと思うの人が多い。

リンチェンドルジェ・リンポチェに仲のいい友人がいた。以前に尊勝なる直貢チェツァン法王に会うように紹介してくれた。彼は4大教派の法王に拝見したことがあり、台湾にいる大師レベルの尊者に全部会ったことがある。たくさんの信衆を連れて来てくれたから、それらの尊者たちも彼のことを大変尊敬していた。結局、彼は脳中卒になり、数か月も裸のままでベッドに寝込んだ後往生した。原因は慢にある。貢高我慢が生じれば、この一生で修めた福慧は来世の人天福に変わる。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェはある弟子を叱ったことがある。その弟子は、自分は六字大明呪を唱えることが得意だと思ったからだ。これは慢の始まりだ。唱える声がいくら良くても、利益衆生のためでなければ、役に立たない。例えば、聞いて涙が出るくらい恋歌をうまく歌う歌手がいる。生死のような大事なことに役立つだろうか。持呪の声がとてもきれいな人もいるが、それは生死解脱のためになれるものなのか。

慢が生じて来れば、慈悲心は消えてしまう。魔がいるのは、魔が貢高我慢のもの、貢高我慢であれば、魔の道に方向が変わってしまうからだ。魔にも福報、能力があり、善事もするが、仏との違いは、仏は輪廻せず、魔は輪廻し、しかも人を教える方法は輪廻のためのものだ。自分の教派のほうが偉大だと、他の教派を批判する人がいるが、我々はこのようなことを言わない。上師が言っていないことを、決して口にしてはいけない。

大慢とは、自分の一生はこれでよいと思うこと。このような、いわゆる偉大な修行者にリンチェンドルジェ・リンポチェは何人か会ったことがある。この感覚が顕れれば、この一生の修行は直ちに消えてしまい、福報に変わる。修行者が犯しやすいのは大慢である。大きな仏寺を建て、弟子をたくさん持ち、たくさんの有名人まで弟子になりたいと求めて来る。これらのことで、自分の修行はなかなかのものだと思ってしまう。以前、ある禅宗の物語がある。ある禅師に食べ物を毎日持って来てくれる天人がいた。ある日に友達が訪れることになった。彼は明日友達が来る時に、食べ物を毎日持って来てくれる天人がいることを言おうと思った。結局、その日天人は来なかった。後になって彼は天人に、友達が来た日に何故食べ物を持って来てくれなかったかと聞いた。そして、天人は、彼に慢心、つまり傲慢な心が生じた、天人も来なくなるほどの修行をしたと、答えた。

慢を捨てるには理由がある。1日でも仏果を証するようにしなければ、生死を解脱しなければ、誰もがただ平凡な人間に過ぎない。ちっとも偉くない。昨日皈依を求める一人の信衆が来た。リンチェンドルジェ・リンポチェはその理由を聞いた。そして、自分は地蔵菩薩を助けたいと、彼は答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれを聞いて震えた。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身も敢えて地蔵菩薩を助けたいと言えないのに。その信衆は慢を表した。自分は仏教を読んで仏法を聞き、発心、発願のことを習ったから、自分も発心、発願をしたい。自分の生死でさえ解決できないのに、地藏菩薩を助ける資格があるわけがない。

仏法を学習するのは何れの仏菩薩を助けることではなく、本尊の願を習って本願の通りに修行し、その菩薩の化身になることだ。助けるのではない。どうやって助けるというのか。縁のない衆生は助ける力を持っていない。この間施身法を修めた時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏が過去世において済度しなかった者に対し、リンチェンドルジェ・リンポチェ自身は布施供養を修めて衆生を済度したいと思った。これは仏を助けることではない。過去に仏と縁のない衆生がいるが、今世ではある仏と縁がある可能性もあるので、このように発願したが、特定の仏を助けることではない。さもなければ、慢になる。菩薩、仏になるには慢を消さなければならない。

九番目は『善解如来秘密之教』。この言葉は意味深い。何故善なのか。十善法に従って生死から離脱するよう衆生を助ける全ての観念があるからこそ、仏の秘密的な教えを解釈することができる。ここでは秘密を言うが、生死大事、成菩薩、成仏は凡人である我々にとって秘密だからだ。我々の人生経験において習ったり、教わったりすることは決してなかったからだ。秘密の定義は、我々の人生経験と意識の中に存在しないこと。小学生にとって教授の学問はまるで秘密のようなものだということだ。

善解如来秘密之教とは、十善法を修めたか、戒律を守ったか、生死解脱のために決意したか、自分に問いかけることだ。全部、はいと答えられたら、妄想に満ちる心を解けることができ、仏の教えの秘密を理解することができる。さもなければ、あり得ないのだ。自分の息子に何かがあったら、すぐ誰かのせいにしてしまう。これは理解のないことだ。法会に参加し、いくら大変でも参加しに来ると思う人もいるが、仏が教えた秘密を理解しない。理解する方法はあるだろうか。それはもちろん、上師の教え、いろいろな方便法を通して習って覚えるのだ。

十番目は『心不悕求声聞縁覚乗』。成菩薩、成仏をしたいと思ったら、それは利益衆生のためであれば、声聞縁覚を思うこともないだろう。一部の人はたくさんの修行した挙句に煩わしくなり、衆生を済度するのが難しく感じて自分が解脱できるまで修行すればよいと思うようになる。これは声聞縁覚を修めることなのだ。声聞縁覚を修めるのに、必ずしも阿羅漢、小乗や南伝を修めることではない。衆生を済度するのがあまりにも難しいから、まずは自分自身の修行を先頭におき、輪廻に堕ちなければよいと思うことは声聞縁覚、これは簡単なことだ。修禅の人はこのようになりがち、自分は開悟のために修禅していると思いがちだ。しかし、何のために開悟するのか。何の役もたたない。開悟ができても利益衆生のためにならなければ、大乗仏法ではない。

開悟にもいろんなレベルと中心がある。声聞縁覚を希求しないとは、修行と仏法の行為の全ては自分の解脱でなく、利益衆生のためであることを指している。この概念があったら、退転して菩薩道を学ぶことになる、菩提心が退転することになる。出家衆、禅宗を修める者にとっては尚更だ。衆生の済度はいくら難しくても、自分のことを先に処理しようと思ってはならない。自分のことを先に処理するとは生死のことだ。他人をおいて自分の修行を最初におくことではないのだ。

実際に、毎日の回向は菩提心のことだ。菩提心を毎日育ち続ければ、何時か菩提心の力が自然に顕れる。皆は声聞縁覚を望む観念があってはいけない。前に触れた脳中卒で往生したリンチェンドルジェ・リンポチェの友人のことだが、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェよりも良い福報因縁を持っていた。どんな偉大な大師に会ったこともあり、どんな仏法を聞いたこともあったが、晩年になって突然に脳中卒になった。それは急にこんな観念が生じたからだ。自分は今世においてそんなに学んだし、修めたし、たくさんの衆生を助けたから、来世は戻って楽になりたいと想ったからだ。こんな念が起きると、全ての業力もすぐ目の前に顕れるのだ。

業障を消すことは、悪い果報を全て消すことではなく、修行を阻害する業力、善業とも悪業とも消すことだ。輪廻の世間を出離しようと決心せず、ずっと別のことを考えていたら、業障が出てくる。輪廻の世間を出離しようと決心すると、業は暫く停止する。何故なら、あなたが輪廻の世間を出離することは彼に役立つから、彼も喜んで見届けてくれる。しかし、楽しめてから修行する思いが生じたら、業の力もすぐ顕れる。

また、人間の懺悔はどれも偽りで本心ではない。罰に当たるのを恐れて悪いことが起きることが怖いから懺悔する。そのため、過ちに過ちを重ねる。何故過ちを重ねてばかりするのか。自分は間違っていると思わないからだ。過ちを重ねることは自分が悪いと思わず、他人が悪い、自分のことを誤解する、自分に教えてくれない、言ってくれない、注意してくれない、十分な時間をくれないと、思っているばかりからだ。それで、何でもかんでも他人が悪い、自分は悪くないと思い、過ちを重ねてしまうのだ。でも、そんなことはあり得ない。あなたたちは勉強したことがある。社会に出て過ちを犯したこともある。何故過ちを繰り返すのか。最後の言い訳は他人の注意を引き付けたいだけからだ。だが、その方法は全然賢くないものだ。今の人はいつも他人に責任を押し付ける。自分には関係がない、全部他人が悪いと思っている。出家衆は特に、声聞縁覚乗を希求することに気を付けなければならない。自分の修行を先頭に置き、他のことは以後のことだという意念が生じると、こんな境地に堕ちることになる。

『宝積経』には、『時浄無垢宝月王光菩薩摩訶薩白仏言、世尊、云何菩薩摩訶薩信成就、仏言、善男子、菩薩摩訶薩行不諂行、得柔軟行』がある。

この言葉は出家衆にも上師にも重要だ。浄無垢宝月王光菩薩は、菩薩摩訶薩信成就とは何かと、仏に指示を求めた。仏は、善男子だと答えた。ここで、皆ははっきりと分からなければならない。仏は大菩薩が善男子だと答えたが、それは十善法が円満だということを指している。『菩薩摩訶薩行不諂行、得柔軟行』。多くの人は弘法者、学仏者が人を叱るのは間違いだ、人に厳しい言葉を言ってはいけない、良い言葉を言う、或は柔らかく話すべきだと思っている。実はそうではない。弘法者は衆生の縁に応じてそれぞれの方便法門を用いて助けてあげるべきだ。叩いたり、叱ったりするのがその人のため、媚びるのがその人のためにならないということもあり得る。このことは供養を受ける人にとって大事なことである。相手の地位が高いからもっと優しく接したり、地位が低いから荒く接したりする行為は菩薩道を修めることではない。

寶吉祥仏法センターは今まで功徳主を設けたことはない。誰かが大師兄だと言うこともない。こんな事を望んでいないからだ。信成就の菩薩はこうでなければならない。媚びることなく、誰に対しても同じだ。誰でも平等な者、誰でも衆生だ。仏法の助けが必要とする人がいれば、十分な恭敬心、誠意があれば、行者は必ず助ける。その身分地位に関係なく、優しく接したり、悪く接したりすることはない。貧乏者を相手にせず、ただ金持ちと付き合いたい、学問のある者にもっと話そう、学問のない者を見下す等、これらの行為は完全の間違いだ。

仏はのいったように、子供が言い出した言葉は清浄な仏法だという可能性もある。子供を軽蔑してはいけない。子供はたくらみがないから、言い出す言葉はあなたたちよりも清浄だという可能性もある。子供は偽りをしないからだ。かえって大人の方が不自然なことをするし、必要のないことも言うかもしれない。こんなことをするのは媚びたいからだ。そのため、この言葉は出家衆と上師にとって大変重要である。

以上の十項目を実践しなかったら、後から媚びる行為が顕れる。というのは誰かに優しくしたいからだ。仏寺、道場に役立つ勢力を持っているから、その人に優しく接したくなる。一昨年リンチェンドルジェ・リンポチェは大法会を開催した。当時2人の地方長官は関係を使って大法会に参加したいと電話してきた。リンチェンドルジェ・リンポチェはもちろん彼らの参加を歓迎した。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がったら、修法完了までにならないと法座から降りることはない。そのため、『お香をあげるだけのことだったら、参加しなくてよい。お香をあげるのは参列者が抽選で決めるので、やってもらう必要はない。最初から最後までの参加だったら、歓迎する。単にお香をあげるような参加では、リンチェンドルジェ・リンポチェは法座から降りて案内することができない。法会開始の前に先にお香をあげてもらうこともできない。お香をあげてもらっても来る仏菩薩の人数は増えないし、かえってたくさん減るかもしれない。』こんなことを前もって彼らに告げた。そして彼らは来なくなった。

他の人だったら、笑顔で『阿弥陀仏、ご発心ですね』とか『阿弥陀仏、衆生のためにお忙しいところわざわざ来てくれましたね』とか言いながら、持ち上げる態度で迎えに行っただろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはそんなことをしない。そのため、皆は寶吉祥仏法センターの仕事をしていて大変になるかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは決して媚びたりしない。地位の高い政治家がリンチェンドルジェ・リンポチェに電話して来ても、空いていないなら仕方がない。事前にアポを取らなかったから。地位の高い政治家は大変忙しいだろうが、リンチェンドルジェ・リンポチェも衆生のために同じくらい忙しい。地位の高い政治家だと聞いて多くの人は多分、当時の話し相手に断って出て行ったり、改めて話そうと言ったりするだろうが、リンチェンドルジェ・リンポチェはそんなことをしない。仏法の教えを求めることでないなら、仏法を恭敬することでないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは会わない。寶吉祥仏法センターはこんなポリシーを持っているから、リンチェンドルジェ・リンポチェもそれなりに大変になる。

仏経には、『菩薩摩訶薩行不諂行、得柔軟行』がある。これは矛盾していないかという疑問が現れるだろう。媚びないことを先に言ったのに、その後はまた柔軟な行動が得られると言った。何が問題だろう。心に執着がないからこそ、柔軟になれる。柔軟とは、他人のことを菩薩だと呼び続け、ゆっくりと話すことではなく、媚びない時、衆生に対して柔軟な心になり、分別しないことを言っている。媚びる行動をとるのは、相手がいることだ。しかし、相手にされなかった人は待たされてしまう。

修行していない人だったら、仏の言うことに矛盾があるように思える。先は媚びないことを教えたが、硬くなることが媚びないことだというのか。実にそうではない。媚びなければ、全ての行為は柔らかい。自分のためではなく、利益衆生のためのものだ。全てのことが衆生のためであれば、衆生を害することはあり得るだろうか。衆生を害さないから、行為は柔らかになる。衆生を害する行為は柔軟なものではない。だから、仏の物事を言う知恵は我々と違うのだ。字面だけを見て解釈すれば、矛盾が出てくる。前に媚びないことを言ったが、それはいい顔を見せないことではないかと。いい顔を見せないのなら、後は柔軟行の成就もできないだろうが。執着のある心は決して柔らかくない。誰かの政治家、金持ちに媚びたいと思うあなたの心は決して柔らかくない。その執着は彼らのお金と助けに関係しているからだ。あなたたちはきちんとこの言葉の意味を理解しなければならない。

仏経の中にもまた、『彼菩薩信諸如来正真正覚無上菩提』がある。仏は正を言ったが、その定義は、このことは利益衆生、生死解脱のためであり、決して菩薩の利益のためにやらないということだ。正とは、虚偽のない、その内容にちっぽけな不自然もないことだ。観音菩薩が手に持った如意宝のように、あなたが生死を解脱したいと思う時に、この宝はあなたに相応する。例えあなたは観音菩薩に金儲けを求めた。しかし供養布施をしたことは一度もない。供養布施の時に、いつも自分は老後の時にお金があるかどうかのことを考えていたら、相応することはないだろう。決して相応しないのだ。

正の意味は、心に不自然、偽りがなく、最高の誠意でこのことをすることだ。仏の全部が正真正覚無上菩提であることを信じなければならない。我々と違って仏が持っている条件は無上菩提、出世間法である。菩提心は勝義菩提と世俗菩提に分かれている。世俗菩提は考えた、聞いた仏法、教えを通じて自分にも菩提があると思うこと、これは不自然だ。世俗は世間のことではない。不自然に作った、考えた、育ったものである。勝義菩提は空性である。仏に菩提が顕れたのは、衆生が仏法を求めたい、学びたいと思ったからだ。そんな時に、菩提が顕れる。しかし、衆生がいらない、学びたくないと思ったら、菩提も消えてしまう。

地球上のいくつかの地域では、以前仏法が盛んでいて世界最大な仏像まで作ったが、今それらの地域に仏法はない、仏像まで破壊されてしまった。しかし、仏は怒らない。勝義菩提が怒らないからだ。それは衆生の縁だ。衆生は仏法を必要としない時、仏像も残ることはない。訳もないのに爆発で破壊された。衆生が仏法を願って求めないのなら、勝義菩提も作用しない。今私たちが修行する世俗菩提はわざと菩提を実践するものだ。空性の中にはない。無上菩提は勝義菩提、あらゆる諸仏菩薩の菩提は勝義菩提心であり、作り上げられて考えられたものではない。求めがあったら、自然に生じる。求めがなかったら、消える。

求めがあったら応じるというのは、世俗菩提を用いて求めることだ。そして勝義菩提心は相応してくれる。相応した後、何時か世俗菩提心は勝義菩提心に変わる。今日の開示内容は意味深い。あなたたちは聞いても分からないかもしれない。しかし、これらを言わなければ、正真正覚の理由を説明することができない。覚とは覚悟のことだが、空性を悟ることこそ本当の覚悟だ。覚悟とは、仏法は殊勝なことが分かることではない。これはほんの小さな証悟に過ぎない。本当の覚悟は仏の境界、つまり無余涅槃に達さなければならない。無余涅槃に達することこそ正覚だ。仏果を修め、衆生を利益することができる。そのため、平凡な人間には正覚の資格がない。我々はただ装っているだけだ。

装うことは悪いことではない。単に過程であり、我々には必要だ。修行する時はこの方向に向かっているが、本当の正覚がなければ、無上菩提は顕れない。無上とは、この菩提心より高い方便法門はないことを言っている。仏法の最高境界は勝義菩提、勝義菩提以上高いものはない。勝義菩提心を修めることができたら、仏果を得ることができる。これ以上高い修行方法はない。これらの言葉は全部仏の教えだ。

仏経にある『彼菩薩信諸如来正真正覚無上菩提』は大変重要な言葉。全部の菩薩は、仏が正真正覚無上菩提であることを信じた。意味は、仏は本当にそうなんだと信じたから、仏法を学んだということ。仏はこのように仏果を得たのを信じなければ、本当の学習はできないのだ。正道から外れて自分の方法を発明することになる。仏果、菩薩摩訶薩を修めるのに、最も大事なのは信念だ。仏は正真正覚無上菩提であることを信じるのだ。これは仏の条件と本質である。我々はこの方向に向かって実践していくべきだが、自分の見た、聞いたいくつかの現象、これらの乱言を話してはならない。このことの実践ができてからこそ、菩薩摩訶薩と称される資格がある。さもなければ、話す資格でさえないし、自分は正真正覚があるとも言えない。

あなたたちはまだ子供だ。這い出したばかり、歩くことでさえ始まっていない。しかし、はっきりと分からなければならない。今日から這い出して何時かちゃんと歩けるようになり、行きたい所まで辿り着ける。仏法に秘密はない、意味も奥深くない。秘密と奥深さはあなたの意識から生じたもの。自分を変えたくない、心を調整したくない、気ままでいたい、心に疑いが一杯。それとも仏が教えてくれた法を実践することができないと思うのか。今すぐやり遂げると、仏は言っていない。まずは信じることを仏は要求した。信じていたら、きっと何時か成就が顕れると硬く信じる。諸仏菩薩もこの方法を通じて成就を得たことを硬く信じる。全ての有情衆生もこの方法で成就できると固く信じる。だから、我々はただ実践するのだ。疑問を持たず、何も疑わない。少しでも疑いがあったら、自分にはできない、リンチェンドルジェ・リンポチェの話が分からないと思うことは、信じないことだ。本来にもあなたたちは分かるわけがない、聞いてすぐ分かるなら法座にも上げられるだろう。

皆に分かってほしい。リンチェンドルジェ・リンポチェの話は自分の発明ではない。仏の教えに基づいたものだ。仏の教えは修行経験からのもの、そして仏の修行経験もまた生生世世の諸仏の修行経験からのものだから、我々は信じるのだ。仏はただ一尊だけではない。仏経の記載によると、十方億万無量仏がいる。無量仏もこの修行の方向、心構えの調整を通じてやり遂げられたのなら、なぜ我々は信じれないのか。信じれないことは自分を信じることだ。自分を信じることは平凡な人間の行為だ。何時もミスを犯す人こそ、自分の過ちを認めない。何時もミスを犯して叱られる人こそ、自分は間違っていない、他人が悪い、他人は自分のことが分からないからと、ばかり思うのだ。

自分のことを理解してくれる人はどこにいるのか。寝る時間、お手洗いに行く時間でも教えたのか。分かってくれる人はいるはずがない。自分の過ちは何か、分かるのは自分しかいない。いつもいつも過ちを犯しているのに、認めないのは何故なのか。リンチェンドルジェ・リンポチェは過ちを改めることができる理由は何なのか。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは自分の過ちを認めたから、改めることができた。自分が悪いと認めないのなら、いくら叱っても無駄だ。同じく見勝手で間違いを認めない、他人は自分のことが分からない、他人は自分の仕事の難しさが分からないと思い続けるからだ。難しい仕事なんかあり得ないじゃないのか。今日の開示はちょっとしかできなかった。『宝積経』はこんなに分厚い。どうすればよいか。縁に従うしかない。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いてアキ護法と回向儀軌を修め、法会は円満に終了した。弟子たちは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲開示に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から降りるのを恭しく見送った。

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2015 年 08 月 22 日 更新