尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年4月26日

法会の開始に先立ち、会場内の兄弟子と大徳に自らと尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェとの結縁の経過を語り、自分が過去に為した悪業を懺悔する機会を賜ったことを一人の弟子が上師に感謝申し上げた。

「幼い頃から、我が家では神明を拝んでいた。母はたくさんの神明の誕生日を覚えており、神明の誕生日となると、家では必ず拝拝(台湾伝統の参拝)をしていた。また、母はしばしば私を連れて大小さまざまな廟へ参拝に行っていた。そのため、私は子供の頃は天上の神明は、知らないこともできないこともなく、自分達の願いは何でも叶えてくれると思っていた。けれども、成長と共に、私は疑問を抱き始めた。自分達の願いを神明はほんとうに知っているのだろうか?子供の頃からずっとたくさんの事を祈ってきたが、なぜ何の加護も得られず、不幸せな日々を送っているのか?

数年前突然同僚に、チベット仏教のある教派が台北アリーナで超度法会を開催するが参加しないか、と言われた。私はチベット仏教について全く知らなかったため、当時はとても特別に感じ、さらには祖母が亡くなったばかりだったこともあり、祖母のために最後の孝行を尽くすつもりで、参加を申し込んだ。

法会の日、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲力を強烈に感じた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが開示なさる内容は人心を揺さぶり、幼い頃から聞いてきた、見てきた、感じてきた師父達が開示する内容とは大きく違い、私は賛歎を禁じ得なかった。私はかつて台北の著名な廟でボランティアガイドを勤めていたが、廟での教育訓練活動に参加しなければならないことがたまにあった。教室では廟の師父が人々に、善事を為すように等と誰でも知っているような当たり前の道理を説いていた。当時私は『なぜたくさんの人が悪事を為しながら幸福に暮らしているのか?大部分の人は何も悪い事をしていないのに、辛い日々を過ごしているのはなぜなのか?』と感じていた。私は師父達が説く内容は、自分の人生には助けにならないと思い、教育訓練に参加する度にとても退屈に感じていた。私は、宗教はただ人心を慰めるためのもので、一人の人を真に解脱させることなどできっこないのだと考えていた。しかし、その大超度法会で、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが開示くださる一字一句を聞き、普通の師父とは違う非常に奇妙で、非常に深く、言葉では形容し難い感覚を抱いた。そして私は、この感覚は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲力が衆生を感動させているためだと思った。

その後、每年、阿彌陀仏無遮大超度法会の度に、同僚は私を誘ってくれたが、私は申し込んでも、眠りを貪り、面倒に感じ、参加しなかった。今思い起こすと、衆生を救い、福報を累積する機会をこのように無駄にしていたとは、自分をとても憎らしく思う。

およそ3、4年たった頃、私は仕事を換えた。ある日突然同僚のデスク上に『快楽と痛苦』という本を見つけた。その書名に私は強く惹きつけられた。その時同僚は席にいなかった。持ち主の同意を経ずにその人の本を捲ることは憚られたが、数分待っても同僚が戻って来なかったので、内心の葛藤はあったが、私は待ち切れず『ちょっとパラパラ見るだけならいいだろう』と思い、同僚の席まで行って本を開いた。ところが、開いた瞬間、私はしばし呆然としてしまった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法照ではないか。これは数年前参加したことがある、あの法会の師父ではないか?実に不思議だ。同僚が戻ってくると、私は興奮してどうしてこの本を持っているのかと尋ね、書籍内の法照の修行者に自分はかつてお目に掛かったことがあり、しかも法会に一度参加したことがある、と話した。実は同僚は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの皈依弟子だったのだ。後に兄弟子は、道場について色々教えてくれ、また尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの度衆事跡を賛揚し、法会参加を申し込みできると教えてくれた。

兄弟子は私に、法会参加を申し込めば、その後はずっと菜食しなければならないと言う。けれども、私は肉が大好物だったので、菜食と聞き、迷ってしまった。これまでも菜食レストランで食事したことはあったが、菜食の特殊な味になじめず、吐きたくなるほどで、それ以来、私にとって菜食は忌み嫌う対象だったのだ。けれども、法会に参加したいとの思いもあったため、上師に対して非常に不恭敬な悪念を抱いた。もし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに菜食できるかと聞かれたら、先ずはできると答えておこうと考えた。

その日、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの面前で私は跪いた。するとすぐ、リンチェンドルジェ・リンポチェは入定なさり、ひたすら私を見つめ、それを長く続けた後に『どうしたのだ?』とお尋ねになったので、私は『法会に参加させてくださるようリンポチェにお願い申し上げます』とお答え申し上げた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『なぜ法会に参加したいのか?』とお尋ねになった。実は私はなぜ参加したいのかが全く分からなかったが、ただ学仏は良いことだとだけ知っていたため、兄弟子が普段私に話してくれる、ご自分の兄弟子達の学仏の経過を大急ぎですべて掻き集め、自分が学仏を望む理由にし、リンチェンドルジェ・リンポチェに『人生は非常に苦しいからです』とお答え申し上げた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『出鱈目を言うな。修行していないのだから、苦しいのは当たり前だ!見たところ、仕事がうまく行っていないだけだろう!』と仰せになった。私は『仕事にも家庭にも健康にも問題を抱えている。だがこれが学仏と何の関係があるのか?』と考えた。けれども私は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに言い返したと思われるのが怖く、思ったことを言い出せなかった。ただ、リンチェンドルジェ・リンポチェに『この世の時間を無駄にしたくないのです』と申し上げた。すると、リンチェンドルジェ・リンポチェは『法会に参加するなら菜食しなければならないのだぞ!』と仰せになったので、私は気後れしながら『承知しました』とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに『一生ずっと菜食だ。できるのか?』とお尋ねになったので、私はさらに気後れを感じながら『分かりました』とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは突然話題を換えて『では菜食するといつ決めたのだ?』とお尋ねになった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは実に鋭くていらっしゃる。私が何を考えているかすっかりお見通しだったのだ。私が『リンポチェにお会いすると決めた時に菜食を決めました』とお答え申し上げると、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは大笑いしながら、傍らの出家衆に『こんなにも話がうまいとは。何かやらない訳にはいくまい。いいだろう!申し込むが良い!』と仰せになった。

日曜日の共修法会への参加を許され、私はとてもうれしかったが、それに続くのは菜食の問題だった。菜食は私にとってはとてつもなく困難な事のはずだったが、思ってもみなかったことに、リンチェンドルジェ・リンポチェにお目に掛かった後は極く自然に肉食の欲望が消えてしまい、すんなりと菜食できるようになった。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い加持に感謝申し上げたい。菜食を始めたばかりの頃は、どんなものを食べていいのか、食べてはいけないのかが分からず、しばしばクッキーやパンだけを食べていた。野菜で好きなのはキノコ類だけだったので、様々なキノコ類を大量に食べていた。友人と菜食のブュッフェレストランへ行った時には、皿の九割以上をキノコ類が占めていた。私は自分はキノコ類を食べ過ぎていると気づいていたが、何か問題があるかどうかは分からなかった。医者にも尋ねたが、医者も分からず、ただ同じ食物ばかり摂取し過ぎるのはよくない、とだけ言われ、当時私は頭の中が疑問でいっぱいだった。ある時の施身法法会で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは修法を円満に終えられた後、殺生を断ち、慈悲心を養うための菜食の重要性について、慈悲深くも開示くださった。続いてさらに『菜食にあたり、キノコ類、特に揚げたシイタケを好んで食べる者がいる』と開示くださり、キノコ類過剰摂取の身体への悪影響についてご説明くださった。私は『これは私のことではないか?それに私は特に揚げたシイタケが好きなのだ!』と思い、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは本当にすごいと賛歎を禁じ得なかった。私のような一人の平凡な弟子が普段何を食べているかまでご存知だとは。このように弟子の日常生活にまで心を配ってくださる上師は、地球上に二人といないだろう。

およそ3ヶ月間日曜日の共修法会に参加した後、私は皈依を求めるため拝謁を申し込んだ。跪くやいなや、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『どうしたのだ?』とお尋ねになったので、私が『リンポチェに皈依をお願いしたく存じます』とお答え申し上げると、リンチェンドルジェ・リンポチェは『父母は知っているのか?』と尋ねられたので、私が『知りません』とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈父のような眼差しと口調で『皈依の心を持つのは非常に良い。だが今は父母に隠れて来ている。そして今後は我に隠れて為すべきでないことを為すのではないか?しかも、父母が道場がよくない、我がよくないと言えば、あなたにも父母にも良くないのだ。あなたが結婚しないのではないか、出家するのではないかとも心配するだろう。そうではないか?恐れてはならない。なぜ学仏したいのかをしっかり伝え、リンチェンドルジェ・リンポチェが、父母の同意なくして皈依はできないと言っていることを伝えよ。父母の許しを得たら、また来るが良い!』と仰せになった。

帰宅後、私は両親と話し合ったが、彼らは皈依にどうしても同意してくれなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば、父母が学仏に反対なのは、あなたが変わっていないからだ、と法座で開示くださる。本当にそうなのだ。私は相変わらず両親にとって頭痛の種で、しばしば口答えし、父母を批判し、父母に対してぞんざいな態度を取り、わがままで横柄だった。何度も話したが同意を得られなかったので、私はそれ以上聞くのが怖くなり、一年余りを信衆として過ごした。2013年年初の法会で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは突然『結婚はあなたにとって今年の最重要事では決してない』と開示くださり、私をチラッとご覧になった。実は当時私には結婚を考えていたボーイフレンドがいた。私はリンチェンドルジェ・リンポチェが開示くださったこのお言葉を反芻し、結婚は今年の最重要事ではないなら、皈依なのか?と思い、とてもうれしくなった。けれども、何度も父母に却下されたことを思い、再び却下されれば気分が落ち込むことを恐れ、やはり言い出せずにいた。

それからさらに3、4ヶ月が過ぎた頃、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは法座で『参加して一年余りになるが皈依していない者は、自分を改めたくないのだ。ただ仏法を聞き、加護を求め、他人を利用しようと考えているだけだ。真に学仏する気がないなら、今後は来なくともよい』と開示くださった。その時私は非常に緊張し、父母がいつまでも同意してくれなかったなら、自分は今後法会に参加できなくなってしまうと恐れた。そのため、私はもう一度勇気を振り絞り父母に同意を求めた。そして2013年10月13日ようやくリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依することができた。

続いて、私は自分が過去に為した悪業を懺悔したい。私はここ住数年あまりよく眠れず、眠ってもよく夢を見て熟睡できず、悩んでいた。これが原因で身体には、ちょっとした不調が多々あり、様々な医者に掛かったが治癒することはなかった。私はいつも自分がよく眠れず身体の調子が悪いのを父母のせいにしていた。幼い頃から、両親はしょっちゅう喧嘩し、家庭内の雰囲気を暗く重苦しくしていたので、私はストレスを感じ、そのためだと考えていたのだ。私はかつて二度家出し、父母に心配をかけ、父母、家人に対してしばしば嗔恨の心を抱いていた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、『病気は借金返済で、ストレスは貪念が重いためだ。子供として、生命を与えてくれたこと、五体満足に産んでくれたことを父母に感謝しなければならない。全宇宙で最も貴重な宝物を両親に贈ったとしても不十分だ。この一生でどのような家庭に生まれるかは、すべて自分の業力によるのだ。父母、家人に間違ったところがあったとしても、それも自分の業力だ。因果を受け入れなければならない』とかつて開示くださった。

これについて、私は父母に懺悔したい。私は懺悔したい。会社の電話をプライベートに使い、会社の文具を持ち帰り、子供の頃は母の金を盗むという窃盗の罪を犯した。私は懺悔したい。無数の衆生の肉を食べ、衆生を傷つけてきた。子供の頃は虎の鳴き声を聞きたいがために、動物園で虎に向かって石を投げ、衆生を邪険に扱った。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて『一匹の虫が樹の枝の上を這っているのを、三頭のオランウータンが静かに見ていた』と開示くださった。それに引き換え自分は、殺虫剤で大量のアリを殺していたのだ。私の部屋の外には花壇があり夏には、しばしば大量のアリが部屋に入って来た。私はそれが気に入らなかったのだ。普段も虫を見ると小癪に思い、殺すか、そうでなければ払い除けていた。畜牲であろうと衆生を尊重することを知っているのに、私は仏弟子として、畜牲にも及ばない。これについて、私は懺悔したい。私は初めて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかり、法会への参加を求めた時、菜食できるか確信がなかったにもかかわらず、上師を騙そうと考えていた。上師に対して、仏法に対して不恭敬だった。これについて、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔申し上げたい。

私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。私をお見捨てにならないばかりか、加持をくださり、この五濁悪世で生まれ変わる機会をくださったのだ。私は自分の得心を話したいと思う。信衆から皈依し今に至るまで、リンチェンドルジェ・リンポチェの教法はとてもシンプルだが、とても難しいと思って来た。つまり、上師の話を聞き、自分を生まれたばかりの赤子と思い、完全に上師に委ね、己の心を改め、普段上師がお教えくださることを日常生活に運用し、しかも我々の日常に発生する一切は、すべて因果輪廻の中にあると深く信じなければならないのだ。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御著作『快楽と痛苦』は難解な仏学理論で書かれたものではなく、非常に優しく分かり易い言葉で書かれており、日常生活の快楽と痛苦から衆生を救うことを主眼とし、多くの衆生がこの書により救いを得られている。最近の食の安全に関する問題も、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはかなり早い時期に大智慧で見通されておられ、食品店、カフェ、ベジタリアンレストランを開設しておられる。しかも食品店の食品は、賞味期限の十五日前に店頭から撤去しているのだ。カフェ、ベジタリアンレストランで用いる物も、すべて採算を度外視した高級食材で、厳格な管理により、食べる人に安心と健康を届けようとしておられる。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生の苦しみを見るに忍びなく、漢方クリニックを開設され、最高の薬材を用い、衆生が病の時には良薬を服用できるようにしてくださった。このところ世間では、病を癒すべき薬からまで、毒性、規制に不適合な成分が検出されている。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏法をビジネスにおいて実践され、少しもコストにこだわらず、衆生に最高の物を与えてくださるのだ。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの一言一行は、24時間すべて衆生に利益するためであられる。

今年初め、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは22万本の樹のために修法なさり、樹上にたくさんの衆生がいた、と開示くださった。22万本の樹と樹上の衆生に加え、牡丹社事件の犠牲者の魂も、リンチェンドルジェ・リンポチェの救度をいっしょに受けることができた。今回の修法により、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはあまりにも多くの体力を消耗したため、身体に不調を生じたが、弱った御身体で衆生のために施身法を修め続けておられた。全く御自分を顧みず、永遠に衆生を第一に考えられるのだ。私はこのような大慈悲力、大菩提心の修行者は、人間界ではほんとうに得難い至宝であると思う。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば身を以って法を示され、慈悲心と菩提心を示現してくださる。弟子である我々は、上師の言い付けを守らず、リンチェンドルジェ・リンポチェが、日曜日の法会においてだけ学仏していると開示くださったようにしっかり修行していない。道場を一歩出れば、上師の言う事など馬耳東風で、思い通りに振る舞い、しばしば問題を起こして上師の煩悩の種となっている。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。おかげで私は無常と学仏の重要性を深く体得することができた。自分と家族の生、老、病、死に直面した時、我々はほんとうに何もできないし何かしてやることもできない。ただ、しっかり尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従い学仏し、そうして解脱することしかできないのだ。最後に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御法体が安康で、法輪が常転し、仏法事業が興盛であるよう祈願申し上げる」と述べた。

続いて、弟子と信衆は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2003年9月14日に開示くださった仏法テープを拝聴した。

「福と慧を修めるのが学仏だと我々はしばしば言う。我々の一切の行為、言語、思想が善なら、福報の累積が始まる。福報を用いて何をするのか?福報は一生の欲しいもの一切を得させてくれると考えている人が多いが、この観念は正しくない。みなにもう一度言っておく。我々のこの一生で得られるのはすべて、過去世で行われたものなのだ。この一生を変えるには、ほんとうに非常に大きな力が必要だ。自分の一切の人生経験、成見をすべて捨て去らなければ、この一生を変えることはできない。未来世に苦海で輪廻することがないよう、絶対に福報が必要なのだ。

福報は最も重要な時、すなわち臨終の前でなければ用いることはできない。家族を亡くしたことがある者も、ここにはいるだろう。亡くなった家族、または親戚、友人などを含め、彼らは臨終時に意識がはっきりしていたか?基本的に、人は臨終前に昏睡状態に陥る。昏睡状態とならなくとも、普通は意識が混濁する。それはなぜなのか?それは病気が重いために昏睡状態に陥るのではなく、福報が不十分だからで、いわゆる業力が現前したからなのだ。もしこれら衆生が昏睡、意識混濁の状況に陥れば、地獄、餓幽鬼、畜生道の三悪道に往生する可能性が非常に高い。人が死んだなら、誰かに来てもらって読経してもらえば、阿彌陀仏のお側に行かせることができ、読経してやれば三悪道に堕ちないようにしてやれるなどと思ってはならない。三悪道へ堕ちないようにするには、密法修行者に頼る他はない。よって、この一点から分かる。行善は楽に日々を暮らすことを願ってのものでは決してない。この一生で学仏するのは、実は往生前の最後の1、2分間のために、一切の準備作業をするためなのだ。もし、在生時に、身、口、意がすべて行悪なら、臨終前にも必ず悪だ。あなたの行為がどうであるかは、次の一世に必ず影響を及ぼすのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて言ったことがある。1991年、雲南で教派のあるリンポチェが崖から落ちて亡くなった。そのリンポチェが夜になっても食事に帰って来なかったので、みなで探したが、最後に崖下で見つかった時には、すでに事切れていたのだ。このリンポチェは崖から落ち外傷で亡くなったのだが、見つかった時には座っていた。また、施身法をリンチェンドルジェ・リンポチェに伝授してくれたラマは、胃癌で亡くなったが、臨終の際にも昏睡状態に陥らず、意識ははっきりしていた。これら現象は、修行者になお願力があるなら、再来できることを確実に示している。再来を望まないなら、必ず善道へ行き、少なくとも天界へ行く。そのため、仏菩薩は心に悪念を起こしてはならないとひたすら我々をお諌めくださるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェも、すべての念は善念でなければならない、としばしば言っている。少しの悪も持たず、いかなる仇、恨であっても心に刻まず、不平を心に抱いてはならない。これらがあるなら、それは悪念だ。

この一生で善の段階まで至れないなら、出家、皈依、学仏したとしても、善道へ行けるというわけではない。死の際には、リンチェンドルジェ・リンポチェが必ずポワ法を修めてくれる、などという考えは決して持ってはならない。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェも、自分がいつ死ぬか分からないからだ。学仏にあたり何かに依存し、『自分はそんなに精進する必要はない。リンチェンドルジェ・リンポチェはまだまだ長生きする。時間はたっぷりあるのでのんびりすれば良い』などと考えるなら、それは誤りだ。なぜならあなた達も自分がいつ死ぬかは分からないからだ。

よって我々は、自分の一切の生活を必ず善の境界に進め、自分の一切の欲求、メンツ、金銭に対する執着を忘れなければならない。なぜならこれらはすべて悪業を生じさせるからだ。そのため仏は、必ず持戒しなければならないと仰せなのだ。守戒とは行善だ。守戒できず、今日少しの過ちを犯してもどうということはないと考える。これがゆっくり積み重なれば、それは悪なのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、みなの相も顔色も変わっていないとしばしば言う。その道理は何だ?不健康なのではなく、心が今でも悪なのだ!心の中になおたくさんの悪念があり、すべてが貪、嗔、痴であり、すべてが分別、執著だ。よって当然のように善を行えない。善を行えないならどうして福報が訪れるだろうか?福を修められないなら、より深く殊勝な仏法を学ぶ資格も条件もない。なぜなら、後に学ぶことはすべて生死解脱を助け、さらには成仏するための方法なのだ。あなた達のように、こんなに怠惰な者がどうして生死を解脱できようか!

なぜ金剛乗では、弟子と上師との関係を非常に強調するのか?弟子は上師に対して必ず恭敬で、少しの懐疑も持ってはならないと非常に強調するのか?それは、懐疑を抱けば、必ず行悪を始めるからだ。懐疑の下には、必ずたくさんの奇妙な考えが出現するからだ。これら奇妙な考えこそが傲慢我慢だ。この貪、嗔、痴、慢、疑という五つのものは仏法学習を妨げる最大の敵だ。ここにいる誰もがこの五つの問題を抱えている。なぜならもしこれらがないなら、仏法の領域で非常に発心、非常に精進し、絶えず己の一切の良くない行為を改めているはずだからだ。上師に罰せられなければ、自分の過ちに気づかない。なぜ罰せられなければ気づかないのか?それは、あなた達にはなお悪い癖が残っており、自分のどこに過ちがあるのかを毎日検討していないからだ。

仏は『凡夫の起心動念はすべて自分のためだ』と仰せだ。さらに仏は『念頭を起こしても恐れることはないが、自分が悪念を起こしたと気づかないのが最も恐ろしい。これが最も恐ろしいのだ』とも仰せだ。自分は間違っておらず、上師が誤解していると思ったなら、『三十七道品』で言うように、他人に悪く思われ、誹謗されても、相手を善知識として尊重しなければならないのだ。なぜできないのか?それは修められていないからだ。声聞縁覚を修めるにしろ、菩薩乗を修めるにしろ、すべて如実に行わなければならない。あらゆる頌の後に必ず『やり遂げる』と加えてこそ仏子である。やり遂げられないなら、仏子ではない!仏子とはなんだろうか?仏の弟子のことだ。37条の内のどの一条であろうと、やり遂げられないなら、自分は学仏している、仏の弟子だと他人に言う資格はない。

この37の条件を着実に行えていないなら、試練を乗り越えることはできず、『一体どんな仏法を学んでいるのだ?』と他人に訝しがられることとなるだろう。あなた達はしばしば『自分は今病気だ。仕事もうまく行っているというほどでもない。病が癒えたら、事業が軌道に乗ったら、学仏に力を入れよう』と考えている。それは誤りだ!あなた達は自分の問題がどこから来ているのかを理解しようとせず、仏、菩薩、上師を神のように拝んでいる。厳密に言えば、この種の方式はまさに謗仏だ。仏は神ではない。仏は覚者なのだ。六道の煩悩痛苦がどこから来るのかを悟られ、この方法をお教えくださるのだ。そのため、釈迦牟尼仏は初めて法輪を転じられた時、先ず『四聖諦法』、『十二因縁法』を説かれ、続いて三無漏学、戒定慧を講じられ、次に『三十七道品』を説かれ、さらに小乗の『阿含経』から仏境界を修める『妙法蓮華経』までを次々に説かれたのだ。これらはすべて我々凡夫の心持ちを転変する一種の修行次第だ。

釈迦牟尼仏の智慧によれば、仏の側のすべての弟子はみな阿羅漢だが、それでもみな49年間の講法を行わなければならないのだ。業が非常に重い我々末法時代の衆生なら、どれだけ修行しなければならないか分かるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日はあなた達が行える仏法の重点を教える。こうすれば、すべての経典を見なる必要がないので、時間を節約できる。あなた達はそれでも受け入れず、どうということもないと思っているだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは怒ることは怒るが、あなた達を留まらせよう。リンチェンドルジェ・リンポチェが不共四加行の修法を始め、あなた達も修法を始めた後、菩提心を用いないなら、自然に護法に淘汰されてしまうだろう。なぜ護法が淘汰するのか?それは密法にはさらに10の根本大戒があり、もし衆生が菩提心を発しないなら、伝法人はその者に大乗仏法を講じてはならないからだ。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェは講じないとは無慈悲だ、などと思ってはならない。講じないと言ったら講じないのだ。なぜならあなたには聞く資格がなく、聞く条件を備えていないからだ。每日曜日仏法を聞けば、業障が消え福報を累積でき、物事は自然に好転するなどと思ってはならない。あなた達が行わなければどうしようもないのだ。今後も菩提心を発せず、なお利己で自利で、どんな事であっても自分のことだけ考え、他人を思いやらないなら、会社でであろうと、グループの中であろうと、大乗仏法を学ぶことはできず、聞くこともできない。

なぜ近頃、あなた達をこんなにも急き立てるのか?それは、あなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェの弘法を遅らせているからだ!皈依して4、5年になる弟子でさえ、今になってもはっきり理解せず、たくさんの問題を抱えている。浄土宗では、2年間しっかり修行すれば、すぐに改められる。リンチェンドルジェ・リンポチは密法を集中して一年間学んだだけで、とてつもないスピードで進歩した。なぜあなた達はできないのか?それは、あなた達の学仏の動機が、福報を得て自分の物事を変えるためだからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが追い出さなくとも、護法が追い出すだろう。たくさんの弟子は要らないと、リンチェンドルジェ・リンポチェなぜしばしば言うのか?六祖慧能には一万人余りの弟子がいたが、真に成就できたのは40人余りだ。今後はどんどんたくさんの人が離れて行くだろう。十数年前、直貢チェツァン法王が台湾で法衣をお授けになった時、17人が法衣を賜った。だがこの17人の中で、今でも直貢チェツァン法王のお側に残り、直貢チェツァン法王から顕密二つの法を真に学んだのは、リンチェンドルジェ・リンポチェだけだ。淘汰率がどんなに高いかが分かるだろう。

ドラブ・ワン・リンポチェは灌頂なさらず、弟子も取られない。テンジンニンマ・リンポチェは俗家弟子を決して取られないが、リンチェンドルジェ・リンポチェだけは弟子としてくださった。だが、灌頂はなさらない。ユンカ・リンポチェは外の人間には全くお会いにならない。これら大修行者はなぜこうなのか?あなた達は、彼らは無慈悲だと言うだろうが、そうではない!修行人は、適材適所というお考えなのだ。つまり『大乗仏法を学ぶ気がないなら、引き止める必要はない。別のところへ行けば良い。我々はもっと苦しんでいる衆生を救おう』ということだ。蓮花生大士は地球におられたが、羅剎国へ行かれ、そこで国王になられた。羅剎は人食い鬼だ。蓮花生大士は彼らが悪を為し続けるのを恐れ、羅剎国へ行き国王になり、羅剎達を管理されたのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェがこんなにもあれこれ話すのは、あなた達を脅迫しているのではない。直貢噶舉では顕教から学習を始め、必ず密法まで学ぶからだ。密法においてポワ法は比較的修め易い法だが、あなた達の現在の学習態度と方法では、ポワ法など言うまでもなく、六字大明咒さえ修められないだろう!三無漏学、戒定慧、『仏子行三十七頌』、八正道を含む、リンチェンドルジェ・リンポチェのかつての講話内容の録音テープをよく聞かなければならない。この一生の人身をこれ以上無駄にせず、勉強し働かなければならないとしても、学仏はさらに必要だ。出世法を身につければ、世間法で障礙はない。あなた達は今最も哀れだ。出世法も学ばない、世間法も身につかない。一日中たくさんの問題を抱えている。さまざまな戒律が常に我々に注意している。一切の言行に慎重でなければならない。適当であってはならない。もしあなた達がいつまでもこんなに適当で、明日があるさ、と考えているなら、この明日は絕対に光明に満ちた明日ではない。学仏は常に変わらず、恒久の心が必要なのだ。継続が重要なのだ。今真面目に頑張るが、半年過ぎても感応しないと言って辞めてしまう。さらに半年後には別の上師につく。このような学仏では何も学べないだろう。あなた達がこの正しい説を受け入れ、必ず完璧に言いつけに従うと自分に言い聞かせたなら、あなたの問題は解決を得るだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達にアキ護法の法照を与えたが、法照を開光しに来ていない弟子がまだたくさんいる。上師が与える物は必ずとても重要だ。それなのに、あなた達は今になっても、開光しに来ない。一体どう思っているのか?法照の代金さえまだもらっていないのだ。仏菩薩に対して誠意がなく、あなた達がどのように思っているか分かると言うものだ!リンチェンドルジェ・リンポチェは上師から何かを賜ったなら、宝物のように大切にする!それがたとえ髪の毛一本であろうと、リンチェンドルジェ・リンポチェにとっては宝物なのだ!

あなた達はどうだ?いつも謝ってばかりいる。アキ護法の法照が要らないなら、明日返しに来るように。そして、アキ護法を修める必要もない。こんなにもたくさんの問題を抱えている者が学仏できるだろうか?毎週何か新しい問題が起きる。依教奉行しなければならない、と諌め続けているのに、どうしても聞き入れず、リンチェンドルジェ・リンポチェを神として拝もうとする。何かあるとリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来くれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず解決してやる。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェも眠る必要があるのだ。うっかり眠ってしまえば、もう二度とあなたを目にすることはできない。特に立たされている者達、あなた達の命はすべて仏菩薩が救ってくださったものなのに、仏菩薩に対して信心がないとは!リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしばどのようにして報恩するか教えているのではないか?しっかり学仏し、衆生に利益することこそ真の報恩なのだ。あなた達は誰に報恩しているのか?リンチェンドルジェ・リンポチェに仇を返しているのか?弟子達がリンチェンドルジェ・リンポチェを怒らせる。これこそ恩を仇で返しているのだ。

戒律では言う。大法を学びたいなら『常時令師喜』つまり常に上師を喜ばせなければならないと言う。それなのに、あなた達は『常時令師愁』つまり常に上師を憂えさせている。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達が三悪道に落ちるのではないかと心配している。リンチェンドルジェ・リンポチェがこんなにもあれこれ言うのは、こんなにもたくさんの例を聞かせるのは、上師に対する恭敬は非常に重要だと教えるためなのに、あなた達は理解できない」と仰せになった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、今日は仏法を聞かせないよう、アキ護法法照の開光に来ていない弟子達をすべて退席させた。

弟子達が退席する前に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは開示くださった。「かなり前に言ったことがあるが、今もう一度言おう。『根本毘奈耶経』では仏が仰せの戒律について触れている。仏の弟子に『一、不信。二、懈怠。三、悪口。四、羞恥の心がない。五、悪知識に近づく』状況があるなら、上師は教導し叱責しなければならない。しかもさらに5項目ある。上師は次のことを弟子と一緒に行ってはならない。第一、不共語。つまり、話してはならない。第二、不教授。つまり、仏法を教えてはならない。第三、不同受用。つまり、上師が供養する一切に、参加する資格はない。それは上師のすべての宝を含み、それによる益を決して受けることはできない。第四、不許與善事。つまり、一切の行善の機会を与えない。第五、不與同室。同じ部屋にいることはできない。なぜ、彼らを退席させるのか?これであなた達も分かっただろう!これは仏の戒律なのだ。あなた達は何を為した?一、不信。二、懈怠。なぜ退席しなければならないのか分かっただろう?あなた達は学仏とはとても簡単で、自分はお金があるので、聞きに来たければ聞きに来ることができると思っている。寶吉祥は戒律を重んじている。この5項目を犯せば、叱責されるのは当たり前だ。よって『上師不共語、不教導、不同室』なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは指示する。アキ法照の開光に来ていない弟子達を退席させよ。

悪知識に近づくとはどういうことだろうか?最近ある人がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た。そして、ある道場のある人がその人に『あなたは密法を修めることができない。あなたの亡くなった父親の霊と話したところ、父親は何かの墳墓を欲しがっている』と言ったと言う。このような人は表面的には学仏しているようだが、実は悪知識なのだ。仏は仰せだ。亡者に対しては、超度させてやるのが重要で、その欲望を満たしてやるのではない。どんな経典にも記載されている。仏は、人が死んだら火葬し墳墓は不要だ、と説かれる。チベットに墳墓があるだろうか?この人がチベット仏教を学んだなら、チベット、青海に墳墓があるかどうかを見れば良い。なぜないのか?それは、チベット人が仏陀の教導に従い、水葬か火葬、天葬し、遺灰さえ残さないからだ。この人がリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子なら、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず彼を破門するだろう。上師に従い仏法を聞いておらず、他人の言うことを適当に聞く。神通とはこのように用いるものだろうか?幽鬼と話せれば神通があるのか?それなら乩童(台湾の霊媒師)も神通があるということになるではないか!よって経典では言う。末法時代、邪師はガンジス川の砂のように多くいると。表面的に少し学んだだけで、思い上がり、一日中出鱈目を言って、他人と自分に害を及ぼしている。

この後、四加行を伝授する際には、大手印を教える。大手印は我々噶舉派不共の禅定方法であり、成仏の方法、開悟の方法でもある。直貢噶舉のすべての祈請文では、大手印の境界まで証できるよう、歷代の上師に加持を祈請している。もし、あなたが上師の教導に対して、少しでも懐疑を抱いているなら、学ぶことはできず、大手印まで証することなど決してできない。リンチェンドルジェ・リンポチェのある閉関の際、直貢チェツァン法王は御自らリンチェンドルジェ・リンポチェに大手印の口伝を伝えようとなさった。リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に『大手印は成仏の法です。リンチェンドルジェ・リンポチェは適当にする訳には参りません。ですから、さらに11万遍百字明を唱えてからでなければ、大手印の法を授けていただくことはできません』と申し上げ、続く二十日間の内に11万遍の百字明咒を唱え、それから直貢チェツァン法王の関房へ参上し、直貢チェツァン法王が口伝くださる大手印を聞いたのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように学んだ。あなた達にはできるか?11万遍の百字明は、数時間眠る以外は、ひたすら唱えるのだ。なぜ唱えるのか?それはリンチェンドルジェ・リンポチェが非常に謙虚だからだ。自分の福報は不十分で、自分の業は非常に重いといつも思うからだ。自分の業は重くない、福報は十分だ、とてもうまく修行できており、自分はとても頭が良いといつも思っているあなた達とは大違いだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように学仏したのだ。上師に対する恭敬心において、あなた達とは比べものにならない。リンチェンドルジェ・リンポチェが11万遍の百字明を修めたのは、直貢チェツァン法王が求められたのではない。実はリンチェンドルジェ・リンポチェはすでに四加行を修め終えていたが、やはり十分ではなく、さらに修行しなければならないと思ったのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて、直貢チェツァン法王に大手印は難しいでしょうか?とお尋ね申し上げたことがある。直貢チェツァン法王は、難しくない、とお答えくださった。リンチェンドルジェ・リンポチェも今では難しくないと思っている。どこが難しいのか?必ず100%依教奉行し、少しの懐疑さえ抱いてはならず、ほんの少しであっても割り引いてはならない。大手印は理部と事部とに分かれている。理とは我々が言う道理で、事とは密法で、正果まで修められるようにしてくれる。上師として、理論は教える事はできる。だが、やはりあなた達自身が着実に修行するかどうかにかかっているのだ。あなたが修行もせずに、すべて終了した、理解した、修め終えられた、と思っているなら、それは大間違いだ!そんな事があろうか。チベット仏教の四大教派において、どの教派にもそれが成就した特殊な法門がある。噶舉派では大手印で、寧瑪派では大円満だ。

なぜ大手印を学ぶのか?それは、大手印を学べば、『止』と『観』を学ぶことができ、普段の生活における念頭が減り、往生の際に一切の念頭を停止し、仏の境界に入り込むことができるからだ。よって、大手印は直貢の弟子が学ぶべき法門なのだ。だが、大手印を学ぶ前に、不共四加行を学ばなければならない。不共四加行を学ばなければ、大手印をどのように修めるかを教えたとしても、修めることはできない。学仏にはレベル、次第があるのだ。飛び越えて進むことはできない。

自分は感応し通霊し誰某と話せる、と言うような人が突然現れたら、そんな人は必ず怪しい。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば言う。法王のように尊い存在であっても、直貢チェツァン法王はこの一世でも幼い頃から一切の法門を改めて学習なされた。直貢チェツァン法王とみなとの差は、学ぶのが速いかどうかに過ぎない。なぜなら直貢チェツァン法王は過去世ですでに学んだことがあったため、成就も非常に速いのだ。実は、我々は一人一人みな過去世で学んだことがあるのだ。ではなぜこの一世で覚えていないのか?経典ではこれを『隔陰迷』と言う。つまり『一世を隔てたことで過去のすべてを忘れた』ということだ。だが、忘れたと言うのは存在しないということだろうか?やはり存在している。どこに存在しているのか?阿賴耶識の中にだ。阿賴耶識の中の種子はどんな状況下で芽を出すのか?それには因縁が必要だ。上師があなた達に仏法を講じるのは、あなた達が過去世で学んだ仏法の種子が芽吹き、成長し、開花し、実を結ぶよう、因縁を作っているのだ。

あなた達の花がよく開き、良い実がなるように、この過程における仏法は、水遣りや施肥のようなものだ。この過程で、上師が与える水を受け入れず、上師が与える仏法の教えを受け入れないなら、きれいな花が咲くだろうか?良い実がなるだろうか?そうはならないだろう。果樹をよく成長させるために、農夫はとても苦労して世話をする。上師もそうなのだ。だが、上師と農夫は違う。農夫は果樹が実った後、この美味を味わい、さらには金に換えることができる。だが上師は学仏の種子に水を遣る時、この美味をいつか味わえるだろうとは思いもよらない。何か報いがあるなどとは、全く考えもしない。ただ、『金剛経』中に言うように、済度できる衆生はいないとはっきり分かっている。自分は衆生を済度させているなどと思ってはならない。実は衆生はすべて一体で、分別がなく、累世の業力にそれぞれいるのだ。馬鹿であろうと、学問があろうと、水を受け入れることさえできるなら、仏法中で精進し弛まず自分を薰陶するなら、必ず仏果まで証することができる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは今日はただ極く簡単に大手印の概念を開示する。直貢噶舉不共四加行は五本道と言われる。中で最も重要な一本は大手印だ。かつてジッテン・サムゴンは開示なさった。直貢噶舉の大手印は獅子のようなものだ。鋭い爪を持つ四本足と鋭い牙を持つ口がある。獅子は仏法では勇猛を表す。学仏人の心が十分に勇猛でなく、あれこれ恐れ悩み患うなら、前進することはできない。よって、仏法では獅子を用いて学仏の心の勇猛を表すのだ。獅子が鋭い牙や爪を備えているなら、その力はより強大となる。

五本道の意味は、この五つの条件を備えて不共四加行を修めるなら、その力は非常に強いということだ。大手印、皈依、懺悔、上師相応法、献曼達のこの五つを合わせて五本道という。大手印は心の訓練を通して、世間の種々の事物に対して正確な見解を持てるようにしてくれる。いわゆる『正確』とは八正道中で言う『正知正見』だ。『正知正見』とは、世間と仏法とが事実上一体であり、仏法が最終的には将来成仏させてくれると理解することだ。よって、学仏の知見が、自分のため、運を変えるため、自分がよく理解するため、他人とは違うというような考え方なら、正確とは言えない。このため、修行の過程において、果位まで証できるか、リンポチェになれるかは重要ではない。重要なのは仏が八正道でお教えくださる一切の方法を理解することなのだ。

大手印の訓練を通して、日常生活でたくさんの妄念と誤った見解を減らすことができる。だが、あなたの根器がどんなに良くても、かつてどれだけの法門を学んだことがあっても、大手印を学ぼうとするなら、具徳の上師に従わなければならない。簡単に言えば、その上師は大手印の領域ですでに方向を理解し、経験を備え、どこから手をつけていいかを知っているということだ。よって、証果、証道の上師に従わないなら、大手印を解説した書をすべて読破したとしても、理解したということにはならない。禅宗が『不立文字』というのは、文字で書かないということではなく、禅定の境界は言語で説明できるものではなく、完全に自分の悟りによるからで、自身が如実に修行し悟った後に、上師の認証を得て初めて自分がどの境界に至ったかを知ることができるのだ。

あなたの上師だけが、あなたの境界が正しいか誤りかが分かる。金剛乗ではなぜ上師はあなたにとって非常に重要だと言うのか?なぜなら、自分自身の人生経験にだけ頼っていては、境界が現前したとしても、それが正しいか誤りかを体得することができないからだ。我々は自分の意識が真の本性、真の心だと見誤ることが多い。そして、六つの意識作用を見誤った情況下では、たくさんの出鱈目な事が発生し、自分は通霊した、霊とコミュニケーションが取れる、何々を見たなどと言い出す。これはすべて正しくない。

よって、大手印は一切の仏法法門で非常に重要な基礎なのだ。ポワ法を修めるにしろ、ナロ六法を修めるにしろ、後の一切の境界を修めるにしろ、大手印は非常に重要な作用を有する。大手印は帝洛巴が始められたものだ。よって、厳密に言えば、チベット仏教において、真にインドから伝わった法門こそ大手印なのだ。なぜならサキャ派とゲルク派が学んだものは、インドから伝わったものではないからだ。大手印は代々伝承され、この伝承は途切れた事がない。直貢噶舉においては、ジッテン・サムゴンから直貢チェツァン法王までの三十七代の法王において伝承が途絶えたことはない。そのため、以前祖師ジッテン・サムゴンは『直貢噶舉というこの教派は上師の加持力が特に強く、特に力がある。それは伝承が途切れた事がないからだ』と仰せになった。

なぜ伝承が途切れたことがなければ、加持力がより強くなるのか?なぜならそれは、各代の諸仏菩薩、過去、現在、未来仏の一切の願力と、一切の上師の願力を内部に含むからだ。いわゆる『断』とは、この教派に途中で変化が生じ、それは争いであったり、分派であったりするが、それではこの伝承がすでに断たれたということだ。たくさんの修行者が大手印というこの法門を修めれば、一生の内に菩提、即身成仏まで証することができる。『大手印は簡単な名相ではなく、修行者を覚悟へと率いることができる法門だ』とかつて大修行者が仰せになった。その覚悟とは大手印だ。覚悟へのアプローチは実修以外になく、大手印を聞くだけでは開悟はできない。よって、直貢噶舉教派の教法を学んだ後に依法修持すれば、必ず噶舉派上師の加持を得て、素早く開悟することができる。

直貢噶舉というこの教派に皈依しているからと言って、自分は直貢噶舉の人間だと言えば良いというものではない。自分は直貢噶舉の弟子だと本当に思うなら、必ず依法修行しなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェの広東訛りの中国語が聞き取れても聞き取れなくても、何歳であろうと、この門下に皈依しているなら、修行というこの道において自分を見捨てることはできないという責任がある。大手印には『根』大手印、『道』大手印と四瑜伽次第『果』の大手印がある。以前リンチェンドルジェ・リンポチェは、輪廻を解脱するには、必ず専一の禅定、つまり大手印の一つ目の瑜伽次第を証しなければならないと開示したことがある。

大手印には専一瑜伽、離戲瑜伽、一昧瑜伽、無修瑜伽があり、各果はさらに三つの次第に分かれている。よって、無修瑜伽まで証するには12段階を経なければならないのだ。専一瑜伽までさえ修められない人もいる。よって、12の次第などあっという間だ、一年で一つの次第なら、12年あれば良いなどと考えてはならない。一生かかっても修められない人もいるのだ。ドラブ・ワン・リンポチェが法会という公の場において、リンチェンドルジェ・リンポチェを『極めて貴重で、大根器の修行者だ』と賛揚くださったのには、道理があるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの果位をあなた達に言う必要はない。直貢チェツァン法王がご存知で、大修行者もご存知だ。大修行者が公の場で言われたなら、それは絕対に妄語ではない。

大根器とは、非常に速く成仏する資格が行者にあるということだ。なぜあなた達に言わないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは生まれた時から大根器だったのではなく、自分が非常に真面目に(用心)これに取り組んだからなのだ。学仏にしろ、事業を営むにしろ、家庭である役割を演じるにしろ、なんであっても真面目に(用心)取り組まなければならない。『用心』とはどういう意味なのか?つまり、真の心を用いるということだ。真の心とは何か?真の心とは『三十七道品』で説明されるように、自我の考えがなく、すべては他人のためでなければ、用心、真心と呼ぶことはできない。

例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば開示する。仏門に皈依したその日から、リンチェンドルジェ・リンポチェは法座に座る上師になる資格があるなどと考えたこともなかった。自分を定位したり、自分の修行、学仏がうまく行っているなどと考えたこともなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、学仏は真面目に取り組まなければならない、名利にちまちまとこだわらず、他人の自分に対する見方にあれこれこだわっていてはいけないとだけ、知っていたのだ。

我々は家庭で、社会で、こんなにもたくさんの争いと摩擦を抱えている。それは我々が真心を用いないからだ。真心を用いないなら、人としてある時、眼、耳、鼻、舌、身、意のこの六根は自然に貪、嗔、痴、慢、疑を従える。『用心』或いは『用意識』を言葉で説明するのは非常に難しい。だが、試してみることはできる。何事かを行う時、結果が自分にとって有利か有害かなどとは考えない。ビジネスが上手くいっても良し、どんな職位でも良し、自分が行うこの事が相手に利益を及ぼせるかどうかだけを考える。この利益とは、相手に金を儲けさせるということに限らず、自分が損をして相手を儲けさせるということに限らない。ただ、相手が自分と取り引きすることで喜びを感じられ、金儲けができても、相手を儲けさせられても、何れにしても喜びを感じられる。これこそが『用心』なのだ。

現在、労働者であれ、社長であれ、誰かの夫、妻、子供であれ、すべてにおいて真心を用いなければならない。もっと簡単に、分かり易く言えば、誠実であることだ。誠実とはなんだろうか?それは自分の考えがないことだ。そうでなければ、誠実の心と呼ぶことはできない。自分の利益のために他人を助けようと考えるなら、それは誠実の心ではない。

大手印は、この心の訓練を助けてくれる。実は、リンチェンドルジェ・リンポチェはここ数年、仏法を開示する際には、すべて大手印の範囲内で行っていたが、これまではこの名詞をみなに教えていなかっただけなのだ。理解できてもできなくても、決して疑ってはならない。理解できない、自分とは関係がない、などと決して考えてはならない。『一歷耳根、永為道種』というが、それは『真心で聞く。適当に聞くのではない』ということだ。一般的には『そこに行き聞きさえすれば、種子が中に残る』と解釈されているが、そうではない。真心で聞く。理解できるかどうかは重要ではない。全神経を集中して聞けば、成仏の種子は永遠に心にある。機会を待っているに過ぎないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて何度も開示した。尊勝なる直貢チェツァン法王が話されるのはチベット話だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは理解できない。だが、どうだ?リンチェンドルジェ・リンポチェはお側に座ってもぞもぞ動いているだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは真心で聞いているので、因縁、時間が至れば、この種子は萌芽し結果するのだ。あなた達が犯されている最大の病は、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は自分とは無関係だと思っていることだ。なぜなら『自分は修められず、理解できず、知らない。今日は聞きに来ただけで、聞きさえすれば良いことがある』と思っているからだ。このような考えはあってはならない。若かろうと年をとっていようと、どんなに不健康であろうと、全意識を集中して聞かなければならないのだ。

なぜ居眠りや、もぞもぞ落ち着かない様子で聞くことを許さないのか?それは威儀を犯しているからだ。学仏には学仏の様子というものがある。学仏するに当たり、学仏の様子がなく、威儀を犯せば、福報はなくなってしまう。福報がなくなってしまえば、何もかもなくなってしまうだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達に厳しい。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェのためではなく、あなた達のためなのだ。理解したい、開悟したい、と思うなら、正統な伝承により実修しなければならない。正しい修行をしないなら、開悟など有り得ないのだ。正しい修行とは、己を改める一切の行為だ。一切の法門は我々の誤った行為を正してくれる。修めていくらか感応したからといって、これが修行だなどと言うものではない。これは仏法とは無関係だ。なぜなら乩童であっても感応するのだから。

世間で密法を学んでいるという人は、大変深刻な過ちを犯している。神通があれば、それが密法を修めることだと思っているのだ。これは過ちだ。神通は密法の副産品に過ぎない。しかも他の宗教でも神通はある。つまり、正統な伝承こそが重要なのだ。正しい修行も非常に重要だ。いかにすれば清浄に修行することができるのか?善知識、すなわち上師にできるだけ近しくすることだ。上師の役割とはなんだろうか?仏法を教導する他に、あなたを監督、監視する。あなたが少しでも道を逸れたなら、上師はすぐに正しい方向に導き、道を誤らないようにしてくれるのだ。

チベット仏教を学ぶなら、必ず覚えておかなければならない。チベット仏教の学習を誤解してはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはある年、香港から尊勝なる直貢チェツァン法王を台湾にお迎えした。リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に、台湾で『密宗には神通はない』と公の場で仰せくださるようお願い申し上げた。なぜ直貢チェツァン法王にこのような事を仰せになるようお願い申し上げたのか?それは、学仏が神通を学ぶためなら、経典から言えば邪見だからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて何度も開示した。目犍連尊者は神通で第一であられたのに、果報を免れることはできなかった。我々ならなおのことだ。尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェの願いをお聞き届けくださり、台湾の公の場で『密法には神通はない』と仰せくださった。

チベット仏教は神通について講じると今でも考えているなら、それは全く誤りだ。神通があるのは普通だ。ネコやイヌにも神通があるので、地震を予知して逃げることができる。人には資格がないだけだ。鳥にも神通がある。台風が来襲する前には隠れて外を飛ぶことはない。アリにもある。家の中にアリがいたとしても、台風が来ると隠れて、姿を見せないだろう。つまり、これら動物にも神通があるのだ。我々人類は観測衛星に頼らなければ分からない。それでも、間違えるではないか。

よってもし、神通をあなたに見せて、密法を学んでいるなどという人がいたなら、それは絕対に邪師だ。なぜなら直貢チェツァン法王までが公の場で、密法には神通がないと仰せになったのだ。それなのに、あれら普通の人が、自分は密法を学んでおり、知っており、見えており、霊と通じているなどと言っている。これらはすべて出鱈目だ。信じるに値しない。

たくさんの人がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来るが、リンチェンドルジェ・リンポチェが『どうしたのだ』と尋ねると、怪訝な顔をする。『リンチェンドルジェ・リンポチェは自分にどんな事が起きているのか、なぜ分からないのだ?』と思っているようだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは分からないのではない。仏法は縁起を重んじるので、相手が口を開いて尋ねないなら答えない、尋ねれば答えるのだ。それは分からないということではない。もしリンチェンドルジェ・リンポチェが分からないなら、弟子がこんなにも多いだろうか。

あなたがどんなに頭が良かろうと、すべての経典を読み、研究していようと、正統な伝承がないなら、修行方法の意義について如実に理解していないなら、しかも実際に修持していないなら、どのような成就であろうと達成は不可能だ。これは非常に重要な考え方だ。どんなに頭が良かろうと、どれだけの学問をしていようと、事業でどれだけの成功を修めていようと、仏学院五年間学んだことがあろうと、すべての経典を読んだことがあろうと、正統な伝承は必要なのだ。正統な伝承とはなんだろうか?皈依すれば即、直貢噶舉の伝承を得られるというものではない。皈依後に上師に従い仏法を学び、上師がその上師と伝承を常に教え続ける。これが正統な伝承だ。

つまり金剛乗を修めるには必ず伝承が必要だ。現在台湾にはたくさんの偽の密宗がある。外国に隠れて仏寺を持ち、自分は活仏再世だと言っている人もいる。上師は誰なのかと尋ねると、いないという。自分は生まれながらにそうなのだという。これは問題がある。なぜなら経典には『釈迦牟尼仏から彌勒菩薩が再来なさるまでの間、すべての仏法修行者は必ず上師を必要とする』とはっきり書いてあるからだ。よっていかなる顕教であろうと密教であろうと、自分の上師、老師が誰であるか言えないのは問題だ。少なくともある問題がある。それは傲慢我慢だ。なぜならその人は、師は自分を教えたが、『藍は藍より出て藍より青し』だ、自分は師より優れており、師に尋ねる必要などない、と思っているからだ。

だが、ある事に留意しなければならない。釈迦牟尼仏は『自分は仏法を説いたことはない』と仰せになったと経典にある。そうだろう?なぜこのように仰せなのか?それには二つの理由がある。一つは釈迦牟尼仏はほんとうに仏法を説かれたことがないということだ。すべての仏法は因縁により生まれたもので、みなが成仏するなら、世尊が説く必要はない。成仏していない者がおり、その者たちが求めるので、仏は講じられるのだ。これは縁起性空といい、空性の範囲に属する。二つ目は、仏法は釈迦牟尼仏が発明なさったのではなく、各代の古仏が修行方式を伝えて来られたに過ぎないということだ。つまり、釈迦牟尼仏は仏法を講じられたことはないのだ。上師は必ず絶えず正統な伝承を伝える。釈迦牟尼仏がどのように講じられたか、他の上師はどのように講じられたか。自分自身がどのように講じるかはほとんど言わない。

自分は非常に優れている、自分は理解した、と思い、上師を忘れた人は、教派に皈依し学んだとしても、正統な伝承を得ることはできない。なぜなら上師を忘れたからだ。上師を忘れるとは、感謝しないということだ。感謝しない人は、完全な人ではない。いわゆる正統な伝承とは、教派に対する忠誠が全く変わらないことだ。尊勝なる直貢チェツァン法王は『リンチェンドルジェ・リンポチェの教派、上師に対する忠誠心は変わったことがなく、今後も変わらないだろう』と賛揚くださった。尊勝なる直貢チェツァン法王は公の場でも『リンチェンドルジェ・リンポチェの上師に対する恭敬、上師に対する忠誠は、チベット人も真似できないほどだ』と仰せくださったことがある。そのため、今日リンチェンドルジェ・リンポチェが学べたのは、僥倖ではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェが大功徳主であるからでもなく、如法修行し、正統な伝承の加持を得たからなのだ。あなた達は得られない。なぜならあなた達は上師、伝承に対して懐疑を抱き、拝拝教(台湾の民間信仰)の心持ちで仏法を聞いているからだ。よって、あなた達は正統な伝承を得ることはできない。

様々な伝承の道場の間を行ったり来たりしていてはならない、となぜ諌めるのか。リンチェンドルジェ・リンポチェが良い、他の人が悪いと言っているのではない。それが重点ではない。正統な伝承を得ようとするなら、開悟の前に具徳の上師に必ず従わなければならないからだ。あちこち行ったり来たりしていれば、正統な伝承の加持を得ることはできない。直貢噶舉など同一の教派であっても、今日はリンチェンドルジェ・リンポチェのところで、明日は別のところで、というなら、正統な伝承の加持を得ることができるだろうか?得られない。なぜなら上師の教法次第は一人一人異なるからだ。

例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェの根本上師は尊勝なる直貢チェツァン法王だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王の伝承の加持力を得ている。別のリンポチェの上師は尊勝なる直貢チェツァン法王ではない。別のリンポチェのところへ行けば、そちらの正統な伝承の加持を得る。だが、あなたが二箇所を行ったり来たりするなら、両方の上師の目はチカチカして、はっきり見えなくなるだろう。そんな状態で、伝承を得ることなどできるだろうか?できない。『リンポチェ、あちらとは知り合いなので、申し訳ありませんが、あちらに戻ります』と言いに来る人がいるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは止めない。あなた達は理解していないのだ。仏法を人付き合いのように『ああ!申し訳ない!電話があったので、行かないと悪いから』などと言う。

どんな状況なら移ることができるのか?それは、ある目的のために募金を手伝う時だ。例えば、我々寶吉祥が大法会を行うのはすべて他人のための寄付を募ってだ。自分のためではない。善根を植えることになるので、これなら行っても良い。通常別の道場が法会を行うのは大功徳主、小功徳主、点灯等々たくさんの事のためだ。あなたが行って、彼らにとってプラスになるだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは知らない。自分で考えるが良い。リンチェンドルジェ・リンポチェのところでは、あなたが金持ちだろうとそうでなかろうと、リンチェンドルジェ・リンポチェはみな賓客として扱う。あなた達はここでは平等だ。皈依していない者が前の方に座っているほどだ。よって正統な伝承とは、伝承された加持と重視をこの上師が得たかどうかなのだ。これから講じるのは、行わなければならない実在の修行だ。そうでなければ、いかなる成就であろうと達成されることはない。

大手印とはなんだろうか?かつてある邪師が、非常に大きな手で押した印だ、などと出鱈目を言っていた。テレビでも大手印について講じている人がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは苦笑せざるを得ない。その解釈によれば、大手印は非常に大きな手だ。大手印は手ではない。大手印の含意は非常に深く非常に広いが、簡単な言葉で説明しよう。文字から言えば『大』は一切の衆生を表している。貧しくても富んでいても、老若男女にかかわらず、すべての衆生はみな覚悟の本性潜在能力を備えており、これは普遍なのだ。どんなに年をとっていようと、どんなに若かろうと、理解できようができまいが、真心で聞けば、いつか必ず開悟できる、と先ほどリンチェンドルジェ・リンポチェが言ったのはなぜなのか?今日聞かせよう。なぜならあらゆる衆生の本性はすべて平等だからだ。すべて仏法を証悟し、仏果を証悟する潜在能力を備えているからだ。

『大』は一切の有情衆を含む。我々人類だけではなく、六道の一切の衆生もだ。よって寶吉祥では富貴貧賎を分かたない。何者であろうと、職位がなんだろうと、財産があってもなくても、金持ちでもそうでなくても、何歳であろうと、真心で学仏し、解脱を決心するなら、上師は必ず教導する。金がないからと言って追い出すなどということはなく、リンチェンドルジェ・リンポチェに対して特別に恭敬だからと言って、たくさん伝授するなどということもない。みな平等なのだ。平等の心で仏法を弘揚するのだ。よって今日みなは決して錯覚を抱いてはならない。自分は老いている、修行は無理だ、リンチェンドルジェ・リンポチェの言う事が理解できない、今は病気だ、家庭内の事が多過ぎる、貧し過ぎる、金が有り過ぎて仕方がない。これらはすべて誤った見方だ。それは、あなた達があらゆる衆生はすべて成仏の条件を備えていると知らないからだ。

我々はしばしば仏法は平等だと言う。平等とはなんだろうか?あなたの業力により平等を解釈するのではなく、我々の本質に基づき解釈するのだ。我々の本質はみな同じだ。あなたの根器が良かろうと悪かろうと、上、中、下のどの根器だろうと、本質はみな同じなのだ。我々はしばしば『信』というが、信とはなんだろうか?自分には能力があり、潜在能力を開発でき、いつか必ず成仏して衆生に利益できると信じることだ。これこそ自信だ。仏法と外道との最大の違いはここなのだ。外道はあなたには資格がない、神と平等であるはずがない、永遠に神の奴隸だという。仏法が言うのは、学習過程においては、当然上師に恭敬で、仏菩薩に恭敬でなければならないが、それはあなたが成仏できないということではなく、あなたが永遠に学生だということではない。地蔵菩薩の願力はなんだろうか?『地獄が空にならない限り成仏しないことを誓う』だ!そのため、地蔵菩薩の弟子、学生はすでにたくさん成仏したが、地蔵菩薩はやはり菩薩なのだ。地蔵菩薩はただの菩薩だろうか?実は地蔵菩薩こそ仏なのだ。

大手印のこの『大』は非常に明確に我々に教えている。今日あなたがどのような身分であろと、自分は修められないと考える理由は何もなく、学べないと言う理由も何もない。なぜなら本質は同じなのだから。学べない、知らない、学ぶ気がない。問題は本質にあるのではない。累世の怠け癖にあるのだ。この種の怠け癖は我々を三悪道に陥らせる。上師の役割とはあなたたちを監督し、怠けさせないことだ。あなたの本質、本性を一日も早く現れさせることが、上師の役割なのだ。

『手印』とは法門を象徴し、大手印を修持するなら、別の法門を修持する必要はないと言うことだ。なぜならこの法門の中には一切の法門のエッセンスが含まれているからだ。大手印は円満で一切を含むのだ。上師によって用法が違うので、『大無上』或いは『大中観』と言うことがあるが、本質はみな同じだ。つまり、正確に言えば、円満を代表する法門なのだ。仏が説かれた八万四千個の法門を、この一生ですべて学ぶことは不可能だ。よって我々は『一門深入』としばしば言うのだ。

浄土宗を学ぶことが一門深入だ、禅宗を修めることが一門深入だ、華厳を修めることが一門深入だと思っている人が多いが、そうではない。これらは一門深入ではない。なぜなら浄土法門は禅を含み、懺悔、祈願を含むので、浄土はすでにたくさんの法門を含んでいるからだ。禅宗でも懺悔礼仏の法門が必要だ。華厳はもっと複雑で、天台もそうだ。現在台湾仏教界で流行している一門深入は衆生を誤導している。阿彌陀仏を念じれば、それが一門深入だ、観世音菩薩を念じれば、それが一門深入だと思っている人が多い。浄土宗を弘揚するたくさんの法師もこう言っている。仏号を念じれば坐禅できない。坐禅とはまさに混雑だ。これは全く間違いだ。なぜならいわゆる禅とは定の意味で、もし仏号を念じて定できないなら、なぜ一心不乱になれるのか?つまりみな、実修実証を経ずに、適当に言っているのだ。

いわゆる『一門深入』とは、一つの法門がすべての法のエッセンスを濃縮しており、そのおかげで我々は時間を節約でき、一生この方法を用いて行えば良いということだ。簡単に言えば、『一門深入』とは『一門』が一切の方法を内部に濃縮して含んでいるということだ。大手印を修めれば、別の法は特別に学ぶ必要はない。つまり、大変な苦労をして修める必要はないということだ。例えば、浄土法門では般舟三昧を修めなければならない。90日間眠らず座らない。常に歩き続け、常に念仏し続けなければならない。だが、大手印を修めれば、これも不要だ。不倒丹を修める際にも夜眠らないことがあるが、大手印を修めればこれも不要だ。チベットで冬眠る際に布団を掛けないというリンポチェもいる。大手印を修めればそうなのだ。布団を掛けなくても良いとは、修行が成就したということだが、リンチェンドルジェ・リンポチェはおかしいと感じる。身体が壮健なので布団が不要なのだ。これは修行とは無関係だ。布団が不要だと言って、それが修行が成就したということではない。よって、衆生を誤導している人が多いのだ。これを聞き、『うわぁ!すごい修行ですね!何かの功夫まで修めたので、布団が不要なんでしょうね』などという人もいる。暑がりで全く布団を掛けない人もいるのだ。これは重要ではない。

よって大手印には、一切の仏法のエッセンスが含まれている。この一門に頼るだけで開悟でき、たくさんの不要な動作を行う必要はなく、不要な修持で時間を無駄にすることもない。簡単に言えば、いわゆる『一門深入』とはある一つの方法に集中するということだ。大手印の法門は円満で、欠陥を生じない。例えば、先ほどリンチェンドルジェ・リンポチェが言ったように、般舟三昧を修められない人が多い。なぜなら90日間座らず眠らないのだ。普通はこれができる人は多くない。この種の法は十分円満とは言えない。つまり、大手印は修める気さえあれば、誰でもこの法門を修める資格があり、修持する機会があるということだ。

大手印は上師によって用法が違うため、大中観と呼ぶこともできる。用法が違うとはどういうことだろうか?この用法とは、度衆、修持、修法をも含む。中観とは仏法では非常に重要な論点だ。釈迦牟尼仏が涅槃の後に龍樹菩薩としてお生れになる前、仏法には非常に大きな衝突があった。一切の修行は有為法から始まると考え、『有部』と呼ぶ者達がおり、一切の世間の事は全て仮の姿で、全て虚偽だと考え、『空部』と呼ぶ者達もいた。釈迦牟尼仏の涅槃から龍樹菩薩としてお生れになるまでのこの数百年間で、仏法は非常に大きな争いを経たのだ。いったい『有部』が正しいのか、『空部』が正しいのか?基本的に、これはただ理論における争いだけで、龍樹菩薩が出現なさった後に改観された。龍樹菩薩は維摩詰居士の再来だ。維摩詰居士は在世時にすでに中観の意義について説いておられた。中観の最大の重点は『不能偏空不能偏有、不能執著有也不能執著空』だ。よって非空非有と言うのも、用いる鈴と杖もこれを表している。もし、有ると思うなら、それも『落入邪見』であり、一切は空だと思うなら、それも『落入邪見』だ。

『心経』ではたくさんの理論を説く。いわゆる『色即是空、空即是色』とは中観の理論だ。リンチェンドルジェ・リンポチェもかつて、『中観論』は実修でしょうか?と直貢チェツァン法王に教えを請うたことがある。直貢チェツァン法王は、違うと仰せになった。『中観論』は理論だが、この理論を理解するためには、やはり実修しなければならない。実修とはなんだろうか?閉関だ!現在台湾では学仏において過ちを犯している。『菩提道次第広論』を含む論を聞くのを非常に好む。論とは理論だ。理論は実修だろうか?実修ではない!『中観論』は実修か?違う!仏が説かれた一切の仏法の意味を真に体得するためには、実修しなければならないのだ!実修とは次第に従い仏法を学習し、さらに閉関を通じて自身で証し悟ることだ。この段階を経ることがないなら、自分が学密しているとあちこちで言うなど、問題だ!

『論』は我々に基礎を与え、仏法の涵意をいくらか理解させてくれる。だが、仏法の意義を実際に体得するには、大手印の実修を真に着実とし、つまり必ず依教奉行しなければならないのだ。上師が教える方法に懐疑を抱かず、自分の生活に如実に用いなければならない。自分の欠点を一歩一歩減らし、一歩一歩棄て去らなければ、大手印から人生の真の意義、世間の真の姿を理解することはできない。さもなくば、あなた達は適当に学仏し、適当にたくさんの理論を論じ、加持をくれ開悟させてくれる大成就者に巡り合うことを願って、あそこの上師、ここの上師と尋ね歩くだろう。これは誤りだ!大成就者はなぜ我々に加持くださるのか?我々が衆生に利益することを願ってなのだ。我々に何かをくれるのではない!

リンチェンドルジェ・リンポチェは大手印というこの法門について説明する。あなた達が理解できる字面の意義について、極く簡単に説明しよう。だが、真に理解させるとなると、それは容易ではない。なぜか?我々はしばしば『依了義、不依不了義』という。つまり、学仏で真の含意を理解させようとすれば、文字に頼るだけで説明できるものではないということだ。もし今日、仏の意義を真に理解させられる事を講じられたとしても、義までは講じられない。なぜなら言葉では仏の境界を説明できないからだ。弘法人は、基本的な概念を教えることしかできない。どうして自分に理解させるのか?実修は不二法門(唯一の方法)だ。近道はない。仏法でしばしば言うように、自分が満腹だからといって相手も満腹だということではない。自分の面前に一碗の飯がある。相手の面前にも一碗の飯がある。自分は食べて満腹になったが、相手は面前にある飯を食べない。それでどうして相手が満腹になるだろうか

修行の意味とは、上師と仏が説かれた方法を聞いた後に、必ず行わなければならないということだ。割り引いてはならない。うまくできるかどうかと心配してはならない。あなた達の最大の問題は、自分がうまくできるかどうかを心配していることだ?仏法では良いも悪いも定義されていない。うまく学仏しなければと考え、うまくいかないのではないかと恐れる。それはどういう心だろうか?執著分別心だ!上師が講じる方法に基づき、段階を追って、ひたすら行うなら、必ず感応する機会があるだろう。自分が変わったかどうかを他人に言う必要はない。自分が知っていればそれでいいのだ。だが、今あなた達はまだ知らない。なぜなら第一に、あなた達はなお懐疑を抱いているからだ。何を疑っているのか?自分はできるだろうか?と疑っている。これでは非常に辛いのではないか?どれだけ行わなければならないのか?この方法は正しいだろうか?このように山のように問題があり、山のように疑問がある。

直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに伝法くださる際に、この法は何に用いるのですか?などとリンチェンドルジェ・リンポチェは尋ねたことは一度もない。直貢チェツァン法王の伝法は極めてシンプルだ。数語だけで終わってしまう。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェを閉関させる。では、リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜこんなにもたくさん講じるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関する際には、直貢チェツァン法王は長くても一時間もお会いくださらず、すぐに閉関なさってしまう。うまくできるかどうかは自分次第だ。しかもリンチェンドルジェ・リンポチェは上師が説かれるあらゆる方法に対して疑問を抱かない。よってリンチェンドルジェ・リンポチェは修められたのだ。疑問は上師に対する懐疑とは限らず、自分はやり遂げられるだろうか?と疑うこともそうなのだ。このように疑っても良いだろうか?たくさんの疑惑を持ちながら、学仏したが半年やっても何も感じない。別の法会の方がいいのではないか?と考える。さらに半年学仏しても何も感じないなら、学仏を止め、別のものを学ぼうと考える。この日曜ある弟子/信衆は仏法を聞きに来なくとも良い。なぜならこの弟子は学費を払って潜在能力を開発しようというの。真の潜在能力は誰もが持っている。わざわざ学費を払って開発する必要などない。自分で修めれば良いのだ!

大手印の真の意義は円満の法門を表している。円満とは何だ?福と慧がともに備わっていることだ!我々は仏を『両足尊』とお呼び申し上げる。『二本足は非常に尊貴だ』と解釈する人もいる。つまり、我々は仏の足に頼るのだ。少し前ある有名な仏寺で、夏休み前の試験期間に合わせて、道場内で二つの大足印を行い、学生に大足印を捧げるようにさせた。これで試験の点数が良くなる、というのだ。これこそ迷信だ!我々が『両足尊』とお呼び申し上げるのは、仏の福報と智慧がともに非常に十分、非常に円満、非常に尊いという意味なのだ。仏の二本足を捧げて『両足尊』というのではない。このように、邪師はほんとうに恐ろしい!かつて魔王は釈迦牟尼仏に言った。仏が円寂なさった後、魔は子孫を仏の弟子として派遣し仏法を破壊した。経典にはこうある。末法時代に仏法を破壊するのはすべて沙門だ、と。沙門とは何だ?仏法を講法する人だ。現在のこの有様を見てみよ!出家相を現しながら、他人にこのようなことを教えるのだ。道場内に道教の符を描いているところさえある。いっそのこと道教を学べばいいではないか。他人を欺いてはならない!衆生に良い縁がないなら、非常に容易に邪師に従ってしまう。なぜ邪師に従ってしまうのか?それは過去世での学仏の過程で邪見があり、過去世で上師に対して懐疑を抱いていたため、この一世で邪師に従ってしまうのだ。

大手印は根、道、果の三つの部分に分かれている。根大手印で言うのは仏性だ。仏性とはすべての衆生内に潜む覚悟本性だ。この覚悟本性はもともとあるものなのだ。汚れも瑕もなく清浄なものだ。我々が『心経』を『経王』というのは、それが心について説くからだ。『真如』は仏性だという人もいる。この本質はすべての有情衆生がみな持っている。一匹のアリも、幽鬼も、天人も持っている。我々誰もが持っているのだ。これはどこから来たのか。それは広欽老和が在世の頃説かれた『無来無去』のようなものだ。『無来無去』とは『沒死沒生』ということではない。このように誤解している人が多いが、実はこれは『本性本来沒有来、本来沒有去』ということなのだ。経典の解釈によれば、本性は虚空に遍くある。現在目に見える地球、星は神識、意識が作り出したものだ。本性、本質は本来行き来するものではなく、いつでも虚空にあるものなのだ。

無始とは始まっていないことだと解釈する人もいる。経典では『無』という字をたくさん用いる。これを『無い』と解釈する人が多い。『無』とは極く極く簡単にいえば、縁起だ。縁起とはどんな状況を言うのか?それは性空だ。どんな事であろうと生まれ、消滅する。本質、自性は固定のものではなく、変化するものなのだ。無始以来、因縁が起きてこの事が生じる。始まっていないのではないのだ。始まっていないなら、必ず終わわなければならないのではないか?だが、必ず終わりはない。無始とは終わりがないものなのだ。

仏法では言う。生滅は一体で二つではない。生滅とは我々の分別法だ。開始がないと言うなら、終わりもない。だが、終わりが無いというなら、『相』の面では正しくない。我々はたくさんの物事の終わりを見ることができる。よって『無』というこの文字を『無い』と解釈することはできない。その意義を体感しなければならないのだ。なぜなら仏法で用いる文字は、学問を用いて解釈するのではないからだ。古い時代には『文字で仏法を解釈するなら、三世仏(過去、現在、未来仏)は不平を漏らすだろう』と言った。なぜなら仏が説かれた仏法は、その文字をどのように解釈するかを教えるのではないからだ。経典を理解できないのは、言葉が深奧だからではなく、古文だからでもない。仏が説かれた仏法は、どうしようもない状況で言葉を用いて説明したもので、文字の含意が極めて深く広いからだ。その深さ、広さをどうすれば体感できるのか?それこそ上師に従い、如実修行するのだ。『心経』でいう一切の境界は、心の境界を説く。我々と諸仏菩薩とは本来一体なのだと教えているということだ。我々と諸仏菩薩との違いはどこなのか?我々は今でも迷っている。諸仏菩薩は覚悟されている。諸仏菩薩は、それら不要なものをすべて捨て去ってしまい、本来の面目(姿)を取り戻されたのだ。

我々は今でも面倒を抱えている。なぜなら、なお山のようなゴミを心の中に抱えているからだ。そんな状態で、どうして自分の真の面目を見つけられるだろうか?チベット仏教では五方仏を修める。五方仏とは五智を表す。貪、嗔、痴、慢、疑が転じた智慧だ。その中に『大円鏡智』がある。『大円鏡智』は我々に教えてくれる。我々の心は鏡のようだ。心は本来反射の作用を持つ。鏡の前に行くと何かが映る。離れてもそれはあるだろうか?心とは本来この鏡のようなのだ。だが、我々は離れてもあると考える。それは執著しているからだ。あなたがこの鏡と同じなら、この現象を反射しているに過ぎない。ここでは反射するが、向こうでは反射しない。そう、ないのだ。そのため、『金剛経』では、すべての諸仏菩薩は四相を破るという。なぜなら諸仏菩薩は必ず『大円鏡智』を証しなければならないからだ。もし『大円鏡智』を証できないなら、弘法の際に執著、分別が生まれてしまう。

今日の講話は非常に深い。たくさんの人がしばしばリンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねる。『このように考えるのは因果があるのでしょうか?このようにして正しいでしょうか?』と。実は正しいも過ちも意識の作用なのだ。正しいと思うのは、自分に有利だから正しいと思うので、過ちは罰を恐れ、自分に不利なのは過ちなのだ。もし仏の境界から言えば、これも因縁だ。正しい事をする、過ちを犯す。これも因縁法であって、仏法とは無関係だ。もし一切の事柄をすべて正と誤に分けられると考えるなら、いわゆる有為法に陥ってしまう。

学仏には重要な二点がある。仏が説かれた仏法にもこの二点がある。因縁法と因果法だ。因果を深く信じれば、一切は空性を顕現し、因果不空となる。なぜ因果不空なのか?なぜなら果が成熟すれば、それはすぐに因に変わり、因が始まれば、それはまたすぐに果を生じるからだ。例えば、今日リンチェンドルジェ・リンポチェは学仏している。学仏というこの因の果は成仏だ。成仏した後はリンチェンドルジェ・リンポチェの行う事はなくなってしまうだろうか?そうはならない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは成仏後もやはり度衆を続けるので、新しい因がまた始まるからだ。度衆を始めれば、また新しい果が出現する。仏は常に、因果を深く信じるよう強調なさる。一言一行一動すべてが反射作用の出現なのだ。なぜ仏は純善を為すよう諌められるのか?それは純善を為せば、反射の結果は善なので、少なくとも三悪道に堕ちないように守ることができるからだ。

上師、仏菩薩に対して恭敬であるよう、なぜあなた達を諌めるのか?上師、仏菩薩にとって恭敬は空だ。不要なのだ。だが、あなた達にこのように求めるのは、あなた達の心が七情六欲、累世の習慣にコントロールされてしまっているからだ。自我のコントロールは非常に困難だと感じることがしばしばあるだろう。問題はどこなのか?

経典では『認賊作父(賊を父と間違える)』という。眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの感覚、六根が自分自身の主だと思っているだろう。実は、この六根は外部の境界に触れた後、反射を生じ、いわゆる神経の作用を生じているだけなのだ。だが、これこそ自分の真の感覚だと思っている。真の感覚だと思ったなら、このことに執著し、捨て去ることができなくなる。賊を父親だと思い、これに従い歩んでしまう。こうして業を為し、絶えず悪業に落ち、善業の輪廻に落ちてしまうのだ。仏は、この六つの感覚は仮のものだとお教えくださる。存在していないのではない。『相』から言えば、それは存在している。目で見ることも、耳で聞くこともできる。存在していないと言うことはできない。だが、それは仮のもので、変化するもので、一定でないものなのだ。

我々が目で物を見る際にも、受け取る信号は一瞬たりとも同じではない。では、一つ目に受け取った信号は一定なのか?それとも最後に受け取った信号こそが一定なのか?そんなことはない。変化しているのだ。実際に耳で聞くもの、肌で感じるもの、絶えず浮かぶ念頭を含め、すべて変化している。つまり、仏の説かれるところは、この六根『眼、耳、鼻、舌、身、意』が触れるすべては変動しており、注意しなければ、我々の心、真の本性はこれに連動されてしまう、ということだ。学仏では、今日はこの六根を用いて学仏しているか、それとも真心で学仏しているかをはっきりと認識する必要がある。あなた達のおかしな癖は、念咒の際にゆらゆら揺れたり、何かが見えたと言い出したり、何かが聞こえたと言い出したりするからだ。これらはすべて真心を用いず、意識を用いて学仏しているからなのだ。

今日のリンチェンドルジェ・リンポチェの開示は、あなた達にとってはかなり難しいだろう。なぜなら我々は生生世世にこの意識を用いて日々を過ごすことに慣れているからだ。突然真心を用いなければならないと言われても、なかなか馴染めるものではない。そのため、大手印は、我々が真心を用いて事を為しているのか、それとも意識を用いているのかを判断できる能力をもたせてくれるのだ。では、学習、訓練を経なければ成し遂げられないのではないか?我々にはこの条件がないので成し遂げられない、と言うのではない。累世の習性、習慣、生生世世に携えてきた習慣が、うっかり我々を意識の中に陥らせるのだ。唯識学とはこれを言う。だが、唯識で言うのはあまりにも繊細で煩雑で、現代人が学ぶには適していない。なぜなら唯識学、唯識論の学習は実修ではないからだ。

仏法には非常に重要な『論』がたくさんある。これらは理論の基礎なので、理解できなければ、学習を続けることはできない。だが、我々は自分のライフスタイルを理解しなければならない。我々は在家なのだ。すべての論を研究する時間はない。よって、実修は返って我々にとって有用なのだ。四大教派の中で、特に直貢噶舉は実修にこだわる。なぜならどれだけ理論を理解し、どれだけ立派に講じても、実修がなく証悟がないなら、衆生に利益する能力はないからだ。何を利益というのか?仏法を講じ、分かれば利益を得られるというのではない。これはただ少しの常識を得たというに過ぎない。どうすれば利益が得られるのか?自分の過ちがどこなのかを深く理解し、深いところから自分を改め、この一生で生死を解脱すると自分に言い聞かせなければ、真に利益を得ることはできない。もし今日仏法を学問と見做し、研究、討論するなら、それは実修ではない。よって、直貢噶舉では実修者の果位は、学問に優れた人の果位より高いのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは実修派で理論派ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が体得した境界は優れているとはとても言えないが、道を誤ってはいない。なぜ直貢チェツァン法王は台湾で万人大法会を開催なさるのか。リンチェンドルジェ・リンポチェの席はローチェン・リンポチェ(直貢噶舉三大リンポチェの一人)の隣で、さらに隣はあるケンポスだ。この位置は直貢チェツァン法王がご指示になったもので、それはリンチェンドルジェ・リンポチェが実修で衆生に利益するからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは勉強を、仏学を教えているのではない。成仏の方法を教えているのだ。そのため、非常に厳しいのだ。冗談など言ったりはしない。

学仏など簡単だと考え、どこかの寺で座禅し、寺の出家衆に食事して行きなさいと言われ、今日の供え飯はとても美味しい等と言っているなら、これは学仏ではない。友達付き合いだ。友達付き合いしたいなら、仏門に近づいてはならない。出家人の清浄な生活を乱してはならない。だが、現在台湾人はこのようなやり方を好むので、台湾に来る弘法人も多くがこのようになってしまった。『ここへ来なくとも、他にも道場はたくさんある。行くところなどいくらでもある。あちらはとても慈悲深い。リンチェンドルジェ・リンポチェだけが無慈悲だ』などという誤った観念を持っている人が多い。もしリンチェンドルジェ・リンポチェが少しの慈悲心も修められていないのに、法座上にいるなら、護法がリンチェンドルジェ・リンポチェを退かすだろう。法王の法座に護法があるように、上師の法座にも護法がある。いい加減にその座に着くことはできないのだ。いい加減であれば、軽ければ病にかかり、重ければ死に至るだろう。

今日こんなにもたくさん説くのは、あなた達を脅しているのではなく、誰でも学仏の条件を備え、開悟の資格を有し、誰でも成し遂げられるとあなた達に理解させるためなのだ。なぜあなた達はできないのか?一つには懈怠、二つには自分は頭がいいと思い上がっているためだ。これは最大の問題だ。三つには『自分にはまだ時間がある』と思っている。『自分にはまだ時間がある』と思っているということは、無常を信じていないということだ。仏は人生は無常だとお教えくださる。それでもなおこんなにも懈怠なら、それはあなたが人生の無常を信じていないということだ。学仏は難しいだろうか?大変だろうか?現在あなた達に伝法している方法から言えば、少しも大変ではない。あなた達はこれ以上どうしたいのだ?日曜日に叱責され、罰として立たされる以外に、これ以上どうしたいのだ?以前リンチェンドルジェ・リンポチェが大修行者にお目にかかった時には、でこぼこ道を車で行き、とても大変だった。初めて直貢梯寺を訪問した時には、道さえなかった。つまり、あなた達の福報の方が良いのだ。いわゆる『惜福』とはこの種の福報を無駄にしないということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが守ってくれるなどと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェも休息するのだ。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェも護法もちょうど休息していれば、あなた達を見ることはできない。自分自身で解決するしかないのだ。法照の開光に来ないあの者達は、敬う心がないので退出したのだ。何も言うことなどない。

あなた達には現在はまだ見性がない。自分の本来の面目がどうなのか、まだはっきりと分かってはいない。大丈夫だ。自分にこれがある、と分かっていさえすれば、自分にこれがあるとはっきりと受け入れていさえすれば、いつか必ず、はっきりと見える日が来る。全く分からないなどと言ってはならない。ある時、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に従い、香港のある顕教仏寺へ赴いた。そこでは何人かの男性出家衆が出て来て、直貢チェツァン法王に『真如はあるのでしょうか?』と尋ねた。彼らは出家人なのに、真如本性があることを信じていないのだ。

若い出家人の中には、仏が説かれた真如本性が存在しないと考える者がいる。彼らは学問研究しているからだ。学問研究している者は、自分が理解できない、目に見えない、分からないものを、必ずひっくり返そうとする。だが、仏は講じられた。真如本性とは仏が探し出して来たものではなく、仏がくれたものでもなく、突然生まれたものでもなく、本来備わっているものなのだ。なぜ分からないのか?なぜなら我々にはたくさんの無明、たくさんの業力があり、この本性を覆い隠してしまっているからだ。本性とは本来太陽のように明るいものだ。だが、黒雲に覆い隠されて、その光が見えないのだ。黒雲とは累世の習性、累世の業力、累世の貪、嗔、痴、慢、疑だ。どうすればこれらを消してしまえるのか?それは、仏法の薰陶によるのだ。黒雲をゆっくりと減らさなければ、本性が顕現することはない。

リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来て、リンチェンドルジェ・リンポチェに智慧を授けて欲しいと求める者がいる。智慧とは他人に与えられるものではない。誰もが智慧、仏性を備えているのだ。仏は仏法は平等だと説かれた。平等とは業力によらず、富貴貧賎によらず、具備する同様の本質によるのだ。本性とは誰かに与えられるものではなく、探し出せるものでもない。完全に仏法の薰陶を通して、如実に学習し、実修することでしか験証できないものなのだ。例えば『縁起性空』は、どんなに講じようと、あなた達が体得することはできない。なぜならまだこの段階に達していないからだ。ある時リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関時に、立ち上がって歩み出した際イスを蹴ってしまった。その瞬間、縁起性空の真の意義を体得した。この体得は言語、文字、言葉で形容、解釈できるものではない。経験がある上師だけが分かるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは出関後、この体得を直貢チェツァン法王にお知らせ申し上げたところ、直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェが証まで至ったと仰せくださった。なぜなら直貢チェツァン法王はすでに証まで至っておられるので、リンチェンドルジェ・リンポチェが言うのが正しいかどうかがお分かりになるからだ。

何事かを体得するには、実際にはどれだけの時間がかかるのか?指をパチっと弾く間、ほんの一秒で体得するものなのだ。だが、体得するまでには、おそらくは生生世世に渡り、たくさん学び、努力しなければならない。禅宗の公案でも、大師の開悟は突然訪れるものだ。事前にお膳立てもなく、予行演習もなく、特別に考えることもない。黒雲が太陽を覆い隠している時、突然風が吹き雲を吹き散らし、光が射すように。ここは特に説明しよう。誰でも成仏する資格、条件を有している。根大手印の意味は、我々に仏性がないなら、仏法を学ぶ資格、条件もないということだ。一本の大樹は学仏できるだろうか?一輪の花は成仏できるだろうか?できない。なぜなら彼らにはこの本質がないからだ。我々は有情衆と言う。それは有情衆だけにこの本質があるからだ。禅師の説法に『頑石点頭(石が頷いた)』という。石にも仏性があるのだ。だがこれはもう一つの解釈なので、これを説明し続ければ、あなた達は眩暈を起こしてしまうだろう。

誰でも、どんな動物でも、あらゆる幽鬼、すべての衆生は、六道でいつか成仏できる。なぜ我々は衆生の肉を食べてはならないのか?なぜ他人を罵り、殴ってはならないのか?他人を恨んではならないのか?なぜなら彼らは未来仏だからだ。経典には『一闡提』という特別な名詞がある。学仏の根器がない人、業が非常に重い人だ。だが、仏にとっては、この種の人でもやはり仏性があるのだ。この一世では仏法に触れたことが全くないかもしれず、次の一世でも仏法に触れないかもしれないが、それはその人が成仏できないということではない。なぜなら、その人も本質的にはこの条件を備えているからだ。なぜ『三十七頌』は我々に謙虚であれと教えるのか?それは、如何なる衆生であれすべて未来仏だからだ。よって我々はどんな人であっても軽視することはできないのだ。なぜ、上師に対して不恭敬であってはならないと教えるのか?それは、上師は未来仏だからだ。

仏が説かれた仏法は、論理学よりさらに論理的だ。あなたに聞かせるもの見せるものを完全に推論することができる。適当なことを言うのではないのだ。仏はご自身で示現してくださる。経典には『仏はある一世では鹿であり、熊であり、猿であり、孔雀であった。ある一世は地獄におられ、また成仏した』と記載されている。ミラレパ尊者も示現してくださる。その殺人の罪は非常に重く地獄に落ちたが、即身成仏なさった。その道理はなんだろうか?ミラレパ尊者は大懺悔心、大菩提心を発せられ、因果を深く信じられたのだ。ミラレパ尊者は『因果を深く信じることができるなら、あなたも同じ修行人だ』と仰せになった。あなた達には今は修行人にまでなる資格はない。なぜなら、まだ因果を信じず、仏が自分を罰する道具だと思い、因果は嘘だ、存在しないと考えているからだ。あなた達はそのため、懈怠し、いつでも何かあるとリンチェンドルジェ・リンポチェに許しを請いにやって来る。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば言う。リンチェンドルジェ・リンポチェには関係ない。なぜなら教えられることはすべて教えたからだ。行わない、しっかり行わないのは、あなたであり、あなたの果なのだ。

もう一つの角度から言えば、衆生は十分無明だ。無明とは癇癪を起こすことではない。真の無明は真理を受け入れず、輪廻を解脱させてくれる真の道理を受け入れないことだ。別の言い方では、精神的に惑わされているということだ。覚悟がなく、惑っており、法の教導を受け入れず、思い上がり、自分はよく分かっている、理解していると思っているなら、経典的にはこれはすべて無明だ。今のところ人類は非常に進歩しており、科学は非常に発達しているようだが、これは開悟ではない。事実、もしあなたが真の科学者なら、我々がこれまで知らなかったことを探し出したに過ぎない。科学者ではない。発明家も発明家ではない。ただ、人生経験が絶えず変化しているだけだ。例えば、現代は自動車に乗るが、かつては馬車だった。何にしろ車だ!その機能は変わったか?変わっていない。物理学では現在、最も細い分子を見つけているが、実は経典にはとっくにこのような記載があるのだ。

科学者、発明家は、我々が生生世世に暮らしてきた累積において、いくらか便利な方法を見つけて来たに過ぎない。だが便利になっただろうか?なっていない。コンピューターが発達し、非常に便利になったように感じるが、停電が起きればそれでおしまいだ。銀行にある現金も引き出すことはできない。コンピューターがなかった頃の方が便利なくらいだ。サインするだけで、お金を引き出すことができた。一体どちらが便利なのだ?人がどんどん怠惰になっているだけではないか。経典では『末法時の人の学仏は困難だ』と言う。なぜならどんどん怠惰になり、どんどん何もしたくなくなり、動かなくなるからだ。そのため、コンピューターと言うものが出現したのだ。今では多くの若い人が悪い癖に染まっている。コンピュータから学ぶのだ。とんでもなく便利だ。よって、一切の有情衆生はすべて覚悟の本質を備えているとは言っても、開発されておらず、開悟の方法さえまったく知らない。これこそ衆生無明だ。よって仏法の定義から言えば、どれだけの教育を受けていようと、二つの博士号を持っていようと、何かの専門家であろうと、覚悟できないなら、やはり無明なのだ。

いわゆる学問とは何だろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェの定義では、学問とはより便利にお金を儲けられる技能を学ぶことだ。だが、これは我々の人生の真の含意に助けとなるだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは、人生に対して真の助けにはならないと考える。煩悩が現前した時、あらゆる書物を読み漁っても、いかにして煩悩を抑え込むか、いかにして煩悩を菩提の方法に転じるかは教えてくれない。そのため、絶えず無明が出現するのだ。現在たくさんの人が学仏しているが、その結果無明が増加している。なぜなら通霊、神通を学ぼうとするので、無明はどんどん多くなるからだ。衆生は確かに覚悟の本性を備えているが、この本性は無明に遮られてしまっている。そうして輪廻を起こすのだ。なぜ、因果を受け入れよ、信じよ、とひたすらあなた達を諌めるのか?なぜなら、因果を信じなければ、悪を止め、行善することがないからだ。それに続き、いかにして煩悩を抑え込むかを理解し、続いて実修を理解し、続いて己の無明の恐ろしさを理解する。こうでなければ、造業を断ち、輪廻を断つことはできない。

もし、仏法を聞くのが、福報のため、良い人になるためだけなら、あまりにも簡単だ。衆生はすべて仏性を備えているが、覚悟の本質が発掘されていないので、惑い、愚かで無知で、輪廻の苦を受けるのだ。今のところ、あなた達はまだ死に直面していないため、輪廻の真の苦がどのようなものか体得することはできないのかもしれない。だが、仏の定義からすれば、輪廻は死を待つ必要はないのだ。生れ落ちたその日から、我々は輪廻を始めている。身体が生老病死へ向かう変化も一種の輪廻だ。喜怒哀楽も一種の輪廻だ。物事への執著、いつまでも気にやむ、諦めきれないのも一種の輪廻だ。考えて見よ。我々が自らこの種の輪廻を体験するなら、苦しいだろうか?そんなに苦しくないから別にいい、と思うなら、今少しの悪業を為しただけで地獄に落ちるだろう。試してみるがよい。『地獄なんか見なかったよ!』という人が必ずいるだろう。当然見なかっただろう。経典にははっきり記載されている。二種類の人だけが地獄へ行く。一つは悪業を為して地獄に堕ちる者。もう一つは菩薩だ。では、あなた達は何だ?地獄に堕ちる時がまだ至っていないのだから、当然地獄を見ることはない。そして、あなた達は菩薩でもないので、行く資格はないのだ。よって、民間信仰で言う『観落陰』とは嘘なのだ!

我々はいつまでも惑っており、輪廻の苦を導く一切を行っていながら、気づいていない。我々は日常生活で、自分が仏性の本質を備えていることを感じられるのだろうか?実は感じられる。なぜあなたは分からないのか?第一に、上師が教えないためで、第二に、あなたが気をつけていないからだ。孟子は、人の本性は善であると言い、荀子は、人の本性は悪であると言った。一体どちらが正しいのか?両方とも間違いであり、また間違いでない。彼らは人の道徳標準により善と悪を見ている。この道徳標準はそれぞれの民族で異なる。日本人は切腹を非常に高尚なものだと考えているが、我々は良くないと思う。なぜなら道徳標準が違うからだ。モンゴル人は兄が死ねば、弟はその妻を得ることができる。我々は乱倫だと思うが、彼らにとっては道徳的に問題がないのだ。これがモンゴルの文化だ。チベットでは今でも、比較的貧しい地区では、一人の女性が二人の男性に仕えているが、彼らにとっては正しいのだ。彼らは貧しいので、男一人では一人の女性を養えないのだ。つまり、道徳倫理から善と悪を見るという、この標準は不正確だ。地方によって文化は異なるが、我々は日常生活の中から、自分が仏の本性を備えるかどうかをゆっくりと体得することができる。

最も簡単な例は、我々が今日ある人を非常に恨んでいるとしよう。例えば、子供がいても、あなたはその子をとても嫌っているとしよう。その子がたくさんの悪事を為したが、突然あなたは『この子は自分の息子だ。やはり良くしてやらなければ』と思う。夫に対しても妻に対してもこのようなのだ。我々は自分の父母、親族や友人に対して、非常に自然に一種の親愛の情を抱く。それはわざわざ行う必要はない。女性に、男性に片思いするのも同じだ。その思いは作り出したものではなく、自然に現れて来たものだ。我々の父母に対する愛は、前世の仇を返しに来たのでないなら、非常に自然に現れる。子女に対する我々の愛も同じで、これは非常に自然なものだ。学ぶ必要はない。これこそ我々の仏性の本質だ。厳密に言えば、我々はそれを仏性と呼ばなくとも良い。それは我々の心であり、我々の自然の心なのだ。その本質はいかなる衆生をも傷つけないということだ。よって経典では言う。ある極悪人がいる。あなたは許さず、赦さないが、これは因果なのだと知る。この者は自分の果報を受けるだろう。よって『なんて奴だ。早く死ねば良い』などとあなたが評価する必要はないのだ。因果的には、そう言えば、この者とすぐにつながってしまう。この悪人が耳にしなくとも、いつか道で出会うだろう。なぜならあなたにはこの因果あるので、二人は絕対にうまくいかないだろう。

政府を批判してはならないと、なぜ皆を諌めるのか?先ずは因果法則を理解しなければならない。今日この政府があるのは共業、共同の業力なのだ。我々に福報があるなら良い政府があり、福報がないため悪い政府なのだ。政府を罵るのは自分を罵っているのと同じではないか?上司を批判するのも同様の道理だ。福報がよければ、あなたを可愛がってくれ、関心を払ってくれる上司に自然に巡り会えるはずなのだ。あなたの福報が悪いので、それがないだけなのだ。それなら、上司を罵るのは、自分を罵っているのと同じではないか!つまり、この種の仏性本質を我々は持っている。ただ、我々は気を配っておらず、大雑把で忘れてしまっているだけなのだ。どうすればこの種の仏性を完全に発展させることができるだろうか?このような愛或いは慈悲を広大恒久にできるだろうか?これは正しい修持によるのだ。よって、この大手印を開悟させられる根─仏性は、実る果実と同じで、種子と、最後に実る果実は見たところ違う、形が違う、色も違う、味も違う、関連がないようだが、果実は種子から出来るのだ。これは事実だ。

今日我々は仏性の種子を持っている。我々は成仏できる。これは事実なのだ。この種子が果実になるからではなく、途中に長い時間を経てこの事実に変わるからだ。今日学仏では何を学ぶのか?持咒を学ぶのではなく、大礼拝を学ぶのではなく、懺悔の仕方を学ぶのではなく、成仏の因縁を学ぶのだ。なぜなら種子があっても、結果するには因縁が必要だからだ。これこそ水遣りや施肥なのだ。世話をする必要があるのだ。何を学ぶのか?成仏の因縁を学ぶのだ!因縁が具足となると、果実が実る。なぜ、因縁はこんなにも重要なのか?水遣りしなければ、種子は芽を出し花を咲かせないだろう。我々はなぜ仏法を聞かなければならないのか?なぜ上師に従いしっかり学仏しなければならないのか?それは、この因縁が必要だからだ。因縁がなければ、種子は永遠に種子のままだ。この因縁の過程では、雨が降り台風が襲い、太陽が出る日も、日が差さない日もあろう。これはすべて因縁だ。つまりこれが学仏の過程における障礙だ。障礙も因縁法なのだ。なぜなら、この因があれば、必ずこの果があるからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、今日学仏したからといって、外で読経を学び、夫に回向したりしないよう、しばしば皆を諌める。そうすれば、夫がもっと自分を愛するようになるなどとは、誤った考えだ。今日夫があなたを愛さないのは、絕対にあなたに関係がある。夫が悪いのではない。今日子女が親不孝なのは、絕対にあなたに関係があるのだ。もし、読経を学び、持咒して彼らに回向し、それによって彼らが自分に良くするよう望むなら、それは因果を信じていない、因果に背いていると言うことではないか?仏でさえ、転業できないと仰せなのだ。あなたがどうして夫、子女の業を転じることができるのだ?どうすれば他人の業を転じることができるのか?それには先ず自分が転じ、自分が先に改めれば、彼らもあなたに従い自然に転じる。自分が改めない、転じないなら、どうして彼らを転じることができようか?

世間の種々の事柄は仏法の考え方で見れば全て空性であり、全て変幻であり、全て縁起性空のものなのだ。よって、今日この事にこだわっているなら、良いことであろうと悪いことであろうと、必ず未来生に影響を及ぼす。ひたすらある人を恨んでおり、この人は自分を傷つけたと考えているなら、この念頭は嗔念だ。火地獄へ堕ちるだろう。みな知っておろう。親族に対する情を断ち切れないなら、寒冰地獄へ行く。こう言えば『人生に愛は不要なのか?愛がないのでは人形ではないか?』と尋ねる人が必ずいる。仏法を誤解してはならない。例えば、先週リンチェンドルジェ・リンポチェが勉強は最も重要ではないと言ったところ、すぐに母親に、勉強は最も重要でない、と言った者がいた。これは断章取義だ。

仏法は、執著してはならないと教えるのであって、愛を持ってはならない、と教えるのではない。この人は自分のものだ、離れられない、放せない、と思ってはならない、というのだ。これを執著という。あなたの相手に対する愛は仏性の光が自然に現れるもので、わざわざ作り出すものではない。『私が何をしても、姑は良くないと言うのです。いつも私を憎み、私のせいにします』と言いに来る嫁がなぜたくさんいるのか?問題はどこから来るのか?姑が悪いのか?そうではない。嫁が悪いのだ。事を為すのに、本性を用いず、真心を用いていない。自分の意識を用いて行い、姑が自分に良くしてくれるよう望んでいる。この事を上手く行うことで賄賂にしようと思っているのだ。真心を用いていないなら、当然姑もわざとらしさ、嘘臭さを感じるだろう。

仏法で説く事を毎日の生活に用いる。そのため、我々は皆大手印の根を備えているのだ。現在我々が行う必要があるのは、この特質を開発することだ。そうして、この大手印の果を成就させることだ。すべての祖師は皆かつて我々と同じように平凡であられた。だが彼らは、精進の実修を経て成仏の本質を開発されたため、現在このように殊勝で不凡であられるのだ。現在我々にも同様に本性の存在を体得する機会がある。自分は仏性を備えていると確信が持てた時、開悟が可能だと決まるのだ。これこそ根の大手印だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、リンチェンドルジェ・リンポチェができることは、あなた達もできるとしばしば言う。あなた達ができないのは、仏菩薩と上師の教導に問題があるのではなく、あなた達の不信にあるのだ。歷代の成就者、祖師は皆もとは我々と同様凡夫だったのだ。だが、彼らと我々とが唯一違うところは、上師の教導を受け入れる、この事が非常に重要だと体得したことにある。彼らはこの方法を用いて修行すれば、自分は利也を得られ、他人に利益できると知っていたのだ。今日あなた達は直貢噶舉門下に皈依でき、大手印の仏法を聞く機会がある。それは、あなた達には自我の本質を発覚する機会があるということを示している。自分の本性の力量の開発はどのようにして為すのか?あなた自身によるのだ。仏菩薩から賜るのでも、リンチェンドルジェ・リンポチェが与えるのでもない。よって、心配したり、恐れたりしてはならない。この大手印は非常に深奧だろうか?修めるのは非常に難しいだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェにとっては難しくない。

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2016 年 03 月 04 日 更新