尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年6月7日

法会の開始に先立ち、三人の出家弟子が前に出て語った。一人目の出家弟子は、先週往生したある信衆の状況について『これまで目にしたものとは、非常に大きな違いがあった。最も大きな福報は良い死を迎えることだ、良い死を迎えられるのが、最も大きな福報だ、と古人は言った。だが、そうは言っても、良い死を迎えた人をこれまで何人もは見たことがなかったが、先週その信衆が往生した情況に私は非常に感動した。感動のあまり泣きたくなり、その信衆に合掌した。リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲平等の心で衆生に利益なさることに、もちろんより大きな感動を覚えた。これは仏法の真実の効果だ。

以前私は一人の兄弟子の母のために念誦したことがあった。病院側が、患者は48時間以内に往生するといったので、病院からうちに戻った後、兄弟子の母のために、私たちはひたすら念誦した。病人は意識を失い大きな口を開けて喘いでいたが、彼らは勝手な主張をして、病人にマッサージを施し意識を戻そうとした。私はマッサージしながらとても恐ろしく、病人は死に行こうとしているのに、このようにマッサージして、どうなってしまうのかと不安だった。朝から晚までマッサージしたが、病人はやはり目覚めなかったので、彼らは諦めた。諦めた後も、私はやはり恐ろしく、眠れないほどだった。翌日、ほんとうに48時間後に兄弟子の母は他界した。しかも、事切れる瞬間に大きく口を開けて息を吸い、口を大きく開けたままだった。家人は『食事だよ』と言ったが、死者の口は大きく開いたままだった。

兄弟子は出家衆だったので、母親が良くないところに堕ちたと知っていたため、怖がって遺体に触ろうとしなかった。夜になって着替えさせる時に恐る恐る触ったところ、死者の腹が熱かったので、母親は餓鬼道に堕ちたことが分かった。亡者は出家者の母なのに、やはりこのように往生したのだ。その兄弟子はひたすら『地蔵経』を唱えていたが、少しも役に立たなかった。後にその兄弟子は南伝で非常に真誠な供養を行い、南伝の師父に供養の功徳について尋ね、ようやく納得したということだった。だが、その兄弟子の母は超度を得られなかったのだ。これは非常に大きい疑問だ。

先週亡くなったその信衆は苦しそうに喘ぐこともなく、非常に穏やかに他界し、ほんとうに非常に殊勝なことだった。我々はその信衆のようにリンチェンドルジェ・リンポチェの座下で穏やかに往生することを発願しなければならない。これこそが我々のこの一生の目的であり、我々がリンチェンドルジェ・リンポチェに従う唯一の目標だ。このように往生したい、これは私の目標だ。寿命の長い短いは重要ではない。このように静かに穏やかに往生でき、しかもリンチェンドルジェ・リンポチェに施身法を修めていただけるとは、ほんとうにこのうえもなく殊勝だ。数人の出家衆がその信衆の梵穴に触れたが、梵穴は熱かった。熱くなっている往生者の梵穴に触れたのは、これが初めてだったので、ことさら殊勝に思い、非常に感動した。帰宅後は母に『私たちも必ずこうなるよう発願しなくちゃ!』と言い続けた。

続けて、二人目の出家弟子が語った。「先週往生した信衆の情況は、私がかつて目にしたものとは、ほんとうに大きく違っていた。以前私は寺院にいた。それは100人余りもいるような大寺院で、非常にたくさんのベテランの師父もおられ、たくさんの人が往生していた。私は至るところで『修行者さま、寺院でこんなにもたくさんの人が往生しているのを見て来られていると思いますが、瑞相がある良い往生があったでしょうか?』と尋ねていた。けれども、返って来た答えは、一つもない、というもので、出家して数十年になる男性師父でさえ、一つもない、ということだった。それを聞き、私はほんとうにがっかりし、この寺院での修行では力が得られないと思った。そのため、男性信衆が持戒する道場へ行ったことがある人、持戒が非常に厳格な師父に教えを請いに行った。『出家してこんなに長くなりますが、往生時に瑞相が現れたのは何人いましたか?』と尋ねたところ、答えはなんと、いなかった、だったのだ。非常に多くが往生前に障礙が出現したと言うことだった。

その信衆のように穏やかに往生するのはほんとうに難しいと強調したい。簡単なことだなどと思ってはならない。出家して数十年になる人が一生懸命に修行しているのは、往生のその一瞬のためなのだ。それなのに、その目的を遂げられる人はいない。なぜならほんとうに難しいからだ。先週往生したそのお爺さんは、二度しか法会に参加しておらず、皈依もせず、修行もせず、供養もしていなかったのに、こんなに穏やかに往生できたのは、なぜなのか?それは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに分別心がないからだ。このような加持力に加え、その人の因縁が備わっており、ちょうどよかったので、時が至って往生したのだ。特に大きい心残りもなかったため、上師の願力に乗って他界したのだ。これは非常に有難いことだ。私はこれまでたくさんの出家衆に会い、たくさんの出家衆に尋ねてきたが、一人としてできていない。それなのに、その信衆は二度しか法会に来ていないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、その信衆が行けるのは信心が十分だからだ、と開示くださった。これはほんとうに重要だ。この信衆は二度しか来ておらず、一生修行した人のように、たくさんの福報を累積していたのではない。それにたとえ、努力して修行しても、大多数はやはり為せないのだ。だが、この信衆はたった一つの条件—十分な信心を備えていたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて『菩薩行には十の条件を備えていなければならない。第一は信心が十分であることだ』と開示くださった。十分な信心は、我々にとって最も足りないものだ。みな皈依し、こんなにもたくさん福報を累積していながら、できていない。その最大の原因こそ信心が不十分なのだ。できているだろうか、としばしば自問自答しなければならない。これこそ普段行わなければならないことだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示くださった。釈迦牟尼仏はかつて弟子に、釈迦牟尼仏の浄土は、つまり我々の娑婆世界だと仰せになった。だが、どうして我々が目にするのはこのようなのか?なぜなら我々の信力が足りないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは『心浄則国土浄』と開示くださった。我々の信心が十分なら、目にできるのだ。だが今は無理だ。実は学仏の基本は、信心の問題なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなにもたくさん開示くださるのに、我々は全くできていない。それはすべて信心の問題だ。自分ができないのは最も大きな問題だと思っている。よってみな、この問題をしっかり考えなければならない。毎日こんなに努力しても、信心がないなら、全くの無駄になってしまう。

リンチェンドルジェ・リンポチェはみなにすべて平等にお与えくださる。その信衆の往生の状況から仏法を示現することができる。その信衆は皈依しておらず、修行もしていなかったのに、リンチェンドルジェ・リンポチェの超度を受けることができたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはほんとうに分別がなく、平等であられる。リンチェンドルジェ・リンポチェは平等心でお与えくださるが、一人一人が受け取るものはみな違う。これこそ我々自身の問題だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは修法時には非常に清浄な心であられるので、その際の道場は正に浄土なのだ。我々は『信心』を思維しなければならない。これは非常に重要だ。我々には他人に利益する十分な能力はまだない。では、先ず自分に利益しよう。つまり自分の生死の問題を解決しようではないか。それ以外、我々に何ができるだろうか?私もそのうちの一人だ。みなと共に頑張りたいと思う」と述べた。

最後に三人目の出家弟子が、先週亡者の梵穴に触れ、仏法の殊勝を深く体感したたことに感謝した。「その時梵穴は非常に熱かった。私は左手で自分の梵穴に触れ、右手で亡者の梵穴に触れたが、亡者の梵穴の温度は自分のものより遥かに高かった。これにより、リンチェンドルジェ・リンポチェの修法がどんなに殊勝であるか、亡者がほんとうに超度を得られたことが分かった。リンチェンドルジェ・リンポチェは『超度はそんなに簡単ではない。読経し、仏号を唱えればそれで良いというものではない。修法者の福報、功徳等、累世での修行で、必ず証量を得た後でなければ、亡者を救う福報はない。亡者自身の福報も非常に重要だ』としばしば開示くださる。リンチェンドルジェ・リンポチェが先週開示くださったように、なぜたくさん人がこんなにも違うのか?どうしてその信衆は穏やかに他界できたのか?

先週私たちが行った時、その信衆は頭を低くしており、眠っているようだった。言われなければ、側を通るだけなら、往生しているとはほんとうに分からないほど、眠っているのと全く変わらなかった。これこそリンチェンドルジェ・リンポチェがしばしば開示くださるの善逝だ。この人の心には少しの恐怖もないのだ。先ほど他の出家衆弟子が語ったように、リンチェンドルジェ・リンポチェは、その信衆は信心があったからだと開示くださった。しかも私は、リンチェンドルジェ・リンポチェがしばしば開示くださるように、恭敬心を備えることも必要だと思う。上師に対して恭敬心があるなら、信心は自然に備わるものだ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに依止する前、私は非常に多くの助念、仏事を行っていた。ある時、私たちが行くと、どんな病気だったのか、往生者の身体は下の方からまだ血がポトポト滴っていた。私たちは家族に付き添って往生者の着替えをさせたが、往生者の身体は硬直し、衣服を着せることができないほどだった。蒸しタオルで少し温めた後、ようやく着替えさせることができたが、やはり血は滴り続けていた。

着替えが終わり横たわらせ、私たちは助念を始めた。だが、その人の様子は、先週の信衆のように穏やかではなかった。それは、念誦している人の心がまだ清浄でなく、リンチェンドルジェ・リンポチェのような定力、殊勝なる功徳力を修められていないため、往生者に対する助念の救いが大きくはないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが発せられる修行と悲願のエネルギーと磁場は、往生者を真に離苦させることができるが、それには遠く及ばない。

またある時、私は別の亡者の助念に出かけた。その時亡者の口はまだ開いており、目さえわずかに閉じられていなかった。助念の終了後にゆっくりと目を閉じる亡者もいるが、口がその信衆のように閉じるということはない。助念の過程で口がゆっくりと閉じる人もいるが、一人一人の状況は皆違う。リンチェンドルジェ・リンポチェが開示くださったように、修行の過程において、自分自身がこの証量まで至っていないなら、亡者に与えられる福報も功徳力もないのだ。

彼女はみなに呼びかけたい。我々は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに依止し仏法を学んでいる。これはほんとうに有難いことなのだ。しっかり言いつけに従い、仏法を学ばなければ、その信衆のように因縁を得て、最も重要な時に、上師と仏菩薩の救いを得ることはできない。そうでなければ、我々はこの一世で輪廻苦海を解脱することはできないのだ。私は、先週その信衆の梵穴に触れた経験をみなに話す機会が頂戴できたことに感謝申し上げたい。ほんとうにとても熱かったのだ。これは普通の人が為せる超度の方法では絶対にない。リンチェンドルジェ・リンポチェが開示くださったように、その信衆の福報はほんとうにとてつもなく大きいのだ。これには因縁がなければならない。念誦すればそれでいいというものではなく、福報がなくても、時間がぴったりでなくとも、行けないのだ。その時、私たちはこれが自分ならどんなに良いか、と考えていたが、福報、因縁がまだ至っていないので、まだまだ努力し、もっと懺悔し、リンチェンドルジェ・リンポチェにしっかり依止しなければならないと思う。みなも、この一世で累世の悪業をしっかり懺悔し、リンチェンドルジェ・リンポチェに従い浄土へ行けるよう、さらに努力ししっかり修行することを願う」と述べた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、長寿仏灌頂法会を御自ら主持くださった。修法前には参会者に貴重な仏法の開示を下された。

「今日はみなのために長寿仏灌頂を修める。顕教には長寿仏の本尊はない。それは顕教が浄土宗、阿彌陀仏を修めるからだ。みな『彌陀賛』を唱えたことがあるだろう。それには、阿彌陀仏の化身がお迎えに来られる、とある。つまり、菩薩道を修めれば、報身仏によるお迎えが必要なのだ。これは経典が仰せだ。金剛乗は菩薩道の修行法門だ。長寿仏は阿彌陀仏の報身仏だ。先ごろ尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに『チベットで長寿仏を修めるとなれば、人はすぐに一杯になるが、台湾では財神法を修めれば、たくさんの人が集まる』とユーモアを交えてお話になった。民族性が異なるのだ。

なぜ長寿仏を修めるのか?それは我々が生生世世で為した悪業が、この一生の寿を減らすからだ。修行には時間が必要だ。いわゆる時間とはいくつの世だという意味ではない。福報因縁を累積する十分な時間があるかどうかなのだ。アキ護法は非常に慈悲深く、しばしば道場で仏法の殊勝を示現くださる。先ほど出家弟子達が語った往生した信衆のようにだ。この信衆は皈依しておらず、修行のなんたるかも知らず、身体に問題がありできなかったので礼仏もしていなかった。しかも、この信衆の息子は罰せられ、すでに5年もの間出入り禁止だったのだ。この息子が道場に出入り禁止になったのは、ビルの総幹事を務めたことに端を発する。以前道場では、彼をビルの総幹事に任命していた。つまり、彼に仕事を与えていたのだ。その頃ビルの主任委員は道場のある弟子だった。この弟子は自分の仕事の利便のために、適当に安請け合いし、総幹事に処理させていた。当時彼は総幹事を務めていたため、主任委員である弟子は自分の雇用主だと考えたのだ。その結果、道場で起きるべきでない事が発生した。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの二人の弟子を出入り禁止としたのだ。

これは小さな事だと思うだろうか。そんなに深刻な事なのか?と思っているだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェは守戒する。道場は一切の衆生に供養する場所だ。ほんの少しであっても、乱用があってはならない。道場に害を及ぼす事は一切してはならないのだ。常住を占有してはならないという戒がある。この戒は仏寺を指すものではあるが、寶吉祥仏法センターはすべての弟子が護持しているのだ。道場の不動産も、リンチェンドルジェ・リンポチェ名義ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェも資金を出したし、リンチェンドルジェ・リンポチェが購入の手続きをしたので、リンチェンドルジェ・リンポチェの名義とすることもできた。しかも、当時の市価より一坪あたり十万元安く買えたのだが、リンチェンドルジェ・リンポチェは高く言ったりしなかった。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが因果を信じているので、こんなことで内部の金を稼ごうとは思わなかったからだ。

この二人の弟子は道場を保護せず、道場に損失を生じさせ、守戒しなかった。それなのに道場に来て何をするのか?その信衆の嫁も出入り禁止だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に多くのことを学ばせる。彼女は当時ドマ組にいたが、勝手に募金を集めてドマ組の基金としたのだ。寶吉祥仏法センターは、この種の事を許さない。弟子間の金銭の貸し借りもダメだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれを知り、彼らを出て行かせた。弟子が金に困っているなら、リンチェンドルジェ・リンポチェに言いに来れば良い。理屈にかなっているなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは助けるだろう。金銭のやりとりがあれば、トラブルが生まれる。

寶吉祥仏法センターは1997年から今まで、深刻なトラブルが一度も発生していない。それは上師が戒律によりこの道場を束ねているからだ。その弟子は基金を募集した。その金をどこに用いようとも、法律的に言えば図利だ。ある会社で、ある従業員がある事を担当していたとする。ところが、その人は他の従業員に基金が必要だといい、そしてその基金は自分が管理する。会社がそれを知ればどうするだろうか?必ず首にするだろう。世間法で過ちを犯す人は、仏法においても過ちを犯す。仏法において改められないなら、世間事でも同じように過つ。

そのため、夫婦二人とも出入り禁止だ。その父は往生前にリンチェンドルジェ・リンポチェに二度会ったことがあり、二度法会に参加したことがあった。父親は何を修めたのか?簡単だ。つまり信、願、行だ。この二人の弟子は五年間罰を受けていたが、父に対して上師は素晴らしい、必ず助けてくれるといい続けていたのだろう。どうして今日はこの二人の弟子を入場させたのか?それは彼らの父が往生したので憐れんだからではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、いつ変われるかと、五年間彼らを試していたのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが人を出て行かせるのは怒っているからだ、と思っているだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェがどうして怒るだろうか?菩薩は種々の法門で度衆くださる。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達の欲望に従って進んだりしない。あなた達の欲望が多ければ多いほど、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達を罰する。昨日、皈依して四年余りになる弟子が、突然リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来て、自分の仕事に問題はないだろうかと尋ねたので、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに出て行かせた。

五年余りの間、この二人の弟子はひたすら父に上師を賛歎していたのだ。皈依の際、上師の功徳を賛歎しなければならないと教える。上師はあなた達の賛歎を必要としているのではなく、仏菩薩があなた達の賛歎を必要としているのでもなく、賛歎とはつまり供養だからだ。供養がなければ福報、因縁もないのだ。だが、たくさんの人がうちに帰って言わない。おかしなことに、他の宗教は毎日言っても良いし、毎日念じても良い。他人に罵られたり、追われたりと恐れる必要はない。どうしてあなた達は何から何まで求めるのに、死んでも面子を守ろうとするのか?盲信していると言われることを恐れ、家人に対してさえ言わない。盲信せよと、リンチェンドルジェ・リンポチェが教えたと言うのか?

ひたすら言い続けなければ、老人は聞き入れない、ということが、この件から分かる。他人が怒るのではと恐れ、ほとんど言わず、毎日念じることもしない。みな、家庭の平和を願い、学仏は自分の事だと考えている。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏教界の現象を目にし、とても辛く感じることがある。外道ができるのに、なぜ我々学仏人にはできないのか?誰かに何かを言われれば、すぐに萎縮してしまう!学仏は悪事を働くように教えているのではない!現在台湾仏教界は虐げられている。これはすべてあなた達が作り出したのだ。人と争ってはならない、と仏は教導くださるが、仏法を学び、自分のライフスタイルを変える時、人に知られてはならない、とは仏は仰せではない。

密法は公開できないが、顕教は公開できるのだ。バスケットボールをする際には、シュートを決めても主に感謝するのだ。あなた達は金儲けができても、菩薩、リンポチェに感謝せず、自分の力だと思っている。別の宗教はどんどん盛んになっている。仏法はたくさんの信衆がいるようだが、真に信じている者は十指で十分だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは超度のスペシャリストだ。每月何人かの亡者を超度させている。だが、弟子を含めて、座って他界できる者は数人もいない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは信願行を修めるのだ。信がなければ、当然願を発することはできない。願がなければ行為も当然改められない。欲望によって学仏しているなら、どんな欲望であろうと、絕対に願はない。自分が度衆できるよう望むことも欲望だ。菩薩が自分は度衆していると思うなら、それは菩薩ではない、と『金剛経』にははっきりある。1300人がおり、リンチェンドルジェ・リンポチェは同時に修法していても、リンチェンドルジェ・リンポチェに平等な慈悲心がないなら、その信衆はどうして超度を得ることができただろうか?彼は申し込んだ時、リンチェンドルジェ・リンポチェに、自分は死にます、とは言わなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェに、自分に気をつけてくれ、とも言わず、リンチェンドルジェ・リンポチェに、自分を特別に知ってくれ、とも言わなかった。これこそ菩薩が平等心を備えているからなのだ。

修行人が、自分が仏法を学んでいるのは度衆のためだ、と思うなら、それは菩薩道修行ではない。振り返っても、阿羅漢道修行ではない。ではどうしたらいいのか?その日は仏法が示現された。修行人にとって最も大切なのは、往生時に死の苦痛がないことだ。あなた達は山のように念じ、山のように拝んでいるのに、なぜ力が得られないのか?それは、あなた達が福報を修め、功徳を修めていないからだ。福報を修めるとはどういうことだろうか?それは、楽に日々を過ごしたい、あれも欲しいこれも欲しいと思うことだ!」と仰せになった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、親子二代に渡ってカソリックを信仰していたが、後に仏法に改宗した医者である弟子に「医者になってどれだけになるか」とお尋ねになった。医者である弟子は「すでに35、36年になります」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは医者である弟子に「車椅子に座ったまま、落ちることもなく死んだ人を見たことがあるか?」とお尋ねになった。医者である弟子は「ありません。医学の常識から言って、事切れた後、人は座っていられません。それは、息を引き取れば神経が緩んでしまい、筋肉、骨格も緩んでしまった後、ゆっくりと硬直していくからです。よって他界した時、人はすべてだらんとしているのです」とお答え申し上げた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは継続して開示くださった。「信、願、行の人は往生時に座っていられる。それは仏法では定だからだという。心全体が上師が講じる一つ一つの言葉、咒語に定まっており、妄念がないということだ。先ほどリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上る前に、ガムポパ大師の著作を恭読申し上げた。その中には『心が識を離れて修めます』とある。これこそリンチェンドルジェ・リンポチェがかつて開示したものだ。我々は毎日意識を用いて物事を行っており、何が心か、何が意識か、すでに区別できなくなっている。だが、これこそ学仏のキーポイントだ。その信衆は当時意識全体がすでに動かなくなっており、心で仏法を聞いていた。そのため、時が至って息絶えても、定境の内にいたのだ。

あなた達ならどうだろうか。動かない方がおかしい。身体が動かなくとも、あっという間に口が動き、目を細め、髮をかき上げ、つまり心ここにあらずとなるだろう。心ここにあらずなら、どんなに修行しても役には立たない。リンチェンドルジェ・リンポチェがそれでもやはり修法するのは、リンポチェとして、修法しなければあなた達を助けていないようだからだ。長寿仏は阿彌陀仏の報身仏であられる。一生で長寿仏の灌頂が得られれば、この一生で修行がうまくいかなくとも、発願せず信心がなくとも、未来世では阿彌陀仏のお側へ行くことができる。

長寿仏の法本は釈迦牟尼仏の口伝ではない。マジジュベジェモ仏母が口伝くださった岩伝法だ。顕教では仏母に触れないが、密宗では触れる。仏母とは上師の妻ではなく、仏の妻でもない。仏母は、女性信衆の身を現されるが、誰かの妻ではない。万が一にも誤解しないでほしい。以前ある密宗を修めていた人が往生後、その人の妻を仏母と呼ぶ人がいたが、これは間違っている。

仏母とは一種の便宜上の言い方で、慈悲、智慧を表す。みなも知っておろう。我々に対する母の愛には条件がない。そうではない母もいるかもしれないが、普通は、妊娠した時から、子供に対する母の心はありとあらゆることに及ぶ。よって、密宗の方便法では、女性は慈悲を表すのだ。女性を用いるので、我々に対する母の恩徳を持ち出し易く、我々に対する衆生の恩徳を感じ易いのだ。あらゆる衆生は我々に対して恩がある。母の我々に対する愛と同じ関心を100%尽くすことはできなくとも、少なくとも少しはできるだろう。

密宗で仏母を方便の代表とするのは、我々の分別心を砕くためなのだ。女性信衆は修行がうまくいかない、男性信衆でなければうまく修行できない、などと分別してはならない。長寿仏の重点は、我々が生生世世で為した悪業は、寿を損害してしまい、散じてしまい、破壊してしまい、捻じ曲げてしまい、裂いてしまい、破いてしまい、魔鬼に盗ませてしまうということだ。魔鬼はいかにして我々の寿を盗むのか?喫煙し、肉食し、ニンニクを好んで食し、一日中嘘ばかり吐いている人の寿は魔鬼に盗まれてしまう。この種の人は拝まない方が良い。神社か廟で拝んだことがあり、祈願したことがあり、先ほど挙げた過ちを犯せば、助けてくれた時に寿を持ち去ってしまうだろう。なぜ訳も分からずあなたを助けるのか?あなたが何も求めず、恭敬であるだけなら、あなたのものを持ち去ったりはしない。盗まれてしまうのは、あなたの心が魔鬼と同じで貪欲だからだ。

寿は人の福報の一部分だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが今日長寿仏を修めるのは、あなた達の寿命を延ばすためではない。ポイントはこのいくつかだ。あなたの寿が散じ、破れ、ねじ曲がれば、不慮の事故が起きる。あなたの寿が魔鬼に盗まれてしまっても、不慮の事故が起きる。不慮の事故には当然前因があるのだ。人類は欲深く、絶えず地球を破壊するため、近頃地震や火山の爆発が頻発している。天災、事故も絶えない。船が一隻沈み400人余りもの人が亡くなり、ガソリンスタンドが爆発して100余りもの人が亡くなった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた達がこの一生でどれだけ行善するか、あなた達が過去世でどれだけ行善したかを保証する勇気はない。だが、あなた達は学仏しようと思っただけで、他人よりは良い。学仏しようと思ったのだから、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達がこの一生で非業の死を遂げないよう願う。非業の死、とは死ぬべきでないのに死ぬことだ。寿命がまだ尽きていないのに死ぬことだ。薬の飲み間違い、故もなく道で人に殴られる等も含む。末法時代の今は鬼衆が非常に多いので、あなたが貪念、嗔恨の心を起こしさえすれば、鬼魔は付け込んでくる。だが、あなた達は絕対に見ることはできない。目に見える鬼の98%以上はすべて幻想だ。鬼は非常に軽い煙のようなもので、目には見えず、線香の煙よりも軽く、ほとんど何も感じられない、と経典ではいう。

寿が損なわれ、破れ等すると、地風水火が減少する。我々の身体は母の血と父の精とが結合し地風水火を生み出したものだ。経典では、地風水火の四つが不調なら、病を生じるという。どうして不調になるのか?生まれた時、本来この四つはバランスが取れていた。パーセンテージは同じだったのだ。バランスが崩れるのは、あなたが為すことのためだ。例えば、貪心が重い人は水が減少する。貪心の範囲は非常に広いが、水が少なくなると、人は訳も分からず痩せ、カラカラに乾いてしまう。地が大きく損耗するのは、動物を虐待し、人を殴るなど悪事を為す人だ。損耗すれば、転び易くなり骨折し、身体が炎症を起こし易く、過敏となる。これは殺生、肉食から来るものだ。

火が大きいのは、一日中癇癪を起こし、嘘つき、ホラ吹きの人だ。だからこそ我々は不綺語の戒を守らなければならないのだ。不綺語とは、仏法と関係がないことを言わないことで、すべての出家者が守らなければならない戒だ。出家者が仏法と関係がない事を言えば、それは不綺語の戒を破ったことになる。不綺語とは、卑猥な笑い話をしたり、他人の欲望を掻き立てたりしないことだと思っている人が多い。これは一般の凡夫俗子に対してだけだ。あなたが、自分は修行をしたいと言ったなら、一切の事情は必ず仏法と関係があるものでなければならず、つまりあなたが言う事により、相手が仏法を体感できないなら、それはすべて綺語の範囲に含まれる。そのため、綺語が多い人の火はゆっくりと少なくなり、とても速く老け込む。喫煙する人も老けるのが速い。それは火が消えてしまうからだ。火が減った人は、痰が非常に多いなど呼吸器に不調を生じやすい。痰が多ければ、肺は纖維化する」と仰せになった。その場で、医者である弟子が「確かにリンチェンドルジェ・リンポチェの仰せの通りです。纖維化すると呼吸がうまくいかなくなり、心臓に影響を及ぼし、全身の酸素が不十分になり、臓器が衰えます。この種の人も老けるのが速く、美容に力を入れても役には立ちません」とお答え申し上げた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは継続して開示くださった。「人はほんとうに奇妙だ。どうしても信じない。リンチェンドルジェ・リンポチェは最近ある文献を読んだ。その中にはタバコを一本吸うと、少なくとも寿命が6分縮むとあった。家族にもっとタバコを吸わせるがよい!風大が減少すれば、漢方の考え方から言えば、身体内のすべての機能が動かなくなってしまう。西洋医学では肺と呼吸を主とするが、漢方では気を主とする。機器で検知できないので、西洋医学は気の存在を認めず、呼吸を用いる。呼吸とはつまり肺と気管による反応だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは春節の際に、今年は呼吸系統と肺の病気が流行すると開示したが、ほんとうにそうなった。台湾では最近、呼吸器系に問題がある人が非常に多い。リンチェンドルジェ・リンポチェは、アイスクリームを食べてはならない、と勧めているが、自分は大丈夫だと思い、みな聞かない。すぐに死んでしまうなら、まだよい。最も恐ろしいのは、ゆっくりと死ぬことだ。それは非常に苦しいのだ。誰も信じない。ほんとうに病気になったら医者にかかり治せばよいと思っている。だが、ほんとうに病気になり医者にかかった時には、すでに手遅れだ」と仰せになった。医者である弟子は「ほんとうにその通りです。緩慢な症状はしばしば自覚できないものです。例えば、チベットまで歩けば何も感じないかもしれませんが、飛行機で一気に上ればとても息が苦しくなります。慢性病はゆっくり進行するため何も症状がないようですが、臨界点に至ると多くの臓器が衰えるので、手遅れになるのです」とお答え申し上げた。

「リンチェンドルジェ・リンポチェは今日は長寿仏を修め、あなた達の寿、福、財、命、身、権、気の損耗を先ずは停止する。だが当然条件がある。あなた達がやはり守戒せず、肉食し、喫煙し、人を騙し、自分の心を放任するのではダメだ。精神に問題を抱えている人が、台湾にこんなにも多いのは、自分の心を放任するからだ。やっても、思っても、誰も分からないと思っている。自分の思考を変えないなら、今日の修法は結縁に過ぎない。さらに、今日あなた達に長寿仏を修めるのは六道衆生が一生において修行する十分の時間が持て、生死を解脱できるよう願うからだ。いわゆる十分の時間とは、50、60年というのではない。これは簡単に言えるものではない。その年長の信衆は二度の法会で十分だった。だが、あなた達は2000回でもダメだろう。なぜか?それは『不信』だからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは前回『寶積経』を特別に開示したが、『寶積経』では菩薩がいかにして成就を得たかを説く。第一に信成就だ。仏と上師が教える一切は、言いつけに従い行いさえすれば、必ず成就が得られると信じるのだ。自分はすぐに修め、度衆ができると考えることではない。菩薩が自分は度衆していると思うなら、それは菩薩ではないと『金剛経』ではひたすらいうが、誰も聞き入れない。仏は我々に発願して衆生を超度させよとお教えになるのではないですか?という人がいるだろう。いわゆる『上学仏法,下度衆生』だ。だが、この言葉は空性まで証した行者でなければ口にすることはできないのだ。空性とは一切が縁生縁滅であると理解することだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが1300人の中の一人の信衆を超度させられるのは、空性のためだ。自ら進んで修法しているのではなく、衆生の『有求必応(求めに応じる)』だけなのだ。

どうして諸仏菩薩は『有求必応』でなければならないのか。あなた達の欲望に応じているのではない。生死解脱の大事に応じているのだ。あなた達がこの方法を用いて求めれば、必ず相応できる。リンチェンドルジェ・リンポチェがみなのために修法するのも、正にこのためだ。こうでなければ『有求必応』ではない。金がないので観音菩薩に息子の結婚披露宴が開けるよう金を儲けさせてくださいと求める、男があなたの言うことを聞くようにさせる、別れた男に借りを返させる、というのではない。これらは相応しない。なぜなら欲望だからだ。

修行人はどうして良くなるのか?いわゆる『良くなる』と言っても、あなた達が思っているようなものではない。修行人は一切の悪を停止したので、少しの善を行っても、あなた達が100件の善を行うより有用なのだ。なぜなら修行人には悪の力がないからだ。あなた達はどうだ?昨日来た弟子は、仕事のストレスが強い、と訴えたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは、誰が給料をもらっているのか?と聞くと、自分がもらっているという。そうなら、リンチェンドルジェ・リンポチェに関係があるだろうか?ストレスが強いと思うなら、仕事を辞めればいいのだ。誰もが欲望を用いて仏法を見ている。その弟子が仕事において問題が生じているのは、決して一朝一夕の事ではないはずだ。だが、誰も聞き入れようとしない。

必ず仏法に対して信心を持たなければならない。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは功徳主を設けないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェもかつては顕教を学んでいたので、このやり方は知っている。当時は師父に従いこの目でしっかり見ていた。また師父に『なぜ大功徳主は前の方に座り、功徳主でない人は後の方に座るのですか?』と尋ねたこともある。得られた答えは『菩薩が大功徳主をはっきりご覧になれるようにだ』というものだった。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェはその師父に従わないことを決めたのだ。もし本当にそうなら、金がない人はどうなるのだ?真実はこうではないが、人はこの種の事に簡単に汚染されてしまう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは在家の修行人として、尊勝なる直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェを弟子として受け入れくださったばかりの頃、リンチェンドルジェ・リンポチェはすでにしっかり決定していた。それは、弟子でない者の供養をこの一生で受け取らない、というものだった。もちろん、結縁させてやる何人かの人は例外だが、そうであってもリンチェンドルジェ・リンポチェが受け取るのは1000元や100元に過ぎない。どうして弟子でない者の供養を受け取らないのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが自分に分別心が起こるのを恐れるからだ。修行はこうでなければ修められない。自分にはどんな根器がある、と考えるのではなく、自分に対して謙虚でなければ、過ちを犯してしまう。思い上がっていれば、修行中に必ず問題が起き、修行すればするほど傲慢になっていくだろう。

男性信衆の方が女性信衆より優れている、などと思ってはならない。仏が定められた戒律では、女性信衆は男性信衆に対して必ず頂礼合掌しなければならない、とあるが、これは儀軌に過ぎない。男性信衆の方が女性信衆よりうまく修行ができるということではないのだ。アキ護法は女性であられ、マジラ尊も女性であられ、今日修める本尊さえも女性信衆であられる。だが、誤解しないでほしい。女性信衆は必ずうまく修行ができるというわけではない。性別で不平等が生じることがないよう、釈迦牟尼仏は心理的なバランスをお求めになる。釈迦牟尼仏は非常に先進的なのだ。釈迦牟尼仏は時代遅れだ、時代に合わないなどと二度と言ってはならない。数千年前に仏はすでにこの考えを提唱されていたのだ。経典には、ある弟子が女性信衆が菩薩になったのを見下し、それを仏がわざわざ口に出された、とある。

男であろうと女であろうと、仏法ではすべて一種の因縁だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日特別にみなのために修法する。危機がこんなにも多い末法時代なのだ。みなこの法を大切にしなければならない。だが『法を得れば無敵だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが長寿が得られると言ったので』などと思ってはならない。長寿を得てもそれを修行に用いないなら、別の苦痛が出現するだろう。絕対に生死を離れると発心せず、ある欲望のために学仏しに来ているなら、今日の修法はあなたにとって役には立たないだろう」と仰せになった。

続けて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは長寿仏灌頂儀軌の修持を始められた。修法過程では出家弟子が衆生を代表して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにマンダを捧げて請法を行った。修法が一段落した後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法本の内容について開示くださり、灌頂を領受する際の観想方法と利益について教導くださり、三昧耶戒を授予後に開示を続けて下された。

「先ほど唱えたのは三昧耶戒だ。みな修行を続けなくとも構わない。だがリンチェンドルジェ・リンポチェは自分は騙されたと感じている。あなた達を率いて『生生世世為弟子』を唱えるべきではなかった。いわゆる三昧耶戒とは懲罰ではない。三昧耶戒を守らなければ、つまり身口意を上師に供養しないなら、この一生で成就を得ることはできない。生生世世でこの上師の弟子であることはできない。密宗の三昧耶はあまりにも深刻だ、何故こうなのか分からない、という人がいる。三昧耶戒の重点は我々が成仏するまでは上師の加持と救いが必要だということだ。上師は非常に多種に分けられるが、結論から言うと、口伝と仏法教導の上師が最も重要だ。なぜなら我々には仏の教導を得る福徳因縁がないからだ。本尊も非常に重要だが、あなた達には本尊に接する福報はないため、上師が修法で、あなた達と本尊とを結縁させる必要があるのだ。

いわゆる『生生世世為弟子』のポイントは、生生世世に上師の超度に頼るということではなく、成仏するようひたすら教えるということだ。あなたにこの願がないなら、三昧耶戒を守る必要はない。あなたが三昧耶戒を守る必要があると思うなら、成し遂げる、つまり上師の言いつけに完全に従わなければならない。上師は社会の倫理道徳に背くことは教えないし、悪事を為すように教えたりしない。仏法の面で教えるだけだ。自分の考え方があるなら、修行は非常に困難だろう。先ほどの灌頂においては、みなも知っておろう、言葉で悪事を為しても短寿となるのだ。人を騙し、嘘をつき、自分が何か過ちを犯しても他人は知らないだろうと考え、先に他人を騙す。これらはすべて寿命を縮める。

まさか考えただけで短寿になるのか?と思う人もいるだろう。法本では、『意壊』も短寿になるという。短寿の徵兆とはどのように現れるのだろうか?簡単だ。小さな不調が早めに出現する。小さな不調が山のようにあるなら、それは臓器がもうダメだということで、寿命は当然減るだろう。警戒心がなく、自分は健康だと思っている人もいる。健康でどうするのか?子供が結婚して孫が生まれ、孫が結婚して曾孫が生まれるまで見届けるのか?そうではない。健康は修行するためなのだ。今日あなた達に修法するが、それはあなた達が考えるように、リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲深いため、住宅ローンを返済し終わるまで命を永らえさせるのではない。住宅ローンが完済できないならどうするのか?最悪でも銀行に差し押さえられるだけだ。それがどうなのだ?あなた達は息子が博士号を取るまでは生きていたいと考えている。だが、これらの願いに応えるのではないのだ。

先ほど唱えたのは三昧耶戒だ。守らなくとも別に構わないが、今後はこの法門を修めることはできない。今日はあなた達に結縁してやっただけだ。今日は法本は伝えない。修行の法本もあるが、修行の法本は、先ほど唱えた三昧耶戒を守らなければならない。守らないなら、絕対に修めることはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王に従い学仏を始めたばかりの頃から自分がリンポチェになれるなどと考えたこともなかったし、直貢チェツァン法王に、救いを得た後、将来どうなるのか、などとお尋ねしたこともなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは何も考えず、ただ行った。これこそ『信成就』だ。ある日必ず成就できると深く信じるのだ。自分の考えがあるなら、成就することなどもちろんできない」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を続けられ、弟子を率いてアキ護法と回向儀軌を修持くださった。修法が円満となった後、リンチェンドルジェ・リンポチェは参会者に貴重な仏法の開示を下された。

「みなに言っておきたいことがある。寶吉祥仏法センターで、リンチェンドルジェ・リンポチェの修法時に死にたい、などと万が一にも発願してはならない。縁がなく、福報がないなら、死にたくとも死ねないのだ。あなた達に仏法を教え始めたばかりの頃、死亡無常を常念しなければならないと教えた。死には決まった時間がある、或いは死にたければ死ねるなどと思ってはならない。実は仏法の考え方から死を見れば、輪廻はただ家を換えるだけなのだ。現代は自殺する人が非常に多いが、自殺するのは、過去世で非常に深刻な殺生があったからだ。それだからこそこの一世でこのようになるのだ。他人を殺す機会がないので、自分を殺すのだ。殺生がありさえすれば、自分を殺そうと他人を殺そうと、地獄に堕ちる可能性が高い。

リンチェンドルジェ・リンポチェが自殺で亡くなった人を初めて見た時、地獄の状況は非常に恐ろしいものだった。真っ暗で、手を伸ばしても自分の指さえも見えないようなところに亡者はおり、自分がたった一人でうちの中にいると感じるが、実は地獄にいる。そこは自死した人でいっぱいで、自死の過程を繰り返している。何年間繰り返せば良いのか。1000年か2000年か。毎日食事するかのように繰り返し、自死した後に蘇りまた自殺する。このようになりたいなら、自殺すれば良い!自死は完結だと思っている人が多いが、完結などしていない。自殺によって、どんなに愛しているか伝えたい、という人がいる。これは天下の愚行だ!

殺の念頭を起こしさえすれば、自分を殺そうと他人を殺そうと、短寿になり、運が悪くなる。自分の周囲をよく観察してみよ。自殺したいと口に出しさえすれば、その人は健康を害し、それに続いて何から何までうまくいかなくなる。それは悪念を起こしたからだ。この悪念により、自分を殺すのだとしても、嗔恨の心を起こすからだ。嗔恨の心を起こしさえすれば、諸事はうまくいかなくなる。この一生では、自分に対して良くない人もいれば、自分に良くしてくれる人もいる。すべては過去世で為したものなのだ。借りを返せばそれで良い。完済してしまえば、いつまでも追ってくることはない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは今日みなに長寿仏を修めた。それは、誰かより長生きさせ、誰かがどうやって死ぬかを見届けさせるためでは絕対にない。あなた達に改めるための時間を持たせるためなのだ。改めようとしても時間がない人がいる。業報が至れば去るからだ。諸仏菩薩は非常に多くの方便法門を我々にお授けくださった。だがそれは、我々をこの五濁悪世で少し長く生きさせ、少し長く享楽させるためではなく、我々に改める時間を持たせるためなのだ。時間は不十分なのだ。自分の時間は十分だ、などと思ってはならない。あなた達が今日来たのは法会に参加するためだけだ。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは昨日すでに予備法を修めている。なぜなら今日修める法はすべて与えなければならないからだ。すべて与えるのだ。

修法は、顕教とは読経が違うだけだ。読経は心が不定でも、何かを与えることはない。しかし、上師自身の福報が不十分なら、長寿仏を修めることはできない。今日あなた達に修めたが、それはあなた達に悪事を為し続け、人を欺き続けさせるためではない。あなた達にこの一生で十分な時間を与え、身口意の悪業を改めさせるためなのだ。すぐに停止しなければならない。一秒違ってもダメだ。『どうってことはない。自分には寿命があるので、先ずは悪事をやってから、また考えよう』などと思ってはならない。誰も共業を信じない!なぜ船が一隻沈んだだけで、400人余りもの人が亡くなったのか?これこそ共業だ。過去世で良くない事を一緒に行ったのだろう。そのため、時が至りいっしょに他界したのだ。

共業には、いっしょに行う、他人が行う側にいて『金が儲かって、良いな』と思う、他人が行い、それにより稼いだ金で養われることも含む。しっかり修行すれば良い、などと思ってはならない。どんなに拝んでも役に立たないのだ。なぜなら共業が存在するからだ。妻の学仏を嫌う人が多いのはこのためだ。例えば、男がレストランを開く。女は学仏すれば、共業できないという。だが、男の方も意見が多い。現在仏法はほんとうに哀れだ。回教では、ブタを食べてはならないと厳格に規定しており、誰も食べない。仏教は皆に良かれと思って、菜食を教えるが、みなやはり肉食している。

近頃、人心が極めて険悪になっている。誰もが仏菩薩を利用して自分の目的を達成しようとする。銃殺されようとする時、自分はすでに懺悔し、今では仏祖を信じているので、死は不要だと言ったりする人がいる。銃殺刑に処されないとしても、やはりいつかは死ぬ。しかも殺人にはやはり果報があるのだ。仏を信じればそれで何事もなくなるのか?みなこのような考えを持ってはならない。仏を信じることで、未来世で良くなる機会があるというだけで、この一世ではすでに悪事を為したのだから、認めて向き合わなければならないのだ。今日修める法は、みなが想像する読経のように簡単ではない。上師がしっかり把握できていなければ、この法を修めることはできないのだ。なぜなら、与えてしまえば、なくなってしまうからだ。誰が喜んで与えるだろうか?

リンチェンドルジェ・リンポチェが最初に法帽を被らず、その後で法帽を被ったのは、法帽を被ることは、本尊をあなた達に与えるという意味を表すからだ。諸仏菩薩はただ与えてくださる。これこそ慈だ。良いものを以って、あなた達の良くないものと交換するのだ。あなた達に与えているのに、あなた達はそれでも出鱈目だ。たくさんの歪んだ念頭を持っている。これは極めて望ましくない。もらっても何も感じない、と思っているだろう。何かが来たとは思えない、風も吹かないし、雨も降らない、火が起きることもない、と思っているだろう。厳密に言えば、地風水火は元素に過ぎない。あなた達は非常に微小な分子を眼にすることができるだろうか?あなた達が感じることができるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは敬服する。それは天眼通があるということだからだ。

別の宗教を信じながら、法会に参加し、加護が得られると思っている人がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の信仰を捨てよというのではない。別の宗教も仏法の救いが必要なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはインドのある地方で持咒したことがある。その時、インドの神がたくさんの鬼を連れて来たのを見た。読経が終った後、リンチェンドルジェ・リンポチェは側にいた管理人に、ある方向に廟があるのではないかと尋ねると、確かにあるという。リンチェンドルジェ・リンポチェが、その神はとても大きいのではないか、と言うと、管理人はシヴァ神だと言う。シヴァ神はヒンズー教で最高位の神だ。この管理人の家族は、台湾で言えば乩童(台湾のシャーマン)のようなもので、彼にも見る能力があるので、シヴァ神がリンチェンドルジェ・リンポチェが言うように確かに来たのが分かったのだ。

このように、神であろうと、仏法を耳にすればすぐにやって来るのだ。自分はある宗教を信じており、これは自分の宗教だと考えている人がいる。実は宗教はない。人の執著心と心の拠り所であるだけだ。真の宗教は地球上にはないのだ。ある権力、ある勢力が作り出したライフスタイルに過ぎない。ただ仏法だけが人類を悪から善に転じさせるよう真に教導することができる。100%全く少しも虚偽はない。修行人が仏法の殊勝を感じさせることができなければ、ただの寺、ただの大雄寶殿に過ぎない。それでは役に立たない。仏はこのように衆生に利益できると衆生に体感させることができなければ、彼らの信心が起きることはない。

仕方がない。現在衆生は地獄の入り口に立っているにもかかわらず、やはり迷っている。あなた達出家衆は再来しないように、しっかり修め、浄土に往生できるよう発願しなければならない。再来したいなら、乗願再来せよ。この一生で果位まで修めないなら、乗業再来する。浄土への往生を発願しさえすれば、どの本尊を修めようと、絕対に行けるように助けてくださる。これは間違いない。末法時代において禅定に頼るのは非常に難しい。これほど空気が悪いのに、どうして禅定できるだろうか?よって、末法時代の五濁悪世娑婆世界の衆生に便利なように、釈迦牟尼仏はこの法門を開かれたのだ。いつまで念じれば行けるのかは、聞く必要はない。因縁が備わり、福報が十分となれば、すぐ行けるのだ!

人にとって最も辛いのは、病苦と死だ。我々が修めなければならないのはこれであり、現在の愛情ではない。愛情とは何なのか?みなしっかり見てみよ。『情』というこの字はどうやって書くのか。一辺は心で、もう一辺は青だ。青色は古代には黒を表していた。つまり心が黒くないなら愛情について語るべきでなく、心が黒くなければ愛情について語ることはできないのだ。古代人の作字は実に素晴らしい。『愛』という字は友を押さえつけている。上には三本の刀があるようだ。これでも、また愛情について語りたいか?いわゆるtrue loveなどというものはないのだ。すべて虚構だ。恋愛したいというなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは反対しない。仏も反対なさらない。だが執著してはならない。

中国人の文字は、ほんとうに感嘆に価する!世界で最も素晴らしい文字は中国人の字だ。心が黒いのが情で、愛の上には刀が三本あり、感情を押さえつけるのが、恋愛だ。感情を押さえつけることができないなら、恋愛をしてはならない。弄ばれるだけだ。恋愛関係になるのはお互い前世に縁があったのだ。この一世でいっしょになり、楽しければいっしょになり、楽しくなければ別れ、やり直せばそれで良い。現在世界には61億を超える人がいるのだ。相手が見つからないということはないし、世界でその人だけが良いということも有り得ない。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達に長寿仏を修めた。それは、白馬の王子を探すための時間を延ばしたのではなく、自分は過去どこに執著していたのか、誤っていたのかを見極め、再出発させるためなのだ。5年間出入り禁止だったその弟子が、父にポワ法を得させることができたように、過ちを犯せば取り返しがつかない、とは仏は仰せでないのだ。振り返れば岸はある。振り返ろうとしさえすれば、彼岸、仏の浄土が見えるが、振り返なければならないのだ。振り返るのは、自分の過ちがどこだったのかを見るのであり、振り返って彼岸を見るのではない。彼岸は正面にあるのだ。振り返って自分の過ちを見るべきで、他人の過ちを詮索してはならない。あらゆる過ちはすべて自分の過ちなのだ。一切のことに関わっていなかったなら、そのことも発生しなかったのだ。

自分はこんなにも尽くしたのに私を捨てるなんて、などと思ってはならない。実はこれはとても良いことなのだ。なぜなら、これにより相手への借りを返したことになるからだ。あなた達はどうしてリンチェンドルジェ・リンポチェに対して尽くさないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達にこんなに良くしているのに、あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに対して何も尽くしてくれない。法本では身口意供養という。だが、あなた達は誰もできていない。つまりこれはあなたの債務なのだ。完済すれば、さようならだ。新しい債を作ったり、誰が自分に借りがあるかと見回したりするものではない。自分に借りがある人は必ずいる、とリンチェンドルジェ・リンポチェが言ったと言ってはならない。このようにする必要はない。

リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来て、死ぬの生きるのと言う人がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、相手が好きか嫌いか、と尋ねると、好きだ、と答える。リンチェンドルジェ・リンポチェは、楽しいことがあったか、とさらに尋ねると、あった、と言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは『楽しかったのなら、それで良いではないか。楽しかったことを覚えておけば良い。楽しかったことがあったなら、十分ではないか。他のことは考えない方が良い。それ以上考えれば、自分を害し他人を害するのではないか?相手はひどい、誰かを利用しているなどと思ってはならない。これはその人の運命なのだ。あなたとは関係がない。これは相手とあなたに縁がなかったということなのだ。縁が尽きたので終わったのだ』と言った。今日リンチェンドルジェ・リンポチェがみなを助けたのは、修行の面でだ。健康、身体、運が良いかどうかは、あなた自身の心と発する願次第だ」と仰せになった。

法会が円満となり、弟子達は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる灌頂と開示に感謝申し上げ、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを起立して謹んでお送り申し上げた。

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2016 年 03 月 10 日 更新