尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年4月12日

法会の開始に先立ち、一人の弟子が、上師を賛揚し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲深くも息子をお救いくださった経緯について語る機会を賜ったことを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げた。

「2013年6月初め、息子は原因不明の高熱に襲われ数日間入院した。退院予定の日、病棟付き医師が息子の身体にたくさんの白斑があるのに気づいた。繰り返し観察した後、出来るだけ速く小児神経科に検查に行くよう強く勧められた。医者は希少疾患—結節性硬化症を疑っていた。

結節性硬化症は患者の遺伝子が細胞の腫瘍化を抑制する機能を持たないために起こるもので、外観に影響を及ぼす赤い皮疹が顔面にびっしりと現れ、身体のさまざまな臓器に結節と呼ばれる良性腫瘍ができる。ただ、何歳頃にできるのか、何個できるのかは定かではない。これら腫瘍は臓器の機能をも損傷し、患者の精神と行為に影響を及ぼし、癲癇、認知障害、発達遅緩、異常行動などの症状が現れ、もっと深刻な症状となることもある。

息子はさまざまな検查を受け、8月に検査結果を聞くことになっていた。最初私は、結節性硬化症という病気について全く関心がなかった。息子がそんな病に侵されているとは全く思っていなかったからだ。テレビドラマやニュースで目にするような事態が自分の身の上に起きるとは考えてもみなかった。私は『無常』の道理を全く理解できていなかったのだ。ところが、7月中旬のある深夜、私は突然この病気について知りたいと思い立ち、インターネットで資料を探したが、コンピュータ上で数枚の写真を見てから、私は緊張し始めた。私は振り返って、息子の身体の上の白斑と背中の隆起した皮膚を何度も比べてみた。どう見てもネット上の写真と同じではないか?まさか本当にそうなのか?

続く数日、私はいついかなる時もインターネットで情報を検索したが、見つかるものはすべて、私を底なしの恐怖の深淵に引きずり込むようなものだった。日中は仕事中も泣き、歩いていても泣き、テレビを見ていても泣き、入浴中も深夜にも泣いていた。数日間、中国語の情報も英語の情報も見尽くし、息子はおそらくこの病気に間違いないと確信するようになっていた。そして8月、医者に『その通りです』と告げられ、それが確定した。

今考えると、私はその時初めて、普段から折に触れて上師を賛揚する重要性について初めて体得したと言える。私と江兄弟子は同僚で、すでに7年間一緒に仕事をしていたが、この7年間、江兄弟子が上師を賛揚するメールをしばしば受け取ってきた。だが無知な私は、それを大した事とは考えず、さらにはいっしょに食事している時には、からかうような口調で『菜食はつまらないでしょう?お肉を一切れあげましょうか?』と言うことさえあった。そして、弁当箱の中の紅焼肉(中華風豚の角煮)を食べながら、『学仏とはほんとうにつまらない。一生関わりたくない』とまで思っていた。この頃のことを思うと、私は懺悔せずにはいられない。そして、自分の幼稚さ、悪念を後悔している。もっと早くに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従い学仏する機会があったのに、私はそれを掴むことができなかったのだ。

けれども、江兄弟子はさまざまな機会をとらえて、絶えず尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを賛揚し、日本食品をしばしば振舞ってくださった。また私が出産した際には、同僚たちと一緒に日本食品を贈ってくれた。さらに重要な事は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの厳格な教導の下、江兄弟子は人間関係においても物事への対処の仕方においても、いつでも円融で端正で厳謹という、信頼に値する仏弟子のイメージを人に抱かせる方だということだ。そのため、泣くこと以外にどうしたらいいか分からなかった私は突然『江兄弟子はとてもすごいリンポチェに従っているんじゃなかった?この方はきっと端正なお方に違いない』と思い当たったのだ。そして、江兄弟子に、息子が結節性硬化症を患っている可能性について告げた時、江兄弟子は穏やかに『診断が確定したら、いっしょにリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに行きましょう。いいですか?』とおっしゃってくださった。

検査結果が出るまでまだ一週間ほどあった8月のある日、待つのは辛かったが、寶吉祥仏法中心のHPを開設くださったことを私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。深夜にみな寝静まり、一人眠れない時、私はHPを見た。内容については、やはり分からないことも多かったが、HP上で初めて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお写真を拝見してから、私は迷い無力感に襲われ淚を流すことはなくなった。HP中の行事日誌や度衆事跡を拝読する度に、お目に掛かりたいという気持ちはどんどん強くなり、まるで『この大修行者だけが息子を救うことができる』との声が聞こえて来るようだった。心はすでに安定していたので、医者に『結節性硬化症に間違いありません。しかも脳内にはすでに七、八個の結節があります』と告げられた時も私は非常に落ち着いて最後まで聞くことができた。だが、どうしたらいいかと医者に尋ねる気持ちは少しも起こらず、ただ尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェへの拝謁をすぐに申し込みたいとばかり考えていた。なぜなら私は、医者は、インターネットで見つけた情報と同じように、『家族遺伝か遺伝子の突然変異でしょう。しばらく様子をみましょう』としか言えず、なぜこの病を患ったかについて教えられるものではない、と分かっていたからだ。

私が夫と共に8月初め、初めて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかった際、ドアを入ってすぐ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが前方に荘厳に座っておられるのが遠くに見えた。その瞬間、眼には思わず淚が込み上げてきた。私達の番になった時、私は息子の病情をお伝えし、每日曜日の共修法会に参加させてくださるよう金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお願い申し上げた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐにはっきりと夫の考えをご指摘になった。上師は『あなたは何でも聞いてくる。それなら我もなんでも言おう!』と仰せになり、夫に『菜食しているか?あなたの妻はどちらかといえば簡単だ。だが、あなたは難しい!子供がこのようになってしまったのだ。肉には重金属の問題がある。それでも、子供に肉を食べさせなければ、栄養が足りなくなる、と今でも考えているのか?』とお尋ねになり、帰宅してしっかり考えるよう仰せになった。そうではあるが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり慈悲深くも息子を懐中に抱き、長い間加持をくださった。

私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはほんとうにすごいと賛歎申し上げたい。私達の問題がどこにあるかを、いとも簡単に見抜かれた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁に伺う前、夫は菜食に変えることを望んでおらず、夫が菜食の継続を望まないのではないかと私は非常に心配していた。なぜならそれまで、家では夫は毎食必ず肉料理を求めたからだ。だが、私がいくら口を酸っぱくして言っても、夫を説得することはできなかった。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い開示と教導、及び大威徳力に感謝申し上げたい。おかげで、私はそれ以上まったく気力を費やす必要もなく、菜食に改めることを夫は受け入れてくれたのだ。二週間後に再度尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁し、すでに菜食していることをご報告申し上げ、每日曜日の共修法会への参加をお願い申し上げた。今回は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも直ちにお許しくださった。

大学時代、実家は土地に関する裁判に巻き込まれ経済的に困窮した。父は弁護士だったが、それでもどうすることもできず、その裁判は十数年もかかり、父は心労から病気になった。霊験あらたかなところがあると聞くと、父母はすぐに私を連れて行った。お金がないのに、なんとかして数十万元借りてきて、さまざまな名目で料金を徴収する法師や道士に渡していた。彼らはみな因果を口にした。そして、過去世の冤親債主がやって来ているのだ、と言い、『解因果』してやろう、冤親債主と調整すればいいのだと言う。偶然に良いことがあったりすれば、父母は効果があったと思い、より多くの金を注ぎ込んだ。だが、家では争いが絶えず、裁判では毎回問題が出現し、私は心が落ち着く暇がなかった。そして、私は困惑した。誰でもこんなにたくさんの冤親債主がいるものなのか?!それなら『解因果』はいったいいつまで続けなければならないのか?『解因果』に毎回こんなにもたくさんのお金がかかるなら、貧しい人はどうするのか?『解因果』できないし、お金も払えないではないか?それなら、私達は救いようがないのではないか?こうして、私はこの種の事を極度に嫌うようになったが、それでもやはり年長者達に従いあちらこちらへ拝みに行き、あちらこちらへ祈願に行った。心中では『今回はいくら払わなければならないのか?』と軽蔑しながら考えざるを得なかった。

日曜日の共修法会に参加する度に、この生で真に慈悲深い大修行者に従えることを私はいつも衷心から感謝した。各種名目の費用の支払いなど全く心配せずに、菜食し、専らお言い付けを守り、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従いしっかり学仏するだけで良いのだ。これは過去に私が関わってきた法師、道士、占い師とは全く違っていた。このような殊勝で得難い機会をしっかり掴み、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従い、数年前のように貴重な機会を逃すことがないようにしなければならない、と私は自分自身に言い聞かせた。そのため、私は夫の同意の下、二人の子供と共に2013年11月皈依をお願い申し上げた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも『申し込んでくるように!』と仰せくださった。

実は皈依の後、私はそれでも快適な日々を送れることを願っていた。息子の脳にはたくさんの結節があったが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と救護の下、智力も行為も正常で、息子は一生心配しなければならない希少疾患を患っていることを忘れてしまっていることさえあった。そのため、私はまた怠惰になり始め、日曜日の法会中に居眠りし、二人の子供の世話で疲れていると言う理由で、每日の早晚課を行わなかった。表面的には皈依していたが、心の持ちようは加護を求める信衆に過ぎず、精進など全くする気もなく、皈依をお願いした時のしっかり学仏しようという初志をすっかり忘れてしまっていた。

2014年末、脳内の結節のため、息子には癲癇の発作が起こり始めた。2015年1月、脳内の異常な放電が医者に確認された後、私は1月31日尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェへの拝謁を申し込んだ。夫が息子の脳内腫瘍と癲癇の状況を報告申し上げると、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、脳血管瘤を患う江兄弟子に、私達と話すよう言い、下がるようご指示になった。帰宅の道すがら江兄弟子にお会いするまでは、私は非常に辛く『上師はどうして子供に加持をくださらなかったのか?これでは子供は救われないではないか?息子の一生はもうだめだということなのだろうか?』と思っていた。けれども、江兄弟子が『信じることと、堅く信じることは違うのです』とおっしゃった一言が私の目を覚ましてくれた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは何でもご存知だ。私の心が揺れ動いていたことを、とっくにお見通しだったのだ。

今回尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかる二日前、私はすでに、たくさんの兄弟子とその子供達が癲癇を患っていることを聞いてはいたが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかって後、西洋薬の服用を止めた。抗癲癇薬は副作用が非常に大きく、一度でも飲めば、勝手に服用を止めることができなくなる他、さらに重要なのは、これら兄弟子は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと仏法だけが自分たちを救ってくれると堅く信じていたことだ。だが、子供が癲癇発作で苦しんでいる時、母親として、私は我慢できず、薬物が癲癇を抑えてくれることを願って、一度だけ子供に癲癇薬を飲ませてしまった。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの普段の教導をすべて捨て去ってしまい、根本的には十分な信心がなかったと確かに言えるのではないかと非常なる慙愧に堪えないし、またそれを懺悔したい。けれども、江兄弟子のお話を聞いた後は、子供に西洋薬を一度も飲ませていない。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従っていさえすれば良いのだと考え、よく言いつけに従う弟子でいれば良いのだと思っている。漢方クリニックを開設され、最も良い薬材を用いて、衆生に最も安心で最も優れたケアを施してくださることを私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。

息子の癲癇は一月に診断が確定した後は、発作の頻度がどんどん上がり、少ない日でも一日4、5回、通常は每日6、7回にもなった。息子は発作の度に疲れ果て、また一度後頭部を床に強くぶつけたことがあったため、兄弟子が、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁申し上げるよう勧めてくださった。私は申し込んだが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが先ごろ屏東へ行かれ樹上の衆生を修法超度なさったことで体力を消耗され健康を害されていること、自分が普段上師の教導に従い修行していないことを考え、加持をお願いすることで、上師の福報と時間を無駄にしたくないと思った。けれども実は心の深いところでは加持をお願い申し上げたいと願っていながら、どう申し上げたらいいのか分からない状態だった。

4月4日拝謁の際、私は大きな不安を抱えながら息子の脳内の腫瘍と最近頻繁に癲癇の発作を起こすことを報告申し上げ、『以上、息子の情況を上師にご報告申し上げます』となんとか最後の一言を絞り出すことができた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲なる眼差しで私を見つめ『報告して、それから?』と仰せになったが、私は依然として加持を求める旨を言い出せなかった。けれど、もぞもぞと『上師の開示と指導をお願い申し上げます』との一言をようやく口にできた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『よかろう!開示と指導を授けよう』と仰せになったので、私は勇気を振り絞って『上師、どうか息子に加持をお願い申し上げます』と申し上げると、慈悲深い上師は笑って『加持か。それは簡単だ!』と仰せになった。そして息子の頭部に長い時間加持をくださり、息子と娘にそれぞれ二個のチョコレートをくださった。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。このように不真面目で怠惰な私であるが、上師はやはり、母としての私と子供が苦しむのをお見捨てにならないのだ。

加持後、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは夫に対して『たくさんの甲殻類が見える。あなたの祖先からのだ。あなたは言うだろう。なぜ自分に来ないで息子に来るのかと。それは息子に害を及ぼした方が、あなたを苦しめられ、しかも一度にあなたと息子の二人を苦しめられるからだ。だが、あなたは因果を信じない。学仏は妻が勝手にやっている事だと考えている。これでは、上師の加持も子供の発病を遅らせられるだけで、治すことはできない』と仰せになった。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘆息なさり、すでに涙で満面を濡らしていた私に向かって『あなたが泣いても役には立たない。これは因果なのだ!』と仰せになり、帰宅後しっかり考え話し合うよう、仰せになった。

帰宅後、不可思議な事が起きた。息子の癲癇はこのところ毎日少なくとも六回は起きていたが、4月4日に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を頂戴した後は、その日発作が起きなかったばかりか、4月5日の発作も二回だけ、4月6日も一回だけで、今では発作の頻度が半分以下になってしまった。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲と不可思議な加持力に感謝申し上げたい。私も夫も、息子の癲癇が改善したのは、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのおかげだと分かっていた。また私は、自分の心がどんなに利己的であるか、自分と子供の幸せと苦痛だけを思い、息子の発作の回数を数えるばかりで、自分達に害され、しかも今も苦しんでいる衆生を思いやることをせず、依然として怠惰であったことを深く反省したい。

同僚も友人も『子供が希少疾患を患っても、少しも暗い表情を見せず、あなたはとても強い』と言ってくれるので、私は彼らに『これはすべて実修実証、具徳の金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しているおかげなのよ。この生で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに巡り逢う因縁がなかったら、家族全体がこんなに早く正常で平穩な生活を取り戻せることなどなかったでしょう。それどころか、終日あれこれ憂い、争い、不安に苛まれ、あちらこちらに参拝祈願し、または八方手を尽くして最高の医者を探し、財産を使い尽くして息子に治療を受けさせようとし、それによって家庭が崩壊していたかもしれないわ』と言っている。

私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの因果を深く信じよという殊勝なる教導に感謝申し上げたい。かつて私は、社長の信任が厚いのをいい事に同僚をバカにし、会社の時間を個人的に使い、或いは滅茶苦茶に事を行い取り返しのつかない事態を引き起こしたりしていたが、今では決してそんなことはしない。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが『姑を自分の母と思って孝行を尽くせ』と繰り返し開示くださるので、友人が姑に対する不満を言い合うような集まりにも参加していないし、悪言が口をつき、夫や姑と喧嘩になりそうな時には、急いで尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教導を思い出すようにしている。これらすべては尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが普段から厳しく教誨くださるからで、私は己を改め、止悪行善の機会を賜っているのだ。

どんな言葉を用いようとも、心中の感謝と感動を言い表すことはできない。私はこの場におられる兄弟子、大徳の皆様と共に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにしっかり付き従い、上師を信じ、上師の教えを守り、上師を賛揚する一つ一つの機会を逃さず、学仏に努力して行きたいと願う。こうすれば学仏は難しいなどと思うことはなくなるだろう。最後に私は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御法体が安康で、法輪が常転し、仏法事業が世に常住するよう諸仏菩薩が護持し続けてくださることを祈願したい」と述べた。

続いて、二人目の弟子が、土曜日に多くの弟子が火供法会への参加を求めて来たことに鑑み、火供法会の殊勝について語った。

「火供は金剛乗において相当に殊勝な法門である。かつて私は他の教派で学んだことがあるが、大功徳主が求めない限り、簡単に火供を行うことがないばかりか、全く行わないことさえあった。もし火供を簡単に求め、供養があるだのないだの言い、修行するだのしないだの言い、自分を改めるだの改めないだの言うなら、我々を火供法会に参加させてくださるよう尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにお願いすることができようか?

私は私が知っている火供について皆に語るが、もし誤りがあったならご指導願いたい。火供とは密乗において福慧資糧を非常に迅速に累積できる法門で、火供を円満とするのはとてつもなく難しく、主法者が最も重要だ。主法者には上品、中品、下品があるとかつて教えられたが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは疑いもなく上品の主法者であられる。上品の条件は、顕密両法を修め、顕密供に円融であることで、本尊の成就を得ているのが最も重要だ。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは何度も閉関しておられ、本尊の成就を得ておられることをみなも知っているだろう。この他、主法者は大菩提心と四無量の慈悲心を備えていなければならない。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの能力と慈悲心は疑うべくもないことで、22万本の樹上の衆生の命を掛けて超度くださり、さらには付近の衆生までをも感召し上師の超度を受けさせることとなった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはその悲心により、健康と取り換えることとなってしまったのだ。

特に言いたいのは、火供の二つ目の条件だ。それは清浄な地が必要だということだ。そのような地を見つけるのは非常に難しい。京都の寶吉祥仏法中心は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが完全に自立自強で設立なさったものだ。台北寶吉祥仏法中心の会員弟子、大徳は一銭も出していない。京都道場の設立までにはさまざまな困難があったが、合法的な宗教道場として登録することができた。京都は古都なので、宗教に対する認可と道場の設立については特に厳しいのだ。土地を探し、買い、道場を建設するまで、弟子達はいっさい何もしていない。ただ、出来上がったものを使わせていただいているだけだ。京都というこの土地は非常に清浄で、かつて戦爭が起きていない。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェがここで火供を修めようと思われれば火供を修められるので、我々が求め、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェがそれに応じるのではないのだ。特に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはとてつもないご苦労の末にこの道場を設立なさったのだ。火供を成就するには、地神母の同意も必要であるため、心が清浄でないなら、それを得ることもできない。

三つ目は供養品についてだ。火供の供養品の準備は非常に難しい。共と不共の供養品があり、ここには名相上の内容があるが、特に重要でないので、今は一先ず説明しない。供養品の準備はとても大変だが、これらは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが主法者として修法なさるご苦労には比ぶべくもない。火供に参加したことがある兄弟子は分かっていると思うが、リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に慈悲深く、吉祥草であろうと五穀等であろうと、すべてを自らの手でみなの皿に入れてくださるのだ。以前私は他の教派にいたが、火供は求めれば修めてもらえるというものではなく、普通は大功徳主が重要な事柄のため、しかも自分のためではない時でなければ、上師は火供の開催を受け入れなかった。しかも火供時には、他の人が側で立って見られるかどうかは、また別の話で、供養品に触れる機会など端からなかった。実は修法時には、供養品を修法の皿の中に入れ、火供堆中に投入すればいいのだが、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは供養品を一つ一つすべての参加者にくださるのだ。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは肩甲骨にご不快を抱えておられるため、このように繰り返し、少なくとも千回は力を入れられるのは、ほんとうに大変なご苦労なのだ。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは真に慈悲深くていらっしゃる。

実はリンチェンドルジェ・リンポチェはもう少し楽ができるはずなのだ。念仏したあと火供の中に投入すればそれで良い。だがリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子のため、猛暑の中、五方仏帽をかぶり分厚い法衣を着用されて、絶えず経文を唱え3、4時間も修法なさる。さらには、先に前行法を修めなければならないものもあるが、これらはみな知らない。それなのに、すでに60歲代であられるリンチェンドルジェ・リンポチェはご自分の身体状況に耐えながら、修法された供養品を一つ一つみなに分けてくださるのだ。この供養品を侮ってはならない。このように偉大で尊い主法者が修法くださった供養品を頂戴することで、福報と智慧資糧は非常に迅速に累積されるのだ。

私はみなに大切にして欲しいと思う。しかも大切にするだけでなく、自分が要求できると簡単に思わないで欲しい。20、30年前私が他の教派にいた頃、大功徳主が火供を求める時には、少なくとも100万元、多ければ500〜600万元供養しなければ、教派のリンポチェは修法に応じなかったのだ。しかも、場所探し等もすべては功徳主が行っていた。今日私がこれらについて話すことで、みなが理解してくれることを願う。自分はしっかりできておらず、実は全くやってもいない。お願いに上がる時に、こうであってはならない。貪心でなく心が清浄なら、少なくとも法会に参加できることを願うのであって、名乗ったうえで自分は火供に参加したいと言うのではない。どうして火供に参加したいのか自問すべきなのだ。一つに功徳主でなく、二つに道場に対して何らの貢献もなく、三つに自分を改められていないなら、これを求めるのは欲張り過ぎではないだろうか?それだけでなく、火供はリンチェンドルジェ・リンポチェの福報を消耗してしまうのだ。実はリンチェンドルジェ・リンポチェが福報をみなに分け与えてくださっているのは、法会だけではない。道場に座っていても上師に近くいられれば、求めなくとも、事業であろうと健康であろうと、すべて良くなっているのだ。

6、7年前私はガンが発見されたが、三個の腫瘍はどれも場所が深過ぎて手術できないと言われていた。皈依して二年余り経った頃、私はみなに話したことがある。腫瘍の内二個は消えてしまい、残りの一個も1.8㎝ほどに縮小してしまったのだ。最近、胆石、胆管炎症のため、二度入院し、先月退院したばかりだが、その際ガンも超音波で検查した。すると、小さい方の二個は再発しておらず、大きい方のも全体がカサブタのようになっており、しかも上に血管がない状態だったのだ。

私は、自分は修められておらず、改められておらず、何の供養もせず、悪の徳性をなおも備えていると知っている。二日前リンチェンドルジェ・リンポチェは何人かの弟子を叱責されたが、私もその中の一人だった。リンチェンドルジェ・リンポチェは『あなた達は何を修めているのだ?なぜ福報を修められないのか?それはあなた達の念頭がすべて自分についてだからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの念頭はすべて衆生についてだ』と仰せになった。リンチェンドルジェ・リンポチェが叱責なさると、本当に雷が轟くようだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの仰せは確かにその通りなのだ。私はいつも母、仕事、友人のためばかりを考え、衆生のためを考えていない。そんな状態で改めることなどできようか?改められていないのに、腫瘍は消えてしまった。これがリンチェンドルジェ・リンポチェの加持でないはずがあろうか?私が自ら修めた結果では絶対にない。すべてはリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なのだ。

努力して己を改めるよう、私はすべての兄弟子に呼びかけたい。リンチェンドルジェ・リンポチェは一日一日お年を召されて行くのだ。前回リンチェンドルジェ・リンポチェは人生は無常であり、上師も無常であると開示くださった。私は、火供についての弟子達の過ちを目にした。心から懺悔し、深い思いで自分を改め、この道場でリンチェンドルジェ・リンポチェにしっかり従い学仏することこそ意義があるのだ」とみなに呼びかけた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、施身法法会を御自ら主法くださり、参会者に貴重な仏法の開示をくだされた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは理事長に、昨日貼り出した告示の内容を読むようご指示になった。「本道場は清浄な道場である。参見大修行者(大修行者に会いに来る際に)はすべて、整った服装でなければならない。尊敬を示すため、女性はショートパンツ、胸が大きく開いた衣服、腕や肘を出す等肌を露出する衣服を着用せず、ズボンやスカートの丈は膝下としなければならない。男性はシャツと長ズボンを着用すること。以上或いは他に不恭敬な状況がある場合には、本中心は拒絶入場(入場を拒絶すること)ができる」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは開示なさった。「法座で三宝に対する尊重について何度も言ってきた。また、他の宗教の参拝者は比較的整った服装で参拝すると言ったこともある。先週土曜日、ある女性信衆がショートパンツで入って来たので、リンチェンドルジェ・リンポチェは登録を担当する弟子に尋ねた。なぜ理事達は、リンチェンドルジェ・リンポチェが口を開かなければ、行動を起こさないのだ?

先ほど理事長が読んだ告示を聞いたが、またも訳も分からずリンチェンドルジェ・リンポチェを引っ張り出している。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分はそんなに重要でないと言っている。これら弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェに害を及ぼさなければ満足できないのか?」と仰せになった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは土曜日にこの告示の検討会議に参加した弟子を立たせ「なぜこんなにも醜悪な文章にしたのか?」とお尋ねになった。「リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らがみな外国に行ったことがあると知っている。レストランは客にスーツを着てネクタイを締めるよう求め、客がそうでなければ、レストラン側が客にネクタイを提供することもある。女性客が露出が多い服装をしていれば、レストランはストールを準備する。レストランではどこもこうするのに、衆生を受け入れる道場がこの簡単な四文字『入場拒絕』で済まそうというのか?

リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がそんなに偉大だと思っていない。ただ、道場に来る者の心に恭敬心が芽生えることを願っているだけで、懲罰を与えるのではない。これらさまざまな職業に就ている社会人がなぜこのようにするのか?何かあると彼らは、リンチェンドルジェ・リンポチェが言わなかったからやる必要がないと思ったと言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは言っているが、彼らは訳の分からない事をするのだ。『参見大修行者』などと書いて、誰かがこれを用いて面倒を起こそうとしたらどうするのだ?リンチェンドルジェ・リンポチェは自分はそんなにも偉大だと思っていない。

なぜ彼らは深く考えることができないのか?いくらか衣服を準備しておけば、露出の多い服装の人が来たら、貸してやることができるではないか?彼らが本当にリンチェンドルジェ・リンポチェにそんなにも価値があると思っているなら、大供養をすべきではないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼らがどうしてこのようにするのか、全く以って分からない」と仰せになった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは土曜日のボランティア弟子を立たせ、昨日リンチェンドルジェ・リンポチェが告示内容について質問した時どのように答えたかをお尋ねになった。弟子は「告示は風邪、発熱について書いて有ります、と答えました」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「昨日はこの弟子に二度尋ねた。一度目に『外の告示には何を書いてあるのか?』と尋ねたのは、彼女が側で服務に就ていたので、外の事をすべて知っていると思ったからだ。彼女の答えは『医療組が、風邪をひいている人のマスク着用について書いています』とのことだった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女にもう一度機会を与えるため、再度尋ねたが、彼女はやはり同じように答えた。

彼女がこうなのは、怠惰だからで、さらにはリンチェンドルジェ・リンポチェの頭がはっきりしていると信じていないからだ。そして三つ目には頑固だからだ」と仰せになり、「こんなことでどうして慈悲を学ぶことができるだ?」と叱責なさった。「上師が尋ねているのに、なぜ出て行って確かめようとしないのか?自分はそんなにも偉いと思っているのか?彼女がいなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは信衆に会えないということか?自己中心的な考えがこんなにも強い人がどうやって学仏するのだ?リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに一ヶ月法座で講法していないが、みなやはり同じような調子だ?改められていない!みな揃って自己中心的だ!

リンチェンドルジェ・リンポチェは法座で、法会に参加するには荘重でなければならないと何度言っただろうか。ところが、理事は一人残らず動かざること山の如しだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがまだ言わないから、と思っているのだ。先週土曜日ショートパンツ姿の女性信衆が入って来た。おかしなことに、服装と同じで道場に対しても不恭敬で、『私は子供を産んでもいいでしょうか?』と聞いてきて、仏法については何も尋ねない。そのため、理事達に告示を書くように言ったのだが、彼らは恰もそんな事があったかのように書き、リンチェンドルジェ・リンポチェに塁を及ぼそうとする。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘆息を禁じ得ない。この道場をどうして運営して行ったら良いのか?リンチェンドルジェ・リンポチェが一ヶ月法座に上らなければ、みな少しは警戒心が芽生えるだろうと思ったが、やはりこの有様だ。

法務を担当する弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェの法本を順番に貼ってくれるが、その方法がなっていない。リンチェンドルジェ・リンポチェはどのページを開いたら良いのか分からないのだ。彼は初めて準備した時しっかりできていたのに、今回は一体どうしてしまったのか。修法中、リンチェンドルジェ・リンポチェは急いでいるのに、あれこれ探さなければならない。物事を為すに当たって、なぜ上師のことを考えないのか?彼はすでに一冊貼り間違えていたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは貼り直すように指示したが、やはり同じだった!」と仰せになり、リンチェンドルジェ・リンポチェは「落胆した。失踪してしまいたいくらいだ」と溜息と共に仰せになった。「道場には1000人余りの弟子がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは法座で、道場に来る時は厳かな服装であるべきだと言ったのに、誰も提起しないとは。自分には関係がないと思っているのか?道場は自分が来たい時に来るところだと思っているのだろう」と仰せになり、リンチェンドルジェ・リンポチェは加持済みの甘露水の配布を止めるよう指示なさった。

「道場が自分と関係があると考えている者は一人もいない。リンチェンドルジェ・リンポチェから呼ばれていないので、自分のことを言っていないので、関係ないと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェの法本を順番に貼るのさえ、二冊続けて貼り間違える。リンチェンドルジェ・リンポチェはこれ以上どうしたらいいのか!法務担当の弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法時にあちこちページを捲り探しているのをその目で見たはずだ。それでもこうなのだ。少しでも機転が効く弟子を持つことができないとは、リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分は業障が重いと嘆かずにはいられない。弟子の中には法律に明るい者、医師、大学教授もいるのに、このような告示を書き入り口に貼るとは。そしてよくできたと満足しているのだ!」と仰せになり、リンチェンドルジェ・リンポチェは、会議と告示作成に関わった弟子に「今日は法会に参加する必要はない」とご指示になり直ちに出て行かせた。さらに、昨日告示を見に行かず、リンチェンドルジェ・リンポチェに答えた弟子には「三ヶ月法会への参加は不要で土曜日も来なくとも良い」と仰せになり直ちに出て行かせた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けられた。「昨日ある弟子がある事をきちんとできなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは1000回の大礼拝後に応じようと指示した。ところが彼女は紅包(祝儀袋)を持って来て、リンチェンドルジェ・リンポチェに供養したいと言う。リンチェンドルジェ・リンポチェが手を伸ばしたところ、彼女は突然ある事で自分の要求を達成していないと思い至り、紅包を引っ込めてしまった。彼女のようなこんな人間がどうして学仏できようか?どんなことでも条件を提示して来て、条件が合わなければ供養しないと言う。よって、末法時代の衆生は済度し難いと釋迦牟尼仏は言われたのだ。その弟子はあらゆるものを欲しがる。上師に供養するどころではない。他人に贈り物をするのでも、相手に聞いていないことがある等と言って、突然止めたりする。相手はどうだろうか?この贈り物を受け取るだろうか?

その弟子の貪念はここまで重いのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが応じなかったので、彼女は供養しないということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはもともとあなた達の供養は不要だ。自分で苦労しながら商売する方が良い。あなた達の顔を見ていると、本当に気分が悪くなる。このような弟子は見たことがない!利己的で自利!あらゆる動作はすべて自分のためだ。

前回屏東で求法した信衆が昨日来た。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子ではないが、さめざめと泣き、冬虫夏草を一缶差し出した。その冬虫夏草は少なくとも50万元の価値はある。しかも彼女は自分のためではないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らず、彼女と他人とを結縁させた。そして『リンポチェこであれば菩薩道を行い、いつでも死の準備はできている』と答えた。

これでは、あなた達は学仏する資格はない。リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに一ヶ月法座に上っていないので、あなた達も警戒しているだろうと思っていたが、やはり変わっていない。こんな徳性のままだ。自分はとてもよく学仏できていると思っている。どこが良いのか?生死解脱を修めることができなくとも、少なくとも少しの福報を修めることはできるだろう。だが、福報を修められなければ、智慧も開かれないのだ。あなた達にはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日施身法を修める。たくさんの亡者に超度させると約束したからだ。よって、実に不本意ながら、あなた達に修法する。今後はあなた達に修法する機会はますます少なくなるだろう。あなた達は仏法テープを聞けば良い。なぜならあなた達はこれ以上リンチェンドルジェ・リンポチェの修法を受ける資格がないからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲のおかげだと言い、それで自分は好転したと誰もが考えている。ところが、返す刀でリンチェンドルジェ・リンポチェに害を及ぼすのだ。小さなものではこの告示だ。『来参見大修行者』などとはっきり書いてある。リンチェンドルジェ・リンポチェがいつ自分は大修行者だなどと言ったのだ?あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに害を及ぼさずにはいられないのか?告示を書くなら、他にもさまざまな形式があろうに、わざわざそれを選択せず、リンチェンドルジェ・リンポチェに累を及ぼすのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来るのなら、これもだめあれもだめなどと」と仰せになった。

昨日多くの出家弟子がいっしょに供養したが、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、供養時に祈願した内容について説明するようご指示になった。出家弟子は「より多くの出家衆がリンチェンドルジェ・リンポチェの救いと摂受を受けられるよう願い、出家衆が代わって上師に供養申し上げました」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「それでは大変だ。リンチェンドルジェ・リンポチェの負担が非常に重くなってしまう」と仰せになった。出家弟子は「仏法のために」と祈願すると、リンチェンドルジェ・リンポチェは「自分はそんなに偉大ではない。あなた達はしっかり修めない。法本を順番に貼るのさえ滅茶苦茶で、リンチェンドルジェ・リンポチェにあちこちページを捲らせるほど適当だ。

今日初めて施身法法会に参加する者もおろう。その者達のため、リンチェンドルジェ・リンポチェは簡単に説明しよう。施身法はチベット仏教八大成就法の一つだ。『成就』により、この生で福報を迅速に累積できる。だが福報はあなたに金儲けさせ、或いは病気を治させるためではない。この一生で仏法を修行し、生死を解脱するための十分な時間を持たせるためだ。また、迅速に智慧を開かせてくれる。智慧を開くのは、世間的な事情を処理させるためではなく、仏法の真の意義を体得させ、開悟へと導くためだ。

施身法はチベットの女瑜伽士、瑪吉拉尊が書かれた法門だ。マチク・ラプドゥンは結婚し子供もいたが、釋迦牟尼仏がお教しえくださった『大般若経』の涵義に基づきこの法門を書かれたのだ。『般若』とは簡単に言えば、智慧、空性だ。衆生に利益し自分に利益するに当たり、空性を体悟していないなら、智慧を用いて衆生に利益することはできない。釋迦牟尼仏がお教しえくださる『大般若経』は空性とは何かを説くものだ。空性を文字で形容するのは非常に難しい。釋迦牟尼仏は『般若』というこの二文字を形容しようとなさったため、『大般若経』は量が多く、『大蔵経』の30%前後を占めている。なぜなら仏は繰り返し説明しておられるからだ。

『般若』は我々の人生経験法とは異なる。科学が非常に発達した現代では、研究により空性の特質をわずかながら探れるようになっている。だがやはりはっきりはしていない。施身法を修める行者は一般の出家人、在家人では決してない。たくさんの訓練と体悟を経なければならず、特に必ず空性の慈悲心を修めてなければならない。禅定中は必ず大手印の離戲瑜伽を修め、すなわちすでに分別心を持たず、平等に広大な一切の衆生に利益できる状態でなければならない。

長い間施身法を修行すれば、健康に極めて有益だ。なぜなら、不健康なら、修行したくともできないからだ。長い間施身法を修行すれば、広大一切の有情衆生に利益することができる。地球上の人類は現在60億人いるが、他の衆生と比べれば、取るに足らない数だ。釋迦牟尼仏の経典中での形容によれば、地獄道の衆生は降雪時の一ひらの雪のように多く、畜生道の衆生は、恒河岸辺の砂のように多いのに、人類の数は一握の砂に過ぎないという。たくさんの人が仏法を人間仏法と呼ぶが、この言い方は正しくない。仏の仏法は単に我々人類に対してだけのものではないのだ。だが矛盾点がある。それは人類だけが仏法を学べ修行できるということだ。人類は非常に少ないが、人類には仏法と福報を修行できるという特性がある。よって、人類はこんなにも少ないのに、広大一切の有情衆生に利益できるのだ。経典には、すべての有情衆生は無辺無際、つまり数え切れないとある。

あなた達はなぜ一日中叱られているのか?心が狭い人は慈悲を学ぶことも修めることもできず、慈悲のない仏法は仏法ではないからだ。他の宗教では慈悲というものについて触れない。仏法だけが特別に慈悲について説く。慈悲とは宇宙全体で最大の力だ。この力は誰かを降伏させるものでも、誰かを抑えつけるものでもない。慈悲の力を用いて、すべての衆生の貪嗔痴の心を消滅させるものなのだ。貪嗔痴の心が消滅しさえすれば、清浄な本性が顕露してくる。だが、人類が最も降伏し難い。よって『地蔵経』中でも、頑固で自己流を貫くため、宇宙全体の中で地球の人類が最も降伏し難く、教え難いと言うのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの経験から言えば、他の苦海衆生を超度させるのはとても簡単だ。一匹のネコでさえすぐに超度させられる。超度させると、体温と身体を柔らかく保ちながら、ネコは目を閉じ口を閉じる。だが、畜生道がすぐに阿彌陀仏のお側へ行けることはあり得ない。業が重ければ先ずは人道へ行き、少し軽ければ天道へ行く。だが、天道へ行ったとしても、最も低い階層のだ。無色界天へ行けることなどあり得ない。リンチェンドルジェ・リンポチェがそのネコを超度させた時、死んで一時間になるのに、なぜなお体温を保っているのかと、動物葬儀社は不思議に思っていたようだった。読経に効果があったかどうかは、ネコ、イヌが目を閉じたかどうか、口を閉じたかどうかをで分かる。そうでないなら、それは嘘だ。

なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェが読経すると、亡者の目と口は閉じるのか?年長者或いは親族や友人が他界したのを見たことがあるだろう。人は死に、呼吸が止まると口は開かれている。一つには恐れているから、二つには呼吸が止まる瞬間に最後の一息を吸い込むからだ。そのため、口は自然に開くのだ。実は畜生も呼吸が止まる過程は人と全く同じだ。亡者が一たび緊張すると、関節が硬くなって、開いた口を閉じられなくなるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて開示した。以前インドにはキリスト教の修道女、マザーテレサがいた。彼女はたくさんの善事を行ったが、それは人間の善事だった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の死後の写真を二枚見たことがある。一枚は口が開いており、もう一枚は頭を包帯で包んだもので、そのため口はゆっくり閉じてきていた。あなた達にも似たような経験があるだろう。葬儀社がお湯で温めても閉じないこともある。見たことがある者もおろう。超度後に口が閉じるのは、亡者が苦しむことはないと知り、緊張から解放されるからだ。神識が寛ぐと、関節の筋肉もそれと共に寛ぐ。亡者が離苦すると、身体と筋肉に非常に明確な変化が現れるのだ。

12時間読経したことで、亡者の身体が少し柔らかくなったという人もいる。だが、それで超度されたというのではなく、ただ恐怖心が少し減っただけなのだ。なぜなら、どんな仏号であろうと、遺体の側で念誦すれば、あなたには亡者を超度させる功力がないとしても、少なくとも亡者の恐怖心を少しは減らすことができるからだ。だが、だからといって超度したという訳ではない。衆生を超度させるには、修行者に功徳が必要なのだ。いわゆる『功徳』とは行者がどれだけすごいか、というのではない。すべての法門修行が衆生に利益するためでなければ、功徳は出現しないのだ。功徳だけでなく、さらには慈悲心も必要だ。両者を具備しなければ超度を行うことはできない。簡単に言えば、行者の禅定の功夫が足りないなら、超度は行えないのだ。経典では、幽鬼の力は人の100倍強いとある。すべての衆生は、死後に鬼道があると知っている。さらに、自分を救おうとする人にその心があるか、力があるかをはっきりと知っている。それらがないなら、亡者は済度されない。

リンチェンドルジェ・リンポチェが屏東へ行ったのは、本来は殺された原住民を超度させるためではなかった。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェが念誦を始めると、彼らは揃って現れた。なぜなら、ここに良いことがあり、慈悲の観念で自分達を救ってくれる人がいると分かったからだ。自分が読経すると幽鬼が現れる、という人がいる。幽鬼があなたなどに構うものか!あなたの心には幽鬼と同じように貪、嗔、痴がある。幽鬼の同類だ!『地蔵経』を念じると背筋に寒気を感じる、などという妄言を真似てはならない。寒気を感じるのは当然だ。汗をかいた後風に吹かれれば、当然涼しく感じるだろう。幽鬼が来ても、こうはならない。これは『地蔵経』に対する侮辱だ。

現代はたくさんの人が『地蔵経』を侮辱している。『地蔵経』は明らかに因果について説いており、しかも釋迦牟尼仏は忉利天宮では母であるとはっきり説いているのに、『地蔵経』を念じて幽鬼に聞かせるのか?たくさんの人が仏法に対して少しの理解もしていないのに、適当に口から出まかせをいう。最近ある弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェに、青海の他の教派のあるリンポチェが『咒語はいくらでも伝えることができる。みなせっせと咒語を念じよ。最近世間が非常に乱れているが、たくさん念じればそれが鎮まる』と言ったというのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは最も簡単な例を挙げよう。チベットでは話せる人なら、誰でも六字大明咒を念じることができる。もし、その出家人が言ったようなことがあるなら、チベットでは古今東西いっさい戦爭は起きなかったはずではないか。別の勢力に侵略されるようなこともなかったはずではないか。なぜそれらが起きたのだ?

チベットには多くの法王、大リンポチェ、大修行者がおられ、毎日修法しているのだから、敵兵は来られないはずではないか。だがやはり襲来する。仏であられる釋迦牟尼仏は、ご自分の種族が滅ぼされるとご存知であるのに、道の真ん中で三日間盾となろうとなさった後、やはり立ち上がってその場を離れられた。仏は軍を丸ごと殺してしまう力がない訳ではない。なぜ殺してしまわないのか?それは因果だからだ!咒語を念じれば、口汚い言葉を用いるよりはもちろん効力がある。だが、人とはそういうものなのだ。あなたがある人に、咒語を念じれば役に立つと告げる。だが、いざと言う時に役立たなかったなら、その人は心の中で結論として仏を誹謗するだろう。この咒語は効き目がないという。効き目がない、とは誹謗だ。それだから、教えない方が良いのだ。

特に本尊の咒語はどれであっても、如法上師の口伝、加持、灌頂を経ないなら心が誤りなので、たとえ咒語を念じたとしても、本尊を感召することはできない。誰でも咒語を念じることはできるが、最も重要なのは心なのだ。貪嗔痴を心に抱きつつ念じているなら、どうして咒語に霊験があるだろうか?絕対にない。仏法の教導を経ずに適当に持咒するなら、不注意で咒語で他人を呪ってしまう恐れさえあるのだ。現在台湾では、毎日大悲咒を念じて夫に聞かせれば、不倫の相手が寄って来ないというやり方が流行している。誰が言ったのだ?『普門品』でも説いていないし、仏も説いたことがない。これは正に他人を呪っているのだ!

あらゆる咒語の中には仏と本尊の智慧、慈悲、功徳、願力がある。仏菩薩の願力とはなんだろうか?すべての衆生が輪廻苦海を離れるよう願うことだ。衆生が苦海を離れようとしているのに、なお彼らに貪を教えるのか?苦海を離れられなくなる出鱈目の方法を教えるのか?もちろんそんなことはしない。末法時代の現代には似非仏法がたくさんある。その人の言うことには道理がないようだが、道理があるようでもある。みな揃って持咒すれば自然に太平になる、と言うのだ!リンチェンドルジェ・リンポチェは分かり易く言おう。チベットでは言葉が話せる人なら誰でもオーム・マニ・パドメー・フームと念じることができる。それなら、チベットはどんどん強大になり、何事もなく、すべての法王はチベットにおられるはずではないか。なぜ離れられたのだ?これこそ共業なのだ!

かつて蓮花生大士はご自分で書かれた伝記において『チベット人は、東に向いた鉄鋳プルパ金剛像を作らなければ、後に訪れる難を逃れることはできない』ととっくに預言されていた。だが『そんなことはない。自分は解決できる。観音菩薩にお願いすれば解決してくださる。観音菩薩にお願いできると教えられたので、毎日祈願すればそれで良い』と考え、誰も従わなかった。だが、観音菩薩に祈願するのさえ方法があるのだ。清浄な心が必要なのだ。子供の成績が良くなりますように等と願うのではない。

仏法を理解している人でなければ、仏法の慈悲とは何なのかを体悟することができない。欲望を用いて学仏するなら、必ず問題が生じる。昨日のあの弟子は、告示は医療組の事だとなぜ二度ともリンチェンドルジェ・リンポチェに答えたのか。それは思い上がっているからだ。上師が尋ねているのに、なぜ見に行かないのだ?上師が言い間違ったとしても、リンチェンドルジェ・リンポチェなら必ず見に行く。なぜなら上師が言われる事には必ず理由があるからだ。ところが、その弟子は、自分は見えなかったのでこうなんだと、言い逃れするのだ。

仏法の困難は、あなた達が改めず、思い上がっているところにある。供養すると言いながら、すぐに引っ込めた昨日のあの弟子は、紅包をすでに差し出し、リンチェンドルジェ・リンポチェも手を伸ばしていたのだ。どれだけ気まずかったことか?彼女の供養は薄っぺらだったからまだ良かった。もし、1000万元の供養で、リンチェンドルジェ・リンポチェが手を伸ばしたのに彼女が引っ込めたのなら、側で見ていた人は、リンチェンドルジェ・リンポチェが欲張りで1000万元を得ようとすぐに手を伸ばしたと思っただろう。これこそ貪心なのだ!仏法を求めるのは貪心ではないなどと思ってはならない。それも貪心なのだ!自分をなんだと思っているのか。死に臨んで、あなた達がどんなことを言ってくるのか、リンチェンドルジェ・リンポチェは知っている。清浄な心を用いていないなら、どんなに求めても得ることはできないのだ」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、法務を担当する弟子がどのように法本を貼ったのかを見るようご指示になった。「このように貼って、どうやってページを捲るのだ?滅茶苦茶だ。上師の一挙一動に全く心を配っていない。前回の修法時にすでに、リンチェンドルジェ・リンポチェはページを捲るのに非常に不便だった。今回もまた同じだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、あとでどこに貼ってあるか、また一ページずつ探さなければならない」と仰せになった。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは「誰が貼ったのだ」とお尋ねになった。一人の弟子が挙手したので、リンチェンドルジェ・リンポチェは直ちに出て行くようご指示になった。

見てみよ。リンチェンドルジェ・リンポチェは68歲なのだ。このような貼り方でどうやってページを捲るのだ?法本を貼った弟子は全く上師のことを考えていない。一枚一枚の付箋を明確に区分することしか考えていない。リンチェンドルジェ・リンポチェは目がまだ良いので、見つけられるが、そうでなければ付箋さえ見つけられないだろう。学仏では思い上がってはならないのだ。何をするにしても、相手のことを思いやらなければならないのだ。この告示を書いた者達に対して、リンチェンドルジェ・リンポチェは不満なのではない。他人が我々を傲慢だと感じるのを恐れているのだ。我々は他人にきちんとするよう求めることはできる。だが、少しの方便を与えることもできるだろう。それなのに、彼らは全く頭を使わない。リンチェンドルジェ・リンポチェが指示したのでこうした、と考えている。彼らはみな教育水準が非常に高いのだから、提案しても良いはずだ。あなた達は香港やヨーロッパへ行ったことがないかもしれない。非常に高尚なレストランへ行ったことがないかもしれない。レストランが客にネクタイをするよう求めていても、客がネクタイをしていないなら、レストランは客にネクタイを貸す。台湾では、出て行かすのか?

道場は宗教施設だが、サービス業でもある。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生にサービスしているのだ。サービス業であるなら、こんなにひどい文章とすることができようか?『拒絕入場』だと?小さな事で、あなた達の病がすべて明らかにされた。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子がなぜこのように貼るのかが分からない。後ろの方では重なっているところもある。弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが修法時に急いでいるのを知っているのに、なおこのように適当にするのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて法務を担当する弟子にこのように貼るのではないと二度言ったのに、やはりこの有様だ。

施身法には特徴がある。それは修法人が密法観想を通して、骨、血肉を含む自身の身体全体を、一切の諸仏菩薩、本尊、護法、空行母、勇父から、下は一切の三悪道の衆生、特に世間に存在する一切の幽鬼衆、魔衆にまで供養するということだ。この種の供養布施は福報を累積する最大の方法だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが修法するが、あなた達はこの法会に参加しているので、福報の尻尾をいくらか得ることができるのだ。いくらかの風はあなた達の方へも吹いて行くということだ。

あなた達は自分の血肉、骨を衆生に与える様子を自分も観想できると考えるかもしれない。だが衆生は食べない。なぜならあなたの血肉、骨には業力があり、彼らは要らないからだ。いくらか密法を学んだからと言って、一握りの米をあちこちに撒くのが、顕教でも最近は流行っている。だが、撒いたところで、衆生は食べられない。なぜなら、彼らの加持は物質を変えることができないからだ。衆生は食べられないことで嗔念を起こす。よって、最も適当な供養布施は、壇城で香を灯し、供花、供水することだ。変わったことをしてはならない。施身法法会に一回参加した方が、一日中米を撒いているより効果がある。

アメリカにある武術のスターがいる。彼は日本で育った。ある教派が、彼はリンポチェだ、と言い、彼も自分はリンポチェだと考えている。自分はリンポチェだと言い出した後、彼はそこら中に米を撒き出した。だがこれは何の効果もない。慈悲心とは見た目の形式ではないのだ。顕教には早供、晚供があるが、最も重要なのはやはり供養の心なのだ。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェは施身法を修める。横死した人、業障が重い人には特別に殊勝だ。当然法会の参加者は、三宝に対する恭敬心と十足な信心を自分が具備しているかを端視しなければならない。十足な信心とは、自分は信じていると口に出して言うような程度ではなく、仏が我々にお教えくださる一切は衆生に利益するためで、我々もいつか必ず仏がお教えくださる一切を行えると信じることだ」と仰せになった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子に「先週リンチェンドルジェ・リンポチェが授けた『寶積経』中の法をかつて聞いたことがあったか」とお尋ねになった。出家弟子は「以前顕教では全く聞いたことがありませんでした。『阿彌陀経』には上、中、下品があるということだけは知っていました」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けられた。「彼らが聞いたことがなかったのは、講法者が真に菩薩道を行う準備ができていなかったので、『寶積経』を目にする因縁がなかったのだ。『寶積経』は常に存在している。リンチェンドルジェ・リンポチェが今書いたものではない。目にすることができなかったのは、その願力と決心がないからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが経典を恭読する方法は他人とは違う。無作為に開くと、ちょうどそこがあなた達が必要なところなのだ。もし菩薩道を行う決心をしたなら、この一生で必ず阿彌陀仏のお側へ行けるだろう。菩薩道を行えるかどうかは重要ではない。重要なのは、決心するかどうかだ。『生浄土』を求めることさえ不要だ。回向すればそれで十分だ。回向とは衆生と結縁し続けることだ。こうすることで、必ず浄土に往生できる。今日どの仏法を聞くことができるかは、上師自身の発心と関係がある。『大蔵経』中にはこんなにも多くの経典があるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは専ら『寶積経』を念誦している。『寶積経』はジッテン・サムゴンのすべての著作の根本だ。菩薩道を行いたいなら、『寶積経』中の顕教の理論が一つでも足りなければ、行うことはできない。

あなた達は顕教を学んでいた時『金剛経』を読んだことがあろう。中に『破四相』に触れた部分がある。だが、どの法門を用いて破四相するかは書かれていない。それが『寶積経』中にはある。前回すでに開示した。リンチェンドルジェ・リンポチェが開示した途端、あなた達は忽然と大悟を得た。実はこんなにも簡単だったのだ。教えてもらわなかったなら、どんなに考えても、どうやって破四相するかを考え出すことはできなかっただろう。経典では『小我変大我、大我変大愛』という言い方には触れていない。これは人間法だ。仏法を侮辱しているとも言える。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェが修めた施身法は、三宝に対して十分な十分を備えているなら、修行における障礙を消してくれるだろう。もし、非常に難しい、無理だと言うなら、これこそ疑惑だ。たくさんの人が仏法に対する懐疑が疑惑だと思っているようだが、実はそうではない。自分はできない、と思うなら、それこそ疑惑なのだ。我々ができない事を仏は仰せになるだろうか?我々ができない事なら、仏は詳しくは仰せにならない。経典中で仏は、大乗根器でない者は聞いてはならない、と仰せになっている。だが仏が我々によろしいと仰せになるなら、それは我々ができるということなのだ。仏は非常にはっきりしておられる。最後の一秒まで認知に問題が生じることもなくはっきりされ、後事を明確に託されている。

よって、難しくてできない、と言うなら、それは疑惑を起こしているということだ。『阿彌陀経』中でも説いている。阿彌陀仏を念じたとしても、阿彌陀仏のお側へは行けないのだ。なぜなら、自分はできないと言っているからだ。それは、あなたが仏の仰せに懐疑を抱いており、自分を騙して連れ去ろうとしていると思っているということなのだ。仏法をこのように言えばおもしろいと思って、仏はこのようにして我々を騙しているという人がいるが、仏が我々を騙す必要があるだろうか?仏は打妄語してはならないと仰せになるのに、仏法を用いて我々を騙すだろうか?もちろんそんなことはない。それなのに、そんなことを言う人たちは、自分の話がおもしろいと思っているのだ。

難しいと思えば、難しい。難とは正に疑惑なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは学仏を始めたその日から、仏法が難しいと思ったことはない。いつになったらできるのか、などと思ったこともない。経典にも、いつできるかには触れていない。あなた達は一日中口癖のように、自分はしっかりできていない、と言っているが、あなた達にはそんなことを言う資格はない。なぜなら、初めてさえいないのだからだ!一日中、自分はしっかりできていない、と言いながら、全く法に従っていない!思い上がり、やりたい放題ではないか!よって、信じる、と言うなら、仏が我々にお教えくださった法門をいつか必ずやり遂げられると信じるのだ。そうして初めて疑惑がないと言える。疑情であっても疑惑の範囲に入るのだ。

難しいと言うなら、いつか必ず怠けてしまう。それは、自分の心中にすでに障礙が生まれているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェを知って十分に長くなりながら、なかなか皈依しようとしないようなものだ。それは、自分がしっかりできないのではないか、リンチェンドルジェ・リンポチェに叱責されるのではないかと恐れているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェであっても、今でも尊勝なる直貢チェ・ツァン法王に叱責されるのだ。あなた達は自分がどんな身分だと思っているのか?法に則って事を行わないのだ。当然叱られるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの友人になれば、リンチェンドルジェ・リンポチェが丁重に扱ってくれると思っている人もいるようだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは当然彼らに対して丁重だ。なぜなら彼らを超度させる必要がないからだ。

なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子にこんなにも厳しいことを言うのか?なぜならあなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェ,リンチェンドルジェ・リンポチェを恐れなければ、あなた達を超度させることはできないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの母はリンチェンドルジェ・リンポチェは野蛮だと言うが、仕方がない!リンチェンドルジェ・リンポチェの母はすでに皈依している。もし、母がリンチェンドルジェ・リンポチェを息子だと考えているなら、事切れる際に、息子の能力は大丈夫だろうか、と懐疑を抱いてしまう。人とはこのような心を持つものなのだ。あなたも博士まで修めた息子がいたとしても、やはり息子はまだまだだと思うだろう。なぜなら、自分の息子だからだ。

尊勝なる直貢チェツァン法王と母君との関係は非常に微妙だ。直貢チェツァン法王の母君は直貢チェツァン法王を非常に尊重なさる。それは、法王の身分によるのではなく、チェツァン法王が修行人だからだ。だが、直貢チェツァン法王の母君でもあられるので、非常に微妙な感覚だ。リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子ではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェの友人になりたい、という人がいるが、これも非常に微妙な感じだ。この感覚をコントロールできると考えているのだろうが、それは誤りだ。なぜなら、その人が他界する際、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を超度させることができないからだ。friendが来たと思うため、みな遊んでしまい、超度など不要になってしまう。みなもたくさんの例を聞いたことがあろう。弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェを恐れているので、死亡の時、リンチェンドルジェ・リンポチェに呼び戻される、或いは叱られて連れ戻される。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェを恐れないのは、よくないのだ。

今日修める施身法は月に一度しか修めないので、みなこの機会を大切にするように。リンチェンドルジェ・リンポチェは忙し過ぎ、体力がないのではない。身体に異常が出て以来、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王から、毎日必ず施身法を修めるよう言付かっているので、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日修めている。今日ここで修めるのは、実はおおよその形式を行い見せるだけだ。誰であろうと、ただ三宝、上師を信じさえすれば、遠い天辺に居たとしても救いになる。あとで修法する際、あなた達は恭敬心、懺悔心、信心、慈悲心を具備しなければならない。こうすることで、この法会はあなたと相応する。

通常は仏法では修法前に、顕教では必ず結界を修め、壇城を保護する。金剛乗の修法前には必ず駆魔(魔を追い払う)する。駆魔は魔に対して悪くはない。ただ、嗔恨心を有する魔があなた達を邪魔するため、彼らをこの空間に留まらせないように、彼らをどかすだけなのだ。だが、施身法はやはり極めて特殊だ。壇城全体の保護を行わない。修法者も自分が身に付けている保護聖物を取り外し、すなわち自分を保護しないのだ。しかも、通常はどんな法を修めようと、行者は発心するだけで良いが、施身法は特別で、修法のお許しを賜れるよう頂礼して懇求する。資格が不十分なら、念じても役には立たない。施身法は特に前半にこの言葉がある。他の法門では、発心しさえすれば修法を開始できるが、施身法では先ず特別にこの一言がある。すべての本尊に頂礼し、行者がこの法を修めるお許しを賜れるよう懇求するのだ。お許しを頂戴できなければ、どうするのか?修法後に、行者自身に問題が現れる。

チベット族地区であろうと、漢族地区であろうと、施身法を修める人はどんどん少なくなっている。漢族地区では当然少ないが、チベット族地区でも今では多くない。天葬台の所在地では、今でも施身法が修められている。チベット一の天葬台は直貢噶舉の祖寺直貢梯(ティ)寺にある。天葬は複雑で、それを説明するのは非常に難しい。天葬は施身法とポワ法を含む。施身法とポワ法を修めていないなら、天葬台を用いることもできない。あなた達が思っているように、遺体を切り刻み鳥に食べさせれば、それが天葬だというようなものではなく、やはり仏法を含むのだ。チベット金剛乗の人の身体に対する見方は中国人とは異なるため、天葬の儀式を用いるのだ。実は、チベットでも、亡者が生前たくさんの悪業を為したなら、鳥はその遺体を食べず、投げ与えても食べず、ひどい場合には近寄っても来ない、と言われている。遺体を運び上げる金があり法を修めればそれで寄って来るというのではない。あれらの鳥は普通の鳥ではない。神通があるのだ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは今日施身法を修める前に本尊と護法に加持を祈願し、しかも今日の修法をお許し願う」と仰せになり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝な直貢噶舉施身法の修持を始められた。修法中は極めて荘厳肅穆で、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは絶えず鈴を振り鼓を回し、法本を念誦なさり、御自ら六字大明咒を長い間持誦くださった。慈悲に満ち荘厳で清浄な法音は広がり、無数の有情衆生に利益した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの修法の加持力は極めて殊勝で、一切の衆生を震撮し、威徳力は虚空に満ち溢れた。修法のエネルギーがとてつもなく大きいので、寶吉祥仏法中心内の回路が閉じているスクリーンの映像が一度中断してしまった。参会者は恭敬で敬虔な心で法会に参加し、皆尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる救度と不可思議な加持を頂戴した。

修法が円満に終了し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参会者に貴重な仏法の開示をくだされた。

「このところ台湾の気候は乾燥しているようだ。仏法的考えでは、こういう地方は争いが多い地で、この土地の福報がすでに減っているということになる。台湾の福報が減っているのには、たくさんの複雑な要因がある。だが最も主要な要因は貪念だ。ビジネスを営む者は金儲けのためなら何でもやる。公務員は自分の便のためなら何でもやる。政治家は権利を握るためならどんなことでも口にする。

今年も数回の父母殺しが報道された。経典から言えば、父母殺しは五無間地獄に堕ちる。中国の倫理から言っても、父母殺しは天地不容の事だ。周辺国ではこんなに多くないのに、なぜ台湾ではこのような事件が特に多いのか?我々はここに暮らす一人として、何かできないか?それなら、自分から始めなければならない。あなた達が改めないなら、台湾はますます乱れ、あなた達もこの良くない共業の中に巻き込まれて行くだろう。古代では、父母殺しの事件があれば、県令はすぐさま辞職しなければならなかった。なぜなら人民をよく教化できていないということだからだ。現在父母殺しはあたかも当然のようだ。子供は叩かれれば警察に通報し家庭内暴力だという。こんな世界ではどうしたらいいのか?

地球上で比較的乾燥した地域は、どこも比較的貧しく、比較的争いが多い。台湾は今ではほんの少しの事でもすぐにテレビに出る。ほんの少しの事でもすぐに殴り合いになり、自動車事故も絶えず、何かあれば一人か二人の命が失われる。自分は修行しているし、自分はしっかり修行しているのだから、などと思ってはならない。このような乱れた世界は、仏法に対しては反対にプラスなのだ。今もし世の中が太平なら、誰が仏法を求めるだろうか?ここにいる各位は、もし一切が順調で健康なら、誰が仏菩薩を求めるだろうか?だが、仏法はすでに発生した事から逃避させるのでも、心と魂を慰めるのでも、金儲けさせるのでもない。あなた達の人、事、物に対する心の持ち方を改めさせるものなのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子も含めて、現在たくさんの人が破戒しながら自覚がなく、当然だと思っている。天地において破戒しさえすれば福は減り続けるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、父母殺しの事件がこんなに多い所を見たことがない。台湾は少しオーバーだ。だが、このような事態に対して何とか教育しようという公人はいないし、自分には関係がないと思っているようだ。現代の教育から見れば、倫理道徳をしっかり教えていないということだし、仏法的観念から見れば、この地は修行人が少なく信衆が多いということだ。現在いわゆる宗教は人々にとって、ただの心の拠り所で、祈願対象でしかなく、徹底的に己を変えようというものではない。

先ほど修法の最中に、トイレへ行った者は出て行くようリンチェンドルジェ・リンポチェが指示したのは、半分まで修法したところでトイレへ行ったのは、半分しか参加していないということだからだ。さらに、リンチェンドルジェ・リンポチェは月に一度しか修法しない。それなのに我慢できないのは、この法を重要と思っていないからだ。ここには、老人や子供もいるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは一日一日老いて行く。みなと妥協はしない。あなた達が一人も来なくなれば、それが最も良い。リンチェンドルジェ・リンポチェは清浄になる。あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに纏わりつくことはできない。業力以外は誰もリンチェンドルジェ・リンポチェに纏わりつくことはできないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一生ですでに仏法を用いて自分の人生が終わる前に、生生世世で作った借りは、善業であろうと悪業であろうと、すべてすっきり完済したのだ。

修行とはそんなに簡単なものではない。自分は離婚で気分が落ち込むから仏法を心の拠り所にしようとする。もしそうなら、学仏する必要はない。他の宗教のほうが簡単だ。主に求めれば良い。仏法は誰かに求めるのではない。自分を変えるために心を定まらせるよう、諸仏菩薩と上師の加持を求めるものなのだ。世間の事はなんであろうと永遠ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなに健康なのに、突然今にも死にそうになるなどと誰が思っただろうか?誰も思ってもみなかったことに、二年かけて体力を回復させていたリンチェンドルジェ・リンポチェが、突然また出現したのだ。これこそ無常だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に変わり、世間の事も常に変化する。どんなに困難であろうとどんなに良かろうと、必ずある日変化する。永遠ではなく、止まってはいないのだ。

我々が自分が一生で尽くすべき責任を果たし、負うべき責任を負いさえすれば、その他はただ業力、福報に従い進むのだ。業力が現前すれば、どんなに優れていても何の役にも立たない。福報、功徳を修められていないなら、何事かが発生した時に改めるのは非常に難しい。リンチェンドルジェ・リンポチェは今回健康に問題が起きたが、少しの功徳と福報を修められていなかったなら、すでにこの世にはいなかっただろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは修めていたので、変えることができたのだ。

これはリンチェンドルジェ・リンポチェが永遠に死なないというのではない。仏菩薩は、リンチェンドルジェ・リンポチェの修行がまだ到達していないので、あと数年残そうとお考えになったのかもしれない。さもなくば、リンチェンドルジェ・リンポチェは残って何をするのか?意味がないではないか!新聞の社会面に毎日父母殺しの事件が載っている。この国は病気だ。だが、これに注意している人はいない。どこにこんなひどい話があるのだ?一ヶ月に二つも、ただ数十万元のために?あなた達は何も感じない。それは、自分の周りに関係しないからだ。だがこれは影響がある。あるところにたくさんの善業があるなら、みなに影響が及び、あるところにたくさんの悪業があっても、それは我々に影響を及ぼすのだ。自分とは関係がないなどと思ってはならない。中国の黄砂さえ、台湾に影響を及ぼすのだ。

自分さえよければ、他は自分とは関係ない、修行は自分のためにするのだ、などと思ってはならない。我々は自分が見本を示し、周りの人に影響を及ぼし、業力と因果を知り決して行悪してはならないのだと体感してもらうようにしなければならない。寶吉祥仏法中心がすべての弟子と信衆に菜食を義務付けているのは、不戒殺生できなければ、すべての悪業が出現するからだ。魚を一尾食べたくらいで何があるのだ、などと思ってはならない。当然問題がある。一尾食べれば一尾返さなければならないのだ。本当にそんなに深刻なのか?と尋ねるなら、それは因果を信じていないということだ。『地蔵経』でははっきり説いている。地蔵菩薩のある一世の母はスッポンのタマゴを好んで食べたため、死後は地獄に堕ちた。殺人を犯さなければ地獄に行くことはないと思っているだろう。衆生の肉を好んで食べる者は、地獄に堕ちる可能性が高いのだ。

なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは法会の参加者にこの世で菜食するよう求めるのか?自然に因縁があり善根を植え付けたのに、なぜ続けられないのか?法会への参加時だけ菜食すれば、その後は普通食を食べてもいいと思うのか?鼻咽癌を患っていた信衆をリンチェンドルジェ・リンポチェは病苦から離れさせ、彼は水曜日に往生した。土曜日に家族が揃ってリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに一生菜食するように求めたところ、彼らは全員出て行ってしまった。

慎重でなければならない。自分は修行し学仏し皈依しているのだから、この種の悪業に巻き込まれることはないなどと思ってはならない。心にいくらかでも悪念があり、行動にいくらかでも悪念があるなら、巻き込まれてしまうのだ。他人が何かして来ても反抗してはならないのではなく、先ずは自分が守るべき事を守るべきなのだ。さらに、あなたの一切が如法なら、誰かがあなたを害したとしても、ほんのわずかな浅い地点で止まり、傷が深くなることはない。果報が成熟しても、報いを軽く受けることができる。最終的には、出家であろうと在家であろうと、三宝に対する恭敬心と信心を減らすことはできない。自分に対する要求は非常に厳格でなければならない。衆生に対する心持ちは慈悲でなければならない。悪を為そうが善を為そうが、自分の果報を受け止めなければならないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは誰が良く、誰が正しく、誰が間違っているというのではない。一切は共業なのだ。台湾が宝島、福のあるところであって欲しいと願うなら、因縁があり仏法に触れることができたあなた達は決心しなければならない。いつまでもふらふらし、定年退職したらまた考えよう、などと言っていてはならない。あなたが定年退職した時には、リンチェンドルジェ・リンポチェもそろそろ帰っていることだろうし、あなたを救ってやる力もないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分は修行人だなどととても言えないが、学仏人として、常に『人生は無常だ』と言い続けている。自分がいつか死ぬ、との言葉を口から出すのを止めたことはなく、自分はいつでも死に得ると常に言い続けている。仏菩薩がリンチェンドルジェ・リンポチェがこの世間に対していくらかでも役に立つと考えられるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェをお残しになるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェが為すべきをすべて為したと思われたなら、この世を去ることになろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェが長寿で百歲までいられるなどと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェに常住在世と祈らないでもらいたい。リンチェンドルジェ・リンポチェはここに暮らしている必要はない。阿彌陀仏のお側の方が住みよいのだ。護法アキのお側も住みよいだろう。なぜ五濁悪世に暮らさなければならないのか?不要だ。よって、あなた達が仏法に対してなお疑惑があり、上師の教導に対してなお疑惑があるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは、それなら出て行くよう勧める。残らなくともよい。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達に何の要求もない。供養しても供養しなくても、リンチェンドルジェ・リンポチェに条件を提示しても、供養を引っ込めても、リンチェンドルジェ・リンポチェにとってはどうということもない。ただ、供養したくないなら、今後も供養する必要はない。供養したことがあれば大福報があるなどと思ってはならない。供養すれば、ただリンチェンドルジェ・リンポチェの心があなたが供養したことがあると記憶し続けるだけなのだ。

今日は施身法を修めた。すべての六道衆生が利益を得られ、施身法を修めたことで、来週には干ばつが和らぐことを願う。天気予報で言っていたから、状況が好転すると、リンチェンドルジェ・リンポチェも言うのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは早くから施身法を修めれば雨が降ると予言していた。なぜなら衆生の嗔恨心が重く、彼らを超度させれば、嗔恨の力が減少し、干ばつの情況が改善されるからだ。

みなは貪念を減らさなければならない。『貪』とは、今あるものに満足することで、未来にあるかどうかを思ってはならない、というのではない。緊張して努力して、未来を掴み取る必要はないのだ。現在の行い、現在の一切が如法なら、未来は当然良いものになる。何も考えなくとも、自然に良くなるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは学仏を始めて後、全く占いに行っていない。なぜなら運命は自分で掌握するものだからだ。何を用いて掌握するのだ?当然仏法を用いてだ。仏法は我々に貪、嗔、痴を減らすようお教えくださる。この一生で金持ちになるか貧乏になるかは、すべて福報で決まっている。もちろん努力もしなければならない。何もせずに金が転がり込んでくるという訳ではない。努力の過程で因果法則に背かず、非常識でないなら、当然得られるべきものは、自然に手に入る。求める必要さえなく、自然に出現するのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日は少し多く開示した。みな帰宅してしっかり考えるように。言ったことがある。疲れたと言って、帰宅後すぐに寝てしまってはならない。あなた達がどんなに疲れたと言っても、リンチェンドルジェ・リンポチェより疲れているということはあり得ないだろう」と仰せになった。

法会が円満に終了し、弟子達は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの修法と開示に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを恭しくお送りした。

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2016 年 09 月 04 日 更新