尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年5月24日

法会の開始に先立ち、2009年7月5日に皈依した弟子が、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが肝癌と肝硬変で末期であった父親に加持くださり、施身法で超度くださったあらましについて語った。

「昨(2014)年11月、父が身体に強い不調を訴えたので、上の弟と共に病院に付き添いCT検査を受けさせた。11月末医師は父に『肝臓に4センチの腫瘍があり、しかも肝硬変もすでに最も深刻なレベルCまで進んでいる。腫瘍は血管まで侵食しているため、切除も肝臓移植もできない』と告げた。父は普段から薬草について色々研究していたため、自分で数種の薬草を調合して服用することにした。すると果たして、11月末の初めての腹水が、薬草を服用した後、12月中には治ってしまった。だが、父はどんどん弱っていった。

12月末、父は肝臓の権威を受診したが、医師は小声で弟に『半年から一年の命でしょう。好きなものを何でも食べさせてあげなさい』と告げた。今年一月初め腹水のため、父の腹部はバスケットボールが半分入っているかのように膨らみ、今回は下肢までが浮腫み、腹部には血管が蜘蛛の巣のような網目を現し、かわいそうで見ていられないほどだった。父に付き添っていた時、私は機会を見つけて父に上師の功徳を賛揚して聞かせ、また父が仏法の救いを受けられるよう、菜食が望ましいと弟達に注意した。

父母は民間信仰の信奉者で、私が信じるものを外国の宗教として見ていた。私も自分勝手なことに、言ったところで彼らは信じないし、さらには口業を犯させてしまうかもしれないからと思い、ある兄弟子が昨年12月心臓の動脈剥離で他界した際、上師が法座で開示くださるまで、父母に上師の功徳を賛揚して聞かせることはほとんどなかった。この兄弟子は普段家人に対して、上師の度衆の事跡について賛揚していなかったため、家人は仏法とリンチェンドルジェ・リンポチェに対して信心を抱いていなかった。そのため、重要な時に上師が助けようとしても、家人は理解せず信心もなかったため、この兄弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェの加持と救いを受ける因縁福報を持つことができなかったと言う。これを聞き、私は驚き自分は間違っていたと気付いた。私は己の自分勝手を懺悔し、しかも機会をとらえて、リンチェンドルジェ・リンポチェが兄弟子達をお救いくださったこと、それからリンチェンドルジェ・リンポチェの『死を恐れてはならない。古い服を新しい服に替えるだけなのだ』との開示を父に聞かせるようになった。そして、父に心の中のあらゆる事に対するすべてを捨て去るよう求めた。父は絶えず弱々しい声で、腹部がたまらなく痛いと訴え、ベットの上でひたすら呻いていた。ソファーやベッドから身体を起こすのさえ非常に辛そうで、私が支えていても、歩くのはとてもゆっくりで息切れするほどだった。

そのため私は父に『道場へ行き、リンチェンドルジェ・リンポチェに加持をお願いしない?。重い病に苦しむたくさんの人が、リンチェンドルジェ・リンポチェに加持を頂いた後は病苦が和らぎ楽になっているから』と提案したところ、父が頷いたのだ。上師の庇護に感謝申し上げたい。私は大喜びで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェへの拝謁を父のために申し込んだ。心の中では、父がかつて2013年に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが主法なさった『阿彌陀仏無遮大超度法会』に参加したことを嬉しく思っていた。しかし、これが父にとって今生で初めての、そして最後の『阿彌陀仏無遮大超度法会』となってしまった。

1月17日土曜日、三人の弟と私は父に付き添いリンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかった。私は父と弟達に、リンチェンドルジェ・リンポチェは大修行者であられるので必ず恭敬にし、しかも日曜日の法会への参加をお願いし、寿命が尽きたなら済度をお願いするよう父に注意していた。父は初めて道場へ行ったため、応接の兄弟子が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが多くの衆生をお救いになり、病苦を軽減くださった事跡について父にお話しくださった。私達の番になり、リンチェンドルジェ・リンポチェの御前に跪くと、リンチェンドルジェ・リンポチェは『どうしたのだ』とお尋ねくださったので、私は父が自分でリンチェンドルジェ・リンポチェにお願いするよう願っていると申し上げたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは私に応えるよう求められた。それで、私は急いで父の病情を説明し、父の腹部の痛みを和らげられるよう、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持をお願い申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは父に菜食しているかと尋ねたところ、父は『しています。二日間菜食しています』とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれを聞き、慈悲深くも父に加持をくださった。リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに『まだ何かあるか?』とお尋ねになったので、私は『父が人世を離れる際には、上師に超度をお願いしてもよろしいでしょうか?』とお尋ね申し上げたところ、リンチェンドルジェ・リンポチェは速やかに応じてくださった。そして『まだ何か聞きたいことがあるか?』と仰せになったのだ。私は『父が、リンチェンドルジェ・リンポチェに日曜日の共修法会に参加させていただきたいと願っています』と申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも応じてくださったが、『一度だけ』法会に参加する機会をくださった。私は上師がお許し下さったことに感謝申し上げたい。そこで、私は父を連れてカウンターで申し込みを行い、1月18日日曜日の法会への参加識別証を受け取った。

ところが1月18日日曜日朝、上の弟から電話があった。父が法会への参加を嫌がっているという。心配になり、どうして突然考えを変えたのかと父に尋ねると、父は『あれは外国の宗教だ。道場での兄弟子の私達への話はまるで直接販売のようだった。お前もバカみたいに騙されるな』と言うので私は驚愕したが、寶吉祥仏法センターは正法を修行する道場なので、安心するよう、すぐに父と弟に説明した。また例を挙げて、リンチェンドルジェ・リンポチェが個人的に非常に多くの善事と内外の仏寺への寄付を行っておられ、『阿彌陀仏無遮超度大法会』の供養金も毎回その場で内政部社会司に寄付し、社会司への寄付額は十数年間で6000万元を超えていることも説明した。さらに、リンチェンドルジェ・リンポチェは出家衆弟子に住居を提供されているばかりか、生活費まで支給し、葬儀を行う金がなかった兄弟子に代わり費用を負担なさったこともあり、子供の養育費に困っていた片親家庭の若い兄弟子には、每月金銭を支給し、弟子が知らない善事もたくさん行っておられる、と一生懸命説明したが、父は自分が正しいと思い込み、どうしても法会に行かなかった。私は懺悔したい。上師に対して深い信心を持たず、普段しっかりと依教奉行しておらず、父母に替わり福報を積んでいなかったため、父は福報が足りず法会への参加を望まなかった。普段依教奉行していないことを、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔申し上げたい。

父はリンチェンドルジェ・リンポチェに対する信心が足りず、加持を頂戴した後も完全には菜食せず、ハマグリスープを飲み、薬草を煮出す際にはブタ肉を一切れ加え、家人が買ってきた鶏エキスを飲んでいた。父は悪念を起こすことになったが、それでも1月17日土曜日の上師の父に対する加持に感謝申し上げたい。翌週月曜日父を見舞った時、父の身体は目覚ましく変化しており、ソファーから立ち上がって自分でトイレへ歩いて行けるようになっていた。私はその場でリンチェンドルジェ・リンポチェを賛歎申し上げたが、父と上の弟はすぐに、新しい薬草の効果だと答えた。私は『薬草にこれほどの力があるはずはない。足に力がなく息も絶え絶えだった人の身体に、数日でこれほど大きな変化があったのは、絕対にリンチェンドルジェ・リンポチェの大加持力のおかげだ』と言った。

私が上師に懺悔を求めようとしていた時-つまり父が上師の加持を頂戴してから2週間-1月17日から1月30日の間、父は每日朝晚腹水を除去する三種の薬草と、肝腫瘍に効くと言うとんでもなく辛い薬草を飲んでいた。父は薬草を服用すると聞き、恐ろしくなった。しかも、父の腹水は薬草によって抑えられるということはなく、下肢の浮腫みはひどくなり、さらに黒便が続いていた。父は心配で、恐ろしくも感じ、腹部にはいつとはなしに劇痛があり、しっかり眠れなくなり、肉体の苦痛のために情緒も不安定になっていた。それでも、リンチェンドルジェ・リンポチェのように証量を有する大修行者にようやく、一度だけ法会に参加することをお許し頂けたのに、それを拒絶するなど、有り難い福報を追い出してしまったようではないかと、父に言い続けた甲斐があり、1月30日金曜日の夜8時頃、父はようやく、翌日再びリンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかるよう手配せよと私に言った。

慈悲なるリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。1月31日土曜日、信衆を接見くださる時間帯に、二番目の弟、甥と共に父に付き添いリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁賜った。私たちが御前に跪くと、リンチェンドルジェ・リンポチェは甥を見て『最近仲の良い友人から、金銭の往来について話がなかったか?』とすぐにお尋ねになった。しかも厳しく『金銭のやりとりをしてはならない。また、この友人の求めに一切応じてはならない。さもなくば法に触れることになるだろう』と甥に仰せになった。さらに、リンチェンドルジェ・リンポチェは『聞こえたか』と念を押され、しかも甥に開示の内容を復唱させた。道場を離れ階下に降りたところで、リンチェンドルジェ・リンポチェが仰せのようなことが本当にあったのかと私は甥に聞いた。甥は『確かにあった。友人から十万元を払うから、不動産の名義人になって欲しいと言われた』と言うので、私は、リンチェンドルジェ・リンポチェの仰せに必ず従うように言い、上師は知らないことが何もないのだ、と心から賛歎申し上げた!

リンチェンドルジェ・リンポチェは甥に尋ねた後、父の方へ向き直り『どうして会いに来たのか?』とお尋ねになったので、父は『リンポチェに懺悔に参りました』とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェがさらに『何を懺悔するのか?』とお尋ねになると、父は『あなたを信じなかったことを懺悔します』とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに『どうして今は信じるのか?』とお尋ねになったが、父は頭を垂れて何も言わなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの時台湾語で『なぜなら、できないからだ』と仰せになった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはそう仰せになった後、すぐに父の頭頂に大加持をくださったことを感謝申し上げたい。続けてさらに『まだ何かあるか?』とお尋ねになったので、父は、もう一度法会に参加する機会を頂戴したいとお願い申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは少しお考えになられたが、お許しくださり、受付で登録するようご指示になった。私は急いで父と共に登録を済ませ、父にもう二度と約束を破らないように懇願した。

2月1日日曜日法会への参加を前にし、父は突然弱り、車椅子に座る体力さえなくなってしまい、マットに横たわって法会に参加した。その日道場に着くと、この日はリンチェンドルジェ・リンポチェが衆生に普巴金剛を修めるのだと突然思い出した。上師は、普巴金剛は障礙の除去に非常に殊勝で、多くの利益があると開示くださった。その内の一つは身心の苦痛の除去(除病障)だ。私は今でも覚えている。その日尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは普巴金剛を修め咒語を持誦なさる際、威猛無比なる普巴金剛の忿怒相を現され、修法持咒の際には何度も怒号を発せられ、威厳に満ちた様子でゆっくりと周囲を凝視され、特に男性信衆区で長く留まっておられた。

その後リンチェンドルジェ・リンポチェは『今日の普巴金剛法会ではこれまでになく普巴金剛本尊が最も長く留まってくださった』と仰せになった。それは、普巴金剛が多くの重症患者に加持くださったことを示している。その日法会が終了するや否や、父は私に抱きつき『腹が痛い。とても痛い』と泣きながら叫んだ。私は父を抱き背中を軽く叩きながら『リンチェンドルジェ・リンポチェが救ってくださったのだから、帰ったらすぐに楽になるわよ』と言った。道場を出たところで法会甘露丸を頂戴したので、急いで父に飲ませたところ、20分ほどすると、父は痛いと言わなくなったのだから、実に不可思議だ。父は2月9日に息を引き取ったので、2月1日の法会は、父にとってこの一生で唯一の日曜日の共修法会となった。リンチェンドルジェ・リンポチェは大能力をお持ちなので、父に恭敬心がないことはご存知だったと思う。けれども、病苦にある衆生を憐れまれ、日曜日の共修法会への参加を慈悲深くもお許しくださったのだ。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。

1月31日土曜日にリンチェンドルジェ・リンポチェの加持を頂戴して三日目つまり2月2日だが、その後の五日間は私が父の世話をする番だった。父は一、二度だけ数分間腹が不快だと言ったが、それは、いつでも腹痛を訴えていた以前とは全く異なる状態だった。同時に父は少量を何度かに分けて食べられるようになり、食べると眠るようになっていた。それでもいくらか心配なようで、薬草の服用はやめてはいなかったが、薬草を煮る時ブタ肉を入れないよう、自ら家人に言いつけていた。父は菜食を頑なに拒む母を見て、淚をさめざめと流しながら、自分は菜食を始めたのだから、普通食に触れないでほしいと母に訴えた。上師の不可思議な大加持力に、私は心から感動した。父はおそらく間も無く他界するだろう、と私は弟達に心の準備をするよう促した。一生苦労した父が穏やかにこの世を去ることができるよう、いつでもリンチェンドルジェ・リンポチェを観想せよと父に伝えるようみなに要請し、また父のために六字大明咒を唱え始めた。そして、苦しみを和らげてくださったことをリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝し、しかもいつでもリンチェンドルジェ・リンポチェが頭頂で加持くださっていると観想するよう父に告げた。

上の弟は出国していた。2月3日火曜日の午後、上の弟はいつ台湾に戻ってくるのか?と父に尋ねられ、私は2月11日火曜日の夜の予定だと答えた。父はベッドに腰掛け、『待てないかもしれない』と小声でブツブツ独り言を言った。2月4日父はいつものように黒便を排泄したが、便にはわずかに血も混じっていた。父がとても心配したため、2月5日木曜日、病院で医師に原因を尋ねた。腸が腹水で圧迫されたのだろう、との診断で、胃腸薬が処方された。2月7日土曜日午前父はいつもよりたくさん食べた。昼、二番目の弟と下の弟は、父が彼らの手をしっかり握り、続いて口中で奇妙な声を発し始め、視線が定まらなくなってしまったという。私たちは、上の弟に2月8日日曜日に帰ってくるよう知らせ、父の身体の変化を注意深く観察した。

土曜の晚十時頃、医者である兄弟子に連絡し、父をどのように世話したら良いか尋ねた。兄弟子のご指示に感謝申し上げたい。父の当時の状況では、最も望ましいのは、病院の救急処置室で医師と看護師による診察を受けることだが、父の苦痛を軽くするため、侵襲性急救治療はできるだけ避けるようアドバイスをいただいた。そのため、私たちは父を病院の救急処置室に連れて行った。救急処置室の外で、私は弟達に、自分たちは苦痛を感じられるものではないため、父の苦痛を軽くするため、侵襲性急救治療は避けよう、と話したところ、弟達は賛成してくれた。そのため、私たちは医師に父には正規の急救薬物を処方するよう依頼した。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの普段の開示、教導、加持がなかったなら、自分と弟達は父の現状をこんなに落ち着いて受け入れ、処理することなどできなかっただろう。

上の弟は2月8日日曜日急いで帰国し、父を見舞った時にはすでに夜の11時だった。二人の弟は、当直の看護師が、どうやって父を世話するかを非常に根気よく教え、父に何をしても決して驚いてはならないと細やかに注意し、またしばしば病室を見回ってくれる、と言っていた。二人の弟は声を揃えて、こんなに良い看護師にはこれまで会ったことがない、と褒め、上師の加護に感謝申し上げた。2月9日月曜日の朝9:00、父は身体が浮腫み血圧計で血圧が計れなくなり、血中酸素量も計れないため、心臓の鼓動でしか容体を観察できなくなってしまった。私は看護師達に、現在の心拍は95だけど、というと、看護師達は、まだ正常だが、90以下になったら容体の急変なので注意しなければならない、と言われた。

父の心拍が70まで急速に下がった時、リンチェンドルジェ・リンポチェが頭頂で加持くださっている様子を観想するよう、父の耳元で私と弟達は交代で言い続け、心の中で六字大明咒を唱えた。父の心拍が30まで下がった時、私は弟達に、決して父のそばで泣いてはならないと教えた。私は兄弟子の心配りに心から感謝申し上げたい。貴重な甘露丸を予めくださり、父が事切れる前に父の舌下に入れるようご注意くださった。そのため、私と弟は甘露丸を父の舌下に入れると、12:51父の呼吸はゆっくりと停止し、呼吸困難により父は口を大きく開けた。兄弟子のお心遣いに感謝申し上げたい。父の遺体を病院の霊安室に移した後は移動せず、私たちは、六字大明咒を8時間唱え、リンチェンドルジェ・リンポチェが父の頭頂で加持くださっていると観想しなければならないのだ。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大功徳力と大加持に心から感謝申し上げたい。遺体が葬儀場に運ばれるまでに、父の口は閉じられていた。

2月9日月曜日正午12:51に父が往生した後、私はすぐに組長兄弟子に報告申し上げ、古董店に電話し、父に施身法超度をくださるようお願いするため、土曜日のリンチェンドルジェ・リンポチェへの拝謁を申し込んだ。けれども、上師は御身体に違和を覚えられ、2月14日土曜日には信衆にお会いにならなかった。2月15日日曜日の法会時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは顔色が青白く、法座に上られた後すぐに施身法を修められた。兄弟子達はみな私と同じように上師のご様子に心を痛めておられたと思う。上師は命を惜しまれないのか?ご自分のお身体がこのように弱っている状態でも、なお衆生にお心を掛け、弱々しいお声で衆生のために殊勝なる施身法をお修めくださるのだ。上師はご自分のお身体の状況を顧みず、重病の父に大加持をくださっていたのだ。そして、上師の貴体は健康を回復してはおられない。私はほんとうにとてつもない感謝を感じた。3月7日土曜日、二番目の弟、下の弟、私はリンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかり、父の超度をお願い申し上げた。上師は受け入れてくださり、弟達に、誰が父のために施身法法会に参加し、しかも一生菜食するのか、と尋ねたところ、二番目の弟は少しも迷うことなく答えた。私は上師の慈悲に感謝申し上げたい。

3月21日父の告別式の前日、撮影組の兄弟子から、父を火葬後、父の頭蓋骨か身体の色として出現する瑞相を携帯電話かカメラで撮影するよう電話があったので、私はカメラと携帯電話を準備し、弟達にもこの事に注意するよう告げた。葬儀社のスタッフに、火葬後の遺骨が出てきたと告げられると、私は急いで走って行った。すると、頭蓋骨に整った円形の小さな穴がほんとうに二個あった。私は嬉しく、しかも強く感動し、すぐに十数枚の写真を撮り、撮影組の兄弟子に送り、父は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの施身法超度を頂戴し、頭蓋骨に瑞相が現れたと連絡した。2月9日に父は往生したが、2月15日にリンチェンドルジェ・リンポチェが施身法を修められた時、すでに慈悲深くも父を超度させ、父を善道に往生させてくださっていたのだ。

父は昨年11月、身体に不快を感じ、検查で肝癌が見つかった後、心まで苦しみ始めた。1月17日に上師にお目にかかった後、身体状況は改善したが、父はその時上師に対して信心がなかった。1月31日再び上師にお目にかかり、ありがたくも上師の加持を頂戴し、法会に参加する機会を再び賜った。これにより父は福報を累積し、信心を起こしたばかりか、身体上の苦痛も減り、心も落ち着き、最後には上師の超度を頂戴することができた。これら一切は、もし上師がおられなかったなら、決してありえなかったことだ。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。

2013年5月1日の行事日誌において述べたように、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対する私の信心は少しずつ累積したものだが、今般父の重病と往生という一切を経たことで、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対する自分の恭敬心、供養心、信心の不足を恥ずかしく思い、ここで懺悔したい。上師がしばしば開示くださるように、上師が衆生のためになされる一切は、我々弟子に理解できるものではないのだ。私は、金剛兄弟子のみなさんに、眼前におられる自己を厳しく律し、厳謹に弟子を教導くださり、大慈悲心と大願力をお持ちの具徳の金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを大切にし、しっかりと従い、努力して修行に精進し、上師の恩徳に報いようと呼びかけたい。最後に私は、尊き上師の貴体が勝妙康で、仏法事業が興盛し、法輪が常転し、直貢噶舉の法脈が永遠に流伝し、一切の有情に利益できるよう祈願申し上げる」と述べた。

続けて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの指示の下、台北寶吉祥仏法センターで、出家弟子が参会者と寶吉祥の弟子を率い、六字大明咒を持誦した。

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午前9時30分、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは日本寶吉祥仏法センターで「日本京都寶吉祥仏法センター開光七週年記念法会」を主持なさり、御自ら『地蔵菩薩本願経』を講釈くださった。参会者は日本、インド、チリ、中国、台湾からの信衆15人と日本、中国、台湾からの弟子154人の計169人だった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、参会者に貴重な仏法の開示を下された。

「今日は特別だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは日本ではほとんど経典を講釈しない。経典講釈は文字により意味を説明するだけではない。経典とはなんだろうか?釈迦牟尼仏がかつて開示くださった仏法であり、仏のご自身の修行経験だ。釈迦牟尼仏は在世の折49年間弘法なさった。仰せの一切は六道衆生を輪廻苦海から離れさせてくれる。釈迦牟尼仏がおられた時代には、レコーダーはなかった。筆、紙での記載も非常に困難だ。特に釈迦牟尼仏の開示はいつも法会の最中とは限らず、弟子が仏法を求めれば開示くださったからだ。

後世の末法時代に生きる人のために、末法時代とは釈迦牟尼仏涅槃の1000年後だが、釈迦牟尼仏はかつてその法運と教導された仏法を開示くださった。地球上には12000年存在する。残り時間はどんどん少なくなっているのだ。12000年はとても長い時間だと思うだろう。だが、宇宙の時間において、12000年はほんの一瞬だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日『地蔵菩薩本願経』を開示する。それは、中国、韓国、日本等大乗仏法を修行する地域では、たくさんの人が『地蔵菩薩本願経』を知っているからだ。

地蔵菩薩は仏法中の八大菩薩の一尊であられる。仏法中では大菩薩の特別な名前—菩薩摩訶薩と呼ばれる。菩薩は自分がそうだと言えばそうだというものではなく、初地から十六地まで16のレベルがあると仏はかつて開示になった。八地までの菩薩には、なお人の習性、つまり貪嗔痴の習性が残っているとも仰せだ。八地以上十六地までを大菩薩、菩薩摩訶薩とお呼び申し上げ、また法身菩薩とお呼びすることもある。この種の菩薩はすでに開悟されており、しかも成仏の段階に非常に近い。十六地以上は成仏の段階だ。

菩薩は初地から始め第二地の功徳に至る。みなが考えているように。1+1=2となるのではなく、功力は何倍も高まる。功力とは、衆生に利益する力だ。地蔵菩薩は大菩薩なので、法身菩薩であられる。法身菩薩が備えるべき条件は、またの機会に開示しよう。『地蔵菩薩本願経』を開示するだけで、一日でも足りないからだ。法会への参加は読経、写経だと思っている信衆が多いが、そうではない。これらはただ仏法を学び、修行する機会のための因縁を植え付けるだけなのだ。学仏修行は必ず経典を聞かなければならない。聞くとはどういうことだろうか?それは、人生で学んだ経験を用いて、仏法に対してはならないということだ。仏が説かれた一切の方法は、我々人と六道衆生に生死を解脱させてくれる方法だ。書籍、倫理道徳、神話、伝説から学ぶのではなく、すべては経典の中にあるのだ。

経典を講釈するには、学問があるかないかに関わらない。この一生で博士まで学び、博士号がダブルディグリーなら経典が講釈できるというものではない。経典を講釈する修行人は、必ずある条件を備えていなければならない。それは仏教界で果位まで修めることだ。いわゆる果位まで修めるとは、大きな寺の住持になるということではなく、仏教界で有名になる、または博士でなければならないということでもない。修行の果位のことだ。チベット仏教においては、経典を解釈するには、果位は絶対にリンポチェでなければならない。リンポチェとは、少なくとも初地の菩薩まで証し、生死自在、つまり自分の生死を把握できるということだ。

経典は文字で記載されている。誰が経典を記載したのか?仏の開示時には文字で記載されていなかった。仏滅度の後、仏の500人の弟子、経典中では大阿羅漢と呼ばれるが、これら阿羅漢はすでに神通と一切修行の功徳を備えている。この500人の弟子が集まり、仏が49年講じられた一切のお言葉を、文字で記載したのだ。そなた達は『彼らの記憶力はどうしてこんなに良いのか?聞き間違いはないのか?』と必ず言うだろう。彼らは聞き間違わない。なぜなら釈迦牟尼仏の弟子は凡夫俗子ではないからだ。仏法を聞いている時には入定、つまり非常に集中し、別の考え方、念頭を持たず、心を込めて仏が開示する仏法を聞いているので、仏が説かれた仏法を第八意識田中に入れて、すべて記憶しているのだ。

500人の弟子が集まったのは、釈迦牟尼仏は49年間で非常に多くの場所で仏法を開示されたので、弟子の中にも参加したり、参加していなかったりする者もいたからだ。経典では『仏がどこで弘法なさろうと、必ず1200人の弟子がお側に従った』とある。この1200人の弟子はそなた達のように、写経し線香をあげ金銭を寄付し、弘法を聞けば自分は学仏人だと思っている者たちではなく、すでに開悟した修行者だ。どうして500人の弟子が集まり経典を記載しなければならなかったのか?それは、一人一人の修行果位が異なるため、文字で記載する以外に、仏が説かれた仏法の真の意義と内容が符合するかどうかをチェックしなければならないからだ。符合しないなら、それは書き間違いだ。そのため、経典は容易には得られないのだ。

仏は三寶を尊重しなければならないと仰せになった。一つ目の寶は仏法だ。なぜなら仏法は容易には得られず、聞けばすぐ理解できるというものではなく、学問があれば聞いて理解できるというものでもないからだ。そんなに簡単ではない。我々人が学問する際には、幼稚園から大学卒業まで十数年から二十年余りも費やす。それなのに、そなた達は学仏では、一日や二日、一度や二度、一年や二年で、仏が説かれた仏法の真の内容を理解できると思っているのか?それは不可能だ。必ず一人の修行者が仏法を通して生活修行することで体悟した経験を開示しなければ、仏が説かれた仏法の内容を体得することはできない。

どうしてこのようにする必要があるのか?それは仏が仏法を説かれた時に用いた言語は日本語や中国語ではなく、我々には分からない言語だからだ。後世の人はインドで最も古い文字—梵語を用いて記載したが、釈迦牟尼仏が梵語をお話になっていたとは限らない。なぜなら仏がお生まれになったのは、現在のネパールだからだ。ネパールにも固有の言語がある。梵語は古代から現在まで2500年の間に、非常に多くの変化を経ている。しかも、今に至るも解読できないたくさんの分かりにくい文字がある。なぜか?それは梵語は中国語とは異なるからだ。中国語は一個の字が一個の意味を表し、別の字が加わらなければ別の意味には変わらない。だが、梵語は一個の字に非常に多くの意味が有る為、後の人にとっては非常に分かりにくいのだ。

中国では、経典は漢の時代以降伝わった。およそ2000年前だ。中国で大量の翻訳が実質的に始まったのは、隋朝からだ。漢が滅亡した後、五代と隋朝が翻訳を始めた。最初に翻訳に携わったのは、インドから中国に来て、中国語が理解できた僧侶だ。日本で言えば、飛鳥時代の前になってようやく中国語翻訳の経典が手に入るようになったのだ。漢の時代に翻訳は始まったが、訳された経典は多くなく、しかもどちらかというと簡単だった。隋朝の頃は、経典を翻訳した文章も内容も、かつてとは違っていた。厳密に言えば、日本の仏法は聖徳太子から始まった。およそ隋朝の末期の頃から仏法は日本に導入され始めた。当時は正式な日本語訳はなかったので、すべて中国語版を用いていた。

唐代になって、伝わる経典は多くなり始めたが、隋の時代、日本はまだ経典の翻訳を始めていなかったため、当時中国から渡来した僧侶の話に基づいて修行していた。長い時代を経て、日本人が現在使う言葉、文字は、飛鳥時代以前とでは違っている。飛鳥時代以後に用いた文字も現在とは異なる。そのため、非常に多くの言葉が伝わらず、または誤解を生じ、しかも長い期間、経典に対する尊重も存在しておらず、仏法は学問だ、学べば理解できる、文章を理解すればその意味も分かる、と多くの人が考えた。そのため、中国であろうと日本であろうと、非常に多くの間違った言い方がまかり通っている。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェが開示する経典は、釈迦牟尼仏が説かれた仏法を中国語に訳したものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の生生世世とこの一世で仏法を修行した経験により、経典中の文字を証し、自分の修行に誤りがないかどうかを検討する。もしあるなら、経典に基づき、自分の心構えを調整し直さなければならない。自分の修行過程と証悟と経典で説くことが同じでなければ、仏菩薩と相応することはできない。同じとはどういうことだろうか?それは、仏は経典中で、人はいかにして自分の心を調整するか、どんな方法を用いて調整するか等について、非常にたくさん触れておられるからだ。

地蔵菩薩は八大菩薩の一尊であられる。地蔵菩薩は必ず出家者の様子を現しておられると思っている人が多い。また、地蔵菩薩は度鬼、地獄だけだと思っている人が多い。よって日本では、墓がある場所には必ず地蔵菩薩像がある。日本では、地蔵菩薩を土地神として拝むことさえある。地蔵菩薩は土地神ではない。これは誤解だ。たくさんの人が地蔵菩薩の『地』は地獄、土地、区域の『地』だと誤解しているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの学仏経験から言えば、一週間かかっても、『地』の真の意義を明確に講釈することはできないだろう。

みなこの事を弁えておいてほしい。つまり、中国語の経典は梵語から訳されたものだということだ。梵語の字が表す意味は単一ではない。前後の言葉と字が違うなら、同じ文字でもたくさんの違った意味を表す。梵語が現在消滅してしまったのは、あまりに複雑だからだ。梵語がこれほど複雑なのは、古代インド人が冥想好きだったからだ。冥想とは中国人が言う禅定ではなく、座って何かを考えることだ。そのため、すべての思想を一つの字内に詰め込むのだ。梵語がそのようなのは、思想を符号で書き表していたため、一個の文字が非常に多くの意味を表していたからだ。

よって、梵語を中国語に訳すには困難があった。なぜなら中国語は非常に簡単だからだ。象形文字から来ており、本来は符号だったのだ。梵語を我々が理解できる中国語に翻訳し、さらに日本語に翻訳する。これは非常に膨大な作業であり、普通の人にできるものではない。経典を説く人は、自分の修行経験を通さなければ、中国語で講じる経典内容を体感することはできない。梵語を学ばなければ、仏が説かれた経典を理解することができないのではないか?とそなた達は問うだろう。だが、これは正しい言い方ではない。なぜなら、現在の梵語は古代とは違うからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェのある弟子は北京大学で博士まで学んだ。その指導教授は梵語を研究しているのだ。かつてある人が、学仏には梵語を理解する必要がありますか?とその教授に尋ねた。教授は、不要だ、とあっさり答えたという。

どうして不要なのか?なぜなら梵語は仏法を代表しないからだ。梵語を研究すれば仏法を理解できると考えている人が多い。だが、これは正しくない。梵語は古代インドの言語に過ぎない。背景を知れば、仏法の内容を聞くのはそんなに容易でなく、仏法の内容を誰もが説明出来るというものではないと分かっただろう。地蔵菩薩は地獄、墳墓、土地を守り、地蔵菩薩に加護を求めることができる、と皆が考えていたのは、字面から生まれた誤解なのだ。

仏法における『地』とはどのように説明されるのか?みなも知っておろう。仏法は慈悲を説く。慈悲がなければ仏法もない。リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲を開示しようとすれば、2年間開示しても終わらないだろうし、しかもそなた達には慈悲を理解する資格はない。それは、そなた達が善人にさえもなっていないからだ。善人とは十善法を修めた人だ。第一に戒殺生で、最後から三つは貪嗔痴を断つことだ。みなできていない。だから、無理なのだ。なぜなら仏法の根本は慈悲だからだ。良いものを生み出すには、種子が必要で、種子は土地がなければ芽を出せない。そのため、肥沃な土地に種蒔きする必要が絶対にあるのだ。水耕栽培でも作物を育てられるのだから、今は土地は不要ですよ、と反駁する者が必ずいるだろう。だが、水耕栽培では水が土地だ。

良い土地がなければ、仏法は成長できないのだ。つまり『地』とは慈悲を表す。慈悲とは肥沃な土地だ。肥沃な土地は、一切の有情衆生が具備する成仏の本質で、それがなければ種を蒔き芽が出ることはない。地蔵菩薩は大慈悲肥沃な土をお持ちなので、一切衆生の成仏の種子を萌芽させ成長させ成仏させることができるのだ。菩薩の根本の願は、一切の有情衆生を救うことだ。根本とは基本的概念だ。有情衆生は動物も含む。そなた達がなお動物の肉を食しているなら、法会に参加してはならない。なぜなら、それは動物を自分たちが食べるものだと思っているということだからだ。動物は過去世でしっかり行わなかったために、この一世で動物になったに過ぎない。だが、動物が人類より慈悲に富んでいることもある。非常に多くの実例において、動物が別の動物、さらには人類をさえ救う姿を見ることができる。

生活において、人類は最も多く衆生を傷つけている。現在地球は崩壊へと向かっている。それは人類が衆生を傷つけるからだ。人類が戦争をするのは、衆生を傷つけるからだ。世界中の多くの学者が、仏法だけが人類の問題を解決出来ると公開の場で言っている。人類は常に平和を追求している。平和はどうすれば得られるのか?戦争を以って戦争に対すれば平和が得られるのではなく、仏法に寄らなければ平和は得られないのだ。地蔵菩薩の『地』とは、一切慈悲を具備する肥沃な本質で、一切の有情衆生に生死を解脱させ、さらには成仏させられるのだ。『蔵』を、地獄に隠れて衆生を救う意味だと考えている人が多いがそうではなく、如来蔵なのだ。すべての有情衆生は仏と無二無別の成仏条件を備えており、あらゆる衆生はこの寶蔵を備えている。だが、自分の貪嗔痴の汚れのために、この寶蔵を覆い隠してしまい、見えない。そのため、仏法学習と上師の教導を通さなければ、如来蔵を出現させ、光を再び開発することはできないのだ。

誰にでも成仏の機会がある。だが、仏と上師の教導を聞き入れられるかどうかを端視し、自分の成見を捨てなければ、如来蔵は出現しない。菩薩は覚有情だ。有情とは生死を恐れ、愛、恨、貪欲、欲望があるだということだ。植物にも感覚があるのに、なぜ植物は食べてよくて、肉は食べてはならないのか?という人がいる。植物の感覚と有情衆とは異なる。なぜなら有情衆は自分の選択、好き、嫌いを知っており、非常に濃厚な情欲を有するからだ。植物はこの種の条件を備えていない。有情衆は移動の能力を有する。ある種の植物は移動可能だとも言えるが、畜生界の移動能力とは異なる。いわゆる有情衆は、慈悲、仏の本性を備えるが、植物にはない。そのため、有情衆ということはできないのだ。

菩薩は覚有情と呼ばれる。なぜならすでに輪廻の苦痛を知っておられ、二度と輪廻しないよういかにして修行するかを知っておられ、一切の有情が輪廻の苦痛を離れられるよういかにして助け、教導するかを知っておられるからだ。輪廻があると信じない人が多い。人が死ねば必ず天界へ行くと信じている人は、特に信じない。ある主、神明、神社を信じてさえいれば、人は死後、必ず天へ行けると、非常に多くの宗教ではいう。これは正しくない。この一生で人として生きる過程の中で、次の一世に何になるかが決まるのだ。最も簡単な論理により推論すれば、もし誰もが死後必ず天に生まれるなら、あらゆる人の死に方は同じであるはずではないか。

死後必ず天へ行くなら、天の天主、或いは神社の神はそなたを領民、子孫と考えているはずだ。それなら、一人一人の死に方が違うはずはない。また、不慮の事故、病気、手術或いは他の非常に複雑な死に方をするはずがない。それなら、地球上の人類、自分の領民の面倒を見ていないということになるのではないか?それでは、子供が成長する前に、すべての子女に平等な養育を授ける為の方法を父母が使い切ってしまうようなものではないか。当然父母も贔屓はする。この子の方が好きで、あの子はあまり好きじゃない、というのはあるだろう。だが、たとえそうだろうと、食事の際にはみないっしょに食べる。ただ、あの子は野菜が好きだから、というので多めに与えるという程度はするだろうが、基本的には平等の心で養育するものだ。もちろん例外はあるだろうが、基本的にはそうだ。長女がこの種の教育を受けたなら、末の娘もやはりそのように育てられる。末の娘を特別に気に入っている、というのなら、別だが、普通は平等に世話をするのだ。なぜならすべて自分の子女だからだ。

死後は必ず天へ上れると考えるなら、天上の責任者が国王であろうと天主であろうと神道の神であろうと、地球上の人類を平等に世話すべきではないか。どうして一人一人違うのか?この事は研究する値があるだろう。いわゆる菩薩は覚有情だ。なぜなら輪廻の苦をご存知だからだ。どうして未来世を信じない人がいるのか?なぜならそれは、この一世が最も重要で、未来世を見たことがないからだ。どうして過去世があると信じない人がいるのか?なぜなら、過去世を見たことがないからだ。現在、世界中の非常に多くの国の文献に、自分の過去世を知ったという事が記載されており、しかも証拠もある。欧州、アメリカにもこの種の文献はとても多いが、みな研究していない。

自分に過去世があったかどうかをどうすれば体感できるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に多くの一卵性双生児を見たことがある。医学的には、同一の卵子から分裂して生まれた二人の子供は、本来完全に同じはずだ。それなのに、非常に多くの一卵性双生児は、二人の性格に絕対的な差異があり、好きなものにも差があり、後の成長にも差があり、最後には往生にも差がある。これは医学では説明がつかない。同じ卵子であれば、全く同じはずではないか。なぜなら複製品なのだから。どうして違うのか?それは、二人が過去世で為した事が違うために、それがこの一世に影響しているのだ。

どうすれば未来世があると分かるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは自身のこの一生の修行の経験を用いて、簡単に説明しよう。我々の未来世は死後でなければ出現しないのではない。実は毎日寝た後、明日も、もう一つの生活と世間の出現なのだ。我々は毎日同じ作業を繰り返しているようではあるが、気をつけて見れば、毎日繰り返すものにはいくらかの違いがある。眠りにつき、翌日起きる。これは仏法的に言えば輪廻なのだ。新しい始まりなのだ。簡単に言おう。子供の頃から見れば、我々が母の胎内から生まれて今日まで、見た目は変化している。人は老いれば変わるのは当然だ、と言うものが必ずいるだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは最近、自分の2009年の写真を取り出してみたが、髭が少し白くなった以外は、現在と比べて変わっていない。なぜ変わっていないのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが輪廻の時間を遅くしたからだ。そなた達は今は若いので、深く感じてはいないだろう。だが、40、45歲を超えた人ならわかるはずだ。自分の現在の様子と以前の様子とを比べてどこに差があるだろうか?そなたを知らない人は、そなたが誰か分からないだろう。科学的には、年を重ねたので変わったのだ等の言い方があるだろうが、仏法によればこれこそ輪廻なのだ。良い輪廻からよくない輪廻へと、ひたすら輪廻しているのだ。心の状態も、常にひたすら輪廻している。我々は何も考えないということもない。よって思想もひたすら輪廻し、良と悪が絶えず回っているのだ。

好きと好きではない、嫌いと嫌いではない、聞きたいと聞きたくない、良いと悪いとはどういうことだろうか?なぜならひたすら輪廻しているので、苦痛が生まれるのだ。何か食べに行く時さえ、あれこれ考える。これも輪廻だ。つまり、輪廻とは、死を待つ必要はないのだ。輪廻、次の一世を信じないなら、なぜこの一世で努力するのか?どうせこの一世で必ず死ぬのだ。自分を諦めホームレスになってしまう人もいる。それは自分に未来があるとは信じていないからだ。自分に輪廻があると信じていないなら、どうして放棄してしまわないのか?日本の福利では、仕事がなくても食べていける。政府が世話してくれるからだ。それなのに、なぜ努力して事を為し、勉強し、子供を養育するのか?現在だけを信じているなら、不要ではないか。

この一世は70、80年あるだろう。だが、それでも非常に短い時間だ。仏はかつて、輪廻を信じない人は必ず邪見を生じると開示くださった。邪見とは自分と衆生を傷つける考えだ。輪廻を信じる人は、未来をさらに良くしようと今から準備をしている。人類は一生努力して事を為す。それは、良い未来があると信じているからだ。それだからこそ、努力して自分を変え、何かを失うのを恐れる。それは、なぜなら輪廻があると信じているからだ。自分は信じていないと口では言いながら、内心では信じているのだ。信じていないなら、なぜこんなに苦労するのか?一番を争って、それでどうなのだ?どうということもない!メダルを受け取ればうれしいだろうが、家に置いておくだけでは何も感じない。仕事で一番を争う。管理職になったとてそれが何なのだ?給料が少し多くはなるだろう。だが責任も非常に重くなる。

輪廻については、我々は実は心の中ではっきり分かっているのだ。認めていないに過ぎない。覚有情とは、まさに菩薩が輪廻をご存知だということだ。そのため、衆生の輪廻を断つのだ。本願の『本』とは根本、基本だ。つまり、地蔵菩薩がなされる一切の行為、思想、言語はすべて、発した根本願力から離れることはない。例えば、料理を作って人に食べさせようとする時、料理の根本から離れることはできない。調味料はどれだけ入れるか、どのくらい煮るかなどから離れることはできないのだ。これらから離れれば、料理は不味くなってしまう。いわゆる根本とは菩薩の言語、行為、動作等の一切が発した誓願から離れないことだ。

地蔵菩薩が発した願は『地獄不空、誓不成仏(地獄が空にならない限り、成仏しない)』だ。この願のために、地蔵菩薩は地獄を守り、度鬼を専ら行うと考えている人が多いが、実はそうではない。『地獄不空』とは、第一に、地蔵菩薩は衆生に、いかにすれば地獄に堕ちないかを教え、第二に、地獄に堕ちないように衆生を救い、こうしなければ、地獄が空になる機会はない。いわゆる『空になる』とは地獄に堕ちる衆生がいなくなるということだ。第三には、地蔵菩薩は地獄へ行かれ、衆生がなるべく早く地獄を離れられるように助けてくださる。地獄へ赴けばすぐに、地獄の衆生を救い出すのではない。

どうして地蔵菩薩はこの願を発せられたのか?地獄にいる時間は非常に短いと思っている人が多い。また、地獄に堕ちる、その苦しみは何なのかが分からない人が多い。今は肉が好きなので先ずは肉食し、殺生したければ先ずは殺生し、タバコが吸いたいなら先ずはタバコを吸う。リンチェンドルジェ・リンポチェがどんなに諌めても、どうしてもやめられない。人はほんとうに奇妙だ。喫煙すれば病気になることは明らかなのに、それでも吸う。仏はかつて、学仏を人に勧めるのは非常に困難だ、と開示くださった。『地蔵菩薩本願経』でもはっきりと触れておられる。宇宙全体で最も導きにくい衆生は地球の人類だ。頑固で聞き分けが悪く、自分はすごいと思っている。世界中の科学者と医者がみな、喫煙は身体に良くないと言っているのに、たくさんの人が喫煙している。自分は情緒が不安定なので、タバコを吸わなければ思考できない、はっきりと考えることができない、などと理由をこじつけている。これこそ不信だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子は必ず菜食し、喫煙してはならない、というのは、これが地獄に堕ちる根だからだ。喫煙する人は高い確率で地獄に堕ちる。肉食もそうだ。これは『地蔵菩薩本願経』が仰せなのだ。日本人全体が地蔵菩薩を信じているのに、地蔵菩薩が経典中で講じる話をどうして信じないのか?地蔵菩薩が経典中で講じる話を信じないなら、地蔵菩薩を拝んでどうするのだ?これは論理的に矛盾している。学問において教授の話を信じないなら、単位が取れるだろうか?不可能だ。どうして菩薩が講じる話を聞き入れないのか?菩薩に加護だけを求めている。だが、そなたが聞き分けが悪いなら、菩薩が加護をくださるはずはない。

日本で2011年に大地震、津波が発生した後、リンチェンドルジェ・リンポチェはある写真を見た。それは、その地の倒れなかった地蔵菩薩石像を人々が拝んでいるものだった。地蔵菩薩をそこに祀っているなら、そのように大きな災難は起きないはずなのだ。それなのに、どうしてこんなにも大きな災難が起きたのか?それは、2011年の地震が発生した地域は、魚を捕らえ、魚を売って生活していたからだ。殺生していたので、災難も多いのだ。殺生すれば災難があるとは皆信じず、天災だと思っている。天は我々に災いをもたらすことはない。殺生が重いので、天災が起きるのだ。地蔵菩薩がこの願を発せられたのは、衆生が地獄に堕ちる確率があまりにも高いからだ。経典の説に基づけば、地獄の衆生は降雪時に舞い散る雪のように、数え切れないほど多いという。

地蔵菩薩は成仏なされるだろうか?恐らく非常に難しいだろう。なぜなら非常に多くの衆生が地獄に堕ちるからだ。学仏しても地獄に堕ちる。ちょっとの不注意で堕ちるのだ。そのため、地蔵菩薩は非常にご苦労の多い菩薩であられるのだ。地蔵菩薩は地獄のために生まれた菩薩だなどと誤解してはならない。地蔵菩薩は六道(天、阿修羅、人、畜生、餓鬼、地獄)の衆生を救うために発願された。願から言えば、地蔵菩薩はすでに成仏されている。なぜなら仏も、衆生が輪廻に堕ちないこと、最も根本的には地獄に堕ちないことをお望みだからだ。地獄に堕ちればどんなに苦しいかを知らず、今のところはそんなに苦しそうだとも思えない、と考えている人が多い。実は死を待たなくとも、自分が地獄に堕ちるかどうかを知ることができる。死への過程、死の5年前の生活で、ほとんど90%は次の一世にどの道に生まれるかが、非常にはっきりと確定する。

死の前に大小便を垂れ流し、閉じこもり誰にも会わず、大声で叫ぶというような人がいる。この種の人は基本的に畜生道に堕ちる可能性が高い。死の前に意識を失い、何も聞こえない。意識を失うのは良いじゃないか、と思う人もいるだろう。実はこれも畜生道に堕ちる可能性が高いのだ。死を前にして、小さなことのために、一日中小利や小事に細かくかかわり、金銭や名誉や感覚を手放せず、一日中人と争っている。この種の人は餓鬼道に堕ちる可能性が高い。死を前にして手術ばかり受けている人は地獄に堕ちる可能性が高い。喫煙者は注意せよ。手術を受ける可能性が高い。なぜなら喫煙は肺、心臓に悪いため、手術に至る可能性が高いからだ。遅かれ早かれそうなるだろう。この一生で死の5年前に手術ばかり受けていれば、それは足だろうと手だろうと、そうであれば地獄に堕ちる可能性が高い。なぜなら、足や手を切られ、胸を開けられ、臓器を取り出される地獄の様子が経典では触れられているからだ。

2500年前は西洋医学はなかった。当時は医者に掛かっても、手術であちこち切り刻まれることはなかった。医学が発達し、地獄に堕ちる確率はますます高まっている。他の地域を言わなくとも、中国でも、経済が未発展で改革が行われる前は、糖尿病、高血圧、心臓病を患う人は非常に少なかった。だが、近頃は何でもある。なぜなら肉食、殺生する経済的余裕ができたからだ。日本でもそうだ。日本でもかつてはこの種の病は非常に少なかった。経済発展の後に、殺生を開始しひたすら肉食するようになったのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは日本では、中国古文化が非常によく保護されていると思う。日本人の食物保存の方法に、中国の古文化を見ることができる。日本人が長寿なのは、この地に福気があるからではなく、食べているもののおかげだ。だが近頃は西洋化され、身体に良くない食品を食べている。祖先が伝えてくれた食物を忘れ、西洋人の食物を食べている。喫煙を続けるがよい!手術に至る可能性は極めて高いのだ。

『経』とは、仏がかつて仰せになった話を指す。『地蔵菩薩本願経』は上、中、下卷に別れる。前回日本人は上、中卷を唱えた。下卷はまだ唱えていない。この経典は唐于闐国三蔵沙門実叉難陀が翻訳した。つまり訳者は中国人ではない。三蔵とは顕教において、経、律、論のすべてに精通している法師だ。経とは一切の経典、論とはすべての菩薩が仰せになった仏法に間する理論、律とは仏法中の一切の戒律だ。経、律、論に精通した人でなければ、経典を翻訳する資格はない。学問、梵語、日本語、中国語が分かる学者なら翻訳できるというものではなく、必ず三蔵でなければならないのだ。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェであっても経典を翻訳する資格はない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは出家衆ではないので、経典を開示することしかできないのだ。

第一品は『忉利天宮神通品第一』と言われる。仏は、宇宙は欲界天、色界天、無色界天の三界に分かれる、と仰せだ。地球は欲界天の内にある。道教であろうと、神道、回教、プロテスタント、カソリックであろうと、人世間で拝む一切の天はすべて欲界天の中にある。どういう人が死後に欲界天に生まれるのか?それは、在生時に十善戒(不殺生、不邪淫、不偷盜、不悪口、不綺語、不打妄語、不飲酒等)を修めた人だ。飲酒しない、と聞いて日本人は怖くなっただろう。なぜなら日本人は少しでも飲酒する人が多いからだ。不飲酒とは飲酒を節制できないことだ。酒を毎日の必需品にしてはならない。この他、喫煙、麻薬吸引もダメだ。十善戒は『不貪』も含む。つまり、自分の分でない財を手にせず、他人に金があるとなると、なんとかしてその金を手に入れようとする。これには、少しの損も受け入れられない人も含む。商売は儲けることもあれば損をすることもあるものだ。どの商売も必ず儲けられるなら、この世の中に貧乏人はいなくなるはずだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェがこの一生で商売し、金を儲けられているのは、ひたすら人に譲り続け損し続けているからだ。損すればするほど、儲けられる。すべての金の出入りをきちんと管理し、何が何でも儲けようとする人の晚年は必ず金に困る。なぜなら、あまりにもちまちまとこだわるからだ。そなたがあまりにもちまちまとこだわるので、相手もそなたに対してちまちまとこだわる。そなたが計算すれば、相手も計算する。これこそ因果だ。よって、自分の分でない財を手にしてはならない。第二に、嗔恨の心を起こし、何かというと怒っていてはならない。更年期だから、ストレスがあるから、などと近頃の人は説明する。男女を問わずこのように言う。或いは、騙されたので、恋愛がうまく行っていないので、男に捨てられたので、などという。女性に捨てられる男性も実は非常に多く、しかも男は女性を殺すこともある。捨てられたので、相手を殺してしまう。これが正に嗔念だ。嗔念を抱く者は、理由を見つけてそれを正当化しようとする。人に罵倒されたから、人が憎いから、なんだかんだとたくさんの理由を並べる。向こうに害を加えられたなどと、言うが、これこそ嗔念だ。嗔念がある人は、必ず衆生を傷つける。

どうして仏は我々に衆生の肉を食べてはならないとお教えになるのか?なぜなら衆生の肉さえ食べられるなら、必ず嗔念を抱くからだ。釈迦牟尼仏から現在まで、日本以外では、仏教では宗教のために戦争を起こしたことはない。日本では江戸時代に、宗教のために、小さな戦が起き、たくさんの人、十数万の信衆が命を落とした。十善法は不痴も含む。痴とは因果を信じないことだ。やってから考えれば良い、いつか処理しよう、と考えている。これは良くない。在生の人が十善法を修めるなら、死後に欲界天へ行き、天人の福報を受けることができる。

忉利天とは欲界天中の一つの天だ。色界天へ行けるのは、在生時に修行した人、禅定、禅を修行し、しかも欲望が非常に少ない人だ。色界天は、透明の形状に見える。だが、欲界天の欲望のように重くない。無色界天とは形状さえもなく、光だけがある。非常に多くの学仏人は無色界天に生まれる。

忉利天宮神通品第一中の『神通』とは仏の神通だ。人であっても神通を修めることができるが、最多でも5種の神通しか修められない。仏は天眼通、天耳通、神足通、私心通、宿命通、漏盡通の6種の神通を有しておられる。天眼通とは鬼の様子が見えるというのではなく、全宇宙のものが何ものにも遮られることなく見える、ということだ。こうでなければ真の天眼通ではない。人類にも天眼はあるが、人類の天眼には限界があり、ある人があるところである事をやっているのが見えれば、すでに十分だ。自分は見えるなどと思ってはならない。修行人でなければ天眼を開発することはできない。他人にちょっと何かしてもらえば、天眼が開けるというのでもない。我々人は本来この条件を備えているが、この一生で食べる食物、備える心構えのために、この種の能力が覆い隠されてしまっているのだ。この種の能力を開発するには、ちょっと何かしてもらうとか、ちょっと加持してもらうとか、読経するとか、そんなことで天眼を開くことなど絶対にできない。これは嘘だ。絕対に不可能だ。

天耳通はあらゆる音を聞くことができる。経典で説くように、地下に隠れた虫の音さえ聞くことができる。これこそ天耳通だ。天眼、天耳があればどんなに良いか、と思っている人が多いが、決してそうではない。この種の条件があるなら、寝られなくなる。天眼、天耳を有する人は、もともと禅定の功夫を有し、聞くか聞かないか、見るか見ないかを選択する能力を持つ。その能力がないなら、万が一にも好奇心で『自分に天眼があったら未来がどうなるか分かっていいな。自分に天眼があれば、この男性の自分に対する将来の心が分かるのに』などと思ってはならない。見えれば、必ず後悔するだろう。『天眼があれば、将来どれだけお金が稼げるか分かるのに』などと思ってはならない。必ず後悔するだろう。

他心通は衆生が何を思っているか分かることだ。最もすごいのは、衆生が過去世で何であったか、未来世は何になるかが分かることだ。仏だけがこの能力をお持ちだ。自分の過去世に、たくさんの人が強い興味を抱いている。万が一にも誰かに過去世を尋ねてはならない。その人は、そなたが喜ぶことか、喜ばないことを言い、必ず金を騙し取るだろう。仏は私たちにどうやって自分の過去世を知るのかを教えてくださった。自分のこの一生で得られたものこそ、過去世で為した果報だ。簡単だ。例えば、この一生で同じ家庭の兄弟姉妹で兄の暮らしがそなたより良く、そなたは兄より暮らしが劣るなら、過去世で為したことがこの一世で現れたのだ。自分の過去世を尋ねる必要はない。なぜなら経典に基づけば、大阿羅漢だけが、人の過去の500世を見る資格があるからだ。我々の過去世は500世だけだろうか?そうではない。数万世、数十万世あるのだ。過去世を見る必要はないとはどういうことだろうか。自分のこの一世で何を得て、何を為したかを見るだけで、過去世で為したことがわかるからだ。未来世はどうなるのか?それはこの一世、現在為していることによるのだ。

他心通、とは動物、昆虫等を含むあらゆる衆生が心中で何を思っているかを完全に知ることができるということだ。たくさんの人がリンチェンドルジェ・リンポチェの面前に跪くと、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず、彼らに関する事をいくらか口にする。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分に他心通があるとはとても言えないが、少なくともそれに近いものはある。そのため、万が一にも心に悪念を抱いてリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来てはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは一度目や二度目は気づかないかもしれないが、いつか必ず見破るだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは入定すれば分かる。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェを騙してはならない。

宿命通とは過去世、未来世が分かることだ。最もすごいのは、自分が分かることだ。他人が分かっても、どうということはない。自分を知る方がすごいのだ。自分の過去の過ちを知れば、この一生で再び過つことはない。自分が過去で行った正しいこと、衆生に利益できる事が分かれば、この一生でも継続して努力するだろう。自分がなぜこうしたか分かるなら、未来世でもそうするだろう。一切の修行人は、必ずゆっくりと自分の過去世を知る。だが、これは突然見えるのではなく、修行の中で自分の過去世がどうであったか、この一生はどうであるかが分かるのだ。真の宿命通とは、好奇心で他人を理解する事ではない。真の他心通とは、好奇心で他人を理解する事ではない。この二種の神通で最も重要なことは、衆生に利益し、救う事だ。

かつてある人がリンチェンドルジェ・リンポチェに聞きに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに、今このようであるのは、過去世にどういう事を行ったからだ、と告げた。ここにいる多くの弟子もこうだ。他心通と宿命通とは衆生を救い、衆生に信心を芽生えさせることができるのであって、この二つの能力があるので、好奇心で他人を理解するというのではないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの生活において、普段は誰かを理解しようとは思わない。誰かがリンチェンドルジェ・リンポチェの面前に跪き、仏法の救いを求めるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはその人を理解しようとする。いつでも他人を理解しようとするなら、どんなに大変だろうか!何を思っているかリンチェンドルジェ・リンポチェに知られてしまうので、リンチェンドルジェ・リンポチェに近づくのはやめようなどと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に近づいてもらう必要はない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたの名前と干支を知るだけで、そなたが何を思っているか分かるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェがこのようにするのは、自分を守るためではない。そなたが何を思っているかが分からなければ、どのようにしてそなたを助けるかが分からないからだ。そなたの事を知り、そなたに対決しようというのではなく、そなたの問題を知りたいのだ。これまでどうしていたのかを知り、どのような方法を用いて助けたらいいのかを知りたいのだ。よって、他心通と宿命通とは、他人をコントロールするためのものでは決してなく、他人を救うためのものなのだ。

神足通が出現した後は、全宇宙のあらゆる場所へ行くことができる。この種の能力はどのように証明できるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは他人のことは言わない。自分の父について言おう。リンチェンドルジェ・リンポチェの父はかつて仏教ではなく、道教を修行していた。そして、どんな宗教であっても、神足通を修行することはできる。ある晚、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟が4時頃下校したはずなのに、8時頃になっても帰宅しない。リンチェンドルジェ・リンポチェの母は非常に心配し、夫に言った。リンチェンドルジェ・リンポチェの父はしばらく入定し、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟はどこそこでパフォーマンスを見ているので、何時頃帰宅する、と言ったが、本当にその通りだったのだ。

また、リンチェンドルジェ・リンポチェの父はリンチェンドルジェ・リンポチェの母を娶る時、リンチェンドルジェ・リンポチェの母方の祖父はすでに第二次世界大戦時に日本軍の飛行機に爆撃されて死んでいた。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェの父は会ったことはなかった。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェの父はリンチェンドルジェ・リンポチェの母を娶った後、ある日母方の祖父が現れたのを見た。祖父はリンチェンドルジェ・リンポチェの父に、一人目の息子が生まれるので、墳墓を探すように、と言った。これは中国人のある地方の習俗だ。一人目の外孫が生まれる前に、妻は実家の墓参りをするのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの父はリンチェンドルジェ・リンポチェの母方の祖父に会ったことはなかったが、知っていた。これこそ神足通だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの人にポワ法を修めてやっている。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場に行っていないが、亡者が何を思っているかが分かる。ここにいる非常に多くの弟子もかつて親族や友人の往生時に、リンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法超度を得たことがあるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに亡者の考えを伝え、しかも非常に的確だった。これを用いて何をするのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がすごいと見せびらかしたいのではなく、亡者の親族に恭敬心を起こし学仏してもらいたいのだ。祝儀袋を多めに欲しい、というのではない。そなた達も分かっているだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの修法後に、供養するかどうかはそなた達次第だ。どうして仏は、この一品を神通品と呼ばれたのか?なぜなら仏は、神足通を用いて忉利天へ行き仏法を説かれたからだ。最後の一項の神通は漏盡通だ。これは仏だけがお持ちの神通だ。つまり、何らかの業力に引きずられ、宇宙において何らかの輪廻を行うことは決してない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは『地蔵菩薩本願経』と第一品の名称について少し説明しよう。みなも知っていると思うが、経典の講釈とは、そなた達を率いて読経すればそれで良い、というものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは二言開示しただけだが、すでに一時間と5分も話している。リンチェンドルジェ・リンポチェは講釈を続けることができる。なぜなら、自分の修行経験と恭読した多くの経典から、仏が説かれたものの意味をゆっくりと理解し、そうして仏の含意を知ったため、信衆に対して明確に講釈できるのだ。信衆は聞いても懐疑を抱いてはならない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェが発明したのでも、言い出したのでもなく、仏が説かれたのだからだ。

仏にはさらにもう二つのお名前、真語者(仏が説く話はすべて真実だ)と実語者(実際に存在している)がある。仏が弘法の初めから涅槃されるまで、毎日講じられた話こそ仏法だ。『あなたのボーイフレンドはハンサムだから、彼と出かければ鼻が高いだろう』とか、『あなたの奥さんは綺麗ですね』とか、『この人は金がある。頭を働かせて、この人とビジネスをやったらいいですよ』などとは言わないのだ。仏はこの種のことは全く言われない。講じるのは仏法なのだ。そのため、仏が仏法を講じる時には、絕対に衆生に利益する。我々は仏が仰せなのは真実語であり、自分に対して何らかの利益があるとはっきり弁えなければならない。仏は2500年前に仰せになったのだ。仏が説かれたこれらは、ご自分にとって助けになるとしたなら、今では仏は世間におられない。仏は我々が信じることを望んでおられるのか?とそなた達は問うだろう。だが、仏はすでにおられない。そなた達が仏像を信じることを望んでなどおられないだろう。そなた達が仏を信じたとしても、仏には実質的な助けも利益もないのだ。

よって、我々は仏が経典で講じる話を信じなければならない。なぜなら仏は我々を救ってくださるのであって、我々を批判したり、我々に対処しようというのではない。仏法により自分を改めるかどうかは、そなたが自分で決定するのであって、仏が我々を罰したり、我々を脅したりするのではない。みながこの点を弁えたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を講釈しよう。

あらゆる経典の書き出しはすべて『如是我聞(私が聞いたところでは)』だ。この4文字の最も重要な定義は『この経典の内容は、我々が言ったものでも考えたものでもなく、我々の学問でもなく、仏の仰せを真に聞き、講じるものだ』ということだ。どうして『聴』を用いず『聞』を用いるのか?それは『聴』は聴覚だけで、聴いても忘れてしまうが、『聞』は真心で定中で仏の仰せを聞くので、コンピューターにデータを入力するように、データを改めて取り出して、我々に見せることができるのだ。

よって、経典の書き出しがこのようでないなら、基本的には偽の経典だ。この四文字を適当に書く者もいるだろう、反駁する人が必ずいるだろう。だが、書く勇気があるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは敬服する。なぜなら『如是我聞』とは仏の弟子を代表しているからだ。2500年後、我々は自分は仏の弟子だということはできるが、仏の身辺で仏法を聞いたことはない。よって『如是我聞』ということはできない。仏のお側で自ら仏の仰せを聞いたものでなければ、この言葉を口にする資格はない。我々には資格はないのだ。

今日この経典が存在するのは、我々が聴きたいからではなく、間に非常に多くの複雑な因縁があるのだ。先ず、仏が仰せの仏法を聞こうとする人がいて、これら仏法を伝えようとする人がいて、これら経典を世界各地で現地の言語に翻訳しようとする人がいて、経典に基づき如実修行し、自分で証悟し、開示しようという人がいて、それを聞こうとする人がいる。これは非常に複雑だ。よって、自分が聞きたいのだから、聞かせてくれれば良い、などと思ってはならない。特にリンチェンドルジェ・リンポチェは日本では知られていない。それなのに、そなた達はどうして来たのか?それは、そなた達が前世で地蔵菩薩を拝んだことがあるため、この一世で聞く因縁があるからだ。この一世でやはり真面目に聞かないなら、また無駄になってしまい、次の一世に再来することとなる。

つまり、書き出しの『如是我聞』とは、聞き入れるように言っているのでもある。聞き入れないなら、記憶することなど有り得ないだろう。記憶しないなら、そなた達は行わないだろう。『如是我聞』とは阿羅漢が我々に、自分たちは聞いたので今日みなに伝える、と告げているようだ。だが、みなは経を聞く心構えは真面目に聞かなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェがたくさん言っても、全然理解できないと思い、聞きたくないと思い、或いは自分が聞きたい部分にまだ至っていない、などと思ってはならない。自分が聞きたい部分が聞けた、と思ったなら、それは仏法ではない。なぜなら経典で講じるのは、すべてそなたが聞きたくない事ばかりだからだ。仏が説かれるのは、すべてそなたの過ちだ。そなたが改め、心中から改めることを望んでいるのだ。どうしてこれをみなが好むだろうか?自分が理解できることを聞きたいと思う。『他のところではこうではない。どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェはこうなのか?』と思っているだろう。

他人が講じることをリンチェンドルジェ・リンポチェは批判しない。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示するのは、リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を深く信じ、自分の思想で仏法を講じることはできないということだ。用いるのは仏がお教えの方法、三恩根本上師であられる尊勝なる直貢チェ・ツァン法王がお教えの修行方法だ。それをリンチェンドルジェ・リンポチェが自分で験証後に、経典の講釈を始めたのだ。さもなくば、リンチェンドルジェ・リンポチェはとてもできない。経典の講釈を間違えば、その果報は非常に重い。仏菩薩を用いて金儲けする人の果報も非常に重いのだ。

『如是我聞』とは、阿羅漢が我々を代表して仏法を聞くと簡単に言うのではなく、重要なのはこの一分一秒、みなも一切の有情衆生を代表し仏法を聞いているということだ。こうでなければ慈悲ではない。分かりたい、理解したい、と願うなら、何を以って一時間以内に仏法を理解できるか考えてみるがよい?修行したことがないではないか!よって、心を込めて聞くのだ。簡単に言えば、虚心を用いて仏法を聞き、『自分は仏学院で学んだことがある。他の人はこうは言わない』などと思ってはならない。他の人はそなたの供養が必要なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは要らない。よって直接言うのだ。仏が仰せの通り、リンチェンドルジェ・リンポチェも言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは調子よくいうこともできるのだ。そなた達を率いて読経後に『みな喜びなさい。今日は地蔵菩薩を拝んだので、地蔵菩薩が加護してくれます。今後は健康でいられますよ』といい、三回手を打ち、鐘を鳴らし、賽銭を投げる。

これは仏法ではない。仏法はこのようには言っていない。これはここの習俗だ、とそなた達はいうだろう。そうだ。これこそ習俗だ。仏法ではない。地域によって拝仏の方法はいくらか違う。そのため、これは仏法だとは言えない。風俗と習慣なのだ。仏法を講じるなら、経典で講じる通りに、一字一句たりとも経典を離れず、経典に沿った内容でなければならない。

経典では『一時仏在忉利天』という。いつかは分からないのだ。仏は仏法を講じられる際に通常は、時間、地方、請法者などについて特に注意される。仏は通常は自ら仏法を講じられない。仏に仏法を講じるようお願いしなければならないのは、仏が偉そうにしていたり、傲慢であったり、お願いしてから講じたりするのではなく、縁のわけだ。相手は聞きたくなければ、求めないからだ。テレビを見たければ、自分の好みのチャンネルを選び、自分の好みの歌手の歌を聞きたいと思い選ぶだろう。これこそ縁なのだ。好きな食べ物、衣服まですべては縁だ。そなたが聞きたくないなら、仏がどれだけ講じたところで、役には立たない。なぜなら、受け入れようという心がないからだ。そのため、経典中では必ず法を講じた場所、時間、請法者について述べる。

誰かがリンチェンドルジェ・リンポチェの面前に跪くと、リンチェンドルジェ・リンポチェは一言目に必ず『どうしたのだ?』と聞く。リンチェンドルジェ・リンポチェは、そなた達がどうしたのかをいくらかは知っているが、それでもどうして尋ねるのか?それは、そなた達が口を開かなければ縁がないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェと縁がないので、リンチェンドルジェ・リンポチェが『何かあるのではないか』と尋ねても、『何もありません』と答える人がいるのだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは『それは良い。そうであれば、そなたは仏だ。なぜなら、仏だけが何もないのだから』というだろう。どうして『自分は何もない』というのか?簡単だ。それは縁がないのだ。さらに、何を聞けばいいのか分からないからだ。また、リンチェンドルジェ・リンポチェが自分を助けてくれる能力があるとは思っていないのだ。よって、何もない、と言うのだ。そなた達は皆このように隠している。

仏が『一時』と言われたら、どれくらいなのか分からない。なぜなら仏は入定されれば行っておしまいになり、阿羅漢にいつとは言われないからだ。だが、間違いなく時間はある。行う時間がないのではない。どうして時間を説くのか?宇宙を研究している人は、宇宙には時間がないことを知っている。時計を持って宇宙に行かなければ時間は生じない。時計がないなら、ほんとうに時間はない。星が行ったり来たりしているようだが、実は時間はないのだ。時間が生じるのは、人の心が動いているため、自然に時間が現れるのだ。地球においても、ロンドンと日本の時間は違う。どうして違いが生まれるのか?それは、人の心が動き、地球を動かすからだ。そのため、時間が生まれるのだ。地球が動かないなら、時間はない。太陽はひたすら一ヶ所に固定され、一方は暗黒で、もう一方は昼間というようになる。

どうして時間について説くのか?仏は、心念が動いて初めて行かれ、心が動かないなら、行かれないからだ。仏はある時間は神足通を通して忉利天へ行かれる。どうして行かれるのか?『母に説法するため』だ。すべての経典では、仏は誰のために説法するとは言われない。原因があり、誰かが求め、それで説法される。だが、ここだけは母のために説法されるのだ。仏はかつて、最も親孝行な人は学仏修行する人だ、と開示なさった。それは、学仏修行すれば父母、祖先を輪廻の苦痛から解脱させられるからだ。学仏しないなら、それは真の親孝行ではない。父母に対する親孝行には、食べる物、着る物、住むところ、医薬の四つの供養が必要だと、経典ではいう。これは最も基本的な四つの供養だ。この四つの供養ができていないなら、親孝行について語る資格はない。そなた達は、父母はお金があるので、自分の事は自分で面倒がみられる、と言うだろう。だが、父母にちょっとしたものをあげて喜ばせてあげることだってできるのだ。それなのに、そなた達は父母はお金があるので不要だと考える。父母はそなたのお金を見ているのではない。見ているのは、そなたの心だ。よって、たまにはネクタイの一本でも買って父に贈るといいのだ。

釈迦牟尼仏は天宮へ行き母のために仏法を説かれた。仏の母君はすでに天におられ、すでに天の福報を受けられているのに、なぜ母のために仏法を説く必要があるのか?と思うだろうか。それなら、それは誤りだ。なぜなら天に生まれた衆生もやはり輪廻するからだ。六道(天、阿修羅、人、地獄、餓鬼、畜生)の中に生まれれば、必ず輪廻する。釈迦牟尼仏は母の輪廻を望まれないので、神足通を用いて忉利天へ行き母君に説法されたのだ。釈迦牟尼仏の母君は天宮におられたので、仏は母が地球におられた時には母に説法できなかった。なぜなら母君は釈迦牟尼仏をお生みになった後すぐに往生され昇天なさったからだ。

釈迦牟尼仏がお生まれになるまで、地球上に仏法はなかったが、釈迦牟尼仏の前に仏法がなかった訳ではない。釈迦牟尼仏の開示に基づけば、『七仏住世』つまり、七尊仏が地球におられた。釈迦牟尼仏は第五尊であられ、後には二尊がおられる。第六尊は彌勒菩薩が成仏されたが、第七尊はまだ分からない。なぜなら、彌勒菩薩にとってであり、釈迦牟尼仏にとっては一代ずつ伝わるからだ。釈迦牟尼仏の前にもかつて仏がおられた。だが、滅せられ、釈迦牟尼仏の後に再び地球には仏法が現れたのだ。

現在では日本を含む世界で、一、二万年、さらには三万年前の人類文化が発掘されている。これこそ人類の歷史が数千年、一万年だけでなく、かなり以前から続いていることを示している。さらに今では、十数万年前のテクノロジーさえが発掘されている。それは現在の人類にもないものだ。宇宙人がもたらしたものだという人もいるが、実はそうとも限らない。

仏が天界へ行かれたのは、仏がお生まれになった後、母君がすぐに往生されたからだ。釈迦牟尼仏は叔母君に育てられたので、母君がお育てになったのではない。釈迦牟尼仏の母君が死後天界へ行かれたのは、母君に福報がなければ、仏をお生みになることなどなかったからだ。ではどうして短命だったのか?それは母君は在生時に仏法修行をなされていなかったため、息子の福報を受け取る福報がなかったからだ。よって昇天されたのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは簡単な例を挙げよう。尊勝なる直貢チェ・ツァン法王の母君は90歲で往生された。直貢チェ・ツァン法王をお生みになったのだ。福報がおありで当然だ。そのため、高齢者がよく患う簡単な病の他は往生の前にも病が少なくおありだった。直貢チェ・ツァン法王の母君の往生時には、直貢チェ・ツァン法王の関係で、非常に多くの出家衆が読経申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェも読経申し上げたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが読経申し上げた時、非常に多くの出家衆が読経し、非常に大きな蓮花座を捧げているのを目にした。直貢チェ・ツァン法王の母君はその上で昇天されたのだ。これは母君の福報だ。息子が直貢チェ・ツァン法王だからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの事をご家族にお伝え申し上げたところ、皆喜んでおられた。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは適当なことは言わない、見ていないことは言わず、目にしたことしか言わない、と皆知っているからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの母はリンチェンドルジェ・リンポチェを生んだので、福報がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは2年半ほど前に母を台湾に迎えた。医者の見立てによれば、母は三年前に脳卒中を起こした。心室が震え心室と心房が対応せず、血栓ができ、血栓が脳に至り脳卒中が起きる。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェの母は今になっても頭は非常にはっきりしている。リンチェンドルジェ・リンポチェがやっていないこと、何時に戻るなど、どれもはっきり分かっている

仏が母君に説法されたのは、母君が天界におられ、輪廻に堕ちる可能性がなおあったからだ。天人の往生前の苦痛は、人類よりもはるかに大きい。なぜなら天人には五神通があるので、死ぬ前に自分がどこに生まれるか分かるからだ。基本的に、天人を終えた後は地獄に生まれる。それには二つの原因がある。第一の原因は、人道にいた時、十善法を修めていたが、生生世世の悪業を完済できていなかったのに、福報が大きかったので先ずは昇天したが、天道で福報を使い切ってしまったので、輪廻に堕ちるというものだ。普通は先ず地獄に堕ちる。第二の原因は、天界にあって、生前何かの宗教を試したことがあり、何かの神に祈ったことがあったが、死に直面した時、自分のかつての祈り、かつての修行は無駄だった、と気づき、嗔恨の心を起こして地獄に堕ちるのだ。

また、天人は死を前にして五衰の相が現れる。天人になると、20歲の外観を取り戻す。どれだけ老いていようと、天へ行きさえすれば、見た目が20歲になってしまい、しかも顔色が天の色と同じように青色になる。これは経典で説くのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の父がこのようになったのをこの目で見たことがある。リンチェンドルジェ・リンポチェは、父の外観が経典で講じるものと全く同じになるように求め、それが叶ったのだ。第二に、天人となると、天衣を身に付ける。ブランドをあれこれ選ばなくとも良い。天衣がいつの間にか着せられている。第三に、身体中が良い香りを放つようになる。それは、髮の上に自然に花が現れるからだ。第四に、容貌がとても美しくなる。そのため、化粧も基礎化粧品も不要になる。実は修行人の身体にはゆっくりと香りが出現するのだ。第五に、法座が自然に現れる。

五衰の相は次の五つだ。第一に、衣服が突然崩れる。神通を用いても再び出現することはない。第二に、頭髮が乱れる。どんなに立派にヘアスタイルを整えても崩れ、しかも花も消える。第三に、体臭が現れる。つまり、この一生で体臭が強い人は、修行しないなら、畜生、地獄、餓鬼道に堕ちる可能性が非常に高いということだ。肉食すると地獄に堕ちる可能性が非常に高く、男であろうと女であろうと体臭が強いのは、肉や海鮮を食べるからだ。食べたものの匂いを身体が放つのだ。

天人は死を前にして体臭を発し、衣服が崩れる他、いっしょにいた親族が全て離れていき、近寄らなくなる。その人が発する匂いが天人の匂いではなく、他の道に堕ちる人の匂いなので、親族が近寄らなくなるのだ。さらに、心に苦しみを感じるようになる。なぜなら、自分がどの道に生まれるか分かり、また自殺することもできないからだ。天人は自殺できない。人は自殺できるが、自殺すればこの一生の事柄は片付いてしまうのだろうか?そうではない。首吊りであろうと、飛び降りや服毒、割腹であろうと、非常に勇敢なようだが、業によらない死、自らを滅する人は、リンチェンドルジェ・リンポチェが神通で見たところによれば、必ず地獄に堕ちる。

地獄にいるとはどんな感じなのだろうか?真っ暗で、自分一人しか感じられない。しかも、自殺の業報が終わるまで、自殺の過程を絶えずひたすら繰り返す。なぜなら、そなたは人なので、自殺は殺人となり、その業は少なくとも地獄に1000年いなくてはならない。この身体は自分のものだと思っているかもしれないが、身体はそなたのものではない。父母が与えてくれたものだ。その身体を殺してしまえば殺人に等しい。よって必ず地獄に堕ちる。そなたの身体はどうやって来たのだ?父母が与えてくれたのだ。それなのに、身体を損ない、殺してしまうことなどできるだろうか?つまり、自殺した人は必ず地獄に堕ちるのだ。考えてみよ。自分が切腹して死んだとする。業力が尽きるまで、毎日それをひたすら繰り返すのだ。人の思想と風俗はあまりに奇怪だ。

天人に五衰の相が出現すれば非常に辛い。人に比べて何倍も辛い。人は自分が未来世にどこへ行くか分からないので、自分は天へ行けると夢想している。自分がした事に責任も取らず、その結果地獄に堕ちる。天人の寿もいつか必ず使い切ってしまう。寿はかつて修めた福報だ。だが、天に生まれたのでそれで満足し、続けて福報を修めず、他人を助けることもせず、常に自分の福報を享受している。

よって、そなた達もこの一生で自分の福報をひたすら享受しているだけなら、とても酷い死に方をするだろう。福報を享受するとはなんだろうか?喫煙、肉食、深酒、贅沢のための金儲けなどは全て、福報の享受だ。福報を使い切ってしまえば、手術等の種々の事柄が発生するだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは今年死ぬところだったが、結局死ななかった。それは福報があったからだ。衆生がリンチェンドルジェ・リンポチェに害を及ぼそうとしても、リンチェンドルジェ・リンポチェの健康を害せるだけで、他を害することはできないのだ。

仏は母君のために、生死を解脱する法を説かれる必要があった。なぜなら仏は母君に対して子としての恩徳を欠いていたので、お返しになったのだ。さらに、自分の母の生死さえ解脱させてやらないなら、衆生に生死を解脱させてやる資格はないからだ。そのため、この行動は必ず必要なのだ。父母を面倒がり、不恭敬な態度をとる者もいるが、このような人は死後地獄に堕ちる可能性が高い。父が死に葬儀などもきちんと執り行えば、法会まで行う必要はないと考えている人がいる。この種の人こそ親不孝だ。父を見ることもできないのに、父が幸せかどうかがどうして分かるのだ?という人もいる。この種の人も親不孝だ。

母に説法するのは、生死を解脱する方法を説くのであって、『お母さん、どうですか?楽しいですか?』などというのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは母とはあまり話さない。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが今でもかつてのような小さい子供だと、母に思われることをリンチェンドルジェ・リンポチェは望まないからだ。母が、リンチェンドルジェ・リンポチェを自分の息子だと今でも思っているなら、母がこの世を去る時、リンチェンドルジェ・リンポチェが超度させようとしても、母が自分の息子だと思って信じないかもしれない。それでは、リンチェンドルジェ・リンポチェは母を超度させることができないのだ。

もう一つ例を挙げよう。ある時、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王は関房中で、ある極めて秘密性の高い法をリンチェンドルジェ・リンポチェにお伝えくださっていた。当時関房中には直貢チェ・ツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェしかいなかった。ところが、直貢チェ・ツァン法王の母君がそれを知らず関房中に入ってこられた。母君が入ってこられた瞬間、直貢チェ・ツァン法王はすぐ口をつぐみ、また母君に、なんですか、とも聞かず、ただ母君を見ておられた。直貢チェ・ツァン法王の母君はそれを見た瞬間、自分は入ってくるべきでなかったと気づかれ、すぐに出て行かれた。直貢チェ・ツァン法王の母君は修行を良くご存知なので、自分は聞いてはならないと知っておられたからだ。

たとえ母であっても、密法を学ぶ者でないなら伝法することはないし、聞かせることさえない。よって、リンポチェがいれば密法を伝えてもらえ、或いは青海、チベットでチベット人を見れば密法を伝えてもらえるなどと思ってはならない。修行者はある修行果位に至れば、法において母との間もはっきりさせているのだ。『お母さん、どうして入って来たの?何か用ですか?ちょっと待っていて』などと言ったりしないのだ。尊勝なる直貢チェ・ツァン法王はその時ただ母君を見ておられた。なぜなら母君は伝法をかき乱したからだ。仏法は最も尊い。仏法より尊貴なものはないのだ。母が関房に入って来たのは、何か用があったからこそ入って来たのだろう。そなた達なら『お母さん、何?伝法しているから、ちょっと待っていてくれる?』などと言うだろう。ある弟子はこのように言った。当時直貢チェ・ツァン法王は口を閉じられ、母君を見た。リンチェンドルジェ・リンポチェは若輩なので何も言わなかった。すると、直貢チェ・ツァン法王の母君は速やかに出て行かれた。

仏は母に生死を解脱する法を説かれた。母君が天界で楽しく暮らしているか見に行ったのではない。経典では『爾時十方無量世界』と言う。その時、という意味だ。現代人は3D空間についてよく知っているが、6D空間があることが、すでに科学で証明されている。5D空間は見つかったが、6Dはまだ見つかっていない。仏が説かれたのは10D空間、十方だ。仏の仰せは神話だと考える人がいるが、そうではない。科学で証明できるのだ。十方とは科学的に言えば、つまり空間だ。高度等は今は説明しないが、現代人は3D空間は分かっている。科学はすでに5D空間を推論し、6D空間があることも分かっている。だが、証明されていない。つまり、これが十方世界がある理由なのだ。

仏は『一剎那十方無量世界』へ説法に行かれた。無量とは我々が推算できる銀河系ではない。太陽系は宇宙の中の極々小さなシステムに過ぎず、銀河系は宇宙全体の中の一つのシステムに過ぎないことが現在すでに証明されている。宇宙は拡張を続けていると現代科学は証明している。仏はかつて無量と開示くださった。それは算出できず、常に成長しているということだ。仏法は迷信だと考える人がいるが、誰も説明できないだけなのだ。無量世界とは、いくつの銀河系があるか見通せないということだ。その中にいくつかの惑星システムがあり、一つ一つの惑星システムがすべて世界なのだ。

経典では『不可説不可説一切諸仏』とある。言葉では言い尽くせない数字、ということだ。全宇宙の一切の有情衆生は成仏できると仏はかつて開示なさった。つまり、仏は一尊だけではなく、十万、二十万だけではなく、仏が仰せのように億万仏、つまり一億以上もおられるのだ。よって『不可説不可説』とは、十方世界の中に言語では全く言い尽くせないほど多くの仏が来られた、ということだ。なぜか?それは仏が説法されるからだ。一切の仏は誰が偉い、偉くない、誰が優れている、大したことはない、などとの区別はない。これは人が区別するのだ。ある宗教は優れており、ある宗教は良くない、ある宗教を抹殺しよう、浄土宗と華厳宗は比較的良い、などと人は区別する。仏は区別なさらない。釈迦牟尼仏が説法なさるので、すべての仏が聞きに来られたのだ。

どうして諸仏はご存知だったのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは日本の信衆に招待状を送り、確認を求めているが、釈迦牟尼仏はそれとは違い招待状を出してはおられない。リンチェンドルジェ・リンポチェは哀れなことよ!リンチェンドルジェ・リンポチェは日本人道の中では修行がうまくいっていないが、リンチェンドルジェ・リンポチェがどこで説法、修法しようと、付近の鬼道と神は聞きに来る。どうやって証明するのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が知らないところへ行って修法しても、どの方向に廟がある、鬼がいると分かる。しかもそれは必ず当たっている。リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ仏果まで証していないため、仏は聞きに来られない。来るのは人、鬼、神だけだ。今日リンチェンドルジェ・リンポチェは修法している。表面的にはそなた達だけが聞いているようだが、実は外では非常に多くの衆生が聞いているのだ。

経典では『及大菩薩摩訶薩,皆来集会』とある。つまり、すべての法身菩薩が皆この法会に参加しているのだ。『賛歎釈迦牟尼仏』とは偽善を言っているのではなく、恭敬と供養だ。どうして釈迦牟尼仏を賛美するのか?なぜなら仏はすでに成仏され、母君は天界におられる。道理から言えば、仏は念頭を用いて母君に伝法でき、自ら赴く必要はないのだ。他心通で伝法できるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの念頭に浮かぶと、良くなる弟子がいる。これこそ他心通だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは電話を掛けたりする必要はなく、この人に事があると知るだけで、リンチェンドルジェ・リンポチェが心の中で思うだけで、その人は良くなるのだ。これこそ他心通だ。

では、釈迦牟尼仏はどうして自ら行かれたのか?非常に簡単だ。仏の母君のための説法は縁起に過ぎない。この法は単に母のためではなく、天界全体のための説法で、天界全体の衆生と六道の一切の衆生が聞けることを望んでおられるのだ。そのため、これら仏と大菩薩は、自分のためではない、釈迦牟尼仏のこの種の大慈悲の菩提心を賛歎しておられるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの果位まで証したので、行く必要がなく、念頭を動かすだけで衆生を救うことができるとはっきり分かっている。釈迦牟尼仏が神通力を用いてそちらに行かれた。入定しなければ行くことはできない。世間の事情から解放されなければ行けないということだ。肉体が行くのではない。神識が行くのだ。

仏の大力量によれば、ほんとうに不要だ。念頭を動かすだけで良い。リンチェンドルジェ・リンポチェのようなちっぽけな修行人でさえ念頭を用いて衆生を救えるのだ。仏がおできにならないことがあろうか?どうしてそれでも仏は行かれるのか?仏は単に母君のためだけではない。これはただ『地蔵菩薩本願経』の縁起だ。理由がなければ、仏が行かれることはない。必ず理由がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは自らどこかへ旅に出ることはほとんどない。縁がないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは行かないのだ。

釈迦牟尼仏を賛歎するのは、仏だから賛歎するのではなく、釈迦牟尼仏がなされる功徳が非常に大きいからだ。講じられる経典がたくさんの人に影響を与え、非常に多くの衆生を救うからだ。これら大菩薩はみな神通をお持ちで、仏が何を仰せになろうとしているのかが分かり、仰せの後の未来への救いと影響がどれだけ大きいかをご存知だ。今日まですでに数千年経ったというのに、地蔵菩薩は中国人、日本人、韓国人に影響を与えている。釈迦牟尼仏を讃嘆するのも一種の供養だ。いわゆる随喜功徳なのだ。供養とは物質ではない。心が非常に重要なのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが今日法座で行う講法は何も求めていない。まだ疑っているなら、供養がない。リンチェンドルジェ・リンポチェを疑う必要はない。リンチェンドルジェ・リンポチェにこの経典を講釈する能力がないなら、法座上にこんなに長く座っていることなどできない。すぐに耐え切れなくなり、すぐに下りているだろう。それは、護法がリンチェンドルジェ・リンポチェに講釈させないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは頂礼する度に、自分の能力を伸ばして下さいなどと祈っているのではなく、諸仏菩薩に、自分の説法が智慧如海であり、衆生に利益できるよう加被下さいと祈っている。この種の祈求のおかげで、リンチェンドルジェ・リンポチェの説法は途切れることがないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは準備しない。経典を開いてそのまま講釈する。他の人ではどうだろう。たくさんのものを書き写し、たくさんのものを書き、ゆっくりと捲りながら講釈するだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはそうではない。

リンチェンドルジェ・リンポチェが講釈を間違え、講釈内容に誤りがあったなら、リンチェンドルジェ・リンポチェがひたすら話し続けることなどできるだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは言い間違い、そなた達は不機嫌になり笑えないだろう。それはリンチェンドルジェ・リンポチェにユーモアがあるからではなく、そなた達がすでに上師が講じる仏法に溶け込み始めているため、リンチェンドルジェ・リンポチェの語る意味が理解できるからだ。日本人はあまり笑わない。それは、実直だからではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェが講じる仏法に溶け込んでいないからだ。先ずは、リンチェンドルジェ・リンポチェが何を言うかを聞き、リンチェンドルジェ・リンポチェの講釈は日本人の講釈とは違うと思い、リンチェンドルジェ・リンポチェは日本語が分からないからだ、と考える。だが、言語は方便でしかない。真の修行の方式ではないのだ。

経典には『賛歎釈迦牟尼仏,能於五濁悪世,現不可思議大智慧神通之力,調伏剛強衆生』とある。釈迦牟尼仏は地球を五濁悪世とお呼びだ。『濁』とは混濁、不浄という意味だ。五濁の一は見濁だ。見解がすべて汚れており、貪嗔痴で物事を見ることだ。煩悩濁は、自分が良くなり、他人は悪くなれと、あらゆる点で起心動念することだ。他人が自分を愛しながら、自分は他人を愛する必要がなく、自分に対して良ければそれで良い、と起心動念することだ。他人が自分を必要とし、自分は他人を不要だと起心動念することだ。他人から金を儲けとってやろうと考え、他人にはチャンスを与えないと起心動念することだ。子供のことをあれこれ悩む⋯⋯これらはすべて煩悩だ。

続いては衆生濁だ。地球は奇妙な場所で、地獄、人、天人と非常に単純なところもある。だが地球には、無色界天がない以外、何でもある。欲界天、畜生道、地獄もある。経典では、地球には二つの地獄があると言う。一つは山の麓、ヒマラヤ山のあたりにあり、もう一つは深海中にある。地球には畜生道、餓鬼道、人道、阿修羅道、天道があるため、非常に混濁したところなのだ。浄土のように単純な修行の場所ではない。今日みなが衆生になったのは、生死を解脱できておらず修行しても証果を得ておらず、よって心が不浄で、非常に多くの誤った見解と見方があるからだ。この種の濁があるため、地球も濁を生み出している。

地球が温暖化しているのは、我々人がどんどん欲深くなっているからだ。地球のすべてを自分たちが使用する物として採取している。よって天災が増えているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは年初に、今年は地震が非常に多いと預言したが、果たして本当に多くの地震が発生している。これこそ衆生の心が濁っているからで、シンプルな浄土ではないからだ。

五濁には命濁も含む。人が天界に生まれれば、その運命は福の享受だ。一切の例外なく、すべての福報を使い切って死ぬまで、濁は出現しない。我々は人または動物である。その生には100%の福はなく、心の苦であろうと身体の苦であろうと、苦がとても多い。生老病死の苦もある。人は老いると老態が出現する。仏法を聞いても居眠りし、まぶたを開けることができない。なぜなら老いたからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェも年を取っているが、老濁の出現が遅い。どうして遅いのか?それは心の中に濁がないからだ。命濁には事故死、故のない病、中毒も含まれる。どうして命が濁るのか?それは、過去世で清浄な法を修めておらず、非常に多くの悪が内部に混雑されているからだ。悪があれば不慮の事故がある。皮膚が剥がされるのも、蚊に刺されるのも、毒虫に咬まれるのも、過去に為した殺生と関係がある。絕対に離れられないのだ。

五濁には劫濁も含む。地球は災難でいっぱいのところだ。天災だけでなく、人災も多い。リンチェンドルジェ・リンポチェは年初に、今年は肺と呼吸器系統の病が多いので、身体を冷やしてはならないと開示したばかりだ。近頃韓国では新しいSARSが流行っている。中東から来たものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは旧暦の正月に、この種の病の発生をすでに語っていたのだ。そなた達は冷たい飲み物を飲み、アイスを食べ続ければ良い!日本人は特にアイスが好きだ。アイスを食べれば体温が下がり、この種の病に罹る確率が高くなる。新SARSでなくとも、風邪などのこの種の病に罹りやすくなる。暑くとも冷たいものを食べなければならないと言う訳ではない。事実、中国も日本も古代には冷たいものを食べる習慣はなかったのだ。西洋文化が伝わり、洋食レストランで食事し、冷たい水を飲むのがおしゃれだと思っている。二度と冷たいものを食べてはならない。今年はほんとうに極めて特別な一年だ。

いわゆる劫濁とは戦争の劫も含む。つまり、経典で講じる『刀兵劫』だ。古代には銃がなく刀で人を殺していたので、刀兵と言うのだ。最近は戦争がないが、刀兵がないなどと思ってはならない。訳も分からずナイフで殺されたり、自動車事故で死んだり、飛行機が墜落して死んだり等も全て刀兵劫に含まれる。これこそ、殺生し、殺業が重いため、過去世であろうとこの一世であろうと刀兵劫があるのだ。刀兵劫の他に、地震、津波、火山の噴火、火災、毒虫に咬まれての死、毒蛇に咬まれての死、動物に殺される、医者に間違った薬を出されて殺される等もこれら劫だ。これらはすべて殺生によるものだ。今殺生をやめれば、これら劫が発生しても死ぬことはなく、救われるだろう。死んだとしても、学仏していることで、必ず天界へ行けるだろう。

この地球には五濁が満ちている。悪世とは『良い世間ではない』ということだ。現在人の悪は善より多い。自分は善人だと思っているだろうが、どんな理由があろうと、肉食し、他人を罵倒し、頭を働かせて他人を叱責すれば、それはすべて悪なのだ。『罵』とは怨気の発散だ。みな怨気で充満し、世間には闘争があり、闘争があれば戦争が起きる。他人を征服し、物を自分のものにできるのだから、戦争はいいじゃないかと皆思っているのだろう。

中国でも日本でも、古くから非常に多くの戦争を経てきた。この種の苦しみをみな忘れてしまっている。戦争は人類にとって最も残酷な応報だ。仏が殺生してはならないと強調なさるのは、このためなのだ。悪世は、人がみな貪嗔痴で日々を過ごしているためで、一切を貪り、一切を恨み、倫理道徳と因果を信じないからだ。

『現不可思議大智慧神通之力』とは、仏の為されることは不可思議で、六道衆生の思維で考え出せる方法ではなく、仏が説かれる不可思議のは、考え出すことも行うこともできないのではない。簡単な例を挙げよう。小学生は、博士が言うこと、博士が理解できることが永遠に理解できないため、それは小学生にとっては不可思議だ。つまり、そのため、仏の境界は我々にとっては不可思議なのだ。なぜなら我々は仏ではないので、仏が何をなさっているのか分からないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが何をしているのか推測しようとしている弟子が近頃とても多い。これは同じような考え方だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分は菩薩だなどとは、とても言えないが、少なくとも修行はしている。修行人が考えることは、そなた達とは当然違う。リンチェンドルジェ・リンポチェが次に何をしようとしているのか弟子が推測しているので、リンチェンドルジェ・リンポチェは、次は何かをするのではない、ということをそなた達に知らせる。そなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェは左側へ歩くと思えば、リンチェンドルジェ・リンポチェは右側へと歩いて見せる。そなた達が考えている事はすべて貪嗔痴だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが次に何をしようとしているかを、どうして考え出すことができるだろうか?

大智慧の『大』とは『無遠弗屆』ということで、どこへでも行ける、ということだ。『智慧』とは人類が学ぶ学問ではない。仏法により『智慧』を説明しようとするなら、一年掛かっても終えられないだろう。簡単に要約すれば以下のようになる。智慧には二つの条件がある。一つは、空性とは何かを理解すること、もう一つは、すべての思想で衆生に利益し救うことだ。何かの基金会を作ったりすることも含め、何らかの自分の利益のための聡明さ、自分が良い暮らしをするための聡明さ、自分が何かをできると知りたいがための聡明さ、これらは智慧ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが基金会を設立しないのは、それよりも、しっかり仏法を説き、修行し、自分自身が悪を為さず、悪を為さないようたくさんの人に影響を及ぼすことが大切だからだ。これこそ真の智慧だ。基金会は名誉のためでしかない。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日善事を行っているが、みな知らない。なぜなら知られてしまえば、善事はなくなってしまうからだ。

『神通之力』の神通とは智慧に基づき生まれる。智慧がない神通は非常に危険だ。なぜなら、神通があれば、何かの発生を恐れ、故意に果報を変えてしまい、それによってより深刻な事が起きてしまうからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分が皮膚癌を患ったことを非常に早い段階で知った。だがそれを変えようとせず、放っておき、普通に日常生活を送っていた。すると皮膚癌は良くなってしまったのだ。これこそ智慧の神通だ。神通があるからといって、変えようとするのではないのだ。果報は変えられない。ただ、果報を軽くすることができるだけだ。だが、果を消してしまうことはできない。因が生じさえすれば、果は必ず出現する。間に非常に多くの善を為し、果報が出現する力を覆い隠してしまえば、感じられないようにすることはできる。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一生で肉食し、殺生した。よって大法の修法が終わる度に、いつも必ずなぜか指を引っ掻いている。それを見ると、自分は肉の負債をまた一つ返した、と知り、リンチェンドルジェ・リンポチェはとても嬉しくなる。肉を以って肉債を返すのではない。みな誤解しないでほしい。リンチェンドルジェ・リンポチェは肉を食べたことがある。『地蔵菩薩本願経』では肉食すれば必ず地獄に堕ちるとはっきり記載されている。そのため、この一生で菜食する決心を下せない人、『別にどうということもない。どうしようもなくなったら菜食すれば良い』と思っている人に対して、リンチェンドルジェ・リンポチェは、お好きにどうぞ、と言いたい。なぜなら地獄に堕ちるのはそなたであって、リンチェンドルジェ・リンポチェではないからだ。

決心を下していないなら、仏法を聞いてもそれは学問で、修行ではない。修行とは毎日仏法を聞くことではなく、自分の行為を改めることから始めなければならないのだ。自分の行為さえ改められないなら、何を修行するのだ?読経し仏法を聞き写経すれば、それが修行なのか?これらはすべて修行ではない。修行とは、自分を輪廻に陥らせる行為を改めることだ。仏法を講じる人、仏、菩薩は衆生に利益するために、智慧を用いて話す。絕対に自分のためではなく、自分が何かを得られたことを讃えるためでもない。

『力』とは、どれほど大きな力があるというのではない。科学的に言えば一種のエネルギーだ。この種のエネルギーがなければ、何事かを行うことはできない。この種のエネルギーが福報と智慧だ。修行人が福報と智慧を修められていないなら、力はない。剃髪し、父の寺を継ぎ、経典を唱えられれば修行人だというのではない。福報と智慧を必ず備えていなければならないのだ。福報があるかどうかはどうすれば分かるのか?何をしても問題がなく、うまくできている。仏法に関する事を行おうとすれば必ず行える。それなら、福報があると言える。

仏法に関する事とは、大きな寺を建てたり、たくさんの弟子を取ったりすることではない。正法を用いて衆生を助けているかどうかだ。智慧がなく、衆生の心を理解しないなら、その困難を開解し助けることはできない。少し前、ある女性が失恋したと言って、死ぬの生きるのと言っていたことがあった。慧がない人が彼女に、一生懸命読経せよと勧めたとしよう。だが、読経することができるだろうか?その女性は、相手のの男性の姿が一瞬たりとも脳裏を去らないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは当然智慧を用いて彼女を救う必要がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは在家だし、失恋したこともある。それで『私も失恋したことがある』と告げた。すると、彼女は大声で笑ったのだ。もし出家衆なら、失恋したこともなく、しっかり念仏し観世音菩薩をしっかり唱えよ、ということしかできず、彼女の心は定まらない。よって智慧が必要なのだ。

菩薩道を修める人は誰でも、成就するまでは、人世間のすべての苦を経験する。行者が苦を経験せず、苦を理解しないなら、どうして衆生を救うことができようか?リンチェンドルジェ・リンポチェが恋人に捨てられたことがなければ、捨てられる苦痛がどうして分かるだろうか?分からなければ、彼女にどのように言えばいいのか?『富貴修道難(富む者の修行は困難だ)』というのはこのためだ。現在日本では、仏法は段々と重視されなくなっている。ここ数年日本人は、自分はとても快適に暮らしており、神社にちょっと祈ればなんでも叶えられると思っている。そのため、仏法を重視せず、さらには仏法を軽んじてさえいる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは他の宗教を軽んじたりしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前道教を学んだことがあるからだ。道教は日本人の神道に少し似ている。求めれば与えられる。ただ方法と儀軌は違う。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法に触れ、仏法だけが物事を解決でき、問題を徹底的に解決できると知った。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を始めてから現在まで、『地蔵菩薩本願経』の十文しか開示していない。この『地蔵菩薩本願経』の講釈をすべて聞きたくとも、日本の信衆に忍耐力がないなら、この一生で聞き終わることはできないだろう。どうして聞き終えられないのか?なぜなら仏法の講釈は少し話し、唱えればそれで良い、というものではなく、必ず内容を説明しなければならないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが今日開示する仏法を聞き入れられるなら、そなた達のこの一生と未来世に非常に大きな助けとなるだろう」と仰せになった。

この時、リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の弟子に「最初から今までずっと寝ているので、午後は法会に参加しなくとも良い」と指示なさった。「リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで聞かせてやったのだ。すでに十分だろう。眠らないように努力しているようだが、やはりひたすら居眠りしている。居眠りには三つの原因がある。一つは身体の問題、二つは夜十分に眠れていない、三つは仏法と上師を尊重していないのだ。そのため居眠りするのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはある時、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王のために法会を執り行った。その際には夜一時間しか眠らなかったが、一日中全く居眠りしなかった。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは上師を尊重しているからだ。よって居眠りしないのだ。この弟子は午後来なくともよい。帰って寝ているように」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは午後2時30分から『地蔵菩薩本願経』の開示を継続するとご指示になり、法座を下りられた。参会者は起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを恭しくお送りし、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの勝妙なる仏法の開示に声を揃えて感謝申し上げた。

午後2時30分、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは日本寶吉祥仏法センターで『地蔵菩薩本願経』の開示を再開された。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは再び法座に上られ、参会者に貴重な仏法の開示を続けて下された。

「午後は『地蔵菩薩本願経』を続けて開示する。午前中来なかった者は諦めるしかないだろう。経典では『調伏剛強衆生』とある。仏は身分、地位、勢力、能力を用いて衆生を圧伏し、衆生を従わせるということはなく、我々の心を調えてくださる。我々は母の胎内から生まれ、成長する過程において、自分の感覚に基づき事を行う。自分の心が善であるのか悪であるのか、または心が感覚の制御を受けないでいられるかどうかを体得しようとすることはない。簡単に言えば、我々が暑いと感じると、まずは暑いと言い、寒いと感じると、まずは寒いと言う。この種の外在の突然の変化に対応する自分の心を調伏することがまったくない。

なぜなら我々は、神経系統により外在の世界に触れることに慣れているからだ。よってこの種の感覚は、我々の心に反応を生じさせる。心に反応が生じると、我々は神経中のいわゆる好き、嫌いにより作用を生じる。よって、我々が話す言葉、為す事は、他の衆生を傷つけるかどうかなどお構いなしに、しばしば自分にとって有利だ。我々は自分の心の作用がよく分かっていないが、人の主人は眼耳鼻舌身意ではない。ただ我々は、脳が物事を行い思想を司っていると思っているだけだ。

今では科学がこんなに発達したので、人が死ねば脳は作用を生じないと分かっている。多くの科学者が、動物の脳と人の脳とを単独で取り出し、通電刺激を与えて、思想作用を生じるかどうかの実験を行っている。いずれも作用を生じないとの結果だ。現代科学は、脳では脳波が動いており脳細胞があると解明しているが、脳細胞がいかにして通信するかはまだ分かっていない。医学者、科学者により人の脳細胞はメッセージを用いて相互に連絡し、脳細胞と別の部位の細胞とも通信できると解明されている。だが、どうやって通信するのか?脳細胞を身体から取り出し、機器中に置き通電しても同様の刺激を与えても、通信は行われない。脳の中で視力を司る細胞を取り出し、通電刺激を与えても通信は見られない。つまり今に至るも、人が何を用いて思考しているかを、科学では定義できていないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの今日の説法に挑戦してみよ。インターネットであらゆる科学論文を読んでみても、やはり何らの定義も見つからないだろう。一体何が人を思考させるのか?今に至るも科学的に100%定まった理論はまだない。だが、仏は、有情衆生(動物も含む)はすべて、眼耳鼻舌身意を用いて、身体外の世界に接触し、身体内部世界に作用を起こすとはっきりとご存知だ。だが、誰が内部に作用を起こさせているのか?我々の目が外を見て、耳が外の音を聞き、口が話し、手が相手を打ち、身体が外へと歩き出す。こうして論理的帰結を導き出すことができる。つまりすべて外へ向かっており、内部には必ず支配者がいる。我々の身体の中で、誰が動くよう命じているのか?現代科学では脳が命じているとするが、では誰が脳を動かしているのか?

ある宗教では霊魂だという。だが霊魂とはなんだろうか?なぜ霊魂があるのか?霊魂はいかにして作られたのか?現在の宗教では説明がない。ただ霊魂という。どんな宗教であろうと、霊魂があるという。だが霊魂はどこから来たのか?それについても説明はない。仏法の説明では、あらゆる有情衆生はみな仏と同様に清浄な心を備えているという。この心について説明しようとするなら、五年、十年講釈しても終わらないだろう。ただそなた達には、この名詞を知っておいてほしい。

この心とは心臓ではない。どこにあるのか?厳密に言えば、見つからない。ただ簡単に喩えれば、そなたがとても嬉しく感じ、とても幸せを感じた時、その感覚は二つの乳房の間にあり、目が嬉しいと感じることはない。男性が美女を目にし、女性がハンサムな男性を目にしても、目が喜びを感じるということはなく、その感覚は二つの乳房の間にある。そなたが非常に悲しく、辛いと感じた時、その感覚も二つの乳房の間にある。これは心臓にあるのではない。ある力が動いているのを感じるのだ。だがそれは見つけられない。検査機器でも見つけ出せない。そなたが興奮すると、手が震える他に、最も重要なのは、二つの乳房の間に、ある熱を感じるだろう。検査機器で検知されるのは心臓ではない。ただ、心臓の鼓動はいつもより速くなっている。

心臓の鼓動が速いとはどういうことだろうか?どうして、突然興奮すると、血液循環が速くなるのだろうか?脳が司令を発するなら、先ずは脳が速く動くはずではないか。だが、脳は速く動くということはない。脳全体は動かず、電波が動くだけだ。電波は心臓とつながるが、心臓はどこにつながるのだ?誰も知らない。よって、仏は開示なさる。心はどこにあるのか?我々は誰でも清浄な本性—心を持っている。それは二つの乳房の間にある。とても興奮し、緊張し、悲痛に感じると、この場所にある種の力を感じることがあるはずだ。悶々とする、という感覚も、この位置だ。突然たくさんの金を見て非常に興奮するのも、この位置で感じるだろう。それに続いて手が伸びるのだ。

仏がご覧になるのは、科学、人が見るものではない。真実存在に基づくものは、現在の検査機器では検知できないのだ。よって、みなは仏は言い間違ったのではないかと思うだろうが、絕対にそうではない。リンチェンドルジェ・リンポチェがこんなにもたくさんの事を行うのは、非常に遠くにいる人を済度させられるのは、まさにこの心のためだ。肉体ではない。いわゆるこの心を調伏するとは、本来の清浄な心を取り戻し、清浄とすることだ。心はどうして清浄でなくなってしまうのか?心がだらしない、というのではなく、我々が垢で以って心を包んでしまうからだ。太陽は昼間だろうが夜だろうが、曇りの日だろうが晴天だろうが、常に光を放っている。だが曇天の日はどうして太陽が見えないのか?それは雲が太陽の光を覆い隠しているからだ。我々の清浄な本性、清浄な光が現在見えないのは、あまりにも多くの汚れ—貪嗔痴があるからだ。貪嗔痴は黒雲のように心を包んでしまい、我々は心の存在を感じられなくなっている。

心の存在が感じられなくなると、自分の眼耳鼻舌身意が受け取る信号、生まれる動作は自分がやりたいものだと信じるようになる。この論理的帰結は修仏にとって最も重要だ。この理論を信じないなら、学仏することはできない。ある日本の信衆は、心臓の辺りが不快なので帰りたいと言う。これこそ仏法を信じていないのだ。仏法を聞きながら死んでしまうなら、それは目出度いことなのだ。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェがすぐに超度させてやれるからだ。なぜ恐れるのか?それは仏法を信じておらず、ただ法会に参加することで、加護を得たいと望み、心を用いてこの理論を体感しようとしていないからだ。心を用いて体感しようとしないなら、聞くだけで、修めることはできない。

そのため、信は最も重要だ。仏の仰せは我々を苛んだり欺くものでは絶対にない、我々が学んだ人生経験法も100%正確ではないと信じなければならない。どの民族にも、どの国にもそれぞれの風土や習俗がある。他の国がそれを受け入れられるとは限らない。だが、それは人世間の事だ。これほど壮大なことを言わなくとも、日本を例とすると、関東と関西では食べ物の味が違う。だが違うと言って、日本料理ではないのか?海外ではどれも日本料理だと認識されている。なぜ京料理、大阪料理と分けるのか?これこそ人の意識が分けているのだ。だが本質はすべて食物だ。人が区別するのは、人の意識、味が区別するのであって、本質はやはり食物だ。人がものを分別するのは、意識で分別するのだ。そのため、いわゆる良い悪いが生まれるのだ。

『調』とは仏がお教えくださった仏法を用いて自分の心を調整することだ。仏法はそなたを押さえつけたり、そなたを叩いたり、そなたを苛んだり、そなたを脅したりしない。仏は、信じないなら罰を与えるなどと仰せではなく、拝仏に来なければどうこうなる、などとも仰せではない。聞いたなら、絶対に行わなければならないとも仰せではない。ただ、行うかどうかを決めるよう、仰せになるだけだ。すべては、仏法を用いて自分の心を調整するかどうかは、そなたが決定するのだ。人は自分の問題が見えない。誰もが他人の問題はよく見える。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば譬え話をする。朝起きた後、鏡を見ないなら、自分の髮がどんなに乱れているか分かるだろうか?絕対に分からない。必ず鏡を見なければならない。これこそ、自分を見ることができない、見る能力がないということだ。だからこそ、別のものに頼って、自分の真の本来の姿を見るのだ。

仏法もそうだ。そなたは自分の真の姿が見えず、偽りのものだけが見えている。よって、仏法というこのツールを用いなければ、自分の真の面目を見つけることはできないのだ。朝目覚め鏡を見て、自分は今日は顔色がいいかどうか、或いは昨夜十分に眠れなかったので少し浮腫んでいると初めて分かるようなものだ。これこそツールを用いなければ、自分が見えないということだ。仏法にはつまりこの効用があるのだ。仏法を通して我々の心を調整し、悪をゆっくりと善に転じ、清浄な本性を取り戻すのだ。もちろんこれは、すぐにできる、すぐにOKだ、というものではない。時間が必要だ。

食品を調理する際には調味する必要があるようなものだ。調味料を入れればすぐに味が出てくる、というものではない。能力があるなら、味見する必要はない。だが、料理人は誰でも絕対に味見しなければならない。なぜなら調えるからだ。機器を用いて調味料を正確に測ってから加えても、人が調整した味とは絶対に違う。なぜなら機器で測る調味料の量は、周囲の温度や食品の新鮮さを考慮に入れていないからだ。これは測れるものではない。機器では一定の量が測れるだけだ。そのため、大量生産されたケーキやクッキーを食べる時、美味しく感じたり、そうでないと感じることもある。だが、手作りのものは、いつ食べても味にほとんど差がないと感じる。その理由はここなのだ。

『調』と言っても、すぐにできるというものではなく、絕対に絶えず調整しなければならない。何を調整するのか?自分の心とそれまでに為した行為が良い方向へ向かっているかを見るのだ。良いとは、金持ちになった、仕事が順調になった、健康になった、というのではない。仏法を聞くことで健康になることを望むなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは、神社に行って柏手を三回打つことを勧める。なぜなら仏法はこのようには教えないからだ。仏法は改めるように教える。改めようとしないなら、手の皮が破れるまで柏手を打ち続けても、良くはならない。柏手を三回打ち、神に聞いてもらおうと言うなら、そのような神は大したことがない。本当に素晴らしい神なら、御前に立ち心を少し動かすだけで、すぐに分かる。そなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェの面前で心を動かすと、リンチェンドルジェ・リンポチェは分かる。それなのに、さらに柏手を三回打つ必要があるのか?これは風習に過ぎない。神が求めるものではない。そなた達が分かる言葉で言えば、そなた達の心がより健康になったかを見るということだ。だが、ここで言うのは心臓ではない。

『伏』とはどういう意味だろうか?我々の心の中には、生生世世に非常にたくさんの良くない習慣を累積している。非常にたくさんの良くないものが、心を非常に厚く包んでいるのだ。あっという間に汚れをすっきりと落としてしまうことなど有り得ない。しかし、そなたが悪を停止しても、これら汚れはやはり成長する。よって、先ずは方法を用いてそれを抑えつける。つまりそれ以上成長しないようにするのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがすぐに菜食するよう進めるのは、菜食しようとしないなら、悪は増え続けていくからだ。先ずは悪を抑えつけ、それ以上増えないようにしなければ、減らす機会さえないだろう。『別にどうということもない。もう数十年も食べているのだ』と思っている人が大変多いが、もちろん『どうということがある』。なぜなら汚れがどんどん厚くなっているからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を受けたばかりの時には、すぐに違うと感じ、非常に素晴らしいと感じるが、ゆっくりと大きな感覚を失っていく信衆がいる。それは、その人がひたすら加えているからだ。つまり、それらの良くないものを加え続けながら、もう一度リンチェンドルジェ・リンポチェに会えれば、リンチェンドルジェ・リンポチェが加持をくれ、また良くなると思っているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは加持により、それ以上増えないように抑えつけてやるので、ゆっくりと減少していくはずだが、その人が自分でひたすら加えていけば、加持力は消えてしまう。

調伏とは必ず悪を停止するのだ。我々には、野草を根こそぎ抜く能力はない。先ずは石で抑えつけ、その成長を阻害する。この動作さえも行わないなら、仏法を聞きに来ても余計だ。どうして余計なのか?なぜならそなた達の時間を浪費するからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの時間を浪費するのではない。仏が説かれる事は、仏が我々のために為してくださるのではなく、我々が自分で行わなければならないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなにも長い間学仏しており、仏と三恩根本上師尊勝なる直貢チェ・ツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェにとてもたくさんの仏法を開示してくださった。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが行わないなら、今日みなに仏法を開示する機会さえもない。

先ずは行う。行わなければ、仏法が説くことを体得することはできない。そなた達は聞くだけで行わない。加護を求めるだけで行わない。それでは100世、10000世聞いても、少しの効果もないだろう。仏法は我々を健康にしてくれるものではない。だが、学仏人はどうして健康なのか?それは悪を停止すれば健康になるからだ。そのため『調伏剛強衆生』でいうのは、我々だ。つまり、仏は仏法を用いて我々の心を調整し、我々の汚れを調伏してくださるのだ。『剛強』とは聞き分けが悪いということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなにもたくさん語ってきたのに、そなた達はやはり聞き分けが悪い。心臓の辺りが不快だと言って、午後の法会に参加しなかった日本の信衆は正に聞き分けが悪いのだ。仏は人を病気にするのか?その人の病気はどこから来たのか?それは喫煙だ。だが、どんなに言っても、この信衆は禁煙しようとしない。なぜなら医者が、命に関わると言わないからだ。よってこの信衆は禁煙しないのだ。

みなは医者を信じ、仏法を信じない。医者が検査機器を用いて検知した証拠こそ正しいと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは事態が発生する前に警告する。だがそれでも、行うなら、事態は発生する。『剛強』とは全く聞き入れないということだ。自分で自分のことを考え、自分で自分のことを行い、修行者の言うことは参考にするだけで、受け入れない。修行者の言うことは参考にするだけで、自分にとって役に立つかどうか、自分が今気に入っているものを捨てなければならないかどうか、自分が今していることをやめなければならないかどうか、自分の現在の思想を放棄しなければならないかどうか、を見て、それらが不要なら、参考にする。それらが必要なら、参考にしない。

仏法の弘揚が難しいのは、仏がお教えになる方法が調伏だからで、脅迫、脅しではなく、非常に穏やかな方法を用いるからだ。現代人は激しい方法を用いるのを好む。打、殺、脅迫。そうすれば恐れて、いいつけに従う。『剛強衆生』とは特に地球の人類を指すのだ。前の方で五濁悪世について触れた。この言葉の意味は、諸仏菩薩が地球人を導くのは難しいと感じ、みな地球に来られないということだ。前の方で『不可説』と言ったこんなにもたくさんの仏のうち、どうして一尊仏だけが地球に来られたのか?この問題について考えたことがあるか?仏は商売のために来られるのではない。仏は金を必要とせず、何もかも不要だ。どうしてこの仏だけが来られ、他の仏が来られないのか?それは非常に簡単だ。なぜなら釈迦牟尼仏はこの種の衆生を超度させると発願なさったからだ。

我々は地球に生まれ、自分は毎日楽に暮らしていると思っているだろうが、実は『苦多楽少』の日々なのだ。『剛強衆生』とは地球の人類だ。一人一人の思想がとても強く、彼らを信じさせるのは極めて難しい。修行者の言うことが、すぐに目にでき、良い点を感じられなければ、聞こうとしない。衆生とは六道一切の衆生だ。経典では『知苦楽法』という。なぜなら釈迦牟尼仏は、何を為せば苦が得られ、何を為せば永遠の楽が得られるかをはっきりとご存知だからだ。

いわゆる『楽』とは人世間の一時的な欲望における楽ではない。永遠に生生世世に変動しない楽、つまり二度と再び輪廻しない楽だ。この部分を説明するには、非常に多くの説明が必要だが、簡単に言えば、衆生を調伏し苦楽法を知らせるのだ。すべてを知らせることはできなくとも、何を為せば悪の果が得られ、何を為せば善の果が得られるかを、はっきりと識別させ、苦楽法を知ることで、しても良いこと、してはならないことを信衆に教える。仏は不可思議な大智慧神通の力を備えておられ、剛強衆生を調伏し苦楽法を知らしめる。これらのために仏は来られたのだ。

経典では『各遣侍者』という。それは、仏と仏の間にも、やはり礼儀が必要なので、仏はみな、お側に仕える侍者を遣わす。いわゆる侍者とは、側で雑事を処理する人ではなく、みな大菩薩だ。つまり弟子なのだ。『問訊世尊』とは世尊に挨拶申し上げ、礼儀を尽くすことだ。釈迦牟尼仏にご挨拶申し上げるのだ。

経典では『是時,如来含笑』とある。なぜ釈迦牟尼仏は笑みを浮かべられたのか?諸仏が侍者を連れて挨拶に来られるのを目にし、『自分が仏法を講じるからといって、みな人を遣わしてご機嫌伺いに来た。自分が一番偉い』と思われたのか?そうではない。それは七支供養の内の一つが随喜功徳だからだ。一切仏は、釈迦牟尼仏が仏法を説かれると聞き、侍者を手伝いに遣わした。共同で行うことでさらに良くしようと考えられたのだ。釈迦牟尼仏の微笑は、すべての仏がみな同じ心であるということだ。仏が微笑されたのは、自分の説法に諸仏が侍者を遣わして聞きに来た、と知り、自分は偉大だ、と思われたからではない。なぜなら成仏されたのなら、傲慢というこの二文字とは絕対に無縁で、自分に酔う、自己満足なども有り得ない。あらゆる動作はすべて衆生に利益するためだ。

『仏含笑』とは、今日の因縁が素晴らしく、忉利天で母に説法する際に、こんなにもたくさんの仏が侍者を遣わし大菩薩といっしょに来たが、この種の功徳、慈悲力は宇宙に満ち満ち、釈迦牟尼仏が説く法が全宇宙に遍く広がるからだ。なぜなら、これら仏菩薩はその後絕対に釈迦牟尼仏の説法を伝えていかれる。つまり、これら仏菩薩は釈迦牟尼仏の伝法を手助け、サポートしに来られたのだ。そのため、今後衆生が仏法を得られると知り歓喜し『仏含笑』なのだ。仏たちが侍者を遣わし自分を重んじたからではない」と仰せになった。

その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子に「他の弘法人がこのように開示するのを聞いたことがあるか?」とお尋ねになった。一人の出家弟子が「ありません。みな文字の説明だけです」とお答え申し上げた。

「経典には『放百千万億大光明雲,所謂大円満光明雲、大慈悲光明雲、大智慧光明雲、大般若光明雲、大三昧光明雲、大吉祥光明雲、大福徳光明雲、大功徳光明雲、大帰依光明雲、大賛歎光明雲,放如是等不可説光明雲已。』とある。

この部分は物質により説明しようとしても、説明できない。経典では『雲』とある。それなら、我々が見られる天空にある白い塊であるはずだ。現代科学では、電子が集まれば、機器の中で見られるのが雲だ」と仰せになった。その時、物理学、コンピューターの分野を学んだ弟子が「その通りです。私が電子学を学んでいた時、確かに電子雲という言い方がありました。電子が集まると、雲のような形状を生じます」とお答え申し上げた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けられた。「よって仏が『光明を発して生じた雲』と仰せのものは、地球上で見られるこの種の雲ではなく、電子、イオン等の物質が生じる雲なのだ。この種の物質を科学的に説明すれば、電子、イオン、分子などだ。仏の説明によれば、度衆の心が生じれば、この種のエネルギーが現れる。この種のエネルギーは集まり、光が生じる。光が生じると、霧がかかったようで雲のようだが、肉眼で見ることはできない」と仰せになった。

物理学、コンピューター分野を学んだ弟子は「肉眼では確かに見えません。検査機器を用いなければ検知できません。その際用いるのは、エネルギーを検知する検査機器です。間歇、間歇の状況、確率統計の方式により統計をとり、どこそこに雲のような形状があると認定するのです。目で見ているのではありません」とお答え申し上げた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を継続された。「実は仏法は科学よりよほど進歩しているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはどんな果位があると誇れるものではないが、着実に修行していなかったなら、この部分を講釈することはできなかっただろう。経典でいうのは雲だ。空の雲は白いが、経典では大円満、慈悲雲という。どのように説明するのか?説明できない。リンチェンドルジェ・リンポチェが説明できるのは、どの程度まで修行すればエネルギーが集まり、この形状を発するかをとてもはっきり知っているからだ。そのため、みなに講釈することができるのだ。

『放百千万億大光明雲』とは、仏が放出された光は十方を照らせる、ということだ。ある現象やある方向だけではない。人類が理解出来る言葉なら、百千万億だ。とにかくとてつもなく多い。『大光明』なので、何であってもこの光を断つことはできない。『光を断つことができる金属もある』という者もいるだろう。だが無い。遺体は冷蔵庫に保管する。冷蔵庫はステンレス製なので、導電しない。しかもステンレスはあらゆる電磁波を遮断できる。だが、遺体をステンレスの棺に入れていても、リンチェンドルジェ・リンポチェは遺体の頭頂に孔を穿つことができるのだ。これはどのようにするのか?これこそ光明雲、慈悲雲、円満雲だ。リンチェンドルジェ・リンポチェには証拠がある。滅茶苦茶に言っているのではない。ポワ法を理解しない修行者はこの部分を説明できないだろう。ステンレス製の冷蔵庫中の遺体の頭頂に洞を穿てるのは、経典で講じるこれら雲のためなのだ。

何であっても慈悲の光を断つことはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェは最大の能力は慈悲だ、としばしば開示する。慈悲を修められれば能力があり、慈悲がなければ能力はない。つまりここは、仏が文字を用いて、講じる内容をそなた達に理解させているにすぎない。地獄で目にする仏光は明るく輝いている。我々人の肉眼では目にできない。あまりにも多くの思想が我々を覆い隠してしまっているからだ。だが見ることもできる。修行人が力を得たなら、そなたが目にするその人は明るく輝いている。顔色が悪いなどと感じられることはなく、たとえ顔色が悪くとも、光がないということはない。なぜなら慈悲の光があるからだ。

つまり、経典で触れるこれら雲はイオンが集まったエネルギーなのだ。大円満というのは、仏法には後遺症がないからだ。過去の過ちから徹底的に救い、未来を必ず円満にし、よくない事が二度と発生しないようにしてくれるのだ。良くない事とはなんだろうか?それは、我々を輪廻させる可能性がある事だ。そのため、真に学仏しようとする人は悪い友人さえ近寄れない。たとえ接触したとしても助けるのであって、害を及ぼしに来るのではない。害を及ぼそうという人が本当に出現したとしても、それはすべて過去世で因縁があった人だ。

大円満光明雲、大慈悲光明雲とは、仏法が円満で仏の心が大慈悲心だということだ。大智慧とは仏の智慧だ。般若とは空性を指す。仏は、全宇宙の事はすべて縁で生じ縁で滅すると良くご存知だ。行いたいので発生するのでは絶対にない。大三昧光明雲とは禅定の境界だ。三昧とは身口意がすでに不動で、なんらかの内在、外在の影響を受けて、なんらかの妄念を生じることはない、ということだ。進入三昧とは、そこらに座って身体を動かさない、ということではなく、内在の心拍、呼吸さえも、念頭を起こすように影響を及ぼすことはない、ということだ。こうでなければ、禅定三昧ということはできない。気を断ち、呼吸しなければ、禅定三昧に入る、というのではない。人は肉体がなくとも念頭はあるのだ。

大吉祥光明雲とは仏法が与えているのはすべて吉祥で、我々を良い方面、成仏の道へと向かわせ、我々の修行過程における一切の障礙がすべて救いに変わるということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがこの一生の修行で出遭った障礙はすべてリンチェンドルジェ・リンポチェの修行を助けてくれた。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェは、何かを吉祥であるとも吉祥でないとも思うことはない。

大福徳光明雲とは、学仏人に福報がないなら学べないということだ。例えば、不健康、身体に欠陥がある、たくさんの人が学仏しないよう誘惑するなどがあるなら、福がない人だ。大金持ち、国王、総統になれれば福がある、ということではない。これらの人に仏法を聞く時間があるだろうか?大企業の社長ともなれば、仏法を聞きに来る時間は絕対にない。なぜなら、たくさんの人に会わなければならないからだ。今日そなたは大企業の社長に会いに行かなくとも良い。それは返って福報があるということなのだ。なぜなら、仏法を聞きに来る機会があるからだ。福と徳とは全く違う。徳は仏法で修めた成果であり、功徳という。徳は仏法の一切の戒を守り、定力を生じ、智慧を開く。衆生に利益する一切の事は功徳と言える。

今回衆生はリンチェンドルジェ・リンポチェの健康を持ち去った。だが、彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェの功徳を持ち去ることはできなかった。功徳を持ち去ることはできないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに健康を回復した。功徳が消えてしまうことはないが、福報は消えてしまう。この一生で食べるに困らず、会社を経営でき、金持ちになれたのはすべて過去世で修めた福報なのだ。だが、この一生で悪を為し、殺生し、肉食し、口業を犯し、社長が給料をくれても社長は良くないと思う。この種の人は自分の福報を消費してしまう。福報をほぼ使い切ってしまえば、第一にとても速く老いる。第二に健康を害する。第三に、他人が何を言っても面白くなく、向こうが間違っていると感じる。これこそ福報が残り少なくなっているということだ。修行で得た福徳が消滅することはない。だが、衆生、上師に対して嗔恨の心を生じれば、功徳は消滅し福報に変わってしまう。

大功徳光明雲と大帰依光明雲とは、仏法を聞き、学ぶなら、必ず先に皈依しなければならないということだ。何かを学ぶ、或いは勉強する際に、先ず師に挨拶をするようなものだ。学費を納めれば勉強はできるが、それでも必ず師に従わなければならない。それは皈依と同じだ。学仏するにあたり、こちらでちょっと聞き、あちらでちょっと聞き、あちらでちょっと見て、自分が分かればそれが学仏だと思っているなら、それは全くの誤りだ。必ず一人の上師に依止し、しっかり学ぶ。皈依しなければ、学ぶことはできない。仏はこの光を衆生に渡された。これにより、衆生はどの一生かで仏法、仏陀、上師に皈依できるのだ。このように定義される。

大賛歎光明雲とは、釈迦牟尼仏が一切諸仏の功徳を賛歎なさる他、一切の衆生の衆生に対する恩徳を賛歎するということだ。我々は今日、衆生がいなければ生きていけない。どんなに金持ちだろうと、誰かが食事の支度をしてくれなければ、生きていけない。誰かが食事の支度をしてくれたとしても、誰も米を栽培してくれなければ、生きていけない。今日誰も発電所を操作してくれなければ、我々は電力を用いることができない。誰も道路を舗装してくれなければ、舗装道路を用いることができない。苦しむ衆生がいないなら、諸仏菩薩、仏菩薩もおられないのだ。よって、衆生がいるからこそ、仏、菩薩が成就できるので、そのため諸仏菩薩は衆生に対して感謝されているのだ。大賛歎光明雲とは、諸仏菩薩が絶えず衆生を教導なさることを賛歎し、衆生が絶えず仏法を学ぶことを賛歎するのであって、仏がご自分を賛歎されているのではない。

経典では『放如是等不可説光明雲已』という。はっきり覚えておくように。仏が『不可説』と仰せの時、それは『この境界は人類経験で理解できるものではなく、文字では極めて説明しにくい』ということだ。さらに、仏菩薩の境界は凡夫にとっては分からない。つまり、はっきり説明できない境界なのだ。よって、仏は不可説を用いて、文字では絕対に説明できないと仰せなのだ。

経典では『又出種種微妙之音』とある。人類の最も鋭敏な器官は目ではなく耳だ。我々の耳は非常に多種の音声を聞くことができる。音声を聞くと身体の様々な臓器に変化を及ぼす。音楽好きな人は分かるだろう。リズムがはっきりし速い音楽を聞けば、心拍も速くなり、悲しげな音楽を聞けば、心も沈む。これは音声が臓器に影響を及ぼしているからだ。

経典には、種々の微妙な音を発するとある。それは、仏が発せられる音声は人が聞き分けられる音声とは限らない、ということだ。地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、天が受け入れられる音声と音の周波数はそれぞれ違う。仏は衆生を超度させるのに、ある種の言語、音声を発せられるのではなく、種々の微妙な音を用いられるのだ。いわゆる微妙とは、ちょうど衆生が受け入れられ、聞き取れ、理解できる周波数ということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが施身法を修める時に吹く法器は、人類が聞けばただのウーウーという音だが、地獄では仏菩薩が呼ぶ声に聞こえる。微妙な音とは、仏が衆生を超度される音声なので、聞かなければならないのだ。

経典では『所謂檀波羅蜜音、尸波羅蜜音、羼提波羅密音、毗離耶波羅蜜音、禅波羅蜜音、般若波羅密音、慈悲音、喜捨音、解脱音、無漏音、智慧音、大智慧音、師子吼音、大師子吼音、雲雷音、大雲雷音。出如是等不可説不可説音已』とある。

『檀波羅蜜音、尸波羅蜜音、羼提波羅密音、毗離耶波羅蜜音』のこれら音はすべて人が聞くのではない。聞こえたとしても、何なのか分からない。この4つの音は声聞縁覚、辟支仏、阿羅漢に聞かせるのだ。辟支仏とは、円満仏果を証していない衆生だ。この種の音声を通してでなければ、仏の説法を聞くことができない。禅波羅蜜音と般若波羅密音は、禅修行を好む人に聞かせる。波羅密というこの三文字は中国語に訳されていない。なぜなら、それが含む意味は一つではないからだ。そなたに智慧を開かせ、心を寂静(二度と妄念を起こさず仏法が聞ける)とし、修行の境界に進ませる、という意味がある。つまり、この数種の音は、すでに証果した修行人に聞かせるのだ。

般若波羅密音とは、現在大乗仏法を修めている人に聞かせる。慈悲音、喜捨音中の慈悲喜捨とは、我々に四相を破らせてくれる事だ。解脱音とは、生死を解脱させてくれる音声だ。無漏音とある。一切世間の方法にはすべて『漏』、つまり後遺症がある。例えば、肉を食べ過ぎれば糖尿病、高脂血症になり、喫煙する人は数秒の心地よさのために心臓病、肺の病を患う。例えば、車は非常に便利だが、空気を汚染する。工業革命は人の生活を便利にしたが、水やあらゆるものを深刻に汚染した。これが『有漏』だ。どんな宗教を修行するにせよ、輪廻を解脱し、生死を断つことはできない。仏法だけが『無漏』なのだ。二度と『漏』することはない。

智慧音とあるが、前の方で智慧については触れたので、ここでは言わない。大智慧音とあるが、智慧には根本智と後得智がある。根本智はあらゆる衆生がすべて仏と同様の智慧を備えているが、開発されていないので、修行した後に『後得智』を得る。『後得智』に『根本智』が加われば『大智慧』だ。我々はこの世間で生きているので、向き合い、処理しなければならない事柄がとてつもなく多く、世間法を経なければ、智慧を以って処理することはできない。午前中話した失恋した女性の例のように、リンチェンドルジェ・リンポチェも失恋したことがあったので、すぐに解決することができた。リンチェンドルジェ・リンポチェがそんなに執着するな、と諌めても、彼女は聞き入れなかっただろう。元々とても執著しているのだ。そのようなことを言われれば、もっと執著するか、或いは執著するなと聞いて、少しは減るかもしれない。そのため、臨機応変でなければ度衆はできないのだ。そなた達は一日中他人に山のように仏法を説き聞かせ、他人の誤解を招いている。なぜなら、智慧を得るまでは、仏法を説いてはならないからだ。

『師子吼音』とは、上師が偶に大声でそなたを驚かすことだ。鼓を鳴らせば、そなたの心はいくらか鼓の音に従って進み、闇雲に進まない。『師子吼』とは、癇癪を起こすのではない。この種の方法を用いれば、あっという間にすべての念頭を止めてしまい、仏法を受け入れられる人もいる。しっかり話しても、聞き入れない人もいる。『雲雷音』とは雷の音だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが話す時も雷鳴のようなこともあり、そうしなければそなた達は聞き入れない。しっかり話してもそなた達は聞かない。なぜなら衆生の根器と因縁が違うからだ。『出如是等不可説不可説音已』とは、先ほど開示したのでので、ここでは省略する。

経典には『娑婆世界,及他方国土,有無量億天龍鬼神,亦集到忉利天宮』とある。『娑婆世界』とは地球、太陽系だ。『華厳経』中で仏は、地球の色は青色だと仰せだ。仏が『華厳経』で語られた2500年前は、宇宙船も衛星もなかった。仏は地球が青色だとどうしてお分かりになったのか?地球がどんな色かなどという宗教は、世界広しと言えども他にはない。仏だけが仰せだ。世界では、主を信じればそれで良い、という宗教が多い。例えば、神社へ行けば神を信じる。だが、神であろうと何ができるのか全く分からない。ただの盲信だ。そなた達が神を盲信したいなら、なぜ仏が説かれた仏法を盲信しないのか?仏はあまりにも慈悲深く、あまりにもお優しいのではないか?

仏は娑婆世界で講法された。『及他方国土』とは地球人が言う別の国ということではなく、別の星、銀河系だ。ここ地球だけではない。『有無量億天龍鬼神』とある。龍は神話、伝説の中の生き物だと思っている人が多い。リンチェンドルジェ・リンポチェが教えよう。確かに龍はいるのだ。だが、なぜ目に見えないのか?龍の福報が良ければ、畜生と天界との間の生物だ。そのエネルギー及び空間は人とは違うため、そなた達には見えない。その龍の運が悪く、福報を使い切ってしまえば、姿を現し、そなた達も見ることができる。さもなくば、そなた達には絕対に見えない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、何を以って見えると言うのか?なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは何度も見たことがあるからだ。嘘ではない。本当に龍は存在する。

経典では、どんな人が龍になると言っているのか?それは、この一生でいくらかの好事を為し、いくらか仏法を聞いたことがあり、さらには神社に拝みに行ったことがあるが、嗔恨心が非常に重い人だ。嗔恨心が非常に重いとはどういうことだろうか?ある人が自分に嫌なことをしたと感じたとする。柏手を三回打って、その人を離れさせてくださいと神に祈る。または、ある人がそなたの金をだまし取ったとする。そなたは柏手を三回打って、金を返させてくださいと神に祈る。これらはすべて嗔恨心だ。だが、なぜならそなたは供養をしたので、少しの善を行ったことになる。そのため死後は龍になるのだ。龍は福報があり変化でき、非常に大きい能力を有する。経典では、龍の目に睨まれたなら病気になる、とある。よって龍を怒らせてはならない。

仏法には八部の護法がある。いわゆる天龍八部だ。内一つの護法は天界、欲界天内の龍だ。人世間の龍ではない。これら龍は変化し、さらには人の姿になって出現する。天龍の大部分は仏法を保護する。寺でよく見られる不動明王が身につけているのは蛇のようだが、実は龍なのだ。非常に多くの金剛部は頚部に蛇を載せているが、実はあれも龍なのだ。

ここで言う鬼神は幽霊ではない。在生の際、修行したことがあるが、貪念があるため、例えば自分の名前を他人に知ってもらいたい、供養してもらいたい、他人に持ち上げてもらいたいと貪念を抱くなら、生前仏寺に暮らし、読経と写経をしていたとしても、死後は福徳を有する鬼神となる。現在台湾、日本の神道、ヒンズー教で拝んでいるのも、非常に多くがこの類の鬼神だ。彼は過去のどの世かで、修行したことがあるが、貪念を存していたため、死後に貪念のために鬼神になったのだ。

経典には『所謂四天王天、忉利天、須燄摩天、兜率陀天、化楽天、他化自在天、梵衆天、梵輔天、大梵天、少光天、無量光天、光音天、少浄天、無量浄天、遍浄天、福生天、福愛天、広果天、無想天、無煩天、無熱天、善見天、善現天、色究竟天、摩醯首羅天、乃至非想非非想処天』とある。

釈迦牟尼仏は欲界天から説法を始め、無色界天まで説法なさった。人類は四天王を知っている。中国であろうと韓国であろうと日本であろうと、みな四天王を拝む。以前日本では幕府時代の藩主が、戦に行く際に四天王を携えた。四天王は甲冑を身に付けているので、四天王が戦いを助けてくださると思ったのだ。四天王が戦われるのは、欲界天ではしばしば阿修羅が戦に来るからだ。阿修羅とは在生時に非常に善の福報を修めたが、忌妒と嗔恨の心があったために、死後、阿修羅天に生まれたものだ。阿修羅天は福報がある。経典では『阿修羅天の人は、男は非常に醜く、女は非常に美しい。金を使うことができ、非常に美しい衣服が着れ、食物もあるが、飲酒しない』という。少しの常識があるなら、分かるだろう。地球上にこの種の人がいる。

この種の人は、ある宗教としばしば争う。すでに1000年以上も闘っている。よって経典で言うことは、死を待たずとも、地球上で目にできるのだ。阿修羅の嗔恨心は非常に重い。そなたがもし阿修羅を怒らせたなら、殺されてしまうだろう。では、どうして彼らはある宗教を攻撃するのか。歷史的には、この幾つかの宗教はすべて異母兄弟だ。後に分家し、分家した後に争っているのだ。

経典で言う四天王等は、すべて欲界天から説法を始め非想非非想天まで、つまり無色界天まで説法される。経典では、地球の人類は光音天から来たという。どうして地球の人類の宗教はすべて、天に行くことを求めるのか?邪教や鬼を拝むものを除き、正常な宗教はすべて死後の昇天を求める。これこそなぜなら人類の祖先が光音天から来た証左だ。絕対に猿から進化したのではない。もし人が猿から進化したのなら、今いるすべての猿も人になるはずだ。また、動作の中には残っているものもあるはずだ。だが、みな猿のような動作はしない。そのため、これは科学者が執筆や論文のために、もっともらしい説を探して来たものなのだ。厳密に言えば、非常に多くの動物は解剖後に手足がある。そのため、この種の理論が正しいかは分からない。だが、経典では、人は光音天から飛んで来たと言う。飛んで来た後に人類の祖先は地球上のある食物—地肥を好み、食べた後身体が重くなって飛び上れなくなってしまったので、地球に暮らすことになった、という。つまり、身体が重くなると飛び上れないのだぞ。気をつけるがよい。

あらゆる宗教が死後の昇天を願う。それは生生世世に祖先が残した人生経験だ。経典で天に触れるのは、すべての天界の人がみな仏法を聞きに来ると教えるためだ。天人は地球人とは違い、神通力を備え、何が救いになり、何が良いのかを知っており、仏がどこで講法されているかを知り、そのすべてを聞きに行く。寶吉祥仏法センターのように招待状を出すことなどあろうか?朝は時間がない、午後は病気だ、という人までいる。この種の状況に対しては、リンチェンドルジェ・リンポチェは嘆息することしかできない。

経典では『一切天衆、龍衆、鬼神等衆,悉来集会。復有他方国土,及娑婆世界,海神、江神、河神、樹神、山神、地神、川澤神、苗稼神、昼神、夜神、空神、天神、飲食神、草木神,如是等神,皆来集会。』とある

かつて中国人と日本人は春、耕作の前には祭礼を執り行っていた。日本では今もこの種の儀式がある。インドにもある。苗稼神を拝むのだ。この種の神は、この地の害虫を減らし、豊作をもたらしてくれる。京都寶吉祥仏法センターの庭を守ってくれている日本人は、仏を信じておらず、殺生を信じていないが、非常に慈悲深く、犬がいるので化学肥料を施さない。化学肥料を施していないので、ここの植物は年々良く育っている。これこそ苗稼神がこの地を保護してくれているからだ。なぜなら衆生を傷つけていないからだ。樹は虫に食べられる。だが、虫たちは一本だけを食べ、他の樹木は食べない。

以前リンチェンドルジェ・リンポチェは別の場所で試したことがある。ある年、庭に花を植えた。その年、虫はひたすら食べたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは虫に食べさせるよう、化学的な殺虫剤を使わないように言っておいた。その結果、二年目に虫は二株を食べたが、他の株は成長させ、三年目には一株だけを食べた。虫であっても感謝するのだ。だが、人類は感謝しない。これこそ苗稼神の影響だ。虫をあるところに追いやるのだ。なぜなら、この農民は殺生しないと知り、苗稼神が保護してくださるのだ。

昼神とは日中の神だ。飲食神とは、多くの中国人が古くから拝んできた灶君だ。日本人も廚房で拝む。農村では今でも祀っているところがあるが、大都市ではなくなってしまった。飲食神は、生前人に食べ物を出す際に健康と衛生に留意し、しばしば施食、つまり食に困っている人を見るとその人に食べ物を与え、しかも不殺生だったので、死後はこれらを監督するようになったのだ。ある家が食物の衛生に気を配り、条件を設け、不殺生なら、飲食神はこの台所から失火しないよう守ってくださる。台所から失火するのは、飲食神が離れて保護してくださらなくなったからだ。殺生を諌めるのは、飲食神がそれを嫌うからだ。

飲食神がおられるなら、どんな物を食べても栄養になる。リンチェンドルジェ・リンポチェはとても少ししか食べない。朝食は豆乳と幾らかのナッツだけ、昼食は茶碗一杯に満たないご飯、夕食のご飯は一口だけだ。それでも、リンチェンドルジェ・リンポチェは居眠りせずとも、退屈だとも思わず、こんなにも長い時間話し続けることができる。これこそ、飲食神のおかげだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは何を食べてもすべて健康につながるのだ。飲食神がおられないなら、最良の食品を食べても栄養にはならない。それは飲食神が気を吹きかけたり、追い立てたりしてくれていないからだ。調理の際には、餓鬼も食べに来る。餓鬼が来て食べる食べないに関わらず、近寄って来さえすれば、その気が食べ物を悪くしてしまうのだ。飲食神はそれを防いでくれる。この範囲の神を立ち入らせないのだ。

食中毒が突然発生するようなレストランでは、主人が絶対に良くない事をしている。そのため、飲食神が助けなくなったのだ。衛生にどんなに気を配っていても、問題は起きる。日本は衛生環境がとても良いが、それでも数年前には中学生か小学生が旅行中に、一行全体に食中毒が起きたことがあったではないか。これこそ飲食神と関わりがあるのだ。

『草木神』が意味するのは、地球上の一草一木のどれにも神がおられる、すべてに主人がいるということだ。そのため、経典は『これを使わせてください。お許しください』と心を込めて予め許しを得ない限り、屋外で適当に草を摘んだり、木を用いたりしてはならないと教えるのだ。この種のことを言わないで、当たり前だと考え、摘んできて燃やしたりしても、何事かが起きるということはないが、この種のマイナスのエネルギーはゆっくりと溜まり、問題が起きる。同じ場所でも、とても盛んに茂っている草もあれば、そうでない草もある。それはどう説明するのか?土壌も同じ、気候も同じなのに、成長の様子が違う。これも草木神と関係があるのだ。草木神が気に入れば、その場所は良くなる。園芸をする者はこれを信じた方が良い。どの寺にも草木神がおられる。菜食し、不殺生なら、植えたものはすべて良く成長し、庭づくりはどんどんうまくいくようになるだろう。

経典では『復有他方国土,及娑婆世界,諸大鬼王。所謂:悪目鬼王、噉血鬼王、噉精気鬼王、噉胎卵鬼王、行病鬼王、撮毒鬼王、慈心鬼王、福利鬼王、大愛敬鬼王,如是等鬼王,皆来集会。』とある。鬼王はどういう由来なのか?鬼王は神よりレベルが劣る。しかも少しの嗔心を携えている。よって、死後に鬼王になったのだ。通常鬼王は非常に多種に分けられるが、基本的にどの地域にも鬼王がいる。鬼王は、その地区の誰も拝まない鬼をすべて集めてしまい、彼らが目茶目茶に動き回らないようにする。台湾には非常に多くの廟があり、日本には非常に多くの神社があるが、これらの60%は鬼王で、残りのわずかな部分だけが神だ。神と鬼とは少し違う。鬼神と総称されるが、神と鬼の福報、能力、効果はすべて異なる。つまり、鬼王は絕対に福がある。福がなければ鬼王にはなれない。

『悪目鬼王』というこの種の鬼王目は、小鬼を掌握しなければならないので非常に兇悪で、一睨みされただけで、病気になってしまう。『噉血鬼王』の傘下の鬼は吸血する。通常は出産に使われる分娩室と手術室にこの種の鬼がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェに手術すべきかどうかと聞きに来る人が多い。リンチェンドルジェ・リンポチェは、良いとも悪いとも言わない。リンチェンドルジェ・リンポチェは何も意見を言わないが、手術しようがしまいが、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず彼らを助ける。通常彼らは必ずリンチェンドルジェ・リンポチェに『手術しようと思う』という。リンチェンドルジェ・リンポチェも通常は必ず『病人を手術室内では死なせない、と保証する』と言う。リンチェンドルジェ・リンポチェのこの保証は今まで一度も失敗したことがない。

どうして失敗しないのか?なぜなら手術室にはこの種の鬼がおり、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持後、この種の鬼は手術室中の病人の血を吸わない、病室へ移ってから吸うと約束するからだ。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェが、手術室中で死なないと保証するからだ。手術室内で死なないとリンチェンドルジェ・リンポチェが保証してくれたと皆とても喜ぶ。だが、その後のことはリンチェンドルジェ・リンポチェは保証していない。どうして後のことをリンチェンドルジェ・リンポチェは保証しないのか?なぜならこの人が仏法を信じているなら、このようにリンチェンドルジェ・リンポチェに求めることはないからだ。この人は手術で死にたくない、と望んだに過ぎない。誰もが手術するにあたりこの考え方を持つ。だが、実は後のほうがよっぽど大切なのだ。

『噉精気鬼王』は我々の精と気を吸う。男性の精ではない。人の肉体は母からの血と父からの精で成り立っている。精は身体内では一種のエネルギーになる。例えば、骨髄は精だ。脳細胞に滋養を与える脳髄もそうだ。よって、一日中脳を働かせ何かを考えていれば、その人の精は急速に消耗されてしまう。リンチェンドルジェ・リンポチェは68歲だ。リンチェンドルジェ・リンポチェと同い年の者もいる。だが、どうしてその人はリンチェンドルジェ・リンポチェより老けているのか?それは、彼がとても女性にモテるからではなく、彼がひたすら思考し、自分の精を消耗しているからだ。精を使い切ってしまえば、人はあっという間に老いてしまう。

誰でも生まれながらの精は一定だ。使い切ってしまえば、増えるということはない。精が増えるなら、老いることはない。子供は精が満ち満ちているだろう。それなのに、老いればどうしてなくなるのか?性的関係を結ぶ、夜更かしして寝ない、あれこれ考える、頭を使って物事を処理する、一日中コンピューターを使う、一日中コンピューターをゲームをする。これらはすべて急速に精を消費する。台湾では設計であろうとエンジニアであろうと、コンピューター業界で働く人の85%以上が受精できないという状況をリンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば聞き及ぶ。なぜなら、彼らは脳内の精をひたすら消耗しているからだ。だが、彼らは漢方を信じず、漢方薬を飲まないので、身体のバランスを整えることができない。そのため、消耗が非常に速いのだ。

この種の鬼王は精子の中の精を吸うのではない。精、気、神の中の精を吸うのだ。どんな人が吸われるのか?酒色や財気でいっぱいの人だ。つまり飲酒を好み、女遊びを好み、金儲けを好み、自慢しいで、人に持ち上げられるのが大好きな人だ。台湾にある金持ちのボンボンがいた。一日中たくさんの女性を侍らせ、酒色財気に塗れていた。そのため、非常に速く老いてしまい、監獄の中で死んでしまった。どうしてこのようになるのか?この人は死の数年前から顔色がどんどん黒ずんで行った。だが、これは日焼けではない。精が吸い取られてしまったのだ。この種の吸精鬼は、何らかのものの上に取り付いて、そなたの精を吸うのだ。

気はどうやって来るのか?ニンニク、ネギ、ニラを食べる人にはある種の口臭があるため、夜寝ている時、噉気鬼が口からその気を吸うと、仏法では言う。つまり、鬼が毎晚キスしに来るのだ。良いことがあるだろうか?人の身体が良い状態であるためには三つの元素—精、気、神が必要だ。気というものは、非常に説明しにくい。なぜなら検知できる検査機器がないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェを例とすると、すでに68歲なのだから、こんなに長く話し続けることなどできないはずだ。講話でなくとも、そこに座っているだけでも、とても疲れるはずだ。さらに、リンチェンドルジェ・リンポチェのようにひたすら話し続けることができるだろうか?これができるのは、リンチェンドルジェ・リンポチェの気が足りているからだ。

気はどうして損耗してしまうのか?貪心が重いからだ。貪心の範囲は非常に広い。嗔念が重い人の気は非常に速く損耗してしまう。医学的に言えば、ある人の喜怒哀楽が激しいなら、気は足りなくなる。なぜなら気が損耗してしまうからだ。気は生まれながらに我々についている。仏はかつて弟子達に、人はどうなれば死ぬのか?と問われた。弟子達はたくさんの理由を答えたが、仏は、一口の気がなくなれば死ぬ、とお答えになった。一口の気がつけなくなり、呼吸ができなくなれば、気が断たれれば死ぬのだ。当然例外もある。気が断たれても蘇生することもある。これこそその人の内気がまだ断たれていないからで、密宗ではそれについて触れている。またの機会に説明しよう。

どうであろうと、我々の気は生まれた時はいっぱいに満ちている。子供の手を摘まんでみるといっぱいに満ちている。痩せていようと太っていようと、摘まんでみればいっぱいに満ちている感じがする。足もそうだ。手の平もそうだ。では、みな自分の手を見てみよ。特に68歲の者は見てみるがよい。いっぱいな感じがなくなっているなら、気が消耗していることを示している。また、足裏を見て、もし足裏も足の甲もいっぱいな感じがするなら、気がまだ十分だということだ。いっぱいな感じがゆっくりと消えており、筋骨がはっきり見て取れるようなら、気が消耗しているということを示している。

精気が不十分なら、当然ゆっくりと老いの方向へと進む。老いるとは、臓器がだんだん悪くなり、どう支えようとしてもどうしようもなくなるということだ。精と気をもっぱら吸う鬼がいる。この鬼は、すぐにそなたの命を取るということはなく、寄生虫のように、身体の中でゆっくりと吸うのだ。寄生虫の中には噉血鬼が変わったものもいる。そなたの身体の中でひたすら血を吸うのだ。福報が十分な人には寄生虫はいないはずだ。たとえ、寄生されたとしても、すぐに排出してしまうだろう。排出できれば福がOKだということだ。寄生虫を出してしまったのだ。つまり、精気は我々生命の根本なのだ。精気がなければ生きてはいけない。

『噉胎卵鬼王』は、人の胎児、動物の卵が生まれる前に、入り込み中のものを吸う鬼だ。妊娠中に突然胎児の心臓が止まることがある。医学的には様々な説明がなされるだろうが、リンチェンドルジェ・リンポチェが見たところ、それは絕対に業障のためだ。へその緒が首に巻きついている胎児もいる。医学的には、胎児が動いたので、へその緒が巻きついたのだというが、この種の言い方は乱暴に決めつけ過ぎる。この種の状況が起きるのは、『噉胎卵鬼』が入り込んでいるからだ。胎児を吸うので、胎児が怖がり、鬼に吸われまいとして転げまわるので、へその緒が首に巻きつくのだ。胎児はへその緒を通して呼吸しているので、きつく巻きつけば、精気はどんどん少なくなる。こうして、精気が鬼に吸い取られてしまうのだ。嬰兒のすべての栄養はへその緒を通して送り込まれる。巻きつけば、へその緒は狭くなってしまうので、必要な栄養が取り込めなくなり、鬼だけが入り込んだ後ひたすら吸い取り、食べ尽くすことになる。

非常に多くの種類の病気が『行病鬼王』による。どんな人が病気になるのか?肉食を好み、喫煙し、嘘をつき、人を騙し、不正行為を働き、殺生する人だ。麻薬に手を出し、喫煙し、食中毒になり、毒虫に咬まれる。これらに陥り易い人がいるが、それは『撮毒鬼王』と関係があるのだ。『慈心鬼王』は生前慈悲を修めたので、修仏している人を護持しに来る。悪い鬼ではない。ただ、この鬼は貪念を捨て切れなかったので、鬼界に堕ちたが、少しの慈心を持っていたので、仏法を護持し続けているのだ。

『福利鬼王』は、生前人助けや他人に利益することを好んだ鬼だ。だが、名誉を貪るなどの少しの貪念があったので、死後に福利鬼となったのだ。福利鬼がそなたと気が合い、前世に借りがあったと分かったなら、やって来て、そなたを有名にし金儲けをさせ、さらには結婚させてくれるだろう。だが、これらはすべて一時的なものだ。『大愛敬鬼王』は生前にすべてを愛し、或いは一つのものへの愛に非常に執著したのだ。野良犬にひたすら愛を注ぎ込む人もいる。だが、ホームレスをひたすら愛するという人の話は聞いたことがない。もっぱら一つのものを愛し、非常に執著する人がいる。生前にある種の人、物、神に対して非常に恭敬だったのかもしれないが、死後は鬼道に落ちるのだ。なぜなら貪念を残していたからだ。

『如是等鬼王,皆来集会』とは、鬼までが仏法を聞きに訪れる、ということだ。人なら尚のことではないか?『自分は人なので十分に素晴らしい。仏法などなくとも、すでに良い暮らしをしており、妻も子供もいる。仏法などこれ以上どうするのだ?』等と思ってはならない。死に直面すれば、仏法の必要性が分かるだろう。死に際に、誰かに来てもらい読経すれば、阿彌陀仏のお側へ行けるというものではない。絶対にそうではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは法座にいるので、仏法に背いたことは一言たりとも口にできない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは因果を深く信じているからだ。今日の開示はここまでにする。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身は少しも疲れていないが、そなた達は疲れたようだ。よってここで終わりにする。

簡単に言えば、学仏の最初の頃に、仏法に対して必ず真剣に体得し理解しなければならない。念頭と理念に間違いがなくて初めて、後の修行に障礙がない。学仏の前に山のように理由を並べ、過程において上師が開示する仏法を受け入れず、自分自身の考え方を用いて修行するなら、必ず良くない事が起きるだろう。そのため、みな慎重であるように。実は、リンチェンドルジェ・リンポチェは経論から修行を始めたのではない。最初は布施供養の法門を修め、次に信の法門から—仏が説かれた一切はすべて衆生にとって良いことだと徹底的に信じ、成し遂げられなくとも、仏が自分を騙したというのではないと信じ、仏の仰せが確実ではないということではないと信じ、自分ができていないのだと考える。なぜなら自分ができていないので、非常に大きい決心を下す必要がある。仏法において工夫を凝らし、必ず成し遂げる。行うように努力するのではなく、必ず為すのだ。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェは今日少しの成就を得ることができた。

この少しの成就により、リンチェンドルジェ・リンポチェが経典を見る時、見られる領域がそなた達とは完全に違うようになる。経典はすべて文字だ。そなた達が見るそれの含意とリンチェンドルジェ・リンポチェが見るものはどうして違うのか?リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達より学があるというのではなく、修行の過程から、修行と経典の仰せが相応する、対応するとゆっくりと体得したからだ。つまり、リンチェンドルジェ・リンポチェはある境界まで修めたので、経典を開けば、それが言わんとすることがすぐに分かるのだ。経典から修行を始める人もいる。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはちょうど反対なのだ。修めた後に経典を再読し、自分が実はすでにできていた、或いはできていなかったと、改めて確認しているのだ。

よって、リンチェンドルジェ・リンポチェが経典を講釈する時、自分の修行過程と経典の境界が完全に対応しなければ、経典を講釈することなどできない。なぜなら経典は仏が説かれたお話なのだ。適当に言い間違う訳にはいかない。今日ある人が一人の師について何かを学ぶとする。師が教える方法にその人が従わず、自分で方法を作り出す。これでは師に従って学んでいるのではない。仏法は釈迦牟尼仏が発明されたのではない。一切諸仏成仏の方法なのだ。よって釈迦牟尼仏が説かれた方法は、絕対に自分で講じる発明ではない。すべての一切無数の仏の成仏の過程はすべてこのようなのだ。

釈迦牟尼仏が講じられる方法を、リンチェンドルジェ・リンポチェは後の世で学仏する者として、修行の方法をみなに伝えたいと願うのだ。行うかどうかは、自分で決めれば良い。聞いて行わなくとも、リンチェンドルジェ・リンポチェは罰したりしないし、無視したりしない。反対により多くそなたに構うだろう。なぜならそなたは学仏しないことで、心の中にいくらか申し訳なさを感じ、リンチェンドルジェ・リンポチェを見ると『良いだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェを食事に招待しよう』と言おうと思うからだ。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、そなたの招待に預かる訳にはいかない。なぜならそなたは学仏人でないからだ。この一生では縁があったのだからそれで良い。未来世で縁を結ばなければ良いのだ。この一生で学仏を決心しないなら、未来世でそなたに見つけられたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは疲れて死んでしまうではないか!

今日は仏法を開示したので、みなに未来の修行の因を植え付けた。修行することを決定するかどうか、リンチェンドルジェ・リンポチェについて修行するかどうか、それは重要ではない。重要なのは、リンチェンドルジェ・リンポチェがすでにそなた達にこの因を植え付けたということなのだ。そなたが未来のいつ行うことを決定しても、完全にリンチェンドルジェ・リンポチェには関係がない。そなた自身に掛かっており、そなたの決定に掛かっているのだ。決定した時にすぐに始めれば、すぐに善の方向へと進む。まだ定年退職していないので、仕事が軌道に乗っていないので、環境が許さないのでなどと、山のような言い訳を並べてはならない。そなた達は他人にこれらを言うことはできるだろう。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェに言っても無駄だ。なぜか?リンチェンドルジェ・リンポチェには100人余りの従業員がおり、たくさんのところに会社があるのに、やはり修行できるではないか。どうしてそなた達にはできないのだ?できない理由は簡単だ。それは信じていないからだ。行おうと決心していないに過ぎない。

リンチェンドルジェ・リンポチェより忙しい者などいない。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日とても充実しているので、眠ろうとすればすぐに眠れる。何で充実しているのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは常に干渉を受けている。ある弟子が病気になっても、リンチェンドルジェ・リンポチェを掻き乱す。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に忙しい。それでも、修行する決心を下せるのは、おもしろいではないか?

あるチリの信衆がリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子と知り合った。この信衆はペルーで尊勝なる直貢チェツァン法王にお目にかかったことがあった。直貢チェ・ツァン法王はこの信衆に、一枚のカードをリンチェンドルジェ・リンポチェに渡すよう仰せになった」と仰せになり、続けてリンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアたっぷりに「そのカードは直貢チェツァン法王が新たに発明なさったものだ。以前はなかった。カードには英語で『Do you have a problem? Yes? No? Then, don’t worry. 吉祥如意。Can you do something about it? The Buddhist rule of worrying is simple. Don’t.(何か問題を抱えていますか?あってもなくても心配しないで。何かできますか?仏教徒の方法はシンプルです。何もしない)』とあった。

この言葉の意味は、仏法にとっては非常に簡単だ。つまり一切の悩みは悩む必要はないということだ。なぜなら悩みはいつか必ず離れていくからだ。つまり、ストレスを感じるのは、悩みに執著しているということだ。悩みには健康等さまざまある。尊勝なる直貢チェ・ツァン法王が突然カードを送ってきて、『Don’t worry』とおっしゃる。『Don’t worry. Be happy.』という歌もあったな。だが、happyと言うのも、あまり正確ではない。吉祥如意とはどういうことなのか?人生には必ずさまざまな事態が発生する。単一の方向ということは有り得ない。事態が発生するなら、良くても悪くても、好きでも嫌いでも、すべて通り過ぎるということをはっきり弁えていなければならない。この種の心構えで人生に向き会えば、ストレスを感じたり、他人に害されたと感じたり、他人に大切にされていないと感じたり、自分は過ちを犯していないと感じたりすることはなくなる。

我々は自分の能力を尽くして、他人が我々に賦予してくれた範囲内で物事を処理する。それは当然だ。特に人から給料をもらっていればなおのことだ。いくら給料をもらっていようと、自分の範囲内の事はしっかり行わなければならない。人から給料をもらいながら、見下されていると考え、癇癪を起こしたりなどすれば、死後は鬼になる可能性が高い。なぜなら貪嗔の心を起こしたからだ。かつてある人がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来て、ストレスを感じるので仕事を辞めたい、と言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは、そなたの雇用主は給料をくれるか?と聞くと、相手は、くれる、と言う。リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに、雇用主は給料を差し引くか?と聞くと、そんな事はない、と言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて、雇用主は仕事の範囲外の事をやらせるか?と聞くと、そんな事はない、と言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは『そんなに良い雇用主なのに、なおストレスを感じるというのか!そなたのような従業員を雇っている雇用主が感じているストレスの方がもっと強いだろう!』と言った。つまり近頃は、人を雇うのはとても大変なのだ」と仰せになった。

リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で出家弟子に、次にいつ講釈するか分からないため、今日リンチェンドルジェ・リンポチェが経典のどこまで講釈したか記録するように指示なされた。「リンチェンドルジェ・リンポチェの説法は衆生の縁に従う。衆生が求めないなら、講釈し続けても意味はない。説法はそなた達が想像しているように資料を用意して話すのではない。なぜなら一切の資料は修行のものではないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の修行の経験を用いてみなに聞かせる。もし、仏法を聞きたいなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが招待状を出さなくとも良いよう要求するように。日本の信衆はみな遠慮して、招待されなければ来ない。だが、いつリンチェンドルジェ・リンポチェの法会があるのか、仏法を聞きに行っても良いのか、尋ねても良いのだ。もっと主動的であるように!」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達を率いてアキ護法と回向儀軌を修持くださり、修法の円満後、継続して開示を下された。

「今日みなはこの法会に参加した。地蔵王菩薩に対して絕対の信心を持ちさえすれば、上師が講じた一切の開示に対して懐疑を持たず受け入れるなら、肉食の悪習を断ちさえすれば、この一生で如実に学仏しなくとも、往生後に今日のこの事情を覚えてさえいれば、地獄の入り口まで行ったとしても、地蔵菩薩とリンチェンドルジェ・リンポチェの法号を呼びさえすれば、地獄に堕ちることはない。よって、みな覚えておくように。なぜなら一切の講法の功徳は、そなた達が思っているようなものではなく、そなた達は経典を聞いたのだ。先ほど経典で触れたように、仏が講法なさる時にはたくさんの天界、鬼界の神が仏法を聞きに来られたのだ。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェは釈迦牟尼仏に代わり、『地蔵菩薩本願経』を改めて講釈した。つまり、経で講じる情景が寶吉祥仏法センターで発生するということだ。みなはこの福分、因縁があり、『地蔵菩薩本願経』の講釈を聞きに来られたのだ。これは容易な事ではない。ある老夫妻は福井から車で来ている。他の日本の信衆も休日である日曜日を使い、名古屋から来ている者もいる。それは、そなた達には決心があると言うことができるだろう。決心がないなら、来なかっただろう。決心があるなら、聞き入れ、行為の修正を始めなければならない。仏法では、何が良くやったか、良くやらなかったか、と定義してはいない。経典でも講じない。仏はただ、決めたのならすぐに開始しなければならないと仰せだ。始めることができなければ、未来の果報を変えることはできない。ただ考え、待つだけで、全く始めようとしないなら、考えて待っているだけだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、今日のことを覚えてさえいれば、地獄の入り口に行ったとしても、入ることはない、と先ほど言ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは保証はできない。なぜなら往生まではまだ時間があるので、たくさんの人、事がそなたの邪魔をするかもしれないからだ。仏は、信は一切功徳の母だと開示くださった。一切の功徳は信から始まるということだ。信とは迷信や盲信ではない。仏が説かれた一切はすべて衆生を助けるものだと信じ、信じて行いさえすれば、いつか必ず成し遂げられるだろう。仏は人が修行なさったものなのだと信じなければならない。それなら、衆生が始めさえすれば、未来のどの一世かには必ず釈迦牟尼仏と無二無別になれるだろう。どの一世かなどとは分からない。なぜなら密法修行には少なくとも17世必要だからだ。密法修行でないなら、どれだけの世を経なければならないかも分からない。だが、必ず成功する。

一世が何年かは重要ではない。先ほど開示したように、宇宙には時間の概念がない。人類の心は動くので、時間の概念があるのだ。今日みなはこの因縁、福報があったので仏法を聞くことができた。それはそなた達が過去世で修めたものだ。さもなくば、ここには来られなかったはずだ。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは第一に日本語が話せない。第二に有名な修行人ではない。ただ黙々と、少しずつ行っているだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが行っているので、直貢チェ・ツァン法王にお目にかかったことがあるチリの信衆までがここに来た。これは絕対に縁と福報があるからだ。日本の信衆に対して、これら聞き分けが悪い子供に対して、リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり老婆心から言い聞かせたい。最近世界はどんどん乱れている。仏法だけが我々を救えるのだ。仏法を信じさえすれば必ず救われる。みなこの言葉を信じなければならない」と仰せになった。

法会が円満となり、弟子達は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる開示に感謝申し上げ、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを起立して謹んでお送り申し上げた。

日本寶吉祥仏法センターの開光七週年を記念して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは今回、ご自身で実修実証された殊勝なる成就を以って『地蔵菩薩本願経』を開解くださり、修行経験と実例を用いて経典の真実の意義を分かりやすく説いてくださった。また、仏陀が開示くださった法語を生き生きと再現くださり、参会者は法雨に洗われたかのように、歓喜で満たされ、無比なる恭敬心で領受申し上げ、正法を聞くことができたこのような殊勝で有り難い因縁福報を大切に感じた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは貴重な仏法の開示により虚空の無数の有情を撮受くださり、仏陀の清浄な教法を伝承されたばかりか、日本国と国民の福報を増長くださり、慈悲と智慧の法雨により広大な衆生を救ってくださった。衆生の離苦のため苦労を厭わず正法を弘揚くださり、一切の有情は皆無量無辺の功徳と法益を受け取ることができた!

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2016 年 06 月 17 日 更新