尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年6月21日

法会の開始に先立ち、一人の弟子が、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが家族を助け、自分の命を救ってくださった事跡について参会者に語った。「私は1998年9月に寶吉祥仏法センターを訪れ、1999年8月8日に皈依した。家族の内4人が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依申し上げている。この17年の間、実家も婚家も尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの極めて大きなご恩を頂戴してきた。リンチェンドルジェ・リンポチェは私をお支えくださるばかりか、親族をも救ってくださる。こんなにも長い間家族全員が平安に過ごして来られたのは、上師の福報に頼って日々を過ごしてきたからだ。ここで私は、親族が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお救いを領受申し上げた経過について語りたいと思う。親族のうち四人は往生者で、二人は存命である。

リンチェンドルジェ・リンポチェの救いを最初に受けた往生者は私の父だった。1998年9月、父は家で転び入院したが、その後風邪から肺炎を併発し集中治療室に移った。父は一年余り前に胃ガンと診断されていた。謝兄弟子は父の主治医師だったが、父が集中治療室に移った時、謝兄弟子の紹介で、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが御自ら集中治療室にお越しになり加持をくださり、不安がる家族の心を慰めてくださった。父の病状が好転したので、私たち兄弟姉妹はいっしょに、父を救ってくださるようお願いするため、茶芸館へとリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁にうかがった。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも『父のこの一生はとても辛かったのだから、そろそろ休んでも良いのだ。万が一にも、父に頑張れなどと言ってはならない。仏菩薩に従い浄土へ行き修行するよう父に言わなければならない』と開示くださった。

父はすぐに普通病棟に戻ることができ、ガン患者が普通感じるような苦痛は全くなく、痛み止めの注射を打つ必要もなく、ガリガリに痩せることもなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、リンチェンドルジェ・リンポチェと縁がある人が、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を受けたことがあれば、リンチェンドルジェ・リンポチェに時間がある時を待って往生し、リンチェンドルジェ・リンポチェの超度を受けることができると開示なさった。

父は往生の数日前にメモ書きで、自分は10月31日に他界する、と伝えてきた。その日、父の血圧は140まで上がり、両眼が上転したので、私たちは父の衣服を整えた。だが、午後になって父の状態は突然好転した。二日目(11月1日)父の血圧はまたも140まで上がり、両眼がまたも上転した。午後父は自ら酸素マスクを取り外し、リンチェンドルジェ・リンポチェが救ってくださるのを待った。午後4時55分医者は父の臨終を告げた。当時の道場に電話したところ、リンチェンドルジェ・リンポチェはちょうど法座を下りられたばかりで、すぐ父にポワ法を修めてくださった。さらに修法後には、御自ら病院に父を見に来られ、父はすべてを捨て去っている、と仰せになった。父の梵穴は熱く、私も家人も尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲力に非常に感謝し、賛歎申し上げた。そしてその後、上の姉と私が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依申し上げた。けれども、上の姉は面子にこだわるところがあり、自分の矜恃を捨てられず、人心を直接指摘するリンチェンドルジェ・リンポチェの教法を受け入れられず、道場を離れてしまった。

リンチェンドルジェ・リンポチェの救いを受けた二人目の往生者は私の上の姉だった。2004年上の姉は胆管癌が見つかり、加持救命を求めてリンチェンドルジェ・リンポチェに再び拝謁賜った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、法会に参加し、しかも一度も欠席してはならないと、姉に求めた。けれども、姉はガンの痛みに耐え切れず、入院治療を行ったので、法会への参加が途切れてしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェの仰せに従わず、つまり上師を完全に信じることがなく、上師に対して十分な信心を持てなかったのだ。私は早くに母を亡くしていたため、上の姉は私にとって母のような存在だった。食べることが好きで、母のように料理上手だったが、特にカエルを揚げて食べるのが好きだった。姉が重病で入院していた時、四肢は痩せて弱々しくなり、腹水が溜まり腹部が膨張し、手術の跡が腹に一本の長い線を残していた。その様子はカエルのようだった。

姉は往生を前にし、十日間も便の排泄がなかったことがあった。その際には顔色が黒っぽくなり、2時間毎に痛み止めの注射を打たなければならないほどだった。西洋医学、漢方、媽祖廟からもらったお札、上の兄が自分で思い込んでいる神通の功力も、姉の排便には効果がなかった。姉は、自分に残された日々は長くないと自覚し、息子を通して、リンチェンドルジェ・リンポチェに加持を求めてくれるよう私に電話があった。リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかると、姉は上師の教えに従わなかったにもかかわらず、リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に慈悲深くも応じてくださった。翌日尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは御自ら病院へ赴き姉に加持をくださった。姉はリンチェンドルジェ・リンポチェに命を長らえてくださるよう求めたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、誰もが死ぬのだと仰せになり、姉に学仏の時間を下された。

リンチェンドルジェ・リンポチェが加持を終え病院を離れられると、姉は直ちに排便した。それは3日間続き、顔色の黒ずみも消えてしまった。そして起き上がって歩けるようになったばかりか、2時間毎の痛み止めの注射も不要になった。姉は自分は良くなったと思い、退院後には大礼拝をして懺悔したいと言っていた。けれども、リンチェンドルジェ・リンポチェは法座で、姉は内臓が壊れており、全快は無理だ、と仰せになった。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を頂戴した後は往生するまで、姉は痛み止めの注射が全く不要になり、他界する際にも非常に穏やかで、施身法超度を得ることができた。甲状腺の病のために飛び出ていた目も平らになり、嬰児のように白く清らかな顔だった。姉の往生後、姉の同僚がうちに弔問に訪れたが、同僚はその夜、姉の夢を見たという。夢の中で姉の側には白髮の老人が立っており、姉は『悲しまないようにみなに言って。今とても幸せだから。お父さんといっしょにいるのよ』と言ったというのだ。父はリンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法、直ちに浄土に往生できる大法を得たので、父と姉は浄土でしっかり修行し、二人とも幸せなのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの救いを頂戴した三人目の往生者は上の兄だ。上の姉が他界した後、兄は悲しみから立ち直れなかったが、一年もしないうちに胃癌が発見された。上の兄は自分は神通を学んだと思っており、その仏法治療を用い、一切の西洋医学の治療を受けなかった。しかし、最後の段階に至り、上師も仏も自分は選択を間違っていたとようやく認め、ホスピス病棟で逝去した。兄は息をひきとる前、最後の気力を振り絞り、リンチェンドルジェ・リンポチェから賜った甘露丸を飲み込んだため、施身法超度を得て、三悪道に墜ちることを免れた。同じように胃癌だった父は痛みもなく、ガリガリに痩せ細ることもなく、モルヒネで痛みを止める必要もなかった。けれども、兄は死ぬほど痛いと訴え、ガリガリに痩せ、モルヒネで痛みを止める必要があった。リンチェンドルジェ・リンポチェに対する信心が違えば、福報も違うのだ。今では兄嫁もリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子になっている。

リンチェンドルジェ・リンポチェの救いを頂戴した四人目の往生者は私の姑だ。姑は95歲で、6月22日往生した。若い頃は普通食レストランを開いていたが、老いてからは歩けなくなり、オムツをして長年寝たきりだった。認知症を患い、話せず、意思を伝えることもできず、口から食事ができないため、経鼻胃管で流動食を摂り、毎日絶えず痰を吸引していたが、痰の吸引時には毎回苦痛で淚を流していた。私は最近転居し、姑、義兄を迎えて同居していた。私は朝晩姑の部屋に行き除障香を点し、『快楽と痛苦』中の上師リンチェンドルジェ・リンポチェのご真影を姑に見せていた。外国人介護士が夜の痰吸引の回数が減ったというので、私は姑に『リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝しなくちゃなりませんね』というと、姑は分かった、と言ったのだ。これはここ数年で姑の口から発せられた初めての意思を持った、しかも非常に明晰な一言だった。私と外国人介護士はともにこのうえもなく驚いた。

ある晚私は姑の部屋に、『快楽と痛苦』中の上師リンチェンドルジェ・リンポチェのご真影を持って行き、姑に見せて『リンチェンドルジェ・リンポチェにおやすみなさい、を言いましょうね』というと、姑は頷いた。リンチェンドルジェ・リンポチェと関係のある事を言った時だけ、姑ははっきり明確に反応するのだ。もし姑が無意識に答えているなら、こんなに何度も連続して起きることはないだろう。ある時姑は喘息で入院し、喘息から肺炎になり、敗血症で排便できなくなった。それを抑えた後には肺炎を併発し、輸血で高蛋白を入れ、また血糖が高くなり過ぎた。けれども、リンチェンドルジェ・リンポチェが信衆の接見を終えられた時、私たちは上師に小さな供養を申し上げた後、姑の状態は直ちに安定してきた。私と夫はリンチェンドルジェ・リンポチェに心から感謝申し上げたい。

リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて、福報を使うのはとても速いのだから、自分の為ではなく衆生の為に、福報を累積する機会をしっかり掴みとらなければならない、と仰せになった。私は衷心から、家族全員が万難を排して法会に参加できることを望んだが、家族を動かすのは最も難しかった。私は自分がしっかりできていないことに慚愧を感じる。夫は17年前に寶吉祥仏法センターを訪れていた。けれども、禁煙も菜食も受け入れられず、皈依を望まなかったため、日曜日の法会に参加することができなかった。夫は昨年、前立腺を手術したが、その後繰り返し感染するようになり苦しんでいた。現在は姑の病のために菜食を始め、姑に代わって懺悔し大礼拝を行っている。姑が生きている時も死んだ後も、苦しみが少しは軽くなっている。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、最も大きな親孝行とは学仏だと仰せになった。息子は皈依したが、息子は、母によるのではなく、実修実証の大修行者を目にし、感動して皈依したのだという。息子がリンチェンドルジェ・リンポチェについて学仏していなかったなら、バンド活動に熱中し芸術にのめり込み、いつも予想がつかない行動をとるこの息子に、私は永遠に心が休まる暇がなかっただろう。

三週間前の土曜日、私と息子はリンチェンドルジェ・リンポチェの姑に対する救いを感謝しにうかがった。姑は集中治療室に運ばれ寒冰地獄の苦しみを受けることなく、息をひきとる前には甘露丸を呑み、最後には目をわずかに開いて、日本不動明王火供法会のアルバム中のリンチェンドルジェ・リンポチェのご真影を一眼見た。姑が死のうが生きようが、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲加持がなかったなら、姑はどれだけの医療の苦しみを受けたか分からない。私はリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの救いを頂戴した存命の家族の一人目は先ず私だ。1993年から1996年まで夫はアメリカに派遣され、一家で三年間駐在した。台湾に戻る数ヶ月前、出家したかつての同級生が、毎日『地蔵経』を唱えるよう私に言った。私は時間がある時には毎日唱え、上師の伝法を受けていなかったが、読経すれば加護が得られるとの貪念でひたすら唱えた。けれどもどんなに一生懸命読経しても、何も救いは得られなかったが、少しの善縁を結ぶことができた。台湾に戻った後は、勤めで疲れるため、上中下を3日間に分けて念じた。ある日誦経時に居眠りし、黒い袈裟を着た出家衆に『学仏において三つが不足している』と話しかけられる夢を見た。学仏サークルの同僚に聞くと、それは地蔵王菩薩に違いないという。この夢のことは、多年にわたり心中に沈み込んでいたが、1998年9月寶吉祥仏法センターでのリンチェンドルジェ・リンポチェの開示の中にようやく答えを見つけることができた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは『学仏には発心が必要だ。先ず懺悔心を起こし、二つ目に発するのは慈悲心で、さらに重要なのは信心だ』と開示くださった。これを聞き、自分に欠けていたのは懺悔心、慈悲心、信心のこの三つだったのだと、私はようやく理解した。私は、リンチェンドルジェ・リンポチェにこの事を報告申し上げたことは一度もなかったが、実証実修の大修行者は、衆生の必要を理解なさり、衆生の必要に応じて講法くださるのだ。そのため、法会は毎回とても重要だ。私は法会の度にほぼ毎回涙で目を赤く腫らしてしまう。リンチェンドルジェ・リンポチェのお言葉の一つ一つはすべてが心に響き、自分の問題の所在を知らしめてくださる。

2001年私は子宮筋腫でリンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは家で大礼拝を完了するようご指示くださった。私はリンチェンドルジェ・リンポチェのご指示の通り行っただけで、他の治療は受けなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる加持の下、今日まで14年間なんともない。ある時外国旅行中の車内で兄弟子達と話しており、一人の内科医である兄弟子が『思ってもみなかったことに、リンチェンドルジェ・リンポチェ内科医であられるばかりか、婦人科医でもあられたのだ』と言っておられた。

2014年12月5日引っ越しのため、私は一人で以前の家に行き雑多な物を整理していた。夫とは、翌日早朝から雑多な物を一緒に運ぶ約束をしていた。夜、晩課を終え、12時を過ぎた頃、五階に上がって眠りについたが、どれだけか経った頃、切迫した勢いで押される呼び鈴の音で目が覚めた。腕時計を見るとすでに朝の9時を過ぎていた。私は五階から降りると、四階の階段の登り口に血の跡が広がり、そこには箱から半分ほど出ているマッサージ棒があった。ドアを開けると、夫が気色ばんで『いったいどうしたんだ?携帯電話はつながらない。ドアは内側から鍵を掛けている』という。この時、私はようやく頭皮にいくらか突っ張った感じがあり、髪の毛が束状に固まっていることに気づいた。触ってみると血だった。けれども、私は何が起きたのか全く覚えていない。私の記憶は、前夜ベッドに入って寝た時の時点で停止していた。その後いったい何が発生したのだろうか?泥棒が入ってきて、私の意識を失わせたのだろうか?けれども、私は内側から玄関に鍵をかけていたのだ。誰かが侵入するなどないはずだった。

五階に戻ると、枕の上に頭の形のような丸い血の後があるのを見た。私は毎朝5時か6時に起きるが、五階の寝室から階段を降りて四階のトイレへ行った時、うっかり五階から転げ落ち、マッサージ棒を入れていた箱を動かしてしまい、頭を強打したのだろうと思う。その結果、私は四階の階段脇に倒れたのだろう。床の上の血の跡を見ると、中型の皿ほどの大きさがあり血の跡は乾いていなかったので、ある程度の時間は出血していたものと思う。けれども、自分でも分からなかったのは、呼び鈴で起こされドアを開けた時、どうして五階の寝室のベットに寝ていたのか。しかも、仰向けで、ちゃんと布団を掛けて。

夫はすぐに私を救急外来に連れて行き、後頭部を二針縫った。私が何が起きたのかを全く覚えていなかったため、医者は脳に問題が起きているのではないかと疑い、直ちにCTを撮り、四時間病院に残り、脳震盪、脳水腫がないかどうか経過観察を行うことになり、手足を上げさせて反応を見た。救急処置室の医者は、脳神経科医を呼び検查を行ったところ、医者は、私の脳神経叢の伝導に問題があるといい、一週間から二週間入院して観察することとなった。私は医者に、明日は法会があるので外出したいというと、脳神経科医は退院は無理だという。なぜなら、私は自分が誰だか忘れてしまう可能性がいつでもありうるからだということで、外出に同意してくれなかった。けれども私は絶対に法会に参加しなければならないと言い張ったところ、医者は誓約書を書かせた上で、退院させてくれた。実は、翌日私は法会に参加したばかりか、月曜日には普通に出勤し、今に至るも、あの転倒による病欠をとったことは一度もない。

12月26日には日本に5日間行き、何事もなく帰国したが、車上では皆とずっと語り合っていた。看護師である王兄弟子は私の話を聞き『それはほんとうに危なかった。後頭部の血が流れ出て来ず、血の塊が脳内に残っていたなら非常に危険だった。脳水腫は手術しなければならない。頭蓋骨を開く必要があっただろう』と言っていた。私はベッドに戻り仰向けに寝たので、枕が血管を押さえた為、流れる血が速すぎるということもなく、けれども脳内にとどまることもなかったため、脳水腫もなく手術が不要だったのだ。ベッドに横たわらず、四階の床に寝転んでいれば、血流は非常に速くなり、低体温となり死んでいただろう。しかも、私は五階から四階に転げ落ち、後頭部を打ち付けたのに脳震盪を起こさなかったのも、実に不可思議だ。意識を失っていた私はあんなにもたくさんの血を流し、身体にはたくさんの青あざがあった。それなのに、どうして五階のベッドに戻って眠る力があったのだろうか?しかも私はとても安定した状態で眠っていたのだ。布団もしっかり掛け、『非時而死(不慮の事故で寿命が尽きる前に死ぬ)』もなかった。これはリンチェンドルジェ・リンポチェの大威徳力、慈悲なる救護がなかったなら、私は絕対に生きながらえることはできなかっただろう。私と家人はリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる加持に感謝申し上げたい。

数日後にある兄弟子が彼女の父の状況について語った。兄弟子は淚を流しながら、自分の父は私と同じように転げ落ち、自分で救急車に乗ることができたが、翌日には脳出血で亡くなったということだった。けれども、私は普通の小さな傷として処置し、しかもこのように転ぶことが命を失う危険があるなど全く知らなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが仰せになるように、弟子は『非時而死』しないのだ。先週息子が私に『職人の親方が、昨年7月職人がアパート屋上の断熱タイルを整理した時、断熱タイルの下に百匹を超えるゴキブリがいた。殺されずに生き残ったものも、追い出されたと言っていた』といった。私は自分はこの業力を受けたものと思う。

事態発生後の翌日曜日、上師供養法会の前に、抗生物質か消炎剤をたくさん呑みすぎたためか、私はひたすら吐き気を覚え、強い脱力感を感じた。私は、自分は死んでしまいそうだ、と感じ、上師に再び供養申し上げる機会はないかもしれないと思っていた。ところが、上師供養法会が終了すると、私の身体は直ちに回復し、虚脱感も無くなってしまった。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。もし上師がおられなければ、私の魂はどこかに行ってしまっていただろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェの救いを頂戴した二人目は義理の兄(夫の兄)だ。2005年義兄は退職金で海鮮店を買ったが、一文無しになってしまった。一家は離散し、賃貸家屋内で転び、頚椎の第二節を傷つけてしまった。手術室に運び込まれたが、ヘモグロビンの値が低すぎるため、手術ができなかった。当時医者は90%の確率で植物状態になると判断していた。私と夫は義兄を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁し助けてくださるようお願いしようと考えたが、医者は私に誓約書に署名しなければ退院させないというのだ。義兄が傷を負った頚椎は気管からわずか0.2センチしか離れておらず、随時窒息死する可能性があった。リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁賜った時、リンチェンドルジェ・リンポチェは『死を恐れなければそれで良い』と仰せになった。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を頂戴した後の義兄は、一週間で退院でき、今に至るも何の問題もない。

リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲心は陽光のように大地を広く照らしてくださる。これにより、我々は自分の問題を見極めることができ、同時にあらゆる人の心を温かくケアしてくださる。リンチェンドルジェ・リンポチェは『受人点滴,湧泉以報』としばしば開示くださる。リンチェンドルジェ・リンポチェの私に対する救命の恩に、私はどうやって報いたら良いのか?私はただ努力して学仏し、言いつけに従い師恩に報いるだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達に毎晚、寝る前に『人身難得、仏法難聞、上師難遇(人身は有り難く、仏法は聞き難く、上師は遭い難い)』を思うように仰せだ。また『人生無常,諸受是苦』と開示くださる。私はみなに呼びかけたい。どんな逆境に出会おうとも、リンチェンドルジェ・リンポチェに従い学仏する心が揺らいではならない。

私は下書きを、出家して数十年になるかつての同級生に送って見てもらった。同級生は読んだ後、不可思議に思ったと言い、リンチェンドルジェ・リンポチェにしっかり従い学仏しなければこの生を無駄にしてしまう、と言ってくれた。ここで私はヘアサロンのサービスに感謝したい。転んだ後血がべったりついていた私の頭を、嫌がらずに洗髪してくれた。そのおかげで、私は清潔になって日本への旅に出ることができたのだ。最後に私は再び、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに衷心から感謝申し上げたい」と述べた。

続けて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの指示の下、出家弟子が参会者と寶吉祥の弟子を率い、六字大明咒を持誦した。

« 昔の法会開示法会開示へ戻る新しい法会開示 »

2016 年 03 月 07 日 更新