尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年5月17日

法会の開始に先立ち、一人の弟子が、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女と家人を救ってくださった経過、及び自らの皈依の縁由について、皆に語る機会をくださったことを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げた。

「2008年から2009年にかけて、同級生だった黄兄弟子は、自身の上師─尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なる衆生済度の事跡についてメールでしばしば知らせてくれ、またリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なる著作『快楽と痛苦』について教えてくれた。当時私は右側臀部にしばしば疼痛を感じ、歩く際に少し足を引きずるほどになっており、夜は痛くて眠れないこともあった。ある晚、黄兄弟子のメールにあった、『快楽と痛苦』中の尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真に救いを求めたという話を思い出し、自分も尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真に祈ってみた。すると、ゆっくりと痛みが引き、眠りにつくことができた。その後の二、三日は日に日に痛みが和らぎ、数ヶ月の間苛まれていた疼痛が消えてしまい、その後再び痛むこともなくなってしまった。けれども愚かな私は当時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの救いと慈悲なる加持に感謝を申し上げに拝謁賜ることを思いつかず、大修行者にお目にかかる殊勝なる因縁を逸してしまった。

2010年初め、兄嫁が病でこの世を去った。兄嫁が病で苦しんでいた時、仏法の救いを得て、死の恐怖に立ち向かい、生死輪廻を解脱できなかったことを私は非常に残念に思った。母は仏教団体で委員を務めており、親戚の多くはある宗教の弟子になってもいた。けれども、兄嫁を救うことはできなかった。その年、黄兄弟子が『阿彌陀仏無遮大超度法会』への参加を誘ってくれたので、私は大法会に参加し兄嫁を超度させてあげようと思った。黄兄弟子はさらに、6月6日に尊勝なる直貢チェツァン法王が主法なさる『祖師ジッテン・サムゴン紀念法会』への参加も誘ってくれた。そして、これが殊勝なる大法会に参加する初めての機会となり、非常に荘厳で殊勝であり、心中の感動は言葉で言い表すことはできないほどだった。続けて私は10月3日に開催された『阿彌陀仏無遮大超度法会』に参加し、願い通り兄嫁を超度させることができた。私は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を申し上げたい。法会は非常に荘厳で殊勝であり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、菜食し止悪行善するよう、慈悲なる開示をくださった。リンチェンドルジェ・リンポチェは『たくさんの人が病に苦しむのを見てきたが、衆生は因果を信じず、殺生して肉食している』と仰せになって落淚なされ、肉食してはならないとお諌めくださった。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈心と悲心に、私は深く感動した!

2011年1月17日夜、左耳が突然耳鳴りを始め、しかも自分の心臓の鼓動も聞こえ、とてつもなく苦しくなった。私はこれは、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェをお訪ねする勇気をくれる契機に違いないと思った。そして、良くなろうとなるまいと、必ず尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁申し上げ、リンチェンドルジェ・リンポチェに従い学仏しなければならない、と自分に言い聞かせた。この念頭を起こしたことで、発病以来毎日眠れなかった私が、安らかに眠りに着くことができた。私は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる加持に感謝申し上げたい。

2011年1月29日私は初めて拝謁にうかがった。当時尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも『どうしたのだ?』とお尋ね下さったので、私は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに、耳の状況について報告申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも『あなたの耳は仕事のせいだ。どんな仕事をしているのか?』と開示くださったので、『輸出業務に携わっており、しばしば飛行機で出張します』とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは『これだ!正常な耳は外の音を受け取るものだが、あなたの耳は身体の中の音を受け取っている。身体の中にも様々な音があるため、このようになるのだ』と仰せになり、続けて『あなたの耳は良くならないだろう!』と開示くださった。その時私は『尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはなぜこんなにもたくさんの事が分かるのだろう。まったく凄過ぎる』と思っていたが、思わず『ほんとうですか?』と尋ねてしまった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは直ちに私を叱責なさり『信じないなら、来るな。話を聞くな』と仰せになった。恭敬心と信心を持っていなかったことを、私は深く懺悔したい。私はさらに尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに『どの病院へ行ったら良いでしょう?』とお尋ね申し上げると、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは『どこへ行くかは、あなたの因縁福報次第だ。我が決めることはできない』と仰せになった。

続けて、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも『まだ何かあるか?』とお尋ね下さったので、私は急いで施身法法会への参加をお願い申し上げた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは『どうして施身法法会に参加したいのか?』とお尋ねになった。その時私は頭の中が真っ白になってしまい、学仏したいとだけは思っていたが、はっきりお答え申し上げることができなかった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは『傍で考えてみよ』と仰せになった。その日私が拝謁申し上げた時は午後三時頃だったが、夜十時になって、リンチェンドルジェ・リンポチェはようやくすべての信衆の接見を終えられた。そして再び、私に拝謁の機会をくださった。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも『どうしたのか?』とお尋ね下さったので、私は施身法法会への参加をお願い申し上げた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも『申し込んでくるがよい』と仰せになった。私は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。後に私は大病院で耳の検查をしたが、医者は内耳の水腫を確認した。ほんとうに尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの開示の通りだったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは凄過ぎる!私はリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる加持に感謝申し上げたい。耳鳴りは深刻だが、それでも毎晚非常によく眠ることができる。普通の耳鳴りの患者のように、睡眠薬を服用しなくとも、眠りに着くことができるのだ。

2012年1月7日、初めて皈依をお願い申し上げた時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも『夫は同意しているか?どう言っているのだ?』と開示くださったので、私は『夫は良いと言っています』とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは『良い、は同意しているということにはならない。夫は表面的には何でも良いと言うだろうが、実際には非常に偏屈だ。まずは法会に参加し、後に皈依するが良い』と開示くださった。私は、賛歎せずにはいられない。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはまったく凄過ぎる。夫はほんとうにそうなのだ。拘り始めるとどうにもならず、誰の言うことも聞かなくなってしまうのだ。当時私たちは伯母のうちに住んでいたので、壇城を設置していいものかどうか、私はそれも心配だったが、続けて不思議な事が発生した。2012年初めの旧正月、伯母は中国から戻ってくると、伯母が所有するマンションを市価より安い価格で売ってくれると言うのだ。それだけでなく、内装工事の際、どこか適した場所を探して壇城を設置したいとばかり私は思っていたが、うちが狭いので、自分が無理を通すと夫が怒るのではないかと心配だった。ところが、夫は自ら設計を変更し、独立した空間を作って壇城を設置させてくれたのだ。私は賛歎せずにはいられない。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる加持の下、一切は最も好ましく落ち着いたのだ。上師に心から感謝申し上げたい。

内装が完成した後、2012年9月私は再び皈依をお願い申し上げた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは『なぜこんなに経ってから、ようやく皈依を求めに来たのだ?』とお尋ねになったので、私は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに『以前は夫が同意していなかったからです』とお答え申し上げると、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは『では今は同意しているのか?』とお尋ねになった。私が『夫は良いと言っています』と申し上げると、リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに『良い、とは同意しているということではない』と開示くださったので、私は急いで『問題ない、と言っています』と申し上げた。すると、リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに『どこかの道場に皈依したことがあるか?』と尋ねられたので、『以前ある宗教に皈依していましたが、すでに二十数年接触していません』とお答え申し上げた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはさらに慈悲深くも『それは仏法ではない。たくさんの弟子も以前はあなたと同じだった。点伝師もいる。秘密を漏洩して天罰が怖くないのか?』と開示くださり、続けて『母も同意しているか?』とお尋ねになったので、私は急いで『母は仏教団体の委員ですので、大丈夫だと思います』と報告申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに『あちらへ行けば良い。あちらは怒ったりしないぞ!』と開示くださったので、私は急いで『因縁が違います』とお答え申し上げた。最後にリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも『申し込んで来るが良い!』と開示くださったので、私は欣喜雀躍した。上師に心から感謝申し上げたい!

学仏の障礙を何度も取り除いてくださったことを、私は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。私は、ある宗教に子供の頃入信した際に発した誓いのために、歷代の祖先に災いを及ぼしてしまうのではないかと常に恐れを感じていた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはかつて『真の仏法は脅迫することはない』と開示くださった。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる加持のおかげで、私は学仏の障礙を取り除き、2013年6月2日ついに尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依し、学仏の道が開けたのだ。

皈依の後は、非常に大きな心境の変化があった。その頃、勤めていた会社は二代目が後を継いだが、その後、仕事上のプレッシャーを強く感じるようになった。けれども、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる『給料をきちんと払ってくれれば、それが良い雇用主だ』との開示、また『仏子行三十七頌』の開示を思い出し、違った角度から物事を見ることができ、仕事における障礙を消すことができた。また、前オーナーの心遣いとサポートにも深く感謝したい。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが『随縁而過、随遇而安(縁に従い過ごし、縁に従い安まる)』と開示くださったように、我々が出遇うあらゆる事柄は偶然ではないのだ。すべてに因縁果報があるのだから、我々は自分の心を安定させ、新しい悪縁を結んで衆生を苦しませてはならないのだ。

2012年4月初め、私がまだ信衆だった頃、ある日息子が背中が痛いと言うので、病院で検查したところ、気胸だと診断された。症状は治療が必要かどうか微妙なところだった。医者は状況の悪化を恐れ、帰宅を許さなかったが、ちょうどその時、外科医は皆手術中だったので、私たちは救急処置室で待機していた。そのため、私たちは帰宅して様子をみることを申し出た。私は黄兄弟子に電話し状況を説明した。黄兄弟子は、息子に『快楽と痛苦』中の尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真に対して頂礼し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに加持をお願い申し上げるように指示くださった。そこで、私は急いで『快楽と痛苦』を開き、息子に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真に対して頂礼させ、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに加持をお願いさせた。翌日病院で再度レントゲンを撮ったところ、医者は『すでにかなり良くなっている。特別な治療は必要ない』と言い、良くなっているかどうか確認するため、一週間後にもう一度レントゲンを撮りに来るように言った。

こうして一週間後、一ヶ月後の検查で、息子はすでにすっかり良くなっていることが確認された。そして、この因縁で、息子も道場で尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる加持に感謝申し上げる機会を得ることができた。拝謁の際、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは『息子は一ヶ月あまり前、同級生と夜市のある廟の前を通りがかった時、冗談を口にしながら、賑やかに笑って通り過ぎた。不恭敬だったのだ。そのため気胸を発症した』と開示くださった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはさらに息子に対して『何人かでいっしょに通り過ぎ、みな騒いでいたのに、どうして彼らはなんともなく、自分だけがこんなことになるのか?と思っているだろう。それは、あなたに仏縁があるからだ。菜食しなければならない。さもなくば、再び気胸になるだろう。私は一度しか救ってやれない。言いつけに従わないなら、二度と救ってやることはできない。それから、もう二度と冷たい飲み物を飲んではならない』と開示くださった。息子は当時中正高校に通っていたが、仲の良い友人が夜市内に住んでおり、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示のように、ほんとうに夜市の廟の前を通るのだ。私は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる加持と救度に感謝申し上げたい。息子はおかげで健康を回復することができたのだ。ここで私は深く懺悔したい。母として子供を導く責任を果たしていないため、息子は今になっても菜食、学仏していない。

続けて私は、夫と同僚の母が、漢方薬軟膏に救われたことについて語ろうと思う。昨年夫は仕事の際に、不注意で旋盤のカッターに左手親指を触れ、ほとんど切断に近い傷を負ったが、テープを巻いて帰宅し、医者へ行かなかった。私は夫に、漢方薬軟膏を塗るか聞いたが、夫はずっと私を信じていないため、要らないと言う。翌日も夫はやはり要らないと言っていたが、三日目の夜になってようやく『持って来て。使ってみる』と言った。四日目の晚帰宅すると、夫は『とても良くなった』と驚きながら言い、漢方薬軟膏を塗ってくれるよう私に頼んだ。こうして一週間前後で傷口は完全に治り、一度剥がれた爪も新しく生えてきた。ある同僚の母は80歲代だが、十数年前に心臓の手術をした。その傷口がここ十数年来しばしば痛み、眠れないという。昨年同僚は、私の夫が漢方薬軟膏を使用した際の不思議な薬効を聞き、一個欲しいと言ってきた。数日後『お母さんの具合はどう?』と聞くと、『漢方薬軟膏を塗ったら、もう痛まなくなった、と母が言っている』と言う。私は尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。苦しむ衆生をお見捨てにならず、こんなにも良い薬で衆生をお救いくださるのだ。

ここで私は発露懺悔したい。自分の弱さから責任を負う決心がつかず、中絶したことがある。慈悲心がないため、ゴキブリ、アリ、蚊、ハエ、ノミ等無数の衆生を殺し、鶏、アヒル、ガチョウ、各種海の生き物等衆生の肉を食べてきた。貪嗔痴慢疑、両舌、邪淫、悪口、偷盜等種々の悪行を犯した。かつて不注意で二匹のカエルを轢き殺し、一匹の小鳥を踏み殺し、エビや魚を釣り、人が蛇を殺すのを見たことがある。種々の悪行すべてを今懺悔し、再び犯さないと誓う。私は懺悔したい。自分は学仏後も依教奉行せず、行為を改められていないため、家人はいっしょに学仏していない。夫は今でもしばしば魚釣りに行き、衆生を傷つけ、悪を為し続けている。

私はここで深く懺悔したい。結婚披露宴の際、普通食で客をもてなし、慈悲心がなく衆生を傷つけた。私はリンチェンドルジェ・リンポチェがしばしば開示なさるように、菜食しても持戒がないため、絶えず悪行を犯すのだ。私は若い頃しばしば母と衝突し、母を悲しませ心配させていた。自分の親不孝を深く懺悔し、二度と再び犯さないと誓う。また、懺悔したい。自分は傲慢で思い上がり、慈悲心がなく、衆生にしばしば煩悩心を起こさせている。ここにおられる大徳兄弟子の皆様が、私を戒とし、同じ過ちを犯されないように願う。最後に私は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御法体が安康で、法輪が常転し世に常住し、仏法事業が興盛で、直貢噶舉の法脈が永遠に流伝することを祈願申し上げる!」と述べた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、御自ら共修法会を主持くださり、参会者に貴重な仏法の開示を下された。

「今日は続けて『寶積経』大乗十法会第九について開解するが、経典を開解する前に先ず二つの事について述べる。みなが知っておくべき仏教的な常識だ。

最近ある報導があった。ある女性が、あるリンポチェとの間の子供を産んだのだ。先ずはっきりさせておかなければならないのは、リンポチェには在家と出家があるということだ。在家であるか出家であるかは、その法衣から分かる。チベット仏教の四大教派の中の一派、サキャは、漢語では花教と訳されている。花教の法王は在家で、すでに数百年の間ずっと父子相伝だ。花教はチベット仏教において非常に重要だ。なぜなら無上瑜伽部の本尊の法脈の中には花教から始まったものがあるからだ。花教では、白い法衣は在家を表している。在家であれば、必ず白い法衣を着る。ニンマ派であれば在家修行者の衣服は赤と白であり、直貢在家のリンポチェであれば黄、赤、白の三色で、すでに三種の戒を受けていることを示している。三壇大戒ではなく、在家五戒、菩薩戒、金剛乗の戒だ。

リンポチェがすでに比丘戒を受けているなら、比丘戒を守らなければならない。比丘戒では男女関係はあってはならない。これは非常に明確なことだ。もし、男女関係があるなら還俗し、出家者の法衣を二度と着てはならない。では破戒したかどうかだが、実は比丘戒を破っても、リンポチェであることができる。なぜなら在家のリンポチェもいるからだ。なぜ在家リンポチェの衣服を着ないのか。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分には語る資格がないと思う。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェが知っている戒律はこうなのだ。在家と出家とは、法衣ではっきりと違っている。適当に着用してはならないのだ。法帽はさらに非常に複雑なので、今日はひとまず説明しない。内情を知っている人でなければ、見分けることは難しい。知っている人なら、在家であるか出家であるかは一目で見分けがつくものだ。

さらに、より厳格な規定がある。それは、在家のリンポチェであろうと信衆であろうと、夜、仏寺内で眠ってはならない、必ず外で眠らなければならず、大雄寶殿の範囲内で眠ってはならないというものだ。出家者でなければ許されない。中国の顕教において、男衆は一生で七回も還俗することができる。それは、その人がこの一生に完済していない累世の縁があり、先ず還俗した後に再度出家するのだ。だが、これはその人が悪者だ、ということではない。この点ははっきりしておかなければならない。なぜ出家しまた還俗し、そしてまた出家するのか分からないという人がいるが、それぞれにその因縁があり、またこれはかつての大徳と仏が定めた戒なのだ。我々には批評する資格はない。

在家と出家が着用する法衣は違うが、チベット仏教と中国顕教では、上師に関しても少し違う点がある。チベット仏教では在家上師も弟子をとることができ、法座に上って講法できるが、中国顕教では必ず出家衆でなければならない。だが、中国でも立派な修行を遂げた多くの居士が説法している。チベット仏教では、在家であろうと出家であろうと、リンポチェになることができる。直貢噶舉の祖師、ティロパ、ナロパ、マルパ等、ミラレパも含めて全て在家だ。ミラレパは一生結婚しなかったが、それでも在家だったのだ。直貢噶舉はガムポパになってからようやく出家が始まった。ガムポパ自身はチベットの医者だったが、妻と子供が流行り病で死んだことで、医者であっても彼らを救えなかったと思い知り、発願して出家修行を始めたのだ。

在家であっても出家であっても成就を得ることができるが、在家が修められても、出家は修められない法もある。密法の観想の中にも違うものがある。どうして中国では、さらには経典中での仏まで、常に出家を勧めるのか?それはあなた達が、一生で禅を学び成就し、つまり生死を解脱できることを願うからだ。禅を修めないなら、無色界天に生まれる可能性が高いが、この範囲を超えることはできない。禅宗は最後には、たとえ在家であっても、男女関係はあってはならない。なぜなら心が定まらないからだ。しかし、『華厳経』では違った言い方をしている。非常に多くの菩薩修行は大貪、大嗔、大痴により修行している。貪嗔痴は本来減らさなければならない事だが、ある修行果位まで至ると、反対に修行の道具となり、助けになるのだ。

仏法には、必ずこうしなければならないという決まった言い方はなく、衆生一人一人の因縁、根器に基づき、仏はそれぞれの過程で仏法を説かれるのだ。だが、絕対に正法を離れてはならない。『普門品』で言うように、観世音菩薩は衆生を済度させるために、将軍、バラモン、居士等のある種のお姿で現れられたりなさる。どのような上師がどのような衆生を済度させるかは、過去世に縁があったかどうかによる。出家であればこうで、在家であればこうだ、というのではなく、これは全て一種の縁なのだ。縁が備われば、その上師に巡り会うのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自身の修行の経験により、在家修行が非常に大変だと知っている。なぜなら毎日非常にたくさんの煩悩が起きるからだ。しかし、在家の方が修行し易い。なぜなら仏法は享楽ではなく、煩悩の中で自分を見つめるものだからだ。古人が言ったように『富貴修道難』なのだ。この一生が非常に順調で、煩悩がないなら、この人に学仏せよ、修仏せよと言ったところで、それは不可能だ。この人は、自分は欲しいものは何でも持っていると言って、仏法など信じないだろう。

よってみな、リンポチェが結婚したなどというこの種の話を口に上らせてはならない。これも口業なのだ。はっきりしないことを、適当に言いふらしてはならない。すべては人の縁なのだ。あれこれ批評するものではない。学仏するなら、一切はすべて因縁、因果であると信じなければならない。だが、これは悪い事に遭遇しても黙って受け入れなければならないというのではない。仏弟子であれば、どんな事が起きても良し悪しを分けず、因縁と因果を見るようにしなければならない。我々は『随喜功徳』しても良いが、『随悪功徳』してはならない。『随喜』とは例えば、誰であっても、その人が少しの善事を行うなら、我々はみな賛歎する。今日もし一人のリンポチェが何らかの戒を破ったとしよう。だが、破っていない戒が一つでもあるなら、我々はみなそのリンポチェを賛歎するのだ。

出家衆でもそうだ。その出家者の修行がなっていないなどと、あなたは思うかもしれない。だが、少なくとも一つは戒を持しており、出家している。そして、あなたは出家していない。そうなら、やはり賛歎しなければならない。その出家者の修行がなっていないなどと思ってはならない。少なくともその人は世俗の家を捨てており、あなたにはそれはできないのだ。自分ができないことなら、やはりその人を賛歎しなければならない。あの人はどうということもない、などと考えてはならない。あなた達ができないことを、その人は成し遂げているのだ。人は分別心を持ってはならない。修行とはよくできるかできないかではなく、仏が説かれたように『依法不依人(法に基づき人に基づかない)』が最も重要なのだ。その仏法が仏が説かれたものかどうか。もしそうなら、その人に従い仏法を学んでも良いのだ。この点は非常に重要だ。

昨日一人の外国人がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来て、閉関センターがあるか、と聞いてきた。その人は禅定したいというのだ。先ずみなに説明しよう。仏法の禅定と外道の禅定とは全く異なる。たくさんの西洋人が、閉関とはmeditationだと誤解している。だが実は、この単語を禅と解釈するのには、かなり無理がある。Meditationを中国語に翻訳すれば、冥想が適当だろう。冥想とは仏法の禅ではないが、カソリックにはある」と仰せになった。以前カソリックを信仰していた弟子が「カソリックには確かに冥想があります」と申し上げた。「外国人の間ではこの単語を禅と訳すのが流行っているようだが、禅と言うこの文字は、ヒンディー語から訳された境界なので、そのためmeditationを用いることはできない。

仏の禅とはなんだろうか?非常に多くの西洋人が、極く静かな場所を探してそこに一、二ヶ月篭れば、非常に落ち着け、とてもpeacefulになれると思っている。仏法の禅では、peacefulである必要はない。なぜならあなたが非常にpeacefulだと思うなら、それに対する反対はnot peacefulだからだ。一日中peacefulを求めているなら、得られない時にはどうするのだ?つまり、これは仏法の禅ではないのだ。このところ、たくさんの人がこの方法を用いて西洋人の信衆を集めている。そこに30分座れば、快適に感じ、I’m feeling very peaceful、I’m practicing meditationなどという。実はこれはカソリック式で、イスラム教にもある。

坐禅を行いたいなら、必ず上師の教導を受け、最も基本的な段階から始めなければならない。学禅には条件が必要だ。先ずは健康でなければならない。もし不健康なら坐禅を組むことができない。では坐禅を組めないなら禅修行ができないのか?そういうことではない。それなら、持咒を学ぶのだ。持咒は仏が説かれたものではないと批判している人がいた。だが、経典には釈迦牟尼仏が説かれた非常に多くの咒語があるのに、仏が説かれたものではないと彼らはいう。どうして持咒を用いるのか?なぜなら咒語中には仏、菩薩の願力、功徳、慈悲がすべて含まれているからだ。そのため、我々がなんらかの本尊の咒語を持する時、本尊の加持を得ることができ、我々の心からは、たくさんの妄念がゆっくりと減っていき、集中することができるのだ。集中した後でなければ、自分の問題がどこにあるのかを見つめることはできない。

禅とは、適当に座りpeacefulを感じることではなく、適当に座り自分の身体が良くなるのを感じるのでもない。禅とは、シンプルな本性を回復することなのだ。我々は妄念、思想が非常に多い。坐禅であってさえ何かを得ようとするなら、それは禅ではない。あなたがpeacefulであろうとするなら、それは追求、欲望だ。欲望があるなら、それは禅修行ではない。学禅したければ上師は教える、というものではない。学禅の資格がない人もいる。傲慢な人が学禅できないのはいうまでもない。上師、三寶に対して信心がなく、不恭敬なら、それも学禅できない。寶吉祥仏法センターで、リンチェンドルジェ・リンポチェがまだはっきりと大手印を教えていないのは、みながまだこの程度に至っていないのに、あまりにも思い上がっているからだ。

昨日ある信衆がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来て、事業がうまく行くようにして欲しいという。リンチェンドルジェ・リンポチェはリンポチェとして、自分の事業体のために修法したこともないのに、その者の事業のために修法するだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェはただ極く簡単に『あなたは健康に問題がある。金があったところで、どうしようもない』とだけ言った。これはどういう意味だろうか?つまり、福報が必要だということだ。福報がなければ、仕事もうまくいかないのだ。どうすれば福報が得られるのか?それは求める必要さえない。すなわち供養、布施、学仏すれば良いのだ。尋ねる必要さえない。自然に得られるものだ。密法では、密法を修めて成就した上師は、世間の一切のものを得られるという。どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を用いないのか?なぜなら求めなくとも、自然に生まれるからで、考える必要さえなく、自然に現れるからだ。

自然と言っても、働かなくとも良い、そこで待っていれば黄金が降って来る、ということではなく、物事が自然に他人よりスムーズに行くようになるということだ。それは福報が十分だからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが今日挙げた二つの事は、時下の人が犯しやすい過ちだ。禅宗を学ぶことは禅一、禅七、『山を山と見、山を山と見ない』などの参話頭を行うことではない。あれこれ考えても、なぜ山に見えるのに山と見ないのかがどうしても分からず、最後には問題が現れ、おかしな方向へ行ってしまう。これらはすべて全く間違っている。学禅は必ず最も根本的なところ、つまり懺悔心から始めなければならない。生生世世で為した悪業、この一世で殺した衆生、食した肉に対して完済できていないなら、どうして彼らが、あなたに学禅を通して生死を解脱させるだろうか?不可能だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは68歲まで生きたが、ここまでとてつもなく多くの事を経験してきた。だが、どんな時でもある境界を超越できた。それは、自分の心をますますはっきりと検查できるようになっているということだ。学仏とは何かを与えてくれるものでは決してない。仏は我々に何らかのものを与えてくれることはなく、反対に我々に捨てるようお教えくださる。そのため、ダイエットしたいなら学仏が最もよい。なぜなら仏は我々に減らすようお教えになるからだ。わざわざ食を断つ必要はなく、自然に太れなくなるだろう。今日のポイントは、みな仏法の真義を体得しなければならないということだ。世間の噂に惑わされてはならない。仏法にはいわゆる『野狐禅』というものがある。狐は非常に頭がよい。中国の神話では狐は人に変身する。そのため人の皮をかぶっていても、偽物なのだ。

この世間では偽物の禅が流行っている。真の禅が、そんなに容易に求められるだろうか?禅宗の二祖である慧可は、達摩祖師の心法を求めるため、自ら腕を切り落とし、雪の地面に一晚跪いていたのだ。もちろんあなた達には無理だ。なぜなら出血多量で死んでしまうからだ。だが二祖にはできる。なぜなら、二祖はすでに空性まで修めていたからだ。二祖は一晚中求めたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王の大手印の口伝を求めるため、わずか十日間で十万遍百字明を念じた。あなた達が想像しているように、学ぼうと思えば、上師がすぐに教えてくれる、というものではないのだ。上師が何か一言いえば、自分はすぐに通じるとでも思っているのか。

蘇東坡の前世が何だったか知っているか?禅師だったのだ。この話は禅宗を学ぶ人は皆知っている。蘇東坡はある晚仏寺へ行った。寺の人が、ある部屋には行かないように、彼に伝えた。だが、思い上がった蘇東坡は、自分を行かせないとはどういうことだ、と考え、入り口を開いてしまった。すると、部屋の中には一体の金身、つまり肉身舍利が座していた。上に紙があり『某年某月我が後世の誰某が会いに来る』と書いてあった。どうだ、すごいだろう?だが、彼はやはり生死を解脱できなかった。蘇東坡はこの一世でやはり『一屁打過江』なのだ。みなこの話を聞いたことがあるだろう。蘇東坡は法師にたくさん書き送ったが、法師は『放屁』の二文字を書き送り返してきたので、蘇東坡はすぐその法師に会いに行った。そのため『一屁打過江』というのだ。

禅によってのみでは生死を解脱できないという訳ではないが、末法時代には容易でない。なぜなら空気が悪いからだ。これは事実だ。空気が悪ければ、細胞が吸收する酸素は少なくなる。酸素が少なければ、気脈が乱れる。乱れれば、情緒は自然に不安定になる。女性信衆の修仏はなぜ困難なのか?女性信衆が良くない、というのではない。たくさんの人が誤解している。女性信衆が出家すると男性信衆より500世多く修行しなければならないと言うが、そうではなく、仏法が500年少なくなるということなのだ。500年少なくなる、と言っても女性信衆が悪いのではない。寶吉祥仏法センターも女性信衆が多い。この末法時代に仏を学ぶのは多くが女性信衆だ。おかしなことに、出家も在家もこうだ。女性信衆は每月の月経のために情緒が不安定になりやすい。そのため、禅定が非常に難しい。特に女性信衆の執著心は男性信衆より重い。

だが、経典中で釈迦牟尼仏は、ある女性信衆はすべての大比丘の面前ですぐに菩薩果位まで証した、と仰せになっている。直貢噶舉の護法、阿奇も女性信衆だ。施身法の本尊、瑪吉拉尊も女性信衆であり、結婚したこともある。金剛部で最も重要な本尊である金剛亥母も女性信衆だ。仏にとっては男も女もなく、すべては因縁なのだ。今日仏法に対する噂、誤伝があまりにも多い。どうしてこうなってしまったのか?それは、二、三千年が経ち、異なる言語、文化、要求により、仏法がすでにかなり捻じ曲がってしまっているからだ。そのため、経典にも、末法時代には比丘、比丘尼が名利のため、信衆をおだて仏法を捻じ曲げる、とあるのだ。実際にこうなってしまっている。

いわゆる仏法を捻じ曲げるとは、仏法を本当に捻じ曲げるということではなく、釈迦牟尼仏が教導くださった方法を堅持せずに仏法を弘揚するということだ。堅持するのは容易ではなく、実に苦しい過程を経なければならない。だが、堅持しようとしさえすれば、天龍八部、一切護法、仏菩薩が護持してくださる。なぜなら、彼らと同類になるからだ。堅持しようとしないなら、一時的な功徳のために仏法を捨ててしまい、自分の意識を用いて仏法を弘揚するなら、遅かれ早かれ何かが起きる。仏寺で何事もなくとも、自身の身体が順調ということはない。今日ほんの少しでも他人の供養を受けたなら、必ず返さなければならない。何を以って返すのか?仏法を以って返すのだ。仏法とは読経、持咒、坐禅ではなく、その人がこの一生で生死を解脱できるよう仏法を用いて助けることだ。この一生で解決できなくとも、少なくとも次の一生では必ずできる。

仏法の弘揚は末法時代にはどんどん難解、困難な事になっている。行うのは容易ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが『寶積経』を開解するのは、大乗仏法を修めながら、『寶積経』に少しも触れないのでは、菩薩果位まで証する因が生まれないからだ。そのため先ずは聴聞しなければならないのだ。仏が説かれた経典を聴聞しないなら、遅かれ早かれ盲目に修行することになるだろう。経典を聴聞すると言っても、聴きたければ聴けるというものではない。今日みなは寶吉祥仏法センターに座っているが、それでここにいる誰もが聴けているという訳ではないのだ。またたとえ聴かせたとしても、この一生で仏が説かれたものを体得できるというものではない。なぜなら一人一人の根器、福報、因縁はみな異なるからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは他人についてはとても言えないが、自分の母を例とすると、母はすでに90歲を超えているため、開示を完全に理解できていないかもしれない。ただ、自分の息子は威風堂々として法坐上にいる、としか思っていないかもしれない。実は、リンチェンドルジェ・リンポチェは少しも威風堂々となどしていない。法座に着いているのはとても大変だ。つまり、今日みなに『寶積経』を開示するのは、菩薩道を行い、菩薩道を学び、大乗仏法の基礎を行い、つまり顕教学習のためにみなを奠定させるためなのだ。基礎がなければ、その上にうちを建てるのは非常に危険だ。今回のネパール大地震でこんなにもたくさんの人が亡くなったのは、ネパールの家屋は基礎がしっかりしていなかったので、地震で崩れてしまったからだ。

学仏について壮大な理想を抱き、すぐに開悟でき、すぐに悟り、すぐにある程度できるようになりたいと思っている人が多いが、基礎ができていないなら、風が吹いても崩れてしまうだろう。基礎さえしっかりできていれば、将来必ず高いビルを建てることができる。だが、いつ完成するかは誰にも分からない。なぜなら一人一人の発心は異なり、自分を改めるのも一人一人違うからだ。自分は十年、二十年と学仏しているのだから、すでに改められていると思っているかもしれないが、それは早とちりもいいところだ!リンチェンドルジェ・リンポチェであっても、今でもあらゆる事で改めなければならないのだ。仏果を証していないなら、我々にはやはり煩悩があり、業力が付いてくるのだ。改めると言っても、現在のライフスタイルをすっかり変えてしまう、という事ではなく、心のことだ。かつてある事にとても執著していた。仏法を聞いてもやはり同じように執著しているなら、それは改められておらず、仏法を受け入れておらず、自分の考え方で日々を過ごしていると言うことだ。もしそうなら、ここに来てはならない。

仏法を聞けば加護が得られると考えている人が多い。修行すれば必ず加護が得られるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはここ十年、二十年でなぜ何度も死にかかったのだ?ガンに罹り、寝た切りになり息絶えかかった。どうして仏菩薩はリンチェンドルジェ・リンポチェを加護してくださらないのか?それは現在、リンチェンドルジェ・リンポチェのように命も要らず、金も求めず、仏法を弘揚する者はほとんどいないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェを残さないで誰を残すのだ?」と仰せになり、リンチェンドルジェ・リンポチェは自嘲気味に「自分は全く運が悪い。少しも良い生まれつきではない」と仰せになった。「あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェは威風堂々としていると思っているだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは母がこのように言うのを聞き、愕然とした。なぜなら母はリンチェンドルジェ・リンポチェがどんなに苦労しているか知らないからだ。だが、年寄りを心配させてはならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェが大変だと思うのも、当然だ。なぜなら人生ですべての世間の苦しみを経ないなら、自分に学仏の能力があることを有り難く思えないからだ。すべての苦しみは仏法に触れるmotivation(動機)を与えてくれる。よって厳密に言えば、苦しみではなく、良い事なのだ。毎日楽に暮らし、24時間愛に包まれているなら、学仏したいと思うだろうか?入り口さえないだろう。学仏と言わずとも、リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来ることさえないだろう。あなた達は問題に遭遇したので、仏菩薩の慰めを求めに来たのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏菩薩に代わり不平を漏らしたくなる時がある。楽しい時は仏菩薩の出る幕はない。交際を始めたばかりで熱々だった頃、仏菩薩に尋ねたことがあったか?なかったなら、どうして何かが起きたと言って仏菩薩に頼るのだ?つまりこの人があなたにこの一生で仏法を聞く機会を与えたのだ。

修行人にとっては、仏法を聞くことが全宇宙で最も重要な福報だ。これより重要なものはない。金は使い切ってしまえばなくなってしまう。恋人がいても、ある日いなくなってしまう。仏法だけは、学べばあなたのものとなるのだ。誰も持ち去ることはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今年の初め屏東で修法を行い、身体に大きな問題が生じた。だが、彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェの功徳を持ち去ることはできなかった。持ち去ることはできない!リンチェンドルジェ・リンポチェの健康を持ち去ることができるだけだ。だが、健康は修行ですぐに取り戻すことができる。どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに健康を修行で取り戻すことができたのか?それは功徳があるからできたのだ。

功徳がなかったなら、漢方医である弟子が言うように、リンチェンドルジェ・リンポチェの68歲という年齢からして、体力を回復させるには二年かかるのだ。そのため、仏は我々に福徳ではなく、功徳を修めるようおすすめになるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を演じて見せているようなものだ。仏菩薩はリンチェンドルジェ・リンポチェを実験用のマウスとして、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を自身の身体で試験し、できるかどうかをあなた達に見せているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが優れているのではなく、釈迦牟尼仏がお教えくださった方法が正しいのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェができるなら、あらゆる人ができるはずだ。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェは『寶積経』を開示する。みなこの因縁を大切にしなければならない。この一生で菩薩果位まで証できるかどうかは重要なポイントではない。大切なことは、弘法人として、衆生のために成仏の因を植え付けるよう手助けすることなのだ。成仏の前には当然菩薩に成る。菩薩は変化自在なのではない。何にでも変化でき、ちょっと考えるだけで衆生を救えるなどと、みな万が一にも誤解してはならない。これは非常に辛いことなのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはよく眠れる夜など全くないのだ。みな万が一にもリンチェンドルジェ・リンポチェを真似てはならない。毎晚とてもたくさんの電波が飛んできてリンチェンドルジェ・リンポチェの眠りを妨げる。あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真を拝んでも効果がある。科学的に言えば、リンチェンドルジェ・リンポチェを煩わしているのだ。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェを真似てはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェを真似るなら、次の一世にせよ!

続いては、釈迦牟尼仏が教導くださった仏法を開示する。前回は『浄無垢寶月王光菩薩頂受聖教』まで開示した。『頂』とは頂礼だけではない。インドには古代からある習慣がある。それは、年長者や非常に尊い人に対する時、その人の足を自分の頭頂に頂くのだ。彼らがリンチェンドルジェ・リンポチェに会うと、手でリンチェンドルジェ・リンポチェの足に触れるようなものだ。自分の頭の上に置く、つまり頂受だ。チベット仏教では、行者が仏像、経典、法本を頭頂に置く姿が見られる。それは古代インドから伝わったもので、中国にはこの種の習慣はない。

頂受とはつまり仏法を軽視しないということだ。なぜなら人の頭は最も重要なものだからだ。よって、完全に恭敬にこの教法を受け入れるということを示している。恭敬とは言いつけに従うということで、不恭敬とは言いつけに従わないということだ。あなた達は、勝手に何か言っていれば良い、自分は自分で考える、自分に役に立つかどうか見て役に立つなら従い役に立たないなら従わない、というのだ。仏法は現在の欲望に対しては決して役に立たない。だが、将来は必ず役に立つ。

大菩薩であっても仏の開示を聞くには『頂受』という言葉を用いている。これほどの尊敬を持って仏法を受け入れているのだ。あなた達のようにちょっと跪けば、あれもこれも欲しい、思いつく限りの要求を並べてくるというようなことはない。どこにそんなに適当なことがあろうか?仏法が滅するのは、みなが尊重しないからだ。

経典では『善男子!菩薩摩訶薩成就十法、,是行大乗、是住大乗』とある。大乗仏法と小乗仏法とでは『大』の方が良いのだろうか?『小』は劣るのか?『大』の方が『小』より優れているのだろうか?万が一にもこのように考えてはならない。金剛乗を学ぶ人は、小乗を学ぶ人を批評したり見下したりしてはならない。経典中で仏は、小乗を学ぶのはあまり良い成就法ではない、と開示なさっている。だが、仏はこう仰せになれるが、我々はそう言ってはならない。仏は以後の果位について仰せなのであって、小乗を修めるのが良くない、と仰せなのではない。

『乗』とはどういう意味だろうか?『妙法蓮華経』では鹿車と牛車の比喩を用いて説明している。つまり、車上に載せられる物の量が違うのだ。小乗に載せられる物の量は少ない。なぜなら自分の生死解脱のために修行するからだ。大乗に載せられる物の量は無制限だ。なぜなら自己の生死解脱のために修行するのではなく、自分が世俗の一切の事を変えた後、未来に広大一切の衆生に利益できることを望むからだ。そのため、大乗仏法を修行する人は絕対に決心しなければならない。大乗を修める人と小乗を修める人とでは、完全に違う点がある。それは小乗は必ず出家しなければならないということだ。自分は小乗を修めているという人がいるが、出家していないなら無理なのだ。

釈迦牟尼仏が法輪を初転なさったのは、当初仏に従い修行していた六人の侍者に対してだった。この六人の侍者は出家衆だった。そのため、仏は先ず彼らに対して四聖諦法、十二因縁法を開示なさった。講じられたのは小乗だ。そのため、小乗を修めるには必ず出家衆でなければならない。出家衆でないなら小乗を修めることはできない。誰が経典を講じるのを聞けばそれで良いと思っている人が多いが、経中で講じるのはすべて出家者の行為と思想についてなのだ。在家にとっては非常に困難だ。大乗とは四衆に適している。比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷みな修めることができる法門だ。

仏が大乗を開示なさったのは、末法時代には在家が出家より多いからだ。仏は在家の者は修行できないとは仰せでない。さもなくば仏が経典中で年長者、居士などの修行人に触れることはなく、維摩詰居士の出現について開示なさることはないだろう。彼らはみな在家なのだ。大乗と小乗の違いは、身分が少し違うということだ。大乗は在家、出家、四衆の誰でも修めることができる不共法門だ。大乗の積載量が小乗より多いのは、大乗では必ず先に慈悲心を学び、その後菩提心を養い、菩提心を養った後に空性を学習するからだ。空性とは『無い』ということではない。大乗を学ぶ者は必ず諸法無常、空性の定義を理解しなければならないということだ。一切はすべて縁生縁滅であることを理解しなければ、大乗を修めることはできない。

『金剛経』では主に、縁生縁滅という心持ちの訓練について教えている。『金剛経』は経王だと多くの人が言う。その重点は、一切の執著を捨てなければならないということだ。仏菩薩が執著を捨てられなければ、衆生を救ったとしても、漏れのある救いだ。菩薩が自分は衆生を救っていると思いさえすれば、やはり戻ってきてしまう。なぜなら衆生に貸しを作ったからだ。菩薩が縁起性空の定義を修行し理解しさえすれば、衆生を救う心持ちが違ってくる。『金剛経』では『破四相』を説くが、顕教を数十年学んでも、我相、人相、寿者相、衆生相をいかにして破るかを知らない人が多い。ただ、ひたすら座ってどうしたら破れるかと考えている。目を開けば人が見え、触ってみれば自分はやはり存在している。どうやって破るのか?

たくさんの人が何年も仏法を学びながら、いかにして破るのかを知らない。『寶積経』では、慈悲喜捨というこの四文字を用いると説く。慈悲喜捨とは口に出して言うのは簡単だ。だが、実際に学ぶのは容易ではない。慈悲喜捨を学べれば、自然に四つの相を破ることができる。『破』とは『存在しない』ということではなく、執著を破るということだ。執著を破ることができなければ、空性まで証することはできない。空性まで証し、念頭を起こし、さらには持咒しなければ、衆生に利益することはできない。会いに来る時『学仏したい』という人が多い。リンチェンドルジェ・リンポチェがどうして学仏したいのかを尋ねると、衆生に利益したいと答える。リンチェンドルジェ・リンポチェは失笑を禁じ得ない。自分の問題さえ解決できないのに、衆生に利益するだと?問題とは何か?それこそ我執だ。ここで仏法を聞いている者たちはみな、我執の心で聴いているのだ。

どうして我執を破らなければならないのか?なぜなら無縁大慈、同体大悲であり、衆生と我々の本性とは一体だからだ。我執が存在しているなら、意識を用いて助け、清浄な法性により助けるのではない。意識の能力には限界があるが、法性は虚空に満ち満ちており、どんなところにも届くのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分は法身まで証しているとはとても言えないが、少なくとも自分は縁起性空をすでに理解し体得していると言うことはできる。縁起性空を体得したなら、持する咒、動かす念は、衆生に利益することができるのだ。本尊がやって来て相応できるのではないか?そうではない。密宗修行には事部、行部を学ばなければならない。事情、行為を本尊と無二無別にすれば、自然に相応できるのだ。

この程度まで修めるには、我執を破らなければならないだろうか?当然そうだ。あなたが、自分こそ本尊だと思うなら、もうおしまいだ。『金剛経』で説くように、色相を用いて仏を求めてはならないのだ。色相を用いて仏を求めるのは、邪見、邪説だ。今日は、仏が説かれた大乗とはいかなるものかを主に開示する。

経典には『是行大乗、是住大乗。何等為十?一者信成就、二者行成就、三者性成就、四者楽菩提心、五者楽法、六者観正法行、七者行法慎法、八者捨慢大慢、九者善解如来秘密之教、十者心不希求声聞縁覚乗』とある。

仏は先ず善男子、菩薩摩訶薩成就十法を開示なさる。皆まだ菩薩摩訶薩を修めておらず、菩薩摩訶薩とまで言わずとも、登地菩薩さえまだだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが先ほど開示したように、みなにこの因を植え付ける。釈迦牟尼仏が説かれた仏法を聞いたことがあり、また真心で聞くなら、菩薩摩訶薩まで証する因を得ることができる。いつ証できるかは、一人一人の因縁だ。菩薩摩訶薩は法身菩薩に成る方法を有する。

『一者信成就』の成就とは、風を起こしたり雨を降らしたり、あれこれ変身したりする、ということではない。仏が説かれた成就とは生死を解脱、開悟することだ。『信成』とは一人一人が修行の過程において普通に生じる『これでできるのだろうか?』、『こうすれば成し遂げられるとは、仏は仰せでない』、『どうして我々にこのようにせよと教えるのか?』などの疑惑だ。尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに伝法くださった時、リンチェンドルジェ・リンポチェは将来どうなるなどと仰せではなかった。唯一施身法灌頂をリンチェンドルジェ・リンポチェに授予くださった時だけ仰せになった。なぜならその時は雷さえ鳴っていたので、直貢チェツァン法王も何か仰せにならない訳にはいかなかったのだ。

どうして言わないのか?それは、大乗を学ぶには、この成就を信じなければならないからだ。つまり、仏が説かれたあらゆる方法のおかげで、我々自身と一切の衆生が将来成就できると信じるのだ。成就を信じないなら、それは疑惑を起こしているということだ。疑惑を起こしたなら、当然仏菩薩とは不相応だ。浄土を修める人は皆はっきり知っている。疑惑を起こしたなら、この一生で阿彌陀仏を念じたとしても、浄土の外のある場所に生まれ、500世の間、仏にお目にかかることはできないのだ。疑惑を起こし、このように念じれば生死を解脱できると信じず、上師と仏が説かれた方法を信じず、『簡単だ、こうすればいいのだろう?向こうはこうしていない。寶吉祥仏法センターはどうしてこうなんだ?』と思っているだろう。寶吉祥仏法センターは当然こうだ。なぜならそれが仏の教えだからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが発明したのではない。信じないなら、当然成就できない。

成就を信じることは非常に重要だ。たとえ、この一生で成し遂げられないとしても、必ず信じなければならない。学仏するなら、我々には未来世があるということを弁えなければならない。この一世では福徳因縁がなく生死解脱を成し遂げられなくとも、少なくとも次の一世では必ず成し遂げなければならない。つまり、この一世で次の一世の準備をするのだ。自分は今は先ず事業に専念しよう、と考えている人が多いが、リンチェンドルジェ・リンポチェのビジネスは忙しくないのか?あなた達を助けているだけなのか?どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェはそれでも修行することができるのか?なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは毎日仏法の中にいるからだ。一つ一つの事柄、一つ一つの言葉のすべてが仏法から離れていないからだ。商売のために他人を騙し、後であわてて読経して相手に回向する⋯⋯これではダメだ。特に在家衆は決してこうであってはならない。仏法を二辺に分けてはならない。道場で修行しながら、道場を離れれば金儲けに邁進し、出鱈目を言う。これこそ成就を信じていないのだ。

学仏することで、たくさんの事ができなくなるのだろうか?もともと行うべきでない事はたくさんあるのだ。ただ、学仏を始めると規範を守らなければならなくなるだけなのだ。その代わり、問題が起きたり、厄介なことが生じたりする比率は非常に低くなり、さらには全く起きなくなってしまう。仏法に基づき生活している人は、多くの面倒を省くことができるのだ。面倒はどこから来るのか?自分で作り出すのだ。つまり貪嗔痴だ。仏は金儲けをしてはならないとお教えでない。毎日家に篭って読経していよ、とはお教えでない。特に寶吉祥仏法センターの弟子は必ず働かなければならない。働いていないなら、来てはならない。それはリンチェンドルジェ・リンポチェが供養を必要とし、働いていなければ弟子に金がないと考えるからではない。働いていなくとも経済的に豊かな人はたくさんいる。仕事をせよ、というのは、仕事の中でなければ仏法の使い道を感じることができないからだ。

福報因縁もないのに閉関に行く人がいる。どこかに一、二ヶ月篭っていれば、それが閉関だと思っている人が多いが、実はそうではない。金剛乗によれば、最も簡単なのは群衆を離れ、森林に篭ることだ。山上に篭ればさらによく、山洞ならもっと良い。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一世で行うことができた。だが、あなた達には行うための福報がない。行うための福報もなくて、どうやって修めるのだ?それは日常生活に用いるのだ。毎日接触する事、物で修めることができる。だが、仏法を用いて他人をやり込めるのではなく、仏法により自分の内心世界が調整されたかどうかを検討するのだ。以前最も嫌いだった事が、学仏したことで『とても良いじゃない!』と思え、以前最も好きだった事も『とても良いじゃない!』と思うが、執着しない。

我々はある事に執著する。それは貪念のためだ。分かり易く言えば、死んでも面子にこだわるということだ。他人に捨てられれば、面子が潰れたと考える」と仰せになり、「自分も何度も捨てられた」とリンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアたっぷりに仰せになった。「いいじゃないか。こちらの良さが分からないなら、それまでのことだ。考え方として、自分の人生における一切すべては因縁法則だと信じなければならない。良い縁も悪い縁もない。誰が自分に対して良く、誰が自分に対して悪い、などというものもない。すべては自分で招いたのだ。いっしょにいられれば良いし、別れても良い。すべては縁なのだ。ずっといっしょにいられたとしよう。だが生離死別は免れない。リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来る女性たちは、二人は将来どうなるでしょうか、と聞くが、答えは生離死別だ。これは経典が説くものだ。

生離死別しない夫婦があろうか?生離死別しない恋人どうしがあろうか?最後の一秒までほんとうにいっしょにいられるだろうか?いっしょに乗っていた飛行機が落ちたとしても、数秒間離れた後に死が訪れる。なぜなら福報が違うからだ。二人いっしょに死ぬなどあり得ない。絕対に時間差が生じる。最後に二人がゆっくりと手を伸ばして手が繋がれる。そんなシーンを見たことがあるかもしれない。だがそれは映画なのだ!息も絶え絶えの時に、手を伸ばして繋げるだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは死の専門家だ。こんなにもたくさんの人を済度させてきた。人が死ぬ時には山のような苦痛、妄念が生じる。ゆっくり手を伸ばして手を繋ぎ、お互いに見つめ合って、それから他界するなど、あり得るだろうか?これは金儲けのために、情景を作って見せているにすぎない。実際にはこのようではない。

我々は、人と人、人と物、さらにはペットとの間にも生離死別があると分かっている。どうやって向き合ったら良いのか?それは一切随縁だ。いわゆる随縁とは、何かを無理やり行わない、というのではなく、この縁に従って進むということだ。良い縁でも心安らか、悪縁でも心安らか。そうでなければ、自分がいかにして変えるかを見極めることはできない。そうでなければ、仏法のおかげで自分がいつか成就できると信じることはできない。そうでなければ不可能だ。自分は被害者だと思い続けているなら、永遠に被害者だ。加害者は誰だ?彼とキスしろとは誰も命じていない。あなたが自ら進んで口を突き出したのでなければ、相手はキスしただろうか?してくれないとしても、それは自分で招いたのだ。縁が尽きたのなら、仕方がない。すぐに次の縁が生まれるかどうかだが、リンチェンドルジェ・リンポチェはそうは言わない。修行者に責任をなすりつけるものではない。

成就を信じるとは、仏が説かれた一切はある程度の成就が得られるということだ。必ず開悟、成仏、成菩薩しなくとも、世間において、或いは出世法で、必ず成就を助けてくれる。聞く気があり、行う気がありさえすれば、非常にはっきりと目にすることができる。いつになったらできるのかは重要ではない。だが、いつか必ず成し遂げられる。仏法とはすぐに説き、すぐに行うのではない。仏法は薰陶を用いるので、時間が必要であり、すぐにOKというのではない。改めようとしないなら、30年、50年学んでも、世界中の人が自分に借りがあるかのように、面白くない表情をしているだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは学仏を始めるまでは、眉間には指一本しか置けなかったが、今ではたくさん置けるようになった。なぜなら心が広くなったからだ。叱責する時以外、リンチェンドルジェ・リンポチェが眉間にしわを寄せるのを見たことがないだろう。

数日前、リンチェンドルジェ・リンポチェが叱責した後、漢方医である弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェの脈を診て『リンポチェ、あなたは人を罵倒したことがありませんね』と言うので、リンチェンドルジェ・リンポチェは『ある』と言ったが、漢方医である弟子は脈象が変化していないと言う。なぜなら漢方では、人を罵倒した後の心脈と気の変化を非常にはっきりと診てとることができるからだ。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが演技をして見せているだけだからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの気は動いていない。なぜなら自分のためではないからだ。あなた達はどうして気が動くのか。それは自分のためだからだ。怒る度、人を罵倒する度に、相手に対して要求がある。父母に対してであろうと、他の人に対してであろうと、怒る時には必ず相手に対して要求があり、相手がそれに応えられなかったのだ。耳障りの良い言い方をすれば、相手のためを思って、となる。自分に能力があると思うなら、リンチェンドルジェ・リンポチェのように叱責した後、脈を診てもらうが良い。心脈と気が動いていないなら、成功だ。これこそ信成就だ」と仰せになり、リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアたっぷりに「自分の叱責の技はどんどん磨かれている」と仰せになった。

その時、漢方医である弟子が「その日脈を診る前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは電話で誰かを叱ったばかりでしたが、その後すぐ脈を診ても、脈象が普段と全く変わらなかったので、非常に驚きました」と申し上げた。一般の人は気が動くと、少なくとも心拍が上がり、血圧も必ず上がる。脈象もそれに連れて変化するはずだが、リンチェンドルジェ・リンポチェの脈象はいつもと同じで、全く変化はなかったという。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けられた。「みなも分かっただろう。これが『心如止水』なのだ。これは仏法であり、形容詞ではない。ここまで学び修めるには、非常に多くの過程を経なければならない。最も重要なのは人の世の種々の苦しみを味わい尽くすことだ。そうしなければ無理だ。現在楽に日々を過ごしているなら、非常に困難だ。よって学仏により、自分の日常が快適になることを願ってはならない。だが、学仏時に出現する苦は、おかしなことに大変なことにはならない。あっと言う間に消えてしまうものだ。我々は生生世世でこんなにも多くの借財を背負っているのだから、この一生で必ず返済しなければならない。つまり、これも信成就のもう一つの定義だ。

もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが少しも成就を修められていなかったなら、今年ですでに68歲になるのだから、叱責後には少なくとも血圧がすぐに上がるだろう。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの血圧は上がっていない。それは、漢方医である弟子が証明できる。その弟子は専門家だ。医師免許を持っているのだ。あなた達は専門家を信じ、修行者を信じず、仏菩薩を信じない。成就を信じれば、何を行う時にも、身体の面であろうと心の面であろうと、あらゆる面で成就の結果が出現する。この成就とは、他人に『最近穏やかですね』と言われたり、非常に明らかな変化があるというものではない。誰かに『最近癇癪を起こさないですね。最近熱心に持咒していて、癇癪の気が不十分なので、癇癪が起きないのでしょうね』と言われたり、または『面倒が嫌なので、怒らないのですね』と言われたりする、というものではないのだ。

仏法成就の最も重要な定義は、凡夫から常に転じるかどうかだ。転じて、ある日聖者になれば、生死を解脱することができる。生死を解脱するには、当然様々な事にこだわってはならない。いかなる事であっても修行者にとっては、一夜の夢でしかないのだ。もちろん、すぐこの程度までできるようになれと若者に要求しているのではないが、このように人生に対するようにしなければならないのだ。人生は直線的に上り、直線的に下りてくるだけであるはずがない。必ず上ったり下がったりがあるものだ。上っている時に喜んではならない。落ちてくる時には悲しんではならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、かつてあるリンポチェがこう言われたのを聞いた。うまく行っている時には謙虚でなければならない。うまく行かない時には反対に胸を張らなければならない。うまく行っている時に奢っていれば、あっという間に福報を使い切ってしまう。うまく行かない時に落ち込んでいれば、勢いが戻ることは永遠にない、と。かつてリンチェンドルジェ・リンポチェは貧乏で食事にも事欠くほどだったが、他人にそう思われることはなかった。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは相変わらず元気な様子だったからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは太ったこともないので、満足に食事できなくとも、それが外見に現れるということはなかったのだ。

信成就の考え方を必ず受け入れなければならない。大菩薩になろうがなるまいが、持する咒に感応しようがしまいが、それは重要ではない。健康になる事などを願って、持咒する人が多いが、それらは成就ではなく、副産品なのだ。持咒により健康になる。これは仏法においては最も重要でない事だ。なぜなら福報が十分なら、自然に健康になるからで、求める必要はないからだ。持咒によって福報が起きるのは、悪を為さず行善するからだ。持咒の成就がいつ出現するかは重要ではないが、必ず出現する。あなたが妄念により念じているとしても、未来のどの一世かでやはり用いることができる。

寶吉祥仏法センターに来る多くの人は、すべての金銭を使い切った後にようやくここを訪れる。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば彼らに『あなた達の金を奪った者は仏菩薩ではない。よってこれ以上批判してはならない』と告げる。過去に供養布施したことがなかったなら、寶吉祥仏法センターに来る縁もなかったはずだ。これも一種の成就なのだ。たくさんのところを巡った末に、ようやく寶吉祥仏法センターを訪れる人が多い。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の業障は深く重いと思う。もし業障が浅かったなら、先の方の人になれたかもしれない。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェは、小から大へと信成就について説明した。みなは今後、仏法に対して一切の疑惑を抱いてはならない。自分ができないからと言って、それは仏法ができないということではない。なぜなら経典では、仏は実語者、真語者であられ、説かれる話は真実であると説くからだ。今欲望が満たされないからと言って、それは仏法ができないということではなく、為せる縁がまだないということなのだ。福報はまだなくとも、固く信じて行い続けなければならないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは学仏において別の法門はない。ただ堅持するだけだ。上師にどれだけ叱られようと、リンチェンドルジェ・リンポチェはやはりそのままだ。変化したことはない。あなた達は少し叱られただけで、すぐ逃げ出してしまう。リンチェンドルジェ・リンポチェがあなた達の事を少しでも言えば、リンチェンドルジェ・リンポチェが自分の事を批判した、無慈悲だと考える。

菩薩果位まで証したかどうかにかかわらず、必ず信成就の考え方を受け入れなければならない。なぜなら我々は大乗仏法を学ぶからだ。大乗仏法を学びながら、成就というこの二文字さえ受け入れられないなら、いかなる仏法も役には立たない。仏法はあなたにたくさんを与えるのではない。一字、一言、一偈だけであるかもしれないが、それを聞き入れ行えるなら、いつか必ず成就する機会がある。経典中でもこのような事について、非常に多くを挙げている。

『二者行成就』とは、すべての行為が、仏法を用いて成就の方向へと進むことだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがあなた達に『仏子行三十七頌』を唱えさせているのは、どの頌もすべて『為せないなら仏子ではない』と説くからだ。仏子とは仏の弟子だ。身口意で『仏子行三十七頌』を為せないなら、行為は成就の方向へとは進まない。『行』とは修行、行為を含む。今日自分の行為が『仏子行三十七頌』と一致しないと気づいたなら、成就に向かう道を歩いているのではなく、成就を修行しているのでもない。

以前ある弟子がいた。もともとはしっかり看護師として勤めていたが、突然リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来て『堕胎する人が多いので、看護師が足りないところがあるが、行ってもいいでしょうか?』と聞いてきた。リンチェンドルジェ・リンポチェは答える気にもならなかった。この弟子は少し多くの金を得るため、その仕事をやろうと思っているのだ。経典にははっきり書いてある。堕胎薬を売るだけでも地獄に落ちるのだ。なら、その金を受け取ればどうなのだ?この弟子はどうということもないと思っている。金を受け取った後で懺悔すれば良いと思っている。これこそ成就を行っていないのだ。やってから考えよう、という人が多い。後で仏菩薩に懺悔しようと思っている。法を知りながら犯している。何を懺悔するのか?

皈依の際、リンチェンドルジェ・リンポチェははっきりと伝えたはずだ。羞恥心がない者は出て行くように、と。リンチェンドルジェ・リンポチェは『不許予善事、不共一室』なのだ。学善したくないなら、ここに残って何をするのだ?残っていたなら、あなた達は上師は大したことがない、仏菩薩は無慈悲だと思い、口業を犯すだろう。この一生で学仏し、生死を解脱すると決めたなら、身口意のすべてが善でなければならない。他人が害を及ぼそうとしているのに、それでも善でなければならないのか?という人がいる。他人に害を為されても報復しなければ、それで良い。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一生でたくさんの人から害を受けた。ちょっとした話をしよう。リンチェンドルジェ・リンポチェがまだ学仏していなかった頃、香港の友人の母親がガンになった。数十年前には健康保険がまだなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは伝を頼って慈善医院に入院させ、友人の母親が亡くなった時には葬儀費用も負担した。結婚する際も金がないというので、リンチェンドルジェ・リンポチェが出してやり、仕事がなかった時でさえ、リンチェンドルジェ・リンポチェが紹介してやった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の恩人と言ってもいいのではないか?だが、仕事が軌道に乗り少しは貯金もできるようになった後、この友人はリンチェンドルジェ・リンポチェの店の従業員を引き抜き、店を開いたのだ。あなた達だったならどうするだろうか?罵倒しないにしても、絶交くらいはするだろう!だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり今でも彼と友人だ。その頃は皈依していなかったので、リンチェンドルジェ・リンポチェにはまだ仏法の考え方はなかった。それなのに、この種の考え方があったのは、前世から携えて来たものなのだ。

どうしてあなた達は、恨みには必ず報い、恩には報いないのか?これも過去世から携えて来たものなのだ。この一生で自分の行為を変えないなら、どうして成就を得ることができるだろうか?経典で『報衆生恩(衆生に恩返しする)』というのは、衆生がいないなら、我々は成就できないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがあなた達に厳格に菜食を要求するのも、衆生を傷つけるなら『報衆生恩』ができないからだ。衆生がいないなら、我々がいるだろうか?修行などと言わずとも、最も簡単なところでは、何かの仕事をしていても、誰も助けてくれなければ、成功できるだろうか?

芸能人で、ある日突然人気が出てある日突然消えていく人がいる。しかもそのような人の晚年はほぼ幸せではない。それは、観衆に対して感謝の心を持っていなかったからだろう。自分の演技は素晴らしく、外見も美しいなどと思い上がってはならない。過去世で縁を植えつけていなかったなら、この一世では誰も見向きもしてくれないのだ。一枚一枚のチケットすべてがあなたの恩人なのだ。一人一人に恩返しせよ、というのではなく、心の中で感謝しなければならないのだ。現代社会がこんなに乱れているのは、みな報復の心だけを持ち、恩返しの心を持たないからだ。恨みには必ず報い、恩には報いない。この国、この世界は乱れている。今日稲が成長し、我々が米を食べられるのは、農夫が栽培してくれるからで、またミミズ、降雨など非常にたくさんのものに頼っているのだ。

金があれば食べるに事欠くはずがないと思っているのではないか?現在我々にとって最大の問題は、感謝しないことだ。感謝すると言っても、必ず恩返しするということではない。大乗及びあらゆる仏法で、一切を衆生、浄土に回向せよ、というのは、まさに感謝の心なのだ。自分で用いるために確保するのではない。彼らがいなければ、我々は今日どうして安楽に日々を過ごし、ここに座って快適に仏法を聞いていることができようか?我々が着ている衣服から室温を下げてくれているエアコンまで、すべては非常に多くの因縁の下得られているのだ。この種の因縁を得ることができたのは、過去世で我々がたくさんの衆生を助けたことがあったからだ。この種の因縁を継続させたいなら、報恩の心をより強く持たなければならない。報恩の心がなければ成就を行うことはできない。成就を修め彼らに利益しようと考えるのではなく、報恩しようと考えて、それを修め、行い、学ぶのだ。学んだ後、衆生を助けようと考えるのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの種の話を聞くと、頭を抱えてしまう。なぜならこれは貢高我慢であり、感謝の心がないからだ。

我々は生生世世、あらゆる世で、目に見えるもの、見えないものを含め非常に多くの衆生の助けを受けている。肉眼で見えるものであっても、すでに十分にたくさんあり、肉眼で見えないものもたくさんあるのだ。『地蔵経』には、非常に多くの鬼神が発心学仏の人を見て、その人を保護する、とある。これは目に見えず、感じることもできないものだ。我々は衆生に借りがあるのだから、修行とは、大成就を得て菩薩になり、法座に上り人に奉られて偉そうにするためではない。報恩の心がなければ、決心することはできないのだ。自分の欲望のためなら、この一生はどうしようもない。

経典には、四重の恩に報いなければならない、とある。父母の恩、師と年長者の恩、衆生の恩、国王の恩に報いるのだ。現在では国王はいないので、我々のために国を率いてくれている人に感謝しなければならない。その人がうまくやっていようがいまいが、国民のために尽くしてくれているのだ。世界中多くの国で、リーダーがいないため内乱が起き、それが数十年も続いている。たくさんの人が死に、たくさんの人が苦しんでいる。よって、もうこれ以上批判してはならない。その人が好きなら票を投じ、嫌いなら投票しなければ良い。為政者を批判してはならない。なぜならすべては自分たちの福報だからだ。あなた達は『自分はこの人に投票していない。他の人たちが投票し、この人を担ぎ出したのだ』などと思っているのではないか?だが、あなたの福報が十分なら、この人が担ぎ出されてきただろうか?あなたの福報が不十分だからこそ、この種の為政者が現れたのだ。あなたが代わりにやってみよ。八年間も国を率いれば、若者もすぐに老人に変わってしまうだろう。これは周知のことだ。海外にもこのような例がある。なぜならとてつもなく大変だからだ。

この人が悪い事をしても賛揚せよというのではない。ただ少なくとも誰かが我々のために我々自身ができない事をやってくれているのだ。感謝の心を持つのは、ほんとうに重要だ。感謝の心がなければ成就を行うことはできない。感謝の心を持たず、自分は彼らのために読経し、彼らを超度させてやっている、と考える。これは根本的に間違っている。なぜなら彼らがいなければ、あなたはどうして成就できようか?苦しんでいる衆生がいるからこそ、修行人は成就できるのだ。みな離苦したなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが必要だろうか?好転したからといって、消えてしまった弟子もいる。自分はOKだと思っているようだが、そんなに容易にOKになるだろうか?

信成就は根本中の根本だ。我々はこの一生で大乗仏法を修める。どの法門、咒語、仏号であろうと、ある一世で必ず成就を得られる。自分はあちこちで念珠したが、やはりこの状で、病も良くならない、などと思ってはならない。まだ死んでいないなら、それは良いということなのだ。死んでもそれも良い。なぜなら病苦から解放されるからだ。誰もこの種のものを聞き入れようとしない!自分は毎日3000遍読経しているので、健康を回復できると思っている。あなた達は自分は返さなくとも良いと思っているのか?地獄で返すのか、それとも肉体で返すのか?地獄がどんなに苦しいか分からないと言う人が多いが、あなたに知らせる必要はないのだ。死に直面すれば、目にでき、体験することもできる。

寶吉祥仏法センターには非常に多くの医療関係者、非常に多くの看護師、医師がいる。集中治療室は地獄のようではないか、と彼らに聞いてみよ。集中治療室の温度は特に低く設定されている。その中で裸にされれば、たくさんの布団を掛けていても、やはり非常に寒い。寒冰地獄のようではないか?手術室に運ばれる時は、屠殺場、刀山地獄、油鍋に入るようではないか?現在ではレーザーで焼く治療などが発明されているが、地獄で火かき棒で刺されるようではないか?全く同じだ。生前この種の状況が出現すれば、それは地獄に堕ちる可能性があるということを示している。生前突然脳卒中になり、手が不便になるなどの状況があったなら、餓鬼道に堕ちる可能性が非常に高い。餓鬼道では手や足がない人が非常に多いからだ。生前に見せるのだ。死を待つ必要はない。

善逝を修める、つまり他界するまで身体が完全で手術を受けたことがなく、穏やかに往生できる人は多くない。リンチェンドルジェ・リンポチェは1995年より衆生を救っているが、90歲代のお爺さんが旧暦の正月十五にロビーに座って『菩薩が迎えに来られた』と言い続けているのを見たことがある。ところが他の人は『菩薩、死なせないでください。まだまだ、たくさんの事をやり終えていないのです』と言い続けている。善逝は非常に難しい。容易ではない。なぜならこの種の大乗の経典について誰も言わないからだ。あなたが成就を信じ、成就を行うなら、生死について悟りを開くことができる。それは、ある日必ず死ぬということをはっきりと認識するからだ。誰でも死ぬのだから、この一生で自分の心持ちを努力して変え、自分は学仏して隠れていようと考えるのではないのだ。因縁が備わっていないなら、隠れようとしても隠れることはできない。やはり引っ張り出されてしまうのだ。

成就を信じ、成就を行うなら、大菩薩の果位までいつか必ず成就できる。だが、この一生から始めなければならない。そして迷信に惑わされてはならない。持咒し上師が加持すればすぐに良くなるなどと思ってはならない。福報を累積しなくて、どうして良くなるだろうか?昨日二人のガン患者がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来たが、リンチェンドルジェ・リンポチェはその内の一人にだけ加持し、もう一人には加持しなかった。なぜか?リンチェンドルジェ・リンポチェに分別心があるからではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが皈依弟子以外から供養を受け取らないのを知っているだろう。つまり分別心からではないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは会いに来た者に名前は聞かず、誰の紹介かだけを尋ね、何を身に付けているかなども見ない。リンチェンドルジェ・リンポチェが一人にだけ加持し、もう一人に加持しなかったのは、一人には恭敬心があり、もう一人にはなかったからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ分かったのか?上師であるのに、少しの心通さえないなら、法座に座っている資格はない。心通したので、相手が何を思っているかが分かったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの面前ではあまり頭を働かせないほうが良いだろう。

『三者性成就』と言うが、性とは本性、本質であり、性格ではない。すべての衆生の本性は本来清浄で、皆仏性を備えているのだ。『性成就』とは、我々は仏と同じように仏果まで証できると信じることだ。今日まだ成就していないのは、本性を見つけられていないからだ。見つける、と言っても探しに行くのではない。大量の汚れ、貪嗔痴慢疑が、清浄な本性を覆い隠しており、自分自身も見えなくなっている。禅とは、自分の本性を発掘することだ。如何にして発掘するのか?仏法の薰陶を通して、少しずつゆっくりと発掘するのだ。禅定の真の意義は、我々本来の面目を改めて表に現すということで、本来の面目を現せば、世間で行ってはならない非常に多くの事を停止できる。行ってはならない、と言っても、たくさんの事ができないというのではなく、やはり同じなのだ。ただ、心構えを変えるだけに過ぎない。

リンチェンドルジェ・リンポチェが社会に交わっていても、リンポチェだと分かる人は多くない。ただ、リンチェンドルジェ・リンポチェは謙虚で穏やかだと感じるだけで、リンチェンドルジェ・リンポチェが奇妙だと感じる人はいない。リンチェンドルジェ・リンポチェは内心を修めた。仏法は心を修めるのだ。様子を修めるのではない。様子が良いかどうかは心と関係がある。心が動いていれば、様子も変化する。性成就とは、自分は本来すでに成就しているが、生生世世に輪廻し、自分の業力を増やし続けたため、自分の本性が仏と同様の条件を備えていることを忘れているに過ぎないと、はっきり理解することだ。はっきり認識しなければならない。学仏とは何かを増やすことではなく、自分の悪いものを良くするのでもなく、成就した本来の本性を回復させて衆生に利益することなのだ。

信成就、行成就、続いては性成就だ。言ってしまえば、三文字に過ぎないが、行うのは生生世世にわたる。一生で為せるものではなく、心が必ず堅く定まっていなければならない。開宗明義が『信』と仰せになったのは、信心が不十分なら、ほんの少しの波風が立ってもすぐに諦めてしまうからだ。あなた達には退転などと言う資格はない。諦める、としか言えない。『この法門を修めてもダメだ。別のを試してみよう』などとすぐ考える。

リンチェンドルジェ・リンポチェは学仏を始めて後これまで、リンポチェの果位を証した後、衆生が何を求めているかを知ったが、それ以前は尊勝なる直貢チェツァン法王の仰せの通りに学んでいただけで、唯一求めた法として施身法があるだけだった。リンチェンドルジェ・リンポチェは求法の際『最も修め難く最も大変だが、衆生に利益できる法門』を教導くださるようお願い申し上げた。こうして施身法を伝法賜ったのだ。施身法はとても大変だ。

『性成就』とは、いつか必ず、自分の本性は成就を回復すると明確に理解することだ。成就とは、自然を自在に操ったり、神通力を示したり、ちょっと触って変えてしまったり、というのではない。これらは重要ではない。ただ一種の悉地(悟り、成就)、ある種の功徳の出現に過ぎない。だが、開悟ではない。神通があるなら当然開悟もあると思ってはならない。学仏せずとも、他の宗教でも神通はあるのだ。

『四者楽菩提心』でいう『楽』とは永遠の『意楽菩提心』だ。簡単に言えば、あなたが菩薩に成ろうとするなら、必ず先に慈悲を学び、慈悲を修めた後に菩提心を発し、菩提心を発した後には非常に多くの障礙と挫折に直面するということだ。我々は今はまだ外魔の干渉を受ける資格はない。なぜなら成仏の段階に至っていないからだ。だが、我々には非常に多くの心魔がある。心魔とは貪嗔痴慢疑だ。この五毒はとてつもなくたくさんの心魔を生み出す。心魔とは、我々の生死解脱を阻む考えだ。それにより、菩提心を忘れ、不要に思い、菩提心に雁字搦めになり、どこにも行けないように感じる。しかし、菩提心がなければ成仏することなどできない。菩提心がなければ、仏法を用いて衆生に利益することなどできないのだ。

『菩提』というこの二文字は中国語に翻訳されていない。梵語として用いている。なぜならその意義があまりにも深奧だからだ。慈悲がないのに菩提肥沃の土としても、菩提心を植え付けることはできない。自己中心的な考え方が非常に重ければ、絕対に菩提心を発することはできないのだ。『自己中心的な考え方が非常に重い』とは、間違っても、叱られるのを恐れて間違いを認めないことだ。この種の人があまりにも多い。叱責を恐れるのは、まさに懺悔心がないからだ。過ちよる一切の結果を受け入れなければ、真の懺悔ではない。簡単に言えば、因果を信じる人でも過ちを犯せば、もちろん果報があり、もちろん果報を受け入れなければならないということだ。誰もが隠れようとする。蓋をして人に知られないようにする。しかし、どんなに蓋をしたとしても、果報はある日必ず成熟するのだ。蓋をしてしまえば、慈悲を学ぶことはできない。

懺悔さえなく、過ちを認めることさえしないなら、どうして慈悲を修めることができようか?慈悲さえないなら、どうして菩提心を発することができようか?菩提心がないなら、大乗仏法を用いることなどできない。無理なのだ。たくさんの人が自分は慈悲深いので、ボランティアに行っていると考えているが、これはただの助縁、学仏を助ける縁に過ぎない。供養布施も助縁だ。慈悲心を発せず、慈悲心を学ばず、慈悲心を修めないなら、菩提心を発することはできない。法会の最後には毎回必ず菩提心の頌を唱える。その中では『菩提心を発していない者は、上師が菩提心を発するよう助ける。すでに菩提心を発した者は、その菩提心を持ち続けられるよう上師は助ける』という。八地以前の菩薩には、菩提心が退転する恐れがなおある。菩提心の退転は非常に簡単だ。本当に容易だ。

『楽』とは、衆生を離苦得楽させることで、菩提だけがある。衆生を苦から逃れさせ永遠の楽を得させようとするなら、菩提心を道具或いは得たものと思ってはならない。菩提心があるために、不便なことが多いなどと思ってはならない。みな『永恒意楽』、つまり菩提心は利己利他であると永遠に知らなければならない。人生に何か障礙があるからと言って、菩提心を退転させてはならない。人生に何かあるからと言って、これ以上菩提心を発せず、これ以上慈悲を修めないなどと思ってはならない。これでは間に合わないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一生で学仏するにあたり、非常に多くのチャレンジと誘惑にぶつかってきた。重大な岐路に立った時には、自分が少しでも動念すれば、すぐに変化してしまう。釈迦牟尼仏が『学仏人は、適当に占いなどを受けてはならない』と仰せなのは、退転を恐れておられるのだ。自身を例とすると、リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を救うようになったばかりの頃、当時はまだリンポチェではなかったが、すでに弟子を取り始めていた。リンチェンドルジェ・リンポチェに従って長くなる弟子はみな知っているだろう。以前リンチェンドルジェ・リンポチェには仲の良い友人がいた。紫微占いで非常に有名で、この友達がリンチェンドルジェ・リンポチェを学仏の道に招いてくれ、尊勝なる直貢チェツァン法王も彼が紹介してくれたのだ。

どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェが突然このように出現したのか?彼には不思議に思えるという。そのため、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェの八字を、八字占いで台湾で最も当たると評判の人に見せた。リンチェンドルジェ・リンポチェは学仏する前に八字を友人に見せて紫微占いをしてもらったことがあったので、友人はリンチェンドルジェ・リンポチェの八字を持っていたのだ。つまり、自分の八字をいい加減な気持ちで他人に渡すものではないということだ。

友人はリンチェンドルジェ・リンポチェに、この八字占いの人とすでに約束している、というので、リンチェンドルジェ・リンポチェはそこに行った。その人はリンチェンドルジェ・リンポチェに『あなたの八字は間違いなく修行人のものです。この一生で必ず大成就するでしょう。但し一つ問題があります』というので、リンチェンドルジェ・リンポチェは『何ですか?』と聞くと、その人は続けて『これ以上衆生を救ってはなりません。今後も衆生を救うなら、56歲で骨癌になります。骨癌になって修行できるでしょうか?先ずは自分が修めることです!衆生を救うのは一先ず後回しにしましょう』と言った。

その日帰宅し、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの問題について考えた。自分には母や子供がいるとたくさんの人が言うように、当時リンチェンドルジェ・リンポチェにも、母も妻も子もいた。そして、考えてみれば、その通りだと思った。56歲で骨癌になったなら、どうやって修行するのだ?けれども一晚寝て翌朝、リンチェンドルジェ・リンポチェは分かった。この人はリンチェンドルジェ・リンポチェを害しに来たのだ。なぜならこの人は、リンチェンドルジェ・リンポチェに不楽菩提心を勧めたのだ。ほとんどの人が、先ずは自分で修行しよう、と考え、策に嵌るだろう。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは56歲の時にも骨癌に罹らなかった。釈迦牟尼仏が我々に占いや卜卦をするなと仰せになるのは、ちょっとした不注意でこの種の真の冤親債主に巡り合ってしまうからだ。

あなた達は自分に害を及ぼしたあれらが冤親債主だなどと思っているだろう。実はそれは小物に過ぎない。あなたの菩提心を退転させるこの種のものこそ、真の冤親債主なのだ。なぜなら彼の出発点は、見たところあなたのためを思っているようで、あなたがガンにならないことを願っているようだからだ。彼の考えでは『一日中他人を救っていれば、当然ガンはあなたの身に降りかかる。その時になってどうやって修めるのだ?』というのだ。誰が騙されないだろうか?母も妻子もいるのだ。そうだろう?出家していた方が良いのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはもう少しで引っかかるところだった。一晚寝て考えた上でおかしい、この人は冤親債主だと気づいた。仏法中で真の冤親債主とは修行を妨げる人、事、物だ。よって彼は、どんな事でも菩提心を退転させ得るのだとリンチェンドルジェ・リンポチェに気づかせてくれた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が自分を害したとは思っていない。とても感謝している。なぜならその後リンチェンドルジェ・リンポチェは慎重になったからだ。

もし過去世でリンチェンドルジェ・リンポチェに幾らかの善根がなかったなら、この一世で尊勝なる直貢チェ・ツァン法王に出会わなかったなら、この人に引きずられていただろう。先ずは自分の修行をし、自分が良くなってから考えよう、力がついてから他人を救おうと考えていただろう。誰が骨癌を恐れないのだ?あなた達なら、それなら他人を救うのは止めておこうと思うだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に構わなかった。そして、自分が行うべき事を行った。これこそ信成就、行成就、楽菩提心だ。そのせいで、今日リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達に縛られているのだ。さもなくば、あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェを見つけられなかっただろう。なぜならすでに他界していただろうからだ。

楽菩提心は非常に重要だ。信成就というこの言葉を、みな心に深く刻まなければならない。『妙法蓮華経』では、仏像に対して非常に恭敬に礼を尽くしさえすれば、すでに成仏道だ、と言う。つまり、成仏の道を歩いているというのだ。いつか必ず成就することができる。拝んでも何も感じない、何も変わらない、などと思っているだろう。この種の考えを持ってはならない。これは正しくない。経典に基づき物事を論じなければならないのだ。例えば、経典では『礼仏一拝、罪滅河沙』という。たくさんの人が、『仏をちょっと拝めば、河砂のようにたくさんの罪が消えてしまう』と思っているが、この考えは、拝仏は修行を妨げる小さな罪を消してくれる、ということなのだ。例えば、あなたが修行学仏する時、不注意で有毒な物を食べてしまい、数日下痢をしたとしよう。それでどうやって修行するのだ?これはどこから来たのか?過去世であなたは他人に有毒な物を食べさせたことがあるのだ。

2007年リンチェンドルジェ・リンポチェはラキ雪山で閉関した。リンチェンドルジェ・リンポチェが帰ってきた後、台湾からある人が行き、関房に誰もいないのを見て入り込んだが、七日後に飛び出てきた。全身の痒みに襲われたのだ。後にリンチェンドルジェ・リンポチェは科学番組を見てようやく知った。入浴しなければ、人の身体の細菌は七日毎に倍に増えていく。そうして皮膚が炎症を起こし痒くなるのだ。

密宗で閉関の時入浴してはならないと規定されているのは、空性の慈悲心が出て来たかどうかを見るためだ。空性の慈悲心があるなら、皮膚は痒くならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは三ヶ月入浴しなかったが、皮膚は痒くならず、出て来た時にはやはり清潔なままで、いい香りさえしたのだ。経典では『空性の慈悲心まで修めると、腹の中の虫を済度させられる』という。これには根拠がある。仏は適当な話をなさらない。絕対に根拠があるのだ。慈悲心を修めれば細菌が繁殖しないのは、修めながら済度させ続けるため、生み出さないのだ。生み出せば非常に面倒だと知っているからだ。一世で細菌の親となれば、生生世世でもそうなる。

仏法は間違いなく正しい。為せないのは、あなたに問題があるのであって、仏の仰せが間違っているのではない。仏陀の教え、上師の言いつけに従っておらず、手抜き工事をしているからなのだ。いいだろう!いつまでも手抜き工事を続けるがよい。その時が来れば、リンチェンドルジェ・リンポチェは戻って行く。どこへ行くかは、今の所リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ決まっていない。

今日開示するこの四つはすべて顕教の心構えだ。考え方は正しくなければならない。心構えと考え方が正しくないなら、灌頂、加持を授けたところで、やはり凡夫俗子にすぎない。どんな時に忽然と開悟するのか?重点はここにはない。リンチェンドルジェ・リンポチェは縁起性空に対して覚悟があったが、何も準備していない状況で、関房中で椅子の足を蹴ってしまった時に開悟した。仏法とは非常に微妙なもので、言語で説明できるものではなく、修行過程と自分の心の境界とは密接な関係がある。この種のものの縁起が一緒に訪れ、自然な流れで開悟に至ったのだ。縁が不十分なら、無理に行う必要はない。

そのため、最初に信成就と言ったのは、信じさえすれば必ず成就できるからだ。ただ行い、しかもひたすら行い、ある日縁が備われば成就できる。万が一にも途中で諦めたり、挫けたりしてはならない。自分がどんなに修めても、夫はやはり言うことを聞かず、子供は親不孝だなどと言う考えを持ってはならない。子供が親孝行なら、臨終時にもっと悲しむではないか。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつてある青年を済度させたことがある。彼は大学を卒業したばかりだったが、自動車事故で他界してしまった。彼が去ろうとしている時、その母はどうしても思い切ることができなかった。なぜならその青年は幼い頃からとても聞き分けがよく、勉強もでき、台湾大学を卒業したのだ。このようなら、父母は非常に悲しむ。幼い頃からどうしようもない悪戯坊主で、聞き分けが悪かったなら、死んでもそういうものだと思い、それほど恋しく思わないだろう。

違った視点から考えてみれば、自分のパートナーの聞き分けが悪いなら、『いいわ!別れるなら別れるわ!』と考えることができるだろう。つまり、世間の事柄は定義が非常に難しいのだ。何が良くて何が悪いのか?仏法的に言えば、執著を生じさせ、修行の面で障礙を生じさせる事が悪いのだ。

今日はみな仏法を聞いた。帰宅して良く考え思惟してみよ。どれだけ考えるかは重要ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェの冗談でも良い、一、二言を思い出せたなら、それで役に立つだろう。今日のリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を考えてみよ。数日後にホームページで、リンチェンドルジェ・リンポチェが何を言ったか見よう、などと考えて、他人に頼っていてはならない。開示の中には書き留めてないものもあるのだ。なぜなら、録音を聞きながら、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示した仏法を書き出してはならない、ノートを取ることもならないという決まりがあるからだ。全ては何人かの弟子達の記憶力によっているのだ。よってこれらの人の記憶力は以後非常に良くなるだろう。だが、彼らは大阿羅漢ではないので、一言一言をすべてきちんと記憶しているということは有り得ず、幾らか抜け落ちている部分がある。だが、その場で聞くのが最も真実なのだ。この後みなに見せる内容は、よその信衆の中には好奇の目で見ているものもいるからなのだ。最も重要なのは、法会における心だ。心が恭敬に仏法を受け入れるなら、一言であっても成就することができる。

リンチェンドルジェ・リンポチェがこんなに長く開示するのは、長く話さないなら、あなた達は今日来ても何も得られなかったと思うからだ。一言しか話さないなら、あなた達は何も話していないと思うだろう。仕方がない。現在は末法時代なのだ。学仏人であれば、様々な面で他人より少しは殊勝だ。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェは68歲だが、身体状況は同年代の人より少しは良い。どうして少し良いのか?立派に修行しているからだろうか?ポイントはここではない。それは、善が多く、悪が非常に少ないので、身体の福報があり、老化を遅らせているのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは老いないのではない。やはり老いる。だが、密法には不死身の法がある。それは、肉体が死なない法だ。リンチェンドルジェ・リンポチェのこの年齢では、すでにこの法を修めることはできない。この法を修めたなら、身体は常に30歲前後の状態を維持する。20歲前後の状態を維持できる人もいるほどだ。学仏人が功徳を得れば、外相と内心に共に徵兆が現れ、他人が見て取れるものなのだ。自分の功徳をどうすれば出現させられるのか?仏の仰せを信じ、しかも徹底的に執行しなければならないのだ。

例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェが今日開解した経典の文字は非常に小さい」と仰せになり、一人の眼科医である弟子に、前に出て経典上の文字がどれほど小さいか見るよう指示した。眼科医である弟子は「リンチェンドルジェ・リンポチェの『大蔵経』上の文字は、臨床において病人の視力を検査するために用いる視力検查表ではJ1からJ7の大きさに当たり、経典上の文字が見られるなら、その視力は非常に良いと言えます。リンチェンドルジェ・リンポチェの視力は実は40代並みなのです。ある年、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達を連れてインドへ行かれました。ホテルで朝食をとっている時、テーブルに調味料の小さな瓶がありました。瓶上の字は非常に小さく、女性が用いる化粧品上の説明文のようでしたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは取り上げ、文字を完璧にお読みになれたので、非常に驚きました。

リンチェンドルジェ・リンポチェが掛けておられる眼鏡は単焦点であり、多焦点レンズではないのです。遠くを見る時ははっきり見えても、近くを見る時にははっきりとは見えません。単焦点の眼鏡を掛けていれば、リンチェンドルジェ・リンポチェの年齢で、遠くも近くもはっきり見えるということは有り得ません。医学的な観点からは不可能です。リンチェンドルジェ・リンポチェの近視度数も高くありません。度数が高ければ、単焦点レンズで遠くも近くもはっきり見ることはできるでしょうが、それでも68歲のご高齢の身では有り得ません。リンチェンドルジェ・リンポチェの眼鏡が多焦点でないのに、それでも『大蔵経』上の文字が見えると言うのは、リンチェンドルジェ・リンポチェの視力はほぼ40歲ということです。奇跡的としか言えません」と申し上げた。

リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアたっぷりに仰せになった「最近ある法本の字が経典の字よりもっと小さかった。法務を担当する弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェを試そうとしているのだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェが自分の視力について言うのは、リンチェンドルジェ・リンポチェの修行が立派だというのではない。それには二つの原因がある。一つは密法修行者の身体には当然いくらか変化がある、ということで、二つ目は禅定の功夫だ。禅定の功夫があるなら、修法時に自然にあらゆる文字が目に入る。多くの人の読経がゆっくりなのは、気が不十分なのではなく、字が読めないのでもなく、定力が不十分なのだ。定力があれば、何を行うにしても自然に速くなり、間違いの機会も減っていく。

リンチェンドルジェ・リンポチェは今日は自慢しているのではなく、みなに禅定は我々にとって非常に有用だと教えたいだけなのだ。禅定を学ぶには、大乗仏教においては、菩薩の教導、上師の注意に従わなければ、修めることはできない。難しいだろうか?難しくない。容易だろうか?容易でもない。これは非常に矛盾している事だが、必ず成就を得ることができる。リンチェンドルジェ・リンポチェの眼力が良くないのに、法本の字をどんどん小さく印刷する。これではこれら弟子たちはリンチェンドルジェ・リンポチェに嫌がらせをしているのではないか?リンチェンドルジェ・リンポチェはどちらかと言えばせっかちだ。修行に時間がかかりすぎれば、みなも疲れてしまうだろう。必ず自分の身体を水準の内に維持しなければ、衆生に利益することはできないのだ。

病が癒えなければ衆生に利益できないとたくさんの人が言うが、病が癒えるのを待っていたのでは、間に合わないだろう。それよりは、しっかり教えに従い、懺悔し、仏がお教えくださる事を自分はできるとしっかり信じるのだ。今日開示した仏法は、いつ功徳が成就するとひけらかすためではなく、仏が説かれた話は必ず成就が得られるとあなた達に教えるためなのだ。あなた達は遵守し、真面目に行うだろうか?広欽老和尚が『老実念仏』とかつて仰せになったように、別の考え方、必要、要求を持たず、真面目に、着実に行うなら、必ず成し遂げることができる。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば開示する。学仏を開始した日から、自分がどうなるだろうか、などと考えたことはない。ほんとうに考えたことがなく、要求したこともなく、衆生に利益することで自分を成就させてくれなどと仏に求めたこともない。時間が至れば、借財を返済しなければならないので、あなた達が出現したのだ。訳も分からない願を発してはならない。仏の仰せを信じ、その通りに行いさえすれば、いつか必ず成し遂げることができる。それがいつかは分からない。なぜなら一人一人の福徳因縁は異なるからだ」と仰せになった。

法会が円満となり、弟子達は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる開示に感謝申し上げ、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを起立して謹んでお送り申し上げた。

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2016 年 03 月 06 日 更新