尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年6月28日

法会の開始に先立ち、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの息子(罰としてベストを返却させられた弟子)が、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが発露懺悔をお願いする機会を賜ったことに感謝申し上げた。「私が今日懺悔したいのは、ある時、家族で会食中に、私が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに口答えしたことだ。

ことのあらましはこうだ。ある晚私は残業で疲れており、運転していた車をぶつけて壊してしまい、タイヤの三角フレームも断裂してしまった。私は毎週その車に祖母を乗せ、家族の会食に連れて行っていたため、安全の面に配慮し、リンチェンドルジェ・リンポチェはディーラーの支配人に依頼して新しい車に代えることとなった。当時私はリンチェンドルジェ・リンポチェの意図が理解できず、さらに私が車のオリジナルの資料をなくしたため、中古車価格が5万元も下がってしまった。ディラーの支配人と協議し、双方が半分ずつ負担することに同意し、つまり私とディーラーの支配人がそれぞれ25000元を中古車販売店に支払った。

だが、私は感謝することを知らず、当時はディーラーの提示する金額がコロコロ変わることを非難していた。後に家族の会食の際、私は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにこのことを報告申し上げ、しかも不遜な口調で、ディーラーの方が金額をコロコロ変えたのだから、一銭でも多くディーラーにやるつもりはない、と言い放った。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれを聞き非常にお怒りになり私に告誡なさった。『向こうはリンチェンドルジェ・リンポチェの顔を立てて、義務のような気持ちで助けてくれているのに、なぜあなたのためにお金を補ってくれる必要があるのか?しかもあなたは感謝の心がないばかりか、反対に信用を守らないと相手を批判している。これは完全に、あなたの貪嗔痴慢疑と細かいことへのちまちまとしたこだわりを表しており、しかもあなたに対する上師の教誨に背いている』と仰せになった。

その際私はことの良し悪しが判断できず、『お父さん、あなたはなぜ、小さい頃からいつも私にこんなに厳しいのですか?』と思い上がって言い返した。しかも、例えば父に茶を注がない等の細かな動作も含めて、極めて無礼な動作をたくさんとった。だが、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはその時は私に出て行けとは言われず、私は昼食が終わるまでその場に留まったが、私にベストとIDを返却させ、再び法会に参加できないようになさった。

半年過ぎた後、ようやく懺悔文を書く機会があった。その中で私は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに、同意書への署名を兄弟子達に懇請させてくださるようお願い申し上げた。それによって、再び学仏でき、自分の累世の悪業と悪習を反省する機会、改める機会、家庭に戻る機会をくださるようお願い申し上げた。この事をきっかけに、私は徹底的に反省し、しかもリンチェンドルジェ・リンポチェのお心遣いを理解したからだ。こうすることでしか、自分の悪習を徹底的に改めることはできないと考えた。旧暦大晦日の夜、2年間私は一人で過ごし、每週30分だけしか祖母に会っておしゃべりすることができなかった。だが、この二年間、リンチェンドルジェ・リンポチェが絶えず各種方式を通して、黙って私に関心を寄せてくださっていることを私は知っていた。よって私はここで内心からの真心の懺悔を表明し、自分がこの度犯した過ちを以下の数点にまとめたいと思う。

第一に、私は小さい頃から養育してくれた父に口答えした。それは、大不孝であり、千言万語を以ってしても私の懺悔を表すことはできない。私は父がすでに高齢であることを思い遣れず、父が私の悪習を深知し、私の人生を徹底的に改めさせようとなさっていたのに、我が儘で自分の貪嗔痴を放縦した。私は兄弟子のみなさんに、どうか私にチャンスをくださるようにお願い申し上げたい。今後二度と再び同じ過ちは犯さない。

第二に、私は他人が間違っていると責めたが、それは無責任でしかも自分勝手だった。もし私が車のオリジナル資料を無くさなかったなら、価格が前後で異なることもなかった。相手は最初は私を信任し、私の都合が良いように、書類とお金は後で補えば良いようにしてくれたのに、私は他人を間違っていると責め、他人のせいにした。これは非常に自分勝手な行為だ。その時私は『仏子行三十七頌』を思い出すことができなかった。あらゆる過ちはすべて自分の過ちなのだ。他人が自分に責任をなすり付けたとしても、私は相手を大切な客として扱わなければならないのだ。ここで私は深く懺悔したい。

一人の仏弟子として、いつ何時でも自分に警告しなければならない。しかも真にリンチェンドルジェ・リンポチェの教誨を確実に心の中に刻みつけ、日常生活、仕事、人との接し方、物事への対処の仕方に根付かせていかなければならないのだ。よってこの件の発生後、私は絶えず反省し、絶えず深く後悔した。最後に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの教法に私は再び感謝申し上げたい」と述べた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、施身法法会を御自ら主法くださり、参会者に貴重な仏法の開示を下された。

「今日修めた施身法は、密法八大成就法の一つだ。いわゆる成就とは、あなたを人とは違う怪物に変身させるのではなく、あなたに朝にはこれを見せ、昼にはこれを見せるというのでもなく、何をやってもとてもスムーズになる、というのでもなく、あなたを上師に変え伝法させて、人とは異なるというのでもない。仏が説かれた成就とは、上師の伝法、教導を通して、間断なくある本尊を修持すれば、この一生で必ず生死を解脱できるというものだ。世間の人はみな仏法に対して見くびる。仏法は世間的な宗教で、仏、観音菩薩は必ず我々を加護してくれ、良い事を発生させてくれ、良くないことが起きないようにしてくれる、と思っているようだが、これは不可能な事だ。

仏菩薩と我々とが相応するというが、それには条件、根拠が必要だ。たまに祈願に行けばそれで良い、というのではなく、大修行人に加持してもらえばそれで良くなるというのでもない。絕対にそうではない。経典では釈迦牟尼仏を『医王』と尊称申し上げる。それは仏が、病は心から始まり、それによって身体に病が生じるため、我々は病に罹る、と仰せだからだ。衆生の心も仏と同じで、本来は清浄なのだ。だが一念無明である。一念無明とは癇癪を起こすことではない。無明とは、因果を理解せず信じず、自分の身口意を好きなように放縦し行悪し、悪を為しながら、山のような理由を作って弁解することだ。

『地蔵経』では、衆生の起心動念はすべて業で、すべて罪だというが、それは衆生が起こす念頭はすべて、自分を守り、他人を傷つけるものだからだ。これこそ罪と業だ。業は善業、悪業、無記業に分けられる。無記業とは、食事、睡眠などの記号のない業である。善業が多過ぎれば輪廻し、悪業が多過ぎても輪廻する。仏法でいう『消業障』について、良くない事を消してしまい、自分を良いように変え、しっかり修行できることだと誤解している人が多い。実は業障には善も悪もあり、善業があまりに多ければあなたを障礙し、修行を難しくし、悪業があまりに多くとも修行は難しくなる。いわゆる『消業障』とはこの一生で修行と成就の障りになる善業と悪業を消す。絕対にあなた達が考えるように、良くない事が発生しないというのではない。

拝仏、念咒すれば、良くない事が発生しない、と考えるなら、それは因果を信じていないのだ。自分が過去に植え付けた一切の悪因が果報を生むということを信じていない。因果を信じないなら、拝仏によって植え付けられる善因も存在しない。よって善果も発生しないのだ。誰もが善を望み悪を望まないのに、みな悪を為す。悪を為したことのないものなどいるだろうか?あなた達の考えが国のため、人民のため、家庭のためであっても、衆生を傷つけさえすれば必ず返さなければならない。返さなくともいいということはないのだ。みな返済を恐れている。だが、借りを作れば必ず返さなければならないのだ。法会に参加すれば、仏菩薩があなた達の返済を手伝ってくださると思っている人が多い。だが、仏菩薩のどこに、あなた達に代わって返済する、そのような金があるのか?仏菩薩は四大皆空だ。一切何もない。何も必要ではないのだ。

法会に参加する意味はどこにあるのか?あなた達が法会に参加する時懺悔の心を備えていれば、だがこれは過ちを認め、謝罪し、許すということではなく、自分が為した一切の事情の後果を懺悔し、逃げず、弁明せず、責任逃れをせず、完全に受け入れ、そして以後二度と再び犯さないと上師、本尊に従い発願、発誓するなら、これこそ懺悔だ。あなた達の懺悔は裁判官に供述しているようで、自分は罪を犯した、過ちを犯したというだけだ。だが、裁判官はあなたの立場を思いやらなければならない。なぜならあなたには母がおり、子女がいるのだから、どうか裁判官、私を牢に繋がないでくださいという。あなた達は全てすべてこの種の考え方だ。仏菩薩を脅している。父母がいないものなどいるだろうか?結婚して子供がいないものなどいるだろうか?

懺悔の力が出てこなければ、悪を善に転じることはできない。どう言う原理だろうか?なぜならあなたが一切の事の結果を真に受け入れようとすれば、悪を為し続けるための方法を探す時間は無くなり、一つ目の悪が覆い隠されてしまうからだ。あなたが一つの嘘をつき始めれば、それに従いより多くの嘘を製造し、一つ目の嘘を覆い隠そうとする。こうなのなら、すべての秘密を他人に言った方がいいのではないか?そうではない。すべての人生の秘密を全世界に公開せよとは、仏は仰せでない。だがあなたに衆生を傷害する事情があるなら、発露懺悔しなければならない。

発露懺悔は、リンチェンドルジェ・リンポチェが発明したのではなく、仏が定められたものだ。厳密に言えば、心理学といくらか関係がある。例えば、あなた達にいくらかの苦しみがあるが、誰もあなたに話しかけなければ、うつ病等の山のような問題がゆっくりと出現するだろう。自分は過ちを犯したとあなたがひたすら考え、この過ちにいかにして向き合ったらいいのかが分からないなら、心の病を発症するだろう。仏が定められた発露懺悔とは、非常に恥ずかしい、面子が立たない、申し訳なくて言いにくい事を口に出す。口に出した後は重荷を降ろすことができ、心の中にしまっていた事を、自分はついに口に出したと知る。これは勇気が要ることだ。一般の凡夫俗子ができるものではない。

どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を罰するのか?経典には、弟子が愚昧で上師が教えないなら、上師も愚昧であるとある。自分の起心動念がすべて業でありすべて罪であると、見て取ることはできず、当然だとさえ思っている。息子は息子なので、息子を可愛がり守るのは当然だと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェの息子は一言言い間違っただけで、リンチェンドルジェ・リンポチェは他人より重く罰し、2年の間戻ることを禁止した。リンチェンドルジェ・リンポチェは他人とは違う。息子はこの一生で結縁しただけで、縁が尽きればなくなってしまうと考えている。だが息子も弟子の一人だ。よってより厳しく罰するのだ。

近頃の人は、自分の親族には少し甘くしても当たり前だと思っている。当然少しは甘くなるだろう。だがそれは過ちを犯しても教えないということではないし、過ちを犯しても、甘やかして救ってやる、というのでもない。懺悔とは仏門特有の修行法門だ。他の宗教にはない。だが現在、懺悔を重んじている仏門は多くない。なぜなら懺悔を始めさえすれば、すべての人が逃げ出してしまうからだ。学仏とはただ楽に日々を過ごすためだけのものなのに、なぜ公開の場で懺悔などしなければならないのか?と思う。なぜ発露懺悔は道場で行うのか?第一に道場で行えば、諸仏菩薩、護法、冤親債主がみな耳にできるからだ。第二にたくさんの人が聞くことで、このようにするのが過ちだ、自分も過ちを犯すべきでないと分かり、反面教師としての警告作用があるからだ。

我々は学仏人として身を以って範を示さなければならない。身口意が一般の学仏していない人と同じなら、自分は学仏人だと言う資格があるだろうか?自分の身口意を思いのままに放縦し、絶えず行悪しているなら、学仏してどうするのだ?それなら学仏などしないほうが良い。あまりにも大変だからだ。我々は自分を輪廻させないために、この一生ではほんとうに戦々恐々とし、薄冰を踏む思いで日々を過ごしている。他人はパーティーに参加できるのに、自分はダメだ、とても辛いと思う人もいる。だが実は、パーティーに参加すれば、何かが起きる可能性があるのだ。

何かが起きると言っても、悪いこととは限らない。一種の共業であり、一種の行うべきでない事だ。なぜか?それは、夜は衆生が食べ物を探して出てくる時間帯だからだ。人がパーティーを開いていれば、衆生はどんなに苦しいだろう!衆生は食べ物を探すために出て来る必要がある。特に餓鬼道の衆生はそうだ。夜は彼らが出て来る時間帯だ。人は夜は本来休息すべきなのだ。それなのに、夜遊びしている。そのため、現在人が過ごしている日々は鬼の日々なのだ。日中眠り、夜遊ぶ。今の若い人はみなこうだ。父母たちも、これは流行だと思っているようだが、実はそうではない。これにより、未来に鬼道、地獄道に堕ちる人はますます多くなるだろう。なぜなら夜出てきて活動するのは人のライフスタイルではないからだ。畜生と鬼道の暮らしだからだ。だが、そう思っている人はいない。

あなたが公開の場で発露懺悔できれば、無意のうちに少しの功徳福報を植え付けることができる。実は弟子は上師に対して懺悔するだけで十分なのだ。だが、末法時代の今、衆生の修行は非常に困難だ。修行させる環境がなく、毎日山のような煩悩に向き合い、処理しなければならない。だがやはりあるとは思っていない。そのため発露懺悔をみなが聞くことで、こうだと知ることができるのだ。懺悔心を起こさなければ、いかにして守戒するかは分からない。なぜなら悔とは二度と再び犯さないということだからだ。

守戒はとても辛いと考えている人が多い。誰かが法会への参加、済度を求めて来くれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らにこの一生菜食しなければならないと伝える。たくさんの人が奇妙だと感じる。自分はただ祖先を済度するだけなのに、済度が終われば彼らとは関係がない、と思っている。経典でははっきり説いている。亡者に福報がないなら、いかなる諸仏菩薩、修行人であろうと済度してあげることはできない。ある人がとてつもなく腹を空かせていたところ、そこに突然良いものを食べさせてやれば、その人は死んでしまうかもしれない。とても喉が渇いてる人に、突然たくさんの水を飲ませれば、その人は死んでしまうかもしれない。だが、世間の人は信じない。仏菩薩は必ず慈悲をかけなければならないと思っている。

簡単なロジックで推論しよう。仏があなた達が考えるように、慈悲深くなければならないなら、あらゆる人を救わなければならないなら、全世界にいる60億余りの人は皆仏を信じ、横死する人などおらず、戦争もなく、訳の分からない病もないはずだ。ではなぜなおこんなにもたくさんあるのか?それは仏が縁がある人を済度するからだ。過去世で仏と結縁したか、つまり言いつけを守ったかどうかだ。教えに従っていなかったなら、仏が済度しようと思われても無理だ。なぜか?それは仏はあなた達に仏を信じるよう強制できないからだ。仏は手に剣を持ってはおられない。文殊菩薩は手に剣を持っているので人殺しだ、などと思ってはならない。非常に多くの西洋人がこのように思っている。だが、仏法における仏像が持っている剣は、智慧を表しているのだ。智慧は剣のように鋭利で煩悩を断ち切ることができる。剣で人を殺すのではない。

仏法についてはっきりさせた後でなければ、いかにして仏法を学習するかは分からないだろう。『地蔵経』には、親族は亡者のために『広做仏事(広く仏事を行わ)』なければならない、とある。たくさんの寺へ行き、たくさん点灯し、たくさんの死者の位牌を書かなければならないと誤解している人が多い。仏が我々にこのようにするようお求めなら、たくさんの寺へ行き、たくさん点灯し、たくさんの人に読経してもらうよう開示する。だが、経典にはこのようには書いてない。ただ、親族は亡者に代わり『広做仏事』とあるだけだ。これはどういう意味だろうか?それは、亡者が生前できていなかった、仏がご指示の事、つまり懺悔、守戒、十善修行、慈悲を養う、慈悲学習を行うということだ。亡者ができていなかったなら、往生する因縁などあるだろうか?そのため、仏は、親族は亡者に代わって『広做仏事』を行わなければならないと仰せなのだ。『広』とは少し、一秒、一日ではない。この一生で行い続けるのだ。

済度法会の日にすでに済度されたのに、なぜ継続して行わなければならないのか?と考える人がいる。これは、あなた達が自分はこの生で菜食すると決めたといえば、それは慈悲心が始まったということになるからだ。この慈悲心はどんなものより大切だ。なぜなら、あなたは亡者のために済度を求め、衆生の肉を食べないと決心したので、この因は亡者に従い来たからだ。あなたは亡者に代わりこの決定を下したのだから、亡者が主役だ。よって亡者の福報が起きるのだ。あなたがもし49日間だけ菜食するなら、考えてみよ。49日間と一生の時間とはどちらが長いのだ?自分はもしかしたら明日死ぬかもしれない、と言い返す人もいるだろう。だが、明日死んだとしても、それも一生だ。

非常に多くの世間の人が寶吉祥仏法センターは面倒だ、なぜこうしなければならないのか分からない、と考えている。だが、慈悲心がない人が、諸仏菩薩及び上師の慈悲心とどうして相応できるだろうか?仏菩薩は慈悲心を用いて衆生を救われる。もしここであなたを救っても、あなたがあっちに行って悪を為し、衆生の肉を食べるなら、それはあなたの借りに終わりがないに等しい。仏はすでにご老人だ。すでに数億歲であられる。あなたを追い越すことなどできるだろうか?あなた達の口が動くのは仏よりも速い!あなた達が超度を求める時、リンチェンドルジェ・リンポチェが、必ず一生菜食しなければならないというのは、リンチェンドルジェ・リンポチェのためではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは近頃は非常に低姿勢で仏法を弘揚している。あなた達は自分も知らない事を、ここでは菜食しなければならないが、別のところでは不要だなどと適当に言う。もしそうなら、別のところへ行けばいいではないか!

リンチェンドルジェ・リンポチェは『地蔵経』に従い行っているのだ。どう考えても、あなた達に亡者に代わり『広做仏事』させることはできない。口腹の欲は最も簡単だ。もしあなた達に、毎月の給料の半分を恵まれない人に寄付せよ、と言っても、あなた達はできないだろう。家の人が反対している、とリンチェンドルジェ・リンポチェに言いにくるだろう。『地蔵経』には、いかにして亡者を助けるかがはっきり書かれているのに、誰も聞き入れない。お金はもったいない、守戒はする気がない、皈依もする気がない。では、亡者のために福報を累積する機会が他に残っているだろうか?ない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達の供養を受け取らないからだ。

供養には大小があるなどと思ってはならない。大小ではなく、あなたの誠懇心が大切なのだ。かつてある年長の婦人が、諸仏菩薩と上師への供養は一分でも少なくなく、千元でも多くない、と言った。それは心が大切だからだ。心がないなら、金山、銀山を供養されても、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らない。あなたの懺悔心が起きなければ、仏法を体得することはできない。さもなくば、牛に楽器を弾いて聞かせるようなもので、拝んだ後は誰もいなくなってしまう。あなた達に一生菜食を求めるのは、あなた達の殺生の機会を減らすためなのだ。

あなたと祖先とは遺伝子が同じだ。超度されても、祖先が生きている時に学仏、行善していなかったなら、阿彌陀仏のお側へ行くことなどできない。高くとも天界止まりだし、悪ければ人に戻ってしまうだろう。だが、世間の親族が行悪するなら、影響は亡者にも及ぶ。なぜなら同一線上にいるからだ。祖先は死んでしまったのだから、自分とは関係がないなどと思ってはならない。この遺伝子は滅していないのだ。よって、あなたがよく行えば行うほど、祖先も良くなり、あなたもそれに従い良くなるのだ。これはどういう意味だろうか?亡者は運命としてあなたを加護している。なぜなら祖先がうまく修行し、福報が大きければ、その子孫であるあなたの福報も起きるのではないか?

なぜ誰もこれらについて言わないのか?それは、言ったなら、多くの信衆が逃げ出してしまうからだ。一生菜食は面倒だ、49日間の菜食で十分だ、これら読経した人に対してすでに十分尽くしている、と思っている。菜食しなくとも構わない、法会に参加し亡者を済度すればそれで良い、と信衆に言っているところさえある。だが、この種の超度は絶対に役には立たない。済度は三つの面に分けられるが、一つ目は衆生を済度する能力と慈悲心が修行者にあるかどうか。二つ目は、法会に参加する人に懺悔心、慈悲心、恭敬心があるかどうか。三つの心がないなら、仏菩薩と修法者が100年、10000000年読経しても、亡者を済度することはできない。

三つ目は、亡者が過去世で縁があったかどうかだ。リンチェンドルジェ・リンポチェのところに来て済度を受けた衆生は誰であろうと、この一生で修めたことがなくとも、過去世では絕対に拝仏したことがあり、点香したことがある。『妙法蓮華経』では、仏に礼を尽くしさえすれば、すでに成仏道だという。これははすでに成仏したということではなく、成仏の道を歩き始めたということだ。経典は隋代、唐代に翻訳が始められたのだ。よって、文章がとても簡略で、現代人の言い方とはそぐわない。そのため、間違って解釈されている部分も多いのだ。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェが修めた施身法は、チベットの女ヨーガ士─マジラ尊者が書かれた法本だ。マジラ尊者の上師は釈迦牟尼仏であられる。ヨーガ士とは二つの意味がある。一つはすでに修行できており、生死を解脱できるまで成就した行者であり、一般人ではないし、インドのヨーガを教える人でもない。ヨーガとは特別な修行の名前だ。ヨーガ士には出家と在家の別はなく、修行できさえすればヨーガ士と呼ばれる。

マジラ尊者は在家であられた。結婚し子供も産んでおられる。この法本の顕教理念は『大般若経』に基づく。『大般若経』の重点は仏の智慧だ。衆生を救うためには、世間の学問と経験に頼るだけでは解決できず、空性の智慧が必要なのだ。あなた達に理解できる簡単な言葉で空性の智慧を説明すれば、その思維方式は、ある点、理論、方向に執着するのではなく、衆生に対して救いとなるなら、行者は何であろうと用いるというものだ。

『大般若経』が触れる空性智慧の他に、施身法法本の重点は、布施供養を通して、我々が生生世世に携えて来た煩悩障と所知障を断ち切ることだ。煩悩障は比較的理解しやすいだろう。だが、所知障は分かりにくい。所知障とは、我々が生生世世に六道の中で学んだ生活経験だ。この種の生活経験は、我々にいわゆる知識分子、非知識分子を生じさせる。だが5000年余りの今回の人類の歷史において、いわゆる知識分子はひたすら変換しており、異なる理念が絶えず出現している。つまり所詮は人の生活経験に過ぎないのだ。この種の経験はある群の人たちには有利だろう。つまり一種の学問だ。

仏法は学問ではない。あなたが人類の経験法則を用いて学仏するなら、盲点は絶えず出現する。ひたすら人間の方式を用いて仏法を研究しても、盲点は出現する。所知障は学仏で最大の障礙だ。我々は煩悩障を感じることはできる。だが、所知障を感じるのはとても難しい。施身法は我々にこの二種の煩悩を断つよう求める。この二種の煩悩を断たなければ、生死を解脱することはできない。済度の定義とはなんだろうか?我々に食べられた衆生を三善道へ送る、つまり済度されるのではないか?真の済度について、法本にははっきり書かれてある。それは、布施供養を通して、我々が生生世世で傷つけた衆生から我々に対する怨恨を消し、彼らに菩提心を発しさせる。これこそが真の超度なのだ。

たくさんの人が、彼らを済度してしまえば、自分は良くなると思っているが、これは一時的なものだ。どうして一時的なのか?それは、あなたが自分を済度していなければ、やはり自己流で自分勝手に悪を為すからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは1995年より衆生を救っている。病が良くなっても、後に再発する人もいる。それは、彼らが自分を超度していないからだ。死んだ後に超度が必要だと思っている人が多いが、実はそうではない。存命のうちにも超度が必要なのだ。超度とは輪廻の苦海から助け出し、彼岸へ渡らせることだ。死んでから行うなら、リンチェンドルジェ・リンポチェのような修行者に万一巡り会えなければどうするのだ?どのように済度するのか?在生の時こそ行う必要があるのだ。死んでからようやく済度するなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を取らず、仏法を教えず、聞く必要さえないだろう。いつ死ぬか教えてくれれば、リンチェンドルジェ・リンポチェはそれを待っているだけで良い。どんなに簡単だろうか?

存命のうちに済度するからこそ有用なのだ。なぜなら一人を済度すれば、この一生で食べたもの、親族、あなたと恩や怨があった人を含むたくさんの人を済度させられるからだ。だからこそ法会が必要なのだ。自分の父は死んだので、法会に参加し父を済度させたが、父は今幸せかどうか分からない、などと思ってはならない。幸せなわけがなかろう!どうして幸せでいられるだろうか?もし幸せなら、あなたはリンチェンドルジェ・リンポチェの面前には現れないはずだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの面前に現れるなら、それはあなたにこの縁があるということだ。だが、人の決心と信心はとても奇妙だ。仏が説かれたように、衆生の心は不可思議だ。つまり、衆生の心は常に変化する。仏の大智慧であっても不可思議に見え、なぜ衆生はこのように考えるのか、考えつきもしないのだ。

衆生の心がこんなにも複雑なのは、貪嗔痴のためだ。あらゆる念頭がすべて自分のため、修行者が講じる仏法は聞きたいものではないと考え、信じない。あなた達が聞きたいのはどのような仏法だ?あなたが欲しいものを与えるのだろう。結婚したければ、すぐに結婚させる。子供が欲しければすぐに子供を産ませる。金儲けがしたいならすぐに儲けさせる。ガンに罹ったなら、明日には治す。こうであるならあなた達は信じるのだろう。だが、仏法は別の方法とは違う。すぐ良くなることはない。すぐ良くなったとしても、たくさんの後遺症が生じるだろう。

仏法はあなたの問題を切ってしまい、断ってしまい、殺してしまうのではなくて、あなたを好転させ、悪から善へと転じさせ、不良から良へと転じさせるのだ。人はどうしてガンになるのか?ガンは外から入ってくると思っているだろうか?癌細胞は自分自身の細胞が悪化したものだと現代医学は証明している。だが、どのような力が細胞を悪くするのだろうか?」と仰せになった。

一人の医者である弟子が「医学では確実なことは言えません。どれも漠然とした理論ばかりで、喫煙、薬物摂取、環境要素などいろいろな考え方や仮説があります。けれども、これらに触れてもガンにならない人もいます。この治療で良くなると思っても、少しすると元の病が再発することもあり、なかなかはっきり言うことはできません」と述べた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは継続して開示くださった。「なぜはっきり言えないのか。それは西洋的な方法は唯物主義だからだ。仏法は西方世界では弘揚が難しい。それは彼らの習慣が唯物主義で、精神面で研究するのではないからだ。どうして漢方薬の後遺症は少ないのか?西洋医学の医者である弟子は分かっているだろう。今日どこかに病気がある。それを切除しても、別のところがおかしくなり始める。漢方はゆっくりと調える。西洋医学では切り、取り除く。仏法のやり方はあなた達を転じさせる。それは、あなたが本来は純であり清浄な善だからだ。それが、一念無明のために、清浄な善がゆっくりと非常に複雑な悪に変化してしまったのだ。複雑な悪を再び転じさせるのは、とても大変だ。

うちを建てるには、長い時間がかかる。だが、破壊しようとすれば、爆薬を埋め込み、3〜4日、さらには数秒もあれば十分だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば比喩を用いる。あなた達が大変な思いをして一ヶ月働き給料を受け取る。ゆっくりと使えば一ヶ月間もつだろう。だが、一日、一時間でこの給料を使い切ってしまうこともできる。これは同じ考え方だ。福報を取り戻すには生生世世が必要だ。だが、福報をすっかり使ってしまうには数年で十分だ。不治の病に罹るのは、悪の力が出現しあなたの身体を傷つけ始めたからなのだ。

病にかかると、先ずはどのようにして完治させようかと、たくさんの人が考える。漢方によるガン治療は、現在は毒を以て毒を制するという方法を用いる。西洋医学も毒を以て毒を制するが、続けて切除する。だが、やはり解決にはならない。どうして解決にならないのか?それは、癌細胞がもともとあなたのものだからだ。どうしてあなたの細胞が訳も分からず良いものから悪いものに変わったのか?それは自分に問うてみよ。仏法は我々にどのように転じるかをお教えくださるのであって、それを持ち去り、退治してしまうのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェがガンになったことがなかったなら、このことについて、あなた達と討論する資格はないだろう。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはガンに罹った時、仏菩薩に病を治してくださいとはお願い申し上げなかった。西洋医学の医者である弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェに手術で皮膚癌を切除するようひたすら勧めたが、今ではリンチェンドルジェ・リンポチェは良くなってしまった。

どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェの皮膚癌は良くなったのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが良くなったのではなく、皮膚癌が転じたのだ。どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェは皮膚癌になったのか?それは、この一生で海鮮を好んで食べたからだ。物心ついた頃からひたすら食べ続け、後に菜食するまで食べ続けた。菜食してもなぜなお発病するのか?これはとても良いことなのだ。それは、菜食後この一生に発病すればこそ、すべての問題をこの一生で解決するチャンスがあるからだ。菜食しないなら、死を前にした数年に借金取りがやってくる。この目で見たことがあるだろう。ガン患者が死へと向かうあの数ヶ月、それは人の生活ではない。あなた達もそのようになりたいのか?見たことがあるのなら、知っておろう。そういう人たちの毎日は人とは全く違う生活だ。学仏人によれば、その人はすでに地獄で暮しているということになる。

『地蔵経』では大号地獄、小号地獄と言うが、病院へ行けば目にすることができる。腫瘍科では、夜一人が叫び始めれば、フロア全体で叫び声が上がる。地獄と同じだ。切除するところも地獄と同じだ。手術室に運び込まれる度に一度死に、出てきて生き返り、再び運び込まれもう一度死ぬ。地獄が人世間に完全に出現しているのだ。たくさんの人が地獄は死んでみなければ分からない、と思っているようだが、実は死を待つ必要はない。生きている間にも見られるのだ。仏法が根本的に問題を解決できるというのは、自分の問題をいかにして転じるかを教えるからだ。修法はあなたの問題を停止する。だが、停止した後に転じるかどうかはあなたに掛かっているのだ。いわゆる転じる、とは自分をあれこれ転じるのではなく、悪を善に転じるのだ。

野良犬を保護し、基金会を設立し、金銭を寄付する人がたくさんいる。これは人世間の善に過ぎず、誰であろうと行うことができる。だが、我々が行わなければならないのは出世間の善だ。この一生で輪廻の家を離れる決心を下さなければ、善は始まらない。あなたが決心を下せば再び輪廻することはない。この世間を離れると言っても、それは自殺せよとかすぐに死ね、ということではなく、決めよ、ということだ。しかも、仏法は自殺を許さない。あなたが世間を離れる決心を下すなら、新しい借金ができることはない。恋愛であろうと他の面であろうと、借金ができることはないのだ。借金ができることがないなら、あなたの生活も人生も共に良い方向へと向かう。良い方向へと向かうと言っても一切が順調にいくということではない。人には順調はないのだ。我々は生生世世にこんなにもたくさんの悪を為してきた。前世などと言わずとも、この一生を考えただけでも、どれだけの肉を食べただろうか。肉を一口食べれば一回返さなければならないのだ。信じなければならない!

肉を食べたことがあるのに返さなくとも良いなら、人は病気になったり、病院に横たわり管を挿入されたり、裸にされて集中治療室に入れられたりする必要はない。これは全て自分で作った悪だ。この種の苦しみを受けたくないと思うなら、今決心しなければならない。自分が病気になったらやろう、またはある事をやり遂げてからにしようなどと思ってはならない。学仏修行はあなたが現在正常だと考えている家庭生活を障礙することはなく、反対によくするのだ。なぜならあなたが変われば、転じるからだ。

今日の施身法は、布施供養を通して修める。我々にとって最も大切なのは自分の身体だ。毎日忙しいのもすべては自分の身体のためだ。一食抜いたり、暑いのにクーラーがないと、すぐに堪らないという。我々が一生忙しいのはこの身体のためなのだ。この身体は業報身だ。過去世の善悪業があるので、この身体がある。この一生で為す善悪も身体に対して影響を及ぼす。

人が長寿なのは、これを食べたり、あれを食べなかったり、というのではなく、行善のためなのだ。人が短寿なのは、行悪するからだ。すべては身体に現れるのだ。我々が最も大切なのはこの身体だ。どんなものより大切だと思っている。よって施身法では、行者は密法を通して、自分の身体を甘露に変え、十方一切諸仏菩薩に供養する。さらに、血、肉、骨に変え、三悪道の衆生に食べさせる。彼らの目には血、肉、骨に映るが、吞み込めば甘露に変わり、彼らの生生世世の嗔恨、怨恨、執著の心はすぐに清められ、仏法を受け入れられるようになるのだ。

懺悔心がなく、仏法を用いて自分の冤親債主に対処しようと望んでいるなら、今日修める法はあなたにとっては役に立たない。慈悲心がなく、自分が良くなること、自分の父が良くなることだけを望んでいるなら、今日の法はあなたにとっては役に立たない。恭敬心がなく、今日はただ参加してみただけで、自分に有用かどうか見に来ただけだと思っているなら、それも役には立たない。なぜなら、それは諸仏菩薩と上師に対して不恭敬だからだ。冤親債主は絕対にあなたを許さない。リンチェンドルジェ・リンポチェがどんなにうまく修め、彼らにあなたを許すように求めたとしても、役には立たない。

リンチェンドルジェ・リンポチェが施身法を修める時には、少なくとも1300人から1500人は参加する。修法時、リンチェンドルジェ・リンポチェは分け隔てなく行う。寶吉祥仏法センターには大功徳主はいない。金持ちを前の方に座らせ、貧乏人を後の方に座らせるということもない。すべてを平等に考えている。高齢者は健康に不安があるので高座に座らせるが、他はすべて並んで座る。得られる仏法の利益はどうして一人一人違うのか?これはあなた達と関係があるのであり、リンチェンドルジェ・リンポチェとは関係はない。

仏光普照と言うように、仏光が照りだした時には誰彼の分け隔てはないのだ。悪人には教えず、善人にだけ教える、ということはない。ではなぜ、得られるものは、一人一人違うか?それは、心が転じているかどうかだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがこんなにもたくさん開示するのは、あなた達を降伏させるためではなく、先ずあなた達の心を静めるためなのだ。さもなくば、あなた達の心はひたすら起伏し、自分が考えたいことばかりを山のように考えている。これ以上考えてはならない。考えても役には立たない。さらに、仏法に対して好奇心ではなく、恭敬心を起こさせるためだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの果位はあなた達が分かるものではない。諸仏菩薩と尊勝なる直貢チェツァン法王だけがご存知だ。リンチェンドルジェ・リンポチェがどんなにすごいか知りたいなら、簡単だ。リンチェンドルジェ・リンポチェと同じくらいまで修行すれば、どれだけすごいか分かるだろう。だがそれは恐らくとても難しいだろう。法会前にリンチェンドルジェ・リンポチェの息子が言ったのを皆も聞いただろう。息子はたった一言誤ったことを言っただけで、罰として二年間帰宅できなかった。誰ができるだろうか?誰もできない。リンチェンドルジェ・リンポチェだけができるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの母も許してやるよう求めたが、リンチェンドルジェ・リンポチェはそれでも息子を許さなかった。なぜなら教える時には、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェの息子ではなく、あなた達と同じように弟子だからだ。特に息子の苗字はリンチェンドルジェ・リンポチェと同じなので、他人より劣るわけにはいかない。なぜなら祖先に申し訳ないからだ。よって、あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェと競ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェに勝てる人はいないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは命さえも要らないのに、こんなことを恐れるだろうか?

リンチェンドルジェ・リンポチェのこの一生にはある特徴がある。しばしば金に困るが、しばしば使う金がある。だが布施供養に用いてしまう。よって、あなた達は世俗人の目でリンチェンドルジェ・リンポチェを見てはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは修行人なのに、なぜビジネスを行うのか、と考える。リンチェンドルジェ・リンポチェがビジネスを行っている場所は道場だ。禅宗を修める古代のある法師が言ったように、道場は寺の中でなければならないというのではなく、あらゆる場所がすべて道場なのだ。仏法を用いて日々を過ごしさえすれば、そこは道場だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは皈依している従業員にも、未皈依の従業員にも、いかにして真心でビジネスを行うかを教える。量をごまかして売ったりすれば、死後地獄に堕ちると、経典にはっきり書いてあるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは因果が怖いので、自分の店でこの種の事態が起きることを許さない。

他人が儲けるのをみな望まない。金を儲けられないなら、どうして良いものをあなた達にくれるだろうか?暴利を貪る商売人もいることはいるが、それはまた別の話だ。だが、大多数の商売人はすべて相手の立場に立ってビジネスを行っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日はビジネスについて話すのではない。在家の上師にとって、あらゆる地方、場所、人物はすべて修行なのだ。あれとこれとを分けたりしない。今日リンチェンドルジェ・リンポチェはみなに修法したが、それも誰彼の分け隔てはない。自分の息子に対してさえこんなにも厳格なのだ。これは、リンチェンドルジェ・リンポチェがすべてに公平な証左だ。あなた達が分け隔てしているのだ。なおあれこれ区別するなら、今日修めた法はあなた達には何の役にも立たない。

施身法を修めるのは非常に特別だ。修法者は自分を保護することはできない。身体を保護する一切の聖物を身につけてはならず、すべて取り外さなければならないのだ。さらに壇城には結界を設けないので、衆生が好きなように入って来られる。あなた達には見えない、感じられない衆生が入って来られるのだ。あなた達が済度させたい者を済度させた後、あなた達のすべての良くない事は一時的に停止する。これにより、あなた達にこの一生でしっかり学仏し、生死を解脱する時間と機会を与えるのだ。あなた達が行うかどうかは、あなた達が自分で決定するのであって、リンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねても仕方がない。リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依するかどうかもリンチェンドルジェ・リンポチェには関係がない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは皈依を求める人を受け入れるとは限らないからだ。

他の法は、法座に上るだけで修めることができるが、施身法は、修法前に行者の修法をお許しくださるよう本尊に求めなければならない。なぜなら修法者の基本功、福報、功徳が不十分なら、諸仏菩薩と上師の加持は得られず、衆生に利益できないからだ。衆生に利益できないなら、修めさせない方が良い。なぜならこれは極めて秘密性の高い法だからだ。読経によって処理できる普通の法ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今年もう少しで死ぬところだった。けれども、施身法を修めたので、非常に素早く健康を回復することができた。リンチェンドルジェ・リンポチェは回復した後、強壮な勇士となったのではなく、弟子への救いを続けているのだ」と仰せになった。

続けて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝なる直貢噶舉施身法の修持を始められた。修法の過程は極めて荘厳、厳粛で、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは絶えず鈴を振り鼓を回し、法本を念誦くださり、参会者を率いて六字大明咒を長く持誦くださった。慈悲なる荘厳で清浄な法音が広がり、無数の有情衆生に利益した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの修法の加持力は極めて殊勝で、一切の衆生を震撮し、威徳力は虚空に遍く満ちた。

修法が円満となり、参会者は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは「みなが超度を求めた衆生は、今日すべて超度を得た」と仰せになり、継続して仏法の開示を下された。

「今日は法本中の顕教部分について少し説明しよう。密法部分については今日は説明しない。法本は修法後にやはり『諸法皆為因縁生』と衆生に告げる。法とは修法、作法ではなく、あなたの身の上に発生する一切の人、事、物等の現象だ。すべては因縁があるからこそ生起するのだ。この因を植え付けていないなら、何も発生しない。仏は、因はどこから来るのか、因はどうして寂滅で、二度と産生しないのか?について開示くださっている。仏は簡単に開示くださった。見たところ簡単だが、行うには、一人の上師に従い、上師が絶えず監督しなければ、成し遂げることはできない。

仏は『諸悪莫作』と仰せになった。これは一切の悪を行ってはならない、一つの小悪であろうと行ってはならないということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの息子がどんな過ちを犯したのか理解できないという人がいる。息子は悪口の戒を破ったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの面前で他人について言うのは、両舌だ。他人を罵ったのは悪口だ。あなた達は、こんなことがそんなにも深刻だろうかと思うだろう。だが、深刻なのだ。なぜなら、どんなに大きな事でも小さい事から始まるからだ。小さな事も発生させないなら、大きな事は自然に発生しない。だが、我々は好き放題に自分の身口意を放縦しながら、小さな事だと思っている。

母が求めても、旧暦大晦日の夜の食事に息子を帰宅させなかったなどとは、リンチェンドルジェ・リンポチェは人情に疎いと思う人もいるかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは皈依時にはっきり言っている。あなた達が教えに従わないなら、上師はあなた達と『不共一室』つまり、同じ部屋にいることさえしないし、あなたと善事を分け合うこともない。自分は学仏したいのだから、上師は自分に学仏させなければならないなどと思ってはならない。我々人はひたすら絶えず悪を為している。上師の効果はあなたに面倒をかけ、あなたの最も汚れた、自分でも知らないものをすべて穿り出すことだ。

汚れたとは、悪だということだ。身口意の、我々を輪廻させる機会があるものはすべて悪だ。殺人だけが悪だというのではない。仏法が教えるのは、一切の悪を行なってはならず、衆善奉行するということだ。我々は善の定義について注意しなければならない。仏が善と仰せなら、それは世間の基金会、宴会に参加し金銭を寄付するなどではない。仏が説かれる善は出世間法だ。第一に十善法を為さなければならない。十善法は不殺生を含む。そのため、寶吉祥仏法センターの法会に参加する人は必ず菜食しなければならないのだ。なぜなら殺生を続けるなら、善を修めることなどできるだろうか?善まで修められないなら、自分の未来の問題を解決することなど不可能だ。

『諸々の善を行い』とは、必ず十善法まで為さなければならず、しかも必ず恭敬に行わなければならないということだ。『自ら其の意を浄くせよ』とは自分の意識を清潔にするということではない。あなたが『諸々の悪を作すこと莫く、諸々の善を行い』を成し遂げられたなら、悪の力は停止する。悪果が出現しても、果報は軽くなる。絶えず行善しさえすれば、善の力は悪の力を上回る。悪が発生しても、あなたは感じられないだろう。たくさんの人が、先ずは悪い事を行い、戻ってきたら、自分は間違っていました、と仏菩薩に言おうと思っている。果物を供えれば、それで大丈夫だと思っている。そんなことがあろうはずがない。善と悪とは二本の平行線だ。片方をやめない限り、もう片方を打ち消すことなどできない。

ある程度学仏すると、行悪を始める人が多い。自分の家族について話し始めさえすれば、すぐに悪を始める。寶吉祥仏法センターで特に『仏子行三十七頌』を唱えるのは、我々在家人が最も容易に犯す過ちは、親族を自分のものとして考えることだ。ある弟子の息子は過ちを犯した。会社は彼を首にせず、依願退職することを望んだが、母が悪念を起こし、会社が息子をいじめているのではないかと考えた。この弟子は何を修めていたのか。事実を見極めることもしない。これこそ、『諸悪莫做、衆善奉行』が行えていないということなのだ。

悪を停止し、ひたすら行善しさえすれば、悪が多く善が少なかったもともとの意念が、自然に自動的に清浄に転じる。わざわざ行う必要はない。自分は不恭敬の念頭があるという人がいる。これこそ悪がまだあるからだ。悪事を行いたいという念頭が、自分にはまだあると感じる人がいる。これは悪の動作がなお出現しているからだ。悪の動作を停止しさえすれば、すべての身口意はゆっくりと善の方へと向かい、わざわざ行わなくとも、ごく自然に清浄に転じる。仏法の特色は教えに従い行いさえすれば、知らず知らずのうちに自分ができていることにある日気がつくことだ。

ある人がリンチェンドルジェ・リンポチェに、最近あの人は修行によってどんどん観音菩薩のようになってきた、と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはその人に『どこの観音さまに似ているのか?唐朝のか、宋朝のか、中国、台湾、韓国、日本のか、それともチベットの観音菩薩か?』と尋ねた。すると相手は唖然として言葉を失い、それ以上何も言わなくなってしまった。あなた達は何を以って、自分は修行して観音菩薩のようになってきたというのか?あなた達は、自分の修行が少しうまく行っていると思えば、自分は観音菩薩のようだというのか?少しうまく行っているのは、冤親債主がしばらく見逃してくれているだけで、見たところ肌の調子が良くなったりする。だがこれは、修行して観音菩薩のようになっている、ということではない。これは全ていい加減な言い方だ。だが、世間人は『菩薩!近頃ますます観音菩薩のようですね!』などと喜んで言う。

ほんとうに観音菩薩に似ているなら、どの菩薩さまなのだ?唐代の観音菩薩にはヒゲがあったが、宋朝の後にはヒゲがなくなった。つまり宋朝までの観音菩薩にはヒゲがあったのだ。観音菩薩に似ていると言うなら、どの菩薩さまなのだ?観音菩薩には男女の別はない。この種のことを言う人は、不打妄語の戒を破っているのだ。現在たくさんの人がこの戒を破るが、戒を破っても自覚がない。出家者もそうだ。どうしてこうなるのか?それは『諸悪在作』だからだ。やはり貪念があるので、意が清浄にならないからだ。これこそ仏法の最も重要な根本原理だ。

『衆善奉行』の善は、十善法だ。十善法を学び、十善法を修めるには、必ず仏門に皈依しなければならない。自己流ではならないのだ。皈依してもう直ぐ十年になるある弟子は、今でもやはり適当なことを言う。これこそ所知障だ。誰もが皆このようだ。仏法を利用する時には、これはリンポチェ、上師であられる、と思い、仏法が自分にとって利用価值がない、世間の利害関係について論じる時には、すべてはバカだと思っている。皈依の際『悪因の寂滅がいる,つまり諸々の悪を作すこと莫く、諸々の善を行い、自ら其の意を浄くせよ、是が諸々の仏の教えなり』とはっきり伝えてある。これは、一切仏が我々にお教えくださる修行方法の根本だ。どれだけの咒を唱え、どれだけの大礼拝を行い、どれだけ打坐を行うかではない。これらとは全く関係がないのだ。

法本の後の方では『身戒清浄故』という。これは、身が悪業を二度と行わない、ということだ。そのため、あなた達は必ず菜食しなければならない。菜食しないなら、どこに少しの慈悲の観念があるだろうか?慈悲心とまで言わずとも、観念さえない。慈悲の観念がないなら、身は清浄とはならない。身戒を守れないなら、言葉も当然悪くなり、何を言っても人を不快にし、悪語となる。身戒がよく守れるなら、言の戒も善となり、意の戒も自然に清浄となる。これは相互に関連があるのだ。自分は無心で、うっかり口をついて、などと言ってはならない。まさかあなた達は、自分はコンピューターだと思っているのか?コンピューターが話をするにしても、ボタンを押さなければならないだろう。自動的に話をすることなど有り得ない。

あなたは人だ。内部に思想がないなら、口から言葉が出てくることなど絕対にない。口を塞いだとしても、一生懸命話し続けるではないか。リンチェンドルジェ・リンポチェの面前で弁明したいという人が多い。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれ以上言うな、ととっくに告げているのに、やはり言いたい、という。これこそ心の中にその念頭があるからだ。仏法は非常に科学的なのだ。根本から手をつける。絕対に盲信ではなく、読経に頼るだけで良くなるというのでもない。絕対に段階があり、次第にゆっくりと行うのだ。身、口、意の戒がすべて善、清浄であれば、戒も善となる。

自分は現在五戒を守っており、比丘尼戒も非常に善に守っているなどと思ってはならない。戒の定義とは、あらゆる有情衆生を傷つけるのが忍びない、ということだ。自分の修行のためではない。たくさんの人が自分は守戒しており、不殺生なので、他人より良いと思っている。もしこのように思うなら、この戒は不善だ。なぜならやはり利己的だからだ。

身口意の善とは、一切の有情衆生を傷害しないということだ。法本では、最も悪で、最も凶暴な鬼を呼び寄せ、食べさせるという。あなた達にその勇気はあるか?リンチェンドルジェ・リンポチェは羅剎にまでも来てもらう。そして、彼らが満足するまで食べてもらう。あなた達にその勇気はあるか?別の宗教では、玄関脇にお札を貼り、鬼を遠ざけようとするだろう。また、玄関脇に地蔵菩薩を置き、鬼を遠ざけようとするだろう。だが、これは慈悲心のないやり方だ。

先ほど開示した数語はすべて顕教なので、あなた達が聞き入れることが要る。法本の後の方では『具足戒比丘』という。我々はこの一生で福徳因縁がなく出家しなくとも、未来世では必ず出家できる。なぜならこの一生で身口意を清浄とできたからだ。そのため一切の苦を解脱することができる。一切の苦とは、世間八苦の生、老、病、死、求不得、愛別離、怨憎会、五蘊熾苦を含む。怨憎会とは、あなたの最も嫌いなものが全部いっしょになることだ。彼を愛することが愛だ、などと思ってはならない。それなら、別れたらどうするのだ?相手を怨み、相手を責め、自分の青春のすべてを相手に捧げたと思うだろう。青春とはなんだろうか?青春とは時間だ。時間は過ぎてしまえばなくなってしまうのだ。自分の青春をある一人の人に捧げてしまうと思うなら、何も捧げない方が良いだろう。

五蘊熾苦という。我々は眼耳鼻舌身を満足させるため、毎日とても忙しい。現在世界で最も流行しているのは携帯電話だ。携帯電話を毎日最も長時間使っているのは台湾人だ。そのため、今ではますます多くの台湾人が神経に異常を来している。なぜなら脳神経が休まる暇がないからだ。いつでも動いている。読書と携帯電話を見るのとは違う。読書は止まれるし、目には光の刺激がない。だが携帯電話の光は違う。

人は生まれればすぐに八種の苦しみがある。この八種の苦しみの他、生生世世で為した一切の善悪業も、あなた達の心を不安定にする。試験はうまくいくだろうか、結婚した後どうだろうか、今でもまだ結婚できていない、結婚後は妊娠できるだろうか、妊娠した後は子供が生まれてどうだろうか等たくさんの煩悩を抱えている。これは全て苦だ。輪廻の苦に関しては言うまでもない。

あなた達は法会に参加しにきている。この面から自分の未来の人生を発展させないなら、この法会は次の一世のいくらかの人天福報を与えてくれるだけで、この一生ではこの一生と過去世で為した悪業を解決することはできない。なぜなら、言うことを聞かないからだ。法本中では修法の終了後、さらにもう一度衆生に言い聞かせている。衆生の間違いを心配しているのだ。施身法の願力は非常に大きい。中には、修行者自身が念じる段落がある。それはあなた達とは関係がないが、少し説明する。施身法を修めれば、広大な布施功徳がある。通常供養布施には対象があるが、この法本で供養するのは、一切虚空のすべての衆生だ。行者と関係がないものにまで布施するのだ。なぜなら何も求めないからだ。供養布施は、自分が何かを得るためではなく、自分の果位を変えるためでもない。衆生に苦があるため、衆生に代わり布施供養するのだ。

法本には『有情衆中自然成就仏』とある。なぜなら行者が行うこの種の布施供養の功徳を通して、有情衆生は福報を得て、未来に学仏修習でき、自然に成仏できるからだ。法本には『往昔諸仏未度之有情』とある。つまり過去に諸仏がまだ済度していない有情衆を、行者は布施功徳によって済度させたいと願うのだ。つまり、この法本は、あなた達が普通に眼にする済度法本ではなく、金剛乗において非常なる大願力の法本だ。かつて三世一切の諸仏が済度できなかった衆生を、この一世の行者が修法により、引き継いで超度させようと望むのだ。この考え方こそ、諸仏菩薩の願を受け継ぐもので、そうでなければ、相応することはできない。

あなた達がどうして相応できようか?自分の病が良くなりますように、夫が言うことを聞くようになりますように、息子がしっかり成長しますように、護法を先ずは修めて彼に回向しよう、などと考えている。これらは仏菩薩の誓いと何の関係があるのか?関係がないなら、人天福報を得られるだけだ。経典が講じるものは、もし根器でないなら言わない方が良い。なぜならひたすら言い続ければ、自分にはできないと思い、あなた達は恐れるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達はほんとうにできないと信じている。だが、信心がありさえすれば、諸仏菩薩と上師はあなたを護持し、あなたを生生世世に修行させてくれる。

信心がないなら、自分が仏法を聞いたことがあっても、未来に修行の機会があるとは思えないなら、これ以上説いても無用だ。今日講じたのは顕教だ。密法の方はひとまず触れない。顕教について説いただけで『実はこうだったのか。今日法会に参加したのはただ健康を祈願するため、だったのに、こんなに複雑だったとは今初めて知った』とあなた達はすでに恐れ戦いている。リンチェンドルジェ・リンポチェは為すべきはすべて為した。説くべきは説いた。やるもやらないもあなた達自身が決めるのだ」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いてアキ護法と回向儀軌を修持くださった。法会が円満となり、弟子達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法と開示に感謝申し上げ、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを起立して謹んでお送り申し上げた。

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2016 年 03 月 19 日 更新