尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年4月5日

法会の開始に先立ち、一人の弟子(彼の妻、娘、息子も皈依弟子)が一家全員が皈依した縁起、上師の慈悲深い加持、彼と家族や友人を救ってくださった経緯について皆に語る機会を賜ったことを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げ、過去に為した多くの悪行について懺悔した。

「2011年4月、妻の同僚の呉兄弟子が8月に行われる『阿彌陀仏無遮大超度法会』への参加を二度にわたり誘ってくださったが、岳母が全身性エリテマトーデスを患っていた因縁で、私達はこの殊勝な大超度法会に参加することとなった。法会において、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは荘厳な修法をくださり、衆生を慈悲深く超度くださり、菜食し喫煙せず、善縁を広く結ぶことなどを開示くださった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの無比なる摂受力の感召により、以前はしばしば短気を起こし、しかもいつも利己的だった私は180度変わってしまった。このような変化を見て、妻は『夫は大法会に参加してから、男らしくなくなった』としばしば笑って言った。これらすべては、上師の威徳力が傲慢だった私を摂受してくださったおかげなのだ。大法会の後、私は妻に『リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生の肉を食してはならないと仰せになった。それなら我々は菜食しようじゃないか』と提案したところ、妻も賛成し、『この大修行者が開示くださる仏法をもう一度聞きたい』と言い、私達は皈依の考えを持つようになった。けれどもその頃、二人の子供はボーイスカウトに入団したばかりで、子供達は続けたがったため、非常に有難い大修行者に皈依申し上げる因縁を逸してしまった。

およそ三ヶ月過ぎた頃、私の激しやすい性格が戻ってきてしまった。そのため妻に、皈依したいという思いを再度伝え、年末に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェへの拝謁を申し込んだ。けれどもその時、ボーイスカウトでちょうど忘年会があった。私は傲慢にも都合の良いことを考えた。もし尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが自分たちの皈依をお許しくだされば、ボーイスカウトは退団し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが皈依をお許しくださらなかったなら、ボーイスカウトを続けようと考えた。ところが、思ってもみなかったことに、この利己的で不恭敬な考えは、すぐに大能力を備えておられる尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにお見通しとなってしまったのだ。拝謁を申し込んでいたその週、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが翌日信衆を接見なさるかどうかを電話で確認した時、兄弟子からリンチェンドルジェ・リンポチェが『この拝謁を求めている信衆は不恭敬なので会わない』と仰せだと告げられたのだ。電話を切った後、私は愕然としてしまった。たった数語でも、私の傲慢で不恭敬な考えは姿を現してしまうのだ。私は『リンチェンドルジェ・リンポチェはほんとうにすごい』と感じ入った。

その時尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの大能力を感じ、皈依したいという決心がより堅固となった。そのため、直ちにボーイスカウト退団の誓約書に記入して郵送し、電話で再度拝謁を申し込んだ。土曜日願い通り尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかった時、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深い口調で『何かあるか?』と尋ねられたので、妻が初めてリンチェンドルジェ・リンポチェに『皈依したいと存じます』と申し上げた。ところが、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは何も仰せにならない。妻は状況を悟り息を飲み、再度尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに『皈依をお願いしたいと存じます』と申し上げた。今回は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは『登録するように!』と仰せくださった。その時、私達は宝物をもらったように感じ、こうして具徳の上師リンチェンドルジェ・リンポチェ門下に皈依し学仏する道が開かれたのだ。

このような具徳の上師の門下に皈依し学仏することは、短時間で素早く福報を累積できるだけでなく、無常が訪れた時にもしばしば重い報いを軽く受けることができる。私はこれを、何度か非常に深く感じたことがあった。皈依を許された後参加した殊勝なプルパ金剛法会では、法会において尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは御自分の右肩の関節が軟骨を失っているのもかまわず、プルパ金剛杵を手に持たれ、持ち上げ、降ろしを何度も繰り返し、苦労を厭わず会場にいる1200人を超える参会者を加持くださった。私は内心に無限の敬服と感動が湧き上がった。法会翌日の午後、私は台所で野菜を切っていた時、無常が発生した。重い木の板がレンジフードの斜面に沿って滑り落ちて来たが、あまりに急で、私はどうすることもできなかった。それは重さが四kg近くあり、周囲に鉄片がついた木の板で、それが重力の加速を得てノコギリのように動き、大きな音を立てながら二坪に満たない台所を転げ回った。それはわずか数秒だったが、その間私はどうすることもできなかった。ところが、思ってもみなかったことに、音が止んで見ると、右足のふくらはぎに一㎝にもならない外傷があるだけで、他には傷がなかったのだ。全く不可思議だ。これらすべては尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のおかげだと私は分かっていたので、深く感謝申し上げた。業力が現前した時も重い報いを軽く受けさせてくださったのだ。

さらに、昨(2014)年4月、バスケットボールをしていて右足首を捻挫した。当時はちょっと捻っただけだろう、大したことはないと思っていたが、帰宅し入浴すると、右足がひどく腫れていることに気づいた。けれども、幸いなことに胡座をかくことはできたので晚課を終えた後、就寝した。私は体育教師であるため、かつてもしばしばこのように足首を捻挫したが、それまでは捻挫後には冷湿布し、外科に掛かり、軟膏を塗り、さらに温湿布し、さらには電気治療、針灸等の治療を受けることもあり、少なくとも数週間から一、二ヶ月かかってようやく杖を使わずに正常に歩けるようになっていた。ところが今回は違い、翌日起床後には杖も冷湿布も不要で、足首のひどい腫れはひいていないものの、起床後にベッドから足を降ろした第一歩で、自分が正常に歩けることに気づいた。これは以前にはなかったことで、数日後には腫れていた部分も、漢方クリニックの生薬軟膏を二枚塗っただけでほとんど消えてしまった。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。開設なさった漢方クリニックのおかげで、衆生は最高水準の医療を受けることができる。さらに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる庇佑に感謝申し上げたい。豚足が好きだった果報が発生した時にも重い報いを軽く受けることができた。

皈依弟子達はしばしば耳にする。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェ・ツァン法王門下に皈依し学仏され、わずか二十年あまりだが、その間の修行精進が非常に速くておられ、賛歎せずにはいられない。しかも加持力は十方法界に遍く行き渡り、私はこれについても深く感じ入っている。一昨年の除夕(旧暦大晦日)の夜、どこの家でも年夜飯(大晦日のご馳走)を食べ、天倫の楽を享受している時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは苦労を厭わず、ご家族との団欒のひと時を捨てて、いつもと同じように道場で無数の衆生をお救いであられた。私はその日当時91歲と高齢だった祖母を連れて道場へ行き、祖母が上師、仏菩薩と結縁する機会を設けた。その時尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く、無私の心で祖母に長く加持くださり、いかにして年寄りを世話するか開示くださった。続いて私は、先日実家に帰った時、肉スープを飲んでしまったことを上師に懺悔した。けれども上師は、全く気に留めておられないようだった。下根器である私は当時深く考えもせず、上師の面前で懺悔すればそれで良い、それで何も悪いことは起こらないと思っていた。

翌日いつも通りに旧暦正月の殊勝なる地蔵菩薩法会に参加した。法会が始まっていくらもしない内に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは鋭い視線を私に向けられ、『昨日肉スープを飲んだ弟子、そなただ。速く土下座せよ』と仰せになった。愚かな私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの真のすごさを今度こそ徹底的に感じた。前日の夜尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの面前に跪き懺悔した時、上師は全く私を見ておられなかった。しかも尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ門下には1200人を超える弟子と従業員がいるのだ。さらに毎日多くの衆生を救っておられるのに、私をどうして覚えておられたのだろうか!私は心の中で『リンポチェはほんとうにすご過ぎる!』と思っていた。

祖母が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を受けた後、昨年の旧正月休みの期間、私と父はいっしょにソファーに座っていた。その際、長年祖母の世話をしている父は『知っているかい?60年続いていたお婆さんの空咳がよくなってしまったんだ』と言った。その時、衆生の苦しみをお見捨てにならず、慈悲なる無私の加持をくださったことを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げると同時に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの虚空に満ち、しかも想像を絶する大加持力を感じた。私が小さかった頃、祖母はしばしば空咳をしていた。祖母には医者の娘婿が二人いるが、これはどうすることもできず、祖母の空咳は不治の病だと私は思い込んでいた。ところが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは金剛杵で祖母の頭上にしばらく加持なさるだけで、60年間祖母を苦しめていた空咳を止めてしまったのだ。この時私は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェがしばしば仰せになる『そなた達は私の凄さを知っているだろうが、どれほど凄いかを知らない!』というお言葉を思い出し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの大能力と大加持力を深く感じた。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは死の無常と因果輪廻を深く信じなければならないとしばしば法座で教導くださる。死の無常はいつでも訪れ、因果は真実不虚なのだ。昨年4月、親族、友人が病気で相次いで入院した。一人は叔母の夫であり、裕福な医者だが、口腔癌に罹ってしまった。もう一人は学校の同僚で中年で独身の用務員だが、心筋梗塞を発症したのだ。叔父の手術の日、私は病院で叔母に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大能力と多くの度衆事跡について賛嘆し、しかも祖母が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を一度受けただけで、60年続いた空咳が治ってしまったことを告げた。そして叔母に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに対して信心を持つよう言い、『阿彌陀仏無遮大超度法会』において尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェから賜った甘露水と著作『快楽と痛苦』を渡し、これが叔父に対する手術後最大の助けになるよう願った。さらに、入院中は医者である蔡兄弟子が仕事の合間に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの多くの度衆事跡を叔母に話してくださった。これにより、叔母一家ができるだけ速く上師に対して信心を起こすよう願ったのだ。だが最後には、叔母は自分たちの医学的な背景と十分な経済力に頼ることをやはり選んだ。こうすることで、手術後の抗がん剤治療の苦しみに耐えられると考えたのだ。

また、私は甘露水を持って集中治療室へ心筋梗塞を発症した同僚を見舞った。病室に入った時、医師が家族に、手術すべきかどうか、患者が負担しなければならないリスクについて話しているのを聞いた。それを聞き、医者の言いたいことは、手術しなければ生還の機会は少ないが、手術しても必ず生存できるとは保証できないので、家族は心の準備をしなければならないというものだと感じた。自分が集中治療室に入れる番になった時目に入ったのは、口から延びた管で機械と繋がれ、力ない目から淚が流れ続け、顔がむくみ、無意識の内に両足を絶えず動かしている同僚だった。これは、私がよく知っているいつも笑顔を絶やさず、穏やかで愉快な様子の同僚とは全く別人のようだった。私はほんとうに辛く感じた。だが、因果業報が現前すればどうすることもできないのだ。なぜならこの同僚は発病前にしばしば渓流で釣りをしていたのだ。この時の彼は、彼に釣られた魚によく似ていた。地面に置かれ、生きることも死ぬことも叶わない。すべてをされるがままになった苦しみの様子。この情景は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが法座でしばしば開示くださる『因果を深く信じなければならない』を完全に応験するものだった。

その時私は十分余りの時間で三つの事を行った。一つ目に、甘露水が同僚の口の中にうまく流れていくよう、同僚の唇の上端で甘露水を含ませた綿棒を左右に行き来させた。二つ目に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの聖号を同僚に観想させた。三つ目に、かつて傷つけた魚類等の衆生に懺悔させた。このようにして病院を離れた後、二週間も経たない内に、例会において、学務主任がマイクで、集中治療室に入院していた同僚の用務員はすでに普通病棟へ移ったと報告した。このことを聞き、私は内心なんとも言えない感動を味わい、『これこそ尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なる加持のおかげだ。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げなければ!』と思っていた。弟子として世にも稀なる大修行者に皈依でき、親族や友人まで救度を得られたとは、なんと幸運なのだろうかと感謝した。

翌日退勤後、私は病院へ見舞いに行った。手術後十日になる叔父の喉には、下唇から咽頭まで黒い線が交差して並んでおり、黒いファスナーが並んでいるように見えた。喉の右側は大きな風船のように腫れており、常に動き回り、時に鏡を見たり、時に物思いにふけったりしている叔父の様子を見て、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対して信心を起こさなかったばかりに、仏法の助けを受けられなかったことを残念に思った。

その後心筋梗塞で入院している同僚を見舞った。同僚は私を見ると、興奮してベッドから飛び降りてきた。私が『分かっているんだよね。尊い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが救ってくれたって。そうだろう?』と尋ねると、同僚はトレードマークの笑顔を見せ、『そうだ』と言っているように何度も頷いたた。同僚の様子は挿管で喉が傷つき声を出せない以外は、発病前と全く変わらなかった。同じ頃に入院した二人の病人は、一人は口腔癌で、なお生存の望みは高く、もう一人は心筋梗塞で、いつでも息をひきとる可能性があった。それなのに、仏法を受け入れたかどうかで、結果に大きな違いが生まれてしまった。叔父は代々医者の世に生まれ、豊かな財力と立派な家系を背景とし、医者と医療行為を信じ、手術後には抗がん剤治療の無情な苦痛を受けることを選んだ。同僚は安月給の学校の用務員だが、瀕死の際に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大能力を信じることを選び、仏菩薩、仏法に対して最大の信心を起こしたので、手術を受けずに、短時間の内にかつての元気を取り戻すことができた。この時私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法座における『学仏の障礙はマイナスの条件とは限らない。裕福過ぎても、学仏の妨げになる』という開示を思い出した。これら開示は叔父一家の上に実際にリアルに応験していた。

最後に私は過去に為した諸多悪行を懺悔したい。子供の頃はいわゆるの山海の珍味を食べ尽くし、金を盗み、試験でカンニングをし、親不孝で、父が短気だと陰で罵倒し、アダルトビデオを鑑賞し、思い上がり、強情で負けず嫌いだったことを懺悔したい。結婚、結納では百テーブルにもなる宴席を設け、会場としたホテルには、見栄を張ってオードブルをシーフードに変えてもらい、自分が金持ち振るために、たくさんの衆生の生命を犠牲にしてしまった。私は教職に就いているが、職場では公共の物を盗用し、職権を乱用し、学生に対して真心で接せず、父兄に対して同情せず、癇癪持ちで、車の運転中はしばしば他人と争い、結婚後は妻に背き長く浮気して妻を辱めた。偷時、偷盜、邪淫、悪口、殺生のすべてを受け入れ、すべてを拒まなかった。皈依後、壇城の設置に一年余りを費やし、三宝に対して不恭敬で、しかも因果を深く信じない悪業を犯した。

三年前、私は共に皈依した兄弟子といっしょに阿奇仏母の法照を求めることができなかったため、翌土曜日、道場で法照を求めたが、登録時間を過ぎていた。それなのに、兄弟子の諌めも聞かず、貪念を起こし登録に固執し、三宝、上師に対する不恭敬と道場の兄弟子を困らせるという大きな過ちを犯してしまった。そして、この後この悪行は直ちに、神通広大で且つ慈悲深い阿奇仏母に暴きだされてしまい、私は法照を開光する前にパウチ処理するという大きな過ちをまたも犯してしまった。その後毎土曜日道場へ行き求請したが、私はただ傍で跪き懺悔することしか許されず、開光を求めることができなかった。傍の兄弟子はこの状況を目にし、上師に拝謁し、その場で懺悔し開光をお願いするよう、善意で勧めてくれた。そのため、私は一縷の望みを抱き、上師への拝謁を申し込んだ。しかし、このような三宝に対する不恭敬の悪行は当然尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法眼を逃れることはできず、リンチェンドルジェ・リンポチェはその時厳しく『因果を深く信じなければならない。法照は開光してはならない』と仰せになった。

この簡単な数語は、雷が耳を劈いたように響き、私はその時ようやく悟った。当初、阿奇仏母法照の求請を登録する時、不恭敬だった『因』により、今日法照に開光が得られないという『果』を招いたのだ。すべては自業自得であり、自ら責任を負わなければならないのだ。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な教法に感謝申し上げたい。阿奇仏母法照を目にする度に、因果を深く信じるよう自分に言い聞かせている。私はこの一世で為した事だけで、往生時に悪趣に堕ちいつまでも抜け出せないのに十分だ。具徳の上師リンチェンドルジェ・リンポチェの門下に皈依し学仏する因縁がなければ、自分は生生世世に六道輪廻から解脱することなどできないだろう。

今後は依教奉行し、上師がお教えくださる仏法をしっかりと日常生活に生かすことを願う。さもなくば、この世で生死を解脱し、輪廻から抜け出すことはできないだろう。兄弟子大徳の皆様はこれを教訓としてほしい。最後に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御法体が勝妙康で、法輪が常転し世に永住し、直貢噶舉教派の法脈が虚空中に永遠に留存し、法界の諸有情に利益することを祈願申し上げる」と述べた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法中心で共修法会を主持なさり、参会者に貴重な仏法の開示をくだされた。

今日は『寶積経』第十八巻において釋迦牟尼仏が開示くださった『無量寿会第五之二』について説明しよう。無量寿仏とは阿彌陀仏のことで、釋迦牟尼仏は『寶積経』中で『阿彌陀仏の一切の事柄と功徳について語るなら、一劫費やしても時間は足りないだろう』と仰せだ。一劫とはどのくらいの時間だろうか?地球の成、住、壊、空、さらに空、壊、住、成までの一循環を一劫という。よってとてつもなく長い時間なのだ。

釋迦牟尼仏は経中で『無量寿仏には他に名前があり、無量光、無辺光、無著光、無礙光、光照王端厳光、愛光、喜光、可観光、不思議光、無等光、不可称量光、映蔽日光、映蔽月光、掩奪日月光とも呼ぶことができる』と仰せだ。これらはすべて阿彌陀仏の別称で、どの名号であろうと、すべて『光』という文字が入っている。つまり阿彌陀仏の仏光は十方法界のあらゆる場所を普照し、衆生が往生を望みさえすれば、阿彌陀仏の仏光は必ず届くということだ。科学用語を用いれば、阿彌陀仏のエネルギーは宇宙虚空内のあらゆる場所に出現するということだ。

第一の部分は、浄土中での種々の現象に関するものなので、今日は説明しない。『無量寿会第五之二』中には『阿難尊者が釋迦牟尼仏に開示を求めた』とある。阿難尊者のようにすでに羅漢果位まで証し、殊勝な法をたくさんご存知でも、釋迦牟尼仏に開示を求めるのだ。つまり、自分は少し成就したからといって、大したものだなどと思ってはならないということだ。この世間には、ほとんど阿羅漢はいない。阿羅漢まで修めるのは非常に困難だからだ。だが、阿羅漢まで修めた弟子阿難まで、衆生を代表して世尊に大乗と金剛乗の仏法の開示を願っているのだ。

釋迦牟尼仏は金剛乗の仏法を説いたことがないと考える人もいるが、実はある。『寶積経』の次の会では、不動仏について触れている。不動仏の経文では金剛乗と密法の修行方式について説く。だが、密法を修習した経験がないなら、経文を読んでも分からないだろう。尊勝なる直貢チェ・ツァン法王はかつてリンチェンドルジェ・リンポチェに伝法くださった時『法本中の数語を知らないリンポチェはいないが、どのように修行するかは誰も知らない』と仰せになった。よって、仏法は必ず口伝を経なければならず、さらには経典を恭読しなければならないのだ。上師、経験ある修行人の口伝を経ずに、自分で勝手に読み考え行動し、自分は修行していると思っても、実際には少しも修行になっていないのだ。

たくさんの人が、懺悔すれば、良くない事はいっさい発生しなくなると考えているが、実はそうではない。反対に、懺悔すればあらゆる事態が発生する。なぜか?それは懺とは借金返済だからだ。借金を返済しようとしている人でなければ、新たな借り入れをすることがないからだ。懺悔すればすぐに善人になれ、病気せず、夫が良くなり、動物(中国語には愛人の同義語が狐狸精ですので、ここに動物と言った。)がいなくなり、子供が良い子に変わると、なぜ誰もが思うのだ?これらはみな間違っている。真心で懺悔すれば、福報がすぐに起きる。それは止悪行善のため、自分の過ちがどこなのかを知り、これ以上過ちを犯さなくなり、貪求しなくなるため、善の福報が始まるからだ。さもなくば、拝めば拝むほど精神的な問題が出てくる。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような人をたくさん見てきた。リンチェンドルジェ・リンポチェは数十年修めたが、まだ大丈夫だ。そなた達は数年しか修行していないのに、もう精神的におかしくなり、どこかから声を聞いた、などと言っている。

『金剛経』では『色相、声音を用いて仏に求めるのは邪説だ』とはっきりと説いている。これは釋迦牟尼仏が言われたのだ。なぜ間違えるのか?それは学仏を始めたばかりの頃、少し聞いただけで、家で自分で修行できると考えるからだ。何を修行できるのか?今になっても、たくさんの弟子が理解できていない。どこにそんな簡単な話があるのだ?そなた達には経典を読む因縁がない。よって『寶積経』のこの段は非常に重要なのだ。みな覚えておくように。だが、できるかどうかは、リンチェンドルジェ・リンポチェの知った事ではない。

経典中で仏は阿難に『東方には恒河沙界(ガンジス川の砂のように無量無数にある世界)がある』と仰せだ。なぜ釋迦牟尼仏はガンジス川についてよく語られるのか?それは、ガンジス川はインド人の生命の源で、中国人にとっての黄河と同じだからだ。古代中国に黄河がなかったなら、中華民族もなかっただろう。インド人が今まで存在しているのは、ガンジス川があるからだ。そのため、仏はしばしばガンジス川について言われる。インド人なら体得できるからだ。『恒河沙』とは岸辺と河底の砂を含む。それは数え切れない数字だ。数えられるはずがない。つまり、仏はガンジス川の砂により数の大きさを比喩しておられるのだ。仏土はそなた達が想像しているようなものでは絕対になく、たくさんある。宇宙もたった一つの太陽系、銀河系だけというように簡単ではない。夜空に見える星のすべてが仏土で非常に龐大なのだ。人類が計算できるものではなく、スーパーコンピューターであっても数えられない規模なのだ。

このように龐大な数量において、我々人類は宇宙では一粒の砂としての資格さえない。一人の人間は一粒の砂の中の小さな分子に過ぎない。何を驕ることがあろうか?それでも自分はうまく修行していると思っているのか?我々は宇宙全体の一分子に過ぎないのだ。昨日ある信衆がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来て、『衆生を救いたい』というので、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に出て行ってもらった。おかしいと思うだろう。衆生を救いたいと言っているのに、なぜ出て行かせるのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェでさえ、自分は衆生を救っているとはとても言えないからだ。『金剛経』中では『自分が度衆していると考えるなら、それは菩薩ではない』という。現在たくさんの弘法人が信衆に発心と衆生への利益を求める。だが『金剛経』中では我々に破四相を求めるが、その内の一つは衆生相なのだ。以前リンチェンドルジェ・リンポチェも『寶積経』中の内容について開示したことがある。破四相するなら慈悲喜捨を修めなければならない。慈悲喜捨さえ修められていないのに、何を以って自分が衆生を救えると言うのか?

他人に読経、菜食を勧めれば衆生を救ったことになるのか?それは結縁しているに過ぎない。経典を持ち帰るよう他人に勧めれば、衆生を救ったことになると思うのか?これはただの結縁なのだ。実は冤親債主を含む衆生は我々の修行を助けてくれている。もし、病に罹らず痛みがないなら、寶吉祥仏法中心に来るだろうか?恐らく旅行に行き、ボーイフレンドとあちこちで自撮りし、すぐにネットにアップするだろう。そなた達は問題があるからこそ来るのだ。それなのに、なぜ言うことを聞かないのだ?自分はこうしたいああしたいと考えている。何がしたいのだ?あれもこれも欲しがり、それは貪念ではないか!もし人が無常を深く信じ、無常を知っているなら、幸せであろうと苦しんでいようと、安穏と日々を暮らすことができる。リンチェンドルジェ・リンポチェは瀕死の際にも、安穩と過ごし、漢方医である弟子に、娘を叩いてはならないと言っていた。できるものならやってみるが良い。瀕死の際にどうなるか?恐らく『私は死に行こうとしている。夫は、妻はどうなるだろうか?』と考えるだろう。これこそ修行ができていないからだ!

仏は『東方は恒河沙界のようだ』と仰せになった。『界』とは一つ一つの仏土、界線だ。『一一界中如恒沙仏』と釋迦牟尼仏ははっきり仰せだ。仏がたくさんいる、と。地球上で人類が有史以来認知してきたすべての宗教の中で、仏教だけが『衆生は平等』と言う。『衆生は平等』と言っても、そなたと総統、父親が平等だというのではない。衆生は誰でも成仏の本質を備えており、一切の有情衆生はみな清浄な本性を備え、平等だということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて、魚を生きさせようと、犬が鼻で、地面に横たわる魚に水をかけ続ける様子をテレビで見たことがある。魚は水の中で生きていることをこの犬は知っており、この犬には仏性があることを示している。また、リンチェンドルジェ・リンポチェはあるドキュメンタリーで、動物園で飼育されているオランウータンが水に落ちた鳥を見て、葉を使って鳥を救おうとするのを見たことがある。オラウータンは葉を二、三枚使って、ようやく鳥を掬い出し岸に上げて、鳥が飛び立って行くのを見ていた。そなた達なら、鳥がいつ溺れ死ぬかを興奮して観察するだろう。こうして見れば、我々は畜牲にも及ばない。

以前あるドキュメンタリーで、アフリカでゴリラを専門にケアしているあるアメリカ人を紹介していた。その中で、大中小さまざまな大きさの数頭のゴリラが毛虫を見ているシーンがあった。彼らの目の前には樹の幹があり、その上に毛虫がいて、それが匍っている。毛虫を見ているゴリラの表情から『この虫は動いている』と思っているようだと分かるが、手を伸ばして触ろうとするゴリラはいない。そなた達なら、樹の枝で虫をどかしてしまうだろう。動物であっても他の生命を尊重することを知っているのだ。そなた達は誰を尊重しているのだ?自分の感覚のみを尊重しているではないか!

つまり、仏が仰せの『恒沙仏』とは『仏は恒沙のようだ』というのではなく、『仏はガンジス河の岸辺と河底の砂のように多い』ということなのだ。経典では『彼諸仏等各各称歎阿彌陀仏無量功徳、南西北方四維上下、諸仏称歎亦復如是』という。この段では、『阿彌陀経』で仰せのことを仏は繰り返されている。内容がシンプルなだけだ。

経典では『何以故。他方仏国所有衆生。聞無量寿如来名号。乃至能発一念浄信歓喜愛楽。所有善根回向願生無量寿国者。隨願皆生得不退転。乃至無上正等菩提。除五無間誹毀正法及謗聖者』という。

つまり『すべての仏国、衆生は、無量寿仏、すなわち阿彌陀仏の名号を聞きさえすれば、一念発起する』というのだ。二つの面から考えよう。仏号をプレーヤーで流し、たくさんの人や畜牲に聞かせれば、彼らを阿彌陀仏のお側へ行かせられると考えている人が多いが、実はそうではない。上師が念じたものでないなら、プレーヤーで聞くのでは役には立たない。結縁できるだけだ。プレーヤーが衆生を超度できるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは引退しよう。尊勝なる直貢チェツァン法王に報告し、施身法を修める声を録音し、毎日流しているだけで良い。

人はますます怠惰になっている。科学はどんどん発達しているが、人は怠け者になっている。考えてみよ。毎日どれだけの時間を念仏に費やしているか?自分の生活と仏法とは関係があるかをどれだけの時間を費やし思惟しているか?まったく為されていない。自分は拝仏し、法会に参加し、発願し、拝懺しているので、すべてできていると思っているだろう。ではなぜ、なお病を得るのか?簡単だ。それは、福報を修められていないからだ。そなた達は必ず聞く。『拝仏すれば福があるのではないですか?』と。先ほどリンチェンドルジェ・リンポチェは開示した。浄信、すなわち清浄な信念がなければ、少しの事さえ自分のためには求めない、このような拝仏でなければ、福報が起きることはないのだ。

そなた達は少し拝むだけで、たくさんを求め『自分は病を得て、精神が錯乱しているので、声が聞こえます。仏菩薩、どうか私を良くしてください。良くならなければ修行を続け、たくさんの衆生を救うことができません』と仏菩薩を脅している。これらはすべて世迷い言だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、死んでもこのようなことを仏菩薩には求めない。2007年リンチェンドルジェ・リンポチェは雪山で閉関時に息が止まったが、護法アキに救いを求めることはせず、ただ護法アキに『リンチェンドルジェ・リンポチェが役に立つとお考えならお残しください。役に立たないとお考えなら、リンチェンドルジェ・リンポチェをお連れください』とお伝えした。そなた達なら、自分はまだ衆生を済度させておらず、道場にはたくさんの弟子がおり等の話をして、アキに『死なせないでください』と求めるだろう。このような執著心があるなら、道場に戻りゴキブリになるだろう。戻ってきて上師、弟子になれるなどと思ってはならない。なぜならこのような執著、脅迫、強求は菩提心ではなく、自分が死にたくないだけだからだ。

今日開示するこれら内容を、みな覚えておくように。阿彌陀仏を念じて他人に聞かせれば、その人と阿彌陀仏とに縁を結ばせることができるなどと考えてはならない。どんな心で念じているのか?経典では『阿彌陀仏の仏号を聞くには、必ず証量の修行人が講じるのでなければ役に立たない』という。釋迦牟尼仏が講じられる仏法は非常に簡単だと思ってはならない。釋迦牟尼仏が、一般人が仏号を念じても衆生を浄土に往生させられるとお考えなら、もう少したくさん講じられただろう。だが仏はそうしておられない。しかも、さらに条件がある。条件と言っても、釋迦牟尼仏が出された条件ではなく、福、功徳、因縁がないなら、どうしたって行けないと言うことだ。阿難尊者は阿羅漢なので、仏がたくさん講じなくとも、一言で理解してしまうからだ。そなた達のように、リンチェンドルジェ・リンポチェがどんなにしつこく言っても、聞かせることができないのではない。そなた達は石のようだ。いや、ただの石ではなく、ダイヤモンドのようだ。硬度は10度で世界で最も硬く、どうしたって砕くことはできない。いつも自己流で自分のやり方を通し、道場を一歩離れれば別の人になってしまう。まったく仕方がない。

経典では『すべての衆生は諸仏の願。一切の仏はすべての衆生が輪廻を解脱できることを願っている』という。衆生は業障が重く、一生かかっても、数百世でも輪廻解脱を修められないため、釋迦牟尼仏は阿彌陀仏をご紹介くださったのだ。阿彌陀仏にはある特色がある。それは、そなたのこの一生の善業が完結していなくとも行けることだが、悪業があるなら行くことはできない。動物を連れていっしょに行けると考えている人がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは『阿彌陀経』と『寶積経』をよく見たが、動物について触れている部分はなかった。ただ、鳥には触れていた。しかも特別に、これら鳥は仏の神力により変えたものだと説明されている。だが、鳥が鳥になり、犬が犬になり、そなたのペットであり続けるのではないのだ。これは起こらないのだ。畜生道からも天界へ行けるが、少し悪ければ人界へ行く。天界といっても最低の欲界天だが。誤解してはならない。浄土に往生する衆生中には動物もいるのだ。動物は言葉をはっきりとは理解できないが、死ねば分かるようになる。清浄な本性を取り戻すからで、そのため自分を超度してくれる人がいると分かるのだ。最近リンチェンドルジェ・リンポチェは一匹のネコを超度させたばかりだ。

経典では『無量寿仏名号を聞いた後はすぐに一念発起しなければならない』とある。『一念』とは口に出して読むことではなく、念頭のことだ。簡単に言えば、つまりは呼吸だが、現時点でそれを検查することはできない。一呼一吸の中で、呼吸が長ければ定力も長い。呼吸の際、呼気と吸気の間の非常に短い時間、心念は停まっている。だが、一般の人はこれを感じることはできない。禅定ができれば、自分が息を吸い、息を吐く前の時間、心念が完全に停まっていることが徐々に感じられるようになる。その剎那は少しの念頭もまったくない。一切何も考えていない。

『一念』とは何なのかを説明できる人は少ない。なぜなら感じられないからだ。『一念』とは『一つの念頭』ではない。念頭には分粗念頭、粗細念頭、細念頭、微細念頭、微微細念頭がある。そなた達が想像しているように、自分は考えていない、と考えることではない。『考えていない』は、これも一つの『念頭』なのだ。自分は今日非常に定まっている、と考えることも一つの『念頭』だ。よって、この説明ではない。頭を空っぽにする、或いは何も考えない、では絕対にない。仏は経典中で、この『念』という文字をたくさん用いておられる。例えば『阿彌陀経』中では『一念到十念』とある。これはつまり、一回一回の呼吸の定の中により仏号を呼ぶことだ。すなわち、清浄で、一切の妄念がないのだ。清浄な本性を以って念仏しなければ、作用を生じることはない。

なぜ、どのように念仏しても全く役に立たないのか?それは、汚れておかしなものが心にたくさん存在しており、意識を用いて念仏しているからだ。始めからできるなどあり得ない。訓練しなければならない。ゆっくりと自分を訓練するのだ。仏法の特徴は他の宗教とは異なる。他の宗教は、いわゆる神跡、感応を体験させる。仏法では、上師が教える方法を通して、順序に従い、自己の内心世界の変化を感じさせる。自分は感じたか、見えたか、事態が好転したかを感じさせるのではない。これらはすべて余分なことで、これとは無関係だ。修行者、大成就者の加持に力があるのは、この定のためなのだ。よく戒守できれば、定力も自然に出現するだろう。

『一念清浄』とは、行者が一剎那の間に意識から清浄な本性に転換することで、凡夫俗子が為せるものではない。よって、経典では『一念ですぐ行ける』と講じている、とリンチェンドルジェ・リンポチェが言ったので、自分も一念を考えればすぐに行けると誤解してはならない。そなた達はやはり意識を用いて考えている。どのように訓練するのか?それについては後で開示しよう。なぜなら、釋迦牟尼仏はこのような面倒なことは仰せでないからだ。仏が講じられた後、後の上師が仏の仰せの説明に責任を負うのだ。釋迦牟尼仏は関わられる事が多いので、講話はどれも非常に簡潔だ。

『歓喜愛楽』というが、これは非常に重要だ。つまり『法喜充満』で、すなわち『何らかの事柄のために仏号を念じるのではなく、ただ歓喜だ』というのだ。『愛楽』とは『阿彌陀仏を愛する』のではない。もし、阿彌陀仏を愛してしまったなら、それは大変だ。なぜなら阿彌陀仏は男でも女でもないからだ。経典の記載によれば、阿彌陀仏は男女相ではお姿を現わされない。『愛楽』とは全世界で最も貴重なもので、清浄な念での念仏号に換えることはできないのだ。簡単に言えば、念仏号は自分の病、浄土往生等のためではなく、ただ仏号を耳にすれば歓喜し、歓喜に満ちて仏号を受け入れるのだ。そなた達のように、自分はどれだけ念仏したのだからどうなるべきだ、などと条件を提示するのではない。多く念仏してもどうなる等ということはない。これはそなた自身の事だ。

『所有善根回向願生無量寿国者。隨願皆生得不退転』とは、この一生で植えつけたすべての善の根器、すなわちこの一生で為したすべての善事を回向しないなら、この善の根はなく、花報になってしまうということだ。よって善因はこの一生或いは次の一生で善果となるが、善根にはならないのだ。善根は重要だ。一切の慈悲はすべて善根から始まる。善の根器がないなら、慈悲を修めることは絶対にできない。いかにして善根を累積するのか?それは回向によってだ。拝仏すればすぐに病気が良くなり、事態がすぐに好転するというのではない。衆生を救えばすぐに報いがあり、たくさん寄付すれば特別な衣装が身に付けられ、ある団体に加入すればこの工事を請け負える、というようなものではない。これらはすべて善根ではない。

善根のポイントは、仏がお教え下さった仏法に従い行うということだ。いつ結果が花開くかを追求せず期待せず、いつ萌芽するかを追い求めず、ただひたすらに行う。こうすることで根がどんどん良くなるのだ。さもなくば、根の中には悪癖がある場合もあり、善根の萌芽時、悪根もいっしょに芽を出すだろう。なぜ、我々の一生には良い事も悪い事もあるのか?それは、累世で為した善根を回向しておらず、自分は修行していると考え、或いは口だけで心を込めないで回向し、回向後自分の手元には何も残らないと恐れる。自分の分さえ足りないのに、なぜ回向するのだ?と人が言うのをリンチェンドルジェ・リンポチェは聞いたことがある。

回向を絕対にしなけばならない。しかも、回向は仏法における特別な修行法門なのだ。他の宗教にはない。なぜ仏は我々に回向をお教えなのか?それは我々に福報がないからだ。仏号を唱えればすぐに福報がある、などと考えてはならない。回向する機会を生かし、諸仏菩薩と深い縁を結ばなければ、善根が深く植えられることはないのだ。こうすることで、少しの水で善根が流されてしまうことはなくなる。善根はどこに回向されるのか?すべて浄土へ回向される。阿彌陀仏をたくさん唱えれば、病気が治り、病気が良くならなければ行けないと考え、さらには良くならなければ、浄土でも病を患い続けなければならない、と言う人がいる。これは全く誤りだ。世間的なこの種の説は戯言だ。この一生の病気が治らなければ、次の一世でも同じように患うとまで言っている。

我々がそれぞれの一世で患う病は非常に複雑だ。過去の因、現在の環境など種々の素因がある。昨年の初め、リンチェンドルジェ・リンポチェは台湾の食品は有毒だと開示したが、そなた達を含め誰も信じなかった。数十年食べても死んでいないのだから、有毒だなどあり得ないと思ったのだろう?

そなた達は上師の話を聞き流すばかりだ。子供にドリンクを飲ませてはならない、身体に良い食品を食べさせよ、と言い続けているが、そなた達は、子供が欲しがるのでと言う。実はそなた達が食べているのだ。ある弟子は食いしん坊で、病気になってしまった。彼女は時間があれば買いまくり、金があれば買いまくり、身体を壊しながら、身体に良い食物を食べない。そなた達はみな病気だ。さもなくば、どうして寶吉祥に来るのだ?

リンチェンドルジェ・リンポチェはほとんど誰も言わない重要な事を開示しよう。我々人は地球に暮らしている。本来身体は地球と宇宙周囲のエネルギーに適応している。これは自然だ。だが、現代は科学が過度に発達し、我々の身体は毎日さまざまな電波の深刻な干渉を受けている。IT企業の社員、IT大手に勤めている人の多くは脳神経や生育面に異常を抱えている。なぜなら彼らは毎日スクリーンを見つめ、電波を脳に受け続けているからだ。これでは異常が起きる可能性が高い。わずか数万元を多く稼ぐためにだ。もし用がないなら、コンピューターの前に座らないことだ。また、用もないのに一日中SNSを使ったり、メッセージアプリを使わないことだ。かつてはこれらがなかったが、ちゃんと暮らせていたではないか?

すべての善根を世間の福報のために残してはならない。少しでも残してはならない。『世間の事を解決しなければ安心して死ねない。そうでなければ、この一生に心を残してしまう』と考えている人が多い。これはただの文学的な言い方にすぎない。経典では『所有善根回向願生無量寿国者。隨願皆生得不退転』という。よって、十善法は必ず修めなければならない。肉食殺生する者は絕対に行けない。十善法は先ず不殺生だ。他人に嫉妬する者も行けない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、愛人を恨んではならないとしばしば諌める。女性はよく動物を恨む。動物を恨むのは、貪、嗔だ。嗔念があれば、十善法の修行成就はない。どうやって行くのだ?一日中阿彌陀仏を唱えて、動物を阿彌陀仏のお側へ行かせようとしている。動物は明らかに行けないのに、弄んでいるのか?

なぜ修められないのか?考えが十善法を修めていないからだ。『この動物が非常に憎い。夫を連れ去ってしまった』と言うだろう。だが突然動物を好きになったのも、彼なのだ。つまり、彼が突然人を嫌うようになったのだ。夫に帰って来てもらいたいなら、そなたも愛人になり、みないっしょにリン輪廻すれば良い!人の考えは誠に奇妙で、非常に分かりにくい。たくさんの人が梁皇寶懺を拝んだことがあるだろう。なぜこの懺があるのか?梁武帝の妃は、在生時に他の妃を嫉妬して恨み、彼女らと寵を争い、彼女らを陥れた結果、死後にニシキヘビに変わってしまった。つまり、女性がニシキヘビ、毒ヘビに変わる機会は男性より少し高い。男性も機会がない訳ではない。現在では女性と同じだ!

この種の嗔念は、十善法を修めていないからだ。分かるだろう。いわゆる十善法とは一から十までで、一から五つ修め、残りの五つは適当で構わないというのではない。経典ではこのようには言わない。一日人を罵倒し、他人が良くしてくれるのに、それでも怒るなら、これこそ悪口だ。他人が我々に対して少しの恩があるなら、我々は必ず覚えていなければならない。他人に害されたことがあろうとも、仇ではなく恩を覚えていなければならない。こうしなければ、十善法を修めることはできない。他人に害されたことがあり、心に怨恨が生まれたなら、十善法も終わってしまう。十善法は簡単だと思っている人が多いが、どこが簡単なのだ?十善法まで修めることができたなら、次の一世に人道に生まれることはすでに保証されている。修行さえする必要はないし、上師に叱責される必要もない。十善法修行に努力するだけでいいのだ。だが、これは本当に困難だ。我々はこの末法時代の五濁悪世に生きている。だれの監督も受けないで、どうやって十善法を修めるのか?一つの『念頭』が悪なら、いつでも悪念を起こすのだ。

十善法を修めない人には、善根がない。仏号を唱えれば善根があるなどと思ってはならない。すべての修行人の根本条件こそ十善法なのだ。仏が言われる善男子善女人とは十善法が円満な人だ。そなた達は為せていない。善男子善女人であるはずがあろうか?『阿彌陀経』で言う善男子善女人でないなら、どうして行けようか?自分は病気なので、たくさん念仏し自分の病、癌細胞に回向すれば、自分によくしてくれるなどと決して思ってはならない。決してこんなことをしてはならない。不要だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつてガンに罹った。念仏により癌細胞と仲良くやろう、などと思ったことはない。癌細胞に回向し、癌細胞と共に西方極楽世界へ行こうなどという事を為したこともない。癌細胞は本来そなたの身体の一部なのだ。なぜ悪に変わったのか?それはそなたの心が純善でなく、なお悪があるからだ。

なぜリンチェンドルジェ・リンポチェの癌細胞は好転したのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが仏菩薩に救いを求めなかったからだ。尊勝なる直貢チェ・ツァン法王に修法を求めなかったからだ。自分でさえ修法せず、ただ毎日このようにしていただけだが、おかしなことに福報が修められ、善根が十分となり、癌細胞はリンチェンドルジェ・リンポチェと共に善になったのだ。細胞が悪に変わるのは、そなた達から来ているのだ。そなた達がそれの肥料だ。なぜならひたすら悪を注入し続けているからだ。ある弟子は何をするにも注意を払わない。これは悪だ。責任を他人に押し付ける。これも悪だ。何があってもすべて他人の過ちだとする。これも悪だ。

昨日ある公務員がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た。そして『ストレスが大き過ぎ、20日間寝ていない』という。リンチェンドルジェ・リンポチェは『ストレスがそんなにも大きいなら辞めれば良い』と言った。彼女は、二十年近くも楽に仕事をしてきたが、最近少し面倒なことが起きただけで、耐えられなくなってしまったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に『そなたはみなに借りがある。みなが納めた税金がそなたの給与なのだから』と言った。善根がなければ、人は事態がはっきり見えないのだ。彼女は悪の生活に慣れてしまっており、それが当たり前だと思っていたので、他人が少し注意しようとしただけで、それを批判する。これは非常に良くない。

『隨願皆生得不退転』とは『菩提心は不退転』だということだ。我々は娑婆世界にいるため菩提心はとても容易に退転する。仏教界の多くの人が退転というが、退転とはそなた達を言うのではない。そなた達は怠慢だ。昨日ある弟子が会いに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の脳腫瘍を抑え、十数年寿命を延ばしてやったが、最近また別の状況が出現した。なぜなら怠慢だからだ。六字大明咒を伝授したが、唱えない。不共四加行を伝授したが、それも修めたり修めなかったりで、自分が仏法を必要とする時にあれば良いと思っているかのようだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も言ったことがある。祖師ジッテン・サムゴンも何度も開示なさっている。病を患っても、上師が救えるのは一度だけだ。その後精進しないなら、病は戻って来る。

病気になるのは、つまり福報がないということだ。福報をほとんど使い切ってしまったということだ。上師は最初はそなたに福報を授けて使わせるが、その後は自分次第なのだ。『救急不救窮』とは、飢餓で死に瀕しているなら、先ず食べ物を与え救うが、自分の身体は自分で整え、働いて自分で自分を養わなければならないということだ。いつまでも助けてやろう、と言うのではない。だが、そなた達の今の考えは、自分達が満足するまで、仏菩薩と上師はいつでも助けてくれなければならない、というものだ。そんな都合の良いことがあろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは経典を見たが、どこにもそんなことは書いてない。そなた達が病気になれば、上師はそなた達の良くない福報を先ず停止させ、良い福報を先に動き出させる。だが、その後は自分自身でなんとかしなければならないのだ。経典に『善根がないなら、行きたいと願っても行くことはできない』とあるように。

『善根がない』とは、菩提心、衆生の成仏を助ける心が退いた、ということだ。たくさんの人が正にこうだ。経典では、八地菩薩はかつて退転の機会があった、という。誰かの菩提心が退転するかどうかは如何にして試すのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が瀕死の際、なおも弟子に、娘を叩いてはならない、と言っていた。これは正に退転していないということだ。そなた達ならどうだ?死に直面したなら『娘は帰って来た?娘は今どうなの?』と言うだろう。そなた達は常に自分のことを考えている。『不退転』として、阿彌陀仏のお側に行きたいなら、凡夫から登地菩薩まで修行し仏果と成り、少なくとも法身菩薩まで修め、さらに乗願して戻って来なければならない。たくさんの人が、自分はこの一生で発願したので、戻って来れば度衆できると考えているが、この言い方は正しくない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分はどこまで行ったとはとても言えないが、少なくとも絕対に三悪道で輪廻していないし、少なくとも絕対に人道で輪廻していない。これら条件がなければこの生はない。自分は発願して戻って来るので、修行者になれるなどと思ってはならない。この一生で十善法まで修められなければ、断悪の念がなければ、戻って来てもやはり修行人にはなれないのだ。経典で説くあらゆる語に対して、字面から意味を解釈するのではなく、それが含む意味を深く理解しなければならない。

『隨願皆生得不退転。乃至無上正等菩提』とは仏果を証することだ。そなたが在生時に、生生世世菩薩となり衆生に利益すると発願するなら、必ず十地菩薩、法身菩薩まで修めることができる。なぜなら法身菩薩まで行くと、菩提心は退転しないからだ。阿彌陀仏のお側は清浄な仏土だ。毎日聞こえる鳥の声、水の流れ、風が木々を揺らす音すべてが仏法だ。我々のいるここで聞こえる音は争い、罵倒、批判ばかりだ。吹いてくる風さえ叱責のようだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは2007年ラキ雪山の標高4500mの場所で閉関し、こうしてようやく『阿彌陀経』が説く鳥の囀りの修行人に対する重要性を体得することができた。その地の鳥の声はほんとうに平地とは異なる点がある。鳥の鳴き声を聞いてみよ。最初は自然の声だと思うだろうが、二時間聞き続けると飽きてくる。鳴き止んでくれないかと思い、さらに石を投げつけてやろうと思う。リンチェンドルジェ・リンポチェの閉関時、初日の午前三時半、一羽の鳥が囀りだした。その声は非常に明るく非常に耳に心地よく、谷を一回りするように響き渡り、その鳥が囀り始めると、あらゆる種類の鳥が鳴き始める。リンチェンドルジェ・リンポチェは起床せざるを得ない。その鳥は毎日必ず囀るが、リンチェンドルジェ・リンポチェの閉関がもうすぐ終了しようという頃、もしかしたらその鳥はリンチェンドルジェ・リンポチェを哀れんでくれたのかもしれない。囀り始める時間が三時半から四時半、そして五時へと変わった。リンチェンドルジェ・リンポチェの修行が速くなり始めたのを、その鳥は知っていたのだ。最初は真言を唱えることが非常に難しかった。始めたばかりの頃はリンチェンドルジェ・リンポチェの業力がなお存在しており、心がまだ十分に清浄ではなかったので、同じ真言でも、念じる速さが違ったのだ。

『阿彌陀経』で講じる事は実際に存在する。神話を拵えてそなた達を騙しているのではない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェが閉関時に聞いたどの鳥の鳴き声もすべて念頭を断ち入定を助けてくれたからだ。地球の人類は他の世界の人類とは違う。耳が最も鋭敏で、たくさんの種類の音を聞き分けることができる。自分達を心地よくできる音が現れれば、煩悩の心はすぐに滅してしまう。よって『阿彌陀経』で説く、鳥の鳴き声が修行を助けるというのは正しいのだ。音楽をやっている者は分かるだろう。良い音楽はみなを喜ばせ、良くない音楽はみなを悲しませる。これは同じ道理なのだ。もちろん仏法の音はさらに特別だ。雑念を抑え、停止させることができる。

経典では『除五無間誹毀正法及謗聖者』という。『五無間罪』は知っておろう。『正法』とは、自分と衆生とを輪廻から離れさせられる方法だ。菜食、拝仏、拝懺ではない。これらは助縁に過ぎない。いわゆる『正法』とは上師が講じるもので、それを学び修行した後、この一生で生死を解脱できるかどうかに関わるものだ。特殊な衣装や扁額を与えたり、或いは最近非常に発心しているので工事を請け負わせよう、などというのではない。『正法』では、今日いかなる世間の事を行おうと、すべてを仏法に変えることができる。上師ならどのように行うかを見るのだ。『謗聖者』とは、修行人を含む人々に対して救いになるあらゆるものを、誹謗してはならない、ということだ。

経典には『阿難。若有衆生。於他仏剎発菩提心。専念無量寿仏。及恒種植衆多善根。発心回向願生彼国。是人臨命終時。無量寿仏與比丘衆。前後囲繞現其人前。即隨如来往生彼国得不退転』とある。ここで言うのはもう一つの方法だ。どの仏国であろうと、衆生が菩提心を発しさえすれば、菩提心の根本は慈悲心だ。よって、もし慈悲心の力が発せられなければ、菩提心の力も当然出て来られない。一世で世俗菩提心、勝義菩提心を含む菩提心を発することができるなら、このような人は必ず仏土に往生できる。そなた達は現在慈悲心がなく、菩提心もない。ではどうするのか?それは先ほど言ったように、十善法を修めて、上師の教えを修めて実践すれば、出鱈目をしないなら、それでは、行ける。

『専念無量寿仏』とは、修める法門はすべてどれを念じても阿彌陀仏だということだ。これは、阿彌陀仏の仏号を専ら念じよ、というのではなく、すべての念頭が阿彌陀仏だ、というのだ。『華厳経』で説くように、起床した瞬間から、あらゆる思想、動作はすべて衆生を代表し、仏法のために行うのであって、自分が服を着替えたい、歯磨きしたい、洗顔したいためでは絶対になく、これこそ『念念為衆生(すべては衆生のため)』なのだ。『専念』とは単純に阿彌陀仏を念じるのではなく、念頭だ。『普門品』で説く『常念観世音菩薩』のように、永遠の念頭はすべて恭敬心なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェにとっては、金剛薩埵と他の諸仏菩薩を修めて、衆生に利益するが、念頭はすべて阿彌陀仏に恭敬だ。念じている真言ではなく、念頭なのだ。仏法で最も大切なのは念であり、口で何を念じているかではないのだ。

口で阿彌陀仏を念じても、心で動物が速く離れてくれるよう願うなら、念じているのは動物で、仏号ではない。よって次の一世は動物になる可能性が非常に高い。口で阿彌陀仏を念じても、心で子供の試験がうまくいくよう願うなら、次の一世は試験場のチョウになり、子供の試験がうまく行っているかどうかを見ているだろう。よって、心での念と口での念は一緒でなければならないのだ。心での念と口での念が違うなら、それは間違っており、仏菩薩と結縁できるに過ぎず、いくらかの人天福報を植え付けられるだけで、未来でたくさんの世を経た後でなければ良くならないだろう。なぜ、ガンが治らないのか。それは、どんなに念じてもこのようだからだ。つまり念頭に問題があるからだ。病気が良くならなければ精進することはできません、などと諸仏菩薩に条件を提示する必要はないのだ。病気が良くならないなら、精進する必要はないのか?密宗では、病は道用であると説いている。病気があるからこそ精進するのであって、病気が治ったら帰ってしまうだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェはガンになった時、治してくださいなどと仏菩薩に一切願わなかった。今回もリンチェンドルジェ・リンポチェは死の間際まで行ったが、非常に精進し、退転しなかった。精進のポイントは、菩提心が退転しないことだ。自分が屏東へ度衆に行き、もう少しで死ぬところだった、と言って、衆生への救いを止めたりせず、毎日同じように修法するのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分のために修法するのではないが、非常に精進し、多く念じればどうだ、多く拝めばどうだというのではない。

『及恒種植衆多善根』とは『永恒(永遠)』だ。呼吸のその剎那にも善根を植え付けなければならない。世間におけるあらゆる動作、一つ一つの『念頭』、あらゆる一言で衆生の好転を願わなければならない。よって、責任転嫁は最悪だ。過ちを犯せば、それで十分に良くないのに、その責任をさらに他人に押し付けるとは。これは他人を害しているのではないか?ある弟子は皈依して数年になるが、どうしたことか乳癌になった。なぜか?いま彼女はしばしばリンチェンドルジェ・リンポチェに叱責されているので、状況は良くなった。だが、自分の乳癌がこれで治るなどと思ってはならない。ただ抑え込んでいるに過ぎない。悪念を起こし過ちを犯すと、あの人が言わなかったから、どうだのこうだのと言う。これは現代の流行文化だ。なんということだ!

人はこのようであってはならない。自分がうっかりしても過ちを犯したなら、それは過ちなのだ。どうして他人のせいにすることができようか?細部に注意せず正しくやらない。それなのに他人の過ちだとする。自分の因縁だとしか言えないだろう。福報が良い人は慎重でなく、うっかりしていても、誰かが教えてくれる。いわゆる『貴人(助けてくれる人)』が現れるのだ。なぜそなた達には貴人がいないのだ?それは、前世で他人を助けたことがないからだ。そのため、この一生で誰も助けてくれないのだ!なぜ、そなたにはこんなにも多くの『小人(陥れる人)』がいるのか?それは、過去世で小人だったからだ!出家衆の中にもいる。なぜなのか?それは、自分で招いているのだ。似た者同士が集まる。それなのになお他人を小人だと批判している。その結果はまた悪だ。悪が来れば、十善法は消えてしまう。

『火焼功徳林』とは、怒りを爆発させることではなく、修めた功徳を燃やしてしまうことだ。『火焼功徳林』とは、菩提心を発し修めたたものだけが功徳で、菩提心がないなら何を修めても功徳はない、ということだ。功徳は自分のためではなく、十善法の修行が基本中の基本だ。そなたが嗔恨の心を起こせば、嗔恨の心とは火なので、嗔恨の火はそなたが修めた樹林を炭に変えてしまう。炭はまだ使えるが、だが炭がいいか、木材がいいか?当然木材の方が高く売れるだろう!よって、人天福報に変わってしまい、この一生では使えなくなるのだ。この言葉の意味が分かっただろうか?分かったような、分からないような様子をしている。家で、今日の開示をしっかり考えるように。

怒りを爆発させることが『火焼功徳林』だと思っている人が多いが、実はそうではない。最も重要なのは嗔恨の心だ。表面的に怒っていても、実はそれは相手のためを思ってなら、それは良い。そなた達もリンチェンドルジェ・リンポチェが弟子を罵倒するのをしばしば目にするだろう。だが、それは短気を起こしているのではない。彼らが教えに従わないので、リンチェンドルジェ・リンポチェは忿怒金剛相を現さなければ、怖がらないのだ。ある弟子は正にこうだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが修法する際に法本を準備しないのだ。

『恒種』とは『不停止』だ。そなた達はしばしば『自分は充分にやった。これもやったし、あれもやった』という。それではもったいない。なぜなら停止してしまうからだ。一日でもまだ成仏していないなら、衆生のために福報を累積しなければならない。自分で用いるためではなく、衆生に使わせるためでなければならない。今回リンチェンドルジェ・リンポチェに危険な事態が生じた。リンチェンドルジェ・リンポチェは『健康を用いて衆生を超度させた』と弟子に伝えた。だがそれでも、リンチェンドルジェ・リンポチェが修めた功徳を持ち去ることはできないのだ。尊勝なる直貢チェ・ツァン法王も事後に、リンチェンドルジェ・リンポチェにこのようにお教えくださった。修行で得た功徳は、誰も持ち去ることはできないのだ。永遠にそなたのものだ。これら功徳を用いてどうするのか?また一人の良い人になるのか。そして、また罵倒を始めるのか!これら功徳を用いて生命を延続させるのではなく、子供のために数年長生きするのでもないのだ。

功徳と福徳の違いは、衆生のために人生に対しているか、自分の健康のために人生に対しているかだ。毎日何のためにバカらしいほどの時間をかけて検查しているのか?福報が起きたなら、検查などしなくとも良くなるのだ。良くならなければ、それは功徳がまだ修められておらず、十善法がなお円満でなく、自分にはなお欠陥があるので、注意しなければならないということだ!修行は難しいだろうか?非常に難しい。なぜなら己をはっきりと見極めるのは非常に難しいからだ。修行は容易か?非常に容易だ。それは、金もいらず、名声もいらず、一日中叱ってくれる上師がいれば、非常に容易だからだ。

『発心回向願生彼国』とは『すべての善根を発心回向する』ということだが、『発心』とは、自分が阿彌陀仏のお側へ行くと発願することではない。菩提心を発することだ。衆生がみな浄土に往生できるよう願うことだ。当然、そなた達には衆生を助ける能力はないし、自分と関連のあるすべての衆生を現在そなたと共に行かせることはできない。だが、この心が非常に重要なのだ。これは未来成仏の種子で、未来に阿彌陀仏国土へ行き登地菩薩となる種子だ。そなたがこの心を発しないなら、疑城へ行き、阿彌陀仏の教法が国土の外に生じることを懐疑するだろう。疑城内では500世のあいだ仏法を聞くことができないが、それはこのためだ。

経典が講じることを聞かず、行わず、自己流を貫くのが、懐疑だ。懐疑は不信ではない。講じられた方法がどうなのだ、行わなければどうなのだと懐疑し、すでに往生を求めているのだから、まさか行かせないことはないだろう、と考える。もしそうなら、どうして行けるだろうか。だが、仏土の外、辺界に近い外に生まれ、500世のあいだ仏に会えず、仏法が聞けない。なんと悲惨なことだろう!500世とは人類の時間に比べれば非常に長い。よって、先ほどの開示の方法を行わず、この一世でできなくとも構わないが、決して疑心を起こしてはならない。『どうしてこうなのだ?少し残すだけでもダメなのか?』と思ってはならない。それが良いとなれば、それでも良いが、それはそなたの事だ。仏となんの関係があるのか?経典でははっきりと『恒』とは『永恒』だとある。すべてを回向しなければ生彼国を発願できないのだ。

経典では『是人臨命終時。無量寿仏與比丘衆。前後囲繞現其人前。即隨如来往生彼国得不退転』とある。ここは極めて特殊だ。比丘衆に触れるのは、二つの考え方からだ。一つは、この一生で仏のように出家相を現していること。二つ目は、未来世での出家をすでに発願しており、比丘相を現し、そなたを迎えに来るということだ。よって、そなたが出家を発願しておらず、この一生でも出家相を現していないなら、比丘も化身仏も迎えには来ない。仏は非常に詳細に説かれ、そなた達を騙してはいない。ただ、そなた達が大雑把なだけだ。浄土五経をこんなにも長く念じながら、この段に気づいていないのだ。なぜか?なぜなら『寶積経』という経を見る福報がないからだ。この経はあるが、そなた達は気付かない。なぜか?それは、浄土は非常に簡単で、誰が行けないだろう?と思っているからだ。みな今聞いて分かっただろう。実はとても難しく、だが複雑ではなく、教えを守れば簡単に行けるということが。

『前後囲繞現其人前』とは、そなたが息を引き取る前に出現し、そなたをしっかり保護し、冤親債主やそなたを揺すぶる者、そなたを死なせないようにする者が出現しないようにする。そなたの側で楽器を打ち鳴らす儀式も現れない。なぜならそなたをしっかり保護してくれるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは1996年から今まで衆生を超度させているが、種々の業障を見てきた。それは亡者が生前にこれらを行っていなかったためだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが、言いつけを守り、実際に行うよう、口を酸っぱくして繰り返し言うのも、そなた達はみなリンチェンドルジェ・リンポチェより若く、リンチェンドルジェ・リンポチェよりも後に死ぬ可能性が高いからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがいないなら、誰もそなた達を救ってはくれない。だが、そなたがすでに発願しているなら、その時には、リンチェンドルジェ・リンポチェは阿彌陀仏に連れ出されて来るだろう。

必ずこのように行わなければならない。適当にやってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が何かを得たいという目的があるのではない。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが本当に自分の目的を達成するためであるなら、病を得て死にそうなのに、どうしてこんなに苦労する必要があるのか?少なくとも一年くらいは休んでもいいだろう。他の人なら一年休みながら、結縁だと言って、ご祝儀はいつも通りもらうだろう。経典では、如来に従い往生し『当証無上正等菩提』という。これなら非常に良い。十二小劫さえも待つ必要はない。すぐに証できるため、そなた自身が修めた法門と関係があるのだ。

釋迦牟尼仏はさらに『若有善男子善女人。願生極楽世界欲見無量寿仏者。応発無上菩提心。復当専念極楽国土。積集善根応持回向。由此見仏生彼国中。得不退転乃至無上菩提』と仰せになった。善男子善女人まで証できたなら、発願して極楽世界へ行き阿彌陀仏にお会いしたいと願っても、この願力によって行くことができ、阿彌陀仏がお迎えに来てくださるのを待つ必要はない。みな、この言葉の意味をしっかりと理解しなければならない。それは、願力は非常に強いということだ。誰かがどこかへ必ず遊びに行きたいとする。そして、必ず行くという強い願を発する。すると、阿彌陀仏がお迎えに来られなくとも、常にこの願を発していれば、その願力によって行くことができるのだ。当然、生前の条件としては、善男子善女人であり、しかも無上菩提心を発していなければならない。

無上菩提心を発すれば、この一生で菩提道を行くのだろうか?触れてはいないが、菩提心は必ず出現する。あらゆる仏号、あらゆる拝懺、あらゆる言葉は、すべて自分のためではなく、自分が行うこの動作によって衆生が利益を得られるよう願うのだ。科学的に言えば、今見えるのは1200人余りだが、この空間の中には、我々の目には見えない無数の生物がいる。そして、それら生物は、我々の一つ一つの動作、念頭の電気エネルギーを感じることができる。よって、我々の一つ一つの『念頭』、動作がすべて衆生のためであるなら、彼らはそれも感じることができるのだ。なぜチベット仏教では大礼拝を行うのか。それは地面にうつ伏せになり拝む時、たくさんの衆生も一緒に拝むことができるからだ。覆う面積がより大きくなるので、背が高く、太っていた方が良い。チベットではこう言うが、実際にもそうなのだ。

経典では『願生極楽世界欲見無量寿仏者。応発無上菩提心』という。ここでは『無量寿仏にお目にかかりたい』と言い、『仏にお迎えに来ていただきたい』とは言わない。阿彌陀仏にお目にかかりたい、と言うが、在生時にお目にかかるのではなく、この世を去る時にだ。なぜなら願力がそなたを押し上げ、向こうで阿彌陀仏にお目にかかれるからだ。だが、条件は無上菩提心を発することだ。無上の定義とは、衆生に利益するために成仏する心だ。法本中ではひたすら念仏するが、衆生のために成仏を願うので、自分が成仏し楽に日々を暮すためではないのだ。なぜなら成仏後には円満な福報智慧があるので、こうして初めて広大無辺無際の衆生に利益できるのだ。無上とは、成仏が自分のためではなく、衆生のためだということで、こうでなければ無上の菩提心ということはできない。

『復当専念極楽国土。積集善根応持回向』でいう念頭は先ほどとは異なる。先ほどの念頭は、阿彌陀仏を専念するが、ここでは極楽国土を専念する。よってこれを修めるには、『観無量寿経』が形容する阿彌陀仏国土の様子を理解し、在生時に観想しなければならないため、上師による教導が必要だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが阿彌陀仏超度法を修める時、念じるものの多くで、阿彌陀仏国土の様子を形容している。『専念』とは修法の前に念頭全体で仏土の出現を観想するということだ。これは一般人ができることではなく、密法事部と行部を修め、すでに成就していなければ、絕対にできるものではない。『阿彌陀経』と『無量寿経』では紹介しており、『寶積経』では、阿彌陀仏国土についてさらに詳しく説いている。これは普通の人ができるものではない。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェは再び国土について説明しない。それは、そなた達には観想できないからだ。なぜできないのか?それは心がまだ清浄でないからだ。釋迦牟尼仏が仰せの『心浄国土浄』とはどういうことだろうか?それはそなたの心が清浄でなければ清浄な仏土は現前しないということで、心が清浄でなければ観想できないということだ。心が清浄でないなら、絵を描いて見せたとしても、観想で誤るだろう。そのため『心浄国土浄』なのだ。心が清浄なら国土が清浄だというのではない。外の環境のこの状態はやはり存在しており、清浄になることなどあり得ない。大切なのはそなたの心なのだ。この前、リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関した際はとても暑く、40数度もあった。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分が地獄で清浄な念頭を以って地獄の衆生を救っていると観想したところ、すぐに暑さを感じなくなり汗も引いてしまった。このようにできるのだ。仏が仰せの『心能転境』は為せるのだ。ただ、自分の因縁福徳次第なのだ。今のそなた達には無理だ。リンチェンドルジェ・リンポチェを真似て、わざわざ40数度まで室温を上げたりしてはならない。そうして、暑気中りしても、リンチェンドルジェ・リンポチェに責任はないぞ。

仏は続けて阿難に『若他国衆生発菩提心。雖不専念無量寿仏。亦非恒種衆多善根。隨己修行諸善功徳。回向彼仏願欲往生。此人臨命終時。無量寿仏即遣化身。與比丘衆前後囲繞。其所化仏光明相好與真無異。現其人前摂受導引。即隨化仏往生其国。得不退転無上菩提』と開示なさった。この段では、仏はとてもはっきりと講じておられる。いかなる法門を修めようと、すべて極楽世界に往生でき、専念でなくとも、念頭が阿彌陀仏だけでなく、永恒にたくさんの善根を植え付けなくとも、自分の修行による諸善功徳を彼仏に回向し往生を願えばよい。つまり、功徳は非常に重要なのだ。功徳があれば行け、功徳がなければ行けないのだ。功徳を修め、阿彌陀仏国土に回向し、往生を願いさえすれば、臨終の際に息が止まるのを待つまでもなく、無量寿仏が化身と比丘衆を遣わして前後を取り囲み迎えてくださり、不退転無上菩提を得ることもできる。

仏は開示を続けられ『阿難。若有衆生住大乗者。以清浄心向無量寿如来。乃至十念念無量寿仏願生其国。聞甚深法即生信解。心無疑惑乃至獲得一念浄心。発一念心念無量寿仏。此人臨命終時。如在夢中見無量寿仏。定生彼国得不退転無上菩提』と説かれた。

リンチェンドルジェ・リンポチェはある信衆を思い出した。その者は生前、仏寺のナンバー2の地位にあった。ガンを患った時、病院で浄土への往生を発願したが、自分が眠ってしまい阿彌陀仏にお目にかかれないのではないかと心配し、眠ることを恐れていた。その時リンチェンドルジェ・リンポチェは『心配無用だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが手伝うので、夢を見たとしても、迎えに来られるから』と告げた。当時リンチェンドルジェ・リンポチェはこの段をまだ読んだことがなかった。今日初めて経典中にこう書いてあるのを知った。彼女は福報がよかったので、リンチェンドルジェ・リンポチェが助けることができた。福報がないなら、誰も助けてくれず、自分自身で修行するしかないのだ。

『住大乗者』とは菩提心を発した人のことで、未来に仏果と成ることを願う。『住』とは、修行した一切の法門を『迴大向小』できないということだ。自分だけが修行できれば良い、などと勝手な考えで思ってはならない。これは許されない。それなら『住在大乗(大乗に留まる)』ではない。大乗と小乗との違いは、載せられる容量の違いにある。大乗の方が良い、小乗の方が優れ、大乗は大したことがない、というのではない。どれだけの衆生を載せられるかの違いなのだ。大きな車なら当然たくさんの人が載せられるが、小さい車ではそうはいかず、自分一人しか乗ることはできない。だがこれは、家族の一人か二人のために行う、というのではなく、心を広く持ち、たくさんの衆生が苦海中にいることを忘れず、自分の修行を通して衆生を救うことを願うというものだ。救う、といっても実際に行うのではなく、念じるのだ。

動物や特定の対象に回向し続けてはならない。この種の回向は役に立たず意識だけで、回向でも功徳でもない。『以清浄心向無量寿如来』とは、仏の慈悲と菩提心には漏れがなく、我々の学仏は仏の慈悲と菩提を学ぶことなので、仏に向かい合うだけでなく、心を仏と同じ方向に向かわせなければならないのだ。仏号を念じる時に、誰それに回向すれば、その人は言う事を聞くようになる、と考えるなら、これは慈悲ではない。そなた達は、それならリンチェンドルジェ・リンポチェの修法はなぜ自分達を変えることができるのか?というだろう。それはリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲心を以ってそなた達の冤親債主を救っているのであって、そなた達を救っているのではないので、このような変化が起きるのだ。そなた達は他人を呪いながら、人が『一生懸命念仏し夫に回向すれば、夫は自然に考えを変え、そなたの学仏に反対しなくなる』というのを信じている。

自分の福報が不十分なので、このような男と結婚したのは明らかなのに、その責任を他人に押し付ける。これは自分自身の事だ。よって、寶吉祥仏法中心では『夫が許さないなら来てはならない』という。それは、そなたに来る福報がないからだ。無理に通えば夫婦喧嘩になり、夫が仏を誹謗するようなことになれば大変だ。次の一世で夫に返さなければならなくなる。なぜならそなたのせいで夫は仏を誹謗したからだ。この考えを整理できていない人が多い。人が『大悲咒を一生懸命念じ夫に回向すれば、夫は邪魔をしない』というのを聞き、そうだと思っている。この考えは間違っている。実はただそなた自身の福報が足りないだけなのだ。

『以清浄心向無量寿如来。乃至十念念無量寿仏願生其国』について、たくさんの人が『十念』は死の前に念じるものだと思っているようだが、実はそうではない。普段修行する時に念じるのだ。今日リンチェンドルジェ・リンポチェはみなに一つの法門を教えるが、教えていないものがたくさんある。いわゆる十念とは、ある咒語、仏号を念じ始めたなら、その最中には雑念、他の考えを挟まず、一呼吸する間にもこの念頭しかないことだ。こうでなければ清浄な念ではない。仏法中で講じる金剛誦を理解していない顕教学者が多い。金剛とは不動、すなわち毀壊できない、との意味だ。なんらかの咒語を念じる時、念頭は不動で、この念頭は何によっても毀壊されることはない。『誦』とは単純に咒語を念じるのではなく、歌唱による賛美、諸仏功徳の賛揚等の観念を含み、こうしてこの十念は初めて有用となるのだ。

十念まで学びたければ、毎日単純に何万遍も念じれば念じられるようになる、というのではない。必ず不共四加行を修め、気脈明点を修めなければ、十念まで為せることはないのだ。この十念を甘く見てはならない。みな今試してみよ。一息で六字大明咒を念じ、自分に他の考えがないかどうかを検査してみるのだ。『阿彌陀経』において『一念乃至十念』を見たことがあるだろう。だが、戒定慧、大手印、密法を修めたことがないなら、十念を掌握することは完全にできない。たまに出現することはあっても、それができているということではない。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは死にそうになっても、衆生を救うことができるのか。それは清浄な心があり、罣礙、煩悩がないため、菩提心の力が出現し続けるからだ。簡単に言えば、もし普段慈悲、菩提心を修めていない人は、臨終の際にこの十念法を念じようと思ってもできるものではない。なぜなら気が不十分で、たくさんの雑念がパラパラと出てくるからだ。みな夜帰宅したら試してみるが良い。自分を欺いてはならない。決して自分を欺いてはならない。自分には雑念がないなどと言ってはならない。あるではないか。自分が『定』できているか見れば、一目瞭然だ。

『金剛誦』、『金剛念』では、一息に一つの仏号しかなく、他はない。非常にシンプルで清浄で、仏がお迎えに来てくださるかどうかという念頭さえない。こうであれば必ず往生できる。これは普段の訓練の賜物だ。リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法の修行を成し遂げられたのは、十念のおかげだ。十念法も衆生の超度を助けることができる。そなたの心に山のような妄念があるなら、幽鬼はそなたがこんなにもあれこれ考えており、その後の供養を考えているのを見て、そなたについて行かない訳がないではないか!寶吉祥仏法中心が助念団を組織しないのは、リンチェンドルジェ・リンポチェが施身法を修める時、みないっしょに念じさせるためである他に、そなた達の心中にたくさんの妄念があれば、衆生達はそれを非常にはっきり分かっており、彼らが嗔念を起こすからだ。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に言うのだ。家族の誰かが往生したなら、親族が念じた方がより懇切だと。なぜならそなたの心はその人のためを思っているからで、そうでなければその人の助けにはならないのだ。

経典では『聞甚深法即生信解』という。今日講じる法は簡単ではなく、非常に深い。非常に深奧だというのではないが、表面的に焼香、拝仏、拝懺、読経、念仏すればそれで良いというのではなく、仏がお教えくださる心法なのだ。仏がお教しえくださる法は非常に深い。なぜならそなた達、人の経験法則、意識からは、これら内容は極めて理解しにくいからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがこんなにも多くの生死に関わる事態を経験していなければ、こんなに何度も閉関していなければ、この経典を説明することはできなかっただろう。経験がなければ、理解できないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに衆生を超度させる力がないなら、この経典をみなに説明することもできない。いわゆる『深』とは経験しなければならないが、そなた達は経験したことがない。根器において、累世の善根が十分なら、この法を少し聞くだけで信心が瞬間的に起こり、すぐに正確に見解することができるだろう。『解』とは解釋でも解開(解決)でもない。この方法以外に他に方法がなく、自分で考えるような方法はないと、明確に認知、知ることだ。こうしなければ、信解を生じることはできない。それは十善法と善根によって生じるのだ。

経典では『心無疑惑乃至獲得一念浄心』という。心の中に少しの懐疑も迷いもない状態でなければ『一念浄心』できないということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが十念法を為せるのは、心に疑惑がないからで、そのため清浄な心で十念法を念じることができるのだ。それは呼吸によるのではない。この心がなく信解がないなら、どんなに念じても様子が変わることはない。仏が講じられる仏法を体得しなければならない。仏は我々に多くは講じられない。仰せなのは心法だ!だが注意しなければならない。自己流の方法、考えを用いてはならないのだ。これらがあるなら、それは正に疑惑だ。仏は清浄な本性で仏法を講じられる。ご自分のためではない。もしそれでも『聞いたことがない。ほんとうにそうなのか?このように言う人はいない』と思っているなら、これこそ疑惑だ。なぜならこの経典はリンチェンドルジェ・リンポチェが書いたものではないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示時に、疑惑を抱いたなら、それは善根がないということなので、すぐに懺悔しなければならない。もし今日経典を講じたのでないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはとてもこう言う勇気はない。

経典では『発一念心念無量寿仏。此人臨命終時。如在夢中見無量寿仏。定生彼国得不退転無上菩提。阿難。以此義利故。無量無数不可思議無有等等無辺世界諸仏如来。皆共称賛無量寿仏所有功徳』と言う。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェはほんの少し講じただけだが、それでも二時間余りかかってしまっている。仏法はこのように真に広大なのだ。そなた達が想像しているように仏号を念じればそれで良いというものではない。もし、専門のスタッフが仕えてくれなかったなら、そなた達はどのように仏法を理解するのか?」と仰せになった。リンチェンドルジェ・リンポチェは冗談で「自分がその専門のスタッフだ。教導とはとても言えない」と仰せになった。「当初リンチェンドルジェ・リンポチェがこの『大蔵経』を学んでいた時は顕教を学んでいた。今日みなに役に立つとは思ってもみなかった。実は、リンチェンドルジェ・リンポチェがこの二十年余り講じてきた仏法は、この範囲を離れたことがない。なぜ以前からリンチェンドルジェ・リンポチェは講じることができたのか。それは、過去世で修行していたからだ。そなた達の疑惑を解くため、数日前リンチェンドルジェ・リンポチェは経典を恭読していたが、その際この段を目にし、これがそなた達が疑っているものだと一目で気づいた。そのため、今日は少し大変だが、開示しているのだ。

数百文字に過ぎないが、そなたが修めるには十分だし、この一生で努力するには十分だ。多くを求めたり、あちこち探したり、さまざまなところに発願しに行ったりする必要はない。仏はさまざまな層から説かれているので、そなた達は教えに従い実践すればそれで良い。仏法は非常に広大だ。人には八万四千種の煩悩があると定義されているため、仏は種々の方法で我々を手助けしてくださる。八万四千種の煩悩と言っても粗煩悩だけで、さらに分類すれば細煩悩もあり、際限がない。よって、学仏は決してその時のある利益のためではなく、生生世世の死という大事のためなのだ。この一生で力を得るまで修行できないならどうするのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェにこんなにも多くの事が発生するのを見て、学仏すれば実はこんなにも多くの問題が出るのだとそなた達は恐れているだろう。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはとてもうれしい。なぜなら問題が出る度に、仏法がさらに多くの衆生に利益できたのを発見するからだ。

人生においていかなる困難が出現しようと、それは仏法学習における一種の試験と検查なのだ。そなたの心が変わっていないか、転じていないかを確かめるのだ。自分の身の上に発生する事柄により自分を検査しないなら、どのように修めるのか?楽に日々を暮らしていて、どうやって自分を検查するのか?非常に良いと感じ、欲しいものは何でも手に入れば、なんと気持ち良いことか!人生にいくらかの障礙があるのは、実は良い事なのだ。一つには、仏法の面で精進できる。二つには、自分のこの一生の借入を返済でき、次の一世まで持ち越すことがなくなるため、次の一世でさらに返済すれば利息が付くからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは現在負うべき責任から逃避せよ、と勧めているのではない。負うべき責任は負わなければならない。仏法を言い訳にして、責任逃れをしてはならない。負うべき責任とはなんだろうか?在家衆であるなら、負うべき責任も多いだろう。仏法を言い訳にし、これはダメだ、これは嫌だ、これは良くないなどと逃避してはならない。

今日はみなに無量寿仏を開示した。阿彌陀仏法門にはたくさんの修行の方向があることが分かっただろう。だが、本質的にはいくつかの法門だけだ。一つは『疑惑を起こしてはならない』、二つは『必ず菩提心を起こさなければならない』、三つは『一切の善根を回向しなければならない』、最後に『必ず十善法を修めなければならない』だ。これらすべてを具備しなければ浄土に往生することはできない。そなたが考えているように、ひたすら念仏すれば行ける、というものではないのだ。菩提心がない限り、臨終時に恐怖心を起こさないでいられるのは、それほど簡単ではない。菩提心がなければ保護してもらえないのだ。菩提心がないなら保護してもらうことはできない。

リンチェンドルジェ・リンポチェが自分が死にそうでも、漢方医である弟子の娘のために命乞いできたのは、菩提心があるからだ。さもなくば、漢方医である弟子が手当てしている時、リンチェンドルジェ・リンポチェがその娘の事を考えられるだろうか?菩提心があれば、いつでも衆生のことを考えるので、衆生が邪魔しに来ないのだ。菩提心がなく、自分が往生することばかり考えているなら、衆生が邪魔しに来ない方がおかしいではないか!これこそ、菩提心が妙宝である所以なのだ。いつ菩提心を発するかは重要ではない。菩提心とは我々と衆生に非常に良い利益をもたらすツールだと認識することが大切なのだ。このようにこの方向へと絶えず努力しなければ、仏法に希望の光が射すことはない。大金持ちになったところでどうするのだ?出家人が大金を持ったところでどうするのだ?お金があれば問題もある。お金がない方が問題は少ない。

法会が円満に終了し、弟子達は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの伝法と開示に感謝申し上げ、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを恭しくお送りした。

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2015 年 11 月 08 日 更新