尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年2月19日

法会の開始に先立ち、一人の弟子が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが自分をお救いくださり、学仏の障礙を取り除いてくださったことを語る機会を賜ったことを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げた。

「最初に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依申し上げた縁起について話したい。昨年(2014)2月末、私は身体に異状を感じ、血液スクリーニング、CTスキャン、MRI等検查を受けた。その結果、卵巣に腫瘍が見つかり、ガン指数も非常に高かった。幸運なことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁賜ることができたが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『手術するにせよしないにせよ、助けてやろう。家族に安心するよう伝えよ』と仰せくださった。後に私は手術を取り止め、皈依を求めたが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、先ずは法会に参加し、よく考えた上で皈依を求めるよう仰せになった。『学仏は父母に恩返しする最高の方法』だ。闘病中私は、人の世は無常なのだから、できる時に速やかに孝行を尽くし、己を改めなければならない、と深く感じ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従い学仏することを決心した。慈悲深く開示くださり、皈依をお許しくださったことを、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。またその後、私はグループ内で働くこととなった。

最初私はたくさんの履歷書をグループに提出したが、全く反応がなかった。その後、履歷書を出した際の自分の心持ちが間違っていたと気付き、『快楽と痛苦』中のリンチェンドルジェ・リンポチェの法照に懺悔し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに、学仏の障礙を取り払ってくださるよう祈ったところ、その晚すぐに面接の通知を受け取ることができた。私には本当にこの仕事が必要だった。なぜなら家族の信心が十分でなかったため、もしこの仕事を得られなければ、私は学仏することができなかっただろう。お救いくださったことを、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに深く感謝申し上げたい。

けれども、いくらか過ぎた頃、家族はやはり不安がり、手術を受けるよう強く主張してきた。私は、父母を安心させ、また仏を誹謗する罪を家族に犯させないため、手術を受けた。手術前夜、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの『福報が不十分だ。手術後に決して再手術を受けてはならない』という慈悲なる開示を夢に見た。その時、私はこのお言葉の意味が分からなかった。手術前に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁申し上げたところ、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは甘露丸を二粒くださり、一個は手術前に飲み、もう一個は手術室を出る際に菜食者に口中に入れてもらうよう、とのことだった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはこのように、分かったかどうか何度もご確認くださるのだ。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに心から感謝申し上げたい!

手術は腹腔鏡で行われていたが、手術中に突然大量出血した。止血が間に合わなかったため、急遽開腹手術に切り替えられ、四袋の輸血とたくさんの抗生物質の投与が行われた。腫瘍は病理科へ送られ、癌細胞が検出されたなら、子宮と周囲のリンパ腺もいっしょに摘出することになっていた。けれども、検査結果がなかなか出て来なかったため、仕方なく一先ず手術を終了することとし、結果を見て別に手術するか、抗がん剤治療を行うかを決めることとなった。私をお守りくださったことを、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。病理検査の結果は低悪性の卵巣腫瘍ということで、手術も抗がん剤治療も不要で、定期的に検査を受けるだけで良いとのことだった。医師は非常に不思議がったが、これらすべては尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のおかげなのだと私は分かっていた。

手術は本当に身体に大きな負担をもたらす。術後にはたくさんの後遺症が現れた。傷口はへその上方から下へ約12センチにもなり、術中の大量出血と養分の流失により、身体機能が完全に変調を来してしまった。血液量が正常人の1/3しかないため、しばしばめまいがし、傷口がズキズキ痛んだ。ある時私は会社のトイレでめまいを起こし立てなくなり、便器に崩れるように座り込んでしまった。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを観想し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお救いくださるよう祈ったが、すぐにトイレで尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを観想申し上げるのは失礼だと気づき、直ちに懺悔した。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝申し上げたい。便器上に静かに五分ほど座っていた後、私はようやく立てるようになり、身形を簡単に整え、元気を振り絞ってトイレから出ることができた。

私がトイレのドアを開けた時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはなんと私の正面に立っておいでだった!私は驚きのあまり固まってしまい、呆然としていた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に私の目の前に出現されたのだ。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはとても穏やかに暖かく微笑みかけ、『私が本当に現れるとは思っていなかったのだろう!』と仰せのようだった。私は我に返り、急いで尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお辞儀をしたが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり笑っておいでだった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが遠ざかって行かれる後ろ姿を見ながら、視線を全く動かすことができず、自分はめまいを起こして気分が悪かったことなど、すっかり感じられなくなっていた。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる加持に感謝申し上げたい。

この機会に私は懺悔したい。気持ちを調整することができなかったため、初めての道場と職場に恐怖を感じ、さらには過ちを犯し続け、完全に無力感に襲われ、辞職したいと思うようになった。ある時尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは私を見て、『新入社員だね?会ったことがない!』と仰せになった。私は懺悔し、また尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。私の心持ちが間違っていることをご存知でいらしたのだ。グループに就職したことで、商品とサービスに対する尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの強い思いを感じている。最高の商品を顧客に届けようとのこだわりから、品質及び業務に対して非常に厳格で、品質を厳しくチェックし、仕事に対する社員の姿勢を容赦なく教育し、少しも手を抜くことがなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは命をかけて衆生を守り、しかも最高のものを衆生にお与えくださるのだ。讚歎せずにはいられない!

ここで、私は自分の体験について語りたいと思う。衆生はみな尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲力を感じることができるのだ。私の部屋には大きなガラス窓がある。窓の外は近所の農家だ。そこではたくさんの鶏が飼われており、それらの鶏は食べるために飼われているものだ。また、付近にはたくさんの野良猫、野良犬もおり、なぜだか分からないがいつも鳴いている。早課を行う際、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに彼らを助けてくださるようお願い申し上げた。私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる救度に感謝申し上げたい。翌日私は鶏がすべていなくなっていることを発見した。そして、犬や猫の声も聞こえなくなってしまった。母に聞いたところ、近所の人は養鶏をやめることにし、昨晚のうちに農場を清算してしまったということだった。こうして付近の犬や猫も鳴かなくなった。あまりにも不思議だ!

先日私は病院へ腫瘍の定期検査に行ったが、ガン指数は普通の人より低くなっていた。心から尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる加持に感謝申し上げたい!検查結果を受け取った夜はこの上なくうれしく、直ちに同じ組の兄弟子達にお伝えした。本当に感謝に堪えない!同級生、友人に伝えると、彼らもとても不思議だ、と言っていた!現在の私の様子からは、当初抗がん剤治療が必要だと言われていたことなど、とても想像できないだろう。これはすべて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持力のおかげなのだ!心から感謝申し上げたい。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェへの信心があれば、その多寡に応じて加持も頂戴できるのだと私は信じている!

私は福報が不十分なので再手術を受けてはならないが、もし手術をを受けることになったなら助けてくださり、また学仏の障礙を取り払ってくださると、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはお約束くださった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの保護の下、弟子でいられる私は本当に幸福だ!私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい!尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生にお約束くださった事は必ずやり遂げられる。我々はどうだろうか?いくら懺悔してもし過ぎるということはない!

諸衆生を慈悲深く救度し、衆生の学仏に障礙がないようしてくださることを、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。私はしっかり修行し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェから賜った新しい命と福報を無駄にしてはならない。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはこれまでずっとご自分の命を少しも惜しまず衆生を守って来られたのだ!私はここで再び尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ、お疲れ様です!尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが機会をくださり、法会において体験を話せたことに感謝申し上げます。

最後に私は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの貴体が勝妙康で、法輪が常転し、仏法が常住在世し、一切の有情衆生に利益することを祈願申し上げます」と述べた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、旧暦元旦の法会を御自ら主法くださり、参会者に貴重な仏法の開示をくだされた。

「今朝は先ず三十五仏懺を拝む。この懺はちょっと違う。『寶積経』中から出て来たもので、釋迦牟尼仏が御自ら口伝くださったものだ。世間で知られている梁皇寶懺と他の懺とも異なる。なぜなら三十五仏懺は釋迦牟尼仏が自らお話になったものだからだ。釋迦牟尼仏が講じられた経の中で、『寶積経』では修行における身口意の調整と変化について多く触れている。直貢噶舉祖師ジッテン・サムゴンの著作も『寶積経』を根本としている。

『寶積経』には二つの論点がある。一つは、菩薩道を行い、既に菩薩果を証しているすべての菩薩に、いかにして修行すべきかを告げるものだ。『中観論』も『寶積経』から出ている。『寶積経』中では中観の考え方を特に強調している。仏法を学んだことがない人は、中観とは何であるか分からないだろう。『中観論』を学んだことがあったとしても、中観とはなんであるか、やはりはっきりしないだろう。中観とはなんであるか、はっきりしていたとしても、中観を何に用いるのか分からないだろう。問題はどこにあるのか?誰でも拝む時には、健康、勉学、親族のために拝むだろうが、実は厳密に言えば、仏法中での懺とはすべて亡者のために拝むことなのだ。

修行したいなら、自分はどの法門を修行するのか知らなければならない。釋迦牟尼仏は仏法を49年間弘揚なさった。三乗仏法を弘揚なさったが、あるものは九乗となった。つまり小乗、大乗、金剛乗だ。小乗は南伝仏法とも呼ばれ、現在ではミャンマー、タイ、スリランカ一帯に流布している。小乗仏法は阿羅漢の修行を主とする。よって、主要な経典は『阿含経』と『雑阿含経』であり、原始仏法と呼ばれることもある。この名称の使用について考察してみよう。原始とはいうが、仏法はこれまで一度も原始であったことはない。仏の経典中でのお言葉に基づくなら、釋迦牟尼仏はしばしば過去世のある仏について仰せになる。釋迦牟尼仏はかつて、どの仏が説かれる仏法であっても、その義とそれが含む意味はどれも一致しており同じだと仰せになったことがある。小乗仏法こそが原始仏法であるとするなら、経典中の釋迦牟尼仏のお言葉によれば、釋迦牟尼仏も原始仏法ではないということになってしまうではないか?

よって、後の世人により仏法はさまざまに分けられたが、あまり理に適っているとはいえないのだ。経典中では仏は衆生の根器に応じて違った法門を説く、とだけ言う。大乗仏法と金剛乗仏法とは、菩薩道修行を主とする。菩薩道修行の法門と『阿含経』、『雑阿含経』の出家衆の修行法とは異なる。チベット仏教の道場であろうと、顕教道場であろうと、三十五仏懺を拝まないところは多い。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がいかにして懺文を得たかを忘れてしまった。みなが今見ている壇城中央の唐卡、この三十五仏懺の唐卡は、ある時教派のリンポチェがたくさんの多瑪を作られ飾っていた時に、中央にあったもので、リンチェンドルジェ・リンポチェはおおよそ20〜30万元でお譲り頂いた。けれども、なぜお譲り頂いたのか分からなかった。後に、法本を得て実はこの必要があったのかとようやく知った。

リンチェンドルジェ・リンポチェは法本を得た後、『寶積経』に照らし合わせ、法本中には、いくらか翻訳の誤りがあることを知った。この法本はサンスクリット語をチベット語に翻訳し、チベット語をさらに中国語に翻訳したものだからだ。よって、いくらかはオリジナルの経典と隔たっているのだ。その隔たりは非常に大きいものではなく、少し調整すればそれで良いものだ。菩薩道を学び、菩薩道を修める決心を既に下していても、三十五仏懺を拝んだことがないなら、その機会は全くないだろう。仏法でいう懺とは、己が為した事による後果をすべて、一切の理由、方法により逃避することをせずに、認め、向き合い、受け入れることで、悔とは永遠に再び犯さないことだ。よって、経典中では、真心で懺悔しさえすれば、福報と善根とはすぐに始まり、悪業は停止してしまう、と説く。

どんな法門であっても、それを修める前には、必ず七支供を唱える。そしてその内の一項が懺悔なのだ。だが、時下みな、懺悔しているいない、などとよく口先で言っているが、それは仏菩薩、上師、自らを騙しているのだ。そのため、重要な局面に至ると、そこを越えられない。経典では、懺悔の程度はいくつかのレベルに分けられると言う。犯した過ちに対して心中で羞恥心を抱き涙を流すというレベルから、冷や汗をかき鳥肌が立ち、自分では抑制できないほどさめざめと泣くというレベル、さらには血の淚が流れるという最高のレベルまである。懺悔において羞恥心を感じることがなく、懺悔を通して自分の生活を良くし、健康を取り戻そうとだけ願っているなら、本当のように泣いたとしても、それは偽の懺悔だ。なぜなら羞恥心がないからだ。

羞恥心のない人は必ず再び過ちを犯す。台湾人も世界中の人々も、過ちが咎められると、必ず膨大な理由を並べ立て言い訳をする。これでは仏菩薩に一日中自分の過ちの弁解をしているようなものだ。過ちは過ちだ。弁解などできるだろうか?そなた達は罰を恐れているのではなく、羞恥心がないのだ。なぜなら再び犯すつもりだからだ。罪を犯し捕まって裁判所に送られても、なお言い訳を続けているようなものだ。明らかな汚職で捕まったというのに、他人がくれたものだだの、なぜくれたのか分からないだのと、なお弁解を続けている。政府から給料をもらっていながら、金を受け取り便宜を図っている。これが汚職でなければ何なのだ?よくも言い訳できるものだ。言い訳すればするほど、裁判官は重い罪を言い渡すだろう。いわゆる『坦白従寬(正直であれば寛大に)』というが、法界、虛空中では、過去に衆生を傷つけた罪を認め、受け入れさえすれば、『坦白従寬』よりさらに寛大だ。『坦白従寬』ではやはり罪を受けなければならないが、仏法のやり方で懺するなら、罪を受け、果報があったとしても、修行の過程には影響しない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしばみなに言う。釋迦牟尼仏は成仏なされたが、人に誹謗される、石を投げられ足から出血するなど一生で九つの難を受けられた。仏は過去世で幼い頃、棒で大魚の頭を叩いたことがあったので、この一世では頭がよく痛んだのだ。よって、魚頭を好んで食べる人は気をつけるが良い。仏は魚頭を叩いただけでこのような果報を受けられたのだ。畜生を打ったことがある者は気をつけるが良い。釋迦牟尼仏が一生で九つの難を受けられたことで分かるのは、成仏したとしても、果報はやはり出現するということだ。けれども、仏は我々とは違う。仏は気になさらない。果報も空性だとご存知だ。仏が気になさらないのは、自分が行った行為には必ず報いがあることを知っておられるからだ。よって、我々は良いものだけ選んで受け取り、良くないものは受け取らない、などとはあってはならないのだ。良いものだけ選んで受け取取り、良くないものは受け取らないなら、良いものが出現する機会はどんどん少なくなっていくだろう。

どうしてそうなのか?生生世世でどれだけの悪を為しただろうか?生生世世とまで言わなくとも、この一生でどれだけの肉を食しただろうか?どれだけのタバコを吸っただろうか?どれだけの金を得ただろうか?数え切れないだろう!この一生でも清算し切れないのに、前世で何をしたかとさらに尋ねるのか?自分は前世でどんな過ちを犯したかと尋ねられれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず先ずは叱責する。なぜならその人は、自分がこの一生でも過ちを犯していることを認めていないからだ。自分がこの一生で為したことはすべて正しいと考え、前世がこの一生に影響を及ぼしていると考えているからだ。肉食は自分の行為だ。みなかつては子供だったろう。幼い頃、嫌いなものは、母にどれだけ叱られようと、食べなかっただろう。成長した現在は、菜食するよう指導しても、どうしても聞き入れない。それは、悪を為し悪事を為すことを好み、地獄に堕ちることを恐れず、因果の存在を信じていないからだ。

自分は懺を拝んだのに、どうしてなお悪い事が起きるのだ?と思っている人が多い。悪い事は当然起きるだろう。それは懺を拝んだからこそ起きるのだ。果報の成熟を早め、この一生で能力、体力がある内に清算させようとしているからだ。懺を拝めば、悪い事が起きず良い事が起きるなら、それは因果ではなく外道だ!悪い事の出現を恐れてはならない。仏でさえ悪い事は出現するのだ。我々のような凡夫俗子であればなおのことだ?だが、我々は懺悔するので、果報は軽くなる。二人の人間が同じ罪を犯したとしても、裁判官の面前で罪を認めれば寛大に処理され、言い逃れする人は罰が重くなるのと同じだ。

よって、懺を拝めばなんでも良くなり、病から逃れられ、面倒なことすべてから逃れられるなどと考えてはならない。梁皇寶懺を拝んだことがある者もいるだろう。後半に『罪花飛』という言葉が出て来るが、みなそれを聞きとても喜ぶ。罪の花が飛んで行ってしまう。けれども、罪の花が飛んで行ってしまった後、結果の蕊も飛んで行ってしまうとは言っていない。仏法はしっかり聞くものだ。『花が飛んで行く』とは、ただ花が飛んで行ってしまうだけで、成果である蕊は茎の上の方にやはり残っているのだ。『罪花飛』とは別に枝が伸びないということで、なるようにしかならず、余計に加わることはないということだ。懺悔についてはっきり知って初めて、懺悔する勇気が湧くのだ。懺悔についてはっきり知って初めて、懺悔の力は我々の修行の路で助けとなるのだ。懺悔についてはっきり知って初めて、福報は動き出し、業障は停止するのだ。

業障とは病でも、親不幸な子供でもない。業障とは我々の学仏修行を妨げる力だ。今朝、四人の皈依弟子が来なかった。その内の一人は学仏していない者と結婚している。リンチェンドルジェ・リンポチェは『学仏を止める時が来たようだ』と事前に彼女に言っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば言う。他の宗教は、伴侶も必ず同じ宗教を学ばなければならないと要求できるのに、仏法はどうしてこんなにも民主的なのだ?みな考えてみよ。伴侶と自分との考え方が違うなら、長くいっしょに暮らせるだろうか?いっしょに暮らせないだろう。そなたが仏法を諦めたとしても、心の中で納得できなければ、二人の間の問題はいつか爆発するだろう。

経典は、結婚するには必ず仏教徒とでなければならないとは言わないが、福報が十分なら、いっしょに学仏する伴侶が自然に見つかるという。そなた達は、相手と縁があるのは良いことだ、と思うだろう。確かに縁はあるが、それが学仏を破壊する縁なら、良い縁だろうか?姑が肉食するので、肉を料理して食べさせないわけにはいかない、と考える人がいる。これも彼女を破壊する縁だ。よって、表面的には非常に恭敬で仏法を深く信じているようでも、懺悔しない人には、遅かれ早かれ事が起きる。いわゆる事が起きるとは、何事かが発生する、というのではなく、この一生で仏法を継続して学ぶ機会を失わせ、この一生で生死を解脱することができなくなるということだ。別のところではこんなに厳しくない、という人がいるが、厳しくなくて生死を解脱できるだろうか?学校で勉学する際に、教師が厳しく指導しなければ、卒業できるだろうか?良い学校に追い出されたなら、良くない学校へ行って卒業できるだろうか?卒業できたとしても、ひどい成績でしかないだろう。

この考え方は、勉強ができなければ社会に出てうまくやれない、というのではない。学仏は勉学と同じで、一生懸命取り組まなければ、良い学校であっても止まれないというのだ。今日は三十五仏懺を拝むが、最も大切なのは、菩薩道を学ぶと決心することで、そうすればこの懺を拝がむことが役に立つのだ。懺文中の最初の一文は『一切の有情が恒常的に上師に皈依する』という。いわゆる一切とは、天、阿修羅、人、地獄、餓鬼、畜生の各道にいるすべての有情衆生のことで、恒とは永遠のことだ。顕教の皈依は『盡形寿』だ。つまり、この一生を尽くして皈依する力は消失も反悔もしない、という。けれども、密宗、金剛乗の皈依は永遠だ。未だ成仏していない時にそなたが願を発すれば、上師に皈依する皈依力は消失せず、そなたが成仏するまでいつまでも生生世世にそなたを守るだろう。

いわゆる守るとは、最近仕事がうまく行っていないから『守る』し、最近商談が全くまとまらないから守る、というのではない。奇怪なことに、そなた達は金を儲けてもすべてを上師に供養することはせず、半分すら供養しない。それなのに、どうして一日中そなた達を『守らなければならないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは自分もビジネスを行っているが、助けてくださるよう毎日仏菩薩に求めたりしない。今日ビジネスがうまくいかなければ、明日にはそれは戻って来る。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王に『最近ビジネスがうまく行っていないので、供養を減らしました』などと申し上げたことは一度もない。リンチェンドルジェ・リンポチェは『最近ビジネスがうまく行っていないので、うまく行くようお助けください』などと尊勝なる直貢チェツァン法王に申し上げたことも一度もない。

今回リンチェンドルジェ・リンポチェが病気になった時には、尊勝なる直貢チェツァン法王は御自らリンチェンドルジェ・リンポチェに修法くださった。尊勝なる直貢チェツァン法王が御自ら修法くださったのは、リンチェンドルジェ・リンポチェの死を恐れられたのではなく、このような材料を今どこへ行けば見つけられるか、とお考えだからだ。仏法の定義がはっきり分かれば、生生世世でたくさんの過ちを犯したとしても、この一生で仏法を通して必ず清算でき、必ず輪迴の苦海を離れることができる。『輪迴などどうということはない。今は見えない。死ななければ分からない』と思っている人が多いが、実はそうではない。この一生で仏法を通して輪迴を離れようと決心しないなら、死の五年前に、死、老いの苦しみがすべて出現し、六道中のどの道に堕ちるかを極めて明確に知らしめるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは脅しているのではない。済度の専門家なので、あまりにも多くを見て来たから言えるのだ。

昨日ある弟子の父が死んだが、ポワ法を受けることができなかった。彼女は三年前にリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来たことがあったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、将来縁があるかどうかだ、と告げた。今朝リンチェンドルジェ・リンポチェは、この亡者の娘は施身法法会だけにしか参加できないことを知った。どういう原因で罰せられ、施身法法会だけにしか参加できないのか、リンチェンドルジェ・リンポチェは覚えていない。だが、彼女は今朝入って来られなかったのだ。そなた達は『学仏などどうということはない』と考え、気に入れば少しは一生懸命学び、それでも全く相手にせず、自分の暮らしを続ける。『これもダメ、あれもダメだなどと学仏人は頭がおかしい』などと思っているだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは頭がおかしいか?このような言い方をしてはならない。仏法は我々のライフスタイルを変えるのではなく、心と行為を変えるのだ。すぐにどうしろと要求するのではないが、始めるよう要求する。うまくやれているかどうかの定義はなく、開悟できているかどうかの定義だけがある。良いと良くないとの区別は分別心だからだ。

経典中では、うまくやれているかどうかとは言わず、善男子、菩薩、羅漢或いは仏とだけ言う。これは、ある程度の福徳資糧が累積されたなら、自然にある階層まで進むということだ。今回のリンチェンドルジェ・リンポチェの事でも、どうであってもリンチェンドルジェ・リンポチェの功徳と福報を持ち去ることができなかったように。尊勝なる直貢チェツァン法王も後にこのように仰せになった。修行で得た功徳はそなたのものだ。生生世世でそなたに着いてくる。どんな衆生であってもそれを奪うことはできない。けれども、そなたの修行の心が退転し、因果を信じなくなり、三宝を信じなくなり、衆生に利益しなくなれば、功徳は自動的に消失してしまう。中でも、最も深刻なのは菩提心退転だ。衆生の供養をいくらでも受け取っていれば功徳も消失してしまう。自分は受け取れるまで修行したと考えれば、功徳は消失してしまうのだ」と開示くださった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座を降り、御自らみなを率いて三十五仏懺を修められ、拝懺後に開示をくだされた。

「先ほど前の方で唱えた『懺悔最多誦此已、彼等無餘悉清淨』とは、我々を三悪道と輪迴に堕とす罪のこのような力は、懺悔により清められるということだ。清めるとは消失ではなく、このような力が我々の学仏と輪迴解脱をこれ以上妨げることはない、ということだ。なぜなら我々は菩薩乗を修めるからだ。後ろに『我と有情之悪業』という一文を付け加える。つまり、我々は自分自身のものだけでなく、一切の有情が為した悪業も、彼らに替わり彼らの一切の罪も発露懺悔しなければならないということだ。発露とは小さな声でつぶやくのではなく、心の中で言うのでもなく、上師がいるなら、上師に対して発露懺悔するのだ。よって、今後は一切の過ちを、二度と再び繰り返してはならない。こうすれば業障(我々の学仏を妨げる力)は永遠に消えてしまうだろう。この三十五仏懺が学仏人の手助けになることを願う」を仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは再び法座に上られ、参会者に続けて開示をくだされた。

続いて、年に一度の財神法を修めよう。多くの人が密宗を誤解している。密宗とは財を求め種々の事物を求めるものであると考えているが、そうではない。財神は護法部に属する。密法は息、懐、增、誅の四部に分かれ、財神法は增部中の衆生を撮受する方法に属する。財神は黒、白、赤、黄、緑の五種の色に分かれ、各財神はそれぞれその特色と作用をお持ちだ。衆生の福徳が非常に浅薄なら、使える財には限界がある。数百億、数十億と財を持つ人を見て、使い放題で気持ちが良いだろう、などと思ってはならない。実際にどれだけ使えるだろうか?その人は百億をすべて使い切ってしまえるだろうか?結局は毎月限られた金を使うだけなのだ。

我々のこの一生の財は福報の一部なのだ。過去世で供養、布施していれば、この一生で恩恵が出現する。そなたの財が法を犯し、不当な方法で得たものなら、手に入ったとしても残らないだろう。残ったとしても、代わりの犠牲を払うこととなろう。財神法を修めるのは、そなた達に不当な財を得させるためではなく、宝くじに当選させるためでもない。これらとは関係がないのだ。我々はこの一生で母体に投胎した時から業力は作動を始める。母の腹の中で物を食べられるのは、過去世に福報を積んでおり、供養布施していたからだ。もし父母が仏教徒なら、食べられるのは菜食で、そなたの福報はそんなに速く減ってしまうことはない。けれども、肉を食べるなら、そなたの寿命、財、健康はすべて一緒に損耗してしまう。

この考え方をどう解釋すべきか?肉食するなら金を使って買わなければならない。本来この金はそなたが使え、親族を養い、或いは好事や布施に使うべきものだったのだ。それなのに、そなたはそれで悪業を為している。そのため、自分の財の損耗を速めているのだ。供養布施がもったいないと言って一生行わない人がおり、銀行に預けた金は自分のものだと思っている。銀行に預けた金がどうしてそなたのものだろうか?銀行であっても倒産するのだ。いくらしっかり守ったとしても、汚職に手を染めさえすれば、晚年おかしな病に襲われ、金を使い切ってしまうだろう。祖先が為したことはなんであっても、我々の財運に影響を及ぼすが、二つの事の影響は非常に深刻だ。一つは殺生で、もう一つは汚職である。

そなた達は、自分には関係ないと思うだろう。自分が殺したのでも、自分が汚職を行ったのでもない。科学的にいえばその通りだ。だが、仏法の因縁因果論からいえばそうではない。この一生でそなた達の生活に使われる金は、父母から来たものだ。父母が他人を騙したり無理やり奪ったり、汚職に手を染めたり、タバコや酒を販売したり、殺生によったりして稼いだ金でそなたを育てたなら、そなたも同じように果報を負担しなければならない。軽重に差があるだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの祖父は養蚕を営んでおり、絹糸を生産して大儲けしていた。父親は情報局で行動組に属し、人を殺したことがあった。リンチェンドルジェ・リンポチェのこの代のことは先ずは触れないが、父親の代の男はみな短命だった。金持ちだったが短命で、しかも金を残すことができなかった。政治状況が一変し、あらゆるものを失ったのだ。

経典では『金銭と財は五賊共管』という。この五賊の内の一賊は政府だ。リンチェンドルジェ・リンポチェの家族はかつて広州で、棺桶店以外は、あらゆる商売を手がけていたが、あっと言う間にすべて無くなってしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェのこの代になり、リンチェンドルジェ・リンポチェの他は、姉、弟、妹はすべて脳の手術をしたことがある。どうして脳の手術なのか?繭の中の蚕から糸を取る時には、必ず頭部から引くからだ。つまり、自分に病があれば、それはすべて祖先と関係があるのだ。さらに、仏法からいえば、そなたが過去世でこれら祖先と縁がなかったなら、この家庭には生まれない。それは、そなたも過去世で殺生と汚職の悪習があったことを示しており、だからこそこのような家庭に生まれたのだ。そうでなければあり得ない。経典では、屠夫の家庭に生まれたくないなら、この一世で発願しなければならないという。

祖先が為した事が因果に背いているなら、そなたのこの一生の財富も損耗してしまう。占いに見てもらったことがある人もたくさんいるだろう。占いで散財すると出れば見事に当たるのに、金儲けできると出てもかなり割り引かれた結果にしかならない。そんな時には、あの占い師は当たらないと言うだろう。どうして当たらないのか?占い師はそなたがかつて為した悪事を見通せないからだ。これら悪事がそなたの財を割り引かせるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日みなに財神法を修めるが、それはそなた達に金儲けさせるためではない。財神の力を通して、財気を吸う鬼の影響を遠ざけるためだ。けれども、夜はナイトクラブに通い、食事の際には必ず派手な女性を横に侍らせ、財をひけらかし傲慢で、肉食を好み殺生するなら、吸財鬼はこのような人の財気を好んで吸う。これも福報の一部だ。

財神は吸財鬼を遮り、得られるべき財を得させてくださる。だが、そなたが供養布施したことがないなら、今日財神法を修めてもただ縁を結べるだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分もビジネスを行っているが、今に至るも、自分の店のために財神法を修めたことはない。リンチェンドルジェ・リンポチェは財神法を毎日修めてもいいはずだ。けれども修めていない。なぜなら、金があるかどうかは自分の福報次第だと思っているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはどんな状況なら、他人のために財神法を修めるのか?その人がたくさん供養したことがあるという場合だ。いわゆるたくさんとは、いくら供養した、ということではなく、供養の心があるかないかだ。教派、仏法、人々を助けているかだ。助けているなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはその人のために財神法を修めるかどうかを考える。そうでなければ、普通は修めない。

財神はやはり八地菩薩であられるので、人の悪習をまだ少し残しておられる。もし、そなたの行為が良くないなら、財神はお怒りになるだろう。財神の側には親族もおられる。親族の中には地球上の、いわゆる神もいる。そして、この人は不善だと見るともう助けてくださらず、お怒りになるのだ。財神は観音菩薩の護法だ。そなたが観音菩薩と友人になっていないなら、今日財神法を修めてもそなたにとっては大した助けにならず、ただ縁を結べるだけだろう。けれども、観音法門を伝えられたことがある弟子なら、リンチェンドルジェ・リンポチェが今日財神法を修めたことで、少なくとも二つの事に関しては大丈夫だ。つまり、飢えて死ぬことはなく、仕事が見つからないことはない。リンチェンドルジェ・リンポチェはここまではやっているのだ。よって、仕事がない弟子は法会に参加してはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは財神法を修めたのに、弟子の仕事が見つからないなら、それは怠けている、働こうとしない、社会に対して責任を負おうとしない、ということを示しており、しかもリンチェンドルジェ・リンポチェを信じていないということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは初一(旧暦正月)に財神法を修めたのに、自分は失業した、という弟子がいるなら、来なくともよい。なぜなら財神がそなたを助けなかったということは、そなたが非常なる悪だということなので、来てはならないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが行うことは、何を行うにしても必ず道理がある。怒りという角度から物事を行っているのではない。

法本があれば、黒水財神まで修められるという訳ではなく、観音法門では必ず相応まで修めなければ、財神法を伝えることはできない。しかも財神法を修めるにあたり、法本中でいう相応まで修められたなら、兆候が出現する。財神法を修めて初めて自分を助けることができ、こうして衆生を助けることができるのだ。今日修めたのは黒色財神だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ黒財神を学んだのか分からない。通常密宗では多くは黄財神を学ぶ。黒財神の修行の方が大変で、より厳格なので、チベット仏教では出家衆はみな黄財神を修める。出家衆の中には自身の資糧が不十分なものもおり、誰も護持しない。そのため、閉関に資糧がなく、黄財神を修めるのだ。黒財神を修める者はあまり多くない。しかもこれは岩伝法なのだ。つまり、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子はみな業障が重いということだ。多くは出家衆ではない。よってちょっと違う財神を修めるのだ。

黒水財神の修行にも特別な規定がある。必ず朝修めなければならない。しかも清浄な場所で修めなければならない。どこでも修めることができるというのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが修法する際には、仏法と上師に対して絕対の信心を持たなければならない。こうして初めて、そなた達の役に立つのだ」と開示くださった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは黒水財神法門の修持を始められ、修法円満後に開示をくだされた。

法本中では、この法門の修行を成就させるには閉関が必要だという。少なくとも百、千、一万、十万を完成させなければならない。当然リンチェンドルジェ・リンポチェについては、閉関は少なくとも一万以上だ。十万を満了した後には、ある兆候を夢に見て、財と富が満ち溢れる。つまり、これら兆候を得られなければ、財神がお越しになることはなく、衆生の修法をお助けくださることはない。黒財神の本尊は不動仏である。顕教では、修める人が非常に少ない本尊だ。不動仏の浄土は娑婆世界とは異なり、非常に清浄だ。『寶積経』で仏はかつて『不動仏の浄土に生まれられれば、非常に殊勝なる功徳だ』と仰せになった。この法を修めるのに、菩提心がなく、求財のためだけにこの法を修めるなら、何の助けも得られない。菩提心を本来としてこの法を修めるなら、自然に一切は如願となり、一切は成就し、良くない縁の一切の障礙を取り除くことができ、しかも長く用いることができる。

仏カードを購入すればすぐに経を念じられると思っている人が多い。第一に、このような咒語は口伝を経なければ念じることは許されない。しかも、今日使用した仏カード上の咒語も法本上の咒語より二文少ないように、このような咒語は不完全なのだ。よって、みな今日リンチェンドルジェ・リンポチェが財神法を修めたからといって、仏具店へ仏カードを買いに行き自分で修めてはならない。これでは効果がないし、修めない方がマシかもしれない。修了後は財が水のように流れ去ってしまうだろう」と開示くださり、リンチェンドルジェ・リンポチェは「午前の修法はここまでとする。午後は2時30分から続ける」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座を降りられ、参会者は恭敬し立って合掌し、声を揃えて感謝申し上げた。

午後2時30分、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは再び法座に上られ、参会者に仏法の開示をくだされた。

「午後は先ず『百遍頂礼証知』という拝仏をする。礼仏の後は礼仏の功徳を通して、成仏の道を認証し知ることができる。学仏の前に、仏を中傷するという人は多くない。ところが、仏を拝むようになった後、ある寺へ行きある程度の供養をしたのに自分が願った事が叶わないと、さらには供養し仏を拝んだ後に良くない事が発生すると、一切の問題を仏法に押し付けてくる。このような考え方は全く誤りだ。学仏は未来のためで、発生する事は過去に為したことによる。もし少しの金を出して、事がすぐに思い通りになるなら、仏菩薩は商売をしているのと同じだ。そなたと買売を行っているのか?仏が商売をなさりたく、そなたと買売がしたいなら、経典中では『須彌山の宝をもって仏法と交換しようとしても、とても足りない』とある。

『妙法蓮華経』中には以下のような記載がある。『仏像、仏法に対して恭敬心を起こし礼拝すれば、成仏の道は正に始まる』。つまり『既に成仏道』だというのだ。少し拝めばすぐに成仏できると考えたのではないか?実はそうではない。恭敬心を以って拝めば、成仏の善因、成仏の道が始まるということだ。経典には『仏を拝めば、罪は沙河のように滅する』とある。自分は仏を拝んだのだから、肉食等の罪業は消えてしまったと考えている人が多い。経典ではしばしば『罪』というこの字を用いる。善、悪により得られる果報を仏の定義、智慧に基づき見れば、仏法中ではこれらはすべて無常なのだ。果報が善であろと悪であろうと、すべて変化し、不変ということはない。

学仏人が最も恐れるのは学仏を妨げる力、学仏を妨げる罪だ。経典では『仏を拝めば、罪は沙河(河の砂)のように滅する』とある。沙河とは『生生世世に犯してきたたくさんの小さな罪』だ。それらを犯しながら自覚せず、当然だと考え、他人もみなこうなのだから自分だっていいだろう?と思っている。よって、経典中では『みなが正しいと考える時、そなたは智慧を用いて見てみよ。みなが過ちだと考える時にもやはり智慧を用いて見てみよ』という。『罪滅沙河』とは、我々が生生世世にたくさんの小さな罪を犯しながら自覚せず、正しいと考えることだ。中国のことわざに『人不為己、天誅地滅(自分のために考えないなら、天地から誅を受ける)』というが、菩薩道修行とはちょうど反対だ。

どうして仏は我々に菩薩道修行をお教えになるのか?なぜなら我々は、いつ輪迴苦海中に足を踏み入れ、罪を犯し始め、業と果報を為し始めるか分からないからだ。午前中みなに言ったように、釋迦牟尼仏は、この一生で成仏なさってもなお九つの難に遭われた。このように、過去世で植えつけた因はすべて成熟するが、これによりその後は、仏の衆生済度の過程を損害する一切の後遺症、果報はなくなってしまった。よって、菩薩道を学ぶ人になんらかの良い事、或いは良くない事が発生しても、『金剛経』中でいうように『如夢幻泡影(夢や幻のようなもの)』なのだ。『如夢幻泡影』は『行った事、口から出した言葉』だと思っている人が多いが、実はそうではない。最も重要なのは因果だ。

たくさんの人が、状況が悪くなるとすぐに改善しようと考え、良い時は永遠にいつまでも良いようにと希望する。けれども、仏の智慧から見れば非常に明確だ。良くても悪くても、それは無常であり変化するものなのだ。しかも、非常に複雑に錯綜しており、相互に交替する。菩薩道修行を決心していないなら、仏法の一言一言、あらゆる動作はすべて自分のためだ。これでは、そなたは必ず失望するだろう。なぜなら仏は我々にこのようにお教えではないからだ。この一生の限られた時間の中で、生死を解脱し、輪迴から離れ、浄土に生まれることを如何にして学ぶかをお教えなのだ。これこそが仏の意義だ。この方向へと学仏しないなら、そなたは必ず仏を中傷し、仏は当てにならない、自分を救ってくれないと言うだろう。けれども、さきほど言ったように、そなたが仏像、三寶に対して恭敬なら、それは既に成仏道にあるということで、そなたが恭敬礼仏しさえすれば、『罪滅沙河』なのだ。仏はそなたの欲望を満たしてはくださらない。だが、仏はそなたの学仏の路を永続させてくださる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは1995年より衆生に利益し、このような例をたくさん見てきた。仏像に対して、仏に対して、さらには読経、供養布施のすべてが自分の欲望のためであり、願いがかなわなければ止めてしまう。さらには仏法を軽視し、仏法を中傷する。けれども、おかしなことに、その人はこうして新しい悪因を植え付けるが、礼仏供養の功徳はやはり存在しているのだ。そのため、この一生でやはりその人は仏法を聞く機会を得ている。彼が懺悔しさえすれば、午前中開示したように、五つの無間罪であろうと、三十五仏に対して恭敬懺悔しさえすれば、消えてしまうのだ。当然、読経し、仏を拝み、座禅を組めばそれで良いというのではなく、さらに精進しなければならない。

最近リンチェンドルジェ・リンポチェは身体に違和を生じており、多くの人が、リンチェンドルジェ・リンポチェが負担を軽くするよう願っている。だが、身体の違和も無常なのだ。もともと健康だったのが突然悪くなると、福報が不十分なのではないか、運が良くないのではないか、鬼がちょっかいを出しに来たのではないか、と考え、多くの人が慌てふためく。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて開示した。密法を修める者は少なくとも自他交換ができなければならない。自分と他人とのものを交換するのだ。いわゆる『慈』とは、耳障りの良い事を言ったり、他人にちょっと加持してやったり、ということではない。実際に他人にものを与えることだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば例え話をする。ある人があるところへ行きたいが、お金がなくて行けないとする。それで、その人はそなたに助けを求めに来た。どうしたら良いだろうか?金を出して助けてやるべきだろうか?指を弾いて行かせることができるだろうか?不可能だ。

いわゆる『自利利他』とは、その人のために読経すれば利他できる、というのではなく、必ずその人と交換しなければならないのだ。よって、経典では『行菩薩道は立派な男子の行為だ。勇気がなければ成し遂げられない』という。今回、リンチェンドルジェ・リンポチェは訳も分からず屏東へ行ったが、自分でもいくらかいい加減だったと思う。リンチェンドルジェ・リンポチェはそこへ行ったことがなかったが、その人が会いに来た時、リンチェンドルジェ・リンポチェには、そこに土地廟があるのが見えたので、『土地廟があるのではないか』と尋ねたが、その人もはっきりしなかった。ところが現地へ行ってみると、角に本当に土地廟があったのだ。顕教であろうと密法であろうと、そこに神がおられれば、行者は先ずは供養申し上げる。この供養はその神を恐れてではなく、物事を進め易くしてもらうためでもなく、衆生を尊重するためだ。

誰でも、仏菩薩を大切にしなければならない、と分かっているが、衆生を大切にしなければならない、とは知らない。衆生がいなければ、どうして仏がおられるのだ?衆生が全くいないなら、仏は救う必要があるだろうか?あらゆる衆生はすべて大切にされるべきなのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分はうっかりしていたと思う。そこへ行って法会を行えばそれで良いと思っていた。そのため、山神は不満に思われた。リンチェンドルジェ・リンポチェが山神のすべての兵をみな済度させてしまったので、兵がいなくなってしまったのだ。そなた達ならどうだ?不満に思うのではないか?山神はそこで大王として悠然としていられたのに、突然すべての兵がいなくなってしまったのだ。

生前全く学仏したことがなく、全く仏法を聞いたことがなく、仏像を見たこともなく、非業の死を遂げた衆生を済度させるには、一度の法会で終わりという訳ではない。顕教では、少なくとも大蔵経一巻を念じなければならないため、およそ3ヶ月必要だ。密法では、少なくとも連続14日間の済度法会を行わなければ、そこの衆生を済度させることはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェはせっかちなので、これなら恐れないと思っているのだ。よって、今回山神はお怒りになられたが、リンチェンドルジェ・リンポチェの功徳、福報を要求することはできない。但し、リンチェンドルジェ・リンポチェの何かを要求することは必ずできるのだ。最も良いのは、そう、健康だ。なぜなら健康は回復させられるからだ。どんなことであっても回復させるのは非常に難しいが、健康だけは、素早く回復させることができる。しかも今回は、尊勝なる直貢チェツァン法王までが、リンチェンドルジェ・リンポチェのために修法くださった。

状況が非常に深刻という訳ではなく、このような弟子があまりにも少ないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王の弟子なので、直貢チェツァン法王は助けてくださるのであって、御自ら修法くださったのだ。尊勝なる直貢チェツァン法王の開示も、リンチェンドルジェ・リンポチェの見方と同じだった。山神は何も持ち去ることはできず、リンチェンドルジェ・リンポチェの健康だけを持ち去ることができたのだ。人を救った結果、自分の健康が失われてしまう、と言えば恐る人が多いだろう。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェにとっては、菩薩道修行において、健康を以てすべての衆生の苦と取り換えることができるなら、それは価値あることなのだ。そなたが出家者、寺廟に金銭を供養し、それであらゆる願いを叶えてもらおうと望むのは、あり得るだろうか?自分が不運なことに遭遇すると、不平を言い出す。この出家者、寺廟は効き目がない、と考え、別のところへ拝みに行く。どこを拝んでも、みな同じ仏であられるのだ。その仏像を誰が作ったか、というだけのことで、外観がいささか異なるにすぎない。

ある出家弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する前には、亡者に読経してやっていたが、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような事を続けないよう厳しく禁止した。その時、その弟子はひどく身体を壊していたが、今ではそれがなぜだったのかが分かる。台湾であろうと中国であろうと、学仏すれば、少し学んだだけで上師となって衆生を救いたいと考える人がいる。だが、衆生の縁を知らず、自分に能力がなければ、衆生を救えないばかりか自分に害を及ぼしてしまうのだ。簡単に言えば、学生時代しっかり学ばなかったのに、何を以て仕事をしようというのか?どうしても働こうというなら、当然、レベルがとても高いというのではない仕事をするしかないだろう。今日みなが拝んだ『百遍頂礼証知』法本は尊勝なる直貢チェツァン法王が御自らお伝えくださったものだ。この法本は経典にはなく、かつてチベットのある国王が宮殿におられた時、天から降下した予兆なので、この法本を岩伝法というのだ。しかも、夢の中で授記があり、五世代後にその意味を理解するというのだ。これがこの法の始まりだ。

これは、もし我々に福報がないなら、仏を学べず、修められないということだ。そして福報を累積する最も速い方法は懺悔、頂礼だ。そのため『不共四加行』中の一つ目の法門は大礼拝で、諸仏菩薩、上師に対する頂礼と懺悔を含んでいる。この法本では、頂礼の他、後半で説く事の一切は、世間とは全く関係がなく、仏法修行と関係がある。こんなにも多くの時間をかけたのに、願った事が全く叶わないなら、何のために修行するのか?と心配になった人も多いだろう。それなら、さっさと別の宗教、別の神に、何かの処理を願った方が良いだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェの亡き父は道教の修行に秀でていた。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、道教は表面的な処理ができるだけで、根本的な処理はできないと、はっきり分かっている。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェに今回起きた事は、道教的に言えば、相手との戦いでどちらが優れているかを競うことだ。だが、こちらが勝ったとしても、相手が納得して従うとは限らない。そのため、仏法では、争わず慈悲を用いる。慈悲を用いなければ、相手の憎悪を解きほぐすことはできないのだ。世間の人はみな争いを好み、損を受け入れようとしない。損を受け入れようとしない人は往生前に問題が出て来るだろう。

たくさんの人が経典が説く事はどれも神話だ、自分の身に起こることなどないと考えているが、必ず起こる。よって、チベット仏教では、上師を絕対的に信じ敬うよう説く。上師と諸仏菩薩がこれを要するのではなく、そなた達が必要なのだ。『地蔵経』では『往生の際、累世の冤親債主はそなたが最も信用する親族に化けて現れ、そなたを三悪道に連れて行く』と明記している。多くの人が『地蔵経』が説くのは神話だと思っているようだが、このような事はリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子の身に二〜三度発生している。彼らが上師に対して信心がないなら、既に連れて行かれているだろう。上師に対して信心があり、上師が来るのを待っていたなら、連れて行かれることはない。彼らを何年も余計に生きさせたことで、リンチェンドルジェ・リンポチェは何年も面倒を被ることになったということだ。

よって、三寶に対して恭敬心がなく、自分の考えのために求め続けるだけなら、いつか願いが叶わない日が訪れる。そして、願いが叶わなければ、そなたは不平不満を持つようになるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは学仏後、すべての経典と法本を見たが、何を求めよとはどこにも書いてない。この一生で仏法を学び生死を解脱できるよう、菩薩の加持を求めよ、とだけあり、重要な法本であればあるほど、このように書いてある。寶吉祥仏法センターは仏法の弘法を始めてもうすぐ20年になるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは常に仏がお教えになられた方法を堅持し、適当に何かを請け合ったことなど一度もない。仏法で説かないことは、リンチェンドルジェ・リンポチェも行わない。けれども、請け合った事は、必ずやり遂げる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは身体に違和感を感じていたが、中国の二人の信衆に会うと約束していたので、会いに行った。今回は直貢チェツァン法王も『彼らは会いたいと言っているのだから、待たせたら良い』とお止めくださった。けれども、リンチェンドルジェ・リンポチェは、応じた事は必ずやり遂げなければ気が済まない性格なのだ。今回直貢チェツァン法王はお許しにならなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは何事もなく中国から帰って来ることができた。請け合った事を行わなかったなら、そなたは衆生に借りを作ったことになる。衆生に借りがありさえすれば、必ず輪迴し続けるだろう。

寶吉祥仏法センターの皈依弟子で、初一(旧暦正月)の法会に参加しなかった者は、今後は来てはならない。参加するよう強制したのではなく、半年前にリンチェンドルジェ・リンポチェにどういう理由で参加できないか伝えることができたのに、申し込んでいながら参加しなかったのは、この人が約束を守らない人だということを示している。約束を守らないなら、当然一切の誓言に背き、一切の戒を破るだろう。このような人はこれ以上学仏する資格はない。信衆の中にも、申し込んでいながら今日来なかった者がいる。彼らは『学仏なんだから別に良い。初一は特に忙しいと仏菩薩はご存知だ』と考えている。けれども、仏菩薩はその人がどんなに忙しいかなどとはご存知ない。ただ、その人の親戚、過去世で亡くなった冤親債主は、その人が法会に参加すると約束したことを知っている。ところが、参加しなかった。後に穴埋めできると考えているのだろうか?穴埋めなどできない。なぜなら苦しんでいる衆生はとても辛かったところ、そなたが助けてくれると約束しながらそれを果たさなかったことで、嗔念を起こしたからだ。嗔念が起きれば、それを降伏するのは非常に難しい。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、初一だけ現れて法会に参加した者も、今後は来ない方が良い、初一であっても来てはならない、と勧める。初一に法会に参加すれば、より強い力が得られると考えているのだろうか。中国人は伝統的に大晦日に縁起を担ぐが、寶吉祥仏法センターの法会では何も縁起がいいことなどないのだ。教えておこう。叱責されるばかりだ。どうして叱責するのか?なぜならそなた達はまだスタート地点に立っていないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の修行はみなより進んでいるとはとても言えないが、少なくともたくさんの時間を仏法に費やしている。それでも、うっかりして山神に留意しなかったため、問題が起きている。そなた達ならなおのことではないか?

リンチェンドルジェ・リンポチェは人生は無常だとしばしば開示する。上師は死ぬことはないなどと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの衆生を救っているが、それでもうっかりすることはあるのだ。今朝リンチェンドルジェ・リンポチェは黒水財神を修める予定だったのに、法務組の若い弟子もベテランの弟子も全く法本を持って来ない。リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜうっかりするのか?それは、あまりにも多くの事を背負っているからだ。なんとしたことか、法本さえ持って来ないのだ。これらベテランの弟子、若い弟子はどうしたことか法本が必要だということを忘れてしまっていた。これもリンチェンドルジェ・リンポチェの業力だ。実は、道場でであろうと外でであろうと、大小さまざまなあらゆる事をリンチェンドルジェ・リンポチェは見ており、これら弟子はただの使い走りなのだ。とんでもないとは思わないか?法会を行うのに法本がないだと?食事時に茶碗も箸もあるのに、ご飯がないのと同じだ。何を食べるのだ?法本を用意する責任を負っていたこれら数人の者たちは、リンチェンドルジェ・リンポチェに法本を渡さなかったのだから、食事時に茶碗も箸もあるのにご飯もおかずもないという状況にいつか必ず遭遇するだろう。全くここまでということがあるだろうか。まさか誰も気がつかないとは」と開示くださった。

法本には「違越一切経教之不善罪業」とある。リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子に「経教とはなんであるか」説明させた。出家弟子は「経教とは仏陀の教法です。仏陀が説かれた経のすべてを経典に編纂したもので、つまり仏陀の教法です」と述べた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示された。「『違越』とは『違背が超越していること』だ。仏陀の教法を変えてしまった人は台湾にはたくさんいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分はとても違背、違越する勇気はないとしばしば言う。今日リンチェンドルジェ・リンポチェに法本を渡さなかった者達は違越なのだ。経典は、上師に仕えなければならないと我々に教えている。彼らは、リンチェンドルジェ・リンポチェに水を出し、敷物を敷けばそれで良いと思っているのだろうか?法本さえリンチェンドルジェ・リンポチェに渡さないとは、五体投地してしまうほど、全く彼らには感服する。それなのに、食事の時にご飯があるかどうかは、どうして忘れないのか?この点から見れば、彼らはしばしば『違越経教』していることが分かる。リンチェンドルジェ・リンポチェも尊勝なる直貢チェツァン法王にお仕え申し上げたことがある。大小さまざまな事をどうしてはっきりと見極めることができるのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが何も求めていないからだ。

学仏は少しも難しくない。少しも複雑ではない。最も重要なのは自分の心をどこに定めるかだ。心の定位が正しければ、仏の仰せの道に沿って進むこととなる。そうすれば、修行によってなんらの成果も出せていなくとも、臨終時には必ず成就し、必ず得度できるのだ。法本には『死が定まった時、諸仏菩薩が金色の右手を伸ばして、我が頂上に置き授記くださるのをこの目で見たい』とある。一生因縁に従い歩めば、この一生で上師になれるかどうかは重要でなく、重要なのは往生時に諸仏菩薩と上師がそなたを救いに来てくださるかどうかだ、ということだ。我々は一生修行するが、それは世俗人の事情のためでは決してない。これはそなたの福報と過去世で為した因縁なのだ。最も大切なのは、死に際にこのような福報があり、死が定まった時、自然に救いを得ることができるどうかだ。

法本の後半には『無量菩提心で死に対することを願う』とある。菩提心とはなんだろうか?自分にどんな事が起こっても、すべて慈悲心で対し、自分の身に誰かが苦しみを課しても、その人に対して慈悲心を以って対する、ということだ。自分の身に起こった一切の苦はすべて修行の方法なのだ。いわゆる苦とは、自分で招いたものではなく、過去世で為したことからなのだ。よって、死が出現した時、そなたに菩提心があるなら、心理的な苦しみも生理的な苦しみもこの上なく軽くなってしまい、無くなってしまうことさえあり、その死への過程を通り過ぎるだけとなろう。道場で、みなもその目で見たことがあるだろう。上師に対して信心を持つ弟子が事切れた時、誰もその人の死に気づかなかった。なぜ気づかなかったのか?横に座っていた彼の親族さえ、彼が息を引き取ったのに気づかなかったのだ。それは、彼には菩提心があったので、全く恐怖を感じていなかったからだ。

死に対して恐怖を感じない人は、たくさんの事を自然に行うことができる。第一に、何かを行う際にはすべて善の方へと行い、なんであっても悪を行うことは決してない。死に対して恐怖を感じない人は、自分の身に如意が起きようと不如意が起きようと執著しない。死に対して恐怖を感じない人は、親族を含む世間の何らかの事情に一切執著しない。いわゆる『恐怖を感じない』とは、『勇者が死を恐れない』というのではなく、『死は人生で必定の一つの過程なのだ』と明確に理解することだ。執著心、恐怖心で対するのではなく、菩提心で死に対する。これこそが対治の方法だ。

世界中のどの学問、どの宗教であっても、己一人で直面しなければならない、この『死』というものに、いかにして対するべきかを教えてはくれない。科学がどれだけ発達しようと、学問がどれだけ高尚だろうと、この事について教えてはくれない。ただ仏法だけが教えてくれるのだ。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェは初一であっても、タブーに構わず、死について話しているのだ。初一は、金儲けや健康についてなど、縁起の良い話が聞けると思っていただろう。だが、これは根拠がない出鱈目なのだ。何もしていないのに、どうして金儲けができたり健康になれたりするのか?これはただ耳に心地よいだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは真の仏法を聞かせている。聞き入れて、受け入れることができるなら、吉祥は自然に訪れるだろう。先ほど開示したように、聞き入れ、それを実行し、悪を停止し、二度と悪を為さないなら、悪果が成熟したとしても、そなたへの害は一定の範囲に限られる。

山神は今回リンチェンドルジェ・リンポチェの命を求めたが得られず、リンチェンドルジェ・リンポチェの健康をいくらか得ただけであった。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏門に皈依した後、上師が教導くださる方法に従い日々を過ごしている。仏法は非常に殊勝だ。なぜなら仏法だけが我々の未来を変えられるからだ。そなたに財や富、地位、家があったとしても、自分の未来を変えることはできない。自分は金持ちなので少しは幸せだなどと思わないことだ。確かに幸せな点もあるだろう。買いたい物を買うことができ、生活していて安心感がある。だが、死に行くその日、どんなに経済的に恵まれていようと、やはりみなと同じように死んでいくしかないのだ。学仏とは正にこの事のためだ。そなたの学仏がこの事のためではないなら、辞めた方が良い。金運を求め、あれこれ求め、平安を求めるなら、他の宗教に祈願した方が手っ取り早いだろう。だが、それは表面的なもので根本ではない、ということを忘れてはならない。祈願すれば、いくらか良くなるかもしれない。けれども、必ず何かを差し出さなければならないだろう。しかも、良くなるといっても、それは永遠のものではなく、極く一時的なものなのだ。

聞き入れ、実践しさえすれば、仏法だけが、確実に正確に我々を救ってくれるのだ。難しいだろうか。実は少しも難しくない。気持ちの持ち方を変えるだけだ。心を変えても、外見からは分からない。『自分は密宗を学んでいる』と周囲に広く知らせる必要もない。もったいぶったことを行ってあれこれ見せるなど、すべて偽物だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは既にリンポチェだが、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが、特殊な何かを行うのを見たことがあるか?一日中奇妙な事ばかりを言っているか?リンチェンドルジェ・リンポチェは人らしい話しかしない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは人だからだ。今日はみなを率いて『百遍頂礼証知』を拝むが、これは非常に重要だ。なぜなら福報がなければ仏法を学べるはずがないからだ。福報がないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法してやったとしても、受け取れるものには限界がある。よって、もう一つの財神法を修める前に、先ずは諸仏の名号を百回拝もう。拝む時には心から敬虔でなければならない。何らかの立場に立つ必要はなく、何らの考えも持たずに拝仏するのだ。これは阿彌陀仏なので拝めば阿彌陀仏のお側に行ける、これは薬師仏なので拝めば健康になれる、などと考える必要はない。

あらゆる仏はみな同じであられ、発せられた願力が違うだけだ。その仏を拝みさえすれば、いつか必ず相応できる。相応したならば、その法門を学ぶことができるのだ。仏を拝む際には、これは薬師仏であられるので拝めば病を直してくださる、これは阿彌陀仏であられるので拝めばお迎えに来てくださる、これは普賢仏であられるので拝めば普賢菩薩と同じになれる、などと考える必要はない。ただ心から敬虔に拝み、何も考えず、また拝んだことでどんな良いことがあるのか、などと考えてはならない。先ほど、必ず良いことがある、と言った。良いことは、そなたが仏法を最も必要とする時に出現するのだ。そなたが仏を拝んだことがありさえすれば、必ず良いことがあり、そなたが後にさらに精進すれば、良いことはさらに増えるだろう」と開示くださった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座を降りられ、みなを率いて「百遍頂礼証知」により拝仏くださった。拝仏の終了後、リンチェンドルジェ・リンポチェは再び法座に上られ、参会者に開示をくだされた。

「先ほどは法本の後の方の祈願文を念じたが、あの一文は世間法と関係がないだろうか?」とお尋ねになった。出家弟子は「ありません」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて「初一だけ法会に来る人たちは、今後は来ないよう勧める。なぜなら彼らは仏菩薩を利用し平安を求めているからだ。平安とは求めるものではない。修行で得るものなのだ。修行せずにどうして平安を得ることができるだろうか?だが、法会に来るなら、来ない人より少しはましだろう。なぜなら法会に参加すれば、必ず福報があるからだ。だが、上師と仏が説かれた話を信じないため、貪嗔痴の中の『痴』を犯している。痴を犯した人は、次の世で畜生道に堕ちる可能性が高い。だが、矛盾しているが、法会に参加したことで福報があるので、もし畜生道に堕ちたとしても恐ることはない。福報を有する畜生になれるだろう。一日中人に抱かれ、息子、娘と呼ばれる犬のような。信じなければならない。起きる可能性は非常に高いのだ。上師の話さえ聞こうとしないで、起きないと言えるだろうか?

自分の身に起きるかどうかをどうしたら知ることができるのか?死の二年前に、これも覚えていない、あれも覚えていない、という症状、さらにはパーキンソン病や認知症を患えば、これこそが来世で畜生道に堕ちる予兆だ。仏法の救いを得ることができなければ、畜生道に堕ちる可能性が非常に高い。畜生道に堕ちればとても苦しい。犬であっても息子や娘として扱われれば快適だ、などと思ってはならない。人間の息子、娘であれば、気に入らなければ家へ帰らないこともできる。だが、犬であれば息子や娘であっても帰宅しないわけにはいかない。家出しようものなら、政府に捕まえられ、21日後には殺されてしまうのだ」と開示された。その場でリンチェンドルジェ・リンポチェは名簿の管理を担当する弟子に、初一だけ現れる人を今後来させないよう、指示なさった。「リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らが畜生道に堕ちるのが忍びないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは因果をはっきりと理解しているので、見えるのだ。阻止しなければ、そなた達に申し訳ない。よって、もう二度と来ないように厳格に言うことしかできないのだ。

続いて修めるのはホワイトマハカラの大象財神だ。この法本は直貢噶舉の大修行者であられるユンカ・リンポチェが御自らリンチェンドルジェ・リンポチェにお伝えくださったもので、末法時代の衆生のたくさんの要求、欲望にぴったり適している。けれどもやはり、供養布施を行ったことがある、仏を拝んだことがある、上師が説く話を聞き入れているなどの多くの条件を満たしてこそだ。大象財神と午前中修めた黒水財神とはいくらか異なる点がある。黒水財神は財を奪う衆生を阻むことができ、生活の面で困難が起きたり、起きるべきでない事が起きたりすれば、大象財神が手を差し伸べて難関を越えさせてくださる。

ホワイトマハカラはブラックマハカラの化身で、観音菩薩の護法であられる。大象財神はホワイトマハカラの護法で、大象財神の下には猿護法もおられる。厳密にいえば、大象財神は象頭財神とお呼びすべきだろう。ここに一つの説話が伝わっている。大昔一人の王子がいた。とにかく布施が好きで、相手がその金で好事を行おうが、悪事を為そうが、布施を求めに訪れればなんでもかんでも金を与えていた。そのため、たくさんの人の悪事を助けたこともあった。マハカラはこの事を知り、この王子はこんなにも大きな善根を持っているのに、過ちを犯させ続ければ、地獄に堕とすことになってしまうと考え、彼を殺してしまった。そして、象の頭をその身体に据え付け、象のように大きな力を持っていると示した。

大象財神はインドから伝わったものだ。この説話は受け入れることも受け入れないこともできる。仏法はインドを発祥の地とするため、仏法中ではインドの風俗と文化がしばしば見られる。現在チベット仏教では煙供をよく行うが、本来仏法にはこれは記載されていない。だが、蓮師がチベットにお入りになった当時、チベットで流行していた原始宗教で煙供を行っていたので、蓮師も煙供を取り入れられたのだが、内容は変えられている。よって、誰が誰で、どこから来た等と仏法を批評することはできない。結論は出ないのだ。仏法の定説は、その方法が衆生を救うことができさえすれば、それは仏法だというものだ。よって、大象財神は困窮している人には大変大きな助けをお与えになり、金を儲けて布施供養しようという人にも大変大きな助けをお与えくださるのだ。

大象財神は極めて特殊で、沈香を用いて供養申し上げる。みなも知っておろう。沈香は非常に高価だ。決して安い物ではない。これは大象財神の生前の好みと関係がある。そのため、大象財神を修める際には必ず質の高い沈香を供養しなければならない。簡単に言えば、上師に金がなければこの法は修められないのだ。これは数百元、数千元で修められる法ではない。用いる沈香は30万元ほどだ。今日は1300人参加しているので、一人が請け負う金額は約230元だ。この費用は弟子達が普段道場を護持している金だ。よって、普段護持していない信衆は、今日は得したことになる。だが、それはそなたの福報が十分だ、またはリンチェンドルジェ・リンポチェが良い人だということではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは少しも良い人ではない。良い人なら、どうして菩薩道を修行するだろうか?だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは悪人というわけでもない。ただ、公平に、つまり因果によって事を行うだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは善人ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェを善人だと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは因果に基づき事を為すのだ。

今日のこの30万元はすべて寶吉祥の弟子が普段道場に供養している金だ。それをワイトマハカラに供養申し上げるのだ。皈依の後には必ず道場に供養しなければならない。金額の多寡は重要でなく、100元でも300元でも良い。だが、300万元だの3000万元だのとは供養してはならない。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らないし、道場が金銭的に豊かになり過ぎるのを禁じているからだ。ある団体に金がなくても問題ないが、金があると問題は噴出する。今はリンチェンドルジェ・リンポチェがまだいるので、当然問題はないが、リンチェンドルジェ・リンポチェが死んだ途端にどんな事が出て来るか分かったものではない。寶吉祥仏法センターでは、必要をちょうど満たせればよいというのが習わしのようになっている。何かあれば、その都度弟子に言う。そうすれば弟子は力を尽くして処理する。よって、突然発心して20万元、30万元供養するなど不要なのだ。かつて、このようにした弟子がいたが、金は返してしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェがそなたの金を受け取らないというのではなく、団体が豊か過ぎてはいけないからだ。特に宗教団体が金銭的に豊か過ぎれば、たくさんの是是非非が生じるものだ。

大象財神は、直貢噶舉では他の教派はほとんど修めない。他の教派も修めることは修めるが、この法本はユンカ・リンポチェが御自らお伝えくださったものだ。そのため特別なのだ。なぜならホワイトマハカラは観世音菩薩の護法であられるので、観世音菩薩を修めたことがないなら、今日大象財神を修めても成功することはない。いわゆる観世音菩薩を修めたことがある、とは、普段『普門品』、大悲咒、六字大明咒を唱えていればそれで良い、というのではなく、相応まで修めなければならないということだ。菩薩が行われる事までできて初めて相応というのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは今回屏東へ行き衆生を助けた。身体にいささか違和を生じたものの、やはり休むことなく、衆生を救い続けている。これこそ観世音菩薩の慈悲願力との相応だ」と開示くださった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは大象財神法の修持を始められ、修法の過程で開示をくだされた。

「大象財神の体性と上楽金剛の心とは無分別だ。上楽金剛は直貢噶舉無上瑜伽部で必ず修めるもので、方便法により大自在天と烏摩天女の子に化身するのだ。天界では特別円満な財や富を用いることができ、過去生の福徳力の所以で、特別に神変自在、大力、撮服三界の能力を備え、供奉者のすべての祈求を如願成就させることができる。かつて観世音菩薩に度化していただき、教戒の遵守を発願し、蓮師尊の前で利生事業を発願した。大黒天護法の親族であり、ヒンズー教で供養する神でもあられる。その財神修法はインドには三つの伝承があり、チベットに伝わり、薩迦派が伝承している。薩迦派の三柱の紅本尊の内の一柱だ。よって、大象財神はそなた達が想像しているようにヒンズー教の神ではないのだ」と開示くださった。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは大象財神にもう一度供養申し上げ、大象財神への祈願を、参会者に慈悲深くもお許しくださった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を円満に終えられ、弟子を率い護法と迴向儀軌を修持くださり、続けて参会者に仏法の開示をくだされた。

「今年は羊年だ。この世間では天災、災難は必ず起きる。人生は無常なのだ。だが、学仏皈依していれば、リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの法を修めてやろう。上師に対する信心を喪失しない限りは、これら法門により、そなた達は非時而死(時が至らる前に死ぬ)することはない。今年は地震が多いだろう。台湾で発生する地震は特に深刻ではないが、別の地区では非常に深刻になるだろう。また、商売している人は、他人が必ず値上がりする、儲かるというものに、無謀な投資をしてはならない。今日財神法に参加したので、自分の株は値上がりして金が儲かるに違いないと思ってはならない。他人は儲かってもそなたは儲からないだろう。株は投機的に売り買いするものではなく、貯めておくものなのだ。每年利息を生んでくれる。こうすれば、そなたの株は安定し安全だ。

また、今年は冷えによる病が特に多いだろう。漢方医である弟子が言うように、関連する呼吸系統と腸胃系統の疾病が多くなるだろう。よって、冷たいものが好きで、ドリンクやジュースをよく飲み、アイスクリームをよく食べる人は今年病気に罹りやすいだろう。菜食の人は麻辣火鍋を食べる機会を減らすように。ここで一言いっておこう。台湾ではもう二度と火鍋を食べてはならない。食べたいなら、家庭で食べるが良い。なぜなら、スープの中に何が入っているか分からないし、具材も何であるか分からないからだ。とにかく、病は口から入って来るのだ。口腹の欲は適度にし、たくさん食べれば栄養が十分取れるなどとは考えないことだ。また、今年は寒冷地に行かない方が良いだろう。だが、中国東北地方の人は別だ。流行に乗ってオーロラを見に行ったり、南極へクジラを見に行くのも、やめておいた方が良いだろう。

今年の金運面は悪くなく、経済は特に良くも特に悪くもない。政府とは関係がないので、政府に不満をいっても役には立たない。みなの共業なのだ。衆生に福報があるなら、不満を言わなくとも、金は入って来る。福報がないなら、どんなに罵り、人を換えても、やはり同じだ。そなた達だってとても頭がいいという訳ではないだろう。どうして罵るのか?新しく就任したあの人だって、すべての財を国家に納めたりはしないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは政治について話しているのではない。一切は隨縁であり、今年は特別に何かを変えたいなどと無理に考える必要はない。既にあるのなら、それを続ければ良いのだ」と開示くださった。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、リンチェンドルジェ・リンポチェの今回の事から、仏法的に何を体悟したかを答えるよう、二人の出家弟子に指示なさった。

一人目の出家弟子は「私は、仏陀が説かれた捨身飼虎を目にし、リンチェンドルジェ・リンポチェの菩提心を拝見し、仏法を求め仏法なしにはいられない衆生を目にしました。どうかリンチェンドルジェ・リンポチェ、御身体ご自愛ください」と申し上げた。

二人目の出家弟子は「我々は、リンチェンドルジェ・リンポチェに留まっていただかなければならないと分かっていますが、リンチェンドルジェ・リンポチェをお留めする資格が、我々にあるでしょうか?このように上師を苦しめ、上師をお留めすれば、さらに苦しみをお与え申し上げるのです。我々は、自分はどれだけの心を仏法に注いでいるか自問しなければなりません。上師は無常である、と上師ははっきりお伝えくださっています。けれども、上師の法身慧命、お教えくださった仏法は永遠に存在するのです。それをみなしっかりと体得してくれることを願います」と述べた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示された。「二人の弟子が言ったこと以外に、この件で最も重要なのは因果だ。どうして釋迦牟尼仏は五濁悪世の地球で成仏なされたのか?経典の記載によれば、釋迦牟尼仏はある一世で修行人を批判なさったことがある。人生で何が起きても、その因はすべて自分が為したものだ。間にいくらかの助縁があり、果報を軽くしたり重くしたりするだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、1995年から教派中のたくさんの仏寺を助けてきた。そのため、今回身体に違和があると、それらの仏寺で聞きつけ、400人余りの出家衆が念誦してくれた」と仰せになり、リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアたっぷりに「リンチェンドルジェ・リンポチェを怒らせない方が良い。リンチェンドルジェ・リンポチェには400人ついているのだ。しかも、みな出家衆なのだぞ」と仰せになった。

「これこそがリンチェンドルジェ・リンポチェが植え付けた因なのだ。何も求めず衆生を助けているが、それは自分が過去世で衆生を大切にしなかったために違いない。けれども、それは修行人にとっては良いことだ。自分には、改まっていないたくさんの欠点がなおあるということを自覚できるからだ。よって、もしそなたが、自分は皈依すれば良くなると考えるなら、それこそ貢高我慢だ。皈依したばかりなら、調整の段階にすぎない。自分はこんなに良くなったと思っていても、少しの不注意で、少しのうっかりで、簡単に持ち帰られてしまうのだ。今日は初一だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはみなに四つの法を修めた。別のところでは、それはない。リンチェンドルジェ・リンポチェはとても安上がりなのだ。

修めた法の中で、そなた達が好むのは、懺悔の法門と、福報を累積してくれる法門である礼仏だろう。未来の学仏修行の面で、非常に大きな助けとなるのは間違いない。学仏では障礙との遭遇を恐れてはならない。障礙の出現はかえって良いことだ。借金を清算させてくれているのだ。良くない事の出現を心配してはならず、良い事の出現を、自分は拝仏し学仏しているからだ、と考え喜びすぎてもいけない。このような考えを持てば、貢高我慢になってしまう。貢高我慢になりさえすれば、ほんのわずかのいわゆる良い人天福報がそなたの功徳を損ねてしまう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは修行によって力を得ることができたので、どんな災難にぶつかってもリンチェンドルジェ・リンポチェの前ではどうにもならない。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは功徳の修行を主として来たため、思維の方法が一般人が理解しているものとは、微妙に違い、自分を犠牲にするからだ。そなたが家族が最も大切だ等と考えるなら、ここには来ない方が良い。家族はそれほど重要ではない。ただ、この一生で縁を結んだだけで、責任を尽くして世話をすれば良いだけだ。そなたがもし家族だけを気に掛けるなら、身辺にたくさんいる関心を払うべき人を疎かにしてしまう。一つや二つのことだけを重視するなら、たくさんの人がこの社会、国家、世界、人類、たくさんの衆生のために黙々と行っているたくさんの事を見過ごしてしまう。

毎日発生するあらゆる事は、良し悪しにかかわらず、その物語にはいつか必ず幕が降りるものだ。けれども、この物語の中で、そなたは自分の役割を責任を尽くして演じているだろうか。いわゆる責任を尽くして役割を演じるとは、家族のために一切を尽くすのではない。我々が家族に尽くすのは当たり前だ。だが、もし自分の家族だけがよければ、他人はどうでもよい、というなら、そなたがどんなに尽くしても、やはりさまざまな事態が発生する。ある信衆の母は死の前に、大便を壁に塗りたくり、家にいたくないといって飛び出して行ってしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に『そなたの母は鶏を殺したことがある。このような行動は鶏を殺したことによる果報だ。しかも、子女が法会に参加しなければ、地獄に堕ちる可能性が非常に高い』と告げた。

たくさんの人が、父母は死に、済度もさせたのに、なぜ学仏を続けなければならないのか、と考えている。自分が一年に一回来れば、リンチェンドルジェ・リンポチェの面子も立つだろうと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェの面子を立てる必要などない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたが必要だろうか?勘違いしている。どんな大人物であっても、リンチェンドルジェ・リンポチェは必要ない。そなたが必要なのだ。そなたの家族が必要なのだ。そなたの父母が必要なのだ。あまりにも傲慢だ!リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの大物を知っている。中にはリンチェンドルジェ・リンポチェに何ヶ月にもわたって面会を求めている者もいるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは会っていない。

今日は初一なので、リンチェンドルジェ・リンポチェは今日はあまり怒らなかった。体力が十分でないこともある。とにかく、学仏は何にも増して重要なのだ。我々のこの一生では仏法がなければ将来もない。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、目前の生活のすべてを捨てて学仏せよと焚き付けているのではない。これは間違いだ。なぜなら、そなたにはそなたの責任と因縁があるからだ。仏法を通して、自分の内心世界を絶えず調整し改変するのだ。仏法で最も大切なのはそなたの心だ。外観は重要ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが今回、心を調整できなかったなら、尊勝なる直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに修法くださったとしても役には立たなかっただろう。なぜなら自分の修行に慈悲、菩提心がないなら、どんなに修法しても変わらないからだ。

みな自分でどうにかするように。年月は一年また一年と消えて行くのだ。みなが地球にいられる時間もまた一年少なくなってしまった。自分はまだ死なないなどと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなにも健康なのに、突然違う人のようになってしまうとは、誰が予想できただろうか?人生とはこのように無常なのだ。そなた達はどうしても無常を信じず、自分は無敵のスーパーヒーローだと思っている。自分ができないことは、仏菩薩がお世話してくださると考えている。仏菩薩はそなたをお世話してくださるが、そなたの果報を変えることはなさらない。よって用心しなくてはならない。自分の時間を無駄にせず、娘が社会人になったら改めて学仏するだのと言っている場合ではない。娘が社会人になったら今度は、娘がどんな人と知り合ったか、どんな人と付き合っているか確かめたがる。結婚したなら、いつ子供を産むか、子供が生まれたなら、自分が子守をする必要があるか、と考える。いつまでも終わることはない。

このように、この一生でこんなにも時間を浪費しているなら、この世界における役立たずの穀潰し、寄生虫のようではないか。リンチェンドルジェ・リンポチェの考え方からすれば、このような人は寄生虫だ。なぜなら国家、社会、人々に対して少しも役に立っていないからだ。どうして寄生できるのか?それは、祖先の福報を用いているのだ。哀れなことよ!自分は少しの株を持ち出すだけで、この一生を楽に暮らしていけると思っているだろうが、最高の株でさえ暴落することがあるのだ。

法会は円満に終了し、弟子達は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる修法と開示に感謝申し上げ、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りられるのを、起立して恭しくお見送り申し上げた。

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2015 年 08 月 10 日 更新