尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年3月29日

法会の開始に先立ち、一人の弟子が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが家族全体にくだされた加持と救度について語る機会を賜ったことを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げた。

「私はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依してすでに16年になる。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに16年も従っていられるとは福報に恵まれている、と考える兄弟子もおられるだろう。だが、私は自分が福報に恵まれているとは考えていない。ただ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生をお見捨てにならず、あらゆる衆生、あらゆる弟子の苦しみをご存知なだけなのだ。私には仏法が必要なので、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは私を追い出さず、私をお見捨てにならず、道場にとどまらせ、リンチェンドルジェ・リンポチェに従い仏法を聞き、この世で離苦得楽し輪迴の苦しみを断つ機会を持つことができるよう、福報を累積させ続けてくださるだけなのだ。

皈依以来、私を含め四人の家族は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに命を救っていただいた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従い学仏していなかったなら、とっくに命はなかっただろう、とのことをかつて私に仰せになった。

皈依したばかりの頃、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが四加行を伝授くださる大礼拝において、私は五日間参加しただけで五日間入院してしまった。虫歯が原因で顔の半分が蜂窩織炎を起こしたのだ。退院後私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁賜った。リンチェンドルジェ・リンポチェは「これは良かった。初めて会いに来た時は額が黒ぽかった。これはガンに関わる現象で、肝癌の可能性があった」、さらに「そなたは大礼拝を行うのは非常に良いことだと信じているので、肝癌の病毒が今回蜂窩織炎を発症することで出て行ってしまったのだ。これは花報に過ぎない。次の病ではもっと大きく借りを返さなければならないだろう」と開示くださった。もし尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが礼仏し大礼拝を行う機会をくださらなかったなら、私はとっくに死んでいただろう。私には双子の弟がいたが、弟は36歲の時に舌癌でこの世を去っているのだ。双子の遺伝子は本来似ているのだから、これには関連性があると私は思っている。もし尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお側で学仏せず、リンチェンドルジェ・リンポチェの大福報の庇蔭を賜っていなければ、私は今まで生きていることはなかっただろう。

私たちが救っていただいた二つ目の命は弟の命だ。弟は舌癌で往生したが、弟が発病したばかりの頃、私は弟を連れて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかった。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはただ淡々と『そなたは肉を食べ過ぎた。病苦を軽くしたいと思うなら、二つの事に取り組まなければならない。一つは菜食、もう一つは毎週法会に参加することだ。保証しよう。そうすれば病苦は軽くなる』と弟に仰せになった。これは実は非常に簡単なことなのだが、一般の人は『医者には手術すれば良くなると言われているのに、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは菜食せよ、学仏せよという。医者を信じるべきか、リンチェンドルジェ・リンポチェを信じるべきか?』と迷う。弟も最初は迷っていた。すると、慈悲深い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『よく考えてからまた来るように。だが、手術を選択したとしても、またすぐに再発するだろう。三度手術した後では、救ってやるのは非常に難しくなる』と仰せになった。弟の命を救うのはとても簡単なのだと私は分かっていた。言いつけに従いさえすれば良いのだ。けれども、弟は医者を信じる方を選んだ。ところが結果は上師の預言のとおりとなり、弟は三度手術を受けることとなった。しかも、手術が終わる度に癌細胞はすぐに再発した。一度目は潰瘍状の舌癌細胞を切除したが、一ヶ月も経たない内にすぐ再発し、続いて電気治療を二ヶ月行った。二度目は舌全体を切除し、人工舌を取り付けた上で気管切開したため、話すことができなくなった。それなのに、四日目には人工舌は壊死し、手術の失敗が明らかになった。人工舌が機能しなかったことで、血管をつなぐため三度目の手術が行われた。こうして手術も三度目になった時、弟はすでに疲弊しきって人としての姿をとどめないほどだった。

弟の看病はすべて私が担っていた。しかし、どんなにしっかりしなければと思っても、家族が何度も手術室を出入りし、切り刻まれて苦痛に苛まれる様子を見ているのは耐え切れないほど辛かった。また私は、自分に智慧がなく能力がないため、弟を説得することができなかったことが悔やまれてならなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが救ってくださると弟に信じさせることができなかったため、弟が自らを傷つけ続けるのを目にしながらどうすることもできないのだから。

三度目の手術後、水腫のため弟の頭は大きく膨れ上がっていた。回復室で弟を見た時、私は堪らない気持ちになり、自分自身このような心理的圧力に耐えることはこれ以上無理だと感じ、また弟にこれ以上自らを傷つけ続けさせることはできないと考えたため、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁申し上げ、弟を加持くださるようお願い申し上げた。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはその時大声で叱責くださり『そなたは弟が死んでしまうとは思っておらず、私を信じてもいない。そのため、弟はこうなってしまったのだ』と仰せになった。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲に感謝申し上げたい。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれでも病院で弟に加持くださったのだ。加持の後、弟は筆談で『尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが加持くださった際、その瞬間痛みがきれいに消え、身体が軽くなったように感じた。そして、一面の緑の草地が目に浮かび、とても快適に感じた。これは発病以来、初めて感じた身体的な安らぎだった』と告げた。

私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い加持に感謝申し上げたい。弟は最後の時に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの救度を賜ることができた。加持の後、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『弟はこの生では阿彌陀仏のおそばへ行く因縁はない。業が非常に重いのだ。人道に生まれられれば十分に良い方だ。懺悔心がないので、死を前にして非常な苦痛を味わっているのだ』と開示くださった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『弟には堕胎された子供がいるのではないか?男の子だ。その子がベッドの横に立っている』とお尋ねになった。私は少し考えた末に『ありました』と申し上げた。かつて弟の嫁が『妊娠したが、産みたくない』と言っていたのを覚えていたのだ。当時私はもちろん大反対した。義妹には子供を産んでもらいたかったが、義妹はやはり堕胎してしまった。その子が弟のそばに付いているのだ。生まれて来られなかったこの子は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお力を知り、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが弟に加持をくださるのを知り、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに超度を賜ろうとやって来ていたのだ。

金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、鬼衆は弟子達よりよほど見る目がある、としばしば開示なさるが、この事からほんとうにそうだということが分かる。亡者は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェだけが自分を離苦得楽させてくださるのだと知っているのだ。さらに金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは弟に『すでに対価を受け取りながら、まだ出荷していない取引が二、三あるのではないか?急いで出荷するよう会社に連絡せよ』と仰せになった。弟の仕事上の事まで気にかけてくださり、私は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。

弟の病状がいくらか安定した頃、私は弟を連れて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかり、懺悔の手紙を書き、リンチェンドルジェ・リンポチェにご覧いただいた。殊勝なる施身法法会への弟の参加をお認めくださり、悪道に堕ちないよう、弟に迅速に福報を累積させてくださったことを、私はリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは施身法法会の前に私をお召しになり『後で、そなたの弟を壇城前まで上げそこに横たわらせる。弟の身体を諸仏菩薩と六道の衆生に供養することで、弟は迅速に福報を累積し、悪道を避けることができる。弟は施身法法会に参加後は、速やかにこの世を去るだろう』と開示くださった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、年老いた父母が我が子に先立たれる辛さを受け止められないのではないかとご心配くださり、二人の高齢者をしっかりケアするよう、念入りに私に申し渡された」と言い、その場にいた兄弟子や大徳に「台湾にはたくさんの山頭があり、有名な師もたくさんおられるが、弟子に何事かあり、困難が起きた時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのように弟子の面倒をみてくださるのだろうか?弟子達が最も辛く最も助けが必要な時に、救いの手を差し伸べてくれるのだろうか?」と尋ねた。そして「私は確信を持って言える。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェだけがそうしてくださるのだ」と述べた。

「施身法法会に参加後、弟は痛みを感じなくなり、一切の手術を受け付けなくなった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの施身法はこんなにも殊勝なのだ。冤親債主が超度され去って行ってしまった後は身体が傷つけられることはもうないのだ。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが病院で弟に加持くださった時、私は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに、弟が帰宅したがっていると申し上げた。施身法法会後の8月8日、母の誕生日だったその日、弟は帰宅して両親に会いたいと言っていた。私はもともとは医者に外出許可をもらおうと思っていたが、思ってもみなかったことに、医者は退院してもいいと言うのだ。そのため、弟は帰宅し父母と共に過ごすことができた。弟の願いを叶えてくださり、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。8月7日、弟は帰宅し両親とさまざまな話をした。まるで死後のことを託すかのようだったが、すべてはとても穏やかに見えた。

8月8日は日曜日だった。法会の終了後、私は母から弟が亡くなったとの電話を受けた。これら一切は、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが預言くださった通りだった。もし弟が金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお言葉を信じ、菜食し法会に参加していたなら、また一旦メスを入れればガンは迅速に拡散するとのお言葉を信じていたなら、あれほどの手術の苦しみに苛まれることはなかっただろう。癌細胞がどこの臓器に隠れているかは非常に分かりにくい。だが、弟の癌は舌にできていたため非常にはっきり見ることができた。切片を切り取るだけでも、舌上の潰瘍部はすぐに大きくなる。これこそ癌細胞拡散の動かぬ証拠だ。手術は最良の結果をもたらすものではないのだと私はこの目で見た。道場の兄弟子の中には、菜食し法会に参加し、さらに最も重要なこととして金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを信じることで、癌細胞が消えてしまったり、全快してしまった人もたくさんいる。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェこそが我々の最も重要な拠り所なのだと、みな信じようではないか。

三つ目の命は父の命だ。肺癌が見つかった時、父はすでに84歲だった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに加持を頂戴した後は、亡くなるまで全く薬を飲まなかったが、痛みも感じず呼吸困難になることもなかった。死亡証明を作成するため、監察医がうちで検死を行ったが、しきりに不思議がっていた。どうみても父がガン患者に見えないというのだ。父は往生後、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なる加持を賜り浄土に生まれていたので、顔色は輝き表情は穏やかで、8時間後には梵穴も暖かくなっていた。種々の不思議な瑞相は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが比類なき修行者であられることを示していた。ガン患者は人生の最後の一時を苦痛なく過ごせ、家族は大きな精神的圧力と肉親を失った苦しみに打ちのめされることもない。これらは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェでなければ為せないことなのだ。

四つ目の命は母の命だ。母は今年一月三日に往生した。仏を信じず菜食を拒んでいた母を離苦得楽させてくださった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なる加持に私は感謝申し上げたい。母は生前仏法を信じず肉食を決して断てない人だった。そのため、しばしば私に『法会にはおまえが行けばいいでしょ。私まで行く必要はない。おまえが菜食すればいいでしょ。私は必要ない』と言っていた。私は母が自身の身体を害する食物を口にするのを目にし、非常に辛く、しばしばこの事が原因で口喧嘩になった。けれども、やはり母にそれを止めさせることはできなかった。

母は糖尿病、高血圧、高脂血症、喘息、肺繊維化等のさまざまな問題を抱えていた。血糖値のコントロールは全くできておらず、しばしば風邪をひき、風邪をひけば必ず肺炎になり入院していた。抗生物質を注射すればすぐに血糖値が上昇する。そのため、一年に少なくとも二、三回は入退院を繰り返していた。そして退院後も回復までに非常に長い時間を要していた。無事に難関を乗り越えさせてくださった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの救護に私は感謝申し上げたい。昨年11月末のある日曜日、台北へ戻ったところ、母が気分が悪いと訴えてきた。その時母は検查に行きたくないというので、一、二日様子を見ようということになっった。その晩、私は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの夢を見た。非常に大きな礼堂の非常に高いところに立っておられ、入って行く兄弟子はみな、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼しておられる。私も礼堂に入ってすぐ金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼申し上げた。すると、すぐに情景が変わり、兄弟子が道路に跪いている。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお姿は見えないが、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがおられる方向はわかったので、私は一人の兄弟子と道路の上で金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがおられる方向に向かい頂礼申し上げた。するとそこで目が覚めた。

いくらもしない内に、母の具合が悪くなったので病院へ連れて行く、と甥から電話があった。私は直ちに仕事を休み、台北へ向かい病院へ行った。検查したところ、母の血液からは心臓由来のある酵素が検出されたため、医者は心筋梗塞と診断し、母は直ちに集中治療室に送られた。けれども、私が集中治療室に駆けつけた時、母はとても心筋梗塞の病人には見えず、しっかりとベッドに座り私と話すことができた。私は信じている。もし尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大福報による庇蔭がなければ、母が少しも不快を感じないことなどあっただろうか?さらには、眠っている内に亡くなってしまった可能性もあっただろう。私は以前見た夢を思い出した。あれが加持でないことがあろうか?私は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。

翌日医師は母に導管を施した。導管時に、私は入室し心血管が詰まっている状況を見せてもらった。3本の血管の血液の通り道は針のように細い。もし、救急で診察した医師が発見できなかったなら、数日後には完全に塞がっていただろう。翌日母は3本のステントを装着し、一週間後には順調に退院することができた。退院の度に私は必ず母をうちに迎えた。それは、母をしっかり世話したかったのと、母に菜食させたかったからだ。患っても、毎回一ヶ月ほどで母は回復し、台北に帰りたいと訴えたが、今回は病状の回復が思わしくなく、息苦しくなったり足がむくんだりし、食もどんどん細くなっていった。一ヶ月後にちょうど元旦の連休があったので、母の願いを聞き入れ、私は母を台北へ連れ帰った。その週はちょうど尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが長寿仏法会を修法なさる日だったが、母の具合がよくないため、母といっしょに殊勝なる長寿仏法会に参加している様子を観想した。

翌日母は起き上がれなくなり、何も食べられなくなったため、私は母を連れて台中へ戻り休ませた。台中に戻ったその日、母は突然歩けなくなったが、気分が悪いということはないようだった。母に病院に行くかと尋ねると、母は必要ない、様子を見ようと答えた。けれども、私はやはり母の状態はあまり良くないと感じたため、急いで不動明王火供法会の写真集を取り出した。なぜなら一頁目に金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの非常に大きく非常にはっきりした法照が二枚あったからだ。母は高齢になり視力も衰えているが、この法照ならしっかりと見せることができる。私は母に『これは我々の金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェよ。 リンポチェの様子をしっかり覚えておいてね。リンチェンドルジェ・リンポチェが助けてくださるのよ』というと、母も分かったと頷いた。こういうと不思議だが、以前私がこのように言っても、母はまったく信じようとしなかったのだ。それなのに、その晚は非常に長く見ており、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと話しているかのようだった。翌日午前中私が母の部屋へ行くと母は床に座っていた。自分でもなぜ床に座っているか分からない、と母はいうので、私は母を起こして休息させた。この時私は母のだらんとした目つきを見てこれは普通ではないと直感し、古董店に電話して、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェへの拝謁を申し込んだ。その日は月曜日だったので、土曜日にリンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかるまではなお数日あった。当時私は非常に慌てており、急いで仏堂へ行き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法照に頂礼申し上げ、母が苦しむことのないよう加持くださるようリンポチェに祈った。

その日私は母の部屋の外で白檀の香りを嗅いだが、私は白檀を焚いていなかった。しかも、大礼拝を行った時、私は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが母に加持くださるのを感じ、大礼拝を行いながら慟哭していた。感謝する以外に、この感激を表す言葉をまったく思いつかない。その時、非常に大きな拠り所を得たと感じ、心も落ち着き、漂う大海でつかまれる流木を見つけたかのようだった。

午後母は目を覚ましたので、私はスープを少し飲ませ、陽がある内に外に連れ出し散歩した。その日の午後母はとても気分が良さそうだったので、私は車椅子を推して一時間ばかり歩いたが、母は『疲れた。うちに帰って眠りたい』と言い、帰宅後は夜まで眠っていた。10時頃私は母を起こしてスープを少し飲ませた。そして再度写真集を取り出し、『金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのご様子をしっかり覚えておいてね。必ず助けてくださるから』というと、母は非常に力強く頷いた。私は母にどこか具合が悪いところはないか、病院へいかなくともよいか?と尋ねたが、母は『行かなくてもよい。病院へ行ったところで入院しろと言われるだけだ』と答えた。私は『それも良いだろう。これ以上年寄りを苦しませることはない』と考えた。翌日(火曜日)母は目覚めなかった。ただ、非常に辛そうに呼吸しているだけだった。私は母のベットの横に立っているだけでどうすることもできなかった。気持ちは焦り、またとても辛かった。そして、子供の頃うちで鶏を飼っており、母がその鶏を絞める情景を思い出した。母は鶏の喉元を切り血を抜いて、鶏を絶命させていたが、無知だった私は横で見ていることもあった。学仏した今になって因果の恐ろしさを初めて知り、非常なる懺悔を感じている。母がこの一生で喘息で苦しんだことを考えると、すべては殺業によるのだと分かる。つまり、返すべきはやはり返さなければならないのだ。

その日の昼、私はリビングルームのライトを消しソファーに座っていたが、突然目の端に光を感じた。振り返ると、ソファーの上に置いた不動明王火供写真集の表紙の金文字が光っているのだ。その時私はライトをつけていなかった。その場景を目にし、私は非常にうれしく感謝を感じた。金剛上師から賜るのはすべて宝なのだと感謝申し上げたい。不動明王火供法会の写真集さえも、私のこの焦燥していた心を鎮めることができ、今まさに往生しようとしているが学仏したことがない母にさえ、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対して恭敬心を生じさせる。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが行われることはなんであっても、衆生に利益するためだけに考えられ、自己の利益に対する考慮はほんのわずかであってもないのだと言うことがここに示されたのだ。

金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生の苦しみをご存知であることに感謝申し上げたい。母は往生前に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかることはできなかったが、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは常にお側にいてくださった。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを信じてさえいれば良いのだ。一切を仏菩薩にお任せしよう!

その晚12時頃床に就いた。普通は眠りに入ったばかりの頃は睡眠が深く、2時か3時頃にならないと目が覚めないが、その日は一時間余り眠ったところで目が覚めたので、母を見に行った。母の呼吸はすでに力なく、さらに30分経ったところでまた見に行くと、母は頭だけを動かしているように感じた。私は急いで仏堂から甘露丸を持ってきて、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法写真に頂礼し、リンチェンドルジェ・リンポチェに母がこの世を去ろうとしていると報告申し上げ、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持をお願い申し上げた。私が階下に降りた時、母はすでに呼吸していなかったので、私は急いで甘露丸を母の口に入れた。母はまったくなんの苦痛を受けることもなかったのだ。これら一切は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持とお導きのおかげなのだ。賛歎せずにいられようか。

母は往生時も眠っているようだった。苦しそうな様子は少しもなく、屍斑も生じなかった。私は依然として不動明王火供法会の写真集を持っていた。一頁目にある法写真は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが誰かに加持を施しておられる時の法相に非常に似ている。私はその法写真を見ながら尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが母に加持くださるのを観想し、六字大明咒を持誦した。およそ30分の後、とてつもなく大きな歓喜が心に生まれ、落ち着いて金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを観想し持咒を続けることができた。5時間後私は母の額に触れてみたが、額は非常に冷たかった。次に梵穴に触れてみると、そこは温かかったので、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に心から感謝申し上げた。8時間後、姉、甥の妻、私はいっしょに母に着替えをさせた。私は彼らに母の梵穴に触らせたが、やはり温かいという。彼らも不可思議がっていた。母の身体も温かいのだ。私は、これはすべて金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と超度のおかげで、そのため母にこのような瑞相が現れているのだ、と告げた。

土曜日金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁し、感謝を申し上げた際、私はリンチェンドルジェ・リンポチェに母の瑞相について報告申し上げた。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『明日の法会の功徳を母に回向すればよい』と仰せくださった。火葬後、母の頭蓋骨の上の方には非常にはっきりした穴があったが、これは母が金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの超拔を得てすでに浄土へ至ったことを表している。葬儀社の人も金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのすごさを知っており、火葬後は先ず頭蓋骨上の穴を探し出す。なぜなら、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なる超度法門でなければこの瑞相は現れないからだ。

母の往生までの一ヶ月間、数日おきに私は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを夢に見た。今思えば、これらはすべて金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持だったのだ。さもなくば、母の業力と私のような不出来な弟子では、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と超度を受け、重い報いを軽く受け、苦痛なく往生できる福報など母にはなかっただろうからだ。

私は懺悔したい。母の往生時、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはちょうど南部へ行かれ20万本の樹を済度なされた後で、お身体の具合が悪かったのだ。それなのに、母のために余計なご苦労をかけてしまった。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはご法体に違和を感じられても、毎土曜日の信衆接見と每日曜日の修法は続けてくだされた。それなのに弟子でありながら、それを理解することができなかったのだ。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの定力がどんなに不可思議であるかがこれからも分かる」と彼女は述べた。ある出家弟子も非常に賛歎して「もし、リンチェンドルジェ・リンポチェの御身体の不快が我々の身体に移ったなら、息も絶え絶えに寝込んで動くことができないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェのように法座に上り修法し、信衆を接見し救うことなどできるはずはない」と言った。

「尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはこのように、命を惜しまず衆生に利益なさる。それは弟子の目には非常にもったいなく、心が痛むことだ。特に金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが前回施身法を修められた際のあのような弱々しいお声を拝聴し、私はあまりの辛さに泣いてしまい、上師を失ってしまうのではないかと心から恐れたが、同時に私は非常に大きな恭敬心を抱いた。なぜなら金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生に利益するためほんとうに命さえも惜しまれないのだ。しかもそれを、すべての弟子と法会に参加する大徳に本当に示現してくださる。これこそ真に勇敢な修行者であろう。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慧誠師に『上師は無常である』とみなに伝えさせた。私は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依、学仏して十数年になるが、この間、人生は無常であると上師が仰せになるのを何度も聞いた。そして、自分の肉親を亡くすことを含め、私はたくさんの無常を見てきたが、これが無常なのだと納得していた。けれども、上師も無常だとは考えたこともなかった。

私はこの言葉を聞いた時、強いショックを受けた。なぜなら金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは私の心の中では永遠の強者だったからだ。永遠に倒れることはない大樹であり、暗黒の中の一筋の灯だったのだ。この16年間で私は数多の生離死別を経験したが、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに頼ることができたため、すべてに勇敢に立ち向かうことができた。今回の事柄を経験し、このように上師に甘え続ける訳にはいかないと思った。このように金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのエネルギーを消耗し続けさせることはできないと思った。上師は、観世音菩薩はご自分を加護するためにご自分の聖号を唱えられる、と開示くださった。そのように、弟子達も自分自身でしっかり如実修行し、何らかの事態に遭遇した場合にも、リンチェンドルジェ・リンポチェに救いを求めるだけでなく、自分で何をできるかについて理解するようにしなければならない。こうすることで、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはより多くの衆生に利益できるのだ。

最後に私は『学仏が困難なのは仏を信じないからだ。如実修行とは依教奉行だ』という金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが開示くださったお言葉を披露し、兄弟子の皆様と共に励みとしたい。つまり、上師を信じ、上師の言葉に従うのが実は最も簡単なのだ。だがまたそれは最も困難でもある。最後に私は諸仏菩薩が尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェを護持くださり御法体が安康で、法輪が常転し、仏法事業が世に常住することを祈願申し上げる」と述べた。

続いて、弟子と信衆は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2003年9月7日に開示くださった「業の自性」についての仏法テープを拝聴した。

「リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば注意している。学仏では怠けることは許されない!そなた達は一週間のうち日曜日だけやって来て仏法を学んでいるが、日曜日以外は心にたくさんの妄念、悪念を抱えている。そのため、法会での開示を録音したこのテープによって、どこが誤りなのか、どこに問題があるのかを絶えず気づかせる必要があるのだ。聞こうとしないのは、うまくできている、ということなのか?在家衆にとって学仏は非常に困難だ。なぜなら在家では誘惑が多いからだ。台湾では、出家人にとっての誘惑も多く、学仏も非常に困難だ。そのため、上師の注意、監督を絶えず受けなければ、悪習を改めることはできない。録音テープを聞かないのは、すでに改められており、すべて覚えている、ということだ。それなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは簡単な質問をしよう。輪迴を断つにはどんな条件が必要だろうか?」とお尋ねになったが、弟子達の多くが答えることができなかった。最後に一人の弟子が「一に堅い出離心、二に清浄な戒律、三に専一瑜伽です」とお答え申し上げた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けられた。「学仏とはおままごとではない。生死を離れようとすれば適当であってはならない。心を込めてまじめに行わないなら、どれだけ法会に参加しようと、いわゆる福徳功徳をどれだけ積もうと、やはり輪迴するだろう。そなた達はなんであろうとおざなりだ。仏法に対してさえ適当でおざなりなのだから、世間法でも必ずそうだろう。世間で何かをするにしても、適当にやっているに違いない。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も開示したことがある。学仏人は謙虛でなければならない。何らかの成就者認証を得るまでは、絶えず努力し怠けることなく、仏法を日常生活に完全に取り入れなければならない。少しの緩みであっても、内魔、外魔はすぐに入り込んでくるだろう。内魔とはなんだろうか?それは累世の貪、嗔、痴、慢、疑の習性だ。では外魔とはなんだ?天界を含む一切のいわゆる魔と鬼で、冤親債主を含み、すぐに邪魔しにやって来るだろう。

そなた達は学仏においてこんなにも怠惰だ。これから、そなた達が普段の生活でも非常に怠惰であるのが分かる。怠惰な人は自己の誤りに注意せず、絶えず悪を繰り返しながら思い上がっている。日曜日リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を3時間開示するが、そなた達は毎日30分で聞き終わってしまう。そなた達は気分がよければ聞きに来るのか、それとも気分が悪ければ聞きに来るのか?リンチェンドルジェ・リンポチェの今後の開示はどんどん多くなり、どんどん速くなる。最も根本的な基礎が理解できないなら、今後は付いてこられないだろう。他人に対して良くすればそれが学仏だ、いくらか寄付すればそれが学仏だ、などと思ってはならない。上師の教えにさえ従わないなら、理解しようとしないなら、いったいどのように行善するのか?

一日は24時間しかないのだ。自分の時間をいかに用いるかをよくわきまえ、無意味な事に時間を無駄に費やしてはならない。仏は仰せだ。普賢菩薩も仰せだ。学仏の心は、16歲の少女の髮に火が着いたようなのものだ。驚いてすぐにこの火を消そうとするだろう。このような心で学仏しなければならないのだ。このような心がないなら、時間はたっぷりあると思ってしまうだろう。切迫した心持ちで学仏しないなら、この一生で解決することは絶対にできない。仏法テープを聴いていない者が半分もいるとは。この有様では、リンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を開示してなんの意味があるのだ?これ以上説いても歌を歌っているのと同じではないか。そなた達の悪い習慣はなぜ改められないのか?それは、確実に聞いておらず、さらに日常生活に生かしていないからだ。自分の一日を考えてみよ。一日のうち、30分も空けられないのか?それなのに、何か宿題はないかと一日中リンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねている。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示したことがある。そなた達が家で行う宿題は、妄念を抑えるだけなのだ。真の宿題とは上師が教える修行の方法だ。それを着実に行うのだ。そなた達は如実に行っておらず、一日中時間を無駄にし、こうして一日一日が過ぎていく。そなた達はみな見たところ輪迴を好む人のようだ。輪迴を好む人でなければ精進しないということはない。輪迴を断つ、それは仏菩薩がくださるのではない。自分次第なのだ!リンチェンドルジェ・リンポチェは死なず、将来いつでもポワ法を修めてもらえるなどと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も開示している。これ以上従わないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは失踪してしまうだろう。道場が盛んになるかどうかは、人が多いか少ないかではなく、法を聞きに来る人が確実に行っているかどうかなのだ。如実に行っていないなら、遅かれ早かれその道場には問題が生じるだろう。

共に向善の考えを持ち、輪迴を断つ法門を共に修める人を共修、同修と呼ぶ。俗にいうように、夫、妻は同修だというのではない。輪廻解脱法門を共に修めようという心がない人が、どうして残って行けようか?自然に淘汰されるだろう。今後は輪迴を断つ方法を講じるが、根本ができておらず基礎もしっかりしていないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが追い出さなくとも、護法がそなたを追い出すだろう。寶吉祥仏法センターは顕密を共に修める道場だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは密法を用い顕教を開示する。すべての経典、法本には極めてはっきりと書いてある。根器が不十分なら聞いてはならない、学んではならない。さもなくば、講じた人に災いが起きる、と。どうすれば自分の根器を十分にできるのか?それは依教奉行することだ。みな修行人は不慈悲だと言っているが、そなた達自身の慈悲はどこへ行ってしまったのだ?

なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは道場を買おうとしないのか?見れば見るほど、そなた達はなっていない。誰もが表面で学仏しているだけで、心は改められていない。リンチェンドルジェ・リンポチェは一日中言っている。そなた達の顔は真っ黒で、相は変わっていない。そなた達は冗談だとでも思っているのか?心が変わらなければ、相貌がどうして変わるだろうか?老師の言いつけを全く守らないなら、なんのために来るのだ?全く理解できない。リンチェンドルジェ・リンポチェが方法を変えればどうだろうか。しっかり学べば一億元儲かると教えれば、まじめに聞くのではないか?

そなた達は一日中リンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねるためだけに来る。自分はいつ結婚できるのか?いつ事業が好転するのか?根本的な宿題はまったく行わないで、こんなことを尋ねてどうするのだ?妊娠してまで、リンチェンドルジェ・リンポチェに胎児の状態はどうだろうかと尋ねる。当然良くないだろう!そなたの心が良くないからだ!人生はわずか数十年だけだ。瞬きの間に過ぎ去ってしまう。もうすぐ中秋節だ。一年がまた過ぎようとしている。今年はどんな事を行っただろうか?仏法においてどれだけ進歩しただろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェはお節介でそなた達を諌め、そなた達に教え、警告し続けている。この世界は非常に乱れている。いま平穏ならそれで良いなどと思ってはならない。仏法テープを聴いていない者は後ろの方へ行くように。法会が終わった後もこれらの者は頂礼も供養も不要だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはとても受け取れない。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしばいう。そなた達の供養を受け取れば返さなければならないのだ。何を以って返すのか?リンチェンドルジェ・リンポチェが学んだこと、知っている仏法で返すのだ。だが、仏法を学びたくないなら、なぜリンチェンドルジェ・リンポチェに供養するのだ?仏法テープを聞かない者達は自分のどこが悪なのか分かっているのか?そなた達が師や年長者に不恭敬だというのではなく、そなた達が師や年長者の教導に従わないのだ。仏法を講じる時間を35分間無駄にするということは、一切の衆生に35分間分の借りを作ったということだ!どうということはない、35分間などなんなのだ?と思っているだろう。実はとんでもないのだ!今日そなたは他人の仏法を聞く時間を35分間少なくしてしまった。そのため、以後すべての事柄で35分間分少なくなるだろう。因があれば必ず果があるのだ。あとで、この者達の名前はすべて記録するように。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて『業の自性』について開示する。『百業経』では『諸有身苦楽』と説く。それは一切の有情衆生が得た身体は苦と楽を備えているということだ。釋迦牟尼仏は、これこそが業だと仰せになった。苦の業であろうと楽の感覚であろうと、これはすべて業の顕現なのだ。『諸業有種種』とは業には色々あるということだ。経典は、衆生の心は不可思議だという。衆生の心が思う事は、仏の智慧を以ってしても不可思議に思えるということだ。仏であっても、どうして衆生にこのように多種の考えがあるのかを考えつかない時があるというのだ。妄念があれば行動となり、こうして業が生じる。よって業は我々の心に従い生じる。業には多種あるので、種々の行為を生じ、種々の行為により我々は絶えず苦海で輪迴する。よって業網は極めて広大だ。業がありさえすれば、この業の力は絶えず転がり動き、雪だるまのようにどんどん大きくなるということだ。そして、我々は生生世世に業力に牽引され、網に絡め取られるように、身動きできなくなるのだ。

業は純白業、純黒業、善悪混濁の三種に分けられる。純白業は、動機も行為も善なので、果報として天人中に生まれる。純黒業は、動機と行為は不善なので、果報として三悪道中に生まれる。混雑業は、動機は正だが行為が悪業で、心は衆生に利益するが、その人の行為を見ると悪のようである。ここにある寓話がある。釋迦牟尼仏はある一世で500人と共に船に乗ったが、船長は悪念を起こし、この500人の財物を奪うため皆殺しにしようと船を海に沈めることを画策した。釋迦牟尼仏はその一世では仙人で、船長の考えを知り、またこの500人は未来の阿羅漢であると知った。そのため、この船長を殺し、この500人を救った。行為だけ見れば釋迦牟尼仏は悪だが、釋迦牟尼仏の心は善だったのだ。

どこが善なのか?第一に、釋迦牟尼仏は船長に阿羅漢を殺すという悪罪を犯させなかった。なぜならこの罪は船長を五無間地獄に堕とすものだからだ。つまり、証果した修行者のある行為は普通の人にとっては良くないように見えるということだ。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に厳しい。台湾仏教界の基準に照らせば、リンチェンドルジェ・リンポチェは無慈悲だ。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェの心は、そなた達がこの一世で真に生死を解脱できるよう願っている。よって行為は悪だが、心は善なのだ。我々の行為、心持ちに一切の自利がなく、利他であるなら、その行為は善の行為ということができる。だが、十分の智慧がないなら、このレベルまで行おうとしても、それは無理である。

他には動機は黒業だが、行為は白善業であるものもある。動機は自利でも、白善業を為せば、これに属する。これはどういうことだろうか?委員になることを願って、そのために寄付する。社会がそれを知り賞賛されることを願って、そのために寄付する。少しでも善事を行えば、一日中誰彼となくに言っている。自分はどんなにすばらしいかと他人に言い、さらには仏のブランドを用いて金儲けしようとする。これがこの類に属する。混雑業中には、一時的な動機と行為もあり、これらは二つとも白善であり、二つとも黒悪だ。その果報は苦楽なので、皆四大部洲を備え、或いは各天界に散居する。つまり我々の行為には善と悪があり、純善を行える人は世間では多くなく、行為のうちで善を多く悪を少なくできる人はいくらかいるが、そなた達ほとんどには善悪がともにある。正に『地蔵経』で説くように、凡夫の心の起心動念はすべて業で、すべて罪なのだ。よって言う。為さなければ業はなく、為せば業は消えないのだ。そなたが死んだことで終わることはないし、お金で買えば業を消してしまうことができるというものでもない。業とは生生世世に我々についてくるものなのだ。よって経典はいう。人は生まれた時なにも持っていないが、業だけを持っている。業は我々の身体について来るのだ。人は死ぬ時なにも持って行くことはできないが、業だけは付いていく。業はそなたの中陰身に従うのだ。

よって、念を起こし、行悪、行善すれば、この業の力は必ず存在する。現世で感じられる業力の成熟には、しばしば目にする交通事故死、不慮の事故による死がある。また、そなた達がしばしば言う事業がうまくいかない、家庭が不和だ、病の苦しみ、子女が親不孝だなども、業の成熟だ。つまり、この一世の業と過去世の業がこの一世で成熟したのだ。この一世でなんらの悪業をなしていなくとも、現在でいくらかの純善業をなしていても、さらには非常に真面目に空性を観修する修行者であっても、過去で為した悪業はやはり存在する。簡単に言えば、業力を消してしまうのは、そんなに簡単ではないのだ。よって、我々は業力が未来世に影響を及ぼさないことを願うのだ。修行でなにを行うのか?なぜこの一世で学仏するのか?それは、我々の累世の悪業と善業をこの一世で成熟させるのだ。

なぜ業力を成熟させるのか?それがいわゆる業を消すだ。誤った考えを持っている人が多い。業を消すとはつまりなくなることだと思っている。業を消すことがなくなることなら、因果もない。いわゆる消業とは、この業力をすぐに現前させることだ。現前させればどうなのか?一つ返済を終えることができるのだ。学仏前には幸せに日々を暮らしていたのに、学仏したことで、さまざまな事態が発生することもある。不慮の事故、破産、病気が発生することもある。だが、これは良いことなのだ。祝うべきことなのだ!業力が現前したので、返済が始まったのだ。学仏の過程において障礙があり、誰かが邪魔し、仏法に触れることを妨げるなら、これらはすべてそなたの累世の業力がこの一世で成熟したのだ。良い業力が現前しても喜んではならない。なぜなら福を使い果たしてしまうからだ。良くない業力が現前したなら、祝わなければならない。なぜならそなたはまた一つの返済を終えたからだ。

学仏は幸せな生活を望むためのものではなく、業力をこの一生で成熟させるためのものなのだ。このような考えがないなら、この業の力はいつまでも絶えず影響を及ぼし、その力をどんどん強めていき、力が減ることはない。銀行に借金があるなら、完済するまで利息は絶えず積み上がっていくだろう。そなたが貧乏だからと言って、銀行が返済を求めないことなどない。やはり返済しなければならないのだ。我々はしばしば誤解している。経典には、拝めばどんな業でも清算され、なくなってしまう、とあるが、すぐになくなるのではなく、その力がすべて顕現した後になくなるのだ。

学仏とは以前リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達に教えた方法のように、護法、本尊に言うのだ。『死が私にとって良いなら死なせてください。病が私にとって良いなら、病にしてください。健康が私にとって良いなら、健康にしてください』と。この『良い』とはどういう意味だろうか?幸せな生活を送ることではないぞ!それは、一切の悪を断ち、輪迴を断つことだ。健康を求めてどうするのだ?衆生に利益するのだ。衆生の離苦を助けるのだ。長寿を求めてどうするのだ?衆生の開悟を助けるのだ。死を求めてどうするのだ?この肉体がもう使えないなら、この一世で修行を終えられないなら、さっさと阿彌陀仏のお側に行きたいということだ。だが世人は愚昧で、病床に横たわり生きながら死んでいるのに等しいのに、死なせまいとして、金銭を注ぎ込み、あらゆる手段を用いて生かそうとする。これによって、この人の業はいつまでも長引くのだ。なぜか?

病床に横たわり他人に世話になっていても、金を渡していれば、その人に借りを作ってはいないと思っているのではないか。もし、世話してくれる人が、真心をもって誠意をもって世話してくれているなら、その人に金を払っているとしても、やはりその人に恩という借りを作っているのであって、次の世で返さなければならないのだ。世人はこの因果法則を理解せず、どうして欲しいと一日中願っているため、業は永遠に消滅せず、永遠に完済されないのだ。この話は我々に正しい考え方を教えている。学仏は楽に日々を暮らせることを願うものではなく、そなたの欲望を満たすためのものでもない。金儲けしたい、子女に親孝行させたい、妻を従わせたい。これらはみな欲望だ。仏法とは無関係だ。よって仏は不求自得と言われたのだ。そなたの一切の受用と自己の因には関係があるのだ。

ある非常に大きな仏教団体は、数億元で機器を購入し教団の病院で腫瘍検査に用いている。リンチェンドルジェ・リンポチェなら、手を出すだけで相手に腫瘍があるかどうかが分かる。検查に行けば、その度に数万元かかるだろう。台湾最大の仏教慈善団体と言われているのに、行っている事は仏法に非ず。しかし、世人は無知なので、非常によくやっていると思っている。もし真の修行人なら、目で見るだけで相手に病があるかどうかが分かり、相手の業が分かる。検査機器など不要なのだ。検査機器にこんなにもたくさんお金がかかるなら、その金を真に助けを必要としている人を救うために用いるべきだ。

『金剛経』では善男子、善女人という。これは五戒十善を修めた人だ。善男子、善女人とは良い人ではない。良い人は善男子、善女人と呼ばれる資格はない。五戒十善を修めた人だけが仏に善男子、善女人と呼ばれるのだ。ドラブ・ワン・リンポチェ、テンジンニンマ・リンポチェ、ユンカ・リンポチェは初めてリンチェンドルジェ・リンポチェにお会いになった時、リンチェンドルジェ・リンポチェは良い人だと仰せくださったが、それは善の人だということだ。これは、リンチェンドルジェ・リンポチェが十善の面で円満でなくとも、十善の面ですでに修行した人だということだ。大修行者が仰せになる良い人とは、金持ちかどうかではなく、十善を修めたかどうかで、修めていなければ善男子と呼ばれる資格はない」と仰せになった。

この時リンチェンドルジェ・リンポチェは、名前を呼ばれて立った後、勝手に座った若い弟子をすぐに出て行かせた。「学仏したことで身体を壊したと家人に思われないよう、辛いならうちに帰れば良い。開示を続けよう。

チベット仏教はどのように修めるのか?閉関中の人は、関房で発病しても、死んでも、出関して来ない。この若い弟子は仏法を聞きに来たのに、身体の具合が悪いと言って座ってしまった。それほど自己の肉体にこだわっていて、どうして自己の業力を解決できるだろうか?チベット人は仏法を聴く際には、炎天下で一日座っているのだ。そなた達は空調の効いた室内におり、椅子もある。それなのに、気分が悪いというのか。苦を知らなければ苦は解決できない。苦を解決できないなら、輪迴を断つことなどできないのだ!リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を聞いていて死んでしまった人を見たことも、聞いたこともない。そんなに死を恐るなら、出て行けば良い。リンチェンドルジェ・リンポチェは56歲。今回40数人の弟子を率いチベットへ行ったが、少しの反応も起きなかった。それはリンチェンドルジェ・リンポチェがよく修行できているからではなく、そなた達とは心が違うからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは死を恐れていない。30歲前のある男性弟子は、点滴を2本も打っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度もチベットへ行っているが、テンジンニンマ・リンポチェにお目にかかるため高山を登らなければならなかった時以外に、酸素吸入をしたことは一度もない。死を恐れる人ほど病に罹る。そなた達はなぜ身体の具合が悪いのだ?それは善男子、善女人でないからだ!

『善男子、善女人受持讀誦此経、若為人軽賤』とは、行十善法の人は『金剛経』を唱える時、他人に見下されるという。『世人現世罪業応墮悪趣』とは、見下したこの人は現世でこの罪を得たので、この一生で修行する人を見下し、その結果その人は三悪道に堕ちるという。だが、他人に見下された人は、この一世で他人に見下されたため、現世の罪業が消滅する。この一生で他人に罵倒され、他人にあれこれ言われたことで、そなたの累世の業はこの一生で消滅するのだ。他人がそなたを見下し、他人がそなたを罵倒すれば、過去世で為された悪業はこの一世で消滅するのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、罵倒することで消業してやっている、としばしば冗談で言うが、それはこういうことだ。過去に他人を罵倒したことがあるからだ。みな自分は見えないので、過去世のことは言わないで欲しいという。この一世のことだけでも良い。そなたを罵倒するのは、上師が過去世でこの悪業を犯したからではなく、上師は経典が説くことが分かるからだ。この一世でリンチェンドルジェ・リンポチェがそなたの消業をしてやれるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは三悪道に堕ちても構わない。

金剛乗では、チベット仏教の上師が用いる方法は顕教とは異なる。金剛乗では上師は絕対にそなたを持ち上げたり、お世辞を言ったりしない。なぜなら今日この報身があるのは業力のためだとよく知っているので、もし業力がこの一世で取り除かれないなら、輪迴を断つなど口にする資格はないからだ。そなた達の能力、そなた達の心では、自分でこの一生の業力を消し去ることはできない。よって上師は非常に無慈悲な方法を用いるのだ。特にチベット仏教ではそれぞれの上師が修める本尊は異なり、仏部、護法部、金剛部に分かれている。そなた達は運が大層良い。金剛部を修めた上師に従うことができているのだから。金剛部では上師が用いる方法は非常に猛々しい。『金剛』とは一切の内在、外在の誘惑を受け付けず、成仏の心、衆生に利益する心に変えることだ。しかも金剛部を修めた上師は、その上師に対して絕対的な忠誠を尽くす。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェの門下に皈依している。リンチェンドルジェ・リンポチェの教導に従わないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはさまざまな方法を用いてそなたを導く。なぜそなたは従わないのか?これはそなたの業であり、リンチェンドルジェ・リンポチェの業でもある。

ミラレパ尊者は、業及び因果は力に応じて成熟すると開示くださった。善悪本来の相貌を、我々は目にすることができる。善の果報であろうと悪の果報であろうと、ある法門を修持したことで消失してしまうことはない。善と悪の果報は必ず顕現するが、もし我々が断悪行善するなら、悪業が顕現しても軽く済むだろう。上師に叱責されれば気分が悪いだろう。だがこれは重い報いを軽く受けているのだ。他人に殴られるよりは良いではないか?他人に侮辱されるよりは良いではないか?そなた達は因果を信じないので、仏法を信じないのだ。自分は信じているなどと決して思ってはならない。そなた達が信じているなら、依教奉行できるはずで、この週はすぐにリンチェンドルジェ・リンポチェの法会中の開示を録音したテープを聞くはずだ。聞かないのは、自分は理解したと思っているからだ。

開示を続ける。過去世で我々が受けた業は損滅せず、必ず果報を受ける。菩薩位以下(菩薩果位以下の人)が四力により対治し、懺悔するなら、太陽が氷を溶かすように、業の力はゆっくりと弱くなるだろう。次の機会にリンチェンドルジェ・リンポチェが金剛薩埵を伝授する時、四つの力とはなんであるかを教えよう。なぜ顕宗ではあんなにも多くの懺を拝むのか。業の力はなぜそれでも弱くならないのか?それは、この四つの力を用いていないからだ。凡夫果位の人が、もし真に懺悔を修めるなら、四力を用いてこの業の力を対治しなければ、業の力を弱めることはできない。だがそれでも消すことはできないのだ。太陽が冰を溶かすようなもので、冰は本来は水なのだ。水がなくなることなどあろうか?なくなったように見えても、それは形態が変わっただけだ。冰は硬いが水は柔らかい。よって形態が変わったと言っても、消失したことにはならない。たくさんの人が誤解し、邪見を生じている。消業とは、業がなくなることだと思っている。消業とは力を除き弱めることなのだ。今後衆生を誤導してはならない。ある経を念じれば、ある真言を唱えれば、業力がなくなるなどと、決して他人に言ってはならない。もしそうなら、因果法則はどこなのだ?それでは因果がなくなってしまう!仏であっても転業できないと仏さえも仰せなのだ。そなた達がある経を念じただけでどうして業を消してしまうことができようか?不可能だ!業の力が減少するだけで、形態が変わることもあるだろうが、やはり存在しているのだ。

だが、もしそなたが菩提心を生じることができるなら、懺悔しなくとも、清浄を得ることができ、業力は清浄となる。あたかも太陽が昇り暗黒が消えてしまうように。なぜ法会の終了前には必ず『発菩提心』を念じるのか?この重要性がわかっただろう。なぜ我々は菩提心は宝だというのか?なぜならこの宝は我々の業力の方向を変えることができるからだ。悪業であっても、我々にとってはやはり善業なのだ。なぜ菩薩は六道で絶えず出現し衆生を済度させることができるのか?それは六道の悪業があるからだが、菩提心を発したので、悪の業が行善の力に変わったからだ。よって、菩提心を発していない人は、業を転じることはできず、業の力を減らすことしかできず、だがやはり転業はできないのだ。転業したいなら、必ず菩提心を発しなければならない。そなたが菩提心を発しさえすれば、業は清浄となり、業の力はそなたの修行の道の障害とならない。なぜならすべての悪縁が善縁に変わり、すべての一切の悪がそなたを成就させるからだ。そなた達は菩提心を発していないので、懺悔するしかない。よって現在そなた達は非常に憐れだ。懺悔さえできていない、菩提心さえ発していない。どうしたら良いのだ?たくさんの人が学仏は非常に困難だと思っている。困難ではない。非常に簡単だ。なぜそなた達は行わないのか?それは行ったとしても目に見えないからだ。学仏は一朝一夕に成せるものではない。少しずつ長い時間をかけて累積しなければ、目に見え、試験に耐え得るものではないのだ。成し遂げられないなら、より多くの努力を重ねなければならない。気を緩めたり、諦めたりしてはならない。どんな人でも成仏でき、どんな人でも学べるのだ。問題は取り組むかどうかだ!

善業が消えてしまう原因は四つある。一つは欺騙応供で、その果位まで修めていないのに修めていると自称し、供養を受け取ることだ。仏寺を建てても衆生に利益することなどできないと自分自身はっきり分かっているのに、供養を受ける。これは欺騙応供。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェは7月青海へ行った。直貢噶舉派の寺であればどこでも、リンチェンドルジェ・リンポチェが訪れれば、必ずリンチェンドルジェ・リンポチェを法座に上げて、ケンポスとラマが供養する。これはリンチェンドルジェ・リンポチェが要求しているのではなく、事前にアレンジされているのでもなく、善果の顕現だ。もしこれらをわざわざアレンジしたなら、それは欺騙応供で、善因は消失してしまう。簡単に言えば、学仏人は隨縁であるべきで、計ったり考えたりしてはいけないのだ。何かを得られるかどうかは重要でなく、如実に仏弟子としてあり、如実に衆生に利益し、自分が何かを得られるかなどとは考えず、他人が何かうれしいことを言いに来てくれるなどと期待してはならない。

善業が消失する二つ目の原因は、欲善起悔だ。これは、善業を行った後に後悔することだ。例えば、ある人を助けたが、この人が後にそなたが好まない事を行ったとする。すると、そなたは自分がこの人を助けたことを後悔するだろう。布施を行うにしても、供養を行うにしても、事後に後悔している人がいる。他人に意見するのを好む人がおり、『これは多過ぎるんじゃないの?』と他人に言ったりする。このような人もこの範囲に含まれる。ここにいる者達の中にもこのように言ったことがある者がたくさんいるだろう。他人の供養が自分より多いのを恐れ、指摘するのだ。

三つめは軽視汚辱菩薩だ。菩薩も等覚菩薩も法身菩薩も、そなた達の目には見えない。そのため、そなたに侮辱される機会は比較的少ない。けれども、この世間には凡夫の菩薩がたくさんおり、そなた達はしばしば極めて容易に凡夫の菩薩を軽視し、侮辱している。これはそなたが為した善業をいとも簡単に消失させてしまう。衆生に対して必ず恭敬でなければならないとそなた達に言うのは、この種の事を為させないようにするためなのだ。今回永噶リンポチェにお目にかかった際、ユンカ・リンポチェは『蓮師は現在この世間におられないが、蓮師の1,000の化身が地球上にはおられる。さまざまな業界、さまざまな領域において、絶えず衆生に利益しておられる』と仰せになった。この1,000の化身は仏教徒とは限らず、中国人でなく西洋人かもしれないのだ。ユンカ・リンポチェは『誰がこの1,000人のうちの一人なのか、私は知らない』とも仰せになった。ユンカ・リンポチェがご存知ない?ご存知のはずだ。だがなぜ仰せにならないのか?なぜなら我々が、この人がある人であると知れば、この人は去ってしまうからだ。我々はこの世間の種々の事柄をしばしば自分の考えで判断し、しばしば過ちを犯す。しばしば他人に非常に高い要求をし、少しでも自分の考えを満たすことができなければ、汚い言葉が口から飛び出す。これは良くないことだ。

善業を消してしまう四つ目は、行為狡詐だ。つまり何かを装って騙すことだ。自分はこの善を行いたくないくせに、行うように装い、善人であるように他人に思わせる。これはそなたの善業を消してしまう。また、嗔恨と自満も我々の善業を消失させる。嗔恨については、我々はしばしば起こしている。自満もそうだ。自分はたくさんやった、非常にうまくやった、これで十分だと思ったなら、善業は漏れ出ていくだろう。

続けて開示する。『自仏陀以下一切衆生、都為感業報而生』というのは、十法界内の仏陀を除く六道の一切の有情衆生は、菩薩であろうと声聞、縁覚であろうと、すべて業力により業報を感受するということだ。例えば、釋迦牟尼仏が在世の頃、琉璃王が軍隊を率いて釋迦族すなわち釋迦牟尼仏の種族を襲い、8万人の釋迦族を殺戮した。この時仏は三日間頭痛に悩まされた。弟子は仏に、なぜこうなってしまうのか?と尋ねた。ここからは特にしっかり聞くように。誰でも自分の家族に平穏無事であってもらいたいと願っている。少し経を念じるだけで家中すべてが平穏になると考えている。夫が学仏すれば妻は来なくとも良い、或いは妻が来れば夫は不要だと考えている。これは因果法則を信じていないのだ。

釋迦牟尼仏は仏であられる。釋迦族が殺戮に遭った時、仏は道の真ん中に座り琉璃王の軍隊を遮ろうとなさった。三日三晩座り続けたが、遮ることはできないと悟り、その場を離れた。これは何の果報なのか?かつてとても古い時代、釋迦族は漁夫で、たくさんの魚を殺していた。ある時、たいへん大きな魚を柱に縛りつけたが、この魚はジタバタ暴れた。釋迦牟尼仏はその時子供だったので、この魚が痛がる様子を見ても、憐れとも思わず、それどころか反対に面白がって笑った。子供を殺生に関わらせてはならない、衆生が殺される様子を子供に見せてはならない、とそなた達に言うのは、歓喜の心を起こしさえすれば、いわゆる隨喜悪業が生じるからだ。釋迦牟尼仏はその時棒で魚の頭を叩いた。その果報として、この一生で頭痛に悩まされたのだ。琉璃王は過去世では、この大きな魚だったので、殺された魚達を連れて釋迦族を滅ぼしに来たのだ。これから分かるように、因果とは消滅しないものなのだ。学仏人は因果の存在を深く感じなければ、断悪行善の決心を下すことはできない。

もう一つ例を挙げよう。釋迦牟尼仏のお側の弟子で第一の神通力と言われた目犍連は、外道のある導師は現在地獄にいると言ったため、この外道の導師の弟子に殴り殺された。第一の神通力とは、五つの神通変化能力を備えており、どんな事でも、どんな世間の物質でも彼に対して危害を加えることはできないということだ。だが、因果を離れることはできないのだ。たくさんの人が、密宗を学び神通を備えればとんでもないことだ、と考えているだろうが、実はこれは重要ではない。重要なのはその法がそなたの生死解脱に助けとなるかどうかなのだ。以前しばしばみなに注意した。因果など簡単だと思ってはならない。また、因果といっても想像するほどには深刻でないと思ってはならない。何か言っても後果などないと思ってはならない。すべてあるのだ。我々がある動作を行い、ある一言を発すれば、この業力はすぐに出現する。業力が出現すれば、果報も必ず出現するのだ。

続けて開示する。我々は善業、悪業の軽と重に集中する。三宝に従い集まった者、特に金剛上師は三宝総集なので、金剛上師が集めた何らかの善悪に頼れば、その功徳と過失は普通より重い。これはどういうことか?もしそなたがある如法の金剛上師に従い行善したなら、それによって得られる果報はそなた個人が行うより、慈善団体に従って行う善の力より数倍大きい。反対に、もしそなたがある如法の金剛上師の壇城下で学仏し行悪するなら、それによって得られる果報も倍になる。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の行悪を常に阻止しようとするのか。そなた達が他人を罵倒するのを阻止しようとするのか。そなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェに不恭敬に振る舞うのを阻止しようとするのか?それはリンチェンドルジェ・リンポチェ個人に原因があるのではない。なぜなら法師であろうと金剛上師であろうと、法座で講法する時には、まさに三宝の総集なのだ。つまり、仏法僧を代表し仏法を弘揚し虛空の一切の有情衆に利益するのだ。強調しておく。虛空なのだ。そなた達この数百人足らずではないのだ。

どの上師であっても上師が講法すれば、この法の力の波動は虛空を震わす。みなも覚えているだろう。ある時、リンチェンドルジェ・リンポチェが法座で講法していると、ちょうど地震が発生した。経典によれば、金剛座上で講法時に地震が発生するのは、諸仏菩薩と一切の善神の賛歎なのだ。この事をリンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王とたくさんの大リンポチェに報告申し上げたところ、みな非常なる賛歎をくださった。これら賛歎はリンチェンドルジェ・リンポチェを讃歎してくださったのではなく、仏法の偉大さを讃歎なさったのだ。これら衆生の因縁がなければ、この法会はなかった。なぜ、あらゆる法会を重視するよう求めるのか。法会中はなぜ居眠りしてはならず、妄念を抱いてもならないのか?それは、法会は我々この数百人が聞いているだけではなく、虛空にいるたくさんの衆生も聞いているからなのだ。

よってここで言う。金剛上師に従い為した一切の善は、善の果報を無限に大きくする。反対に、如法の上師の金剛座下で行悪すれば、その悪の果報も無限に大きくなる。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば言うのだ。嫌ならやめれば良いと。だが決して批判してはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェが誹謗を恐れているのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが誹謗を恐れるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは上師ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達が非常に重い悪因を為すのを恐れるのだ。よって、みなに注意しておく。友人にリンチェンドルジェ・リンポチェを紹介するなら、彼らにこの点を知らしめなければならない。信じなくともよい、来なくともよい。だが決して口業を為してはならない。彼らにとって良くないことだ。この点をはっきりとわきまえていなければならない。

ここでもう一度注意する。父母や上師など、かつて恩恵、利益を与えてくれた人に対して為す善と悪の功徳と過失は共に大きい。なぜ親孝行しなければならないのか?それは彼らの我々に対する恩徳はいくら感謝しても感謝しつくせないほどだからだ。よって我々は親孝行しなければならないのだ。これこそが善の表現だ。なぜ上師に対して恭敬し、師や年長者を敬わねばならないのか?なぜなら上師は我々の未来の人生を変えてくれるからだ。我々が他人の恩恵を受け、行善できるなら、その功徳は布施供養よりも大きい。反対に、我々がこれらの人に対して行悪するなら、その果報も大きい。病気の人など今正に苦を受けている人に対して、行善するなら、その果報は何倍にもなる。反対もそうだ。『地蔵経』は教える。自己の業力を転じたいと願うなら、最良の方法は病人を介護することだ。病人に対して決して悪念を起こしてはならず、面倒だという態度を示してはならないと、なぜ『地蔵経』は教えるのか?なぜならこれはすべて行悪だからだ。

なぜ菩薩は苦難にいる一切の衆生を絶えず救度なさるのか?それは成仏には福慧円満が必要だからだ。これこそが法門だ。なぜ菩提心を発するよう勧めるのか?仏法は何のために学ぶのだ?それは苦難にいる一切の衆生を救うためだ。成仏するにも、菩薩になるにも、生死を離れるにも、福徳がなければどうしようもない。よって他人に利益するのは、見たところ他人を助けているようだが、実は自己に利益しているのだ。なぜなら衆生を苦難から救度する時、そなたの功徳は数倍になるからだ。反対に、衆生が苦にある時を狙って利益を貪るなら、その悪業も数倍だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に見本を示している。苦難にある人がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来る。その人がリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依していないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは絕対に供養を受け取らない。どんな病であろうと、どんな困難であろうと、どんな苦しみであろうと、リンチェンドルジェ・リンポチェはすべて平等に救う。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの功徳を欲張ろうというのではなく、そなた達に見本を示しているのだ。仏法は買売ではなく、金がなければ何もしてやれないというのでもない。

業力はどのように受けるのか?業力は重い業を先ずは受ける。もし行善の業の方が重いなら、先に善の果報を受け、悪の業の方が重いなら、先ず悪の果報を受けるということだ。よって、子女が親不孝なら、高齢者にとってそれは祝うべきなのだ!悪果が成熟したのだ。これを転じようとしてはならない。子女がそなたの金を使うなら、それは祝うべきなのだ!悪果が成熟したのだ。悪果が成熟した後に訪れるのは何だろうか?善だ。善とはなんだ?この高齢者はこの一生で必ず阿彌陀仏のお側に行けるだろう。天地において最大の善は、浄土で修行し成仏することだ。年寄りはしばしば自分はとても辛く、自分はとても憐れだと思っているようだが、このように言ってはならない。これには必ず原因があるはずなのだ。それを受け入れ、向き合えばよいのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて言った事がある。どんな困難にぶつかっても、そなたがリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子でありさえすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず助けてやろう。食べる物がないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェのところに食べに来ればよい。何を恐れるのだ?恐れることなど何もない。学仏人が食べる物がない、住むところがないと心配し、あれもこれも心配しているなら、これでは学仏人ではない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは言ったことがある。リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ一切の難関を越えられたのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが仏の仰せを絶対的に信じたからだ。経典では、如法学仏の人は餓死せず、着るものがないということはなく、住む家がないということもない、という。リンチェンドルジェ・リンポチェは最も貧しかった1994年であっても、この三つの状況には陥らなかった。それなのに、そなた達は何を心配しているのだ?旅行へ行くのさえあれこれ心配している。損するのではないか、金儲けに使われるのではないかと心配している。利益が出ないなら、だれが旅行会社を開くだろうか?他人に金を儲けさせたくないなら、金を奪おうか。それなら満足か?これはなんという心だろうか?嗔恨の心だ。リンチェンドルジェ・リンポチェの一生はある二文字に象徴される。それは『吃虧(損をする)』だ。相手が金を儲けるのは当然だ。なぜなら相手も暮らしていかなければならないのだから。理に適っているなら、利益を得させればよい。もっと多めに得させても、どうということはない。みなが喜ぶならそれでよい。金は身外の物なのだ。

他人に騙されたと一日中気に掛けていてはいけない。騙されたとしても、それはそなたの果報であり、そなたもかつて人を騙したことがあるからなのだ。文殊菩薩が以前示現なさったように、他人を騙したことがないなら、他人に騙されることはない。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前もこの話をした。文殊菩薩がある人に『文殊菩薩の物は他人に盗まれることはない。なぜなら文殊菩薩は他人の物を盗んだことがないからだ』と言われたが、その人は信じなかった。そのため、文殊菩薩はご自分のとても美しい新しい靴を城門に置き、『誰も持って行かないだろう』と仰せになったが、本当に誰も持ち去らなかったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前そなた達に言ったことがある。リンチェンドルジェ・リンポチェの宝石はタクシーの中に置いておいても誰も持って行かない。これこそリンチェンドルジェ・リンポチェの果報なのだ。そなた達は一日中他人に騙されるのではないかと恐れている。なぜ他人がそなたを騙すのか?それが果報だ。そなた達は旅行へ行くのさえ他人に騙されるのではないかと恐れている。そんなに大変なら行かないほうがよい。自分はとても頭がよいと思っているのだろう?この世間では、頭がよい人ほど他人に騙される。

業力は重い方が先に来て、軽い方が後に来る。一生をかけて敬虔に学仏した人が、なぜこんなにも不運なのだ?という人がいる。一つ目には、悪の業が善の業より重いため、先に来たからだ。二つ目には、この人のこの一世での学仏の力はまだ出現しておらず、次の一世で報いられるだろうからだ。『ああ!学仏してもやはりこの有様だ』と今後は決して言ってはならない。ある男性弟子は家中で事故が起きた時この考えを抱いた。そなた達もたくさんの人がこの考えを抱いたことがあるだろう。だが彼の母の最後はよいものだった。なぜならポワ法を得られたのだから。これは他人が求めても得られない法なのだ」と仰せになった。

この時ある男性弟子は立っていられなくなったので、リンチェンドルジェ・リンポチェに出て行くよう指示された。

「我々は知らなければならない。学仏には必ず善の報いがあるが、悪の方がそれは重い。もし、そなたの悪業が非常に重いなら、悪果の報いが先に訪れ、その後に善の業が訪れる。つまり、その男性弟子の母は先に悪報があり、後で善報が訪れたのだ。先ほどリンチェンドルジェ・リンポチェは言った。真の善とは阿彌陀仏のお側へ行くことだ。学仏行善している人に良くない事が起きたのを見ても、『ああ!学仏してもやはりこの有様だ』というこのセリフを今後は決して口にしてはならない。これでは、口業を犯してしまう。口業とは何だろうか?因果を信じないことだ。悪人が楽に暮らしているのを見ても、羨んではならない。その人は善業の方が強いので先に報いがあったが、悪の果はその後に順番をついて待っているだけなのだ。

因果法則は定まっており、不変なのだ。学仏すれば悪い事は起きなくなり、状況は転じ、軽くなり、行善を利用して最高の境界まで行けるなどと思ってはならない!転じて軽くできたなら、それだけですでに十分なのだ。仏が仰せの方法を信じなければならない。もし、善業と悪業が等しいなら、死を前にして為した業を先に受ける。ある人は一生念仏したが、死を前にして突然、肉が食べたいと家族に言った。この人のために願いを叶えてやろう、などと考えて、肉を食べさせたりなどしてはならない。なぜなら、これはこの人の累世の業が行悪させようとしているのだからだ。肉食すれば地獄に堕ちる。この一生で念仏しても無駄になってしまうのだ。

もし、本当に考えを変えさせられないなら、少し技を使えば良い。肉そっくりに作られた菜食が今ではたくさん売られている。そのベジタリアン肉を食べさせればいいだろう。だが、『これはあなたのために屠殺したのだ。あなたのために作ったのだ』と決して言ってはならない。最良の方法は拒絕だ。この人は死に向かっている。食べなくともいずれは死ぬのだ。食べることで、死がより辛くなる。だが世人は愚昧なので、一口肉を食べたところでどうということもないと思っている。75gの肉を食べれば300gの肉を返さなければならないと経典には非常に明確に書いてある。この事をまだ覚えているだろうか。『誰々に電話して責任を問うて欲しい』と死を前にして突然言う人がいる。これは悪だ。『すべての財産を処理して欲しい』と死を前にして突然言う人がいる。これも悪だ。なぜなら、自分の財産に執著しているからだ。これでは餓鬼道に堕ちる可能性が極めて高い。仏は、在生の際はひたすら学仏するようお教えになる。死を前にして因縁がなく善知識に接することができず、方法を授けてもらえないのを心配しておられるからだ。累世の業が現前で我々に影響を及ぼし最後の行為を行わせ、さらには最後の考えを抱かせることもある。

何が我々を輪迴させるのか?それは死を前にした最後の考えだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修めると、往生者の神識はリンチェンドルジェ・リンポチェの面前に現れる。彼らが最後に考えた事をリンチェンドルジェ・リンポチェはすべて知っている。ここにいる多くの弟子の親族はすでに往生しているが、リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修めたなら、亡者の考えはすべて知っている。ある弟子の夫が往生した際には、銀行にあるいくらかの金についてまだ妻に伝えていなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼にポワ法を修めた時、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに、妻が贈ってくれた財布の中に銀行のパスワードがあるが、妻は知らないと伝えてきた。そなた達は、もうこれ以上リンチェンドルジェ・リンポチェを騙してはならない。亡者であってもリンチェンドルジェ・リンポチェを騙すことはできないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに対して表面だけの工夫をしても無駄なのだ!

死を前にした時間が非常に重要だと確実に理解しなければならない。いわゆる死を前にした時間とは、一週間以内のことだ。これは普通に病気になり、危篤になった場合のことで、事故死は違う。病人の死の一週間前に、この人の病気について、この人の死後にどうこうする、この人の財産をどうする、などとそばで決して言ってはならない。この類の話は言わなくとも良い。言えば、その人に悪業を為させてしまうだろう。その人の未来がどうなるかを死に行く際に決定してしまうのだ。

もし死の前に、善と悪をいっしょに行ったなら、普段のその人の習慣の力に従い、習慣の力で強い方を先に受けるのだ。例えば、この人が普段よく人を罵倒し、何かというと怒っており、またはとてつもなく傲慢で、他人は誰でも自分を大切に扱わなければならないと思っているとする。このような人は、先ずはこの習慣の報いを受ける。傲慢な人は来世で、福報が良い方ならニシキヘビになり、もう少し良いなら犬になり、さらに良いなら小人になる。この一生でどうして背が低いのだろうか?それは過去世で非常に傲慢だったからだ。他人は自分を崇めなければならない、自分におべっかを使わなければならない、自分はとても頭が良く、極めて優れており、能力が高い、と思っていたのだ。それでも学仏したことがあったなら、来世では小人になるだろう。小人でなくとも、絕対に普通の人より背が低い。よって、普段の習慣は非常に重要なのだ。だからこそ、考えは常に善でなければならない、とそなた達を諌めているのだ。常に向善を思い、悪の念を持ってはならない。

悪念を持つ習慣がある人は、実際に行為としなくとも、悪念の習慣があることで、誰に嫌な思いをさせられた、などと死の前に突然思いつく。そして、嗔恨の心がいっしょに湧き上がるなら、火地獄へ堕ちるだろう。自分に嫌な思いをさせた人をすべて忘れるよう、リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば諌めている。それは、このような考えを習慣的に持っていれば、地獄に堕ちるからだ。常に向善の思いを持っている人は、死を前にして抱く最後の考えもすべて善なので、自然に善道へ行くだろう。だから『子供が親不孝だ。これがおかしい。あれもおかしい』と言ってはならない、と諌めるのだ。一日中あれこれを責めていれば、それは嗔恨の心であり、火地獄に堕ちる可能性が非常に高いからだ。忘れてしまえば関係ない。

善の習慣と悪の習慣が同じなら、為した業の順序に従い決まり、先に為したものが先に成熟する。つまり、そなたの普段の習慣が善も同じ、悪も同じなら、先に為したものが先に成熟する。悪を為したことがあれば、悪は必ず成熟し、善も必ず成熟する。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば言う。善と悪とは二本の平行線で交わることはない。多くの人が善は悪を相殺できるという。もし、そうなら因果などないだろう。善と悪は出現するのが先か後かの違いだけで、相殺されることなどないのだ。そなたが直ちに断悪し、ひたすら善を行わない限り。こうすれば、悪の力はそなたに影響を及ぼさず、蚊に一箇所刺された程度の影響にとどまるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の皈依時に『諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教(諸悪を為すこと莫れ、衆善を奉行し、自ら其の意を浄くせよ。是れ諸仏の教えなり)』という。これは仏法の根本的な概念と考えだ。

ジッテン・サムゴン祖師はかつて、業果を一種の病とする説明を開示くださった。修行の方法は不要だというなら、これは打妄語だ。好天なら雷は鳴らないし、雨も降らないだろう。よって我々は思考しなければならないのだ。何を思考するのか?修行は必要なのだ。修行を通さないなら、好天に雷が鳴り、雨が降ることなどあり得るだろうか?『正法念処経』では『太陽、月は登った、沈んだと目で見ることができるが、業力の成熟を妨げることはどんな力であってもできない』という。これは、自分が為した事は受けとめ、責任を負い、向かい合わなければならない、ということだ。業力の成熟を妨げることができる力などないのだ。修行せず、改めず、それを転じようとしないなら、どんな力であろうと変えることはできない。よって我々は、一生のすべての力を尽くして、善業に精進しなければならない。仏法テープを聞かない、そなた達これらの者達は、善業に力を尽くしていないのだ。寂天菩薩はかつて開示くださった。我々は善に対しては歓喜を抱くべきである。恭敬については着実であるべきだ。真に行わなければならない。不善事業は自己に対して有害だと知らなければならない。よって、これを思維しなければならない。我々の生命を捨てたとしても、一切の悪業を断たなければならない。微細な悪だとしても、予防し保護しなければならないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが金剛薩埵を修める時、四力の内の一つである対治力で『これ以降永遠に悪業を行わない。虛空が尽きたとしても、この誓いは尽きない』と言う。虛空が尽きることなどあり得るだろうか?虛空はなくならない。すなわちリンチェンドルジェ・リンポチェの誓いは、永遠に悪を為さないことなのだ。この誓いを立てる勇気があるか?居眠りしないだけでも十分だろう。なぜそなた達は修行できないのか?それは誓いを立てる勇気がないからだ。誓いを立てるのは懲罰ではなく、一種の力なのだ。我々に断悪させてくれる。誓える勇気がある人でなければ、微細な悪まで断つことはできない。仏法テープを聞かない、そなた達これら弟子達は、つまりこれら悪、微細な悪、衆生に35分間の借りを作った悪を為したのだ。『賢愚経』では説く。小さな罪業であろうと、この小悪がゆっくりと積み重なり、野原を焼き、功徳林を焼いてしまうのだ。

我々はこれら『小悪』を非常に軽視している。別に人を罵ったところでどうということはないと考えている。リンチェンドルジェ・リンポチェに腹を立てたところで、どうということもないと考えている。小事は絶えず積み重なり大悪になるのだ。我々は常に善業に精進しなければならない。小さな善であっても軽視してはならない。小さな水滴であっても、それがすべて溜まれば大海に変わるのだ。同じように、小悪もゆっくり積み重なり大海になってしまう。改めないなら、顔色は黒いままだ。なぜならそなた達にはなおたくさんの小悪があり、悪を断っていないからだ。顔は変わったか?相貌は変わったか?気は転じたか?リンチェンドルジェ・リンポチェの顔色はどんどん良くなっていく。なぜ輝くのか?それはライトを当てているからではない。心が輝いており、ひたすら止悪しているからなのだ。

行善しても、それが出離心から、菩提心からでなく、空性見地によらないなら、善業の大小に関わらず、その果報はすべて人天果位だ。これは下根器の善業だ。自身の利益を思維し持戒修定し、智慧により無我に入り、三世或いは七世の修行を集めれば、阿羅漢の果位を得ることができる。これは中等根器修行の果報だ。前世の広大な善業により、この世で円満な人身を得られ、一切を自己の手上に操ることができ、あらゆる行為を思考すれば、仏果まで証することができる。

すなわち、我々は解脱し、必ず十不善を断ち、殊勝菩提心を発し、菩薩戒を守らなければならないのだ。これに基づけば、我々の三門所見(身、口、意一切の所見)は本尊、咒語、慧輪を離れなくなる。これがいわゆる四具或いは密咒戒だ。つまり、密咒を唱える我々は、『オムマニペメフン』であったとしても、持咒する人は必ず菩提心を発し、十不善を断ち、菩薩戒を守らなければならないのだ。我々の身、口、意は本尊、咒語と智慧の輪脈を離れることはできない。本尊とは観音菩薩であられる。観音菩薩は一切の慈悲法門を行い衆生に利益なさる。そなた達の行為ができていないなら、咒語の善をできていないはずだ。定を用いず、智慧を用いて他人を助けるなら、そなたは生死を解脱することはできない。

仏号を唱えれば阿彌陀仏のお側に行けると多くの人が言う。実は、阿彌陀仏は咒語であり仏号ではない。『浄土経』では修三福と言う。すなわち先ほどリンチェンドルジェ・リンポチェが講じた三つの事だ。つまり、そなたが浄土を修めようと、禅宗、密宗を修めようと、この三点を必ず為し遂げなければならないのだ。ジッテン・サムゴンは『金剛語』で、一切の戒は断十不善が鍵だと仰せになった。これは唯一の鍵なのだ。十善法の反対は、つまり十不善だ。我々はこれに従い修行する。ミラレパ尊者は仰せになった。そなた達が仏法修行に精進しないのは、因果を信じないからだ。けれども、そなた達は『信じています!』と必ず言う。信じているなら、リンチェンドルジェ・リンポチェのように精進するはずだ。すべての大修行者のように精進するはずだ。そなた達はこんなにも怠惰で、改めようとしない。なぜならそれは因果を信じないからだ。因果とは離れられないもので、非常に複雑なものだと分かっていない。ミラレパ尊者は非常にはっきり説いておられる。法門の面で精進できないのは、因果を信じないからだ。因果を深く信じているなら、凡夫であろうと、ミラレパ尊者のような年寄りであろうと、全心向法し、一心一意で、別の考えを持たないだろう。なぜ全心向法ができないのか。それは、善には善報があり悪には悪報があると信じていないからだ。自分の意識に従い、自分の業力に従い、自分の日々を過ごしている。好きなように過ごし、自己を改めるために努力しようとしない。これは因果を信じないからだ。

今もなお、さまざまな考えを抱き、娘が良い人と結婚できるように願い、これもあれもと願うなら、これこそ因果を信じていない証だ。良い人に嫁ぐようになっているなら、自然にそうなるだろう。そなたが手配したり、あれこれ考えたりする必要はないのだ。30歲を過ぎると焦り出し、リンチェンドルジェ・リンポチェに結婚縁について聞きに来る女性が多い。結婚の縁がないことなどあり得るだろうか?女性は必ず結婚縁がある。それが要るか要らないかの違いだけだ。そなたの分別心はどこにあるのか?そなたの因果はどこにあるのか?現代の女性はみな欲深い。男性は家が、車が、良い職業がなければならないという。いわゆる『五子登科』だ。戒子(指輪)、車子(車)、房子(家)、銀子(金)、児子(息子)を求める。台湾男性も欲が深く、同じように『五子登科』を求め、二十年も努力せずとも、この結婚縁があれば良いと思っている。実はこれは因果なのだ。

配偶者は運命で決まっているのだ。よって因果を深く信じている人は、こんなことに時間を無駄にせず、しっかり修行する。リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を信じているので、1994年は一年間貧乏で食事も満足にできなかったが、やみくもに修行し、修行に精進した。これは自己の果報なのだ。仏菩薩、上師とは関係がない。そなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェに従い学仏していたが、突然問題が起きたとする。先ず、思いつくのは『仏菩薩は効き目がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは効き目がない』ということで、自己の果報には思いもよらないだろう。そのため、これら成就者、これら上師は、因果を深く信じるよう絶えず我々を諌めているのだ。

ジッテン・サムゴン祖師は、修法の中で前行は正行より重要だ、と仰せになった。前行とは発心だ。修行の前には毎回、四皈依、四無量心を唱える。これが前行だ。動機は非常に重要だ。正行を修めるよりもさらに重要だ。もし動機が誤りなら、正行しても多く修めることはできず、その果報も不十分だ。前行は非常に重要で、回向も非常に重要だ。たくさんの人が顕教の法会に参加する時、半分まで念仏して帰ってしまう。施身法法会に参加する人も、こういう人がいる。

我々はいつでもどこでも正念を離れることはできない。我々は、内外情器を誤って認識してはならない。『世間為真実、常観修其為幻化顕現』とは、因果を深く信じ、輪迴は過患で自己の業力は深刻だということを知らなければならないということだ。我々は誤った認識を持ってはならない。我々の身体と外在の一切の世間とは共に、真実堅固で不破であり、一切の事柄はすべて幻化した顕現なのだと観修しなければならないのだ。

幻化とは、我々が得た、見た、聞いたものすべては、業力の顕現であり、悪業であろうと善業であろうと、永遠に不変ではなく、不転ではないということだ。よってさらに、常に善念を持ち正道を行い、転心向仏しなければならないと我々を諌めている。我々の考えは必ず善であり、常に善念を抱かなければならないのだ。何らかの悪念を起こしても、すぐに消してしまい、善念に置換し、他人が自分に嫌な思いをさせたと責めたり、他人が良くないと悪念を起こしてはならない。『転心向仏、行於正道』において『正道』は迷信ではなく、『正道』により輪廻を解脱し衆生に利益することだ。『転心向法』とは我々の心を、世俗の事情でがんじがらめにしてはならず、心を殊勝な仏法に向かわせなければならないということだ。『凡所交往者、也令其心転向於法』とは、自己の改変により、一切の親族友人をみな仏法に向かわせるよう願うということだ。よって、これによって初めて善徳が增長し、これによって初めて我々の善の功徳が絶えず成長するのだ。

修法する修行者がいる場所は、それによって善となり吉祥を得る。修行人がいるところでは深刻な災難が起こらず、すぐそばまで迫っていても避けることができるのはそのためだ。問題は修行人が絶えず行善しているかどうかだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自己に過失がないかをいつでも検視するよう、親族、友人を含む他人の過ちを意識しないよう、しばしばみなを諌める。最も重要なのはそなたの師や年長者だ。そなた達は上師の過ちを見つけるのがとても好きだ。尊勝なる直貢チェツァン法王は仰せになった。一切の上師には過ちはない。過ちはそなたの心にあるのだ。そなた達はそなた達の心で修行者を評価しているのだ。

最近ある女性信衆が道場を辞めた。彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに病院で母に加持するよう依頼し、リンチェンドルジェ・リンポチェは日時を彼女と約束した。だが、その日に限ってリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た人がとてつもなく多く、リンチェンドルジェ・リンポチェは車を飛ばして駆けつけたが、約束に少し遅れてしまった。すると彼女は、遅れたと言ってリンチェンドルジェ・リンポチェを待ず、その後リンチェンドルジェ・リンポチェは無慈悲だと言った。これこそ、他人の過ちだけを見ているという例だ。当然リンチェンドルジェ・リンポチェも良くない。なぜなら約束に遅れたからだ。だが仕方がなかったのだ。その日会いに来た信衆にはみな非常に深刻な状況があった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の母はまだ死なないと知っていたので、少し待ってもらいたいと思った。特に彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子なのだから、待つべきだと思ったのだ。ところが、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェは無慈悲だと思い、今では来なくなってしまった。

尊勝なる直貢チェツァン法王は『決して自分の基準で上師を評価してはならない』とかつて開示くださった。そなたが上師に問題があると思った時、それはそなた自身に問題があるのだ。なぜならそなのた心に問題があるので、そなたが目にする一切の世間の事情に問題が出るのだ。六祖慧能は『真正修行人、不見世間過』とかつて開示くださった。この言葉の意味は、世間の種々の事は、因縁、因果に過ぎず、正も誤もないのだ、ということだ。もしそなたが相手が間違っていると思うなら、そなたは修行人ではない。この言葉の意味は、我々は自己を検視しなければならないが、他人、特に自分の上師、出家衆、修行人を検視してはならないということだ。自分は優れていると考え、自分の方法で他人を判断してはならない。もしそなたが優れているなら、少なくとも法座に上っているだろう。法座にさえ座ることができないなら、優れているという訳ではないのだ。だが人はみな自己の欲望により出家人、法師、上師を検視しようとする。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの話をしたことがあるだろう。息子が結婚するので宴会を開くからと言って、ある人がある法師に借金しようとした。宴会には菜食でない料理を出すという。その法師は当然金がないという。実は彼は本当に金がなかったのだが、この人はすぐに法師を、無慈悲だと罵った。息子の一生に一度の一大事なのに助けてくれないとは。この人は正しいだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェはこの人が間違っているとは言えないが、それは貪念だ。仏法を理解していないのだ。

一人の仏子であれば、職場にあっても、人生のさまざまな場面においても、毎日必ず摩擦があり衝突があるだろう。それが普通だ。だが決してある気持ちを抱いてはならない。先ずは、相手が間違っていると思うことだ。このような事がなぜ発生したのかを考える。自分のどこが不十分だったのかを考える。部下に対しても、上司に対しても、必ずこうしなければならない。自己を検視するのは仏子として最も重要な学習課程なのだ。自己を検視せず他人を検視するのは仏子ではない。たとえ登地菩薩、在等覚菩薩になっても、やはり自己を検視しなければならない。なぜなら我々はなお円満でなく、まだ成仏していないからだ。凡夫であるそなたが、何を以って自己を検視しなくとも良いというのか。何を以って自分が正しいというのか?

次に『他人の善の相を常観する。相とはその人の様子ではなく、その人の行善の部分で、その人が善を行っている部分だ』という。すなわち他人の間違っているところを見てはならないということだ。なぜならそなたが相手が間違っていると思うなら、それはそなたの悪念、嗔念が起きたからだからだ。誰でも絕対に長所があるし、絕対に欠点がある。我々はその人の長所を見なければならない。その業果は根本であり、我々直貢噶舉派の伝承では極めて珍重され、極めて貴重な教導なのだ。直貢噶舉は実修派だ。我々はこの面を非常に珍視し、非常に重視しており、絕対に着実に伝えているからだ。もしリンチェンドルジェ・リンポチェが適当に、他の道場のやり方を真似て、そなた達が好むような話をし、適当な物語を聞かせているだけなら、そなた達は必ず喜んで聞くだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達を持ち上げ、そなた達に自分は優れている、そなたに自分は他人とは違うと思わせることができる。だがこれは仏法ではない。これは直貢噶舉做の方法ではない。我々の問題は自分で取り組まなければならないのだ。

最後に四つ言おう。暇満人身を得たとしても、無常の魔が随時そばにいる。業と果報の恐ろしさ、輪迴の苦しさを聞いてはいるが、我々は悪業にいる衆生として、みな加持を祈り、我々の心に出離の心を生み出させなければならない。我々がこの一世で無瑕の人身を得て、学仏する機会を得たとしても、絕対に自分に告誡しなければならない。無常はすぐそばにあり、死魔はすぐそばにあり、一分一秒も我々を離れることはないのだ、と。もし我々が業力の恐ろしさ、輪迴の苦痛を深く理解しないなら、解脱することなどできない。我々は、自分と、悪業を為す一切の衆生がみな、諸仏菩薩と上師の加持を得て、出離の心を起こせることを願う。もし我々が、この方向、この方式を用いて学仏しないなら、そなたが修めるのはすべて世間法であり、出世法ではない。出世法を修められれば、世間法でも必ず障害がなくなる。もしそなたが出世法を人生で最も重要な事としないなら、世間法で多くの問題が出るだろう。

ある乳癌を患う女性弟子は、日曜日は子供と出かけるので法会に来られないとリンチェンドルジェ・リンポチェに言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは『良いだろう!リンチェンドルジェ・リンポチェとは無関係だ』と答えた。彼女の命は仏菩薩が救ったのだ。救ったのは、彼女に天倫の楽を享受させるためではなく、他人に仏法の偉大さを伝えさせるためなのだ。天倫の楽を享受すれば、彼女福報は使い果たされてしまうだろう。さらにもう一人の女性弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェに『アメリカに娘に会いに行く』と言ってきた。リンチェンドルジェ・リンポチェは『良いだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェとは無関係だ』と言った。そなた達は必ず言う。リンチェンドルジェ・リンポチェには家族を思う情が少しもないと。自分の子供に会いに行ってはいけないのか?と。これらをいう人は果報を信じていないのだ。そなたに福報があれば、子供は自然にそなたの側におり、逃げようとしても逃げられないだろう。福報がないから、側にいたとしても心を痛めることになろう。今日も息子が、父を殴り入院させたというニュースがあった。我々は在家の相だが、心は出家でなければならない。この一生で我々の親族は因縁果報なのだ。こうすれば、子供が良くしてくれるというものではないのだ。誰もが我が子を愛おしむ。我が子に側にいて欲しいと願う。だが、知らなければならない。子供は衆生の一部分に過ぎないのだ。我々が自己の衆生に対する心を拡張することができるなら、そなたの子供も自然に良くなる。この拡張とは、本当にその人のために何かをせよというのではなく、衆生の苦しみを心に思うことだ。

我々はこの一生で福報があり学仏できているが、我々は衆生も学仏できることを願っている。こうでなければ仏法は世間に常留しないだろう。この世間に仏法がないなど想像することもできない!親子の情とは、厳しく言えばこれも業力だ。そなたが相手に借りがあるのではなく、相手がそなたに借りを作り、この一生は終わる。我々は子供を愛おしみ、子供を慈しむ。正しい考えを用いれば、我々は子供に福を貸し、成長した時に用いることができる十分な福報を持たせているのだ。子供はとても容易に福報を浪費する。なぜなら子供は今は自分では福を植え付けられないので、我々が子供のために福を植え付けてやるしかないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達と親族とを遠ざけようとしているのではないが、親族はこの一生の業力の顕現なのだとわきまえなければならない。親族に対する心残りが重いなら、最後の思いを抱く時、そなたは彼らを思い、そなたは往生できなくなってしまう。親族に関心を寄せても良い。だが心を残してはならない。理に適った事は行っても良い。理に適わない事は意見を言い、阻止し、諌めなければならない。

もし我々が仏法の中にいるなら、先ほどあの女性弟子が腹を立てて出て行ったように、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達がみな腹を立てて出て行くことを強く願う。そうすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェはとても楽になるだろう。釋迦牟尼仏は、地球の衆生は強情で、伏し難いと仰せになった。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは釋迦牟尼仏と同じで邪を信じない。そなた達は強情だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達よりもっと強情だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは問題が起きることも死ぬことも恐れない。青海で14時間車に乗り、14時間絶えず揺られ続けても、二日間何も食べなくとも、非常に屈強だ。心が屈強でないなら、仏を修行することはできない。今日はそなた達をいくらか叱責し、いくらか警告を与えたが、それはそなた達の心が変わり、この五濁悪世で輪迴を続けないようにと願ってのことだ。特に我々直貢噶舉派は実修派なのだ。台湾には多くの道場があるが、しっかり修行できるところはいくらもない。

リンチェンドルジェ・リンポチェの友人はしばしば、根器が良い弟子はいるか?とリンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねる。リンチェンドルジェ・リンポチェは『会ったことがない』と言う。根器が良いとは、前世から携えて来たとは限らない。この一世で変えることもできるのだ。そなた達はなぜ変えられないのか?それは依教奉行しておらず、確実に行っていないからだ。災難があり、良くない事が起きれば、仏菩薩が救ってくださっただろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば言う。真の感謝は、リンチェンドルジェ・リンポチェに対して良くすることではなく、真に学仏し、着実に学仏し、諦めず、気を緩めないことだ。そうしなければ、変わることはない」と仰せになった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは立っていた弟子達に席に戻るよう言い、開示を続けられた。「一時間立っていただけで、とても大変だと思っているだろう。台湾人は幸せ過ぎる。そなた達は過去世でしっかり修行したため、この一世では快適な環境で学仏できているのだ。それなのに、まだ満足していない。福を惜しめ、としばしば言う。食事の際に残さず食べなければ福を惜しんでいるとは言えない、というのではない。福分が顕現した時、その機会を大切にし、この福を無駄にしないことだ。そなた達にはこの種の福報があり仏法が聞けており、他人がこの場所を貸してくれている。これはすべて福報だ。我々にこのような褔報があるのは、それを享受するためではなく、このような褔報の機会を大切にし、それを仏法の中に着実に根付かせるためなのだ。今日この場所がなく、エアコンがなく、屋根のある場所がないなら、そなた達は仏法を聞き続けることができるだろうか?三十分座るだけで、ここが不快だ、あそこが不快だと言っているではないか!

そなた達にこのような機会があるのは良い事だ。仏菩薩はそなた達に対して慈悲をかけてくださっている。そなた達がみな甘やかされて育っており、苦労に耐えられない者だとご存知なのだ。そのため、そなた達を台湾に生まれさせ、楽に日々を暮らせるようにし、そなた達にこのような良い場所をご提供くださり、心を定めてしっかり仏法が聴け、しかも如実に行えるようにしてくださったのだ。我々の時間は一日一日と過ぎていく。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分が一歳年をとると一年老い、仏法学習のための時間が一年減ると考える。リンチェンドルジェ・リンポチェは死を恐れないが、時間が足りず、修行が終わらないことを恐れるのだ。そなた達は直貢噶舉派門下に皈依でき、こんなにも多くの大修行者の庇蔭を受け、こんなにも多くの正しい法門を絶えず注入してもらっている。そなた達が行おうとしないのは、上師とは関係がないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが以前開示した『仏子行三十七頌』は何度も繰り返し聞かなければならない。先ほど、あの女性弟子は過ちを犯した。『仏子行三十七頌』では言う。大衆の面前で上師にそなたの欠点を指摘させ、その結果腹を立てればどうなるのか?大乗仏法を修行する人にとって、『仏子行三十七頌』は非常に重要だ。特にポワ法などの密法まで修行したいと思う人は、『仏子行三十七頌』の根基がなければ、修行することはできない『仏子行三十七頌』は我々人生の座右の銘となり得、人としての毎日の法則となり得る。『仏子行三十七頌』をよく聞けば、とても素早く断悪修善できる。必ず聞くように。自分にどんな問題があるかに気づけば、『仏子行三十七頌』内で、自分の過ちを探し出すことができる。

『仏子行三十七頌』は顕教では『三十七道品』という。顕教を学ぼうとチベット仏教を学ぼうと、『仏子行三十七頌』を理解しなければならない。自己のいわゆる尊厳を捨てられない人は、平等な慈悲心を修めることができないからだ。慈悲心を修められないなら、どんな法門の力を学んでもすべて存在しない。どうやって平等な慈悲心を修めるのか?それには、必ず我執を破らなければならない。『三十七道品』は我執について説くものだ。衆生の最大の敵は我執だ。『我』に強く執着することだ。先ほどのあの弟子は、『我』に強く執着し、自分は間違っていないと思っていたので、出て行ったのだ。そなたが自分は間違っていない、と思うなら、それは我執の始まりだ。明らかにそなたの過ちなのに『私のどこが間違っているのですか?』とそなた達は必ず言うだろう。だが、仏法はその手は食わないのだ。そして、一切の事柄には衆生相、我相、人者相、寿者相があると教える。執著はそれぞれ妄念なので、我々に絶えず煩悩を生じさせるからだ。『三十七道品』とは我々のこのいくつかの問題に対して、講じた方法なのだ。我々がこの『三十七道品』を如実に生活の中に用いて行きさえすれば、自然に悪を為す機会は絕対に減少する。

行善は本当に難しく、行悪はあまりにも容易だ。良い根基から、ゆっくりと積み上げていくのはとても困難だが、それを破壊するのはとても簡単だ。あたかもビルを建てるかのように、一、二年の時間がかかるだろうが、そのビルを破壊するには、数時間もあれば十分だ。人生もこうなのだ。よって、仏は我々に対して過酷だなどと誤解してはならない。なぜなら仏は、我々の苦痛がどこから来ているかをあまりにもよくご存知だからだ。そのため、我々にこれら方法をお教えくださり、如実に行うよう諌め、絶えず気づかせ、見本をお示しくださるのだ。金剛乗で明らかに菩薩乗を修め、仏果を修める人であれば、中で最も重要な六波羅蜜で、三つ目は忍辱である。先ほどの弟子は上師に対して忍耐ができない。では誰に対して忍耐できるのだ?

閉鎖空間であるこの道場で、上師がいかにして叱責しようと、外の人は知らない。だが、もしそなたがここで忍耐できるなら、諸仏菩薩と一切の護法が知るところとなる。そなたが忍耐できれば、それは修福なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェのこの一生で最大の長所は忍耐できることだ。物心付いてから今まで、誰かがリンチェンドルジェ・リンポチェをバカにしても、いじめても、罵っても、リンチェンドルジェ・リンポチェは忍耐することができた。報復しようという心を持ったことは一度もない。すぐに反抗しようという心を持ったこともない。これこそ修福の最も根本的な条件だ。六波羅蜜の前の三つは、布施、持戒、忍辱で、つまり修福報だ。上師の話さえ忍耐できないなら、誰の話なら忍耐できるのだ?そのため、親族と喧嘩し、子女と喧嘩し、さまざまな人としばしば喧嘩するのだろう。上師は見たところ非常に厳しいが、実はそなた達の悪習を変えようとしているのだ。

弟子の人数を競うなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの能力から言えば、いくつかの著名な団体より多いだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの相は非常に荘厳で、開示は非常に殊勝である。世間と同じ方法を用いるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に快適に楽に日々を暮らせるだろう。念仏できる徒弟を何人か訓練すればいいのだ。ある出家弟子は念仏する声の調子が非常に良く、儀軌をたいへん重視し、上師に対して恭敬だ。いくらか気が短いが、この面では非常に良くやっている。この他、リンチェンドルジェ・リンポチェはナンジュ・ケンポスとも非常に親しいので、ナンジュ・ケンポスにそなた達を率いて念珠させてもらうこともできる。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身は後に隠れて、金持ちに付き合っていればいいのだ。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはそうしたいとは思わない。なぜならこのようにすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王と仏菩薩に申し訳が立たないからだ。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは『不共四加行』を開示する。『不共四加行』は直貢噶舉では『大手印五支道』という。チベット仏教四大教派はどれも『不共四加行』を持つ。ここにいるたくさんの人も修めたことがあるが、彼らの瑞相は見られない。『不共四加行』は一切のチベット仏教、顕であろうと密であろうと、最も重要な根基と基礎なのだ。四加行を修めていないなら、いかなる法門であろうと上師は伝法しない。だが、現在台湾では良くない習慣がある。どの道場も非常に灌頂を好み、さらにはいくらかの極めて秘密の法でさえ、今では公開の場で講じている。これはあってはならないことだ。直貢噶舉の『不共四加行』は大手印の法門を加えている。大手印は禅定の工夫だ。

なぜここ数週間リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなにも行善を強調するのか?なぜなら学禅の人が、心にある悪の念頭を消すことができないなら、極めて容易に魔が入り込むからだ。なぜ今になってもリンチェンドルジェ・リンポチェは禅を伝えようとしないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェが分からないからではない。禅定がなければ上師になどなれはしない。禅を伝えないのは、そなた達の悪の念がまだ消されていないからだ。悪念が多い人が学禅するのは非常に危険だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは順序を追いたいのだ。そなた達の学習の過程に従い、そなたを変えそなたを教導したいのだ。先週仏法テープを聞かなかった者達、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の学びの速度を少しゆっくりにする。なぜなら、そなたは自然に行善しようとしないので、それは善の法を学ぶ資格がないことを示しているからだ。これは非常に論理に適っている。リンチェンドルジェ・リンポチェが以前仏法を学んでいた時には、一切の力を使い果たし、すべてを用いて求法した。今日そなた達はそこまでできていないが、やはり条件には適合しなければならない。根器が間違っている人に講じてはならない、と法本にはっきり説いているからだ。

なぜ、多くの顕教の弘法人が密法はないと言い、誹謗するのか?。密法はインドで仏法が廃れた原因になったと言うのか?彼らはみな大妄語を犯している。実は、釋迦牟尼仏は在世の頃、絶えず密法を顕示しておられたのだ。釋迦牟尼仏が涅槃に入られた時は吉祥臥で、右手に頼り滅寂なさっていたが、迦葉尊者が戻って来るのを待っておられた。迦葉尊者が戻って来た後、経典には『仏の身体は三昧火を発し、御身体は自然に燃えてしまい、舍利子だけが残った』とある。三昧火とは密宗でいう拙火だ。すべての上師はみな拙火定を修めなければならない。なぜ現在禅宗は徐々に没落し、徐々に減っているのか?それは密法がないからだ。真に禅宗を修める人は、身体がどんどん悪くなるということはあり得ない。釋迦牟尼仏は密法を講じなかったと多くの人が誤解している。なぜなら密法は公に講じてはならないからだ。根器が合わず、時間が合わないなら、講じることはできない。だが、釋迦牟尼仏が涅槃時に三昧火で御身体を焼かれたのは密法なのだ。拙火定最高の境界だ。だがたくさん人がこの事を知らず、仏だけが三昧火があると思っている。実はそうではないのだ。密法最高の境界まで修めれば、自分の身体を焼くことができるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の一切に対して厳しく要求する。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが在世の内に、そなた達に真の仏法を学ばせたいからだ。そなた達が今後もやはり時間を無駄にするなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはこれほど苦労する必要はない。さっさと、山の洞穴で閉関していればよいのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはとても快適に閉関できる。何も食べず、眠らずに閉関できるのだ。仏法を常留させ、法輪が常転することを願うなら、一人一人が仏の慧命を延続することでしかあり得ない。どのように延続するのか?それは依教奉行によってだ。その通りにするしか方法はないのだ。本来今日はたくさんの戒律について講じるつもりだったが、仏法テープを聞かないこれら弟子が35分間浪費したのでこうなってしまったのだ。そなた達は懺悔すべきではないか?時間には限りがあり、非常に貴重だ。十分な時間がないなら、証悟することも生死を解脱することもできはしない。今日はみなに一つの教訓を与えた。みなもこの場で目にしただろう。このような悪癖はどうしても改められないのだ!そなた達は帰宅後、自分のどこに問題があるのかをよく考えて欲しい。絶えず過ちを繰り返してはならない。

過ちを犯し無駄にできるような時間は人生にはない。いつも通り日常生活を送らなければならないが、学仏の心は堅固に定め、自分に何らかの言い訳を与えたり、自分を弛ませてはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは1997年から休暇を取ったことがない。そなた達はたまには休暇を取ることができるだろう。だがリンチェンドルジェ・リンポチェは毎日ひたすらに仏法の中にいるのだ。よってそなた達は自分に言い聞かせなければならない。組毎にたまに集まるのは、集まって是非を話したり、功徳を競ったりするためではない。お互いに励まし合い、仏法上で着実に行えているかをお互いに気を付け合うためなのだ。これこそ最も重要だ。

悪を為すのはあまりにも容易だ。少しの不満があれば、すぐに行悪してしまう。今日講じたことで、それを体得できただろう。あの弟子は実はそなた達の菩薩なのだ。嗔念が重い人がどんなに恐ろしいかを、示現し見せてくれたのだ。自己を育成し訓練し、慈悲により嗔念を対治し、感謝の心で恨意を対治しなければならない。どんな人でも我々に少しの恩恵を与えてくれたなら、忘れることはできない。どんな人でも我々に少しの仇恨を与えたなら、すぐにその思いを捨ててしまわなければならない。それでこそ学仏人なのだ。我々は恩だけを記憶し、仇を忘れなければならない。我々ができるのは損だけで、得してはならないのだ。それでこそ皈依した仏子なのだ。人生は本来はこういうもので、虚ろな内に数十年が過ぎてしまう。過去の事を回想すれば、昨日はまるで夢を見ていたようだと思うだろう。つまり、明日もあっと言う間に過ぎてしまうのだ。それをはっきりと認識しなければならない。この数週間、リンチェンドルジェ・リンポチェが講じた業力、因果、善業等を自己の生活に着実に用いなければならない。割り引いてはならず、疑ってはならず、心配してはならず、恐れてはならない。学仏したなら恐れてはならない。何らかの良くない事を恐れてはならない。それの出現は、また一つ終わったということで、良い事なのだ。これ以上心配してはならない。心配は我々最大の敵だ。

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2015 年 11 月 01 日 更新